森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

12月 町吟味役中日記注記

(177-2)「通詞(つうじ)」:言語の異なる外国人の間に立ち、そのことばを訳して伝え、その意思を取りつぐこと。また、その人。松前藩では、用人配下の役職。ここでは、アイヌ語を通訳した、いわゆる蝦夷通詞。なお、蝦夷通詞として活躍した人物に上原熊次郎、平山屏山、加賀伝蔵、豊島三右衛門。能登谷円吉らがいる。

(177-2)「冨岡」の「冨」:「冨」は「富」の俗字だが、平成16年に人名漢字に追加された。

 *静岡県富士吉田市にある北口本宮冨士浅間神社の「ふじ」は「冨士」。同神社のHPには、その理由について①「御山の上に人は立てない」説、②「神は見えない」説、③「山頂は神域」説をあげ、「いずれの説も神域に人が踏み入れることを戒めるもの」としています。また、<「ふじの山」を表す漢字は、富士、不二、福慈など様々にありますが、古代日本は音を重視する文化であって、形としての漢字を音にあてたことは、比較的時代が下ってからのこと、これら上記の説も江戸~明治にかけて起こったものと考えられます。>と記載している。

(177-7)「御用人(ごようにん)」:松前藩の家老に次ぐ役職。

(177-34)「永之御暇(ながのおいとま)」:「暇(いとま)」は、仕事、任務、地位から離れ

ること。休暇、退職もしくは解任。ここでは、解雇すること。

(177-10)「壱通り」:江戸時代、最初の裁判の日に、掛り奉行が出座して行う処分。

 

(178-3)「引合(ひきあい)」:訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など。

(178-8)「口書詰爪印(こうしょつまりつめいん・くちがきつまりつめいん)」:「口書(くちがき)」は、江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。「口書詰(くちがきつまり)」は、口書の末尾の罪状の主文。江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

(178-78)「例座」:「列座」か。「列座」は、ならびすわるこ と。座につらなること。列席。

(179-3)「揚家入(あがりやいり)」:揚屋(あがりや)に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

(179-3)「裁許(さいきょ)」:江戸時代、本公事、金公事(かねくじ)などの民事訴訟事件に関して、当事者を対決させ、裁断を与えること。対決。審問。

(179-6)「節句(せっく)」:人日(じんじつ=一月七日)・上巳(じょうし=三月三日)・端午(たんご=五月五日)・七夕(たなばた=七月七日)・重陽(ちょうよう=九月九日)などの式日をいう。祝いの行事があり、特別の食物を食べる風習があった。節日(せちにち)。ここでは、5月5日の端午の節句をいう。

 ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌には<(1)陰陽五行説においては、、一・三・五・七・九の奇数を陽とする思想があり、それに基づき、月日共に奇数となる一月一日・三月三日・五月五日・七月七日・九月九日を、それぞれ人日(後に一月七日をさすようになる)

・上巳・端午・七夕・重陽と称して、嘉祝の日とする俗信があった。

(2)一月一日は安楽の相で宜しく長久を祈り、三月三日は病患を除くことを念じ、五月五日は毒虫・悪鬼の攘却、七月七日は瘧鬼(ぎゃっき)を払い、九月九日は延命長寿を願うもので、それぞれ桃花・菖蒲・麦餠・菊酒などを供す。これらは朝廷において年中行事化されているが、民間においても、季節の変わり目を実感する五節供として、今日に伝わっている。「せっく」は、これら節日に供御を奉るのを例とするところから発した名称と思われる。>とある。

(179-6)「馬士(ばし)」:江戸幕府の馬事を掌る役人。若年寄の支配で、馬預の下にあり、焼火間詰、高二百俵・役料十五人扶持、または高百俵・五人扶持で四人からなる。元和6年(1620)木村元継が騎法に熟達して馬方になったのが初見で、その後、大武・岩波の二氏が世襲することもあったが、馬術の優秀なものが新たに補された。なお、馬預は官馬の調習、大名旗本へ下賜の馬や野駒の飼立、仙台駒牽入方など、厩馬の一切を掌る役職で、その下には馬方のほか、馬乗などがあった。松前藩にも同様の役職あった。

(179-6)「菖蒲乗(しょうぶのり)」:端午の節会(せちえ)に行なう騎射(きしゃ)の儀のこと。「騎射」は、騎馬で、馬を走らせて的を射る弓技。

(179-7)「重廣院(じゅうこういん)」:松前重廣の戒名。重廣は、松前9代藩主松前章広の5男。天保3428日)に死去した。

(180-8)「内済(ないさい)」:もめごとを表ざたにしないで解決すること。特に江戸時代の和解。江戸幕府が私人間の紛争解決の基本に据えたのは、奉行所の裁許(判決)に基づく決着でなく、当事者の互譲・妥協による内々の話合い解決、つまり内済であった。この背景には、民事上のもめごとは当事者の私利私欲に由来し、これにつき御上の手を煩わすのは、公儀を恐れざる不遜な行為であるという、民事裁判に対する独特の考え方の存したことを挙げねばならないが、なお裁判に伴う厖大な経費と貴重な農耕時間の浪費が村方衰微の因となる危険があったこと、双方納得ずくの解決こそが、実効性確保のうえで最高とされたこと、さらに、村落共同体規制のためには、村役人などの村内有力者を扱人(あつかいにん)とする内済が最上とされたことも見落せない。特に支配者が反封建的な債権関係とみなした金公事(かねくじ)債権(利子付き無担保の金銭債権)や、村落内部の秩序維持上熟談解決が要求された論所(地境論、水論)では内済が強く勧奨された。内済は、訴え提起前はもちろん、裏判送達後差日到来前(裏書中内済)、さらに裁判開始後(吟味中内済)と訴訟の全過程で試みられ、訴え受理に際し、掛り奉行が訴状に施した目安(訴状)裏判には内済勧奨文言が記され、金公事債権では差日到来前に内済が整えば、片済口証文(原告のみの署名・捺印の、内済成立に伴う訴え取下げ願書)の提出という便法が認められ、また裁判開始後は、裁判役人が扱人のごとき役割をも演じ、しばしば脅迫まがいの説得により内済を成立させ、内済が成立する可能性があれば何度も裁判の日延願を許可した。しかし、かかる内済の偏重により、姦訴・逆訴などのいわゆる公事だくみが横行し、特に公事師・公事宿の跳梁という悪弊を招き、往々にして理運ある者が泣き寝入りするという事態がみられた。なお刑事事件でも、内済による解決が図られる場合が存した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

(180-8)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

(181-5)「鳥沢」:現在、旧南部地方の地名で、「鳥沢」は以下の4ケ所ある。

  青森県三戸郡階上(はしかみ)町鳥屋部(とやべ)鳥沢

  宮城県栗原市栗駒鳥沢

  宮城県白石市越河五賀(こすごう・ごか)鳥沢

  岩手県大船渡市赤沢町鳥沢

このうち、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』に見える「鳥沢村」は、②に該当する。

(181-6)「西館(にしたて)」:近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。寛永11年(1634)には松前景広が西館に移っている.。文化4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。.

 文化頃の松前分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。三家の北に稲荷社があり、同社の北の通りを少し西に行くと寺町てらまち通に続き、通りから南方唐津内町に至る南北道沿いに東から西端立町・今町・西立町が並ぶ。

(181-6)「稲荷社」:稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38(1905)徳山大神宮に合祀された。

(181-7~8)「五勝手村」:江差町字椴川町・字砂川・字柏町・字南浜町など。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。村内に古櫃(ふるひつ)

・上町・相泊・柳町・寺コ町・蔭ノ町・下町・根符子などの字名があったと伝える。中央を武者見(むしやみ)川が西流する。

(182-2)「沖ノ口」:松前藩の役所のひとつ、沖ノ口番所(沖ノ口奉行)。別表参照。

(182-2)「渡海(とかい)」:松前藩独自の量刑。他国人が蝦夷地に渡って刑法に触れた場合の刑。

『蝦夷嶋巡行記』12月学習分注記

<11月学習>の検討事項

(41-4)「一眉なる女夷」:「なる」か、「彫る」か、両論あったが、「なる」とする。

    *アイヌの風習「文身(ぶんしん・いれずみ)」:アイヌの女子に多くみられるいれずみの風習。最も顕著で、最後まで残ったものは、口辺部の文身。眉部の文身は、両方の眉毛を連ねる紐条であるが、このさいには眉毛はほとんど脱落して文身だけが残っていることがある。(アイヌ文化保存対策協議会『アイヌ民族誌』第一法規刊)

(42-5)「数寄にして」:①「数寄」、②「数歩」、③「数奇」の意見があったが、「数寄」とする。なお、「寄る」は、「町(丁)」で、「数町(丁)」か。

(44-6~45-1)「三本杉と名つくくる石有」:①「くる」(「く」が重複しており、一つは衍字)②「ひゝる」(「聳える」の意)

 

<12月学習>

(46-1)「狼煙(のろし・ろうえん)」:昔、戦時や非常時の合図のために、薪をたいたり、火薬に点火したりして、空高く上げる火煙。狼の糞を加えて焼けば煙がよく上がると言われる。古くは「とぶひ」と称した。昔、中国で、おおかみの糞を混ぜて焼けば煙が直上するといって用いたところから。

     文化3~4年(180607)、ロシアのカラフト・エトロフ・リシリ襲撃後、沿岸の要所に狼煙台が設けられた。

     なお、「のろし」の語源については、「のろ」は「野良」、「し」は「気」もしくは「火」の意味。また、「のぼるしるし」の略ともされる。

     ジャパンナレッジ版『世界大百科事典』には、<〈のろし〉の字は,中国では杜甫の〈春望〉によって知られる〈烽火〉のほか,〈烽煙〉〈烽燧〉(後述)などと書かれたが,〈狼煙〉と書かれるのは遅くとも唐代になってであった。それは李商隠などの唐詩に散見される。俗に山中の狼の糞を拾い集め混じて製するために〈狼煙〉の字があてられ,日本では鎌倉時代から〈狼煙〉の字が見られるというが,唐の段成式の《酉陽雑俎(ゆうようざつそ)》には〈狼糞の烟,直上す,烽火これを用う〉という説明がある。これを敷衍したのが,宋の陸佃の《埤雅》で,〈古(いにしえ)の烽,狼糞を用う。その煙,直にして聚(あつま)り風吹くも斜ならざるを取る〉という。白色で毛のまじる狼糞は,また肉食獣特有の硝酸分が多く含まれていたためであろうか。>とある。

(46-1~2)「ヲマンロバラ」:現島牧村栄浜のアナマ岩付近をさすか。

(46-2)「金堀(かねほり)」:鉱山で鉱石を掘り取ること。またその人。

(46-3)「見せける」の「け」:変体仮名「希」。「希」の呉音が「ケ」。熟語に「稀有(けう)」など。

(46-4)「貍(たぬき)」:影印の「貍」は、「狸」の俗字。 「狸」は、日本では「たぬき」だが、中国では「やまねこ」を意味する。なお、北海道には「エゾタヌキ」(ネコ目イヌ科タヌキ属)が生息する。

    *影印の「貍」の部首は「豸」(むじな)部。この部に属する常用漢字は「貌(ボウ・かお)」のみ。

     *狸小路の由来:「狸小路とは綽名なり。 創成川の西側、南二条と三条との間の小路をいう。このところ飲食店とて、西二丁目三丁目にて両側に軒をならべ、四十余の角行燈影暗きあたり、一種異体の怪物、無尻を着る下卑体のもの、唐桟の娘、黒チリ一ツ紋の令嬢的のもの、無りょ百三四十匹、各衣裳なりに身体をこしらい、夜な夜な真面目に白い手をすっくと伸ばして、北海道へ金庫でも建てようと思い込みかつ呑み込み、故郷を威張ってはるばる来た大の男子等を巧みにいけどり、財布の底を叩かせる。ハテ怪有な動物かな、その化かし方狸よりも上手なれば、人々かくは『狸小路』となんよべるなり」(『札幌繁昌記』明治24年刊)<札幌狸小路商店街振興組合HPより>

(46-5)「おそろしき」:「そ」は「楚」、「ろ」は「路」、「き」は「紀」。

(46-6)「中村小市郎」:幕吏。生国・本国 下野。高八拾俵(本高参拾俵三人扶持、外役金十両)。在勤年 御手当金弐拾両、雑用金五十五両(月割)。寛政十一未年(1799)御普請役出役ゟ御普請役江抱入、享和三亥年(1803)閏四月新規箱館奉行支配調役下役、文化四卯年(1807)四月同(後松前奉行に改称)支配調役下役元〆。

     小一郎と蝦夷地のかかわりは長く、天明56年(178586)の幕府の蝦夷地調査隊の一員として参加したのをはじめ、寛政4年(1792)、幕府普請役最上徳内、小人目付和田兵太夫らと北蝦夷地(カラフト)を巡視、西はクシユンナイ、東はトウブツまで検分、山丹人、オロッコ人あるいはロシア人(イワノフという人物)などに、北部、山丹、満州、ロシア等の地理を尋問、かつ緯度を測定。また、アイヌが交易による借金のかたに連れて行かれていること、松前藩士松前平角が満州官人と文通していることなどを知る(「通航一覧8輯」)。

     さらに、寛政11年(1799)、蝦夷地御用の三橋成方の配下として、蝦夷地巡行に加わり、シヤマニ、サルル山道の開削にあたっている。また、同年、幕府の蝦夷地直轄に際し、シヤマニ会所の初代詰合を務め、調和元年(1801)には、高橋次太夫とともに、樺太見分の命を受け、小一郎は樺太東海岸ナイブツまで検分した。この検分で、山丹人から、カラフトが島であることを聞き取る。文化5(1808)の間宮林蔵の探検をさかのぼること7年前である。このときの記録を『樺太雑記』に残している。このほか、寛政10年(1798)、蝦夷地を調査した記録の「松前蝦夷地海辺盛衰上書」を著す。文化7(1810)72日病死。墓所は牛込松源寺(現東京都中野区東中野)。

