森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

10月 町吟味役中日記注記

 (162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-3)「二十四才」の「才」:「才」は、川のはんらんをせきとめるために建てられた良質の木の象形で、転じて、もともと備わっているよいもちまえのの意味を表す。うまれつきの能力、素質。

 *俗に年齢の「歳」代用する字。テキストは本来は「歳」が正しい。

(162-3)「五戸(ごのへ)」:現青森県三戸郡五戸町。五戸川の中流左岸の沖積低地と右岸の丘陵地に位置する。東は兎内(うさぎない)村、西は石沢村、南は扇田(おうぎた)村、北は伝法寺(でんぼうじ)村に接する。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-5)「八戸(はちのへ)」:青森県の東南部に位置する。馬淵(まべち)川と新井田(にいだ)川の最下流部に挾まれた低平地に位置し北東部は太平洋に面している。寛文4年(1664)南部直房が八戸を城下とする八戸藩二万石を創設した。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府(しらふ)村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。

(164-1)「酌取女(しゃくとりおんな・しゃくとりめ)」:酒席に出て酌をする女。酒興を添え酒を勧める女。酌婦。しゃくとりめ。

(164-2)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸。

 *テキスト影印の「力」は「刀」のように見える。

(164-2)「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(164-6)「黒石(くろいし)」:青森県西部、弘前市の東方一四キロの所にある市。奥羽山脈の西麓、津軽平野の東南端にあり、岩木川の支流浅瀬石川に沿うている田園都市である。中世工藤貞行の領地であったがのち南部領となり、戦国時代末期に津軽領となった。明暦2年(1656)以来、津軽氏の支族津軽信英の所領となり、その子孫津軽親足が文化6年(1809)一万石の諸侯となったとき、その城下町となった。

(164-9)「小杦」の「杦」:『漢語林』は国字とする。「杉」の旁「彡」を書写体に従って「久」に改めたもの。

(166-1)「揚屋(あがりや」:江戸時代の牢屋における特別の部屋。幕府の小伝馬町牢屋では収監者を身分によって分隔拘禁したが、武士を収容するのが揚座敷(あがりざしき)と揚屋である。500石未満の御目見以上直参(じきさん)の武士は揚座敷、御目見以下の直参、陪臣は揚屋に入れ、僧侶、神職も格式により揚座敷、揚屋に分けた。いずれも雑居拘禁であるが、揚座敷に比べると揚屋は食事をはじめとする処遇、牢名主の支配など、実情は庶民の牢とそれほど差異はない。幕府の地方の牢,藩の牢なども,武士を庶民と区別して収容した。

 *「揚屋」を「あげや」と読めば、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。

(166-2)「出物(でもの)」:吹出物。おでき。

(166-2)「膏薬(こうやく)」:1 あぶら・ろうで薬を練り合わせた外用剤。皮膚に塗ったり、紙片または布片に塗ったものを患部にはりつけたりして用いる。軟膏と硬膏があり、ふつう硬膏をいう。

漢方薬の濃い煎液に砂糖などを加え、あめ状にした内服薬。

(167-1)「披見(ひけん)」:文書などをひらいて見ること。

(167-3)「唐津内沢(かわつないさわ)」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。


『蝦夷嶋巡行記』10月学習分注記  

*9月学習分について:編纂会で話し合ったが、結論を得なかった部分。

(38-1・割注右)

 1.「ふとくり也。くしや」

 2.「ふとくかたく、しやも」

 3.「ふとく、かたくしやも」

(38-1・割注右のルビ) 

1. 「ヒトラリ」

2. 「ヒト・フリ」

(38-1・割注左)

 1.「いちんまいいちんまい」

 2.「いちんまいまい」

(38~4)

 1.「矢ひと」(やひと)

 2.「矢比計」(やごろはかり)

 3.「失ひ計」(うしないばかり)

(38~5)

 1.「辺」

 2.「迄」

 

*10月学習

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

(42-2)「ブヨ」・・アイヌ語。穴。「プイ(pui)(puy)」。因みに、人為的に掘った穴は、「スイ(sui)」とも。

(42-2)「シヤ」・・アイヌ語。石。「シユマ(shuma)」、「スマ(suma)」。

(42-4)「二(ふたつ)の川」・・太櫓川と後志利別川か。

(42-4)「セタナイ」・・現せたな町瀬棚区。漢字表記地名「瀬棚」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名や場所名としても記録されている。

 「天保郷帳」には、「セタナイ持場の内」に「セタナイ」が見える。『廻浦日記』には、「セタナイは、此澗の惣名にて犬沢と云訳也。昔し、山より犬、鹿を追出し来り、此澗に入て死せしと云伝え、則本名はセタルベシナイなるを略せしと云。」とある。

 山川地理取調図には「エンルンカ セタナイと云」とある。

(42-5)「数奇」・・「数丁」か。

 


9月例会は、予定通り実施します。

地震、大丈夫でしたか。
エルプラザが明日、9日から通常通り営業します。
したがいまして、札幌歴史懇話会の9月例会は、9月10日(月)13:00から予定通り実施します。

よろしくお願いします。

『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記 

『蝦夷嶋巡行記』9月学習分注記           

(37-1)「守(まもり)之やくにたつ物」・・「耳」は「に」、「多」は「た」、「川」は「つ」。「守之役にたつ物」とは、防御の役に立つ物(刀)の意。

(37-1割注右)「かんしやり〔カサリ〕」・・飾り。ルビは「カサリ」。「志」は「し」。

(37-1割注右)「ふとくり也」・・刀剣の本数を数える際にもちいる「一振り」か。「婦」は「ふ」。ルビは、「ヒト・フリ」。「ト」と「フ」間の点は中黒の「・」か。

(37-1割注右)「くしや」・・「草」のこと。ルビは、「クサ」。

(37-1割注右)「きれしない」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」。「切れない」こと。

(37-1割注左)「ぬきはなし」・・「怒」は「ぬ」、「幾」は「き」、「者」は「は」、「奈」は「な」。「抜き放す」のこと。

(37-1割注左)「見する」・・「春」は「す」。「見せる」こと。

(37-1割注左)「鈍刀(どんとう、なまくらがたな)の赤鰯(あかいわし)」・・「赤鰯」は、赤くさびた刀をあざっけていう言葉。「鈍刀=なまくら刀」を強調して言う。

(37-1割注左)読み方①「いちんまい(く=繰り返し記号・いちんまい=」・・「一枚一枚」。「いちんまい」の「ん」は、語中または助動詞に続く場合に挿入されて語調を強めるために用いられる。ただ、本書は、矢のことを述べているので、ここでは、「一本一本」の意として用いたか。ルビは「イチル」か、または「イチン」か。

 *読み方②「まいまい毒」・・マイマイカブリの毒のことか。

(37-2割注右)「烏頭(うず・とりかぶと)」・・トリカブトの根。有毒でアコニチンを含有。「鳥兜」「鳥冠」「附子(ぶし)」とも。トリカブトの分布は、本州中部以北に多く生息し、また北海道の山野に自生する多年草。トリカブトは、全草が有毒であり、特に地下の根の部分は毒性が強く、アイヌの人々は、毒性の強いオクトリカブトとトウガラシを微妙に調合し、十勝石の矢じりに矢毒を塗り、熊などを捕獲する術とした。

(37-2)「口(くち)蝦夷」・・吉田東伍著『大日本地名辞書』所収の『蝦夷草紙』(最上徳内著)には、「松前所在島、一国の内、地方を考ふるに、其形親疎の二儀あり、~略~、依て口蝦夷(クチエゾ)と奥蝦夷とを弁ふべし。~略~、口蝦夷とは、東海岸に於て勇払以南を指し、西岸には石狩以南に汎称したり。」とある。

(37-4)「甲斐(かい)なき」・・「甲斐ない」は、ききめがない。努力してもそれだけの結果が得られない。むだ。ふがいない。

(37-5)「好めは」・・「盤」は「は」。「好む」の已然形+接続助詞の「ば(逆接の確定条件。「~のに」の意)」。「注文したのに」、「望んだのに」の意。

 

 

 

 

 

(37-6)「海中を望」の「望」・・「望」は決まり字。

 *「臨はそのような姿勢で下界に臨むことをいう。下界よりして高く遠く望むことを望という。」(『ジャパンナレッジ版字通』)

(37-6)「頓而(やがて)」・・そのまま。すぐに。ただちに。

(38-1)「引きしほり切て」・・「志」は「し」、「保」は「ほ」。「引き絞る」の連用形+「切る」の連用形。「切る」は、動詞の連用形について、最後まで~する。~し終えるなどの意を表す。「引きしぼり(絞り)切(きり)て」は、「(矢を弓につがえて、弦を)ぎりぎりまで引いて」の意。

(38-1)「たかわす」・・「太」は「た」、「可」は「か」、「王」は「わ」。「違わず」。

(38-2)「内外(うちそと、ないがい)」・・その程度の数量であることを示す。「十間之内外」は、十間(18.2㍍)程度。

(38-2.3)「ふみつめて」・・「婦」は「ふ」、「三」は「み」、「徒」は「つ」、「女」はめ」。「踏み詰めて」は、相手を窮地に追い詰めること。

(38-4)「運上屋え帰る」・・「え」は「衣」の変体仮名。

(38-4)「蚤(のみ)」・・隠翅目に属する昆虫の総称。

(38-5)「蚊(か)」・・双翅目カ科の昆虫の総称。

(38-5)「昼(ひる)」・・「蛭」か。蛭は、ヒル綱に属する環形動物の総称。

(38-5)「虻(あぶ)」・・双翅目アブ科の昆虫の総称。同字に「蝱」がある。

(38-5)「足たか蜘蛛」・・クモの一種。体長は、雄は25㎜内外、雌は30㎜内外。体は、灰褐色で脚が長く、伸ばすと10cm位になる。

(38-5)「げぢげぢ」・・「げじげじ」。「ゲジ」の俗称。「蚰蜒(げじ)」は、ゲジ目の節足動物の総称。体は、短棒状で2~7cm。青藍色ないし黒褐色で、15対の細長い足がある。

(38-5.6)「挟虫(はさみむし)」・・「鋏虫」か。「鋏虫」は、革翅目に属する昆虫の一種。体長20㎜内外。尾端にはさみがあり、ごみや枯葉の下にすむ。

(38-6)「座中(ざちゅう)」・・集まった人々の中。

(38-6)「遥(さまよい)まはり」・・「さまよい(彷徨い)廻る」で、うろうろ歩きまわるの意。

 *「遥」に「さまよう」の訓があり、「うろうろする」「そぞろ歩く」の意にもなる。

(39-3)「そびえ」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「衣」は「え」。「聳え」。

(39-3)「水の色」の「色」・・決まり字。

(39-3)「藍(あい)」・・「藍色」のことで、暗い青色。

(39-4)「ホクシ」・・『東西蝦夷地山川取調図』には「ホクシ」、『廻浦日記』には、「(中ホウシ)~並て岬を廻り、ホウ(ク)シ」とあり、国土地理院の20万分の1の地図には、「帆越岬」の名が見える。

(39-4)「中ホクシ」・・『廻浦日記』には、「此処を当時境目とす(是よりフトロ境目也)。其名ホウシはホヲロシの訛にて、通行の船々此処にて帆を卸て霊を拝する故に号しものかと思はる。」とある。なお、永田方正の『北海道蝦夷語地名解』には、「ポロポクウシ、大蔭大崖の下と云う義なり。」とある。

(39-5)「大田山」・・久遠郡せたな町字太田にある太田神社。太田山(四八五メートル)の西麓に鎮座。旧郷社。祭神猿田彦神。近世以来日本海を望む断崖絶壁にそびえる太田山は神の宿る山として信仰され、山上に大日如来など仏像が安置され、太田山権現とも称された。明治初期の神仏分離により仏像・仏具を廃して猿田彦神を祀り現社号に改称した。

勧請は嘉吉元年(1441)から同四三年頃と伝え、享徳3(1454)松前家始祖武田信広が太田に上陸し、太田山権現の号を与えたというが不詳(大成町史)。近世前期から道南の霊場として信仰を集め「北海随筆」に「西は太田山、東は臼ケ嶽とて信心の者は参詣するなり」と記される。「東遊記」に「ヲヽタという所に大日如来立せ給ふ。(中略)円空法師と言人、この所へ来りて仏像を多く彫刻し、みづから険阻をふみわけて所々に安置」したと記される。「西蝦夷地場所地名等控」には「ヲヽタ山大権現太田山之嶺ヨリ下ニ在。此所迄日本回国之者并ニ男女共世人共為菩提参詣仕候。至而嶮岨成山ニ御座候」とある。文政元年(1818)洞窟内に祠を建て不動明王を安置、天保5(1834)大日堂建立(大成町史)。松浦武四郎は帆越ほこし岬を通る船はみな「大田山(権現)を拝す。又夷人は此処にて必ヱナヲを海中ニ投じて大田山を拝し、海上安全を祈る」と記し(「蝦夷日誌」二編)、安政3(1856)当地を訪れ岩壁の下から鉄鎖で「攀る事十余尋、洞口に到(中略)架中に半鐘・仏具を置く。俯見白波撃崖(中略)偏に登仙の思をなし」たこと、僧宗倹がヒカタトマリに太田山参詣者のため拝殿(籠堂)を建て、また新道を開削していたこと、太田山の神は笛・太鼓・三絃などを好むこと、鳴物を宝前に納め順風を請うと霊験著しいとされたことを記している(廻浦日記)。大漁と航海の安全を祈って信仰されていた(板本「西蝦夷日誌」)。

明治27(1894)拝殿を改築し、社務所を新築したが、大正10年(1921)洞窟内を焼失。しかし同年中に再建し女人遥拝堂を新築。現在例大祭は六月二七・二八日に大漁と海の安全を祈り行われている。

(39-5)「仰望(あおぎのぞむ)」・・仰ぎ見る。頭を上げて遠くから見る。「仰ぐ」+「望む」の連語。転じて「より高いものを願い求める」「尊敬する」「うやまいしたう」の意にも。

 

 *仰望(ぎょうぼう)

  妻~曰、良人者、所仰望而終身也。今若此。(孟子『離婁(りろう)下』)

  [妻~曰く、良人なるは、仰して身をるのものなり。今此(かく)の(ごと)しと。]

  **離婁(りろう)・・中国の古伝説上の人。視力がすぐれ、百歩離れた所からでも毛の先がよく見えたという。

(39-5)「さかしき」・・「佐」は「さ」、「可」は「か」、「之」は「し」、「幾」は「き」。「嶮・険(さが)し」の連体形で、「けわしい」こと。

(39-6)「厳石(いわお・がんせき)」・・岩石。

(40-1)「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」・・江戸時代、諸国の寺社を参詣する巡礼又は遊行する者。

(40-1)「ちなみ」・・「因む」の連用形。関係を頼って物事を行うこと。縁につながること。

(40-2)「むゐの嶋」・・「ムイレトマリ」、「ウートマリないしモエレトマリ」の辺か。『廻浦日記』には「ムイレトマリ、人間にて鵜のトマリ云。此辺より人家有。此前海中に大岩三ツ有よって号なるべし。」とあり、また、『東西蝦夷地山川取調図』には、「ウートマリ、モエレトマリ」の名が見える。

(40-4割注右)「むゐ」・・アイヌ語研究者の多くは、「ムイ(mui)」を「箕(み)」としているが、萱野茂は、「①箕、②オオバヒザラガイ」、永田方正は、「①湾、②箕、③塞ル、④鮑肉の如くして貝殻なきもの(ヒザラガイ)」、上原熊次郎は、「①鮑肉の如く貝なし、②オオバヒザラガイ」と、魚介類の「オオバヒザラガイ=軟体動物多板綱ケハダヒザラガイ科」とするものがある。しかし、本書の如く「海鼠(なまこ)」、「海鞘(ほや)」などとするものはない。

(40-4割注左)「なまこ」・・「海鼠」。ナマコ綱棘皮動物の総称。アイヌ語では、「uta(ウタ)」。『松前・蝦夷地納経日記』や萱野茂の『アイヌ語辞典』、知里真志保の『分類アイヌ語辞典(動物編)』にある。ナマコの干物(煎海鼠―いりこ)は、俵物三品(煎海鼠、干鮑、鱶鰭)の一つとして、近世、長崎貿易の輸出産品。

(40-5割注右)「ほや」・・「海鞘」、「老海鼠」。海鞘綱の原索動物の総称。青島俊蔵の『蝦夷拾遺』には、「uyaka(ウヤカ)」、上原熊次郎の『藻汐草』には「①tabibi(たびび)、②totui(トツイ)」とある。

