森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

8月 町吟味役中日記注記

                    

(69~2-2)「某(それがし)」:自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。

  *他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

  *「某某(なにがしくれがし・それがしかれがし・なにがしかがし・ぼうぼう)」:だれそれ。なにがしそれがし。

某某と数へしは頭中将の随身、その小舎人童(こどねりわらは)をなむ、しるしに言ひ侍りし」〈源・夕顔〉

(69~2-3)「殿様(とのさま)」:松前藩10代藩主・章広(あきひろ)。

  *「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。

(69~2-3)「御参府(ごさんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。章広は、この年、1012日松前出帆、118日江戸着、15日将軍家斉に拝謁している。

  *松前氏の参勤交代の様相(『松前町史』より):

  ①.初期は、参勤の間隔が長く、かつ、かなり不規則だった。

    *寛政12(1635)、参勤交代を制度化(武家諸法度)

イ. 寛永13年(1636)~慶安元年(1648)までは、31

ロ. 慶安2(1649)~延宝6(1678)までは、61

ハ. 以後、元禄4(1691)まで、31

ニ. 元禄12年以降、61観。

  ②.梁川移封期の文化4年(1807)~文政4(1821)は、江戸参府は隔年参府であった。

  ③.文政4(1821)12月の復領に伴い5年目毎参府となった。

  ④.天保2(1831)1万石格の実現により、隔年参府。

  *「参府」の「府」:原意は、重要な書類、財物をしまっておく「くら」の意。転じて役所の意味に使われた。日本では、国司の役所が置かれていた所を表し、江戸時代、幕府のあった江戸をさしていう。「在府」「出府」など。

(69~2-3・4)「提重(さげじゅう)」:提重箱。提げて携帯するようにつくられた、酒器、食器などを組み入れにした重箱。小筒(ささえ)。

(69~2-7)「昨」:日偏が省略され、「﹅」になる場合がある。

(69~2-7)「夜」:決まり字。

(69~2-7)「夜五つ時」:午後8時。

(69~2-8)「他出(たしゅつ)」:よそへ出かけること。外出。他行(たぎょう)。

(69~2-8)「宿元(やどもと)」:泊まっている家。宿泊所。

(70-3)「面体(めんてい)」:かおかたち。おもざし。面貌。面相。

(70-5・6)「うづくまり」:「蹲(うずくま)る」の連用形。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

   <仮名づかいは、平安時代の諸資料から見ても「うずくまる」が正しいが、中世後期から「うづくまる」が目立ちはじめ近世には一般化、「和字正濫鈔‐五」も後者を採る。

  類義語「つくばう(蹲)」あるいは「うつむく(俯)」「うつぶす(俯)」などの影響が考えられよう。近世には「うづくまふ」の形が散見され、「つくばう」にも「つくまふ」「つくばる」の異形がある。>とある。

(70-8)「箪笥(たんす)」:ひきだしや開き戸があって、衣類・書物・茶器などを整理して入れておく木製の箱状の家具。

  *<(1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(70-8)「正金(しょうきん)」:強制通用力を有する貨幣。金銀貨幣。補助貨幣である紙幣に対していう。

  *影印の「正」は、つぶれている。

(71-1)「溝江弥太郎」:松前藩町奉行配下の町方。

(71-5)「」:「のみ」。漢文の助辞で、「のみ」は、漢文訓読の用法。ほかに、「すでに」「やむ」「はなはだ」の訓がある。

  *また、「以」と類似の用法で、「上」「下」「前」「後」「来」「往」などの語の前に置かれ、時や場所、方角、数量「已上」「已下」「已然」「已後」「已来」「已往」などの熟語をつくる。

  *影印の「已」は、「己」に見えるが、筆運び。

  

(71-9)「儀倉門治」:松前藩町奉行配下の町方仮勤。

(71―9)「小野伴五郎」:松前藩町奉行配下の町方仮勤。

 

(71-9)「東西在々」:東在(松前より東の村)と、西在(同西の村)。

(72-1)「家内(かない)」:妻。自分の妻を謙遜していう場合が多い。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

  現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(72-3)「壱夜宿」:売春すること。

(72-3)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:①)江戸時代の刑罰の一つ。手錠をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。

  ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手錠をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

(72-8)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では、「処」が本字で、「處」は別体であるが、後世、「処」は「處」の俗字とみなされた。その俗字の「処」が、常用漢字になった。

(73-3)「申口(もうしぐち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(73-8)「旅籠屋(はたごや)」:宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。食糧持参で宿泊費だけを払う「木賃(きちん)泊まり」の宿屋に対して、食事付きの宿屋をいう。

  *語源は「旅籠(はたご)」(旅行の際、馬の飼料を入れて持ち運ぶ竹かご。また、食糧・日用品などを入れて持ち歩くかご)から。

2020年8月開催古文書解読学習会のご案内

2020年8月開催古文書解読学習会ご案内
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2020810日、8月18日:(同一内容です):いずれも13時~16時(同一内容です)

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

① 『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。(北海道大学附属図書館蔵)

② 『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵)

 代表:深畑勝広

事務局:森勇二 電話090-8371-8473 

メール:moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

6月例会中止

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、月8日(月)予定の札幌歴史懇話会6月例会を中止します。
なお、7月は、6日(月)=1~3班、
13日(月)=4~6班の
分散開催とします。テキストは『周廻紀行』P12~18です。『吟味役中日記』は8月に学習します。

『周廻紀行』次回学習分注記

              

(12-1)「そなた」:「其方」。そちらの方。そちら側の所。反対語:此方(こなた)。

(12-1)「たつき」:「手(た)付き」が語源と思われ、本来、物事にとりかかる手がかり。「手」を「た」と読むのは、国訓。動詞上につき、手に関する動作であることを強調する。「手(た)折る」「手(た)向く」など。なお、「手綱(たづな)」「下手(へた)」など名詞でも「た」と読む熟語がある。「下手(へた)」は熟字訓。

(12-2)「石狩」:現石狩市。「イシカリ」。コタン名・河川名・山岳名のほか、場所名や運上屋の所在地として記録されている。広義の「イシカリ場所」は、石狩川およびその支流に設置された場所(持場)の総称としても用いられ、イシカリ16場所(後イシカリ13場所)ともいわれた。一方、狭義の「イシカリ場所」は、場所請負人の運上屋・元小屋などのある石狩川の河口部をいう。幕府の直轄地以前の「イシカリ場所」は、夏商い(夏場所)は藩主と家臣、鮭の秋交易は藩主の権利で、商人へ請負に出されていた。また、宝暦2(1752)頃から明和5(1768)頃までは、飛騨屋が、イシカリ山の伐採を行っていた。その後、文化4(1807)、西蝦夷地が幕府の直轄地になると、弘前藩が警備に当たり、藩士189名がイシカリ詰となった。場所の経営は、入札方式が取り入れられ、文化11年(1814)に阿部屋伝兵衛が、5つの持場を請負い、文化12年(1815)以降は13場所の請負い、文政元年(1818)からは秋味も一括して請け負うようになった。当初運上金は夏商いが22百両、秋味が2250両であった。

(12-2)「ズリイ船」:「図合(ズアイ)船」のことか。江戸時代から明治期にかけて、北海道と奥羽地方北部でつくられた百石積以下の海船の地方的呼称。小廻しの廻船や漁船として使われた。船型は水押付の弁才船系統であるが、百石積以上の廻船を弁才船として区別するため特に呼ばれるもの。

比較的大きな漁船で、短距離の沿岸旅行などには、多くこの船が使用されていた。寸法は、 長7間、巾7尺、深2尺5寸(武藤勘蔵『蝦夷日記』)。また、公暇齋蔵『蝦夷嶋巡行記』では、「イベツトウの内江入り、~略~、此処沼浅き故、図合船通らず。夷船に乗替」とあり、水深の浅い沼などでの使用ができないことが記されている。

*三航蝦夷日誌〔1850〕初航蝦夷日誌・凡例「図合船 七十五石より九十五石迄之船を云也。此船近場所通ひに多く用ゆ」

(12-3)「端午の節(たんごのせち)」:五節句の一つ、五月五日の端午の節句。重五。端午の節句は、「菖蒲(しょうぶ)湯」に入り邪気を払う習慣がある。

     *本来は、「端」は初めの意、「午」は「五」と同音で、月の上旬の五日の日をいう。

     *「節」:「セツ」は漢音、「セチ」は呉音。

(12-3)「旅のならひ」:「ならひ」は「習い」。「旅をしているときの常、ならわし。」

(12-4)「思ひきや・・」:意訳「思ってもみなかった。蝦夷地の旅で、五月の夜中に、あやめも見ずに、舟の中で寝るとは」。

(12-4)「思ひきや」:思ったろうか、いや、思わなかった。組成は、動詞「おもふ」の連用形「思ひ」+過去の助動詞「き」の終止形+係助詞「や」。

(12-4)「蝦夷(えみし)」:上代、東部日本に住む中央政府に服さなかった部族。「人」の意のアイヌ語emchiu enchu に由来する語で、アイヌをさすとする説と、特定の異種族ではなく中央政府に服さなかった東部日本の住民をさすとする説がある。

     *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』に「蝦夷(えみし)」の語源説として、

     <(1)人のことを言うアイヌ語の古語エンヂュ、エンチウから出た語〔アイヌの研究=金田一京助〕。エムチュと自分自身を呼んでいた種族を、その時代の日本人はエミシ・エミスと書き、それに蝦夷という字をあてた〔日本語の起源=大野晉〕。

(2)鬚の多いところからエビ(蝦)にたとえたものか〔万葉代匠記・東雅・古事記伝・雅言考・和訓栞〕。

(3)エは赤い意を表わす語。ミシはムシに通じて、ムグメクムシ(蠢虫)にたとえたもの〔松屋筆記〕。

(4)いとわしくて見たくない意のエミジ(得不見)の義〔烹雑の記・大言海〕。

(5)アイヌ人は最も弓術に勝れていたところから、ユミシ(弓手)からの呼称か〔東方言語史叢考=新村出〕。(6)アイヌ語で刀剣をいうエムシまたはエモシから、帯刀者また武人の意に転じ、更に夷人をさすようになったもの〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。>を挙げている。

(12-4)「五月やみ」:五月闇(さつきやみ)。梅雨のころ、雨が降り続いて夜の暗いこと。(夏の季語)

(12-4)「うきね」:「浮(き)寝=船の中で寝ること。」と「憂(き)寝=不安な思いで寝ること。」の掛詞。

(12-5)「五日」:「月」の左側の「ヒ」は、見せ消ち記号。右に「日」と訂正している。

(12-5)「林木(りんぼく)」:林の樹木。

     *「春燕帰巣於林木」[春燕(しゅんえん)帰りて林木に巣くう]

       (春になって帰って来た燕が、国は破れ家屋は壊されていて、巣くう場所がなく、林に巣をかける。)(『十八史略』)

(12-7)「松前の運上屋」:本書時の「イシカリ場所」は、西蝦夷地に属し、松前藩の支配地であり、「運上屋」は、請負場所の経営の拠点であった。幕府の直轄地になったのは、文化4年(1807)。しかし、イシカリ場所など西蝦夷地に置かれていた「運上屋」の名称は、幕府の直轄地になった後も、そのまま「運上屋」の名称が残された。なお、東蝦夷地に置かれていた「運上屋」は、「会所」に改称されていた。

(12-7)「松前あき人共」:「商人(あきんど)」。松前に本店を置く商人たちをさすか。

     *「商人」と「あきんど」と読むのは、「あき・びと」の音変化。なお「商」を「あき」と読むのは、「アキ(秋)の義。稲の熟する秋に交易することから起こった語」など諸説ある。

(12-8)「所々(しょしょ)」:あちこち。ここかしこ。方々。

(12-8)「輻湊(ふくそう)して賑ひ」:混み合って、賑やかであること。

     *「輻輳」:「輻」は車の輻(や)、「輳(こしき)」はあつまる意)。車の輻(や)が轂(こしき)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

          *「輻(や)」:「や」は国訓。車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。

     *「輳(こしき)」:「こしき」も国訓。車輪の軸を受けるまるい部分。

(12-9)「近郷(きんごう)」:近くの村ざと。「近」も「郷」もくずし字の決まり字。「近」のくずし字はひらがなの「を」に似ている。また、「郷」はカタカナの「ツ」に似ている。

     *「郷」:「キョウ」は漢音、「コウ」は呉音。「ゴウ」は慣用音(日本で慣用的に用いられている音)。

(12-9)「近郷に」の「に」:変体かな。字源は「耳」。なお、「耳」を「ニ」と読むのは呉音。「耳」は、万葉かなに「に」の読み方がある。

(12-9)「水深く」の「水」:くずし字の決まり字。

(13-1)「千石船」:米千石の重量の荷物を積める荷船の総称。江戸時代の大型荷船が弁財船で占められ、千石積を基準としたため、いつか、積石に関係なく、弁財船の別名になった。大型船の中にはニ千石積に及んだ船もあった。因みに、『休明光記』に記載の幕府や箱館奉行所の御用船の中には、正徳丸1200石積、神風丸1400石積、飛龍丸1400石積、翔鳳丸1500石積など、千石を超える船の名がみえる。

(13-1)「入つべし」:たしかに入るだろう。組成は4段動詞「入る」の連用形+完了の助動詞「つ」の終止形+推量の助動詞「べし」。「つ」は「べし」で表す判断に確信をもっていることを表す、強調の用法。

(13-1)「風待(かぜまち・かざまち)」:船が順風を待つために停泊すること。「かざまち」と読むのは、音韻上で転音という。「風車(かざぐるま)」「風穴(かざあな)」「風上(かざかみ)」の類。ほかに「船便(ふなびん)」「船底(ふなぞこ)」「船足(ふなあし)」、「雨傘(あまがさ)」「雨宿り(あまやどり)」「雨乞(あまごい)」「酒蔵(さかぐら)」「酒屋(さかや)」なども連音。

(13-3)「されこと哥」:「戯(ざ)れ言歌」。影印の「哥」は、「歌」の略体として用いることが多い。字義は、ふざけて作ったこっけいな和歌。

(13-3)「口すさひぬ」:「口遊(すさ)ぶ」の連用形+動作・作用の完了の助動詞「ぬ」。「口遊(すさ)ぶ」は、詩歌などを浮かんだままをうたうこと。

(13-4)「まつ風」:「松風」と「待つ風」の掛詞。

(13-6)「夏(なつ)の宿」の「夏」:影印は決まり字。「度」に似ている。旧暦では四月から六月までをいう。天文学的には夏至から秋分の前日まで、二十四節気では立夏から立秋の前日までをいう。「なつ」は和語で『日本書記』、『万葉集』にも出てくる。語源説に「ねつ(熱)」「あつ(暑)などがある。

     *「夏」の解字:お面(めん)を付けて舞う人を描いた象形文字。舞冠を被り、儀容を整えて舞う人の形。金文の字形は舞冠を著け、両袖を舞わし、足を高く前に挙げる形に作り、廟前の舞容を示す。古く九夏・三夏とよばれる舞楽があり、古代中国の書『周礼(しゅらい)』にみえる。(『漢字源』)

     *「夏」の部首:「夂饒(スイニョウ)」に属する。俗に「なつのあし」とも。「夂」が「夏」の脚部にあるのでいう。

     *<参考1>「冬」の部首:「冬」の旧字体は脚部が「(にすい)」で、「冫」部だった。「冫」は、篆文(てんぶん)では、「〓」で氷の結晶をかたどり、「氷」の原字。

       「冫」部には、「冴える」の「冴」、「冷」、「凍」など「こおる」「さむい」などの意味を含む文字でできている。その「冬」は、昭和2111月の当用漢字表では「冬」に字体整理され、部首は「冫」部から、「夂饒(スイニョウ)」になり、語源の意味がなくなった。。幸い、「夂饒(スイニョウ)」の俗称に「ふゆがしら」とする辞書があり、救われる。なお、常用漢字になっていない「苳(ふき)」「疼(うず)く」などは、「冫」のままだし、「寒」「終」の旧字体も「冫」。

      *<参考2>「立夏」と「夏至」:「立夏」の「夏」は「カ」で漢音、「夏至」の「夏」は「ゲ」

       と呉音で読む。「夏(ゲ)」は仏教語で、夏の三か月。陰暦四月十六日から三か月、または五月十六日から三か月の期間。僧尼はこの「夏(げ)」の間、安居(あんご=仏教の出家修行者たちが夏期に1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること)を行い他出しない。修行者は遊行(ゆぎょう=旅行)をやめて精舎(しょうじゃ=僧が仏道を修行する所、寺院)にこもって修行に専念した。芭蕉の『おくの細道』の句に「しばらくは滝に籠るや夏(げ)の初め」がある。

(13-7)「あつた」:現石狩市熱田区。「アツタ」とも。漢字表記地名「厚田」。「アツタ場所」は、近世の場所(持場)名。宝永3(1706)、マシケ(ハママシケ)場所とともに設置されたという。北は「ハママシケ場所」、南は「イシカリ場所」と接する。

(13-8)「化(け・か)して」:「化す」の連用形。変化する。姿や形が変わって、別のものになること。ここでは、貝の化石をいうか。

(13-8)「つと」:「苞・苞苴」。ここでは、みやげにするその土地の産物。土産物の意。

(13-9)「此辺、山のすそ」:増毛山地の南端。北部から北東に濃昼山(621m)、円錐峰(690.2)、幌内山(648.8)、別狩岳(726.1)の山々が連なる。

(14-2)「囲(い・かこい)」:接尾語。両手を伸ばして抱える位の大木さ、太さを計るのに用いる単位。木の太さを計るのに用いられる。影印は旧字体の「圍」。

(14-4)「タカシマ」:現小樽市高島。漢字表記地名「高島」。運上屋名のほか、場所や岬・浜・澗の名称としてみえる。「タカシマ場所」は、当初「シクズシ場所」とされていたが、1780年代頃までに「タカシマ」に運上屋が移され、「タカシマ場所」と称することが多くなった。はじめ「シクズシ」を切り開いた夷人が交易をしていたが、不便なので、「タカシマ」に移し、場所名は「シクズシ」のままであったという。場所の範囲は、「オショロ境ヨリ、ヲタルナイ境マデノ里数弐里七丁」。文化4年(1807)当時、蠣崎東吾の知行地、請負人は住吉屋助市。

(14-4)「卯半刻(うのはんどき)」:午前6頃。「卯」は奈良・平安時代の定時法では、現在の時刻法のほぼ午前五時から七時まで。鎌倉時代以降の不定時法によれば、春は四時ごろから六時ごろまで、夏は三時すぎから五時ごろまで、秋は四時ごろから六時ごろまで、冬は五時ごろから七時ごろまで。

(14-4)「午刻(うまのこく)」:今の昼の12時ごろ、およびその後の2時間。または昼の12時前後の2時間。

(14-4)「てふ」:[連語]《「と言ふ」の変化した形》…という。

四段に活用するが、「てふ(終止形・連体形:発音はチョウ)」「てへ(已然形・命令形:発音はテエ)」だけが用いられる。

*「恋すてふ(チョウ)我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか」〈拾遺・恋1

 (私が恋をしているという評判が早くも立ってしまった。私は人知れずひそかにあの人を思い始めたのに。)

*「春過ぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の衣(ころも)干すてふ(チョウ)天(あま)の香具山(かぐやま)」

(14-5)「後(うし)ロに」:古文書では「後ろ」の「ろ」をカタカナの「ロ」と書く場合がある。

(14-5)「場所」の「場」:影印は俗字の「塲」。

(14-6)「義経の馬石(まやいし)」:小樽塩谷にある桃岩か。青森県三厩に義経伝説の「厩石(まやいし)」があり、「厩」は「まや」と読む。本文でいう「馬」はこの「まや」か。

(14-8)「巌の双立せる所には弁財天を案じ」:「弁財天」は、高島漁港の弁天島か。

(14-8)「案(あん)し」:名詞「案」+ 動詞「す(為)」の連用形。「案(あん)」は、「安」が音を表し、「置く」の意の語源からきている(『角川漢和中辞典』)ことから、字義として「安置(あんぢ、あんち)」と同義で、「神仏の像などをすえて祭ること」。 

(14-8・9)「石門の通路」:オタモイ海岸の窓岩か。

(15-絵図)「鷹島(たかしま)」:現小樽市高島。

(15-絵図)「オタルナイ」:現小樽市銭函のうち。「ヲタルナイ」とも。漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、場所や河川の名称としてもみえる。「ヲタルナイ場所」は、ヲコバチ川からヲタルナイ川にわたる一帯を中心に設定された場所。文化4年(1807)当時、松前藩士氏家只右衛門の知行地で、請負人岡田(恵美須屋)源兵衛、運上金300両であった。

