森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

「龜」の書き順

私が参加している「古文書解読」の講座や学習会では、「くずし字を(声を出して)読む」ことに重点がおかれ、「古文書を正しく書き下す」ことがあんまり重視されない傾向にあります。
私は、「まず、書かれた通りに書く」ことも、大事だと思っています。
漢字にせよ、仮名にせよ、日本の文化だと思うからです。
特に、旧字体には、漢字の成り立ちの意味がこめられていると思います。
ネットに「漢字の正しい書き順」というサイトがありましたので紹介します。
下です。
http://kakijun.main.jp/

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日本初のスケーター

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先般、歴史学同好会主催の歴史講座で、札幌大学の川上淳氏の「ラクスマン来航と大黒屋光太夫」の講演を聴き、面白いことを聞きましたので、書きます。

「ラクスマンは、日本初のスケーターだった」という話です。
ラクスマンが、光太夫を伴って「エカレリーナ」号で根室港に入港したのは、寛政4年(1792)9月4日のこと。
一行は、幕府役人を根室で待機するためもあって、根室で越冬するのですが、結氷した根室の海でスケートに乗るラクスマンが描かれた絵図が愛知県刈谷中央図書館に所蔵されています。
図ではスケートのことを
「エギライ ドロバス ト云 
 一名 コーニキー 」
とあります。
根室市では、「スケート発祥の地」と宣伝をしているが、川上氏は、「なかなか浸透していない」と、苦笑されておられた。

ひびが入った氷の間をすべる人物とスケートの軌跡が描かれていて興味深いです。


カムチャッカに「嘉兵衛」峰が誕生

<特大<太>>2006年は、ゴローニン副提督とリコルド提督の生誕230年、高田屋嘉兵衛生誕235年に当たり、ゴローニンの子孫ピュートルゴローニン氏が「事件を後世に伝え、友好の証を刻みたい」として、ロシア地理学会を通してカムチャッカ州政府に同地の無名峰に、ゴローニン、リコルド、嘉兵衛の3人の名を付けるよう提言し、それが受け入れられ、同州のナリチェボ公園内の無名峰に、「嘉兵衛峰」が誕生した。高さは1054メートル。
ナリチェボ公園は、1996年にユネスコ世界遺産にも登録された美しい公園。(サッポロ堂書店発行の広報誌より)

「蝦夷紀行」の来歴~岡野義知にふれて

◎はじめに
「蝦夷紀行」は、北海道立文書館(以下、文書館)所蔵の「旧記」である。文書館編の「北海道の歴史と文書」によると、「旧記」とは、「主として近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録等」のことである。文書館所蔵の旧記は2341点あり、「蝦夷紀行」の請求番号は「旧記1782」である。
1. 原本と写本の来歴
① 原本・・著者・館野瑞元の文化4年(1807)9月29日付、長橋右膳宛の手紙。
② 「定所主人」の「抄写本」
・奥書に、翌文化5年(1808)9月18日付けで、「原文繁して、且ながければ刪潤してうつし置」とある。原文はもっと長かったことが窺える。「刪潤」とあるから、削ったばかりでなく、補った箇所もあることになる。「定所主人」は館野の原本を見たことになる。彼は、原本を写したのではなく、「刪潤」したのだから、写本でなく、いわゆる「抄写本」ということになる。
・また、「蝦夷紀行」と題したかどうかについては、「此書簡・・蝦夷地に行たる事を記したる也」とあるから、まだ、「蝦夷紀行」とは題されていないことになる。
・「定所主人」は、不明。彼が、「原文」を入手した経過もわからない。
③ 「岡野みなもとの義知」(以下「岡野氏」)の写本
・さらに、「定所主人」の奥書の後に、岡野氏の奥書があり、「ある書房にて・・かひもとめ・・つたなき、ふんてとりて、かく写しぬ」とある。だから、「抄写本の写本」ということになる。
・岡野氏は、「此蝦夷紀行」を買ったのだが、当初から「蝦夷紀行」と題されていたのか、彼が題をつけたのか、または、題はなく、単に「蝦夷地の紀行の本」だったのかは、分からない。
・現在、道立文書館所蔵の「蝦夷紀行」は、岡野氏が購入し所蔵したものであり、「蝦夷紀行」と表題がある。
 <その根拠>
 ・奥書の最後に、岡野氏の署名と朱印2つがある。ひとつは丸印で「義知」、もうひとつは、角印で「岡野」とある。
 ・さらに、表紙裏に「岡野氏文庫」という縦長の朱印がある。
◎岡野義知について
○著書
「鬼怒川小貝川用悪水路図」
・彩色 60.3×209.5cm、明治大学図書館蘆田文庫所蔵)
・奥書・・「嘉永元年葉月中の十五日 岡野義知しるす」
*「蝦夷紀行」の奥書・・ 「卯月末の九日」
○写本
「蝦夷島奇観」の手写し(坂本龍門文庫所蔵)
岡野義知は幕末の絵師   → 「蝦夷紀行」の付図も岡野の手になる
2. 道立文書館所蔵の来歴
① 旧記の収集・・前掲書によると、北海道では、開拓使以来、献納、購入、書写などして、精力的に旧記の収集に努めた。これらには、所蔵に帰した時代と担当係、その後の引き継ぎ経過によって、「開拓使印」「函館支庁印」「記録局編輯課」「札幌県図書印」「北海道庁之印」などの蔵書印が押され、その来歴を知ることができる。
② 札幌県時代・・「札幌縣圖書印」
・「蝦夷紀行」の表紙の蔵書印がふたつあり、そのひとつは「「札幌縣圖書印」。
・明治15年(1882)2月8日、開拓使が廃止され、「札幌県」など3県が置かれた。札幌県では、翌16年12月、「札幌県図書取扱手続」を達し、図書にはすべて「札幌県図書印」を押し、旧記は記録局編輯課が保管することになった。
・「蝦夷紀行」には、「開拓使印」はないので、札幌県時代に収集されたと思われる。
・なお、旧所蔵の「星野氏」に関する印は、墨で「×」され、さらに、その上に和紙
   されている。「蝦夷紀行」の所有が、星野氏から、札幌県に移ったことがわかる。
③ 北海道庁時代・・「北海道廳圖書之印」
・明治19年(1886)、3県を廃止し北海道庁が置かれた。図書の管理は第一部記録課の所管になり、20年、北海道庁訓令で図書管理が規定され、「北海道廳圖書之印」を押すことになった。
 ・明治42年(1909)1月12日、赤れんが庁舎火災のおり、図書類も損害を蒙ったが、「蝦夷紀行」は、難を免れた。
④ 道立文書館
・「蝦夷紀行」など旧記や諸文書の保管・利用は、その後、総務部文書課史料編集係を経て、昭和43年(1968)に、総務部行政資料室(のち課)が設置された。
・昭和60年4月1日、「北海道立文書館条例」が公布され、7月1日開館した。旧記をはじめ、諸文書が保存されている。
◎まとめ
・文書館にある館野瑞元の「蝦夷紀行」は、館野の手紙の「抄写本の写本」ということになる。
現在、「蝦夷紀行」は、北海道総務部法制文書課の中の組織である北海道立文書館が保存・利用にあたっている。・したがって、「蝦夷紀行」の筆跡は、「岡野みなもとの義知」なる人物である。
<参考文献>
・「北海道の歴史と文書」(北海道立文書館編、北海道出版企画センター刊、1987)

「西蝦夷地大辺」

1.北大文書
北大付属図書館に「西蝦夷地大辺写之」と題する文書がある。文化3~4年のロシア船の北辺襲撃事件が巻き起こした騒動を小倉百人一首のパロディで風刺した16首の落首が、横13センチ、縦33センチの和紙5丁に記載されている。
2.江戸も大変
 この文書の表紙に「辰六月二四日磯乃助様より借り写之」とある。いわゆる「文化丁卯事件」について、江戸に落首があらわれたのは、それ以前ということになる。
 ロシア船のエトロフ襲撃が、箱館に到来したのは、5月18日、赴任途中の戸川安論が金成宿(仙台国分町説も)知ったのは、同月23日のこと。幕府が、目付遠山金四郎景晋に蝦夷地出張を命じたのは6月6日。
 文化4年6月に入って、天下泰平の江戸は、「大変」になった。
3.「玉や振る・・・」
 さて、落首のいくつか私なりに書き下して紹介する。ご存知かと思うが、元歌を括弧書きした。
●浜辺赤人(山辺赤人)
 蝦夷の浦に 打出見れば (田子の浦に うちでて見れば)
 うろたえの 不時の   (白妙の 富士の)
 さわぎに 武きはふりつつ(雪は 降りつつ)
●大将なごん(清少納言)
 玉こめて 筒のそら音は (夜を込めて 鳥の空音は)
 はかるとも 世にも   (はかるとも 世に)
 おろしあの 舟はゆるさじ(逢坂の 関は許さじ)
●各々こまり(小野小町)
 浜人は 打たれにけりな (花の色は 移りにけりな)
 えとろふに 遠目鏡にて (いたづらに 我が身世にふる)
 ながめせしまに     (ながめせしまに)

「旧浦河公会会堂」ついて~明治のキリスト教徒開拓者に触れて~

1. 初代会堂(正式名称は「学校兼会堂」)の銅版画
・初代会堂は、明治17年12月27日落成。義援金344円余が集められ、梁行3間、桁行7間。(「荻伏百年史」)この初代「会堂」は、赤心社が子女の教育と社員・地域住民の修養を目的に建立。
・、「新北海道史」編集機関誌「新しい道史43」(昭和46年2月発行)の表紙となった銅版画。初代の「会堂」の珍しいもの。
・元の絵は、当時の旅行案内といえる「内国旅行日本名所図会」(注1)嵩山堂発行(=大阪市心斎橋筋博労町、明治22年11月)巻之五の挿画。
・銅版画・明治16年11月、手宮~幌内間の鉄道が開通し、北海道開拓はいよいよ本格化しようとしていた時期。一方、印刷界では、北海道でも銅版技術が普及しはじめた時期。
・実は、当時の荻伏の入植地の風景写真をモデルに銅版画に模写したもの。
・写真・銅版画の風景・・プラウ、ハローなど畜力農具の導入。大きな納屋など集団農場の風景。