(41-1)「フトロ」・・現せたな町北桧山区太櫓。町の南西部。近世、寛政9(1797)まで場所の運上屋はキリキリにあったが、フトロに移転している。したがって、本書時(寛政10年)は、フトロに移転したばかりの時。『廻浦日記』には、「キリキリ、此処フトロの運上屋元也。フトロと云は是より七八丁北なる川端の砂浜を云也。」とある。

 

 

 

(41-2)「シヤム」・・「シサム(sisamu)」、「シシヤム(sisyamu)」、「シャモ(syamo)」か。

     以下、アイヌ語研究者の諸説を列挙する。

     田村すず子:シサム(sisam)~日本人(和人)沙流方言

     神保小虎:シサム(sisamu)又はシサム・シャモ(syamo)~和人

     中川 裕:シサム(sisamu)~和人

     大須賀るえ子:シサム(sisam)又はシャモ(syamo)~和人。シャモは和人への蔑視語。白老方言

萱野 茂:シサム(sisam)~①和人、②日本の

ジョン・バチラー:シサム(sisam)~①日本人、②外国人

永田方正:シシャム(sisyam)~①日本人、②和人

上原熊次郎:シシャム(-)~①人、②和人、③日本の(シサム)

(41-3割注右)「かく」・・「斯く」で副詞。このように、このとおりの意。

(41-4)「一眉」・・左右の眉毛が、一文字に繫がっている状態。

(41-5)「吃(きつ)」・・「喫」の当て字か。

 


9月 町吟味役中日記注記

                                    

(157-1)「嶋袷(しまあわせ)」:縞袷。二種以上の色糸を用いて、たて、またはよこ、またはたてよこに筋を織りだした織物。また、それに似た模様。筋の現われ方によって縦縞、横縞、格子縞に大別される。「嶋(島・縞)」の語源説に「南洋諸島から渡って来た物であるところから、シマモノ(島物)の略」がある。

(157-2)「飯鉢(めしばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。

(157-3)而巳(のみ)」:漢文訓読の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。 

 *夫子之道、忠怨而巳矣 (『論語 里仁』)

  [夫子(フウシ)の道は、忠怨(チュウジョ)のみ。]

  (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

(157-5)「前書」の「書」:決まり字。脚部の「日(ひらび)」が省略されている。

 *「書」の部首は「曰(いわく・ひらび)」部。「ひらび」は、平たい「日の字」の意。

  曲、更、曽、曹、最、替など。

(163-5)「小平沢町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。

(158-1)「最前(さいぜん)」:さきほど。さっき。いましがた。先刻。多く副詞的に用いる。

 *「最前」を「いやさき」と読めば、「最もさき。いちばんさき。」

 *「最前」の「最」は決まり字。

(158-1)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。本来は、軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。さらに、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

 「いぬき」と読めば、階下のいしだたみ。

*万葉集〔8C後〕一三・三三二四「九月(ながつき)の 時雨の秋は 大殿の 砌(みぎり)しみみに 露負ひて〈作者未詳〉」

 *ジャパンナレッジ版『字通』には、<〔説文新附〕九下に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。>とある。

(158-4)「出訴(しゅっそ)」:訴え出ること。提訴。

(158-5)「始末吟味(しまつぎんみ)」:事の初めから問いただすこと。「始末」は、始めから終わりまで。

(158-6)「利解(りかい)」:理解。

(159-6)「内済(ないさい)」:表向きにしないで、内々で事をすますこと。また特に、江戸時代、もめごとを裁判沙汰にしないで、隣村役人などの斡旋で話し合いにより事件を和解させること。和談。和融。

(160-4)「噺」:国字。『新漢語林』の解字には「口+新。耳新しいことを話す意」とある。

(160-5)「相談」の「談」:旁の「炎」の脚部は繰り返し記号の「ゝ」「々」のように省略される場合がある。

 *参考「渋」:

  ・昭和21年当用漢字表で「澁」が選ばれた。

  ・昭和24年当用漢字字体表で「渋」に字体整理された。

  ・現行常用漢字表ではいわゆる『康煕字典』体の活字として括弧内に「澁」が掲げられている。

  ・「澁」は、昭和56年に人名漢字許容字体となった。

  ・「澁」は、平成16年に人名漢字に追加された。

(162-35)「南部」の「部」:旁の「阝(おおざと)」のみに略され、さらに「P」「ア」のように見える場合ある。

(162-5)「花輪村」:現秋田県鹿野市花輪。鹿角盆地中央部、東西から山地が迫り盆地が狭まる所に位置。近世には盛岡藩花輪通の中心として、花輪館を中心に町並ができた。

(162-7)「鯵ヶ沢」: 津軽半島の西側基部、青森県西津軽郡にある町。地名の初見は天文5年(1536)であるが南北朝時代以前から部落が形成されていたことが部落内に散在する板碑によって知られる。赤石川上流四キロにある種里部落は弘前藩祖大浦光信入部の地である。江戸時代には弘前藩九浦の一つとして、町奉行がおかれ、東の青森に対し西の大港と称されて、大坂・蝦夷方面との交易が盛んであり漁港としても栄えた。

(163-2)「大沢村」:現松前郡松前町字大沢。近世から明治2年(1869)まで存続した村。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

(163-2)「宮ノ哥(みやのうた)村」:宮の歌村。現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。近世から明治39年(1909)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢(あじがさわ)から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。2~3年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。

 宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。

 蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。本税は直接藩に納入するが、付加税的な小物成は知行主に納めることになっていた。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。

(163-3)「白府村」:白符村。現松前郡福島町字白符。近世から明治33年(1900)まで存続した村名。近世は東在の一村で、白符川の流域、福島村の南に位置し、東は津軽海峡。白府村(支配所持名前帳)、白負(蝦夷草紙別録)などと記されることもあった。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば「白符之鷹待候ニ付、村名ヲ白符と申」と記す。

(163-3)「生符(いけっぷ)町」:現松前郡松前町字大磯・字弁天・字建石。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。上原熊次郎は「生府」の地名について「夷語イナイプなり。二タ胯の沢と訳す。イはイウゴヒ・イウゴテの略語にて、別れ又は繋くと申事、ナイは沢、プとは所と申事の略語なり」と記す(地名考并里程記)。

不動川と化粧けしよう川に挟まれた海岸沿いの町。東は博知石(ばくちいし)町、台地上は白川町。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」に「生府」と町名がみえる。呼称は「イケツフ」(「蝦夷日誌」一編)、「イゲツブ」(木村「蝦夷日記」)、「エケフ」(蝦夷喧辞弁)、「エケブ」(蝦夷迺天布利)など様々である。

 (163-4)「土橋(つちはし)」:現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「ツチバシ」(大小区画沿革表)、「ドバシ」(「町村別戸口表」市立函館図書館蔵)ともいう。当村は延宝2年(1674)に津軽から来た喜三郎が檜山稼と農業に従事したのに始まるという。

(163-4)「泊り村」:泊村。現江差町字泊町・字大澗町。近世から明治初年まで存続した村。片原町・オコナイ村の北に位置し、東は元山をはじめとした山地で、沢水を集めた泊川が西に流れる。西は日本海に臨み、泊川河口の湾は船泊り。

 (163-5)「碇町」:現檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。

(163-6)「新町」:江差村のうち。文化4(1807)の江差図に「中新町、北新町、川原新町」の地名が記載され、このころ北部の東方後背地に裏町として中新町、北新町、川原新町の地名が発生している。

(163-6)「津軽□別」:わかりません。


古文書解読学習会

              札幌歴史懇話会主催

 

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気

軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地

理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018年9月10日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(男女共同参画センター(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

    『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

    『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の紀行文。松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由の紀行

 

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp


8月 町吟味役中日記注記

         

(151-2)「取留(とりとまり・とりとめ)」:しっかりと定まること。まとまり。しまり。とりとめ。多く、否定の語を伴って用いる。

(151-2)「証拠(しょうこ)」:一定の根拠に基づいて、事実を証明すること。証明のよりどころとすること。また、その材料。証明の根拠。あかし。しるし。証左。

 *テキスト影印の「証」は、旧字体の「證」。

①もと「證」と「証」は別字。当用漢字表で「證」の新字体として「証」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。

②昭和21年11月の当用漢字表制定当初に、「証」が「證」の新字体として選ばれた。常用漢字表では、いわゆる康煕字典体の活字として「証」の括弧内に「證」が掲げられている。

*「證」の解字は、「言」+「登」。言葉を下から上の者にもうしつげる意味をあらわす。転じて、物事を昭らかにする。

 「証」は、「言」+「正」。言葉で正す、いさめるの意味を表す。

*したがって、事実を明らかにする意味では、「證拠」が本来の意味。「証拠」は、意味が通じない。「證」が「証」に置き換えられたために、本来の意味が不明になった。

(151-3)「片口(かたくち)」:一方の人だけの陳述。片方だけの言い分。または、それだけをとりあげること。

(151-4)「可相分兼候(あいわかりかぬべくそうろう)」:組成は「相分(あいわかり)」+ 

 「兼(か)ぬ」(終止形)+助動詞「可(べし)」の連用形「可(べく)」+動詞「候(そうろう)」。

 *兼ぬ:接尾語ナ行下二段型。動詞の連用形に付く。「思いどおりに実現できない意を表す。…しかねる。…しにくい」の意の動詞をつくる。

 *助動詞「べし」は、動詞の終止形(ラ変動詞は」連体形)に接続する。

(151-6)「不容易(よういならざる)」:「不」の訓に「なら」をおぎなって、「ならず」がある。「ざる」は、文語の打消しの助動詞「ず」の連体形で、動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」など。

  *「回也愚」:[回也(かいや)愚(ぐ)ナラず](『論語 為政』)

   <顔回(回也=孔子の愛弟子)は、おろかではない>

 

 

 

 

 

 

(151-6)「再応」:同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(152-1)「厳敷遂吟味候」:「厳しく吟味(を)遂げ候」。「遂」のしんにょうが、「し」のようになっている。

(152-1)「可相果候」:「相・果(はつ)・可(べく)・候(そうろう)」

 *「可(べし)」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続するので、「果(は)つ」(終止形)で読む。

(152-34)「早急(さっきゅう・そうきゅう)」:「さっ」は「早」の慣用音。非常に急ぐこと。

 *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(152-3~4)「成丈ケ(なるたけ・なるだけ・なりたけ・なりだけ)」:(動詞「なる(成)」にそれ限りの意を表わす副助詞「たけ」が付いてできた語。)できる限り。できるだけ。なるべく。なりたけ。なりったけ。なるったけ。なるべくたけ。なるべきだけ。

(152-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(152-4)「仕置(しおき)」:動詞「しおく(仕置)」の連用形の名詞化処罰。処分。成敗。おしおき。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(一八〇四)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(一七〇四〜一一)までに成っていたとみられる>とある。

(153-1)「為御含」:「御含(おふくみ)ノ為(ため)」

 *「為」:下に動詞が来る場合、「す」「さす」とその活用。

      下に名詞が来る場合、「ため」「として」「たり」「なる」

(153-2)「可貴意」:「貴意(きい)ヲ得(う)可(べく)」:相手の考えを聞くことを敬っていう語。多く書簡文に用いる。

(153-3)「松前志摩守」:松前章広。安永4730日生まれ。松前道広の長男。寛政4年松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11年東蝦夷地が,文化4年には全蝦夷地が幕府直轄地となり、章広は陸奥梁川(福島県)9000石に移封された。文政4年松前復帰がかない、5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4925日死去。59歳。初名は敷広。通称は勇之助。

(153-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(153-5)「新井田周治」:松前藩町奉行。

(154-6)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(154-1)「津軽左近将監(つがるさこんのしょうげん)」:津軽信順(のぶゆき)。寛政12325日生まれ。津軽寧親(やすちか)の子。文政8)弘前藩藩主津軽家10代となる。藩政にはあまり熱心ではなく、派手ごのみを幕府からとがめられる。天保10年隠居。文久21014日死去。63歳。号は好問斎,如海,瞳山。

 *「将監」:近衛府の第三等官(判官=じょう)。

(154-1)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。

(155-1)「寅」:天保元年(1830)。

(155-1)「被 仰付(おおせつけられ)」:「被(られ)」と「仰付」の間が一字分空いている。

 尊敬の体裁で、「欠字」という。「仰付」が下接する場合、欠字の体裁をとることが多い。

(155-2)「此節」の「節」:竹冠が小さく、脚部が大きく縦長になっている。

(155-3)「胡乱(うろん)」:(「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。あやしく疑わしいこと。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

*「胡」は、でたらめの意。また胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。

(155-4及び8)「候」:「候」が「ヽ()」にように、極端なくずしになっている。

(155-4)「先年」の「年」:最終画の縦棒をまるく跳ね上げて、円のようになる。

(155-4)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。

(155-6)「頭取(とうどり)」:松前藩町奉行配下の町方の頭取。

 *「頭取」:元来は、音頭を取る人。音頭取。雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)が原意。転じて、一般に頭(かしら)だつ人の意になった。

(155-7)「不埒(ふらち)」:法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

 *「埒(らち)」:馬場の周囲に設けた柵(さく)。古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

*「埒外」(かこいのそと。転じて一定の範囲の外)

*「埒が明く」:物事がはかどる。てきぱきと事がはこぶ。きまりがつく。かたづく。「埒が明かない」はその逆。語源説に、(1)奈良・春日大社の祭礼で、一夜、神輿の回りに埒を作っておき、翌朝、金春太夫がそれをあけて祝言を読む行事から。(2)賀茂の競馬の時に埒を結ぶところから。

(155-8)「唐津内沢町」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。

(155-8)「御慈悲(ごじひ)」:「慈悲」は、仏語。「慈」は{梵}maitr 、「悲」は{梵}karuna の訳語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。テキストでは、あわれんでなさけをかけること。また、「お慈悲でございますから」などの形で、あわれみを請う意の慣用表現としても用いる。

(156-1)「願書(ねがいがき)」:願いごとを記した書き付け、手紙。

(156-2)「風邪(ふうじゃ・かぜ)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」はもともと大気の動きであるが、「感冒」の意の「かぜ」は、平安時代初期から見られ、おそらくは中国語の「風」の移入か。

(2)感冒が「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

(3)「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。>とある。

(156-3)「西舘町(にしだてまち)」:現松前郡松前町字西館・字唐津・字愛宕。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。

(156-4)「当時(とうじ)」:現代では、「その時。その頃。その昔」の意に用いるが、古文書では、「ただいま。現在。現今。今日(こんにち)」の意味になる場合が多い。

 (156-4)「ケシヨウ川」:現在の化粧川は、松前町建石地区を流れる普通河川。光明寺の奥が水源で、国道228号線に架かる大磯橋付近で日本海に注ぐ。

(156-6)「惣社堂」:松前郡松前町字建石・字弁天。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。松前城下の最も西に位置する町。東は生符いけつぷ町。

(156-9)「臥居(ふしおり)」:「臥」の偏の「臣」は「石」のように見え、旁の「人」は「ト」のように見える。

(156-10)「風呂敷」:物を包むための正方形の絹または木綿の布。正倉院の宝物にも、崑崙裹(こんろんのつつみ)といって、号楽の装束を包んだ、表は黄あしぎぬ、裏は白のあしぎぬの袷の風呂敷がある。古くは平包とか平油単と呼ばれていた。風呂敷と呼ばれるようになったのは銭湯の発達に伴うもので、手拭い、その他入浴に必要な品を包んで行き、入浴する時は脱衣などを包んでおき、帰りには濡れたものを包んで持ち帰ったところからきている。中世までは入浴に際し、男性は湯褌、女性は湯巻といって、入浴専用の褌と腰巻につけ替えて入り、湯から上がる時はこれを専用の下盥で洗って帰ったためである。このため、他人のものと間違えないように家紋や屋号を染め抜いて用いた。しかし江戸時代中期ごろには湯褌や湯巻を用いる習慣がなくなると同時に、脱衣籠や棚が出現したため、本来の風呂敷としての必要性は少なくなり、平包が風呂敷と同型のため、もっぱら平包を風呂敷と呼ぶようになった。荷物の持ち運びから商人の商品の運搬、旅行具にもなった。また蒲団などの収納具としても重宝されてきた。その他、江戸時代には頭巾にも用いられた。御高祖(おこそ)頭巾とか風呂敷ぼっちといってもっぱら女性が用いたが、この場合は表が黒や紫のちりめん、裏に紅絹(もみ)をつけたり、浅葱木綿でつくったりした。風呂敷の代表柄である唐草模様は、江戸時代の更紗の流行以後、寿柄として伝えられている。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』8月学習分注記

 7月学習分の注記の追加

(30-4)「ゆりきうたの崎」・・武四郎『廻浦日記』に、関内を過ぎて、「スナカイトリマ」と「ウスベツ」の間に「ヨリキウタ」があり、「少しの浜 漁小屋一軒有」とある。現せたな町の「ヨリキ岬」か。

