森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

江戸(東京)に置かれた産物会所

◎はじめに
 明治3年(1870)閏10月10日、在京の「開拓使庁」を「開拓使東京出張所」と改称し、東京城西の丸内の太政官から、蛎殻(かきから)町の「北海道産物会所」に移転した。
 それに関して「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」という質問・疑問が寄せられたので、資料を参考に、小論を書く。

1. 江戸時代の江戸産物会所
<蝦夷地直轄の経過>
・寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とする。
・享和2年(1802)2月、蝦夷地奉行を新設。
 幕府機構で位置は、遠国奉行のひとつで、格式は、長崎奉行の次座、奈良奉行の上座であった。
・同年5月、箱館奉行と改称。箱館奉行2名、1年交代で箱館在勤、ひとりは、江戸在勤(役所は、霊岸島の箱館奉行の江戸会所)とした。
また、吟味役2名は、箱館3年在勤とした。さらに、調役6人、調役並5人、調役下役10名、あわせて21名を任命し、7人を江戸掛、14人を箱館在勤とした。箱館奉行の体制を整えた。
・文化4年(1807)3月、西蝦夷地も直轄とし、蝦夷地全域が幕領となる。
・同年10月、奉行所を箱館より福山に移し、「松前奉行」となった。
<直轄下の経営・流通~直捌制~>
蝦夷地直轄と同時に、場所請負制度を廃止し、東蝦夷地の場所請負人の独占を排除した。漁場を直捌(じきさばき)制とし、産物の交易・流通に至るまで全面的に幕吏の手によって統制運営された。
なお、場所請負制は、その後、各地で復活した。その経過は省くが、少人数の幕吏が一手に運営すること自体、無理があった。
<会所の設置>
 直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。
本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。
 従来の西回り(日本海経由)の北前船の寄港地に加えて、東回り(太平洋経由)の港にも設置されたのは、興味深い。
<江戸の箱館奉行所江戸会所>
 箱館奉行所の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島に建設された。
 江戸時代から、北海道の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。
2. 開拓使時代の流通機構
<北海道物産会所>
 明治政府は、明治2年(1869)8月、商業振興のため「通商司」を設置した。通商司は、旧幕時代から引き継いだ「物産会所」を「北海道産物改所」として管轄下においた。
 開拓使は2年9月、場所請負制を廃止し、漁業の直捌を復活させたが、産物の取り扱いは「産物会所御用達」商人に命じた。
 明治3年(1870)3月、「北海道産物改所」は、開拓使に移管された。(「新北海道史」は、「その理由は不明である」としている。)
 開拓使は、会所を全国の主要港に置き、開拓使官員を各地に在勤させた。
 明治3年8月における会所は、東京、大阪、撫養(現徳島県鳴門市のうち)、長崎、新潟、那珂(現茨城県那珂市)、函館の8ケ所、出張所を堺、敦賀に設置された。
 実際の産物の取り締まりと販売にあたったのは、「開拓使御用達」となった豪商たちであった。
<東京の北海道物産会所>
 東京の北海道物産会所は、明治3年6月、蛎殻(かきから)町・稲荷(とうかん)堀に設置された。
 設置場所は、磐城国・旧平藩・安藤家の江戸中屋敷であった。
総坪数3237坪だから、相当大きな屋敷である。
 開拓使東京出張所が、この北海道物産会所に移転したのは、明治3年閏10月10日のことである。

◎まとめ~質問に答えて~
1.「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?」
(答)政府(幕府)の北海道の物産を取り扱う場所は、東京(江戸)に、「明治3年」といわず、幕府の蝦夷地直轄の寛政年間以降から、あったことになる。

2.「それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」
(答)北海道の産物は主として、商人(場所請負人)を介して流通していたが、幕府の機関である箱館奉行や、明治政府の機関である開拓使自体が直営でも流通・販売を行っていた。もちろん、「御用達」という名義で、商人が深くかかわっていた。

<参考資料>
「函館市史」
「新北海道史」
「同年表」
「江戸切絵図」

「間(けん)」は「弥生尺」

◎はじめに
北海道文化財保護協会の会報「文化情報」299号に、新川寛氏の「縄文尺」と題した論文を読んだ。
 要旨は、「青森の三内丸山遺跡のような大型住居跡の配置は、縄文尺ともいうべき基準物差しがあったと考えられる」という高島成侑氏(八戸工業大学教授)の「縄文尺」提唱を紹介しながら、度量衡の歴史、なかでも、古代の尺度に触れている。
 そこで、新川論文の紹介と、古代の物差しについて調べてみたので、紹介する。

◎「弥生尺」
 私が興味を持ったのは、「弥生時代の日本人は、稲束を両手にぶらさげて、自由に家(作業場)の中に出入りする幅を一間(けん)とした」という記述だ。
 「間(けん)」の語源を初めて知った。であれば、「間(けん)」という単位は「弥生尺」ともいうべき物差しといえると思う。

◎身体の一部を基準とした単位
・「寸(すん)」・・親指の幅。
・「尺(しゃく)」・・「尺」は象形文字で、手の姿を描いたもの。それから、「人の手幅」をいう。指十本の幅が「一尺」。
・「束(つか)」・・「束」は、会意文字で、「木+○印(たばねるひも)」で、たき木を集めて、その真ん中にひもをまるく回してたばねることを示す。
 「一束」は、指四本をにぎった幅の長さ。
 「束(つか)の間」は、ほんのひとにぎりの間。ほんのしばらく。
・「あた」・・手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に親指と中指を開いた長さ。
・「尋(ひろ)」・・「左+右+寸」の会意文字。左手と右手をのばした長さ。

◎世界に例のない複雑な単位の流通
 明治18年(1885)、日本は国際メートル法に参加、同24年(1891)公布された。さらに、明治42年(1909)にはヤードポンド法も交付され、尺貫法と合わせて3系統62単位が入り乱れ、日本は世界に例のない複雑な単位が流通した。 
 その後、多くの曲折を経て、メートルによる統一の必要が認められ、昭和34年(1959)1月1日をもって。メートル法が実施され、他の度量衡は廃止された。

開拓使用船運行関係書類について

 以下は札幌市文化資料室古文書講座上級テキストのうち、私(森勇二)が選択したテキストに関する中間報告です。

◎報告の要旨
・解読をすすめて
・昇平丸について
・「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲

1. 解読をすすめて
◎「石川源太藩」について(付箋を調べて)
私の選択テキスト「開拓使用船運行関係書類」(以下単に「テキスト」)ノ冒頭文書の右上に以下の3枚の付箋が重ねられてある。(「開拓使公文録」道文05702)
1枚目「石川源太家来乗船ノ指令」
2枚目(朱書)「石川家来○乗船願欠」
           「○兼本願寺」(この部分は前行の○部分に挿入を意味する。)
3枚目「昇平丸函館銭函等ヘ航漕ノ件」(テキストP1)
更に、「石川源太」の次に「家来」と付箋があり、その下に文字が見えるので
原本に当って見ると「藩」とあり、興味がわき調べてみた。
 石川源太は、旧仙台藩伊達家11門の筆頭で、実録3万3千石を領した角田藩主・石川大和守邦光のことで、「源太」は通称。
 会津戦争では宗藩の仙台藩に従って旧幕軍につき参戦したため、領地をすべて没収された。旧家臣らは再起の方針を協議し、未知の蝦夷地に渡ること嘆願し、明治2年(1869)9月13日、太政官から室蘭郡の支配を仰せ付けられた。ここに旧角田藩の北海道への集団移住が決まり、同年10月13日、江源太は家臣を連れて陸路仙台を出発した。悪天候で青森、平館で滞留し、函館着は11月11日、任地の室蘭到着は11月20日のこと。(「室蘭市史」参照)
 テキストの付箋の下の文字「藩」は、源太が拝領した室蘭郡の支配地。明治2年(1869)から4年(1871)にかけて、政府は、藩、士族、寺院などによる北海道の分領支配をすすめたが、支配地を「藩」と呼称した文章に始めて接した。
昇平丸の品川出帆は9月21日、函館到着は10月24日であることは、昇平丸の御用取扱からの「嘉納次郎作ヨリ昇平丸函館着港ノ届」(テキストP8の付箋)から伺える。なお、嘉納次郎作は神戸市御影の白鶴酒造の7代目の当主でもあった。また、3男嘉納治五郎は講道館柔道の創始者でもある。((「白鶴美術館」ホームページより)
 さて、テキスト冒頭にある「石川源太家来」の家老佐藤小三郎、小姓頭井上三郎、用人町田十郎の3名は、藩主源太に先立って出向したことになり、彼らは函館で源太一行を待ち合わせた。(「室蘭市史」。家来の役名も)


2. 昇平丸について
 昇平丸は、安政元年(1854)、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船で全長33M、排水量370トン、3本マストで帆が10枚、10門の大砲備えていた。翌安政2年(1855)幕府に献上され、幕府の海軍教習所・長崎伝習所に回航された。
昇平丸は、咸臨丸とともに、最初の開拓使附属船として明治2年(1869)
8月、兵部省管轄から開拓使に交付され、大蔵省から引き渡されたのは、9月
18日のこと。品川出帆は引渡しから3日後の9月21日。
 昇平丸は、明治3年1月26日、上ノ国木ノ子村猫沢の海岸で難破し乗組員
19名中5名が死亡、15年の短い生涯を終えた。(「上ノ国町史」参照)

3. 「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
 テキストP12以下は、「略輯旧開拓使会計書類」の昇平丸関係文書である。まだ解読を終えていないが、まず、「略輯旧開拓使会計書類」について調べてみた。
 北海道立文書館の宮崎美恵子氏の「略輯旧開拓使会計書類について」(「北海道立文書館研究紀要第21号」(2006.3刊行)にその概要が述べられている。
 宮崎氏は、「略輯旧開拓使会計書類」について、「開拓使の中枢である東京出張所の会計課等の文書であるため、多方面にわたる情報を含んでいるにもかかわらず、残念ながらこれまであまり多く利用されてこなかった。」と述べ、その原因を「会計書類というタイトルのため、数字の並んだ予算・決算書類や帳簿類、概計表のような文書というイメージが強かったかもしれない」と推測している。
 そして、「略輯旧開拓使会計書類という名称が付けられているが、この文書群は・・数字の並ぶ文書ではなく、開拓使の様々な事業に関する情報満載の文書
の集まりである・・多くの利用につながれば幸いである」と結んでいる。
 私は、幸いにも本講座で当該文書を選択した。指定テキスト部分の解読を、意欲をもって進めていきたい。