2. 2代目の「会堂」と開拓の村に移転された「旧浦河公会会堂」
・開拓の村に移設復元された旧浦河公会会堂は、「明治27年に新しく建築された教会堂」(「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」以下「あゆみ」)という。つまり、2代目の「会堂」。
① 2代目の「会堂」
明治27年に485円の寄付金で建築。の看板には「浦河組合基督教会」とある。
この建物を建てた組織が、「浦河組合基督公会」。明治19年(1886)6月26日設立された(設立者13名、受洗者18名)。明治31年(1898)に「元浦河組合基督教会」と改称された。
したがって、開拓の村の建物が、明治27年建設の建物の移設復元とすれば、建物の名称は正しくは、「旧浦河組合基督公会会堂」か、あるいは単に、「旧浦河組合基督教会」。
② 「浦河組合基督教会」の増築
 昭和5年(1930)、「会堂」が2階建てに増築された。この建物が、昭和58年(1983)まで89年間、現地で使用されていた。
③ 開拓の村の収集・復元の経過
「あゆみ」によると、昭和53年(1978)3月21日の浦河沖地震で会堂は使用が危険な状態となり、「4月の総会で開拓の村移設を前提とした取壊しを決議し、寄贈の申し出を受けた」とある。解体収集工事は、昭和58年10月~11月。480万円。復元工事は昭和59年11月~60年3月。工事費2122万円。
④ 開拓の村移設の「旧浦河公会会堂」
2階建てであり、昭和5年の増築「会堂」の移設復元といえる。

3. キリスト教徒による北海道開拓
・「北海道キリスト教史」には、「開拓者によって生まれた教会」として、図
表を掲げている。そのうち、浦臼の「聖園農場」と、今金の「インマヌエル村」
に触れる。
① 聖園農場
・明治26年(1893)、高知の武市安哉(あんさい)(注3)が移民青年26名を率いて、当時の樺戸郡月形村ウラウスナイの札的川(サツテキナイ)周辺に入植。(明治32年に分村して浦臼村となる)189万坪の貸し下げが認められ、キリスト教義による理想農村とすべく「聖園農場」と名づけた。
本部は8間に5間の掘立小屋で、教会も兼ねていた。翌27年5月には、学校を兼ねた教会堂が建設された。
・坂本直寛の援助
明治31年9月の豪雨(注4)で教会堂は大破損、信者も家、畑を失い、離村者も出た。牧師も家を流され引き上げ、教会は危機に面した。
そのとき、教会を支援した人物が、坂本直寛。(注5) 「北海道キリスト教史」より明治35年、旭川講義所の伝道者となり、浦臼を離れた。
② インマヌエル村
・明治24年、京都同志社の学生・志方之善(組合教会派。妻は、日本初の女医荻野吟子)と丸山伝太郎は、瀬棚郡利別原野目名(当時は瀬棚村。のち明治30年、分村し利別村となる。昭和22年から今金町)に入植。この原野は犬養毅、尾崎行雄らが国民党の資金対策として農業経営を企図し、2035万坪の貸付を受けていた。志方は犬養と協議し、200町歩の代耕を許された。
・一方、聖公会派の天沼恒三郎(埼玉出身)も明治26年に入植し、この地をインマヌエル(「神、われとともに存す」という意味)と名づけた。昭和8年まで、利別村の字名だったが、「神丘」と改正。
・明治28年、聖公会派が草葺きの礼拝堂を建て、「利別教会」とする。
・明治31年、組合教会派が笹小屋の「インマヌエル教会」を建てた。
③ その他
・伊達に入植した伊達邦成も、開拓の難事業の精神的基盤をキリスト教に求め、邦成と家臣の田村顕允(あきまさ)は、函館の聖公会宣教師デニングについて入信受洗した。中でも田村は、も熱心なクリスチャンとなった。
<注>
1.内(1)国旅行日本名所図会・・副題に「Guide Book For Travellers Around Japan」とあるから、今日の旅行案内。
2.浦河組合基督教会・・「浦河組合基督公会」の「会堂」。「組合教会」は、会衆派教会(Congregational Church)系のキリスト教の一派。札幌農学校のクラークもこの派に属していた。
3.武市安哉(たけいちあんさい)・・弘化4年(1847)、高知藩士武市半平太の子に生まれる。板垣退助率いる自由党に入り、自由民権運動に参加。県議の時、禁固刑を受ける。明治25年衆議院議員。翌26年、「土佐百年の計を建てる時」と、代議士を辞職し、北海道拓地移民となる。明治27年、青函連絡船の船中で病死。46歳。
4.明治31年9月の豪雨・・9月6日~7日にかけて全道を襲った。特に石狩川流域は大きな被害が出た。死者248人、流失倒壊家屋3500戸余、田畑の浸水5万6000町歩。杉田定一北海道庁長官が上京し、国庫から災害復旧費・官営鉄道復旧工事費83万円を支出させた。
5.坂本直寛・・17歳で坂本龍馬の兄権平の養子となる。板垣の自由民権にも参加。明治28年、北見のキリスト教開拓団・北光社の社長となる。明治31年の大洪水では、青年時代に薫陶を受けた板垣内務大臣に救援金を要請。

<参考文献>
・「浦河赤心社開墾地会堂之図」(高倉新一郎著、「新しい道史43」所収、1971)
・「荻伏百年史」(荻伏百年史編さん委員会編、1983)
・「浦河百話」(「グルッペ21うらかわ」編、1991)
・「北海道キリスト教史」(福島恒雄著、日本基督教団出版局、1982)
・「北海道開拓の村 整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊、1992)
・「浦臼町史」(浦臼町史編さん委員会編、1967)
・「今金町史」(今金町役場編、1958)
・「今金町史上巻」(今金町史編集委員会編、1991)
・「新北海道史年表」(北海道編、1989)

【太政官の建物はどこにあったか】

太政官とは、「天下の権力総てこれを太政官に帰す」(政体書)と規定された、明治初期の日本の最高官庁。
 「太政官」の役所の所在地がどこだったかを述べる。

・慶応4(1868)閏4月21日、政体書を定め、太政官のしたに、7官2局を置く。太政官は京都御所に設置された。
・明治2(1869)年2月24日・・明治天皇東京滞在中、太政官は東京に移転することを達し、皇城内西の丸に置かれる。
・明治5(1872)年3月・・西の丸下に太政官庁舎を造営。
・明治6(1873)年5月5日・・皇城の火災により、多くの公文書類もろとも、太政官庁舎は焼失。即日、赤坂離宮が仮皇居と定めるが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に「太政官代」が設置。
・明治10(1877)年8月・・しかしながら、「万機を親裁」する天皇が居住する赤坂離宮と太政官庁舎との間に距離があるのは不都合であるとして太政官を赤坂仮皇居内に移転。
・明治11(1878)年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が赤坂仮皇居内に新築。以後、内閣制度発足の明治18(1885)年12月22日までは太政官庁舎となり、明治22(1889)年1月まで内閣庁舎として使用された。

(参考:国立公文書館ホームページ「デジタルギャラリー」)

カタカナの「ヲ」

カタカナの「ヲ」について

◎漢字の「」の最初の3画を転用してできた。
なお、「乎」の読み方は、漢音では「コ」、呉音では「オ」(ヲ)
◎書き順
したがって、書き順は
「一」→「ニ」→「ヲ」と3画に書くのが正しく、
「フ」→「ヲ」の2画で書くのは間違いといえる。

