森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(1)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(1)

◎はじめに
①本論は、札幌市文化資料室が実施した2008年度古文書講座上級コースの最終報告に加筆しあものである。
②私が担当したテキスト出典目録は次の4点です。
1)「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(簿書5578)
2)「開拓使公文録 明治六年 建築之部 営繕附人夫 灯台 電信附生徒 測量 道路 橋梁附河梁 港湾」(簿書5757)
3)「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部 一月之分」(簿書5781)
4)「明治七年 司法省往復 全」(簿書1172)
③テキスト出典と関連文書などを読み、明治6年の松本十郎大判官(注1)、田中綱紀幹事(注2)の「専断」の経過について、報告します。
*「簿書」とあるのは、北海道立文書館所蔵文書で、数字は請求番号。

1.松本の不況対策の上申と黒田の指令
①明治6年の札幌の不況
 「新札幌市史」は、明治6年の札幌の不況の背景について、
1)明治5年10月の「札幌会議」の方針による事業縮小。
2)同6年の事業計画は、全般的建設型から予算優先型の建設方針に変更された。
3)同年8月までに前年建設予定の本庁建築、官邸、病院などが竣工し、それ以降新たな工事は開始されなかった。
などをあげ、そのため、人口の流出が相次ぎ、5年916人から、6年は3分の1の306人に減少し、商業活動も停止、農家も移住者が出て農地も荒れたとしている。
②松本の工事起工の上申
 こうした状況を受けて、松本十郎大判官は、黒田清隆次官(注3)へ、小樽港内往還、本庁土塁、豊平川路筋橋梁、新川筋修復、市中道路ノ修復、獄屋建直しなどの不況対策を上申した。(「新札幌市史」)
③黒田の指令
 これに対し、明治6年10月16日、札幌に届いた黒田の指令は、多くが見合わせや計画の変更であった。松本の「専断」による贖罪金支払処分の原因となった本庁土塁建設工事についても、「本庁土塁ハ見合之事。但、四方ヘ樹木植込べき事」と、本庁土塁工事見合を指示し、代りに「樹木植込」を命じた。(「同上」)

2.松本の本庁土塁の工事「専断」
①黒田の指令到着以前に工事入札を挙行
黒田の工事中止指令が届く4日前の10月12日、松本は、本庁土塁などの工事入札を行った。
工事落札合計金額は、「2981円39銭1厘ニ而落札」(「簿書5578」)であり、工事ごとの金額と落札者は、次の通り。
・本庁土塁・下水・門建設費    1086円42銭    (大岡助右衛門請負)(注4)(「簿書5757」)
・5角形内地形(注5)平均砂利敷き 501円49銭3厘3毛(寺尾秀次郎請負)(「簿書5757」)
・道敷            466円60銭     (森村岩次郎請負)(「簿書5757」)
・砂利運送          926円87銭7厘9毛 (大岡助右衛門請負)(「簿書5757」)
   合計          2981円39銭1厘2毛(「簿書5578」は、「2毛」を切捨てている。)
 なお、この費用については、松本は会計局への文書で、「定額金(注6)之内ニ而相弁じ候間、篠路味噌醤油製造(注7)御見合ニ付、減金4500円ノ口ヨリ御出方御取計有之度」としている。(「簿書5757」)
②松本の「専断」の理由
 松本は、10月31日付で、開拓使東京出張所へ松本の工事着工専断の理由を書き送っている。(「簿書5757」)
 松本は、「実地情、黙止し難く」、「専断之罪知リナガラ」工事着工に踏み切った理由を
1)「御落成(開拓使札幌本庁舎の落成のこと。6年10月29日落成した。)之上・・外と囲構これ無きは、四方より馬、輻湊(ふくそう)し・・実に不体栽」である。
2)「土塁・・の区域これ無きは、折角盛大の御造営・・遺憾の至り」だ。
3)「区域限り無きは、野飼いの数百馬、植樹を踏み荒し、盛木成り難」い。
4)「職方、手違いの季節」になった。
5)「御指揮相待ち候得ば、雪中に相成・・明春に至り候はば、とても右金員(現在の費用)を以て出来」ない。
6)「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」である。
7)「市中不景気も大いに振起(しんき)の勢い」となっている。
として、「伺いを経ず、只今より取懸り候」と、工事の「専断」実施に踏み切った。
 なお、「簿書5757」には、「本庁御構内見取縮図」が綴られているが、彩色された原本を見ると、本庁舎構内には、幾本もの小川が流れており、松本の挙げた理由のひとつの「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」は、当を得たものと思う。
③工事の完成
 松本は、11月29日付け東京出張所への文書で、黒田の「工事見合」指示は、「承知いたし候」としながらも、「其侭難捨置ニ付・・土塁、下水並御門5ケ所、柵矢来、5角形内地形平均砂利敷、下水水吐、橋等一切・・此節追々出来之義ニ付、此段承知可有之候」と通知しているから(「簿書5578」)、明治6年の年内には、それら諸工事は、完成したと思われる。

3.松本十郎への処分
①松本の進退伺と待罪書
松本は、史官(注8)あてに工事入札の翌日の10月13日、「土塁建築専断之儀ニ付、進退伺候書付」を提出している。その進退伺いの中でも、「再伺ヲ不経、土塁取建」てた理由を次のように綴っている。
「黒田次官ヘ指令有之度旨、開申致候処、右土塁ハ見合、但、四方ヘ樹木植込候様、指令有之候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁無之候而ハ、御失体之儀ト存量候間、再応可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候」(「簿書5781」)
 また、7年1月8日付の松本から開拓使東京出張所官吏あて文書では、黒田から、「専断之儀ニ付・・其侭差置候而ハ、自然各支庁(注9)、今後之取締ニも相関シ候ニ付、公然処分可相伺」と、待罪書提出の要請があったので、松本は、待罪書を提出し、「可然御執達有之度」と処分を待った。
 なお、「③明治6年の松本の専断」の述べるように、この年8月に、松本は、別件で「待罪書」を提出している。
②松本への処分
 松本への処分が、司法省から、開拓使へ通知があったのは、翌明治7年3月2日付けである。(「簿書1172」)。
 処分書は、「司法卿大木喬任(注10)之印」があり、次のような朱書に綴られている。(「簿書5781」)
「再ビ長官ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建設スルモ、時日還延ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ、
 事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル者 懲役30日、公罪例ニ照シ
 贖罪金  6円」
 処分事案は、「司庁ノ土塁ヲ建設」、処分理由は、「事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル」、処分内容は、「懲役30日、公罪例ニ照シ贖罪金6円」。
 なお、この「贖罪金6円」は、松本大判官の当時の月給350円の1.7%に当たる。
③明治6年の松本の専断
 松本は、明治5年札幌本庁主任となり、翌6年1月6日、開拓大判官に任じられており、札幌本府建設の責任者となっていた。
ついでながら、松本は、この年、本庁土塁建設以外にも、黒田の承認を得ないで、「専断」した事案が、他にもあるので、述べる。
1)「鴨々川水門の水防工事」・・6年春の融雪期に豊平川が増水し、6年4月から8月にかけて、黒田の許可を地取る前に1800円で工事を行った。(「新札幌市史」)
2)「病院並2番邸(注11)外西洋官邸廻り土塁工事」・・1552円79銭で実施。(「簿書5578」・資料P3、「簿書5757」)
3)「白石手稲両村家作」・・松本は、白石手稲両村の家屋の窮状を憂いて154戸に1万1505円(1戸当75円)を家作料として支出した。(中濱康光「士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史」)
 この、「白石手稲両村家作」の「専断」に関して、松本は、黒田へ、6年8月21日付で、「白石手稲両村家作ニ付、専断ノ罪ヲ奉伺候書付」を提出している。(「明治6年開拓使公文録・職官之部」・「簿書5513」)。この中で、2)の「官邸並病院新規ノ分外廻リ土塁建築モ・・専断ニ繰替ヘ仕候」と、(「同上」)「専断」事項を2つ挙げ、「御罰被下度」と、待罪書を提出している。(つづく)

「松本十郎大判官らの独断専行」資料3

『3・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部」(道文・簿書5781)
【第一文書】
東京行  一月廿三日 コスタリカ船便          三十一日  
一ノ十八号                            
   西村正六位 殿                 松本大判官  (「松本」)
   安田 定則 殿                田中正六位  (「田中」)
   時任 為基 殿

本庁土塁並病院(1)生徒寮(2)建設専断(3)之
儀ニ付、各位御見込御申立ノ儀も有之候得ども、其
侭差置候而は、自然各支庁、今後之取締
ニも相関(4)し候ニ付、公然処分可相伺旨、次
官殿、被申聞候云々承知致候。則、別紙之通
待罪書、正副とも差出候条、可然御執達(5)
有之度、此段得御意候也
   明治七年一月八日

(付札)
「御覧済、正院(6)へ之伺書
取調可申候」

【第一文書】注
(1)「病院」・・札幌での医療施設設立の経過について
  ・明治二年(一八六九)十一月、札幌村に一舎を築き仮病院とする。大学二等医の斎藤龍安が在勤。
  ・明治三年(一八七〇)十一月、東創成町(現北一条東一丁目)に移転。
  ・明治四年二月、医師斎藤龍安・長谷川鉄哉・米内鳳祐の三名が連名で本病院建設を嘆願。
  ・同年六月、東創成町に四十坪の病院病室を六六九円余で新築。はじめて入院患者を収容。
  ・明治五年(一八七二)七月、開拓使、五等出仕渋谷良次ら十数名の医員を招く、医員は二十一名に激増した。
  ・同年同月、病院仮規則を定めた。(商工を自費、農業移民、アイヌ、市在困窮者を官費とした。
  ・同年九月、雨竜通(現北三条東二丁目)に梅毒院新築。
  ・同年十月、札幌仮医学所(生徒寮)を建設。
  ・同年一月、東創成町の病院を雨竜通の梅毒院に移して本院とし、梅毒院の称を廃止。
  ・同年六月三日、本庁事務機構改正で、札幌病院とし、三課(事務・主治・教授)に分けた。
(2)「生徒寮建設」・・明治五年(一八七二)十月、七十六坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生二十五名、自費生二名、計二十七名の入学を許可。翌六年(一八七三)一月二十一日、仮医学所開校式を行う。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名(病院と兼務)
(3)「専断」・・ここでいう「生徒寮建設専断」について、「北海道史人名字彙」の「田中綱紀」の項に詳しいので要約する。
  ・札幌病院の渋谷良次が医学生要請に要する講堂・生徒寮の建設を要請。
  ・松本、黒田次官に上申するが、次官は受け入れず、札幌詰を命じられて赴任する田中に不許可の命を伝える。
  ・明治六年(一八七三)八月、父の死去で庄内鶴岡へ帰郷、松本不在中に、渋谷、「頻に生徒寮の建設を綱紀に迫る。綱紀、遂に独断を以て之を許し、・・病院に接続せしむ」。
(4)「相関(そうかん)」・・お互いに影響しあう関係にあること。
(5)「執達(しったつ)」・・上意を受けて下に通達すること。
(6)「正院(せいいん)」・・明治四年(一八七一)閏四月二十一日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治七年現在、太政大臣(三条実美)、左大臣、右大臣、参議よりなる。