開拓使の役所は、どこにあったか

◎要旨
開拓使の役所がどこにあったのか、なかでも、在京の開拓使の庁舎がどこのあったか、歴史書でもあいまいな記述が多いので、名称も含め、論じて見たい。
とりあえず、東京、札幌(周辺を含む)、函館に限って書く。
【東京】
◎「開拓使」の最初の庁舎は、大名小路・旧稲葉家上屋敷内に置かれた。
・明治2.7.8・・太政官制改革で「開拓使」設置。最初の使庁は、民部省内におかれた。
 民部省は地方行政を管掌する主要行政機関であり、当初は現在の外務省(千代田区霞ヶ関1丁目1番地)の旧黒田長知(くろだ・ながとも=筑前福岡藩主)邸に置かれた。
◎2度目の開拓使の庁舎は、「東京城西丸」に移転した。
・同年8月、開拓使は、民部省内から太政官内に移転した。
<経過>
・慶応4.4.11・・討幕軍江戸城入城、慶喜水戸へ退去。
・同年閏4.21・・太政官制 制定。
・同年7.17・・江戸を「東京」と改称。
・同年9.8・・「明治」と改元
・明治元.10.13・・江戸城を皇居とし、「東京城」と改称。
・明治2.2.24・・太政官を京都から東京城・西丸に移す。
*<なぜ本丸でなく、西丸か?>文久3年(1863)6月、江戸大火で本丸、西の丸類焼し、西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、以後、本丸は、再建されなかった。
ちなみに、江戸城天守閣は、明暦3年(1657)1月、いわゆる「振袖大火」で炎上、以後、天守閣は再建されていない。
・明治2年8月に、民部省内から太政官内に移転。つまり、2度目の開拓使の庁舎は、「東京城西丸」に移った。
・明治3.2.13・・「樺太開拓使」設置。「開拓使」は「北海道開拓使」となる。(明治4.8.8、樺太開拓使廃止までの名称)
・明治3.閏10.10・・在京の「開拓使」は、「北海道開拓使東京出張所」(樺太開拓使廃止後は「開拓使東京出張所」)と改称。

◎3度目・・「開拓使東京出張所」は、蛎殻(かきがら)町(現東京都中央区日本橋蛎殻町付近)の北海道物産所に移転。

◎4度目・・のち、稲荷(とうかん)堀(現東京都中央区日本橋小網町付近)に移転。

◎5度目・・明治4.8.27・・芝の増上寺本坊に移転(のち、同寺の方丈跡へ移転)
さらに、明治5.9.20・・芝の増上寺境内の威徳院に移転。以後開拓使廃止まで
の「開拓使東京出張所」の庁舎となった。

【札幌】
・明治2.10.12・・①銭函に「開拓使仮役所」設置(鰊漁家・白浜園松宅,現銭函郵便局付近)
・明治3.4.-・・②「開拓使仮役所」を小樽信香(のぶか)町の旧兵部省小樽役所跡に移転。
・明治4.4.-・・③開拓使仮庁舎竣工(東創成通=現北4東1、鉄道病院付近)
・明治4.5.-・・「札幌開拓使庁」設置(役所は仮庁舎を使用)
・明治5.9.14・・「開拓使札幌本庁」となる。(旧仮庁舎が最初の本庁舎)
・明治6.11.24・・④開拓使、札幌本庁舎の落成を布達。落成は10月29日。現在の北海道立文書館(「赤レンガ」)の北側。
・明治12.1.17.午後7時50頃、開拓使本庁舎出火。
・翌18日、⑤仮事務所を札幌農学校演武場(上川通=北2西3=)に設置。
・1.19・・⑥仮庁舎を旧札幌女学校跡(それ以前は、「脇本陣」)へ移す。以来、この仮庁舎は、明治21年12月14日、北海道庁庁舎(赤レンガ)の落成まで、10年近く、開拓使庁舎、札幌県庁舎、北海道庁庁舎として使用された。

【箱館(函館)】
・文久4(1864).6.15・・五稜郭竣工。箱館奉行所を箱館山山麓の「御殿坂」(現基(もとい)坂の函館市元町の元町公園付近)より移転
・慶応4.4.12・・箱館裁判所設置(箱館奉行所を接収)
・慶応4.閏4.24・・箱館府と改称。・12月15日、榎本軍の政庁になる。翌明治2.5.18榎本降伏、庁舎は箱館府に復帰、同年7月24日、箱館府廃止。
・明治2.9.30・・①五稜郭内の旧箱館奉行所(のち、旧榎本軍政庁)に開拓使出張所開庁。
・明治4.-・・五稜郭の庁舎取り壊し。②基坂の旧箱館奉行所を改修して移転。以後、昭和25年まで、開拓使函館支庁、函館県県庁、北海道庁函館支庁、渡島支庁の庁舎となった。
<参考文献>
・「新札幌市史」
・「新北海道史年表」

開拓判官たちの活動と生涯(2)

2. 初期の開拓判官たち
・判官とは・・次官に次ぐ役職。長官はほとんど東京にいたから、判官は、実質上札幌本庁のトップであり、開拓使の在札責任者だった。
当初、「判官」「権判官」の職名が明治5年の官員改正で「大判官」「中判官」「小判官」となる。(なお、明治10年の改正で「大書記官」「権大書記官」などに替わり「判官」の職名は消滅した)
① 札幌本府づくりに着手した島義勇(よしたけ)・・在任明治2.7.22~3.4.2
・肥前佐賀藩士。安政4年(1857)、藩主鍋島直正の命で箱館奉行・堀利熙(としひろ)の近習となり、東西蝦夷地・樺太を巡視。
・明治2年7月13日、議定鍋島直正(前佐賀藩主)が開拓使長官に任命されると、同月22日、島も、開拓判官に任命された。
・鍋島の辞任後、東久世道禧(みちよし)が二代目開拓長官になると、島は東久世に従い、9月25日箱館着。10月12日、島は、本府建設のため銭函に到着、開拓使仮役所を設置した。
*札幌・石狩の地を北海道の中心地であるべきことは、近藤重蔵、松浦武四郎も指摘していた。
・島は、11月10日、札幌に入り、丸山のコタンベツの丘(現北海道神宮付近)に登り南北基線を大友堀(現創成川・石狩通)、東西基線を銭函通(現南1条通)とする構想を立てた。島は札幌の将来を詠った。
 河水遠流山峙隅(河水遠く流れ、山、隅=すみ=に峙=そばだ=つ)
 平原千里地膏腴(平原千里の地膏腴=こうゆ・肥えた土地=)
 四通五達宜開府(四通五達宜しく府を開くべし)
 他日五州第一都(他日五州第一の都)
・「札幌建設の地碑」(南1条西1丁目東ビル角)碑文
「この地は銭函から千歳に抜ける道と、藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交差点に当り、明治2年11月10日、開拓判官島義勇、石狩大府の建設をこの地から始め・・(中略)・・今日の札幌はこの付近を基点として発達したのである」
*なお、本府構想のモデルとして、京都など都を模したとする見解がほとんどだが、「新札幌市史」は、「近世の城下町を考慮にいれて構想したもの」とし、「民地を本府地に隣接した本府区域内の街区画内に配置する構造は、島判官の出身藩佐賀藩の城下町である佐賀の都市構造に類似している」としている。
・建設資金の不足問題で東久世長官は、島の更迭を要求した。実際は、島は責任を問われるどころか、官位が1等あがって大学少督に昇進した。
<その後の生涯>
・明治3年4月、大学少監(文部省の前身・大学校)行政官、侍従、秋田権令を経て、佐賀に帰る。
・明治7年2~3月、明治政府の征韓論反対や士族解体政策に反発した佐賀の士族が、江藤新平と島義勇を頭にして県庁(旧佐賀城)を占拠する「佐賀の乱」を起こす。政府軍に鎮圧され、島、江藤は死刑(さらし首)にされる。島、52歳。
・死後45年後の大正8年(1919)7月、大韓帝国皇太子・李垠(イウン)と皇族・梨本宮方子(まさこ・鍋島直正の孫)との婚約の特赦で赦免される。
・島の業績を讃たえ、北海道神宮と札幌市役所内に銅像が建てられている。
② 札幌本府を建設した岩村通俊 在任明治2.7.25~6.1.17(5年9月から大判官)
・天保11年(1840)土佐国宿毛(すくも)村生まれ。土佐藩士。
・戊辰戦争では、官軍軍監として羽越を転戦。
・明治2年、新政府に登用され、箱館府権判事を経て7月開拓使判官となる。
4年正月、島義勇の転出のあとを受け、札幌本府建設を進めた。茅葺小屋を一掃した「御用火事」は有名。現在の札幌市街地形成の基礎を定めた功績は大きい。昭和8年、大通公園に全身銅像が建立されたが、昭和18年応召。現在、円山公園に建っている。
・黒田次官と対立し明治6年1月罷免された。
<その後の生涯>
・佐賀県令、山口地方裁判所長、鹿児島県令を歴任。維新後の三大内乱(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争)すべてに関係した。
・明治19年(1886)、北海道庁の初代長官となる。在任中、旭川建設にかかわった功績は大きい。(旭川常盤公園に岩村の銅像がある)
「何ぞ甚だ西京(今の京都)に類するや。これ実にわが邦他日の北都なり」と。けだし石狩嶽(今の旭岳)は比叡山に似、その川は鴨川の如く、而して規模の大、遠くこれに過ぐ。」(岩村通俊記 上川紀行)
・明治22年第1次山県内閣の農商務大臣。大正4年2月病死。76歳。
③ 著名な探検家・松浦武四郎  在任明治2.8.2~3年3月
・文政元年(1818)伊勢の郷士(武士ながら農村に住み農業を営む)の三男に生まれる。14歳で諸国を遍歴する。
・弘化元年(1845)、初めて蝦夷地に入り、知床まで至る。翌年には、樺太探検を果たす。嘉永2年(1849)には、クナシリ、エトロフを探検するなど、蝦夷通として有名になる。「東西蝦夷山川取調日誌」85巻、「東西蝦夷山川地図取調図」25巻など多数の著作がある。その中で、アイヌ民族救済の急務を切々と訴えたが、認められなかった。
・明治新政府が成立すると、明治2年8月、開拓判官に任じられた。8月15日、蝦夷地を「北海道」と改め、11国86郡を画定されるが、その区画と選定には、武四郎の考案による所が多い。
<その後の生涯>
・アイヌ民族対応などで政府の方針は、武四郎の意にそぐわない所が多く、明治3年3月、辞任。政府は、松浦の功績を賞し終身15人扶持を給した。その後は、清貧に安んじ、書画骨董を友とし、著述をもって余生を過ごした。明治21年、71歳で病死。
④ 北門の危機を説いた岡本監輔(けんすけ) 在任明治2.7.25~3年閏10月
・天保10年(1839)阿波の農家に生まれる。若くして儒学・漢学など学問にめざめる。高松でザガレン(樺太)の話を聞き、江戸で間宮林蔵の「北蝦夷図説」に感激、「北門の鎖鑰(さやく=とじまり)を厳にせん」との志を持ち、文久3年(1863)支援者の援助を得て樺太にわたる。
・元治元年(1864)には、幕府(箱館奉行)唐樺太在住を命じられ、翌慶応元年(1865)には、サハリン東海岸を北上し、最北端のガオト岬をまわり、日本人初の樺太一周をした。
・明治になり、岡本は旧知の清水谷に北門の危機を説き、清水谷は蝦夷地問題を朝廷に建議、箱館裁判所の設置をみた。清水谷が箱館裁判所総督になると、岡本は、慶応4年4月、権判事に補され樺太担任を命じられ、募集した移民200人を率いクシュンコタン(旧大泊、現コルサコフ)に赴任した。
・明治2年7月開拓使設置で判官に任じられた。同年9月、さらに300人の募集農民伴い樺太へ向かった。
<その後の生涯>
・樺太経営に消極的な黒田次官と合わず、明治3年閏10月、開拓判官を辞職。
・明治24年(1891)千島に外国密漁船の出没横行を聞き、千島・ウルップ島まで視察、帰京後「千島義会」を設立し北辺を守備しようと奔走するが成功せず、のち台湾日本語学校長になり、明治35年(1902)帰国、明治37年没。享年66歳。
⑤ わずか半年の判官・竹田信順(のぶより) 在任明治2年8月~3年正月
・生没年不詳。越後高田藩の家老。戊辰戦争で藩論を討幕に導き、高田は官軍の奥羽追討の基地となった。
・明治2年8月、政府は竹田を開拓判官とし、10月、開拓使宗谷出張所が開設されるとその主任官に命じ、11月、竹田は移民100人とともに任地の宗谷に入った。
・翌明治3年1月、出張所を廃し、金沢藩の支配地となり、竹田は職を免じられた。
<その後の生涯>
・帰国後の竹田の動静は旧高田藩の記録にも明らかでない。
⑥ 「アツシ判官」松本十郎 在任明治2.8.18~.9.5(明治6年1月17日から開拓大判官)
・天保10年(1839)鶴岡城下で庄内藩士の長子に生まれる。
・文久3年(1863)父に従って西蝦夷地苫前・浜益に在勤
・戊辰戦争で庄内藩は旧幕奥州羽越列勢力だったが、明治元年9月26日官軍に降伏。鶴岡城開城の際の受取人黒田清隆の知る所となる。
・明治2年8月、開拓判官に任じられ根室在勤となる。場所請負人を廃止し、漁場を希望者に割り渡すなど、漁業の振興に努めた。
・明治6年1月、岩村通俊大判官辞任のあと、開拓大判官に任じられた。
松本は、役人の削減、綱紀粛正を実行し、赤字の解消、稲作の奨励など農業の振興、また、アイヌ衣装・アツシを着て管内を巡視し、「アツシ判官」といわれるようにアイヌ民族の境遇に深く同情していた。
・明治8年、千島樺太交換条約が結ばれ、樺太はこれまでの日露雑居地からロシア領になり、松本は日本移住を望む樺太アイヌ841名を宗谷に移す。
黒田清隆長官は、対雁(ついしかり・現江別市対雁)に移住させた。
松本は「樺太アイヌは海浜の民なり。今これを内陸に移して駆使せんは、惨忍極まれリ」と反発、辞表を提出し、庄内に帰る。黒田は慰留に来道するも合わず。
<その後の生涯>
・庄内で自ら鋤・鍬を執って農耕に従事。145巻にわたる「空語集」を著す。大正5年(1916)78歳をもって没した。
⑦ 最後の箱館奉行・杉浦誠 在任明治5年2月~10年1月
・文政9年(1826)、幕臣の子として生まれる。
・慶応2年(1866)1月、箱館奉行に補される。幕府の機関である箱館奉行の最後の奉行となった。
・幕府が倒れたのちも箱館に留まるが、慶応4年(1868)閏4月、箱館奉行の新政府の箱館府知事・清水谷公考に引き渡し江戸へ帰任。
・明治2年8月、手腕を買われ開拓権判官に起用され、開拓使箱館出張所に着任。5年2月開拓判官となる。
・明治10年(1877)辞職。箱館奉行時代から通算11年間、専ら函館で行政官として尽力。
<その後の生涯>
・函館を去ってからは東京で吟詠を楽しみ、「晩翠吟社」を起こした。明治33年(1900)75歳で没するまでの23年間は、政治から全く離れ、吟詠に打ち込んだ。彼の名は、箱館奉行、開拓判官よりも、漢詩人・杉浦梅潭として知られている。