江戸から佐井まで

<奥州街道と南部北通り>
幕府の道中奉行(勘定奉行の管轄)の直轄であった白河までは早くから整備ざれていた。ところが白河以北となると、脇街道的存在となっており、宿駅の数も一定せず、千住~三厩間113次、89次、75次など、増減がはなはだしい。また、「間宿(あいのしゅく)」(正規の宿駅間に設けられた休憩の宿)もあるので、余計にややこしい。街道の呼び方も、江戸期の「道中記」には、特に白河以北は、「仙台道」「仙台松前道」「南部道」など、いろいろあり、一定していない。宿名もいろいろな字があてられている。読み方もいろいろある。なお、盛岡~日本橋間は139里あり、11泊~13泊の旅程だった。
更に、盛岡以北となると、参勤交代の大名の往来も八戸南部藩、松前藩の二家が通過するだけで、宿駅といっても領内の宿屋と同程度であった。奥州街道は整備され始めたのは、北辺警備問題が起ってからである。人馬・貨物の往来の増加で、面目を一新する必要が生じた。
ところで、野辺地から分岐して田名部に至り、更に、佐井までを、「北通り」「田名部通り(道)」などといった。この地は、中世から「北郡(きたごおり)」と呼ばれ、江戸期には、「北郡」(きたぐん)と呼ばれた。「下北郡」と「上北郡」に分かれたのは、明治11年である。なお、田名部から南部城下の盛岡まで約54里で、夏は「5日路」、冬は「7日路」として旅したという。
<日光街道の宿場>
1. 千住(せんじゅ・東京都足立区)
2. 草加(そうか・埼玉県草加市)
3. 越ヶ谷(こしがや・埼玉県越谷市)
4. 粕壁(かすかべ・埼玉県春日部市)
5. 杉戸(すぎと・埼玉県北葛飾郡杉戸町)
6. 幸手(さって・埼玉県幸手市)
7. 栗橋(くりはし・埼玉県北葛飾郡栗橋町)
8. 中田(なかた・茨城県古河市)
9. 古河(こが・茨城県古河市)
10. 野木(のぎ・栃木県下都賀郡野木町)
11. 間々田(ままだ・栃木県小山市)
12. 小山(おやま・栃木県小山市)
13. 新田(しんでん・栃木県小山市)
14. 小金井(こがねい・栃木県下野市)
15. 石橋(いしばし・栃木県下野市)
16. 雀宮(すずめのみや・栃木県宇都宮市)
17. 宇都宮(宇都宮城下)(うつのみや・栃木県宇都宮市)→奥州街道へ
18. 徳次郎(とくじろう・栃木県宇都宮市)
19. 大沢(おおさわ・栃木県日光市)
20. 今市(いまいち・栃木県日光市)
21. 鉢石(はついし・栃木県日光市)
<奥州街道の宿場>
1. 白沢(しらさわ・栃木県宇都宮市)
2. 氏家(うじ
3. いえ・栃木県さくら市)
4. 喜連川(きつれがわ・栃木県さくら市)
5. 佐久山(さくやま・栃木県大田原市)
6. 八木沢(やぎさわ・栃木県大田原市)
7. 大田原(おおたわら・栃木県大田原市)
8. 鍋掛(なべかけ・栃木県那須塩原市)
9. 越堀(こしぼり・栃木県那須塩原市)→<間宿>寺子(てらご・栃木県那須塩原市)
10. 芦野(あしの・栃木県那須郡那須町)→<間宿>板谷(いたや・栃木県那須郡那須町)→<間宿>寄居(よりい・栃木県那須郡那須町)
11. 白坂宿(しらさか・福島県白河市)
12. 白河宿(しらかわ・福島県白河市)
<仙台松前道の宿場>
1. 根田(ねだ・福島県白河市)
2. 小田川(こたがわ・福島県白河市)
3. 太田川(おおたがわ・福島県西白河郡泉崎村)
4. 踏瀬(ふませ・福島県西白河郡泉崎村)
5. 大和久(おおわぐ・福島県西白河郡矢吹町)
6. 中畑新田(なかはたしんでん・福島県西白河郡矢吹町)
7. 矢吹(やぶき・福島県西白河郡矢吹町)
8. 久来石(きゅうらいし・福島県岩瀬郡鏡石町)
9. 笠石(かさいし・福島県岩瀬郡鏡石町)
10. 須賀川(すかがわ・福島県須賀川市)
11. 笹川(ささかわ・福島県郡山市)
12. 日出山(ひでやま・福島県郡山市)
13. 小原田(こはらだ・福島県郡山市)
14. 郡山(こおりやま・福島県郡山市)
15. 福原(ふくはら・福島県郡山市)
16. 日和田(ひわだ・福島県郡山市)
17. 高倉(たかくら・福島県郡山市)
18. 本宮(もとみや・福島県本宮市)→<間宿>南杉田(みなみすぎた・福島県二本松市)→<間宿>北杉田(きたすぎた・福島県二本松市)
19. 二本松(二本松城下)(にほんまつ・福島県二本松市)
20. 油井(ゆい・福島県二本松市)
21. 二本柳(にほんやなぎ・福島県二本松市)
22. 八丁目(はっちょうめ・福島県福島市)→<間宿>浅川新町(あさがわしんまち・福島県福島市)
23. 清水町(しみずまち・福島県福島市)
24. 福島(福島城下)(ふくしま・福島県福島市)
25. 瀬上(せのうえ・福島県福島市)
26. 桑折(こおり・福島県伊達郡桑折町)
27. 藤田(ふじた・福島県伊達郡国見町)
28. 貝田(かいだ・福島県伊達郡国見町)
29. 越河(こすごう・宮城県白石市)
30. 斎川(さいかわ・宮城県白石市)
31. 白石(白石城下)(しろいし・宮城県白石市)
32. 宮(みや・宮城県刈田郡蔵王町)
33. 金ヶ瀬(かながせ・宮城県柴田郡大河原町)
34. 大河原(おおがわら・宮城県柴田郡大河原町)
35. 船迫(ふなばざま・宮城県柴田郡柴田町)
36. 槻木(つきのき・宮城県柴田郡柴田町)
37. 岩沼(いわぬま・宮城県岩沼市)
38. 増田(ますだ・宮城県名取市)
39. 中田(なかだ・宮城県仙台市太白区)
40. 長町(ながまち・宮城県仙台市太白区)
41. 国分町(芭蕉の辻・仙台城下)(こくぶんちょう・仙台市青葉区)
<南部路・松前道の宿場 >
1. 七北田(ななきた・仙台市泉区)
2. 富谷(とみや・宮城県黒川郡富谷町) *「新町」とも。
3. 吉岡(よしおか・宮城県黒川郡大和町)
4. 三本木(さんぼんぎ・宮城県大崎市)
5. 古川(ふるかわ・宮城県大崎市)
6. 荒谷(あらや・宮城県大崎市)
7. 高清水(たかしみず・宮城県栗原市)
8. 築館(つきだて・宮城県栗原市)
9. 下宮野(しもみやの・宮城県栗原市築館町)
10. 沢辺(さわべ・宮城県栗原市金成町)
11. 金成(かんなり・宮城県栗原市金成町)
12. 有壁(ありかべ・宮城県栗原市金成町)
13. 一関(いちのせき・岩手県一関市)
14. 山目(やまのめ・岩手県一関市)
15. 平泉(ひらいずみ・岩手県西磐井郡平泉町)→<間宿>瀬原(せばら・岩手県奥州市)
16. 前沢(まえざわ・岩手県奥州市)→<間宿>折居(おりい・岩手県奥州市)
17. 水沢(みずさわ・岩手県奥州市)
18. 金ヶ崎(かねがさき・岩手県胆沢郡金ケ崎町)
19. 鬼柳(おにやなぎ・岩手県北上市)→<間宿>黒沢尻(くろさわじり・岩手県北上市)
20. 成田(なりた・岩手県北上市)
21. 花巻(はなまき・岩手県花巻市)
22. 石鳥谷(いしどりや・岩手県花巻市)
23. 郡山(こおりやま・岩手県紫波郡紫波町)
24. 盛岡(盛岡城下)(もりおか・岩手県盛岡市)
25. 渋民(しぶたみ・岩手県盛岡市)
26. 沼宮内(ぬまくない・岩手県岩手郡岩手町)
27. 小繋(こつなぎ・岩手県二戸郡一戸町)
28. 中山(なかやま・岩手県二戸郡一戸町)
29. 一戸(いちのへ・岩手県二戸郡一戸町)
30. 福岡(ふくおか・岩手県二戸市)
31. 金田一(きんだいち・岩手県二戸市)
32. 三戸(さんのへ・青森県三戸郡三戸町)
33. 浅水(あさみず・青森県三戸郡五戸町)
34. 五戸(ごのへ・青森県三戸郡五戸町)
35. 伝法寺(でんぽうじ・青森県十和田市)
36. 藤島(ふじしま・青森県十和田市)
37. 七戸(しちのへ・青森県上北郡七戸町)
38. 野辺地(のへじ・青森県上北郡野辺地町) →南部北通りへ
39. 馬門(まかど・青森県上北郡野辺地町)
40. 小湊(こみなと・青森県東津軽郡平内町)
41. 野内(のない・青森県青森市)
42. 青森(あおもり・青森県青森市)
43. 油川(あぶらかわ・青森県青森市)
44. 蓬田(よもぎた・青森県東津軽郡蓬田村)
45. 蟹田(かにた・青森県東津軽郡外ヶ浜町)
46. 平舘(たいらだて・青森県東津軽郡外ヶ浜町)
47. 今別(いまべつ・青森県東津軽郡今別町)
48. 三厩(みんまや・青森県東津軽郡外ケ浜町)
<南部北通り(田名部通り)の宿場>
1. 有戸(ありと・青森県上北郡野辺地町)
2. 横浜(よこはま・青森県上北郡横浜町)
3. 田名部(たなぶ・青森県むつ市)
4. 関根(せきね・青森県むつ市)
5. 正津川(しょうずがわ・青森県むつ市正津川)
6. 大畑(おおはた・青森県むつ市大畑)
7. 下風呂(しもぶろ・青森県下北郡風間浦村)
8. 異国間(いこくま・青森県下北郡風間浦村)
9. 蛇浦(へびうら・青森県下北郡風間浦村)
10. 大間(おおま・青森県下北郡大間町)
11. 奥戸(おこっぺ・青森県下北郡大間町)
12. 佐井(さい・青森県下北郡佐井村)

己 已 巳

己・・キ・コ おのれ・つちのと
     (用例)知己(ちこ・ちき)
已・・イ すでに やむ のみ はなはだ
     (用例)已上、已来、已後、已而(すでにして、やみなん、やまん)
      無已(やむなし)、不得已(やむをえず)
巳・・シ み
      (用例)巳年
◎覚え方①
・キ・コ(の声)、おのれ・つちのと 
下に付き・・・(己)
・イ・すでに、半ばして やむ・のみ・・・(已)
・シ・み(は)皆付く・・・(巳) 
◎覚え方②
・おのれ(己)、すでに(已)して、へび(巳)

◎己・已・巳を使ったことば
*己巳(キシ・つとのとみ)  *明治二年の箱館戦争を「己巳(きし)戦争」ともいう。函館に「己巳役海軍戦死碑」がある。
*難読奇姓に已已巳己(いいしき・いえしき)がある。

