森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

己 已 巳

己・・キ・コ おのれ・つちのと
     (用例)知己(ちこ・ちき)
已・・イ すでに やむ のみ はなはだ
     (用例)已上、已来、已後、已而(すでにして、やみなん、やまん)
      無已(やむなし)、不得已(やむをえず)
巳・・シ み
      (用例)巳年
◎覚え方①
・キ・コ(の声)、おのれ・つちのと 
下に付き・・・(己)
・イ・すでに、半ばして やむ・のみ・・・(已)
・シ・み(は)皆付く・・・(巳) 
◎覚え方②
・おのれ(己)、すでに(已)して、へび(巳)

◎己・已・巳を使ったことば
*己巳(キシ・つとのとみ)  *明治二年の箱館戦争を「己巳(きし)戦争」ともいう。函館に「己巳役海軍戦死碑」がある。
*難読奇姓に已已巳己(いいしき・いえしき)がある。

官位としての「守(かみ)」の変遷

◎はじめに
 「筑前守」などの呼称の変遷について述べる。「筑前」は、地方行政区画の名前で、「守(かみ)」は、上代から律令時代に制定された「国司(こくし)」(地方を治める役人)の「官」(制度上の地位)名。
1. 律令時代・・国司(こくし)としての「守」
「国」(地方行政単位)を治める役人を「国司」(コクシ。またクニノツカサ)といった。今の県知事のようなもの。なお、上代には、地方行政単位である「国」のことを「県(あがた)」ともいった。
 つまり、「国司」は、「国」の行政官として中央から派遣された役人で、四等官があり、「守(かみ)」、「介(すけ)」、「掾(じょう)」、「目(さかん)」を指す。その下に「史生(ししょう)」がいた。
<平安期の「国」の等級区分>
国力(住民数、開墾面積など)の基準で、大国・上国・中国・下国の4等級に区分されている。区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。
○大国(たいこく・13カ国)
大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
○上国(じょうこく・35カ国)
山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
○中国(ちゅうこく・11カ国)
安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
○下国(げこく・9カ国)
和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国
2. 戦国~安土桃山時代の武家官位
 律令官位は、律令制度が崩壊し、実質的な意味がなくなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。この傾向は戦国時代に入り顕著になり、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。その例として、織田信長の父織田信秀、今川義元そして徳川家康が三河支配のため三河守に任ぜられたケースなどがある。
 さらに、朝廷からの任命を受けないまま、官名を自称・僭称するケースも増加した。織田信長が初期に名乗った上総守もその一つである。また、官途(かんど)、受領(ずりょう)といって主君から家臣に恩賞として官職名を授けるといったものまで登場した。豊臣秀吉が織田家重臣時代に使った筑前守もこの一つである。
また、秀吉が公家の最高位である「関白」として天下を統一すると、諸国の大名に官位を授けて律令官位体系に取り込むことで統制を行おうとした。ところがただでさえ公家の官位が不足気味だったところへ武家の任官が相次いだために官位の昇進体系が機能麻痺を起こしてしまう。秀吉の死去後は、内大臣徳川家康が最高位の官位保有者であるという異常事態に至った。
<官途状(かんどじょう)>
武家文書の一様式。武家社会での主従関係を明確にさせるため、幕府・大名が臣下に官職を与える際の文書。正式には推挙状によって朝廷に奏請していたが、戦国期には儀礼・簡略化され、大名が個別の書式で独自に発給している。この内とくに国司名を与えた場合を受領宛行状という。
<受領名(ずりょうめい)>
室町時代以降、功績の家臣や被官に対して、朝廷の正式な位階の伴わない、非公式な官名を授ける風習が生まれる。これが受領名。多くの場合、大名の傘下にあって城や領地、兵力を有する国人や武将がその対象であった。この風習が転化し、自官や百官名、東百官という人名呼称が武士の間において定着するようになる。
3. 江戸時代の武家官位
<官位叙任権が朝廷から将軍家へ移行した経緯>
家康が江戸幕府を開くと、豊臣政権時代の苦い経験から官位を武士の統制の手段として利用しつつもその制度改革に乗り出した。
①慶長11(1606)年4月、家康は朝廷に参内して武家の官位は幕府の推挙によって行うことを奏請。
②元和(げんな)元年7月、「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離した。(「禁中並公家諸法度」第7条「武家之官位者可為公家当官之外事」)
これによって武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。
なお、官位を授ける権限は、徳川将軍家が持っていたが、任命書(口宣案と位記)は朝廷が発給した。
 秀吉、家康、秀忠の時代までは、全国の大名は競って高位・高官を望んだが、家光の時代になると官位には重みはなくなった。しかも、家光以降の大名は、官位は家柄と年齢によって決められるものとなり、その年齢がくれば自動的に幕府から朝廷に奉送された。したがって、家光以降の朝廷の作業は、全国の大名の官位の記録係となった。
なお、幕府から奉送された「筑前守」などの国司名は官位とはいわず、「権官」とか「通称官名」とか「名乗り」と呼んだ。
<官名名乗りの特例>
なお、幕府は、一部官名に特例を設けるなどして、大名統制に利用している。
・同姓同官名の禁止・・混乱を避けるため。
・大国大名の領国名優先使用・・前田氏の加賀守、越前松平氏の越前守など。
・領国名独占・・伊達氏の陸奥守と島津氏の薩摩守。
・大廊下、大広間詰め大名以外の老中と同一名乗り禁止・・老中昇進時に同名乗りの大名及び配下の幕府役人は遷任。
・大名以外の領国名使用禁止・・肥前の松浦氏(肥前守、他には壱岐守)、信濃の真田氏(信濃守、他には伊豆守)、対馬の宗氏(対馬守)等は例外として許可。
・三河守(津山松平家のみ可)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止・・幕府と朝廷を憚って。
<百官名(ひゃくかんな)>
 幕府や大名が被官に対して官途状を発給した受領名は、朝廷の関知しない僭称であったが、憚って、官名を略したり、違う表現に置き換えたりした。また、先祖が補任された官職を子孫が継承するケースも現れるなど、武士が自ら官名を名乗る「自官」という慣習が定着していくこととなる。やがて戦国時代の頃から、武士の間で官名を略したものを自分の名前として名乗る風習が生まれ、江戸時代後期までその風習が続いた。
 「国名」を取って名乗った例として、
宮本「武蔵」・・剣豪
田中「土佐」・・幕末期の会津藩家老
伊達「安芸」・・仙台藩家老
原田「甲斐」・・仙台藩家老

コンブ・鹿児島・沖縄戦~私の「北海道と沖縄」・3つのキーワード~

コンブ・鹿児島・沖縄戦
~私の「北海道と沖縄」・3つのキーワード~


1. コンブ・・北海道と沖縄を結ぶ昆布ロード
・那覇のコンブ購入量は全国一。現在沖縄で消費されるコンブはほとんど根室、釧路産の長昆布。1戸あたりの昆布消費量は沖縄が
・沖縄に北前船を使って昆布をもたらしたのは、江戸時代、薩摩藩の密貿易にかかわった富山の薬売りといわれている。富山売薬「薩摩座」、長者丸、密田家。
・江戸末期、中国・琉球昆布貿易の取り扱い量は平均120トン、日本昆布生産量の10%にもなる。また、沖縄から中国向け積荷重量の平均85%。中国からは薬が一番多く輸入された。
・琉球「昆布座」・・対清昆布貿易の中枢。「在番奉行所」(薩摩藩の琉球支配の心臓部)→明治12年の「琉球処分」(琉球藩廃止、沖縄県設置)後は沖縄県庁に。その後「倹徳館」(貴賓公館)になる。
・「薩摩藩は清国との昆布交易で財政を立て直し、蓄財もなしました。そして、嘉永6年(1853)には、鹿児島にガス灯・ガラス・陶磁器・紡績・火薬・弾丸・小銃・大砲などの洋式の製造所(集成館)を建設した。この集成館でつくった武器で、薩摩藩は倒幕へと至った。昆布が日本の近代の扉を開く原動力となった」説も。
・沖縄料理に欠かせないこんぶ・・クーブイリチー、足ティビチ、ソーキ骨のお汁、大煮、イラブー料理。沖縄料理の基本の「豚肉」と、「昆布」。アルカリ性の昆布が豚肉のコレストロールを体外に排出し、健康の良いとも・・。

・琉球漆器の提重(さげじゅう)、硯箱などが松前城内の資料館にあった。
2. 薩摩(鹿児島)の支配
① 薩摩藩の琉球支配・・「琉球使」・・薩摩の琉球支配後,琉球の首里王府から徳川将軍ならびに島津氏に派遣された使節。将軍への使節には将軍の襲職時にそれを賀する慶賀使(けいがし,賀慶使)と琉球国王の即位時にそれを謝する謝恩使(しゃおんし,恩謝使)との二種の使いがあり,薩摩の命令と監督のもとに両使が江戸に上ることを「江戸上り(えどのぼり)」と称した。江戸上りは,寛永11(1634)年から嘉永3(1850)年までの間に18回(延20回)あった。江戸上りの目的は日本の最高権者たる将軍に対し,「城下之盟」を襲職と襲封の度ごとに新たにするものであるが,薩摩藩は江戸上りを将軍に対する儀礼と化することによって幕府の信頼を高め,琉球支配の権威の誇示を領国的なものから全国的なものに拡大していった。そのために使節団にことさら大和風(日本風俗)を禁じ,服装や言葉,立居振舞に至るまで異国風(中国風)を強制した。つぎに島津氏への使者とは上国使(じょうこくし)のことで,その一つに年頭使があった。年頭使は新年の礼を述べることによって,島津氏に対する臣従の誓いを新たにするもので,慶長18(1613)年から派遣が恒例化している。これとならんで慶弔の際の諸使の派遣も頻繁となっている。また,琉球国王の襲封にあたっては,まず薩摩の許可を得ることが必要であり,そのための使いの上国(薩摩上り)が元和7(1621)年にあった。さらに,琉球国は中国を宗主国(そうしゅこく)とする冊封体制にあったから,中国に対しても朝貢使や冊封を懇請するための請封使(せいほうし)などを派遣していた。
② 薩摩と北海道・・明治以降、北海道開拓の中心人物は旧薩摩藩士たち
○開拓使時代・・多くの薩摩藩出身者を官僚に登用。「薩摩の芋づる」といわれるほどだった。
・黒田清隆(開拓次官→開拓長官)
・永山武四郎(屯田兵本部長)
・村橋久成(官営ビール工場の責任者)
○3県1局時代の最高幹部はすべて旧薩摩藩士
・時任爲基(ためもと。函館県令)、調所広丈(ひろたけ。札幌県令)、湯地定基(根室県令)、安田定則(事業管理局長)
○鹿児島藩の北海道分領支配・・明治2~3年、十勝・日高の3郡を支配。