(47-1)「清談(せいだん)」:俗世間を離れた趣味や芸術などの風流な話しや学問についての話し。また、人の噂や名利などと関係のない高尚な話し、またそういう話しをすること。

(47-1)「ハラウタ」:現島牧村字原歌。「バラウタ」、「バラヲタ」とも。漢字表記地名「原歌」。『廻浦日記』には、「バラウタ、小川有、歩行渡り也。此辺より山少し穏に成候由。ニ八出稼小屋有。昔しは、夷家三軒、今はなし。」とある。『松浦図』

     は「ハラヲタ」。

(47-1)「シマコマキ」:現島牧村。漢字表記地名「島牧」。「シマコマキ」は、コタンの名のほか、場所や河川の名称としてもみえるが、ここでは、(請負)場所の名称。『廻浦日記』では、地名の「シマコマキ」は、「大岩有」となっているだけで、運上屋の所在地は、「トマリ、シマコマキ運上屋元、惣てシマコマキと号れども、シマコマキは此処より少し南の大岩の名にして此運上屋元の字にあらず。」とある。「トマリ」は、現島牧村字泊で、泊川の河口部にあり、近世はシマコマキ場所の運上屋が置かれたところ。『松浦図』は「シユマコマキトマリ」。

(47-3)「うるさし」:「う」は「宇」、「る」は「流」、「さ」は「左」。「煩い、五月蠅い」の意。

(47-5)「笘」:影印は、竹冠の「笘(セン、チョウ、むち)」であるが、ここでは、「苫(とま)」の意で用いたか。「苫」は、菅、茅などで編んで作ったもので、舟などを覆い、雨露をしのぐのに用いる。 

(47-6)「とま」:「ま」は「満」。「とま」は「苫」。

(48-1)「弁慶か崎」:寿都湾の北西にある「弁慶岬」。「正保日本図」、『蝦夷志』には、「弁慶崎」とあり、また『廻浦日記』には、「ヘンケイサキ」とある。『松浦図』

     は「ヘンケウ」。

(48-1)「たゐら」:平ら。高低・凸凹のないさま。

(48-2)「潜て(もぐりて)」・・物の下や穴の中に入り込むこと。

(48-3)「スツツ」:現寿都町のうち。漢字表記地名「寿都」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、場所や谷、入江の名称としても見える。「西蝦夷地場所地名等控」に惣名「スツ」として、マツナトマリ、弁慶崎、ナカウタ、イワサキなどの名が見え、「地名考幷里程記」には、「昔時、最初此所にて夷人交易をなせしが諸事不弁理なる故、其後今のイワサキに運上屋を移すといへとも、矢張スッツを場所名になすなり」とある。『廻浦日記』には「スッツ」を「シユマテレケウシナイ」とし、「此処則運上屋元也。是は本名にして人間にて岩サキと云り。」とある。『松浦図』は「シユマテレケウシナイ」。

(48-3)「熊笹(くまざさ)」:チマキザサ、ネマガリダケなど山地にはえる笹の俗称。

(48-4)「ふきたる」:「ふ」は「婦」、「き」は「幾」、「た」は「多」。「葺きたる」。

(48-4)「のみ水」:「み」は「三」。「飲み水」。

(48-5)「半(なかば)わかれて」:全体を二つに分けた一方のこと。半分のこと。

(48-6)「スツツ川」:二級河川朱太川(しゅぶとかわ)。後志地方南部より北流して寿都湾に注ぐ。流路延長43.5キロメーター。

(49-2)「ヲタスツ」:現寿都町歌棄町。漢字表記地名「歌棄」のもととなったアイヌ語に由来する地名。ヲタスツ場所の運上屋が置かれた。『松浦図』は「ヲタシユツ」。

(49-3)「シリヘツ運上屋」:「シリヘツ」は、漢字表記地名「尻別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、場所や山岳の名称として見える。

      文化年間の『西蝦夷日記』には、「イソヤ場所」が、「シリベツ場所也」とされており、一時期、イソヤ場所がシリベツ場所と呼ばれていた。

(49-4)「よせ能(よき)処(ところ)」:「よ」は「与」、「せ」は「勢」。「よせ」は「寄せる」の連用形。

(49-5)「シリベツ川」:一級河川尻別川。後志地方を西へ流れて日本海に注ぐ。流路延長125.7キロメーター。

(49―6)「心みる」・・「試みる」の意。

(49-6)「越渉(こえ・わたる)」:「越える」の連用形+「渉る」。

(50-1)「さしたる」:副詞「さ」+サ変動詞「す」の連用形「し」+完了の助動詞「たり」の連用形「たる」。一説に、四段動詞「さす」の連用形「さし」+完了の助動詞「たり」の連用形とも。(下に打消の語を伴って)「さほどの」、「これというほどの」、「たいした」の意。

(50-1)「景色」:「色」は決まり字。脚部の「巴」が「五」のくずしに似ている。

(50-2)「分(わけ)て」:副詞〔動詞「分ける」の連用形に助詞「て」がついたもの〕。特別に。ことさら。

(50-6)「けもの」:「け」は「希」。「獣」の意。

12月の『巡行記』学習範囲

12月の『巡行記』学習は、<「通信」記載の通りです>と書きましたが、

P46~52の間違いでした。


11月 町吟味役中日記注記

◎10月学習『吟味役中日記』P162の「後方」について:現在は「後潟(うしろがた)」という地名で、津軽半島南部の蓬田の南にあります。

後潟村は、鎌倉時代以来安東氏の支配下にあり、近くに、安東氏の居城といわれる尻八館があリます。なお、村の北端に、天和三年(一六八三)勧請の「後潟神社」があり、明治の神仏分離令で、一時「後方神社」と称したといいます。後潟村は、昭和29年、青森市に合併。

(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

11月学習

(168-1)「御触出(おふれだ)シ」:触れを出すこと。

(168-2)「御坐候(ござそうろう)」:尊敬語「ござある」の「ある」を「候う」にして丁寧の意を添えたもの。のちには、書簡文でもっぱら丁寧語として用いられた。敬意の度合はきわめて高い。

 ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「ご~候」の形式は「平家物語」などに多くの例を見るが、「御座候」は謡曲、虎明本狂言などに散見する程度でしかない。

(2)江戸前期の咄本、例えば挙例の「軽口御前男」では、「御座候」(否定形は「御座なく候」)は文語的色彩の強い文脈で使用されており、当時一般的な語ではなかったことが推定される。

(3)文語的性格が強かったため江戸期から明治大正期に至るまで専ら書簡文(候文体)で使用された。>とある。

*「ござ(御坐・御座)」は、貴人がその座にあること。その座に着くこと。また、いらっしゃること。

*「ござあ・り」:鎌倉時代に起こり、室町時代に多く用いられた語で、「ござる」の前身。尊敬語・丁寧語ともに敬意の度合は極めて高い。

 *影印は「坐」で、現代表記では、「坐」の書き換えに用いる。「坐視」→「座視」、「坐禅」→「座禅」。

 *元来、「座」はすわる場所、「坐」はすわる動作、と使い分けられていた。

 *「坐」は、平成16年、人名漢字に追加された。

 (168-23)「猶亦(なおまた)」:関連ある別のことがらを付加するときに用いる。それに加えて。さらにつけ加えるなら。

 *接続詞「また」の成立は、漢文訓読において、「且」「又」「亦」「復」を「マタ」と訓読したことによると考えられている。

 *「亦」は漢文訓読では助字。~もまた同様に。主語などの後に置かれ、前に述べられていることと同様であることを表す。直前の語に「も」を付して訓読することが多い。

(168-3)「似寄(により)」:似かよっていること。類似。

(168-4)「候半ゝ(そうらわば)」:~したならば。「半」は、変体仮名で「は」の字源。ここの翻刻は「候はゝ」で、よみは「ソーラワバ」。

 *組成は、動詞「候ふ」の四段活用の未然形「候は」+順接の仮定条件(~なら、~だったら)の意味をもつ助詞「ば」。

「候ふ」の活用は、は、ひ、ふ、ふ、へ、へ。左から未然、連用、終止、連体、已然、命令。

(168-4)「下知(げち・げじ)」:上から下へ指図すること。命令。いいつけ。語源説に「クダシシラシムル(下知)義」(『大言海』)がある。ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の音史に<中世・近世は大多数が「げぢ」と第二拍濁音>とある。

(168-6)「置主(おきぬし)」:質入れした者。質置主(しちおきぬし)。

(168-6)「能々(よくよく)」:「よく」を重ねて意味を強めた語。まったく手落ちのないようにして十分に。念には念を入れて。注意の上に注意を重ねて。くれぐれも。よっく。

 *「々」について・同じ漢字を繰り返す場合、「々」だけを用いるのが普通の書き方である。(昭和27.4.4 文部省通知「公用文作成の要領」)

 *丹々、好好、善善とも書く。

 *なお、「民主主義」「漢字字体」「小学校校長」などはそのまま書いたほうがよい。また、「々」に当たる部分が行頭に来る場合は本来の漢字に書き換える。ただし、「佐々木」「多々良」「寿々子」などの固有名詞で「々」を用いるのが本来の形である場合は、行頭に「々」が来てもそのまま用いることになる。(平成7年文化庁編『言葉に関する問答集』)

 *中国では、「粛粛」「洋洋」「淡淡」などと記して、下接の字に「々」を用いていない。

  (木村秀次著『身近な漢語をめぐる』大修館書店 2018

 *「々」は漢字なのか(木村秀次著『身近な漢語をめぐる』大修館書店 2018より)

(168-8)「請人(うけにん)」:江戸時代、保証人の一般的呼称。人請、金請、座請、地請など、各種保証契約に広く用いられた。証人。加判人。口入人。

(169-2)「胡乱(うろん)」:「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。(1)乱雑であること。勝手気ままでやりっぱなしであること。また、そのさま。(2)不確実であること。不誠実であること。あやしく疑わしいこと。合点がゆかず、ふに落ちないこと。また、そのさま。胡散(うさん)。

 *ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

 *また、語源説に、「胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて避難したところからきた語」がある。

(169-3)「早束(さっそく)」:「束」は、「速」の当て字。すみやかなこと。にわかなこと。急なこと。また、そのさま。転じて、臨機のすばやい処置。

  *ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に<中国古典籍には見出し難く、類義の二字の組み合わせによる和製漢語かと思われる。院政期の国語辞書「色葉字類抄」に「サウソク」とあり、サッソクと今日のように促音化し、定着するのは室町時代の末頃であろう。>とある。

(169-4)「ヶ條(かじょう)」:箇条。記事を幾つかに分けて並べた時のそれぞれの事柄。条項。項目。

 *「ヶ」:小さい「ケ」は、文字の分類では、カタカナか漢字か。

平成18年の文化庁国語審議会漢字小委員会での同委員・阿辻哲次氏の発言を同委員会の議事録から引用する。

○阿辻委員

  これは歴史的に由緒のある使い方で、地名の「三ヶ日」なんて「ヶ」で書きますね。あれは確か戦国時代の地名であるはずで、そういう「三ヶ日」という言葉を今の静岡県の「三ヶ日」という地名だけではなくて、歴史的に由緒のある、つまり実績があったとしたら、現在の住民の方々は当然古代とのリンクを考えるでしょうから、私どもはこういう「三ヶ日」の古戦場があるということで、自分たちの町が平仮名の「か」で書かれていて、でも、歴史の教科書に出てくるときには「ヶ」であるというのは、ちょっとちぐはぐな感じを持つのではないかなと思うんです。この文字は非常に古くから、おっしゃるように箇条書きの「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたものが、日本人がカタカナの「ヶ」と誤解したという由来なんですけれども、多分一千年ぐらいはその使用の歴史はあると思います。行政の力で現在の地名を変えることは可能でしょうけれども、かなり由緒正しい地名として使われているところが、「吉野

◎「ヶ」は、①「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたもの。②日本人がカタカナの「ヶ」と誤解した。「吉野ヶ里」「外ヶ浜」「霞ヶ関」「袖ヶ浦」「由比ヶ浜」「関ヶ原」「八ヶ岳」「茅ヶ崎」など。札幌市内でも「里塚緑ヶ丘」「美しヶ丘」「旭ヶ里」もそうじゃないですか、かなりあるんじゃないかと思います。ヶ丘」がある。

(169-5)「取質(とりしち)」:質取。質として預かる行為。

 *影印の「質」:冠部分と脚部分が縦長になり、2字のように見える。

(169-6)「如何様(いかよう・いかさま)」:行為や状態に対する疑問の意を表す。どのよう。どんなふう。どんな具合。

 *「如何」は、「いかといかと」「いかに」「いかなり」「いかなる」「いかで」「いかが」「いかばかり」「いかさま」などの語群を作る。物事の様子や状態を疑い、推測する意味を表わす。どのよう。どう。

 *「如何」は、漢文訓読の助字で、漢文訓読では「いかんせん」「いかんぞ」「いかん」と読む。

 *「如」は、「ジョ」(漢音)、「ニョ」(呉音)の読みがあるが、「イ」の読みはない。「何」は、「カ」(漢音)、「ガ」(呉音)の読みがある。下接熟語に「誰何(すいか)」がある。

(169-8)「以□御憐愍」:「以」と「御憐愍」の間が1字分空けてあるのは、尊敬の体裁の欠字。

 *「憐愍(れんびん・れんみん)」:憐憫・憐閔とも。あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。

(170-1)「執成(とりなし)」:双方のあいだに第三者がはいって、悪感情を取り除いたり、互いに都合のよい条件を提示したりして、関係を好転させること。とりつくろい。とりもち。斡旋。