官位としての「守(かみ)」の変遷

◎はじめに
 「筑前守」などの呼称の変遷について述べる。「筑前」は、地方行政区画の名前で、「守(かみ)」は、上代から律令時代に制定された「国司(こくし)」(地方を治める役人)の「官」(制度上の地位)名。
1. 律令時代・・国司(こくし)としての「守」
「国」(地方行政単位)を治める役人を「国司」(コクシ。またクニノツカサ)といった。今の県知事のようなもの。なお、上代には、地方行政単位である「国」のことを「県(あがた)」ともいった。
 つまり、「国司」は、「国」の行政官として中央から派遣された役人で、四等官があり、「守(かみ)」、「介(すけ)」、「掾(じょう)」、「目(さかん)」を指す。その下に「史生(ししょう)」がいた。
<平安期の「国」の等級区分>
国力(住民数、開墾面積など)の基準で、大国・上国・中国・下国の4等級に区分されている。区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。
○大国(たいこく・13カ国)
大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
○上国(じょうこく・35カ国)
山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
○中国(ちゅうこく・11カ国)
安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
○下国(げこく・9カ国)
和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国
2. 戦国~安土桃山時代の武家官位
 律令官位は、律令制度が崩壊し、実質的な意味がなくなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。この傾向は戦国時代に入り顕著になり、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その例として、織田信長の父織田信秀、今川義元そして徳川家康が三河支配のため三河守に任ぜられたケースなどがある。
 さらに、朝廷からの任命を受けないまま、官名を自称・僭称するケースも増加した。織田信長が初期に名乗った上総守もその一つである。また、官途(かんど)、受領(ずりょう)といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守もこの一つである。
また、秀吉が公家の最高位である「関白」として天下を統一すると、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところがただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の任官が相次いだために官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。秀吉の死去後は、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。
<官途状(かんどじょう)>
武家文書の一様式。武家社会での主従関係を明確にさせるため、幕府・大名が臣下に官職を与える際の文書。正式には推挙状によって朝廷に奏請していたが、戦国期には儀礼・簡略化され、大名が個別の書式で独自に発給している。この内とくに国司名を与えた場合を受領宛行状という。
<受領名(ずりょうめい)>
室町時代以降、功績の家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれる。これが受領名。多くの場合、大名の傘下にあって城や領地、兵力を有する国人や武将がその対象であった。この風習が転化し、自官や百官名、東百官という人名呼称が武士の間において定着するようになる。
3. 江戸時代の武家官位
<官位叙任権が朝廷から将軍家へ移行した経緯>
家康が江戸幕府を開くと、豊臣政権時代の苦い経験から官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。
①慶長11(1606)年4月、家康は朝廷に参内して武家の官位は幕府の推挙によって行うことを奏請。
②元和(げんな)元年7月、「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離した。(「禁中並公家諸法度」第7条「武家之官位者可為公家当官之外事」)
これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。
なお、官位を授ける権限は、徳川将軍家が持っていたが、任命書(口宣案と位記)は朝廷が発給した。
 秀吉、家康、秀忠の時代までは、全国の大名は競って高位・高官を望んだが、家光の時代になると官位には重みはなくなった。しかも、家光以降の大名は、官位は家柄と年齢によって決められるものとなり、その年齢がくれば自動的に幕府から朝廷に奉送された。したがって、家光以降の朝廷の作業は、全国の大名の官位の記録係となった。
なお、幕府から奉送された「筑前守」などの国司名は官位とはいわず、「権官」とか「通称官名」とか「名乗り」と呼んだ。
<官名名乗りの特例>
なお、幕府は、一部官名に特例を設けるなどして、大名統制に利用している。
・同姓同官名の禁止・・混乱を避けるため。
・大国大名の領国名優先使用・・前田氏の加賀守、越前松平氏の越前守など。
・領国名独占・・伊達氏の陸奥守と島津氏の薩摩守。
・大廊下、大広間詰め大名以外の老中と同一名乗り禁止・・老中昇進時に同名乗りの大名及び配下の幕府役人は遷任。
・大名以外の領国名使用禁止・・肥前の松浦氏(肥前守、他には壱岐守)、信濃の真田氏(信濃守、他には伊豆守)、対馬の宗氏(対馬守)等は例外として許可。
・三河守(津山松平家のみ可)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止・・幕府と朝廷を憚って。
<百官名(ひゃくかんな)>
 幕府や大名が被官に対して官途状を発給した受領名は、朝廷の関知しない僭称であったが、憚って、官名を略したり、違う表現に置き換えたりした。また、先祖が補任された官職を子孫が継承するケースも現れるなど、武士が自ら官名を名乗る「自官」という慣習が定着していくこととなる。やがて戦国時代の頃から、武士の間で官名を略したものを自分の名前として名乗る風習が生まれ、江戸時代後期までその風習が続いた。
 「国名」を取って名乗った例として、
宮本「武蔵」・・剣豪
田中「土佐」・・幕末期の会津藩家老
伊達「安芸」・・仙台藩家老
原田「甲斐」・・仙台藩家老

コンブ・鹿児島・沖縄戦~私の「北海道と沖縄」・3つのキーワード~

コンブ・鹿児島・沖縄戦
~私の「北海道と沖縄」・3つのキーワード~


1. コンブ・・北海道と沖縄を結ぶ昆布ロード
・那覇のコンブ購入量は全国一。現在沖縄で消費されるコンブはほとんど根室、釧路産の長昆布。1戸あたりの昆布消費量は沖縄が
・沖縄に北前船を使って昆布をもたらしたのは、江戸時代、薩摩藩の密貿易にかかわった富山の薬売りといわれている。富山売薬「薩摩座」、長者丸、密田家。
・江戸末期、中国・琉球昆布貿易の取り扱い量は平均120トン、日本昆布生産量の10%にもなる。また、沖縄から中国向け積荷重量の平均85%。中国からは薬が一番多く輸入された。
・琉球「昆布座」・・対清昆布貿易の中枢。「在番奉行所」(薩摩藩の琉球支配の心臓部)→明治12年の「琉球処分」(琉球藩廃止、沖縄県設置)後は沖縄県庁に。その後「倹徳館」(貴賓公館)になる。
・「薩摩藩は清国との昆布交易で財政を立て直し、蓄財もなしました。そして、嘉永6年(1853)には、鹿児島にガス灯・ガラス・陶磁器・紡績・火薬・弾丸・小銃・大砲などの洋式の製造所(集成館)を建設した。この集成館でつくった武器で、薩摩藩は倒幕へと至った。昆布が日本の近代の扉を開く原動力となった」説も。
・沖縄料理に欠かせないこんぶ・・クーブイリチー、足ティビチ、ソーキ骨のお汁、大煮、イラブー料理。沖縄料理の基本の「豚肉」と、「昆布」。アルカリ性の昆布が豚肉のコレストロールを体外に排出し、健康の良いとも・・。

・琉球漆器の提重(さげじゅう)、硯箱などが松前城内の資料館にあった。
2. 薩摩(鹿児島)の支配
① 薩摩藩の琉球支配・・「琉球使」・・薩摩の琉球支配後,琉球の首里王府から徳川将軍ならびに島津氏に派遣された使節。将軍への使節には将軍の襲職時にそれを賀する慶賀使(けいがし,賀慶使)と琉球国王の即位時にそれを謝する謝恩使(しゃおんし,恩謝使)との二種の使いがあり,薩摩の命令と監督のもとに両使が江戸に上ることを「江戸上り(えどのぼり)」と称した。江戸上りは,寛永11(1634)年から嘉永3(1850)年までの間に18回(延20回)あった。江戸上りの目的は日本の最高権者たる将軍に対し,「城下之盟」を襲職と襲封の度ごとに新たにするものであるが,薩摩藩は江戸上りを将軍に対する儀礼と化することによって幕府の信頼を高め,琉球支配の権威の誇示を領国的なものから全国的なものに拡大していった。そのために使節団にことさら大和風(日本風俗)を禁じ,服装や言葉,立居振舞に至るまで異国風(中国風)を強制した。つぎに島津氏への使者とは上国使(じょうこくし)のことで,その一つに年頭使があった。年頭使は新年の礼を述べることによって,島津氏に対する臣従の誓いを新たにするもので,慶長18(1613)年から派遣が恒例化している。これとならんで慶弔の際の諸使の派遣も頻繁となっている。また,琉球国王の襲封にあたっては,まず薩摩の許可を得ることが必要であり,そのための使いの上国(薩摩上り)が元和7(1621)年にあった。さらに,琉球国は中国を宗主国(そうしゅこく)とする冊封体制にあったから,中国に対しても朝貢使や冊封を懇請するための請封使(せいほうし)などを派遣していた。
② 薩摩と北海道・・明治以降、北海道開拓の中心人物は旧薩摩藩士たち
○開拓使時代・・多くの薩摩藩出身者を官僚に登用。「薩摩の芋づる」といわれるほどだった。
・黒田清隆(開拓次官→開拓長官)
・永山武四郎(屯田兵本部長)
・村橋久成(官営ビール工場の責任者)
○3県1局時代の最高幹部はすべて旧薩摩藩士
・時任爲基(ためもと。函館県令)、調所広丈(ひろたけ。札幌県令)、湯地定基(根室県令)、安田定則(事業管理局長)
○鹿児島藩の北海道分領支配・・明治2~3年、十勝・日高の3郡を支配。