3.  沖縄戦での死亡者・・沖縄以外の都道府県では北海道の死者がもっとも多い。

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

◎新政府軍と旧幕府郡との戦争・戊辰戦争の終末は、箱館戦争です。
明治元年から2年にかけて戦われた箱館戦争を生き延びた人々の「その後」を追ってみたい。
1. 戊辰戦争の概要
・慶喜、大政奉還・・慶応3年(1867)10月14日
・朝廷、王政復古を宣言・・同年12月9日
・鳥羽・伏見の戦い・・慶応4年(1868)1月3日~4日
・慶喜、大阪城を開陽で脱出、江戸に向う・・同年1月6日
・討幕軍、江戸城に入る。慶喜、水戸へ退去・・同年4月11日
・新政府の会津藩征伐に反発し、奥羽越列藩同盟成立・・同年5月3日
・討幕軍、上野に彰義隊を討つ・・同年5月15日
・会津藩、降伏・・同年9月22日
2. 旧幕府脱走軍、北へ
<旧幕府艦隊の動向>
・慶応4年8月19日、榎本釜次郎率いる旧幕府海軍の開陽など8艦が品川沖を出帆、会津藩援護、奥羽越列藩同盟援助へ向け動き出す。
・「開陽」・・最強の軍艦
・「咸臨」「三嘉保」・・調子沖で台風に会い、流される。「咸臨」は、清水港で新政府軍に拿捕された。
・8月22日前後に仙台松島に入港。奥羽越列藩同盟は結束力を失いつつあった。9月22日、会津藩降伏、23日庄内藩、24日南部藩が降伏し、奥羽越列藩同盟は瓦解
・10月9日、艦隊は仙台を出港、大鳥圭介(旧幕府陸軍伝習隊)、土方歳三(新撰組)などを加えた3000人が乗り組んだ艦隊は蝦夷地に向う。「蝦夷地の徳川家永久お預け、蝦夷地開拓、北辺警護」を嘆願。
3. 箱館戦争
<明治元年の旧幕府軍の進行>
・新政府、10月9日、備後福山藩500人(実際は700人)、越前大野藩200人、津軽藩に箱館派兵を命じる。脱走軍の鷲ノ木上陸の日に箱館到着。
・10月20日、噴火湾の鷲ノ木に上陸。大鳥隊は大沼から峠下に進む。峠下で最初の戦闘。官軍(箱館府・津軽藩兵)は敗走。土方隊は、尾札部から川汲峠の官軍守備隊を撃破、湯川に向う。
・25日、清水谷公考箱館府知事は、官軍敗走の報に接し、五稜郭を出て「カカノカミ」号で青森へ退去。
・翌26日、脱走軍、五稜郭入城。元若年寄永井玄蕃が「箱館奉行」に就任。
・11月5日、土方を長とした脱走軍、福山攻略。江差も攻める。
・11月15日、開陽、江差入港。この日、暴風で開陽座礁、榎本の目の前で沈没。脱走軍の海軍力は大きく低下、彼らの士気をも大きく落ち込ませることになった。「全島の海陸軍、これを聞き肝を破り肝を寒し、切歯扼腕(せっしやくわん)涙を墜すばかりなり」(大島圭介「南柯(なんか)紀行」)
・12月15日、蝦夷地領有宣言式、108発の祝砲轟く。港には満艦飾を施した榎本海軍の艦隊が浮かんだ。28日、入札(いれふだ)で榎本釜次郎総裁以下の諸役が決まる。
「徳川脱藩家臣団」政権の成立。
<明治2年、新政府軍の進攻>
・新政府軍、清水谷を青森口総督に任じ、海陸軍参謀に山田市之允(長門萩藩)、黒田清隆を陸軍参謀に、増田虎之助を海軍参謀に任命、局外中立撤廃で、アメリカから最新鋭ストンウォール・ジャクソン(日本名「甲鉄」)が引き渡され、海軍の核ができた。
・明治2年4月6日、官軍艦隊、兵士1500人を乗せ青森を出帆、9日、乙部上陸。江差も奪還、3隊に分けて箱館に向う。17日、福山攻略。箱館へ
・新政府軍、木古内、矢不来、有川を落とす。脱走軍、五稜郭へ退去。
・5月11日、土方歳三、一本木で戦死、
・箱館海戦・・脱走軍鑑蟠龍、政府軍鑑朝陽を撃沈するも、甲鉄ら政府軍鑑に追われて弁天台場脇に乗り上げ、回天も砲撃を受け退却、荒井郁之介以下、五稜郭に退いた。
<降伏交渉>
・12日、政府軍池田次郎兵衛(薩摩藩)らが箱館病院を訪れ院長高松凌雲、頭取小野権之丞に和平斡旋を依頼
・翌13日、五稜郭へ降伏勧告を届けるが榎本は拒否。榎本、「万国海律全書」を政府軍に送る。
14日、政府軍軍監田島圭蔵が弁天砲台に永井玄蕃を訪れ榎本の翻意を促すべく面会の取次ぎを依頼、田島と榎本は千代ケ岱の民家で会見するも、榎本は拒否。
・15日、弁天砲台は降伏を願い出る。永井玄蕃、蟠龍艦長松岡隆吉、主将相馬主計(かずえ)以下240人は降伏。戦線離脱して湯の川にいた340人も降伏を申し入れ武装解除となる。
<最後の戦闘>
・千代ケ岱陣屋へも降伏勧告が来るが中島三郎助は拒否。渋沢成一郎は、湯の川へ遁走。
・16日、両軍、白兵戦を展開、中島三郎助父子、千代ケ岡台場で戦死、この千代ケ岱攻防戦は、箱館戦争、否、戊辰戦争の最後の戦闘であった。
<五稜郭開城>
・千代ケ岱戦闘後、新政府軍は、酒5樽を五稜郭に送り、弁天台場の降伏、千代ケ岱陥落を伝え、総攻撃開始も通知。
・郭内は動揺、榎本は切腹を図るが部下に制止される。松平太郎、大島圭介、荒井郁之介ら、首脳が協議、遂に降伏と決した。
・17日、亀田八幡宮で、榎本、松平、大島、荒井と政府軍海軍参謀増田虎之助、陸軍参謀黒田清隆が会見、榎本らは、幹部の服罪と一般兵士への寛展を嘆願、その夜、郭内は「決飲終夜悲歌慷慨満城粛然タリ」(「北州新話」丸毛利恒=彰義隊兵士=が謹慎中で箱館戦争を記録)
・18日朝7時、榎本は「諸君は必ず青天白日を仰ぐ日があることを確信する」とあいさつ、松平、大島、荒井らと城を出、駕籠で護送された。午後には、1000人も収容された。
・このに、8ケ月前、徳川家による蝦夷地開拓を旗印に箱館に入った脱走軍は、その蠢動を終えた。
4.旧幕臣たち・敗者のその後 (  )は、榎本政権での役職。
<開拓使に出仕した人々>(明治5年「官員録」参照)
・榎本釜次郎(総裁)・・開拓使に出仕後、駐ロ公使として千島樺太交換条約締結にかかわる。黒田内閣では逓信大臣などを歴任。
・松平太郎(副総裁)・・開拓使に出仕するも、1年後に辞任、不遇の生涯を送り、伊豆で客死。
・榎本道章(会計奉行)・・札幌本道建設にかかわる。
・大鳥圭介(陸軍奉行)・・開拓使に出仕し、欧米を視察、のち学習院院長となる。
・荒井郁之介(海軍奉行)・・開拓使仮学校(札幌農学校の前身)の校長格となる。明治年開校の女学校の校長にも就任。北海道の測量に従事、初代気象庁長官に就任。
・永井玄蕃(箱館奉行)・・元老院権書記官となる。75歳で病死
・松岡四郎次郎(江差奉行)・・開拓使では、会計の仕事に従事。のち三井物産函館支店長となる。岩内茅沼炭鉱の経営にも参画。
・沢太郎左衛門(開拓奉行)・・榎本とともに欧米留学。「開陽」副長として慶喜の大坂脱出にかかわる。のち「開陽」艦長。開拓使を経て、海軍兵学校の副総理になる。
・雑賀孫六郎(開拓奉行組頭取)・・札幌本道建設を指導。
・星恂太郎(額兵隊隊長)・・岩内で製塩業に従事するが失敗。明治9年、失意のうちに仙台で病死
<その他の人々>
・人見勝太郎(松前奉行)・・戦後浪人生活。その後、茨城県令。利根川運河を経営。
・高松凌雲(箱館病院長)・・幕府使節として欧州を視察。見聞を広める。箱館戦争では、脱走軍の病院長となる。敵味方区別なく治療し、日本の赤十字活動の先鞭となる。
・小野権之丞(病院掛頭取)・・会津藩士。高松の元で活動、脱走軍の降伏を働きかける。
・渋沢成一郎(小彰義隊隊長)・・千代ケ岱の守備につくも、湯の川へ遁走。明治期の実業家として財をなした。
<箱館にやってきた幕閣>
・板倉勝静(かつきよ。老中。備中松山藩主)・・禁を解かれたのち、上野東照宮宮司となる。
・小笠原長行(ながみち。老中。肥前唐津藩主)・・戦後、東京に隠れ住む。
・松平定敬(さだあき。京都所司代。桑名藩士)・・会津藩主容保の弟。戦後、日光東照宮宮司となる。
<脱走軍に参加したフランス軍人>・・ブリュネら10名。
5.戦死した人々
・土方歳三(陸軍奉行並)・・新撰組副長。一本木で戦死。戦死した5月11日は、箱館戦争供養祭が行われている。
・中島三郎助(箱館奉行並)・・浦賀奉行与力としてペリーの黒船に最初に乗った日本人。幕命で、洋式軍艦建造に参与。千代ケ岱で戦死。その地は「中島町」として今に名を残す。
6.箱館戦争エピソード
・碧血碑
・柳川熊吉
・五稜郭に立てこもった侠客「観音の鉄」

◎まとめ

<主な参考文献>
・「新北海道史」(北海道編)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊、1989)
・「函館市史」(函館市編)
・「箱館戦争 北の大地に散ったサムライたち」(星亮一著、三修社、2006)
・「大君の刀」(合田一道著、道新新書、2007)
・「箱館戦争始末記」(栗賀大介著、新人物往来社、1973)
・「北海道の歴史」(関秀志ほか著、北海道新聞社、2006)
・「五稜郭物語」(北海道新聞社函館支社編、1966)

昇平丸船司・浦田伊助のこと

昇平丸船司・浦田伊助のこと
~古文書講座(上級)テキストを読んで~
森勇二
◎はじめに・・私は、札幌市文化資料室主催の平成十八年度古文書講座(上級)を受講した。私に指定されたテキストのうち、「開拓使公文録」(以下「開公」)と、「略輯旧開拓使会計書類」(以下「略開」)を読んで、開拓使附属船・昇平丸の船司交代のいきさつと新船司・浦田伊助について述べてみたい。
一. 浦田伊助の経歴
 「略開」に浦田伊助の略歴が書かれている。主な経歴は、
・生国は「能州地之浦」(現石川県志賀町)
・元治元年、箱館奉行に召出され「慎敬丸」水主として岩内石炭積取に従事、その後、沖の口、常灯明勤番。
・慶応三年、「官より御頼有之・・鯨漁稽古之ため」アメリカ捕鯨船ジャウリーヤ号に乗り組みカムチャッカ、アリューシャン方面で操業。
・慶応四年三月箱館帰着。六月箱館丸表役となり、八月出帆、アイロップで難船、樺太・シラヌシで越年。
・明治二年六月二十七日、岡本監輔判官を乗せクシュンコタンを出帆、七月十一日箱館着。
・同年十月二十九日、昇平丸船司に任命。
・明治三年一月二十六日、昇平丸、木の子村安在浜で破船、伊助海死。
二.昇平丸船司交代のいきさつ
 開拓使附属船・昇平丸の最初の船長は喜代蔵。昇平丸は、明治二年九月二十一日、品川を出帆、箱館到着は同月二十五日のこと。喜代蔵更迭の経過が「開公」に見える。昇平丸の箱館到着の二日後の十月二十九日、喜代蔵は八木下信之権大主典から「石狩場所へ御米不残運送可致」と仰せ渡されたのに対し、喜代蔵は「雪中ニ相成、水主帆前働自由不相成候時節」だとして断っている。翌二十七日、廣川信義権大主典から「水先共弥以不被参候哉」と尋ねられたのに対し「いかにも帆前故、水主働方むづかしく候」と渋っている。更に二十九日、再度廣川権大主典から「何連ニも石狩迄参候」と再度催促され、喜代蔵はやむなく「参候心得ニて前書水主等も夫々心懸ケ候」と石狩行きの準備を始めた。
 ところが、十一月二日、開拓使は、「今般、其船乗組之者共差免候ニ付、船具其外積荷金米共正路ニ勘定相立、浦田伊助へ引渡可申候事」(略開)と喜代蔵を解任している。喜代蔵は「誠に当惑仕候」と述べている。
 「開公」によると、開拓使が浦田伊助へ昇平丸船司を申し付けたのは、十月二十九日だから、開拓使は、廣川権大主典が喜代蔵を二度目に呼び出したその日に、昇平丸船司交代を決めたことになる。開拓使は、石狩行きを渋った喜代蔵を早々に罷免した。昇平丸は「全国的・全道的米不足の状況下では・・島判官が石狩で行おうとした事業にとって重要な存在であった」(「新札幌市史」)だけに、一刻も早く米などの積荷の石狩廻漕が求められていたことが察せられる。
 浦田伊助が昇平丸船司に選ばれたのは、先に述べた経歴の通り、その経験が買われたからだろう。
◎おわりに・・昇平丸は、「御米壱俵も上陸不仕」(「略開」)木の子村安在浜に沈んだ。浦田伊助始め五名が死亡している。石狩行を渋った喜代蔵に代わって急遽船司になった伊助は、開拓使の期待に答えられず、昇平丸と運命をともにした。「溺死者は其場へ葬」(「略開」)られたという。いつか伊助の眠る安在浜を訪ずれてみたい。

