【書誌】
本書は、北海道立博物館が所蔵する『林家文書』の内、3代目の林長左衛門が、嘉永7年(1854.安政元年)2月1日から●月●日までの間、家業の余市場所請負に関係する事柄や松前藩の場所請負人仲間との付き合い、林家の祭祀や親類筋や友人との付き合いなど、日々の出来事を書き留めた日記の控(『日諸用留』)の影印本である。
【林家の由緒】(『北海道史人名字彙』より)
林家の初代長七は、出羽国由利郡塩越村(現秋田県にかほ市象潟町)出身で、文化元年(1804)に松前に渡り、名前を長左衛門と改め、家印を「上」、屋号を「竹屋」と称し、松前町枝ケ崎町に商店を開く。文政元年(1818)から文政7年(1824)まで厚岸場所を請負、文政3年(1820)(或は6年とも。)から余市場所を請け負う。以後4代の間、余市場所の請負を継続して、明治2年(1869)に至る。なお、林家は、明治13年(1880)、本籍を福山(松前)から余市郡山碓町に移している。
この間の林家の業績としては、
・天保10年(1839)、余市大浜からフコベに至る約1里の道路を開削。
・弘化3年(1846)、鯡建網を新設。
・安政3年(1856)、余市入稼漁民及び(忍路場所請負人)住吉屋徳兵衛、(岩内場所請負人)仙北屋仁左衛門と共に、余市山道12里を開削し、翌4年完成す。
・同3年(1856)、余市古平間山道の内2里を開削。
・同5年(1858)、余市山道ルペシペに通行屋を設く。
・同6年(1859)、松前藩より苗字帯刀、町年寄を命じられ、一代徒士席に列せられる。
・慶応元年(1865)、藩主松前崇広老中拝命の時、金二千両を献上。
などが挙げられる。
備考:林長左衛門履歴(道立図書館所蔵)に、文化9年(1812)から同13年(1816)まで、虻田場所を請け負う旨の記載があるが、同9年(1812)は、松前奉行の直捌、同10年(1813)以降は、和田屋茂兵衛の請負となっている。或いは、茂兵衛の下請負をなせるか、不明なりと、河野常吉は、疑義を呈している。
【時代状況】(『新北海道史年表』より抜粋)
―嘉永6年(1853)―
6月3日、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も寝れず」の狂歌で
知られるアメリカのペリーの浦賀来航、更に、7月には、ペリーの来航を聞きつけたロシアのプチャーチンの長崎来航と、立て続けに外国からの開国などの要求がなされ、国内は、驚天動地し、「攘夷」の国論が沸騰、開府以来250年続いた徳川の幕藩体制に大きなヒビ割れが生じた。
そうした中、蝦夷地では、松前藩の蝦夷地支配を揺るがすような「北方の脅威」が現実
化する事件が生じた。8月、ロシアの陸軍少佐ブッセら陸戦隊73人が北蝦夷地(カラフ
ト)クシュンコタンに上陸、ムラビヨフ哨󠄀所を築き、駐留し、占拠する事態が生じた(な
お、翌年5月に退去)。報告を受けた松前藩は、9月に藩兵二隊を出兵させるが、時季的
に渡海できず、ソウヤとマシケに逗留、越年を余儀なくされた。
―嘉永7年(1854)/安政元年11.27改元―
嘉永7年は、年明けとともに、幕政は、再び大混乱に陥った。1月、ペリーが米艦4隻
を率いて、江戸湾に再来航。3月3日、日米和親条約を締結し、薪水などの供給のため下
田・箱館港を開港することを決定、ここに徳川幕府が祖法とする「鎖国体制」が崩壊した。
また、2月、幕府は、目付堀利熙と勘定吟味役村垣範正に蝦夷地巡見を命じ、3月、江
戸出発、5月4日松前に到着し、西廻りで、蝦夷地の調査を始め、西蝦夷地~北蝦夷地~東蝦夷地を経由し、8月、箱館に帰着。
この間、3月、松前藩の一番隊がクシュンコタンに到着、4月、ロシアの陣営を視察、
その後、松前藩とロシア側との会見などを行ったが、突然、5月17日、ロシア側は、駐留
