森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

カラフトを調査・探検した人々

◎はじめに
「蝦夷紀聞」(文化4年刊)に「カラフト嶋と申所ハ嶋か續(注)か、古来より誰も其境を見極候事なく」(「北海道古文書サークル」テキスト20ページ)とある。
そこで、松前藩、江戸幕府の役人などのカラフト調査・探検の歩みを中心に、間宮海峡確認までの江戸期の日露関係を年表風にまとめてみた。

(注)續(つづき)=ここでは、大陸と繋がっていること。陸続き。

◎文化4年(1807)以前
○寛永13(1635)・・2代松前藩主松前公広(きんひろ)、藩士村上掃部左衛門を「島めぐり」に派遣、村上、カラフト・ウッシャムに至る。
○寛永13(1636)・・松前公広、藩士甲道庄左衛門をカラフトに派遣、甲道、ウッシャムに越年、翌年、タライカ(多来加)至る。
○寛文9(1669)・・松前船、サハリン島に至り、エブリコ(薬用きのこ)を積む。
○正徳5(1715)・・医師寺島良安、「和漢三才図会」で、カラフトを大陸の一部として描く。
○寛延4(1751)・・2月、宗谷場所詰の松前藩士加藤嘉兵衛、松前商人浜屋与三右衛門の船・永福丸に乗り海鼠漁場調査と交易のためシラヌシ(白主)に出向く。宝暦7年(1757)まで続く。
○安永元年(1772)・・松前藩、城下の商人で宗谷場所請負人村山伝兵衛に命じて、交易と漁法の指導のため、二隻の船をサハリンに派遣。
○安永6(1777)・・4月、松前藩、藩士新井田隆助をカラフトに派遣、新井田、同島南部を検分、測量、アイヌの介抱を行う。
○天明5(1785)・・・7月、幕府の蝦夷地調査隊普請役庵原弥六、宗谷よりシラヌシに渡海、西はタラントマリ(多蘭泊)、東はシレトコに至る。
○同年・・9月、林子平、「三国通覧図説」で、大陸に接続の「カラフト島」を描き、さらに、「サカリン」を島に描く。
○天明6(1786)・・5月10日、幕府の蝦夷地調査隊の普請役下役大石逸平、カラフト見分のためノトロに着き同日シラヌシに至る。タラントマリで、アムール下流キジ湖畔から交易のため来島していた山丹人からサハリン奥地の様子を聴取。大石は、サハリン奥地について日本人として初めて情報を入手した。さらにナヨロに至り、現地人から地境・行程聞く。大石は、西はナツコ、東はタライカに至るまでの多数の地名と土地の特徴を記録した。さらにクシュンナイに至る。
○寛政2年(1790)・・5月、松前藩士松前平角、高橋清左衛門(實光、壮四郎)、鈴木熊蔵ら、シラヌシ到着、西地コタントル、東地シレトコまで調査、シラヌシ、ツンナイに番屋、トンナイ、クシュンコタンに荷物小屋を設置。以来、年々、勤番を派遣。
○同年・・6月、最上徳内、「蝦夷国風俗人情之沙汰」(のち、改定して「蝦夷草紙」)で、カラフトを「樺太」とし、1つの島に描く。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。
○同年・・松前藩士松前平角、青山園右衛門、高橋清左衛門(實光、壮四郎)、鈴木熊蔵らサハリンに派遣される。西はコタントル、東は中知床岬まで見分。ナヨロ、トンナイで山丹人、ロシア人から山丹のみならず、吉林、北京の状況も知った。
○寛政4年(1792)・・最上徳内、和田兵太夫、中村小市郎、小林源之助(西丸与力)ら、シラヌシに渡る。それより西はクシュンナイ、東はトウブツまで検分。山丹人、ロシア人から樺太北部、山丹、満州、ロシアの地理を尋問。
○寛政8年(1797)・・板垣豊四郎、カラフト場所の支配人となり、小山屋権兵衛をしてその経営に当たらせる、小山屋は豊四郎と紛争を生じて1年で手を引く。板垣のカラフト経営も数年で失敗。
○同年・・村上島之丞、「蝦夷見聞記」でカラフトを半島とし、ほかに「サカレン島」を描く。
○寛政12年(1800)・・松前藩、板垣豊四郎支配のカラフトを領主手捌とする。藩士高橋壯一郎・目谷安次郎を掛に任命、摂州兵庫津の商人柴屋長太夫が仕入れ方を担当。
○享和元年(1801)・・5月30日。幕府普請役中村小市郎・小目付役高橋次太夫、命を受け、小市郎は東海岸をナイブツまで、次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分、山丹交易事情などを復命。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは島と二通りを復命。
○同年・・近藤重蔵も「辺要分界図考」で、カラフトを半島、離島の二通りを記す。
○文化元年(1804)・・近藤重蔵、「今所考定分界之図」で、カラフトを離島にし、さらに「サカリン」を離島に描く。