【第二文書】
三月二日付 司法省(1)掛合有之             札第九拾五号   「花押」小牧」)   調所」)  (「千早(2)」)
                          調所幹事
  松本大判官殿                  安田幹事
  田中正六位殿(3)                小牧昌業

貴官進退伺処断、司法省ヨリ
相廻候間、差進候条、御落掌
之上、請書並贖金(4)とも早々御廻可有之、此段
申進候也。
   七年三月四日

【第二文書】注
(1)「司法省」・・明治四年(一八七一)七月九日、刑部(ぎょうぶ)省と弾正台が合併して設置された。
(2)「千早」・・少主典千早正路か。
(3)「田中正六位殿」・・棒線で末消している。田中は、二月二十二日、宮城県高城(たかぎ・現宮城県松島町のうち)で自殺しており、本文書の三月四日には、既に死亡している。
(4)「贖金(しょくきん)」・・実刑の代りに、罪をつぐなうための相当額の金員のこと。

【第三文書】
   土塁建築専断之儀ニ付進退
   奉伺候書付
札幌本庁其他病院、官邸周囲土塁之儀、即今
着手致候得ば、御入費、格別相減、御都合之事ニ付
病院並官邸周囲丈、不経伺仕越取計、本庁
土塁之儀ハ、黒田次官へ指令有之度旨、開申(1)致候処、
右ドルイハ見合、但、四方へ樹木植込候様、指令有之
候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁
無之候而は、御失体之儀ト存量候間、再応
可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其
機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境
無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行
可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候段、恐懼(2)
之至ニ候。依之、進退之儀、奉伺候也。
    明治六年十月十三日  開拓大判官 松本十郎  
         史官(3) 御中

【第三文書】注
(1)「開申(かいしん)」・・申し開くこと。自己の職権内でしたことを監督官庁に報告すること。
(2)「恐懼(きょうく)」・・おそれかしこむこと。
(3)「史官(しかん)」・・歴史を編集する官吏。明治政府では、太政官直属の職。

【第四文書】
再ビ長官(1)ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建築スルモ、時
日、遷延(2)、時機ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ事
応、奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ、申ゼザル者、懲役三
十日、公罪(3)例ニ照シ

    「司法卿(4)
(角印) 大木喬(5)       贖罪金(6) 六円
     任之印」

【第四文書】注
(1)「長官」・・黒田が開拓長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日で、この文書の時期は、次官。開拓長官は、不在だが、ここでは、「開拓使の最高責任者(トップ)」の意。
(2)「遷延(せんえん)」・・のびのびになること。
(3)「公罪(こうざい)」・・公務上の犯罪。
(4)「司法卿(しほうきょう)」・・司法省の長官。ちなみに、司法省の官位は、卿、(大・少)輔(ふ)、(大・少)丞(じょう)、(大・少)録(ろく)の順。
(5)「大木喬任(おおきたかとう)」・・旧佐賀藩士。司法卿在任は、明治六年(一八七三)十月二十五日~明治十三年(一八八〇)二月二十八日。
(6)「贖罪(しょくざい)金」・・体刑に服する代りに、罪過を許されるために差出す金員。ちなみに、当時大判官の月俸は三百五十円であった。また、明治七年の米一俵(六十キロ)の値段は一円八十七銭。

「松本十郎大判官らの独断専行」2-3

【第五文書】
  大判官       工業局 
              会計局  
(朱)元伺高 四千六円九厘

一金 千八百九拾四円九拾七銭一厘
    内
     金 九百弐拾六円八拾七銭七厘九毛  大岡助右衛門
          是ハ敷砂利運送代
     金 五百壱円四拾九銭三厘三毛    寺尾 秀次郎
          是ハ五角形内構地盤高下平均
     金 四百六拾六円六拾銭       森村 岩太郎
          是ハ本庁構内道式五ケ所御普請御入用

右ハ本庁御構内道式並建家廻り地盤高下
平均、且、砂利運送代とも入札申付候処、書面
之者ども安値ニ付、落札可申付哉。別紙相添此段
相伺候也。
     十月

【第六文書】
(付札)
「別紙」

      五角形入札比較表
   一金 五百七拾円三拾七銭      森邨岩太郎
   一金 五百四拾円五拾七銭二厘    前田市太郎 
   一金 千三百四拾五円弐拾銭     石田福太郎
落札 一金 五百壱円四拾九銭三厘三毛   寺尾秀次郎
   一金 千四百八拾九円八銭九厘五毛  大岡助右衛門
   一金 六百六拾七円七拾八銭四厘七毛 中山 藤吉
   一金 五百九拾四円五拾弐銭     中川源左衛門
   一金 五百九拾弐円拾六銭壱厘五毛  水原 虎蔵

【第七文書】
    道敷入札比較表
落札 一金 四百六拾六円六拾銭          森村岩次郎
   一金 九百五拾八円八拾壱銭2厘       前田市太郎
   一金 七百参三拾四円四拾銭         石田福太郎
   一金 八百四拾三円四拾三銭一厘弐毛     寺尾秀次郎
   一金 九百拾八円八拾九銭弐厘三毛      大岡助右衛門
   一金 五百六拾七円九拾壱銭壱厘       中山 藤吉
   一金 千弐百三拾四円七拾銭         中川源左衛門(1)
   一金 六百九拾壱円八拾九銭五厘三毛     水原 虎蔵

【第七文書】注
(1)原本には、テキストの「⑫~30」と、「⑫~31」の間に、もう一丁あり、この中川源左衛門の行と次の行の水原虎吉の行、及び次の「砂利運送入札比較表」の七行が抜けている。

【第八文書】
      砂利運送入札
      比較表
   一金 千弐百四拾四円七銭六厘      吉田 茂八
   一金 千六百三拾八円三拾銭       森邨岩次郎
   一金 千四百八円四銭七厘九毛      前田市太郎
   一金 千百五拾円四拾八銭四厘      石田福太郎
   一金 九百五拾壱円九拾弐銭       寺尾秀次郎
   一金 千七百四拾壱円五拾銭       佐藤 幸吉
落札 一金 九百弐拾六円八拾七銭七厘九毛   大岡助右衛門
   一金 千五百壱拾五円七拾五銭      中山 藤吉
   一金 千三百七拾五円六拾五銭六厘    水原 虎蔵
   一金 弐千四拾七円三銭二厘七毛     中川源左衛門

「松本十郎大判官らの独断専行」2-2

『2~2・開拓使公文録』「開拓使公文録明治六年建設之部」(道文・簿書5757~86)