(30-4)「ほろ嶋」・・武四郎『廻浦日記』には、「コウタ」(現せたな町の小歌岬)を過ぎて「ホロシュマ 小岬なり」とある。

 

8月学習注記

(32-1・2・4)「見ゆる」・・自動詞ヤ行下二段。活用形は、え(未然)・え(連用)・ゆ(終止)・ゆる(連体)・ゆれ(已然)・えよ(命令)。

 *1行目は、「見ゆる石」で、「見ゆる」は「石」にかかる連体形。

 *2・4行目は、「見ゆる。」で、感情や余情を含んで終止する「連帯止め」。本来は終止形の「見ゆ」。

(32-1)「水(み、みず)ぎわ」・・「幾」は「き(ぎ)」、「王」は「わ」の変体仮名。水際のこと。

 *「王」は、変体かなで「わ」の字源。旧仮名遣いでは「ワウ」。中国音で[wáng]。日本の発音では「ワン」に近い。

 *「王仁」は、「ワニ」と呼ぶ。応神天皇のとき、百済から呼びよせたとされる渡来人。「古事記」に「論語」をもたらしたとある。

 *「王」(4画)の部首は「玉」部(5画)で、部首より画数が少ない。

(32-2)「工(たくみ)」・・匠。「石工(いしく、せっこう)」のことか。

 *「工」を「ク」と読むのは、呉音。大工(だいく)、金工(きんく)など。

(32-2)「奥尻嶋」・・桧山地方の西方に位置し、日本海に浮かぶ離島。東西11㎞、南北27㎞、周囲84㎞。「奥尻」は、アイヌ語の「イクシュンシリ(向の島)」が転訛したもの。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に「おこしり島」、「天保郷帳」に、江差村持場之内ヲコシリとの記載がある。アイヌに命じて捕獲したオットセイの皮などは、幕府の献上品として重要視された。後、文久元年(1861)建網が導入され、春の鰊、夏の長崎俵物の生産場所に移っていった。

(32-2・3)「かいとりま」・・漢字表記名「貝取間」。昭和30年まで貝取澗村として存在。昭和30年、久遠村と貝取澗村が合併し、「大成町」となった。『北海道市町村行政区画便覧』によると、「旧貝取澗村は、文化年間に初めて乙部村の来住者をみてより、その後、慶応年間に至り東北地方より二十数戸の移住者がり戸口が増加するに至った」とある。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ(一名石カイトリマヘツ)」とある。

(32-3)「沙取間」・・『廻浦日記』には、「スナカイトリマ」とある。

(32-4)「鰊猟(にしんりょう)」・・「鰊」の旁は「東」でなく、「柬」。なお、中国では「鰊(レン)」は、「小魚」をいい、「ニシン」は「鯖」と書く。

(32-5)「松前」・・「松」は、「木」+「公」を上下に書いた異体字。

(32-5)「家也」・・「也」は、ひらがな「や」の字源。古文書にある「や」は、変体かなの「や」か、「也(なり)」と読む漢字かを、文意で判断する必要がある。テキストでは、「なり」と読み、「也」と翻刻する。

(32-6)「ウスベチ」・・「ウスベツ」とも。漢字表記地名「臼別」。江戸期、クドウ一円は、「ウスベツ」とも称され、場所名もウスベツ場所と呼ばれることもあった。

『廻浦日記』には、「ウシベツ」とあり、「本名ウスベツなるべし。夷人は、ウシベと云。川巾凡三十間余。小石川にて浅し。秋は鮭少し上るよし也。川中蒲柳おおしと。」とある。

(33-1)「小河しり」・・「しり」は、「尻、臀、後」で、最後の部分。後尾。しまい。

 本書では、「クドウ」の地名の由来を「小河じり」としているが、その由来は、諸説があり、以下、参考まで記す。

 1.上原熊次郎地名考

  夷語クントゥなり。弓を置く崎ということ。Ku-un-tu(仕掛け弓・ある・山崎)の意。市街の東側の稲穂崎のことである。

 2.松浦武四郎説。

   『再航蝦夷日誌』では、この岬を「本名クント(?)エトと云よし。クンは 黒し、エトは岬。也黒サキと云こと也」とする。

②『西蝦夷日誌』では、「グウンゾウにて、弓形に入り込んだ処のある岬」として、「弓・   の・山崎」と読んだものらしい。

3. 永田方正説

 ①元名「クンルー」(kun-ru)。危路の意。久遠村の岬端崩壊して、通路危険なるに名づく。

 ②アイヌが「クンルー」と発音するや殆ど「グンヅー」と聞ゆるを以て、和人      誤聞して「クドウ」と呼ぶ。旧地名解に弓を置く岬と訳し、松浦日誌に弓形と訳したるは、誤聞によりて誤訳したるなり。

或人云う、久遠の原名は、「アナクド」なりと。これは、俚人の妄想に係るのみ。     更科源三、山田秀三両氏とも、どちらが正しいか、急には決めることが出来ない

というスタンスといえる。          

(33-1・2)「ゆのしり」・・『廻浦日記』には、「ニヨシリナイ、訛てユノシリ川と云。」として、「ユノシリ」の名が見える。

(33-2)「運上屋(うんじょうや)」・・江戸期、場所請負人が、場所経営の拠点として現地に設けたのが運上屋(家)。第一次幕領期に、東蝦夷地が幕府の直営になったとき、「運上屋」は、「会所」に改められたが、西蝦夷地では、幕領となった後も場所請負制度が続けられたため、「運上屋」の名称は変更されなかった。なお、松前藩の復領後も、東蝦夷地では「会所」、西蝦夷地では「運上屋」の名称が継続された。

(33-4)「拝礼(はいれい)」・・頭を下げて、礼をすること。拝むこと。

(33-5~34-2)・・この儀式を「ヤンカブチ」という。

(33-5)「あくらをかき」・・「あくら」は、「胡座(あぐら)」で、「かき」は、「掛く、懸く、繫く」の連用形。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方をすること。

(33-6)「あげて」・・「阿(あ)」・「希(け・げ)」・「天(て)」。

 *「希」は、変体かなで「き」の字源。「希」の呉音が「け」。「希有(けう)」など。「き」は漢音。

(33-6)「いたヾく」・・「頂く、戴く」で、頭の上にのせてもつこと。

(34-1)「ひげを」・・「飛(ひ)」・「希(け・げ)」・「越(を)」

(34-2)「つゝしみたる容貌(ようぼう)」・・「津」は「つ」、「三」は「み」、「多」は「た」。影印の「兒」は、「貌」の異体字。常用漢字は、「貌」。

(34-2)「酋長(しゅうちょう)」・・かしら。特に未開人の部族のかしら。酋領。なお、「酋長」は、差別用語として、放送禁止用語に指定され、「首長」と訂正されている。

(34-2)「乙名(おとな)」・・一族の長。家長。中世末期、村落の代表者を指した。近世、蝦夷地において、請負場所内の各集落(コタン)の長を乙名と呼称した。なお、各コタンには、乙名のほか、脇乙名、小使と称する役蝦夷(役土人)がいた。後、安政3(1856)には、場所全体を統括する惣乙名を庄屋、惣脇乙名を惣名主、各コタンの乙名は名主と呼称が改められた。

(34-3)「耳かね」・・「耳金(みみがね)」で、耳たぶにつける金属製の装飾品。

(34-3)「耳かねをはめ」・・「耳」「可(か)」・「ね(年)」・「越(を)」・「者(は)」・「女(め)」。

(34-3)「黒羽二重(くろはぶたえ)」・・黒色の紋付などの礼装用の和服地。羽二重は、たて糸に撚りをかけない生糸を用いて平織りにした、あと練りの絹織物。柔らかく上品な光沢がある。

(34-3)「立葵(たちあおい)」・・アオイ科の越年草、延齢草の別名。茎のある葵の葉三つを杉形(すぎなり)に立てた形の紋所の名。

(34-4)「ぬふたる」・・影印は、「ぬ(縫)ふ」+「たる」となっているが、「縫ふ」の連用形は「縫(ぬ)ひ」で、活用からは、「ぬ(縫)ひたる」となるか。

(34-4)「単物(ひとえもの)」・・裏を付けないで仕立てた衣類の総称。特に、裏を付けない長着をいう。

(34-5)「黒紗綾(くろさや)」・・平織り地に四枚綾で稲妻や菱垣(ひしがき)などの文様を織り出した光沢のある黒色の絹織物。

(34-5)「しめたり」・・締めたり。「女」は「め」、「多」は「た」。

(34-6)「結たれは」・・影印の字形は「詰」にみえるが、文意から、「結」で「結(むすび)たれば」か。

(34-6)「惣髪(そうはつ)」・・男子の結髪の一つ。月代(さかやき)を剃らず、伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったり、または、束ねたり剃ったりしないで、髪を全部後ろへなでつけて垂下げたもの。

(35-2)「あつゝし」・・「あっし」とも。ここでは、オヒョウの靭皮の繊維を細かく裂き、糸にして織った布。またその布で作られたアイヌの服。

(35-3)「きれはち」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」、「者」は「は」、「知」は「ち」で、「切れ端(きれはじ・きれはし)」のことか。

(35-3)「唐草様の形」・・唐草は、ウマゴヤシの別名。「唐草模様」のこと。つる草が絡み合う様を図案化した装飾模様のこと。日本では中国からの伝来といわれるが、古くから世界各地で用いられ、アラベスク(イスラム美術の装飾文様)もその一種。

(35-4)「筒袖の半てん」・・「筒袖(つつそで、つつっぽ)」和服で袂の部分がない筒型の袖の形をした、羽織に似た丈の短い上着。「半てん」は、「半纏、袢纏」。

(35-5)「呼給(よびたま)ひて」・・ここでの「給ふ」は、動作の主体(呼ぶ人)に対する尊敬を表す意で用いられており、「お呼びになられる」の意。

(35-6)「給(たまは)り」・・ここでの「給ふ」は、「与える」の尊敬語として用いられ、「お与えになる」の意。

(36-1)「釘」・・影印の字形は、「釘(くぎ)」に見えるが、前後の文意から、「針(はり)」の意。

(36-1)「賜(たま)ふ」・・「与ふ」、「授く」、「やる」などの尊敬語。

(36-2)「一覧(いちらん)」・・一通りざっと目を通すこと。

 *「覧」・・冠部左の「臣」が、大きく独立し、旁のように見え、脚部の「見」は、旁に見える場合がある。

(36-2割注左)「筆紙」・・筆と紙。文章に書き表すこと。用例として、「筆紙に尽くし難い」がよく使われる。

(36-3)「拝(はい)す」・・頭を深くたれて、敬礼する。

(36-3)「尋(たづぬ)る」・・「尋ぬ」の連体形。事情を問いただす。質問する。

(36-4)「掛刀」・・松浦武四郎の『蝦夷漫画』に描かれている「たん子ぷ、太刀のこと」か。   

(36-4)「弓箭󠄀(きゅうぜん・きゅうせん・ゆみや)」・・弓矢。

(36-5)「見ん事」・・「ん」は、文語助動詞「む」の転化したもの。「む」は、助動詞で、話し手自身の意志や決意を表し、「~するつもりだ。」、「~するようにしたい。」。

(36-5)「乞(こふ・こう)」・・人にあることを求める。

(36-5)「日本語(にほんご)」・・日本の言葉、言語。

(36-5)「悉(ことごとく)」・・のこらず。みな。

(36-6)「一二(いちに」・・一つ、二つ。若干。

『蝦夷嶋巡行記』7月学習分注記  

         

27-1)「官軍(かんぐん)」:天子・国家の正規軍。朝廷の軍勢。政府方の軍隊。ここでは松前藩の軍勢をいうか。なお、近世日本では、狭義には戊辰戦争時の新政府側軍隊を指す。

*続日本紀‐慶雲四年〔707〕五月癸亥「初救百済也。官軍不利」

*太平記〔14C後〕九・六波羅攻事「官軍多討れて内野へはっと引」

晉書‐桓温伝「耆老感泣曰、不図今日復見官軍」 

       <耆老(キロウ)感泣(カンキュウ)して曰(イワ)く、

        不図(ハカラズ)も、今日(キョウ)復(また)官軍を見(み)る>

       [古老は感泣して言った。「また官軍を見られるなんて、思ってもみなかった」]

  **「耆老」・・「耆」は六〇歳、「老」は七〇歳。六、七〇歳の老人。としより。

  **「晉書」・・中国の正史。二十四史の一つ。一三〇巻。房玄齢ら奉勅撰。唐の太宗の時、貞観二〇年(六四六)成立。

27―1)「日本と蝦夷と戦し時」・・『角川日本地名大辞典』には、

   「中世のアイヌと和人の攻防」として、享禄2(1529)3月、西部セタナイ(瀬棚)の首長タナイヌが乱を起こし、蠣崎義広が工藤祐兼と弟祐致を将としてセタナイに迎撃させたが、兄祐兼は戦死し、弟祐致は熊石まで逃れた。アイヌの進撃が急で、致し方なく海岸の巨巌に身を隠したところ、巌から黒煙が吹き出し、爆風雷光がとどろき、アイヌがたじろぐわずかな隙に、上ノ国に逃れることが出来たと伝える。

   更に、天文5(1536)、熊石の首長タリコナ(タナイヌの娘婿)が勢力を得て、上ノ国に攻めのぼるが、義広に謀られ斬殺された。それ以後、地内も静謐となったという。

(27-2)「其山」の「其」・・脚部が省略されて「廿」の形になることがある。

(27-2)「闇夜(やみよ・あんや)」・・くらい夜。月の出ない夜。

(27-2)「闇夜」の「闇」・(27-6)「問し」の「問」・・「門(もんがまえ)」のくずし字は、省略されて平たいカタカナの「ワ」、または、ひらがなの「つ」の形になることがある。

 *なお「問」の部首は、「門」ではなく、「口」部。

(27-2)「利を失ひ」・・「利を失う」は、いくさなどで、不利になる。劣勢になる。勝利を失う。敗れる。

 *「失ひ」の「失」の影印は、「矢」だが、くずし字では、よくある字形。

 (272.3)「進事不能(すすむことあたわず)」・・進むことができないこと。

 *「不能」・・「あたわず」と読むのは、漢文訓読の返読。

 *「能(あたう)」・・あとに必ず打消を伴って用いられたが、明治以後は肯定形も見られる。従って、「あたは」「あたふ」の形だけが用いられる。

(27-3)「敗軍(はいぐん)」・・戦いに負けること。

 *「敗軍」の「敗」・・くずし字では、旁の「攵(ぼくづくり・ぼくにょう・とまた・のぶん)が「久」の形になることがある。

(27-4)「言(いい)あやまり」・・言いまちがう。言いそこなう。言いあやまつ。

(27-4)「クトウ」・・現久遠郡せたな町大成区久遠。近世、「クトウ」は、西蝦夷地内の集落で、『松前西東在郷並蝦夷地所附』には、「うすへち」、「湯の尻」と並んで「くど」の名がみえ、また、『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「熊石村」より、「クトウ迄四里廿四丁五十六間」とある。

 安政3(1856)の松浦武四郎の『松浦竹四郎廻浦日記』(以下『廻浦日記』と略)には、「当所の地勢後は平山、左の方エナヲサキ、右の方ニシユヱトフと対峙して一湾をなし、浜未申に向ひて其処々家居す。此処小場所にして、惣て通行継立無レ無、只風波不レ宜時のみ此処に寄る也。」とある。

近代になり、明治14(1881)久遠郡の一艘澗村、三艘澗村、日方泊村が合併して、久遠村が成立。その後、昭和30(1955)貝取澗村と合併し大成町となり、更に平成17(2005)には、瀬棚郡瀬棚町、北桧山町、久遠郡大成町が合併し、久遠郡せたな町となる。

(28-1)「大鱲(たいりょう)」・「鱲師(りょうし)」の「鱲」・・「鱲」は、「猟」の当て字。本来、「鱲」は中国ではチョウザメ、わが国では、からすみ」をいう。

28-1)「互(たがい)に」の「互」・・くずしは、「楽」に似ているので、文脈で判断する。

28-1)「かせき」・・「稼ぎ」の意。

28-2)「そうて」・・沿うて。「そ」は「楚」、「う」は「宇」は、「て」は「帝」。

28-3)「深谷(しんこく)」・・底深い谷。

29-1)「併(しかし)」・・「併」は、国訓で、「しかしながら」の意に用いる。

29-2)「六月五日」・・『蝦夷日記』にも、一行は、64日から8日朝まで熊石に滞在。8日、熊石村を出帆している。

 *「六月五日」の「六」・・くずしは、冠の「亠(なべぶた)」を1画で書く場合がある。「下」のくずしと類似している。

291.2)「いかつち堂」・・「雷神堂」のこと。『渡島日誌』に、熊石村の中に、「畑中上に、雷神堂並て毘沙門堂並て雲母(キララ)崎小岬」とある。

29-3)「小祠(しょうし)」・・小さいやしろ。小さいほこら。

29-4)「びんの間」・・『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「ヒンノマ」とある。『渡島日誌』には、「ヒンノマ、此処迄人家有。」としている。