◎文化3~4年・・ロシアのカラフト・クナシリ襲撃

◎文化4年(1807)以降
○文化4年(1807)・・4月16日、松前藩家老松前左膳・蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人余を率いて樺太出兵、5月12日樺太に渡る。
○同年・・南部藩兵、クシュンコタンを警備。
○文化5年(1808)・・4月1日、最上徳内、カラフト詰を命じられ、シヌヌシ到着。
○同年・・4月13日、松前奉行調役下役松田伝十郎、カラフト奥地、山丹見分の命を受け、間宮林蔵を召し連れシラヌシ到着。伝十郎はラッカ岬まで至って黒竜江を望見、樺太が島であることを知る。林蔵は東海岸をシレトコまで至るも奥地行は断念。
○同年・・7月13日、間宮林蔵は樺太東海岸調査不十分として宗谷滞在中の松前奉行河尻春之より再調査を命じられ、シラヌシ着。トンナイで越年。
○同年・・高橋景保、「北夷考証」で、松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。
○文化6年(1809)・・1月29日、林蔵、トンナイを出発、奥地へ向かう。5月12日に樺太北端に近いナニオーまで至り、そこより引き返す。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)
○同年・・6月26日、間宮林蔵、満州仮府のある黒竜江畔のデレンに向かうノテトの酋長の山丹船に同乗、7月11日、デレンに到着。
○同年・・6月、幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。

<参考文献>
「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊 1989)
「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・刊 1995))
「日露関係とサハリン島」(秋月俊幸著、筑摩書房刊、1994)

ふたりの等じゅ院初代住職候補

一. 寺社奉行の住職人選の達し
 等じゅ院文書「蝦夷地寺院御取建住職」(以下「住職記」)(注1)の書き出しは、享和三年(一八〇三)十一月八日付で、次の文章である。(書き下しは森)

「御掛リ脇坂淡路守殿より執当円覚院呼出ニ付、翌九日同家へ罷越候処、御達左之通
  蝦夷地へ寺院御取建仰出され候間、人撰いたし書出申さるべく候
右の趣、増上寺役僧因海へも仰渡され候事」

 寺社奉行脇坂安薫より、寛永寺執当と増上寺役僧が呼び出され、蝦夷地に建立される寺院の住職を人選し提出するよう達しがあったのである。人選期限も「当月末」、つまり、十一月中と申し渡された。
 いわゆる「蝦夷三官寺」の建立である。
まず、寛永寺について触れると、寛永寺は、江戸城の鬼門に当たる上野に、徳川家の祈祷寺として、寛永二年(一六二五)天海が開山した寺院で、寺号に年号使用を勅許された天台宗の関東総本山であり、徳川四代将軍家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十四代家茂と、六人の将軍が埋葬された菩提寺でもある。二代将軍秀忠など六人の将軍を埋葬する芝・増上寺と並び、幕府の庇護の下、江戸時代の宗教界に君臨した大寺である。さらに住職は、三世に一品法親王を招いて以来、日光山輪王寺山主、比叡山延暦寺座主の兼ねた「三山管領宮」といわれ、寛永寺は、門跡寺院であった。
上野の山全体が寛永寺の境内で、寺域三十六万坪、子院三十六、堂塔伽藍三十二を持つ豪華絢爛たる寺院で、「上野」といえば、寛永寺をさした。
 さて、元禄五年(一六九二)五月の「新寺建立禁止令」を幕府自身が破棄し、蝦夷地に新寺建立という政策転換に踏み切り、大寺に住職人選の達しが出された。

二. 寛永寺の困惑
 幕府の達しに対し、寛永寺の困惑の様子が「住職記」から伺える。
 寛永寺の僧侶養成機関である勧学校のトップである伴頭から執当円覚院へ
「住職相応の人躰、心当も御座候故、相勧見候得共、早速御請仕べく様にも無御座候」と、急いで人選することは容易ではないことを伝えている。
 寛永寺の執当円覚院は、人選期限の十一月晦日、次のような期限の延長願いを提出している。
「人撰の儀。未だ取調仕らず候に付き、今暫、御延引成下され候様、願い奉り候」
 後述するが、実際に、寛永寺から寺社奉行に住職候補者名簿が提出されたのは、四ケ月以上も後の文化元年三月十九日であった。

三. ふたりの住職候補
 翌年の享和四年二月になって、ふたりの僧の経歴書が寛永寺に提出されている。ふたりの経歴を概略する。

1. 秀暁・・上総国芝山村・観音寺住職。年齢四十一歳。戒臈(仏教修行の年数)三十一年、勧学校在勤二十二年、十老(勧学校の教授職)五年、観音寺住職十年。
2. 豪緝・・常陸国烟田村・西光院住職。年齢四十六歳。戒臈三十三年、在勤二十三年、十老五年、病身退役中四年、西光院住職五年。