(17-2)「干海鼠(ほしこ・ほしなまこ・いりこ)」:はらわたを取り去った海鼠(なまこ)を煮て干したもの。

(17-2)「串蛤(くしはまぐり)」:蛤の串さし。

(17-2)「一年」の「年」:決まり字。

(17-3)「寅半刻(とらのはんどき)」:午前4時頃。

(17-3)「船(ふな)もよひ」:船催(ふなもよ)い。出船の準備をすること。

(17-3)「ほら」:法螺。法螺貝の大きな貝殻に細工して吹き鳴らすようにしたもの。古く軍陣で進退の合図に用いた。影印の「ほ」は変体仮名。字源は「本」

(17-5)「勢(いきお)ひ猛(もう)」:勢いが強いこと。

(17-6)「未刻(ひつじのこく)」:午後2時頃。

(17-7)「申刻(さるのこく)」:午後4頃。

(17-7)「増毛(ましけ)」:マシケ場所の中心地は当時マシケとよばれたハママシケであり、マシケは当時ホロトマリと称されていた。一七八〇年代にハママシケ場所とマシケ場所に分割された。

(17-7)「ポロトマリ」:アイヌ語に由来する地名。現増毛。ホロトマリ、ボロトマリなどと呼ばれた。「大いなる澗と訳す」という。

(18-1)「地頭(じとう)」:江戸時代、地方(じかた)知行を持つ幕府の旗本や私藩の給人(きゅうにん)の通称。ここでは松前藩の知行主。

(18-1)「長臣(ちょうしん)」:組織の中の長となる家臣。重臣。

(18-1)「下国豊前(しもぐにぶぜん)」:松前藩家老下国季鄰(すえちか)」。

(18-1)「伊達林右衛門(だてりんえもん)」:マシケ、ハママシケの場所請負人。

(18-2)「けふ」:歴史的仮名遣い。読みはキョウ。

(18-4)「黄金山(こがねやま)」:現石狩市浜益にある山。標高739.5メートル。山容は富士山に似ており、浜益富士・黄金富士と呼ばれている。松浦武四郎は間歩近くの沙をみて「砂金如何ニも大粒」「マシケ川へ廻りて又々川底の砂を取るに、是また金気多し」などと記録している。

(18-5)「巖山(がんざん)」:けわしい山。

(18-7)「古昔(こせき)」:いにしえ。むかし。

(18-7)「如是(かくのごとく)」:[連語]《副詞「かく」+格助詞「の」+比況の助動詞「ごとし」》このようである。

     *「如斯」「如此」も漢文訓読では「かくのごとし」と読む。

(18-7)「別狩(べつかり)」:現増毛町別苅。「別狩崎」は「カムイエト岬」。

5月例会を中止します

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、月11日(月)予定の札幌歴史懇話会5月例会を中止します。


3月例会の中止について

3月9日(月)開催予定の札幌歴史懇話会3月例会は、新型コロナウイルスの拡大のため、中止します。

4月13日(月曜)の4月例会は、実施する予定ですが、今後の状況により、変わるかもしれません。その際は、また、お知らせします。

札幌歴史懇話会 事務局 森勇二

2月 町吟味役中日記注記

                         

(64-1)「書状」の「書」:くずし字では、脚部の「曰」(ひらび)が省略され、書かない場合がある。

     「書」の部首は、「聿」(イツ・ふで)で、部首名は「ふでづくり」という。

     「書」の本義は「筆で文字を書きつける」という意味で、『説文解字』に、「竹帛(つくはく)に記す。これを書という」とある。

      *「竹帛(ちくはく)」:古く、中国で紙の発明される以前、竹簡や布帛(ふはく)に文字を記したところから、書物。特に、歴史書。竹素。

(64-2)「差遣(さしつかわ)し」:「さし」は接頭語。人、物、金銭などを先方に送り与える。

     *「差遣し」の「遣」:決まり字。

(64-4・5)「昨夕(さくせき)」:昨日の夕方。

     *「さくゆう」と読むのは重箱読み。

(64-5)「今朝(けさ)」:「今朝」を「けさ」と読むのは熟字訓。

     *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

     *平成22(2010)改定の常用漢字表と同時に制定された熟字訓では、過去(昭和56=1981=)の110個から6個増えて、116個になっている。

     <追加された熟字訓>鍛冶(かじ)、固唾(かたず)、尻尾(しっぽ)、老舗(しにせ)、真面目(まじめ)、弥生(やよい)

(64-6)「泊り川町」:現松前町字月島。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。枝ヶ崎えだがさき町の東隣で、海岸に沿って伝治沢川(大泊川)に至る細長い町域。大松前澗・小松前澗ほど広くはないが、泊川の澗などを控え城下では重要な地区の一つであった。文化(180418)頃の松前分間絵図によると大坂を境に西を上泊川町、東を下泊川町と称した。上泊川町は155間、下泊川町は210間。また西側を泊川町、東側を下泊川町とよぶ場合もあった。

(64-7)「申聞置(もうしきかせ・おく)」:「申聞(もうしきか)す」は、「言い聞かせる」の謙譲語。「言い聞かせる」を重々しく言う。告げ知らせる。道理を述べて教えさとす。

(65-4)「光善寺」:現松前町字松城にある寺院。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化五年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求院を合併(寺院沿革誌)。同6年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行寺とともに一揆勢の結集の場となった。同36年仁王門・山門・経蔵などを残して焼失した(松前町史)。本尊の木造阿弥陀如来立像は道指定文化財。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

     *本堂前にある高さ約8m、幹回り5.5m、樹齢300年以上とされる古木「血脈桜」(けちみゃくざくら)が有名。

(65-5)「三衣(さんえ)」:「え」は「衣」の呉音。連声(れんじょう)で「さんね」とも。僧の着る大衣(だいえ)、七条、五条の三種の袈裟(けさ)のこと。大衣は街や王宮に赴く時に、七条は聴講、布薩などの時に、五条は就寝、作務(さむ)などの時に着る。

     *三衣一鉢(さんえいっぱつ):三衣と一個の食器用の鉢。転じて僧侶が携帯するささやかな持ち物。

     *連声(れんじょう):国語学上,前の音韻とそれにつづく音韻とが合して,別個の音になること。〈ン〉でおわる漢字または〈ツ〉でおわる漢字が,ア行音(またはワ行音)ではじまる漢字と結びつく場合におこる上のような音変化を連声とよぶ。

      ギン・アン→ギン・ナン(銀杏)、サン・イ→サン・ミ(三位)

     セツ・イン→セッ・チン(雪隠)、ニン・ワ・ジ→ニン・ナ・ジ(仁和寺)

     オン・ヨウ・ジ→オン・ミョウ・ジ(陰陽師)、イン・エン→イン・ネン(因縁)

     カン・オン→カン・ノン(観音)

(66-3)「水主(かこ)」:「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意で、「水主」は当て字。

     江戸時代、船頭以外の船員、または船頭、楫(かじ)取り、知工(ちく)、親仁(おやじ)など幹部を除く一般船員のこと。櫓櫂を漕ぎ、帆をあやつり、碇、伝馬、荷物の上げ下ろしなど諸作業をする。語源説に<応神天皇が淡路島で狩りをしていた時、鹿の皮の衣を着た人達が舟を漕いで来たのを見て、彼らをカコ(鹿子)といったことから>がある。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(66-3・4)「水主供三人」:徳力丸の船頭・元三郎、仮船頭・                    庄吉、船工表役共新兵衛の三人。

(66-7)「杦野儀兵衛」の「杦」:国字。「杉」の旁「彡」(さんづくり)の書写体に従って「久」に改めたもの。人名漢字になっていない。苗字に、人名漢字でない漢字の使用は制限されていない。

*人名用漢字は「人名用漢字」は、日本における戸籍に子の名として記載できる漢字のうち、常用漢字に含まれないものを言う。法務省により戸籍法施行規則別表第二(「漢字の表」)として指定されている。

(66-8)「第次郎」:熊石村の故弘前屋第次郎。故第次郎の親類が同村の佐野権次郎を相手取った問題について、町奉行で吟味を行った。「双方」とあるのは、第次郎の親類側と佐野権次郎側のこと。

*「第次郎」の「第」:テキスト影印「は俗字。

(66-8)「跡式(あとしき)」:①家督相続人。遺産相続人。跡目。あとつぎ。②相続の対象となる家督または財産。また、家督と財産。分割相続が普通であった鎌倉時代には、総領の相続する家督と財産、庶子の相続する財産をいったが、長子単独相続制に変わった室町時代には、家督と長子に集中する財産との単一体を意味した。江戸時代、武士間では単独相続が一般的であったため、原則として家名と家祿の結合体を意味する語として用いられたが、分割相続が広範にみられ、しかも、財産が相続の客体として重視された町人階級では、財産だけをさす場合に使用されることもあった。

      *「跡式」は、鎌倉時代以後の語。「後職(あとしき)」の意から。事情。有様。次第。様子。有様や様子、ことの次第を表わす意味は、本来の漢語「式」にはない日本独自のもので、一三世紀後半から現われる。

      *「これしき」など接尾語としての用法は、この(5)の意味に由来し、言外に仄めかされる多数の同種同類のものを包含して卑下や軽視の感を添える。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(66-9)「もの共」の「も」:変体かな。字源は「毛」。現行ひらがなの「も」は、横線は2本だが、「毛」から「も」くずす過程で、「毛」の1画目の「ノ」を含め、横線が3本になっている。

(66-9)「他行(たぎょう)」:その場を離れてよそへ行くこと。他の場所へ出かけること。

(66-9)「落着(らくちゃく)」:江戸時代、人殺し、喧嘩などの判決のように、それですべて決着がつく判決のこと。境界争い、水争いのように、将来にかかわることを判決する裁許に対する語。

(67-3)「昼立(ひるだち)」:昼、旅立つこと。日中に出発すること。

(67-4)「熊石村」:現二海郡八雲町のうち。熊石村は、近世から明治35年(1902)までの村。爾志郡の北部に位置し、西は日本海に面する。北境に分水嶺の遊楽部ゆうらつぷ岳(見市岳)があり、大部分は山地・丘陵地で、その間に谷を形成して関内川・平田内ひらたない川が南西流して日本海に注ぐ。「地名考并里程記」は「熊石」について「夷語クマウシなり」とし、クマとは「魚類、又は網等干に杭の上に棹を渡したる」の意味、ウシは「生す」の意味とする。また浜辺に熊の形の岩があるので熊石と称したともいう(西蝦夷地場所地名等控)。松浦武四郎は「熊石の義ハ此処より少し北ニ雲石と云るさまざまの色彩有岩有。其を以て当村の名となセしもの也。然るニ今其名も転じて熊石とよび、此処も熊石と転じた」とも(「蝦夷日誌」二編)、「本名はクマウシにして、魚棚多との訛りしなり。村人は夷言たる事を忘て、雲石とて雲の如き石有故号くといへり」とも記す(板本「西蝦夷日誌」)。

      *熊石町は、平成22年(2005)年101日、渡島支庁管内の八雲町と支庁を越えて合併した。新設合併で新町名は八雲町。同時に二海郡が新設される。現在の熊石町地域は渡島支庁に編入される。これに伴い、檜山支庁は南北に分断された(飛地)。

(68-2)「博知石町(ばくちいしまち)」:現松前町字博多。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。博知石の地名について上原熊次郎は「夷名パウチウシなり。交合なす所と訳す。扨、パウチとは交合、ウシとは成す亦は所とも申事ニて、則、此所に岩屋ありて此内にて昔時夜な夜な若きもの共さゝめことをなしたるものあるゆへに地名になすといふ」と記す(地名考并里程記)。武四郎は「町ニ大なる岩石有。其形ち中窪くして其半は土ニ埋れたり。土人云、古え此石の中ニ隠れて博知打たりと。其故ニ号ると云伝ふるなれども、案ずるニ此口の窪き処姥口ニ似たれば姥口石と云しかとも思わる」と述べる(「蝦夷日誌」一編)。南は海に面し、唐津内沢川と不動川(愛宕川)に挟まれた地域。東は唐津内町、西は生符町、北側の台地上は愛宕町。

(68-2~69-3)「今別(いまべつ)」:現青森県東津軽郡今別町。東は一本木村・鍋田村、南は大川平(おおかわたい)村、西は浜名村に接し、北は津軽海峡・三厩湾に面する。大川と長(ちよう)川(京川)の間に集落がある。弘前藩では領内の重要な湊に町奉行を置いて管理させ、九浦とよんだ。今別と蟹田は小さいが、材木の積出しにより重要なため加えられ、通称は村であるが、検地帳には今別町とある。

(69-2~9)「津軽産物方・・」:このくだりについて、板橋正樹著『文政八年から天保八年における町奉行・町吟味役就任者と勤務叙状況』(『松前藩と松前』18号所収)には、工藤庄兵衛による津軽国の産物方(柴田善之丞または柴田善藏)と濱屋与惣右衛門からの借金返済の遅延に関する問題であった」とある。

(69-2)「濱屋与惣右衛門」の「右衛門」:「兵衛」と書いた後に「右衛門」と上書きしたように見える。

(69-3)「貸(か)り」の「貸」:<あるものが、それを持っている人から他の人へと一時的に移動する場合、日本語では人を中心に現象をとらえて、もと持っていた人から見ると「かす」、相手の人から見ると「かりる」と表現します。しかし、中国語では、ものを中心に現象をとらえて、とにかくその所有者が一時的に変わることを、「借」「貸」と表現するのです。この2つの漢字は、中国語では基本的な意味は同じなのです。その結果、中国語としての「借」「貸」は、日本語に翻訳するときには「かす」「かりる」の両方の意味で訳せることになります。・・漢和辞典で「借」「貸」を調べると、意味として「かす」も「かりる」も載っているのは、そういうわけなのです。>(大修館書店ホームページ『漢字文化資料館』より)

(69-4)「柴田善之亟」:P4には、「弘前国産方柴田善藏」とある。

(69-7)「證文」の「證」:「証」の正字(旧字体)。「證」の解字は「言葉を下から上の者にもうしあげるの意味」(『新漢語林』)

(69-7)「拾五通」の「五」:くずし字は、「力」+「一」のようになる場合がある。

『周廻紀行』2月学習分注記

◎『周廻紀行』前後の紀行文

 寛政11(1799)1月、幕府は蝦夷地ウラカワ以東を仮上知、8月、松前藩の内願を受けて知内川以東を追上知した。蝦夷地経営に乗り出した幕府は、多くの幕吏を蝦夷地に派遣することになるが、その過程で、幕吏らによる紀行文が書かれた。本『周廻紀行』に前後する紀行文のうち、東蝦夷地巡検の紀行文で、活字化されているものをいくつかあげる。

 

1.『未曾有記』:西丸小姓組・遠山金四郎景晋(かげみち・町奉行遠山景元の父)著。寛政11(1799)512日箱館発、716日、ホロイズミに至る。(『近世紀行集成』所収・国書刊行会)

2.『測量日記』:伊能忠敬著。寛政12(1800)519日三厩より吉岡村着。同月29日箱館発、8月7日ニシベツ着(伊能忠敬記念館刊『伊能忠敬測量日記』所収)

3.『蝦夷紀行』:谷元旦(奧医師渋江長伯配下の画家)著。寛政11(1799)428日松前発、72日アツケシ着。(朝日出版刊『蝦夷紀行』所収)

 

(7-2)「卯半刻(うのはんどき)」:午前6時頃。

(7-2)「〇〇〇使」:3字不詳。当時(享和元年)の蝦夷地巡見使3名(松平忠明、石川忠房、羽太正養)の内、番方の幕臣で、旗本である御書院番頭の松平忠明(禄高5千石)が派遣された。

『休明光記』に、松平信濃守忠明に関し、「この類の御用御勘定奉行、御目付、吟味役等承るは常の事なり。番頭のあづかるべき事にあらずといへども、忠明兼て蝦夷地の事に思ひ含みたる品もありて、これよりさき執政方よりも御尋有、策を奉じたる事(注:寛政11.2.21、松平忠明が中心になって5有司連署の69か条の蝦夷地経営に関する策を建議)も有けるよし。さればこそ命有と聞えぬ。」とある。

(7-2)「副使」:松平忠明を巡見使の正使として取り扱う一方、箱館から勇払まで同行した目付の羽太正養について、副使とした。    

(7-3)「ヱトモ」:現室蘭市絵鞆。「ヱトモ」は、漢字表記地名「絵鞆」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヱントモ」、「江友」とも。コタン名・場所名のほか、岬や港の名称として記録される。

(7-3)「やつかれ」:「奴(やっこ)我(あれ)」の約。鎌倉時代までは「やつかれ」、のち
「やつがれ」。自称の人代名詞。自己の謙譲語。わたくしめ。              
(7-3)「辰刻(たつどき)」:午前8時。

(7-5・6)「津軽家勤番伊藤某(ぼう、なにがし)」:「伊藤」は、サワラに設置された津軽藩の勤番所の津軽藩の藩士か。寛政11年(179911月、津軽藩は、幕府から、サハラからウラカワまでの警衛のため、重役2~3名、足軽500名の派遣を命じられ、箱館に本陣、サハラに勤番所を補理している。なお、ウラカワ以東は南部藩兵が勤番した。

(7-6)「未刻(ひつじのこく)」:午後2時頃。「未」は、漢音でビ、呉音でミと読む。干支で訓読すれば「ミ」は「巳」で、「未」は「ヒツジ」。六十干支を音読する場合、「未」は「ビ」と読む。「辛未(シンビ・かのとひつじ)」「癸未(キビ・みずのとひつじ)」「乙未(イツビ・きのとひつじ)」「丁未(テイビ・ひのとひつじ)」「己未(キビ・つちのとひつじ)」の5回。

(7-7)「蝦夷舟」:アイヌが用いた舟のうち、両端の板を木の皮で結び付けた「縄とじ舟」をいうか。

本書のP11には「蝦夷舟:巾弐尺四五寸、長壱丈計ノ木ヲクリテ、両端に壱尺計の板を板を付け、木ノ皮を以結付たり」と「ウツロ舟:巾弐尺計、長弐間計ノ大木ヲクリタル」の2種類が記されている。

      また、寛政11年の巡見の際の武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「蝦夷舟」として、「くりぬき舟」と「縄とじ舟」の2種類の舟が記されている。

     ①くりぬき舟:一本の木を彫って造った舟。丸木舟。寸法は、長2丈8尺余、巾1尺8寸余、深1尺2寸5分。

     ②縄とじ舟:丸木舟の縁に側板をつけ、大きくした舟。接合には釘を使わず、ほぞで組み、木皮で縛り、隙間には苔を詰めた(『蝦夷生計図説』、チプカル(造舟)の部参照)。寸法は、長1丈8尺、巾2尺5寸、深1尺2寸5分。

(7-7)「上(かみ)」:武家では主君。殿様。上様とも。ここでは、11代将軍家斉。

(7-8)「仰事(おおせごと)」:ご命令

(7-8)「新たに会所」:寛政11年(1799)の東蝦夷地の仮上知に伴って、これまで松前藩の設置した東・西蝦夷地の「運上屋」の内、東蝦夷地の運上屋を「会所」と名称を改めるとともに、以下の所に、新たに会所が設置された。

     ・セウヤ ・シラヌカ ・クスリ ・コブモイ ・センホウシ ・ノコキリベツ

 ・アンネベツ ・ノツケ(8ケ所)。このほか、アツケシとシヤマニの2ケ所に設立準備。サルルとシヤマニの2ケ所に小屋を建設。

(7-9)「勤番の士(さむらい)」:会所勤務の幕吏。「詰合(つめあい)」とも。

(7-9)「支配人」:本書時点では、東蝦夷地は、「請負場所制」が廃止され、幕府の直営となっていることから、「支配人」は、会所詰めの幕吏の支配管理のもと、漁業などの場所の経営を差配する人。『北海道志』に、「寛政・文化ノ間、幕府東西蝦夷地ヲ措置スルノ時、江戸運上請負人ヲ廃シ、官吏自ラ之ヲ管理シ、漁場ニ支配人・番人ヲ置クコト故ノ如ク、唯其交易物品ハ、官吏其秤量精粗ヲ点検シ、詐譌不正ノコト莫ラシムルノミ」とある。

(7-9)「通詞(つうじ)」:アイヌ語の通訳。

(8-1)「高札」:法度(はっと)、掟書(おきて・がき)、罪人の罪状などを記し、人通りの多い所(高札場)に高く掲げた。江戸時代に最も盛んに行われた。制札。たてふだ。たかふだ。

     *別添の小稿「寛政十一年の蝦夷地制札―『休明光記』を読むー」参照

(8-2)「掟(おきて)」:きまり。定め。「掟書」を公布する際、初めに、「掟」、「定」などと書かれた。

(8-3)「邪宗門」:江戸時代、幕府が、人心を惑わし社会を毒するとして禁止した宗教。一般的には、キリシタン(切支丹、吉利支丹)と呼ばれるローマ・カトリック系のキリスト教、またその信徒をさす。このほか、日蓮宗の一派である日蓮宗不受不施(ふじゅ・ふせ)派も、江戸幕府から邪宗として弾圧された。

(8-5)「死罪」:江戸時代、寛保2年(1742)の「公事方(くじかた)御定書」に定められた「死罪」は、死刑のうちの一つで、十両以上の盗み、他人の妻との密通(男女とも)などの場合である。死罪が決まると、斬首のうえ、死骸は様斬(ためしぎり)にされる。本書の「掟」で書かれている「死罪」は、広く「死刑」と同義に用いられており、「人を殺したら」、必ず死刑になるのは、主殺―「鋸挽(実際は磔)」、古主殺・親殺・師匠殺―「獄門」、喧嘩口論による殺人―「下手人」の場合である。(『江戸の刑罰』より)