 *「びんの間」の「び」・・変体仮名「ひ」。字源は「飛」。

29-6)「ゆかゝした」・・『松前西村々蝦夷地クトウ~里数書(写本)』には「ヲカノシタ」、『渡島日誌』には「岡下」とある。「ヲカノシタ」か。

29-6)「湄(ほとり)」・・みぎわ。水と草とが交わるところ。『漢辞海』に臨むは、後漢の『釈名』)を引き、「水に臨むさまが、眉が目に臨むのに似ている。」とある。

30-1)「せきない村」・・現八雲町熊石関内町。近世初期、和人地の西境が、それまでの上ノ国から熊石まで拡大されて、関内に番所が設置された。『渡島日誌』には、「関内村、人家十二軒、熊石村分也。前に川有、歩行わたり。海にヨシカシマ暗礁という有。」、「テケマ四丁二十間、ホンモエ、境目に至る。是を境に(西地)入るや皆場所と云。是迄をシャモ土云也。」とある。

30-3)「でけま」・・「渡島日誌」には、「テケマ」とある。

30-3.4)「ゆりきうたの崎」・・不詳。

30-4)「ほろ嶋」・・不詳。

31-2)「究(きめ)たれハ」・・「究める(動詞)」の連用形+「たり(助動詞)」の未然形+「ば(接続助詞)」。

31-3)「同(ひとし)」・・『名義抄』に、「同」の訓に、「オナジ・ヒトシ・ヒトシウス・アツマル・トトノフ・ノリ・カタシ」などをあげている。

*『名義抄』・・『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』の略。平安末期の漢和辞書。編者名は不明だが法相(ほっそう)宗の僧侶の編で、院政期の成立かという。仏・法・僧の三部仕立とし、漢字を偏旁によって分類、音訓・字体などを示す。文字史・漢文訓読語研究の重要資料であり、和訓の部分に付された声点は平安時代のアクセントを知るのに貴重。

31-4)「いしかい取澗」・・現せたな町大成区貝取澗の内。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ、小川也。一名石カイトリマヘツと云。訳は石浜なれば也。本名カイトマイなるべし。」とある。

31-6)「そばたちたる」・・峙ちたる。聳ちたる。「峙つ。聳つ。」は、稜(そば)が立つ意で、岩、山などが、ほかよりひときわ高くそびえていること。

 *変体仮名の字源は、「楚(そ)・者(ば)・多(た)・ち(知)・た(太)る(留)」

7月 町吟味役中日記注記

(146-6)「漸(ようやく・ようよう)」:①漢語「漸」は「しだいに、だんだん」の意。②和語の「ようやく」は、①「しだいに、だんだん」に加えて、「やっと、どうにかこうにか」の意味もある。つまり、古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。別添資料『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(古田島洋介著 吉川弘文館 2013)参照。

(148-1)「最前」の「最」:テキスト影印は「最」の俗字「㝡」のくずし字。

(148-2)「若(もし)」:「若」を「もし」と読むのは、漢文訓読体。「若(わか)し」は、国訓に過ぎず、漢字本来の意味ではない。なお、漢文訓読体で「わかし」は、「少(わか)し」。

(148-2)「如何(いかが)」:くずし字の決まり字。形で覚える。

(148-3)「周章(しゅうしょう)」:あわてふためくこと。うろたえ騒ぐこと。

(148-5)「別て(而)」:副詞。特に、とりわけ、ことに。

(148-6)「其方(そのほう)」:室町時代以降の用法。武士や僧が、自分より目下の者に対して用いるやや固い響きの語。おまえ。きさま。

(150-4)「曽(かつ・かっ・かつっ)て」:①ある事実が、今まで一度として存在したことがない、という経験に基づく否定を表わす。今まで一度も。まだ全然。かつてもって。

 ②ある事実が、過去のある時点に存在したことがある、という回想的な肯定を表わす。以前。昔。ある時。③まだ起こらない事について、それは実現しないだろう、また、実現させるべきではない、という否定を表わす。どんな事態になっても。ちょっとでも。

 *テキストでは、①か➂。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)「日本書紀」の古訓や訓点本などにみられるが、上代の文献で仮名書きの例は見当たらない。「万葉集」では「都」と「曾」の文字がカツテと読まれている。

(2)「都」は本来、すべての意であるが、打消の語を伴って完全否定のような用いられ方をし、「曾」は以前の意で「嘗」と通用して使われる一方、打消の語とともに用いられて「都」同様、否定の強調に使用される。

(3)この語は平安時代では漢文訓読に用いられ、和文では、「つゆ」が用いられる。カッテと促音に読むのは近世以後のことである。>とある。

(150-4)「無御座候」:「無」が極端に平になっている。また、「御」と接近している。

(150-5)「手合利(てごうり)」:手行李。行李は、携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。それより少し大きいものは旅人たちの振分荷物を入れるものとして手行李とよばれた。江州水口では小さな精巧な真藤製品がつくられ、同高宮や山城でも同じく真藤製品が名産、但州の豊岡・出石と因州用瀬は柳製品の産地である。現在では兵庫県豊岡市(柳行李)、静岡県御殿場市周辺(竹行李)などで生産されている。

(150-6)「差図(さしず)」:「差図」は、本来は、地図・絵図・設計図をいう。また、建築の簡単な平面図をいう。設計のため、あるいは儀式などの舗設を示すために描いたもの。平安時代の日記類には指図が多く描かれていて、風俗史・住宅史の貴重な史料となっている。なお正倉院蔵の東大寺講堂院の図はこれに類するもので、建築の平面図として最古のものである。

 *テキストでは、物事の方法、順序、配置などを指示すること。指揮すること。また、その指示・指揮。命令。現在では、「指図」が一般的。

 *「差図」の「図」:くずし字では、「囗(くにがまえ)」の縦棒を、最後に、左右に「ヽ」を書く場合がある。


5月 町吟味役中日記注記

                                       

4月学習テキストP1403行の「左近将監」の注記について>

◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。

◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。

・近衛府の4等官名・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)

・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)

 

5月学習分>

(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く

書簡文に用いる。

(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。

(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。

(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。

当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。

(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。

(141-5)已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では

助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ

り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。

(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。

    *「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。

(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)

*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。

(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。

(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。

(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。

(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。

(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。

    *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

     <(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

    *「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。

(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。

(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。

    *「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。

    *「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。

    *「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。

    *常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)

    *常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」

(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。

(144-2)「一体(いったい)」:もともと。

(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。

(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。

(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。

(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。

『蝦夷嶋巡行記』5月学習分注記  

     

4月例会での意見について>

P142.3行「折居神は、姥の娘」か、「姥の始」か。

・影印は、「娘」とする。

・姥神大神宮の由来については諸説あり、「於隣(おりん)」なる姥のお告げで、ニシンが群来して人々を飢えと寒さから救い、以来、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀ったと云われている説、老夫婦説もある。「娘」説は見当たらない。「姥の始」も、「姥が始」とすれば、意味が通じなくもない。しかし、影印は「娘」として、ここは「姥の娘」と見る。

 

<5月学習分> 

22-1)「語者有」の「語」・・旁の「吾」の脚部の「口」が「ニ」のようになる。

22-1)「彼か(が)家」・・彼の家。「が」は、格助詞。

22-2)「さも」・・「佐」は「さ」。「さも」は、副詞「然(さ)」に助詞「も」が付いた連語。いかにも。まことに。

22-3)「忍びかね」・・「ひ(び)」は「飛」、「か」は「可」、「ね」は「年」。

     *変体仮名「年(ね)」・・最終画を上に円を描くように跳ね上げる。

      4行目「去年」の「年」、6行目「年々」の「年」など。

22-3)「持合居たる」の「た」・・字源は「多」。上部の「夕」が小さく、下部の「夕」が大きく、「両」のくずしのようになる。極端にくずすと「こ」になる。

223.4)「三右衛門トも」・・「トも」は「共」の意か。

22-4)「門送(かどおくり)」・・人を門口まで見送ること。葬式の時、死者の家へ行かず、自分の家の門に立って棺を見送ること。

22-4)「駒(こま)」・・子馬、小さい馬。牡馬をさしていうこともある。転じて、馬の総称。

22-4)「別而(べっして)」・・副詞。格別であるさま。特に。とりわけ。

     *「別方(べっしてかた)」・・特別に親しくしている人。別懇の方。

     *「別者(べっしてもの)」・・特別に親しくしている者。特に懇意な者。

22-5)「所々(しょしょ・ところどころ)」・・あちこと。ここかしこ。

22-6)「ふせぎ」・・「婦」は「ふ」、「世」は「せ」、「幾“」は「ぎ」。

23-1)「船橋(ふなばし・ふねはし)」:多数の船を横に並べて綱または鎖でつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの。橋梁のかけにくい河川に恒久的に設けるものと、橋梁のない河川で臨時に設けるものがある。浮橋。

     *「船橋」のランキング・・江戸時代後期における日本の橋の長さを並べた番付表『日本大橋尽』にある船橋では、「越中船橋」(65艘・現富山市・神通川)が65艘、ついで南部船橋(48艘・現盛岡市・北上川)、3位は「越前船橋」(48艘・現福井市・九頭竜川)が上位にある。

     *千葉県船橋市・・船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し、橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。

     *越前船橋・・九頭竜川に架かる越前船橋について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』に、

     <「越藩拾遺録」は「凡此川幅百五間余、橋ノ長サ百二十間、鎖五百二十尋、舟四十八艘、浦々ヨリ出スニ、イロハノ印ヲナシテ今ニ至リテ毎年修理ヲ加フ」と記し、次のようにある。

所謂いノ印二艘泥原新保浦、ろ一艘和布浦、は一艘蓑浦・松蔭浦、に一艘長橋浦、ほ一艘菅生浦・鮎川浦、へ二艘大丹生浦・小丹生浦、と一艘大味浦、ち三艘蒲生浦・茱崎浦、り一艘居倉浦、ぬ半艘左右浦、る一艘半玉川浦、を三艘海浦、わ二艘宿浦、か二艘新保浦、よ一艘小樟浦、た一艘大樟浦、れ二艘道口浦、そ一艘厨浦・茂原浦、つ一艘高佐浦、ね一艘米浦、な一艘糠浦、ら一艘甲楽城浦、む一艘今泉浦、う一艘河野浦、ゐ一艘池ノ平浦、の二艘大谷浦、お三艘三国浦・宿浦、く一艘米ケ脇浦、や一艘安島浦、ま一艘崎浦、け一艘梶浦、ふ一艘浜地浦、こ一艘波松浦、え二艘北方浦、て一艘半浜坂浦、あ一艘半吉崎浦、以上四十八艘、藤縄ハ国中在々ヨリ出シ丸岡領ハ代物ニテ出ス。鋪板百十組、行桁八十六間、長板三十六間但長三間、亘一尺五寸、厚四寸福井領ヨリ出ス。大水ニテ橋流レタル時、他領ニテ留レバ舟一艘ニ鳥目二百文、鋪板一組ニ百文、行桁一本ニ五十文ヅツ、福井領ハ舟一艘ニ人足二人、鋪板一組ニ人足一人、行桁一本ニ人足半人ヅツ下サルル定ナリ>とある。

23-1)「大茂内村(おもない・むら)」・・現乙部町のうち。近世から明治初年の村。小茂内(こもない)村の北、突符(とつぷ)川流域に位置する。『松前島郷帳』には「大もないむら」、『天保郷帳』には「大茂内村」とある。『渡島日誌』には、「大茂内村、突符村分、八十八軒。文化度四十五軒。従小茂内三丁五間。産物同前。鎮守熊野社並て天満宮、傍に清順庵と云道場有」とある。「松前随商録」には「ヲウモナイ」として「運上場、小名トツフ・ヲカシナイ・ミツヤ・川シラ」とあり、突符(とつぷ)村・三谷(みつや)村・蚊柱(かばしら)村などをも含んでいたようである。旗本領であったため、天明年間(1781~89)に松前藩領の小茂内村と村境相論が発生。文化5年(1808)には本村の宮歌村の定住者と当村への出稼者との間で税負担をめぐり争論が起きている。

23-3)「桑林」・・影印の「桒」は「桑」の異体字(俗字)。

23-4)「往来は船に而往来せしか(が)」・・最初の「往来」は、「往古」で、「往古は船に而往来せしか(が)」か。

23-5)「如斯(かくのごとく)」・・「如斯」と返読する。「如」のくずしは「め」「そ」「ち」のように、極端にくずれる場合がある。下は『くずし字辞典』より

24-1)「三谷村(みつや・むら)」・・現乙部町三ツ谷(みつや)。町の北部。西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「清水川越て三ツ谷村、人家六十二軒。文化度は三十五軒也と。産物鯡、鱈、烏賊、鮑、海参、昆布、海苔、雑漁多しと。浜形酉向、西に宮歌岬。左りヲカシナイ岬、其間一湾をなしたり。」とある。

24-2)「瓦崎」・・影印は「瓦」に近い。「シビノウタ」か。『渡島日誌』には、「シビノウタ、小川、人家有、従是本道は九折を上りて野に出る。此処に境目、岡道有。傍にスボの社、所祭諏訪社也。是諏訪の訛かと思はる。」とある。また、『罕有日記』には、「シビ崎、スワ崎ともいう。」としている。

24-2)「ゑワ崎」・・武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』に「イワサキ」が見える。

24-4)「蚊野村」・・「蚊柱村(かばしら・むら)」か。現乙部町のうち。『松前島郷帳』には「かはじら村」、『天保郷帳』には「蚊柱村」とある。『渡島日誌』には、「蚊柱村、人家八十一軒。文化度五十四軒。従三谷村三十一丁廿間。浜形戌向。上は崖、浜には磯多く、其間に小船懸るに宜し。産物前に同じ。」とある。

24-5.6)「相沼内(あいぬまない)」・・現八雲町熊石相沼町。町の南部。南境を相沼内川が流れ、南西は日本海に面する。『天保郷帳』には「相沼内村」とある。『渡島日誌』には、「相沼内村、人家百六十二軒。文化度百八軒。従蚊柱村一里三丁。~中略~。名義は蕁麻多沢(アイウシナイ)との儀なり。*蕁麻=いらくさ・からむし」、「浜形酉向、左ヲリト岬、右黒岩岬の間一湾となりて砂利場。処々暗礁有て小船懸り宜し。土産蚊柱に同じ。」とある。

25-3)「泊り川村(とまりかわ・むら)」・・現八雲町熊石泊川町。『松前島郷帳』、『天保郷帳』ともに、「泊川村」とある。旧熊石町の南部。北東は旧八雲町に接し、南西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「泊川村、人家二百六軒。文化度八十六軒。従相沼内七丁五十六間。浜形相沼内に同じく、土産も同じ。」とある。

25-3)「境権現(さかいごんげん)」・・『渡島日誌』には、「是立岩権現とも、また境権現とも云」とある。

25-4)「水かれて」・・「可」は「か」、「連」は「れ」。「水涸れて」の意。

25-5)「うかち」・・「宇」は「う」、「可」は「か」、「知」は「ち」。「穿(うが)つ」の連用形。

261.2)「幅四十間の河」・・見市川(けんにちがわ)。「渡島日誌」には、「見日川、川巾二十余間、急流、石川なり。雪融頃は時々怪我人有。此辺りえは渡し船を備置度事也」とある。

26-2)「熊野村」・・「熊石村」か。現八雲町熊石。昭和387月版の『北海道市町村行政区画便覧』の熊石町の「開基及び沿革」にいると、「アイヌ語「クマウシ」(魚乾竿のある所)より転訛したものである。遠く宝徳年間(1449~1452)より和人が居住していたが、寛保元年(1741)の大海嘯のため全村が全滅し、延享元年(1744)に佐野権次郎江差より移住してより再び移住者を見るようになった。享禄2(1529)本村を雲石と称したが、元禄5(1692)5月熊石村と改称された。」とある。『蝦夷日記』には、「熊石村泊、松前より三十二里、家数五十七軒、人数二百拾六人。当所は蝦夷地の境なり。クドウ場所迄海上五、六里。風待にて二日逗留。」とある。