(170-4)「造酒蔵(みきぞう)」:人名。

 *「造酒(みき)」:①奈良時代には、宮内省に属する十三司のひとつに「造酒司(みきのつかさ)」があった。②平安期には、宮内省が管する五司に「造酒司(みきのつかさ)」があった。

 *官舎は、藻壁門(そうへきもん)の内、内匠(たくみ)寮の東、典薬(てんやく)寮の北にあった。

 *「造酒」を「みき」と読むことについて:「み」は美称の「御」、「き」については、酒の古語「ミキ」が登場して来る前の古語では「キ」だけだった。新井白石は、古語時代は食べることまたは食べ物を「ケ」、飲み物はそれが転じて「キ」となったという。天皇の食事の料は「御食」(みけ)、「御饌」(みけ)であり、今日でも朝食のことを「朝餉」(あさげ)、夕食のことを「夕餉」(ゆうげ)という言い方も残っている。つまり、酒を「キ」といったのは、酒は神聖で食べ物、飲み物の最高の者として位置づけ、飲食物の総称として「ケ」を与えた。その「ケ」が「キ」に転化したという説がある。

 *「平手造酒(ひらて・みき)」:講談・浪曲「天保水滸伝」に登場する剣客。

(171-7)「奥印(おくいん)」:江戸時代、文書または帳面の奥に、その文書・帳面の記載の真実または適法であることを証明するために捺した印。奥判ともいう。江戸時代、村々の勘定帳に、総百姓の印をとるほか、名主組頭にも奥印させたごときは、その記載の真実であることを証明させたものであり、質地証文に、名主の加印(ふつう奥印の形式でなされる)を必要としたのは、その質地契約が適法であることを証明させるためであった。同じ目的で、文書の裏に加印する場合には、裏印または裏判と呼んだ。

 *「奥印」の「奥」:冠部と脚部が縦長で、2字のように見える。

(172-5)「諸士(しょし・しょじ・しょさむらい・しょざむらい)」:多くのさむらい。多くの士人。

(172-5)「先前(せんぜん・せんせん)」:さきざき。まえまえ。まえかた。

(172-5)「納屋(なや)」:漁村で、漁業用具などを格納する小屋。また、網元がその下で働く若者を起居させるために提供した建物または部屋。転じて、飯場(はんば)。

 *語源説に「ナ(魚)を入れるヤ(屋)の義」がある。

 *「納」に「な」と読むのは、国訓。「な()」は、食用、特に、副食物とするための魚(さかな)。

(172-6~7)「先年御所替」:「所替(ところがえ)」は、大名、小名の領地を他に移しかえること。くにがえ。移封(いほう)。転封(てんぽう)。

 *「先年」:文化4(1807)。松前藩の陸奥柳川への移封をいう。

 *松前藩の移封の概略

 ・幕府は、対露防衛策として段階的に松前藩から領地を召し上げる。

 ・寛政11年(17991月、幕府は、東蝦夷地浦河から知床およびその属島を公収、同年8月、知内川以東浦河までも公収し、9月、幕府はその代地5000石を下付し、武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2年7月まで約3か年間、飛地として領有。

*<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>

・中閏戸(なかうるいど)村、根金(ねがね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)

・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実ケ谷(さねがや)村(現埼玉県白岡市のうち)

・久喜村(くき)、所久喜(ところくき)村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下早見(しもはやみ)村、樋口(ひくち)村(現埼玉県久喜市のうち)

 ・文化4年.3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げ、新規9000石下付され、これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。

・松前氏の梁川移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。

<新領地>

・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余

・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十沢(いさざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余

・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下4373石余

・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下323石余

・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下3626石余

・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下1300石余

総領知高 18,626石余

(172-78)「一円・・公儀」:「一円」で改行するのは、尊敬の体裁で、「平出」。

 *「一円(いちえん)」:ある地域全体。ジャパンナレッジ版『国語大辞典』に

 <中世後期から江戸初期にかけては、程度副詞から陳述副詞へとその用法を転成し、文末に否定表現を伴うことによって「一円」の意味は「ことごとく」から「一向に、全く」に逆転した。江戸初期以降は、副詞の「一円」は次第に衰退し、現在使用されているのは「近畿一円」のような名詞用法だけとなった。>とある。

(172-8)「上(あがり)り」:「上る」の連用形。「上る」は、上に立つ者に物などが収められる。領地、役目などを取り上げられる

 *「アガル」「ノボル」について、ジャパンナレッジ版『国語大辞典』の語誌に

 <(1)アガルとノボルは、共に上への移動を表わすという点で共通する類義語であるが、アガルが到達点に焦点があり、そこに達することを表わすのに対して、ノボルは経過・過程・経路に焦点があるという点が異なる。「川を(船で)ノボル」「×川を(船で)アガル」「川から(岸に)アガル」「川から(谷づたいに山へ)ノボル」

(2)アガルは、ある到達点に達することを表わすところから、基本的には初めの状態を離れること、ある段階から抜け出すことを表わし、その経過・過程は問題にしない非連続的な移動である。そのため、アガルの場合、アガルものが物全体か一部かにかかわらず、視点の向けられているものの移動ということが問題になる。それに対して、ノボルの場合は、少しずつ移動する過程が明らかになるような、それ自体の全体的移動を表わし、しかも自力で移動が可能な事物に限定される。「生徒の手がアガル(×ノボル)」「ダムの水面がアガル(×ノボル)」「湯からアガル」「いつのまにか血圧がアガッていた」「湯から(煙が)ノボル」「興奮して頭に血がノボッていくのがわかった」

(3)到達点という結果に焦点があるアガルは、「ている」を付けてアガッテイルとすると動作・作用の結果を表わす。過程に焦点があるノボルはノボッテイルとすると現在進行中の動作を表わす。「のろしが(森の上に)アガッテイル」「煙が(空へ)ノボッテイル」

(4)また、アガルは、到達点に達するというところから、最終的にある段階に達して完了すること、終了することをも表わすことになる。>とある。

(172-9)「引越(ひっこし)」:松前藩が、松前から、奥州柳川へ移封すること。

(173-1)「御復古(ごふっこ)」:文政4年(182112月、幕府は、蝦夷全島を松前氏に還与し、蝦夷地は松前藩に復帰した。

<復帰の背景>

・表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、むかしのとおり松前蝦夷地を領有させる。

・その裏面は、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成のそうさせたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

(173-3)「無筋(むすじ)」:道理に合わないこと。

(174-3)「神明町(じんめいまち)」:現松前町字神明・字福山。世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川の奥まった地域にあり、南は蔵くら町。同川は神明川ともよばれた(「蝦夷日誌」一編)。町名は北西方にある神明社(現徳山大神宮)による。

(174-5)「越山(えつざん)」:『松前町史 通説編第1巻下』の「第4編」の「犯罪・裁判・刑罰」から、「越山」に関する記述を要約する。

 ・復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を減軽することが習慣となっている独自の刑罰体系が存在していた。

 ・死刑にかえて現実に下された処断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことが可能である。

 ・いすれも追放刑でありながら、越山・遠島が百姓もしくは無宿に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される。

 ・越山は流刑の一種 

  越山に処せられるのは18世紀半ば頃までは武士に限られ、逆に18世紀末以降は百姓・無宿人及び武士としては最下級の足軽身分にほぼ限られている。

  越山の地が基本的には和人地と蝦夷地との境界の村に設定されている。

  越山の地が基本的には和人地内に限定され、蝦夷地に及んでいない。

(174-7)「東在(ひがしざい)」:蝦夷地と和人地の境界は、時代により推移があるが、17世紀には、松前城下より北方の熊石、東方の亀田で、熊石までを西在、亀田までを東在(ひがしざい)とよんでいた。

 (174-8)「石崎村」:現函館市石崎町・白石町・鶴野町。近世から明治35年(1902)までの村。現市域の南東端にあり、南は津軽海峡。地名について「地名考并里程記」に「此所石の出崎なる故、和人地名になすと云」と記される。近世は東在の村で、元禄郷帳・天保郷帳ともに石崎村と記す。

(174-8)「丑年(うしどし)」:文政12(1829)

(174-8)「七月(しちがつ):「シチ」(漢音)、「シツ」(呉音)、「なな」(国訓)。

 *「ヒチ」は、方言。

(174-9)「寅年(とらどし)」:天保元年(1830)

(175)付札:P174の1~3行の上に重ねて添付されている。

(175-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。「蝦夷日誌」(一編)では町名の由来について「此処市中問屋、小宿等の荷物蔵を置る故に此名有」とし、町の様子については「中川原と馬形坂の間也。東牢の坂ニ限り、西牛浦ニ及ぶ。此町廿二軒の青楼有り」とある。

(175-1)「旅人(たびにん)」:旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

(175-2)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(167-1)「徊徘」:徘徊。行ったり来たりすること。どこともなく歩きまわること。うろうろと歩きまわること。うろつくこと。

(176-5)「牢番(ろうばん)」:牢屋の番人。監獄の監守。

 *影印の「窂」は、「牢」の異体字。「牢」の解字は囲いに入れられた牛の形にかたどる。かこい・おりの意味を表す。なお、『字通』は、「宀は家ではなく、牢閑(おり)の象」とし、柵かこいの形であるから、 に作るのがよい」とする。

 *「牢」の部首は「宀(うかんむり)」でなく、「牛」部。

 *「牢」はいけにえの意味もあり、牛・羊・豕(ぶた)の三種をそなえたものを「大牢」、羊・豕を「少牢」という。

(176-7~8)「紀三郎」:松前藩町奉行・鈴木紀三郎。

『蝦夷嶋巡行記』11月学習分注記

*10月学習分について編纂会で話し合った事項

1.P38~3行:①「射ゆえ」か。②「射ゆく」か。結論出ず。

2.P38~4行:影印は「癸」に見えるが「蚤」か。

3.P38~5行「昼」:意味は、①日中の昼か。②「昼」は「蛭」の当て字か。結論出ず。*翻刻は「昼」とする。

4.P39~3行:①「そびえ」(「そびゆ」の連用形)②「そびく」(終止形)か。

*翻刻は「そびえ」とする。

5.P39~5行「大田山・・之下也」:①「之下也」か。②「被下也(くださるなり)」か。

 *翻刻は「之下也」とする。「被下也」の場合、割注に入れるべきではないか。

6.P40~2行:①「漕行て」か。②「漕行也」か。③「漕-行之」か。

 *翻刻は「漕行て」とする。

 

*11月学習

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉(かたまゆ)」・・片方の眉。眉の片一方。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

(42-2)「ブヨ」・・アイヌ語。穴。「プイ(pui)(puy)」。因みに、人為的に掘った穴は、「スイ(sui)」とも。

(42-2)「シヤ」・・アイヌ語。石。「シユマ(shuma)」、「スマ(suma)」。

(42-4)「二(ふたつ)の川」・・太櫓川と後志利別川か。

(42-4)「セタナイ」・・現せたな町瀬棚区。漢字表記地名「瀬棚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名や場所名としても記録されている。

 「天保郷帳」には、「セタナイ持場の内」に「セタナイ」が見える。『廻浦日記』には、「セタナイは、此澗の惣名にて犬沢と云訳也。昔し、山より犬、鹿を追出し来り、此澗に入て死せしと云伝え、則本名はセタルベシナイなるを略せしと云。」とある。

 山川地理取調図には「エンルンカ セタナイと云」とある。

(42-5)「寔(ここ)」・・『名義抄』は、古辞書の訓として、「寔」に、「コレ・マコト・トドム・チリ・ココニ・カクノゴトク」を挙げている。

(42-5)「数奇」・・「数丁」か。

(43-1)「通(とほ)たしむ」・・「た」は「ら」か。「通らしむ」か。「通る」の未然形「通ら」+助動詞の「しむ=~させる」で、「とおらせる」の意。

 *「しむ」の「む」:変体仮名「む」の字源「武」。現行ひらがな「む」の字源でもある。

 *「武」の解字:『漢辞海』は『春秋左氏伝 宣公十二年』の

 「楚子曰、非爾所知也。夫文、止戈為武」

 [楚子曰わく、爾(なんじ)の知る所に非ざるなり。夫(そ)れ文に、止戈(しか=ほこをとどめる。戦いをやめることを)武と為す]

 を引いて、「武」は「戈(ほこ)」+「止(=とどめる)」で、「戦争を止めること」の意とする。

 一方、『漢語林』は、「止」は足の象形で、いくの意味。「戈」は、ほこの象形。ほこを持って戦いに行くの意味、と全く逆の解字。

(43-2)「往夏(おうか)」・・過ぎ去った夏。去年の夏。

(43-3)「ことごとく」・・影印の「こと」は、「こ」と「と」の合字。

(43-5)「セタ」・・アイヌ語。〔seta〕。犬。

(43-5)「ル」・・アイヌ語。〔ru〕。道。路。坂。

(43-5)「ナイ」・・アイヌ語。〔nai〕ないし〔nay〕。川。沢。

(44-3)「わらし」・・草鞋。「わ」は「王」。

(44-3)「幟(のぼり)」・・細長い布の上と横に多くの乳(ち)をつけて竿に通し、立てて標識にするもの。戦陣、祭典などで用いる。のぼり旗。

(44-4)「進るしむ」・・「る」は「ま」か。「進む」の未然形「進ま」+「しむ」で、「進(すす)ましむ」か。

(44-4)「衆」・・勘定吟味役三橋藤右衛はじめとする西蝦夷地巡見隊一行のこと。

(44-4)「興(きょう)に入(いる)」・・おもしろがること。

(44-6)「三本杉」・・三本杉岩のこと。せたな町瀬棚区本町の北側の海岸海中に並立する三体の巨岩の総称。名称は、杉の大木に似た形状にちなむ。

(45-1)「くる」・・「く」は「具」。「る」は「流」。P44から「なつくくる」となり、P45の「く」は衍字。

(45-2)「バイカチ」・・現せたな町瀬棚区字西大里、字元浦。「バエカヂ」、「ハイカチ」、「バイカツシ」とも。漢字表記地名は「梅花都」。地名の由来は、背負石の意。海岸に大石あり、小石を背負う故に名づく。