(8-6)「咎(とが)」:罰せられるべき罪。酒狂で人に手負わせた武家の家来―江戸払。十両以上の盗み-死罪。軽い盗み-敲など。そのほか、遠島・追放・所払・手鎖・過料など。

(8-8)「御下知(ごげじ、ごげち)」:命令のこと。

(8-8)「事しけゝれバ」:「事繁(しげ)ければ」。たくさんの事項があること。多事であること。回数が多いこと。

(8-8)「記すにいとまあらす」:「記すに、暇(いとま)あらず」で、記録する時間的余裕がないこと。

     *「いとま」の「ま」:変体仮名で字源は「満」。

(8-9)「ワシベツ」:現登別町鷲別町、上鷲別付近。漢字表記地名「鷲別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか山・岬・河川などの名称としても記録されている。

(8-9)「長嶋某」:長嶋新左衛門。幕吏。普請奉行支配下の「普請役」。『休明光記』の「蝦夷地警衛の掛り」として「御普請役勤方長嶋新左衛門」、「官吏共役割」として「宿割:長嶋新左衛門、普請方の内道造り兼:長嶋新左衛門」の名がみえる。なお伊能忠敬の『測量日記』によると、前年の寛政12(1799)には、シラオイ詰合だった。また、本書の『同村場所附』の「江友」に「会所詰合 長嶋新左衛門」の名がある。なお、『北辺記聞』によると、寛政3亥年御鑓奉行支配の同心、寛政10午年御普請役出役、同12申年御普請役、享和3亥年箱館奉行支配調役下役。禄高:30俵3人扶持。

(8-9)「此所まで三里余」:「附」には、エトモからワシベツまで「三里拾二丁三拾間」とある。

(9―1)「奉行」:上からの命令で、事を執行すること。工事の責任者。

(9-1)「新たに山道を開れたり」: この山道は、絵鞆半島経由で、ワシベツに出る山道か。なお、『新室蘭史第5巻付室蘭市年表』の寛政11年の項に「室蘭(崎守)チリベツ間の刈分け道路を修復、通行をよくし、通行屋を設けて駅逓を扱う。チリベツに昼休所、輪西に小休所を置く」とある。モロラン(現崎守町)→ボロペケレオタ(現陣屋町)→モトワニシ→八丁平→チルヘツ→ワシベツ川→ホロヘツの間のいわゆる「モロラン道」の修築は見えるが、絵鞆半島経由の新道の記載はない。万延元年(1860)の「エトモホロベツ図」(盛岡市中央図書館蔵)には、モロラン道と絵鞆半島の道が描かれている。

*幕府が寛政11(1799)浦河以東の地を直轄にすると同時に、警備および産業上から道路の開削を急務の一とした。エトモ~ワシベツ間の山道もそのひとつ。これらの道路はみな工事を急いだので、完全とは行かなかったが、同年秋には様似から釧路まで馬を通ずることができるようになり、その後しだいに修築して、東海岸一帯は、天候の不良な日でも、ともかく安全に交通することができるようになった。(『新北海道史第二巻通説一』)

(9-1)「右に海」:太平洋。

(9-1)「左に山」:室蘭市と登別市にまたがる鷲別岳(標高911m)もある。

(9-2)「ホロベツ」:現登別市幌別町。「母衣別」、「ホロヘツ」とも。漢字表記地名「幌別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は、河川名だが、コタン名としても記録されている。なお、「ホロベツ場所」は、現登別市の幌別川流域を中心として設定された近世の場所(持場)であり、松前藩士(細界氏)の世襲場所であったが、寛政11年(1799)の幕府の直轄化により、「運上屋」の名称は「会所」に改められた。

(9-3)「ランボツケ」:現登別市札内町、富浦町。漢字表記地名「蘭法華」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ランホッケ」「ランボケ」とも。コタン名のほか、山・坂・岬などの名称として記録されている。

(9-4)「過来し方(すぎこしかた・すぎきしかた)」。通り過ぎて来た方向のこと。

     *動詞「来」に、過去の助動詞「き」が連体形・已然形として接続する場合には、未然形「こ」に接続した「こし」「こしか」、さらに平安時代になり新たに発生したものとして連用形「き」に接続した「きし」「きしか」、の二系統の語形がある。この中の「こし」「きし」に名詞「方(かた)」が接続したものが「こしかた」と「きしかた」である。この二種の語形には意味の上でのおおよその使い分けがあるともいわれ、「源氏物語」などでは単独で用いられる場合、「こしかた」は過ぎてきた地点・方向を指し、「きしかた」は過ぎてきた時間・経験を指すとされる。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(9-5)「藍路村(あいろむら)」:現白老町字虎杖浜。「アイロ」、「あいろ」、「アヨロ」、「あよろ」とも。アイヌ語に由来する地名。場所名のほか、コタン名・河川名としても記録されている。「アヨロ(アイロ)場所」は、アヨロ川流域に、独立して把握された時期もあった。なお、本書では、「アヨロ」について、漢字表記の「藍路」が当てられているが、文化4年(1804)3月、幕府は、直轄地とした蝦夷地(東・西・北蝦夷地)の地名については、仮名または片仮名にて記すべき旨を達している。本書には、過渡期として、漢字表記の地名が散見される。

(9-6)「打懸(うちか)けたる」:「打ち」は接頭語で、動詞に付き、動詞の意を強調する。

(9-7)「シラオイ」」:現白老町。漢字表記地名「白老」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名のほか、コタン名・山川名としても記録されている。なお、「シラオイ場所」は、白老川流域を中心に設定された近世の場所(持場)

(9-8)「シヤタイ」:現白老町字社台。漢字表記地名「社台」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名としても記録されている。語義について「シヤは頭なり。タイは平原の丘なり」など諸説ある。

(9-8)「小糸居」:現苫小牧市字糸井付近。「コヱトヱ」とも。漢字表記地名「小糸魚(こいとい)」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名としても記録されている。

(9-8)「マコマイ」:現苫小牧市真砂町付近。「マコマ井」、「マコマヘ」、「マコマヱ」とも。漢字表記地名「真小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか、河川名としても記録されている。「マコマイ場所」は、マコマイ川を中心に設定されたシコツ十六場所の一つ。

(9-8)「やすらひぬ」:休息した。組成は「やすらふ」の連用形+完了の助動詞「ぬ」。「やすらふ」は、休んでゆっくりする。休息して様子を見る。語源説に「ヤスミサフラフの義」がある。

(9-9)「東洋」:太平洋。明代末の中国では1602年にイエズス会士マテオ・リッチが世界地図『坤輿万国全図』を作成した。この地図は世界の地理名称をすべて漢語に翻訳したものだが、太平洋全体に対する表記はなく、北海、南海、東南海、西南海、大東洋、小東洋、寧海という7つの海域名称を付けている。渋川春海の『世界図』(1698年頃)には、北太平洋に小東洋が記され、アメリカ大陸の東の海上に大東洋が記されている。古くは中国書から取り入れた「寧海」〔和漢三才図会〕、「静海」〔窮理通‐二〕などもあったが、幕末には「太平海」「太平洋」が並用されていた。但し当時は表記として「大平洋」が多く見られる。明治になり漢訳洋書の影響で次第に「太平洋」に統一されていった。

     *太平洋は、英語名からパシフィックオーシャン(Pacific ocean)とも日本語で表記される。探検家のフェルディナンド・マゼランが、1520 - 1521年に、世界一周の航海の途上でマゼラン海峡を抜けて太平洋に入った時に、荒れ狂う大西洋と比べたその穏やかさに、"Mar Pacifico" (マレ・パシフィクム、平和な海)と表現したことに由来する。マゼランが太平洋に入りマリアナ諸島に至るまで暴風に遭わなかったことからこのように名付けたともいう。

(9-9)「漸々(ぜんぜん)」:副詞。次第次第に。だんだんに。

(9-9)「オフイノボリ」:「樽前山」か。苫小牧市・千歳市・白老町にまたがる扁平な円錐形火山。世界でもまれな三重式火山。山名の起源は、種々あるが、秦『地名考』に「タルは則、垂の字。マヱは燃る也。山焼て土砂崩るゝ故に名附たる也。」とあり、『山川取調図』には「タルマイノボリ」とみえる。

(9-9)「数峰(すうほう)」:いくつかの峰。樽前山は、現在は扁平な円錐型火山。

*影印の「峯」は、「峰」と同字であるが、常用漢字は「峰」。

(10-1)「オフイ」:「ウフイ〔uhuy〕」。燃える。焼ける。(萱野『アイヌ語辞典』)

(10-1)「焼ルヿ」:「ヿ」は、「コト」の合字説と、「事」の略体説がある。

(10-1)「ノボリ」:ヌプリ。山。

(10-2)「しら波」:「白波」と「知らぬ」の意の掛詞か。

(10-2)「息(やす)らふ」:休むこと。休息すること。

(10-3)「道の辺」の「辺」:『字通』の「古辞書の訓」に「カタハラ・サカヒ・ホトリ」(字鏡集)などがある。

(10-3)「花菖蒲(はなしょうぶ)」:アヤメ科の多年草。ノハナショウブの改良種で、江戸時代から栽培される。高さ80㎝内外。初夏、花茎の頂に紫・淡紅・白・絞りなどの大きな美しい花を開く。単に、「アヤメ」、「ショウブ」ともいうが、サトイモ科のショウブ(菖蒲)とは別もの。筆者は、「ノハナシヨウブ(北海道から九州、朝鮮、中国に広く分布)」を「花菖蒲」としたか。

(10-3)「数多(あまた)」:(1)「あまる」「あます」などの語幹と同じ語源をもつ「あま」と接尾語「た」の付いたものという。原義は、数量、程度などが普通の状態以上であるさまを表わすものと考えられる。奈良時代(特に「万葉集」)では、数量、程度ともに表わしていたが、平安朝以降はほとんど数量を表わす例に限られてくる。「あまた」の表わす数量はきまらないが、「源氏」「平家」「徒然草」などの例は、多くは人数で、一、二に止まらないという程度の複数を意味し、「今昔‐一・二九」の「数(あまた)の倉に多くの財を積めり」、同じく「今昔‐一・二九」の「衆多(あまた)の軍(いくさ)雲の如く集まりぬ」などの例では大きな数を表わしている。

(2)「観智院本名義抄」では、「衆・数」を「あまた」と訓むが、漢語として、「衆」はかなりの数の多さを、「数」は若干の意味を持つ。現代における慣用的表記の「数多」は古く奈良時代からある。「多」は「数」に添えて、「た」の音を表わしたもので、「あまた」の「た」の部分に「多い」という意味があるわけではない。近世の読本類には「許多」、近代の作品には「夥」「夥多」を当てた例が多い。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(10-3)「にや」:下の「あらむ」を省略した形で、…であろうか。…であったろうか。組成は、断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」

(10-4)「気色(けしき)」:ここでは、「何かが起ころうとする気配。きざし。」をいう。

(10-5)「勇武津」:現苫小牧市勇払。「ユウフツ」、「ユウブツ」とも。漢字表記地名「勇払」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか、河川名としても記録されている。「ユウフツ」は、「シコツ」などからの産物を集荷する地であり、寛政11年(1799)幕府が東蝦夷地を直轄地(仮上知)とした際、シコツ十六場所をまとめて「ユウフツ場所」とした。また、寛政12年(1800)4月、八王子千人頭原半左衛門の弟原新助を筆頭に組頭・同心の子弟ら50人が「ユウフツ」に移住、警衛を主として耕作を兼ね、会所交易などにも従事した。しかし、浮腫病ないし壊血病様の症状によって病死する者が続出し、成果を上げることができなかった。

(10-5)「望月、河西、大司寺」:北大本では、「望月大司等」と、「河西」の名がない。また、【村場所附】P8の「勇武津」の詰合として、「河西祐助、原新助、河田甚太郎、望月三作」の名がみえ、このうち、河西祐輔と原新助の2名については、八王子千人同心組の名簿にその氏名がみえる。八王子千人同心に関連しては、頭の原半左衛門については、「シラヌカ」からて撤退の後、新設の箱館奉行所の「調役」に、河西祐輔は「調役下役、勇武津在住」に、原新助については「アブタ・ウス牧場の支配人」に任じられたほか、残った他の者も、箱館奉行所の地役雇として、各地に在勤。(菊池新一著『えぞ地八王子千人同心史』苫小牧市市史編さん室)

(10-5)「某等(それがしら)」:「某(それがし)」は、武家の自称。著者の磯谷則吉とその同行者をさす。

(10-6)「ユウフツ川」:「勇払川」。苫小牧市の北部から東部を流れる二級河川。安平川の支流で流路延長37.8㎞。苫小牧市沼ノ端北部でウトナイ湖から流出して南部に向かい、美々川を合流して勇払原野を南流、河口付近で安平川に合流して太平洋に注ぐ。

(10-7)「湖」:「ウトナイ湖」。勇払原野北部、苫小牧市植苗にある海跡湖。ウツナイ沼とも呼ばれた。面積2.21㎢、周囲約7.5㎞。平均水深0.6m。北から千歳台地に水源をもつ美々川、西から樽前山麓からのオタルマップ川、トキサタマップ川が流入する。南岸から流出する勇払川は、勇払原野を南流して太平洋に注ぐ。

(10-8)「中央を通りて」:影印からは、「過」にもみえるが、送り仮名から、「通りて」とする。北大本は「通りて」。

(10-8)「ビヽ」:現千歳市美々。「ヒヽ」とも。漢字表記地名「美々」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名、河川名として記録されている。近代に入り、千歳村に包含された。

(10-9)「シコツ」:現千歳市。「シコツ」はアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川・湖水・山岳・場所などの名称として記録されている。文化2年(1805)、箱館奉行の羽太正養が、「千年(ちとせ)」と改称。

(10-9)「チプ」:舟。丸木舟。

(10-9)「横たへ」:動詞「横たえる」の連用形。「水平にして置く」の意。

(11-1)「クリテ」:「刳(く)りて」」で、(丸太を)えぐりとって中空にすること。

(11-2)「甘棠(かんとう、かんどう)」:バラ科リンゴ属の一種。リンゴに近縁な野生種。実が酸っぱいから酢実とも。ヒメカイドウ。ミツバカイドウ。ミヤマカイドウ。コリンゴ。コナシなどとも。植物の「ぶみ(桷)」の古名。

(11-3)「行過がたくぞ覚ゆ」:係結びの法則では、係助詞「ぞ」を用いると連体形で結ぶから、「覚ゆる」が本来。

(11-3)「ロウサン」:アイヌ語に由来する地名。「村場所附」には、「ローウサン」ともある。コタン名・場所名として記録されている。「ロウサン場所」は、「ルウサン場所」ともいい、千歳川中流域に設定されていた近世の場所(持場)。シコツ十六場所の一つ。「村・場所附」には、「シコツ場所の隣三四丁」とある。

(11-4)「某公(ぼうこう)」:松平忠明の匿名の尊称。

(11-6)「シロツ川」:「シコツ川」か。現千歳川。支笏湖に源を発して東流し、石狩平野を北上して石狩川に合流する一級河川。流路延長107.9㎞。文化2年(1805)に改称されるまでは、「シコツ川」と呼ばれていた。

(11-7)「オサツトウ」:「長都沼」。現千歳市と長沼町の境界にあった沼。明治時代の記録によれば、周囲3里29町とされていたが、昭和26年から同44年にかけて実施された農地造成事業により消滅し、現在は存在しない。

(11-7)「トウ」:沼。湖。

(11-8)「イヒヅ」:「イベツ」のこと。「イヘツ」、「イヒツ」などとも。「イベツ」は、漢字表記地名「江別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名・河川名として記録されている。石狩地方とユウフツ地方を結ぶ交通の要衝地。

(11-9)「酉(とり)の半刻(はんどき)」:午後時ころ。

(11-9)「東西をわき難し」:「わき」は、動詞「分る(わか・る)=明らかになる。」の連体形。語釈は「東も西も、どちらとも判別できない」こと。

古文書学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。            

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代として,
600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、
事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎会場:エルプラザ札幌駅北口中央区北8西3

◎開催日時:月1回/午後1時~4時

 ・当面の日程:2月10日(月)

◎現在の学習内容 

    『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。(北海道大学附属図書館蔵)

    『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵)
 代表:深畑勝広

事務局:森勇二 電話090-8371-8473 
メール:moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

1月 町吟味役中日記注記

(60-2~3)「仮船頭」・・船頭の下の副船頭役。また、当該船の船頭が不在の際、他船

の船頭が臨時に雇われる場合もいう。

(60-2~3)「知工(ちく)」:近世、廻船での船員の職制上の一役。積荷の出入りや運航経費
   の帳簿づけなど船内会計事務をとりしきる役。表役・親司(おやじ)とともに船方三役と呼ば
   れて船頭を補佐する首脳部。一般に日本海側で使われるもので、太平洋側では賄(まかない)
   と称し、また廻船問屋などの交渉で上陸する仕事が多いため、岡廻り・岡使いとも呼ばれた。

(60-2~3)「表役(おもてやく)」:江戸時代の廻船における乗組の役名。親司(おやじ)、賄(まかない)とともに船頭を補佐する首脳部で、いわゆる船方三役の一つ。船首にあって目標の山などを見通し、また、磁石を使うなどして針路を定める役。現在の航海長に相当するもの。表。表仕。

(60-2~3)「共(とも)」:兼業の意味。

(60-2~5)「手代(てだい)」:近世以降の商家奉公人で、一人前の店員として営業活動に従事するもの。

(60-2~6)「相尋(あいたずね)」の「相」:旁の「目」は省略され、偏の「木」だけのようになる場合がある。

   *「相(あい)」は、動詞の上に付けて、語調を整え、改まった気持ちを添える。

   *「相」の部首は「目」。解字は、「木」+「目」で、木のすがたを見るの意味から、一般に、事物のすがたを見るの意味を表す。つまり、「木」は、「目」を見ない。

   「目」が「木」を見る。だから、「目」部。

(60-2~7)「高田屋嘉市」:高田屋嘉兵衛の弟金兵衛の養子。金兵衛は、天保2(1831)

5月、雇船大阪伊丹屋持船栄徳新造が、ロシア船との幟合わせをした密貿易の嫌疑で、同年10月船頭以下十余名が江戸に送られ、評定所で取調を受けた。

嘉市は、翌年910日、江戸から松前に護送され、預かり宿能登屋八九郎へ預けられ松前藩町奉行の監視下におかれた。

(60-2~7)「宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)」:江戸時代に宗門改めと人別改めを複合し村ごとに作成して領主に提出した戸口の基礎台帳。宗門人別帳・宗旨人別帳・宗門改帳・家別帳、単に宗門帳ともいう。兵農分離によって領主は城下町に居住させられたから、所領内の人間を把握し夫役負担能力を調査する人別帳を必要とした。当初は、宗門改めと人別改めは別のものであり、宗門改帳の作成は幕領に限られていたが、寛文5(1665)になると幕府は諸藩にも宗門改帳の作成を命じ、同11(1671)からは毎年作成を令した。こうしてこの年以降、支配関係を問わず武士・町人を含む全国民が制度上仏教徒として登録され、しかも人別改帳が変質して毎年宗門人別改帳が作成されることになった。これを寺請制度という。

   領民としての公的身分は宗門人別改帳に登録されることによって成立し、そこから除かれたものは無宿として身分とともに領主の保護をも失った。人口史料としての価値は高いが、本籍人口を記したものが大部分で、出稼奉公なども含めた現住人口を記したものもある。

明治4(1871)寺請制度が廃止され戸籍法が作られて、宗門人別改帳は戸籍へと引き継がれた。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(60-3~2)「候得共(そうらえども)」の「候」:極端に省略される場合、「﹅」になる場合がある。

(60-3~3)「差留置(さしとめおき):「留置(とめお)く」は、他の所に行かないようにとどめておく。じっとさせておく。動かさないでおく。

   *「さし」は接頭語。「差す」の連用形から。動詞に付いて、意味を強めたり、語調を整えたりする。「差し並ぶ」「差し集(つど)ふ」など。現代、接頭語「さし」である「差し出す」は、日常に使われる用語となっている。

(60-3~6)「請書(うけしょ・うけがき)」:江戸時代、判決を承認した旨を記して裁判所に提出した文書。裁許請証文。請証文。

   *「請書」の「書」:決まり字。脚部の「日」が省略される場合がある。「出」と似ている。

(60-4~7)「枝ヶ崎町」:現松前郡松前町字福山。近世から明治33(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置する。西は大松前町と接し、東は泊川町。

(60-4~8)「行司」:江戸時代、町内または商人の組合などで、その組合を代表して事務を執り扱う人。

(61~1)「唐津内町(からつないまち)」:現松前郡松前町字唐津。近世から明治三33(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。

南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢を境に博知石(ばくちいし)町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(61-2)「欠落人(かけおちにん)」:江戸時代において失踪一般を欠落と呼んだ。出奔・逐電・立退などの語も用いられたが、法律上もっともよく用いられたのは欠落。

