森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

1.「芽」の新字体

新字体(注1)で「芽」の字の脚は、4画の「牙」から、5画に変わった。(私のパソコンに5画の「きば」の字がない。)
要するに、新字体では、「牙」の2画目(「ノ」と「一」を一気に1画で書く)が、2画目、3画目にばらされた。
新字体で、画数が増えた例である。
ところが、「牙」は、当用漢字(現在の常用漢字)でないから、4画のままである。
・「芽」のほかに、「牙」を含む字で当用漢字の「雅」「邪」の偏も新字体で、4画から、5画になった。
同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。
・一方、当用漢字でない「冴(さ)える」の「冴」、「穿(うが)つ」の「穿」、「谺(こだま)」「鴉」などの「牙」は、4画のままになっている。

2.なぜ、「芽」の脚を問題にするのか。
私は、以前にも、此の問題に触れた。
今日、我が家の庭に土と雪を割って出てきたチューリップの「芽」を見た。写真をご覧ください。
鋭い「牙(きば)」である。土と雪をはねのけるには、ものすごいエネルギーが必要だっただろう。
それには、「牙」が、なくてはならない。「芽」の脚は絶対に4画の「牙」でなければならない!
なぜ、国語審議会が、新字体で、わざわざ画数を増やしたのだろうか。
先の「内閣告示」には、「字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である」とある。
しかし、この「芽」などの画数増加は「字画の複雑さ」を促進させたに過ぎないと思う。
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力強く「芽」を出したチューリップを見るにつけ、改めて小論を書いた。


(1) 新字体・・正式には、昭和24年(1949)4月28日、内閣告示第1号で告示された「当用漢字字体表」という。

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座
↓です。


http://www.hokkyodai.ac.jp/area/extension-lecture-03-01.html

開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

◎報告の要旨
 本報告では、北海道開拓に入った羽越地方の移民の取扱いに関して、開拓使の担当部局の伺いの内容について考察し、開拓使の移民政策の一環を述べたい。

1.羽越からの庚午移住民の概況
明治2年12月、開拓使は酒田県(明治2年7月成立、酒田を中心とする庄内地方の旧幕領、旧藩没収地を管轄。後、山形県)に対し「今般当使本府石狩へ御取建ニ付、札縨辺追々開墾ノ積、就テハ羽越国ノ内ヨリ農民男女三百人程移住為致度、此段申入候也」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)と、移民募集を依頼した。
「新札幌市史」にその経過が記載されている。要約すると、開拓使は、羽越地方(今の山形、新潟県)へ小貫直和権大主典、平田弥十郎少主典を派遣し、移民募集に当たらせた。
応募した農民は、翌3年3月から4月にかけて新潟、酒田を出発し、石狩を経て札幌に向い5月には土地割渡しを受けている。
以下、移民の入居先と人数は、次の通りである。村名は、明治3年が庚午年であることに由来する。(  )は、明治4年5月21日に改称された村名。
<山形移民>
・庚午一の村(苗穂村)36戸120人
・庚午二の村(丘珠村)30戸90人
・庚午三の村(円山村)30戸90人
<新潟移民>
 ・庚午四の村(札幌村)22戸96人

2.羽越移住民への移住手当
 先の「部類抄録七」は、「移住御手当向」として、次の内容が記されている。
① 出立当日ヨリ御賄
② 支度御手当男女小児共一人ニ付金三両
③ 家一軒、鍋二枚、蒲団一人ニ付二枚ツゝ
④ 一日金一朱ツゝ
⑤ 玄米一人ニ付五合ツゝ
⑥ 農具
 一方、「開拓使事業報告第2編(勧農)」には、各村への移住に対する扶助についての記事があり、例えば円山村への移住者について明治3年の項に「六月家屋及扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とあり、苗穂村移住者についても同年4月の項で同様の記事がある。また、丘珠村の項でも「五月耕地ヲ下付シ扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とある。
「例規ノ如シ」とは、何を指すのだろうか。前記「開拓使事業報告」によると、開拓使は、前年の明治2年11月、「仮に移住扶助規則を定め」(いわゆる「移住扶助仮規則」)ているから、この「仮規則」を指していると思われるが、先の「部類抄録七」の「移住御手当向」を比較すると、相違が見られる。

3.羽越移住民取扱方伺書
明治2年12月の羽越移住民への「移住御手当向」の内容は、「移住扶助仮規則」と比べてきわめて大雑把であるが、実際には、もっと細かな内容であったことが、「羽越移住民取扱方伺書」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)から、推測できる。
この伺書は、明治3年7月2日、開拓使開墾掛・荒井龍蔵から提出されている。(道立文書館所蔵「明治三年同四年書類」。以下「荒井意見書」という)この伺いは、移住民の待遇改善の要請といえる。以下、その内容を述べる。
①諸品代金の返済について・・日当引去は、「活計相立申間敷・・当地へ移住一銭の操合モ仕兼候儀ニ付、実以テ困窮仕候」。したがって、「諸品代金ノ儀ハ、冬仕事ヲ以テ為仕可申」
②玄米の扶助について
イ.「玄米五合」は、「農夫一人前ノ者ニ男女共食料、迚モ足合不申・・十五歳以上ノ男女ハ別段二合五勺ツゝ拝借被仰付度、独身ノ者ハ5合ツゝ来未年8月迄別段被仰付候様仕度」と要望している。
ロ.7歳未満の者へは1日3合づつだが、「聊四十余人」であり、一人2合減らしても1年で3石2~3斗だけで、平均5合扶助すれば「一統ノ人気ノ宜敷、一入難有」としている。
③農具について
イ.1軒に鍬、鎌、鐇、1丁づつという農具の給与は、「男女共十四歳以上ハ、人別ニ被下候様」、また、婦人へは、「鐇(注1)ヲ鉈ニ御替御渡被下度」と細かなことまで要請している。
④木綿などの貸付願い
⑤鉄炮・玉薬の貸付願い・・「開墾場ノ義ハ・・猛擒類は勿論、鹿多、甚当惑・・壱ケ村に鉄炮弐挺ツゝ、玉薬共御貸し被下度」と要請している。
⑥病人対策として食料備え願い・・「最早九人程死亡・・六十人余モ打伏罷有・・一向食付不申候ニ付、饂飩、素麺、白玉、或ハ梅漬ノ類・・何卒病人為食料掛ヘ御備被下度」と、要請している。
⑦開懇掛の充実について・・「荒井意見書」は、開墾掛は、開墾地の「最寄ニ詰合」すべきで、そのため、塩噌など諸品を備え置く蔵を開き役邸を取建てるよう要望し、また、開墾掛専任の大主典を人撰してほしい旨上申している。
⑧開墾場の用水確保のため、フシコサツホロ川の切開と本府からの新堀の開削を要望している。