(45-3)「アフラ」・・現せたな町瀬棚区字西大里、字元浦。漢字表記地名は「虻羅」。「元禄元帳」に「あふら」、「天保郷帳」に「セタナイ持場のうちアブラ」と見える。武四郎の『西蝦夷日誌』には「湾宜敷して波浪無故に、油の如しと云うより号しか」とあり、また『廻浦日記』には「夷言はヒリカトマリと云しと。」ある。

(45-3)「ナカウタ」・・現せたな町瀬棚区字島歌、字西大里、字元浦。『廻浦日記』には、「中ウタ、人家多し、少し澗也」とある。

(45-4)「ツクナイ」・・現せたな町瀬棚区字島歌。漢字表記地名「嗣内(つくない)」。『蝦夷日記』の「セタナイ」の項に、「ワヅカケ、キブナヰ、ハイカチ、ナル(カ)ウタ、ツクナイ、アブラ、デタリ、シツケ各八ケ村、六七軒位ツヽなり。」と、「ツクシナイ」での名がみえる。

(45-5)「モツタ」・・現島牧村字持田。漢字表記地名「持田」、「茂津多」。『廻浦日記』には、「モツタ、大岩岬、峨々として海中につき出す。昔此上を切通せしとかや。」とある。

(45-5)「 ゜」・・「モツタ」と「チ゜ヒタペルケ」の二カ所の地名をを区分する記号、現行の読点か。

(45-5)「チ゜ヒタペルケ」・・『廻浦日記』には、「チヒタベケレ、此処大暗礁有。陸は峨々たる岩壁、チヒタヘケレは船が割れしと云事なるよし。」とある。山川地理取調図には「チヒタヘシケ」とある。

(45-5.6)「白糸の滝」・・『大日本地名辞書』には、「持田(モツタ)岬の北東四浬に在り、此処に滝あり、白糸と名づく。瀑布、高凡七十尺、広九十尺、山の半腹より流れ、百丈の素練を引く如し、西岸第一の勝望なり。」とある。

(45-6)「カリバシレトコ」・・『廻浦日記』に「ホロカリハ 岬也」とある。また、同日記には「当時はホロカリハとホンカリハの間を(スツキ場所とシマコマキ場所の)境とする也。」とある。

10月 町吟味役中日記注記

 (162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-3)「二十四才」の「才」:「才」は、川のはんらんをせきとめるために建てられた良質の木の象形で、転じて、もともと備わっているよいもちまえのの意味を表す。うまれつきの能力、素質。

 *俗に年齢の「歳」代用する字。テキストは本来は「歳」が正しい。

(162-3)「五戸(ごのへ)」:現青森県三戸郡五戸町。五戸川の中流左岸の沖積低地と右岸の丘陵地に位置する。東は兎内(うさぎない)村、西は石沢村、南は扇田(おうぎた)村、北は伝法寺(でんぼうじ)村に接する。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-5)「八戸(はちのへ)」:青森県の東南部に位置する。馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川の最下流部に挾まれた低平地に位置し北東部は太平洋に面している。寛文4年(1664)南部直房が八戸を城下とする八戸藩二万石を創設した。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府(しらふ)村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。

(164-1)「酌取女(しゃくとりおんな・しゃくとりめ)」:酒席に出て酌をする女。酒興を添え酒を勧める女。酌婦。しゃくとりめ。

(164-2)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸。

 *テキスト影印の「力」は「刀」のように見える。

(164-2)「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(164-6)「黒石(くろいし)」:青森県西部、弘前市の東方一四キロの所にある市。奥羽山脈の西麓、津軽平野の東南端にあり、岩木川の支流浅瀬石川に沿うている田園都市である。中世工藤貞行の領地であったがのち南部領となり、戦国時代末期に津軽領となった。明暦2年(1656)以来、津軽氏の支族津軽信英の所領となり、その子孫津軽親足が文化6年(1809)一万石の諸侯となったとき、その城下町となった。

(164-9)「小杦」の「杦」:『漢語林』は国字とする。「杉」の旁「彡」を書写体に従って「久」に改めたもの。

(166-1)「揚屋(あがりや」:江戸時代の牢屋における特別の部屋。幕府の小伝馬町牢屋では収監者を身分によって分隔拘禁したが、武士を収容するのが揚座敷(あがりざしき)と揚屋である。500石未満の御目見以上直参(じきさん)の武士は揚座敷、御目見以下の直参、陪臣は揚屋に入れ、僧侶、神職も格式により揚座敷、揚屋に分けた。いずれも雑居拘禁であるが、揚座敷に比べると揚屋は食事をはじめとする処遇、牢名主の支配など、実情は庶民の牢とそれほど差異はない。幕府の地方の牢,藩の牢なども,武士を庶民と区別して収容した。

 *「揚屋」を「あげや」と読めば、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。

(166-2)「出物(でもの)」:吹出物。おでき。

(166-2)「膏薬(こうやく)」:1 あぶら・ろうで薬を練り合わせた外用剤。皮膚に塗ったり、紙片または布片に塗ったものを患部にはりつけたりして用いる。軟膏と硬膏があり、ふつう硬膏をいう。

漢方薬の濃い煎液に砂糖などを加え、あめ状にした内服薬。

(167-1)「披見(ひけん)」:文書などをひらいて見ること。

(167-3)「唐津内沢(かわつないさわ)」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。


『蝦夷嶋巡行記』10月学習分注記  

*9月学習分について:編纂会で話し合ったが、結論を得なかった部分。

(38-1・割注右)

 1.「ふとくり也。くしや」

 2.「ふとくかたく、しやも」

 3.「ふとく、かたくしやも」

(38-1・割注右のルビ) 

1. 「ヒトラリ」

2. 「ヒト・フリ」

(38-1・割注左)

 1.「いちんまいいちんまい」

 2.「いちんまいまい」

(38~4)

 1.「矢ひと」(やひと)

 2.「矢比計」(やごろはかり)

 3.「失ひ計」(うしないばかり)

(38~5)

 1.「辺」

 2.「迄」

 

*10月学習

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

(42-2)「ブヨ」・・アイヌ語。穴。「プイ(pui)(puy)」。因みに、人為的に掘った穴は、「スイ(sui)」とも。

(42-2)「シヤ」・・アイヌ語。石。「シユマ(shuma)」、「スマ(suma)」。

(42-4)「二(ふたつ)の川」・・太櫓川と後志利別川か。

(42-4)「セタナイ」・・現せたな町瀬棚区。漢字表記地名「瀬棚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名や場所名としても記録されている。

 「天保郷帳」には、「セタナイ持場の内」に「セタナイ」が見える。『廻浦日記』には、「セタナイは、此澗の惣名にて犬沢と云訳也。昔し、山より犬、鹿を追出し来り、此澗に入て死せしと云伝え、則本名はセタルベシナイなるを略せしと云。」とある。

 山川地理取調図には「エンルンカ セタナイと云」とある。

(42-5)「数奇」・・「数丁」か。

 


9月例会は、予定通り実施します。

地震、大丈夫でしたか。
エルプラザが明日、9日から通常通り営業します。
したがいまして、札幌歴史懇話会の9月例会は、9月10日(月)13:00から予定通り実施します。

よろしくお願いします。

『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記 

『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記           

(37-1)「守(まもり)之やくにたつ物」・・「耳」は「に」、「多」は「た」、「川」は「つ」。「守之役にたつ物」とは、防御の役に立つ物(刀)の意。

(37-1割注右)「かんしやり〔カサリ〕」・・飾り。ルビは「カサリ」。「志」は「し」。

(37-1割注右)「ふとくり也」・・刀剣の本数を数える際にもちいる「一振り」か。「婦」は「ふ」。ルビは、「ヒト・フリ」。「ト」と「フ」間の点は中黒の「・」か。

(37-1割注右)「くしや」・・「草」のこと。ルビは、「クサ」。

(37-1割注右)「きれしない」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」。「切れない」こと。

(37-1割注左)「ぬきはなし」・・「怒」は「ぬ」、「幾」は「き」、「者」は「は」、「奈」は「な」。「抜き放す」のこと。

(37-1割注左)「見する」・・「春」は「す」。「見せる」こと。

(37-1割注左)「鈍刀(どんとう、なまくらがたな)の赤鰯(あかいわし)」・・「赤鰯」は、赤くさびた刀をあざっけていう言葉。「鈍刀=なまくら刀」を強調して言う。

(37-1割注左)読み方①「いちんまい(く=繰り返し記号・いちんまい=」・・「一枚一枚」。「いちんまい」の「ん」は、語中または助動詞に続く場合に挿入されて語調を強めるために用いられる。ただ、本書は、矢のことを述べているので、ここでは、「一本一本」の意として用いたか。ルビは「イチル」か、または「イチン」か。

 *読み方②「まいまい毒」・・マイマイカブリの毒のことか。

(37-2割注右)「烏頭(うず・とりかぶと)」・・トリカブトの根。有毒でアコニチンを含有。「鳥兜」「鳥冠」「附子(ぶし)」とも。トリカブトの分布は、本州中部以北に多く生息し、また北海道の山野に自生する多年草。トリカブトは、全草が有毒であり、特に地下の根の部分は毒性が強く、アイヌの人々は、毒性の強いオクトリカブトとトウガラシを微妙に調合し、十勝石の矢じりに矢毒を塗り、熊などを捕獲する術とした。

(37-2)「口(くち)蝦夷」・・吉田東伍著『大日本地名辞書』所収の『蝦夷草紙』(最上徳内著)には、「松前所在島、一国の内、地方を考ふるに、其形親疎の二儀あり、~略~、依て口蝦夷(クチエゾ)と奥蝦夷とを弁ふべし。~略~、口蝦夷とは、東海岸に於て勇払以南を指し、西岸には石狩以南に汎称したり。」とある。

(37-4)「甲斐(かい)なき」・・「甲斐ない」は、ききめがない。努力してもそれだけの結果が得られない。むだ。ふがいない。

(37-5)「好めは」・・「盤」は「は」。「好む」の已然形+接続助詞の「ば(逆接の確定条件。「~のに」の意)」。「注文したのに」、「望んだのに」の意。

 

 

 

 

 

(37-6)「海中を望」の「望」・・「望」は決まり字。

 *「臨はそのような姿勢で下界に臨むことをいう。下界よりして高く遠く望むことを望という。」(『ジャパンナレッジ版字通』)

(37-6)「頓而(やがて)」・・そのまま。すぐに。ただちに。

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

 

 

 

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

 


9月 町吟味役中日記注記

                                    

(157-1)「嶋袷(しまあわせ)」:縞袷。二種以上の色糸を用いて、たて、またはよこ、またはたてよこに筋を織りだした織物。また、それに似た模様。筋の現われ方によって縦縞、横縞、格子縞に大別される。「嶋(島・縞)」の語源説に「南洋諸島から渡って来た物であるところから、シマモノ(島物)の略」がある。

(157-2)「飯鉢(めしばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。

(157-3)而巳(のみ)」:漢文訓読の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。 

 *夫子之道、忠怨而巳矣 (『論語 里仁』)

  [夫子(フウシ)の道は、忠怨(チュウジョ)のみ。]

  (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

(157-5)「前書」の「書」:決まり字。脚部の「日(ひらび)」が省略されている。

 *「書」の部首は「曰(いわく・ひらび)」部。「ひらび」は、平たい「日の字」の意。

  曲、更、曽、曹、最、替など。

(163-5)「小平沢町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。

(158-1)「最前(さいぜん)」:さきほど。さっき。いましがた。先刻。多く副詞的に用いる。

 *「最前」を「いやさき」と読めば、「最もさき。いちばんさき。」

 *「最前」の「最」は決まり字。

(158-1)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。本来は、軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。さらに、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

 「いぬき」と読めば、階下のいしだたみ。

*万葉集〔8C後〕一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて〈作者未詳〉」

 *ジャパンナレッジ版『字通』には、<〔説文新附〕九下に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。>とある。

(158-4)「出訴(しゅっそ)」:訴え出ること。提訴。

(158-5)「始末吟味(しまつぎんみ)」:事の初めから問いただすこと。「始末」は、始めから終わりまで。

(158-6)「利解(りかい)」:理解。

(159-6)「内済(ないさい)」:表向きにしないで、内々で事をすますこと。また特に、江戸時代、もめごとを裁判沙汰にしないで、隣村役人などの斡旋で話し合いにより事件を和解させること。和談。和融。

(160-4)「噺」:国字。『新漢語林』の解字には「口+新。耳新しいことを話す意」とある。

(160-5)「相談」の「談」:旁の「炎」の脚部は繰り返し記号の「ゝ」「々」のように省略される場合がある。

 *参考「渋」:

  ・昭和21年当用漢字表で「澁」が選ばれた。

  ・昭和24年当用漢字字体表で「渋」に字体整理された。

  ・現行常用漢字表ではいわゆる『康煕字典』体の活字として括弧内に「澁」が掲げられている。

  ・「澁」は、昭和56年に人名漢字許容字体となった。

  ・「澁」は、平成16年に人名漢字に追加された。

(162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。


古文書解読学習会

              札幌歴史懇話会主催

 

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気

軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地

理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018年9月10日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(男女共同参画センター(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

