森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

【ヤドリギ、万葉集、新年】

ナラ、ブナなど大木の落葉樹が葉を落すと、梢に鳥の巣のような丸いかたまりが現れます。
寄生植物のヤドリギです。自ら光合成もするので、正確には半寄生植物というそうです。
 大伴家持の歌に、このヤドリギを詠んだ一首があります。

天平勝宝二年正月二日、国庁に饗(あえ)を諸(もろもろ)の郡司等に給ふ宴の歌一首 (万葉集 十八 4136)

<原文>
 安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等理天 可射之都良久波 知等世保久等曽

<訓読>
あしひきの 山の木末(こぬれ)の寄生(ほよ)取りて 
挿頭(かざ)しつらくは 千歳(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ

<通訳>
山の梢のから寄生(ほよ)を取って、髪に挿したのは、千年の命を祝う気持からです。 (「新編古典日本文学全集 萬葉集4」 小学館)

「寄生(ほよ)」は、ヤドリギの古名。この歌を作った当時の家持は、国司として越中に赴任していました。
越中の国庁は、現在の富山県高岡市伏木にあり、天平勝宝2年(700)の正月、家持は、国庁で開かれた宴で、集まった郡司らに新年のお祝いの歌を披露しました。それがこの歌です。

また、フランスやイギリスなどには、クリスマスにヤドリギのリースを飾り、その枝の下では女性にキスをするのが許される習慣が残っており、そうすると、その1年が幸せになるといわれています。

西洋でも、日本でも、ヤドリギは神聖な植物といえます。

ネットで探したら、鎌倉・鶴岡八幡宮境内の大木のヤドリギがありましたので添付します。
1本の木に、ものすごくたくさんのヤドリギが寄生しています。壮観です。

新年を迎えるに当たり、万葉集の一首を贈ります。
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【「牙」を何画とするのか】

【「牙」を何画とするのか】

文化庁の諮問機関である文化審議会国語分科会漢字小委員会は、先に、常用漢字表(注1)の「本表に入れる可能性の高い漢字」として新たに、188字を候補に挙げた。
そのひとつに「牙」がある。
常用漢字に加える場合、何画にするのだろうか。
<現在の表外漢字としての「牙」は4画>
現在、常用漢字になっていない漢字(以下、表外漢字)としての「牙」は、4画である。つまり、2画目の「ノ」と「一」を一気に1画で書く。
<「牙」を含む常用漢字の「牙」は、5画>
ところが、「牙」を含む常用漢字(注2)の画数は、1画増えた。つまり、2画目を二つに分解した。「ノ」と「一」を1画で書かず、2画に書くようになった。「当用漢字字体表」で画数が増えた数少ない例である。
たとえば、「芽」の脚部分の「牙」は4画から5画になった。その他、「雅」「邪」の「牙」の部分が5画になった。同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。
<「牙」を何画にするべきか>
愚見は、「牙」を常用漢字に加える場合、私は、現在の表外漢字のまま、4画にすべきで、「芽」のように、5画にすべきでない。
獣の牙は、するどく尖っており、旧字体こそ、お似合いだ。
だから、当然ながら、「芽」「雅」「邪」「既」の「牙」も、5画から4画に戻すべきだ。
<「牙」を5画とする弊害>
現在、表外漢字の「冴(さ)える」、「穿(うが)つ」、「訝(いぶか)る」、「谺(こだま)」、「鴉(からす)」の「牙」は、4画であり、もし、「牙」を4画から1画増やし5画とすると、これらの表外漢字と「牙」の画数が異なることになり、「牙」をめぐる混乱が解消されないことになる。

(注1)昭和56年10月1日内閣告示第1号で告示された。これに伴い、旧当用漢字表は廃止された。
(注2)正確には、昭和24年(1949)4月28日、内閣告示第1号で告示された「当用漢字字体表」の漢字。

松本十郎の生涯

◎日時:2008年11月12日(水)14:50~15:40
◎会場:札幌市社会福祉総合センター(札幌市中央区大通西19丁目4F大研修室)
◎申込不要:直接会場へ。
受講料:無料
◎テーマ:松本十郎の生涯
◎概要:アツシ判官と呼ばれ開拓判官として活躍した松本十郎の波乱に満ちた生涯を追います。
◎主催:札幌市社会教育協会

なぜ「錦織」を「にしこり」と読むのか。

全米オープンで注目された「錦織」選手の姓は、「にしこり」と読む。
◎これは、反切(はんせつ)読み。

反切とは、漢字の発音表記法のひとつで、漢字の音(読み方)を示すのに、他の漢字2字を借りてする方法のこと。
上の字(父字、音字)の頭子音と、下の字(母字、韻字)の韻を合わせて、その漢字の音を表す。
例1(大辞林)・・「三(さん、SAN)」の読みを表すのに、「思 甘 反」と書く。「思(SI)」の頭子音「S」と「甘(KAN)」の韻「AN」を
合わせて、「SAN(三)」。「反」は、「反切」の意味。

例2(広辞苑)・・「台(たい、TAI)」を「徒 哀 反」と書けば、「徒(TO)」の頭子音「T」と「哀(AI)」の韻「AI」を合わせ、「TAI(台)」

数式にすると、
A=(Bの頭子音)+(Cの韻)

この原理を日本語にも応用し、日本語の語形変化について説明することも行われた。(「大辞林」)

◎「錦織」の場合
1.「錦」は国訓で「にしき」。その3音目の「き(KI)」の「K」と
2.「織」(おり)・・ORIを合わせて
→「KORI」(こり)
→でもって、「にし」+「こり」で、「にしこり」

エトロフ島有萌の戸田又大夫の墓

エトロフ島有萌の戸田又大夫の墓

1. ロシア人のエトロフ襲撃
文化4年(1807)4月23日、ロシア人フヴォストフらは、エトロフ島ナイボ、ママイの番屋を襲撃し、番屋、倉庫を焼き、米・塩・衣類などを
略奪した。いわゆる文化丁卯事件が起こった。
29日には、同島の箱館奉行の会所のあるシャナを襲撃、会所、
南部番屋、津軽番屋などに火を放ち、掠奪をほしいままにした。
2. 戸田又大夫の自殺
当時、シャナ会所の責任者の菊池惣内は、エトロフにたどりついた
陸奥・牛滝村の慶祥丸の漂流民を箱館へ護送のため留守で、
次席の戸田又大夫が指揮を執っていたが、戸田は会所を捨てて退き、
アリモイで自殺した。
3. 品川法禅寺
戸田の墓所についての記録は、私の知る限りなかったが、
札幌歴史懇話会で解読中の幕臣宮崎成身の「視聴草」第7集所収の
「文化丙寅騒動都下風聞」に、記載がある。
読み下しにすると
「戸田又大夫、寺、品川法禅寺のよし、この寺へは、又大夫、
臍(へそ)の緒をしるしに埋め候となり」
とある。品川法禅寺は、北品川宿にある増上寺末の浄土宗の寺院。
「墓所」とは、はっきりと書かれていないが、「臍の緒をしるしに埋め」
たとすれば、「菩提寺」と推測する。
4. エトロフの戸田の墓
「明治大正期の北海道」(北海道大学図書刊行会)に、
エトロフの戸田又大夫の墓の写真が所収されているので、紹介する。
墓碑銘は、縦書き3行で
「文化四丁卯年
 戸田亦大夫藤原常保墓
 五月○○」
と読める。3行目の2文字は、かすれてよくわからない。
なお、この写真には、次のような説明文がある。
「明治廿五年四月廿七日 戸田亦大夫ハ 幕府ノ臣ニシテ 
文化四年五月一日
 露西亜人入寇之際 我兵不振 多クハ遁走スルヲ以テ 
単身奮戦スト雖(いえども)
 勢之挽回スル能ハス 遂ニ有萌山下ノ沢ナカニ入リ 
国恥ヲ思ヒ自刃シテ死ス
 墓ハ 有萌山下海岸丘ニ今尚存ス」
この写真の撮影者は、遠藤陸郎となっている。
遠藤は、明治24~25年にかけて、明治天皇の勅命で
千島探検中の片岡利和侍従に随行した人物。
片岡一行は、明治24年11月17日、エトロフに着き、
シベトロで越年している。
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開拓使麦酒醸造所開業式