生き延びた旧会津藩士

◎要旨・・戊辰戦争に破れた会津藩の人々の中で、下北の地に、そして、北海道に生き延びた旧会津藩士たちを追ってみたい。

1.会津藩・会津戦争
・成立・・保科正之(2代将軍秀忠の4男、3代家光とは異母兄弟)が寛永20年(1643)、会津23万石(実質60万石とも)に入封。会津藩松平氏の祖となる。以後、江戸期は容保(かたもり)まで9代続く。
・幕末の藩主・松平容保・・京都守護職となった。会津藩の悲劇は、ここに始まるといっていい。容保は孝明天皇に信頼され、「公武合体」路線を進め、「禁門の変」などで、討幕派の長州勢の排除に動いた。王政復古のあと、薩長を中心とする新政府と衝突し、「鳥羽伏見の闘い」が起こり、いわゆる戊辰戦争(慶応4年=明治元年の干支は「戊辰」)に発展する。鳥羽伏見で敗れ、「朝敵」となった容保は、慶喜とともに大阪城に逃れる。会津へ帰国。
・鶴ケ城(会津若松城)・・信長の家臣・蒲生氏郷(うじさと)が築城、空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ケ城」と親しまれ、五層の天守閣に改築されて難攻不落の名城だった。
・会津戦争・・容保は、家督を養子の善徳に譲り謹慎する。官軍の追撃で会津藩は抗戦、籠城。包囲した官軍は3万人ともいわれる。鶴ケ城は、1ケ月に及ぶ籠城に耐えた。9月8日、慶応が明治と改まる。その2週間後の9月22日、会津軍は、鶴ケ城北追手門に「降参」と大書した白旗3本を立てて降伏した。城中で落城を迎えた人員は5000人とも。以後、旧会津藩士は「降伏人」「賊徒」といわれることになる。
 死者数千人といわれるすさまじい戦争だった。家老西郷頼母邸での妻女一族21人の自刃、飯盛山での白虎隊19名の自刃という痛ましい事件は有名。また、「娘子(じょうし)隊」という婦女子の一隊もあり、激戦に巻き込まれ戦死した女性は238人という。
 余談になるが、容保は、降伏後、鳥取藩、和歌山、陸奥斗南に預けられ、蟄居する。その後許され、日光東照宮宮司になる。明治26年、57歳で死亡。
 なお、昭和3年、秩父宮(大正天皇の次男・昭和天皇の弟)と容保の孫・勢津子(節子)が結婚し、「朝敵の汚名をそそぐことができた」と会津では、提灯行列が行われた。

2.生き延びた会津藩士たち
<会津戦争の戦後処理>
・藩主容保は死一等を減じられ禁固。家老菅野権兵衛は切腹。会津藩は下北3万石に移封。
① 北海道への「流罪」・・斗南藩の成立以前、旧会津藩士の身分のまま「流罪」の形で北海道へ移された人々がいた。明治2年9月、東京謹慎中の旧会津藩士103戸333人が小樽到着。兵部省管轄下におかれ、最終的に、余市へ移住が決まる。黒川村、山田村などを開き開拓を行う。開拓使が奨励した果実・りんごの栽培を行う。品種「緋衣(ひごろも)」は、容保が孝明天皇から下賜された「緋の御衣」からといわれる。
*「黒川村」(黒田清隆の「黒」と入植会津藩士隊長黒川熊四郎の「川」をとったといわれる。
②下北の地へ・斗南藩成立・・旧藩首脳の願いは、お家再興。明治2年6月、容保に実子慶三郎(容大=かたはる)が誕生。11月わずか5ケ月の容大を藩主に、再興が許され、南部3万石、実質は7000石の厳寒の地・下北へ海路、陸路で、およそ2800戸15000人が移住(資料1参照)。現在の青森県下北郡、上北郡、三戸郡、岩手県二戸郡のうち金田一以北。中間に比較的豊かな八戸藩、七戸藩により分断された貧しい土地。飢えと寒さで老人、子どもが次々を倒れた。藩庁は、最初は五戸郡役所のち、田辺の円通寺。斗南藩がたよった人物に隣接の新渡戸伝(つとう。新渡戸稲造の祖父で、三木本開拓の成功者)がいる。
*山川大蔵(おおくら。浩)・・斗南藩のリーダー・大参事(実務責任者・家老職)。会津籠城戦では、軍事総督として指揮。官軍をひとりも城内に入れなかった。
弟妹に山川健二郎(東大総長になった白虎隊士)、山川捨松(薩摩藩士・大山巌の妻。)
*「斗南」は、漢詩の「北斗以南皆帝州」から。
③ 榎本軍に加わり箱館戦争に参加した旧藩士たち・・「会津遊撃隊」の名称で榎本軍に参加し、松前に至る海岸線に配備された旧会津藩士数十名がいる。
・雑賀(さいか)孫六郎(重村)・・4度、北海道へ渡った多芸多才の異端児。
1度目・・安政元年(1854)、19歳の時、幕府調査隊の一員として蝦夷地入り。ペリー艦隊の箱館来航に出会う。
2度目・・万延元年(1860)、会津領となった網走地方の斜里の代官
3度目・・榎本軍に参加。大坂城に眠る旧幕府軍資金18万両を運んだ人物とされる。(「幕末の密使」)。室蘭で沢太郎左衛門の配下として駐屯、敗戦後、四国徳島藩に幽閉(ゆうへい)された。謹慎が解かれた後、斗南藩雇いとなる。
4度目・・開拓使官吏として「札幌新道」開削にたずさわる。
*姪の子・上原六郎は、官選最後の札幌市長(4代目)

*「傷心惨目」碑・・箱館戦争の際に旧幕軍の野戦病院であった高龍寺に官軍が殺到、会津藩などの傷病兵を惨殺したとされる。ここ高龍寺にその「記念」碑が建つ。その名も「傷心惨目(ざんもく)」とは、「心を痛(いた)ましめ、目を惨(いた)ましむ」。いかにも怨念が篭る。(資料2)

④ 旧会津藩士の北海道移住・・明治政府は北海道の分割支配を進めた。苦しい生活を強いられた斗南藩も移住開拓に応募。
・瀬棚郡(現せたな町)・・13戸43人。旧「会津町」
・歌棄郡(現黒松内町作開)・・28戸135名
・太櫓郡(現せたな町若松)・・不明。「丹羽村」(明治25年、丹羽五郎=会津戦争で籠城=ら12戸49名が入植。今、せたな町に「丹羽」「東丹羽」「西丹羽」として名を残す。
・山越郡(現八雲町浜松)・・7戸18名
・屯田兵になった旧会津藩士・・三沢毅(琴似屯田兵。旧会津藩進撃隊幹部)ら。

⑤ 生き延びた白虎隊士・・「北海道各地に足跡を残す元白虎隊士は、かの赤穂義士とくしくも同数の47名を数える」(「北海道の不思議事典」)
・飯沼貞吉・・ただ一人の飯盛山の生き残り。白虎隊の悲劇を後世に伝えた。逓信省で電気技師として各地で勤務。明治38年には札幌に郵便局工務課長として赴任。明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力した。
・現在、飯沼貞吉の墓は飯盛山のかつての仲間たちの傍らに建てられている。ここに墓が建てられたのは貞吉が没してから、実に26年も経ってから。
生前の彼には心無い同郷人から「一人だけ生き残った恥さらし」という無言の罵声を浴びせられ続けたという。その生涯の最期にあたっても「懐かしい会津の地に眠りたい」という言葉を遺すことができませんでした。(資料3)
「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地碑」(南7西1現「札幌第一ホテル」玄関前)
・笹原伝太郎・・佐藤ヒサエさんの曽祖父。

⑥ 旧会津藩の女性
・日向(ひなた)ユキ(内藤)
会津藩士日向左衛門(四百石)の二女。母は飯沼粂之進の娘ちか。母の兄は飯沼時衛といい、その二男は白虎隊蘇生者の飯沼貞吉であり、母の姉は西郷頼母夫人で一族とともに自刃した千重子である。
会津戦争のとき、ユキは十八歳であった。八月二十三日の朝五ツ刻(八時)早鐘が乱打され、城門に駈け付けたが既に堅く閉じられ、城に入ることはかなわなかった。
会津藩は斗南に移封となり、日向家の者たちも二十日かかり野辺地に着いた。廃藩後は北海道に渡り、ユキは明治五年に開拓使工業掛に勤めるエリート官吏。内藤兼備(かねとも。旧薩摩藩士)と結婚。「敵味方の怨讐を超え」た「ブライダル第1号」(「北海道の不思議事典」)
・山川捨松(大山)・・父・山川大蔵とともに、会津籠城。のち、開拓使留学生として渡米、薩摩藩士大山巌(陸軍大臣となる)と結婚。「鹿鳴館の華」といわれた。

⑦ 北海道に渡った旧会津藩の家老
・梶原平馬・・容保にしたがって上京。会津に戻って26歳で主席家老となる。奥羽越列藩同盟の締結に奔走。斗南を経て青森県庁に勤める。のち根室に勤務。
・西郷頼母・・会津藩の家老。降伏直前に会津城を離脱し、榎本艦隊開陽丸に乗船し、榎本軍に加わり、江差詰めとなる。

◎まとめ

<参考文献>
・「白虎隊と会津武士道」(星亮一著、平凡社新書、2002)
・「幕末の会津藩」(星亮一著、中公新書、2001)
・「会津落城」(星亮一著、中公新書、2003)
・「会津・斗南藩と函館開拓使」(近江幸雄著、2003)
・「幕末の密使」(好川之範著、道新選書、1992)
・「瀬棚町史」
・「北海道の不思議事典」(好川之範・赤間均編、新人物往来社、2006)

私の講座予定

◎日時・・5月25日(金)・13:30~14:30
◎会場・・札幌市北区民センター(札幌市北区北25条西6丁目)
◎テーマ・・生き延びた旧会津藩士たち
◎主催・・札幌社会教育協会

