森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

文化4年の中村小市郎

◎「蝦夷紀聞」・・文化3~4年(1806~1807)のロジア人による樺太・エトロフ襲撃事件についての公私の文書、風聞の類を日付順に収録したもので、全15巻。
◎小市郎の名前・・そのうち、小市郎の名前は、3巻の最後の方に出てきます。
南部藩主の南部大膳大夫から幕府への届書のなかです。日付は文化5年5月晦日。
◎当時の状況・・ロシア人がエトロフを襲撃したのは、文化4年4月23日から29日にかけてのことで、その報が箱館に届いたのが5月18日のこと。
いろいろな風評がかけめぐり、公私の文書も飛び交いますが、この南部藩主の文書はそのひとつです。
◎事件当時の小市郎・・小市郎は、文化4年の事件当時は、クナシリ詰めでした。クナシリ会所は同島のトマリにあり、詰めていたのは、向井勘助と小市郎でした。「休明光記」によると、クナシリ北部のルシアで「大筒の音相聞」えた折、向井勘助は現地ルシアにおり、小市郎は、勘助に「心付」せず、「自分持場」、つまり、トマリに帰ったという理由で、「急度叱置」という処分を受けることになります。一方、勘助は「誉置」という論功行賞を受けます。
◎「蝦夷紀聞」の小市郎関係部分・・書き下しすると、次のようになります。
「去る三日、クナシリ島詰の者、同所会所へ呼出、中村小市郎、向井勘助立会にて・・(以下略」)
この後の文を読むと、要するに、クナシリ詰の南部藩士が、箱館奉行役人の小市郎、勘助より、エトロフ事件を聞かされ、小市郎らは、南部藩士にそれぞれ、藩で防備を固めるよう指図し、南部藩士は、箱館詰の南部藩士へ、その指示を伝えます。南部藩では、派兵準備をしていたが、奉行からは、「南部藩は、前年のカラフト事件の際、すでに500人を派遣していたので、再度の増派は不要」との達しがあり、その経過を、在所(盛岡)より、江戸詰の藩主・大膳大夫へ報告があったので、その旨を幕府に届けた。という内容です。
小市郎は、クナシリのトマリ会所で、エトロフ事件とその善後策を南部藩士に申し渡したということが、南部大膳大夫の届書に登場したことになります。
◎以前にいただいた小市郎の掛図との関係・・このあと、小市郎には、帰還命令が出て、クナシリを離れ、シャリ(掛図では「社里」)経由で箱館へ帰りますが、帰途「阿寒河」で乗った舟が暴風に遭い転覆することになります。

元日、元旦、朔日、正月

○「元」・・呉音「ガン」。漢音「ゲン」。部首は「ニンニョウ」

かんむりをつけた人の象形で、「あたま」「かしら」「根本」の意味。

    ・「元凶」(ゲンキョウ)「悪人のかしら」で、「大悪人」

    ・「元日」(ガンジツ)「1年の日のあたま」で。「1月1日」

・「旦」・・部首は「日」部。「日」に、地平を示す「一」。明るくなっていく早朝の意味。

    ・「旦」を含む形声文字に「平坦」の「坦」などがある。

    ・「元旦」は、「朝のあたま」だから、1月1日の朝をいう。

    ・「元旦の朝」は、「朝の朝」になり、「満開に開く」「食事を食べる」の類で、正しくないことになる。

・「朔」・・「サク」。部首は「月」(つき・ひづき)部。

・左の「屰」(ギャク)は、「さかさま」「あとに戻る」の意味だから、「朔日」は、「欠けた月がもとへ戻る日」の意味で陰暦の「ついたち」をいう。

     ・なお、国訓の「ついたち」の語源は「月立ち」(つきだち)からともいわれる。

     新暦の「1日」は、新月とは限らないから、新暦の「1日」を「ついたち」というのは、正しくないことになる。

     ・江戸期以前の古文書の日付は、ほとんど「朔日」と書かれている。読むときは、「さくじつ」でも国訓の「ついたち」でもどちらでもいい。

     ・ところが、明治5年(1872)11月9日、明治政府は太陽暦採用の詔をだし、「明治5年12月3日」を「明治6年1月1日」と改正したので、これ以降は、「1日」と書かれた場合、「ついたち」でなく、「いちにち」と読むべき。

     ・「正月1日」は、「正朔」(せいさく)。

     ・ちなみに、2008年1月1日の月齢は22日で、下弦の月。(弓張月)「朔の日」、「朔日」(ついたち)ではない。

・「正」・・部首は「止」部。甲骨文は「口」+「止」。「口」は、「国やむら」の象形で、「止」は、「足(あし)」の象形で、「正」は、(他の)国にむかってまっすぐ進撃する意味で、転して「まっすぐ」「ただしい」の意味。また、「かしら」の意味にも転じたので、「正月」は、「1年のかしらの月」で、1月のことになった。

    古文書では「1月」をほとんど「正月」と書かれている。

    ・ところで、「政治」の「政」は、もともと、「ただす」の意味がある。



◎「政治」が、漢字の意味の通りに行われることを願ってやみません。

津軽藩兵とコーヒー

宗谷岬の宗谷公園内にコーヒー豆をデザインした「津軽藩兵詰合記念碑」がある。
碑のデザインは、コーヒーが水腫病に効果があるとされ、予防薬として和蘭コーヒー豆が配られたという記録を基づくという。
碑は、平成4年(1992)9月、弘前市の有志によって建立された。毎年、9月第一日曜日に慰霊祭が行われている。
碑文は、次の通り。
「この碑は、文化4年(1807)幕名による蝦夷地越冬警備のさい、厳冬下で次々と浮腫病に倒れていった数多くの津軽藩兵を悼むとともに、その後、安政2年(1855)再び蝦夷地警備に赴いた藩兵達には、浮腫病の薬用として「和蘭コーヒー豆」が配給されていた事実を記念するためのものである。 珈琲を飲めずに逝った人々と、薬として大事に飲んだであろう先人達の辛酸を、歴史の一齣として忘却するには忍びがたいしその体験は日本の珈琲文化の嚆矢としても貴重である。
 茲にその偉業と苦難の歴史を後世に伝承すべく、ゆかりの地・宗谷に珈琲豆を象った記念の碑を建立することとした。
1992年9月16日

宗谷岬に津軽藩兵詰合の記念碑を建てる実行委員会

会長 成田専蔵


文化3~4年(1806~1807)のロシア人のカラフト、エトロフ襲撃事件を契機に、各地に東北諸藩の藩兵が警備に派遣されたが、北辺の地での生活は厳しく、多くの藩兵が倒れた。宗谷には、津軽、会津、秋田藩兵が、次々派遣された。
津軽藩兵の死亡では、斜里詰めの津軽藩兵の水腫病による多数の死者がでたことはよく知られているが、その他の道内各地での犠牲はあまり知られていない。
そもそも、津軽藩兵は、当初、宗谷に派遣され、文化4年7月になって、百名が急遽、斜里への転進が命じられた。
文政4年(1821)、蝦夷地の直轄が解かれるまで、多くの津軽藩兵が宗谷に駐屯した。
碑は、宗谷岬に近い宗谷公園内にあるが、津軽藩の詰所は、宗谷岬よりかなり西に寄った地、現在の稚内市大字宗谷字宗谷の宗谷川河口付近にあった。
ここには、宗谷会所、厳島神社、護国寺などもあり、一帯の中心地であった。

なお、この碑のそばには、会津藩、秋田藩の旧藩士の墓もある。
また、岬より、少し西のサンナイには、「間宮林蔵渡樺出港の地」碑もある。

宗谷岬は、「日本最北端の地碑」「宗谷岬音楽碑」が有名だが、「津軽藩兵詰合記念碑」など、歴史関係の碑は顧みられることは少ない。
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旧国名に「州」をつけた呼び方