サッポロビール園の入口に「開拓使麦酒醸造所開業式」の写真を模して復元したモニュメントがあります。
もともとの写真は、北海道大学付属図書館所蔵で「明治大正期の北海道」(北海道大学図書刊行会)に所収されています。

その写真に3段につまれたビール樽に文字が描かれています。「縦書き7行」です。

「麦とホ
 ツプを
 製す連(れ)
 者(ば)ビイ
 ルとゆ
 ふ酒に
 奈(な)る 開業式」

樽の一番下に「開業式」とあります。
ビール園の復元モニュメントにも、きちんと書いてあるのは、さすがとおもいました。

開業式は、明治9年(1876)9月23日のことです。
場所は、札幌市内雁来通(現北2条東4丁目、サッポロファクロリー)です。
「開拓使麦酒醸造所」は、現サッポロビール園ではありません。

なお、明治10年9月のビールの値段は
大びん 16銭
小びん 10銭
です。(新札幌市史)
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開拓使の役割

テーマ・・開拓使の役割

◎日時・・9月16日(火曜)13:30~15:00
◎会場・・札幌市東区民センター
◎参加料・・無料
◎問い合わせ・・森勇二まで
        moriyuzi@poem.ocn.ne.jp
        電話090-8371-8473

等じゅ院と善光寺

◎はじめに

本論では、幕府が東蝦夷地に建立した官寺の設置数と設置場所の決定に至る経過について述べ、さらに、等じゅ院が、
寺号に「善光寺」を希望し、寺院建立地として、有珠の善光寺の場所を要望していたという、
興味深い文書が「等じゅ院文書」にあるので、紹介したい。

一、官寺の設置数の経緯
まず、蝦夷地での官寺の設置数の経緯をたどってみる。

①箱館奉行、「先ず当時一、二ケ寺」建立伺い
蝦夷地へ建立する官寺建立数について最初に言及した文書は、享和二年(1802)1月25日付で、箱館奉行の戸川安論と
羽太正養両名から寺社奉行に提出された伺書に見える。
「東蝦夷地内然るべき場所へ、都合五ケ寺建立の積りを以、
先ず当時一、二ケ寺も取建たく存じ奉り候」(注1)
箱館奉行は当初、一、二ケ寺の建立の伺いをしていた。
②寺社奉行、「先ず当時二、三ケ寺」と達する
箱館奉行の伺いに対し、翌享和3年(1803)正月19日、
寺社奉行・松平康定から次の達しがあった。
「先、当時二、三ケ所相建、追て二ケ所も相建てるべき場所等も、
是又承知致したく候」(注1)
 箱館奉行の「一、二ケ寺」の建立要望が、寺社奉行の段階で、
「二、三ケ所」と、微妙に変化している。
③箱館奉行、三ケ所建立の伺い
 寺社奉行の達しを受けて、箱館奉行は、享和3年(1803)正月、
寺社奉行の達しにある「二、三ケ所」のうち、多い方の「三ケ所」を取り、「当時相建てるべき場所」を進達、
さらに、「追て寺院相建てるべき場所」として二ケ所を寺社奉行へ進達している。
「函館よりヤムクシナ  追て寺院相建てるべき場所  十六里程
 同所よりウス迄    当時建てるべき場所     二拾里余
 同所よりシヤマニ迄  当時建てるべき場所     六十里程
 同所よりクスリ迄   追て寺院相建てるべき場所  五十三里程
 同所より子モロ迄   当時建てるべき場所     三十五里程」(注1)
④三寺に決定
三ケ寺建立が、箱館奉行に達せられたのは、享和3年(1803)11月19日のこと。箱館奉行の伺いが受け入れられたことになる。
「亥十一月十九日、寺社奉行脇坂淡路守面談、蝦夷地寺院五ケ寺の内、
先三ケ寺、此度出来の積り」(注1)

二.建立寺院の宗派について
①天台宗、浄土宗の二宗派
 次に、蝦夷地へ建立する宗派について見る。
享和3年(1803)11月9日の「善光寺文書」の記述に、寺社奉行・脇坂安董から、寛永寺、増上寺へ、住職人撰の達しがある。
「蝦夷地へ寺院御取建て仰出され候間、住職人撰いたし、書出申さるべく候。
 右は、天台宗にて壱ケ寺、浄土宗にて壱ケ寺、外に壱宗の趣に候得共、
未だ治定これ無く」(注2)
この段階で、天台宗、浄土宗の二宗派が決定し、もう一宗派は未定であった。いうまでもなく、天台宗の寛永寺、浄土宗の増上寺は、
幕府の菩提寺であり、幕府に庇護された大寺である。

②三つ目の宗派
享和3年(1803)11月19日には、9日の段階では未定だった三つ目の宗派も
決まったことがわかる。寺社奉行・脇坂安董と面談した
箱館奉行・羽太正養は、次のように聞かされている。
 「住職の儀は、上野、増上寺、金地院にて相撰候由、淡路守、
申聞きかされ候」(注1)

三、官寺の設置場所の変更
 ところで、寺院設置場所については、前述の通り、
享和3年(1803)正月段階では、箱館奉行は、ウス、シヤマニ、子ムロを
予定し、
寺社奉行へ報告したが、文化元年(1804)9月24日に、箱館奉行戸川安論から
寺社奉行・脇坂安董へ、根室から厚岸への変更を申し入れている。
「寺院三ケ寺の儀、先達てウス、シヤマニ、子ムロの積り御掛合申し候処、
右の内子ムロ場所は、住居不勝手にこれ有るべくに付き、
子モロより二十里程手前、アツケシと申す処、格別気候も宜しく候間、
アツケシの方場所に取極め、御掛合申し候」(注1)
 これに対し、翌文化2年(1805)正月15日、奉行・脇坂安董から、
「御書面三ケ寺場所の儀、承知せしめ候」(注1)
と、了解の回答があり、ここに三官寺の設置場所が確定した。