    『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

    『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の紀行文。松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由の紀行

 

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp


8月 町吟味役中日記注記

         

(151-2)「取留(とりとまり・とりとめ)」:しっかりと定まること。まとまり。しまり。とりとめ。多く、否定の語を伴って用いる。

(151-2)「証拠(しょうこ)」:一定の根拠に基づいて、事実を証明すること。証明のよりどころとすること。また、その材料。証明の根拠。あかし。しるし。証左。

 *テキスト影印の「証」は、旧字体の「證」。

①もと「證」と「証」は別字。当用漢字表で「證」の新字体として「証」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。

②昭和21年11月の当用漢字表制定当初に、「証」が「證」の新字体として選ばれた。常用漢字表では、いわゆる康煕字典体の活字として「証」の括弧内に「證」が掲げられている。

*「證」の解字は、「言」+「登」。言葉を下から上の者にもうしつげる意味をあらわす。転じて、物事を昭らかにする。

 「証」は、「言」+「正」。言葉で正す、いさめるの意味を表す。

*したがって、事実を明らかにする意味では、「證拠」が本来の意味。「証拠」は、意味が通じない。「證」が「証」に置き換えられたために、本来の意味が不明になった。

(151-3)「片口(かたくち)」:一方の人だけの陳述。片方だけの言い分。または、それだけをとりあげること。

(151-4)「可相分兼候(あいわかりかぬべくそうろう)」:組成は「相分(あいわかり)」+ 

 「兼(か)ぬ」(終止形)+助動詞「可(べし)」の連用形「可(べく)」+動詞「候(そうろう)」。

 *兼ぬ:接尾語ナ行下二段型。動詞の連用形に付く。「思いどおりに実現できない意を表す。…しかねる。…しにくい」の意の動詞をつくる。

 *助動詞「べし」は、動詞の終止形(ラ変動詞は」連体形)に接続する。

(151-6)「不容易(よういならざる)」:「不」の訓に「なら」をおぎなって、「ならず」がある。「ざる」は、文語の打消しの助動詞「ず」の連体形で、動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」など。

  *「回也愚」:[回也(かいや)愚(ぐ)ナラず](『論語 為政』)

   <顔回(回也=孔子の愛弟子)は、おろかではない>

 

 

 

 

 

 

(151-6)「再応」:同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(152-1)「厳敷遂吟味候」:「厳しく吟味(を)遂げ候」。「遂」のしんにょうが、「し」のようになっている。

(152-1)「可相果候」:「相・果(はつ)・可(べく)・候(そうろう)」

 *「可(べし)」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続するので、「果(は)つ」(終止形)で読む。

(152-34)「早急(さっきゅう・そうきゅう)」:「さっ」は「早」の慣用音。非常に急ぐこと。

 *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(152-3~4)「成丈ケ(なるたけ・なるだけ・なりたけ・なりだけ)」:(動詞「なる(成)」にそれ限りの意を表わす副助詞「たけ」が付いてできた語。)できる限り。できるだけ。なるべく。なりたけ。なりったけ。なるったけ。なるべくたけ。なるべきだけ。

(152-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(152-4)「仕置(しおき)」:動詞「しおく(仕置)」の連用形の名詞化処罰。処分。成敗。おしおき。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(一八〇四)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(一七〇四〜一一)までに成っていたとみられる>とある。

(153-1)「為御含」:「御含(おふくみ)ノ為(ため)」

 *「為」:下に動詞が来る場合、「す」「さす」とその活用。

      下に名詞が来る場合、「ため」「として」「たり」「なる」

(153-2)「可貴意」:「貴意(きい)ヲ得(う)可(べく)」:相手の考えを聞くことを敬っていう語。多く書簡文に用いる。

(153-3)「松前志摩守」:松前章広。安永4730日生まれ。松前道広の長男。寛政4年松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11年東蝦夷地が,文化4年には全蝦夷地が幕府直轄地となり、章広は陸奥梁川(福島県)9000石に移封された。文政4年松前復帰がかない、5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4925日死去。59歳。初名は敷広。通称は勇之助。

(153-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(153-5)「新井田周治」:松前藩町奉行。

(154-6)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(154-1)「津軽左近将監(つがるさこんのしょうげん)」:津軽信順(のぶゆき)。寛政12325日生まれ。津軽寧親(やすちか)の子。文政8)弘前藩藩主津軽家10代となる。藩政にはあまり熱心ではなく、派手ごのみを幕府からとがめられる。天保10年隠居。文久21014日死去。63歳。号は好問斎,如海,瞳山。

 *「将監」:近衛府の第三等官(判官=じょう)。

(154-1)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。

(155-1)「寅」:天保元年(1830)。

(155-1)「被 仰付(おおせつけられ)」:「被(られ)」と「仰付」の間が一字分空いている。

 尊敬の体裁で、「欠字」という。「仰付」が下接する場合、欠字の体裁をとることが多い。

(155-2)「此節」の「節」:竹冠が小さく、脚部が大きく縦長になっている。

(155-3)「胡乱(うろん)」:(「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。あやしく疑わしいこと。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

*「胡」は、でたらめの意。また胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。

(155-4及び8)「候」:「候」が「ヽ()」にように、極端なくずしになっている。

(155-4)「先年」の「年」:最終画の縦棒をまるく跳ね上げて、円のようになる。

(155-4)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。

(155-6)「頭取(とうどり)」:松前藩町奉行配下の町方の頭取。

 *「頭取」:元来は、音頭を取る人。音頭取。雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)が原意。転じて、一般に頭(かしら)だつ人の意になった。

(155-7)「不埒(ふらち)」:法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

 *「埒(らち)」:馬場の周囲に設けた柵(さく)。古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

*「埒外」(かこいのそと。転じて一定の範囲の外)

*「埒が明く」:物事がはかどる。てきぱきと事がはこぶ。きまりがつく。かたづく。「埒が明かない」はその逆。語源説に、(1)奈良・春日大社の祭礼で、一夜、神輿の回りに埒を作っておき、翌朝、金春太夫がそれをあけて祝言を読む行事から。(2)賀茂の競馬の時に埒を結ぶところから。

(155-8)「唐津内沢町」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。

(155-8)「御慈悲(ごじひ)」:「慈悲」は、仏語。「慈」は{梵}maitr 、「悲」は{梵}karuna の訳語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。テキストでは、あわれんでなさけをかけること。また、「お慈悲でございますから」などの形で、あわれみを請う意の慣用表現としても用いる。

(156-1)「願書(ねがいがき)」:願いごとを記した書き付け、手紙。

(156-2)「風邪(ふうじゃ・かぜ)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」はもともと大気の動きであるが、「感冒」の意の「かぜ」は、平安時代初期から見られ、おそらくは中国語の「風」の移入か。

(2)感冒が「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

(3)「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。>とある。

(156-3)「西舘町(にしだてまち)」:現松前郡松前町字西館・字唐津・字愛宕。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。

(156-4)「当時(とうじ)」:現代では、「その時。その頃。その昔」の意に用いるが、古文書では、「ただいま。現在。現今。今日(こんにち)」の意味になる場合が多い。

 (156-4)「ケシヨウ川」:現在の化粧川は、松前町建石地区を流れる普通河川。光明寺の奥が水源で、国道228号線に架かる大磯橋付近で日本海に注ぐ。

(156-6)「惣社堂」:松前郡松前町字建石・字弁天。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。松前城下の最も西に位置する町。東は生符いけつぷ町。

(156-9)「臥居(ふしおり)」:「臥」の偏の「臣」は「石」のように見え、旁の「人」は「ト」のように見える。

(156-10)「風呂敷」:物を包むための正方形の絹または木綿の布。正倉院の宝物にも、崑崙裹(こんろんのつつみ)といって、号楽の装束を包んだ、表は黄あしぎぬ、裏は白のあしぎぬの袷の風呂敷がある。古くは平包とか平油単と呼ばれていた。風呂敷と呼ばれるようになったのは銭湯の発達に伴うもので、手拭い、その他入浴に必要な品を包んで行き、入浴する時は脱衣などを包んでおき、帰りには濡れたものを包んで持ち帰ったところからきている。中世までは入浴に際し、男性は湯褌、女性は湯巻といって、入浴専用の褌と腰巻につけ替えて入り、湯から上がる時はこれを専用の下盥で洗って帰ったためである。このため、他人のものと間違えないように家紋や屋号を染め抜いて用いた。しかし江戸時代中期ごろには湯褌や湯巻を用いる習慣がなくなると同時に、脱衣籠や棚が出現したため、本来の風呂敷としての必要性は少なくなり、平包が風呂敷と同型のため、もっぱら平包を風呂敷と呼ぶようになった。荷物の持ち運びから商人の商品の運搬、旅行具にもなった。また蒲団などの収納具としても重宝されてきた。その他、江戸時代には頭巾にも用いられた。御高祖(おこそ)頭巾とか風呂敷ぼっちといってもっぱら女性が用いたが、この場合は表が黒や紫のちりめん、裏に紅絹(もみ)をつけたり、浅葱木綿でつくったりした。風呂敷の代表柄である唐草模様は、江戸時代の更紗の流行以後、寿柄として伝えられている。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』8月学習分注記

 7月学習分の注記の追加

(30-4)「ゆりきうたの崎」・・武四郎『廻浦日記』に、関内を過ぎて、「スナカイトリマ」と「ウスベツ」の間に「ヨリキウタ」があり、「少しの浜 漁小屋一軒有」とある。現せたな町の「ヨリキ岬」か。

(30-4)「ほろ嶋」・・武四郎『廻浦日記』には、「コウタ」(現せたな町の小歌岬)を過ぎて「ホロシュマ 小岬なり」とある。

 

8月学習注記

(32-1・2・4)「見ゆる」・・自動詞ヤ行下二段。活用形は、え(未然)・え(連用)・ゆ(終止)・ゆる(連体)・ゆれ(已然)・えよ(命令)。

 *1行目は、「見ゆる石」で、「見ゆる」は「石」にかかる連体形。

 *2・4行目は、「見ゆる。」で、感情や余情を含んで終止する「連帯止め」。本来は終止形の「見ゆ」。

(32-1)「水(み、みず)ぎわ」・・「幾」は「き(ぎ)」、「王」は「わ」の変体仮名。水際のこと。

 *「王」は、変体かなで「わ」の字源。旧仮名遣いでは「ワウ」。中国音で[wáng]。日本の発音では「ワン」に近い。

 *「王仁」は、「ワニ」と呼ぶ。応神天皇のとき、百済から呼びよせたとされる渡来人。「古事記」に「論語」をもたらしたとある。

 *「王」(4画)の部首は「玉」部(5画)で、部首より画数が少ない。

(32-2)「工(たくみ)」・・匠。「石工(いしく、せっこう)」のことか。

 *「工」を「ク」と読むのは、呉音。大工(だいく)、金工(きんく)など。

(32-2)「奥尻嶋」・・桧山地方の西方に位置し、日本海に浮かぶ離島。東西11㎞、南北27㎞、周囲84㎞。「奥尻」は、アイヌ語の「イクシュンシリ(向の島)」が転訛したもの。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に「おこしり島」、「天保郷帳」に、江差村持場之内ヲコシリとの記載がある。アイヌに命じて捕獲したオットセイの皮などは、幕府の献上品として重要視された。後、文久元年(1861)建網が導入され、春の鰊、夏の長崎俵物の生産場所に移っていった。

(32-2・3)「かいとりま」・・漢字表記名「貝取間」。昭和30年まで貝取澗村として存在。昭和30年、久遠村と貝取澗村が合併し、「大成町」となった。『北海道市町村行政区画便覧』によると、「旧貝取澗村は、文化年間に初めて乙部村の来住者をみてより、その後、慶応年間に至り東北地方より二十数戸の移住者がり戸口が増加するに至った」とある。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ(一名石カイトリマヘツ)」とある。

(32-3)「沙取間」・・『廻浦日記』には、「スナカイトリマ」とある。

(32-4)「鰊猟(にしんりょう)」・・「鰊」の旁は「東」でなく、「柬」。なお、中国では「鰊(レン)」は、「小魚」をいい、「ニシン」は「鯖」と書く。

(32-5)「松前」・・「松」は、「木」+「公」を上下に書いた異体字。

(32-5)「家也」・・「也」は、ひらがな「や」の字源。古文書にある「や」は、変体かなの「や」か、「也(なり)」と読む漢字かを、文意で判断する必要がある。テキストでは、「なり」と読み、「也」と翻刻する。

(32-6)「ウスベチ」・・「ウスベツ」とも。漢字表記地名「臼別」。江戸期、クドウ一円は、「ウスベツ」とも称され、場所名もウスベツ場所と呼ばれることもあった。

『廻浦日記』には、「ウシベツ」とあり、「本名ウスベツなるべし。夷人は、ウシベと云。川巾凡三十間余。小石川にて浅し。秋は鮭少し上るよし也。川中蒲柳おおしと。」とある。

(33-1)「小河しり」・・「しり」は、「尻、臀、後」で、最後の部分。後尾。しまい。

 本書では、「クドウ」の地名の由来を「小河じり」としているが、その由来は、諸説があり、以下、参考まで記す。

 1.上原熊次郎地名考

  夷語クントゥなり。弓を置く崎ということ。Ku-un-tu(仕掛け弓・ある・山崎)の意。市街の東側の稲穂崎のことである。

 2.松浦武四郎説。

   『再航蝦夷日誌』では、この岬を「本名クント(?)エトと云よし。クンは 黒し、エトは岬。也黒サキと云こと也」とする。

②『西蝦夷日誌』では、「グウンゾウにて、弓形に入り込んだ処のある岬」として、「弓・   の・山崎」と読んだものらしい。

3. 永田方正説

 ①元名「クンルー」(kun-ru)。危路の意。久遠村の岬端崩壊して、通路危険なるに名づく。

 ②アイヌが「クンルー」と発音するや殆ど「グンヅー」と聞ゆるを以て、和人      誤聞して「クドウ」と呼ぶ。旧地名解に弓を置く岬と訳し、松浦日誌に弓形と訳したるは、誤聞によりて誤訳したるなり。