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文化3~4年のロシア人の樺太・エトロフ襲撃と江戸

<当時北海の警報の江戸に伝えられて人心の恐々恟々としていた有様についての江戸の状況を記したもの>

○『泰平年表』・・「かゝりしかば江戸の町々鍛冶を業とせるは家毎に番具足をきたへ、古着鬻(ひさ)ぐ家は軒毎に陣羽織を懸けたり。是等を見るに世の中何となく物騒がしく、其事を預らぬ者も安からぬ心地するに」云々といい、流言蜚語(ひご)のつぎつぎと行はれたことなどを述べている。
○『視聴草』七集の三「文化丙寅(三年)北辺騒動都下風聞」
・最上徳内・・「最上徳内ひとたび蝦夷のかゝりは御免なりしが、此度(こたび)また被仰付(おほせつけられ)候て、霊岸島の役所へまゐり、即日より存寄(ぞんじより)を申したりと風聞」
・近藤重藏、秦憶丸(あわきまる)・・「近藤重藏十五日出立(しゆつたつ)の予定。十二日出立のところ支度間に合はず」また、「村上島之丞、中川飛騨守殿につきしたがひて発足のよしなり」と見えている。
 蝦夷のことといえば、先づこれらの人々が噂に上つている。ついで堀田正敦の江戸を発足する物々しい様子も叙せられている。
「六月廿一日朝五ツ時、摂津守様御出立。御紋付絽の羽織、小袴、馬上筋違(すじかひ)御門より鑓(やり)を伏せ被申(まふされ)候由、見物多し。鑓印は白ちりめん一幅の切(きれ)なり」
・「加茂眞淵が蝦夷の歌もあり。此節(このせつ)取りはやす人あり」とにかく世上は到るところ蝦夷地の風評だつた。
(森銑三著「最上徳内」より引用・・日本ペンクラブ電子文藝館所蔵)

札幌近郊の村々のなりたち

私の講師日程
◎テーマ・・「札幌近郊の村々のなりたち」
◎概要・・手稲村、篠路村、苗穂村、白石村など、札幌近郊の村々のなりたちと、その後の発展の歴史をたどります。
◎日時・・2008年2月25日(月)13:30~15:10
◎会場・・札幌市北区民センター(札幌市北区北25条西6丁目。地下鉄南北線北24条駅下車徒歩5分)
◎入場無料
◎主催・・札幌市社会教育協会

画数が増えた新字体

1.はじめに

昭和24(1949)年4月28日、内閣告示第1号で「当用漢字字体表」を告示した。
そのまえがきに「漢字の読み書きを平易にし正確にすることをめやすとして選定した」として、昭和21年1月16日のに制定した「当用漢字表」の1850字の漢字のうち、355字の字体を変えた。一般に、この355字を「新字体」、改定されなかった1495字を「旧字体」という。
昭和21年の「当用漢字表」では、いわゆる「康煕字典体」で示されていた文字を「一般社会で使用する漢字の範囲を示すもの」として、1850字の指定にとどまっていたが、昭和24年の告示では、「略体の採用、点画の整理」をはかった。
日本において、国家が「漢字」の字体を改定したのは、これが最初である。

2.画数が増えた新字体

ところで、「新字体」を採用した内閣告示には、「読み書きを平易にし」たとあるが、逆に画数が増えた漢字がある。
①「歩」の下の部分が1画増えて「少」になった例
  「歩」(7画から8画に)
 「賓」(14画から15画に)
 「頻」(16画から17画に)
 *「濱」は、当用漢字でないので、「貝」の上の部分は「少」ではない。
②「牙」の部分が4画から5画になった例
 「冴」(6画から7画に)
 「芽」(7画から8画に)
 「邪」(7画から8画に)
 「雅」(9画から10画に)
 *「穿」「鴉」「谺」などは、当用漢字でないので、「牙」は、4画に書く。
 *なんと、「牙」も当用漢字でない。したがって4画。
 *「芽」は、「きば」のように突き出た草木の新しい「め」の意味だから、「草かんむり」の下は、旧字体の「牙」の方が、成り立ちがわかっていいと思うのだが・・・。

「龜」の書き順

私が参加している「古文書解読」の講座や学習会では、「くずし字を(声を出して)読む」ことに重点がおかれ、「古文書を正しく書き下す」ことがあんまり重視されない傾向にあります。
私は、「まず、書かれた通りに書く」ことも、大事だと思っています。
漢字にせよ、仮名にせよ、日本の文化だと思うからです。
特に、旧字体には、漢字の成り立ちの意味がこめられていると思います。
ネットに「漢字の正しい書き順」というサイトがありましたので紹介します。
下です。
http://kakijun.main.jp/

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日本初のスケーター

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先般、歴史学同好会主催の歴史講座で、札幌大学の川上淳氏の「ラクスマン来航と大黒屋光太夫」の講演を聴き、面白いことを聞きましたので、書きます。

「ラクスマンは、日本初のスケーターだった」という話です。
ラクスマンが、光太夫を伴って「エカレリーナ」号で根室港に入港したのは、寛政4年(1792)9月4日のこと。
一行は、幕府役人を根室で待機するためもあって、根室で越冬するのですが、結氷した根室の海でスケートに乗るラクスマンが描かれた絵図が愛知県刈谷中央図書館に所蔵されています。
図ではスケートのことを
「エギライ ドロバス ト云 
 一名 コーニキー 」
とあります。
根室市では、「スケート発祥の地」と宣伝をしているが、川上氏は、「なかなか浸透していない」と、苦笑されておられた。

ひびが入った氷の間をすべる人物とスケートの軌跡が描かれていて興味深いです。


カムチャッカに「嘉兵衛」峰が誕生

<特大<太>>2006年は、ゴローニン副提督とリコルド提督の生誕230年、高田屋嘉兵衛生誕235年に当たり、ゴローニンの子孫ピュートルゴローニン氏が「事件を後世に伝え、友好の証を刻みたい」として、ロシア地理学会を通してカムチャッカ州政府に同地の無名峰に、ゴローニン、リコルド、嘉兵衛の3人の名を付けるよう提言し、それが受け入れられ、同州のナリチェボ公園内の無名峰に、「嘉兵衛峰」が誕生した。高さは1054メートル。
ナリチェボ公園は、1996年にユネスコ世界遺産にも登録された美しい公園。(サッポロ堂書店発行の広報誌より)