四、寺号の決定
 蝦夷地に建立する寺院数、宗派、設置場所が決まった。
次に、寺号のについて見る。
【書き下し】
「一 同廿七日暁六ツ時出院、観音寺(注3)同道にて、
大久保安芸守殿(注4)内寄合(注5)へ罷出候処、
五ツ時過、寺社御奉行衆御揃、評席に於いて
淡路守殿申渡され左の通り。
       蝦夷地寺院住職秀暁出席、上野執当衆
       円覚院、今度蝦夷地寺院寺号之儀、   
       御老中へ伺之上、伺之通申付候
                    帰 嚮 山
                    厚 沢 寺
                    等 じゅ院
  右仰渡され相済、退去。寺社御奉行衆五軒御礼の為
  等じゅ院廻勤之事。」(注3)

 文化元年4月27日、寺社奉行から、寛永寺に対して、寺号の申し渡しがあった。善光寺文書、国泰寺文書にも、
この日、寺号の申し渡しがあったことが記されている。
五、寺号について等じゅ院のクレーム
【【書き下し】
「一 此度、浄家新寺之寺号、善光寺と相附申候。
  彼等之底意、彼地善光寺之場所へ建立
  仕度志願と推察仕候。若し、左様にも相成候ては、
  元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ候様、
  世上之取沙汰、末々迄遁れ難く存じ奉り候。猶又、
  弥慈覚大師之御開基に相違も之無く候はば、
  恐れ乍、祖師之内鑑にも相叶申すべく哉に存じ奉り候。
  右、愚意之存念荒増申上げ奉り候。以上

     五月朔日       蝦 夷 地
                等じゅ院」

 この文書は、文化元年(1807)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出されたものである
秀暁は、寺号について、「元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ」たことを
「世上之取沙汰、末々迄遁れ難」いと、強い口調で述べている。
この文書を等じゅ院の本山である寛永寺側が、どう取り扱ったかは、等じゅ院文書には見当たらない。いずれにしても、4月27日の寺社奉行の申し渡しが
覆ることはなく、等じゅ院が「善光寺」となることはなかった。

六.建立場所について等じゅ院のクレーム
【書き下し】
「一 蝦夷地箱立より道法三、四拾里の場に善光寺と
   如来安置之堂宇御座候由、承及候。尤、安置之
   時代も不分明の由に候得共、多分、慈覚大師
   之御開基に御座有るべく趣、諸人推察仕居候
   事に御座候。左候得ば、差急候儀は御座無く候得共、
   此度御取建之寺院、彼場所へ建立仕候様
   願上奉り度存じ奉り候。」(注6)

 この文書も、文化元年(1804)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出された文書である。
「箱立より道法三、四拾里の場に」ある善光寺は、「多分、慈覚大師の御開基」であると、「諸人推察」しているので、「此度御取建の寺院」、
つまり、等じゅ院は、「彼場所」、善光寺のあるウスへ建立したいとの
願書である。
 いうまでもなく、「慈覚大師」は、平安期の天台宗山門派の祖・天台座主円仁の謚名。
であれば、天台宗の等じゅ院は、当然、そのウスの地に建立したいという願いである。

七.等じゅ院の願い、聞き入れられず
 等じゅ院をウスの地に建立したいという等じゅ院の願いについても、本山の寛永寺が、どう扱ったかは不明であるが、
願いは叶わず、結局、等じゅ院は、シヤマニの地に建立されることになった。
 場所割について、箱館奉行と寺社奉行の間のやりとりについて、
「休明光記」から、その経過を拾うと、
・文化元年(1804)9月24日、箱館奉行戸川安論から寺社奉行脇坂安菫に対し、「三ケ寺就職場所等之儀は、其方にて御申渡され候儀と相心得申候」と、
場所割は、寺社奉行の権限であると心得ている旨の達しを出している。
・これに対し、寺社奉行脇坂安菫は、翌文化二年(一八〇五)正月十五日、「住居之場所、名前御割付、申聞され候様致し度候。地理不弁之事故、
拙者方にても取極難く、傍々御懸合に及候。御答次第、
猶伺之上取計申すベく候」と、場所割を、箱館奉行が提案するよう、付札している。
・これを受けて、箱館奉行は、「蝦夷地住職場所割」を提出した。
次は、「等じゅ院第一巻・蝦夷地寺院一件記」の一節である。
【書き下し】
「              蝦夷地住職場所割
箱館より道法九拾六里余           天台宗 
     シヤマニ               等 じゅ 院
                            秀暁
同所より道法三拾六里余           浄土宗
     ウス                 善 光 寺
                            荘海
同所より道法百六拾七里余          五山派
     アツケシ               国 泰 寺
                            文翁
右之通に御座候 以上
     丑 正月                      」

◎まとめ
 以上のように、官寺の設置数、設置場所の決定に至る経過を見てきた。
なかでも、等じゅ院が、寺号、設置場所について、「善光寺」にこだわり、クレームをつけたことは、興味深い。
 終わりに、なぜ、「善光寺」にこだわったのか、いわゆる「信濃善光寺」について、文献をひも解いてみる。
 「善光寺」といえば、信州長野平にある定額山善光寺。善光寺の建立について、「日本仏教辞典」によると、「善光寺古縁起」を引いて、
建立は皇極天皇元年(六四二)という。江戸時代の善光寺の宗派については、「大勧進別当(天台宗)と大本願上人(浄土宗)両人が寺務を行ったが、
寛永二十年(一六四三)善光寺が東叡山寛永寺の直末となり(中略)
以後大本願上人の寺務職に変わりはなかったが、大勧進別当が寺務表役とな」ったとある。信濃善光寺は、天台、浄土両派が管理していたが、蝦夷三官寺建立の文化年間は、天台宗が表役であり、等じゅ院の本山である寛永寺の末寺になっていた。
 このことは、等じゅ院初代住職・秀暁の前述の願いの基礎になっていたと推測する。

(注1)「休明光記」(「新撰北海道史第五巻史料一」所収)
(注2)「蝦夷地御取建並住職交代一件記」(「蝦夷地善光寺日鑑・解読第一巻」所収)
(注3)「観音寺」・・秀暁のこと。秀暁は当時、寛永寺末の上総国芝山(現千葉県山武郡芝山町)の観音寺(正式には天応山福聚院観音教寺観音教寺)の住職であり、観音寺の住職のまま、等じゅ院住職も兼務することになる。
(注4)大久保安芸守・・寺社奉行大久保忠真(ただざね・小田原藩主。享和四年一月から寺社奉行)
(注5)内寄合・・寺社奉行の定例会議。毎月六日、十八日、二十七日に行われた。
(注6)「等じゅ院住職記」(「等じゅ院文書第三巻」所収)

【示(しめす)偏について】

【示(しめす)偏について】

<はじめに>

私は、漢字に関して、阿辻哲次著「部首のはなし」(中公新書)から大きな示唆を受け、また共感もしています。
この小論は、主として前掲書を参考にし、私自身の勉強を加味して書いたものです。

1.新字体の「ネ」偏と旧字体・表外漢字の「示」偏

「しめす偏」の文字は、4画の「ネ」と、5画の「示」の部首にある。漢和辞典の部首索引にも、この両方が載っている。
なぜかというと、昭和24年に「当用漢字字体表」(以下「新字体」)が制定され、それまでの旧字体では、5画の「示」偏だった文字を、「示」の草書体である4画「ネ」の形が採用されたため、当用漢字の4画の「ネ」偏の文字と、当用漢字に採用されてない表外漢字の5画の「示」偏の文字の両方が含まれることになったのである。