 この「荒井意見書」は、移住民の窮状を知り、待遇改善を上申する官吏の心情が伺える。

4.明治3年12月布達の「移民規則」
 開拓使は、明治3年12月、5項目からなる「移民規則」を新たに定めている(「開拓使事業報告第2編(移民)」)。そのひとつに「来未年ヨリ三ケ年間一人前一日玄米七合五勺、一ケ月金二分ツゝ被下候事」とある。前年11月の「仮規則」が、「15歳以上玄米5合」であったのに比べ、年齢別の扶助区分はなく、しかも、一人当たり、2合五勺増加させている。これをみる限り、玄米の扶助に関しては、「荒井意見書」が生かされ、改善されたことになる。彼の他の要請がどのように受け入れられたか、または受け入れられなかったかは、今後の課題としたい。

◎おわりに
 本来、与えられた資料全体や、更に移民関係の資料を読み、関連文書も読み解き、開拓使の移民計画の実態を考察すべきだが、私の力量不足で、「羽越移住民取扱方伺書」(「荒井意見書」)を要約するにとどまったが、北海道開拓の初期に、開拓使が募集した移民に対する待遇に関して、その改善を要望した官吏がいたことに、私は注目し、その内容を紹介した。
 「移民扶助仮規則」や「移民規則」と、入植者への個々の対応の実態について、今後、機会があれば、検討を加えていきたい。

(注1)鐇=たつき。たつぎとも。工人の用いる広い斧(広辞苑)

【北という字】

【北という字】

◎知人と漢字の話をしていて、「北って、暗いイメージですね。敗北っていいますしね」といわれた。

◎漢和辞典を引くと、「北」の甲骨文は、二人の人が背を向けている会意文字でそむくの意味を表し、転じてにげるの意味を表す。
用例として、「史記」「三戦三北」を挙げ、「三たび戦い、三たび北(に)げる」と読み下している。「北」に、「にげる」「そむく」の訓読みがあるという。
また、人は明るい南面を向いて坐立するのを好むが、そのとき背にする方、寒くていつも背を向ける方角、きたの意味を表すとある。

◎「敗北」は、東や西ににげても、敗れてにげること。
「降北(こうほく)」は戦争に敗れてにげること。「遁北(とんほく)」は、「遁」も「北」もにげることで、にげ走るの意味。

◎「北」を含む文字に「背」がある。
「月(にくづき)」に「北」で、肉体のせなかで、転じて「そむく」の意味を表す。「背信」「背任」「背反」などの熟語がある。

◎私が重宝している「部首のはなし」(阿辻哲次著 中公新書)に「北」に関して中国の笑話が載っているので紹介する。

・結婚した男性に、翌日、悪友が集まってきて「夕べはどうだった?」とからかうと、男は指で地面に「北」の字を書いた。
・2日目の朝、友人からの同じ質問に対しては、「比」という字を書き、
・3日目の朝、しつこく同じ質問を発する悪友たちに対し、にやにやしながら、「臼」という字を書いた。

さて、この解釈は、みなさんにお任せする。

◎寒くて暗く、逃げたくなるような、「北国」にも、もうやく春がきた。
小鳥たちが、さえずりあっている様子は、漢字1字で表せば、さしずめ、「臼」があてはまるかも。

雛考

雛考

今日は、桃の節句。新聞のコラムなどにいろいろと書かれていますが、私流の「雛考」を書きます。

1.桃の節句

・いうまでもなく、5節句のひとつ。
5節句は、「人日(じんじつ)」「上巳(じょうし)」「端午」「七夕」「重陽」の5つ。
・「上巳」とは、陰暦3月の最初の「巳」の日のこと。
新暦の3月3日になってから、「重三(ちょうさん)」ともいう。
なお、「人日」は、陰暦正月七日の「ななくさ」をいう。

2.「雛」の字

①多くの人は、「雛」の字をこの時期しか見ないし、まして、このケイタイ・パソコン時代、ほとんど書かないし、書けない。
試しに「雛って書ける?」って周りの人に聞いてみてください。
「雛」は、平成2年にやっと人名漢字になった。
ちなみに、人名漢字は正確には、「戸籍法施行規則別表第二」の「人名用漢字別表」の漢字をいう。現在、983字が指定されている。

②「雛」の部首は、「隹(ふるとり)」部。

「とり」意味の部首は「鳥」「隹」「酉」と3つあり、まぎらわしいので、部首の読み方が区別されている。
・「酉」は、「ひよみのとり」「さけのとり」という。
「ひよみ」は「日読み」、つまり、「暦」のことで、「酉」は十二支の10位、方角は西、時刻は午後5~7時の間、季節は仲秋8月にあてる。
「さけのとり」というのは、「酉」は、もともと、酒器の象形で、この部首の漢字は、空を飛ぶ動物の「とり」を表す字はなく、「酒」「酌」「酔(よ)う」「醒(さ)める」「酎」「醸(かも)す」など、「酒」に関する字が多い。

なお、「医」(部首は「はこがまえ」)の旧字の「醫」は、「酉」部で、治療に酒(薬)を使ったことを示す字で、「医」では、意味不明だ。
・さて、「隹」だが、1字で、「尾の短いとり」の意味がある。甲骨文を見ると、ずんぐりした小鳥に見える。「小さい鳥」といえば、「雀(すすめ)」。「小」と「隹」の組み合わせだ。
また、「雁(がん)」の部首は、「がんだれ」でなく、「隹」部だ。「がんだれに雁がいない!」ことになる。
・「隹」の部首を「ふるとり」という。
「旧」の旧字「舊」の真ん中の「隹」をとって、「ふるとり」という。
ところで、「舊」は、「隹」の部首でなく、「臼(うす)」部だからややこしい。
・さてさて、「雛」の字だが、右側の「芻」は、「走」に通じ、こばしりする意味で、「こばしりするとり」から「まだ飛べないとり」、つまり、「ひな」の意味を表す。
また、転じて「小さい」「かわいい」という意味にもなり、「雛菊」「雛形」などという熟語に使われる。
・「雛」を使った熟語に「雛鳳(すうほう)」がある。「おおとりのひな」、転じて「将来有望な少年」のたとえ。私は、かって、紅顔の美少年のころ、「雛鳳」といわれた・・わけがない。