      『渡島日誌』には、「熊石村役所、従泊り川村二里十丁五十間。従江指御役所下川々除き九里二十七丁二十三間。従松前沖ノ口役所二十六里二十丁四十間。人家三百二十六軒、文化度百九十一軒。元はクマウシと云し也。訳して鯡棚多し(クマウシ)の儀。鯡棚一面に架れば如此号し也。」とある。

      また、『角川日本地名大辞典』によれば、「江戸期の熊石村の町域には、元禄13年の『松前島郷帳』には、あいの間内村、泊川村、見日村、くま石村、ほろむい村。『天保郷帳』には、相沼内村、泊川村、熊石村がみえる。文化年間(1804~18)の記録によると、地内には相沼内、泊川村、見日村、熊石村、関内村の5集落がある。」としている。

      この外、熊石地内から、縄文期の大洞式の注口土器とともに、頭、手、胸、下腹部に白色メノウ(瑪瑙)5個を挿入した土偶が出土しており、国内では例がなく「メノウ入り土偶」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されている。

26-5)「突兀(とっこつ・とつこつ)」・・山や岩などの険しくそびえているさま。

26-6)「そひへたる」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「多」は「た」。「聳えたる」

26-6)「雲石」・・『渡島日誌』には、「雲石、沖中二丁に有。と云石有。」と「石」にしている。なお、奇岩「雲石」は、現八雲町熊石雲石(うんせき)町内に所在する。

4月 町吟味役中日記注記 2018.4.9

(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』4月学習分注記

3月学習分の補足>

○P12―1行「上の國河」・・注記で「天ノ川のこと」としたが、「天の川とは別に、上の国川がある」との意見があったが、テキストでいう「上の國河」は「天ノ川」のこととする。
①天ノ川の河口に近い処に、北から入ってくる支流に目名川があり、「上ノ国目名川」があるが、「上ノ国」を冠したのは、目名川が、南部の石崎川、北の厚沢部川にもあることからと思われる。(山田秀三著『北海道の地名』)

  ②次の行に「幅凡八拾五間計」とある。150メートルを超えるから、支流の「上ノ国目名川」では広過ぎるので、本流の「天ノ川」を指すと思われる。

○P12―4~5行「三間四面」・・堂の規模を表し、三間四面は桁行三間の母屋(もや:中心部の柱の高いところ)に四面の庇(ひさし:母屋の外側にある柱の低いところ)が付く構造。

17-1)「老賤(ろうせん)」・・身分の卑しい老人、年寄。

17-1)「聞(きく)」・・「聞」のくずし字。

17-1)「物語(ものがたり)」・・話。談話。あるまとまった内容のことを話すこと。

17-3)「真菰(まこも)」・・「真薦」とも。「ま」は美称の接頭語。イネ科の大形多年草。各地の水辺に生える。高さ1~2㍍。地下茎は太く、横にはう。葉は線形で長さ0.51㍍。秋、茎頂に円錐形の大きな花穂を伸ばし、上部に淡緑色で、芒(のぎ)のある雌小穂を、下部に赤紫色で披針の雄小穂をつける。黒穂病にかかった幼苗を「こもづの」といい、食用にし、また、油を加えて眉墨をつくる。葉で、「むしろ」を編み、「ちまき」を巻く。

17―4)「語(かたる)」・・話してきかせる。ある事柄をよく説明する。

17-5)「甚(はなはだ)」・・「甚」のくずし字。

17-5)「うとき」・・「疎い」(形容詞)の連体形。よく知らないこと。事情に暗いこと。

17-6)「蒔様(まきさま・まきよう)」・・種子の蒔く方法、やり方。

17-6)「宛(ずつ)」・・「ずつ」の本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。「宛行扶持(あてがいぶち)」など。

     *「宛」の音読み・・「エン」。熟語に「宛転(エンテン=ゆるやかにめぐる。女の眉の美しいさま)」など。

     **宛転蛾眉能幾時  宛転たる蛾眉(がび)、能(よ)く幾時(いくとき)ぞ、

須臾鶴髪乱如絲  須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)、乱れて糸の如し。

[すらりとした美しい眉の美人も、いつまでそのままでいられようか。たちまちにして白髪が糸のように乱れたおばあさんになってしまうだろう。]

       ***「年年歳歳花相似」(年年歳歳 花相似たり)の名句がある唐の詩人・劉希夷(りゅうきい)の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)より。

P18―P16と重複)

19-1)「抜透(ぬきすか)す」・・①すき間なくつまっているものから間が透くように抜き取る。まびく。うろぬく。おろぬく。②刀を、鞘(さや)から抜きはずす。また刀を鞘から、ちょっと抜く。

     テキストでは、①

19-1)「ぬき搤(と)る」・・引き抜いて取ること。間引きすること。

19-1)「鍬(くわ・すき)」・・「鍬」の国訓は「くわ」で、土を掘り起こす農具をさす。一方、「鋤(すき)」は、田を耕し除草する農具をさす。また、国訓の「鍬(くわ)」は、「田畑を耕すのに使う農具で、長い柄の先に土を掘り起こす刃の部分を取り付けた物」をさし、「鋤(すき)」は、「幅の広い刃に柄を付けた櫂状の農具(スコップ・シャベルの形状)で、手と足で土を掘り起こすのに用いるもの」とする辞書もある。

19-2)「たすけもかけす」・・「多」は「た」、「須」は「す」、「希」は「け」、「可」は「か」、「春」は「す」。『日本国語大辞典』によると、「たすけ」には、「畑の肥料、緑肥」の意があることから、ここでは、「たすけもかけす」は、「畑に肥料を施さない」意か。

19-4)「は」・・変体仮名「盤」。

19-5)「土橋村(つちはし・むら)」・・現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「蝦夷日誌」(二編)には土橋村が二村記され、泊村(現江差町)支郷の「土橋村」は目名村の南、広い沢地に人家が一三軒ばかりあり、「土橋ハ皆支郷の惣名にして、惣而此名何村の土橋、何村の土橋と書て有也。土産、鮭、其外畑物多し」とし、目名村支郷の土橋村については「人家四十軒計。畑多し」とある。

19-5)「どば村」・・「土場村」。現江差町柳崎(やなぎざき)町。『天保郷帳』には、伏木戸村の枝村として「土場」の名が見え、安政六年(1859)に、「柳崎村」に改称されている。江差町の北部、厚沢部川の下流域に位置し、東の一部は、厚沢部町に接し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「追分有、右厚沢部、左土場道、凡半里計にして土場村、人家十二三軒小商人有、是安野呂村の分也。」とある。『罕有日記』には、「田沢村より山路に入て平坦畳の如し。半里にて土場七八軒の家立あり、近村より耕作のため家作りいたす。数村の寄集りなりと。」とある。

    近世から明治初年まで存続した村。伏木戸村の北に位置し、南東から東にかけては目名村・厚沢部村(現厚沢部町)、北東は鰔川(うぐいかわ)村。西は日本海に面する。「つちば」とも訓じる(行程記)。厚沢部川河口に位置する当村は、江戸時代に上流で伐採された木材の貯木場(土場)として集落が形成されたところと推定され、現在土場・川袋という小字地名が残る。

19-6)「厚沢部川(あっさぶがわ)」・・二級河川。流路延長43.5㎞。支流には、目名川・安野呂川・鶉川など11の河川を持つ。また、厚沢部川は、重臣松前蔵人の給地として、江差商人が最初50両、後100両と生鮭100尾の運上で請け負って鮭漁にあたった場所。『渡島日誌』には、厚沢部川と安野呂(あんのろ)川について、「大川端に出る。此処二股也。右本川、厚沢部川と云、此方少し大きし。左を安野呂川と云。両川とも巾十余間、遅流にして深し。~。此処操船にて越る。」とある。『罕有日記』には、「アツサブ川五拾間の川幅にて、繰船にて渡る。馬も同断。」とある。

    なお、松浦図には、本流を「アンヌル川」としている。

20-1)「溝川(みぞがわ)」・・水を流すために地面を細長く掘ったような川。どぶ川。

20-2)「つまの湯」・・江差町五厘沢町に所在する「五厘沢温泉」。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「乙部村分郷に五輪沢村という有。此処ツマノ湯という温泉あり、諸病によろし。」とある。『渡島日誌』には、「温泉場、小流右の方に入り、一丁。湯守一軒、上に薬師堂あり。是を乙部の湯と云へども、境はまだ先なり。此湯を見附しもの乙部の者なれば如レ此号しか。開きしは松前家々臣蠣崎蔵人先祖なりと伝ふ。」 

     とあり、武四郎は、「つまの湯」を「乙部の湯」としている。『罕有日記』には、「路の傍らに、つまの湯とて温泉あり、浴室四五軒あり」とある。

20-2)「痰症(たんしょう)」・・漢方で体液の異常分泌および水分代謝障害一般をさすが、狭義では胃内停水をいう。痰飲。痰病。

20-3)「印(しるし)」・・ここは、「印」と同源の「験・徴」の意で、御利益。ききめ。効能。

20-4)「分郷(ぶんごう)」・・村内の一つの集落を指す。「郷」は、昔の行政区画の名で、「郡」の下の名称であるが、郷飲酒などを行う一つの単位である村落も「郷」というようになった。(『角川漢和中辞典』)

20―5)「こりん沢」・・現江差町五厘沢町。町の北端。北は、乙部町に接し、西は日本海に面する。五厘沢川下流北岸段丘に温泉(五厘沢温泉)が湧出している。

20-6)「せもない村」・・『罕有日記』には、「瀬茂内」とある。『渡島日誌』には、「シモナイ、人家三四軒など有」と、「シモナイ」に作る。

20-6)「在家(ざいか)」・・いなかの家。「ざいけ」と読めば、普通は、出家しない、在俗のままで仏の教えに帰依すること。また、その人や家をさす。

21-1)「乙部村(おとべ・むら)」・・現乙部町。北海道南西部、桧山地方の中央部に位置し、北は熊石町、北東は八雲町、東は厚沢部町、南は江差町に接し、西は日本海に面する。近世、はじめ松前藩領、次いで幕府領、松前藩領という変遷を繰り返し、明治2(1869)まで、松前藩領西在江差付村々に属した。また、当町域として、元禄13(1700)の『松前島郷帳』には、「乙部村、小茂内、大もない村、とつふ村、みつ屋村、かはじら村」が、『天保郷帳』には、「乙部村、小茂内村、大茂内村、突符村、三ツ谷村、蚊柱村」の名がみえる。

     『渡島日誌』には、「乙部村、人家三百四軒、文化度百九十軒。一条町にて漁有、畑作又船持等有。~中略~、此村往昔松前家臣下国図書の給地なりと。」とある。

21-1)「羆(ひぐま)」・・大型のクマ。北海道には、ヒグマの一亜種エゾヒグマが生息する。

21-2)「巡見(じゅんけん)」・・警戒、監督などのため、ある場所を見て回ること。江戸幕府が特使を派遣して御料(幕府領)、私領の施政や民情を査察させること。諸藩にも同様の施策があり、巡見と称した。

21-2)「行懸(いきかか・ゆきかか)り」・・移動する際に、ある場所を過ぎようとすること。さしかかること。

212.3)「追退(おい・しりぞけ)たり」・・追い払ってしまうこと。撃退してしまうこと。

21-3)「あやうき」・・「阿」は「あ」、「也」は「や」、「宇」は「う」、「幾」は「き」。形容詞「危うい」の連体形。

21-3)「船橋(ふなはし・ふなばし)」・・船をつなぎ並べ、上に板を渡して橋としたもの。浮き橋。

21-5)「小茂内(こもない・むら)」・・現爾志郡乙部町字鳥山・字富岡。近世から明治三五年(一九〇二)までの村。乙部村・相泊村の北、西流して日本海に注ぐ小茂内川流域に位置する。北は突符(とつぷ)村。『渡島日誌』には、「小茂内村、人家五十四軒。文化度三十七軒。従レ乙部村二十九丁。産物乙部に同じ。」とある。

21-6)「百性(ひゃくしょう)」・・柏書房の『古文書くずし字500選』には、「性」は、「百姓」の「姓」と混用されたもので、古文書では、「百性」が頻出するとある。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018年4月9日(月)13時~16時   

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の記録。

  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

3月 町吟味役中日記注記

◎2月学習のうち、「旅人」について

例会後、参加者からご意見が寄せられましたので、コメントします。

<意見>罪人の肩書の「旅人」は、「たびびと」でなく「たびにん」と読むべきでないか。

<森のコメント>

・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、

1.「旅人(たびびと)」:旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

2.「旅人(たびにん)」旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。わたりどり。テキストの罪人の肩書はこの「たびにん」が適当か。

  *なお、「旅人」を「たび・にん」と読むのは湯桶(ゆとう)読み(訓読み+音読み)

   逆は重箱読み(音読み+訓読み)

3.「旅人(たびじん)」:他国の人。

4.「旅人(りょじん)」:中国周代の官名。官位のある平民で料理をつかさどる。

*「旅」:解字は「軍旗の象形。多くの人が軍旗をおしたてて行くの意味から。軍隊・たびの意味を表す。

*「旅(りょ)」は、中国周の時代に、兵士五百人を一団とした軍隊。五旅を一師、五師を一軍とした。つまり、

  「1旅」・・500人 (旧日本陸軍・・2~4連隊で1旅団)

  「1師」=5旅・・2500人 (旧日本陸軍・・2~4旅団で1師団)

  「1軍」=5師・・12,500人

 

(127-1)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では「処」が本字、「處」は別体であるが、後世、「處」の俗字とみなされた。我国では、昭和21年当用漢字表制定当初に、俗字であった「処」が「處」の新字体として選ばれた。

  *「処」は、「本字」→「俗字」→「当用漢字」(現常用漢字)と変遷の道をたどる。

  *「説文解字(せつもんかいじ)」:中国の漢字字書。略して『説文』ともいう。「文字」の「説解」の意。許慎著。序一、本文十四の全十五巻。のちに、各巻は上下に分けられて三十巻となった。後漢の100121年に成立。字形の分析にもとづき、漢字を偏や旁(つくり)などの構成要素に分け、その相違によって、9353字を五百四十部に類別した。なお重文(じゅうぶん、異体字)も1163字入れてある。部首別字書として、また、形音義を説明したものとしては最古。これ以前の字書は、識字用が普通。六書(りくしょ)説による字形の説明は、漢字成立の根本にまで及んでいて、高い評価を受けている。古来、重視され研究が重ねられているが、特に、南唐の徐(じょかい)が注を加えた『説文解字繋伝』(小徐本)四十巻、その兄、北宋の徐鉉(じょげん)が986年に校訂刊行したもの(大徐本)三十巻(以後の標準的テキスト)、また、清の段玉裁が1807年に作った訓詁の書『説文解字注』などが有名。小徐本は華文書房、大徐本は世界書局(ともに台湾)などが刊。原本は現存しない。

(127-2)「入牢(じゅろう・にゅうろう)」:牢屋にはいること。牢屋に入れられること。

  *「入」を「ジュ」と読むのは慣用音(日本での漢字の音。和製漢語音)

   例として「入内(じゅだい・中宮・女御などが内裏に参入すること)」、「入水(じゅすい・人が死ぬために、水中に身を投げること)」、「入御(じゅぎょ・天皇・皇后・皇太后が内におはいりになること)」「入院(じゅいん・じゅえん・寺に入ること、または、新任の住持がはじめて寺に入り住持となること)」「入輿(じゅよ・身分の高い人が嫁入りすること)」など。

  **「慣用音」呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」、「情緒」の「緒(しょ)」を「ちょ」と読むなど。このほか、「喫」は正しくは「ケキ・キヤク」であるのを「キツ」に転じ、「劇」は正しくは「ケキ・ギヤク」であるのを「ゲキ」に転じ、「石」は「セキ・シヤク」であるのを「斛」と混じて「コク」とするような例もある。

(127-5)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸
(127-5)
「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(127-5/6)「旅人宿(りょじんやど)」:旅人を宿。旅籠(はたご)。旅籠屋。やどや。

(128-1)「平内(ひらない)」:陸奥湾に突き出た夏泊半島と南部の山地からなる。平内とい

う地名はアイヌ語の「ピラナイ」(山と山の間に川がある土地の意)からきたといわれ

る。鎌倉~南北朝時代までは南部氏の支配下にあったが、1585年(天正13)以降津軽

氏領となった。盛岡藩境の狩場沢(かりばさわ)には関所が置かれ、藩境塚(県の史跡)

が残る。

(128-3)「如何(いかが)」:「いかに」に助詞「か」の付いた「いかにか」が変化したもの。(心の中で疑い危ぶむ意を表わす)どう。どのように。どうして。どんなに。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