◎まとめ
明治初期、未開の北海道の開拓を指導した政治家であり、実務担当者である開拓判官を追ってみた。そのうち、だれひとりとして、北海道に骨を埋めていない。
彼らの生涯・末路は実にさまざまであった。

<参考文献>
・「江戸300藩最後の藩主」(八幡和郎著 光文社新書 2004)
・「新札幌市史第2巻」(札幌市、1991)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉著、北海道出版企画センター、1979)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編、1993)

開拓判官たちの活躍とその生涯(1)

◎はじめに
 激動の明治維新期に、北の辺境の地・北海道の開拓を指導した開拓使の指導者・開拓判官たちの活躍と、彼らの生涯を追ってみる。
・明治期の北海道の政治体制
① 開拓使時代・・明治2.7.8~15.2.8
② 3県1局時代(札幌・函館・根室の3県と農商務省北海道事業管理局)
・・明治15.2.8~19.1.26
③ 北海道庁時代・・明治19.1.26以降
1. 開拓長官・次官
○1代開拓長官 鍋島直正(なおまさ)在任明治2.7.13~同.8.16
・文化11年(1814)生まれ。17歳で肥前佐賀藩主。陶器(有田焼)を外国に輸出するなど、藩政改革を行い、藩を窮乏のどん底から救う。
・海外の新知識吸収に積極的で、反射炉を建設し嘉永5年(1852)には日本最初の新式の洋式銃砲の製造に成功した。更に強力なアームストロング銃を製造した。またわが国初の蒸気船「凌風丸」(りょうふうまる)を購入し、幕末諸藩中最強の海軍力を持つまでになった。
 また学問にも熱心で藩校・弘道館を充実させ、大隈重信、副島種臣、江藤新平ら明治政府の指導者を輩出させた。更に「医者の学問」と軽蔑されていた蘭学を学び「蘭癖大名」の異名をとった。
・幕末の動乱期には、倒幕側につくものの、薩長を主力とする武力倒幕には消極的で、「肥前の妖怪」と警戒されたが、もっぱら藩力の強化を図り経営手腕に秀でて「そろばん大名」と呼ばれた。王政復古派の中心・「薩長土肥」といわれるが、肥前藩は、戊辰戦争の発端になった鳥羽伏見の闘いには参加せず、倒幕の政治的対処はほとんどしていない。のち、上野の旧幕彰義隊、会津攻めでは鍋島藩のアームストロング砲が勝敗を決した。
*王政復古での「薩長土肥」・・「薩長土」は異存ないとして、他に功績のある藩が多いのに、なぜ「肥前」が入るか。上野黒門、会津若松城への肥前のアームストロング砲が決定的な役割を果たした。肥前は早くから近代兵器産業を育てた。
・明治2年1月、薩長土肥4藩主連名で版籍奉還を上表し、新政府への集権体制の確立を促進させた。
・直正は、文久元年(1861)には、家督を直大(なおひろ)に譲ったが、実権を握り続け、明治新政府では重きをなし、議定(ぎじょう)になり明治2年6月蝦夷開拓総督を命じられ、部下の島義勇らを開拓御用掛に任じ、次いで7月13日、開拓使設置と同時に開拓長官となる。
<その後の生涯>わずか1ケ月後の明治2年7月13日、大納言に転任。4年1月病死。58歳。
○開拓次官 清水谷公考(きんなる)・・在任明治2.7.23~同.9.13
・弘化2年(1845)生まれ。京都の公家の出。幼時比叡山の仏徒となる。のち還俗して家を継ぐ。慶応2年(1866)、岡本文平(監輔)が寄食、意気投合する。
・岡本の主張に同意し、ロシアの侵略を防ぐため蝦夷地の防備と開拓を明治新政府に建議。
・慶応4年(1867)4月12日、箱館裁判所が設置されると副総督を経て翌閏4月5日、わずか22歳で総督に任じられた。先の岡本監輔を裁判所在勤権判事に任命。次いで閏4月24日、箱館裁判所が廃止され、箱館府となると、知事に任じられた。
・清水谷、閏4月27日、五稜郭の箱館奉行所で、旧幕府箱館奉行・杉浦誠から事務を引き継ぐ。
・9月8日、慶応4年を明治元年と改め、1世1元制(1代1元号)を定める。明治元年10月、旧幕・榎本武揚軍、鷲ノ木に上陸、清水谷、青森へ退き、政府軍の青森口総督を兼ねる。翌2年5月18日、榎本武揚が降伏。清水谷は、旧に復す。
・7月8日、開拓使設置。24日、清水谷は開拓次官となる。わずか2ケ月後の9月辞任。
・<その後の生涯>大坂開成所に学び、ロシアに留学。最初で最後の箱館府知事清水谷は、歴史的に特筆される事績を残さないまま、明治15年12月、わずか37歳の生涯を終えている。
○2代開拓長官 東久世道禧(みちよし ミチトミとも)・・在任明治2.8.25~4.10.15
・天保4年(1833)生まれ。少壮の公家として幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍。文久3年、薩摩、会津に後押しされた公武合体派のクーデターにより三条実美ら7人の公家とともに京都を追われ長州に逃れた。いわゆる「7卿の都落ち」という。
・慶応3年(1867)帰京を許され、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)では、官軍の軍事参謀となる。幕府軍敗走後の15日、東久世通禧は神戸で王政復古を各国に通告した人物。議定(ぎじょう)、神奈川府知事を経て明治2年8月26日、開拓長官に任じ、9月箱館在勤、開拓使箱館出張所を開き、島義勇を札幌本府づくりに派遣するなど、北海道開拓を指揮。明治4年4月、札幌へ移動、5月札幌開拓使庁設置。
・<その後の生涯>・明治4年十月侍従長に転じ、同年10月の岩倉使節団に随行し欧米を視察。のち枢密院副議長となる。明治45年1月4日病死。78歳。
○開拓次官 黒田清隆(長官職務代行)・・在任明治3.5.9~7.8.2
○3代開拓長官 黒田清隆・・在任明治7.8.2~15.1.11
・薩摩藩士。天保11年(1840)10月生まれ。江戸に出て江川太郎左衛門に兵学、砲術を学ぶ。
・戊辰戦争では、官軍参謀となり北越を転戦、箱館戦争では五稜郭に立てこもった榎本武揚を降伏させる。
・明治3年5月開拓次官に任じ、主として樺太を担当。4年1月アメリカに赴きケプロンらを雇用し帰国。
・明治4年8月、「開拓10年計画」策定(これまで1年20万円の定額金が翌5年から10年間1000万円、年平均100万円と5倍に増額された)
・明治4年10月、東久世長官の侍従長転任後は開拓使のことは、黒田の担任に帰した。以後、道路、鉄道の開削、炭鉱、農業の経営、教育の振興に至るまで北海道開拓の総指揮者として活動した。
・明治10年(1877)西南戦争では、かつての師であり盟友だった西郷隆盛を討つため、政府軍の参軍として参加。
・明治14年、「開拓10年計画」が週末を迎え、黒田はその延長と開拓使の存続を望んだが許されず、黒田は官有物の一括払い下げを計画したが世論の大反対に合い挫折。(開拓使官有物払い下げ事件)
<その後の生涯>
・明治15年、黒田は、内閣顧問に転じる。20年、農商務大臣となり、21年(1888)第2代内閣総理大臣となる。その後、逓信大臣、枢密院議長なる。明治33年(1900)8月没。59歳。
○4代開拓長官 西郷従道(つぐみち、ジュウドウが正式の読みとされる)・在任明治15.1.11~同.2.8 
・天保14年(1843)生まれ。薩摩藩士。兄は西郷隆盛。
・兄が征韓論で下野した際、政府に留まり、兄の死後は薩摩閥の重鎮となる。のち、再三首相候補に推されたが兄隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた。
・明治15年1月、黒田の辞任後、開拓使廃止までのわずか半月だが、農商務卿兼務のまま4代開拓長官となり、開拓使廃止と3県(函館、札幌、根室)設置が任務。
<その後の生涯>・伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣を歴任。明治31年(1898)、海軍軍人として初めて元帥の称号を受けた。明治35年(1902)
58歳で死去。