【第一文書】
(付札)
「十一月十六日  
本庁周囲土塁道敷其他
着手ノ件
  松本大判官外一名ヨリ西村正六位
  外三名ヘ来」

十一月十五日、コレア号(1)便          十九日    
十ノ六十六号  
  
西村正六位殿
安田 定則殿       松本大判官 (「松本」)
内海 利貞殿       田中 幹事 (「田中」)
時任 為基殿 
先般於其表、定則殿御伺数件之中、本庁
土塁之儀、御見合、樹木植込之御指揮(2)
有之候得共、兼而ご案内之通、実地情態
速ニ樹木植込区域之経界相立候場合ニ
及兼、既ニ御落成(3)之上、是非共、外ト囲構
無之ハ、市街地近傍之曠野故、四方ヨリ馬、輻
湊(4)、実ニ不体栽且四方御門取建、道路
修理相成候共、土塁等之区域無之は、
折角盛大之御造営(5)所欠有之ニいたり、
遺憾之至候。仮令植込相成候共、其区域
限無之ハ野飼之数百馬(6)、植樹ヲ踏荒、盛
木難成、何程馬追共ニ厳命布告候共、
長キ月日之中ニ自然勝手、従横ニ乗込、
到底不都合之事而已多キハ顕然且ハ、
現今、職方手違之季節ニ付、別紙仕様
書之通、金高弐千三百七拾二円四拾
弐銭ヲ以入札申付候処、落札千八拾六円四拾
弐銭ニ相成、格外(7)之減金ニ而出来形(8)ニ相成
右は、一応伺之上、施行可致ハ勿論候得共、
最早季候相遅レ、御指揮相待候得ハ、
雪中ニ相成、第一、明春ニ至候ハバ、迚も右
金員ヲ以出来候理無之、不得止専断之
罪知リナガラ、実地情難黙止、専断いたし候
事情、篤ト御了察、次官殿ヘ宜御弁向
有之度、尤、定額金之内ヲ以御入費ニ
相充而、別段御出方不相願候事。
一 本庁御構内道路修繕許可ニ相成
  仕様積書(9)ヲ以至急ニ相伺候様、御指揮
  候得共、取調書ヲ以東京ニ相伺候上ニ取
  懸候事なれバ、前文之通、時節遅レ、
  当年之間ニ合不申、然ルニ、本庁落成、
諸局(10)共、総容(11)引移、是迄之侭差置
候得バ、凸凹甚敷、往来不便理、一同時節遅レ
殊更難渋不大方候間、又候専断ニ相渉リ
候得共、到底御建築ニ相成候事なれば、
当年御下手之方ハ、御出方も格別減縮
市中不景気も大ニ振起(12)之勢有之
旁以別紙仕様書之通、金高四千六円
九厘之調ニ入札為致候処、落札金千八百
九拾四円九拾七銭壱厘、格別御減金之
出来形、且以、当年中、格別なれバ、上下共
便利不少候間、前条之減金なれば、
御異存も有之間敷ト被存候間、不経
伺、只今ヨリ取懸候事。
一 市街修繕之義、今度許可ニ相成、
  最前仕様金弐千八百七拾壱円七拾六銭
  壱厘之処、入札為致候処落札金千六百
三拾壱円五拾弐銭弐厘出来形相成候間、
唯今取係候事。
   但、仕様書先般御検印済ニ付、今度不相伺候事。
一 病院並西洋造官邸廻り土塁最前
  積高金四千百五円三拾銭壱厘之処、
  入札出来形千五百五拾弐円七拾九銭ニ而
  取懸候事。
一 豊平川新橋(13)之義ハ、昨今其筋ニおいて
  取調中ニ候。到底当年中ハ御下手相成
  兼候ニ付、次便ヲ以可申進候。旧橋殊之外
  破損ニ付き修繕加ヘ置申候事。
一 新川修繕之義ハ、今度絵図面ヲ以御指
  揮有之候得共、定則殿実地之体裁
  御案内之通、両岸ニハ砂利多し而、絵図
  面通り致候得バ返而患害(14)ヲ引出ニ
  近ク、兎角難被行候間、尚、別ニ仕様
  取調可申進候事。
  右之件々可然様、次官殿ニ被御
  申立度、此段及御懸合候事。
     明治六年十月三十一日
【第一文書】注
(1)「コレア号」・・戊申戦争の際、官軍奥羽鎮撫隊を運んだロシア船に「コレア号」が見える。欄外に書かれたこの行は、影印では見えない。原本に当たって確認した。
(2)「指揮」・・さしずすること。
(3)「落成」・・開拓使札幌本庁の落成のこと。明治六年(一八七三)十月二十九日落成。落成布達は十一月二十四日、開拓使札幌本庁が仮庁舎から落成した庁舎に移転したのは、明治七年(一八七四)一月一日。
(4)「輻湊(ふくそう)」・・(輻=や=が、轂=こしき=にあつまる意から、方々から集まること。
「輻(や)」は、轂(こしき。車輪の中央にあって軸をその中に貫き、輻をその周囲にさしこんだ部分)から車輪の輪に向かって出ている放射状の細長い棒。「湊(みなと。ソウ)」は、あつまるの意。
(5)「盛大之御造営」・・開拓使札幌本庁舎の構内は、南北三百四十四間(約六百二十メートル)、東西二百四十六間(二百五十メートル)。
(6)「野飼之数百馬」・・明治三年(一八七九)虻田、有珠、浦河の牧場にいた多数の馬が、駅逓備馬あるいは農家へ払い下げとなったが、札幌には、三百二十一頭が送られ、元村に牧場を開いた。四年(一八七一)一月に札幌市民及び近村に百二十頭が貸し付けられ、翌五年(一八七一)にそれらを売り渡している。(「新札幌市史」)
(7)「格外」・・並はずれ。
(8)「出来形(できがた)」・・工事施工が完了した部分のこと。工事竣工をいう。
(9)「積書(つもりがき)」・・見積書。
(10)「諸局」・・明治六年(一八七一)六月三日、本庁事務機構を六局(庶務・会計・農業・工業・物産・刑法)二十四課、別に学校(三課)、病院(三課)と定めた。
(11)「総容(そうよう)」・・一同。
(12)「振起(しんき)」・・盛んになること。ここでは、不景気が拡大することの意。
(13)「豊平川新橋」・・豊平川に最初に橋が架けられたのは、明治四年(一八七一)。その後毎年新築橋が架けられている。毎年のように流された。なお、本文書の明治六年(一八七三)の春の融雪期に豊平川が増水し、鴨々川水門が破損して市街に被害が出そうになり、松本は、黒田の許可をとる前に四月から八月まで一八〇〇円をかけて鴨々川水門の水防工事を行った。(「新札幌市史」)
(14)「患害(かんがい)」・・わざわい。

【第二文書】
(付札)
「別紙」

写東京行
    会計局      松本大判官 (「松本」)
本庁土塁並ニ五ケ所御門御入用金
千八十六円四十弐銭、定額金之内ニ而
相弁じ候間、篠路味噌醤油製造
御見合ニ付、減金四千五百円ノ口ヨリ
御出方御取計有之度、此段申進候事。
    六年十月廿日


【第三文書】
十月廿三日 御検印済(1)
写東京行
        ○黒(印)
       大判官  (「松本」)     工業局 (「岩」)(「前田」) (「宮」)
        幹事  (「田中」)    会計局  (「村井」)(「山崎」)
一 金千八拾六円四拾弐銭、大岡助右衛門(2)
右ハ本庁御構内土塁、水吐並御門五ケ所
  柵矢来、橋共、御入費凡積之上、入札申付、開
  札仕候処、別紙之通、安値段有之候得共、小内
  訳取調高不相当ニ付、御出来形ニ相響キ
  可申哉。依之、凡積比較仕置当高六番
  札落値段ニ可申付哉。尤、落成間数
  検査之上、坪当を以、猶増減仕候。則、
  仕様内訳帳添、此段相伺候也。
     十月十二日

【第三文書】注
(1)この行は欄外に書かかれており、綴りの喉(のど)のため影印では見えないが原本で確認した。
(2)「大岡助右衛門」・・請負人。天保七年(一八三六)五月武蔵国久良岐(くらき)郡大岡村(現横浜市南区のうち)の農家に生まれる。安政五年(一八五八)箱館五稜郭建設には大工頭としてたずさわる。明治四年(一八七一)には、札幌本陣の建設に着手。その後、札幌農学校、豊平橋、豊平館の建設を請負う。

【第四文書】
   本庁御構土塁並水吐、御門五ケ所  
   御取建、其外御入費入札

金 千五百七拾六円八拾六銭      森村岩次郎
金 八百六拾八円三拾銭九厘五毛    大谷平次郎
金 千五百七拾六円弐拾弐銭      森川三太郎
金 千弐拾壱円八拾九銭二厘      前田市太郎
金 千百七円六拾八銭         吉田 茂八(1)
金 九百四拾九円六拾壱銭五厘五毛   寺尾秀次郎
金 八百九拾七円九拾八銭       中山 藤吉
金 千八拾六円四拾弐銭        大岡助右衛門
金 弐千九百七拾八円五拾銭      小宮 与吉
金 千四百八拾壱円八拾七銭四厘八毛  石田福太郎
金 八百八拾円九拾九銭三厘壱毛    佐藤 幸吉
金 千三百円三拾三銭三厘       水原 寅蔵(2)
金 千三百七拾三円弐拾壱銭      中川源左衛門(3)
   第十月十二日
【第四文書】注
(1)「吉田茂八」・・文政三年(一八二〇)十月福山に生まれる。創成川の開削者。請負業者として成功。
(2)「水原寅蔵(すいばらとらぞう)」・・文化十五年(一八一八)近江国甲賀郡三雲村(現滋賀県湖南市のうち)の農家に生まれる。後、越後国水原(すいばら)に住む。越後の松川弁之助の蝦夷地渡航に同行。明治四年(一八七一)札幌に移住。開拓使御用請負人となる。
(3)「中川源左衛門」・・請負人。天保九年(一八三八)阿波国三好郡白地村(現徳島県池田町白地)の生まれ。明治三年(一八七〇)、札幌開府の請負人統卒を命じられる。開拓使仮庁舎、官舎、札幌神社、偕楽園、市中道路建設などすべての土木建築工事に采配をふるった。

「松本十郎大判官らの独断専行」資料2-1

『2~1・開拓使公文録』「開拓使公文録明治六年建設之部」(道文・簿書5757~85)
【第一文書】 

「安田定則外一名ヨリ松本大判官外一名へ回答」(1)

札ノ三百八十六号 

  松本大判官殿          安田定則
  田中 幹事殿          時任為基

本庁周囲之儀ニ付、定則ヨリ次官殿ヘ
再伺書差出置候内、周囲土塁之儀、
既ニ着手之趣ニ付、門並樹木之分、伺之通ト付
紙之上、御指揮相成候間、営繕減金之内より御払出有之度、別紙
写相添、此段申進候也。
   六年十一月七日

「不及写」(2)
別紙相伺候間、御取調御差出
被下度、御依頼ニ及候也。
    明治六年十月    安田定則 
    内海利貞殿
    時任為基殿

(付札)
「御伺之趣、依存無之、尤、御構内
水抜溝之義は、追而御詮議
有之。当時御差延相成り候而ハ
如何可有之哉。
       内海利貞 」

【第一文書】注
(1)冒頭欄外にある付札。
(2)本文中央にある付札。

【第二文書】
「別紙」(1)
「可写」(2)

次官殿              安田定則 
先般、本庁周囲之儀相伺候処、築塁見
合、樹木植付候様、御下命相成拝承(3)仕候。
就而ハ、周囲下水並ニ御門丈ケ之造営ハ
無之候而ハ、不体栽にも可在之候間、右下水
径三尺深壱尺五寸ト相定、堀土ハ、一平ニ敷並
シ、其場ニ植ルニ兼而御用地へ御仕立在之候
利子(ママ)(4)林檎、葡萄類之菓木を列植仕度、仍而
仕様書並ニ御入費積、御構内下水相除
候分共弐通、絵図面相添、重而相伺候間、
両様いずれか御指揮被成下度候也。
    明治六年第十月

(付札)
周囲土塁之儀ハ既ニ
着手之趣ニ付、樹木之分
伺之通。

【第二文書】注
(1)冒頭欄外にある付札。
(2)本文中央にある付札。
(3)「拝承(はいしょう)」・・聞くことの謙譲語。つつしんでうけたまわること。
(4)「利子」・・「梨」か。