 <(1)「いかにか」から「いかが」という変化は、「に」の撥音化とそれに並行する「か」の濁音化、すなわち「イカンガ」を媒介にして成立したと考えられる。すなわち一〇世紀初頭の仮名資料に「いかか」が現われ始めるが、この時期はまだn撥音を無表記としており、例えば「土左‐承平五年二月四日」の「しし(こ)」が「死にし(子)」であり、「シンジ(コ)」と発音されていたと推測されるように、同じく「そもそもいかかよむたる」〔土左‐承平五年一月七日〕の「いかか」も「イカンガ」と発音されていたかもしれない。

(2)意味は上代の「いかにか」「いかに」とほぼ同じであり、呼び掛け的に使われたり、状態や様子が甚だしいことを表わしたりする点も同様である。

(3)平安期以降ほぼ状態や様子に限定されながら、鎌倉期には「その様子が望ましくない、困ったものだ」という意味を派生する(中世後半から近世になると「いかがし」「いかがはし」を派生する)のに対して、「いかに」は状態・様子以外に理由・原因を問う用法が発達する。>とある。

*「如何」を「いかが」「いかん」「いかんセン」と読むのは漢文訓読の熟字訓。

「取妻如何(つまヲめとルコトいかん)」[妻を娶(めと)るのには、どのようにすればよいか](詩経・伐柯=ばっか=)

**なお「何如」は、「いずレゾ」と訓じる。

(128-8)「丹地八五郎」:P15に「丹地屋八五郎」がある。

(129-4)「小平沢町(こへえさわ町)」:現檜山郡

江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)で存続した町。寺小屋町・碇町の

北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷

地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。「渡島日誌」には「小兵衛沢」と記され、「畑多く、近頃人家少し立たり」とある。

(130-1)「内済(ないさい)」:江戸時代、裁判上の和解のこと。江戸幕府は、民事裁判ではなるべく両当事者の和解による訴訟の終了を望んだが、ことに無担保利子付きの金銭債務に関する訴訟、すなわち金公事(かねくじ)においては、強力に内済を勧奨した。内済は訴訟両当事者連判の内済証文を奉行(ぶぎょう)所に提出して、その認可を受けることによって有効となったが、金公事の場合には片済口(かたすみくち)と称して原告が作成した内済証文だけで足りた。

(130-1)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

  *「場所熟談」:江戸時代、用水、悪水、新田、新堤、川除(かわよけ)などの訴訟。これらの争いについて、奉行所では訴が提起されても直ちに受理せず、問題の地の代官や地頭の家来を呼びだして訴状を下げ渡し、現場で双方の納得のいくような話合を命じ、極力和解による問題の解決を図って、和解が成立しない場合に初めて訴が受理された。

(133-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(133-3)「堅勝(けんしょう)」:からだに悪いところがなく健康なこと。また、そのさま。多く「御健勝」の形で相手の健康についていう。

(133-4.5)「其御許様(そこおもとさま)」:「そこもと」に敬意を表わす接尾語「さま」の付いたもので、更に「其許」の「許」に敬語の「御」がついたもの。

  *平出の体裁:4行目の「其」で改行して、「御許様」としているのは、尊敬の体裁で、「平出(へいしゅつ)」という。

  **「平出」:律令国家の公文書の記述中に,天皇・皇后・皇祖等を示す語があるとき,文章を改行してその語を行の先頭に置き,敬意を表す記述方法。律令国家の公文書(公式様文書)の様式等を制した公式令に定められている。同令には,平出のほか皇太子・中宮の称号あるいは天皇の行為を示す語について,その1~数字分上を空ける闕字(けつじ)の方法も定められている。中世では,この平出,闕字は,公式様文書ばかりでなく,書札様文書にも使用され,平出はもっぱら院宣・綸旨の院・天皇の仰せを表す〈院宣〉〈院〉〈御気色〉〈天気〉〈綸旨〉等にのみ用いられ,文書としての院宣・綸旨,その他〈奏聞〉〈天裁〉〈禁裏〉等の語,あるいは皇太子・親王・摂関を示す語には闕字が用いられている。将軍については,鎌倉時代には闕字・平出ともにみられない。室町時代以降〈公方〉が闕字扱いされ,近世には〈御公儀〉や公儀からの〈仰出〉に平出が用いられるようになる。また近世では,公儀のほか〈太守様〉や〈御役所様〉まで闕字あるいは平出で扱われ,さらに平出より敬意を表す擡頭も現れる。

(133-5)「茂良村」:現青森県平内町茂浦(もうら)。「茂良」は、「もうら」を詰まって「もら」と発音し、「良」の呉音「ら」から、「茂良」を当てたか。なお、ひらがなの「ら」は、「良」の草体からできた。

  茂浦村は、東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂村・滝村と境し、南は浪打山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。

(133-6)「悴(せがれ)」:影印は俗字の「忰」。自分の息子。「せがれ」は、室町以降の語で、語源説に、「痩(や)せ枯(か)れ」がある。なお、「忰」を「せがれ」と読むのは、「倅」の字と似ていることから起こった誤用説もある。(『新漢語林』)

  また、『くずし字用例辞典』には「悴」の項に<「忰」は「せがれの場合に用い>とあるが、「悴」も「せがれ」の意味に使われる。「忰」は、「悴」の俗字に過ぎない。

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。>とある。

  *語源説に、<自分の子を卑下していうヤセカレ(痩枯)の略。ヤセカレは屈原の「漁父辞」にある「顔色憔悴(やせ)、形容枯槁(かれ)」から>がある。

  **「顔色憔悴、形容枯槁。」<顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。>

     [顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています]

『蝦夷嶋巡行記』3月学習分注記                

(12-1)「城跡(しろあと・じょうせき」・・勝山館。松前氏の祖である武田信広が15世紀後半に築いた山城で、16世紀後半まで、武田、蠣崎氏の日本海側での政治、軍事、交易の一大拠点。昭和52年国指定の史跡

  *「しろあと」には、「城址(じょうし)」「城趾(じょうし)」も当てる。

12-1)「八幡宮」・・上ノ国八幡宮。文明5年(1473)松前藩祖武田信広公が勝山館に守護神として創祀。上ノ国三社(現夷王山神社、砂館神社、上ノ国八幡宮)の一つ。祭神は、天照大御神ら六神。

12-1)「勧請(かんじょう)」・・神仏の来臨を請うこと。神仏の分霊を他の場所にうつし祀ること。もとは仏教語で、十方の諸仏に、身をとどめて久住し、恒に法輪を転じて衆生を救護せんことを請うをいう。しかしてこれを懺悔・随喜・回向などとともに、四悔・五悔の一つとし、菩薩行修の重要な項目ともしている。また、わが国では、その意を転じて、実の開山にあらざるものを開山とするときは、これを勧請開山と呼び、あるいは神仏、ことに八幡大菩薩・熊野権現などのごとき垂迹神の神託を請い奉ることを勧請と称し、さらにはそれより転じて、神仏の霊ないしはその形像を招請して奉安することをも勧請というに至った。つまり、神道でいえば、本祀の社の祭神の分霊を迎えて、新たに設けた分祀の社殿に鎮祭することをいうのである。したがって、その新たに鎮祭した神を勧請神ともいうのである。ないしはその時々に執り行う祭祀の場に神の降臨を請うことをも、勧請と称するのである。

12-1)「上国寺(じょうこくじ)」・・山号は華徳山。現在は浄土宗、光善寺の末寺。嘉吉3(1443)の創建時は、上ノ国館の鎮護寺として創立された真言宗の草庵。江戸中期十世徹和和尚の時浄土宗に改宗、十八世戒運和尚が福山の光善寺に転住し、光善寺の末寺となる。『渡島日誌』には、「花徳山上国寺、浄土宗、寛永二十巳年草創、順見使申上書」とある。本堂は18世紀半ばの建立とされ、国の重要文化財に指定されている。

12-2)「禅林(ぜんりん)」・・禅宗の寺院。また、一般に寺院。

12-2)「千念寺」・・「専念寺(せんねんじ)」のこと。天文2(1533)の開山。松前専念寺(浄土真宗本願寺派)により建てられた掛所道場の一つ。明治5(1872)清浄寺と称する。

12-2)「門徒寺(もんとでら)」・・「門徒」は、中世後期以降、もっぱら浄土真宗の信者一般に対する呼称となり、「門徒寺」は、門徒宗(浄土真宗)の寺院を指すようになった。

12-2)「上の国河」・・二級河川の「天ノ川」のこと。総延長28.6㎞。なお、「天ノ川」の由来は、元和4年(1618)、イエズス会の宣教師ジェロラモ・デ・アンジェリスがヨーロッパ人として最初の蝦夷地上陸を果たし、その三年後作成した地図の上陸地点に「ツガ」と表記されていたことから、上ノ国の古名の「ツガ(テガ)」の漢字表記「天河」にあるとされている。

12-3)「手繰船(てぐりぶね)」・・手繰り網をつかい、磯で漁をする小船。また、江戸時代、大坂・伏見間を往復していた早船を指す。

123.4)「とゝへ河」・・「とど川」か。江差町内に「椴川」。「椴川」の名を冠した「椴川町」の町名が残る。『渡島日誌』に、「トヾ川 川巾五六間。砂川也。此処境目(上ノ国・五勝手)なり。人家五六軒、北村分也」とある。「戸渡川」とも。 

12-4)「へりへつ(へりへ川)」・・「へりへつ」、または「へりへ川」か。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に、「とど川村、ふるべち村、こかつて村」とあり、「ふるべち村」の名がみえるが、享保12(1727)の「松前西東在郷並蝦夷地所附」やその後の「天保郷帳」には、村としての名前がみえない。『渡島日誌』には、「ヒリフチ沢」とある。また、松浦武四郎『東西蝦夷山川取調図』には、「ヒリフチサワ」とある。『江差町史』には「古ヒツ川」(古川)とある。

  *「古櫃川」・・上ノ国町との境にある古櫃の浜は、右手にかもめ島、左手に上ノ国の町並みと夷王山の風車、渡島大島の島影を望むことができる絶好の夕日ポイント。

12―5)「船つき(ぎ)」・・船繋ぎ。港のこと。

12-5)「繁昌(かんじょう)」・・元来は、草木がさかんにしげること。日本語では町や店がにぎわい栄えること。

12-6)「仲秋(ちゅうしゅう)」・・秋の三か月を孟・仲・季と分け、その真中をいう。陰暦八月の異称。

13-1)「初秋(しょしゅう)」・・影印の「穐」は、「秋」の俗字。旧暦では「七月」、新暦では「八月」を指す。

  *「龝」の解字・・もとは、「禾」+「火」+「龜」。古代の占いは亀の甲に火を近づけて行われた。その亀は秋季に捕獲され、また秋季には穀物の収穫もあるため、「禾(いね)」を付し、「あき」の意味を表す。(『新漢語林』)

  *「あき(秋)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「秋」の補注に

  <「万葉集」には、五行説の影響から「金」字を秋にあてているものがみられる。「金(あきのの)の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ〈額田王〉」、「金風(あきかぜ)に山吹の瀬の鳴るなへに天雲翔る雁にあへるかも〈人麻呂歌集〉」 など。>とある。

(13-1)「繁花」・・「繁華」。「花」は「華」の当て字。①花が咲きほこる。②にぎわう。➂若く美しい。ここでは②。

  *天津橋下陽春水、天津橋上繁華子(劉希夷 『公子行』)

  <天津橋下 陽春の水、天津橋上 繁華の子(し)>

  [洛陽の都の天津橋の下を流れる、暖かな春の時節の水。洛陽の都の天津橋の上を行き交う、今を盛りと栄えている貴公子たち]

   **繁華子=綺麗に着飾った青年子女。

13-2)「常夜灯」・・『渡島日誌』には、「常夜灯、此処津鼻の上に突出してよく見ゆる場所なれば、置レ之」とある。

  *影印の「燈」は、「灯」の旧字体。もと「燈(トウ)」と「灯(テイ)」は別字だが混用されることも多かった。常用漢字表(昭和56年)で「燈」の新字体として「灯」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。なお、「燈」は平成16年に人名漢字に追加された。

13-4)「沖の口番所」・・松前藩が、江差湊に入港する船舶、人、荷物などを取締まるため設けた番所。ここで徴収する運上金は重要な財源となった。『渡島日誌』には、「津鼻の上に有。常夜灯を置、目鏡を架て、出入の船を改むる。是を以て出入船の運上を取立る処なり。」とある。

13―4)「姥神と言神社(うばがみというじんじゃ)」・・「陸奥国松前・一の宮姥神大神宮・北海開祖神」あるいは「陸奥国松前・勅宣正一位姥神大神宮・北海開祖神」と称する蝦夷島(北海道)において最古といわれる神社。現所在地は、江差町姥神町。  

     社号 勅宣正一位姥神大神宮

     祭神 天照大御神(あまてらすおおかみ)、春日大明神(天児屋根命(あめのこやねのみこと))、住吉大明神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命、表筒男命の三柱)。

創立 年暦不詳(建保四年(1216)とも、文安四年(1447)とも。)

        社地往古より津花町浜手(現折居井戸の聖地)に鎮座していたが、正保元年(1644)岩崎の麓に遷座、それによって姥神町と名付けられた。後、社地手狭となり、安永三年(1774)令宮所(拝殿)を社地替えして現在に至る。鰊漁業の祈願所として御領主松前公より永久祈祷仰付けられ、領主巡国の折には、祈願遊ばされ、例祭には御代参(江差奉行)を派遣された。文化十三年(1816)神階の儀に付願上御公儀御聞済の上、文化十四年(1817)七月吉田家出奏、正一位姥神大神宮の額面を拝載する。

     祭礼 当社姥神宮、弁天両社祭礼  

        八月十四日 神輿洗   八月十五、十六日 神輿渡御

*十五日 御領主様御代参

     摂社(本社に付属し、本社に縁故の深い神を祀った神社の称号)に折居社と厳島神社がある。(『江差町史』)

     この外、姥神大神宮の縁起として、北海道神社庁誌によると、「江差の津花に天変地異を予知し住民に知らせ、神のように敬われていた折居様という老婆が草庵を結び住んでおり、ある日鴎島の巌上に現れた翁から小瓶を授かり、その中の水を海に注ぐと鰊が群来するとの啓示を受け、水を海に注いだところ鰊が群来した。その後老婆は、忽然と姿を消し、草庵に残されていた老婆の祀る五体の御神像を人々が小祠を建立し姥神としてお祀りし、後に老婆も祀った」とある。

13-5)「銅瓦(どうが)」・・銅製のかわら。銅製の屋根板のこと。江戸時代初期に檜皮に代わって、寺院の本殿や城の天守閣などの屋根葺き材に使われはじめた。

13-5)「奇麗(きれい)」・・美しくはなやかなさま。きらびやかなさま。うるわしいさま。普通、「綺麗」と書く。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

  <(1)キレイとビレイ(美麗)とは類義語であるが、日本では、ビレイは一般化せず、室町時代には、キレイが優勢となり、その語義も拡大する。建物・衣裳・容姿の美しさの外に、新たに心・自然・事物の清潔なこと、純粋なことを表わすようになる。江戸時代には、更に語義が分化した。

(2)キレイがもつ清潔、純粋等の意は、日本で生じたものであり、ウルハシ・クハシ・キヨシ・キラキラシ・イサギヨシ等の和語の意を吸収しつつ勢力を拡大し、ついにウツクシイと相並ぶようになった。>とある。

13-5)「神明(しんめい)」・・祭神としての「天照御大神」のこと。

13-6)「春日(かすが)」・・春日大明神。春日神社の祭神のうちの一柱である「天児屋根命」のこと。

13-6)「相殿(あいでん、あいどの)」・・同じ社殿に、二柱以上の神を合祀すること。また、その社殿。姥神大神宮は、三社を合祀っている。

13-6)「折居明神(おりいみょうじん))」・・「おりえみょうじん」とも。 姥神大神宮の摂社である「折居社」の祭神折居神霊(往古鰊漁を教えた老婆の神霊、折居(於隣))のこと。折居社は、津花町浜手に鎮座していたが、天明二年(1782)岩崎の地(姥神大神宮の境内)に遷座。祭礼は三月十六日。(『江差町史』)

14-1)「すぎわひ」・・「春」は、「す」、「記」は「き、ぎ」、「王」は「わ」、「飛」は「ひ」。「生業(すぎわい)」で、生計を立てるための職業。なりわい。「生業(すぎわい)」の語源説に「世を過グルナリハヒの業の義」などがある。

  *慣用句「生業(すぎわい)は草の種」・・生計を立てる道は、草の種のように多く、いたる所にある。

14-3)「祭礼(さいれい)」・・神社などの祭り。祭典。祭儀。

14-4)「日蓮宗」・・日蓮が開いた仏教の一宗派。法華宗とも。「日蓮宗」の寺は、成翁山法華寺をさす。

14-4)「禅宗」・・大乗仏教の宗派の一つ。日本では臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の総称。「禅宗」の寺は、曹洞宗の嶽浄山正覚院をさす。