福士成豊の業績とその生涯

1. 出生・・船大工・続豊治の5男に生まれる。(高倉氏は4男としている)
 父に従い箱館丸、亀田丸などの帆船建造に従事。
*続豊治・・安政4年(1857)、日本人による最初の洋式帆船・箱館丸を建造。
2. 英語を学ぶ・・文久2年、ポーター社に勤め、番頭となる。
 *自作の英和・和英辞書・・和英辞書は、函館弁の訳があり、日本の英語学史上、貴重なもの。(高倉論文)
3. 開拓使役人となる・・明治2年(1869)3月、箱館府2等訳官。9月27日開拓権少主典、10月17日開拓少主典、明治5年(1872)開拓権大主典
4. ブランストンに学ぶ
① 鳥類採取
② 日本最初の測候所の設置(自宅官舎=函館区船場町9番地)・・「明治5年7月23日・・はじめて午前9時、午後2時、午後9時の3回観測を施行す。」(函館一等測候所沿革史))
5.三角測量の責任者・・「勇払基線」「函館助基線」の測量。全国の測量と結びつく基礎を作った。
・「函館助基線」は、北海道と本州の測量を結ぶ基線となった。
・明治9年、千島調査・・「千島海線見取図」(ウルップ島以北を日本人として最初に測量)
・明治19年(1886)、北海道庁の「北海道地形測量主任」となり、北海道測量の責任者として、北海道の測量に大きく貢献した。
*測量長は、荒井郁之助。明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長となる。
◎旧福士家住宅展示の「三角測量標塔脚柱」・・一本木基標で使われた測標(やぐら)の基礎。
6.北海道中央部を明らかにする・・明治17年(1884)9~10月、石狩川の水源を極め、石狩岳に登る。
7.◎新島襄の亡命を援助
・新島襄・・元治元年(1864)4月21日、安中藩士。板倉の親戚にあたる備中松山藩の洋風帆船快風丸で、武田斐三郎門下生になるため箱館に来る。
・ロシア領事館付の宣教師ニコライ(後に神田駿田台にニコライ堂を建てる)に日本語を教えていた縁で、新島は英語を学びたいことを打ち明けた。(ニコライが海外脱出を進めたという説と、国禁を犯せば、日本での布教ができなくなるので断ったという説あり。)
ともかく、新島の箱館から海外脱出を手助けしたのが、福士成豊。
元治元年6月14日深夜、福士成豊は武士、新島はその従者に扮して海岸から小船に乗りアメリカ船「ベルリン号」に乗船、上海からさらに「ワイルド・ローバー号」に乗り、アメリカへ。アマスト大学入学(クラーク博士の母校、内村鑑三も学ぶ)
*新島襄・・同志社英学校の創始者。日本人初の学位取得者。明治5年、岩倉使節団の木戸孝允と知り合い、木戸付の通訳として、欧米を視察。
<明治の6大教育者>
新島襄、大木喬任・近藤真琴・中村正直・福沢諭吉・森有礼
*<襄の名前の由来>
・密航中に船長テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから。
・Joeは、Joseph(ヨセフ)のつづまった名前である。新島はこの時にその名前の意味を知る由もなかったが、後にこのヨセフという人物が、旧約聖書の創世記30章以下に記されている神の民イスラエルをエジプト(外国)にいて、自分の民族を救う人物の名前であることを知り、自覚的に自らの使命を自覚してその名を受け止め、「襄」という当て字を用いた。最初は「譲」という字を用いたことも、漢訳聖書の「ヨセフ」を当てて「約瑟」としていたこともあったが、後に「ジョウ」とした。

◎晩年・・明治24年退官。北5条東1丁目の自宅以北の1万数千坪を購入。
◎性格・・・(高倉論文)
◎墓・・大正11年8月26日死亡。85歳。墓所は函館・称名寺。
戒名「謙徳院信與義光成豊居士」。建立は「大正13年8月 福士政一建之」

*称名寺(浄土宗)・・幕末にペリー提督が訪れたこともある。その後函館は下田とともに開港場となり、寺は、英・仏の領事館にもなっている。新選組土方歳三らの供養碑がある。墓所には豪商、高田屋嘉兵衛の墓ある。

<参考文献・ウェブ>
・特別展「近代科学技術の先駆者~福士成豊」(中島宏一監修 財団法人北海道開拓の村 1997)
・「福士成豊の業績について」(高倉新一郎著=「福士成豊関係資料調査目録」所収=北海道開拓記念館 1976)
・「新札幌市史第2巻」(札幌市、1991)
・ウェブサイト「函館市史編さん室」

孝明天皇の死因について

◎はじめに
先般、ある講演会で、講師が孝明天皇の死因について言及し、「孝明天皇毒殺説」を述べた。
 そこで、孝明天皇の死因について述べたい。
 いうまでもなく、孝明天皇は、明治天皇の父で、幕末動乱期の天皇である。
 公武合体派の天皇として知られ、妹和宮を14代将軍家茂に嫁がせている。
 慶応2年(1866)12月25日に35歳で死亡した。
 当時から岩倉具視ら倒幕派による暗殺説が流され、幕末明治初期のイギリス外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、「孝明天皇毒殺」の噂を記しているほどだ。

1. 孝明天皇主治医の日記
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(いらこ・おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
 光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
 伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
 当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。

岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。

2. 最近の研究―毒殺否定説―
 明治維新史研究者の佐々木克氏は、著「戊辰戦争」(中公新書)の初版本(1977)で、前記の伊良子光順日記に触れ、孝明天皇毒殺説を述べている。
 ところが、1990年の改訂版の「あとがき」に「追記」として日本近代史研究者の原口清氏の孝「明天皇毒殺否定説」を紹介している。
 その概要は、
 
 最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性疱瘡の両者をふくめた出血性疱瘡で死亡した」と明確に主張された(「孝明天皇は毒殺されたか」『日本近代史の虚像と実像』1、1990、大月書店)
 原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、・・・おわび申し上げたい

◎感想
 私(森勇二)は、孝明天皇の死因論争に加わる資格も素養もない。
 ただ、佐々木克氏のこういう、謙虚な態度に接すると、こころが洗われる。

開拓使附属船・昇平丸の運行と沈没

1. 昇平丸の概要と開拓使附属船としての役割
① 建造から開拓使附属船となるまで
昇平丸は、嘉永6年(1853)5月、薩摩藩が桜島瀬戸村の造船所で起工した洋式木造帆船である。建造の経過を述べると、幕府は、寛永12年(1635)から、500石(約75トン)以上の大船建造を禁止していたが、薩摩藩主島津斉彬は、琉球との交易のみに使用する条件で琉球船風を装った大型帆船建造を申請し許可された。これが昇平丸となる。
昇平丸の着工の翌月の6月、ペリー艦隊が浦賀に来航、同年9月15日、幕府は、200年以上続けてきた大船禁止令を解いた。
斉彬は、昇平丸の設計変更を行い、翌安政元年(1854)12月、3本マストに帆が10枚、推定排水量370トン、全長約27メートル、大砲16門を備えた大型帆船が完成した。
薩摩藩は昇平丸を幕府に献上した。幕府が長崎海軍伝習所設置を決めると、昇平丸は勝麟太郎、中島三郎助ら第1期伝習生を乗せ、品川を出帆、同年10月20日、長崎に到着、以後、長崎海軍伝習所の実習船となる。実習船には、昇平丸と同時に開拓使附属船となった蒸気船咸臨丸もあった。
② 開拓使附属船
明治初めの北海道の海上交通事情は「本道ハ四面海ヲ環ラシ、貨物ノ出入皆船艦ノ力ニ由ラサルナシ」(「開拓使事業略記」)という状況で、明治2年(1868)7月8日、開拓使が設置されると、東久世通禧開拓長官は、明治政府に14ケ条の「開拓施策要項」を提出、そのひとつに「附属船ヲ備フル事」を挙げ、帆船・汽船の交付を要求した。
同年8月29日、兵部省の管轄にあった昇平丸は、汽船・咸臨丸とともに開拓使への交付が決まり、昇平丸は9月18日、大蔵省から引き渡された。(「函館市史」)この2隻は、開拓使が所有した附属船29隻のうち、最初に所有した船舶である。
③ 昇平丸の役割
 開拓使附属船の役目は、北海道への物資輸送と北海道産物の販売のための輸送であった。
 昇平丸が開拓使所管となった当時の北海道の状況について、「新札幌市史」は、「戊辰戦争後の北海道への回米不足などによる北海道での全般的な物資不足の状態、さらに兵部省の会津降伏人移住、そして本府建設のための諸職人の導入と正米による給料支給など、北海道での物資不足を促進させることばかりであった」と述べている。
 さらに、「新札幌市史」は、「全国的・全道的米不足の状態下では、昇平丸は重要な存在であった」と指摘している。

2. 品川出帆から沈没に至る経過
①出帆から函館到着まで
 昇平丸は、明治2年(1869)9月21日品川出帆し、開拓使附属船としての初航海が始まった。回漕御用取扱の嘉納次郎作(灘・御影の白鶴酒造の7代目当主でもある。3男治五郎は講道館柔道の創始者)から開拓使へ「御米竝便船人、荷物共積入、昨廿一日、品川沖出帆仕候」(「開公」)と届けられている。
 「開公」には、積荷について「米千三百弐俵端壱俵、荷物三拾九個、人員拾八人」とある。また「便船人」として、この年9月13日に室蘭郡を拝領した石川源太(旧仙台藩角田領主石川邦光)の家来3名、東本願寺家来の名前が見える。
 昇平丸の行き先については同年9月の日付で、開拓使から「品海より函館並銭函迄 津々浦々 庄屋 年寄」宛に「昇平丸御船・・函館竝銭函へ差向・・出帆候条、若於途中逢難風及難儀候ハバ、早速助船差出万端手当可致置候也」と達しがあるように、当初から函館経由銭函行であった。昇平丸の運行は、「新札幌市史」にあるように、本府建設のための物資輸送が大きな目的であったことが伺える。
 その後の昇平丸の運行について、嘉納次郎作から「十月十七日南部ミヤコ出帆、同廿四日函館表へ無事入津仕候段、船長喜代蔵より申越候」と届けがある。
 昇平丸の箱館到着は10月24日のこと。 
 ついでながら、任地の北海道へ向かう東久世開拓長官、島義勇判官、岩村通俊判官、松本十郎判官ら、開拓使官員100名ほど、ほかに根室方面に向かう開拓移住民200名が乗船したイギリス商船テールス号が品川を出帆した日は、奇しくも、昇平丸と同じ明治2年(1869)9月21日である。ちなみにテールス号の函館到着は9月25日で、昇平丸より1ケ月も早い。(「函館市史」)
②船長の交代
<喜代蔵の解任>
 昇平丸が函館港に到着した5日後、開拓使は船長を喜代蔵から浦田伊助へ交代させている。
 その経過について、「開公」に喜代蔵から嘉納次郎作への報告がある。
すなわち、
 昇平丸の函館到着の2日後の10月26日、「八木下様」(八木下信之権大主典)から、「石狩場所へ御米不残運送可致」と仰せ渡されたのに対し、喜代蔵は「雪中に相成、水主帆前働自由不相成候時節」だと断っている。旧暦10月26日は、新暦でいえば11月29日に当たる。もう師走も近い。「雪中」になっても不思議ではない。さらに、翌27日には、「広川様」(広川信義権大主典)からも「水先世話以不被参候哉」と問い合わせがあり、喜代蔵は「いかにも帆前故水主働方むつかしく候」と渋っている。さらに29日、広川権大主典から再度呼び出しがあり、「何連にも石狩迄参候」と、再度催促された。
 再三の催促に喜代蔵は「参候心得にて、前書水先等も夫々心縣ケ」と、石狩行きを覚悟し、準備を始めた。
 ところが、11月2日になり、喜代蔵は「今般、其船乗組之者共差免候に付、船具其外積荷金品共、夫々正路に勘定相立、浦田伊助へ引渡可申事」(略開)と突然、解任された。喜代蔵は「誠に当惑仕候」と驚きを隠せない。
 開拓使としては、石狩行きを渋る喜代蔵を見切ったことになる。開拓使にとって、石狩への米の輸送が緊急の課題であったことが伺える。
<新船長・浦田伊助>
 「略開」に、開拓使が10月29日に、次のような申し渡しがある。

「          信沢銀蔵
 昇平丸小樽行、乗組金穀積荷監督申付候
 巳 十月
            浦田伊助
 今般、昇平丸船司申付候間、外水主之向逐一吟味、乗子相揃、船受取乗代可致候事
 巳 十月
 (朱)廿九日 申渡」