寛永寺で、蝦夷地に派遣する住職がどのような過程で選考されたかは、「住職記」には書かれていないが、「住職記」から推測すると、勧学校の十老経験者が対象になったと思われる。選考に当たったのは、先の文書から勧学校の伴頭だろう。

四. 寺社奉行の決定
 寛永寺から寺社奉行へふたりの住職候補の略歴が提出されたのは、文化元年(一八〇四)三月十九日のことである。
 それには、豪緝の「病身退役中四年」の件は書かれていない。
 ふたりの経歴を比較すると、寛永寺での経歴はふたりともそんなに変わっておらず、遜色はない。むしろ、豪緝の方が戒臈年数も勤務年数も多い。
 寛永寺からのふたりの住職候補の名簿が提出されて半月後の四月六日、寺社奉行から呼び出しを受けた観音寺の秀暁へ蝦夷地住職が任命された。

「上総国武射郡芝山観音寺儀、此度、蝦夷地へ住職申付」

 ふたりのうち、秀暁が選ばれた選考経過は、「住職記」からは伺い知れない。
秀暁の方が五歳若いことがひとつの原因だったのだろうか。また、寺社奉行が、豪緝の「病身退役中四年」を漏れ聞いたか、あるいは、寛永寺側が伝えたのか、いずれにしても不明である。

五. おわりにーふたりのその後―
 秀暁・・その後、寺号決定、手当など待遇の決定、将軍お目見えなど、さまざまな動きがあり、秀暁が江戸を出立したのは、文化二年(一八〇五)四月二十一日。箱館到着が五月二十一日。蝦夷地寺院の管轄は箱館奉行だったから、いろいろ手続きがあり、秀暁は半月ほど箱館に滞在している。六月四日箱館出立、任地の様似到着は同月二十一日。等じゅ院が完成し、秀暁は、文化三年(一八〇六)十月七日から十三日まで本尊入殿勧請供養を執り行っている。
 秀暁は病を得て、文化四年(一八〇七)十月十一日、様似の地で寂した。時に四十四歳だった。
 一方、蝦夷地住職に選任されなかった豪緝は長生きしている。天保十年十月十日寂というから、八十一歳まで、永らえた。

(注1)「等じゅ院文書第二巻」(様似町教育委員会発行、等じゅ院文書編さん委員会編 1998)

明治期の北海道の指揮官たち

◎箱館裁判所総督
・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)・・(軍務官知事より)慶応4.4.12 任命後辞退(兵部卿へ)
・清水谷公考(きんなる)・・(箱館裁判所副総督より)慶応4.閏4.5~同年閏4.21
◎箱館府知事
・清水谷公考・・慶応4.閏4.21~明治2.7.23
<開拓使時代>
◎開拓使長官・次官
1代 鍋島直正(なおまさ) (蝦夷地開拓総督より)明治2.7.13~同.8.16(大納言へ)
 次官 清水谷公考 明治2.7.23~同.9.13(大坂開成所へ)
2代 東久世道禧(みちよし ミチトミとも) (神奈川府知事より)明治2.8.25~4.10.15(侍従長へ)
 次官 黒田清隆(長官職務代行) (兵部大丞 兼)明治3.5.9~7.8.2
3代 黒田清隆 明治7.8.2~15.1.11(内閣顧問へ)
4代 西郷従道(つぐみち) (農商務卿 兼)明治15.1.11~同.2.8(兼を解く)
◎開拓使判官(明治2.7.22~5.8.24の開拓使官員改正まで)
島義勇(よしたけ) (会計官判事兼蝦夷開拓御用掛より)明治2.7.22~3.4.2(大学少監へ)
岩村通俊 (箱館府権判事より)明治2.7.25~6.1.17(5年9月から大判官。免後、佐賀県権令へ)
松浦武四郎 (開拓使大主典より) 明治2.8.2~3年3月(辞任、東京に住す)
岡本監輔(かんすけ) (箱館府権判事より)明治2.7.25~3年閏10月(東京へ帰る。以後波乱の世を送る)
竹田信順(のぶより) (旧越後高田藩士)明治2年8月~3年正月
松本十郎 (旧庄内藩士)明治2.8.18~9.9.5(明治6.1.18より大判官。依頼免官。庄内で農耕に従事)
杉浦誠 (開拓使権判官より)明治5年2月~10年1月(辞任後、東京に住し吟詠を楽しむ)
<3県1局時代>
・函館県令 時任爲基(ときとう・ためもと) (開拓使大書記官より)明治15.2.8~19.1.26(北海道庁理事官へ)
・札幌県令 調所広丈(ずしょ・ひろたけ) (開拓使大書記官より)明治15.2.8~19.1.26(高知県知事へ)
・根室県令 湯地定基(ゆち・さだもと) (七重勧業試験場長より)明治15.2.8~19.1.26(北海道庁理事官へ)
・農商省北海道事業管理局長 (農商務省大書記官より)安田定則 明治16.1.31~19.1.26(元老院議官へ)
<北海道庁時代>
◎北海道庁長官(明治期に限る)
1代 岩村通俊 明治19.1.26~21.6.15
2代 永山武四郎 明治21.6.15~24.6.15
3代 渡辺千秋 明治24.6.15~25.7.19
4代 北垣国道 明治25.7.19~29.4.3
5代 原保太郎 明治29、4.7~30.9.4
6代 安場保和(やすば・やすかず) 明治30.9.4~31.7.16
7代 杉田定一 明治31.7.16~同.11.12
8代 園田安賢(やすたか) 明治31.1.12~39.12.20
9代 河島醇(じゅん) 明治39.12.20~44.4.28
10代 石原健三 明治44.5.16~大正元.12.28