14-5)「浅利甚之丞(あさり・じんのじょう)」・・「寛政十年家中及扶持人列席調」(『松前町史』)の長爐列の席に、浅利甚之丞の名がみえる。

14-5)「持口(もちくち)」・・持ち場。受け持っている方面。

14-6)「浮島」・・「嶋」、「山+鳥」は、俗字。「鴎島」のこと。鴎島は、町の中央部。津花岬の西方350メートルの日本海に浮かぶ周囲2.6㎞の小島。『渡島日誌』には、「鴎島、従中歌八丁。津花より五丁位。此間湾深く船懸りよろし。長サ六丁、巾一丁の島なり。周囲絶壁、西面に千畳敷と云平磯有。北に廻りて義経巻物かくしの石、蹄石。土人、義経の三馬屋にて繋ぎて渡海なし玉ひしが、其馬竜と化して来り上りし処也と云。蛭子(えびす)社、テツカヘシ大岩岬也。弁天社など有。此二社共に順見使の廻り場所なり。」とある。

15-1)「弁財天(べんざいてん)の社」・・「弁財天」は、元来インドの河神で、音楽、知恵、財物の神として、吉祥天とともに広く信仰された女神。仏教にも取り入れられたが、吉祥天と同一視されるようになった。弁天。「べざいてん」とも。

15-1)「姥子神の社」・・「蛭子(ゑびす)社」あるいは「恵比須社」の誤りか。鴎島に、「弁財天の社」と「恵比須社」が鎮座するとする記録はあるが、「姥子神の社」の記録はない。「恵比須社」は、姥神大神宮の付属社で、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ。恵比須・蛭子)で、年暦不詳。鴎島に鎮座、その下浜を恵比寿浜と称す(『松前町史』)。なお、「ゑびす」は、七福神の一つで、商売繁盛、福の神として広く信仰され、特に、古くは、豊漁の神として漁民に信仰され、漁業との関係が深い。『松前町史』には、「漁師の恵比須信仰は鰊網の中央の大浮子をエビスアバと称し恵比寿の加護を信じ、又大漁のあった時網に引き上げられた石を「エビス石」と称して神性視し、御神体として祀るなど漁業は恵比須信仰に支えられていた。」とある。

15-2)「神石」・・「瓶子岩」のことか。

15-2)「天神石」・・「天神石」と称する言伝えはない。「天神(菅原道真の神号)」様と「石」との信仰上の関係性は薄く、むしろ漁業を介した「えびす」様と「石」・「岩」との信仰上の関係が強い。

15-3)「累々(るいるい)」・・「累々」+「たり」の場合は、形容動詞。あたり一面に重なり合って、たくさんあるさま。

15-4)「一むら」・・一叢。「武」は「む」。「一叢、一群」で、集まっている一団。ひとかたまり。

15-4.5)「蝦夷たてと言観音の堂」・・『渡島日誌』には、「えぞたて」として「夷塞、此処桧山弾正の古塞と思はる。礎掘溝のあと今に有り。樹木陰森として、如何にも殺気撲レ面て怨鬼の在るかと思はるの地なり。此中に観音堂小堂有。」、また、「村内鎮守八幡、蝦夷塞観音堂。是も往古酋長の塞也。土器、雷斧、矢根石等多く出る。祭礼七月十七日」とある。このことから、「たて」は、「館(たて・たち)」で、防備を施した武将、豪族の邸宅。小規模の城の意。

15-6)「放(はなれ)」・・「離れ」の意か。

15-6)「泊村」・・現江差町泊町(とまりちょう)。町の中央部。東は厚沢部町に接し、西は日本海に面する。泊川が西流して日本海に注ぎ河岸平地を形成。『渡島日誌』には、「泊村、人家二百二十軒。漁者、畑作、船持、商人計也。文化度六十八軒也と。」、「村内鎮守八幡、蝦夷塞観音堂、地蔵堂・戎合殿、また村の上に白性山観音寺、松前阿吽寺末寺。」とある。

(16-1)「小山村(おやま・むら)」・・現江差町尾山町。町の北部。西は日本海に面する。北を田沢川が流れる。泊川と田沢川の海浜と、その後背段丘及び山陵地域からなる。『松前島郷帳』には「おやま村」、『天保郷帳』には、「尾山村」として、その名がみえる。『渡島日誌』には、泊村と田沢村の境に、「此辺り家つゞきにして尾山村、泊村分村也。尾山の権現、祭礼七月二十九日、何神を祭る哉、甲冑を帯せし像なり。」とある。

16-2)「此川」・・『渡島日誌』には、「ホンヘツ、小川。此処村境也。」とある。

16-3)「田沢村(たざわむら)」・・現江差町田沢町。町の北部。北・東は厚沢部町に接する。田沢川河口の海浜から続く荒磯の海岸と、田沢川流域、後背の山陵地帯からなる。『元禄郷帳』、『天保郷帳』のいずれにも「田沢村」の名が見える。『渡島日誌』には、「田沢、人家四十一軒。文化度廿八軒。海産泊り村に同じ。川有、此筋稗田多き故号くと。」ある。

16-4)「行場(ぎょうば)」・・「行」は、仏語で、「住・坐・臥・行」の四威儀の一つで、「歩くこと」、「巡ること」の意があり、ここでは、「観音巡り」のために西国三十三カ所の観音霊場が設けられているように、津軽から松前地にかけて設けられた巡礼を行う観音霊場のことか。

2月 町吟味役中日記注記

(120-1)「御用物(ごようもの)」:宮中や官府などの用に供するもの。

(120-3)「弥(いよいよ)」:副詞「いや(彌)」の変化した「いよ」を重ねて強調したもの。

(120-34)「三馬屋(みんまや)」:三厩。青森県津軽半島北西端に位置する村。竜飛(たっぴ)崎が突出している。江戸時代には寒村であったが、松前蝦夷地渡海の要津であった。松

 前藩主の参勤交代、幕府巡見使の渡航にも利用され、木材の積出し、松前から買入れる海産物の中継地としても重要で、湊役人が置かれ、幕末には海防の要地ともされた。

(121-2)「馬形後町(まかどうしろまち)」:馬形町は、北から南に馬形上町・馬形中町・馬形下町が並んでいる。文化4(1807)の松前市街図に「馬形裏町」がみえるが、「後町」との関係は不明。

(121-4)「中川原町(なかかわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中河原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。

(121-5)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(121-8)「四十弐」の「弐」:漢数字の一、二、三などのかわりに用いる壱、弐、参などの文字を大字(だいじ)という。数値について厳密を要する文脈では、令の公式令(くしきりょう)に大字(だいじ、壱・弐・参・肆・伍・陸・・捌・玖・拾など)を用いるべきことを定め、実用された。たとえば『古事記』の中の天皇の享年、『正倉院文書』における物資の数量の記載など。現代にもその遺風があって、漢数字を用いる金銭証票は大字を使用する。

 *「公式令(くしきりょう)」:律令制の中央集権的行政および官僚制的秩序の根幹にかかわる、以下のような広範な内容の条文を収める。公文書の様式、その作成および施行についての細則、公文書に用いる平出・闕字と用字および公印、公文書の保管などについての細則、駅馬・伝馬の利用と公的使者の発遣に関する細則、官人の秩序・執務についての細則、授位・任官の行事に関する諸規定、訴訟手続および意見陳上の手続など。

(122-1)「即夜(そくや)」:すぐその夜。当夜。多く副詞的に用いる。

(122-1)「博奕(ばくえき・ばくち)」:金品など財物を賭けて、囲碁・樗蒲(ちょぼ)・双六などの遊戯の中で勝負をすること。博とも書き、「はくち」「はくよう」とも読む。博戯・博打(ばくち)・賭博ともいい、また樗蒲とか樗蒲一(ちょぼいち)、「かりうち」(朝鮮語系統の語)ともいっている。樗も奕も賭博の意として賽を指す。後世になるともっぱら采・花札などを用いている。十七世紀前半にはウンスンカルタが流行した。そして遊女やその客の間でも遊ばれるようになっていた。また天正カルタという「めくりカルタ」が流行する。やがて十九世紀初めには花札も盛行した。このカルタが賭博用となった。賭銭二百文ともいわれ、カルタ賭博は娯楽とはいいがたいものであり、双六賭博も行われた。中世から近世にかけては、碁・将棋の勝負も賭物としたため、慶長2年(1597)には、『長宗我部元親百箇条』で禁止されている。また慶安2年(1649)二月にもかかる博奕の禁制があり、ついで承応元年(1652)の町触れでも碁・将棋・双六の勝負を賭けることを禁止している。その反面庶民風俗として盤上遊戯が普及し、風呂屋の二階に娯楽場がつくられている。江戸時代には楊弓・大黒・天狗頼母子・布袋屋骨牌・カブ・三枚加留多・ナヲ八・キンゴ打・三つぼ・四つぼ・冠付・独楽・源平・富突・大黒つき・三笠付などいろいろな種類の博奕が生まれている。明治3年(1870)十二月新律綱領には「およそ財物を賭け、博戯を為す者は、皆杖八十の刑に処す、賭場の財物は官が没収する、賭博宿を開帳する者は、賭博に加われないといえども同罪とする」と述べ、士族で盗賊や賭博の罪を犯したものは庶人とするとされた。また明治35年の刑法改正案には「六月以下の懲役又は三百円以下の罰金」という金刑の思想が入って来ている。

*「博奕」の「博」:古代中国のゲームの一種。六本の棒と十二の駒を用いる。なお、テキスト影印の偏は「忄」(リッシンベン)の「愽」で、「博」の俗字。

*「博奕」の「奕」:碁を打つこと。囲碁。なおテキスト影印の脚は「火」に見えるが「大」。

*「ばくち」は、普通「博打」を当てるが、「ばくち」は、「ばくうち」の変化した形。

(122-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。

(122-6)「今暁(こんぎょう)」:今日の夜明けがた。今朝。

(122-7)「自身番」:江戸時代に江戸・大坂・京都などで主として町内警衛のために設けられていた自警制度。町内の大通りの両端に木戸があり、木戸に接して番屋を設け、一方の番屋に木戸番、他の一方に自身番が詰めたので、転じてこの番所をも自身番と称した。自身番は大町には一町に一つ設けたが、二、三ヵ町共同で設置するものもあり、幕末の嘉永3年(1850)には江戸中で九百九十四ヵ所あった。自身番の名称は、はじめ町内の地主町人が自身で交替に勤めたところから生じたという。しかしのちには家主(やぬし)・店番(たなばん)・町内雇いの番人らが組んで昼夜に分かれて詰めた。江戸の天保年間(1830-44)の制度では、大町および二、三ヵ町合同の番所は家主二人・店番二人・番人一人の計五人、小町では家主・店番・番人各一人の計三人が詰め、非常時には増員することになっている。自身番の任務は、交替で町内を巡回し、不審者が町内に立ち廻れば捕えて番所にとどめ置き、奉行所に訴え出る。喧嘩口論をいましめ、夜は火の元を用心させる。また町廻りの奉行所同心などが犯罪容疑者を捕えたとき一時ここに留置して取調べを行うなどのこともあった。元禄11年(1698)の規定によると、自身番所では夜も戸障子を立ててはならず、寄合い咄しなどは禁止され、当番の者は食事も番所ではなく各自の家ですることになっており、勤務の規定も厳重なものであった。しかしのちには町内の寄合相談事などもここで行われ、また町の雇い職員である町代・書役などもここに勤務して町内の雑務を処理するようになった。このため家主らの勤務も名目的なものとなって、雇いの定番人を置いたり、その定番人が妻帯して番屋が住居同然となったりすることもあり、また町内の家主たちが寄合を名目に酒食の会を催すなどして綱紀の乱れを警告されることも多くなった。番所の建物にも規定があり、原則としては九尺二間の小屋であったが、文政12年(1829)には梁間九尺・桁行二間半・軒高一丈三尺と定められた。しかし前述のように番所が番人の住居化する状態ではこの規定は守られず、家の造作を一般家屋同様にしたり、あるいは二階づくりにしたりする者もあったため、町奉行所から増築を禁止し、規定以上の分は建直しのとき縮小するよう申渡しが行われたりしている。自身番屋の多くには、屋根に火の見を設けていた。火の見の構造は枠火の見で、建て梯子をかけ、半鐘をつるしてある。火の見の総高は二丈六尺五寸、枠高三尺五寸、幅三尺五寸四方、一丈五尺の建て梯子を枠内に建ててあった。自身番屋内には纒・鳶口・竜吐水・玄蕃桶などの火消用具が常備されており、半鐘が鳴らされると町役人・火消人足が自身番所にかけつけ、道具を持ち出し、勢揃いしてから火事場に赴いた。番人の賃金、建物の維持改修費、火消用具などの備品費など、自身番所の諸費用はすべて町入用をもって賄われた。

 *じしんばん‐しょうぎ【自身番将棋】:自身番の番屋で、つれづれにさす下手な将棋のこと。床屋将棋、縁台将棋の類。

(122-8)「一段」:(多く「と」を伴って用いる)ひときわ程度がはなはだしいさま。きわだ

っているさま。いっそう。格別に。

(123-1)「宿預(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(123-2)「宜(よろしく)」:〔副〕形容詞「よろしい」の連用形から。漢文訓読で「宜」の字を「よろしく…べし」と読むところから、そうすることが当然であったり、必要であったりするさまを表わす語。すべからく。まさに。ぜひとも。必ず。

 *「宜は、漢文訓読の再読文字で、「宜」だけで、「よろしく~べし」と読む。テキスト影印は、「宜可有之」と「可(べき)」が重複するが、和製漢文といえる。

 **功宜為王 【功(こう)、宜(よろ)シク王(おう)為(た)ルベシ】(『史記』)

   [功績からすれば、王となるのがよろしい]

(123-7)「未召捕ニ不相成」:「未」は漢文訓読の再読文字で、「未」だけで、「いまだ~ず」だが、テキスト影印は、「不」があり、「ず」が重複するが、これも和製漢文。

(123-8)「詰木石町(づみきいしちよう・つみきいしちょう)」:江差町字愛宕町。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。地名の由来は、松浦武四郎『再航蝦夷日誌』によれば、沖合いに潮の満ちる時現われ、潮が引く時隠れるというウツメキ石があることによるという。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川(くそうがわ)町・豊部内(とよべない)町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新(かわらしん)町・中新(なかしん)町・北新(きたしん)町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(124-3)「落着(おちつき・らくちゃく)」:事件などが治まること。物事の解決。

(124-3)「又候(またぞろ)」:副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの)。類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語。なんともう一度。こりもせずにもう一度。

 *またぞろ‐かたきうち 【又候敵討】:敵討をしようとしながら返討(かえりうち)にあ

ったため、また敵討をすること。又候敵討の願は許可されなかった。

(124-5)「町代久右衛門」:P123には、「久左衛門」とある。

(124-9)「一統(いっとう)」:一つにまとめ合わせた全体。総体。一同。

(124-9)「向後(こうご・きょうこう)」:今から後。こののち。今後。もと漢語で、平安時代の漢文資料に多く見られるが、鎌倉時代以降国語化が進み、口頭語・記録語の中に定着した。時代を問わず漢音で「きゃうこう」と読まれたが、江戸時代には「かう(呉音)+ご(慣用音)」という読み方もされた。

(125-4)「風邪(かぜ・ふうじゃ)」:鼻、のど、気管などの上気道のカタル性炎症。「医心方‐三・風病証候・第一」に「黄帝大素経云風者百病之長也」とあるように、万病のもととされた。感冒。ふうじゃ。かぜのやまい。

 *「風邪」:「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。

(125-6)「西館稲荷(にしだていなり)」:「西舘」は、現松前町字西館・字唐津・字愛宕。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松

前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。当地は上級家

臣の屋敷地とされ、シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に西館町とみえる。享

2年(1717)の「松前蝦夷記」には当町域とみられるなかに西立(にしだて)町・端立(

たて)町・端立中町・今(いま)町・西立寺(にしだててら)町が載り、宝暦11年(1761)の

「御巡見使応答申合書」では西館町・端立町・今館町・端立中町・西立寺町がみえ、文化

4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史

料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。文化頃の松前

分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。

家の北に稲荷社がある。稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7

(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38

(1905)徳山大神宮に合祀された。

(126-1)「飯鉢(いいばち・めしびつ・めじばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。めしばち。

(126-4)「申口(もうしぐち・もうしくち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(126-7)「正行寺(しようぎようじ)」:松前町字豊岡にある寺院。近世の松前城下に所在。文化(1804-18)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華ほつけ寺がある。浄土宗、護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。

『蝦夷嶋巡行記』2月学習分注記                

(7-1)「雨垂石村(あまだれいし・むら)」・・『渡島日記』には、「雨垂石村、従赤神村十丁四十間、人家十五軒、~村内に雨垂石と云大岩有。是に注連を張たり。頗る神威よし。」とある。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、赤神村の北方、茂草と赤神川に挟まれた地域にあり、西は日本海に面する。地名は当地にある雨垂石という岩に由来するという.