 つまり、広川権大主典が喜代蔵を2度目に呼び出した当日、10月29日に、船長を浦田に交代させた。電光石火の解任と後任選定は、昇平丸の石狩行きが、かなり切迫していたことをうかがわせる。
 さて、「略開」に浦田伊助の経歴が記されている。それによると、
「生国能州地之浦 箱館天神町 長蔵子分」とあり、文末には「身本引請 弁天町 山田屋左兵衛」とある。
伊助の略歴を記すと、
・元治元年(1864)箱館奉行に召し出され、慎敬丸(函館市史は、「信敬丸」とする)水主を勤め、岩内石炭積取、その後、沖の口勤番、常灯明勤番を勤める。
・慶応3年(1867)「官より御頼有之」、アメリカ鯨漁船ジャウリーヤ号に「鯨漁稽古之ため」乗り組み、カムチャッカ、アリューシャンへ行く。
・慶応4年(1868)3月13日、箱館帰着。沖の口勤番を勤める。
・同年6月11日、箱館丸表役仰せ付けられる。8月1日出帆、アイロップで難船、樺太・シラヌシで越年。
・明治2年(1869)2月3日宗谷着。また樺太・クシュンコタンに戻り、6月27日、岡本監輔判官が同船し、岡本はイシカリへ上陸。7月11日、箱館着。
・同年10月29日、昇平丸船司に任命された。
・そして、明治3年1月26日、木の子村安在浜で昇平丸沈没、
開拓使は、昇平丸が箱館到着のわずか5日後に喜代蔵を解任し、伊助と交代させている。
伊助の経歴を見る限り、船乗りとしての経験も豊かで、「氷海」(「略開」)のアリューシャンでの鯨漁を経験しているし、樺太の海も知っている。北の海に慣れている点でも、ベテランという点でも、伊助は、喜代蔵に勝るとも劣らないのではないだろうか。
 私は、喜代蔵が解任されたのは、彼が、石狩行きを渋ったことが最大の理由だろうと思う。開拓使は、伊助の技術と経験を買って、喜代蔵を呼びつけたその日のうちに、後任にすえている。米を始め昇平丸の積荷の石狩行きがいかに緊要であったかが伺える。
③ 昇平丸破船
さて、「略開」に、昇平丸の破船について、明治3年(1870)1月27日付の昇平丸監督信沢銀蔵の書付がある。

「昨廿六日朝辰之前頃に、悪風にて江差在木野子村安在浜と申処に打為寄、無拠破船仕候。然る処、船頭浦田伊助始め表役壱人、水夫弐人、かしき壱人、都合五人海死仕候」

 真冬の日本海で、急遽、船長を命じられた浦田伊助船長始め5人が死んだ。
 破船場所について、「略開」は、「安藤浜」とも「安在浜」ともある。(「新札幌市史」は「横沢浜」としている)
 現在の上ノ国村木の子の日本海に流れ込む「大安在川」「小安在川」があるから、「安在浜」が正しいと思う。
 なお、信沢銀蔵監督始め14人は、怪我をするものの、「村人多勢引上呉」、助かっている。
 積荷は「御米壱俵も上陸不仕」、すべて海に沈んだ。

3. 沈没後の処理
 昇平丸監督信沢銀蔵は、先の書付で、事後の処置について、「私、取計ひ相成兼」、開拓使の「出役」を願い出ている。
 開拓使は、北川(敏行)権少主典が木の子へ出張させ、その報告をうけ、「略開」に、「昇平丸破船始末」についての回漕掛の書付がある。
 それによると、事後処理の基本方針は、
①「水主共は、其場にて手当致、不残暇差出」
②「溺死人は、其場へ葬候」
③「村方へ賄代御払」
であった。具体的には、
「一 金 拾五両
是は溺死人の者葬式入用 壱人三両の見込
 一 金 九拾両
     是は残十五人分賄代 壱人一日永三百文ヅツ
 一 金 四拾両
     是は水主拾四人暇差出候に付、御手当金一人前三両の見込」

玄米六合づつ差し出されており、回漕掛は、松前家へその分として合計玄米九石六斗の返済伺いを出している。

◎解読を終えて
 関連文献を参照ながら、昇平丸運行関係書類を読み進めて、当時、開拓使にとって、船舶による物資輸送の重要さと困難さを改めて感じた。
 明治初期、北海道開拓の黎明期の事件であるが、それが、その後の開拓使の事業にどのような影響をあたえたのか。「新札幌市史」は、昇平丸の遅延・沈没は、「北海道での全般的な物資不足の状態下でそれをさらに深刻化させ、島判官の事業を左右することになる」と述べている。
 今後、その影響の内容と開拓使の対処、さらに、後続の開拓使附属船の運行と役割、その末路に関しても関連文書を読んでみたいと思う。
<主な参考、引用文献・ウェブサイト>
・「新北海道史第3巻通説2」(北海道)
・「函館市史」(函館市)
・「新札幌市史第2巻通史2」(札幌市)
・「開拓使事業報告」(道立文書館)
・「開拓使事業略記」(『新北海道史第7巻史料1』)
・「開拓使職員録」(道立文書館)
・「新版日本史年表」(歴史学研究会編 岩波書店)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター)
・「幕臣たちと技術立国」(佐々木譲著、集英社新書)
・「壮大な物語」(株式会社島津興業ウェブサイト)
・「ペリー来航と石川島造船所」(石川島播磨重工ウェブサイト)
・「昇平丸物語」(上ノ国商工会ウェブサイト)
・「白鶴美術館」(白鶴酒造ウェブサイト)

箱館役所からの「触書」の順達の村々名   (山越内村帳場「触書留」より)

「函館市史」学習メモ

箱館役所からの「触書」の順達の村々名   (山越内村帳場「触書留」より)

先般、於朝廷箱館裁判所総督ト被仰出所、当度御改革ニ付、箱館府知府事ト被仰出候間、以後知府事殿ト相唱候趣被仰付候事。判事ノ儀モ判府事権判府事ト被仰出候事
      七月十七日 
下湯川村、深堀村、上湯川村、鷲巣村、志苔村、亀ノ尾村、銭亀沢村、石崎村、小安村、戸井村、尻岸内村、尾札部村、臼尻村、鹿部村、砂原村、掛間村、尾白内村、鍛冶村、神山村、赤川村、石川郷、大川村、中島郷、七重村、飯田郷、城山郷、藤山郷、有川村、戸切地(へきりじ)村、吉田郷、三谷村、三好郷、富川村、茂辺地村、当別村、三ツ谷(石カ)村、釜谷村、泉沢村、札刈村、木古内村、亀田村、一本木村、千代田郷、中ノ郷、濁川村、文月村、大野村、鶴ノ郷、本郷村、市ノ渡村、峠下村、森村、鷲木村、落部村、山越内村、長万部村
合五拾六ヶ村
注・・慶応四年(1868)五月一日、五稜郭の旧箱館奉行所庁舎を箱館裁判所として開庁された。この文書は、同年七月十七日、箱館府が管内に布告した「触書」である。
この文書の「順達」は、七月十七日に発せられ、下湯川村から始まり、亀田半島を一周し、尾白内から南下し箱館周辺の村々を回り、木古内に向かう。木古内から引き返し、亀田に戻り、大野川を更に北上し、森を経て長万部に至る。
なお、山越内村着は八月十六日とあるから、「触書」が箱館管内を回り終わるのに一ケ月かかっていることになる。

江戸(東京)に置かれた産物会所

◎はじめに
 明治3年(1870)閏10月10日、在京の「開拓使庁」を「開拓使東京出張所」と改称し、東京城西の丸内の太政官から、蛎殻(かきから)町の「北海道産物会所」に移転した。
 それに関して「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」という質問・疑問が寄せられたので、資料を参考に、小論を書く。

1. 江戸時代の江戸産物会所
<蝦夷地直轄の経過>
・寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とする。
・享和2年(1802)2月、蝦夷地奉行を新設。
 幕府機構で位置は、遠国奉行のひとつで、格式は、長崎奉行の次座、奈良奉行の上座であった。
・同年5月、箱館奉行と改称。箱館奉行2名、1年交代で箱館在勤、ひとりは、江戸在勤(役所は、霊岸島の箱館奉行の江戸会所)とした。
また、吟味役2名は、箱館3年在勤とした。さらに、調役6人、調役並5人、調役下役10名、あわせて21名を任命し、7人を江戸掛、14人を箱館在勤とした。箱館奉行の体制を整えた。
・文化4年(1807)3月、西蝦夷地も直轄とし、蝦夷地全域が幕領となる。
・同年10月、奉行所を箱館より福山に移し、「松前奉行」となった。
<直轄下の経営・流通~直捌制~>
蝦夷地直轄と同時に、場所請負制度を廃止し、東蝦夷地の場所請負人の独占を排除した。漁場を直捌(じきさばき)制とし、産物の交易・流通に至るまで全面的に幕吏の手によって統制運営された。
なお、場所請負制は、その後、各地で復活した。その経過は省くが、少人数の幕吏が一手に運営すること自体、無理があった。
<会所の設置>
 直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。
本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。
 従来の西回り(日本海経由)の北前船の寄港地に加えて、東回り(太平洋経由)の港にも設置されたのは、興味深い。
<江戸の箱館奉行所江戸会所>
 箱館奉行所の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島に建設された。
 江戸時代から、北海道の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。
2. 開拓使時代の流通機構
<北海道物産会所>
 明治政府は、明治2年(1869)8月、商業振興のため「通商司」を設置した。通商司は、旧幕時代から引き継いだ「物産会所」を「北海道産物改所」として管轄下においた。
 開拓使は2年9月、場所請負制を廃止し、漁業の直捌を復活させたが、産物の取り扱いは「産物会所御用達」商人に命じた。
 明治3年(1870)3月、「北海道産物改所」は、開拓使に移管された。(「新北海道史」は、「その理由は不明である」としている。)
 開拓使は、会所を全国の主要港に置き、開拓使官員を各地に在勤させた。
 明治3年8月における会所は、東京、大阪、撫養(現徳島県鳴門市のうち)、長崎、新潟、那珂(現茨城県那珂市)、函館の8ケ所、出張所を堺、敦賀に設置された。
 実際の産物の取り締まりと販売にあたったのは、「開拓使御用達」となった豪商たちであった。
<東京の北海道物産会所>
 東京の北海道物産会所は、明治3年6月、蛎殻(かきから)町・稲荷(とうかん)堀に設置された。
 設置場所は、磐城国・旧平藩・安藤家の江戸中屋敷であった。
総坪数3237坪だから、相当大きな屋敷である。
 開拓使東京出張所が、この北海道物産会所に移転したのは、明治3年閏10月10日のことである。

◎まとめ~質問に答えて~
1.「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?」
(答)政府(幕府)の北海道の物産を取り扱う場所は、東京(江戸)に、「明治3年」といわず、幕府の蝦夷地直轄の寛政年間以降から、あったことになる。

2.「それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」
(答)北海道の産物は主として、商人(場所請負人)を介して流通していたが、幕府の機関である箱館奉行や、明治政府の機関である開拓使自体が直営でも流通・販売を行っていた。もちろん、「御用達」という名義で、商人が深くかかわっていた。

<参考資料>
「函館市史」
「新北海道史」
「同年表」
「江戸切絵図」

「間(けん)」は「弥生尺」

◎はじめに
北海道文化財保護協会の会報「文化情報」299号に、新川寛氏の「縄文尺」と題した論文を読んだ。
 要旨は、「青森の三内丸山遺跡のような大型住居跡の配置は、縄文尺ともいうべき基準物差しがあったと考えられる」という高島成侑氏(八戸工業大学教授)の「縄文尺」提唱を紹介しながら、度量衡の歴史、なかでも、古代の尺度に触れている。
 そこで、新川論文の紹介と、古代の物差しについて調べてみたので、紹介する。