◎武士社会の官位

◎武士社会の官位
・律令官位は、律令制が崩壊し、実質的な意味が無くなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。徳川幕府は、官位を武士の統制の手段として利用した。「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離し、武家の官位の任命者は事実上将軍とした。
その「官位」部分を「官途名(かんとめい)」という。
たとえば、「南部大膳大夫利敬(としのり)」の「大膳大夫」部分、「松前若狭守章広」の「若狭守」部分が、官途名である。
律令時代は、「大膳大夫(だいぜんのだいぶ)」といえば、実際に、「大膳職」という役所の「大夫(だいぶ、長官)」であったが、武士社会では、単に、みずからを権威づけのための官途名に過ぎない。
「若狭守」も、律令時代は、実際に「若狭」国の「守(かみ、長官)」であったが、松前藩主を権威づける「官途名」に過ぎない。
◎明治政府も利用した官位
・明治政府も律令時代の官位を利用した。
・律令時代、「民部省」「兵部省」などという役所である「省」の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に「卿(かみ)」「輔(すけ)」「丞(じょう)」「属(さかん)」といった。なお「輔」「丞」「属」には、それぞれ大少があり、「大輔」「少輔」と細分化されていた。
・明治政府は、これを使い、「省」の官名を「卿(きょう)」「輔(ふ)」「丞(じょう)」「属(ぞく)」と読んだ。たとえば、「内務省」の場合、大久保利通「内務卿」、大山巌「内務大輔」というたぐいである。
◎開拓使の職名について
ついでながら、明治政府の開拓使の官位を述べておく。
・律令時代、「勘解由使(かげゆし)」などの「使」の役所の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に、「長官(かみ)」「次官(すけ)」「判官(じょう)」「主典(さかん)」と読んだ。これも「判官」「主典」には、大少があった。
・開拓使の職名もこの官位を使った。読み方は、「長官(ちょうかん)」「次官(じかん)」「判官(はんがん)」「主典(しゅてん)」と音読みに変わった。黒田清隆「開拓長官」、松本十郎「開拓判官」というたぐいである。

官職名としての国司

官職名としての国司
◎はじめに
ある研究会で、「淡路守、出羽守などというが、淡路とか、出羽などの国によって位の上下あったのか」という質問が出された。
官職は、律令時代と江戸時代では、大きく異なるので、まとめてみた。結論からいうと、律令時代は、由緒ある正式な職で、名前によりランクが付けられていたが、江戸時代の大名や幕吏が国司などの官職を名乗る場合は、形骸化し、名前による上下はなくなっていた。

Ⅰ.律令時代(大化改新後~奈良時代・平安前期まで)
別紙添付の表は、「官職要解」(和田英松著、講談社学術文庫)である。これを見るとわかるが、もともと、律令制では、国は、大・上・中・下の4等に分けられていた
1. 4等級は、何を基準に分けられたか。
・和田英松氏は、前掲書のなかで、「詳細のところはわからない」としながら、諸文献を引用し、「住民の多少、開墾が行き届いておるかおらぬかによったので、つまり、国庫収納の多少をもとにして定められたものらしく思う」と述べている。
2. 律令時代の国司の官職
・国司(こくし)は、国々を収める役人で、「クニノツカサ」ともいわれた。京都の役人を「内官」といったから「外官(げかん)」ともいわれた。
・国司が政務をとるところを、「国府」とか「国庁」などと呼ばれた。
・国司長官は「守(かみ)」、次官は「介(すけ)」、以下「掾(じょう)」「目(さかん)」「史生(ししょう)」があった。
さらにいえば、「守」の下に「権守(ごんのかみ)」があり、「掾」「目」には、大少があったから、全部の官職を上から並べると、
守、権守、介、大掾、少掾、大目、少目、史生という順になる。
・なお、諸国のうち、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)は、親王の任国であったので、長官を太守(たいしゅ)といった。したがって、この3国では、もっぱら「介」が政務をとっていたから、この3国の「介」は、「守」ともいった。
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札幌近郊の村々のなりたち

◎はじめに
・札幌の発展の基礎を築いた人々をまとめてみた。
・なお、昭和45年(1970)100万人突破。47年(1972)政令指定都市となる
現在(2008年2月1日)、868,415世帯1,895,581人