「蝦夷紀行」の来歴~岡野義知にふれて

◎はじめに
「蝦夷紀行」は、北海道立文書館(以下、文書館)所蔵の「旧記」である。文書館編の「北海道の歴史と文書」によると、「旧記」とは、「主として近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録等」のことである。文書館所蔵の旧記は2341点あり、「蝦夷紀行」の請求番号は「旧記1782」である。
1. 原本と写本の来歴
① 原本・・著者・館野瑞元の文化4年(1807)9月29日付、長橋右膳宛の手紙。
② 「定所主人」の「抄写本」
・奥書に、翌文化5年(1808)9月18日付けで、「原文繁して、且ながければ刪潤してうつし置」とある。原文はもっと長かったことが窺える。「刪潤」とあるから、削ったばかりでなく、補った箇所もあることになる。「定所主人」は館野の原本を見たことになる。彼は、原本を写したのではなく、「刪潤」したのだから、写本でなく、いわゆる「抄写本」ということになる。
・また、「蝦夷紀行」と題したかどうかについては、「此書簡・・蝦夷地に行たる事を記したる也」とあるから、まだ、「蝦夷紀行」とは題されていないことになる。
・「定所主人」は、不明。彼が、「原文」を入手した経過もわからない。
③ 「岡野みなもとの義知」(以下「岡野氏」)の写本
・さらに、「定所主人」の奥書の後に、岡野氏の奥書があり、「ある書房にて・・かひもとめ・・つたなき、ふんてとりて、かく写しぬ」とある。だから、「抄写本の写本」ということになる。
・岡野氏は、「此蝦夷紀行」を買ったのだが、当初から「蝦夷紀行」と題されていたのか、彼が題をつけたのか、または、題はなく、単に「蝦夷地の紀行の本」だったのかは、分からない。
・現在、道立文書館所蔵の「蝦夷紀行」は、岡野氏が購入し所蔵したものであり、「蝦夷紀行」と表題がある。
 <その根拠>
 ・奥書の最後に、岡野氏の署名と朱印2つがある。ひとつは丸印で「義知」、もうひとつは、角印で「岡野」とある。
 ・さらに、表紙裏に「岡野氏文庫」という縦長の朱印がある。
◎岡野義知について
○著書
「鬼怒川小貝川用悪水路図」
・彩色 60.3×209.5cm、明治大学図書館蘆田文庫所蔵)
・奥書・・「嘉永元年葉月中の十五日 岡野義知しるす」
*「蝦夷紀行」の奥書・・ 「卯月末の九日」
○写本
「蝦夷島奇観」の手写し(坂本龍門文庫所蔵)
岡野義知は幕末の絵師   → 「蝦夷紀行」の付図も岡野の手になる
2. 道立文書館所蔵の来歴
① 旧記の収集・・前掲書によると、北海道では、開拓使以来、献納、購入、書写などして、精力的に旧記の収集に努めた。これらには、所蔵に帰した時代と担当係、その後の引き継ぎ経過によって、「開拓使印」「函館支庁印」「記録局編輯課」「札幌県図書印」「北海道庁之印」などの蔵書印が押され、その来歴を知ることができる。
② 札幌県時代・・「札幌縣圖書印」
・「蝦夷紀行」の表紙の蔵書印がふたつあり、そのひとつは「「札幌縣圖書印」。
・明治15年(1882)2月8日、開拓使が廃止され、「札幌県」など3県が置かれた。札幌県では、翌16年12月、「札幌県図書取扱手続」を達し、図書にはすべて「札幌県図書印」を押し、旧記は記録局編輯課が保管することになった。
・「蝦夷紀行」には、「開拓使印」はないので、札幌県時代に収集されたと思われる。
・なお、旧所蔵の「星野氏」に関する印は、墨で「×」され、さらに、その上に和紙
   されている。「蝦夷紀行」の所有が、星野氏から、札幌県に移ったことがわかる。
③ 北海道庁時代・・「北海道廳圖書之印」
・明治19年(1886)、3県を廃止し北海道庁が置かれた。図書の管理は第一部記録課の所管になり、20年、北海道庁訓令で図書管理が規定され、「北海道廳圖書之印」を押すことになった。
 ・明治42年(1909)1月12日、赤れんが庁舎火災のおり、図書類も損害を蒙ったが、「蝦夷紀行」は、難を免れた。
④ 道立文書館
・「蝦夷紀行」など旧記や諸文書の保管・利用は、その後、総務部文書課史料編集係を経て、昭和43年(1968)に、総務部行政資料室(のち課)が設置された。
・昭和60年4月1日、「北海道立文書館条例」が公布され、7月1日開館した。旧記をはじめ、諸文書が保存されている。
◎まとめ
・文書館にある館野瑞元の「蝦夷紀行」は、館野の手紙の「抄写本の写本」ということになる。
現在、「蝦夷紀行」は、北海道総務部法制文書課の中の組織である北海道立文書館が保存・利用にあたっている。・したがって、「蝦夷紀行」の筆跡は、「岡野みなもとの義知」なる人物である。
<参考文献>
・「北海道の歴史と文書」(北海道立文書館編、北海道出版企画センター刊、1987)

「西蝦夷地大辺」

1.北大文書
北大付属図書館に「西蝦夷地大辺写之」と題する文書がある。文化3~4年のロシア船の北辺襲撃事件が巻き起こした騒動を小倉百人一首のパロディで風刺した16首の落首が、横13センチ、縦33センチの和紙5丁に記載されている。
2.江戸も大変
 この文書の表紙に「辰六月二四日磯乃助様より借り写之」とある。いわゆる「文化丁卯事件」について、江戸に落首があらわれたのは、それ以前ということになる。
 ロシア船のエトロフ襲撃が、箱館に到来したのは、5月18日、赴任途中の戸川安論が金成宿(仙台国分町説も)知ったのは、同月23日のこと。幕府が、目付遠山金四郎景晋に蝦夷地出張を命じたのは6月6日。
 文化4年6月に入って、天下泰平の江戸は、「大変」になった。
3.「玉や振る・・・」
 さて、落首のいくつか私なりに書き下して紹介する。ご存知かと思うが、元歌を括弧書きした。
●浜辺赤人(山辺赤人)
 蝦夷の浦に 打出見れば (田子の浦に うちでて見れば)
 うろたえの 不時の   (白妙の 富士の)
 さわぎに 武きはふりつつ(雪は 降りつつ)
●大将なごん(清少納言)
 玉こめて 筒のそら音は (夜を込めて 鳥の空音は)
 はかるとも 世にも   (はかるとも 世に)
 おろしあの 舟はゆるさじ(逢坂の 関は許さじ)
●各々こまり(小野小町)
 浜人は 打たれにけりな (花の色は 移りにけりな)
 えとろふに 遠目鏡にて (いたづらに 我が身世にふる)
 ながめせしまに     (ながめせしまに)

「旧浦河公会会堂」ついて~明治のキリスト教徒開拓者に触れて~

1. 初代会堂(正式名称は「学校兼会堂」)の銅版画
・初代会堂は、明治17年12月27日落成。義援金344円余が集められ、梁行3間、桁行7間。(「荻伏百年史」)この初代「会堂」は、赤心社が子女の教育と社員・地域住民の修養を目的に建立。
・、「新北海道史」編集機関誌「新しい道史43」(昭和46年2月発行)の表紙となった銅版画。初代の「会堂」の珍しいもの。
・元の絵は、当時の旅行案内といえる「内国旅行日本名所図会」(注1)嵩山堂発行(=大阪市心斎橋筋博労町、明治22年11月)巻之五の挿画。
・銅版画・明治16年11月、手宮~幌内間の鉄道が開通し、北海道開拓はいよいよ本格化しようとしていた時期。一方、印刷界では、北海道でも銅版技術が普及しはじめた時期。
・実は、当時の荻伏の入植地の風景写真をモデルに銅版画に模写したもの。
・写真・銅版画の風景・・プラウ、ハローなど畜力農具の導入。大きな納屋など集団農場の風景。