3.  沖縄戦での死亡者・・沖縄以外の都道府県では北海道の死者がもっとも多い。

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

◎新政府軍と旧幕府郡との戦争・戊辰戦争の終末は、箱館戦争です。
明治元年から2年にかけて戦われた箱館戦争を生き延びた人々の「その後」を追ってみたい。
1. 戊辰戦争の概要
・慶喜、大政奉還・・慶応3年(1867)10月14日
・朝廷、王政復古を宣言・・同年12月9日
・鳥羽・伏見の戦い・・慶応4年(1868)1月3日~4日
・慶喜、大阪城を開陽で脱出、江戸に向う・・同年1月6日
・討幕軍、江戸城に入る。慶喜、水戸へ退去・・同年4月11日
・新政府の会津藩征伐に反発し、奥羽越列藩同盟成立・・同年5月3日
・討幕軍、上野に彰義隊を討つ・・同年5月15日
・会津藩、降伏・・同年9月22日
2. 旧幕府脱走軍、北へ
<旧幕府艦隊の動向>
・慶応4年8月19日、榎本釜次郎率いる旧幕府海軍の開陽など8艦が品川沖を出帆、会津藩援護、奥羽越列藩同盟援助へ向け動き出す。
・「開陽」・・最強の軍艦
・「咸臨」「三嘉保」・・調子沖で台風に会い、流される。「咸臨」は、清水港で新政府軍に拿捕された。
・8月22日前後に仙台松島に入港。奥羽越列藩同盟は結束力を失いつつあった。9月22日、会津藩降伏、23日庄内藩、24日南部藩が降伏し、奥羽越列藩同盟は瓦解
・10月9日、艦隊は仙台を出港、大鳥圭介(旧幕府陸軍伝習隊)、土方歳三(新撰組)などを加えた3000人が乗り組んだ艦隊は蝦夷地に向う。「蝦夷地の徳川家永久お預け、蝦夷地開拓、北辺警護」を嘆願。
3. 箱館戦争
<明治元年の旧幕府軍の進行>
・新政府、10月9日、備後福山藩500人(実際は700人)、越前大野藩200人、津軽藩に箱館派兵を命じる。脱走軍の鷲ノ木上陸の日に箱館到着。
・10月20日、噴火湾の鷲ノ木に上陸。大鳥隊は大沼から峠下に進む。峠下で最初の戦闘。官軍(箱館府・津軽藩兵)は敗走。土方隊は、尾札部から川汲峠の官軍守備隊を撃破、湯川に向う。
・25日、清水谷公考箱館府知事は、官軍敗走の報に接し、五稜郭を出て「カカノカミ」号で青森へ退去。
・翌26日、脱走軍、五稜郭入城。元若年寄永井玄蕃が「箱館奉行」に就任。
・11月5日、土方を長とした脱走軍、福山攻略。江差も攻める。
・11月15日、開陽、江差入港。この日、暴風で開陽座礁、榎本の目の前で沈没。脱走軍の海軍力は大きく低下、彼らの士気をも大きく落ち込ませることになった。「全島の海陸軍、これを聞き肝を破り肝を寒し、切歯扼腕(せっしやくわん)涙を墜すばかりなり」(大島圭介「南柯(なんか)紀行」)
・12月15日、蝦夷地領有宣言式、108発の祝砲轟く。港には満艦飾を施した榎本海軍の艦隊が浮かんだ。28日、入札(いれふだ)で榎本釜次郎総裁以下の諸役が決まる。
「徳川脱藩家臣団」政権の成立。
<明治2年、新政府軍の進攻>
・新政府軍、清水谷を青森口総督に任じ、海陸軍参謀に山田市之允(長門萩藩)、黒田清隆を陸軍参謀に、増田虎之助を海軍参謀に任命、局外中立撤廃で、アメリカから最新鋭ストンウォール・ジャクソン(日本名「甲鉄」)が引き渡され、海軍の核ができた。
・明治2年4月6日、官軍艦隊、兵士1500人を乗せ青森を出帆、9日、乙部上陸。江差も奪還、3隊に分けて箱館に向う。17日、福山攻略。箱館へ
・新政府軍、木古内、矢不来、有川を落とす。脱走軍、五稜郭へ退去。
・5月11日、土方歳三、一本木で戦死、
・箱館海戦・・脱走軍鑑蟠龍、政府軍鑑朝陽を撃沈するも、甲鉄ら政府軍鑑に追われて弁天台場脇に乗り上げ、回天も砲撃を受け退却、荒井郁之介以下、五稜郭に退いた。
<降伏交渉>
・12日、政府軍池田次郎兵衛(薩摩藩)らが箱館病院を訪れ院長高松凌雲、頭取小野権之丞に和平斡旋を依頼
・翌13日、五稜郭へ降伏勧告を届けるが榎本は拒否。榎本、「万国海律全書」を政府軍に送る。
14日、政府軍軍監田島圭蔵が弁天砲台に永井玄蕃を訪れ榎本の翻意を促すべく面会の取次ぎを依頼、田島と榎本は千代ケ岱の民家で会見するも、榎本は拒否。
・15日、弁天砲台は降伏を願い出る。永井玄蕃、蟠龍艦長松岡隆吉、主将相馬主計(かずえ)以下240人は降伏。戦線離脱して湯の川にいた340人も降伏を申し入れ武装解除となる。
<最後の戦闘>
・千代ケ岱陣屋へも降伏勧告が来るが中島三郎助は拒否。渋沢成一郎は、湯の川へ遁走。
・16日、両軍、白兵戦を展開、中島三郎助父子、千代ケ岡台場で戦死、この千代ケ岱攻防戦は、箱館戦争、否、戊辰戦争の最後の戦闘であった。
<五稜郭開城>
・千代ケ岱戦闘後、新政府軍は、酒5樽を五稜郭に送り、弁天台場の降伏、千代ケ岱陥落を伝え、総攻撃開始も通知。
・郭内は動揺、榎本は切腹を図るが部下に制止される。松平太郎、大島圭介、荒井郁之介ら、首脳が協議、遂に降伏と決した。
・17日、亀田八幡宮で、榎本、松平、大島、荒井と政府軍海軍参謀増田虎之助、陸軍参謀黒田清隆が会見、榎本らは、幹部の服罪と一般兵士への寛展を嘆願、その夜、郭内は「決飲終夜悲歌慷慨満城粛然タリ」(「北州新話」丸毛利恒=彰義隊兵士=が謹慎中で箱館戦争を記録)
・18日朝7時、榎本は「諸君は必ず青天白日を仰ぐ日があることを確信する」とあいさつ、松平、大島、荒井らと城を出、駕籠で護送された。午後には、1000人も収容された。
・このに、8ケ月前、徳川家による蝦夷地開拓を旗印に箱館に入った脱走軍は、その蠢動を終えた。
4.旧幕臣たち・敗者のその後 (  )は、榎本政権での役職。
<開拓使に出仕した人々>(明治5年「官員録」参照)
・榎本釜次郎(総裁)・・開拓使に出仕後、駐ロ公使として千島樺太交換条約締結にかかわる。黒田内閣では逓信大臣などを歴任。
・松平太郎(副総裁)・・開拓使に出仕するも、1年後に辞任、不遇の生涯を送り、伊豆で客死。
・榎本道章(会計奉行)・・札幌本道建設にかかわる。
・大鳥圭介(陸軍奉行)・・開拓使に出仕し、欧米を視察、のち学習院院長となる。
・荒井郁之介(海軍奉行)・・開拓使仮学校(札幌農学校の前身)の校長格となる。明治年開校の女学校の校長にも就任。北海道の測量に従事、初代気象庁長官に就任。
・永井玄蕃(箱館奉行)・・元老院権書記官となる。75歳で病死
・松岡四郎次郎(江差奉行)・・開拓使では、会計の仕事に従事。のち三井物産函館支店長となる。岩内茅沼炭鉱の経営にも参画。
・沢太郎左衛門(開拓奉行)・・榎本とともに欧米留学。「開陽」副長として慶喜の大坂脱出にかかわる。のち「開陽」艦長。開拓使を経て、海軍兵学校の副総理になる。
・雑賀孫六郎(開拓奉行組頭取)・・札幌本道建設を指導。
・星恂太郎(額兵隊隊長)・・岩内で製塩業に従事するが失敗。明治9年、失意のうちに仙台で病死
<その他の人々>
・人見勝太郎(松前奉行)・・戦後浪人生活。その後、茨城県令。利根川運河を経営。
・高松凌雲(箱館病院長)・・幕府使節として欧州を視察。見聞を広める。箱館戦争では、脱走軍の病院長となる。敵味方区別なく治療し、日本の赤十字活動の先鞭となる。
・小野権之丞(病院掛頭取)・・会津藩士。高松の元で活動、脱走軍の降伏を働きかける。
・渋沢成一郎(小彰義隊隊長)・・千代ケ岱の守備につくも、湯の川へ遁走。明治期の実業家として財をなした。
<箱館にやってきた幕閣>
・板倉勝静(かつきよ。老中。備中松山藩主)・・禁を解かれたのち、上野東照宮宮司となる。
・小笠原長行(ながみち。老中。肥前唐津藩主)・・戦後、東京に隠れ住む。
・松平定敬(さだあき。京都所司代。桑名藩士)・・会津藩主容保の弟。戦後、日光東照宮宮司となる。
<脱走軍に参加したフランス軍人>・・ブリュネら10名。
5.戦死した人々
・土方歳三(陸軍奉行並)・・新撰組副長。一本木で戦死。戦死した5月11日は、箱館戦争供養祭が行われている。
・中島三郎助(箱館奉行並)・・浦賀奉行与力としてペリーの黒船に最初に乗った日本人。幕命で、洋式軍艦建造に参与。千代ケ岱で戦死。その地は「中島町」として今に名を残す。
6.箱館戦争エピソード
・碧血碑
・柳川熊吉
・五稜郭に立てこもった侠客「観音の鉄」

◎まとめ

<主な参考文献>
・「新北海道史」(北海道編)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊、1989)
・「函館市史」(函館市編)
・「箱館戦争 北の大地に散ったサムライたち」(星亮一著、三修社、2006)
・「大君の刀」(合田一道著、道新新書、2007)
・「箱館戦争始末記」(栗賀大介著、新人物往来社、1973)
・「北海道の歴史」(関秀志ほか著、北海道新聞社、2006)
・「五稜郭物語」(北海道新聞社函館支社編、1966)

昇平丸船司・浦田伊助のこと

昇平丸船司・浦田伊助のこと
~古文書講座(上級)テキストを読んで~
森勇二
◎はじめに・・私は、札幌市文化資料室主催の平成十八年度古文書講座(上級)を受講した。私に指定されたテキストのうち、「開拓使公文録」(以下「開公」)と、「略輯旧開拓使会計書類」(以下「略開」)を読んで、開拓使附属船・昇平丸の船司交代のいきさつと新船司・浦田伊助について述べてみたい。
一. 浦田伊助の経歴
 「略開」に浦田伊助の略歴が書かれている。主な経歴は、
・生国は「能州地之浦」(現石川県志賀町)
・元治元年、箱館奉行に召出され「慎敬丸」水主として岩内石炭積取に従事、その後、沖の口、常灯明勤番。
・慶応三年、「官より御頼有之・・鯨漁稽古之ため」アメリカ捕鯨船ジャウリーヤ号に乗り組みカムチャッカ、アリューシャン方面で操業。
・慶応四年三月箱館帰着。六月箱館丸表役となり、八月出帆、アイロップで難船、樺太・シラヌシで越年。
・明治二年六月二十七日、岡本監輔判官を乗せクシュンコタンを出帆、七月十一日箱館着。
・同年十月二十九日、昇平丸船司に任命。
・明治三年一月二十六日、昇平丸、木の子村安在浜で破船、伊助海死。
二.昇平丸船司交代のいきさつ
 開拓使附属船・昇平丸の最初の船長は喜代蔵。昇平丸は、明治二年九月二十一日、品川を出帆、箱館到着は同月二十五日のこと。喜代蔵更迭の経過が「開公」に見える。昇平丸の箱館到着の二日後の十月二十九日、喜代蔵は八木下信之権大主典から「石狩場所へ御米不残運送可致」と仰せ渡されたのに対し、喜代蔵は「雪中ニ相成、水主帆前働自由不相成候時節」だとして断っている。翌二十七日、廣川信義権大主典から「水先共弥以不被参候哉」と尋ねられたのに対し「いかにも帆前故、水主働方むづかしく候」と渋っている。更に二十九日、再度廣川権大主典から「何連ニも石狩迄参候」と再度催促され、喜代蔵はやむなく「参候心得ニて前書水主等も夫々心懸ケ候」と石狩行きの準備を始めた。
 ところが、十一月二日、開拓使は、「今般、其船乗組之者共差免候ニ付、船具其外積荷金米共正路ニ勘定相立、浦田伊助へ引渡可申候事」(略開)と喜代蔵を解任している。喜代蔵は「誠に当惑仕候」と述べている。
 「開公」によると、開拓使が浦田伊助へ昇平丸船司を申し付けたのは、十月二十九日だから、開拓使は、廣川権大主典が喜代蔵を二度目に呼び出したその日に、昇平丸船司交代を決めたことになる。開拓使は、石狩行きを渋った喜代蔵を早々に罷免した。昇平丸は「全国的・全道的米不足の状況下では・・島判官が石狩で行おうとした事業にとって重要な存在であった」(「新札幌市史」)だけに、一刻も早く米などの積荷の石狩廻漕が求められていたことが察せられる。
 浦田伊助が昇平丸船司に選ばれたのは、先に述べた経歴の通り、その経験が買われたからだろう。
◎おわりに・・昇平丸は、「御米壱俵も上陸不仕」(「略開」)木の子村安在浜に沈んだ。浦田伊助始め五名が死亡している。石狩行を渋った喜代蔵に代わって急遽船司になった伊助は、開拓使の期待に答えられず、昇平丸と運命をともにした。「溺死者は其場へ葬」(「略開」)られたという。いつか伊助の眠る安在浜を訪ずれてみたい。