1. 江戸時代のサッポロ・・商場とサッポロ七場所
・寛文9年(1669)・・ハツシャブ、サツホロ(津一統志)
・元禄12年(1699)・・「沙津保呂(サツホロ)」が、松前藩家臣の谷梯(やつはし)倉右衛門、高橋五右衛門の支配地でアイヌとの商場となっていた。交易品は、サケ、タカの尾羽、熊胆、毛皮など
・宝暦5年(1755)・・飛騨屋久兵衛が松前藩に運上金を支払い、伐木を始めた。札幌川(伏古札幌川と豊平川が連絡)をさかのぼって、マコマナイを越え漁川上流で伐木、杣夫は二百人前後の和人。
・寛政年間(1789~1801)には商場の整理され、イシカリ13場所と称され、サッポロ7場所(ハッシャブ、下サッポロ、上サッポロ、下シノロ、上シノロ、下ツイシカリ、上ツイシカリ)といわれた。アイヌ戸口は58戸・262人。
・文化4年(1807)の状況・・アイヌとの交易・商場としての札幌。
ハツシャブ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ34人
下サツポロ・・請負人京極屋喜兵衛、アイヌ119人
上サツポロ・・請負人浜谷甚七、アイヌ187人
シノロ・・請負人筑前屋清右衛門、アイヌ125人
ナイホウ手場(直領)・・請負人梶浦屋吉平、アイヌ28人
上ツイシカリ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ106人
下ツイシカリ・・請負人直次郎、アイヌ不明
合計約600人のアイヌの人々の集落があった。運上金合計375両
・サッポロは、石狩川支流の商場でしかなかった。
・しかし、ロシアの北方進出で、石狩地方は、箱館と樺太の中間基地として重視されるようになった。
2. 札幌越新道の開削
・近藤重蔵のサッポロ本府論・・ロシアに対峙するには、「イシカリ川筋カバト山、浜通りタカシマ、ヲタルナイの奥、またはサッポロの西テンゴ山の辺りに拠点を置くのがいいと意見を述べている。
札幌に着眼した点からも重蔵は、札幌創建の基石おいた人物といえる。
・安政4年(1857)札幌越新道(銭函~星沖~発寒~豊平~島松~勇払)の開削。銭函道(銭函~豊平)、千歳道・千歳越(豊平~勇払)とも。
→札幌が陸上交通の要衝(ようしょう)となった。
・松浦武四郎の石狩建都構想・・近藤重蔵の石狩建都の構想を具体化しようとして、ツイシカリから3里ほどさかのぼった豊平あたりを絶好の場所と考え、アイヌの乙名にも相談のうえ、箱館奉行に進言した。「そこに本府がおかれれば、そのうち、石狩川河口は大阪のように繁盛し、10里さかのぼったツイシカリは伏見に匹敵する土地となり、さらに川舟3里のぼった札幌は京都と同じになろう」と考えていた。
3. 村落の形成
① ハッサム(発寒)村
・安政4年(1857)イシカリ在住武士の入地の中心地。リーダー秋山繁太郎らが入る。
・在住制・・手当を支給される武士が農民を募集し、開拓した土地は在住がいる限り永久に給与されることを骨子とした制度。
・明治3年(1870)発寒村となる。26戸
・明治5年(1872)手稲村を分村。
・明治9年(1876)屯田兵村がつくられ32戸入植。養蚕も盛んに行う。
・明治20年(1887)琴似から小樽内川まで新川を造成。
・明治39年(1906)琴似村に併合、琴似村の大字となる。
② 琴似村
・明治4年(1871)辛未一の村に入植した東本願寺住民が入植、50戸182名が八軒、十二軒、二十四軒分かれて集落を形成。
・明治8年(1875)青森、宮城、酒田各県の士族など198戸965人が移住、屯田兵村を形成。20,21年には、更に220戸が移住し新琴似兵村がつくられる。
・明治39年(1906)発寒村、篠路村の一部をもって2級町村琴似村が成立
・昭和17年(1942)手稲村大字下手稲村の一部を編入、琴似町となる。
・昭和30年(1955)札幌市の一部となる。
③ 篠路村
・安政6年(1859)石狩在住の荒井金助がシノロ地域で農民を募集して開墾、「荒井村」が成立。福島・白河藩の職人・早山清太郎が開墾に入る。(上荒井村、下荒井村に分けて把握されていた)
・在住・中嶋彦左衛門もコトニ川支流のケネシベツ川に入植。農民を募集し、「中嶋村」が成立。
・明治4年(1871)、上荒井村、下荒井村、中嶋村を合わせて篠路村と呼称するようになった。「十軒」集落・・南部盛岡藩士10戸が入植。
・明治15年(1888)、福岡県人の開墾社が入植。「福移」集落の形成。
・同年、興産社、徳島から入植。藍耕作を始める。「あいの里」
・明治22年(1889)、屯田兵村220戸。福岡、熊本、山口、徳島、和歌山、福井、石川56県から入植。
・明治39年(1906)2級町村篠路村が誕生。
・昭和30年(1955)札幌市に編入。福移の一部は、江別市に編入。
④ 手稲村
・明治5年(1872)、仙台・白石藩の伊達邦憲(くにのり)家臣600人のうち、藩士三木勉らが、54戸240人が発寒村に移る。手稲村を設置。7年(1874)星置方面が下手稲村に分村、本村側は上手稲村と改称。
⑤ 山口村
・明治15年(1882)山口県から17戸が移住をはじめとして明治27年ころまで、移住が続く。
・明治35年(1902)下手稲村、上手稲村、山口村がいっしょになり「手稲村」となる。
・昭和26年(1951)町制施行して「手稲町」になる。
・昭和42年(1967)、周辺町村では最も遅く札幌市に編入。
⑥ 札幌村
○札幌元村
慶応2年(1866)石狩在住の大友亀太郎はフシコサッポロ川上流の地に御手作場といわれる開墾場を設置、4年にかけて23戸95名、更に明治2年(1869)に、4戸11名が入植。
○庚午一の村(のちの苗穂村)・・庄内藩の坂野元右衛門組36戸120人が入植。
○庚午二の村(のちの丘珠村)・・酒田県人今野徳治組44人、一戸直吉組51人の30戸
○庚午四の村(のち札幌新村)・・明治3年(1879)開拓使が柏崎県から募集した農民22戸96人を入植させた地。原伝左衛門組22戸96人。
ほかに、岡田忠兵衛組59人。

*明治3年(1870)、庚午(かのえ・うま)の年にフシコサッポロ川の両岸に定着した募移民は88戸308人。(「まちの歴史講座」)

○雁来村・・明治4年(1871)宮城県人岡田三郎右衛門組24戸(3戸は生降、21戸が江別の対雁に入植)→6年、豊平川左岸(苗穂駅東の自衛隊駐屯地から北13条大橋にかけての地)に移転、開拓使は雁来村と命名。

*明治3年(1870)から7年にかけて、107戸360~370人の募移民と、御手作場の人たち、自移民、アイヌの人たちが一体となって、今の東区の村づくりが進められた。(「まちの歴史講座」)
*明治35年(1902)、これらの村々がいっしょになって2級町村・札幌村が誕生。
*昭和30年(1955)札幌市に編入。