2. 2代目の「会堂」と開拓の村に移転された「旧浦河公会会堂」
・開拓の村に移設復元された旧浦河公会会堂は、「明治27年に新しく建築された教会堂」(「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」以下「あゆみ」)という。つまり、2代目の「会堂」。
① 2代目の「会堂」
明治27年に485円の寄付金で建築。の看板には「浦河組合基督教会」とある。
この建物を建てた組織が、「浦河組合基督公会」。明治19年(1886)6月26日設立された(設立者13名、受洗者18名)。明治31年(1898)に「元浦河組合基督教会」と改称された。
したがって、開拓の村の建物が、明治27年建設の建物の移設復元とすれば、建物の名称は正しくは、「旧浦河組合基督公会会堂」か、あるいは単に、「旧浦河組合基督教会」。
② 「浦河組合基督教会」の増築
 昭和5年(1930)、「会堂」が2階建てに増築された。この建物が、昭和58年(1983)まで89年間、現地で使用されていた。
③ 開拓の村の収集・復元の経過
「あゆみ」によると、昭和53年(1978)3月21日の浦河沖地震で会堂は使用が危険な状態となり、「4月の総会で開拓の村移設を前提とした取壊しを決議し、寄贈の申し出を受けた」とある。解体収集工事は、昭和58年10月~11月。480万円。復元工事は昭和59年11月~60年3月。工事費2122万円。
④ 開拓の村移設の「旧浦河公会会堂」
2階建てであり、昭和5年の増築「会堂」の移設復元といえる。

3. キリスト教徒による北海道開拓
・「北海道キリスト教史」には、「開拓者によって生まれた教会」として、図
表を掲げている。そのうち、浦臼の「聖園農場」と、今金の「インマヌエル村」
に触れる。
① 聖園農場
・明治26年(1893)、高知の武市安哉(あんさい)(注3)が移民青年26名を率いて、当時の樺戸郡月形村ウラウスナイの札的川(サツテキナイ)周辺に入植。(明治32年に分村して浦臼村となる)189万坪の貸し下げが認められ、キリスト教義による理想農村とすべく「聖園農場」と名づけた。
本部は8間に5間の掘立小屋で、教会も兼ねていた。翌27年5月には、学校を兼ねた教会堂が建設された。
・坂本直寛の援助
明治31年9月の豪雨(注4)で教会堂は大破損、信者も家、畑を失い、離村者も出た。牧師も家を流され引き上げ、教会は危機に面した。
そのとき、教会を支援した人物が、坂本直寛。(注5) 「北海道キリスト教史」より明治35年、旭川講義所の伝道者となり、浦臼を離れた。
② インマヌエル村
・明治24年、京都同志社の学生・志方之善(組合教会派。妻は、日本初の女医荻野吟子)と丸山伝太郎は、瀬棚郡利別原野目名(当時は瀬棚村。のち明治30年、分村し利別村となる。昭和22年から今金町)に入植。この原野は犬養毅、尾崎行雄らが国民党の資金対策として農業経営を企図し、2035万坪の貸付を受けていた。志方は犬養と協議し、200町歩の代耕を許された。
・一方、聖公会派の天沼恒三郎(埼玉出身)も明治26年に入植し、この地をインマヌエル(「神、われとともに存す」という意味)と名づけた。昭和8年まで、利別村の字名だったが、「神丘」と改正。
・明治28年、聖公会派が草葺きの礼拝堂を建て、「利別教会」とする。
・明治31年、組合教会派が笹小屋の「インマヌエル教会」を建てた。
③ その他
・伊達に入植した伊達邦成も、開拓の難事業の精神的基盤をキリスト教に求め、邦成と家臣の田村顕允(あきまさ)は、函館の聖公会宣教師デニングについて入信受洗した。中でも田村は、も熱心なクリスチャンとなった。
<注>
1.内(1)国旅行日本名所図会・・副題に「Guide Book For Travellers Around Japan」とあるから、今日の旅行案内。
2.浦河組合基督教会・・「浦河組合基督公会」の「会堂」。「組合教会」は、会衆派教会(Congregational Church)系のキリスト教の一派。札幌農学校のクラークもこの派に属していた。
3.武市安哉(たけいちあんさい)・・弘化4年(1847)、高知藩士武市半平太の子に生まれる。板垣退助率いる自由党に入り、自由民権運動に参加。県議の時、禁固刑を受ける。明治25年衆議院議員。翌26年、「土佐百年の計を建てる時」と、代議士を辞職し、北海道拓地移民となる。明治27年、青函連絡船の船中で病死。46歳。
4.明治31年9月の豪雨・・9月6日~7日にかけて全道を襲った。特に石狩川流域は大きな被害が出た。死者248人、流失倒壊家屋3500戸余、田畑の浸水5万6000町歩。杉田定一北海道庁長官が上京し、国庫から災害復旧費・官営鉄道復旧工事費83万円を支出させた。
5.坂本直寛・・17歳で坂本龍馬の兄権平の養子となる。板垣の自由民権にも参加。明治28年、北見のキリスト教開拓団・北光社の社長となる。明治31年の大洪水では、青年時代に薫陶を受けた板垣内務大臣に救援金を要請。

<参考文献>
・「浦河赤心社開墾地会堂之図」(高倉新一郎著、「新しい道史43」所収、1971)
・「荻伏百年史」(荻伏百年史編さん委員会編、1983)
・「浦河百話」(「グルッペ21うらかわ」編、1991)
・「北海道キリスト教史」(福島恒雄著、日本基督教団出版局、1982)
・「北海道開拓の村 整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊、1992)
・「浦臼町史」(浦臼町史編さん委員会編、1967)
・「今金町史」(今金町役場編、1958)
・「今金町史上巻」(今金町史編集委員会編、1991)
・「新北海道史年表」(北海道編、1989)

【太政官の建物はどこにあったか】

太政官とは、「天下の権力総てこれを太政官に帰す」(政体書)と規定された、明治初期の日本の最高官庁。
 「太政官」の役所の所在地がどこだったかを述べる。

・慶応4(1868)閏4月21日、政体書を定め、太政官のしたに、7官2局を置く。太政官は京都御所に設置された。
・明治2(1869)年2月24日・・明治天皇東京滞在中、太政官は東京に移転することを達し、皇城内西の丸に置かれる。
・明治5(1872)年3月・・西の丸下に太政官庁舎を造営。
・明治6(1873)年5月5日・・皇城の火災により、多くの公文書類もろとも、太政官庁舎は焼失。即日、赤坂離宮が仮皇居と定めるが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に「太政官代」が設置。
・明治10(1877)年8月・・しかしながら、「万機を親裁」する天皇が居住する赤坂離宮と太政官庁舎との間に距離があるのは不都合であるとして太政官を赤坂仮皇居内に移転。
・明治11(1878)年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が赤坂仮皇居内に新築。以後、内閣制度発足の明治18(1885)年12月22日までは太政官庁舎となり、明治22(1889)年1月まで内閣庁舎として使用された。

(参考:国立公文書館ホームページ「デジタルギャラリー」)

カタカナの「ヲ」

カタカナの「ヲ」について

◎漢字の「」の最初の3画を転用してできた。
なお、「乎」の読み方は、漢音では「コ」、呉音では「オ」(ヲ)
◎書き順
したがって、書き順は
「一」→「ニ」→「ヲ」と3画に書くのが正しく、
「フ」→「ヲ」の2画で書くのは間違いといえる。