「新北海道史」「同年表」「新札幌市史」を参考に作成。

斗南藩の北海道分領

◎兵部省は「会津降伏人」を北海道各地へ移住開拓させることとし、明治3~4年にかけ、入植した。

◎入植戸数・人数(「瀬棚町史」参照)
・瀬棚郡瀬棚村(現せたな町本町。明治4年5月、字名が「会津町」となった。)・・13戸43名
・山越郡山越内村(現八雲町字浜松町)・・7戸18名
・同郡長万部村(現長万部町)・・入植記録があるも詳細は不明
・歌棄郡作開村(現黒松内町字作開)・・28戸135名
・太櫓郡太櫓村(現せたな町北桧山町字太櫓)・・不明

◎瀬棚入植者の窮状
・転職、離農が相次ぎ、明治18年の「戸籍帳」に「農」と記されている者は2戸のみで、分解、没落の激しさを物語っている。

北海道の分領支配

◎明治2年7月22日~明治4年8月20日の北海道の分領支配について「新北海道史」より要約する。

1. 分領支配にいたる経過
・明治2年(1869)7月2日、開拓使設置。
・同年7月22日、太政官、蝦夷地開拓のため、諸藩・士族・庶民の志願により相応の地所割渡(わりわたし)すべき旨を布告。
その理由・・新政府にとって北地開拓は重要課題であり、そのために開拓使という直轄機関を設置したとしても、発足したばかりの新政府にとって、全面的に政府の手によって開拓を推進することは不可能
2. 支配の条件
・分領支配は、北海道開拓を統括する開拓使が存在しながら、他方で各藩・士族などに土地を分与し、支配を命じることは矛盾したあり方。いわば旧幕藩体制の縮小再生版という形態に見える。
新政府(開拓使)は、権力浸透のために腐心(①支配地の指定、変更などに、介入。②開発経費などは藩の負担。③司法権の政府掌握。など・・)
3.土地割渡しの実況と方針
・最初の出願は、明治2年(1869)8月7日、水戸藩知事徳川昭武。天塩国苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と、北見国利尻郡5郡の支配を命じられた。
以後、分領支配が展開する。
○同年8月、まず、開拓使と兵部省の直轄地を選定(主に北海道統括の拠点地域)
① 開拓使直轄地・・石狩国札幌郡・厚田郡・浜益郡の3郡、後志国寿都郡・歌棄郡・岩内郡・積丹郡・美国郡・古平郡・余市郡・忍路郡の8郡、渡島国亀田郡・茅部郡・上磯郡の3郡、日高国三石郡・幌泉郡の2郡、根室国根室郡・花咲郡・野付郡の3郡、北見国宗谷郡 以上20郡
② 兵部省管轄地・・石狩国石狩郡・後志国小樽郡・高島郡・瀬棚郡・太櫓郡の4郡、胆振国山越郡・釧路国白糠郡・阿寒郡・足寄郡の3郡 以上9郡
○開拓使直轄地の移管
① 明治3年1月:宗谷郡→金沢藩、②明治3年6月:根室3郡→東京府
○兵部省管轄地の移管(明治3年1月)
① 旧会津藩(=斗南藩)松平慶三郎容大(かたはる)へ・・歌棄郡・瀬棚郡・山越郡・太櫓郡の4郡
② 他は、開拓使へ移管
○分与に関係した藩など・・明治4年1省(兵部省)1府(東京府)24藩2華族8士族2寺院の計38領地の分類
① 分領を出願した藩(15藩)・・水戸・一関・佐賀・徳島・高知・大泉(庄内)・秋田(久保田)・弘前・斗南・米沢・鳥取・彦根・岡山・福山・仙台
② 分領を命じられた藩(9藩)・・金沢・鹿児島・静岡・名古屋・和歌山・熊本・広島・福岡・山口
③ 華族(2華族)・・田安、一橋
④ 士族(8士族)・・伊達邦成(藤五郎)、伊達邦直(英橘)、伊達広高(藤三郎)、石川邦光(源太)、片倉邦憲(小十郎)、亘理胤元(元太郎)、五島銑之丞、稲田邦植(くにたね)(九郎兵衛)
⑤ 寺院(2寺院)・・増上寺、仏光寺
*最後まで支配地維持は13藩2華族6士族2寺院に過ぎない。特に大藩の返上が多い。各地域で各種の矛盾が激化。
4.兵部省と開拓使の関係
・明治2年(1969)2月20日、太政官が会津降伏人の蝦夷地移転を軍務官(明治2年7月8日太政官制改正で兵部省となる)に命じる。そもそも、兵部省は会津降伏人処置のため北海道と関係をもつことになった。
・兵部省は、1万2000人を北海道に移住させる計画。それにより、兵部省は北海道を分割支配した。
・札幌本府建設の指揮官・島義勇(よしたけ)は、兵部省管轄の石狩・小樽・高島3郡の開拓使への移管を具申、一方、兵部省も職掌からして本務外として「支配被免」願いを提出。
・明治3年(1870)3月5日、兵部省支配地は、旧会津藩(=斗南藩)松平慶三郎容大(かたはる))へ歌棄郡・瀬棚郡・山越郡・太櫓郡の4郡、他は、開拓使へ移管された。