⑦ 円山村
  ○庚午三の村
・山形県人日田豊三郎組、本間作治組が入植。(のち円山村)
  ・また、新潟県の石野平八郎組も入る。(発寒村に編入)
  ○円山村
・明治4年(1871)、庚午三の村が改称して成立。同年、札幌神社建立。
  ・明治39年(1906)、山鼻村といっしょに、藻岩村となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4つの字(あざ)を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑧ 山鼻村
・明治4年(1871、辛未=シンビ、かのと・ひつじ)東本願寺(明治3年建立)付近に、越後から募集した40人の農夫と、札幌で募集した50戸が入植し、「辛未一の村」が成立。しかし、同年中に円山村、琴似村に全戸が移転。
・明治7年(1874)、農民数戸が石切道(石山道路)を中心に入植し開村。
・明治9年((1876)、東屯田通(現西9丁目通)に120戸、西屯田通(現西13丁目通)に120戸の屯田兵が入植。
・明治39年(1906)、円山村とともに、「藻岩村」となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4字を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑨ 白石村
・明治3年(1870)、旧仙台藩白石城主片倉邦憲は旧家臣団を率いて幌別に入植。一派が石狩を経て望月寒に入植。「望月寒村」と称した。のち故郷白石にちなみ、「白石村」と改称。5年の戸数104戸380人。
・6年(1873)、26戸が豊平川沿岸に移住、上白石村を形成(はじめ「新白石村」ともいった)。
・これに伴い、白石村は「下白石村」とも称された。
・明治35年(1902)、上白石村と白石村が合併し2級町村白石村が誕生。
・明治43年(1910)大字上白石村の一部を札幌区へ編入。
・昭和25年(1950)札幌市の一部となる。

⑩ 豊平村
・安政2年(1855)、豊平川に渡船場が設けられ志村鉄一が橋守となる。
・安政4年(1857)、千歳越(札幌越新道とも)が開削されると宿泊所も設置された。
・明治5年(1872)から移住者が入り、明治7年(1874)、豊平村となる。
・明治35年(1902)豊平村、平岸村、月寒村が合併し2級町村豊平村が成立。
・明治41年(1908)、町制施行、札幌周辺町村では、一番早く町制施行。
・昭和36年(1961)札幌市の一部となる。
⑪ 平岸村
・明治4年(1871)、杉本平九郎(旧仙台藩士)が、岩手県(胆沢県=いさわ・県都は水沢、現奥州市)の士族・農民65戸が入植、開村。のち福岡県から21戸が入植。
・明治9年(1876)、開拓使、真駒内牧牛場設置。15年(1882)ころからリンゴ栽培も行われた。
・明治8年(1875)には、石山、穴の沢で軟石の採取が始まる。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。
⑫ 月寒村
・明治4年(1871)盛岡県から43戸185人が入植。当時千歳通といわれていた。
・明治17年(1884)以後、広島県人が入植、26年(1893)広島村として分村。
・明治29年(1896)第7師団独立歩兵大隊が置かれたのをはじめ、多くの軍事施設が設けられた。軍都の形成に伴い人夫の流入も増大して千歳街道沿いは市街地化した。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。

<参考文献>
・「角川日本地名大辞典」(角川書店)
・「新札幌市史」(札幌市教育委員会編)
・「ひがしく再発見 まちの歴史講座」(札幌市東区役所編)

今年は、カエル年

あまり知られていませんが、今年は、国際自然保護連合(IUCN)と世界動物園水族館協会(WAZA)が提唱する「国際カエル年」です。
世界中に生息する両生類5743種のうち、
2469種(43%)が減少し、
1856種(32%)が絶滅のおそれがあり、
1980年以降、120種が絶滅したそうです。
原因のひとつの「カエルツボカビ症」が、ついに日本にも上陸したとのこと。
環境省は、2006(平成18)年に日本の絶滅危惧種21種(前回平成9年は14種)の両生類を発表しました。
北海道に生息する両生類では、「利尻島・礼文島のエゾアカガエル個体群」が指定されています。
環境省は、「小規模な開発または外来生物による影響、一部の種ではペット用の捕獲による影響」と示唆しています。

「大寒」について~二十四節気は、どこで決めるか

1.「二十四節気」
いうまでもなく、「大寒」は、「二十四節気」のひとつ。「二十四」は、「にじゅうし」と読んで、「にじゅうよん」とは読まない。
「二十四節気」は、1年の太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して決められている。起点は、太陽黄経0度の春分点。今年の場合は、中央標準時3月20日14時48分。「大寒」は、太陽黄経300度。だから、今年の「大寒」は、官報で発表された国立天文台の「暦要領」によると1月21日1時44分。
「二十四節気」を、更に分解すると、狭義の「12節(気)」と「12中(気)」からなる。合わせて「二十四節気」。だから、「二十四節気」という場合、「12節気」の「節」と、「12中気」の「気」をとった言葉ということになる。
ところで、「大寒」は、「12節(気)」でなく、「12中気」のひとつ。くわしくいえば、「小寒」が旧暦の「12月節(気)」で、「大寒」は、「12月中(気)」。
2.閏月の決め方
ところで、この「二十四節気」は、旧暦の閏月を設ける基準とされており、「中気」のない月を閏月としていた。最近では、旧暦2006年7月の「節気」である「立秋」は、15日、「中気」の「処暑」が30日で、次の「節気」の「白露」が16日となり、「中気」の「秋分」は、この月にないため、この月は「閏7月」となった。つまり、現在、旧暦の「閏月」は、国立天文台発表の「二十四節気」をもとに決められることになる。
3.「二十四節気」は、どこで決めるか
 すでに述べたように、春分点を基準に「二十四節気」が決められるということは、きわめて科学的な事項であり、国立天文台が決めて、毎年2月1日に、翌年の「二十四節気」を官報で発表する。このことに関していえば、おもしろいことが起こる。
つまり、「国民の祝日に関する法律」には、「春分の日」「秋分の日」は、固定されていない。今年の「春分の日」は、3月20日だ。なぜかというと、「祝日法」では、春分の日は「春分日」、秋分の日は「秋分日」を採用するとされ、「春分日」「秋分日」というのは、太陽が、黄道上の春分点、秋分点を通過する瞬間を含む日のことだからだ。
◎まとめ
「閏月」も、「春分の日」も、「二十四節気」をもとに決められ、その「二十四節気」は、国立天文台が太陽の運行をもとにして決める、きわめて科学的な官報事項である。
◎付
 ところで、「二十四節気」をさらに5日ごと区切って、これをさらに5日ずつにわけた気象の動きや動植物の変化を表している七十二候があり、「初候」「中候」「末候」があるが、今日は、「大寒」の「初候」の「款冬華」(ふきのはな咲く)の候。「大寒」には、かすかに、春の息吹が含まれている。