   江戸時代において封建領主は年貢確保のために、田畑の年貢を負担する地主が逃亡することをもっとも恐れた。家族や奉公人も労働力としてその失踪に大きな関心を持たれた。江戸・京都や大坂などの町人は地子すなわち年貢は免除されているが、事実上年貢に代わるべき夫役(ふつう銀納)を負担していたのであるから、かれらの欠落も農民のそれに準ぜられた。

   幕領の場合農民が失踪すると、その村の村役人は親類・五人組とともに代官役所に届け出なければならない。この届けを怠ると、名主・五人組は処罰される。届けを受けた代官は、欠落人の親類・村役人に三十日を限って、その捜索を命じるとともに、その旨勘定奉行に届け出る。三十日の間に見つからないと日限を延ばし、合計六切(きり)百八十日までの捜索が命じられるが、のちには手数を省くために、はじめから百八十日の日限(ひぎり)尋ねを命じることになった。六切尋ねでも見つからないと、尋ね人らは処罰されるとともに、改めて無期限の永(なが)尋ねが命じられる。永尋ねが命じられるとともに、欠落人の財産の相続が開始される。欠落百姓の田畠は古くは没収されたが、中期以後は、無罪の欠落人については相続が許された。百姓の跡株については分地の制限があったが、欠落人の田畠に限って二石、三石などに分割することは認められた。跡株である田畠の相続については代官の許可を必要とした。町方の場合、たとえば江戸では寛政三年(一七九一)までは欠落家持の家屋敷は没収されたが、同年町法改正の際に、妻子に相続させることになった。地借については、建家と家財は妻子に取得させた。欠落人に罪科がある場合には、農民・町人を問わず、その財産は没収された。『公事方御定書』下によれば、夫が家出してから十ヵ月を経たなら、妻は再婚を願い出ることができる。再婚によって失踪した夫との婚姻は解消したが、この十ヵ月間は夫の所在が全然不明であり、かつ全然妻方に音信がないことを要した。十ヵ月はのちには十二ヵ月としている取扱いもあった。妻の行衛が知れないときは、十ヵ月たてば、夫は妻または妻の父兄に離縁状を渡さないで再婚できた。欠落人が帰住すると、その親類・組合・村役人は帰住願を代官役所に差し出す。欠落人は欠落の原因その他について取調べを受けるが、欠落自体については、急度叱(きっとしかり)に処せられる例であった。きわめて軽い刑であるが、これは封建領主が欠落人の帰住を望んでいたからであろう。欠落した者は、久離され、除帳(帳外)されることがあるが、これらは必然的に欠落に伴うものではない。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(62-1)「沖船頭(おきせんどう)」:江戸時代、船長として実際に船に乗り込む運航の責任者。乗船頭。船主を居船頭と呼ぶのに対する語。

(62-2)「乗水主(のりかこ)」:上乗水主。江戸時代、運賃積みの廻船に同乗し、目的港に着くまで荷主に代わって積み荷を管理すること。また、その責任者。悪天候による投荷やその他船中の事柄一切に関し、船頭は上乗と協議する必要があった。

   *「水主」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意>とし、語源説に、「応神天皇が淡路島で狩りをしていた時、鹿の皮の衣を着た人達が舟を漕いで来たのを見て、彼らをカコ(鹿子)といったことから」を挙げている。

(62-3・4)「下代(げだい)」:下級の役人。下役(したやく)。『松前藩士名前控』には、沖の口下代として、宮嶋庄右衛門、桜井仁右衛門の名がある。

(63-1)「御徒(おかち)」:江戸時代の武士の一身分、また武家の職名。徒士・歩行とも書く。武士身分としての徒は徒侍とも称し、将軍・大名、大身の直参・陪臣の家中にみられる、騎乗を許されない徒歩の軽格(最下級、准士格)の武士をいう。諸家中の身分は、大略、士分である侍・徒、軽輩である足軽・中間に区別されていた。慶長8年(1603)正月に、徒組の組衆として、「走り衆」四組を設置した。

(63-1)「箱館御徒(はこだておかち)遠山利左衛門」:『松前藩士名前控』には、「新組御徒士」として、高橋保平、白鳥孫三郎、遠山利左衛門の名がある。

(63-1)「町医」:町医者のこと。近世、幕府・朝廷・大名の庇護なく、市井にて開業した平民の医者をいう。すなわち朝廷医官・幕府医員・藩医のいずれにも属さない民間医師。明治八年(一八七五)文部省より医術開業試験実施の布達がなされるまでは、わが国では諸外国と異なり、何人も自由に医者となり医療活動を行うことができた。社会的身分は人によってさまざまであったが、一般的には、町医は現在の医師よりはるかに低い地位にあった。

   *「医」:旧字体は「醫」で「酉」(ひよみのとり)部。「酉」は酒つぼの象形。「醫」の冠部の「殹」は、「エイッ」という、まじないの声の擬声語。治療に薬草酒を用いるようになり「酉」を付し、病気をなおす人の意を表す。常用漢字の「医」は「醫」の省略体による。

(63-5)「大濱(おおはま)」:現青森市大字油川字大浜。嘉永3年(1850)の「東奥沿海日誌」に「人家弐百軒斗。小商人酒屋船問屋農漁入交り。随分繁花の市町也。又此村のはしに大浜といふ有。則油川と人家つゞき成故に今は一村の如くなれり」とある。これより先、菅江真澄は、天明8年(1788)79日にこの地を訪れ、油川の地名伝承を記した。「むかし皐(サワ=水岸)に鶴の子うめるが野火のかゝりてやけわたるを、めづる、子をおもふの心せちに翅やかれたれば、おづるも飛来て羽をふためかし、ともに死にたり。その鳥のあぶらの流たれば、大浜の又の名を油川とはいふとなん」

『周廻紀行』1月学習分注記

【書誌】

本書(『蝦夷地周廻記行 全』)は、「早稲田大学図書館」の蔵書印および検印から、昭和29年3月30

日付けで早稲田大学図書館の所蔵となったものである。

本書は、享和元年(1801)磯谷則吉(いそがや・のりよし)が著した『蝦夷地道中記』を底本として書き写

し、題簽書名を『蝦夷地周廻記行』と改題した写本である。

【本書の概要】

本書の著者は、磯谷則吉。本書の概要は、享和元年(1801)、蝦夷地取締御用掛松平信濃守忠明(御書院番頭 禄高5千石)、同石川左近将監忠房(勘定奉行 禄高500石)、同羽太庄左衛門正養(目付 禄高500俵)の三名が、幕府から蝦夷地巡見を命じられた際、磯谷は、松平忠明に随行し、同年422日に箱館を出立し、ムロラン・ユウフツ・シコツ・イシカリ・ソウヤを経てオオーツク沿岸を南下、シヤリ・クスリ、ウラカワなどを経由、見分して77日箱館に帰着するまでの様子を道中記として取りまとめたものである。なお、巻末に、巡見した先々の村や場所の一覧が付されており、当時の村や場所の様子を窺い知ることができる。

【本書の時代背景~東蝦夷地の仮上知から永上知へ至る経過】(『新北海道史年表』抜粋)

◎寛政10(1798)

12.27幕府、御書院番頭松平信濃守忠明(ただあき)に蝦夷地御用掛を申付ける。

◎寛政11(1799)

1.16幕府、書院番頭松平信濃守忠明・勘定奉行石川左近将監忠房・目付羽太庄左衛門正養)・使番大河内善兵衛政寿・勘定吟味役三橋藤右衛門成方、東蝦夷地仮上知に付、この件の担当老中戸田采女正氏教より蝦夷地取締御用を命じられる。

1.16幕府、異国境取締のため東蝦夷地を当分の間試みに上知する旨松前藩に通達(上知の範囲を東蝦夷地浦川より知床および東奥島々までとし、期間を7か年)。

2.8 幕府、若年寄立花出雲守種周、蝦夷地御用取扱を命じられ、老中戸田采女正とともに事にあたる。

2.28松平信濃守、松平・石川・羽太・大河内・三橋の5有司連署の69か条からなる蝦夷地経営の施策細目をしめした「蝦夷地御取締並開国之儀相含取計方申上候書付」を立花出雲守に通達。後11.2幕府、蝦夷地御用を老中惣取扱とし、月番老中が事にあたる。

2.下旬松平忠明ら江戸出発、5月初旬までに箱館到着。松平忠明はネモロよりシベツまで巡行し、そこよりクスリに山越えして箱館に帰る。三橋成方は病のため浦河にて断念、7月箱館に帰る。大河内正寿はシャマニに至って下司中村小市郎・最上徳内をしてウラカワ~ビロウ間に道路(様似山道・猿留山道)を開削させる。9月下旬までに追々帰府、事の体を詳細に報告。

4.13松前藩、東蝦夷地を幕府勘定太田十右衛門・吟味方改役大島栄次郎に引継ぐ。

6.-松前藩、東蝦夷地の仮上知に伴い、幕吏の松前藩領往来繁雑にて困難の筋もあるにつき、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知を内願(同じ頃、仮上知の代地も内願)。

8.12幕府、内願のとおり5千石の代地(武蔵国埼玉郡)を下付し、また、知内川以東の追上知を認める旨書付をもって、松前章広に達す。9.28幕府、武蔵国埼玉郡のうち中閨戸村など12村を下付。

9.11松前藩、知内川以東浦川までの地所を、幕府支配勘定富山元十郎に引継ぐ。

11.2幕府、箱館表の警固を罷め、サハラならびにクスリ辺に勤番所を取建て、御用地年限中、重役(2~3人)および足軽(1,000人程)を駐留させるべき旨南部大膳太夫・津軽越中守に命じる。足軽500人ずつ派遣、津軽藩はサハラよりウラカワまで、南部藩はウラカワ以東を固める。以後、両藩の本陣は箱館に置き、津軽藩はサハラ・ヱトロフに、南部藩はネモロ・クナシリ・ヱトロフに勤番所を補理する。

この年△幕府、場所請負人を廃し、東蝦夷地場所を請取と、ただちにアイヌと直交易を開始。会所設立予定10ケ所のうち、セウヤ(注:シヨウヤ)・シラヌカ・クスリ・コブムイ・センホウシ・ノコキリベツ・アンネベツ・ノツケ8ケ所完成、アツケシ・シヤマニ2ケ所の設立準備をなし、そのほか、サルル・シヤマニ2ケ所に小屋を建てる。

◎寛政12年(1800)

1.14八王子千人同心頭原半左衛門、同心のニ三男・厄介人等を引き連れて蝦夷地に移住し、警衛・耕作に従事することを許される。3.21原半左衛門と弟新助、100人を召連れて八王子出発、4月シラヌカ(半左衛門持場)50人・ユウフツ(新助持場)50人、両所に入地。警衛を主とし、耕作を兼ね、会所交易にも従事する。

2.16幕府小納戸頭取格戸川藤十郎安諭・小納戸大河内善十郎政良、蝦夷地巡見を命じられ、3月江戸出発、東蝦夷地クナシリ島まで巡見、9月帰府。

2.28幕府先手青山三右衛門組同心井上忠右衛門、家族を率いて蝦夷地に移住することを許される。これを「在住」といい、以後、御目見得以上・以下あるいは譜代・抱入の区別なく、士族の移住を逐次許可し、手当を支給する。

3.-三橋成方、江戸を出発。4月中旬箱館に到着。松前藩の亀田番所を補理して居住、東蝦夷地経営の指揮をとる。9月帰府。代わって村上三郎右衛門常福が箱館に下向、翌年冬まで在勤。

4.12幕府、松平忠明・石川忠房・羽太正養連署の「蝦夷地並箱館取計之廉々申上候書付」を承認。これにより、和人の居住が進んだ口蝦夷地ノタオイまで、すなわち箱館付六か場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追)に村役人等をおき、箱館在々と同様に取扱うことが認められた(箱館付六か場所村並となる。)。

4.19伊能忠敬、江戸出発。5.19三厩より吉岡に到着、東蝦夷地を測量してニシベツに到り、ネモロ・ノツケ・クナシリ島を遠測、そこより引返し、9.17福山に到着、大島・小島などを測量して9.18帰帆。

5.-近藤重蔵・山田鯉兵衛、高田屋嘉兵衛直乗の同人手船1500石積辰悦丸に乗組み、ヱトロフ島に渡海。オイトに会所を設け、ロシア人の建て置いた十字架を取り除いてカムイワッカオイに木標を建て、漁場17か所を開く(13か所、23か所とも。)。

◎享和元年(1801)

2.-幕府、寺社奉行・町奉行・勘定奉行に蝦夷地一円永久上地の可否を諮問。2.9営中桜の間において三奉行と蝦夷地御用掛の面々が会合。

4.1松平忠明・羽太正養・石川忠房、箱館に到着。忠明は4.22箱館を出発、勇払よりシコツ川を通り西蝦夷地を巡見、7.7箱館帰着。正養は4.22箱館出発、東蝦夷地をクナシリ島まで巡見、9.5箱館帰着。忠房は4.21箱館出発、東蝦夷地をシレトコ崎まで巡見、7.10箱館帰着。7.10忠明・忠房箱館より帰帆。正養は福山を検分したのち、9.16福山から帰帆。

5.30幕府普請役中村小市郎・小人目付出役高橋次太夫、カラフト島検分の命を受け西蝦夷地ソウヤを出船、シラヌシに到着。東海岸を小市郎が担当しナイブツまで、西海岸を次太夫が担当してシヨウヤ崎まで検分。8月山丹交易事情や松前藩の樺太の取扱い等を復命。

◎享和2(1802)

2.23幕府、蝦夷地奉行を新設、小納戸頭取格戸川筑前守安諭・目付羽太庄左衛門正養をこれに任命。同日松平信濃守忠明。石川左近将監忠房、翌日三橋藤右衛門の蝦夷地御用を免じる。

2.24幕府、若年寄立花出雲守種周の蝦夷地御用担当を解く。

3.6村上三郎右衛門常福の蝦夷地御用を免じる。

5.10幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称(11日とも。)。

7.24幕府、東蝦夷地の仮上知を改め、永上知とする旨松前藩に申渡す。永上知の代価として年々3500両ずつ下付し、仮上知の代地としてきた武州久喜の所務および東蝦夷地収納よりの下渡金を廃止。

 

『周廻紀行』

(1-1)「記行」:『日本国語大辞典』には、「きこう:記行・紀行」として、「旅行中の体験、見分、印象などを書きつづったもの。紀行文。道の記。旅日記。道中記。旅行記。」とあり、「記行」と「紀行」を同義としている。

     また、ジャパンナッレジ『日本国語大辞典』は、「紀行」と「記行」について、「き・こう[・・カウ]」【紀行・記行】とし、意味、文例を示している。

      旅行中の体験、見聞、印象などを書きつづったもの。単なる地誌、記録の類から、修辞に気をくばった美文、作者の深い思索を示すものなど、他種多様。日本では「万葉集」にその萌芽が見られるが、独立した作品としては紀貫之の『土佐日記』が最初のもの。以後、多くの作品が書かれ、文学の一領域をなしている。紀行文。道の記。旅日記。道中記。旅行記。

     *俳諧・濁子清書画巻本野ざらし紀行・跋〔1687頃〕「此一巻は必紀行の式にもあらず」

     *滑稽本・東海道中膝栗毛〔1802~09〕八・附言「ひき続き木曽路の記行(キカウ)をもとむれども作者固辞して肯はず」

     *西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉外・二「文明の功徳は其弊害を償て遙に余あり其実際を知らんと欲せば諸家の著述せる記行を読て草昧夷狄の風俗を察す可し」

(2-2)「村(むら)」:近世、蝦夷地における「村」の存在は、戦国末期~近世初頭に始まり、その所在地も、松前地(和人地)内に限定されていた。

      また、「村」に準ずる「村並(むらなみ)」については、江戸期、蝦夷地の内にあって、和人の移住と和人集落の形成を前提として和人地内の「村」に準じた取扱いを受けるに至った集落のことをいい、その始まりは、寛政12(1800)東蝦夷地の内、小安場所から野田追場所に至る箱館六ケ場所内の集落が、一定の範囲内ごとに「村並」扱いされたことに始まる。

「村」、「村並」には、村役人が置かれた。(『角川日本地名辞典』より抜粋)

(2-2)「場所」:江戸期、和人が蝦夷地に赴き対アイヌ交易を行っていた「商場(あきないば)」が、その実態の発展に伴い「場所」という表現になり、享保年間の『松前蝦夷記』では、松前藩が藩士に給付した藩士知行の対象地を「場所」と記している。その後、商人が交易や漁業経営を請け負うようになった所を「請負場所」と称するようになった。「場所」の中心的な地点に運上家(屋)が置かれ、支配人・番人などの和人が滞在し、交易や漁業を行う拠点となっており、ほかに場所内の主な漁場に番屋が置かれた。なお、「場所」の境界については、海岸線での境界地点が主で、内陸部では主な川筋に関してなど限られた地点についてのみ境界線が明確になっていた。(『角川日本地名辞典』より抜粋)

 

『周廻紀行』

(5-1)「享和(きょうわ)元年」:干支は「辛酉(かのと・とり、シン・ユウ)」、西暦1801年。この年の2月5日、辛酉革命説により、「寛政」が「享和」に改元。

(5-1)「辰の刻計」:「辰の刻」は、現在の時刻では、午前8時。「計(ばかり)」は、「程度」の意。「辰の刻計」は、「朝の八時頃」をさす。影印の「斗」は「計」のくずし字。

      なお、江戸時代の時刻は、現在のように一日を24時間、1時間を60分と厳密に定めていたのではなく、昼(日出・夜明け~日入・日没)・夜(日入・日没~日出・夜明け)をそれぞれ6等分し、それを一刻あるいは一時と称する「不定時法」によっていた。したがって、夏の日中の一刻・一時は、2時間より長く、逆に、冬の日中の一刻・一時は、2時間より短く、季節ごとに変化した。

(5-1)「箱館」:現函館市。近世から明治2年(1869)までの村。亀田半島の基部から津軽海峡に突き出た函館半島の陸繫部を占め、同半島の南西端の凾館山に抱かれる箱館湊を中核として発達した。また、箱館村が亀田村より繁栄するようになったのは、享保(1716~1688)以降、松前藩の場所経営が請負制に移行し商品流通が活発になると箱館を通行する船舶が増加し、特に東蝦夷地からの荷物の集荷湊となって飛躍的に発展し、それまで亀田に置かれていた亀田番所が、寛保元年(1741)(延享4年(1747)とも。)に箱館に移設され、沖之口業務も執行されたことで決定的になった。

その後、異国船(ロシア船、イギリス船)の来航を契機に、蝦夷地における警衛を強化するため、寛政11(1799)幕府は松前藩から東蝦夷地を仮上知し(享和2年(1802)に永久上知)、新たに5名の蝦夷地取締御用を命じ、箱館は幕府による蝦夷地経営の基地とされ、亀田番所が、蝦夷地取締御用担当者の役所となった。そして享和3年(1803)春、新たな箱館奉行所が(現元町公園に)竣工し、亀田番所から移転。

      享和元年の分間箱館全図(市立函館図書館蔵)では、海寄り(湊寄り)の通りに沿って北西から南東に、弁天町・大町・内澗町・地蔵町が続き、その先の通りは、亀田村に通じる亀田通となっている(他の町は略)。享和3年(1803)には、家数823軒、人数3,415人。

(5-2)「龜田村」:現函館市の内。近世から明治35(1902)までの村。亀田半島の基部、亀田川流域にある。『地名考幷里程記』に「此所は凾館より先に開けたる」といわれ、『北海随筆』に「西は熊石、東は龜田、此両所に関所有て、是より外は蝦夷地とする。」とあるように和人地の東境で、松前藩の番所(亀田番所)が置かれていた。その後、亀田番所は、名称はそのままに、箱館に移転されたが、その時期については、『福山秘府』は「寛保元年(1741)」とするが、『蝦夷島奇観』には、「延享4年(1747)」とある。

(5-2)「てふ(という)」:旧仮名遣い。「といふ」の約で、「という」の意。「てふ」は、中古にはいって熟合してできたもので、多くは、和歌で用いられた。また、上代までは「とふ」、「ちふ」が多く用いられた。

(5-3)「某君(ぼう・くん、なにがし・ぎみ)」:「ある御方、さる御方」の意。

羽太正養著の『休明光記』に、寛政12年(享和元年の前年)に「三橋成方、松前藩の亀田番所を補理して居住、蝦夷地経営の指揮をとる。」と記されていることから、蝦夷地取締御用を命じられた勘定吟味役三橋藤右衛門成方(『蝦夷嶋巡行記』や『蝦夷日記』における寛政11(1799)の巡見使)をさす。

(5-3)「御仮屋、御鷹部屋」:松前藩の旧亀田番所の建物。『休明光記』に、「龜田村という処に、松前家龜田奉行の住居せし役所あれば(この役所、後に箱館へ引、交代やしきをつくる。そのあと今鷹部屋となる。)」とある。