<参考資料>
・「新北海道史第3巻」(北海道編集発行、1971)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)

明治期の北海道の開拓(4)

○クラーク博士の教育、札幌農学校の役割、西洋文化・技術の導入
・開拓を西洋技術の導入に、外人技術者の招聘、留学生の派遣(注目されるのは、津田梅ら女子留学生の派遣)
・明治9年(1876)9月、官立札幌農学校が開校。その基礎づくりにアメリカ・マサチューセッツ農科大学長のクラーク博士を招く。生徒に近代社会のしくみについて目を開かせた。翌10年(1887)4月帰途、島松駅頭で残した「ボーイズ ビイ アンビシャス」は、札幌農学校の校風となったといわれる。札幌農学校の校舎は現在の北2条西2丁目あたりにあり、時計台は札幌農学校の演武場だった。
・初期の卒業生から、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など国際的人物が育った。

1. 開拓使の廃止と三県時代
・開拓使官有物払い下げ事件・・十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。
・その内容・・官舎・工場・牧場・船舶・倉庫その他の利権を38万円と評価した。会計検査院の小野梓(あずさ)は200万円と評価。1000万円とする意見もあった。それを無利息30年賦償還というもの。
これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商五代友厚だと考えて攻撃した。結局、開拓使官有物払い下げは取り消された。これが、明治時代最大級の疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。開拓使は翌明治15年 (1882年)に廃止され、北海道は函館県・札幌県・根室県に分けられた。
・三県一局時代の機構と政治
・黒田清隆が開拓長官を去って内閣顧問に転出後、明治15年(1882)1月、西郷従道(つぐみち)(西郷隆盛の弟)、開拓長官になる。開拓使の残務整理が主な任務。
・同年2月8日、開拓使は廃止となる。
・北海道は、函館県(県令・時任為基(ときとうためもと))、札幌県(同・調所広丈(ずしょひろたけ)、根室県(同・湯地定基(ゆ ち さだもと)・・妹は乃木希典(まれすけ)夫人静子で明治天皇大葬のとき殉死)に分割された。
・ほとんどの官営事業は、農商務省に設置された北海道事業管理局が管理した。北海道庁設置の明治19年(1886)1月まで3県1局時代と呼ばれている。
・士族の移住・・政府は困窮する士族救済のため、移住規則を制定した。
明治17年(1884)~19年(1886)にわたって、岩見沢(山口・鳥取の士族277戸1503人)、木古内(山形県士族105戸611人)釧路(鳥取県士族106戸520人)が移住。
・屯田兵募集の再開・・明治17年(1884)再開、2300戸あまりが、江別、滝川、輪西、厚岸、根室などに入植した。
・集治監の建設
・明治10年代、重罪人を隔離する集治監(しゅうちかん)建設された。(伊藤博文は、囚人に開墾をやらせる広い土地として北海道は最適であると意見)
・明治15年(1881)樺戸集治監開庁(初代典獄(てんごく)は月形潔。のちこの地は月形村になる。)・・農業開拓が重点、
・翌15年(1882)空知市来知(いちきしち)(現三笠市)・・幌内炭山の採炭が主。
・18年(1885)釧路集治監(標茶)に建設・・阿寒・硫黄山の使役が主。
・収容者・・稲妻小僧、五寸釘寅吉などの犯罪人ばかりでなく、明治10年代後半の加波山(かばさん)事件、群馬事件など自由民権運動の国事犯も収監された。
・団体の入植・・赤心社・・本社を神戸において発足したプロテスタント団体。明治14年(1881)春、浦河に入植。
・晩成社・・伊豆の豪族・依田一族が設立した会社。明治16年(1883)5月、13戸の移民団、帯広に入った。