「弱冠」「元服」


1.「元服」

日本では、昔は12歳ころから15,6歳頃に行われていた行事。中国では、20歳。

「元」は、冠をつけた人の象形文字で、「あたま」意味。「服」の偏の「月」は、「舟月(ふなづき)」で、舟の両側につける板の意味。転じて「本体に添える」意味を表し、「身につける」の意味がある。
だから、「元服」は、「元(あたま)に冠を服する(付ける)」ことになる。

蛇足ながら、「月」偏は、「朝」「朔」「朗」「朧」などの天体の「月」を意味するものと、「肌」「肩」「肺」など身体の各部の名称に関する文字が多い「肉部」が偏になるときは、「月」となる。もともとは、「朝」などの「月」とは、違う部首・「肉」部だが、同じ「月」部にいれている辞典が多い。つまり、「月」部は、「日月(ひづき)」「舟月(ふなづき)」「肉月(にくづき)」があることになる。「月」偏の字は、「なに月」かを考えると、文字の意味がはっきりする。


2.「弱冠」

「弱」は、儀礼用の飾りの弓がふたつある会意文字で、転じて「しなやか」「なよやか」「よわい」「わかわかしい」という意味になり、更に、「柔軟性に富む二十歳」の意味も表わすようになった。
つまり、「弱冠」は、男子が「弱(二十歳)」で「元服する(冠をかぶる)」ことから、本来は、「男子の二十歳」のことをいう。
原典は、「礼記」の「二十曰弱、冠」(ニジュウをジャクと曰=いい=、カンす)。
だから、「弱冠」だけで、「(男子の)二十歳」のこと。「弱冠二十歳」は、「朝食を食べる」と同じで、正しくないことになる。
まして、「弱冠十七歳の浅田真央」ということは、年齢においても、男子でないことにおいても、二重三重の間違いということになる。
菊池寛は、
「父が打たれたときに、弱冠であった忠三郎が敵の面体を確かに覚えているはずがない」(「仇討三態」)
とちゃんと使っている。さすがだ。

「冬」の部首

 今日の道新の文化欄は、「漢字人気支える白川文字学」と題する特集が組まれていました。

私も、「冬」について、漢和辞典などをひも解いてみました。

◎旧字体の部首・・・「冫」(にすい)

・「夂」の足(下部分)は、「冫」で、部首は、「冫」(にすい)であった。(私のパソコンの文字入力システムではこの旧字体は出てこないので、漢和辞典で確認してください。)もとの字形は、「入」をふたつ重ねた象形で、氷の結晶にかたどり、「氷」の原字で、「水が凍ったときに表面にできる、ひきつったような形をかたどった象形文字」(阿辻哲郎「部首のはなし」中公新書)

・「冫」には、「冷」「凍」「凛」「凝」「冽」など、こおるなどの意味を含む文字がでている。「寒」も旧字体の足は、「ヽ」ふたつではなく、「冫」。また、「終」の旧字体も旁(つくり・右側)の「冬」の足は、「冫」。「冬」は、「季節のおわり」の意味もあるから、「終」は、もともと、「糸の結び目=おわり」の意味を表した。

・「氷」も今は「水」部にあるが、元来は、「冫」(にすい)の「冰」(ヒョウ・こおり)の異体字。

・「冬」にしても「寒」にしても「終」にしても、旧字体が、漢字の成り立ちを表している。新字体では、その意味が、わからない。

・なお、「冫」は、「にすい」と読むが、「氵」を「三水(さんずい)」というのに対して、2画で書かれるので「二水(にすい)」という。



◎新字体・・すいにょう・ふゆがしら(冬頭)・なつのあし(夏の足)

・「漢語林」(大修館書店)では、「夏」も「冬」も同じ部首としている。「冬」は、「夂」が上(あたま)にある。「夏」は、「夂」が下(あし)にある。でもって、「夂」の部首の名前を「ふゆがしら(冬頭)・なつのあし(夏の足)」と呼ぶ。

・「冬」は、新字体になって、「冫」(にすい)から、「夂」に移って、部首名に「ふゆ」が入って救われた・・・か?

「教育漢字」はいつ学習することになっているか

教育漢字
◎現行の教育漢字は、小学校学習指導要領(平成14年4月1日から施行)の「第2章各教科第1節国語」の「別表の学年別漢字配当表」にある1006字である。なお「教育漢字」という表現はないが、ここでは、通常用いられている「教育漢字」という。
◎不正確な教育漢字の定義
・多くの書物で「教育漢字」についての記述では「小学校で学習する漢字」といしている。「漢語林」(大修館書店)では「小学校六年間に学習する漢字」とし、新刊の「新潮日本語漢字辞典」(新潮社)は、「小学校で教える漢字」としている。
◎配当表の漢字は、読めるようになる学年
・指導要領には、例えば、「第2学年においては,学年別漢字配当表の第2学年までに配当されている漢字を読むこと。また,第1学年に配当されている漢字を書き,文や文章の中で使うとともに,第2学年に配当されている漢字を漸次書くようにすること」とある。つまり、配当表の漢字の配当は、読めるようになる学年で、書く学習は次の学年ということになる。
・では、6学年ではどうなるか。指導要領では、「第5学年及び第6学年の各学年においては,学年別漢字配当表の当該学年までに配当されている漢字を読むこと。また,当該学年の前の学年までに配当されている漢字を書き,文や文章の中で使うとともに,当該学年に配当されている漢字を漸次書くようにすること。」とある。6学年に配当されている漢字を書くのは、中学1年ということになる。
◎中学校学習指導要領の表現
○読むこと
・第1学年・・「小学校学習指導要領第2章第1節国語の学年別漢字配当表(以下「学年別漢字配当表」という。)に示されている漢字に加え,その他の常用漢字のうち 250字程度から 300字程度までの漢字を読むこと。」
・第2学年・・「 第1学年までに学習した常用漢字に加え,その他の常用漢字のうち 300字程度から 350字程度までの漢字を読むこと。」
・第3学年・・「第2学年までに学習した常用漢字に加え,その他の常用漢字の大体を読むこと。」
○書くこと
・第1学年・・「学年別漢字配当表の漢字のうち 900字程度の漢字を書き,文や文章の中で使うこと。」
・第2学年・・「学年別漢字配当表の漢字のうち 950字程度の漢字を書き,文や文章の中で使うこと。」
・第3学年・・「学年別漢字配当表に示されている漢字を書き,文や文章の中で使うこと。」
つまり、1006字の教育漢字全部を書くことは、中学3年までにできるようにするということ。ちなみに、中学1年では、900字、2年で950字。
◎まとめ
教育漢字は、「小学校で学習する漢字」ではなく、「広辞苑」にある「義務教育期間に読み書きできるように指導することが必要であるとされる漢字」が正しい表現といえる。