     *「鷹」:「隹(ふるどり)」と「鳥」で構成され、「とり」がふたつもある。猛鳥の代表だけはある。なお、「隹(ふるどり)」は小鳥の象形で、「雀」「隼」など、ちいさな「とり」が「隹」部にある。「雛(ひな)」が典型といえる。「鳳」「鷲」「鶴」など大きなとりは、「鳥」部に多い。「鷹」は、当然「鳥」部。

(5-3)「いにしへ」:いにしえ。「往(い)にし方(へ)」の意。時間の経過を観念にもつ。久しい以前。過ぎ去った時。

     *(1)「いにしえ」と「むかし(昔)」とは同じ意味にも用いられているが、しかし、基本的にはとらえ方に違いがあるとみられる。「いにしえ」は、「往にし方」の原義が示すように、「時間的」にものをとらえる場合に用いて「今」と連続的にとらえられるのに対して、「むかし」は、そのような「過ぎ去る」という時間的経過の観念が無く、「今」とは対立的に過去をとらえる場合に用いる。歴史的には「いにしえ」、物語的には「むかし」が用いられるのもこのためといえる。

(2)語源的には、「過ぎ去った昔」の意で、直接に体験していないはるか以前について使われることが多く、「思ふ」「恋ふ」のような語と共に用いられて、あこがれの対象となる時という意味をも含意していたようである。これに対して「むかし」は、奈良・平安時代を通して、直接体験した懐かしく、忘れがたい、近い過去を多く意味した。

(3)鎌倉時代以降になると、はるか以前を意味する「むかし」が急増し、「いにしへ」の意味領域を侵していった。そのため、「いにしへ」は、江戸時代以降、詩語的・雅語的な言葉となって、今日にいたっている。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

     *「古」について、『新選漢和辞典 Web版』には「十と口を合わせた字。昔のことを知るのは、ことばによる。古は、十代も前のことを言い伝えることから、大昔をさし、ふるいという意味にもなる」とある。

(5-3)「司官」:「官」には、①つかさ、役人、②おおやけ、朝廷、政府、③官位などの意があり、「役所」とすると、松前藩の東在の「関所」、あるいは、「亀田番所」のことか。

     *「司」について、『新選漢和辞典 Web版』には「后の字を反対向きに書いた形。后は君で、内にあって政治をする人。それに対して臣下は、外にあって、仕事をする。それで、司は官吏をいい、また、つかさどる意味になる」とある。

(5-6)「農家少々」:最上徳内の『蝦夷草紙別録』では家数14、寛政3(1791)の『東蝦夷地道中記』には家数10軒程、文化4年(1807)の戸口は28戸(『函館市史』)とある。


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古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。            

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代として,
600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、
事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎会場:エルプラザ札幌駅北口中央区北8西3

◎開催日時:月1回/午後1時~4時

 ・当面の日程:2月10日(月)

◎現在の学習内容 

    『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。(北海道大学附属図書館蔵)

    『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵)
 代表:深畑勝広

事務局:森勇二 電話090-8371-8473 
メール:moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

12月 町吟味役中日記注記

(55-1)「例座」:「例」は「列」か。列座は、座につらなること。その場所に並びすわること。列席。

(55-1)「由右衛門ヲ以」の「ヲ」:昭和61(1986)年「内閣告示」の「現代仮名遣い」の「本文 代」で、「特定の語については,表記の慣習を尊重して,次のように書く。」とし、

1 助詞の「を」は,「を」と書く。

2 助詞の「は」は,「は」と書く。

3 助詞の「へ」は,「へ」と書く。

      とある。つまり、歴史的仮名遣いは、助詞「を」「は(ワと発音)」「へ(エと発音)」に限って、現代も、生きながらえていることになる。

      なお、〔注意〕として、「次のようなものは,この例にあたらないものとする。」とし、「いまわの際」「すわ一大事」「雨も降るわ風も吹くわ」「来るわ来るわ」「きれいだわ」を例示している。

(55-2)「欣求院(ごんぐいん)」:松前にあった浄土宗の寺院。慶安2年(1649)創建と伝える。江戸初期に欣求という僧がそれまでにあった無縁寺を再興して欣求院としたとも。戊辰戦争の戦火で寺は焼失、廃寺。山号は義経山。「義経が矢尻で刻んだ岩」という義経伝説がある。光善寺の支院に列していたが、明治元年(1868)に光善寺に合併。

      *「欣」を「ゴン」、「求」を「グ」と読むのはともに呉音。「欣求」は、よろこんで願い求めること。

      *「欣求浄土(ごんぐじょうど)」は、このけがれた現実世界を離れて極楽浄土,すなわち仏の世界を,心から喜んで願い求めるという意味。浄土教でよく用いられる。「厭離穢土(えんりえど)」の対。両者を合せて「厭穢欣浄 (えんねごんじょう)」 ともいわれる。

*「求」の訓読みに「求(ま)ぐ」がある。「まぐ」と読む。求め尋ねる。探し求めるの意味。

「宮造るべき所を、出雲の国に求(ま)ぎ給(たま)ひき」(『古事記』)

[] 宮を造るのにふさわしい所を、出雲国にお探し求めになった。

*日本の漢字音:中国音(中国で発音される音)ではなく、日本語の音韻体系に合わせ日本語化した音。「音(おん)」は、漢字伝来以前の日本語(主に大和言葉)を、伝来した漢字に当てはめた「訓(くん)」に対していう。漢字の伝来時期により呉音・漢音・唐音と名称が異なる。(中国王朝名ではない)

①呉音:5~6世紀の中国南方から伝来した音。

②漢音:7~8世紀、平安時代の初めごろまでに、遣唐使・留学僧などにより伝えられた、唐の首都長安の北方標準音に基づくもの。「漢」時代の音のことではない。我が国では、唐王朝時代の中国を「漢」といった。

③唐音:9世紀以降伝来の音。狭義には、江戸時代に、長崎を通じて伝えられた、明から清の初期の中国語の発音。「唐」時代の音ではない。我が国では、このころの中国を「唐(から・もろこし)」といった。

(55-3)「遠慮(えんりょ)」:江戸時代、武士や僧侶に科した軽い謹慎刑。居宅での蟄居(ちっきょ)を命ぜられるもので、門は閉じなければならないが、くぐり戸は引き寄せておけばよく、夜中の目立たない時の出入は許された。

           *「遠慮」の「慮」のくずしは、「恵」に似ている。

(55-5)「御免(ごめん)」:容赦、赦免することを、その動作主を敬っていう語。

     *もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』)

(55-8)「心得違(こころえちがい)」:心得を誤ること。道理にはずれた行為や考え方をすること。また、その人。

(55-9)「心意違」の「意」:「意」は、「得」か。

(56-2)「八平(はっぺい)」:古田八平。町奉行配下の町方頭取(新組足軽)。

(56-2)「孫平(まごへえ)」:中村孫平。町奉行配下の在方下役。

(56-3)「被仰付(おおせつけられ)」:「被」と「仰付」の間が1字空いているのは闕字。

(56-6)「渡部早五郎」:足軽並。『吟味役中日記』の天保397日(P25)の項に「渡辺早五郎」とある。『松前藩士名前控』(北大附属図書館蔵)の足軽並にも「渡辺早五郎」とある。影印の「渡辺」の「辺」は「部」で「渡部」か。

(56-8)「諸士(しょし・しょじ)」:多くのさむらい。多くの士人。しょさむらい。

(56-8)「人別宗門改(にんべつしゅうもんあらため)」:江戸時代に宗門改めと人別改めを複合し村ごとに作成して領主に提出した戸口の基礎台帳。宗門人別帳・宗旨人別帳・宗門改帳・家別帳、単に宗門帳ともいう。明治4年(1871)寺請制度が廃止され戸籍法が作られて、宗門人別改帳は戸籍へと引き継がれた。

(57-1)「役十手(やくじゅって)」:「十手」は、江戸時代、同心、小者、目明しなど、捕吏(ほり)が携帯した道具。長さ一尺五寸(約四五センチメートル)ほどの鉄棒で、手元に鉤(かぎ)がついている。犯罪捜査のときはこれを見せて捕吏である身分証明とし、犯罪者捕縛のときは相手の攻撃を防ぎ、打ったり突いたりするのに用いた。形は階級により差があり、柄のふさ紐の色で所管の別がわかった。じってい。手木(てぎ)。なお、「十手」の語源説に、十本の手に匹敵する働きをすることから「十手」と呼ばれたという説がある。

(57-3)「此度(このたび)」の「度(たび)」:「度」の音読みは「ト」(漢音)、「ド・タク」(ともに呉音)。「度」を「たび」と読むのは、国訓。「度」に回数を表す意味があり、和語の「たび」に当ることから、「度」に「たび」を当てるようになった。「ひと度(たび)」「幾度(いくたび)」「度々(たびたび)」など。

(57-4)「江戸表」の「表」:〔接尾語〕場所・地名について、そのあたりである意を表す。…方面。…地区。「国表」「江戸表」など。

      *特に、「江戸表」という場合、江戸城御殿のうち、大奥と将軍の私的居住区を除いた、役人、大名の詰所や儀式にあてられる部屋や場所。大名などの邸にもいう。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(57-4)「おゐて」:「おきて」の変化した語。漢文訓読において用いられ始めた。「…において」の形で、まれに「…でおいて」の形で、格助詞的に用いられる。)動作、作用の行なわれる場所、時間などを示す。…で。

      *格助詞「に」をともなう「において」の形は「於」を訓読した「ニオキテ」の音便形。「於」は平安時代から「ニオイテ」の他、「ニシテ」とも読まれ(その際、平安初期では、「於」は不読とされ、「ニシテ」は読み添えられる場合が多い)、「ニシテ」が主として具体的な場所を指すのに対し、「ニオキテ(ニオイテ)」は論理的・抽象的な関係を示していた。院政期頃まではこのような使い分けがなされていたようであるが、それがやがて場所・時間を表わす場合にも「ニオキテ(ニオイテ)」が用いられるようになった。平安時代の和文では、「宇津保物語」「源氏物語」「浜松中納言物語」の男性の会話または手紙の中に用いられている。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(57-5)「相応之品」の「品」:脚部の二つの「口」は、繰り返し記号のようになっている。

(57-6・7)「取上金(とりあげきん)」:罪人から没収した金銭をいうか。

(57-7)「弐百疋(にひゃくっぴき)」:銭ニ貫文。「疋」は、銭を数える単位。十文(もん)の称。銭一貫文が百疋にあたる。中世、近世を通じて儀礼的な場合や贈答の際に用いた。明治に入り、明治4年(1871)、新貨条例により、一両が一円、一分が二十五銭となった。そこで百疋は二十五銭(一疋は二厘五毛)に置き換えられることになり、旧式の儀礼を踏襲する場合には、昭和初期まで一部にこの単位が用いられた。

(57-7)「下代(げだい)」:下級の役人。下役(したやく)。

(58-6)「仕置(しおき)」:処罰。処分。成敗。おしおき。

      *この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(170411)までに成っていたとみられる。

(58-7)「沖口役所(おきのくちやくしょ)」:港に出入りする船舶、旅人を検査し、沖口口銭、旅人税を取り立てた役所。永正一一年(一五一四)松前氏の祖が大館に居を構え、諸国からの商船、旅人に課税したのが初めで、その後松前藩が北海道の福山、江差、箱館および当別、吉岡の諸港に置いたが、明治になって海官所、船改所などの変遷を経て廃止。(注記末尾に資料を添付)

(59-2)「御忌中(ごきちゅう)」:松前家13代・松前藩8代藩主だった松前道広は、この年・天保3624日、死去した。年79。『吟味役中日記』によれば、9月朔日に四九日法会が行われている。「忌中=服忌(喪服を着ることと汚れを忌んで慎むこと)」期間は13ケ月とされていた。

(59-3)「当賀御礼(とうがおれい)」:月次御礼。『吟味役中日記』を見ると、4月は朔日と15日、5月は15日に行われている。9月は15日だったか。

(59-3)「登城(とじょう)」:「登」と「城」の間に1文字分空けてあるが、「城」を尊  敬する体裁。「闕字(欠字)」という。

      *欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。欠字、平出も、律令の規定にこだわらず、朝廷ばかりでなく、一般に尊敬を表するいろいろな場面に使われるようになった。職名ばかりでなく、城や屋敷などにも使われ、更には、「仰」など言動にも使われるようになった。

       *『吟味役中日記』(天保345月、9月)に見る闕字・平出

        <闕字>

       ・「御」・・11ヶ所

       ・「仰」・・7ヶ所

       ・「殿様」・・2ヶ所

       ・「上様」・・1ヶ所

       ・「城」・・1ヶ所

       ・「津軽様」・・1ヶ所

       ・「松吟院様」・・1ヶ所

        <平出>

       ・「御」・・8ヶ所

       ・「殿様」・・2ヶ所

       ・「公辺」・・1ヶ所

       ・「公儀」・・1ヶ所

(59-3)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」:裃(かみしも)のこと。「肩衣」は、①上代の衣服の一種。袖(そで)がなく、肩と背だけをおおった、たけの短い衣服。②室町時代以降の武家の礼服。のちには町人も着用した。袖がなく、肩と背だけをおおった、紋付きの衣服。袴(はかま)と併せて裃(かみしも)という。

      「継肩衣」は、肩衣と袴が共布でないもの。

      *「衣(きぬ)」:衣服。着物。特に、上半身からおおって着るものを総称していう。また、衵(あこめ)、かずきなどもいう。

       上代では日常の普段着。旅行着や外出着は「ころも」といった。そのため「きぬ」は歌ことばとはならなかったようで、複合して「ぬれぎぬ」以外は三代集以降姿を消す。院政期以降は衣服の総称でなくなり、「絹」の意の例が見えはじめ、軍記物語では上層階級や女性の着衣の意味で用いられている。語源上は、材質の「絹」とかかわるか。下層階級の衣服は「いしゃう」であった。(ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』)

      *明治45年(1912)発表の文部省唱歌「冬の夜」の歌詞に「燈火(ともしび)近く衣(きぬ)縫う母は」とある。

(59-3)「悴(せがれ)」:影印の「忰」は「忰」の俗字。江戸時代、立心偏(りっしんべん)の「忄」を当てていたが、近代に入って、人偏の「亻」に変えた「倅」の表記も用いられるようになった。(『全訳漢辞海』)

      なお、古代中国では「倅(そつ)」は、百人の兵士一組を言った。宋代以降はは、州や郡の副長官に用いられた。

(59-4)「十三(じゅうさん)」:地域名「十三」を江戸時代前期までは「とさ」と読んだが、後期以降は「じゅうさん」と読むようになった。もっとも、現在は「十三湊」関連に限って古訓「とさみなと」に戻して読んでいる。遺跡は十三湊遺跡(とさみなと いせき)と呼ばれ、2005年(平成17年)714日に国の史跡に指定されている。

*十三湖は現在直接日本海に開口していますが、かつては砂州の間の水路、前潟を通じてつながっていました。

 遺跡は前潟と十三湖に挟まれた砂州先端に立地し、規模は南北約2キロメートル、東西最大500メートルにおよびます。

 前潟に面した西側が高く、そこに十三集落の街村が南北に立地しており、成立期の遺跡はこの中央付近で確認されています。

 集落東側の広大な畑地が遺跡の中心で、北西の前潟に面する地区に港湾施設、南端に伝壇林寺跡が位置しています。

 中心の地区は空堀を伴う東西方向の大土塁により南北に二分されています。

 土塁北側は遺構・遺物の内容から、領主やその関係者などの居住区と考えられ、大土塁は遺跡の最盛期である14世紀後半から15世紀前葉のものであり、その北側に遺構が営まれるのは14世紀前半にさかのぼります。14世紀後半以降は大土塁とほぼ同方向の柵を伴う東西道路が規則的に配置され、その間に多くの掘立柱建物・井戸、鍛冶・製銅の工房などの竪穴遺構が分布し、都市計画的な屋敷割がみられます。この地区は遺物の出土量も多く、奢侈品の陶磁器や東北地方では稀少な京都系のかわらけもまとまっており、中心的な場であることを示唆しています。この地区では15世紀前半の火事場整理の跡と考えられる、多量の被熱した礫を廃棄した遺構が多数存在するため、火災により多くの施設が焼失した後、いったん復興作業が行われたと推定されます。この火災は永享4年(1432年)の南部氏との抗争で敗れた際に伴うものとの指摘もあります。

 土塁南側は地割から町屋の存在が推測されています。側溝を備えた南北道路があり、その両側に掘立柱建物と井戸を伴う区画があります。南辺には墓跡や畑がみられ、この地区は15世紀中葉頃、土塁北側の火災後に計画的に整備されたが、まもなく衰退したと考えられます。

この地区から約300メートルおいて伝壇林寺跡があります。土塁や溝等による一辺百数十メートルの方形区画が東西にふたつ並ぶものと考えられ、東方区画は建物や井戸などから居住空間、西方区画はさらに溝による長方形区画があって遺物が少ないことから宗教的施設と推定されます。

 前潟に面した港湾施設は船着場に伴う遺構と推測さ、汀線付近の砂地に広く礫敷が認められ、護岸用の木杭と横板、桟橋の可能性がある縄が巻付いた杭等も出土しています。

伝壇林寺跡、港湾施設とも時期は土塁南側とほぼ同じであると考えられています。

 十三湊遺跡は13世紀初めに成立し、15世紀後半に急速に衰退するまで、中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと、北日本における日本海交通の拠点港として発展、繁栄しました。その衰退後は遺跡地の大半は開発されることもなく非常に良好に保存され、かつ周辺には山王坊遺跡等の関連遺跡が豊富に分布し、とりまく十三湖や日本海の環境・景観もすぐれています。

 国内において、重要な港湾を備えた大規模な遺跡として類いまれな事例です。(「平成17年史跡指定申請書」文化審議会による答申の概要説明文より引用)

(59-7)「枝ヶ崎町(えだがさきまち)」:松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置する。西は大松前町と接し、東は泊川町。小松前町・大松前町・唐津内町とともに大手商人・問屋・小宿が店を構える城下の中心地。文化(180418)頃の松前分間絵図によると町の長さは北角から一二〇間。イソヤ場所請負人柳屋庄兵衛、下ヨイチ場所請負人・上ヨイチ場所請負人の柏屋喜兵衛、サッポロ場所請負人浜屋甚七、上ユウバリ場所請負人・下ツイシカリ場所請負人の畑屋七左衛門、アツタ場所請負人浜屋平次が店を構えていた。「蝦夷日誌」(一編)では「大松前町の并びなり。此名大松前の松の枝の振りし当りより起れるにやと思わる。小商人、問屋、小宿、請負人山十、并又十等有、繁華の町なり。うらは枝ケ崎の間と云船澗にして其処ニ又十(柏屋喜兵衛)のしまと云築地有。此又十(万屋増蔵)なるものは高田屋嘉兵衛欠処後、其請負を致して当時富さかえける。」とある。明治33(1900)、福山町の一部となる。

    *「枝ヶ崎町」の「ケ」:「カ(ガ)」と読む。「ケ」はカタカナでなく、「箇所(カショ)」の「箇(カ)」の冠「竹」の片割れ。

(59-11)「進達」の「進」:下級の行政機関から上級の行政機関に対し、一定の事項を通知し、または一定の書類を届けること。この場合、町奉行配下の吟味役から、上級の町奉行へ提出すること。

      *くずしは、「近」によく似ている。文脈から判断する。

(60-1)「古手屋(ふるてや)」:古着や古道具などをあきなっている店。古着屋、古道具屋など。古手店。また、それを職業にしている人。

(60-1)「手船(てぶね)」:近世、水運に利用するため自分で所有する船をいう。手船の所有者には幕府・各藩藩主、回船問屋・河岸問屋など運輸業者のほかに物資輸送に関与する商人や農民などもいた。藩主が年貢米や台所用物資あるいは商人荷物の運送に使用する船を藩手船ともよんでいる。運輸業者は雇船で荷物を運送するより問屋手船を使う方がより収益が大きかった。

(60-3)「買積(かいづみ)」:自分の資本で商品を買い入れて船で運んで他に売る商法。

なお、江 戸時代、北海道・奥羽・北陸地方など、上方からみていわゆる北国地方へ、廻船をもって買積あきないをすることを「北国買積(ほっこくかいづみ)」という。

(60-3)「子風(ねのかぜ)」:北風。「子(ね)」は北を差す。

(60-7)「面立(おもだち)」:重立(おもだち)。集団の中で主要な人物である。中心になる。かしらだつ。

(60-7)「奉行中三人(ぶぎょうちゅうさんにん)」:町奉行鈴木紀三郎、新井田周次、蠣崎四郎の三人。

(60-4)「某供両人(それがしともりょうにん)」:吟味役・奥平勝馬、南條長六郎のひたり。

12月学習 巡行記 注

(104-1)「のほ(ぼ)り」の「ほ(ぼ)」:変体仮名。字源は「本」。「不(ふ)」に見える。

(104-2)「天神の社」:現北斗市矢不来に鎮座する「矢不来天満宮」。伝承によると、文和年間(135256)の頃、当地に漂着した菅原道真の木像を安置したことに始まるという。『山川取調図』に、「ヤキナイ」の隣に「天ジン下」の名がみえる。