生き延びた旧会津藩士

◎要旨・・戊辰戦争に破れた会津藩の人々の中で、下北の地に、そして、北海道に生き延びた旧会津藩士たちを追ってみたい。

1.会津藩・会津戦争
・成立・・保科正之(2代将軍秀忠の4男、3代家光とは異母兄弟)が寛永20年(1643)、会津23万石(実質60万石とも)に入封。会津藩松平氏の祖となる。以後、江戸期は容保(かたもり)まで9代続く。
・幕末の藩主・松平容保・・京都守護職となった。会津藩の悲劇は、ここに始まるといっていい。容保は孝明天皇に信頼され、「公武合体」路線を進め、「禁門の変」などで、討幕派の長州勢の排除に動いた。王政復古のあと、薩長を中心とする新政府と衝突し、「鳥羽伏見の闘い」が起こり、いわゆる戊辰戦争(慶応4年=明治元年の干支は「戊辰」)に発展する。鳥羽伏見で敗れ、「朝敵」となった容保は、慶喜とともに大阪城に逃れる。会津へ帰国。
・鶴ケ城(会津若松城)・・信長の家臣・蒲生氏郷(うじさと)が築城、空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ケ城」と親しまれ、五層の天守閣に改築されて難攻不落の名城だった。
・会津戦争・・容保は、家督を養子の善徳に譲り謹慎する。官軍の追撃で会津藩は抗戦、籠城。包囲した官軍は3万人ともいわれる。鶴ケ城は、1ケ月に及ぶ籠城に耐えた。9月8日、慶応が明治と改まる。その2週間後の9月22日、会津軍は、鶴ケ城北追手門に「降参」と大書した白旗3本を立てて降伏した。城中で落城を迎えた人員は5000人とも。以後、旧会津藩士は「降伏人」「賊徒」といわれることになる。
 死者数千人といわれるすさまじい戦争だった。家老西郷頼母邸での妻女一族21人の自刃、飯盛山での白虎隊19名の自刃という痛ましい事件は有名。また、「娘子(じょうし)隊」という婦女子の一隊もあり、激戦に巻き込まれ戦死した女性は238人という。
 余談になるが、容保は、降伏後、鳥取藩、和歌山、陸奥斗南に預けられ、蟄居する。その後許され、日光東照宮宮司になる。明治26年、57歳で死亡。
 なお、昭和3年、秩父宮(大正天皇の次男・昭和天皇の弟)と容保の孫・勢津子(節子)が結婚し、「朝敵の汚名をそそぐことができた」と会津では、提灯行列が行われた。

2.生き延びた会津藩士たち
<会津戦争の戦後処理>
・藩主容保は死一等を減じられ禁固。家老菅野権兵衛は切腹。会津藩は下北3万石に移封。
① 北海道への「流罪」・・斗南藩の成立以前、旧会津藩士の身分のまま「流罪」の形で北海道へ移された人々がいた。明治2年9月、東京謹慎中の旧会津藩士103戸333人が小樽到着。兵部省管轄下におかれ、最終的に、余市へ移住が決まる。黒川村、山田村などを開き開拓を行う。開拓使が奨励した果実・りんごの栽培を行う。品種「緋衣(ひごろも)」は、容保が孝明天皇から下賜された「緋の御衣」からといわれる。
*「黒川村」(黒田清隆の「黒」と入植会津藩士隊長黒川熊四郎の「川」をとったといわれる。
②下北の地へ・斗南藩成立・・旧藩首脳の願いは、お家再興。明治2年6月、容保に実子慶三郎(容大=かたはる)が誕生。11月わずか5ケ月の容大を藩主に、再興が許され、南部3万石、実質は7000石の厳寒の地・下北へ海路、陸路で、およそ2800戸15000人が移住(資料1参照)。現在の青森県下北郡、上北郡、三戸郡、岩手県二戸郡のうち金田一以北。中間に比較的豊かな八戸藩、七戸藩により分断された貧しい土地。飢えと寒さで老人、子どもが次々を倒れた。藩庁は、最初は五戸郡役所のち、田辺の円通寺。斗南藩がたよった人物に隣接の新渡戸伝(つとう。新渡戸稲造の祖父で、三木本開拓の成功者)がいる。
*山川大蔵(おおくら。浩)・・斗南藩のリーダー・大参事(実務責任者・家老職)。会津籠城戦では、軍事総督として指揮。官軍をひとりも城内に入れなかった。
弟妹に山川健二郎(東大総長になった白虎隊士)、山川捨松(薩摩藩士・大山巌の妻。)
*「斗南」は、漢詩の「北斗以南皆帝州」から。
③ 榎本軍に加わり箱館戦争に参加した旧藩士たち・・「会津遊撃隊」の名称で榎本軍に参加し、松前に至る海岸線に配備された旧会津藩士数十名がいる。
・雑賀(さいか)孫六郎(重村)・・4度、北海道へ渡った多芸多才の異端児。
1度目・・安政元年(1854)、19歳の時、幕府調査隊の一員として蝦夷地入り。ペリー艦隊の箱館来航に出会う。
2度目・・万延元年(1860)、会津領となった網走地方の斜里の代官
3度目・・榎本軍に参加。大坂城に眠る旧幕府軍資金18万両を運んだ人物とされる。(「幕末の密使」)。室蘭で沢太郎左衛門の配下として駐屯、敗戦後、四国徳島藩に幽閉(ゆうへい)された。謹慎が解かれた後、斗南藩雇いとなる。
4度目・・開拓使官吏として「札幌新道」開削にたずさわる。
*姪の子・上原六郎は、官選最後の札幌市長(4代目)

*「傷心惨目」碑・・箱館戦争の際に旧幕軍の野戦病院であった高龍寺に官軍が殺到、会津藩などの傷病兵を惨殺したとされる。ここ高龍寺にその「記念」碑が建つ。その名も「傷心惨目(ざんもく)」とは、「心を痛(いた)ましめ、目を惨(いた)ましむ」。いかにも怨念が篭る。(資料2)

④ 旧会津藩士の北海道移住・・明治政府は北海道の分割支配を進めた。苦しい生活を強いられた斗南藩も移住開拓に応募。
・瀬棚郡(現せたな町)・・13戸43人。旧「会津町」
・歌棄郡(現黒松内町作開)・・28戸135名
・太櫓郡(現せたな町若松)・・不明。「丹羽村」(明治25年、丹羽五郎=会津戦争で籠城=ら12戸49名が入植。今、せたな町に「丹羽」「東丹羽」「西丹羽」として名を残す。
・山越郡(現八雲町浜松)・・7戸18名
・屯田兵になった旧会津藩士・・三沢毅(琴似屯田兵。旧会津藩進撃隊幹部)ら。

⑤ 生き延びた白虎隊士・・「北海道各地に足跡を残す元白虎隊士は、かの赤穂義士とくしくも同数の47名を数える」(「北海道の不思議事典」)
・飯沼貞吉・・ただ一人の飯盛山の生き残り。白虎隊の悲劇を後世に伝えた。逓信省で電気技師として各地で勤務。明治38年には札幌に郵便局工務課長として赴任。明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力した。
・現在、飯沼貞吉の墓は飯盛山のかつての仲間たちの傍らに建てられている。ここに墓が建てられたのは貞吉が没してから、実に26年も経ってから。
生前の彼には心無い同郷人から「一人だけ生き残った恥さらし」という無言の罵声を浴びせられ続けたという。その生涯の最期にあたっても「懐かしい会津の地に眠りたい」という言葉を遺すことができませんでした。(資料3)
「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地碑」(南7西1現「札幌第一ホテル」玄関前)
・笹原伝太郎・・佐藤ヒサエさんの曽祖父。

⑥ 旧会津藩の女性
・日向(ひなた)ユキ(内藤)
会津藩士日向左衛門(四百石)の二女。母は飯沼粂之進の娘ちか。母の兄は飯沼時衛といい、その二男は白虎隊蘇生者の飯沼貞吉であり、母の姉は西郷頼母夫人で一族とともに自刃した千重子である。
会津戦争のとき、ユキは十八歳であった。八月二十三日の朝五ツ刻(八時)早鐘が乱打され、城門に駈け付けたが既に堅く閉じられ、城に入ることはかなわなかった。
会津藩は斗南に移封となり、日向家の者たちも二十日かかり野辺地に着いた。廃藩後は北海道に渡り、ユキは明治五年に開拓使工業掛に勤めるエリート官吏。内藤兼備(かねとも。旧薩摩藩士)と結婚。「敵味方の怨讐を超え」た「ブライダル第1号」(「北海道の不思議事典」)
・山川捨松(大山)・・父・山川大蔵とともに、会津籠城。のち、開拓使留学生として渡米、薩摩藩士大山巌(陸軍大臣となる)と結婚。「鹿鳴館の華」といわれた。

⑦ 北海道に渡った旧会津藩の家老
・梶原平馬・・容保にしたがって上京。会津に戻って26歳で主席家老となる。奥羽越列藩同盟の締結に奔走。斗南を経て青森県庁に勤める。のち根室に勤務。
・西郷頼母・・会津藩の家老。降伏直前に会津城を離脱し、榎本艦隊開陽丸に乗船し、榎本軍に加わり、江差詰めとなる。