2.5画の「ころも」偏との混同

5画の「示」が、新字体で4画の「ネ」になったため、従来からの5画の「ころも」偏との混同が児童・生徒の中で起きることになった。
阿辻氏は「<示>を<ネ>にすることにいったいどのようなメリットがあったのだろうか。 わずか5画で書ける<示>は決して複雑な字形でないし、それを<ネ>と書いたところで、わずか一画しか減らないのである」と疑問を投げかけ、「<示>のままなら、<しめすへん>と<ころもへん>の混同は絶対に起こらなかったにちがいない」と、鋭く指摘している。
たとえば、「よゆう」の「ゆう」、「かっ色」の「かつ」の偏は、どっちなのか、おとなでも迷う。

3.「示」の意味

「しめすへん」の漢字に、「祈」「神」「禅」「社」「祖」「祭」など、神に関係する字が多い。
それは「示」はもともと古代の祭祀で使われた机をかたどった象形文字で、神を祭る時、天上におわす神が着席する机が必要であり、「示」は、神を招くための机という意味から、神や祭りに文字は多く収められている。

3.「しめすへん」の文字
漢和辞典から、いくつか、「しめすへん」の文字の解字をあげる。

・「礼」(旧字体は「禮」)・・つくりの「豊」は、あまざけの意味で、甘酒を神にささげて幸福の到来を祈る儀式の意味を表す。
・「社」(旧字体は、「示」+「土」)・・農民が共同して祭る農耕地の神の意味。
・「祝」(旧字体は、「示」+「口」+「儿」)・・「儿」は、人のひざまづく形で、「口」はいのりの言葉。幸福を求めていのる・いわうの意味。
・「神」(旧字体は、「示」+「申」)・・つくりの「申」は、かみなりの象形で天の神の意味。日本語で「かみなり」は、「神が鳴る」から転じた言葉。
・「禁」・・「示」+「林」で、林におおわれた聖域の意味から、とじこめる、いみさけるのの意味を表す。

・「福」(旧字体の偏は「示」)・・つくりは、神にささげる酒のたるの象形。神に酒をささげ、しあわせになることを祈るさまから、さいわいの意味をあらわす。
このように、「しめすへん」の文字は、神に関する意味が含まれている。
だから、新字体の「ネ」は、「示」の本来の意味を損ねてしまったことになる。

4.弊害を免れた表外漢字
「しめすへん」の文字で、表外漢字は、この弊害を免れた。たとえば、
「祀(まつ)る」「祠(まつ)る・ほこら・やしろ」「祓(はら)う」「禊(みそぎ)」など、偏は「ネ」でなく、本来の「示」のままだ。
また、「祭」「禁」など、偏でなく、あしにある「示」も、難を免れた。

5.「しめすへん」でないのに、被害を受けた文字
「視」は、旧字体では偏は、「示」だった。「視」は、もともと、「しめすへん」でなく、「見(みる)」部だが、新字体で、「示」が「ネ」になってしまった。

<まとめ>

「示」から「ネ」へのわずか一画の簡素化は、こどもたちに、しなくてもよい苦労を強いていることになった。
私は、旧字体主義者ではないが、漢字のもつ本来の意味が失われるような簡素化は、漢字文化の国に住み、日々、漢字に接しているものとして、悲しいことだと思う。

「母」


漢字の話です。

1.「母」の解字(漢字の意義を解明すること。文字の成り立ちを分析すること)
 「女に二点を加えて、ははの意味を示す」(漢語林)。「乳房をつけた女性を描いたもので、子をうみ育てる意味」(漢字源)

2.「母」の部首と画数
 「毋(なかれ)」部。「毋」は4画だが、「母」は5画。

3.新字体で、「母(はは)」が「毋(なかれ)」になった例
・「」(6画)・・旧字体は、「母(はは)」で7画。解字は「頭に髪を結った母」で、次々と子をうむことに重点をおいたことば。
・「」(10画)・・旧字体は、「母(はは)」で、11画。解字は「多くの実をならせ、女の安産を助ける木」
これらは、画数でわずか1画減らしただけで、その漢字の持つ意味が失われてしまった。
・その他・・「海」「繁」「敏」「侮(あなど)る」「悔(く)いる」「晦日(みそか)の晦」など、旧字体の「母(はは)」は「毋(なかれ)」になった。

4.「母」が残った表外漢字
新字体は、昭和24年に当用漢字1850字のうち、約400字を簡略した文字だが、幸いにして、当用漢字に採用されなかった「母」を含む漢字は、その害を免れた。
・「苺(いちご)」・・「ちくびのような形の実になるいちご」(漢語林)。「艸(くさ)」+「母(はは)」で「どんどん小株をうみ出す」(漢字源)
・「拇(おやゆび)」・・「手」+「母」で、子どもに対する母のような、ふとい指。
・「栂(つが、とが」・・拇指(おやゆび)大の果実のつく木。
・「教誨(きょうかい)」などの「誨」

5.もともと「毋(なかれ)」だった漢字
ややこしいことに、もともと、「毋(なかれ)」だった漢字がある。「貫禄」などの「貫」。「習慣」などの「慣」、「毒」などは、もともと、「母(はは)」でなく、「毋(なかれ)」だ。

◎まとめ
「毎」「梅」などの新字体は、残念なことに、漢字本来の意味を失ってしまった。当用漢字に採用されず、その難を免がれた「苺」をうれしくおもう。

「辻」と「迷」と「謎」

【辻、迷、謎】

◎しんにゅうの旧字体
「しんにゅう」の旧字体は、4画。
もともと、しんにゅうは、「彳」と「止」の会意字で、7画。漢和辞典の7画の見出し字となっている。

「彳」は、「行く」、つまり、「道路」の意味があり、「止」は足、足跡を示し、しんにゅうの原型。それが、漢字の「繞(にょう・かこむの意)」になるときは、4画に略す。
阿辻哲次氏は、「部首の話」(中公新書)で、旧字体のしんにゅうの点が、2つあるのは、その第1画と第2画をそのままに残すべきと考えた結果だろうと、述べている。

◎しんにゅうの新字体
ところが、新字体(注1)で、しんにゅうが、点1つの3画になった。そのため、混乱が起きた。
つまり、
・当用漢字(現常用漢字)にあるしんにゅうは、点1つの3画。
・当用漢字でない漢字(表外漢字)のしんにゅうは、点2つの4画。

◎辻、迷、謎

・この3字のうち、
・常用漢字は、「迷」
・「辻」と「謎」は表外漢字。
・しんにゅうに関しては、「迷」が3画、「辻」と「謎」が4画。

・「謎」は、「言」偏(ごんべん)+「なぞ」だが、その「なぞ」のしんにゅう部分は、4画(点2つ)であり、3画(点がひとつ)ではない。

◎いいたいこと
・「迷」は、常用漢字だから、しんにゅうは、点1つの3画。
「迷」のしんにゅうは3画だが、「謎」は、常用漢字でないから、旁(つくり)の「まよう」部分のしんにゅう部分は、3画でなく4画。
・新字体で、しんにゅうの点を1つにして、3画としたことが、表外漢字との間で混乱のもとになっている。わずか、1画減らしただけなのに・・。