のロシア兵を撤兵しクシュンコタンを去った。
こうした中、幕府は、6月26日、松前藩より、箱館及び5・6里を上知するとともに、
箱館奉行を再置し、竹内保徳を奉行に任命し、蝦夷地の直支配を開始した。
年末も押し迫った月21日、幕府は、ロシアとも日露和親条約を締結し、下田・箱館・
長崎の開港期日及びカラフト(北蝦夷地)は従来通り雑居地と決定。
―安政2年(1855)―
1月、箱館奉行、私領(松前藩領)中の箱館の町役所(町年寄・名主の詰所)を、町会
所と改称するとともに、2月22日、幕府、松前藩に東部木古内村以北・西部乙部村以北の
地を上知させ、箱館奉行の管轄とし、東・西蝦夷地、北蝦夷地は、幕府の直領となった。
『林家文書-日諸用留』注記(P1~P5右)
(P1―表紙)「甲嘉永~」:表紙の読み順、「甲・寅・嘉永七年・正月吉日 日諸用留」。
(P1-1)「嘉永七年」:「嘉永七年」は、御所の炎上やペリー再来航などにより、11月27日に「安政」に改元された。
(P3-左1)「二月大」:嘉永7年の2月の日数は、「30日」であることを示す。旧暦では、月の日数は、「30日―大の月」、「29日―小の月」としている。
(P3-左2)「初午祭礼」:旧暦2月最初の午の日に、稲荷神社(宮)で行われる祭り。『箱館風俗書』には、「稲荷勧請有之者、籏相建、出入其外懇意の子供等相集り、太鼓打鳴らし、祭礼仕候仕来りに御座候」とある。松前も同様か。
(P3-左3)「稲荷宮」:五穀を司る倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀った社。「御稲荷さん」として敬い、キツネを稲荷神の使いとする俗信がある。松前町西館町にあった。明治38年徳山大神宮に合祀された。
(P4-右2)「小ヽもの」:小皿のものは、「小(こ)、ヽ(こ)もの」で、「香の物(漬物)」の訛。『江戸語の辞典』に、「こうこう(香々)」として、漬物。または、みそ漬け、糠漬、塩漬などの総称とある。
(P4―右3)「平」:「平皿」のこと。
(P4-右3)「とふふ」:「とうふ=豆腐」のこと。
(P4―右3)「味そ煎(に)」:影印の「楚」は「そ」。影印の「前+火」は、「煎」の異体字。「(とうふの)みそ煮」のこと。
(P4-右2)「廉」:「簾(すだれ、す)」か。「御簾(神前のすだれ)」のことか。
(P4-右4)「佐々木勝司」:稲荷宮の神主。『渡島日誌』に「稲荷社、慶長十年造営申上書、神主佐々木とす。」とある。
(P4-右5)「御時節柄」:この年1月10日、松前藩から「諸局において倹約を厳守するよう重ねての諭告」がなされている。
(P4―右6)「品川氏」:松前藩士か。「品川」の姓の藩士は、嘉永六年の『御扶持家列席帳』によれば、「中之間御中小姓 品川佐左衛門」、「中之間御中小姓 品川傅次郎」、また、嘉永六年『御役人諸向勤姓名帳』によれば、「御用之間次勤 品川藤五郎」の3名の名前がみえる。
(P4-右6)「志村氏」:松前藩士か。「志村」姓の藩士は、嘉永六年の『御役人諸向勤姓名帳』によれば、「北御納戸 志村始」、また、嘉永六年『御扶持家列席帳』によれば「士席御先手組 志村善治」の2名の名前がみえる。
(P4-右6)「〇(十五)(ハマ・まる・じゅうご)」:家印(商号、暖簾印とも)「〇(十五)」は、 屋号では、阿部屋(分家の村山傅次郎。当時のイシカリ場所の請負人。)。なお、〇の右肩の文字「ハマ」の意は、「浜」で、イシカリ場所をさすか。P28-左5に「濱〇(十五)」の家印表示がある。
(P4―右6)「正(まる・しょう)」:屋号不詳。
(P4―右6)「/\・一(いち・やま・とおし)」:「△・一(いち・うろこ・とおし)」とするものがある(『屋号入り文月地域電話帳』)。屋号は、「柾屋」(宗兵衛)。
(P4-左1)「/\・丸(やま・まる)」:屋号は不詳