◎まとめ

<参考文献>
・「白虎隊と会津武士道」(星亮一著、平凡社新書、2002)
・「幕末の会津藩」(星亮一著、中公新書、2001)
・「会津落城」(星亮一著、中公新書、2003)
・「会津・斗南藩と函館開拓使」(近江幸雄著、2003)
・「幕末の密使」(好川之範著、道新選書、1992)
・「瀬棚町史」
・「北海道の不思議事典」(好川之範・赤間均編、新人物往来社、2006)

私の講座予定

◎日時・・5月25日(金)・13:30~14:30
◎会場・・札幌市北区民センター(札幌市北区北25条西6丁目)
◎テーマ・・生き延びた旧会津藩士たち
◎主催・・札幌社会教育協会

福士成豊の業績とその生涯

1. 出生・・船大工・続豊治の5男に生まれる。(高倉氏は4男としている)
 父に従い箱館丸、亀田丸などの帆船建造に従事。
*続豊治・・安政4年(1857)、日本人による最初の洋式帆船・箱館丸を建造。
2. 英語を学ぶ・・文久2年、ポーター社に勤め、番頭となる。
 *自作の英和・和英辞書・・和英辞書は、函館弁の訳があり、日本の英語学史上、貴重なもの。(高倉論文)
3. 開拓使役人となる・・明治2年(1869)3月、箱館府2等訳官。9月27日開拓権少主典、10月17日開拓少主典、明治5年(1872)開拓権大主典
4. ブランストンに学ぶ
① 鳥類採取
② 日本最初の測候所の設置(自宅官舎=函館区船場町9番地)・・「明治5年7月23日・・はじめて午前9時、午後2時、午後9時の3回観測を施行す。」(函館一等測候所沿革史))
5.三角測量の責任者・・「勇払基線」「函館助基線」の測量。全国の測量と結びつく基礎を作った。
・「函館助基線」は、北海道と本州の測量を結ぶ基線となった。
・明治9年、千島調査・・「千島海線見取図」(ウルップ島以北を日本人として最初に測量)
・明治19年(1886)、北海道庁の「北海道地形測量主任」となり、北海道測量の責任者として、北海道の測量に大きく貢献した。
*測量長は、荒井郁之助。明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長となる。
◎旧福士家住宅展示の「三角測量標塔脚柱」・・一本木基標で使われた測標(やぐら)の基礎。
6.北海道中央部を明らかにする・・明治17年(1884)9~10月、石狩川の水源を極め、石狩岳に登る。
7.◎新島襄の亡命を援助
・新島襄・・元治元年(1864)4月21日、安中藩士。板倉の親戚にあたる備中松山藩の洋風帆船快風丸で、武田斐三郎門下生になるため箱館に来る。
・ロシア領事館付の宣教師ニコライ(後に神田駿田台にニコライ堂を建てる)に日本語を教えていた縁で、新島は英語を学びたいことを打ち明けた。(ニコライが海外脱出を進めたという説と、国禁を犯せば、日本での布教ができなくなるので断ったという説あり。)
ともかく、新島の箱館から海外脱出を手助けしたのが、福士成豊。
元治元年6月14日深夜、福士成豊は武士、新島はその従者に扮して海岸から小船に乗りアメリカ船「ベルリン号」に乗船、上海からさらに「ワイルド・ローバー号」に乗り、アメリカへ。アマスト大学入学(クラーク博士の母校、内村鑑三も学ぶ)
*新島襄・・同志社英学校の創始者。日本人初の学位取得者。明治5年、岩倉使節団の木戸孝允と知り合い、木戸付の通訳として、欧米を視察。
<明治の6大教育者>
新島襄、大木喬任・近藤真琴・中村正直・福沢諭吉・森有礼
*<襄の名前の由来>
・密航中に船長テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから。
・Joeは、Joseph(ヨセフ)のつづまった名前である。新島はこの時にその名前の意味を知る由もなかったが、後にこのヨセフという人物が、旧約聖書の創世記30章以下に記されている神の民イスラエルをエジプト(外国)にいて、自分の民族を救う人物の名前であることを知り、自覚的に自らの使命を自覚してその名を受け止め、「襄」という当て字を用いた。最初は「譲」という字を用いたことも、漢訳聖書の「ヨセフ」を当てて「約瑟」としていたこともあったが、後に「ジョウ」とした。

◎晩年・・明治24年退官。北5条東1丁目の自宅以北の1万数千坪を購入。
◎性格・・・(高倉論文)
◎墓・・大正11年8月26日死亡。85歳。墓所は函館・称名寺。
戒名「謙徳院信與義光成豊居士」。建立は「大正13年8月 福士政一建之」

*称名寺(浄土宗)・・幕末にペリー提督が訪れたこともある。その後函館は下田とともに開港場となり、寺は、英・仏の領事館にもなっている。新選組土方歳三らの供養碑がある。墓所には豪商、高田屋嘉兵衛の墓ある。

<参考文献・ウェブ>
・特別展「近代科学技術の先駆者~福士成豊」(中島宏一監修 財団法人北海道開拓の村 1997)
・「福士成豊の業績について」(高倉新一郎著=「福士成豊関係資料調査目録」所収=北海道開拓記念館 1976)
・「新札幌市史第2巻」(札幌市、1991)
・ウェブサイト「函館市史編さん室」

孝明天皇の死因について

◎はじめに
先般、ある講演会で、講師が孝明天皇の死因について言及し、「孝明天皇毒殺説」を述べた。
 そこで、孝明天皇の死因について述べたい。
 いうまでもなく、孝明天皇は、明治天皇の父で、幕末動乱期の天皇である。
 公武合体派の天皇として知られ、妹和宮を14代将軍家茂に嫁がせている。
 慶応2年(1866)12月25日に35歳で死亡した。
 当時から岩倉具視ら倒幕派による暗殺説が流され、幕末明治初期のイギリス外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、「孝明天皇毒殺」の噂を記しているほどだ。

1. 孝明天皇主治医の日記
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(いらこ・おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
 光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
 伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
 当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。

岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。

2. 最近の研究―毒殺否定説―
 明治維新史研究者の佐々木克氏は、著「戊辰戦争」(中公新書)の初版本(1977)で、前記の伊良子光順日記に触れ、孝明天皇毒殺説を述べている。
 ところが、1990年の改訂版の「あとがき」に「追記」として日本近代史研究者の原口清氏の孝「明天皇毒殺否定説」を紹介している。
 その概要は、
 
 最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性疱瘡の両者をふくめた出血性疱瘡で死亡した」と明確に主張された(「孝明天皇は毒殺されたか」『日本近代史の虚像と実像』1、1990、大月書店)
 原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、・・・おわび申し上げたい

◎感想
 私(森勇二)は、孝明天皇の死因論争に加わる資格も素養もない。
 ただ、佐々木克氏のこういう、謙虚な態度に接すると、こころが洗われる。

開拓使附属船・昇平丸の運行と沈没

1. 昇平丸の概要と開拓使附属船としての役割
① 建造から開拓使附属船となるまで
昇平丸は、嘉永6年(1853)5月、薩摩藩が桜島瀬戸村の造船所で起工した洋式木造帆船である。建造の経過を述べると、幕府は、寛永12年(1635)から、500石(約75トン)以上の大船建造を禁止していたが、薩摩藩主島津斉彬は、琉球との交易のみに使用する条件で琉球船風を装った大型帆船建造を申請し許可された。これが昇平丸となる。
昇平丸の着工の翌月の6月、ペリー艦隊が浦賀に来航、同年9月15日、幕府は、200年以上続けてきた大船禁止令を解いた。
斉彬は、昇平丸の設計変更を行い、翌安政元年(1854)12月、3本マストに帆が10枚、推定排水量370トン、全長約27メートル、大砲16門を備えた大型帆船が完成した。
薩摩藩は昇平丸を幕府に献上した。幕府が長崎海軍伝習所設置を決めると、昇平丸は勝麟太郎、中島三郎助ら第1期伝習生を乗せ、品川を出帆、同年10月20日、長崎に到着、以後、長崎海軍伝習所の実習船となる。実習船には、昇平丸と同時に開拓使附属船となった蒸気船咸臨丸もあった。
② 開拓使附属船
明治初めの北海道の海上交通事情は「本道ハ四面海ヲ環ラシ、貨物ノ出入皆船艦ノ力ニ由ラサルナシ」(「開拓使事業略記」)という状況で、明治2年(1868)7月8日、開拓使が設置されると、東久世通禧開拓長官は、明治政府に14ケ条の「開拓施策要項」を提出、そのひとつに「附属船ヲ備フル事」を挙げ、帆船・汽船の交付を要求した。
同年8月29日、兵部省の管轄にあった昇平丸は、汽船・咸臨丸とともに開拓使への交付が決まり、昇平丸は9月18日、大蔵省から引き渡された。(「函館市史」)この2隻は、開拓使が所有した附属船29隻のうち、最初に所有した船舶である。
③ 昇平丸の役割
 開拓使附属船の役目は、北海道への物資輸送と北海道産物の販売のための輸送であった。
 昇平丸が開拓使所管となった当時の北海道の状況について、「新札幌市史」は、「戊辰戦争後の北海道への回米不足などによる北海道での全般的な物資不足の状態、さらに兵部省の会津降伏人移住、そして本府建設のための諸職人の導入と正米による給料支給など、北海道での物資不足を促進させることばかりであった」と述べている。
 さらに、「新札幌市史」は、「全国的・全道的米不足の状態下では、昇平丸は重要な存在であった」と指摘している。