◎「弥生尺」
 私が興味を持ったのは、「弥生時代の日本人は、稲束を両手にぶらさげて、自由に家(作業場)の中に出入りする幅を一間(けん)とした」という記述だ。
 「間(けん)」の語源を初めて知った。であれば、「間(けん)」という単位は「弥生尺」ともいうべき物差しといえると思う。

◎身体の一部を基準とした単位
・「寸(すん)」・・親指の幅。
・「尺(しゃく)」・・「尺」は象形文字で、手の姿を描いたもの。それから、「人の手幅」をいう。指十本の幅が「一尺」。
・「束(つか)」・・「束」は、会意文字で、「木+○印(たばねるひも)」で、たき木を集めて、その真ん中にひもをまるく回してたばねることを示す。
 「一束」は、指四本をにぎった幅の長さ。
 「束(つか)の間」は、ほんのひとにぎりの間。ほんのしばらく。
・「あた」・・手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に親指と中指を開いた長さ。
・「尋(ひろ)」・・「左+右+寸」の会意文字。左手と右手をのばした長さ。

◎世界に例のない複雑な単位の流通
 明治18年(1885)、日本は国際メートル法に参加、同24年(1891)公布された。さらに、明治42年(1909)にはヤードポンド法も交付され、尺貫法と合わせて3系統62単位が入り乱れ、日本は世界に例のない複雑な単位が流通した。 
 その後、多くの曲折を経て、メートルによる統一の必要が認められ、昭和34年(1959)1月1日をもって。メートル法が実施され、他の度量衡は廃止された。

開拓使用船運行関係書類について

 以下は札幌市文化資料室古文書講座上級テキストのうち、私(森勇二)が選択したテキストに関する中間報告です。

◎報告の要旨
・解読をすすめて
・昇平丸について
・「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲

1. 解読をすすめて
◎「石川源太藩」について(付箋を調べて)
私の選択テキスト「開拓使用船運行関係書類」(以下単に「テキスト」)ノ冒頭文書の右上に以下の3枚の付箋が重ねられてある。(「開拓使公文録」道文05702)
1枚目「石川源太家来乗船ノ指令」
2枚目(朱書)「石川家来○乗船願欠」
           「○兼本願寺」(この部分は前行の○部分に挿入を意味する。)
3枚目「昇平丸函館銭函等ヘ航漕ノ件」(テキストP1)
更に、「石川源太」の次に「家来」と付箋があり、その下に文字が見えるので
原本に当って見ると「藩」とあり、興味がわき調べてみた。
 石川源太は、旧仙台藩伊達家11門の筆頭で、実録3万3千石を領した角田藩主・石川大和守邦光のことで、「源太」は通称。
 会津戦争では宗藩の仙台藩に従って旧幕軍につき参戦したため、領地をすべて没収された。旧家臣らは再起の方針を協議し、未知の蝦夷地に渡ること嘆願し、明治2年(1869)9月13日、太政官から室蘭郡の支配を仰せ付けられた。ここに旧角田藩の北海道への集団移住が決まり、同年10月13日、江源太は家臣を連れて陸路仙台を出発した。悪天候で青森、平館で滞留し、函館着は11月11日、任地の室蘭到着は11月20日のこと。(「室蘭市史」参照)
 テキストの付箋の下の文字「藩」は、源太が拝領した室蘭郡の支配地。明治2年(1869)から4年(1871)にかけて、政府は、藩、士族、寺院などによる北海道の分領支配をすすめたが、支配地を「藩」と呼称した文章に始めて接した。
昇平丸の品川出帆は9月21日、函館到着は10月24日であることは、昇平丸の御用取扱からの「嘉納次郎作ヨリ昇平丸函館着港ノ届」(テキストP8の付箋)から伺える。なお、嘉納次郎作は神戸市御影の白鶴酒造の7代目の当主でもあった。また、3男嘉納治五郎は講道館柔道の創始者でもある。((「白鶴美術館」ホームページより)
 さて、テキスト冒頭にある「石川源太家来」の家老佐藤小三郎、小姓頭井上三郎、用人町田十郎の3名は、藩主源太に先立って出向したことになり、彼らは函館で源太一行を待ち合わせた。(「室蘭市史」。家来の役名も)


2. 昇平丸について
 昇平丸は、安政元年(1854)、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船で全長33M、排水量370トン、3本マストで帆が10枚、10門の大砲備えていた。翌安政2年(1855)幕府に献上され、幕府の海軍教習所・長崎伝習所に回航された。
昇平丸は、咸臨丸とともに、最初の開拓使附属船として明治2年(1869)
8月、兵部省管轄から開拓使に交付され、大蔵省から引き渡されたのは、9月
18日のこと。品川出帆は引渡しから3日後の9月21日。
 昇平丸は、明治3年1月26日、上ノ国木ノ子村猫沢の海岸で難破し乗組員
19名中5名が死亡、15年の短い生涯を終えた。(「上ノ国町史」参照)

3. 「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
 テキストP12以下は、「略輯旧開拓使会計書類」の昇平丸関係文書である。まだ解読を終えていないが、まず、「略輯旧開拓使会計書類」について調べてみた。
 北海道立文書館の宮崎美恵子氏の「略輯旧開拓使会計書類について」(「北海道立文書館研究紀要第21号」(2006.3刊行)にその概要が述べられている。
 宮崎氏は、「略輯旧開拓使会計書類」について、「開拓使の中枢である東京出張所の会計課等の文書であるため、多方面にわたる情報を含んでいるにもかかわらず、残念ながらこれまであまり多く利用されてこなかった。」と述べ、その原因を「会計書類というタイトルのため、数字の並んだ予算・決算書類や帳簿類、概計表のような文書というイメージが強かったかもしれない」と推測している。
 そして、「略輯旧開拓使会計書類という名称が付けられているが、この文書群は・・数字の並ぶ文書ではなく、開拓使の様々な事業に関する情報満載の文書
の集まりである・・多くの利用につながれば幸いである」と結んでいる。
 私は、幸いにも本講座で当該文書を選択した。指定テキスト部分の解読を、意欲をもって進めていきたい。

開拓使の役所は、どこにあったか

◎要旨
開拓使の役所がどこにあったのか、なかでも、在京の開拓使の庁舎がどこのあったか、歴史書でもあいまいな記述が多いので、名称も含め、論じて見たい。
とりあえず、東京、札幌(周辺を含む)、函館に限って書く。
【東京】
◎「開拓使」の最初の庁舎は、大名小路・旧稲葉家上屋敷内に置かれた。
・明治2.7.8・・太政官制改革で「開拓使」設置。最初の使庁は、民部省内におかれた。
 民部省は地方行政を管掌する主要行政機関であり、当初は現在の外務省(千代田区霞ヶ関1丁目1番地)の旧黒田長知(くろだ・ながとも=筑前福岡藩主)邸に置かれた。
◎2度目の開拓使の庁舎は、「東京城西丸」に移転した。
・同年8月、開拓使は、民部省内から太政官内に移転した。
<経過>
・慶応4.4.11・・討幕軍江戸城入城、慶喜水戸へ退去。
・同年閏4.21・・太政官制 制定。
・同年7.17・・江戸を「東京」と改称。
・同年9.8・・「明治」と改元
・明治元.10.13・・江戸城を皇居とし、「東京城」と改称。
・明治2.2.24・・太政官を京都から東京城・西丸に移す。
*<なぜ本丸でなく、西丸か?>文久3年(1863)6月、江戸大火で本丸、西の丸類焼し、西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、以後、本丸は、再建されなかった。
ちなみに、江戸城天守閣は、明暦3年(1657)1月、いわゆる「振袖大火」で炎上、以後、天守閣は再建されていない。
・明治2年8月に、民部省内から太政官内に移転。つまり、2度目の開拓使の庁舎は、「東京城西丸」に移った。
・明治3.2.13・・「樺太開拓使」設置。「開拓使」は「北海道開拓使」となる。(明治4.8.8、樺太開拓使廃止までの名称)
・明治3.閏10.10・・在京の「開拓使」は、「北海道開拓使東京出張所」(樺太開拓使廃止後は「開拓使東京出張所」)と改称。

◎3度目・・「開拓使東京出張所」は、蛎殻(かきがら)町(現東京都中央区日本橋蛎殻町付近)の北海道物産所に移転。

◎4度目・・のち、稲荷(とうかん)堀(現東京都中央区日本橋小網町付近)に移転。

◎5度目・・明治4.8.27・・芝の増上寺本坊に移転(のち、同寺の方丈跡へ移転)
さらに、明治5.9.20・・芝の増上寺境内の威徳院に移転。以後開拓使廃止まで
の「開拓使東京出張所」の庁舎となった。

【札幌】
・明治2.10.12・・①銭函に「開拓使仮役所」設置(鰊漁家・白浜園松宅,現銭函郵便局付近)
・明治3.4.-・・②「開拓使仮役所」を小樽信香(のぶか)町の旧兵部省小樽役所跡に移転。
・明治4.4.-・・③開拓使仮庁舎竣工(東創成通=現北4東1、鉄道病院付近)
・明治4.5.-・・「札幌開拓使庁」設置(役所は仮庁舎を使用)
・明治5.9.14・・「開拓使札幌本庁」となる。(旧仮庁舎が最初の本庁舎)
・明治6.11.24・・④開拓使、札幌本庁舎の落成を布達。落成は10月29日。現在の北海道立文書館(「赤レンガ」)の北側。
・明治12.1.17.午後7時50頃、開拓使本庁舎出火。
・翌18日、⑤仮事務所を札幌農学校演武場(上川通=北2西3=)に設置。
・1.19・・⑥仮庁舎を旧札幌女学校跡(それ以前は、「脇本陣」)へ移す。以来、この仮庁舎は、明治21年12月14日、北海道庁庁舎(赤レンガ)の落成まで、10年近く、開拓使庁舎、札幌県庁舎、北海道庁庁舎として使用された。

【箱館(函館)】
・文久4(1864).6.15・・五稜郭竣工。箱館奉行所を箱館山山麓の「御殿坂」(現基(もとい)坂の函館市元町の元町公園付近)より移転
・慶応4.4.12・・箱館裁判所設置(箱館奉行所を接収)
・慶応4.閏4.24・・箱館府と改称。・12月15日、榎本軍の政庁になる。翌明治2.5.18榎本降伏、庁舎は箱館府に復帰、同年7月24日、箱館府廃止。
・明治2.9.30・・①五稜郭内の旧箱館奉行所(のち、旧榎本軍政庁)に開拓使出張所開庁。
・明治4.-・・五稜郭の庁舎取り壊し。②基坂の旧箱館奉行所を改修して移転。以後、昭和25年まで、開拓使函館支庁、函館県県庁、北海道庁函館支庁、渡島支庁の庁舎となった。
<参考文献>
・「新札幌市史」
・「新北海道史年表」

開拓判官たちの活動と生涯(2)