(104-2)「茂部地村」:茂辺地か。現北斗市のうち。近世、東在の村の一つ。茂辺地川右岸に位置し、東は箱館湾に面する。『山川取調図』に「茂辺シ」の名がみえる。

(104-3)「さがり」の「さ」:変体仮名「さ」字源は現行ひらがなの字源の「左」。

    *「左」と「右」:左の「工」は巫祝(ふしゅく=神事をつかさどる者)のもつ呪具(じゅぐ。呪術に用いる道具)。右の「口」祝を収める器をもつ形。左右は神を尋ね、その祐助を求めるときの行動を示す。ゆえに(尋)は左右を重ねた形。左右は援助を意味する語となる。(『字通』)

(104-3)「館(たて)跡」:『新羅之記録』に記された渡島半島に所在した和人の領主層の道南十二館の一つ、「茂別館」跡をさす。『山川取調図』には、「タテノ下」の名がみえる。なお、注記末尾に資料を添付した。(資料①道南十二館の名称と所在地。②館跡・周辺の考古学的知見) 

(104-4)「幅弐拾間計の川」:茂辺地川。流路延長20.6㎞の2級河川。

(104―5)「ちいさき平場」:小さな平地のこと。

(104-6)「當別村」:現北斗市の内。字名に「当別」の名がみえる。近世、東在箱館付村々の一つ。大当別川および当別川流域にあり、南は三石村に接する。『山川取調図』に、「トウベツ、大トウベツ」の名がみえる。

(104-6)「弐拾間程」:「間」は「軒」か。

(105-1)「三ツ谷村」:『山川取調図』の道順と照合すると、「三石村」の誤りか。「三石村」は、現北斗市のうち。「三ツ石村」とも。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「三石」の名がみえる。

(105-1)「打過(うちすぎ)」:「うち」は接頭語。ある場所を通り過ぎる。通過する。

(105-3)「泉沢村」:現木古内町のうち。字名に「泉沢」の名がみえる。近世、東在に存在した村の一つ。元禄郷帳には「いつみ沢村」、天保郷帳には、「泉沢村」としてその名がみえる。『山川取調図』には、「泉サワ」の名がみえる。

(105-2)「やと(ど)り」:(動詞「やどる(宿)」の連用形の名詞化。宿をとること。旅に出て、他の家などで夜寝ること。また、その所。

(105-3)「走野川」:泉沢村と札苅村の境を流れる「橋呉川」か。『廻浦日記』に「ハシクロ 川有、巾十間計。村境なり。」とある。『山川取調図』に「ハシクロ」の名がみえる。

(105-3)「札狩村」:「札苅村」。現木古内町のうち。字名に「札苅」の名がみえる。木古内町の北東に位置し、東から南は津軽海峡に面し、ほぼ南流する幸連川が海峡に注ぐ。『山川取調図』に、「札苅」の名がみえる。

(105-3)「大平川」:木古内町を流れる普通河川。

(105-4)「喜古内村」:現木古内町木古内。木古内町域の南端に位置し、北は札苅村、東は津軽海峡に臨む。『山川取調図』に「木子内」の名がみえる。

(105-4)「喜古内川」:木古内町内を流れる二級河川。流路延長13.6㎞。『山川取調図』に「キコナイ川」の名がみえる。

(105-4・5)「館有川」:建有川、立有川とも当てる。安政2年(1855)、蝦夷地再直轄の際、建有川~乙部間は、松前領として残った。(資料③参照)

(105-5)「中ノ川」:「中野川」。木古内町内を流れる二級河川。『山川取調図』に「中ノ川」の名がみえる。

(105-5)「森越川」:知内町内を流れる普通河川。『山川取調図』に「モリコシ川」の名がみえる。

(105-5)「大茂内川」:知内町内を流れる普通河川「重内川」。

(105-5)「尻内川」:大千軒岳(標高1071.6m)に源を発し、知内町内を流れる二級河川「知内川」。流路延長34.7㎞。『山川取調図』に、「知内川」の名がみえる。寛政11(1799)812日、知内川以東が幕府の直轄地になった。(資料③参照)

(105-6)「尻内村」:現知内町。近世、東在の村の一つ。北は木古内村、南は小谷石村。西は七ツ岳、袴越岳、岩部岳、南は丸山、灯明岳が連なる山岳地帯。東は津軽海峡に臨む。知内川河口部に集落を形成。

(106-1)「山本」:道順から、知内町に所在する、千軒岳麓の「知内温泉姫の湯」か。

『廻浦日誌』に、「温泉、従追分十丁余、山間、人家意一軒、温泉壺一ツ有」とある。

(106-2・3)「真土(まつち)」:耕作に適している良質の土。

(106-3)「一ノ渡」:『廻浦日記』に、知内村と福島村の村境に「網張野、一之渡野、一ノ渡」と「一之渡」の名がみえ、「川巾十間計、転太石川、此川本川也。」とある。また、『日本歴史地名大系 北海道の地名』には、「明治元年十一月、榎本軍は、(福島村の)一ノ渡、山崎などで、松前藩兵と戦闘を行っている。」とある。

(106-4)「弁当」:容器に入れて携え、外出先で食べる食べ物。

(106-5)「福嶋村」:現福島町。近世、東在の一村で、現福島町の北部から東部一帯を占めていた。枝郷を含めると、東は矢越岬を越え、知内村涌元(現知内町)近くの蛇ノ鼻から、西は慕舞西方駒越下の腰掛岩までの海岸線と、北は一ノ渡(字千軒)を越え、知内温泉(現知内町)近くの湯の尻、栗の木堪坂までの広範な地域。『山川取調図』に「フクシマ」の名がみえる。

(106-5)「出立掛(しゅったつがけ)」:出かける時。出発するまぎわ。でがけ。

   「でがけ」は、出たばかりのところ。出だし。第一歩。

(106-5)「白符村(しらふむら)」:現福島町白符。近世は、東在の一村で、「白府」、「白負」とも。『山川取調図』に「白府」の名がみえる。

(106-6)「間内と言川」:「澗内(まない)川」。白符村の南端を流れる二級河川。流路延長37.4㎞。

(106-6)「宮哥(みやのうた)村」:現福島町宮歌(みやうた)。近世、東在の一村。宮歌川の流域に位置し、北方は白符村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「宮ノウタ」の名がみえる。

(107-1)「吉岡村」:現福島町字吉岡、字館崎、字豊島、字深山。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置。道南十二館の内、穏内(吉岡の古名)館があった。吉岡澗(湊)は、「東向の湊ニ而、城下澗(松前湊)より風の憂」なく、「50艘程入選することもある」といわれている。『山川取調図』に「吉岡」の名がみえる。

(107-3)「礼髭村(れいひげむら)」:現福島町字吉野、字松浦。「レヒゲ」とも。近世、東在の一村。北方は吉岡村、東は津軽海峡。『山川取調図』に「礼ヒケ」の名がみえる。

(107-6)「大嶋」:松前大島とも呼ばれ、松前町字江良の西方約56キロにある無人の三重式火山の島。松前小島の北西にある。『山川取調図』に「大島 周七里」とある。

(107-6)「小嶋」:松前小島とも呼ばれ、渡島半島から南西へ約24キロ離れた日本海上に浮かぶ孤島。周囲約4キロ、標高約293メートル。『山川取調図』に「小島 周二里余」とある。

(108-1)「行事(いくこと)」:「古」+「又」は、「事」の異体字。

(108-2)「炭焼沢と言村」:「炭焼沢村」。現松前町字白神。近世、東在城下付の一村。渡島半島南西端に位置し、半島の突端は、白神岬。『山川取調図』に「白神」、「スミヤキ」とある。

(108-3)「荒谷村」:現松前町字荒谷。近世、東在城下付の一村。松前湾に注ぐ荒谷川河口域に位置する。『山川取調図』に「アラヤ」の名がみえる。

(108-3)「大澤村」:現松前町字大沢。東在城下付の一村で、大沢川河口域位置する。『山川取調図』に「大サワ」の名がみえる。

(108-4)「根森村」:現松前町字大沢。近世は、東在城下付大沢村の支郷。『山川取調図』に「子(ネ)モリ」の名がみえる。

(108-4)「大泊川」:現松前町字月島、字豊岡、字東山付近を流れる伝治沢川。享保―宝暦期に、「伝治沢川」を「大泊川」と称していたとある。

(108-5)「唐津内」:現松前町唐津内。近世、城下付の一町。城下のほぼ中央に位置し、南は海に臨む。『蝦夷日誌』では、「此町、中買、小宿、請負人にし而伊達、山田、山仙等有て町並美々敷立並たり。南面海ニ面し船懸り澗有、上の方太夫松前内記、蠣崎蔵人邸等有」と記されている。『山川取調図』に「カラツナイ」の名がみえる。

(109-2)「道法は凡五百里余」:巡見に同行した武藤勘蔵の『蝦夷日記』では、「道法往返にて五百五十六里」となっており、本書とは、約五十里程の差がある。

(109-2・3)「可有之なり(これあるべきなり):断定の助動詞「なり」は、体言と副詞、活用語の連帯形に付く。助動詞「ごとし」には「ごとくなり」のように連用形に付く場合もある。連体形に付く例は上代にはなく、中世以後。

(109-4)「未(ひつじ)九月」:寛政11年(1799)己未。蝦夷地巡検の日程は、寛政10年(1798)戊午4月江戸出立、5月16日松前唐津内到着。5月25日松前出立~(巡見)~8月22日松前唐津内到着となっており、筆者が、本書の『蝦夷嶋巡行記』を著したのは、一年後の翌寛政119月。

(109-4)「公暇齋蔵」:幕吏か。「公暇」は、「官公吏などに公に与えられた休暇」を意味するから、筆名か。筆者は、寛政10(1798)、幕府の蝦夷地調査隊の勘定吟味役・三橋藤右衛門一行の西蝦夷地巡検に参加した巡検隊のひとり。

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11月 町吟味役中日記注記

                         

(50-3)「相対(あいたい)」:合意すること。相談のうえ、互いに納得して事を行なうこと。あいたいずく。

     *相対死(あいたいじに)は、江戸時代の法律用語。心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

(50-4)「与者(とは)」:格助詞「と」に、係助詞「は」が付いたもの。説明・思考・知覚などの対象やその内容を取り立てていうのに用いる。

     *「与」を「と」と読むのは、漢文訓読の用法。変体仮名ではない。変体仮名では「よ」の字源。

     *「と(与)」の語法

      ①並列。

(ア)および。「…与レ~(…と~と)」の形で同等に結ぶ。

例「堯乃賜舜絺衣与一レ琴」

<堯(ぎょう)すなわち舜(しゅん)に絺衣(ちい)と琴(きん)とを賜(たま)う」(そこで尭は舜に上等な葛布の衣と琴とを与えた)〈史記・五帝本紀〉

(イ)従属。…と一緒に。つれだって。…と。…に。「与レ…(…と・…とともに)」の形で動作にしたがう対象を示す。

例「項梁殺人、与籍避仇於呉中

<項梁(こうりょう)人を殺し、籍(せき)とともに仇(あだ)を呉中(ごちゅう)に避(さ)く>

(項梁は人を殺し、籍とともに仕返しを避けるため呉中に逃れた)〈史記・項羽本紀〉

(ウ)対象。…と。…に。「与レ…(…と・…に)」の形で動作の対象を示す。

例「与項羽別而至高陽

<項羽(こうう)と別れて高陽(こうよう)に至る>

(項羽と別行動をとって高陽に到着した)〈史記・酈生(れきせい)列伝〉

        ▼対象が文脈により省略された場合は「ともに」と訓読する。

例「豎子不与謀

<豎子(じゅし)はともに謀るに足らず>

豎子豎子(小僧は話し相手にならぬわ)〈史記・項羽本紀〉

(50-5)「候節」の「節」:決まり字。

(50-6)「兼々」の「兼」:決まり字。脚部が「灬」(れっか)のようになる場合がある。

(50-8)「停止(ていし・ちょうじ)」:「停」を「ちょう」と読むことについて、ジャ『日本国語大辞典』は「呉音」とし、『漢辞海』『漢語林』は慣用音とする。

      *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(50-8)「停止之所」の「所」:決まり字。偏の「戸」は、「ニンベン」のように見え、旁の「斤」は「石」のように見える。

(50-8)「改(あらた)め」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(50・2-1)「不束(ふつつか)」:江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑‐一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可成者は、不届之旨と認」

*「不束」は当て字。本来、「太し」と関係のある語で、太い様子や、太くて見苦しい様子をいう。さらに、細かい配慮に欠ける様子をもいい、否定的であるところから、「不」の字を当て字に用いるようになる。(ジャパンナレッジ版『小学館全文全訳古語辞典』)

(50・2-1)「過料(かりょう)」:江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

      *徳川禁令考‐別巻・棠蔭秘鑑・「享保三年極一、過料三貫文、五貫文。但、重きは拾貫文、又は、弐拾両、三拾両、其者之身上に順ひ、或村高に応じ、員数相定、三日之内為納候、尤、至而軽き身上に而過料差出かたきものは、手鎖」

(50・2-1)「銭(せん・ぜに)」:金銭。硬貨。

*九十六(くじゅうろく)の銭百(ぜにひゃく):江戸時代、銭九十六文を百文として計算したこと。転じて、すこし足りないことのたとえ。

(50・2-1)「貫文(せん・さんかんもん)」:貫。銭を数える単位。一文銭1,000枚を一貫とする。江戸幕府は、寛永通宝(一文銭)を鋳造するようになってから、銭と金の比価を四貫文対一両と公定した。

      *「三貫文」の「貫」:決まり字。冠部が「丑」、脚部の「貝」が繰り返し記号のように見える。

(50・2-2)「手鎖(てじょう)」:「錠」「鎖」は当て字。罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。てぐさり。江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

(50・2-2)「宿預ケ(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(50・2-3)「憐愍(れんびん)」:あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。れんみん。

(50・2-5)「加州」:加賀国。

      *影印の「州」は、異体字「 」の省略体。

(50・2-10)「初而(はじめて)」の「初」:旁の「刀」が「百」のように見える。

(50・2-10)「当所」の「当」:脚部が「舟」「丹」のように見える。

(50・2-10)「入津(にゅうしん・にゅうつ・にゅうづ)」:「津」を「つ」と読むのは、訓読み。「入津」を「にゅう・つ」と読むのは重箱読み。

      *和語で、海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところを「つ」といったが、漢字伝来で、「津(しん)」が「つ」と同じ意味であることから、「津(シン)」に「つ」を当てた。「津波(つ・なみ)」「津々浦々(つつ・うらうら)」など。

(51-1)「法度(はっと)」:おきて。さだめ。法律。法。

      *「はっ」「はっ」は、慣用音(漢字音の呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音)。「法被(はっぴ)」「法華(ほっけ)」「法主(ほっす)」など。

      *『漢辞海』には<「ホッ」「ハッ」の音は、日本語になじまない「ホフ」「ハフ」の発音を避けて促音化したもの。>とある。

(51-2)「等閑(とうかん・なおざり)」:深く心にとめないさま。本気でないさま。いいかげん。通りいっぺん。かりそめ。

      *ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』の補注に<中古では「源氏物語」に多く見え、用法としては主に男性の女性に対する性情や行動への評価として現われている。>とある。

      *「等閑」を「なおざり」と読むのは、熟字訓。漢語の同義の熟語「等閑(とうかん)」に和語の「なおざり」を当てたもの。

      *熟字訓:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

(51-3)「差置(さしおき)」:「差置く」は、そのままにしておく。放っておく。「さし」は接頭語。

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『蝦夷嶋巡行記』11月学習分 

(98-1)「昔シ戦」:蠣崎氏が松前氏に改称したのは、慶長四年(1599)であるから、それ以前の戦。アイヌとの抗争は、長禄元年(1457)のコシャマインの乱、永正十二年(1515)のアイヌの蜂起、大永五年(1525)の東西両道のアイヌの蜂起がある。

(98-1)「あない」:案内。「あんない」の撥音「ん」が表記されなかった語。

(98-3)「アカイ川」:現森町字赤井川付近。近世、宿野辺村の内。河川の赤井川は、村内を流れ、南境で宿野辺川に合流する。『山川取調図』に「赤川」、「シユクノヘ」とある。

(98-3)「シタヌツペ川」:「シユクノヘ川」か。『廻浦日記』には、宿野辺川について、「(赤川) 宿の部、前に川有、巾五六間、橋有。此川小沼の水大沼に通ふ筋也。」とあり、『山川取調図』には、「赤川 シユクノヘ」とあり、本書の「アカイ川、シタヌツベ川」とする道順に適合している。

(98-3)「やち」:谷地。野地。沢、谷などの湿地。「やつ」、「やと」とも。

(98-4)「小沼」:現七飯町の北部、駒ケ岳西壁剣ヶ峰南麓に所在し、「大沼」の南西に位置する「小沼」。周囲16.25㎞、面積3.8㎢。

(98-5)「小峠」:『廻浦日記』には、「小沼から少し坂に上り、小沼峠」とあり、この「小沼峠」が、「小峠」か。

(98-6)「くたること」:「下ること」。「こと」は、合字(または「事」の略字)で、「る」と「五」の間に挿入されている。

(98-6)「大沼」:現七飯町の北部、駒ケ岳西壁剣ヶ峰南麓に所在する「大沼」。周囲20㎞、面積5.12㎢。

(99-1)「大峠」:『蝦夷日誌』には、「峠下から大峠を越えて大沼に至り、さらに小沼峠を下って小沼に行く。」とあり、「峠下」と「大沼」間にある峠をいうか。『廻浦日記』には、「大沼峠」とある。茅部峠・長坂峠ともいう。

(99-2)「蝦夷地と松前地の境なり」:享和元年(1801)、ヤムクシナイ(山越内)に関門ができるまで、茅部峠(大峠)が、松前地(和人地)と蝦夷地の境界だった。

(99-2)「纔(わずか)」:決まり字。影印の旁の脚部の「〃」は「兎」の繰り返し記号。

(99-2)「なゝへ村」:現七飯町。「七重村」、「七々井村」とも。近世、東在の一村で、現町域の南西端近く、久根別川の中流域に位置した。後年、明治三年(1870)に、開拓使が設けた農事試験場である「七重官園」が置かれた。『山川取調図』に「七重」とある。

(99-4)「箱館の湊」:函館湾の南東部に位置する湊。松前三港(津)の一つ。享保以降(17411736)松前藩の場所経営が請負制に移行して商品流通が活発になると、箱館を通行する船舶が増加。特に、東蝦夷地からの荷物の集荷湊として飛躍的に発展し、寛保元年(1741)、それまで亀田に置かれていた番所が箱館に移された。嘉永7(1854)三月、日米和親条約が締結され、六月に上知され、安政2(1855)には、薪水・食料の補給港として開港された。

(99-4)「つヽく」:「徒」は「つ」、「ゝ」は「(つ)の踊り字」、「具」は「く」。「続く」で、切れずにつながる。連続する。

(99-4)「そは」:「蕎麦(そば)」。タデ科の一年生作物。種子をひいてそば粉とする。

(99-4)「粟(あわ)」:イネ科の一年草。ヒエとともに古くから栽培される。五穀の一

      つで、飯や団子にしたり、酒、飴などの原料とする。

(99-5)「稗(ひえ)」:イネ科の一年草。実は黄色く細い粒で、食用、鳥の飼料用。丈夫で災害に強く、やせ地にも育つので、古来、備荒作物として栽培する。

(99-6)「女郎花(おみなえし)」:オミナエシ科の多年草。山野に自生。夏から秋にかけて茎頂に、黄色の小さな花が傘状に群がり咲く。秋の七草の一つ。

           *「女郎花(おみなえし)」の語源について<「オミナエシは黄色い粒のような花をたくさん咲かせ、その姿が昔の女性の食べ物とされた“粟飯”に似ているため「女飯(おんなめし)」と呼ばれ、それが徐々に訛って「オミナエシ」に変化したともいわた>など、諸説あり。

(99-6)「ふかく」:「深い」は、夜になってからかなり時がたっているさまをいう。また、夜が明けるにはまだかなり間があるさまをいう。

      *宇津保物語・楼上上「夏のはじめ、ふかき夜のほととぎすの声」

*源氏物語・葵「はかなき御屍ばかりを御名残にて、あかつきふかく帰り給」

(100-1)「大野村」::現北斗市の内。旧大野町。近世は東在の村の一つで大野川の中流域に位置し、内陸部の村落で、元禄郷帳には大野村とみえる。また、天保郷帳には、大野村の枝村に本郷、千代田郷、一本木郷の名がみえる。『山川取調図』に「大ノ」とある。

(100-2)「文月(ふみづき)むら」:現北斗市文月。近世、東在の村の一つ。大野川の支流文月川の流域に位置し、北から東は大野村。北海道(蝦夷嶋)で最初に稲作が試みられた土地で、貞享2(1687)説、元禄5(1692)説がある。『山川取調図』に「文月」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(100-2)「隣村(となりむら)」の「隣」:現行の「隣」は、部首は「阜(おか)」部。(偏になったときは「阝」=こざと)で、「阜」は、丘や丘状に盛り土したもの。「邑(むら)」(旁になったときは「阝」=おおざと)は、人が群がり住むところ、「むら」を表す。したがって、「鄰」が本来の正字。