2. 北海道庁の発足と政治
・3県時代の北海道開拓は低調で、伊藤博文は書記官・金子堅太郎を北海道に派遣。金子は、3県の弊害を復命した。
・明治19年(1886)1月、3県を廃止し、北海道庁を置く。初代長官岩村通俊(みちとし)。
・庁舎は明治12年(1879)焼失以後、旧女学校跡(南1条西4丁目)を使用していたが、明治21年(1888)「赤レンガ」で知られる新庁舎が完成した。
・北海道庁は、1947年(昭和22年)まで内務省直轄の北海道地方を管轄する地方行政官庁として存在した。
・官営工場の民間払い下げ・・開拓使以来の官営工場の民間払い下げ。産業の発展とともに、人口も急増した。札幌の人口は、明治18年(1885)の10668人から、5年後の明治23年には24327人と2.3倍になった。
・北海道炭鉱鉄道と鉄路の発展
・明治22年(1889)幌内炭鉱と鉄道が民間に払い下げとなった。前北海道庁理事官・堀基の北海道炭鉱鉄道会社(北炭)に払い下げとなった。
・北炭は、鉄路を伸ばし、明治25年(1892)には、砂川から空知太まで、さらに、室蘭線、夕張線が完成させた。
・移民の増加・・明治25年(1892)以降急激な移民の増加が見られる。
20年代は主として空知地方へ、30年代になって十勝、北見へ進んだ。
・農業開拓と産業構造の変化
・従来、北海道の主産業はニシン漁に象徴される漁業であった。明治30年代になって農業に追い抜かれた。
・日露戦争後の明治末期には、大資本による大工業の成立。(日本製鋼輪西製鉄所、王子製紙の苫小牧進出、帝国製麻の営業など)
・交通の整備と囚人道路・土工労働(タコ)
・上川道路、北見道路の開削に樺戸、空知、釧路の集治監の囚徒が動員された。北海道開拓の基礎づくりは、囚人労働の犠牲のうえに始めて可能であったともいえる。
・さらに奴隷的労働・タコ部屋が道路工事・鉄道・港湾工事に常用された。
「タコ」の語源
①「他雇」(たこ)・・他人に雇用されるから
②「蛸」・・海中の蛸のように、前借金を追った土工はみずからの肉体と労働力を切り売りするから
③「たこ」・・蛸のようが岩に吸いついて離れないように、土工夫も必死で働くから
④「凧」・・土工夫は、糸の切れた凧のように逃走するため
などの諸説(弓削小平著「北辺の労働と出稼関係」=「司法研究」28号所収)

・官設鉄道の進展・・明治31年(1898)旭川まで。函館~小樽間も明治38年(1905)に全通。さらに明治40年(1907)には、釧路まで開通。
・日清、日露戦争、7師団
・明治23年(1890)の「屯田兵条例」の改正で応募資格が士族中心から平民に拡大された。
・日清戦争で、明治28年(1895)3月、屯田兵に動員令が下った。実際は、戦役には参加せず、東京で待機したまま復員・解散した。
・明治29年(1896)5月、第7師団が設置された。師団長は陸軍中将永山武四郎。同年12月には屯田兵司令部が第7師団司令部と改称され、屯田兵の事務は第7師団が扱うことになった。
・兵力のすべてを道内出身者でまかないきれず、兵士の内地依存が続いた。
・師団編成が一応完結したのは、日露戦争直前の明治35年(1902)12月であった。なお、当初第7師団は札幌に置かれていたが、明治35年(1902)10月師団司令部が旭川に移転し、以後旭川は軍都として発展する。札幌・月寒には歩兵第25連隊が駐屯した。
・明治37年(1904)、第7師団は日露戦争では、動員令が下り、旅順攻防戦に参加、特に11月30日の203高地攻略の中心部隊となった。この戦役で戦死者3142人、戦傷者8222人、合計1万1364人にのぼった。
5.明治時代の北海道の文化
・出版、新聞の発達・・「函館新聞」(函館)、「北海新聞」(札幌)、「北門新聞」(小樽)の創刊、明治34年(1891)「北海タイムス」(3社合同)創刊
・文学
① 有島武郎・・札幌農学校に学び、遠友夜学校教師の経験、新渡戸らとの交流)北海道の文芸に大きな影響を与えた。
② 石川啄木・・明治40~41年、函館、小樽、釧路で新聞記者。この期間北海道の風土と人をよんだ多くの短歌を残した。