【第三文書】
本庁構内外御門其外取建入費

今般調高
  凡金 五千七百三拾八円三銭五厘
      内
       金 千九百〇六円四拾八銭九厘
             是は惣構下水其外
             御入用之分
       金 三千五百弐拾九円八拾弐銭8厘
             是は御構内小河埋方並
             堀方、小橋掛渡、道敷共御入用之分 
       金 三百壱円七拾壱銭八厘
             是は御門五ケ所御入用之分  
【第四文書】

      御構内外御門其外取建入費

今般調高
  凡金 七千三百五拾七円三拾九銭五厘
     内
       金 千九百〇六円四拾八銭九厘
           是は惣構下水並ニ渡橋
           新規御入用(1)
       金 五千百四拾九円拾九銭壱厘
           是は御構内小河埋方並ニ
           堀方小橋、道敷廻り、水抜
下水前後篝其外入用
之分
       金 三百壱円七拾壱銭八厘
                   七厘五毛之処
           是は御門五ケ所御入用

(付札)
「内金 千六百拾九円三拾六銭三厘
     水抜下水前後篝等御入用」

【第四文書】注
(1)この二行の但し書きは、影印では簿所のどに隠れて見えない。原本にあたって判明した。

【第一図】

「本庁入口門 五ケ所之図」

(図に表示されている語句で調べたもの)
「框(かまち)」・・門、扉などの枠。
「見付(みつけ)」・・框などの正面の幅。
「見込(みこみ)」・・部材の奥ゆき。

【第二図】

「本庁御構内見取縮図」

「松本十郎大判官らの独断専行」資料1

『1・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(道文・簿書5576~17)
【第一文書】
次官(1)                     東京
  五等出仕(2)                  会計課(4)
  七等出仕(3)
札幌本庁回り、柵矢来(5)及西洋形門、
其外道敷(6)、芥抜下水(7)、小橋並構外四方
川埋新堀共、ご入用合金弐万百五拾
五円九拾弐銭八厘ヲ目的高トシ、伺之通ヲ以
構営(8)ノ義、御達可然、尤、右ハ目的高ト
心得、道敷、芥抜以下、営構ハ、可成省減
作略(9)候様可致旨、御達可然哉。御回金
之義は、別段御出方、明年春ニ至リ可被差遣
候条操合(10)方、心懸候様致度、此段も
御達有之度、右等相伺候也。

  明治六年九月十二日

    本庁回り柵矢来取建ニ不及、四方樹木植付
付札  候様可致、且、道敷之義ハ、修繕可致義
    ニ付、右之概様、積書(11)いたし至急可差
    回候事。


【第一文書】注
(1)「次官」・・黒田清隆。黒田は明治三(一八七〇)五月九日~明治七年(一八七四)八月一日まで次官。長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日。
(2)「五等出仕」・・明治六年(一八七三)の官員録では、西村貞陽、大鳥圭介、山内堤雲の三人。少判官の下位、幹事の上位。
(3)「七等出仕」・・明治六年(一八七三)の官員録では、調所広丈ら八名。権幹事の下位、大主典の上位。
(4)「東京 会計課」・・開拓使は、明治二年(一八六九)七月八日設置されたが、明治三年(一八七〇)閏十月十日、在京の開拓使は、「開拓使東京出張所」と改称し、これまでの東京城西丸の民部省から日本橋蠣殻町に移転した。さらに、明治四年八月には、芝増上寺内に移転下。「東京」は、「「開拓使東京出張所」のこと。「会計課」は、その一つの部署。明治六年(一八七三)六月三日、会計課など七課と、官園、会所などの事務機構を定めた。
(5)「柵矢来(さくやらい)」・・木の柵で作った矢来(かこい)。ヤライは「遣ひ」で「追い払う」「入るを防ぐ」の意。
(6)「道敷(みちしき)」・・道路に使用する敷地。道路敷。
(7)「芥抜(あくたぬき・ごみぬき)下水」・・ごみ処理のための下水のこと。
(8)「構営(こうえい)」・・かまえいとなむこと。組織し経営すること。
(9)「作略(さりゃく)」・・よいようにはからうこと。配慮。
(10)「操合(くりあわせ)」・・本来は「操」は、糸偏の「繰」で「繰合」。やりくりする。都合をつける。
(11)「積書(つもりがき)」・・見積りの計算を記した書類。見積書。

【第二文書】

十一ノ八十一号
  西村正六位殿(1)            松本大判官(5)
安田 定則殿(2)
内海 利貞殿(3)            田中 幹事(6)
時任 為基殿(4)            金井 信之(7)
本庁周囲土塁並御門、下水、樹木植付
等之義ニ付、於其御地次官殿へ御伺済
相成候段、書類添御申越候趣、承知
いたし候。右は是迄致度々得御意候通、其侭
難捨置ニ付、小川埋立掘方等は相除キ
土塁、下水並御門五ケ所(8)、柵矢来、道敷
五ケ所、五角形内地形(9)平均砂利敷、下水
水吐、橋等一切御入費合金弐千九百八拾
壱円三拾九銭壱厘ニ而落札相成、此節
追々出来之義ニ付、此段承知可有之候。
尤、樹木之義も於御地可然御取扱有之
度候。右御回答旁如此候也。

 明治六年十一月二十九日

下ケ札   樹木之義、於御地御取計之事。

【第二文書】注
(1)「西村貞陽(さだあき)」・・旧佐賀藩士族。明治二年(一八六九)八月開拓少主典、三年(一八七〇)閏十月、札幌市詰となり、五年(一八七二)九月、東京詰に転じる。「常に長官を補翼して枢機に参与」(北海道史人字彙」)。明治六年(一七七三)一月十七日、五等出仕に任命される。正六位叙任は、明治五年(一八七二)四月十五日。
(2)「安田定則(さだのり)」・・旧鹿児島藩士族。明治四年(一八七一)十月開拓大主典。五年(一八七二)五月、札幌詰めを命じられ七等出仕となり、土木を担当。十郎から事業対策で黒田との稟議のため上京を命じられる。滞京中、東京詰めを命じられる。一貫して黒田の腹心的な役回りを開拓使東京事務所において勤め、黒田が東京を離れる時には長官代理を命じられた。(「安田定則と安田定則関係文書について」宮地正人)。明治十六年(一八八三)一月農商務省北海道事業管理局長。
(3)「内海利貞(うちみ・としさだ)」・・旧幕臣。明治二年(一八六九)八月開拓大主典。明治六年(一八八三)当時七等出仕。東京に在勤し、会計事務を担当する。明治十一年(一八七八)六月開拓使会計局長兼工業局長。
(4)「時任為基(ときとう・ためもと」旧鹿児島藩の公用人下役。明治五年(一七七二)七月開拓使8等出仕、八月七等出仕。明治十五年(一八八二)二月函館県令。
(5)「松本大判官」・・松本十郎。明治二年(一八六九)八月開拓判官に任じ、根室在勤。明治五年(一八七二)十月、札幌本庁兼務となる。六年(一八七三)一月十七日、岩村道俊大判官が免じられ、その後任となる。明治九年(一八七六)九月五日、依頼免官。
「大判官」・・明治五年(一八七二)八月二十四日、開拓使官等(官位の等級)を改正し、判官を、「大、中、少」に分け、監事を廃止し、幹事を設けた。
(6)「田中幹事」・・田中綱紀(つなのり)。旧鹿児島藩の公用人。明治五年(一七七二)三月開拓権判官。明治六年(一八七三)一月開拓幹事となる。安田と交代して札幌詰を命じられる。明治七年(一八八四)二月二十二日、上京の途中、陸前・高城(たかぎ)で自殺。
(7)「金井信之(のぶゆき)」・・但馬国豊岡の人。明治四年(一八七一)開拓使八等出仕。五年(一八七二)七等出仕となる。六年(一八七三)札幌本庁在勤を命じられ会計を担当。「明治七年春開拓使創業以来の会計を清算す。此清算には金井信之但馬の人最も尽力したり」(「松本十郎翁談話」)
(8)「御門五ケ所」・・図面では、南北各二ケ所、東に正門一ケ所の計五ケ所。西は、本格的な西洋形門でなく、「木戸」となっている。北海道庁時代には、東西南北各一ケ所の四ケ所
(9)「五角形内地形」・・本庁舎の周囲の敷地は、五角形になっている。北海道庁時代には辺が内側に弓状に凹んだ四角形。

【第三文書】

札第五拾九号

十一月廿九日付御状披見、本庁周囲土塁
等出来之義御申越之処、右ハ、去明治六年
九月中、評議済、本庁廻柵矢来及西洋
形門、其外、道敷、芥抜下水、小橋並構外
四方川埋新堀共、安田定則帰省中ニ而
最前及御通知候次第不明に加え去
九月中、評議之節、至急書類扣不写
取返却いたし候間、左之廉々
一 札幌新川縁左右、板、篝(1)取建、橋懸置之義
一 同所二番邸(2)及病院其外官邸土塁等御入用之儀
一 同所豊平川並枝川新橋架渡之儀
右之義も扣無之ニ付、都合四廉写添委細
被御申越候存候。此段及御報候也。
               小牧 昌業(3)
明治七年二月十五日      調所 広丈(4)
               西村少判官
        松本大判官殿
        田中 綱紀殿
        金井 信之殿

【第三文書】注
(1)「篝(かがり)」・・薪を入れ篝火を焚くのに用いる鉄製の籠。篝籠。「簿書五七五七」に「前後篝」とあるから、下水溝の照明用に始点、終点に置いたのだろう。ちなみに、札幌での電灯の点灯は明治二十四年(一八九一)十月三十一日のこと。(「さっぽろ文庫 札幌事始」)
   のだろう。
(2)「二番邸」・・本庁東正門の南、札幌通(現北三条)と厚田通(現北二条)の間に建設された官邸。ケプロン邸といわれる。
(3)「小牧昌業(まさなり)」・・旧鹿児島県士族。明治七年(一八七四)一月開拓使七等出仕。開拓使東京出張所庶務課勤務。
(4)「調所広丈(ずしょ・ひろたけ)」・・旧鹿児島藩士族。明治五年(一八七二)正月十四日八等出仕。東京で学務を担当。七年(一八七四)二月八日開拓幹事。明治十一年(一八七八)十一月開拓大書記官兼札幌農学校長となる。明治十五(一八八二)一月、札幌県令となる。