開拓判官たちの活躍と末路

◎日時:2007年2月13日(火曜)13時~
◎会場:札幌市中央区社会福祉総合センター
◎主催:札幌市社会教育協会
◎参加:無料。希望者は直接会場へ
◎私のテーマ 開拓判官たちの活躍と末路
・島義勇、松本十郎ら、明治初期の北海道開拓の指導者の活動・役割と、彼らの末路・・

黒田清隆と北辰旗

◎日時:2007.1.23(火曜)13:30~14:30
◎会場:札幌市北区民センター(札幌市北区琴似2条7丁目)
◎入場無料:直接会場へおいでください。
◎テーマ
「黒田清隆と北辰旗」-北辰旗制定の経過と開拓使附属船ー
◎主催:札幌市社会教育協会
◎共催:札幌市教育委員会

黒田清隆は、何度北海道に来たか

◎はじめに
開拓使は、札幌に本庁を置かれて以来、本来、開拓業務を統括する権限があったが、実際には、東京に、「開拓使出張所」がおかれ、長官は在京して指揮していた。そのため、道内の支庁など下部機関は、本庁を経由しないで東京出張所と直接交渉することが多く、勢い、本庁は軽視されることになった。
 特に、黒田清隆は、明治3年から明治15年まで開拓使次官、ついで長官として開拓使の中枢にいたが、彼は、「不在長官」と揶揄されるほどだった。
 そこで、黒田が、在任中、何度、来道したか、述べる。
なお、初代長官鍋島直正は、在任期間が1ケ月だったこともあるが、一度も来道していない。
1.【1回目・・箱館戦争の来道】
*府軍の反撃は、明治2年の干支から「己巳(きし)」戦争ともいう。
・明治2年1月-・・黒田、軍務官(のち兵部省)に出仕、2月、清水谷公考の参謀となる。
・3月9日・・黒田、東京出帆、4月9日、政府軍参謀として、乙部上陸。
・5月11日・・正面軍8000の指揮を山田顕義に委ね、黒田は手兵300を率いて函館山の背後に登り、山上から「菊章ノ旗ヲ翻シ・鬨ノ声ヲ作り四方ニ散ジテ殺出」(「北州新話」)。山を越え、榎本軍を総攻撃。
・12日、黒田、配下の池田貞賢を箱館病院に遣わし、医師・高松凌雲を介して、榎本に降伏勧告の書を送る
・17日・・いわゆる「亀田和議」(亀田の民家で、黒田と榎本が会談)。
翌18日、榎本、降伏、五稜郭を出る。
・21日、黒田、官軍の大森浜で陣没者の慰霊法要終了後、箱館から帰還。
2. 開拓次官時代の来道
【2回目の来道】
*・明治3年5月9日、黒田、兵部大丞から開拓次官になり、樺太専務を命じる。
*明治3年8月13日、樺太出張を命じられ、品川を出発、10月20日、帰京。帰途、変装して少主典水野義郎の従者となり、北海道西海岸を巡歴。
【3回目の来道】
・明治5年3月~6月、在札。この間、ケプロンの北海道巡回に同行
【4回目の来道】
・明治5年10月8日、来札。11日~13日、本支庁長会議、いわゆる「札幌会議」開く。(岩村通俊による黒田弾劾文朗読ありとも。)
*翌6年1月9日付で、本籍を鹿児島から札幌に移す。
【5回目の来道】
・明治6年6月24日、桧山、爾志両郡の漁民騒動の際、福山に至り漁民らに懇諭し、事態を収拾。

3.開拓長官時代の来道
*明治7年8月2日・・開拓長官に任ずる。
【6回目の来道】
・明治8年5月11日、樺太出張のため東京出帆(5月7日、千島樺太交換条約調印)
【7回目の来道】
*明治8年8月31日、千島諸島出張のため東京出発。玄武丸で千島巡回、カムチャッカのペトロパウロスクを訪問、10月12日帰京。
【8回目の来道】
・明治9年7月25日、千島巡回のため、玄武丸で、東京出発。実際は、松本十郎大判官の辞意を翻すためとも。(樺太アイヌの対雁移転に反対の十郎、避けて帰郷)。なお、このとき、玄武丸には、招聘したクラークら教師や学生も乗船している。
【9回目の来道】
(*明治11年3月28日清(せい)夫人死去、黒田による謀殺説も。5月14日指導者・大久保利通暗殺。この年、失意の黒田、本務・開拓使の専念とも)
・明治11年8月8日、北海道巡回、北海道産物輸出販売のため、ウラジオストックへ向け東京出発。10月1日、札幌帰着。
・11月29日、サハリン・コルサコフ出張のため、札幌を出発。この年、初めて札幌で越冬。
*両度の航海で、黒田はロシア式馬車・馬橇、氷上蹄鉄など積雪寒冷地で物資の導入を決めた。以後、冬期交通はもちろん、本道開拓に貢献。
・翌12年1月17日、開拓使本庁舎炎上。「長官御立合の上、遂に焼申」(「札幌区史」)。雪解けを待たず、帰京。
【10回目の来道】
・明治14年8月9日、天皇の北海道巡幸の先発として来道。9月11日、帰京。
*天皇巡幸・・8月30日、軍艦「芙蓉」で小樽入港、豊平館(前年13年12月3日落成)に到着。9月4日まで滞在。
・8月31日、黒田、札幌本庁で、天皇に申奉。
◎まとめ
・黒田清隆の来道
①箱館戦争時1回
①開拓使次官として、4年8ケ月の間4回
②開拓使長官として、7年5ケ月の間5回
都合、10回来道している。
・開拓使在任中の、黒田の中央での役職を記す。新政府の中枢にあった。
①陸軍中将・北海道屯田兵憲兵事務総理(明治7年6~8月)
②参議(明治7年8月2日~明治15年1月11日)
・なお、その後の役職は、明治20年9月農商務大臣、21年4月内閣総理大臣、」25年逓信大臣、28年枢密院議長。
・明治33年8月25日死去。

<参考文献>
「北海道史人名字彙」(河野常吉編著、北海道出版企画センター、1979)
「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター、1989)
「黒田清隆」(井黒弥太郎著 吉川弘文館、1977)

開拓使の機構の変遷~役所の名称とその所在地の変遷~レジュメ

開拓使の機構の変遷~役所の名称とその所在地の変遷~レジュメ
1. 松前藩の幕末・明治初期の歩みと最後
2. 箱館裁判所から箱館府へ
3. 中央での幕末・明治維新の動き
4. 開拓使の変遷(役所の名称とその所在地)
① 東京
・明治2.7.8・・太政官制改革。開拓使設置(江戸城西丸,民部省内→太政官内)
・明治3.2.13・・「北海道開拓使」(樺太開拓使の設置期間中の名称)
・明治4.閏10.10・・北海道開拓使東京出張所、蛎殻(かきがら)町(現東京都中央区日本橋蛎殻町付近)の北海道物産所に移転。のち、稲荷堀(とうかんぼり)(現東京都中央区日本橋小網町付近)に移転。
・明治4.8.8・・開拓使東京出張所(樺太開拓使を併合)となる。
・明治4.8.27・・芝の増上寺本坊に移転(のち、同寺の方丈跡へ移転)
・明治5.9.20・・芝の増上寺境内の威徳院に移転
② 札幌
・明治2.10.12銭函に開拓使仮役所設置(鰊漁家白浜園松宅,現銭函郵便局付近)
・明治3.4.-・・開拓使仮役所を小樽信香(のぶか)町の旧兵部省小樽役所跡に移転
・明治4.4.-・・開拓使仮庁舎竣工(東創成通=現北4東1、鉄道病院付近)
・明治4.5.-・・札幌開拓使庁設置(役所は仮役所を使用)
・明治5.9.14・・「開拓使札幌本庁」となる。(旧仮庁舎が最初の本庁舎)
・明治6.11.24・・開拓使、札幌本庁舎の落成を布達(落成は10月29日)
・明治12.1.17.午後7時50頃、開拓使本庁舎出火。
・   翌18日、仮事務所を札幌農学校演武場(上川通=北2西3=)に設置。
・   1.18・・仮庁舎を旧札幌女学校跡(それ以前は、「脇本陣」だった)へ移す。以来、この仮庁舎は、明治21年12月14日、北海道庁庁舎(赤レンガ)の落成まで、10年近く、開拓使庁舎、札幌県庁舎、北海道庁庁舎として使用された。
③ 箱館(函館)
・文久4(1864).6.15・・五稜郭竣工。箱館奉行所を箱館山山麓の「御殿坂」(現基(もとい)坂の函館市元町の元町公園付近)より移転
・慶応4.4.12・・箱館裁判所設置(箱館奉行所を接収)
・慶応4.閏4.24・・箱館府と改称。・12月15日、榎本軍の政庁になる。翌明治2.5.18榎本降伏、庁舎は箱館府に復帰、同年7月24日、箱館府廃止。
・明治2.9.30・・開拓使出張所開庁。
・明治4.-・・五稜郭の庁舎取り壊し。基坂のかっての箱館奉行所を改修して移転。以後、昭和25年まで、開拓使函館支庁、函館県県庁、北海道庁函館支庁、渡島支庁の庁舎となった。
5.開拓使札幌本庁、各出張所(支庁)と東京出張所の関係
・(付)黒田清隆は、何度来道したか。(別稿)

開拓使の機構の変遷

・日時:平成18年12月11日(月)13時
・会場:市民活動サポートセンター(札幌エルプラザ内2階 北7西3 電話728-5888)
・主催:サロン開拓の村塾
・私のレポートテーマ
開拓使の機構の変遷
~役所の名称とその所在地の変遷を中心に~