江戸から佐井まで

<奥州街道と南部北通り>
幕府の道中奉行(勘定奉行の管轄)の直轄であった白河までは早くから整備ざれていた。ところが白河以北となると、脇街道的存在となっており、宿駅の数も一定せず、千住~三厩間113次、89次、75次など、増減がはなはだしい。また、「間宿(あいのしゅく)」(正規の宿駅間に設けられた休憩の宿)もあるので、余計にややこしい。街道の呼び方も、江戸期の「道中記」には、特に白河以北は、「仙台道」「仙台松前道」「南部道」など、いろいろあり、一定していない。宿名もいろいろな字があてられている。読み方もいろいろある。なお、盛岡~日本橋間は139里あり、11泊~13泊の旅程だった。
更に、盛岡以北となると、参勤交代の大名の往来も八戸南部藩、松前藩の二家が通過するだけで、宿駅といっても領内の宿屋と同程度であった。奥州街道は整備され始めたのは、北辺警備問題が起ってからである。人馬・貨物の往来の増加で、面目を一新する必要が生じた。
ところで、野辺地から分岐して田名部に至り、更に、佐井までを、「北通り」「田名部通り(道)」などといった。この地は、中世から「北郡(きたごおり)」と呼ばれ、江戸期には、「北郡」(きたぐん)と呼ばれた。「下北郡」と「上北郡」に分かれたのは、明治11年である。なお、田名部から南部城下の盛岡まで約54里で、夏は「5日路」、冬は「7日路」として旅したという。
<日光街道の宿場>
1. 千住(せんじゅ・東京都足立区)
2. 草加(そうか・埼玉県草加市)
3. 越ヶ谷(こしがや・埼玉県越谷市)
4. 粕壁(かすかべ・埼玉県春日部市)
5. 杉戸(すぎと・埼玉県北葛飾郡杉戸町)
6. 幸手(さって・埼玉県幸手市)
7. 栗橋(くりはし・埼玉県北葛飾郡栗橋町)
8. 中田(なかた・茨城県古河市)
9. 古河(こが・茨城県古河市)
10. 野木(のぎ・栃木県下都賀郡野木町)
11. 間々田(ままだ・栃木県小山市)
12. 小山(おやま・栃木県小山市)
13. 新田(しんでん・栃木県小山市)
14. 小金井(こがねい・栃木県下野市)
15. 石橋(いしばし・栃木県下野市)
16. 雀宮(すずめのみや・栃木県宇都宮市)
17. 宇都宮(宇都宮城下)(うつのみや・栃木県宇都宮市)→奥州街道へ
18. 徳次郎(とくじろう・栃木県宇都宮市)
19. 大沢(おおさわ・栃木県日光市)
20. 今市(いまいち・栃木県日光市)
21. 鉢石(はついし・栃木県日光市)
<奥州街道の宿場>
1. 白沢(しらさわ・栃木県宇都宮市)
2. 氏家(うじ
3. いえ・栃木県さくら市)
4. 喜連川(きつれがわ・栃木県さくら市)
5. 佐久山(さくやま・栃木県大田原市)
6. 八木沢(やぎさわ・栃木県大田原市)
7. 大田原(おおたわら・栃木県大田原市)
8. 鍋掛(なべかけ・栃木県那須塩原市)
9. 越堀(こしぼり・栃木県那須塩原市)→<間宿>寺子(てらご・栃木県那須塩原市)
10. 芦野(あしの・栃木県那須郡那須町)→<間宿>板谷(いたや・栃木県那須郡那須町)→<間宿>寄居(よりい・栃木県那須郡那須町)
11. 白坂宿(しらさか・福島県白河市)
12. 白河宿(しらかわ・福島県白河市)
<仙台松前道の宿場>
1. 根田(ねだ・福島県白河市)
2. 小田川(こたがわ・福島県白河市)
3. 太田川(おおたがわ・福島県西白河郡泉崎村)
4. 踏瀬(ふませ・福島県西白河郡泉崎村)
5. 大和久(おおわぐ・福島県西白河郡矢吹町)
6. 中畑新田(なかはたしんでん・福島県西白河郡矢吹町)
7. 矢吹(やぶき・福島県西白河郡矢吹町)
8. 久来石(きゅうらいし・福島県岩瀬郡鏡石町)
9. 笠石(かさいし・福島県岩瀬郡鏡石町)
10. 須賀川(すかがわ・福島県須賀川市)
11. 笹川(ささかわ・福島県郡山市)
12. 日出山(ひでやま・福島県郡山市)
13. 小原田(こはらだ・福島県郡山市)
14. 郡山(こおりやま・福島県郡山市)
15. 福原(ふくはら・福島県郡山市)
16. 日和田(ひわだ・福島県郡山市)
17. 高倉(たかくら・福島県郡山市)
18. 本宮(もとみや・福島県本宮市)→<間宿>南杉田(みなみすぎた・福島県二本松市)→<間宿>北杉田(きたすぎた・福島県二本松市)
19. 二本松(二本松城下)(にほんまつ・福島県二本松市)
20. 油井(ゆい・福島県二本松市)
21. 二本柳(にほんやなぎ・福島県二本松市)
22. 八丁目(はっちょうめ・福島県福島市)→<間宿>浅川新町(あさがわしんまち・福島県福島市)
23. 清水町(しみずまち・福島県福島市)
24. 福島(福島城下)(ふくしま・福島県福島市)
25. 瀬上(せのうえ・福島県福島市)
26. 桑折(こおり・福島県伊達郡桑折町)
27. 藤田(ふじた・福島県伊達郡国見町)
28. 貝田(かいだ・福島県伊達郡国見町)
29. 越河(こすごう・宮城県白石市)
30. 斎川(さいかわ・宮城県白石市)
31. 白石(白石城下)(しろいし・宮城県白石市)
32. 宮(みや・宮城県刈田郡蔵王町)
33. 金ヶ瀬(かながせ・宮城県柴田郡大河原町)
34. 大河原(おおがわら・宮城県柴田郡大河原町)
35. 船迫(ふなばざま・宮城県柴田郡柴田町)
36. 槻木(つきのき・宮城県柴田郡柴田町)
37. 岩沼(いわぬま・宮城県岩沼市)
38. 増田(ますだ・宮城県名取市)
39. 中田(なかだ・宮城県仙台市太白区)
40. 長町(ながまち・宮城県仙台市太白区)
41. 国分町(芭蕉の辻・仙台城下)(こくぶんちょう・仙台市青葉区)
<南部路・松前道の宿場 >
1. 七北田(ななきた・仙台市泉区)
2. 富谷(とみや・宮城県黒川郡富谷町) *「新町」とも。
3. 吉岡(よしおか・宮城県黒川郡大和町)
4. 三本木(さんぼんぎ・宮城県大崎市)
5. 古川(ふるかわ・宮城県大崎市)
6. 荒谷(あらや・宮城県大崎市)
7. 高清水(たかしみず・宮城県栗原市)
8. 築館(つきだて・宮城県栗原市)
9. 下宮野(しもみやの・宮城県栗原市築館町)
10. 沢辺(さわべ・宮城県栗原市金成町)
11. 金成(かんなり・宮城県栗原市金成町)
12. 有壁(ありかべ・宮城県栗原市金成町)
13. 一関(いちのせき・岩手県一関市)
14. 山目(やまのめ・岩手県一関市)
15. 平泉(ひらいずみ・岩手県西磐井郡平泉町)→<間宿>瀬原(せばら・岩手県奥州市)
16. 前沢(まえざわ・岩手県奥州市)→<間宿>折居(おりい・岩手県奥州市)
17. 水沢(みずさわ・岩手県奥州市)
18. 金ヶ崎(かねがさき・岩手県胆沢郡金ケ崎町)
19. 鬼柳(おにやなぎ・岩手県北上市)→<間宿>黒沢尻(くろさわじり・岩手県北上市)
20. 成田(なりた・岩手県北上市)
21. 花巻(はなまき・岩手県花巻市)
22. 石鳥谷(いしどりや・岩手県花巻市)
23. 郡山(こおりやま・岩手県紫波郡紫波町)
24. 盛岡(盛岡城下)(もりおか・岩手県盛岡市)
25. 渋民(しぶたみ・岩手県盛岡市)
26. 沼宮内(ぬまくない・岩手県岩手郡岩手町)
27. 小繋(こつなぎ・岩手県二戸郡一戸町)
28. 中山(なかやま・岩手県二戸郡一戸町)
29. 一戸(いちのへ・岩手県二戸郡一戸町)
30. 福岡(ふくおか・岩手県二戸市)
31. 金田一(きんだいち・岩手県二戸市)
32. 三戸(さんのへ・青森県三戸郡三戸町)
33. 浅水(あさみず・青森県三戸郡五戸町)
34. 五戸(ごのへ・青森県三戸郡五戸町)
35. 伝法寺(でんぽうじ・青森県十和田市)
36. 藤島(ふじしま・青森県十和田市)
37. 七戸(しちのへ・青森県上北郡七戸町)
38. 野辺地(のへじ・青森県上北郡野辺地町) →南部北通りへ
39. 馬門(まかど・青森県上北郡野辺地町)
40. 小湊(こみなと・青森県東津軽郡平内町)
41. 野内(のない・青森県青森市)
42. 青森(あおもり・青森県青森市)
43. 油川(あぶらかわ・青森県青森市)
44. 蓬田(よもぎた・青森県東津軽郡蓬田村)
45. 蟹田(かにた・青森県東津軽郡外ヶ浜町)
46. 平舘(たいらだて・青森県東津軽郡外ヶ浜町)
47. 今別(いまべつ・青森県東津軽郡今別町)
48. 三厩(みんまや・青森県東津軽郡外ケ浜町)
<南部北通り(田名部通り)の宿場>
1. 有戸(ありと・青森県上北郡野辺地町)
2. 横浜(よこはま・青森県上北郡横浜町)
3. 田名部(たなぶ・青森県むつ市)
4. 関根(せきね・青森県むつ市)
5. 正津川(しょうずがわ・青森県むつ市正津川)
6. 大畑(おおはた・青森県むつ市大畑)
7. 下風呂(しもぶろ・青森県下北郡風間浦村)
8. 異国間(いこくま・青森県下北郡風間浦村)
9. 蛇浦(へびうら・青森県下北郡風間浦村)
10. 大間(おおま・青森県下北郡大間町)
11. 奥戸(おこっぺ・青森県下北郡大間町)
12. 佐井(さい・青森県下北郡佐井村)