或人云う、久遠の原名は、「アナクド」なりと。これは、俚人の妄想に係るのみ。     更科源三、山田秀三両氏とも、どちらが正しいか、急には決めることが出来ない

というスタンスといえる。          

(33-1・2)「ゆのしり」・・『廻浦日記』には、「ニヨシリナイ、訛てユノシリ川と云。」として、「ユノシリ」の名が見える。

(33-2)「運上屋(うんじょうや)」・・江戸期、場所請負人が、場所経営の拠点として現地に設けたのが運上屋(家)。第一次幕領期に、東蝦夷地が幕府の直営になったとき、「運上屋」は、「会所」に改められたが、西蝦夷地では、幕領となった後も場所請負制度が続けられたため、「運上屋」の名称は変更されなかった。なお、松前藩の復領後も、東蝦夷地では「会所」、西蝦夷地では「運上屋」の名称が継続された。

(33-4)「拝礼(はいれい)」・・頭を下げて、礼をすること。拝むこと。

(33-5~34-2)・・この儀式を「ヤンカブチ」という。

(33-5)「あくらをかき」・・「あくら」は、「胡座(あぐら)」で、「かき」は、「掛く、懸く、繫く」の連用形。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方をすること。

(33-6)「あげて」・・「阿(あ)」・「希(け・げ)」・「天(て)」。

 *「希」は、変体かなで「き」の字源。「希」の呉音が「け」。「希有(けう)」など。「き」は漢音。

(33-6)「いたヾく」・・「頂く、戴く」で、頭の上にのせてもつこと。

(34-1)「ひげを」・・「飛(ひ)」・「希(け・げ)」・「越(を)」

(34-2)「つゝしみたる容貌(ようぼう)」・・「津」は「つ」、「三」は「み」、「多」は「た」。影印の「兒」は、「貌」の異体字。常用漢字は、「貌」。

(34-2)「酋長(しゅうちょう)」・・かしら。特に未開人の部族のかしら。酋領。なお、「酋長」は、差別用語として、放送禁止用語に指定され、「首長」と訂正されている。

(34-2)「乙名(おとな)」・・一族の長。家長。中世末期、村落の代表者を指した。近世、蝦夷地において、請負場所内の各集落(コタン)の長を乙名と呼称した。なお、各コタンには、乙名のほか、脇乙名、小使と称する役蝦夷(役土人)がいた。後、安政3(1856)には、場所全体を統括する惣乙名を庄屋、惣脇乙名を惣名主、各コタンの乙名は名主と呼称が改められた。

(34-3)「耳かね」・・「耳金(みみがね)」で、耳たぶにつける金属製の装飾品。

(34-3)「耳かねをはめ」・・「耳」「可(か)」・「ね(年)」・「越(を)」・「者(は)」・「女(め)」。

(34-3)「黒羽二重(くろはぶたえ)」・・黒色の紋付などの礼装用の和服地。羽二重は、たて糸に撚りをかけない生糸を用いて平織りにした、あと練りの絹織物。柔らかく上品な光沢がある。

(34-3)「立葵(たちあおい)」・・アオイ科の越年草、延齢草の別名。茎のある葵の葉三つを杉形(すぎなり)に立てた形の紋所の名。

(34-4)「ぬふたる」・・影印は、「ぬ(縫)ふ」+「たる」となっているが、「縫ふ」の連用形は「縫(ぬ)ひ」で、活用からは、「ぬ(縫)ひたる」となるか。

(34-4)「単物(ひとえもの)」・・裏を付けないで仕立てた衣類の総称。特に、裏を付けない長着をいう。

(34-5)「黒紗綾(くろさや)」・・平織り地に四枚綾で稲妻や菱垣(ひしがき)などの文様を織り出した光沢のある黒色の絹織物。

(34-5)「しめたり」・・締めたり。「女」は「め」、「多」は「た」。

(34-6)「結たれは」・・影印の字形は「詰」にみえるが、文意から、「結」で「結(むすび)たれば」か。

(34-6)「惣髪(そうはつ)」・・男子の結髪の一つ。月代(さかやき)を剃らず、伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったり、または、束ねたり剃ったりしないで、髪を全部後ろへなでつけて垂下げたもの。

(35-2)「あつゝし」・・「あっし」とも。ここでは、オヒョウの靭皮の繊維を細かく裂き、糸にして織った布。またその布で作られたアイヌの服。

(35-3)「きれはち」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」、「者」は「は」、「知」は「ち」で、「切れ端(きれはじ・きれはし)」のことか。

(35-3)「唐草様の形」・・唐草は、ウマゴヤシの別名。「唐草模様」のこと。つる草が絡み合う様を図案化した装飾模様のこと。日本では中国からの伝来といわれるが、古くから世界各地で用いられ、アラベスク(イスラム美術の装飾文様)もその一種。

(35-4)「筒袖の半てん」・・「筒袖(つつそで、つつっぽ)」和服で袂の部分がない筒型の袖の形をした、羽織に似た丈の短い上着。「半てん」は、「半纏、袢纏」。

(35-5)「呼給(よびたま)ひて」・・ここでの「給ふ」は、動作の主体(呼ぶ人)に対する尊敬を表す意で用いられており、「お呼びになられる」の意。

(35-6)「給(たまは)り」・・ここでの「給ふ」は、「与える」の尊敬語として用いられ、「お与えになる」の意。

(36-1)「釘」・・影印の字形は、「釘(くぎ)」に見えるが、前後の文意から、「針(はり)」の意。

(36-1)「賜(たま)ふ」・・「与ふ」、「授く」、「やる」などの尊敬語。

(36-2)「一覧(いちらん)」・・一通りざっと目を通すこと。

 *「覧」・・冠部左の「臣」が、大きく独立し、旁のように見え、脚部の「見」は、旁に見える場合がある。

(36-2割注左)「筆紙」・・筆と紙。文章に書き表すこと。用例として、「筆紙に尽くし難い」がよく使われる。

(36-3)「拝(はい)す」・・頭を深くたれて、敬礼する。

(36-3)「尋(たづぬ)る」・・「尋ぬ」の連体形。事情を問いただす。質問する。

(36-4)「掛刀」・・松浦武四郎の『蝦夷漫画』に描かれている「たん子ぷ、太刀のこと」か。   

(36-4)「弓箭󠄀(きゅうぜん・きゅうせん・ゆみや)」・・弓矢。

(36-5)「見ん事」・・「ん」は、文語助動詞「む」の転化したもの。「む」は、助動詞で、話し手自身の意志や決意を表し、「~するつもりだ。」、「~するようにしたい。」。

(36-5)「乞(こふ・こう)」・・人にあることを求める。

(36-5)「日本語(にほんご)」・・日本の言葉、言語。

(36-5)「悉(ことごとく)」・・のこらず。みな。

(36-6)「一二(いちに」・・一つ、二つ。若干。

『蝦夷嶋巡行記』7月学習分注記  

         

27-1)「官軍(かんぐん)」:天子・国家の正規軍。朝廷の軍勢。政府方の軍隊。ここでは松前藩の軍勢をいうか。なお、近世日本では、狭義には戊辰戦争時の新政府側軍隊を指す。

*続日本紀‐慶雲四年〔707〕五月癸亥「初救百済也。官軍不利」

*太平記〔14C後〕九・六波羅攻事「官軍多討れて内野へはっと引」

晉書‐桓温伝「耆老感泣曰、不図今日復見官軍」 

       <耆老(キロウ)感泣(カンキュウ)して曰(イワ)く、

        不図(ハカラズ)も、今日(キョウ)復(また)官軍を見(み)る>

       [古老は感泣して言った。「また官軍を見られるなんて、思ってもみなかった」]

  **「耆老」・・「耆」は六〇歳、「老」は七〇歳。六、七〇歳の老人。としより。

  **「晉書」・・中国の正史。二十四史の一つ。一三〇巻。房玄齢ら奉勅撰。唐の太宗の時、貞観二〇年(六四六)成立。

27―1)「日本と蝦夷と戦し時」・・『角川日本地名大辞典』には、

   「中世のアイヌと和人の攻防」として、享禄2(1529)3月、西部セタナイ(瀬棚)の首長タナイヌが乱を起こし、蠣崎義広が工藤祐兼と弟祐致を将としてセタナイに迎撃させたが、兄祐兼は戦死し、弟祐致は熊石まで逃れた。アイヌの進撃が急で、致し方なく海岸の巨巌に身を隠したところ、巌から黒煙が吹き出し、爆風雷光がとどろき、アイヌがたじろぐわずかな隙に、上ノ国に逃れることが出来たと伝える。

   更に、天文5(1536)、熊石の首長タリコナ(タナイヌの娘婿)が勢力を得て、上ノ国に攻めのぼるが、義広に謀られ斬殺された。それ以後、地内も静謐となったという。

(27-2)「其山」の「其」・・脚部が省略されて「廿」の形になることがある。

(27-2)「闇夜(やみよ・あんや)」・・くらい夜。月の出ない夜。

(27-2)「闇夜」の「闇」・(27-6)「問し」の「問」・・「門(もんがまえ)」のくずし字は、省略されて平たいカタカナの「ワ」、または、ひらがなの「つ」の形になることがある。

 *なお「問」の部首は、「門」ではなく、「口」部。

(27-2)「利を失ひ」・・「利を失う」は、いくさなどで、不利になる。劣勢になる。勝利を失う。敗れる。

 *「失ひ」の「失」の影印は、「矢」だが、くずし字では、よくある字形。

 (272.3)「進事不能(すすむことあたわず)」・・進むことができないこと。

 *「不能」・・「あたわず」と読むのは、漢文訓読の返読。

 *「能(あたう)」・・あとに必ず打消を伴って用いられたが、明治以後は肯定形も見られる。従って、「あたは」「あたふ」の形だけが用いられる。

(27-3)「敗軍(はいぐん)」・・戦いに負けること。

 *「敗軍」の「敗」・・くずし字では、旁の「攵(ぼくづくり・ぼくにょう・とまた・のぶん)が「久」の形になることがある。

(27-4)「言(いい)あやまり」・・言いまちがう。言いそこなう。言いあやまつ。

(27-4)「クトウ」・・現久遠郡せたな町大成区久遠。近世、「クトウ」は、西蝦夷地内の集落で、『松前西東在郷並蝦夷地所附』には、「うすへち」、「湯の尻」と並んで「くど」の名がみえ、また、『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「熊石村」より、「クトウ迄四里廿四丁五十六間」とある。

 安政3(1856)の松浦武四郎の『松浦竹四郎廻浦日記』(以下『廻浦日記』と略)には、「当所の地勢後は平山、左の方エナヲサキ、右の方ニシユヱトフと対峙して一湾をなし、浜未申に向ひて其処々家居す。此処小場所にして、惣て通行継立無レ無、只風波不レ宜時のみ此処に寄る也。」とある。

近代になり、明治14(1881)久遠郡の一艘澗村、三艘澗村、日方泊村が合併して、久遠村が成立。その後、昭和30(1955)貝取澗村と合併し大成町となり、更に平成17(2005)には、瀬棚郡瀬棚町、北桧山町、久遠郡大成町が合併し、久遠郡せたな町となる。

(28-1)「大鱲(たいりょう)」・「鱲師(りょうし)」の「鱲」・・「鱲」は、「猟」の当て字。本来、「鱲」は中国ではチョウザメ、わが国では、からすみ」をいう。

28-1)「互(たがい)に」の「互」・・くずしは、「楽」に似ているので、文脈で判断する。

28-1)「かせき」・・「稼ぎ」の意。

28-2)「そうて」・・沿うて。「そ」は「楚」、「う」は「宇」は、「て」は「帝」。

28-3)「深谷(しんこく)」・・底深い谷。

29-1)「併(しかし)」・・「併」は、国訓で、「しかしながら」の意に用いる。

29-2)「六月五日」・・『蝦夷日記』にも、一行は、64日から8日朝まで熊石に滞在。8日、熊石村を出帆している。

 *「六月五日」の「六」・・くずしは、冠の「亠(なべぶた)」を1画で書く場合がある。「下」のくずしと類似している。

291.2)「いかつち堂」・・「雷神堂」のこと。『渡島日誌』に、熊石村の中に、「畑中上に、雷神堂並て毘沙門堂並て雲母(キララ)崎小岬」とある。

29-3)「小祠(しょうし)」・・小さいやしろ。小さいほこら。

29-4)「びんの間」・・『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「ヒンノマ」とある。『渡島日誌』には、「ヒンノマ、此処迄人家有。」としている。

 *「びんの間」の「び」・・変体仮名「ひ」。字源は「飛」。

29-6)「ゆかゝした」・・『松前西村々蝦夷地クトウ~里数書(写本)』には「ヲカノシタ」、『渡島日誌』には「岡下」とある。「ヲカノシタ」か。

29-6)「湄(ほとり)」・・みぎわ。水と草とが交わるところ。『漢辞海』に臨むは、後漢の『釈名』)を引き、「水に臨むさまが、眉が目に臨むのに似ている。」とある。

30-1)「せきない村」・・現八雲町熊石関内町。近世初期、和人地の西境が、それまでの上ノ国から熊石まで拡大されて、関内に番所が設置された。『渡島日誌』には、「関内村、人家十二軒、熊石村分也。前に川有、歩行わたり。海にヨシカシマ暗礁という有。」、「テケマ四丁二十間、ホンモエ、境目に至る。是を境に(西地)入るや皆場所と云。是迄をシャモ土云也。」とある。