(1)新字体とは、昭和24年(1949)4月28日 内閣告示第1号の『当用漢字字体表』で提示された標準字体に対する呼称。

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

1.「芽」の新字体

新字体(注1)で「芽」の字の脚は、4画の「牙」から、5画に変わった。(私のパソコンに5画の「きば」の字がない。)
要するに、新字体では、「牙」の2画目(「ノ」と「一」を一気に1画で書く)が、2画目、3画目にばらされた。
新字体で、画数が増えた例である。
ところが、「牙」は、当用漢字(現在の常用漢字)でないから、4画のままである。
・「芽」のほかに、「牙」を含む字で当用漢字の「雅」「邪」の偏も新字体で、4画から、5画になった。
同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。
・一方、当用漢字でない「冴(さ)える」の「冴」、「穿(うが)つ」の「穿」、「谺(こだま)」「鴉」などの「牙」は、4画のままになっている。

2.なぜ、「芽」の脚を問題にするのか。
私は、以前にも、此の問題に触れた。
今日、我が家の庭に土と雪を割って出てきたチューリップの「芽」を見た。写真をご覧ください。
鋭い「牙(きば)」である。土と雪をはねのけるには、ものすごいエネルギーが必要だっただろう。
それには、「牙」が、なくてはならない。「芽」の脚は絶対に4画の「牙」でなければならない!
なぜ、国語審議会が、新字体で、わざわざ画数を増やしたのだろうか。
先の「内閣告示」には、「字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である」とある。
しかし、この「芽」などの画数増加は「字画の複雑さ」を促進させたに過ぎないと思う。
img20080323.jpg

力強く「芽」を出したチューリップを見るにつけ、改めて小論を書いた。


(1) 新字体・・正式には、昭和24年(1949)4月28日、内閣告示第1号で告示された「当用漢字字体表」という。

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座
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開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

◎報告の要旨
 本報告では、北海道開拓に入った羽越地方の移民の取扱いに関して、開拓使の担当部局の伺いの内容について考察し、開拓使の移民政策の一環を述べたい。

1.羽越からの庚午移住民の概況
明治2年12月、開拓使は酒田県(明治2年7月成立、酒田を中心とする庄内地方の旧幕領、旧藩没収地を管轄。後、山形県)に対し「今般当使本府石狩へ御取建ニ付、札&#32296;辺追々開墾ノ積、就テハ羽越国ノ内ヨリ農民男女三百人程移住為致度、此段申入候也」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)と、移民募集を依頼した。
「新札幌市史」にその経過が記載されている。要約すると、開拓使は、羽越地方(今の山形、新潟県)へ小貫直和権大主典、平田弥十郎少主典を派遣し、移民募集に当たらせた。
応募した農民は、翌3年3月から4月にかけて新潟、酒田を出発し、石狩を経て札幌に向い5月には土地割渡しを受けている。
以下、移民の入居先と人数は、次の通りである。村名は、明治3年が庚午年であることに由来する。(  )は、明治4年5月21日に改称された村名。
<山形移民>
・庚午一の村(苗穂村)36戸120人
・庚午二の村(丘珠村)30戸90人
・庚午三の村(円山村)30戸90人
<新潟移民>
 ・庚午四の村(札幌村)22戸96人

2.羽越移住民への移住手当
 先の「部類抄録七」は、「移住御手当向」として、次の内容が記されている。
① 出立当日ヨリ御賄
② 支度御手当男女小児共一人ニ付金三両
③ 家一軒、鍋二枚、蒲団一人ニ付二枚ツゝ
④ 一日金一朱ツゝ
⑤ 玄米一人ニ付五合ツゝ
⑥ 農具
 一方、「開拓使事業報告第2編(勧農)」には、各村への移住に対する扶助についての記事があり、例えば円山村への移住者について明治3年の項に「六月家屋及扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とあり、苗穂村移住者についても同年4月の項で同様の記事がある。また、丘珠村の項でも「五月耕地ヲ下付シ扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とある。
「例規ノ如シ」とは、何を指すのだろうか。前記「開拓使事業報告」によると、開拓使は、前年の明治2年11月、「仮に移住扶助規則を定め」(いわゆる「移住扶助仮規則」)ているから、この「仮規則」を指していると思われるが、先の「部類抄録七」の「移住御手当向」を比較すると、相違が見られる。

3.羽越移住民取扱方伺書
明治2年12月の羽越移住民への「移住御手当向」の内容は、「移住扶助仮規則」と比べてきわめて大雑把であるが、実際には、もっと細かな内容であったことが、「羽越移住民取扱方伺書」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)から、推測できる。
この伺書は、明治3年7月2日、開拓使開墾掛・荒井龍蔵から提出されている。(道立文書館所蔵「明治三年同四年書類」。以下「荒井意見書」という)この伺いは、移住民の待遇改善の要請といえる。以下、その内容を述べる。
①諸品代金の返済について・・日当引去は、「活計相立申間敷・・当地へ移住一銭の操合モ仕兼候儀ニ付、実以テ困窮仕候」。したがって、「諸品代金ノ儀ハ、冬仕事ヲ以テ為仕可申」
②玄米の扶助について
イ.「玄米五合」は、「農夫一人前ノ者ニ男女共食料、迚モ足合不申・・十五歳以上ノ男女ハ別段二合五勺ツゝ拝借被仰付度、独身ノ者ハ5合ツゝ来未年8月迄別段被仰付候様仕度」と要望している。
ロ.7歳未満の者へは1日3合づつだが、「聊四十余人」であり、一人2合減らしても1年で3石2~3斗だけで、平均5合扶助すれば「一統ノ人気ノ宜敷、一入難有」としている。
③農具について
イ.1軒に鍬、鎌、鐇、1丁づつという農具の給与は、「男女共十四歳以上ハ、人別ニ被下候様」、また、婦人へは、「鐇(注1)ヲ鉈ニ御替御渡被下度」と細かなことまで要請している。
④木綿などの貸付願い
⑤鉄炮・玉薬の貸付願い・・「開墾場ノ義ハ・・猛擒類は勿論、鹿多、甚当惑・・壱ケ村に鉄炮弐挺ツゝ、玉薬共御貸し被下度」と要請している。
⑥病人対策として食料備え願い・・「最早九人程死亡・・六十人余モ打伏罷有・・一向食付不申候ニ付、饂飩、素麺、白玉、或ハ梅漬ノ類・・何卒病人為食料掛ヘ御備被下度」と、要請している。
⑦開懇掛の充実について・・「荒井意見書」は、開墾掛は、開墾地の「最寄ニ詰合」すべきで、そのため、塩噌など諸品を備え置く蔵を開き役邸を取建てるよう要望し、また、開墾掛専任の大主典を人撰してほしい旨上申している。
⑧開墾場の用水確保のため、フシコサツホロ川の切開と本府からの新堀の開削を要望している。