2. 品川出帆から沈没に至る経過
①出帆から函館到着まで
 昇平丸は、明治2年(1869)9月21日品川出帆し、開拓使附属船としての初航海が始まった。回漕御用取扱の嘉納次郎作(灘・御影の白鶴酒造の7代目当主でもある。3男治五郎は講道館柔道の創始者)から開拓使へ「御米竝便船人、荷物共積入、昨廿一日、品川沖出帆仕候」(「開公」)と届けられている。
 「開公」には、積荷について「米千三百弐俵端壱俵、荷物三拾九個、人員拾八人」とある。また「便船人」として、この年9月13日に室蘭郡を拝領した石川源太(旧仙台藩角田領主石川邦光)の家来3名、東本願寺家来の名前が見える。
 昇平丸の行き先については同年9月の日付で、開拓使から「品海より函館並銭函迄 津々浦々 庄屋 年寄」宛に「昇平丸御船・・函館竝銭函へ差向・・出帆候条、若於途中逢難風及難儀候ハバ、早速助船差出万端手当可致置候也」と達しがあるように、当初から函館経由銭函行であった。昇平丸の運行は、「新札幌市史」にあるように、本府建設のための物資輸送が大きな目的であったことが伺える。
 その後の昇平丸の運行について、嘉納次郎作から「十月十七日南部ミヤコ出帆、同廿四日函館表へ無事入津仕候段、船長喜代蔵より申越候」と届けがある。
 昇平丸の箱館到着は10月24日のこと。 
 ついでながら、任地の北海道へ向かう東久世開拓長官、島義勇判官、岩村通俊判官、松本十郎判官ら、開拓使官員100名ほど、ほかに根室方面に向かう開拓移住民200名が乗船したイギリス商船テールス号が品川を出帆した日は、奇しくも、昇平丸と同じ明治2年(1869)9月21日である。ちなみにテールス号の函館到着は9月25日で、昇平丸より1ケ月も早い。(「函館市史」)
②船長の交代
<喜代蔵の解任>
 昇平丸が函館港に到着した5日後、開拓使は船長を喜代蔵から浦田伊助へ交代させている。
 その経過について、「開公」に喜代蔵から嘉納次郎作への報告がある。
すなわち、
 昇平丸の函館到着の2日後の10月26日、「八木下様」(八木下信之権大主典)から、「石狩場所へ御米不残運送可致」と仰せ渡されたのに対し、喜代蔵は「雪中に相成、水主帆前働自由不相成候時節」だと断っている。旧暦10月26日は、新暦でいえば11月29日に当たる。もう師走も近い。「雪中」になっても不思議ではない。さらに、翌27日には、「広川様」(広川信義権大主典)からも「水先世話以不被参候哉」と問い合わせがあり、喜代蔵は「いかにも帆前故水主働方むつかしく候」と渋っている。さらに29日、広川権大主典から再度呼び出しがあり、「何連にも石狩迄参候」と、再度催促された。
 再三の催促に喜代蔵は「参候心得にて、前書水先等も夫々心縣ケ」と、石狩行きを覚悟し、準備を始めた。
 ところが、11月2日になり、喜代蔵は「今般、其船乗組之者共差免候に付、船具其外積荷金品共、夫々正路に勘定相立、浦田伊助へ引渡可申事」(略開)と突然、解任された。喜代蔵は「誠に当惑仕候」と驚きを隠せない。
 開拓使としては、石狩行きを渋る喜代蔵を見切ったことになる。開拓使にとって、石狩への米の輸送が緊急の課題であったことが伺える。
<新船長・浦田伊助>
 「略開」に、開拓使が10月29日に、次のような申し渡しがある。

「          信沢銀蔵
 昇平丸小樽行、乗組金穀積荷監督申付候
 巳 十月
            浦田伊助
 今般、昇平丸船司申付候間、外水主之向逐一吟味、乗子相揃、船受取乗代可致候事
 巳 十月
 (朱)廿九日 申渡」

 つまり、広川権大主典が喜代蔵を2度目に呼び出した当日、10月29日に、船長を浦田に交代させた。電光石火の解任と後任選定は、昇平丸の石狩行きが、かなり切迫していたことをうかがわせる。
 さて、「略開」に浦田伊助の経歴が記されている。それによると、
「生国能州地之浦 箱館天神町 長蔵子分」とあり、文末には「身本引請 弁天町 山田屋左兵衛」とある。
伊助の略歴を記すと、
・元治元年(1864)箱館奉行に召し出され、慎敬丸(函館市史は、「信敬丸」とする)水主を勤め、岩内石炭積取、その後、沖の口勤番、常灯明勤番を勤める。
・慶応3年(1867)「官より御頼有之」、アメリカ鯨漁船ジャウリーヤ号に「鯨漁稽古之ため」乗り組み、カムチャッカ、アリューシャンへ行く。
・慶応4年(1868)3月13日、箱館帰着。沖の口勤番を勤める。
・同年6月11日、箱館丸表役仰せ付けられる。8月1日出帆、アイロップで難船、樺太・シラヌシで越年。
・明治2年(1869)2月3日宗谷着。また樺太・クシュンコタンに戻り、6月27日、岡本監輔判官が同船し、岡本はイシカリへ上陸。7月11日、箱館着。
・同年10月29日、昇平丸船司に任命された。
・そして、明治3年1月26日、木の子村安在浜で昇平丸沈没、
開拓使は、昇平丸が箱館到着のわずか5日後に喜代蔵を解任し、伊助と交代させている。
伊助の経歴を見る限り、船乗りとしての経験も豊かで、「氷海」(「略開」)のアリューシャンでの鯨漁を経験しているし、樺太の海も知っている。北の海に慣れている点でも、ベテランという点でも、伊助は、喜代蔵に勝るとも劣らないのではないだろうか。
 私は、喜代蔵が解任されたのは、彼が、石狩行きを渋ったことが最大の理由だろうと思う。開拓使は、伊助の技術と経験を買って、喜代蔵を呼びつけたその日のうちに、後任にすえている。米を始め昇平丸の積荷の石狩行きがいかに緊要であったかが伺える。
③ 昇平丸破船
さて、「略開」に、昇平丸の破船について、明治3年(1870)1月27日付の昇平丸監督信沢銀蔵の書付がある。

「昨廿六日朝辰之前頃に、悪風にて江差在木野子村安在浜と申処に打為寄、無拠破船仕候。然る処、船頭浦田伊助始め表役壱人、水夫弐人、かしき壱人、都合五人海死仕候」

 真冬の日本海で、急遽、船長を命じられた浦田伊助船長始め5人が死んだ。
 破船場所について、「略開」は、「安藤浜」とも「安在浜」ともある。(「新札幌市史」は「横沢浜」としている)
 現在の上ノ国村木の子の日本海に流れ込む「大安在川」「小安在川」があるから、「安在浜」が正しいと思う。
 なお、信沢銀蔵監督始め14人は、怪我をするものの、「村人多勢引上呉」、助かっている。
 積荷は「御米壱俵も上陸不仕」、すべて海に沈んだ。

3. 沈没後の処理
 昇平丸監督信沢銀蔵は、先の書付で、事後の処置について、「私、取計ひ相成兼」、開拓使の「出役」を願い出ている。
 開拓使は、北川(敏行)権少主典が木の子へ出張させ、その報告をうけ、「略開」に、「昇平丸破船始末」についての回漕掛の書付がある。
 それによると、事後処理の基本方針は、
①「水主共は、其場にて手当致、不残暇差出」
②「溺死人は、其場へ葬候」
③「村方へ賄代御払」
であった。具体的には、
「一 金 拾五両
是は溺死人の者葬式入用 壱人三両の見込
 一 金 九拾両
     是は残十五人分賄代 壱人一日永三百文ヅツ
 一 金 四拾両
     是は水主拾四人暇差出候に付、御手当金一人前三両の見込」

玄米六合づつ差し出されており、回漕掛は、松前家へその分として合計玄米九石六斗の返済伺いを出している。

◎解読を終えて
 関連文献を参照ながら、昇平丸運行関係書類を読み進めて、当時、開拓使にとって、船舶による物資輸送の重要さと困難さを改めて感じた。
 明治初期、北海道開拓の黎明期の事件であるが、それが、その後の開拓使の事業にどのような影響をあたえたのか。「新札幌市史」は、昇平丸の遅延・沈没は、「北海道での全般的な物資不足の状態下でそれをさらに深刻化させ、島判官の事業を左右することになる」と述べている。
 今後、その影響の内容と開拓使の対処、さらに、後続の開拓使附属船の運行と役割、その末路に関しても関連文書を読んでみたいと思う。
<主な参考、引用文献・ウェブサイト>
・「新北海道史第3巻通説2」(北海道)
・「函館市史」(函館市)
・「新札幌市史第2巻通史2」(札幌市)
・「開拓使事業報告」(道立文書館)
・「開拓使事業略記」(『新北海道史第7巻史料1』)
・「開拓使職員録」(道立文書館)
・「新版日本史年表」(歴史学研究会編 岩波書店)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター)
・「幕臣たちと技術立国」(佐々木譲著、集英社新書)
・「壮大な物語」(株式会社島津興業ウェブサイト)
・「ペリー来航と石川島造船所」(石川島播磨重工ウェブサイト)
・「昇平丸物語」(上ノ国商工会ウェブサイト)
・「白鶴美術館」(白鶴酒造ウェブサイト)

箱館役所からの「触書」の順達の村々名   (山越内村帳場「触書留」より)

「函館市史」学習メモ

箱館役所からの「触書」の順達の村々名   (山越内村帳場「触書留」より)

先般、於朝廷箱館裁判所総督ト被仰出所、当度御改革ニ付、箱館府知府事ト被仰出候間、以後知府事殿ト相唱候趣被仰付候事。判事ノ儀モ判府事権判府事ト被仰出候事
      七月十七日 
下湯川村、深堀村、上湯川村、鷲巣村、志苔村、亀ノ尾村、銭亀沢村、石崎村、小安村、戸井村、尻岸内村、尾札部村、臼尻村、鹿部村、砂原村、掛間村、尾白内村、鍛冶村、神山村、赤川村、石川郷、大川村、中島郷、七重村、飯田郷、城山郷、藤山郷、有川村、戸切地(へきりじ)村、吉田郷、三谷村、三好郷、富川村、茂辺地村、当別村、三ツ谷(石カ)村、釜谷村、泉沢村、札刈村、木古内村、亀田村、一本木村、千代田郷、中ノ郷、濁川村、文月村、大野村、鶴ノ郷、本郷村、市ノ渡村、峠下村、森村、鷲木村、落部村、山越内村、長万部村
合五拾六ヶ村
注・・慶応四年(1868)五月一日、五稜郭の旧箱館奉行所庁舎を箱館裁判所として開庁された。この文書は、同年七月十七日、箱館府が管内に布告した「触書」である。
この文書の「順達」は、七月十七日に発せられ、下湯川村から始まり、亀田半島を一周し、尾白内から南下し箱館周辺の村々を回り、木古内に向かう。木古内から引き返し、亀田に戻り、大野川を更に北上し、森を経て長万部に至る。
なお、山越内村着は八月十六日とあるから、「触書」が箱館管内を回り終わるのに一ケ月かかっていることになる。
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