己 已 巳

己・・キ・コ おのれ・つちのと
     (用例)知己(ちこ・ちき)
已・・イ すでに やむ のみ はなはだ
     (用例)已上、已来、已後、已而(すでにして、やみなん、やまん)
      無已(やむなし)、不得已(やむをえず)
巳・・シ み
      (用例)巳年
◎覚え方①
・キ・コ(の声)、おのれ・つちのと 
下に付き・・・(己)
・イ・すでに、半ばして やむ・のみ・・・(已)
・シ・み(は)皆付く・・・(巳) 
◎覚え方②
・おのれ(己)、すでに(已)して、へび(巳)

◎己・已・巳を使ったことば
*己巳(キシ・つとのとみ)  *明治二年の箱館戦争を「己巳(きし)戦争」ともいう。函館に「己巳役海軍戦死碑」がある。
*難読奇姓に已已巳己(いいしき・いえしき)がある。

官位としての「守(かみ)」の変遷

◎はじめに
 「筑前守」などの呼称の変遷について述べる。「筑前」は、地方行政区画の名前で、「守(かみ)」は、上代から律令時代に制定された「国司(こくし)」(地方を治める役人)の「官」(制度上の地位)名。
1. 律令時代・・国司(こくし)としての「守」
「国」(地方行政単位)を治める役人を「国司」(コクシ。またクニノツカサ)といった。今の県知事のようなもの。なお、上代には、地方行政単位である「国」のことを「県(あがた)」ともいった。
 つまり、「国司」は、「国」の行政官として中央から派遣された役人で、四等官があり、「守(かみ)」、「介(すけ)」、「掾(じょう)」、「目(さかん)」を指す。その下に「史生(ししょう)」がいた。
<平安期の「国」の等級区分>
国力(住民数、開墾面積など)の基準で、大国・上国・中国・下国の4等級に区分されている。区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。
○大国(たいこく・13カ国)
大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
○上国(じょうこく・35カ国)
山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
○中国(ちゅうこく・11カ国)
安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
○下国(げこく・9カ国)
和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国
2. 戦国~安土桃山時代の武家官位
 律令官位は、律令制度が崩壊し、実質的な意味がなくなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。この傾向は戦国時代に入り顕著になり、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その例として、織田信長の父織田信秀、今川義元そして徳川家康が三河支配のため三河守に任ぜられたケースなどがある。
 さらに、朝廷からの任命を受けないまま、官名を自称・僭称するケースも増加した。織田信長が初期に名乗った上総守もその一つである。また、官途(かんど)、受領(ずりょう)といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守もこの一つである。
また、秀吉が公家の最高位である「関白」として天下を統一すると、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところがただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の任官が相次いだために官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。秀吉の死去後は、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。
<官途状(かんどじょう)>
武家文書の一様式。武家社会での主従関係を明確にさせるため、幕府・大名が臣下に官職を与える際の文書。正式には推挙状によって朝廷に奏請していたが、戦国期には儀礼・簡略化され、大名が個別の書式で独自に発給している。この内とくに国司名を与えた場合を受領宛行状という。
<受領名(ずりょうめい)>
室町時代以降、功績の家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれる。これが受領名。多くの場合、大名の傘下にあって城や領地、兵力を有する国人や武将がその対象であった。この風習が転化し、自官や百官名、東百官という人名呼称が武士の間において定着するようになる。
3. 江戸時代の武家官位
<官位叙任権が朝廷から将軍家へ移行した経緯>
家康が江戸幕府を開くと、豊臣政権時代の苦い経験から官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。
①慶長11(1606)年4月、家康は朝廷に参内して武家の官位は幕府の推挙によって行うことを奏請。
②元和(げんな)元年7月、「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離した。(「禁中並公家諸法度」第7条「武家之官位者可為公家当官之外事」)
これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。
なお、官位を授ける権限は、徳川将軍家が持っていたが、任命書(口宣案と位記)は朝廷が発給した。
 秀吉、家康、秀忠の時代までは、全国の大名は競って高位・高官を望んだが、家光の時代になると官位には重みはなくなった。しかも、家光以降の大名は、官位は家柄と年齢によって決められるものとなり、その年齢がくれば自動的に幕府から朝廷に奉送された。したがって、家光以降の朝廷の作業は、全国の大名の官位の記録係となった。
なお、幕府から奉送された「筑前守」などの国司名は官位とはいわず、「権官」とか「通称官名」とか「名乗り」と呼んだ。
<官名名乗りの特例>
なお、幕府は、一部官名に特例を設けるなどして、大名統制に利用している。
・同姓同官名の禁止・・混乱を避けるため。
・大国大名の領国名優先使用・・前田氏の加賀守、越前松平氏の越前守など。
・領国名独占・・伊達氏の陸奥守と島津氏の薩摩守。
・大廊下、大広間詰め大名以外の老中と同一名乗り禁止・・老中昇進時に同名乗りの大名及び配下の幕府役人は遷任。
・大名以外の領国名使用禁止・・肥前の松浦氏(肥前守、他には壱岐守)、信濃の真田氏(信濃守、他には伊豆守)、対馬の宗氏(対馬守)等は例外として許可。
・三河守(津山松平家のみ可)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止・・幕府と朝廷を憚って。
<百官名(ひゃくかんな)>
 幕府や大名が被官に対して官途状を発給した受領名は、朝廷の関知しない僭称であったが、憚って、官名を略したり、違う表現に置き換えたりした。また、先祖が補任された官職を子孫が継承するケースも現れるなど、武士が自ら官名を名乗る「自官」という慣習が定着していくこととなる。やがて戦国時代の頃から、武士の間で官名を略したものを自分の名前として名乗る風習が生まれ、江戸時代後期までその風習が続いた。
 「国名」を取って名乗った例として、
宮本「武蔵」・・剣豪
田中「土佐」・・幕末期の会津藩家老
伊達「安芸」・・仙台藩家老
原田「甲斐」・・仙台藩家老