江戸物語~蝦夷三官寺とその本山~

◎日時:2006年12月19日(火曜)13時~
◎会場:札幌市西区区民センター
◎主催:札幌市社会教育協会
◎私のテーマ 江戸物語~蝦夷三官寺とその本山~
・三官寺とは
・なぜ三官寺が設置されたか
・三官寺の本山と幕府の関係

文化3年のロシア船樺太襲撃の背景・経過-ロシアの思惑を中心にー

◎「蝦夷紀聞」に「日本とおろしあ、近隣により信義を結び交易を希る為、長崎へ使者壱人差遣候」(北海道古文書サークルテキスト13ページ)とある。この「長崎へ使者壱人」はレザノフのこと。
彼の通商要求は、幕府に聞き入れられず、のちに、ロシア人によるカラフト、クナシリへの襲撃となるが、それに至る背景と経過をロシア側の思惑を中心に調べた。

◎襲撃までの経過
1. ラクスマンの来日
・寛政4年(1792)9月5日、ロシアの遣日使節ラクスマン、大黒屋幸太夫らを伴いネムロに入津、エテカリーナ二世の命により漂流民送還を名目にシベリア総督の修好要望の書簡を持参。
・寛政5年(1793)6月8日、ラクスマン一行、エテカリーナ号箱館に入港、6月20日陸路福山に到着。翌21日、目付石川忠房(ラクスマン来航一件処置のため松前表御用を命じられ、3月2日、福山に到着していた。)ラクスマンと会見。
6月27日、ラクスマン、石川忠房より長崎に至るべき信牌(しんぱい)(長崎来航の中国船にあらかじめ交付された貿易許可書。長崎通商照票。正徳5年=1715=のいわゆる「正徳新例」で確立。)の交付を受ける。
2.クルーゼンシュテインとレザノフの長崎来航
・文化元年(1804)9.6・・航海者クルーゼンシュテインは、ロシア最初の世界周航船「ナデジダ」号(「希望」の意)の艦長として、ロシアの遣日全権使節レザノフ(注1.アレクサンドル一世の名代として侍従長の肩書)に随行して長崎に来航(石巻の若宮丸の津漂流民津太夫ら四人を伴う)。先年ラクスマンが松前で受理した信牌をもとに通商を求める。
・文化2年(1805)3.7・・レザノフ、半年の囚人扱いをされた上、長崎奉行肥田豊後守頼常、目付遠山金四郎景晋(かげくに)(注1)の「諭書」をもって通商を拒絶され、退去を命じられた。
・同年3月18日・・ナデジダ号、レザノフを乗せて長崎を出帆。
・クルーゼンシュテイン、日本海経由でカムチャッカに向かう途中、サハリン島クシュンコタン(注3)に上陸して日本の漁場を視察、松前藩の役人と会見。その地の資源の豊富さに驚いている。著書「世界周航記」で、カラフト占領の有利さを提案。
3.サハリン襲撃
・1805(文化2)、7.18(ロシア暦)・・アリューシャン列島・ウナラスカ島で、サハリンと南千島襲撃許可をもとめる書簡をアレクサンドル一世に送り、サハリン占領を上申した。
・レザノフはカリフォルニアに赴きスペインと食料購入の交渉を行いオホーツクに帰任後、露米会社雇いの海軍士官フヴォストフとダヴイドフにサハリンと南千島の破壊を命じた。
・レザノフ、皇帝の許可が届かず、実行をためらい、あいまいな指令変更書をフヴォストフらに渡し、本国へ出発。途中シベリア・クライノヤルスクで事故死。
・フヴォストフら、指令変更の意味を計りかね、最初の襲撃指令を実行。
・文化3年(1806)9.11、フヴォストフら、フリゲート艦ユナイ号、クシュンコタンの東の集落オフイトマリ(日本名 雄吠泊)に到来、同地のアイヌ人ウラフシキクルの17歳の子を連行
・翌12日、30人ほどがクシュンコタンに上陸、運上屋を襲い、番人富五郎、酉蔵、源七、福松を捕らえ、連行。米、酒などを掠奪し、運上屋、倉庫、弁天社を焼き、アイヌの子どもだけを釈放して18日退去。
 退去に際し、ロシア軍艦旗、露米会社旗を掲揚し、サハリン占領の真鍮板を残す。またアイヌ長老にサハリンのロシア併合と住民のロシア編入を記した文書を渡している。

◎その後のこと
・翌文化4年のエトロフ襲撃、再度のサハリン襲撃、利尻襲撃は別稿としたい。
・また、その後のロシアのサハリン植民地計画の推移についても別稿としたい。
・なお、フヴォストフとダヴイドフのその後に関しては、帰国後、オホーツク港で逮捕され。海軍省の軍事法廷で有罪を宣告されている。さらに、スウェーデンとの戦争に派遣され戦功を立て叙勲を申請したが、アレクサンドル一世は、彼らの独善的なサハリン襲撃に対する処罰を免除することで叙勲に代えたといわれている。

(注1) レザノフ・・北太平洋におけるロシアの覇権を確立するために設立された露米会社の最高責任者でもあった。
当時の露米会社のもっとも切実な問題は、北太平洋およびアメリカ北西岸の植民地に対する食料・日用品・資材の供給であったが、彼は、それらの必需品を日本から輸入し、一方で露米会社の主要産物である毛皮市場の拡大を狙っていた。
(注2) 遠山金四郎景晋(かげくに)・・寛政11年、書院番頭松平信濃守忠明の差添えを命じられホロイズミまで検分した。その後、西丸小姓組徒頭を経て目付となった
(注3) クシュンコタン・・サハリン南部・アニワ湾にある港湾都市。江戸期の日本側の呼び名。当時、ロシア人は「ト
(注4) マリ・アニワ」と呼んだ。日露戦争後、日本領「大泊」となり、現在のロシア名は「コルサコフ」。サハリン州の首都。
<参考文献>
・「新北海道史」
・「休明光記」
・「日露関係とサハリン島」(秋月俊幸著 筑摩書房 1994)

カラフトを調査・探検した人々

◎はじめに
「蝦夷紀聞」(文化4年刊)に「カラフト嶋と申所ハ嶋か續(注)か、古来より誰も其境を見極候事なく」(「北海道古文書サークル」テキスト20ページ)とある。
そこで、松前藩、江戸幕府の役人などのカラフト調査・探検の歩みを中心に、間宮海峡確認までの江戸期の日露関係を年表風にまとめてみた。

(注)續(つづき)=ここでは、大陸と繋がっていること。陸続き。

◎文化4年(1807)以前
○寛永13(1635)・・2代松前藩主松前公広(きんひろ)、藩士村上掃部左衛門を「島めぐり」に派遣、村上、カラフト・ウッシャムに至る。
○寛永13(1636)・・松前公広、藩士甲道庄左衛門をカラフトに派遣、甲道、ウッシャムに越年、翌年、タライカ(多来加)至る。
○寛文9(1669)・・松前船、サハリン島に至り、エブリコ(薬用きのこ)を積む。
○正徳5(1715)・・医師寺島良安、「和漢三才図会」で、カラフトを大陸の一部として描く。
○寛延4(1751)・・2月、宗谷場所詰の松前藩士加藤嘉兵衛、松前商人浜屋与三右衛門の船・永福丸に乗り海鼠漁場調査と交易のためシラヌシ(白主)に出向く。宝暦7年(1757)まで続く。
○安永元年(1772)・・松前藩、城下の商人で宗谷場所請負人村山伝兵衛に命じて、交易と漁法の指導のため、二隻の船をサハリンに派遣。
○安永6(1777)・・4月、松前藩、藩士新井田隆助をカラフトに派遣、新井田、同島南部を検分、測量、アイヌの介抱を行う。
○天明5(1785)・・・7月、幕府の蝦夷地調査隊普請役庵原弥六、宗谷よりシラヌシに渡海、西はタラントマリ(多蘭泊)、東はシレトコに至る。
○同年・・9月、林子平、「三国通覧図説」で、大陸に接続の「カラフト島」を描き、さらに、「サカリン」を島に描く。
○天明6(1786)・・5月10日、幕府の蝦夷地調査隊の普請役下役大石逸平、カラフト見分のためノトロに着き同日シラヌシに至る。タラントマリで、アムール下流キジ湖畔から交易のため来島していた山丹人からサハリン奥地の様子を聴取。大石は、サハリン奥地について日本人として初めて情報を入手した。さらにナヨロに至り、現地人から地境・行程聞く。大石は、西はナツコ、東はタライカに至るまでの多数の地名と土地の特徴を記録した。さらにクシュンナイに至る。
○寛政2年(1790)・・5月、松前藩士松前平角、高橋清左衛門(實光、壮四郎)、鈴木熊蔵ら、シラヌシ到着、西地コタントル、東地シレトコまで調査、シラヌシ、ツンナイに番屋、トンナイ、クシュンコタンに荷物小屋を設置。以来、年々、勤番を派遣。
○同年・・6月、最上徳内、「蝦夷国風俗人情之沙汰」(のち、改定して「蝦夷草紙」)で、カラフトを「樺太」とし、1つの島に描く。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。
○同年・・松前藩士松前平角、青山園右衛門、高橋清左衛門(實光、壮四郎)、鈴木熊蔵らサハリンに派遣される。西はコタントル、東は中知床岬まで見分。ナヨロ、トンナイで山丹人、ロシア人から山丹のみならず、吉林、北京の状況も知った。
○寛政4年(1792)・・最上徳内、和田兵太夫、中村小市郎、小林源之助(西丸与力)ら、シラヌシに渡る。それより西はクシュンナイ、東はトウブツまで検分。山丹人、ロシア人から樺太北部、山丹、満州、ロシアの地理を尋問。
○寛政8年(1797)・・板垣豊四郎、カラフト場所の支配人となり、小山屋権兵衛をしてその経営に当たらせる、小山屋は豊四郎と紛争を生じて1年で手を引く。板垣のカラフト経営も数年で失敗。
○同年・・村上島之丞、「蝦夷見聞記」でカラフトを半島とし、ほかに「サカレン島」を描く。
○寛政12年(1800)・・松前藩、板垣豊四郎支配のカラフトを領主手捌とする。藩士高橋壯一郎・目谷安次郎を掛に任命、摂州兵庫津の商人柴屋長太夫が仕入れ方を担当。
○享和元年(1801)・・5月30日。幕府普請役中村小市郎・小目付役高橋次太夫、命を受け、小市郎は東海岸をナイブツまで、次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分、山丹交易事情などを復命。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは島と二通りを復命。
○同年・・近藤重蔵も「辺要分界図考」で、カラフトを半島、離島の二通りを記す。
○文化元年(1804)・・近藤重蔵、「今所考定分界之図」で、カラフトを離島にし、さらに「サカリン」を離島に描く。