【第四文書】

調所広丈殿
                  松本大判官
小牧昌業殿
二月十五日付ヲ以、昨六年九月中、本庁
柵矢来及西洋門其外道敷、芥抜下水、小橋並構外四方川埋新堀
共御入用二万百五十五円余金之廉ニテ
本庁周囲土塁新築相成候乎
否乎、御回答ニ可及承知候。右ハ、土
塁ニ猶積替相成、最前伺二万百五十
五円余金ノ内外ニ不抱本庁定額金ノ
内、篠路醤油製造(1)御見合候減金ヲ以
御入用御出方相成候。今般、出来高見合
ノ為、別紙綴伺書写ヘ下札ニ而差遣候間、
御承知有之度、不取岩瀬権大主典(2)不日
出京之節、仕上書類持参候。同人ヨリ
細事ハ御聞取有之度、此段及御回
答候也。
    三月五日

【第四文書】注
(1)「篠路醤油製造」・・明治四年(一八七一)七月、開拓使は篠路村に醤油醸造所を築いた。明治十一年(一八七八)九月、宮城県士族沢口永将に払い下げられた。その後明治十二年(一八七九)、樺戸集治監が買い受け、篠路分監として、囚人に味噌・醤油製造の作業に当たらせた。明治三十年(一八九七)新潟出身の笠原文平が買い取り営業した。
(2)「岩瀬権大主典」・・岩瀬隆弘。明治五年(一八七二)十月二十五日から権大主典。工業局営繕係として屯田兵屋の設計などにたずさわる。「履歴短冊」(道文・簿書5099)の明治七年三月十八日の項に「工業局清算突合せのため出京被申付」とある。

松本十郎大判官らの独断専行

2008年度 古文書講座上級コース 中間報告
<はじめに>
 私のテーマ「松本十郎大判官らの独断専行」について、まず、テキストをできるだけ正確に解読することだと心がけ取りくんだ。その取り組みと、その中で読みとったこと、主に、松本への処罰の原因となった札幌での工事内容などを中間報告する。

1.道立文書館でのテキストの原本の確認作業と読み下し文の作成
①テキストの正式文書名
1)「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(簿書5578)
2)「開拓使公文録 明治六年 建築之部 営繕附人夫 灯台 電信附生徒 測量 道路 橋梁附河梁 港湾」(簿書5757)
3)「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部 一月之分」(簿書5781)
4)「明治七年 司法省往復 全」(簿書1172)
②原本に当たり、わかったこと。
・原本の「のど」の文字がテキストの影印では見えない部分があったので補った。(P7、8、11)
・テキストに1丁分の落丁があり、補った。(P13)
・付札の箇所を確認し、テキストに復元貼付した。(別紙提示)
③テキストの解読・読み下し文を作成した。(別紙資料)

2.関連資料の調査
・テキスト記載の事項、人名、難読用語などを調べた。
・その主なものを読み下し文に注記した。

3.松本大判官、田中幹事による「独断専行」での諸工事着工
①背景(「新札幌市史」より)
・明治5年(1872)10月の「札幌会議」の方針による事業縮小。
・明治6年(1873)の事業計画は、全般的建設型から予算優先型の建設方針に変更された。
・6年8月までに前年建設予定の本庁建築、官邸、病院などが竣工し、それ以降新たな工事は開始されなかった。
・そのため、不況を引き起こすことになった。
・人口の流出・・5年916人から、6年は3分の1の306人に減少し、商業活動も停止、農家も移住者が出て農地も荒れた。
②松本が実施した工事内容と金額
・本庁土塁・下水・門建設費 1086円42銭(大岡助右衛門請負)(資料P11)
・五角形内構地盤 501円49銭3厘3毛(寺尾秀次郎請負)(資料P13)
・道敷  466円60銭(森村岩次郎請負)(資料P13)
・砂利運送 926円87銭7厘9毛 (大岡助右衛門請負)(資料P13)
   合計 2981円39銭1厘2毛(資料P2.「2毛」は切捨てている。
③松本の工事着工専断の理由 簿書5757(資料P8~9)
 松本は、「実地情、黙止し難く」、「専断之罪知リナガラ」工事着工に踏み切った理由を
・「御落成(開拓使札幌本庁舎の落成のこと)之上・・外と囲構これ無きは、四方より馬、輻湊(ふくそう)し・・実に不体栽」である。
・「土塁・・の区域これ無きは、折角盛大の御造営・・遺憾の至り」だ。
・「区域限り無きは、野飼いの数百馬、植樹を踏み荒し、盛木成り難」い。
・「職方、手違いの季節」になった。
とし、更に、
・「御指揮相待ち候得ば、雪中に相成・・明春に至り候はば、とても右金員(現在の費用)を以て出来」ない。
・「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」である。
・「市中不景気も大いに振起(しんき)の勢い」となっている。
として、「伺いを経ず、只今より取懸り候」と工事を「専断」実施することに踏み切った。

4.その他
・松本と一緒に「専断」で罰せられた田中綱紀のこと(P3)
・本庁舎の絵図面について(別絵図)
・「篝(かがり)」について(P3)
・建築用語について(P7)
・篠路醤油について(P4)

【主な参考文献】
・「新札幌市史第二巻通史二」「新札幌市史第七巻史料編二」(札幌市教育委員会編)
・「新北海道史第三巻通説一」「「新北海道史第七巻史料一」北海道編)
・「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊)
・「新撰北海道史第三巻」(北海道編)
・「北海道史人字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター刊)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編・刊)
・「開拓使官員録」(北海道立文書館所蔵)
・「奏任官以上履歴録」(北海道文書館所蔵 簿書5871)
・「履歴短冊」(北海道文書館所蔵 簿書5099)
・「松本十郎翁談話」(「犀川会資料 全 北海道史資料集」所収 高倉新一郎編 北海道出版企画センター刊)
・「異形の人 厚司判官松本十郎伝」(井黒弥太郎著 道新選書)
・「赤レンガ庁舎史話」(小原荘治郎著 楡書房刊)
・「さっぽろ文庫 札幌事始」(札幌市教育委員会編)
・「さっぽろ文庫 札幌人名事典」(札幌市教育委員会編)

【廿(にじゅう)考】

【廿(にじゅう)考】

「首相、また漢字間違え」という見出しで、麻生首相が書き初めの落款に「平成廿十一年新春」と書いたことが記事になっていた。
正しくは「平成廿一年新春」で、「廿」は一文字で「にじゅう」を意味するから「十」は不要、と報道されていた。
以下、私の「廿」考。

1.「廿」の読み方

・ 国字ではなく、れっきとした漢字。漢音で「ジュウ」と発音するからややこしい。
解字はわかりやすく「十」+「十」。訓は「十(じゅう)」が「二(に)」で、「にじゅう」。
常用漢字ではないが、平成16年9月に人名漢字に追加された。
・ 広島県にある「廿日(はつか)市」の「はつ」、「二十歳(はたち、はたとせ)」の「はた」も訓。
語源は、「ふた」から転じたという説や、戦国時代、二十歳になる武士は、主君の紋を染めた旗を背負って戦場に出たが、その旗竿に「旗乳(はたち)」と呼ばれる輪を二十個つけたということから「はたち」と呼ばれるようになったという、もっともらしい説もある。
・ 「廿里」と書いて「とどり」と読む難読文字(地名・姓)がある。戦国時代、武田氏と北条氏の古戦場「廿里(とどり)古戦場」(現東京都八王子市)が知られている。
「十(とお)」がふたつ重なっているから「とおとお」、転じて「とど」となったという説はわかりやすい。

2.「廿」の部首

「漢語林」(大修館書店)は「十(じゅう)」部に入れ、近刊の「新潮日本語漢字辞典」(新潮社)は、「廾」部とし、「にじゅうあし」「こまぬき」と読んでいる。「こまぬき」は、「拱(こまね)く」から。「拱く」とは、左右の手を胸の前で組み合わせること。脚になったとき、「廿」の異体字(俗字)「A(注1)」に似ているので「にじゅうあし」と呼ばれる。

(注1)「A」・・「廿」の異体字(俗字)に4画目の横棒のないのがある。
2画目が「廾」の2画目のように「左はらい」せず、まっすぐ縦棒「|」になっている。


その字がワープロでは、出ないので、スキャンし添付する。以下、その異体字(俗字)を「A」とする。

3.「廾」

「廾」は、漢音で「キュウ」、呉音で「ク」と読む。解字は、両手でささげる形をかたどり、ささげるの意味を表す。(漢語林)
「弁」「弄(もてあそ)ぶ」「弊(へい)」などが、この「にじゅうあし」部にある。
ところで、「廾」は、「廿(にじゅう)」の異体字である「A」とは、まったく別の字である。
なのに、「にじゅうあし」部というから、ややこしい。

4.「廿(にじゅう)」と「卅(さんじゅう)」
 古文書では、よく「三十」を一文字で「卅」と書く場合がある。これも漢字。
漢音・呉音とも「ソウ」と発音する。訓では「さんじゅう」とか、「卅(みそ)路」「卅一(みそひと)文字」などの場合の「みそ」。
 ところで、「卅」(4画)が正字で、異体字(俗字)は、「丗」(5画)と、5画目に横棒を書く。
 4画目に横棒を書く「廿」(4画)が正字で、横棒のない3画の「A」が異体字(俗字)だから、これまた、ややこしい。

【ヤドリギ、万葉集、新年】

ナラ、ブナなど大木の落葉樹が葉を落すと、梢に鳥の巣のような丸いかたまりが現れます。
寄生植物のヤドリギです。自ら光合成もするので、正確には半寄生植物というそうです。
 大伴家持の歌に、このヤドリギを詠んだ一首があります。