 この「荒井意見書」は、移住民の窮状を知り、待遇改善を上申する官吏の心情が伺える。

4.明治3年12月布達の「移民規則」
 開拓使は、明治3年12月、5項目からなる「移民規則」を新たに定めている(「開拓使事業報告第2編(移民)」)。そのひとつに「来未年ヨリ三ケ年間一人前一日玄米七合五勺、一ケ月金二分ツゝ被下候事」とある。前年11月の「仮規則」が、「15歳以上玄米5合」であったのに比べ、年齢別の扶助区分はなく、しかも、一人当たり、2合五勺増加させている。これをみる限り、玄米の扶助に関しては、「荒井意見書」が生かされ、改善されたことになる。彼の他の要請がどのように受け入れられたか、または受け入れられなかったかは、今後の課題としたい。

◎おわりに
 本来、与えられた資料全体や、更に移民関係の資料を読み、関連文書も読み解き、開拓使の移民計画の実態を考察すべきだが、私の力量不足で、「羽越移住民取扱方伺書」(「荒井意見書」)を要約するにとどまったが、北海道開拓の初期に、開拓使が募集した移民に対する待遇に関して、その改善を要望した官吏がいたことに、私は注目し、その内容を紹介した。
 「移民扶助仮規則」や「移民規則」と、入植者への個々の対応の実態について、今後、機会があれば、検討を加えていきたい。

(注1)鐇=たつき。たつぎとも。工人の用いる広い斧(広辞苑)

【北という字】

【北という字】

◎知人と漢字の話をしていて、「北って、暗いイメージですね。敗北っていいますしね」といわれた。

◎漢和辞典を引くと、「北」の甲骨文は、二人の人が背を向けている会意文字でそむくの意味を表し、転じてにげるの意味を表す。
用例として、「史記」「三戦三北」を挙げ、「三たび戦い、三たび北(に)げる」と読み下している。「北」に、「にげる」「そむく」の訓読みがあるという。
また、人は明るい南面を向いて坐立するのを好むが、そのとき背にする方、寒くていつも背を向ける方角、きたの意味を表すとある。

◎「敗北」は、東や西ににげても、敗れてにげること。
「降北(こうほく)」は戦争に敗れてにげること。「遁北(とんほく)」は、「遁」も「北」もにげることで、にげ走るの意味。

◎「北」を含む文字に「背」がある。
「月(にくづき)」に「北」で、肉体のせなかで、転じて「そむく」の意味を表す。「背信」「背任」「背反」などの熟語がある。

◎私が重宝している「部首のはなし」(阿辻哲次著 中公新書)に「北」に関して中国の笑話が載っているので紹介する。

・結婚した男性に、翌日、悪友が集まってきて「夕べはどうだった?」とからかうと、男は指で地面に「北」の字を書いた。
・2日目の朝、友人からの同じ質問に対しては、「比」という字を書き、
・3日目の朝、しつこく同じ質問を発する悪友たちに対し、にやにやしながら、「臼」という字を書いた。

さて、この解釈は、みなさんにお任せする。

◎寒くて暗く、逃げたくなるような、「北国」にも、もうやく春がきた。
小鳥たちが、さえずりあっている様子は、漢字1字で表せば、さしずめ、「臼」があてはまるかも。

雛考

雛考

今日は、桃の節句。新聞のコラムなどにいろいろと書かれていますが、私流の「雛考」を書きます。

1.桃の節句

・いうまでもなく、5節句のひとつ。
5節句は、「人日(じんじつ)」「上巳(じょうし)」「端午」「七夕」「重陽」の5つ。
・「上巳」とは、陰暦3月の最初の「巳」の日のこと。
新暦の3月3日になってから、「重三(ちょうさん)」ともいう。
なお、「人日」は、陰暦正月七日の「ななくさ」をいう。

2.「雛」の字

①多くの人は、「雛」の字をこの時期しか見ないし、まして、このケイタイ・パソコン時代、ほとんど書かないし、書けない。
試しに「雛って書ける?」って周りの人に聞いてみてください。
「雛」は、平成2年にやっと人名漢字になった。
ちなみに、人名漢字は正確には、「戸籍法施行規則別表第二」の「人名用漢字別表」の漢字をいう。現在、983字が指定されている。

②「雛」の部首は、「隹(ふるとり)」部。

「とり」意味の部首は「鳥」「隹」「酉」と3つあり、まぎらわしいので、部首の読み方が区別されている。
・「酉」は、「ひよみのとり」「さけのとり」という。
「ひよみ」は「日読み」、つまり、「暦」のことで、「酉」は十二支の10位、方角は西、時刻は午後5~7時の間、季節は仲秋8月にあてる。
「さけのとり」というのは、「酉」は、もともと、酒器の象形で、この部首の漢字は、空を飛ぶ動物の「とり」を表す字はなく、「酒」「酌」「酔(よ)う」「醒(さ)める」「酎」「醸(かも)す」など、「酒」に関する字が多い。

なお、「医」(部首は「はこがまえ」)の旧字の「醫」は、「酉」部で、治療に酒(薬)を使ったことを示す字で、「医」では、意味不明だ。
・さて、「隹」だが、1字で、「尾の短いとり」の意味がある。甲骨文を見ると、ずんぐりした小鳥に見える。「小さい鳥」といえば、「雀(すすめ)」。「小」と「隹」の組み合わせだ。
また、「雁(がん)」の部首は、「がんだれ」でなく、「隹」部だ。「がんだれに雁がいない!」ことになる。
・「隹」の部首を「ふるとり」という。
「旧」の旧字「舊」の真ん中の「隹」をとって、「ふるとり」という。
ところで、「舊」は、「隹」の部首でなく、「臼(うす)」部だからややこしい。
・さてさて、「雛」の字だが、右側の「芻」は、「走」に通じ、こばしりする意味で、「こばしりするとり」から「まだ飛べないとり」、つまり、「ひな」の意味を表す。
また、転じて「小さい」「かわいい」という意味にもなり、「雛菊」「雛形」などという熟語に使われる。
・「雛」を使った熟語に「雛鳳(すうほう)」がある。「おおとりのひな」、転じて「将来有望な少年」のたとえ。私は、かって、紅顔の美少年のころ、「雛鳳」といわれた・・わけがない。

◎武士社会の官位

◎武士社会の官位
・律令官位は、律令制が崩壊し、実質的な意味が無くなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。徳川幕府は、官位を武士の統制の手段として利用した。「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離し、武家の官位の任命者は事実上将軍とした。
その「官位」部分を「官途名(かんとめい)」という。
たとえば、「南部大膳大夫利敬(としのり)」の「大膳大夫」部分、「松前若狭守章広」の「若狭守」部分が、官途名である。
律令時代は、「大膳大夫(だいぜんのだいぶ)」といえば、実際に、「大膳職」という役所の「大夫(だいぶ、長官)」であったが、武士社会では、単に、みずからを権威づけのための官途名に過ぎない。
「若狭守」も、律令時代は、実際に「若狭」国の「守(かみ、長官)」であったが、松前藩主を権威づける「官途名」に過ぎない。
◎明治政府も利用した官位
・明治政府も律令時代の官位を利用した。
・律令時代、「民部省」「兵部省」などという役所である「省」の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に「卿(かみ)」「輔(すけ)」「丞(じょう)」「属(さかん)」といった。なお「輔」「丞」「属」には、それぞれ大少があり、「大輔」「少輔」と細分化されていた。
・明治政府は、これを使い、「省」の官名を「卿(きょう)」「輔(ふ)」「丞(じょう)」「属(ぞく)」と読んだ。たとえば、「内務省」の場合、大久保利通「内務卿」、大山巌「内務大輔」というたぐいである。
◎開拓使の職名について
ついでながら、明治政府の開拓使の官位を述べておく。
・律令時代、「勘解由使(かげゆし)」などの「使」の役所の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に、「長官(かみ)」「次官(すけ)」「判官(じょう)」「主典(さかん)」と読んだ。これも「判官」「主典」には、大少があった。
・開拓使の職名もこの官位を使った。読み方は、「長官(ちょうかん)」「次官(じかん)」「判官(はんがん)」「主典(しゅてん)」と音読みに変わった。黒田清隆「開拓長官」、松本十郎「開拓判官」というたぐいである。