コンブ・鹿児島・沖縄戦~私の「北海道と沖縄」・3つのキーワード~

コンブ・鹿児島・沖縄戦
~私の「北海道と沖縄」・3つのキーワード~


1. コンブ・・北海道と沖縄を結ぶ昆布ロード
・那覇のコンブ購入量は全国一。現在沖縄で消費されるコンブはほとんど根室、釧路産の長昆布。1戸あたりの昆布消費量は沖縄が
・沖縄に北前船を使って昆布をもたらしたのは、江戸時代、薩摩藩の密貿易にかかわった富山の薬売りといわれている。富山売薬「薩摩座」、長者丸、密田家。
・江戸末期、中国・琉球昆布貿易の取り扱い量は平均120トン、日本昆布生産量の10%にもなる。また、沖縄から中国向け積荷重量の平均85%。中国からは薬が一番多く輸入された。
・琉球「昆布座」・・対清昆布貿易の中枢。「在番奉行所」(薩摩藩の琉球支配の心臓部)→明治12年の「琉球処分」(琉球藩廃止、沖縄県設置)後は沖縄県庁に。その後「倹徳館」(貴賓公館)になる。
・「薩摩藩は清国との昆布交易で財政を立て直し、蓄財もなしました。そして、嘉永6年(1853)には、鹿児島にガス灯・ガラス・陶磁器・紡績・火薬・弾丸・小銃・大砲などの洋式の製造所(集成館)を建設した。この集成館でつくった武器で、薩摩藩は倒幕へと至った。昆布が日本の近代の扉を開く原動力となった」説も。
・沖縄料理に欠かせないこんぶ・・クーブイリチー、足ティビチ、ソーキ骨のお汁、大煮、イラブー料理。沖縄料理の基本の「豚肉」と、「昆布」。アルカリ性の昆布が豚肉のコレストロールを体外に排出し、健康の良いとも・・。

・琉球漆器の提重(さげじゅう)、硯箱などが松前城内の資料館にあった。
2. 薩摩(鹿児島)の支配
① 薩摩藩の琉球支配・・「琉球使」・・薩摩の琉球支配後,琉球の首里王府から徳川将軍ならびに島津氏に派遣された使節。将軍への使節には将軍の襲職時にそれを賀する慶賀使(けいがし,賀慶使)と琉球国王の即位時にそれを謝する謝恩使(しゃおんし,恩謝使)との二種の使いがあり,薩摩の命令と監督のもとに両使が江戸に上ることを「江戸上り(えどのぼり)」と称した。江戸上りは,寛永11(1634)年から嘉永3(1850)年までの間に18回(延20回)あった。江戸上りの目的は日本の最高権者たる将軍に対し,「城下之盟」を襲職と襲封の度ごとに新たにするものであるが,薩摩藩は江戸上りを将軍に対する儀礼と化することによって幕府の信頼を高め,琉球支配の権威の誇示を領国的なものから全国的なものに拡大していった。そのために使節団にことさら大和風(日本風俗)を禁じ,服装や言葉,立居振舞に至るまで異国風(中国風)を強制した。つぎに島津氏への使者とは上国使(じょうこくし)のことで,その一つに年頭使があった。年頭使は新年の礼を述べることによって,島津氏に対する臣従の誓いを新たにするもので,慶長18(1613)年から派遣が恒例化している。これとならんで慶弔の際の諸使の派遣も頻繁となっている。また,琉球国王の襲封にあたっては,まず薩摩の許可を得ることが必要であり,そのための使いの上国(薩摩上り)が元和7(1621)年にあった。さらに,琉球国は中国を宗主国(そうしゅこく)とする冊封体制にあったから,中国に対しても朝貢使や冊封を懇請するための請封使(せいほうし)などを派遣していた。
② 薩摩と北海道・・明治以降、北海道開拓の中心人物は旧薩摩藩士たち
○開拓使時代・・多くの薩摩藩出身者を官僚に登用。「薩摩の芋づる」といわれるほどだった。
・黒田清隆(開拓次官→開拓長官)
・永山武四郎(屯田兵本部長)
・村橋久成(官営ビール工場の責任者)
○3県1局時代の最高幹部はすべて旧薩摩藩士
・時任爲基(ためもと。函館県令)、調所広丈(ひろたけ。札幌県令)、湯地定基(根室県令)、安田定則(事業管理局長)
○鹿児島藩の北海道分領支配・・明治2~3年、十勝・日高の3郡を支配。