天平勝宝二年正月二日、国庁に饗(あえ)を諸(もろもろ)の郡司等に給ふ宴の歌一首 (万葉集 十八 4136)

<原文>
 安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽

<訓読>
あしひきの 山の木末(こぬれ)の寄生(ほよ)取りて 
挿頭(かざ)しつらくは 千歳(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ

<通訳>
山の梢のから寄生(ほよ)を取って、髪に挿したのは、千年の命を祝う気持からです。 (「新編古典日本文学全集 萬葉集4」 小学館)

「寄生(ほよ)」は、ヤドリギの古名。この歌を作った当時の家持は、国司として越中に赴任していました。
越中の国庁は、現在の富山県高岡市伏木にあり、天平勝宝2年(700)の正月、家持は、国庁で開かれた宴で、集まった郡司らに新年のお祝いの歌を披露しました。それがこの歌です。

また、フランスやイギリスなどには、クリスマスにヤドリギのリースを飾り、その枝の下では女性にキスをするのが許される習慣が残っており、そうすると、その1年が幸せになるといわれています。

西洋でも、日本でも、ヤドリギは神聖な植物といえます。

ネットで探したら、鎌倉・鶴岡八幡宮境内の大木のヤドリギがありましたので添付します。
1本の木に、ものすごくたくさんのヤドリギが寄生しています。壮観です。

新年を迎えるに当たり、万葉集の一首を贈ります。
img20081230.jpg

【「牙」を何画とするのか】

【「牙」を何画とするのか】

文化庁の諮問機関である文化審議会国語分科会漢字小委員会は、先に、常用漢字表(注1)の「本表に入れる可能性の高い漢字」として新たに、188字を候補に挙げた。
そのひとつに「牙」がある。
常用漢字に加える場合、何画にするのだろうか。
<現在の表外漢字としての「牙」は4画>
現在、常用漢字になっていない漢字(以下、表外漢字)としての「牙」は、4画である。つまり、2画目の「ノ」と「一」を一気に1画で書く。
<「牙」を含む常用漢字の「牙」は、5画>
ところが、「牙」を含む常用漢字(注2)の画数は、1画増えた。つまり、2画目を二つに分解した。「ノ」と「一」を1画で書かず、2画に書くようになった。「当用漢字字体表」で画数が増えた数少ない例である。
たとえば、「芽」の脚部分の「牙」は4画から5画になった。その他、「雅」「邪」の「牙」の部分が5画になった。同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。
<「牙」を何画にするべきか>
愚見は、「牙」を常用漢字に加える場合、私は、現在の表外漢字のまま、4画にすべきで、「芽」のように、5画にすべきでない。
獣の牙は、するどく尖っており、旧字体こそ、お似合いだ。
だから、当然ながら、「芽」「雅」「邪」「既」の「牙」も、5画から4画に戻すべきだ。
<「牙」を5画とする弊害>
現在、表外漢字の「冴(さ)える」、「穿(うが)つ」、「訝(いぶか)る」、「谺(こだま)」、「鴉(からす)」の「牙」は、4画であり、もし、「牙」を4画から1画増やし5画とすると、これらの表外漢字と「牙」の画数が異なることになり、「牙」をめぐる混乱が解消されないことになる。

(注1)昭和56年10月1日内閣告示第1号で告示された。これに伴い、旧当用漢字表は廃止された。
(注2)正確には、昭和24年(1949)4月28日、内閣告示第1号で告示された「当用漢字字体表」の漢字。

松本十郎の生涯

◎日時:2008年11月12日(水)14:50~15:40
◎会場:札幌市社会福祉総合センター(札幌市中央区大通西19丁目4F大研修室)
◎申込不要:直接会場へ。
受講料:無料
◎テーマ:松本十郎の生涯
◎概要:アツシ判官と呼ばれ開拓判官として活躍した松本十郎の波乱に満ちた生涯を追います。
◎主催:札幌市社会教育協会

なぜ「錦織」を「にしこり」と読むのか。

全米オープンで注目された「錦織」選手の姓は、「にしこり」と読む。
◎これは、反切(はんせつ)読み。

反切とは、漢字の発音表記法のひとつで、漢字の音(読み方)を示すのに、他の漢字2字を借りてする方法のこと。
上の字(父字、音字)の頭子音と、下の字(母字、韻字)の韻を合わせて、その漢字の音を表す。
例1(大辞林)・・「三(さん、SAN)」の読みを表すのに、「思 甘 反」と書く。「思(SI)」の頭子音「S」と「甘(KAN)」の韻「AN」を
合わせて、「SAN(三)」。「反」は、「反切」の意味。

例2(広辞苑)・・「台(たい、TAI)」を「徒 哀 反」と書けば、「徒(TO)」の頭子音「T」と「哀(AI)」の韻「AI」を合わせ、「TAI(台)」

数式にすると、
A=(Bの頭子音)+(Cの韻)

この原理を日本語にも応用し、日本語の語形変化について説明することも行われた。(「大辞林」)

◎「錦織」の場合
1.「錦」は国訓で「にしき」。その3音目の「き(KI)」の「K」と
2.「織」(おり)・・ORIを合わせて
→「KORI」(こり)
→でもって、「にし」+「こり」で、「にしこり」

エトロフ島有萌の戸田又大夫の墓

エトロフ島有萌の戸田又大夫の墓

1. ロシア人のエトロフ襲撃
文化4年(1807)4月23日、ロシア人フヴォストフらは、エトロフ島ナイボ、ママイの番屋を襲撃し、番屋、倉庫を焼き、米・塩・衣類などを
略奪した。いわゆる文化丁卯事件が起こった。
29日には、同島の箱館奉行の会所のあるシャナを襲撃、会所、
南部番屋、津軽番屋などに火を放ち、掠奪をほしいままにした。
2. 戸田又大夫の自殺
当時、シャナ会所の責任者の菊池惣内は、エトロフにたどりついた
陸奥・牛滝村の慶祥丸の漂流民を箱館へ護送のため留守で、
次席の戸田又大夫が指揮を執っていたが、戸田は会所を捨てて退き、
アリモイで自殺した。
3. 品川法禅寺
戸田の墓所についての記録は、私の知る限りなかったが、
札幌歴史懇話会で解読中の幕臣宮崎成身の「視聴草」第7集所収の
「文化丙寅騒動都下風聞」に、記載がある。
読み下しにすると
「戸田又大夫、寺、品川法禅寺のよし、この寺へは、又大夫、
臍(へそ)の緒をしるしに埋め候となり」
とある。品川法禅寺は、北品川宿にある増上寺末の浄土宗の寺院。
「墓所」とは、はっきりと書かれていないが、「臍の緒をしるしに埋め」
たとすれば、「菩提寺」と推測する。
4. エトロフの戸田の墓
「明治大正期の北海道」(北海道大学図書刊行会)に、
エトロフの戸田又大夫の墓の写真が所収されているので、紹介する。
墓碑銘は、縦書き3行で
「文化四丁卯年
 戸田亦大夫藤原常保墓
 五月○○」
と読める。3行目の2文字は、かすれてよくわからない。
なお、この写真には、次のような説明文がある。
「明治廿五年四月廿七日 戸田亦大夫ハ 幕府ノ臣ニシテ 
文化四年五月一日
 露西亜人入寇之際 我兵不振 多クハ遁走スルヲ以テ 
単身奮戦スト雖(いえども)
 勢之挽回スル能ハス 遂ニ有萌山下ノ沢ナカニ入リ 
国恥ヲ思ヒ自刃シテ死ス
 墓ハ 有萌山下海岸丘ニ今尚存ス」
この写真の撮影者は、遠藤陸郎となっている。
遠藤は、明治24~25年にかけて、明治天皇の勅命で
千島探検中の片岡利和侍従に随行した人物。
片岡一行は、明治24年11月17日、エトロフに着き、
シベトロで越年している。
img20080901.jpg

開拓使麦酒醸造所開業式

サッポロビール園の入口に「開拓使麦酒醸造所開業式」の写真を模して復元したモニュメントがあります。
もともとの写真は、北海道大学付属図書館所蔵で「明治大正期の北海道」(北海道大学図書刊行会)に所収されています。

その写真に3段につまれたビール樽に文字が描かれています。「縦書き7行」です。

「麦とホ
 ツプを
 製す連(れ)
 者(ば)ビイ
 ルとゆ
 ふ酒に
 奈(な)る 開業式」

樽の一番下に「開業式」とあります。
ビール園の復元モニュメントにも、きちんと書いてあるのは、さすがとおもいました。

開業式は、明治9年(1876)9月23日のことです。
場所は、札幌市内雁来通(現北2条東4丁目、サッポロファクロリー)です。
「開拓使麦酒醸造所」は、現サッポロビール園ではありません。

なお、明治10年9月のビールの値段は
大びん 16銭
小びん 10銭
です。(新札幌市史)
img20080805.jpgimg20080805_1.jpgimg20080805_2.jpg

開拓使の役割

テーマ・・開拓使の役割

◎日時・・9月16日(火曜)13:30~15:00
◎会場・・札幌市東区民センター
◎参加料・・無料
◎問い合わせ・・森勇二まで
        moriyuzi@poem.ocn.ne.jp
        電話090-8371-8473

等じゅ院と善光寺

◎はじめに

本論では、幕府が東蝦夷地に建立した官寺の設置数と設置場所の決定に至る経過について述べ、さらに、等じゅ院が、
寺号に「善光寺」を希望し、寺院建立地として、有珠の善光寺の場所を要望していたという、
興味深い文書が「等じゅ院文書」にあるので、紹介したい。