2. 初期の開拓判官たち
・判官とは・・次官に次ぐ役職。長官はほとんど東京にいたから、判官は、実質上札幌本庁のトップであり、開拓使の在札責任者だった。
当初、「判官」「権判官」の職名が明治5年の官員改正で「大判官」「中判官」「小判官」となる。(なお、明治10年の改正で「大書記官」「権大書記官」などに替わり「判官」の職名は消滅した)
① 札幌本府づくりに着手した島義勇(よしたけ)・・在任明治2.7.22~3.4.2
・肥前佐賀藩士。安政4年(1857)、藩主鍋島直正の命で箱館奉行・堀利熙(としひろ)の近習となり、東西蝦夷地・樺太を巡視。
・明治2年7月13日、議定鍋島直正(前佐賀藩主)が開拓使長官に任命されると、同月22日、島も、開拓判官に任命された。
・鍋島の辞任後、東久世道禧(みちよし)が二代目開拓長官になると、島は東久世に従い、9月25日箱館着。10月12日、島は、本府建設のため銭函に到着、開拓使仮役所を設置した。
*札幌・石狩の地を北海道の中心地であるべきことは、近藤重蔵、松浦武四郎も指摘していた。
・島は、11月10日、札幌に入り、丸山のコタンベツの丘(現北海道神宮付近)に登り南北基線を大友堀(現創成川・石狩通)、東西基線を銭函通(現南1条通)とする構想を立てた。島は札幌の将来を詠った。
 河水遠流山峙隅(河水遠く流れ、山、隅=すみ=に峙=そばだ=つ)
 平原千里地膏腴(平原千里の地膏腴=こうゆ・肥えた土地=)
 四通五達宜開府(四通五達宜しく府を開くべし)
 他日五州第一都(他日五州第一の都)
・「札幌建設の地碑」(南1条西1丁目東ビル角)碑文
「この地は銭函から千歳に抜ける道と、藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交差点に当り、明治2年11月10日、開拓判官島義勇、石狩大府の建設をこの地から始め・・(中略)・・今日の札幌はこの付近を基点として発達したのである」
*なお、本府構想のモデルとして、京都など都を模したとする見解がほとんどだが、「新札幌市史」は、「近世の城下町を考慮にいれて構想したもの」とし、「民地を本府地に隣接した本府区域内の街区画内に配置する構造は、島判官の出身藩佐賀藩の城下町である佐賀の都市構造に類似している」としている。
・建設資金の不足問題で東久世長官は、島の更迭を要求した。実際は、島は責任を問われるどころか、官位が1等あがって大学少督に昇進した。
<その後の生涯>
・明治3年4月、大学少監(文部省の前身・大学校)行政官、侍従、秋田権令を経て、佐賀に帰る。
・明治7年2~3月、明治政府の征韓論反対や士族解体政策に反発した佐賀の士族が、江藤新平と島義勇を頭にして県庁(旧佐賀城)を占拠する「佐賀の乱」を起こす。政府軍に鎮圧され、島、江藤は死刑(さらし首)にされる。島、52歳。
・死後45年後の大正8年(1919)7月、大韓帝国皇太子・李垠(イウン)と皇族・梨本宮方子(まさこ・鍋島直正の孫)との婚約の特赦で赦免される。
・島の業績を讃たえ、北海道神宮と札幌市役所内に銅像が建てられている。
② 札幌本府を建設した岩村通俊 在任明治2.7.25~6.1.17(5年9月から大判官)
・天保11年(1840)土佐国宿毛(すくも)村生まれ。土佐藩士。
・戊辰戦争では、官軍軍監として羽越を転戦。
・明治2年、新政府に登用され、箱館府権判事を経て7月開拓使判官となる。
4年正月、島義勇の転出のあとを受け、札幌本府建設を進めた。茅葺小屋を一掃した「御用火事」は有名。現在の札幌市街地形成の基礎を定めた功績は大きい。昭和8年、大通公園に全身銅像が建立されたが、昭和18年応召。現在、円山公園に建っている。
・黒田次官と対立し明治6年1月罷免された。
<その後の生涯>
・佐賀県令、山口地方裁判所長、鹿児島県令を歴任。維新後の三大内乱(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争)すべてに関係した。
・明治19年(1886)、北海道庁の初代長官となる。在任中、旭川建設にかかわった功績は大きい。(旭川常盤公園に岩村の銅像がある)
「何ぞ甚だ西京(今の京都)に類するや。これ実にわが邦他日の北都なり」と。けだし石狩嶽(今の旭岳)は比叡山に似、その川は鴨川の如く、而して規模の大、遠くこれに過ぐ。」(岩村通俊記 上川紀行)
・明治22年第1次山県内閣の農商務大臣。大正4年2月病死。76歳。
③ 著名な探検家・松浦武四郎  在任明治2.8.2~3年3月
・文政元年(1818)伊勢の郷士(武士ながら農村に住み農業を営む)の三男に生まれる。14歳で諸国を遍歴する。
・弘化元年(1845)、初めて蝦夷地に入り、知床まで至る。翌年には、樺太探検を果たす。嘉永2年(1849)には、クナシリ、エトロフを探検するなど、蝦夷通として有名になる。「東西蝦夷山川取調日誌」85巻、「東西蝦夷山川地図取調図」25巻など多数の著作がある。その中で、アイヌ民族救済の急務を切々と訴えたが、認められなかった。
・明治新政府が成立すると、明治2年8月、開拓判官に任じられた。8月15日、蝦夷地を「北海道」と改め、11国86郡を画定されるが、その区画と選定には、武四郎の考案による所が多い。
<その後の生涯>
・アイヌ民族対応などで政府の方針は、武四郎の意にそぐわない所が多く、明治3年3月、辞任。政府は、松浦の功績を賞し終身15人扶持を給した。その後は、清貧に安んじ、書画骨董を友とし、著述をもって余生を過ごした。明治21年、71歳で病死。
④ 北門の危機を説いた岡本監輔(けんすけ) 在任明治2.7.25~3年閏10月
・天保10年(1839)阿波の農家に生まれる。若くして儒学・漢学など学問にめざめる。高松でザガレン(樺太)の話を聞き、江戸で間宮林蔵の「北蝦夷図説」に感激、「北門の鎖鑰(さやく=とじまり)を厳にせん」との志を持ち、文久3年(1863)支援者の援助を得て樺太にわたる。
・元治元年(1864)には、幕府(箱館奉行)唐樺太在住を命じられ、翌慶応元年(1865)には、サハリン東海岸を北上し、最北端のガオト岬をまわり、日本人初の樺太一周をした。
・明治になり、岡本は旧知の清水谷に北門の危機を説き、清水谷は蝦夷地問題を朝廷に建議、箱館裁判所の設置をみた。清水谷が箱館裁判所総督になると、岡本は、慶応4年4月、権判事に補され樺太担任を命じられ、募集した移民200人を率いクシュンコタン(旧大泊、現コルサコフ)に赴任した。
・明治2年7月開拓使設置で判官に任じられた。同年9月、さらに300人の募集農民伴い樺太へ向かった。
<その後の生涯>
・樺太経営に消極的な黒田次官と合わず、明治3年閏10月、開拓判官を辞職。
・明治24年(1891)千島に外国密漁船の出没横行を聞き、千島・ウルップ島まで視察、帰京後「千島義会」を設立し北辺を守備しようと奔走するが成功せず、のち台湾日本語学校長になり、明治35年(1902)帰国、明治37年没。享年66歳。
⑤ わずか半年の判官・竹田信順(のぶより) 在任明治2年8月~3年正月
・生没年不詳。越後高田藩の家老。戊辰戦争で藩論を討幕に導き、高田は官軍の奥羽追討の基地となった。
・明治2年8月、政府は竹田を開拓判官とし、10月、開拓使宗谷出張所が開設されるとその主任官に命じ、11月、竹田は移民100人とともに任地の宗谷に入った。
・翌明治3年1月、出張所を廃し、金沢藩の支配地となり、竹田は職を免じられた。
<その後の生涯>
・帰国後の竹田の動静は旧高田藩の記録にも明らかでない。
⑥ 「アツシ判官」松本十郎 在任明治2.8.18~.9.5(明治6年1月17日から開拓大判官)
・天保10年(1839)鶴岡城下で庄内藩士の長子に生まれる。
・文久3年(1863)父に従って西蝦夷地苫前・浜益に在勤
・戊辰戦争で庄内藩は旧幕奥州羽越列勢力だったが、明治元年9月26日官軍に降伏。鶴岡城開城の際の受取人黒田清隆の知る所となる。
・明治2年8月、開拓判官に任じられ根室在勤となる。場所請負人を廃止し、漁場を希望者に割り渡すなど、漁業の振興に努めた。
・明治6年1月、岩村通俊大判官辞任のあと、開拓大判官に任じられた。
松本は、役人の削減、綱紀粛正を実行し、赤字の解消、稲作の奨励など農業の振興、また、アイヌ衣装・アツシを着て管内を巡視し、「アツシ判官」といわれるようにアイヌ民族の境遇に深く同情していた。
・明治8年、千島樺太交換条約が結ばれ、樺太はこれまでの日露雑居地からロシア領になり、松本は日本移住を望む樺太アイヌ841名を宗谷に移す。
黒田清隆長官は、対雁(ついしかり・現江別市対雁)に移住させた。
松本は「樺太アイヌは海浜の民なり。今これを内陸に移して駆使せんは、惨忍極まれリ」と反発、辞表を提出し、庄内に帰る。黒田は慰留に来道するも合わず。
<その後の生涯>
・庄内で自ら鋤・鍬を執って農耕に従事。145巻にわたる「空語集」を著す。大正5年(1916)78歳をもって没した。
⑦ 最後の箱館奉行・杉浦誠 在任明治5年2月~10年1月
・文政9年(1826)、幕臣の子として生まれる。
・慶応2年(1866)1月、箱館奉行に補される。幕府の機関である箱館奉行の最後の奉行となった。
・幕府が倒れたのちも箱館に留まるが、慶応4年(1868)閏4月、箱館奉行の新政府の箱館府知事・清水谷公考に引き渡し江戸へ帰任。
・明治2年8月、手腕を買われ開拓権判官に起用され、開拓使箱館出張所に着任。5年2月開拓判官となる。
・明治10年(1877)辞職。箱館奉行時代から通算11年間、専ら函館で行政官として尽力。
<その後の生涯>
・函館を去ってからは東京で吟詠を楽しみ、「晩翠吟社」を起こした。明治33年(1900)75歳で没するまでの23年間は、政治から全く離れ、吟詠に打ち込んだ。彼の名は、箱館奉行、開拓判官よりも、漢詩人・杉浦梅潭として知られている。

◎まとめ
明治初期、未開の北海道の開拓を指導した政治家であり、実務担当者である開拓判官を追ってみた。そのうち、だれひとりとして、北海道に骨を埋めていない。
彼らの生涯・末路は実にさまざまであった。

<参考文献>
・「江戸300藩最後の藩主」(八幡和郎著 光文社新書 2004)
・「新札幌市史第2巻」(札幌市、1991)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉著、北海道出版企画センター、1979)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編、1993)

開拓判官たちの活躍とその生涯(1)