官職名としての国司

官職名としての国司
◎はじめに
ある研究会で、「淡路守、出羽守などというが、淡路とか、出羽などの国によって位の上下あったのか」という質問が出された。
官職は、律令時代と江戸時代では、大きく異なるので、まとめてみた。結論からいうと、律令時代は、由緒ある正式な職で、名前によりランクが付けられていたが、江戸時代の大名や幕吏が国司などの官職を名乗る場合は、形骸化し、名前による上下はなくなっていた。

Ⅰ.律令時代(大化改新後~奈良時代・平安前期まで)
別紙添付の表は、「官職要解」(和田英松著、講談社学術文庫)である。これを見るとわかるが、もともと、律令制では、国は、大・上・中・下の4等に分けられていた
1. 4等級は、何を基準に分けられたか。
・和田英松氏は、前掲書のなかで、「詳細のところはわからない」としながら、諸文献を引用し、「住民の多少、開墾が行き届いておるかおらぬかによったので、つまり、国庫収納の多少をもとにして定められたものらしく思う」と述べている。
2. 律令時代の国司の官職
・国司(こくし)は、国々を収める役人で、「クニノツカサ」ともいわれた。京都の役人を「内官」といったから「外官(げかん)」ともいわれた。
・国司が政務をとるところを、「国府」とか「国庁」などと呼ばれた。
・国司長官は「守(かみ)」、次官は「介(すけ)」、以下「掾(じょう)」「目(さかん)」「史生(ししょう)」があった。
さらにいえば、「守」の下に「権守(ごんのかみ)」があり、「掾」「目」には、大少があったから、全部の官職を上から並べると、
守、権守、介、大掾、少掾、大目、少目、史生という順になる。
・なお、諸国のうち、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)は、親王の任国であったので、長官を太守(たいしゅ)といった。したがって、この3国では、もっぱら「介」が政務をとっていたから、この3国の「介」は、「守」ともいった。
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札幌近郊の村々のなりたち

◎はじめに
・札幌の発展の基礎を築いた人々をまとめてみた。
・なお、昭和45年(1970)100万人突破。47年(1972)政令指定都市となる
現在(2008年2月1日)、868,415世帯1,895,581人

1. 江戸時代のサッポロ・・商場とサッポロ七場所
・寛文9年(1669)・・ハツシャブ、サツホロ(津一統志)
・元禄12年(1699)・・「沙津保呂(サツホロ)」が、松前藩家臣の谷梯(やつはし)倉右衛門、高橋五右衛門の支配地でアイヌとの商場となっていた。交易品は、サケ、タカの尾羽、熊胆、毛皮など
・宝暦5年(1755)・・飛騨屋久兵衛が松前藩に運上金を支払い、伐木を始めた。札幌川(伏古札幌川と豊平川が連絡)をさかのぼって、マコマナイを越え漁川上流で伐木、杣夫は二百人前後の和人。
・寛政年間(1789~1801)には商場の整理され、イシカリ13場所と称され、サッポロ7場所(ハッシャブ、下サッポロ、上サッポロ、下シノロ、上シノロ、下ツイシカリ、上ツイシカリ)といわれた。アイヌ戸口は58戸・262人。
・文化4年(1807)の状況・・アイヌとの交易・商場としての札幌。
ハツシャブ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ34人
下サツポロ・・請負人京極屋喜兵衛、アイヌ119人
上サツポロ・・請負人浜谷甚七、アイヌ187人
シノロ・・請負人筑前屋清右衛門、アイヌ125人
ナイホウ手場(直領)・・請負人梶浦屋吉平、アイヌ28人
上ツイシカリ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ106人
下ツイシカリ・・請負人直次郎、アイヌ不明
合計約600人のアイヌの人々の集落があった。運上金合計375両
・サッポロは、石狩川支流の商場でしかなかった。
・しかし、ロシアの北方進出で、石狩地方は、箱館と樺太の中間基地として重視されるようになった。
2. 札幌越新道の開削
・近藤重蔵のサッポロ本府論・・ロシアに対峙するには、「イシカリ川筋カバト山、浜通りタカシマ、ヲタルナイの奥、またはサッポロの西テンゴ山の辺りに拠点を置くのがいいと意見を述べている。
札幌に着眼した点からも重蔵は、札幌創建の基石おいた人物といえる。
・安政4年(1857)札幌越新道(銭函~星沖~発寒~豊平~島松~勇払)の開削。銭函道(銭函~豊平)、千歳道・千歳越(豊平~勇払)とも。
→札幌が陸上交通の要衝(ようしょう)となった。
・松浦武四郎の石狩建都構想・・近藤重蔵の石狩建都の構想を具体化しようとして、ツイシカリから3里ほどさかのぼった豊平あたりを絶好の場所と考え、アイヌの乙名にも相談のうえ、箱館奉行に進言した。「そこに本府がおかれれば、そのうち、石狩川河口は大阪のように繁盛し、10里さかのぼったツイシカリは伏見に匹敵する土地となり、さらに川舟3里のぼった札幌は京都と同じになろう」と考えていた。
3. 村落の形成
① ハッサム(発寒)村
・安政4年(1857)イシカリ在住武士の入地の中心地。リーダー秋山繁太郎らが入る。
・在住制・・手当を支給される武士が農民を募集し、開拓した土地は在住がいる限り永久に給与されることを骨子とした制度。
・明治3年(1870)発寒村となる。26戸
・明治5年(1872)手稲村を分村。
・明治9年(1876)屯田兵村がつくられ32戸入植。養蚕も盛んに行う。
・明治20年(1887)琴似から小樽内川まで新川を造成。
・明治39年(1906)琴似村に併合、琴似村の大字となる。
② 琴似村
・明治4年(1871)辛未一の村に入植した東本願寺住民が入植、50戸182名が八軒、十二軒、二十四軒分かれて集落を形成。
・明治8年(1875)青森、宮城、酒田各県の士族など198戸965人が移住、屯田兵村を形成。20,21年には、更に220戸が移住し新琴似兵村がつくられる。
・明治39年(1906)発寒村、篠路村の一部をもって2級町村琴似村が成立
・昭和17年(1942)手稲村大字下手稲村の一部を編入、琴似町となる。
・昭和30年(1955)札幌市の一部となる。
③ 篠路村
・安政6年(1859)石狩在住の荒井金助がシノロ地域で農民を募集して開墾、「荒井村」が成立。福島・白河藩の職人・早山清太郎が開墾に入る。(上荒井村、下荒井村に分けて把握されていた)
・在住・中嶋彦左衛門もコトニ川支流のケネシベツ川に入植。農民を募集し、「中嶋村」が成立。
・明治4年(1871)、上荒井村、下荒井村、中嶋村を合わせて篠路村と呼称するようになった。「十軒」集落・・南部盛岡藩士10戸が入植。
・明治15年(1888)、福岡県人の開墾社が入植。「福移」集落の形成。
・同年、興産社、徳島から入植。藍耕作を始める。「あいの里」
・明治22年(1889)、屯田兵村220戸。福岡、熊本、山口、徳島、和歌山、福井、石川56県から入植。
・明治39年(1906)2級町村篠路村が誕生。
・昭和30年(1955)札幌市に編入。福移の一部は、江別市に編入。
④ 手稲村
・明治5年(1872)、仙台・白石藩の伊達邦憲(くにのり)家臣600人のうち、藩士三木勉らが、54戸240人が発寒村に移る。手稲村を設置。7年(1874)星置方面が下手稲村に分村、本村側は上手稲村と改称。
⑤ 山口村
・明治15年(1882)山口県から17戸が移住をはじめとして明治27年ころまで、移住が続く。
・明治35年(1902)下手稲村、上手稲村、山口村がいっしょになり「手稲村」となる。
・昭和26年(1951)町制施行して「手稲町」になる。
・昭和42年(1967)、周辺町村では最も遅く札幌市に編入。
⑥ 札幌村
○札幌元村
慶応2年(1866)石狩在住の大友亀太郎はフシコサッポロ川上流の地に御手作場といわれる開墾場を設置、4年にかけて23戸95名、更に明治2年(1869)に、4戸11名が入植。
○庚午一の村(のちの苗穂村)・・庄内藩の坂野元右衛門組36戸120人が入植。
○庚午二の村(のちの丘珠村)・・酒田県人今野徳治組44人、一戸直吉組51人の30戸
○庚午四の村(のち札幌新村)・・明治3年(1879)開拓使が柏崎県から募集した農民22戸96人を入植させた地。原伝左衛門組22戸96人。
ほかに、岡田忠兵衛組59人。