◎文化3~4年・・ロシアのカラフト・クナシリ襲撃

◎文化4年(1807)以降
○文化4年(1807)・・4月16日、松前藩家老松前左膳・蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人余を率いて樺太出兵、5月12日樺太に渡る。
○同年・・南部藩兵、クシュンコタンを警備。
○文化5年(1808)・・4月1日、最上徳内、カラフト詰を命じられ、シヌヌシ到着。
○同年・・4月13日、松前奉行調役下役松田伝十郎、カラフト奥地、山丹見分の命を受け、間宮林蔵を召し連れシラヌシ到着。伝十郎はラッカ岬まで至って黒竜江を望見、樺太が島であることを知る。林蔵は東海岸をシレトコまで至るも奥地行は断念。
○同年・・7月13日、間宮林蔵は樺太東海岸調査不十分として宗谷滞在中の松前奉行河尻春之より再調査を命じられ、シラヌシ着。トンナイで越年。
○同年・・高橋景保、「北夷考証」で、松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。
○文化6年(1809)・・1月29日、林蔵、トンナイを出発、奥地へ向かう。5月12日に樺太北端に近いナニオーまで至り、そこより引き返す。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)
○同年・・6月26日、間宮林蔵、満州仮府のある黒竜江畔のデレンに向かうノテトの酋長の山丹船に同乗、7月11日、デレンに到着。
○同年・・6月、幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。

<参考文献>
「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊 1989)
「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・刊 1995))
「日露関係とサハリン島」(秋月俊幸著、筑摩書房刊、1994)

ふたりの等じゅ院初代住職候補

一. 寺社奉行の住職人選の達し
 等じゅ院文書「蝦夷地寺院御取建住職」(以下「住職記」)(注1)の書き出しは、享和三年(一八〇三)十一月八日付で、次の文章である。(書き下しは森)

「御掛リ脇坂淡路守殿より執当円覚院呼出ニ付、翌九日同家へ罷越候処、御達左之通
  蝦夷地へ寺院御取建仰出され候間、人撰いたし書出申さるべく候
右の趣、増上寺役僧因海へも仰渡され候事」

 寺社奉行脇坂安薫より、寛永寺執当と増上寺役僧が呼び出され、蝦夷地に建立される寺院の住職を人選し提出するよう達しがあったのである。人選期限も「当月末」、つまり、十一月中と申し渡された。
 いわゆる「蝦夷三官寺」の建立である。
まず、寛永寺について触れると、寛永寺は、江戸城の鬼門に当たる上野に、徳川家の祈祷寺として、寛永二年(一六二五)天海が開山した寺院で、寺号に年号使用を勅許された天台宗の関東総本山であり、徳川四代将軍家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十四代家茂と、六人の将軍が埋葬された菩提寺でもある。二代将軍秀忠など六人の将軍を埋葬する芝・増上寺と並び、幕府の庇護の下、江戸時代の宗教界に君臨した大寺である。さらに住職は、三世に一品法親王を招いて以来、日光山輪王寺山主、比叡山延暦寺座主の兼ねた「三山管領宮」といわれ、寛永寺は、門跡寺院であった。
上野の山全体が寛永寺の境内で、寺域三十六万坪、子院三十六、堂塔伽藍三十二を持つ豪華絢爛たる寺院で、「上野」といえば、寛永寺をさした。
 さて、元禄五年(一六九二)五月の「新寺建立禁止令」を幕府自身が破棄し、蝦夷地に新寺建立という政策転換に踏み切り、大寺に住職人選の達しが出された。

二. 寛永寺の困惑
 幕府の達しに対し、寛永寺の困惑の様子が「住職記」から伺える。
 寛永寺の僧侶養成機関である勧学校のトップである伴頭から執当円覚院へ
「住職相応の人躰、心当も御座候故、相勧見候得共、早速御請仕べく様にも無御座候」と、急いで人選することは容易ではないことを伝えている。
 寛永寺の執当円覚院は、人選期限の十一月晦日、次のような期限の延長願いを提出している。
「人撰の儀。未だ取調仕らず候に付き、今暫、御延引成下され候様、願い奉り候」
 後述するが、実際に、寛永寺から寺社奉行に住職候補者名簿が提出されたのは、四ケ月以上も後の文化元年三月十九日であった。

三. ふたりの住職候補
 翌年の享和四年二月になって、ふたりの僧の経歴書が寛永寺に提出されている。ふたりの経歴を概略する。

1. 秀暁・・上総国芝山村・観音寺住職。年齢四十一歳。戒臈(仏教修行の年数)三十一年、勧学校在勤二十二年、十老(勧学校の教授職)五年、観音寺住職十年。
2. 豪緝・・常陸国烟田村・西光院住職。年齢四十六歳。戒臈三十三年、在勤二十三年、十老五年、病身退役中四年、西光院住職五年。

寛永寺で、蝦夷地に派遣する住職がどのような過程で選考されたかは、「住職記」には書かれていないが、「住職記」から推測すると、勧学校の十老経験者が対象になったと思われる。選考に当たったのは、先の文書から勧学校の伴頭だろう。

四. 寺社奉行の決定
 寛永寺から寺社奉行へふたりの住職候補の略歴が提出されたのは、文化元年(一八〇四)三月十九日のことである。
 それには、豪緝の「病身退役中四年」の件は書かれていない。
 ふたりの経歴を比較すると、寛永寺での経歴はふたりともそんなに変わっておらず、遜色はない。むしろ、豪緝の方が戒臈年数も勤務年数も多い。
 寛永寺からのふたりの住職候補の名簿が提出されて半月後の四月六日、寺社奉行から呼び出しを受けた観音寺の秀暁へ蝦夷地住職が任命された。

「上総国武射郡芝山観音寺儀、此度、蝦夷地へ住職申付」

 ふたりのうち、秀暁が選ばれた選考経過は、「住職記」からは伺い知れない。
秀暁の方が五歳若いことがひとつの原因だったのだろうか。また、寺社奉行が、豪緝の「病身退役中四年」を漏れ聞いたか、あるいは、寛永寺側が伝えたのか、いずれにしても不明である。

五. おわりにーふたりのその後―
 秀暁・・その後、寺号決定、手当など待遇の決定、将軍お目見えなど、さまざまな動きがあり、秀暁が江戸を出立したのは、文化二年(一八〇五)四月二十一日。箱館到着が五月二十一日。蝦夷地寺院の管轄は箱館奉行だったから、いろいろ手続きがあり、秀暁は半月ほど箱館に滞在している。六月四日箱館出立、任地の様似到着は同月二十一日。等じゅ院が完成し、秀暁は、文化三年(一八〇六)十月七日から十三日まで本尊入殿勧請供養を執り行っている。
 秀暁は病を得て、文化四年(一八〇七)十月十一日、様似の地で寂した。時に四十四歳だった。
 一方、蝦夷地住職に選任されなかった豪緝は長生きしている。天保十年十月十日寂というから、八十一歳まで、永らえた。

(注1)「等じゅ院文書第二巻」(様似町教育委員会発行、等じゅ院文書編さん委員会編 1998)

明治期の北海道の指揮官たち

◎箱館裁判所総督
・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)・・(軍務官知事より)慶応4.4.12 任命後辞退(兵部卿へ)
・清水谷公考(きんなる)・・(箱館裁判所副総督より)慶応4.閏4.5~同年閏4.21
◎箱館府知事
・清水谷公考・・慶応4.閏4.21~明治2.7.23
<開拓使時代>
◎開拓使長官・次官
1代 鍋島直正(なおまさ) (蝦夷地開拓総督より)明治2.7.13~同.8.16(大納言へ)
 次官 清水谷公考 明治2.7.23~同.9.13(大坂開成所へ)
2代 東久世道禧(みちよし ミチトミとも) (神奈川府知事より)明治2.8.25~4.10.15(侍従長へ)
 次官 黒田清隆(長官職務代行) (兵部大丞 兼)明治3.5.9~7.8.2
3代 黒田清隆 明治7.8.2~15.1.11(内閣顧問へ)
4代 西郷従道(つぐみち) (農商務卿 兼)明治15.1.11~同.2.8(兼を解く)
◎開拓使判官(明治2.7.22~5.8.24の開拓使官員改正まで)
島義勇(よしたけ) (会計官判事兼蝦夷開拓御用掛より)明治2.7.22~3.4.2(大学少監へ)
岩村通俊 (箱館府権判事より)明治2.7.25~6.1.17(5年9月から大判官。免後、佐賀県権令へ)
松浦武四郎 (開拓使大主典より) 明治2.8.2~3年3月(辞任、東京に住す)
岡本監輔(かんすけ) (箱館府権判事より)明治2.7.25~3年閏10月(東京へ帰る。以後波乱の世を送る)
竹田信順(のぶより) (旧越後高田藩士)明治2年8月~3年正月
松本十郎 (旧庄内藩士)明治2.8.18~9.9.5(明治6.1.18より大判官。依頼免官。庄内で農耕に従事)
杉浦誠 (開拓使権判官より)明治5年2月~10年1月(辞任後、東京に住し吟詠を楽しむ)
<3県1局時代>
・函館県令 時任爲基(ときとう・ためもと) (開拓使大書記官より)明治15.2.8~19.1.26(北海道庁理事官へ)
・札幌県令 調所広丈(ずしょ・ひろたけ) (開拓使大書記官より)明治15.2.8~19.1.26(高知県知事へ)
・根室県令 湯地定基(ゆち・さだもと) (七重勧業試験場長より)明治15.2.8~19.1.26(北海道庁理事官へ)
・農商省北海道事業管理局長 (農商務省大書記官より)安田定則 明治16.1.31~19.1.26(元老院議官へ)
<北海道庁時代>
◎北海道庁長官(明治期に限る)
1代 岩村通俊 明治19.1.26~21.6.15
2代 永山武四郎 明治21.6.15~24.6.15
3代 渡辺千秋 明治24.6.15~25.7.19
4代 北垣国道 明治25.7.19~29.4.3
5代 原保太郎 明治29、4.7~30.9.4
6代 安場保和(やすば・やすかず) 明治30.9.4~31.7.16
7代 杉田定一 明治31.7.16~同.11.12
8代 園田安賢(やすたか) 明治31.1.12~39.12.20
9代 河島醇(じゅん) 明治39.12.20~44.4.28
10代 石原健三 明治44.5.16~大正元.12.28

「新北海道史」「同年表」「新札幌市史」を参考に作成。

斗南藩の北海道分領

◎兵部省は「会津降伏人」を北海道各地へ移住開拓させることとし、明治3~4年にかけ、入植した。

◎入植戸数・人数(「瀬棚町史」参照)
・瀬棚郡瀬棚村(現せたな町本町。明治4年5月、字名が「会津町」となった。)・・13戸43名
・山越郡山越内村(現八雲町字浜松町)・・7戸18名
・同郡長万部村(現長万部町)・・入植記録があるも詳細は不明
・歌棄郡作開村(現黒松内町字作開)・・28戸135名
・太櫓郡太櫓村(現せたな町北桧山町字太櫓)・・不明