<まとめ>
明治期の北海道は、本州の近代化の進展の延長上に加え、いわば、「内国植民地」として、特有の開発が進められた。恵まれた資源の宝庫、農林水産・地下資源など一次産業の輝かしい生産の歴史でもあった。しかし、その影に、タコ部屋、
囚人、小作争議に象徴される民衆の犠牲もあった。その歴史も語り継がれることも大事なことと思う。

<参考>明治期の北海道の行政機関の名称とその期間、総督・長官・知事
○箱館裁判所・・慶応4年(1868)4月12日~同閏4月24日)
①総督・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王・・慶応4年(1868)4月12日~同閏4月5日。なお、仁和寺宮は総督就任を辞退している。
②総督・清水谷公考(きんなる)・・慶応4年(1868)閏4月5日~同24日
○箱館府・・慶応4年(1868)閏4月24日~明治2年(1869)7月24日 
①・知事清水谷公考・・慶応4年(1868)閏4月24日~明治2年(1869)7月24日
○開拓使・・明治2年(1869)7月8日~明治15年2月8日。(樺太開拓使が置かれた明治3年=1870=2月13日から明治4年=1871=8月7日までは「北海道開拓使」と称した)
① 長官・鍋島直正・・明治2年(1869)7月13日~同年8月16日
② 長官・東久世通禧(みちよし)・・明治2年(1869)8月25日~明治4年(1871)10月15日
③ 次官・黒田清隆(長官職務代行)・・明治2年(1869)10月15日~明治7年(1874)8月2日
④ 長官・黒田清隆・・明治7年(1874)8月2日~明治15年(1882)1月11日
⑤ 長官・西郷従道(つぐみち)・・明治15年(1882)1月11日~同年2月8日
○3県時代・・明治15年(1882)2月8日~明治19年(1886)1月26日
① 函館県(県令・時任為基(ときとうためもと))
② 札幌県(同・調所広丈(ずしょひろたけ))
③ 根室県(同・湯地定基(ゆ ち さだもと))

【参考文献】
・「北海道の歴史」(榎本守恵著、北海道新聞社、1981)
・「県史1 北海道の歴史」(田畑宏・桑原真人・船津功・関口明著、山川出版社、2000)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター、1989)
・「新北海道史」(北海道編発行)
・「新札幌市史」(札幌市発行)

明治期の北海道の開拓(3)