文化4年の中村小市郎

◎「蝦夷紀聞」・・文化3~4年(1806~1807)のロジア人による樺太・エトロフ襲撃事件についての公私の文書、風聞の類を日付順に収録したもので、全15巻。
◎小市郎の名前・・そのうち、小市郎の名前は、3巻の最後の方に出てきます。
南部藩主の南部大膳大夫から幕府への届書のなかです。日付は文化5年5月晦日。
◎当時の状況・・ロシア人がエトロフを襲撃したのは、文化4年4月23日から29日にかけてのことで、その報が箱館に届いたのが5月18日のこと。
いろいろな風評がかけめぐり、公私の文書も飛び交いますが、この南部藩主の文書はそのひとつです。
◎事件当時の小市郎・・小市郎は、文化4年の事件当時は、クナシリ詰めでした。クナシリ会所は同島のトマリにあり、詰めていたのは、向井勘助と小市郎でした。「休明光記」によると、クナシリ北部のルシアで「大筒の音相聞」えた折、向井勘助は現地ルシアにおり、小市郎は、勘助に「心付」せず、「自分持場」、つまり、トマリに帰ったという理由で、「急度叱置」という処分を受けることになります。一方、勘助は「誉置」という論功行賞を受けます。
◎「蝦夷紀聞」の小市郎関係部分・・書き下しすると、次のようになります。
「去る三日、クナシリ島詰の者、同所会所へ呼出、中村小市郎、向井勘助立会にて・・(以下略」)
この後の文を読むと、要するに、クナシリ詰の南部藩士が、箱館奉行役人の小市郎、勘助より、エトロフ事件を聞かされ、小市郎らは、南部藩士にそれぞれ、藩で防備を固めるよう指図し、南部藩士は、箱館詰の南部藩士へ、その指示を伝えます。南部藩では、派兵準備をしていたが、奉行からは、「南部藩は、前年のカラフト事件の際、すでに500人を派遣していたので、再度の増派は不要」との達しがあり、その経過を、在所(盛岡)より、江戸詰の藩主・大膳大夫へ報告があったので、その旨を幕府に届けた。という内容です。
小市郎は、クナシリのトマリ会所で、エトロフ事件とその善後策を南部藩士に申し渡したということが、南部大膳大夫の届書に登場したことになります。
◎以前にいただいた小市郎の掛図との関係・・このあと、小市郎には、帰還命令が出て、クナシリを離れ、シャリ(掛図では「社里」)経由で箱館へ帰りますが、帰途「阿寒河」で乗った舟が暴風に遭い転覆することになります。

元日、元旦、朔日、正月

○「元」・・呉音「ガン」。漢音「ゲン」。部首は「ニンニョウ」

かんむりをつけた人の象形で、「あたま」「かしら」「根本」の意味。

    ・「元凶」(ゲンキョウ)「悪人のかしら」で、「大悪人」

    ・「元日」(ガンジツ)「1年の日のあたま」で。「1月1日」

・「旦」・・部首は「日」部。「日」に、地平を示す「一」。明るくなっていく早朝の意味。

    ・「旦」を含む形声文字に「平坦」の「坦」などがある。

    ・「元旦」は、「朝のあたま」だから、1月1日の朝をいう。

    ・「元旦の朝」は、「朝の朝」になり、「満開に開く」「食事を食べる」の類で、正しくないことになる。

・「朔」・・「サク」。部首は「月」(つき・ひづき)部。

・左の「屰」(ギャク)は、「さかさま」「あとに戻る」の意味だから、「朔日」は、「欠けた月がもとへ戻る日」の意味で陰暦の「ついたち」をいう。

     ・なお、国訓の「ついたち」の語源は「月立ち」(つきだち)からともいわれる。

     新暦の「1日」は、新月とは限らないから、新暦の「1日」を「ついたち」というのは、正しくないことになる。

     ・江戸期以前の古文書の日付は、ほとんど「朔日」と書かれている。読むときは、「さくじつ」でも国訓の「ついたち」でもどちらでもいい。

     ・ところが、明治5年(1872)11月9日、明治政府は太陽暦採用の詔をだし、「明治5年12月3日」を「明治6年1月1日」と改正したので、これ以降は、「1日」と書かれた場合、「ついたち」でなく、「いちにち」と読むべき。

     ・「正月1日」は、「正朔」(せいさく)。

     ・ちなみに、2008年1月1日の月齢は22日で、下弦の月。(弓張月)「朔の日」、「朔日」(ついたち)ではない。

・「正」・・部首は「止」部。甲骨文は「口」+「止」。「口」は、「国やむら」の象形で、「止」は、「足(あし)」の象形で、「正」は、(他の)国にむかってまっすぐ進撃する意味で、転して「まっすぐ」「ただしい」の意味。また、「かしら」の意味にも転じたので、「正月」は、「1年のかしらの月」で、1月のことになった。

    古文書では「1月」をほとんど「正月」と書かれている。

    ・ところで、「政治」の「政」は、もともと、「ただす」の意味がある。



◎「政治」が、漢字の意味の通りに行われることを願ってやみません。

津軽藩兵とコーヒー

宗谷岬の宗谷公園内にコーヒー豆をデザインした「津軽藩兵詰合記念碑」がある。
碑のデザインは、コーヒーが水腫病に効果があるとされ、予防薬として和蘭コーヒー豆が配られたという記録を基づくという。
碑は、平成4年(1992)9月、弘前市の有志によって建立された。毎年、9月第一日曜日に慰霊祭が行われている。
碑文は、次の通り。
「この碑は、文化4年(1807)幕名による蝦夷地越冬警備のさい、厳冬下で次々と浮腫病に倒れていった数多くの津軽藩兵を悼むとともに、その後、安政2年(1855)再び蝦夷地警備に赴いた藩兵達には、浮腫病の薬用として「和蘭コーヒー豆」が配給されていた事実を記念するためのものである。 珈琲を飲めずに逝った人々と、薬として大事に飲んだであろう先人達の辛酸を、歴史の一齣として忘却するには忍びがたいしその体験は日本の珈琲文化の嚆矢としても貴重である。
 茲にその偉業と苦難の歴史を後世に伝承すべく、ゆかりの地・宗谷に珈琲豆を象った記念の碑を建立することとした。
1992年9月16日