(7-2)「ふだん水のたるゝ事」・・「ふ」は「婦」、「た」はいずれも「多」。「ゝ」は前の単語を繰り返す踊り字。

(7-2)「点蹢(てんてき)」・・「蹢」は「滴」か。「点滴」は、しずく、雨だれ。雨垂石を「点滴石」ともいう。

(7-3)「名とせし」・・影印の「勢」変体仮名。「せ」の字源。

(7-3)「茂草村(もぐさ・むら)」・・現松前町茂草。『渡島日記』には、人家に十七軒。大島を戌(西北西)の初針)、小島を未(南西)の正中に見る。浜は砂原、上は平野にして畑地によろし。土人、好て蕪、馬鈴芋を作りて常食に当り。」とある。一行は、ここで、休憩をした。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、雨垂石村の北方にあり、日本海に注ぐ茂草川河口域に位置する。

(7-4)「清部村(きよべ・むら)」・・現松前町清部。町の北西部。『渡島日記』には、「人家五十二軒。従茂草三十二丁四十間。村の上に穴居跡多し。漁者にして畑もの大根、蕪、馬齢芋、栗、稗を作る。海中に二ツ石と云奇岩有。」とある。

(7-4)「けはしき坂」・・影印の「希」は「け」、「者」は「は」、「幾」は「き」。『渡島日記』には、「カド岩岬の上を越る。八丁十間、境目、茂草境三十一丁三十五間。此処海岸絶壁有て通り難し。」とある。

(7-6)「越て」・・影印の「帝」は「て」。

(7-6)「江市町村」・・影印の「市」は、「良」か。「江良町(えらまち)村」。現松前町江良。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。『渡島日記』には、「人家八十四軒、文化度三十七軒有しと。旅籠屋、荒物屋等有。~弁才十二艘を繋ぎ沖ノ口出張所有。」とある。

     一行は、ここで宿泊。

(8-1)「往還(おうかん)」・・人の行き来する道。

(8-3)「下れば」・・影印の「連」は「れ」、「ハ」は「は」。

(8-4)「此処に()て」・・影印の「尓」は「に」。「に」の下の「」は、「て」の挿入記号。

(8-6)「じやばみ沢」・・松前町字白坂。享保十二年所附にみえる地名。江良町村の北方、現二越川を越えた辺りをいう。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「ちやばん 家三軒」とみえるのが早く、ゑら町まちの次に記される。前掲所附でも江良町村、「せそこ内」「ふたこゑ」に続いてあげられる。史料には坂名・川名としてみえることが多く、菅江真澄は「蝦夷喧辞弁」で「蛇喰」の文字を当て、「蛇喰坂を下れば」と記す。「蝦夷日誌」(二編)には「シヤハミ小沢」もみえ、「少しの沢也」と記す。現在はジャヌケとよんでいる。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

 *奥未川から二越川までの間には次のような主な地名がある。

・ノタトマリ大波のことをノタという。大波がでても舟が着けられる場所という意味。

・ゴロタ(転太)大きな丸い石の意味。こうした石がゴロゴロしているところ。

・ソマルへ(ソマヘ・ソマルベ)意味不明。

菅江真澄の「えみしのさえき」によれば、男根のかたちをした岩が磯辺に立っ

ているので、是をあからさまに言わず、地元の人々は是を物語の名で読んで いると説明している。笠石とも呼んでいる。

     ・ミズナシ岩の岬

・ジャバミ(蛇喰・蛇抜(じゃぬけ))石山さんの牛舎のある沢(一本木の沢)付近の北側。土砂が地滑りを起こして大きくえぐれていた。新国道の工事の時には、この地滑りに気が付かずにずいぶん難工事だった。付近は蛇が多く、地滑りでえぐれた地形を見て、昔の人はこの名前をつけたらしい。現在でも名前の通りマムシは非常に多い。(ウェブ『北海道松前観光奉行』より)

      *松前町白坂の「蛇喰」は興味深い例で、享保12年(1727 の古文書や寛政元年(1789)の菅江真澄の紀行「えみしのさへき」などに「蛇喰」 と記されているのだが、現在は「ジャヌケ」と呼ぶという。(齊藤純『蛇抜けと法螺抜け ─天変地異を起こす怪物』より)

      *影印の「志“」は「じ」、「者”」は「ば」、「ミ」は「み」。「み」と「沢」の間の横線-は、「み」と「沢」をつなぐ矢印線。

(8-6)「歩行(かち)」・・乗り物を使わず、自分の足であるくこと。徒歩のこと。

(9-1)「おこしうぬ河」・・漢字表記地名「奥末川」か。『渡島日記』には、「ヲクスエ海岸小石浜。川有巾十間計り洪水の時十七八間に成。歩行わたり。雪解の時、時々怪我人有。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲクスエサワ」とある。

(9-2)「原口村(はらぐち・むら)」・・松前郡松前町字原口・字神山。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、江良町村の北方にあたり、西は海に面する。地名の由来について「地名考并里程記」に「夷語バラコツなり。則、広き渓間と訳す。扨、バラとは広き又ハ打開けたる所をいふ。コツは水なき渓間亦は窪むと申事にて」と記される。一五世紀中葉に道南十二館の一つ原口館があったという(新羅之記録)。当村に続けて五枚間・おつこの木坂・かきかけ坂・五郎左衛門坂・堂の坂、「彦四郎沢 合三十六丁一里」、とちの木き沢が載り、小砂子村(現上ノ国町)に至る。「此間断崖絶壁景気尤も妙也」であった。「行程記」は「大難所あり。此辺冬は雪にて道を失ふことあり船をよしとす」と記す。

(9-3)「おんこの木沢」・・『渡島日記』には、「三ノウタ沢〔小流、三丁四十間〕、ヲンコノ木沢〔二丁三十間〕、カギカケ沢〔小沢〕此処村境(原口・小砂子)なり」とある。又、『罕有日記』には、此辺の地形について、「蓑歌沢、ヲンコノ木沢、願掛沢、彦四郎沢、橡の木沢、相泊沢渉降ともに険はし、中に就て願掛、彦四郎の二沢険悪にして深し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲンコノキ」とある。

(9-4)「小砂子村(ちいさご・むら)」・・現上ノ国町字小砂子など。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。北の石崎村との間に「堺川」「めのこしわしり」「もつ立石」「はちかみ沢」「泉沢」「大滝」「矢立石」「あふみ沢」「らしたつへ」が記される。「めのこしわしり」はメノコシ岬、「はちかみ沢」は初神沢はじかみさわ、「あふみ沢」は鐙沢、「らしたつへ」はラスタッペ岬などと、海岸沿いの現在地名に比定される。

102.3)「石崎村」・・現上ノ国町石崎。町の南部。南境を石崎川が西流し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「人家七十五軒(文化度三十七軒)。浜形申八分向。人家川の北岸に立並び、」、「往古は松前内蔵の領分なりしと。」とある。

10-3)「はねさし村」・・現上ノ国町羽根差。町の中央部。長内川下流右岸に位置し、西は日本海に面す。長内川右岸は小さく突き出た岬状を呈し、この岬北側の海岸にはかって集落が形成されたが、現在人家はない。『渡島日誌』には、「羽根差村人家十五軒汐吹村分也。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「羽子サシ」とある。

10-3)「塩吹村(しおふき・むら)」・・現上ノ国町字汐吹・字扇石。町の中央部。西は日本海に面す。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「此日塩吹村泊り。家数四拾三軒、人数百三拾六人。木古村昼休。蠣崎将監知行所なり。一ケ年収納豊年には五六百両もあり。鯡漁、図合船一艘にて凡金百両余の渡世になる。諸入用は弐拾両程の費なり。此十四五年鯡漁なく、凶年にて甚だ困窮といへり。」とある。地名の由来は、沖合の汐吹岩が、西風の強い時に鯨の潮吹きのように汐を吹き上げるkとに由来するという。

10-4)「方(ほう)」・・四角形。方形。その形であるさま。正方形の一辺。

10-5)「しほふき石」・・「志」は「し」、「本」は「ほ」、「婦」は「ふ」、「幾」は「き」。「汐吹石」は、汐吹岩は別名大文字岩と呼ばれ、現在は汐吹港防波堤の一部となっている。『渡島日誌』には、「汐吹石とて汐の打込時数丈烟霧を噴上る石有。是を牛坂の半腹より見る時は頗る奇也。」とある。また、『罕有日記』では、「径り三十尋許の隆然たる巨巌なり、其色灰に似て其形稜角あり、~、巌下窟をなし西風には潮水窟に入って上部へ吹出す体なり。昨夜より東風強きが故に潮水洞窟を漬かず、塩吹の空し、不見は遺憾多し。」としている。     

10-6)「扇石村(おうぎいし・むら)」・・現上ノ国町扇石。町の中央部。東は山林、西は日本海に面す。『渡島日誌』には、「人家十五六軒。汐吹村の出郷なり」とある。

10-6)「木の子村(きのこ・むら)」・・現上ノ国町木ノ子。町の中央部。西は日本海に面す。北部を小安在川が西流する。地名の由来は、木の切り株からキノコを産したことによるとの説がある。『渡島日誌』には、「人家四十九軒、文化頃も同じ。此辺に至るや馬大に少きよし也。此村畑作多し。此村には商人多し。」ともある。

11-1)「あんさい沢」、「小あんさい沢」・・『渡島日誌』に、「小アンサイ、大アンサイ共に小川 両岸広地流屈曲して深し。」とある。

11-2)「虎之沢」・・『渡島日誌』に、「トラ川 小川、夏分は此処より野に上り、上の国八幡の傍に下るによろし。秋過より冬春は通り難し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「トラノサワ」とある。

11-2)「初秋」・・旧暦では七月。旧暦の季節区分は、春は正月、二月、三月。夏は四月、五月、六月。秋は七月、八月、九月。冬は十月、十一月、十二月。なお、閏月は前の月(例:閏七月は七月)に付く。

11-3)「よしや沢」・・「蝦夷巡覧筆記」には、大アンサイにはトラノ沢・ヨシカ沢などの沢があり、沢中に畑地がある。シネコ(洲根子)岬を経ずに上ノ国村に至る山道がある。『渡島日誌』には、「ヨシ沢、小沢。従レ是野道十余丁を過て、医王山より九折を下り坂下に出る。ヨシ沢、是上の国村境なり、汐吹村境より一里三十四丁、従レ是海岸は大岩立重、歩行道なし。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヨシカサワ」とある。

11-4)「しねか崎」・・和名「洲根子」を当てる。『渡島日誌』では「戻子(ス子コ)岬」、『罕有日記』では「シコロ子崎」につくる。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ス子コサキ」とある。

11-4)「上之国村」・・現上ノ国町。北海道の南西部。桧山地方の南端に位置し、北は江差町、厚沢部町、東は木古内町、南は知内町、福島町、松前町に接し、西は日本海に接する。『北海道市町村行政区画便覧(昭和307月、北海道自治協会)』によれば、その開基と沿革は、「村名上の国の由来は、応永年間に安東氏の一族が湊家を起し、津軽大光寺西浜上三郡を領し、上の国と称したことによる(他の一族は津軽下三郡を領し、下の国と称した。)。上の国は七百年の歴史を有する本道最古の村である。昔源頼朝の奥羽征伐によって、敗残の将士の多くが、蝦夷にのがれ、その一派が上の国に来て館を築いた。それが花沢館である。後、松前藩祖武田信広が若狭より渡って、花沢館に遊客中、折から乱を起こしたアイヌの酋長コシャマインを斬って勇武を顕し、以後勝山城を築いて全道に号令するに至った。」とある。

11-5)「高き坂」・・『罕有日記』には、「緩やかな昇り二町余りにて上之国嶺上に至る。下り臨めば江差港より上之国喜多村の村落掌を指すが如し。」とある。

11-6)「北村(きた・むら)」・・現上ノ国町字北村・字内郷。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村・大留村の北、天ノ川の河口北側に位置する。北は椴川を挟んで五勝手村(現江差町)、西は日本海に面する。元禄郷帳・享保十二年所附に喜多村、天保郷帳には北村とみえる。『渡島日誌』には、「北村 人家八十六軒、文化度七十軒。人家多く、畑作り、山稼、鯡の稼等也。」とある。

11-6)「御勝手村(ごかってむら)」・・現江差町南浜町付近。町の南部。上の国との境。『渡島日誌』には、「五勝手村、人家百三十七軒。浜形酉五六分。海岸砂地なり。入口柏森大明神、下に地蔵堂、金毘羅堂、恵比寿堂。」とある。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士ぶし川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。

11-6)「江差村(えさし・むら)」・・現江差町。北海道南西部、檜山地方の南部に位置。北は乙部町、東は厚沢部町、南は上ノ国町に接し、西は日本海に面する。『市町村行政区画便覧』による開基及び沿革には、「文治五年源頼朝が奥州を征めた時、南部津軽の人達が本道にのがれ現在の松前、江差付近に占居したのが開拓の初めである。延宝六年に松前氏が檜山を開くに当たって、江差に奉行を置き、檜の伐採と補植を行い、あわせて、一般民政を掌らしめたのが、管内における置庁の始まりである。」とある。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「江差村泊、家数八百八拾九軒、人数三千五百十二人」、「当所は、松前、箱館同様繁昌の湊にて、浜辺には小屋懸けの内にガノズ 売女の事也 幾人ともなく並び居、三味線を引、松阪節をうたふ。」とある。『渡島日誌』には、江差の繁栄について、「人家三千余軒、四月より五六七月の間の盛なる事、是を未央還(みおうかん~未だ半ばに至らずかえる)と号て、北地より帰る処の船々、岸に纜(ともづな)を繋ぎ、実にめざましき事なり。」としている。一方、『罕有日記』には、「戸数凡二千許り。松前、箱館、此地を以て三港と称す。船懸りは中等なるべし。繁栄はニ港に劣る事遥かなり。」としている。『角川日本地名大辞典』には、「元禄年間(1688~1704)に入って魚肥の需要が高まると、藩の生産主体が鯡漁業へと移行し、享保~寛延年間(1716~51)にかけ、場所請負制が成立し、藩の生産構造が確立した。この推移の中で江差港は、西蝦夷地鯡漁業の基地、生産物の集荷地、交易港として急速に発展した。」、また、「江差港は、慶長15(1610)近江商人の福島屋田付新助を先達に、寛永7年頃から近江商人が続々進出して出店を設置、彼らの商取引ルートの中で、商港としての基盤が確立した。その中で、近江商人の手代や舟子、杣夫・漁夫が、主として北陸から渡来、定住するようになり、彼らの中から独立して地場商人(江差商人)に成長するものが出てきた。寛政年間(1789~1801)に入ると、自由商取引の気運が高まり、西廻海運の安全性確認もあって、近江商人の蝦夷地取引独占の荷所船に対抗して、瀬戸内、北陸商人の買積船(北前舩)が雄飛するようになると、江差商人も彼らと取引し、北前舩の経営に乗出す者が出てきた。近江商人は、場所請負制の確立もあって、資本家にとて有利な場所請負人となり、生産面の経営にあたり、江差の出店を閉鎖した。天明~寛政年間(1781~1801)頃には、江差港の商権は、地場商人(江差在郷商人)の手に移り、北前舩商取引時代に入り、江差港は繁栄期を迎え、北前舩の終焉する明治30年代まで続いた。」とある。

11-6)「はげ山」・・夷王山(標高159メートル)。夷王山は、松前氏の祖武田信広や蠣崎氏一族の居館・勝山館の「詰めの丸」といわれ、山頂に、武田信広を祀る夷王神社がある。

11-6)「松前氏の先祖」・・松前藩の藩祖は、蠣崎季繁の娘と客将武田信広との子の「松前慶広」であるが、当初「蠣崎慶広」と称していたが、文禄2年(1598)秀吉より本領松前を安堵、蝦夷一円の支配が認められ、慶長4年(1599)、「蠣崎」の姓を「松前」と改称。同9(1604)家康よりも蝦夷地の支配権を保証されたことにより、徳川幕藩体制の下における松前藩が成立している。(『新編物語藩史』 新人物往来社)。なお、『罕有日記』には、「寛永の系図に、松前の元祖若狭守信広、上之国の城主蛎崎修理太夫の家督を継ぐと記したり。」ともある。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018212日(月・祝日)13時~16時   

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の記録。

  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

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