30-3)「でけま」・・「渡島日誌」には、「テケマ」とある。

30-3.4)「ゆりきうたの崎」・・不詳。

30-4)「ほろ嶋」・・不詳。

31-2)「究(きめ)たれハ」・・「究める(動詞)」の連用形+「たり(助動詞)」の未然形+「ば(接続助詞)」。

31-3)「同(ひとし)」・・『名義抄』に、「同」の訓に、「オナジ・ヒトシ・ヒトシウス・アツマル・トトノフ・ノリ・カタシ」などをあげている。

*『名義抄』・・『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』の略。平安末期の漢和辞書。編者名は不明だが法相(ほっそう)宗の僧侶の編で、院政期の成立かという。仏・法・僧の三部仕立とし、漢字を偏旁によって分類、音訓・字体などを示す。文字史・漢文訓読語研究の重要資料であり、和訓の部分に付された声点は平安時代のアクセントを知るのに貴重。

31-4)「いしかい取澗」・・現せたな町大成区貝取澗の内。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ、小川也。一名石カイトリマヘツと云。訳は石浜なれば也。本名カイトマイなるべし。」とある。

31-6)「そばたちたる」・・峙ちたる。聳ちたる。「峙つ。聳つ。」は、稜(そば)が立つ意で、岩、山などが、ほかよりひときわ高くそびえていること。

 *変体仮名の字源は、「楚(そ)・者(ば)・多(た)・ち(知)・た(太)る(留)」

7月 町吟味役中日記注記

(146-6)「漸(ようやく・ようよう)」:①漢語「漸」は「しだいに、だんだん」の意。②和語の「ようやく」は、①「しだいに、だんだん」に加えて、「やっと、どうにかこうにか」の意味もある。つまり、古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。別添資料『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(古田島洋介著 吉川弘文館 2013)参照。

(148-1)「最前」の「最」:テキスト影印は「最」の俗字「㝡」のくずし字。

(148-2)「若(もし)」:「若」を「もし」と読むのは、漢文訓読体。「若(わか)し」は、国訓に過ぎず、漢字本来の意味ではない。なお、漢文訓読体で「わかし」は、「少(わか)し」。

(148-2)「如何(いかが)」:くずし字の決まり字。形で覚える。

(148-3)「周章(しゅうしょう)」:あわてふためくこと。うろたえ騒ぐこと。

(148-5)「別て(而)」:副詞。特に、とりわけ、ことに。

(148-6)「其方(そのほう)」:室町時代以降の用法。武士や僧が、自分より目下の者に対して用いるやや固い響きの語。おまえ。きさま。

(150-4)「曽(かつ・かっ・かつっ)て」:①ある事実が、今まで一度として存在したことがない、という経験に基づく否定を表わす。今まで一度も。まだ全然。かつてもって。

 ②ある事実が、過去のある時点に存在したことがある、という回想的な肯定を表わす。以前。昔。ある時。③まだ起こらない事について、それは実現しないだろう、また、実現させるべきではない、という否定を表わす。どんな事態になっても。ちょっとでも。

 *テキストでは、①か➂。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)「日本書紀」の古訓や訓点本などにみられるが、上代の文献で仮名書きの例は見当たらない。「万葉集」では「都」と「曾」の文字がカツテと読まれている。

(2)「都」は本来、すべての意であるが、打消の語を伴って完全否定のような用いられ方をし、「曾」は以前の意で「嘗」と通用して使われる一方、打消の語とともに用いられて「都」同様、否定の強調に使用される。

(3)この語は平安時代では漢文訓読に用いられ、和文では、「つゆ」が用いられる。カッテと促音に読むのは近世以後のことである。>とある。

(150-4)「無御座候」:「無」が極端に平になっている。また、「御」と接近している。

(150-5)「手合利(てごうり)」:手行李。行李は、携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。それより少し大きいものは旅人たちの振分荷物を入れるものとして手行李とよばれた。江州水口では小さな精巧な真藤製品がつくられ、同高宮や山城でも同じく真藤製品が名産、但州の豊岡・出石と因州用瀬は柳製品の産地である。現在では兵庫県豊岡市(柳行李)、静岡県御殿場市周辺(竹行李)などで生産されている。

(150-6)「差図(さしず)」:「差図」は、本来は、地図・絵図・設計図をいう。また、建築の簡単な平面図をいう。設計のため、あるいは儀式などの舗設を示すために描いたもの。平安時代の日記類には指図が多く描かれていて、風俗史・住宅史の貴重な史料となっている。なお正倉院蔵の東大寺講堂院の図はこれに類するもので、建築の平面図として最古のものである。

 *テキストでは、物事の方法、順序、配置などを指示すること。指揮すること。また、その指示・指揮。命令。現在では、「指図」が一般的。

 *「差図」の「図」:くずし字では、「囗(くにがまえ)」の縦棒を、最後に、左右に「ヽ」を書く場合がある。


5月 町吟味役中日記注記

                                       

4月学習テキストP1403行の「左近将監」の注記について>

◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。

◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。

・近衛府の4等官名・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)

・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)

 

5月学習分>

(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く

書簡文に用いる。

(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。

(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。

(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。

当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。

(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。

(141-5)已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では

助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ

り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。

(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。

    *「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。

(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)

*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。

(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。

(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。

(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。

(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。

(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。

    *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

     <(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

    *「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。

(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。

(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。

    *「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。

    *「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。

    *「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。

    *常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)

    *常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」

(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。

(144-2)「一体(いったい)」:もともと。

(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。

(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。

(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。

(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。

『蝦夷嶋巡行記』5月学習分注記  

     

4月例会での意見について>

P142.3行「折居神は、姥の娘」か、「姥の始」か。

・影印は、「娘」とする。

・姥神大神宮の由来については諸説あり、「於隣(おりん)」なる姥のお告げで、ニシンが群来して人々を飢えと寒さから救い、以来、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀ったと云われている説、老夫婦説もある。「娘」説は見当たらない。「姥の始」も、「姥が始」とすれば、意味が通じなくもない。しかし、影印は「娘」として、ここは「姥の娘」と見る。

 

<5月学習分> 

22-1)「語者有」の「語」・・旁の「吾」の脚部の「口」が「ニ」のようになる。

22-1)「彼か(が)家」・・彼の家。「が」は、格助詞。

22-2)「さも」・・「佐」は「さ」。「さも」は、副詞「然(さ)」に助詞「も」が付いた連語。いかにも。まことに。

22-3)「忍びかね」・・「ひ(び)」は「飛」、「か」は「可」、「ね」は「年」。

     *変体仮名「年(ね)」・・最終画を上に円を描くように跳ね上げる。

      4行目「去年」の「年」、6行目「年々」の「年」など。

22-3)「持合居たる」の「た」・・字源は「多」。上部の「夕」が小さく、下部の「夕」が大きく、「両」のくずしのようになる。極端にくずすと「こ」になる。

223.4)「三右衛門トも」・・「トも」は「共」の意か。

22-4)「門送(かどおくり)」・・人を門口まで見送ること。葬式の時、死者の家へ行かず、自分の家の門に立って棺を見送ること。

22-4)「駒(こま)」・・子馬、小さい馬。牡馬をさしていうこともある。転じて、馬の総称。

22-4)「別而(べっして)」・・副詞。格別であるさま。特に。とりわけ。

     *「別方(べっしてかた)」・・特別に親しくしている人。別懇の方。

     *「別者(べっしてもの)」・・特別に親しくしている者。特に懇意な者。

22-5)「所々(しょしょ・ところどころ)」・・あちこと。ここかしこ。

22-6)「ふせぎ」・・「婦」は「ふ」、「世」は「せ」、「幾“」は「ぎ」。

23-1)「船橋(ふなばし・ふねはし)」:多数の船を横に並べて綱または鎖でつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの。橋梁のかけにくい河川に恒久的に設けるものと、橋梁のない河川で臨時に設けるものがある。浮橋。

     *「船橋」のランキング・・江戸時代後期における日本の橋の長さを並べた番付表『日本大橋尽』にある船橋では、「越中船橋」(65艘・現富山市・神通川)が65艘、ついで南部船橋(48艘・現盛岡市・北上川)、3位は「越前船橋」(48艘・現福井市・九頭竜川)が上位にある。

     *千葉県船橋市・・船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し、橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。

     *越前船橋・・九頭竜川に架かる越前船橋について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』に、

     <「越藩拾遺録」は「凡此川幅百五間余、橋ノ長サ百二十間、鎖五百二十尋、舟四十八艘、浦々ヨリ出スニ、イロハノ印ヲナシテ今ニ至リテ毎年修理ヲ加フ」と記し、次のようにある。

所謂いノ印二艘泥原新保浦、ろ一艘和布浦、は一艘蓑浦・松蔭浦、に一艘長橋浦、ほ一艘菅生浦・鮎川浦、へ二艘大丹生浦・小丹生浦、と一艘大味浦、ち三艘蒲生浦・茱崎浦、り一艘居倉浦、ぬ半艘左右浦、る一艘半玉川浦、を三艘海浦、わ二艘宿浦、か二艘新保浦、よ一艘小樟浦、た一艘大樟浦、れ二艘道口浦、そ一艘厨浦・茂原浦、つ一艘高佐浦、ね一艘米浦、な一艘糠浦、ら一艘甲楽城浦、む一艘今泉浦、う一艘河野浦、ゐ一艘池ノ平浦、の二艘大谷浦、お三艘三国浦・宿浦、く一艘米ケ脇浦、や一艘安島浦、ま一艘崎浦、け一艘梶浦、ふ一艘浜地浦、こ一艘波松浦、え二艘北方浦、て一艘半浜坂浦、あ一艘半吉崎浦、以上四十八艘、藤縄ハ国中在々ヨリ出シ丸岡領ハ代物ニテ出ス。鋪板百十組、行桁八十六間、長板三十六間但長三間、亘一尺五寸、厚四寸福井領ヨリ出ス。大水ニテ橋流レタル時、他領ニテ留レバ舟一艘ニ鳥目二百文、鋪板一組ニ百文、行桁一本ニ五十文ヅツ、福井領ハ舟一艘ニ人足二人、鋪板一組ニ人足一人、行桁一本ニ人足半人ヅツ下サルル定ナリ>とある。

23-1)「大茂内村(おもない・むら)」・・現乙部町のうち。近世から明治初年の村。小茂内(こもない)村の北、突符(とつぷ)川流域に位置する。『松前島郷帳』には「大もないむら」、『天保郷帳』には「大茂内村」とある。『渡島日誌』には、「大茂内村、突符村分、八十八軒。文化度四十五軒。従小茂内三丁五間。産物同前。鎮守熊野社並て天満宮、傍に清順庵と云道場有」とある。「松前随商録」には「ヲウモナイ」として「運上場、小名トツフ・ヲカシナイ・ミツヤ・川シラ」とあり、突符(とつぷ)村・三谷(みつや)村・蚊柱(かばしら)村などをも含んでいたようである。旗本領であったため、天明年間(1781~89)に松前藩領の小茂内村と村境相論が発生。文化5年(1808)には本村の宮歌村の定住者と当村への出稼者との間で税負担をめぐり争論が起きている。

23-3)「桑林」・・影印の「桒」は「桑」の異体字(俗字)。

23-4)「往来は船に而往来せしか(が)」・・最初の「往来」は、「往古」で、「往古は船に而往来せしか(が)」か。

23-5)「如斯(かくのごとく)」・・「如斯」と返読する。「如」のくずしは「め」「そ」「ち」のように、極端にくずれる場合がある。下は『くずし字辞典』より

24-1)「三谷村(みつや・むら)」・・現乙部町三ツ谷(みつや)。町の北部。西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「清水川越て三ツ谷村、人家六十二軒。文化度は三十五軒也と。産物鯡、鱈、烏賊、鮑、海参、昆布、海苔、雑漁多しと。浜形酉向、西に宮歌岬。左りヲカシナイ岬、其間一湾をなしたり。」とある。

24-2)「瓦崎」・・影印は「瓦」に近い。「シビノウタ」か。『渡島日誌』には、「シビノウタ、小川、人家有、従是本道は九折を上りて野に出る。此処に境目、岡道有。傍にスボの社、所祭諏訪社也。是諏訪の訛かと思はる。」とある。また、『罕有日記』には、「シビ崎、スワ崎ともいう。」としている。

24-2)「ゑワ崎」・・武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』に「イワサキ」が見える。

24-4)「蚊野村」・・「蚊柱村(かばしら・むら)」か。現乙部町のうち。『松前島郷帳』には「かはじら村」、『天保郷帳』には「蚊柱村」とある。『渡島日誌』には、「蚊柱村、人家八十一軒。文化度五十四軒。従三谷村三十一丁廿間。浜形戌向。上は崖、浜には磯多く、其間に小船懸るに宜し。産物前に同じ。」とある。

24-5.6)「相沼内(あいぬまない)」・・現八雲町熊石相沼町。町の南部。南境を相沼内川が流れ、南西は日本海に面する。『天保郷帳』には「相沼内村」とある。『渡島日誌』には、「相沼内村、人家百六十二軒。文化度百八軒。従蚊柱村一里三丁。~中略~。名義は蕁麻多沢(アイウシナイ)との儀なり。*蕁麻=いらくさ・からむし」、「浜形酉向、左ヲリト岬、右黒岩岬の間一湾となりて砂利場。処々暗礁有て小船懸り宜し。土産蚊柱に同じ。」とある。

25-3)「泊り川村(とまりかわ・むら)」・・現八雲町熊石泊川町。『松前島郷帳』、『天保郷帳』ともに、「泊川村」とある。旧熊石町の南部。北東は旧八雲町に接し、南西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「泊川村、人家二百六軒。文化度八十六軒。従相沼内七丁五十六間。浜形相沼内に同じく、土産も同じ。」とある。