宗谷岬に津軽藩兵詰合の記念碑を建てる実行委員会

会長 成田専蔵


文化3~4年(1806~1807)のロシア人のカラフト、エトロフ襲撃事件を契機に、各地に東北諸藩の藩兵が警備に派遣されたが、北辺の地での生活は厳しく、多くの藩兵が倒れた。宗谷には、津軽、会津、秋田藩兵が、次々派遣された。
津軽藩兵の死亡では、斜里詰めの津軽藩兵の水腫病による多数の死者がでたことはよく知られているが、その他の道内各地での犠牲はあまり知られていない。
そもそも、津軽藩兵は、当初、宗谷に派遣され、文化4年7月になって、百名が急遽、斜里への転進が命じられた。
文政4年(1821)、蝦夷地の直轄が解かれるまで、多くの津軽藩兵が宗谷に駐屯した。
碑は、宗谷岬に近い宗谷公園内にあるが、津軽藩の詰所は、宗谷岬よりかなり西に寄った地、現在の稚内市大字宗谷字宗谷の宗谷川河口付近にあった。
ここには、宗谷会所、厳島神社、護国寺などもあり、一帯の中心地であった。

なお、この碑のそばには、会津藩、秋田藩の旧藩士の墓もある。
また、岬より、少し西のサンナイには、「間宮林蔵渡樺出港の地」碑もある。

宗谷岬は、「日本最北端の地碑」「宗谷岬音楽碑」が有名だが、「津軽藩兵詰合記念碑」など、歴史関係の碑は顧みられることは少ない。
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旧国名に「州」をつけた呼び方

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文化3~4年のロシア人の樺太・エトロフ襲撃と江戸

<当時北海の警報の江戸に伝えられて人心の恐々恟々としていた有様についての江戸の状況を記したもの>

○『泰平年表』・・「かゝりしかば江戸の町々鍛冶を業とせるは家毎に番具足をきたへ、古着鬻(ひさ)ぐ家は軒毎に陣羽織を懸けたり。是等を見るに世の中何となく物騒がしく、其事を預らぬ者も安からぬ心地するに」云々といい、流言蜚語(ひご)のつぎつぎと行はれたことなどを述べている。
○『視聴草』七集の三「文化丙寅(三年)北辺騒動都下風聞」
・最上徳内・・「最上徳内ひとたび蝦夷のかゝりは御免なりしが、此度(こたび)また被仰付(おほせつけられ)候て、霊岸島の役所へまゐり、即日より存寄(ぞんじより)を申したりと風聞」
・近藤重藏、秦憶丸(あわきまる)・・「近藤重藏十五日出立(しゆつたつ)の予定。十二日出立のところ支度間に合はず」また、「村上島之丞、中川飛騨守殿につきしたがひて発足のよしなり」と見えている。
 蝦夷のことといえば、先づこれらの人々が噂に上つている。ついで堀田正敦の江戸を発足する物々しい様子も叙せられている。
「六月廿一日朝五ツ時、摂津守様御出立。御紋付絽の羽織、小袴、馬上筋違(すじかひ)御門より鑓(やり)を伏せ被申(まふされ)候由、見物多し。鑓印は白ちりめん一幅の切(きれ)なり」
・「加茂眞淵が蝦夷の歌もあり。此節(このせつ)取りはやす人あり」とにかく世上は到るところ蝦夷地の風評だつた。
(森銑三著「最上徳内」より引用・・日本ペンクラブ電子文藝館所蔵)

札幌近郊の村々のなりたち

私の講師日程
◎テーマ・・「札幌近郊の村々のなりたち」
◎概要・・手稲村、篠路村、苗穂村、白石村など、札幌近郊の村々のなりたちと、その後の発展の歴史をたどります。
◎日時・・2008年2月25日(月)13:30~15:10
◎会場・・札幌市北区民センター(札幌市北区北25条西6丁目。地下鉄南北線北24条駅下車徒歩5分)
◎入場無料
◎主催・・札幌市社会教育協会

画数が増えた新字体

1.はじめに

昭和24(1949)年4月28日、内閣告示第1号で「当用漢字字体表」を告示した。
そのまえがきに「漢字の読み書きを平易にし正確にすることをめやすとして選定した」として、昭和21年1月16日のに制定した「当用漢字表」の1850字の漢字のうち、355字の字体を変えた。一般に、この355字を「新字体」、改定されなかった1495字を「旧字体」という。
昭和21年の「当用漢字表」では、いわゆる「康煕字典体」で示されていた文字を「一般社会で使用する漢字の範囲を示すもの」として、1850字の指定にとどまっていたが、昭和24年の告示では、「略体の採用、点画の整理」をはかった。
日本において、国家が「漢字」の字体を改定したのは、これが最初である。

2.画数が増えた新字体

ところで、「新字体」を採用した内閣告示には、「読み書きを平易にし」たとあるが、逆に画数が増えた漢字がある。
①「歩」の下の部分が1画増えて「少」になった例
  「歩」(7画から8画に)
 「賓」(14画から15画に)
 「頻」(16画から17画に)
 *「濱」は、当用漢字でないので、「貝」の上の部分は「少」ではない。
②「牙」の部分が4画から5画になった例
 「冴」(6画から7画に)
 「芽」(7画から8画に)
 「邪」(7画から8画に)
 「雅」(9画から10画に)
 *「穿」「鴉」「谺」などは、当用漢字でないので、「牙」は、4画に書く。
 *なんと、「牙」も当用漢字でない。したがって4画。
 *「芽」は、「きば」のように突き出た草木の新しい「め」の意味だから、「草かんむり」の下は、旧字体の「牙」の方が、成り立ちがわかっていいと思うのだが・・・。
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