*明治3年(1870)、庚午(かのえ・うま)の年にフシコサッポロ川の両岸に定着した募移民は88戸308人。(「まちの歴史講座」)

○雁来村・・明治4年(1871)宮城県人岡田三郎右衛門組24戸(3戸は生降、21戸が江別の対雁に入植)→6年、豊平川左岸(苗穂駅東の自衛隊駐屯地から北13条大橋にかけての地)に移転、開拓使は雁来村と命名。

*明治3年(1870)から7年にかけて、107戸360~370人の募移民と、御手作場の人たち、自移民、アイヌの人たちが一体となって、今の東区の村づくりが進められた。(「まちの歴史講座」)
*明治35年(1902)、これらの村々がいっしょになって2級町村・札幌村が誕生。
*昭和30年(1955)札幌市に編入。

⑦ 円山村
  ○庚午三の村
・山形県人日田豊三郎組、本間作治組が入植。(のち円山村)
  ・また、新潟県の石野平八郎組も入る。(発寒村に編入)
  ○円山村
・明治4年(1871)、庚午三の村が改称して成立。同年、札幌神社建立。
  ・明治39年(1906)、山鼻村といっしょに、藻岩村となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4つの字(あざ)を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑧ 山鼻村
・明治4年(1871、辛未=シンビ、かのと・ひつじ)東本願寺(明治3年建立)付近に、越後から募集した40人の農夫と、札幌で募集した50戸が入植し、「辛未一の村」が成立。しかし、同年中に円山村、琴似村に全戸が移転。
・明治7年(1874)、農民数戸が石切道(石山道路)を中心に入植し開村。
・明治9年((1876)、東屯田通(現西9丁目通)に120戸、西屯田通(現西13丁目通)に120戸の屯田兵が入植。
・明治39年(1906)、円山村とともに、「藻岩村」となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4字を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑨ 白石村
・明治3年(1870)、旧仙台藩白石城主片倉邦憲は旧家臣団を率いて幌別に入植。一派が石狩を経て望月寒に入植。「望月寒村」と称した。のち故郷白石にちなみ、「白石村」と改称。5年の戸数104戸380人。
・6年(1873)、26戸が豊平川沿岸に移住、上白石村を形成(はじめ「新白石村」ともいった)。
・これに伴い、白石村は「下白石村」とも称された。
・明治35年(1902)、上白石村と白石村が合併し2級町村白石村が誕生。
・明治43年(1910)大字上白石村の一部を札幌区へ編入。
・昭和25年(1950)札幌市の一部となる。

⑩ 豊平村
・安政2年(1855)、豊平川に渡船場が設けられ志村鉄一が橋守となる。
・安政4年(1857)、千歳越(札幌越新道とも)が開削されると宿泊所も設置された。
・明治5年(1872)から移住者が入り、明治7年(1874)、豊平村となる。
・明治35年(1902)豊平村、平岸村、月寒村が合併し2級町村豊平村が成立。
・明治41年(1908)、町制施行、札幌周辺町村では、一番早く町制施行。
・昭和36年(1961)札幌市の一部となる。
⑪ 平岸村
・明治4年(1871)、杉本平九郎(旧仙台藩士)が、岩手県(胆沢県=いさわ・県都は水沢、現奥州市)の士族・農民65戸が入植、開村。のち福岡県から21戸が入植。
・明治9年(1876)、開拓使、真駒内牧牛場設置。15年(1882)ころからリンゴ栽培も行われた。
・明治8年(1875)には、石山、穴の沢で軟石の採取が始まる。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。
⑫ 月寒村
・明治4年(1871)盛岡県から43戸185人が入植。当時千歳通といわれていた。
・明治17年(1884)以後、広島県人が入植、26年(1893)広島村として分村。
・明治29年(1896)第7師団独立歩兵大隊が置かれたのをはじめ、多くの軍事施設が設けられた。軍都の形成に伴い人夫の流入も増大して千歳街道沿いは市街地化した。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。

<参考文献>
・「角川日本地名大辞典」(角川書店)
・「新札幌市史」(札幌市教育委員会編)
・「ひがしく再発見 まちの歴史講座」(札幌市東区役所編)

今年は、カエル年

あまり知られていませんが、今年は、国際自然保護連合(IUCN)と世界動物園水族館協会(WAZA)が提唱する「国際カエル年」です。
世界中に生息する両生類5743種のうち、
2469種(43%)が減少し、
1856種(32%)が絶滅のおそれがあり、
1980年以降、120種が絶滅したそうです。
原因のひとつの「カエルツボカビ症」が、ついに日本にも上陸したとのこと。
環境省は、2006(平成18)年に日本の絶滅危惧種21種(前回平成9年は14種)の両生類を発表しました。
北海道に生息する両生類では、「利尻島・礼文島のエゾアカガエル個体群」が指定されています。
環境省は、「小規模な開発または外来生物による影響、一部の種ではペット用の捕獲による影響」と示唆しています。
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