3.  沖縄戦での死亡者・・沖縄以外の都道府県では北海道の死者がもっとも多い。

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

◎新政府軍と旧幕府郡との戦争・戊辰戦争の終末は、箱館戦争です。
明治元年から2年にかけて戦われた箱館戦争を生き延びた人々の「その後」を追ってみたい。
1. 戊辰戦争の概要
・慶喜、大政奉還・・慶応3年(1867)10月14日
・朝廷、王政復古を宣言・・同年12月9日
・鳥羽・伏見の戦い・・慶応4年(1868)1月3日~4日
・慶喜、大阪城を開陽で脱出、江戸に向う・・同年1月6日
・討幕軍、江戸城に入る。慶喜、水戸へ退去・・同年4月11日
・新政府の会津藩征伐に反発し、奥羽越列藩同盟成立・・同年5月3日
・討幕軍、上野に彰義隊を討つ・・同年5月15日
・会津藩、降伏・・同年9月22日
2. 旧幕府脱走軍、北へ
<旧幕府艦隊の動向>
・慶応4年8月19日、榎本釜次郎率いる旧幕府海軍の開陽など8艦が品川沖を出帆、会津藩援護、奥羽越列藩同盟援助へ向け動き出す。
・「開陽」・・最強の軍艦
・「咸臨」「三嘉保」・・調子沖で台風に会い、流される。「咸臨」は、清水港で新政府軍に拿捕された。
・8月22日前後に仙台松島に入港。奥羽越列藩同盟は結束力を失いつつあった。9月22日、会津藩降伏、23日庄内藩、24日南部藩が降伏し、奥羽越列藩同盟は瓦解
・10月9日、艦隊は仙台を出港、大鳥圭介(旧幕府陸軍伝習隊)、土方歳三(新撰組)などを加えた3000人が乗り組んだ艦隊は蝦夷地に向う。「蝦夷地の徳川家永久お預け、蝦夷地開拓、北辺警護」を嘆願。
3. 箱館戦争
<明治元年の旧幕府軍の進行>
・新政府、10月9日、備後福山藩500人(実際は700人)、越前大野藩200人、津軽藩に箱館派兵を命じる。脱走軍の鷲ノ木上陸の日に箱館到着。
・10月20日、噴火湾の鷲ノ木に上陸。大鳥隊は大沼から峠下に進む。峠下で最初の戦闘。官軍(箱館府・津軽藩兵)は敗走。土方隊は、尾札部から川汲峠の官軍守備隊を撃破、湯川に向う。
・25日、清水谷公考箱館府知事は、官軍敗走の報に接し、五稜郭を出て「カカノカミ」号で青森へ退去。
・翌26日、脱走軍、五稜郭入城。元若年寄永井玄蕃が「箱館奉行」に就任。
・11月5日、土方を長とした脱走軍、福山攻略。江差も攻める。
・11月15日、開陽、江差入港。この日、暴風で開陽座礁、榎本の目の前で沈没。脱走軍の海軍力は大きく低下、彼らの士気をも大きく落ち込ませることになった。「全島の海陸軍、これを聞き肝を破り肝を寒し、切歯扼腕(せっしやくわん)涙を墜すばかりなり」(大島圭介「南柯(なんか)紀行」)
・12月15日、蝦夷地領有宣言式、108発の祝砲轟く。港には満艦飾を施した榎本海軍の艦隊が浮かんだ。28日、入札(いれふだ)で榎本釜次郎総裁以下の諸役が決まる。
「徳川脱藩家臣団」政権の成立。
<明治2年、新政府軍の進攻>
・新政府軍、清水谷を青森口総督に任じ、海陸軍参謀に山田市之允(長門萩藩)、黒田清隆を陸軍参謀に、増田虎之助を海軍参謀に任命、局外中立撤廃で、アメリカから最新鋭ストンウォール・ジャクソン(日本名「甲鉄」)が引き渡され、海軍の核ができた。
・明治2年4月6日、官軍艦隊、兵士1500人を乗せ青森を出帆、9日、乙部上陸。江差も奪還、3隊に分けて箱館に向う。17日、福山攻略。箱館へ
・新政府軍、木古内、矢不来、有川を落とす。脱走軍、五稜郭へ退去。
・5月11日、土方歳三、一本木で戦死、
・箱館海戦・・脱走軍鑑蟠龍、政府軍鑑朝陽を撃沈するも、甲鉄ら政府軍鑑に追われて弁天台場脇に乗り上げ、回天も砲撃を受け退却、荒井郁之介以下、五稜郭に退いた。
<降伏交渉>
・12日、政府軍池田次郎兵衛(薩摩藩)らが箱館病院を訪れ院長高松凌雲、頭取小野権之丞に和平斡旋を依頼
・翌13日、五稜郭へ降伏勧告を届けるが榎本は拒否。榎本、「万国海律全書」を政府軍に送る。
14日、政府軍軍監田島圭蔵が弁天砲台に永井玄蕃を訪れ榎本の翻意を促すべく面会の取次ぎを依頼、田島と榎本は千代ケ岱の民家で会見するも、榎本は拒否。
・15日、弁天砲台は降伏を願い出る。永井玄蕃、蟠龍艦長松岡隆吉、主将相馬主計(かずえ)以下240人は降伏。戦線離脱して湯の川にいた340人も降伏を申し入れ武装解除となる。
<最後の戦闘>
・千代ケ岱陣屋へも降伏勧告が来るが中島三郎助は拒否。渋沢成一郎は、湯の川へ遁走。
・16日、両軍、白兵戦を展開、中島三郎助父子、千代ケ岡台場で戦死、この千代ケ岱攻防戦は、箱館戦争、否、戊辰戦争の最後の戦闘であった。
<五稜郭開城>
・千代ケ岱戦闘後、新政府軍は、酒5樽を五稜郭に送り、弁天台場の降伏、千代ケ岱陥落を伝え、総攻撃開始も通知。
・郭内は動揺、榎本は切腹を図るが部下に制止される。松平太郎、大島圭介、荒井郁之介ら、首脳が協議、遂に降伏と決した。
・17日、亀田八幡宮で、榎本、松平、大島、荒井と政府軍海軍参謀増田虎之助、陸軍参謀黒田清隆が会見、榎本らは、幹部の服罪と一般兵士への寛展を嘆願、その夜、郭内は「決飲終夜悲歌慷慨満城粛然タリ」(「北州新話」丸毛利恒=彰義隊兵士=が謹慎中で箱館戦争を記録)
・18日朝7時、榎本は「諸君は必ず青天白日を仰ぐ日があることを確信する」とあいさつ、松平、大島、荒井らと城を出、駕籠で護送された。午後には、1000人も収容された。
・このに、8ケ月前、徳川家による蝦夷地開拓を旗印に箱館に入った脱走軍は、その蠢動を終えた。
4.旧幕臣たち・敗者のその後 (  )は、榎本政権での役職。
<開拓使に出仕した人々>(明治5年「官員録」参照)
・榎本釜次郎(総裁)・・開拓使に出仕後、駐ロ公使として千島樺太交換条約締結にかかわる。黒田内閣では逓信大臣などを歴任。
・松平太郎(副総裁)・・開拓使に出仕するも、1年後に辞任、不遇の生涯を送り、伊豆で客死。
・榎本道章(会計奉行)・・札幌本道建設にかかわる。
・大鳥圭介(陸軍奉行)・・開拓使に出仕し、欧米を視察、のち学習院院長となる。
・荒井郁之介(海軍奉行)・・開拓使仮学校(札幌農学校の前身)の校長格となる。明治年開校の女学校の校長にも就任。北海道の測量に従事、初代気象庁長官に就任。
・永井玄蕃(箱館奉行)・・元老院権書記官となる。75歳で病死
・松岡四郎次郎(江差奉行)・・開拓使では、会計の仕事に従事。のち三井物産函館支店長となる。岩内茅沼炭鉱の経営にも参画。
・沢太郎左衛門(開拓奉行)・・榎本とともに欧米留学。「開陽」副長として慶喜の大坂脱出にかかわる。のち「開陽」艦長。開拓使を経て、海軍兵学校の副総理になる。
・雑賀孫六郎(開拓奉行組頭取)・・札幌本道建設を指導。
・星恂太郎(額兵隊隊長)・・岩内で製塩業に従事するが失敗。明治9年、失意のうちに仙台で病死
<その他の人々>
・人見勝太郎(松前奉行)・・戦後浪人生活。その後、茨城県令。利根川運河を経営。
・高松凌雲(箱館病院長)・・幕府使節として欧州を視察。見聞を広める。箱館戦争では、脱走軍の病院長となる。敵味方区別なく治療し、日本の赤十字活動の先鞭となる。
・小野権之丞(病院掛頭取)・・会津藩士。高松の元で活動、脱走軍の降伏を働きかける。
・渋沢成一郎(小彰義隊隊長)・・千代ケ岱の守備につくも、湯の川へ遁走。明治期の実業家として財をなした。
<箱館にやってきた幕閣>
・板倉勝静(かつきよ。老中。備中松山藩主)・・禁を解かれたのち、上野東照宮宮司となる。
・小笠原長行(ながみち。老中。肥前唐津藩主)・・戦後、東京に隠れ住む。
・松平定敬(さだあき。京都所司代。桑名藩士)・・会津藩主容保の弟。戦後、日光東照宮宮司となる。
<脱走軍に参加したフランス軍人>・・ブリュネら10名。
5.戦死した人々
・土方歳三(陸軍奉行並)・・新撰組副長。一本木で戦死。戦死した5月11日は、箱館戦争供養祭が行われている。
・中島三郎助(箱館奉行並)・・浦賀奉行与力としてペリーの黒船に最初に乗った日本人。幕命で、洋式軍艦建造に参与。千代ケ岱で戦死。その地は「中島町」として今に名を残す。
6.箱館戦争エピソード
・碧血碑
・柳川熊吉
・五稜郭に立てこもった侠客「観音の鉄」

◎まとめ

<主な参考文献>
・「新北海道史」(北海道編)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊、1989)
・「函館市史」(函館市編)
・「箱館戦争 北の大地に散ったサムライたち」(星亮一著、三修社、2006)
・「大君の刀」(合田一道著、道新新書、2007)
・「箱館戦争始末記」(栗賀大介著、新人物往来社、1973)
・「北海道の歴史」(関秀志ほか著、北海道新聞社、2006)
・「五稜郭物語」(北海道新聞社函館支社編、1966)
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