      *なお、周代の行政区画名でもあり、五戸を「隣」、五隣を「里」という。

(100-2)「差渡(さしわたし)」:直径のこと。

(100-4)「ゑごま」:荏胡麻。秋、シソに似た穂を出し白い小花を開く。種子より「荏(え)の油」を取る。シソ科の一年草。種(しゅ)としてはシソと同種。東南アジア原産で日本では畑に栽培され、また野生化もしている。全体に特有な匂いがある。茎は高さ八〇センチメートル内外の角柱形で白毛が生じる。葉は、長さ七~一二センチメートル、幅五~八センチメートルの卵円形で対生し、先がとがり縁に鋸歯(きょし)があって裏は淡紫色。夏、白い唇形の花が密生した穂を茎頂および葉腋(ようえき)から出す。果実は四つに分かれ小球形で油がとれ、これを荏の油といって昔は灯油用をはじめ防水用、印刷インキなど広範囲に用いられ栽培も多かった。漢名、荏。え。しろじそ。じゅうね。おおえのみ。えこ。

(100-4)「五升芋(ごしょういも)」:ジャガイモの別名。馬鈴薯とも。一つの種いもから五升とれるところからの呼称。

(100―5)「へな土(つち)」:埴土。粘りけのある土、粘土。ここでは、赤黒い色をした粘土のこと。「へな」の語源説に、「ニ(埴)の転」などがある。

(101-1)「よろしかるへき所」:形容詞(よろし)の連体形「よろしかる」+助動詞(べし)の連体形「べき」+詞の「所」。「似つかわしそうに思われるべき場所」の意。

(101-1)「家こと」:「こと」は、合字。家毎(ごと)。

(101-2)「なしの木」:「梨」の木。

(101-3)「鍛冶在所村」:現北斗市千代田。千代田村は近世大野村の枝村であったが、『検考録』に「枝村の鍛冶在所が、(千代田と)大野の間にある。」とある。

       『山川取調図』に「カシサイ所」とある。

(101-3)「矢田村」:「千代田村」の誤りか。近世、東在の村名(枝村を含む。)に「矢田村」と称する村はない。「千代田村」については、大野川下流域左岸に位置し、近世、大野村の枝村として、『山川取調図』には「千代田」とある。

(101-4)「大野川」:箱館平野の西部をほぼ南東流する二級河川。流路延長28.6キロメートル。大野町字本郷から南流し、以後箱館平野を蛇行して上磯町で、函館湾に注ぐ。

(101-5)「フ子ベチと言川」:「久根別川」か。久根別川は、箱館平野の東部をほぼ南流する二級河川。かって久根別川は、旧上磯町(現北斗市)追分で、西方に転じ、大野川に合流したとある。なお、「クン子ベツ」は夷語で、「クン子は、黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり」として、「濁川と訳す」と『地名考幷里程記』にあり、『山川取調図』には、「ニコリ川」と「ク子ベツ」の名がみえる。

(101-5)「龜田村」:現函館市亀田町ほか。亀田半島の基部、亀田川流域にあり、西は箱館湾、南は津軽海峡に面す。近世は東在の村で、箱館よりも先に開け、元禄郷帳、天保郷帳ともに「亀田村」と記されている。元文四年(1749)成立の板倉源次郎の『北海随筆』には、「西は熊石、東は亀田、此両所に関所有て、是より外は蝦夷地とする。」とあり、和人地(松前地)の東境で、松前藩の関所が置かれていた。

(101-6)「八幡宮(はちまんぐう)」:亀田八幡宮。田川の右岸にあり、北海道教育大学函館校と市道八幡通一号を挟んで対面して所在する。祭神誉田別命。旧郷社。「渡島国地誌提要」によれば藤原則房が蝦夷鎮静のため宇佐から遷祭し、明応3年(1494)河野加賀守森幸が社殿を造営したと伝える。慶長8年(1603)・延宝2年(1674)にも造営がなされている。「北海道志」巻一〇は社殿の造営を明徳元年(1390)とし、「明治神社誌料」では同年森幸が越前気比(けひ)神宮(現福井県敦賀市)から応神天皇の分霊を奉じて当地の鎮守として千代(ちよ)ヶ丘に奉斎したのに始まると伝える。文禄3年(1594)蠣崎氏の祈願所となり、慶長八年松前盛広が本殿・拝殿を建立。以後延宝2年・享保9年(1724)と松前氏による修繕をうけ崇敬社としての地位を築く一方、当地の氏神としても崇信を集めた(函館市史)。五月節句には競馬が行われた(「蝦夷日誌」一編)。

       明治2年(1869年)517日に旧幕府軍榎本武揚・大鳥圭介等がここで降伏を黒田清隆に誓約の地でもある。

(101-6)「領主の別荘」:寛政3(1791)の『東蝦夷地松前ヨリアツケシ迄道中記(東蝦夷地道中記)』には、「亀田村は松前藩主直領で」、「藩主の隠居所、八幡宮、弁天宮がある」と記されており、この隠居所をさすか。

(102)「亀田番所」:慶長(15961615)末期には、東在の境として、亀田村に番所が置かれ、松前藩士が詰めていたとされていたが、その後、箱館の方が、東蝦夷地からの荷物の集荷湊となって飛躍的に発展したことから、寛保元年(1741)、亀田番所は、箱館に移設されている。したがって、本書時の亀田番所の所在地は箱館であった。

(102)「片かは町(まち)」:「片町」とも。川や海岸、谷、崖、そのほか武家屋敷などの関係で、道の一方側だけに家が建ち、町名が付されている街並みのこと。これに対し、道の両側に、向かい合って家が建ち、同じ町名が付されている町並を「両側町」という。京都の市街地の町割りや江戸の古い市街地の町割りは、基本的に「両側町」としての区画割りがされている。

(103-2)「津軽家より五百人来りて勤番す」:寛政9(1797)7月、英国のブロートン率いるスクーナー船が蝦夷地周辺に来航したことなど、近年松前に異国船が度々入来したことから、幕府は、同年9月、津軽藩に番頭一名の箱館派遣方を命じ、津軽藩は、これを受け、箱館派遣の番頭以下500人余の人数割を提出、11月、組頭大将山田剛太郎以下が、箱館に到着、浄玄寺に本陣を置いた。

(103-3)「有川村」:現北斗市の内。旧上磯町の区域。久根別川(大野川)・戸切地(へきりち)川の河口付近。近世、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「有川」とある。

(103-4)「壁利地村」:戸切地(へきりち)村か。。現北斗市戸切地。箱館平野西端の戸切地川流域、南は箱館湾に面する地域にある。近世は、東在箱館付村々の一つ。『山川取調図』に「戸切チ」とある。

(103-5)「水沢村」:東在に「水沢村」と称する村(枝村を含む)はない。道順から、「三谷(みつや)村」か。「三谷村」は、「三ツ谷村」、「三屋村」とも。現北斗市のうち。近世は東在箱館付村々のうち。『山川取調図』に「ミツヤ」の名がみえる。

(103-5)「取川村」:東在に、「取川村」と称する村(枝村を含む)はない。「富川(とみかわ)村」か。「富川村」は、現北斗市のうち。近世、東在箱館付村々の一つで、矢不来村の北にあり、東は箱館湾に面する。『山川取調図』には「トミ川」の名がみえる。

(103-5)「やき内村」:古くは、「カムイヤンケナイ」、「ヤンケナイ」、「ヤギナイ」とも。現北斗市の内。字名に「矢不来」の名がみえる。近世に存在した村。箱館湾の西端近く、海岸が海に迫った地に位置し、矢不来川が流れる。『山川取調図』に「ヤキナイ」とある。

古文書解読学習会のご案内

         私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費は月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎会場:エルプラザ札幌駅北口中央区北8西3

  ◎開催日時:月1回第二月曜・午後1時~4時 当面は1111日・129日・1月13

現在の学習内容

  『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

  『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏・公暇斎蔵の松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由の紀行。

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  
          メール moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

10月 町吟味役中日記注記

(44-3)「罷越(まかりこし)」:「罷越す」は、「行く」の謙譲語。まいる。参上する。

     *「罷る」は、接頭語的に用いる場合、

()その複合した動詞に、へりくだり丁重にいう気持や、時に、許しを得てその行動をするの意を添えるもの。「まかりいず(罷出)」「まかりいる(罷入)」「まかりかえる(罷帰)」「まかりこうむる(罷被)」「まかりこす(罷越)」など。

()その複合した動詞に、改まった口調で荘重にいう気持や、御免をこうむ って勝手に行なうなどの気持を添えて、その意を強めるもの。「まかりいる(罷要)」「まかりとおる(罷通)」「まかりまちがう(罷間違)」など。

*「罷(まかり)出雲(いずも)の国(くに)」:まかり出る。「まかり出(い)ず」の「いず」に「出雲」の「いず」をかけたしゃれ。

(44-4)「清水」の「水」:決まり字。

(44-4)「北村」の「北」:決まり字。

(44-4)「別条(べつじょう)」:他とかわったこと。普通と異なった事柄。また、とりたてたこと。べちじょう。別状。

(44-6)「雇船(やといぶね)」の「船」:影印の「舩」は「船」の手書きの異体字。古文書の手書きは「舩」と書く場合が多い。

      *昔、中国では関東(函谷関から東)では「舟」、関西(函谷関から西)では「船」といった。

       **函谷関:中国の華北平原から渭水盆地に入る要衝にある関。黄土層の絶壁に囲まれた谷に築かれ、昼なお暗く函(はこ)の中を進むようであったことから名づけられた。秦が東方の守りとして河南省北西部、現在の霊宝県の地に築いた古関と、前漢が河南省新安県の地に築いた新関(現在の函谷関)とがある。

      *『字通』は、「越絶書・呉内伝」を引いて<「越人、船を謂ひて須慮(しゆろ)と爲す」とあり、香川県の民謡『金毘羅船々』の歌詞「シュラ、シュッシュッシュ」の「シュラ」は、もと舟形のそりをいう語であろう。>としている。

(44-6)「登(のぼ)せ」:「登(のぼ)す」の連用形。「登(のぼ)す」は、(都または貴人の所へ)呼び寄せる。上京させる。参上させる。

(44-7)「被仰出(おおせいだされ)」:動詞「おおせいだす(仰出)」に尊敬の助動詞「る」の付いた「おおせいださる」の連用形。

      *なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、、おいいつけ。御命令の意味の名詞化にもなる場合がある。「被仰出書(おおせいだされしょ)」。

(44-7)「用意(ようい)」の「意」:決まり字。

(44-8)「手鎖二指(てじょう・にし)」:「指(し)」は、指を折って数え上げる際に用いる慣用表現。「五指に入る名作」「十指に余る」。

      手鎖の単位は普通、「枷(かせ)」。

(44-8)「縄壱筋(なわ・ひとすじ)」:「筋」は、細長い縄の単位。縄を束ねたものは「把(わ)」「束(たば)」で数える。

      *「一筋縄(ひとすじなわ):(1)一本の縄。(2)普通の方法。尋常一様の手段。「一筋縄では行(い)かない」は、尋常一様のやり方では思うままにできない。

(45-1)「いたし度(たき)」の「度(たき)」:願望の助動詞「たし」の連体形。話し手の願望を表す。話し手自身の行動についての願望。~たい。

     *<「たし」は平安時代末期頃からのもので、それまでは「まほし」が用いられた。徐々に「たし」が勢力を増し、ついには「たし」だけが用いられるようになる。現在の「たい」は、この「たし」が活用を変えたもの。>(ジャパンナレッジ版『小学館 全文全訳古語辞典』)

     *元来は、漢語としての「度(タク)」から派生。鎌倉時代ごろから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」を「目出度」と表記した。願望の助動詞「たし」の各活用に用いられるようになった。

     *「度(タク)」を含む熟語の例として、「支度(したく)」「忖度(そんたく)」がある。

     *「タク」:音読み・訓読み。「たし・たき」など助動詞「たし」の活用:訓読み。

(45-1)「則(すなわち)」:「すなわち」は、現代では「つまり。いいかえると」の意味に使われることが多いが、本来は、即刻・当時の意の名詞(その時。即座。即刻。)だが、時を表す名詞は用言を修飾するので、即座にの意の副詞(すぐに。即座に。ただちに)の用法が生まれた。接続詞の用法(とりもなおさず。言いかえれば。つまり)は漢文訓読から生じたもの。(ジャパンナレッジ版『小学館 全文全訳古語辞典』)

(45-3)「高井紀兵衛」の「紀」:影印の旁は「巳」だが、筆の勢い。本来は「己」。

(45-4)「押切舟(おしきりぶね)」:櫓(ろ)や櫂(かい)力を借りずに港の間を行く船。

(45-4)「出立(しゅったつ)」の「出」:決まり字。

(45-7)「引合印鑑(ひきあいいんかん)」:照合するための印鑑。

(45-8)「宇都の宮宿(うつのみやじゅく)」:宇都宮。宇都宮は、栃木県中央部、鬼怒川西岸の地名。県庁所在地。下野の一の宮である二荒山(ふたらさん)神社(別号宇都宮)の門前町に起源する。本多氏・戸田氏の旧城下町。奥州街道から日光街道が分岐する旧宿場町。

      語源説に、「イチノミヤ(一宮)の転。下野国の一の宮の所在地だったことから」がある。

      宇都宮宿は、日光街道の江戸から一七宿目にあたり、奥州街道と重複。二七里一二町二〇間。直前の宿は雀宮(すずめのみや)宿、次宿は徳次郎(とくじら)宿。当宿より分岐する奥州街道の次宿は白沢(しらさわ)宿(現河内郡河内町)である。東へ水戸道が分れる。将軍の日光社参の際の宿泊地であり、東北諸大名の参勤交代も多く、極めて重要な宿場であった。

      *「宇都の宮」の「宮」:決まり字。「客」のように見える。また、脚部の「呂」は「五」のくずし字に似ている。

(45-9)「千住宿(せんじゅじゅく)」:奥州街道・日光街道の初宿。江戸四宿の一つで、日光道中と水戸・佐倉道の初宿。千手・千寿・専住とも書かれた。地元では「せんじ」という。奥州街道(国道四号線)に位し、日本橋から八キロ。地の利を得て発展した。文禄3年(1594)伊奈忠次が命を受け荒川(千住川)に架橋した(千住大橋)。慶長2年(1597)千住村は、人馬継立を命じられて千住町と称したが、寛永2年(1625)日光廟造営による交通路の整備に伴い、本宿(千住一―五丁目の五ヵ町)を中心に発展の基礎が与えられた。万治元年(1658)には掃部宿・川原町・橋戸町、同三年に小塚原町・中村町を加宿として、千住宿と総称し、奥州・水戸・日光・房総方面などの起点ともなった。江戸時代前期には将軍徳川家光・家綱の御茶屋・御殿が設けられたが、中期以降は本陣・脇本陣が各一軒、天保年間(183944)には旅籠屋五十五軒、家数二千三百七十軒、人口九千五百五十六人を数えた。なお、享保年中(171636)以降、宿内の「やっちゃあ場」(「やっちゃ、やっちゃ」と掛け声を掛けて、せるところから、東京で青物市場をいう)では毎朝、五穀・野菜・魚介類の競り市が行われ、日本橋魚河岸と並んで繁昌したという。一方、千住川はさらに川越夜船の旅客貨物の発着中継地ともなり、隅田川経由の水陸利用で、江戸の殷賑を助けた。

      *江戸四宿(えどししゅく):江戸から各街道への出入口にあたる四つの宿場。日光・奥州街道の千住、中山道の板橋、甲州・青梅街道の内藤新宿、東海道の品川の四つをいう。

      *「住」を「ジュ」と読むのは呉音。「ジュウ」は慣用音。

(46-2)「印形(いんぎょう)」:判(はん)。木、角(つの)、鉱物、金属などに文字や図形を彫刻し、それに墨や印肉を付けて、文書などに押し、個人、官職、団体などのしるしとするもの。印。はんこ。印判。印章。おしで。

      *仏教語では、牟陀羅の訳語。標識の意。仏像の手指の示す特定な形。その種類によって仏、菩薩の悟りや誓願の内容が示される。密教では僧が本尊を観念し呪文を唱える時に、指でいろいろな形をつくること。また、その形。印相。印契。

       **「印を結ぶ」:仏、菩薩等の悟りの内容を真言行者が観念する時、その表徴として、手指をいろいろの形に組む。印を作る。

      *「形」を「ギョウ」と読むのは呉音。「人形(にんぎょう)」「異形(いぎょう)」「形相(ぎょうそう)」など。

(46-3)「駄賃帳(だちんちょう)」:人馬駄賃帳。駄賃を記入しておく帳簿。

      *駄賃:貨客を駄馬にのせて運ぶのに対して支払われる運賃。中、近世における街道宿駅などの馬背による貨客運送の賃銭。東国地方の戦国大名の伝馬定書などに、伝馬を勤めぬ輩の駄賃取りを禁じて、私用のための伝馬は一里一銭の口付銭を取るべしとあるが、これは精銭による駄賃を意味する。一方、豊臣秀次の朱印状では、京より西は一里十銭と記しているが、これは鐚銭によるものであろう。慶長7年(16026月、徳川家康の宿老らは東海道諸宿などに対して、伝馬の荷物は一駄につき三十二貫目、駄賃荷物は四十貫目(なお、別の「定」で、乗尻は十八貫目、のち二十貫目)と規定し、各宿駅間の駄賃額の決定を江戸町年寄の奈良屋市右衛門・樽屋三四郎に委任して、「御伝馬・駄賃共ニ」昼夜の別なく早急に継送するよう命じている。このように当初、無賃の伝馬と公定賃銭の駄賃馬とは駕量の面でも格差があったが、のちには同一駕量=四十貫目に統一された。正徳元年(1711)の駅法改革では、各宿駅間の駄賃(荷物一駄・乗掛荷人共・軽尻馬一疋)と人足賃銭とが諸宿の新しい高札に示されて、これを元賃銭とよび、明治維新まで長く人馬賃銭の基準となった。そして、各宿間の駄賃増額に際しては、元賃銭の何割増というふうに公示された。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』)

(46-4)「書役(かきやく・しょやく)」:町番所に詰めていて、町名主を補助し算筆をつかさどった有給の役人。また、裁判を扱う役所に詰めていた記録係。書記。

(46-6)「中番(なかばん・ちゅうばん)」:一日の勤務、作業などが交替制で行なわれる場合の、中ほどの番。

(47-7・8)「痛メ吟味(いためぎんみ)」:江戸時代の拷問のこと。苔(むち)打ち・石抱き・海老(えび)責め・吊し責めの総称。

(48-1)「人少(ひとずくな)」:〔形容動詞ナリ活用〕人数が少ない様子。

(49-1)「長六郎与(と)も」の「与(と)」:「与」は変体仮名では「よ」で、「と」は変体仮名の読みではない。「与(と)」は、漢文訓読の助辞。

(49-4)「箱館山ノ上町」:現函館市弥生町。山ノ上町は文化年間(180418)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一~二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(49-10)「加州元吉(かしゅう・もとよし)」:加賀国(加州)本吉村。現在は石川県南部、白山市の一地区。江戸時代は本吉湊といい、手取川の河口港で北前船の寄港地として繁栄した。三津七湊(さんしんしちそう)のひとつ。

      この地にあった白山の末寺の元吉寺(がんきちじ)という寺の名をとり、村名を元吉ととなえた。ところが「元吉(もとよし)」という字は、昔(「元」)は「吉(きち)」だが、今は凶のある意味の字でよくないというので、承王3(1654)、「元」の字の代わりに「本」という字をあて「本吉」と書くようになった。

      *三津七湊(さんしんしちそう):室町時代、日本最古の海商法である廻船法度に定められた十の大港。三津は伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津。七湊は能登の輪島、越前の三国、加賀の本吉、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の秋田、津軽の十三湊。

『蝦夷嶋巡行記』10月学習分注記 

          

(92-1)「積へき」の「き」:変体仮名。字源は「幾」。

(92-2)「此辺にチヤシ跡有」:現洞爺湖町栄町にあるフレナイチャシ。

      *「チヤシ」:アイヌ語。「柵、囲い、城、砦」の意。丘陵の突端を利用して土塁と空堀・柵をめぐらした遺構とも。

(92-4)「ヲトナ」:漢字表記の「乙名(おとな)」。中世末期の村落の代表者から転じ、アイヌコタンの長をいう。アイヌコタンには、乙名の下に、脇乙名、小使、土産取りの役職者がいた。

(92-5)「ヘンベ」:「ベンベ」とも。漢字表記地名「弁辺」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現豊浦町の内。明治初年から明治3年3月まで「弁辺」村があり、後、「豊浦」村に改称。『山川取調図』に「ヘンベ」とある。

(92-5)「ヲツケシ」:「ヲフケシ」。漢字表記地名「小鉾子」、「大岸」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現豊浦町の内。『山川取調図』に「ヲフケシ」とある。