一、官寺の設置数の経緯
まず、蝦夷地での官寺の設置数の経緯をたどってみる。

①箱館奉行、「先ず当時一、二ケ寺」建立伺い
蝦夷地へ建立する官寺建立数について最初に言及した文書は、享和二年(1802)1月25日付で、箱館奉行の戸川安論と
羽太正養両名から寺社奉行に提出された伺書に見える。
「東蝦夷地内然るべき場所へ、都合五ケ寺建立の積りを以、
先ず当時一、二ケ寺も取建たく存じ奉り候」(注1)
箱館奉行は当初、一、二ケ寺の建立の伺いをしていた。
②寺社奉行、「先ず当時二、三ケ寺」と達する
箱館奉行の伺いに対し、翌享和3年(1803)正月19日、
寺社奉行・松平康定から次の達しがあった。
「先、当時二、三ケ所相建、追て二ケ所も相建てるべき場所等も、
是又承知致したく候」(注1)
 箱館奉行の「一、二ケ寺」の建立要望が、寺社奉行の段階で、
「二、三ケ所」と、微妙に変化している。
③箱館奉行、三ケ所建立の伺い
 寺社奉行の達しを受けて、箱館奉行は、享和3年(1803)正月、
寺社奉行の達しにある「二、三ケ所」のうち、多い方の「三ケ所」を取り、「当時相建てるべき場所」を進達、
さらに、「追て寺院相建てるべき場所」として二ケ所を寺社奉行へ進達している。
「函館よりヤムクシナ  追て寺院相建てるべき場所  十六里程
 同所よりウス迄    当時建てるべき場所     二拾里余
 同所よりシヤマニ迄  当時建てるべき場所     六十里程
 同所よりクスリ迄   追て寺院相建てるべき場所  五十三里程
 同所より子モロ迄   当時建てるべき場所     三十五里程」(注1)
④三寺に決定
三ケ寺建立が、箱館奉行に達せられたのは、享和3年(1803)11月19日のこと。箱館奉行の伺いが受け入れられたことになる。
「亥十一月十九日、寺社奉行脇坂淡路守面談、蝦夷地寺院五ケ寺の内、
先三ケ寺、此度出来の積り」(注1)

二.建立寺院の宗派について
①天台宗、浄土宗の二宗派
 次に、蝦夷地へ建立する宗派について見る。
享和3年(1803)11月9日の「善光寺文書」の記述に、寺社奉行・脇坂安董から、寛永寺、増上寺へ、住職人撰の達しがある。
「蝦夷地へ寺院御取建て仰出され候間、住職人撰いたし、書出申さるべく候。
 右は、天台宗にて壱ケ寺、浄土宗にて壱ケ寺、外に壱宗の趣に候得共、
未だ治定これ無く」(注2)
この段階で、天台宗、浄土宗の二宗派が決定し、もう一宗派は未定であった。いうまでもなく、天台宗の寛永寺、浄土宗の増上寺は、
幕府の菩提寺であり、幕府に庇護された大寺である。

②三つ目の宗派
享和3年(1803)11月19日には、9日の段階では未定だった三つ目の宗派も
決まったことがわかる。寺社奉行・脇坂安董と面談した
箱館奉行・羽太正養は、次のように聞かされている。
 「住職の儀は、上野、増上寺、金地院にて相撰候由、淡路守、
申聞きかされ候」(注1)

三、官寺の設置場所の変更
 ところで、寺院設置場所については、前述の通り、
享和3年(1803)正月段階では、箱館奉行は、ウス、シヤマニ、子ムロを
予定し、
寺社奉行へ報告したが、文化元年(1804)9月24日に、箱館奉行戸川安論から
寺社奉行・脇坂安董へ、根室から厚岸への変更を申し入れている。
「寺院三ケ寺の儀、先達てウス、シヤマニ、子ムロの積り御掛合申し候処、
右の内子ムロ場所は、住居不勝手にこれ有るべくに付き、
子モロより二十里程手前、アツケシと申す処、格別気候も宜しく候間、
アツケシの方場所に取極め、御掛合申し候」(注1)
 これに対し、翌文化2年(1805)正月15日、奉行・脇坂安董から、
「御書面三ケ寺場所の儀、承知せしめ候」(注1)
と、了解の回答があり、ここに三官寺の設置場所が確定した。

四、寺号の決定
 蝦夷地に建立する寺院数、宗派、設置場所が決まった。
次に、寺号のについて見る。
【書き下し】
「一 同廿七日暁六ツ時出院、観音寺(注3)同道にて、
大久保安芸守殿(注4)内寄合(注5)へ罷出候処、
五ツ時過、寺社御奉行衆御揃、評席に於いて
淡路守殿申渡され左の通り。
       蝦夷地寺院住職秀暁出席、上野執当衆
       円覚院、今度蝦夷地寺院寺号之儀、   
       御老中へ伺之上、伺之通申付候
                    帰 嚮 山
                    厚 沢 寺
                    等 じゅ院
  右仰渡され相済、退去。寺社御奉行衆五軒御礼の為
  等じゅ院廻勤之事。」(注3)

 文化元年4月27日、寺社奉行から、寛永寺に対して、寺号の申し渡しがあった。善光寺文書、国泰寺文書にも、
この日、寺号の申し渡しがあったことが記されている。
五、寺号について等じゅ院のクレーム
【【書き下し】
「一 此度、浄家新寺之寺号、善光寺と相附申候。
  彼等之底意、彼地善光寺之場所へ建立
  仕度志願と推察仕候。若し、左様にも相成候ては、
  元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ候様、
  世上之取沙汰、末々迄遁れ難く存じ奉り候。猶又、
  弥慈覚大師之御開基に相違も之無く候はば、
  恐れ乍、祖師之内鑑にも相叶申すべく哉に存じ奉り候。
  右、愚意之存念荒増申上げ奉り候。以上

     五月朔日       蝦 夷 地
                等じゅ院」

 この文書は、文化元年(1807)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出されたものである
秀暁は、寺号について、「元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ」たことを
「世上之取沙汰、末々迄遁れ難」いと、強い口調で述べている。
この文書を等じゅ院の本山である寛永寺側が、どう取り扱ったかは、等じゅ院文書には見当たらない。いずれにしても、4月27日の寺社奉行の申し渡しが
覆ることはなく、等じゅ院が「善光寺」となることはなかった。

六.建立場所について等じゅ院のクレーム
【書き下し】
「一 蝦夷地箱立より道法三、四拾里の場に善光寺と
   如来安置之堂宇御座候由、承及候。尤、安置之
   時代も不分明の由に候得共、多分、慈覚大師
   之御開基に御座有るべく趣、諸人推察仕居候
   事に御座候。左候得ば、差急候儀は御座無く候得共、
   此度御取建之寺院、彼場所へ建立仕候様
   願上奉り度存じ奉り候。」(注6)

 この文書も、文化元年(1804)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出された文書である。
「箱立より道法三、四拾里の場に」ある善光寺は、「多分、慈覚大師の御開基」であると、「諸人推察」しているので、「此度御取建の寺院」、
つまり、等じゅ院は、「彼場所」、善光寺のあるウスへ建立したいとの
願書である。
 いうまでもなく、「慈覚大師」は、平安期の天台宗山門派の祖・天台座主円仁の謚名。
であれば、天台宗の等じゅ院は、当然、そのウスの地に建立したいという願いである。

七.等じゅ院の願い、聞き入れられず
 等じゅ院をウスの地に建立したいという等じゅ院の願いについても、本山の寛永寺が、どう扱ったかは不明であるが、
願いは叶わず、結局、等じゅ院は、シヤマニの地に建立されることになった。
 場所割について、箱館奉行と寺社奉行の間のやりとりについて、
「休明光記」から、その経過を拾うと、
・文化元年(1804)9月24日、箱館奉行戸川安論から寺社奉行脇坂安菫に対し、「三ケ寺就職場所等之儀は、其方にて御申渡され候儀と相心得申候」と、
場所割は、寺社奉行の権限であると心得ている旨の達しを出している。
・これに対し、寺社奉行脇坂安菫は、翌文化二年(一八〇五)正月十五日、「住居之場所、名前御割付、申聞され候様致し度候。地理不弁之事故、
拙者方にても取極難く、傍々御懸合に及候。御答次第、
猶伺之上取計申すベく候」と、場所割を、箱館奉行が提案するよう、付札している。
・これを受けて、箱館奉行は、「蝦夷地住職場所割」を提出した。
次は、「等じゅ院第一巻・蝦夷地寺院一件記」の一節である。
【書き下し】
「              蝦夷地住職場所割
箱館より道法九拾六里余           天台宗 
     シヤマニ               等 じゅ 院
                            秀暁
同所より道法三拾六里余           浄土宗
     ウス                 善 光 寺
                            荘海
同所より道法百六拾七里余          五山派
     アツケシ               国 泰 寺
                            文翁
右之通に御座候 以上
     丑 正月                      」

◎まとめ
 以上のように、官寺の設置数、設置場所の決定に至る経過を見てきた。
なかでも、等じゅ院が、寺号、設置場所について、「善光寺」にこだわり、クレームをつけたことは、興味深い。
 終わりに、なぜ、「善光寺」にこだわったのか、いわゆる「信濃善光寺」について、文献をひも解いてみる。
 「善光寺」といえば、信州長野平にある定額山善光寺。善光寺の建立について、「日本仏教辞典」によると、「善光寺古縁起」を引いて、
建立は皇極天皇元年(六四二)という。江戸時代の善光寺の宗派については、「大勧進別当(天台宗)と大本願上人(浄土宗)両人が寺務を行ったが、
寛永二十年(一六四三)善光寺が東叡山寛永寺の直末となり(中略)
以後大本願上人の寺務職に変わりはなかったが、大勧進別当が寺務表役とな」ったとある。信濃善光寺は、天台、浄土両派が管理していたが、蝦夷三官寺建立の文化年間は、天台宗が表役であり、等じゅ院の本山である寛永寺の末寺になっていた。
 このことは、等じゅ院初代住職・秀暁の前述の願いの基礎になっていたと推測する。

(注1)「休明光記」(「新撰北海道史第五巻史料一」所収)
(注2)「蝦夷地御取建並住職交代一件記」(「蝦夷地善光寺日鑑・解読第一巻」所収)
(注3)「観音寺」・・秀暁のこと。秀暁は当時、寛永寺末の上総国芝山(現千葉県山武郡芝山町)の観音寺(正式には天応山福聚院観音教寺観音教寺)の住職であり、観音寺の住職のまま、等じゅ院住職も兼務することになる。
(注4)大久保安芸守・・寺社奉行大久保忠真(ただざね・小田原藩主。享和四年一月から寺社奉行)
(注5)内寄合・・寺社奉行の定例会議。毎月六日、十八日、二十七日に行われた。
(注6)「等じゅ院住職記」(「等じゅ院文書第三巻」所収)