(P4―左1)「キ」:家印キ印は、屋号塩越屋(庄兵衛)。船問屋・廻船問屋。(『松前町史』「千島講定宿帳」より)
(P4-左1)「ヿ・田(かね・た)」:屋号は、「大津屋(武左衛門)」。船問屋・廻船問屋。(「千島講定宿帳」より)
(P4-左1)「ヿ・大」(かね・だい)」:屋号は不詳。
(P4―左1)「早坂文嶺」:松前藩の画師。弘化年中、松前藩に仕へ、士籍に列す。最も仏画を善くす。蝦夷人を描くときは、殊に、「二司馬(ニシパ=貴人)の号を用ふ。
(P4-左2)「三浦屋清治郎」:不詳。
(P4-左2)「上(まる・じょう、まる・うえ)」:宝暦4年(1754)の両浜組合議定書(新北海道史所収)のうちに「上替田儒三郎」の名前がみえる。子孫か。
(P4-左2)「メ・カ(しめ・か、しめ・りき)」:屋号は不詳。もしかして、「入・カ(いり・か)」、「メ・カ(ちがい・か、ちげ・か)」、「/\・カ(萬屋半治郎)」か。
(P4-左2)「/×\・上(ちがいやま・じょう(うえ))」:「つがいやま」とも。または、「/×\」は、「やまやま」か。屋号は不詳。
(P4-左4)「合下も風」:『松前蝦夷記』の「風之名之事」として「間下風=北東の風」の記載がある。
(P4-左5)「合気(あい(の)け)」:「合」は、「合の風=間風(北風)」、「気(け)」は、「気配、模様」。「北より気味の風」の意
(P5―右1)「番船(ばんせん、ばんぶね)」:①港や河口などで見張りをする船。②江戸時代、上方から新綿・新酒を早く江戸に送るため、江戸到着の順番を争った菱垣廻船新綿番船や樽廻船の新酒番船の略称。ここでは、各請負場所から、鯡・鮭などの海産品を、搬送する船(北前船などの弁財船)をいうか。
(P5-右2)「御奉行」:松前藩の町奉行をさす。当時の町(寺社)奉行は、新井田嘉藤太、三輪持、飛内策馬。
(P5―右3)「御書取」:御奉行の申渡し(口頭)を書きとること。
(P5-右3)「御用留」:上記の書きとった書面の控え。
(P5―左1)「叔(じゅく、しゅうとめ)」:ここでは、妻の母。姑と同義。名前は、「とみ(見)」、「とめ(免)」か。
(P5-左2)「娘」:名前は、「さ(左)き」、「は(者)き」か。
(P5―左3)「弟」:名前は「吉太郎」、「直太郎」か。
(P6-左1)「三厩」:青森県東津軽郡外ケ浜町の内。津軽半島北西部の旧村。江戸時代、蝦夷地(松前藩)への渡航基地。
(P6-左1)「押切」:「押切船」のこと。押渡船とも。百石位の小型の旅客專用船で、手漕ぎ・帆走の併用船。
(P6―左2)「吉岡村」:現福島町吉岡。近世、東在(松前の東側の地域)の一村。
(P6-左2)「落船(おちぶね)」:潮や風に流され、目的地外の港などにたどり着いた船のことか。『難字と難解語の字典(前田政吉)』では、「落船(らくせん) 入港すること」とあるが、単に「入港する」とすることには疑義がある。
(P6―左5)「冨永氏」:松前藩士。嘉永六年の「御役人諸向勤姓名帳」には、「冨永」姓の者が、①御作事奉行出役冨永寛治、②御用部屋次勤冨永寛平、③町下代冨永与三兵衛の3名の名がみえる。
(P6―左5)「于今(いまに)」:①近い将来。そのうち。②今になっても。未だに。(下に打消しの語を伴うことが多い。)。ここでは、②の意。
(P6-左6)「御勘定方」:幕府の勘定奉行(勝手方)支配下の「勘定所」に属する幕吏。
(p6-左7)「御小人目附」:徒目付に従属し、御目見以下の者を監察糾弾する役。十五俵一人扶持、御譜代席。
(P6-左7)「徒士目附」:「徒目付」とも。目付の名を受けて探偵をし、城内の宿直、大名と登城の際の玄関の取締り、評定所、伝送屋敷、紅葉山、牢獄への出役を行い、目付の命により、旧規の調査などを行う。百俵五人扶持御譜代席。
(P6―左7)「御普請役」:勘定所に所属する下僚。三十俵三人扶持。