(92-5)「ヲシヤマンベ」:現長万部町。漢字表記地名「長万部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川名としても記録されている。元治元年(1864)、「村並」とされ、長万部村と唱えた。『山川取調図』に「ヲシヤマンベ」とある。

(92-6)「レブンゲ」:現豊浦町の内。漢字表記地名「礼文華」のもととなったアイヌ語に由来する地名。場所名、コタン名のほか沢、岬、峠などの名称としても記録されている。『山川取調図』に「レフンキ」とある。

(93-1)「観世音(かんぜおん)」:小幌(こぼろ)海岸美利加(びりか)浜の自然の洞窟(小幌洞窟)に安置されている観音像。岩谷観音とも書く。一六六六年(寛文6(1666)円空がレブンゲの岩屋で観音像を鉈で刻んで安置し、さらにこの洞窟で数多くの仏像を刻んだ。秘境駅JR小幌駅から徒歩で行くことができる。

(93-1)「シツカリ」:現長万部町の内。漢字表記地名「静狩」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川、山、峠などの名称としても記録されている。シャクシャインの戦の際には松前軍が600人の軍勢をもって当地に進撃した(津軽一統志・狄蜂起集書)。『山川取調図』に「シツカリ」とある。

(93-3)「内浦がだけ」:駒ケ岳のこと。『北海道誌』に「内浦嶽、今駒嶽ト云」とある。

      駒ヶ岳は、古く、「内浦岳」、「内浦嶽」、「内裏岳」と記録されている。このほか、武四郎の『蝦夷日誌』には、「内浦岳、また砂原岳とも云り」とも記されている。渡島半島の中央から東に延びる亀田半島の付根にそびえる山。標高1,131メートルの成層活火山。

(93-3)「内浦がだけ」の「け(希)」:変体仮名。字源は「希」。「希」を「ケ」と読むのは呉音。「稀有(けう)」など。

(93-5)「温肭獣」:「膃肭臍(おっとせい)」か。アシカ科の哺乳類。「膃肭」は、アイヌ語の音写、「臍(せい)」は、中国で、臍(へそ・ほぞ)を薬用にしたので、このように記されたとある。また、『和漢三才図会』には、「奥州松前の海中にいる。虚寒の人は、その肉を食べて腰足を暖める。松前の人は、膃肭臍の肉を美饌(びせん)としている。」とある。

      安永2年(1773)の武鑑には、松前藩から将軍家への献上品リストの中に、「寒塩膃肭臍」の名が見え、更に、天保十二年(1841)の武鑑には、「寒中 寒塩膃肭臍」のほか、「別段御用ニ付 十二月 膃肭臍タケリ(注:陰茎のこと)」が献上品リストの中にみえる。

(93-5)「モンナイ」:『山川取調図』にある「モヘツ」か。

(93-6)「クロイハ」:現八雲町黒岩。八雲町の北端近くの海岸部。ユウラップとクンヌイ(長万部町)の間にある地域(『日本歴史地名大系 北海道の地名』)。『山川取調図』には「クロイワ」とある。

(93-6)「ユウラツプ」:現八雲町の内。漢字表記地名「遊楽部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、場所名のほか河川の名称としても記録されている。

(93-6)「ワルイ」:現長万部町の内。アイヌ語に由来すると思われる地名。コタン名のほか河川の名称としても記録されている。『山川取調図』に「ワルイ」とある。

      *なお、『山川取調図』では、「ヲシヤマンベ→モヘツ→ワルイ→モクンヌイ・クンヌイ→ホンクンヌイ→ホロナイ→クロイワ→シラリカ・ホンシラリカ→フイトシナイヘツフト→フレモエ→フイトシナイ→ユウラツプ→ホンヲ・コツナイ→ヲ・コツナイ」の道順になっており、本書記載の道順と異なっており、筆者は、長万部町所在の地名と八雲町所在の地名を混乱して記載をしており、記載順を誤ったか。

(93-6)「ヲコツナイ」:現八雲町のうち。「アイヌ語に由来する地名。本来は河川名であるが、コタン名としても記録されている。『山川取調図』に「ヲヽコツナイ」とある。

(93-6)「タンヌイ」:影印の「タ」は「ク」で「クンヌイ」か。漢字表記地名「国縫」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現長万部町の内。『山川取調図』に「クンヌイ」とある。

(93-6)「シラリカ」:アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川の名称として記録されている。現八雲町の内。『山川取調図』に「シラリカ」とある。

(94-1)「ブユンヘ」:「ブヨベ」、「フユンヘ」とも。アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川の名称としても記録されている。『山川取調図』の「フコヘ」か。現八雲町の内。

(94-1)「ムクンヌイ」:漢字表記地名「茂国縫」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「ムクンヌイ」とある。現長万部町のうち。

(94-1)「ヤマサキ」:現八雲町山崎。現八雲市街地の北にある。の地名』)。『山川取調図』の「フレモヱ」の付近。

(94-1)「ヤムクシナイ」:現八雲町の内。漢字表記地名「山越内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか場所、会所名としても記録されている。寛政十二年(1800)に、「ノタヲイ迄」が「村並」とされたため、「ヤムクシナイ」は東蝦夷地との出入口となり、西の山際から東海岸まで皆柵を結んで番所(山越内関所)を設置し、蝦夷地出入りの者の切手を改めた。元治元年(1864)、「村並」とされ、「山越内村」と唱えた。『山川取調図』には「ヤムクシナイ 境柱」とある。

(94-1)「ポロナイ」:現長万部町の内。漢字表記地名「幌内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、コタン名のほか嶺の名称としても記録されている。『山川取調図』に「ホロナイ」とある。

(94-2)「フイタヲシナイ」:現八雲町の内。「ブイタウシ」とも。アイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川の名称としても記録されている。『山川取調図』には「フイトシナイ」とある。

(94-2)「ユヲイ」:現八雲町の内。「ユヲヱ」とも。漢字表記地名「由追」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川の名称としても記録されている。『山川取調図』に「ユヲイ」とある。

(93-3)「うるさし」:「わずらわしい、めんどうだ」の意。

(94-5)「ポロムイ」:現八雲町の内。『山川取調図』の「ホロムイ」か。

(94-5)「ヌマシリ」:現八雲町の内。「ノマシリ」、「モナシヘ」とも。漢字表記地名「沼尻」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「ヌマシリ」とある。

(94-5)「ノダヲイ」:現八雲町の内。漢字表記地名「野田追」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名、場所名のほか河川の名称としても記録されている。寛政12(1800)、「ノタヲイ迄」が「村並」とされた。「野田追場所」は、箱館付近から東蝦夷地沿岸に広がる箱館六箇場所(持場)の一つ。『山川取調図』には、「野田老」とある。

(94-5)「モンノダヲイ」:現八雲町の内。『山川取調図』の「モノタイ」か。

(94-5)「ヲトシベ」:現御八雲町の内。漢字表記地名「落部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取締り図』に「落部」とある。

94-6)「モナシベ」:現八雲町の内。漢字表記地名「茂無部」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「モナシヘ」とある。

(94-6)「ハマナカ」:現八雲町の内。漢字表記地名「浜中」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『東蝦夷地場所大概図』には、山越内場所のうち、「ヲコツナイ」と「ユウラツプ」の間に「ハマナカ」の地名がみえる。『山川取調図』には表記がない。

(94-6)「ヒコマ」:現砂原町の内。字名に「彦澗(ヒコマ)」がある。『山川取調図』には「砂原」の西隣に「ヒコマ」の名がみえる。

*本書の記載の順が、森町と砂原町とで、入り乱れ、で混乱している。

(94-6)「ポンナイ」:不詳。

(94-6)「イシクラ」:現森町の内。字名に「石倉(イシクラ)」がある。『山川取調図』に「石クラ」とある。

(94-6)「ニコリ川」:現森町の内。字名に「濁川(にごりかわ)」の名がみえる。近世は、鷲ノ木村のうち。『山川取調図』に「ニコリ川」とある。

(95―1)「ホンカヤベ」:現森町の内。字名に「本茅部(ほんかやべ)」の名がみえる。近世、鷲ノ木の持場の一つ。『山川取調図』に「ホンカヤヘ」とある。

(95-1)「メツタマチ」:現森町の内。『蝦夷巡覧筆記』によれば、「ホンカヤエ」と「ヱヒヤコタン」の間に、「メツタマチ」の名がみえる。

(95-1)「イヒヤコタン」:「エヒヤコタン」とも。漢字表記地名「蛯谷古丹」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現森町の字名に「蛯谷町」がみえる。『山川取調図』に「ヱヒヤコタン」とある。

(95-1)「ボウヒ」:現森町の内。近世の史料に見える地名。『山川取調図』に、「ユノサキ」の東隣に「ホ-ヒ」とある。

(95-1)「ユノサキ」:現森町の内。『山川取調図』に「ユノサキ」とある。

(95-2)「ワシノキ」:現森町の内。字名に「鷲ノ木」の名がみえる。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政十二年(1800)に「村並」となり、持場として「尾白内、森、蛯谷古丹、本茅部、石倉」とされた。『山川取調図』に「鷲ノ木」とある。明治元年1020日、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍の艦隊が北上して当地に上陸の地であり、ここから箱館戦争が始まった。

(95-3)「脇運上屋」:本州の宿場における脇本陣に当たる。脇本陣は、江戸時代の宿駅で、本陣の予備にあたる宿舎。大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般旅客の宿泊にも供された。

(95-6)「出百性(でびゃくしょう)」:「百性」の「性」は、「姓」の誤用。「出百姓」は、居住地を離れて近在の他所へ行って耕作する農民のこと。ここでは、東在の村(松前地・和人地)から、隣接する東蝦夷地へ出向いて耕作をすること、またその人をいう。

(96-2)「モリ」:現森町。寛政12(1800)、村並」とされ、鷲ノ木持場の一つとなった。その後、安政5(1858)、鷲ノ木から独立して「森村」になった。『山川取調図』には、異体字で「森」とある。ほかに「品」「渋」の旁など。

 

(96-2)「ヲシラナイ」:「ヲシラナヰ」、「ヲシラナヘ」とも。漢字表記地名「尾白内(おしろない)」。寛政12(1800)に「村並」となり、安政5(1858)に「鷲ノ木村」から独立し、「尾白内村」になった。『山川取調図』に「ヲシラナイ」とある。

(96-2)「ホリサキ川」:「トリサキ川」か。「鳥崎川」は、松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、「此川、森と鷲ノ木の境也。川巾十七八間」とある。また、森町の字名に「鳥崎」の名がみえ、鳥崎川河口部西岸にあたる。『山川取調図』には「鳥サキ川」とある。

(96-2)「カヽリマ」:現砂原町の内。字名に「掛澗」の名がみえる。砂原町の西端に位置し、北は太平洋(内浦湾)、南は砂原岳(駒ケ岳北壁をいう。)の北西麓。『山川取調図』に「カヽリマ」とある。

(96-2)「小サワラ」:現砂原町の内。本書では、「カヽリマ、小サワラを通てサワラの

運上屋に宿る。」とあることから、『山川取調図』の「モンヘサワラ」で、現字名紋兵エ砂原)」を指すか。なお、「砂原」は、寛政12(1800)に、「村並」となり、安政5(1858)、正式に「村」となった。また、文化四年(1807)四月、ロシア船が「ヱトロフ」を襲った(文化露寇事件)ため、砂原には盛岡藩兵100人が配置された。

(96-4)「松前」の「松」:「木」が冠にきて、「公」が脚になっている異体字。ほかに、「桃」「梅」「紙」など。

(97-4)「カケユミ」:不詳。

(97-5)「是迄、昨日通りし道ナリ」:一行は、10日鷲ノ木を出て、箱館への分岐の森を通り過ぎて、この日は砂原に宿泊している。翌11日に砂原を立っている。

(97-7)「山路にかゝり」:森まで戻って、箱館への山路に入った。現在でいう大沼回り。

(97-6)「ユタグリ」:「ユノタイ」か。

(97-7)「馬立帰」:「帰」は「場」で、「馬立場」か。『山川取調図』に「ムマ立ハ」とある。

9月 町吟味役中日記注記

(37-8)「町」:「町」のあとに、「方」が抜けている。ここは「町方」。

(38-1)「毛利彦六」:町奉行配下の町方。

(38-2)「切解(せっかい)」:切りほどくこと。

(38-3)「欣求院(ごんぐいん)」:山号を義経山いうように、「義経が矢尻で刻んだ岩」という義経伝説がある。正保2年(1645)から光善寺の支院に列していたが、明治元年(1868)に光善寺に合併。

      *「求」を「グ」と読むのは呉音。

      *なお、訓読みに「求(ま)ぐ」がある。「まぐ」と読む。求め尋ねる。探し求めるの意味。

(38-4)「光善寺(こうぜんじ)」:浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える。

      初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。

(38-4)「三衣(さんえ)」:「え」は「衣」の呉音。連声(れんじょう)で「さんね」とも。僧の着る大衣(だいえ)、七条、五条の三種の袈裟(けさ)のこと。大衣は街や王宮に赴く時に、七条は聴講、布薩などの時に、五条は就寝、作務(さむ)などの時に着る。また、それを着る僧侶をいう。  

(38-8)「喜右衛門(きえもん)」「右衛門(えもん)」:「右衛門」は「えもん」と読む。奈良時代から平安時代にかけて、「衛門府(えもんふ)」というお役所があり、。「衛門府」には「左衛門府」と「右衛門府」の2つがあり、それぞれ「左衛門(さえもん)」「右衛門(うえもん)」と略称された。

      この「右衛門」がいつのころからか、「右」を省略して「衛門」とだけ呼ばれるようになった。そこで、「えもん」と言えば「右衛門」のことであり、逆に「右衛門」と書けばそれは「えもん」のことである、というわけで、「右衛門」を「えもん」と読むようになったのだと思われる。「うえもん」を「えもん」と読むのは故実読み。(*)

      「衛」の古い音読みはワ行のヱであったことに注目して、「右衛門=uwemon」の最初のuwが一緒になって「右衛門=wemon」となり、さらにwが落ちて「右衛門=emon」となった。いずれにしても、「右衛門」は3文字1組で「えもん」と読むのであって、1文字ごとに分解できるものではない。(この項

大修館書店HPの『漢字文化資料館』参照)

      *「故実読み」:漢字一字または二字以上の連結形式が、一つの概念をあらわす語の表記と考えられるとき、そのよみ方を、一般の字音・字訓の慣用によって推理すると、かえって誤読となるような、伝統的な特殊なよみ方をすることをいう。漢字のよみの特殊な伝統が故実である。故実は、いわば専門的な、しかも個別的な、通則のない伝承で、当然とくにそれを教えられなければ正しい理解の不可能なことである。年中行事のよび名、地名・人名・書名などの固有名詞その他が主要なもの。また古典文学や古記録・古文書にみえる普通語でありながら、日本語の変遷の中で取り残された古い形、また禁忌によるよみ替え、ある時代に慣用となった不規則な変形などが故実読みとして一括されているが、一語一語について言語史的な追究は今後の課題として残っている。(この項ジャパンナレッジ版『国史大辞典』参照)

      *字はあるが語としてはその字の読みを含まないことも、「故実読み」の一種。

      *故実読みの例:「文選」→「もんぜん」、「西馬音内」→「にしもない」、「掃部」→「かもん」、「主典」→「さかん」など

(38-9)「あさ」の「さ」:変体かな。字源は「左」。「左」は、横棒から入る。左はねの縦棒は、脚部の「工」へ、スムーズにつなげるため、右はらいになる場合がある。一方、「右」は、縦の左はねから入る。

      *「左」と「右」は部首が違う。「左」は、「工(たくみ)」部、「右」は「口」部。

      *「右」の「口」は祝告の器。右に祝の器であるをもち、「左」に呪具である「工」を以て、神をたずね、神に接する。それで左右を重ねると、(尋)となり、神に接するとき、左右颯々(さつさつ)の舞を舞う。(『字通』)

(38-10)「馴合(なれあい)」:密通して。「馴れ合う」は、男女が情を通じ合う。密通する。

(39-1)「向地(むかいち・むこうじ)」:ここでは津軽藩をいう。「向(むこう)」は、①距離があって、直接見ることのできないあちら側。「組めば重ね、離せば一段の棚を喜んで、亡き父が西洋(ムカフ)から取り寄せたものである」(夏目漱石『虞美人草』)

②相手の側、物をへだてた反対側の意。「むこうぎし」「むこう三軒」「むこうづけ」「むこうみず」など。

*<「十四日。朝。午後晴。昨日当藩医師芳賀玄仲来。御旗向地(む かひち)へ御廻しに相成、江木軽部等近日渡海之事。」当藩は津軽である。>(森鷗外『伊沢蘭軒』)

(39-4)「他行(たぎょう)」:その場を離れてよそへ行くこと。他の場所へ出かけること。

(39-5)「為致(いたし・いたしなし・なしいたし)」:①「いたす」の連用形は「いたし」だから、「致」だけでもいいが、サ変動詞「為(す)」を重ね、その連用形「し」を加え、「致」は「いた」とだけ読み、「為致」で、「いたし」と読む。②「為」を4段動詞「なす」の連用形「なし」と読み、「いたしなし」と読む。③返読せず「なしいたし」と順読する。 

(39-5)「不意(ふい)」:思いがけないこと。意外であること。また、そのさま。突然。だしぬけ。

40-7)「萩野八十吉」:『松前藩士人名控』の「古組足軽」に「萩野八十吉」の名前がある。

    *「荻(おぎ)」:イネ科の多年草。各地の池辺、河岸などの湿地に群生して生え

る。稈(かん)は中空で、高さ一~二・五メートルになり、ススキによく似て

いるが、長く縦横にはう地下茎のあることなどが異なる。葉は長さ四〇~八〇

センチメートル、幅一~三センチメートルになり、ススキより幅広く、細長い

線形で、下部は長いさやとなって稈を包む。秋、黄褐色の大きな花穂をつけ

る。

 *「萩(はぎ)」:マメ科ハギ属の総称。落葉低木または多年草。萩の字があて

られているが、中国語の「萩」は元来はキク科のヤマハハコ属植物をさす。

「マメ科ハギ属の小低木の総称」としての「ハギ」を表すのは、日本語独自の用法。

 *「ハギ」の漢字での書き表し方には、「萩」のほかに「芽子」もある。『万葉

集』の時代には、ガギを表す漢字と言えば「芽子」が主流だった。ハギは

『万葉集』で最も多くうたわれている植物で、全4536首のうち、141

首に登場する。そのうち、原文でハギのことを「芽子」と書き表しているの

は、そのうち115首。残りの26首のうち、約半分は「芽」だけでハギを

指している。

  「芽」とは、伸び始めたばかりの茎や枝などを指す漢字。それがどうしてハギを表すのに用いられたか。ハギは、一度咲かせた古い茎から再び花をさかせることはない。翌春、芽として新しく伸び始めた茎に、秋になると花が咲く。そこから、「芽」という漢字をハギに当てたのだ、というのが一般的な説明。

   自分で植え、花が咲くのをたのしみに育てていたからこそ、「芽子」というような書き表わし方が生まれたのでしょう。(この項円満寺次郎著「九月、秋は気が付けばそこにある」=岩波書店広報誌『図書』2019.9=参照)

(42-1)「渡部早五郎」の「部」:旁の「阝」(おおざと)が省略され「ア」のように見える。P25には「渡辺早五郎」とあり、『松前藩士名前控』の「足軽並」には、「渡辺早五郎」とある。

(42-2)「宗門改(しゅうもんあらため)」:江戸時代、キリシタン信仰を禁止、根絶するために設けられた制度。キリシタンの信者であるかないかを識別するため、家ごとに、信仰する宗旨、宗派を取り調べ、かつ、檀那寺にその帰依者であることを証明させ、領主に報告させたもの。宗門改役をおき、寺請、宗門人別帳をつくり、毎年定期的に行なわれた。寛文以降民衆はすべて寺請によって寺院に把握され、かつ宗旨人別帳作成を通じて幕藩体制の中に組み込まれたため、寺院は政治権力の奉仕者となり寺檀関係を成立させたが、仏教の教学面での停滞と僧侶の世俗化とを招いた。江戸時代中期以降キリシタンの摘発は激減したが、宗門改の制度はかえって整備・強化されていき、その根幹となった宗旨人別帳は民衆の戸籍原簿となり、あるいは租税台帳の役割を果たした。

(42・2~43・3)「一本証文(いっぽんしょうもん)」:江戸時代、在郷の有力者からそれぞれの領主へ提出される宗門改めの証文。諸大名が幕府へ差し出す一紙証文にならったもの。これを免許されるのは苗字(みょうじ)、帯刀に準ずる格式で、個々の門地、家格、資産および勤役年数を含めた領主への貢献度によった。

(42-6)「口上覚(こうじょうおぼえ)」:江戸時代の刑事訴訟で、訴訟当事者や被疑者の口述を筆記した文章。武士、僧侶、神官に限って用いられたもので、足軽、百姓、町人の口書(くちがき)と区別された。

(43-8)「仲之口」:玄関と台所口との間にある入口。

(43-10)「心意(しんい)」:「心得」か。「心意」は、こころ。意志。精神。心神。

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