【示(しめす)偏について】

【示(しめす)偏について】

<はじめに>

私は、漢字に関して、阿辻哲次著「部首のはなし」(中公新書)から大きな示唆を受け、また共感もしています。
この小論は、主として前掲書を参考にし、私自身の勉強を加味して書いたものです。

1.新字体の「ネ」偏と旧字体・表外漢字の「示」偏

「しめす偏」の文字は、4画の「ネ」と、5画の「示」の部首にある。漢和辞典の部首索引にも、この両方が載っている。
なぜかというと、昭和24年に「当用漢字字体表」(以下「新字体」)が制定され、それまでの旧字体では、5画の「示」偏だった文字を、「示」の草書体である4画「ネ」の形が採用されたため、当用漢字の4画の「ネ」偏の文字と、当用漢字に採用されてない表外漢字の5画の「示」偏の文字の両方が含まれることになったのである。



2.5画の「ころも」偏との混同

5画の「示」が、新字体で4画の「ネ」になったため、従来からの5画の「ころも」偏との混同が児童・生徒の中で起きることになった。
阿辻氏は「<示>を<ネ>にすることにいったいどのようなメリットがあったのだろうか。 わずか5画で書ける<示>は決して複雑な字形でないし、それを<ネ>と書いたところで、わずか一画しか減らないのである」と疑問を投げかけ、「<示>のままなら、<しめすへん>と<ころもへん>の混同は絶対に起こらなかったにちがいない」と、鋭く指摘している。
たとえば、「よゆう」の「ゆう」、「かっ色」の「かつ」の偏は、どっちなのか、おとなでも迷う。

3.「示」の意味

「しめすへん」の漢字に、「祈」「神」「禅」「社」「祖」「祭」など、神に関係する字が多い。
それは「示」はもともと古代の祭祀で使われた机をかたどった象形文字で、神を祭る時、天上におわす神が着席する机が必要であり、「示」は、神を招くための机という意味から、神や祭りに文字は多く収められている。

3.「しめすへん」の文字
漢和辞典から、いくつか、「しめすへん」の文字の解字をあげる。

・「礼」(旧字体は「禮」)・・つくりの「豊」は、あまざけの意味で、甘酒を神にささげて幸福の到来を祈る儀式の意味を表す。
・「社」(旧字体は、「示」+「土」)・・農民が共同して祭る農耕地の神の意味。
・「祝」(旧字体は、「示」+「口」+「儿」)・・「儿」は、人のひざまづく形で、「口」はいのりの言葉。幸福を求めていのる・いわうの意味。
・「神」(旧字体は、「示」+「申」)・・つくりの「申」は、かみなりの象形で天の神の意味。日本語で「かみなり」は、「神が鳴る」から転じた言葉。
・「禁」・・「示」+「林」で、林におおわれた聖域の意味から、とじこめる、いみさけるのの意味を表す。

・「福」(旧字体の偏は「示」)・・つくりは、神にささげる酒のたるの象形。神に酒をささげ、しあわせになることを祈るさまから、さいわいの意味をあらわす。
このように、「しめすへん」の文字は、神に関する意味が含まれている。
だから、新字体の「ネ」は、「示」の本来の意味を損ねてしまったことになる。

4.弊害を免れた表外漢字
「しめすへん」の文字で、表外漢字は、この弊害を免れた。たとえば、
「祀(まつ)る」「祠(まつ)る・ほこら・やしろ」「祓(はら)う」「禊(みそぎ)」など、偏は「ネ」でなく、本来の「示」のままだ。
また、「祭」「禁」など、偏でなく、あしにある「示」も、難を免れた。

5.「しめすへん」でないのに、被害を受けた文字
「視」は、旧字体では偏は、「示」だった。「視」は、もともと、「しめすへん」でなく、「見(みる)」部だが、新字体で、「示」が「ネ」になってしまった。

<まとめ>

「示」から「ネ」へのわずか一画の簡素化は、こどもたちに、しなくてもよい苦労を強いていることになった。
私は、旧字体主義者ではないが、漢字のもつ本来の意味が失われるような簡素化は、漢字文化の国に住み、日々、漢字に接しているものとして、悲しいことだと思う。

「母」


漢字の話です。

1.「母」の解字(漢字の意義を解明すること。文字の成り立ちを分析すること)
 「女に二点を加えて、ははの意味を示す」(漢語林)。「乳房をつけた女性を描いたもので、子をうみ育てる意味」(漢字源)

2.「母」の部首と画数
 「毋(なかれ)」部。「毋」は4画だが、「母」は5画。

3.新字体で、「母(はは)」が「毋(なかれ)」になった例
・「」(6画)・・旧字体は、「母(はは)」で7画。解字は「頭に髪を結った母」で、次々と子をうむことに重点をおいたことば。
・「」(10画)・・旧字体は、「母(はは)」で、11画。解字は「多くの実をならせ、女の安産を助ける木」
これらは、画数でわずか1画減らしただけで、その漢字の持つ意味が失われてしまった。
・その他・・「海」「繁」「敏」「侮(あなど)る」「悔(く)いる」「晦日(みそか)の晦」など、旧字体の「母(はは)」は「毋(なかれ)」になった。

4.「母」が残った表外漢字
新字体は、昭和24年に当用漢字1850字のうち、約400字を簡略した文字だが、幸いにして、当用漢字に採用されなかった「母」を含む漢字は、その害を免れた。
・「苺(いちご)」・・「ちくびのような形の実になるいちご」(漢語林)。「艸(くさ)」+「母(はは)」で「どんどん小株をうみ出す」(漢字源)
・「拇(おやゆび)」・・「手」+「母」で、子どもに対する母のような、ふとい指。
・「栂(つが、とが」・・拇指(おやゆび)大の果実のつく木。
・「教誨(きょうかい)」などの「誨」

5.もともと「毋(なかれ)」だった漢字
ややこしいことに、もともと、「毋(なかれ)」だった漢字がある。「貫禄」などの「貫」。「習慣」などの「慣」、「毒」などは、もともと、「母(はは)」でなく、「毋(なかれ)」だ。

◎まとめ
「毎」「梅」などの新字体は、残念なことに、漢字本来の意味を失ってしまった。当用漢字に採用されず、その難を免がれた「苺」をうれしくおもう。

「辻」と「迷」と「謎」

【辻、迷、謎】

◎しんにゅうの旧字体
「しんにゅう」の旧字体は、4画。
もともと、しんにゅうは、「彳」と「止」の会意字で、7画。漢和辞典の7画の見出し字となっている。

「彳」は、「行く」、つまり、「道路」の意味があり、「止」は足、足跡を示し、しんにゅうの原型。それが、漢字の「繞(にょう・かこむの意)」になるときは、4画に略す。
阿辻哲次氏は、「部首の話」(中公新書)で、旧字体のしんにゅうの点が、2つあるのは、その第1画と第2画をそのままに残すべきと考えた結果だろうと、述べている。

◎しんにゅうの新字体
ところが、新字体(注1)で、しんにゅうが、点1つの3画になった。そのため、混乱が起きた。
つまり、
・当用漢字(現常用漢字)にあるしんにゅうは、点1つの3画。
・当用漢字でない漢字(表外漢字)のしんにゅうは、点2つの4画。

◎辻、迷、謎

・この3字のうち、
・常用漢字は、「迷」
・「辻」と「謎」は表外漢字。
・しんにゅうに関しては、「迷」が3画、「辻」と「謎」が4画。

・「謎」は、「言」偏(ごんべん)+「なぞ」だが、その「なぞ」のしんにゅう部分は、4画(点2つ)であり、3画(点がひとつ)ではない。

◎いいたいこと
・「迷」は、常用漢字だから、しんにゅうは、点1つの3画。
「迷」のしんにゅうは3画だが、「謎」は、常用漢字でないから、旁(つくり)の「まよう」部分のしんにゅう部分は、3画でなく4画。
・新字体で、しんにゅうの点を1つにして、3画としたことが、表外漢字との間で混乱のもとになっている。わずか、1画減らしただけなのに・・。


(1)新字体とは、昭和24年(1949)4月28日 内閣告示第1号の『当用漢字字体表』で提示された標準字体に対する呼称。

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

1.「芽」の新字体

新字体(注1)で「芽」の字の脚は、4画の「牙」から、5画に変わった。(私のパソコンに5画の「きば」の字がない。)
要するに、新字体では、「牙」の2画目(「ノ」と「一」を一気に1画で書く)が、2画目、3画目にばらされた。
新字体で、画数が増えた例である。
ところが、「牙」は、当用漢字(現在の常用漢字)でないから、4画のままである。
・「芽」のほかに、「牙」を含む字で当用漢字の「雅」「邪」の偏も新字体で、4画から、5画になった。
同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。
・一方、当用漢字でない「冴(さ)える」の「冴」、「穿(うが)つ」の「穿」、「谺(こだま)」「鴉」などの「牙」は、4画のままになっている。

2.なぜ、「芽」の脚を問題にするのか。
私は、以前にも、此の問題に触れた。
今日、我が家の庭に土と雪を割って出てきたチューリップの「芽」を見た。写真をご覧ください。
鋭い「牙(きば)」である。土と雪をはねのけるには、ものすごいエネルギーが必要だっただろう。
それには、「牙」が、なくてはならない。「芽」の脚は絶対に4画の「牙」でなければならない!
なぜ、国語審議会が、新字体で、わざわざ画数を増やしたのだろうか。
先の「内閣告示」には、「字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である」とある。
しかし、この「芽」などの画数増加は「字画の複雑さ」を促進させたに過ぎないと思う。
img20080323.jpg

力強く「芽」を出したチューリップを見るにつけ、改めて小論を書いた。


(1) 新字体・・正式には、昭和24年(1949)4月28日、内閣告示第1号で告示された「当用漢字字体表」という。
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

drecom_moriyuzi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