◎瀬棚入植者の窮状
・転職、離農が相次ぎ、明治18年の「戸籍帳」に「農」と記されている者は2戸のみで、分解、没落の激しさを物語っている。

北海道の分領支配

◎明治2年7月22日~明治4年8月20日の北海道の分領支配について「新北海道史」より要約する。

1. 分領支配にいたる経過
・明治2年(1869)7月2日、開拓使設置。
・同年7月22日、太政官、蝦夷地開拓のため、諸藩・士族・庶民の志願により相応の地所割渡(わりわたし)すべき旨を布告。
その理由・・新政府にとって北地開拓は重要課題であり、そのために開拓使という直轄機関を設置したとしても、発足したばかりの新政府にとって、全面的に政府の手によって開拓を推進することは不可能
2. 支配の条件
・分領支配は、北海道開拓を統括する開拓使が存在しながら、他方で各藩・士族などに土地を分与し、支配を命じることは矛盾したあり方。いわば旧幕藩体制の縮小再生版という形態に見える。
新政府(開拓使)は、権力浸透のために腐心(①支配地の指定、変更などに、介入。②開発経費などは藩の負担。③司法権の政府掌握。など・・)
3.土地割渡しの実況と方針
・最初の出願は、明治2年(1869)8月7日、水戸藩知事徳川昭武。天塩国苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と、北見国利尻郡5郡の支配を命じられた。
以後、分領支配が展開する。
○同年8月、まず、開拓使と兵部省の直轄地を選定(主に北海道統括の拠点地域)
① 開拓使直轄地・・石狩国札幌郡・厚田郡・浜益郡の3郡、後志国寿都郡・歌棄郡・岩内郡・積丹郡・美国郡・古平郡・余市郡・忍路郡の8郡、渡島国亀田郡・茅部郡・上磯郡の3郡、日高国三石郡・幌泉郡の2郡、根室国根室郡・花咲郡・野付郡の3郡、北見国宗谷郡 以上20郡
② 兵部省管轄地・・石狩国石狩郡・後志国小樽郡・高島郡・瀬棚郡・太櫓郡の4郡、胆振国山越郡・釧路国白糠郡・阿寒郡・足寄郡の3郡 以上9郡
○開拓使直轄地の移管
① 明治3年1月:宗谷郡→金沢藩、②明治3年6月:根室3郡→東京府
○兵部省管轄地の移管(明治3年1月)
① 旧会津藩(=斗南藩)松平慶三郎容大(かたはる)へ・・歌棄郡・瀬棚郡・山越郡・太櫓郡の4郡
② 他は、開拓使へ移管
○分与に関係した藩など・・明治4年1省(兵部省)1府(東京府)24藩2華族8士族2寺院の計38領地の分類
① 分領を出願した藩(15藩)・・水戸・一関・佐賀・徳島・高知・大泉(庄内)・秋田(久保田)・弘前・斗南・米沢・鳥取・彦根・岡山・福山・仙台
② 分領を命じられた藩(9藩)・・金沢・鹿児島・静岡・名古屋・和歌山・熊本・広島・福岡・山口
③ 華族(2華族)・・田安、一橋
④ 士族(8士族)・・伊達邦成(藤五郎)、伊達邦直(英橘)、伊達広高(藤三郎)、石川邦光(源太)、片倉邦憲(小十郎)、亘理胤元(元太郎)、五島銑之丞、稲田邦植(くにたね)(九郎兵衛)
⑤ 寺院(2寺院)・・増上寺、仏光寺
*最後まで支配地維持は13藩2華族6士族2寺院に過ぎない。特に大藩の返上が多い。各地域で各種の矛盾が激化。
4.兵部省と開拓使の関係
・明治2年(1969)2月20日、太政官が会津降伏人の蝦夷地移転を軍務官(明治2年7月8日太政官制改正で兵部省となる)に命じる。そもそも、兵部省は会津降伏人処置のため北海道と関係をもつことになった。
・兵部省は、1万2000人を北海道に移住させる計画。それにより、兵部省は北海道を分割支配した。
・札幌本府建設の指揮官・島義勇(よしたけ)は、兵部省管轄の石狩・小樽・高島3郡の開拓使への移管を具申、一方、兵部省も職掌からして本務外として「支配被免」願いを提出。
・明治3年(1870)3月5日、兵部省支配地は、旧会津藩(=斗南藩)松平慶三郎容大(かたはる))へ歌棄郡・瀬棚郡・山越郡・太櫓郡の4郡、他は、開拓使へ移管された。

<参考資料>
・「新北海道史第3巻」(北海道編集発行、1971)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)

明治期の北海道の開拓(4)

○クラーク博士の教育、札幌農学校の役割、西洋文化・技術の導入
・開拓を西洋技術の導入に、外人技術者の招聘、留学生の派遣(注目されるのは、津田梅ら女子留学生の派遣)
・明治9年(1876)9月、官立札幌農学校が開校。その基礎づくりにアメリカ・マサチューセッツ農科大学長のクラーク博士を招く。生徒に近代社会のしくみについて目を開かせた。翌10年(1887)4月帰途、島松駅頭で残した「ボーイズ ビイ アンビシャス」は、札幌農学校の校風となったといわれる。札幌農学校の校舎は現在の北2条西2丁目あたりにあり、時計台は札幌農学校の演武場だった。
・初期の卒業生から、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など国際的人物が育った。

1. 開拓使の廃止と三県時代
・開拓使官有物払い下げ事件・・十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。
・その内容・・官舎・工場・牧場・船舶・倉庫その他の利権を38万円と評価した。会計検査院の小野梓(あずさ)は200万円と評価。1000万円とする意見もあった。それを無利息30年賦償還というもの。
これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商五代友厚だと考えて攻撃した。結局、開拓使官有物払い下げは取り消された。これが、明治時代最大級の疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。開拓使は翌明治15年 (1882年)に廃止され、北海道は函館県・札幌県・根室県に分けられた。
・三県一局時代の機構と政治
・黒田清隆が開拓長官を去って内閣顧問に転出後、明治15年(1882)1月、西郷従道(つぐみち)(西郷隆盛の弟)、開拓長官になる。開拓使の残務整理が主な任務。
・同年2月8日、開拓使は廃止となる。
・北海道は、函館県(県令・時任為基(ときとうためもと))、札幌県(同・調所広丈(ずしょひろたけ)、根室県(同・湯地定基(ゆ ち さだもと)・・妹は乃木希典(まれすけ)夫人静子で明治天皇大葬のとき殉死)に分割された。
・ほとんどの官営事業は、農商務省に設置された北海道事業管理局が管理した。北海道庁設置の明治19年(1886)1月まで3県1局時代と呼ばれている。
・士族の移住・・政府は困窮する士族救済のため、移住規則を制定した。
明治17年(1884)~19年(1886)にわたって、岩見沢(山口・鳥取の士族277戸1503人)、木古内(山形県士族105戸611人)釧路(鳥取県士族106戸520人)が移住。
・屯田兵募集の再開・・明治17年(1884)再開、2300戸あまりが、江別、滝川、輪西、厚岸、根室などに入植した。
・集治監の建設
・明治10年代、重罪人を隔離する集治監(しゅうちかん)建設された。(伊藤博文は、囚人に開墾をやらせる広い土地として北海道は最適であると意見)
・明治15年(1881)樺戸集治監開庁(初代典獄(てんごく)は月形潔。のちこの地は月形村になる。)・・農業開拓が重点、
・翌15年(1882)空知市来知(いちきしち)(現三笠市)・・幌内炭山の採炭が主。
・18年(1885)釧路集治監(標茶)に建設・・阿寒・硫黄山の使役が主。
・収容者・・稲妻小僧、五寸釘寅吉などの犯罪人ばかりでなく、明治10年代後半の加波山(かばさん)事件、群馬事件など自由民権運動の国事犯も収監された。
・団体の入植・・赤心社・・本社を神戸において発足したプロテスタント団体。明治14年(1881)春、浦河に入植。
・晩成社・・伊豆の豪族・依田一族が設立した会社。明治16年(1883)5月、13戸の移民団、帯広に入った。

2. 北海道庁の発足と政治
・3県時代の北海道開拓は低調で、伊藤博文は書記官・金子堅太郎を北海道に派遣。金子は、3県の弊害を復命した。
・明治19年(1886)1月、3県を廃止し、北海道庁を置く。初代長官岩村通俊(みちとし)。
・庁舎は明治12年(1879)焼失以後、旧女学校跡(南1条西4丁目)を使用していたが、明治21年(1888)「赤レンガ」で知られる新庁舎が完成した。
・北海道庁は、1947年(昭和22年)まで内務省直轄の北海道地方を管轄する地方行政官庁として存在した。
・官営工場の民間払い下げ・・開拓使以来の官営工場の民間払い下げ。産業の発展とともに、人口も急増した。札幌の人口は、明治18年(1885)の10668人から、5年後の明治23年には24327人と2.3倍になった。
・北海道炭鉱鉄道と鉄路の発展
・明治22年(1889)幌内炭鉱と鉄道が民間に払い下げとなった。前北海道庁理事官・堀基の北海道炭鉱鉄道会社(北炭)に払い下げとなった。
・北炭は、鉄路を伸ばし、明治25年(1892)には、砂川から空知太まで、さらに、室蘭線、夕張線が完成させた。
・移民の増加・・明治25年(1892)以降急激な移民の増加が見られる。
20年代は主として空知地方へ、30年代になって十勝、北見へ進んだ。
・農業開拓と産業構造の変化
・従来、北海道の主産業はニシン漁に象徴される漁業であった。明治30年代になって農業に追い抜かれた。
・日露戦争後の明治末期には、大資本による大工業の成立。(日本製鋼輪西製鉄所、王子製紙の苫小牧進出、帝国製麻の営業など)
・交通の整備と囚人道路・土工労働(タコ)
・上川道路、北見道路の開削に樺戸、空知、釧路の集治監の囚徒が動員された。北海道開拓の基礎づくりは、囚人労働の犠牲のうえに始めて可能であったともいえる。
・さらに奴隷的労働・タコ部屋が道路工事・鉄道・港湾工事に常用された。
「タコ」の語源
①「他雇」(たこ)・・他人に雇用されるから
②「蛸」・・海中の蛸のように、前借金を追った土工はみずからの肉体と労働力を切り売りするから
③「たこ」・・蛸のようが岩に吸いついて離れないように、土工夫も必死で働くから
④「凧」・・土工夫は、糸の切れた凧のように逃走するため
などの諸説(弓削小平著「北辺の労働と出稼関係」=「司法研究」28号所収)