◎はじめに
 激動の明治維新期に、北の辺境の地・北海道の開拓を指導した開拓使の指導者・開拓判官たちの活躍と、彼らの生涯を追ってみる。
・明治期の北海道の政治体制
① 開拓使時代・・明治2.7.8~15.2.8
② 3県1局時代(札幌・函館・根室の3県と農商務省北海道事業管理局)
・・明治15.2.8~19.1.26
③ 北海道庁時代・・明治19.1.26以降
1. 開拓長官・次官
○1代開拓長官 鍋島直正(なおまさ)在任明治2.7.13~同.8.16
・文化11年(1814)生まれ。17歳で肥前佐賀藩主。陶器(有田焼)を外国に輸出するなど、藩政改革を行い、藩を窮乏のどん底から救う。
・海外の新知識吸収に積極的で、反射炉を建設し嘉永5年(1852)には日本最初の新式の洋式銃砲の製造に成功した。更に強力なアームストロング銃を製造した。またわが国初の蒸気船「凌風丸」(りょうふうまる)を購入し、幕末諸藩中最強の海軍力を持つまでになった。
 また学問にも熱心で藩校・弘道館を充実させ、大隈重信、副島種臣、江藤新平ら明治政府の指導者を輩出させた。更に「医者の学問」と軽蔑されていた蘭学を学び「蘭癖大名」の異名をとった。
・幕末の動乱期には、倒幕側につくものの、薩長を主力とする武力倒幕には消極的で、「肥前の妖怪」と警戒されたが、もっぱら藩力の強化を図り経営手腕に秀でて「そろばん大名」と呼ばれた。王政復古派の中心・「薩長土肥」といわれるが、肥前藩は、戊辰戦争の発端になった鳥羽伏見の闘いには参加せず、倒幕の政治的対処はほとんどしていない。のち、上野の旧幕彰義隊、会津攻めでは鍋島藩のアームストロング砲が勝敗を決した。
*王政復古での「薩長土肥」・・「薩長土」は異存ないとして、他に功績のある藩が多いのに、なぜ「肥前」が入るか。上野黒門、会津若松城への肥前のアームストロング砲が決定的な役割を果たした。肥前は早くから近代兵器産業を育てた。
・明治2年1月、薩長土肥4藩主連名で版籍奉還を上表し、新政府への集権体制の確立を促進させた。
・直正は、文久元年(1861)には、家督を直大(なおひろ)に譲ったが、実権を握り続け、明治新政府では重きをなし、議定(ぎじょう)になり明治2年6月蝦夷開拓総督を命じられ、部下の島義勇らを開拓御用掛に任じ、次いで7月13日、開拓使設置と同時に開拓長官となる。
<その後の生涯>わずか1ケ月後の明治2年7月13日、大納言に転任。4年1月病死。58歳。
○開拓次官 清水谷公考(きんなる)・・在任明治2.7.23~同.9.13
・弘化2年(1845)生まれ。京都の公家の出。幼時比叡山の仏徒となる。のち還俗して家を継ぐ。慶応2年(1866)、岡本文平(監輔)が寄食、意気投合する。
・岡本の主張に同意し、ロシアの侵略を防ぐため蝦夷地の防備と開拓を明治新政府に建議。
・慶応4年(1867)4月12日、箱館裁判所が設置されると副総督を経て翌閏4月5日、わずか22歳で総督に任じられた。先の岡本監輔を裁判所在勤権判事に任命。次いで閏4月24日、箱館裁判所が廃止され、箱館府となると、知事に任じられた。
・清水谷、閏4月27日、五稜郭の箱館奉行所で、旧幕府箱館奉行・杉浦誠から事務を引き継ぐ。
・9月8日、慶応4年を明治元年と改め、1世1元制(1代1元号)を定める。明治元年10月、旧幕・榎本武揚軍、鷲ノ木に上陸、清水谷、青森へ退き、政府軍の青森口総督を兼ねる。翌2年5月18日、榎本武揚が降伏。清水谷は、旧に復す。
・7月8日、開拓使設置。24日、清水谷は開拓次官となる。わずか2ケ月後の9月辞任。
・<その後の生涯>大坂開成所に学び、ロシアに留学。最初で最後の箱館府知事清水谷は、歴史的に特筆される事績を残さないまま、明治15年12月、わずか37歳の生涯を終えている。
○2代開拓長官 東久世道禧(みちよし ミチトミとも)・・在任明治2.8.25~4.10.15
・天保4年(1833)生まれ。少壮の公家として幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍。文久3年、薩摩、会津に後押しされた公武合体派のクーデターにより三条実美ら7人の公家とともに京都を追われ長州に逃れた。いわゆる「7卿の都落ち」という。
・慶応3年(1867)帰京を許され、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)では、官軍の軍事参謀となる。幕府軍敗走後の15日、東久世通禧は神戸で王政復古を各国に通告した人物。議定(ぎじょう)、神奈川府知事を経て明治2年8月26日、開拓長官に任じ、9月箱館在勤、開拓使箱館出張所を開き、島義勇を札幌本府づくりに派遣するなど、北海道開拓を指揮。明治4年4月、札幌へ移動、5月札幌開拓使庁設置。
・<その後の生涯>・明治4年十月侍従長に転じ、同年10月の岩倉使節団に随行し欧米を視察。のち枢密院副議長となる。明治45年1月4日病死。78歳。
○開拓次官 黒田清隆(長官職務代行)・・在任明治3.5.9~7.8.2
○3代開拓長官 黒田清隆・・在任明治7.8.2~15.1.11
・薩摩藩士。天保11年(1840)10月生まれ。江戸に出て江川太郎左衛門に兵学、砲術を学ぶ。
・戊辰戦争では、官軍参謀となり北越を転戦、箱館戦争では五稜郭に立てこもった榎本武揚を降伏させる。
・明治3年5月開拓次官に任じ、主として樺太を担当。4年1月アメリカに赴きケプロンらを雇用し帰国。
・明治4年8月、「開拓10年計画」策定(これまで1年20万円の定額金が翌5年から10年間1000万円、年平均100万円と5倍に増額された)
・明治4年10月、東久世長官の侍従長転任後は開拓使のことは、黒田の担任に帰した。以後、道路、鉄道の開削、炭鉱、農業の経営、教育の振興に至るまで北海道開拓の総指揮者として活動した。
・明治10年(1877)西南戦争では、かつての師であり盟友だった西郷隆盛を討つため、政府軍の参軍として参加。
・明治14年、「開拓10年計画」が週末を迎え、黒田はその延長と開拓使の存続を望んだが許されず、黒田は官有物の一括払い下げを計画したが世論の大反対に合い挫折。(開拓使官有物払い下げ事件)
<その後の生涯>
・明治15年、黒田は、内閣顧問に転じる。20年、農商務大臣となり、21年(1888)第2代内閣総理大臣となる。その後、逓信大臣、枢密院議長なる。明治33年(1900)8月没。59歳。
○4代開拓長官 西郷従道(つぐみち、ジュウドウが正式の読みとされる)・在任明治15.1.11~同.2.8 
・天保14年(1843)生まれ。薩摩藩士。兄は西郷隆盛。
・兄が征韓論で下野した際、政府に留まり、兄の死後は薩摩閥の重鎮となる。のち、再三首相候補に推されたが兄隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた。
・明治15年1月、黒田の辞任後、開拓使廃止までのわずか半月だが、農商務卿兼務のまま4代開拓長官となり、開拓使廃止と3県(函館、札幌、根室)設置が任務。
<その後の生涯>・伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣を歴任。明治31年(1898)、海軍軍人として初めて元帥の称号を受けた。明治35年(1902)
58歳で死去。

開拓判官たちの活躍と末路

◎日時:2007年2月13日(火曜)13時~
◎会場:札幌市中央区社会福祉総合センター
◎主催:札幌市社会教育協会
◎参加:無料。希望者は直接会場へ
◎私のテーマ 開拓判官たちの活躍と末路
・島義勇、松本十郎ら、明治初期の北海道開拓の指導者の活動・役割と、彼らの末路・・

黒田清隆と北辰旗

◎日時:2007.1.23(火曜)13:30~14:30
◎会場:札幌市北区民センター(札幌市北区琴似2条7丁目)
◎入場無料:直接会場へおいでください。
◎テーマ
「黒田清隆と北辰旗」-北辰旗制定の経過と開拓使附属船ー
◎主催:札幌市社会教育協会
◎共催:札幌市教育委員会

黒田清隆は、何度北海道に来たか

◎はじめに
開拓使は、札幌に本庁を置かれて以来、本来、開拓業務を統括する権限があったが、実際には、東京に、「開拓使出張所」がおかれ、長官は在京して指揮していた。そのため、道内の支庁など下部機関は、本庁を経由しないで東京出張所と直接交渉することが多く、勢い、本庁は軽視されることになった。
 特に、黒田清隆は、明治3年から明治15年まで開拓使次官、ついで長官として開拓使の中枢にいたが、彼は、「不在長官」と揶揄されるほどだった。
 そこで、黒田が、在任中、何度、来道したか、述べる。
なお、初代長官鍋島直正は、在任期間が1ケ月だったこともあるが、一度も来道していない。
1.【1回目・・箱館戦争の来道】
*府軍の反撃は、明治2年の干支から「己巳(きし)」戦争ともいう。
・明治2年1月-・・黒田、軍務官(のち兵部省)に出仕、2月、清水谷公考の参謀となる。
・3月9日・・黒田、東京出帆、4月9日、政府軍参謀として、乙部上陸。
・5月11日・・正面軍8000の指揮を山田顕義に委ね、黒田は手兵300を率いて函館山の背後に登り、山上から「菊章ノ旗ヲ翻シ・鬨ノ声ヲ作り四方ニ散ジテ殺出」(「北州新話」)。山を越え、榎本軍を総攻撃。
・12日、黒田、配下の池田貞賢を箱館病院に遣わし、医師・高松凌雲を介して、榎本に降伏勧告の書を送る
・17日・・いわゆる「亀田和議」(亀田の民家で、黒田と榎本が会談)。
翌18日、榎本、降伏、五稜郭を出る。
・21日、黒田、官軍の大森浜で陣没者の慰霊法要終了後、箱館から帰還。
2. 開拓次官時代の来道
【2回目の来道】
*・明治3年5月9日、黒田、兵部大丞から開拓次官になり、樺太専務を命じる。
*明治3年8月13日、樺太出張を命じられ、品川を出発、10月20日、帰京。帰途、変装して少主典水野義郎の従者となり、北海道西海岸を巡歴。
【3回目の来道】
・明治5年3月~6月、在札。この間、ケプロンの北海道巡回に同行
【4回目の来道】
・明治5年10月8日、来札。11日~13日、本支庁長会議、いわゆる「札幌会議」開く。(岩村通俊による黒田弾劾文朗読ありとも。)
*翌6年1月9日付で、本籍を鹿児島から札幌に移す。
【5回目の来道】
・明治6年6月24日、桧山、爾志両郡の漁民騒動の際、福山に至り漁民らに懇諭し、事態を収拾。

3.開拓長官時代の来道
*明治7年8月2日・・開拓長官に任ずる。
【6回目の来道】
・明治8年5月11日、樺太出張のため東京出帆(5月7日、千島樺太交換条約調印)
【7回目の来道】
*明治8年8月31日、千島諸島出張のため東京出発。玄武丸で千島巡回、カムチャッカのペトロパウロスクを訪問、10月12日帰京。
【8回目の来道】
・明治9年7月25日、千島巡回のため、玄武丸で、東京出発。実際は、松本十郎大判官の辞意を翻すためとも。(樺太アイヌの対雁移転に反対の十郎、避けて帰郷)。なお、このとき、玄武丸には、招聘したクラークら教師や学生も乗船している。
【9回目の来道】
(*明治11年3月28日清(せい)夫人死去、黒田による謀殺説も。5月14日指導者・大久保利通暗殺。この年、失意の黒田、本務・開拓使の専念とも)
・明治11年8月8日、北海道巡回、北海道産物輸出販売のため、ウラジオストックへ向け東京出発。10月1日、札幌帰着。
・11月29日、サハリン・コルサコフ出張のため、札幌を出発。この年、初めて札幌で越冬。
*両度の航海で、黒田はロシア式馬車・馬橇、氷上蹄鉄など積雪寒冷地で物資の導入を決めた。以後、冬期交通はもちろん、本道開拓に貢献。
・翌12年1月17日、開拓使本庁舎炎上。「長官御立合の上、遂に焼申」(「札幌区史」)。雪解けを待たず、帰京。
【10回目の来道】
・明治14年8月9日、天皇の北海道巡幸の先発として来道。9月11日、帰京。
*天皇巡幸・・8月30日、軍艦「芙蓉」で小樽入港、豊平館(前年13年12月3日落成)に到着。9月4日まで滞在。
・8月31日、黒田、札幌本庁で、天皇に申奉。
◎まとめ
・黒田清隆の来道
①箱館戦争時1回
①開拓使次官として、4年8ケ月の間4回
②開拓使長官として、7年5ケ月の間5回
都合、10回来道している。
・開拓使在任中の、黒田の中央での役職を記す。新政府の中枢にあった。
①陸軍中将・北海道屯田兵憲兵事務総理(明治7年6~8月)
②参議(明治7年8月2日~明治15年1月11日)
・なお、その後の役職は、明治20年9月農商務大臣、21年4月内閣総理大臣、」25年逓信大臣、28年枢密院議長。
・明治33年8月25日死去。

<参考文献>
「北海道史人名字彙」(河野常吉編著、北海道出版企画センター、1979)
「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター、1989)
「黒田清隆」(井黒弥太郎著 吉川弘文館、1977)
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