25-3)「境権現(さかいごんげん)」・・『渡島日誌』には、「是立岩権現とも、また境権現とも云」とある。

25-4)「水かれて」・・「可」は「か」、「連」は「れ」。「水涸れて」の意。

25-5)「うかち」・・「宇」は「う」、「可」は「か」、「知」は「ち」。「穿(うが)つ」の連用形。

261.2)「幅四十間の河」・・見市川(けんにちがわ)。「渡島日誌」には、「見日川、川巾二十余間、急流、石川なり。雪融頃は時々怪我人有。此辺りえは渡し船を備置度事也」とある。

26-2)「熊野村」・・「熊石村」か。現八雲町熊石。昭和387月版の『北海道市町村行政区画便覧』の熊石町の「開基及び沿革」にいると、「アイヌ語「クマウシ」(魚乾竿のある所)より転訛したものである。遠く宝徳年間(1449~1452)より和人が居住していたが、寛保元年(1741)の大海嘯のため全村が全滅し、延享元年(1744)に佐野権次郎江差より移住してより再び移住者を見るようになった。享禄2(1529)本村を雲石と称したが、元禄5(1692)5月熊石村と改称された。」とある。『蝦夷日記』には、「熊石村泊、松前より三十二里、家数五十七軒、人数二百拾六人。当所は蝦夷地の境なり。クドウ場所迄海上五、六里。風待にて二日逗留。」とある。

      『渡島日誌』には、「熊石村役所、従泊り川村二里十丁五十間。従江指御役所下川々除き九里二十七丁二十三間。従松前沖ノ口役所二十六里二十丁四十間。人家三百二十六軒、文化度百九十一軒。元はクマウシと云し也。訳して鯡棚多し(クマウシ)の儀。鯡棚一面に架れば如此号し也。」とある。

      また、『角川日本地名大辞典』によれば、「江戸期の熊石村の町域には、元禄13年の『松前島郷帳』には、あいの間内村、泊川村、見日村、くま石村、ほろむい村。『天保郷帳』には、相沼内村、泊川村、熊石村がみえる。文化年間(1804~18)の記録によると、地内には相沼内、泊川村、見日村、熊石村、関内村の5集落がある。」としている。

      この外、熊石地内から、縄文期の大洞式の注口土器とともに、頭、手、胸、下腹部に白色メノウ(瑪瑙)5個を挿入した土偶が出土しており、国内では例がなく「メノウ入り土偶」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されている。

26-5)「突兀(とっこつ・とつこつ)」・・山や岩などの険しくそびえているさま。

26-6)「そひへたる」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「多」は「た」。「聳えたる」

26-6)「雲石」・・『渡島日誌』には、「雲石、沖中二丁に有。と云石有。」と「石」にしている。なお、奇岩「雲石」は、現八雲町熊石雲石(うんせき)町内に所在する。

4月 町吟味役中日記注記 2018.4.9

(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』4月学習分注記

3月学習分の補足>

○P12―1行「上の國河」・・注記で「天ノ川のこと」としたが、「天の川とは別に、上の国川がある」との意見があったが、テキストでいう「上の國河」は「天ノ川」のこととする。
①天ノ川の河口に近い処に、北から入ってくる支流に目名川があり、「上ノ国目名川」があるが、「上ノ国」を冠したのは、目名川が、南部の石崎川、北の厚沢部川にもあることからと思われる。(山田秀三著『北海道の地名』)

  ②次の行に「幅凡八拾五間計」とある。150メートルを超えるから、支流の「上ノ国目名川」では広過ぎるので、本流の「天ノ川」を指すと思われる。

○P12―4~5行「三間四面」・・堂の規模を表し、三間四面は桁行三間の母屋(もや:中心部の柱の高いところ)に四面の庇(ひさし:母屋の外側にある柱の低いところ)が付く構造。

17-1)「老賤(ろうせん)」・・身分の卑しい老人、年寄。

17-1)「聞(きく)」・・「聞」のくずし字。

17-1)「物語(ものがたり)」・・話。談話。あるまとまった内容のことを話すこと。

17-3)「真菰(まこも)」・・「真薦」とも。「ま」は美称の接頭語。イネ科の大形多年草。各地の水辺に生える。高さ1~2㍍。地下茎は太く、横にはう。葉は線形で長さ0.51㍍。秋、茎頂に円錐形の大きな花穂を伸ばし、上部に淡緑色で、芒(のぎ)のある雌小穂を、下部に赤紫色で披針の雄小穂をつける。黒穂病にかかった幼苗を「こもづの」といい、食用にし、また、油を加えて眉墨をつくる。葉で、「むしろ」を編み、「ちまき」を巻く。

17―4)「語(かたる)」・・話してきかせる。ある事柄をよく説明する。

17-5)「甚(はなはだ)」・・「甚」のくずし字。

17-5)「うとき」・・「疎い」(形容詞)の連体形。よく知らないこと。事情に暗いこと。

17-6)「蒔様(まきさま・まきよう)」・・種子の蒔く方法、やり方。

17-6)「宛(ずつ)」・・「ずつ」の本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。「宛行扶持(あてがいぶち)」など。

     *「宛」の音読み・・「エン」。熟語に「宛転(エンテン=ゆるやかにめぐる。女の眉の美しいさま)」など。

     **宛転蛾眉能幾時  宛転たる蛾眉(がび)、能(よ)く幾時(いくとき)ぞ、

須臾鶴髪乱如絲  須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)、乱れて糸の如し。

[すらりとした美しい眉の美人も、いつまでそのままでいられようか。たちまちにして白髪が糸のように乱れたおばあさんになってしまうだろう。]

       ***「年年歳歳花相似」(年年歳歳 花相似たり)の名句がある唐の詩人・劉希夷(りゅうきい)の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)より。

P18―P16と重複)

19-1)「抜透(ぬきすか)す」・・①すき間なくつまっているものから間が透くように抜き取る。まびく。うろぬく。おろぬく。②刀を、鞘(さや)から抜きはずす。また刀を鞘から、ちょっと抜く。

     テキストでは、①

19-1)「ぬき搤(と)る」・・引き抜いて取ること。間引きすること。

19-1)「鍬(くわ・すき)」・・「鍬」の国訓は「くわ」で、土を掘り起こす農具をさす。一方、「鋤(すき)」は、田を耕し除草する農具をさす。また、国訓の「鍬(くわ)」は、「田畑を耕すのに使う農具で、長い柄の先に土を掘り起こす刃の部分を取り付けた物」をさし、「鋤(すき)」は、「幅の広い刃に柄を付けた櫂状の農具(スコップ・シャベルの形状)で、手と足で土を掘り起こすのに用いるもの」とする辞書もある。

19-2)「たすけもかけす」・・「多」は「た」、「須」は「す」、「希」は「け」、「可」は「か」、「春」は「す」。『日本国語大辞典』によると、「たすけ」には、「畑の肥料、緑肥」の意があることから、ここでは、「たすけもかけす」は、「畑に肥料を施さない」意か。

19-4)「は」・・変体仮名「盤」。

19-5)「土橋村(つちはし・むら)」・・現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「蝦夷日誌」(二編)には土橋村が二村記され、泊村(現江差町)支郷の「土橋村」は目名村の南、広い沢地に人家が一三軒ばかりあり、「土橋ハ皆支郷の惣名にして、惣而此名何村の土橋、何村の土橋と書て有也。土産、鮭、其外畑物多し」とし、目名村支郷の土橋村については「人家四十軒計。畑多し」とある。

19-5)「どば村」・・「土場村」。現江差町柳崎(やなぎざき)町。『天保郷帳』には、伏木戸村の枝村として「土場」の名が見え、安政六年(1859)に、「柳崎村」に改称されている。江差町の北部、厚沢部川の下流域に位置し、東の一部は、厚沢部町に接し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「追分有、右厚沢部、左土場道、凡半里計にして土場村、人家十二三軒小商人有、是安野呂村の分也。」とある。『罕有日記』には、「田沢村より山路に入て平坦畳の如し。半里にて土場七八軒の家立あり、近村より耕作のため家作りいたす。数村の寄集りなりと。」とある。

    近世から明治初年まで存続した村。伏木戸村の北に位置し、南東から東にかけては目名村・厚沢部村(現厚沢部町)、北東は鰔川(うぐいかわ)村。西は日本海に面する。「つちば」とも訓じる(行程記)。厚沢部川河口に位置する当村は、江戸時代に上流で伐採された木材の貯木場(土場)として集落が形成されたところと推定され、現在土場・川袋という小字地名が残る。

19-6)「厚沢部川(あっさぶがわ)」・・二級河川。流路延長43.5㎞。支流には、目名川・安野呂川・鶉川など11の河川を持つ。また、厚沢部川は、重臣松前蔵人の給地として、江差商人が最初50両、後100両と生鮭100尾の運上で請け負って鮭漁にあたった場所。『渡島日誌』には、厚沢部川と安野呂(あんのろ)川について、「大川端に出る。此処二股也。右本川、厚沢部川と云、此方少し大きし。左を安野呂川と云。両川とも巾十余間、遅流にして深し。~。此処操船にて越る。」とある。『罕有日記』には、「アツサブ川五拾間の川幅にて、繰船にて渡る。馬も同断。」とある。

    なお、松浦図には、本流を「アンヌル川」としている。

20-1)「溝川(みぞがわ)」・・水を流すために地面を細長く掘ったような川。どぶ川。

20-2)「つまの湯」・・江差町五厘沢町に所在する「五厘沢温泉」。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「乙部村分郷に五輪沢村という有。此処ツマノ湯という温泉あり、諸病によろし。」とある。『渡島日誌』には、「温泉場、小流右の方に入り、一丁。湯守一軒、上に薬師堂あり。是を乙部の湯と云へども、境はまだ先なり。此湯を見附しもの乙部の者なれば如レ此号しか。開きしは松前家々臣蠣崎蔵人先祖なりと伝ふ。」 

     とあり、武四郎は、「つまの湯」を「乙部の湯」としている。『罕有日記』には、「路の傍らに、つまの湯とて温泉あり、浴室四五軒あり」とある。

20-2)「痰症(たんしょう)」・・漢方で体液の異常分泌および水分代謝障害一般をさすが、狭義では胃内停水をいう。痰飲。痰病。

20-3)「印(しるし)」・・ここは、「印」と同源の「験・徴」の意で、御利益。ききめ。効能。

20-4)「分郷(ぶんごう)」・・村内の一つの集落を指す。「郷」は、昔の行政区画の名で、「郡」の下の名称であるが、郷飲酒などを行う一つの単位である村落も「郷」というようになった。(『角川漢和中辞典』)

20―5)「こりん沢」・・現江差町五厘沢町。町の北端。北は、乙部町に接し、西は日本海に面する。五厘沢川下流北岸段丘に温泉(五厘沢温泉)が湧出している。

20-6)「せもない村」・・『罕有日記』には、「瀬茂内」とある。『渡島日誌』には、「シモナイ、人家三四軒など有」と、「シモナイ」に作る。

20-6)「在家(ざいか)」・・いなかの家。「ざいけ」と読めば、普通は、出家しない、在俗のままで仏の教えに帰依すること。また、その人や家をさす。

21-1)「乙部村(おとべ・むら)」・・現乙部町。北海道南西部、桧山地方の中央部に位置し、北は熊石町、北東は八雲町、東は厚沢部町、南は江差町に接し、西は日本海に面する。近世、はじめ松前藩領、次いで幕府領、松前藩領という変遷を繰り返し、明治2(1869)まで、松前藩領西在江差付村々に属した。また、当町域として、元禄13(1700)の『松前島郷帳』には、「乙部村、小茂内、大もない村、とつふ村、みつ屋村、かはじら村」が、『天保郷帳』には、「乙部村、小茂内村、大茂内村、突符村、三ツ谷村、蚊柱村」の名がみえる。

     『渡島日誌』には、「乙部村、人家三百四軒、文化度百九十軒。一条町にて漁有、畑作又船持等有。~中略~、此村往昔松前家臣下国図書の給地なりと。」とある。

21-1)「羆(ひぐま)」・・大型のクマ。北海道には、ヒグマの一亜種エゾヒグマが生息する。

21-2)「巡見(じゅんけん)」・・警戒、監督などのため、ある場所を見て回ること。江戸幕府が特使を派遣して御料(幕府領)、私領の施政や民情を査察させること。諸藩にも同様の施策があり、巡見と称した。

21-2)「行懸(いきかか・ゆきかか)り」・・移動する際に、ある場所を過ぎようとすること。さしかかること。

212.3)「追退(おい・しりぞけ)たり」・・追い払ってしまうこと。撃退してしまうこと。

21-3)「あやうき」・・「阿」は「あ」、「也」は「や」、「宇」は「う」、「幾」は「き」。形容詞「危うい」の連体形。

21-3)「船橋(ふなはし・ふなばし)」・・船をつなぎ並べ、上に板を渡して橋としたもの。浮き橋。

21-5)「小茂内(こもない・むら)」・・現爾志郡乙部町字鳥山・字富岡。近世から明治三五年(一九〇二)までの村。乙部村・相泊村の北、西流して日本海に注ぐ小茂内川流域に位置する。北は突符(とつぷ)村。『渡島日誌』には、「小茂内村、人家五十四軒。文化度三十七軒。従レ乙部村二十九丁。産物乙部に同じ。」とある。

21-6)「百性(ひゃくしょう)」・・柏書房の『古文書くずし字500選』には、「性」は、「百姓」の「姓」と混用されたもので、古文書では、「百性」が頻出するとある。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018年4月9日(月)13時~16時   

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の記録。

  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

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