・官設鉄道の進展・・明治31年(1898)旭川まで。函館~小樽間も明治38年(1905)に全通。さらに明治40年(1907)には、釧路まで開通。
・日清、日露戦争、7師団
・明治23年(1890)の「屯田兵条例」の改正で応募資格が士族中心から平民に拡大された。
・日清戦争で、明治28年(1895)3月、屯田兵に動員令が下った。実際は、戦役には参加せず、東京で待機したまま復員・解散した。
・明治29年(1896)5月、第7師団が設置された。師団長は陸軍中将永山武四郎。同年12月には屯田兵司令部が第7師団司令部と改称され、屯田兵の事務は第7師団が扱うことになった。
・兵力のすべてを道内出身者でまかないきれず、兵士の内地依存が続いた。
・師団編成が一応完結したのは、日露戦争直前の明治35年(1902)12月であった。なお、当初第7師団は札幌に置かれていたが、明治35年(1902)10月師団司令部が旭川に移転し、以後旭川は軍都として発展する。札幌・月寒には歩兵第25連隊が駐屯した。
・明治37年(1904)、第7師団は日露戦争では、動員令が下り、旅順攻防戦に参加、特に11月30日の203高地攻略の中心部隊となった。この戦役で戦死者3142人、戦傷者8222人、合計1万1364人にのぼった。
5.明治時代の北海道の文化
・出版、新聞の発達・・「函館新聞」(函館)、「北海新聞」(札幌)、「北門新聞」(小樽)の創刊、明治34年(1891)「北海タイムス」(3社合同)創刊
・文学
① 有島武郎・・札幌農学校に学び、遠友夜学校教師の経験、新渡戸らとの交流)北海道の文芸に大きな影響を与えた。
② 石川啄木・・明治40~41年、函館、小樽、釧路で新聞記者。この期間北海道の風土と人をよんだ多くの短歌を残した。

<まとめ>
明治期の北海道は、本州の近代化の進展の延長上に加え、いわば、「内国植民地」として、特有の開発が進められた。恵まれた資源の宝庫、農林水産・地下資源など一次産業の輝かしい生産の歴史でもあった。しかし、その影に、タコ部屋、
囚人、小作争議に象徴される民衆の犠牲もあった。その歴史も語り継がれることも大事なことと思う。

<参考>明治期の北海道の行政機関の名称とその期間、総督・長官・知事
○箱館裁判所・・慶応4年(1868)4月12日~同閏4月24日)
①総督・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王・・慶応4年(1868)4月12日~同閏4月5日。なお、仁和寺宮は総督就任を辞退している。
②総督・清水谷公考(きんなる)・・慶応4年(1868)閏4月5日~同24日
○箱館府・・慶応4年(1868)閏4月24日~明治2年(1869)7月24日 
①・知事清水谷公考・・慶応4年(1868)閏4月24日~明治2年(1869)7月24日
○開拓使・・明治2年(1869)7月8日~明治15年2月8日。(樺太開拓使が置かれた明治3年=1870=2月13日から明治4年=1871=8月7日までは「北海道開拓使」と称した)
① 長官・鍋島直正・・明治2年(1869)7月13日~同年8月16日
② 長官・東久世通禧(みちよし)・・明治2年(1869)8月25日~明治4年(1871)10月15日
③ 次官・黒田清隆(長官職務代行)・・明治2年(1869)10月15日~明治7年(1874)8月2日
④ 長官・黒田清隆・・明治7年(1874)8月2日~明治15年(1882)1月11日
⑤ 長官・西郷従道(つぐみち)・・明治15年(1882)1月11日~同年2月8日
○3県時代・・明治15年(1882)2月8日~明治19年(1886)1月26日
① 函館県(県令・時任為基(ときとうためもと))
② 札幌県(同・調所広丈(ずしょひろたけ))
③ 根室県(同・湯地定基(ゆ ち さだもと))

【参考文献】
・「北海道の歴史」(榎本守恵著、北海道新聞社、1981)
・「県史1 北海道の歴史」(田畑宏・桑原真人・船津功・関口明著、山川出版社、2000)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター、1989)
・「新北海道史」(北海道編発行)
・「新札幌市史」(札幌市発行)

明治期の北海道の開拓(3)

○千島樺太交換条約の締結と北方問題
・日露国境問題は、未解決のまま開拓使にもちこまれた。(これまで、安政元年=1854=の日露和親条約では、千島はエトロフ水道をもって境とし、樺太は従来通り雑居地となる)
現地ではロシア人の進出が進み、現地の日本人との間にトラブルが耐えなかった。樺太駐在の岡本監輔(かんすけ)は強硬論だったが、失望して樺太を去る。
・明治7年(1874)1月、榎本武揚は、ロシア駐在特命全権公使に任命され、ペテルグルクに赴き国土交換の交渉にあたる。榎本、交渉の際、240年も前(寛永12=1635=)の松前藩士・村上掃部(かもん)左衛門の千島巡行、いわゆる「島めぐり」を持ち出し、ウルップ島以北の全千島の領有を主張した。
明治8年(1875)5月、千島樺太交換条約調印、樺太全島をロシアに渡すかわりに、ウルップ島以北、占守島に至る千島諸島全18島を日本領にする。
・なお、日本帰属を希望する樺太アイヌは、宗谷定住を望んだが黒田長官(前年の明治7年、長官となった)アイヌの希望を許さず、樺太アイヌ841人を対雁(ついしかり)(現江別市)へ強制連行した。黒田の方針に反対した松本十郎大判官(アイヌの衣装アツシを着用していたので「は辞任した。
(対雁に移住した樺太アイヌのその後の興味ある話があるが省略する)一方、千島アイヌも色丹島に移住させられるなど、悲劇の運命を辿った。
○技術と産業の発展、炭山の開発、鉄道開通
・明治4年(1871)7月、ケプロン来日。年俸1万ドル、太政大臣より高級であった。ケプロンの権限で開拓使時代に雇い入れた外人は総計78人にのぼった。
・西洋技術の導入・・道路開削、官園の開設(りんごなど)、缶詰製法の導入、石炭の開発などの政策構想を打ち出した。
・開拓使は、味噌・醤油の官営醸造所、缶詰、ビール、ぶどう酒、製粉、製紙、養蚕、亜麻などの官営工場を作った。
・欧米農法・・明治4年(1871)、ケプロンの建議で札幌官園の設置。翌5年、新冠牧場の開設。開拓使は果樹栽培を奨励、特に、「平岸リンゴ」の名は、全国的に有名になったばかりでなく、明治中期から後期にかけてはウラジオストックに輸出された。明治20~30年代は、札幌周辺に23万本が植えられ、全国収穫量の80%を占めた。この頃の札幌の初夏は林檎の花咲く里であった。
・炭山・・幕末に開坑した茅沼炭鉱を官営。また、榎本、ライマンが調査した幌内(現三笠市)炭鉱の開発を進め、明治12年(1879)12月開坑。空知大炭田の端緒となった。
・鉄道・・幌内炭を運搬する方法・・①石狩川案(榎本)②室蘭鉄道案(ケプロン、ライマン)③手宮鉄道案(クロフォード)・・クロフォード案に決まる。
・クロフォードは張碓の難所を開削、明治13年(1880)11月、手宮~札幌間が開通、「義経号」「弁慶号」が走った。日本で3番目の鉄道(1番=明治5年=1872=新橋~横浜間、2番目=明治7年=1874=大坂~神戸間。なお、明治2年=1869=茅沼炭鉱から海岸まで3キロ、石炭運搬の軌道が運行した。泊村では『日本最初の鉄道』とPRしている。)
・明治15年(1882)には幌内まで手宮から90キロが全通した。この開通によって小樽は札幌の玄関として、さらには、本道内陸開発の基点として発展する基礎になった。
・本願寺道路・・東本願寺は、新政府への忠誠と北海道の強健の維持のため、北海道開拓事業への援助を決めた。明治3年(1870)9月、有珠~定山渓~札幌間26里(約100キロ)の道路開削に着手。これがいわゆる「本願寺道路」。翌4年7月、竣工(工費1万8000両)。まもなく札幌本道の開通でほとんど利用されずに廃道になった。
・札幌本道・・ケプロンの建議で築造。明治5年(1772)3月、亀田を基点に森まで、更に噴火湾を渡って室蘭に上陸、千歳を経て札幌豊平橋に至る45里(180キロ)を「札幌本道」と定めて着手。人夫5389人、官吏200人余配置。翌6年(1773)6月には全工程を終えた。
・明治7年(1774)には、札幌~小樽間の人馬の往来ができるようになった。
○移民団の開墾、屯田兵の創設、
・農民の移民・・明治10年代後半の不況で多くの農民が土地を失って没落、北海道への移民が増加した。
・農民の移民の推移
① 慶応4年(1868)、岡本監輔は箱館で200人の移民を募集し、クシュンコタンに引率
② 明治2年(1869)開拓使は、発足にあたって東京で募集した数百人を根室などに移住させた。多くは浮浪人のたぐいで、失敗に終わる。
③ 明治3年(1870)~4年(1871)・・東北からの移民を札幌周辺などに入植させた。
・士族の移民・・明治4年(1871)の廃藩置県や戊辰戦争で削封された東北諸藩の士族の失職。初期北海道移民の源泉となった。例えば
① 仙台亘理領主・伊達邦成(くにしげ)・・有珠
② 同・岩出山領主・伊達邦直は当別
③ 同・角田領主・石川邦光主従・・角田村(現栗山町)
④ 登別には、白石領主・片倉邦憲(くにのり)主従、その別派は、開拓使貫属となり札幌周辺の白石、発寒に入植。伊達邦直主従は当別へ入る。
⑤ 会津士族団・・余市へ。余市りんごの祖。
⑥ 淡路洲本の城主・稲田邦植(くにたね)は、静内に入植。
⑦ 大藩も困窮の旧藩士救済のため移住させた。八雲に尾張徳川家、岩内郡前田村(現共和町)に加賀前田家、余市郡大江村(現仁木町)に長州毛利家、当別高岡に肥前(ひぜん)鍋島家など
・会社を組織して入植
① 開進社(和歌山県士族)明治12年(1879)創立、函館・湯の川ほかに入植、成績があがらず、明治15年(1882)解散
② 赤心社
・屯田兵の創出
・明治6年(1873)黒田開拓次官は屯田兵創設を建白、「当使創置以来専ら力を開拓に用い、未だ兵衛の事に及ばす、人民の移住するもの増加す。これを鎮撫保護する者なかるべからず」。北海道に常備鎮台は置かれていなかったこともその理由にある。
・明治7年(1874)、6月、黒田は陸軍中将・北海道屯田憲兵事務総理を兼ね、参議にもなり開拓長官に昇進した。
・同年10月、屯田兵例則制定。徴兵令(明治6年=1873=)施行後も、北海道には長い間施行されなかった。北海道に徴兵令が施行されたのは、明治29年(1896)に渡島、後志、胆振、石狩に施行、明治31年(1898)に全道に施行。そのため、徴兵逃れに本籍を北海道に移したものもあった。(夏目漱石も兵役逃れのため、明治25年=1892=、岩内に本籍を移したといわれた。最近は、夏目家の財産相続問題での転籍説が有力)
・明治8年(1885)宮城、青森、酒田などの士族198戸、965人が琴似に入植。翌9年(1886)、琴似、発寒、山鼻に入植。
 練兵は主に農閑期に行われ、開墾と農業に従事した。農業は、養蚕と製麻が主だった。
 明治10年(1887)の西南戦争には、琴似、山鼻の屯田兵が動員された。死者54人を出した。
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