○千島樺太交換条約の締結と北方問題
・日露国境問題は、未解決のまま開拓使にもちこまれた。(これまで、安政元年=1854=の日露和親条約では、千島はエトロフ水道をもって境とし、樺太は従来通り雑居地となる)
現地ではロシア人の進出が進み、現地の日本人との間にトラブルが耐えなかった。樺太駐在の岡本監輔(かんすけ)は強硬論だったが、失望して樺太を去る。
・明治7年(1874)1月、榎本武揚は、ロシア駐在特命全権公使に任命され、ペテルグルクに赴き国土交換の交渉にあたる。榎本、交渉の際、240年も前(寛永12=1635=)の松前藩士・村上掃部(かもん)左衛門の千島巡行、いわゆる「島めぐり」を持ち出し、ウルップ島以北の全千島の領有を主張した。
明治8年(1875)5月、千島樺太交換条約調印、樺太全島をロシアに渡すかわりに、ウルップ島以北、占守島に至る千島諸島全18島を日本領にする。
・なお、日本帰属を希望する樺太アイヌは、宗谷定住を望んだが黒田長官(前年の明治7年、長官となった)アイヌの希望を許さず、樺太アイヌ841人を対雁(ついしかり)(現江別市)へ強制連行した。黒田の方針に反対した松本十郎大判官(アイヌの衣装アツシを着用していたので「は辞任した。
(対雁に移住した樺太アイヌのその後の興味ある話があるが省略する)一方、千島アイヌも色丹島に移住させられるなど、悲劇の運命を辿った。
○技術と産業の発展、炭山の開発、鉄道開通
・明治4年(1871)7月、ケプロン来日。年俸1万ドル、太政大臣より高級であった。ケプロンの権限で開拓使時代に雇い入れた外人は総計78人にのぼった。
・西洋技術の導入・・道路開削、官園の開設(りんごなど)、缶詰製法の導入、石炭の開発などの政策構想を打ち出した。
・開拓使は、味噌・醤油の官営醸造所、缶詰、ビール、ぶどう酒、製粉、製紙、養蚕、亜麻などの官営工場を作った。
・欧米農法・・明治4年(1871)、ケプロンの建議で札幌官園の設置。翌5年、新冠牧場の開設。開拓使は果樹栽培を奨励、特に、「平岸リンゴ」の名は、全国的に有名になったばかりでなく、明治中期から後期にかけてはウラジオストックに輸出された。明治20~30年代は、札幌周辺に23万本が植えられ、全国収穫量の80%を占めた。この頃の札幌の初夏は林檎の花咲く里であった。
・炭山・・幕末に開坑した茅沼炭鉱を官営。また、榎本、ライマンが調査した幌内(現三笠市)炭鉱の開発を進め、明治12年(1879)12月開坑。空知大炭田の端緒となった。
・鉄道・・幌内炭を運搬する方法・・①石狩川案(榎本)②室蘭鉄道案(ケプロン、ライマン)③手宮鉄道案(クロフォード)・・クロフォード案に決まる。
・クロフォードは張碓の難所を開削、明治13年(1880)11月、手宮~札幌間が開通、「義経号」「弁慶号」が走った。日本で3番目の鉄道(1番=明治5年=1872=新橋~横浜間、2番目=明治7年=1874=大坂~神戸間。なお、明治2年=1869=茅沼炭鉱から海岸まで3キロ、石炭運搬の軌道が運行した。泊村では『日本最初の鉄道』とPRしている。)
・明治15年(1882)には幌内まで手宮から90キロが全通した。この開通によって小樽は札幌の玄関として、さらには、本道内陸開発の基点として発展する基礎になった。
・本願寺道路・・東本願寺は、新政府への忠誠と北海道の強健の維持のため、北海道開拓事業への援助を決めた。明治3年(1870)9月、有珠~定山渓~札幌間26里(約100キロ)の道路開削に着手。これがいわゆる「本願寺道路」。翌4年7月、竣工(工費1万8000両)。まもなく札幌本道の開通でほとんど利用されずに廃道になった。
・札幌本道・・ケプロンの建議で築造。明治5年(1772)3月、亀田を基点に森まで、更に噴火湾を渡って室蘭に上陸、千歳を経て札幌豊平橋に至る45里(180キロ)を「札幌本道」と定めて着手。人夫5389人、官吏200人余配置。翌6年(1773)6月には全工程を終えた。
・明治7年(1774)には、札幌~小樽間の人馬の往来ができるようになった。
○移民団の開墾、屯田兵の創設、
・農民の移民・・明治10年代後半の不況で多くの農民が土地を失って没落、北海道への移民が増加した。
・農民の移民の推移
① 慶応4年(1868)、岡本監輔は箱館で200人の移民を募集し、クシュンコタンに引率
② 明治2年(1869)開拓使は、発足にあたって東京で募集した数百人を根室などに移住させた。多くは浮浪人のたぐいで、失敗に終わる。
③ 明治3年(1870)~4年(1871)・・東北からの移民を札幌周辺などに入植させた。
・士族の移民・・明治4年(1871)の廃藩置県や戊辰戦争で削封された東北諸藩の士族の失職。初期北海道移民の源泉となった。例えば
① 仙台亘理領主・伊達邦成(くにしげ)・・有珠
② 同・岩出山領主・伊達邦直は当別
③ 同・角田領主・石川邦光主従・・角田村(現栗山町)
④ 登別には、白石領主・片倉邦憲(くにのり)主従、その別派は、開拓使貫属となり札幌周辺の白石、発寒に入植。伊達邦直主従は当別へ入る。
⑤ 会津士族団・・余市へ。余市りんごの祖。
⑥ 淡路洲本の城主・稲田邦植(くにたね)は、静内に入植。
⑦ 大藩も困窮の旧藩士救済のため移住させた。八雲に尾張徳川家、岩内郡前田村(現共和町)に加賀前田家、余市郡大江村(現仁木町)に長州毛利家、当別高岡に肥前(ひぜん)鍋島家など
・会社を組織して入植
① 開進社(和歌山県士族)明治12年(1879)創立、函館・湯の川ほかに入植、成績があがらず、明治15年(1882)解散
② 赤心社
・屯田兵の創出
・明治6年(1873)黒田開拓次官は屯田兵創設を建白、「当使創置以来専ら力を開拓に用い、未だ兵衛の事に及ばす、人民の移住するもの増加す。これを鎮撫保護する者なかるべからず」。北海道に常備鎮台は置かれていなかったこともその理由にある。
・明治7年(1874)、6月、黒田は陸軍中将・北海道屯田憲兵事務総理を兼ね、参議にもなり開拓長官に昇進した。
・同年10月、屯田兵例則制定。徴兵令(明治6年=1873=)施行後も、北海道には長い間施行されなかった。北海道に徴兵令が施行されたのは、明治29年(1896)に渡島、後志、胆振、石狩に施行、明治31年(1898)に全道に施行。そのため、徴兵逃れに本籍を北海道に移したものもあった。(夏目漱石も兵役逃れのため、明治25年=1892=、岩内に本籍を移したといわれた。最近は、夏目家の財産相続問題での転籍説が有力)
・明治8年(1885)宮城、青森、酒田などの士族198戸、965人が琴似に入植。翌9年(1886)、琴似、発寒、山鼻に入植。
 練兵は主に農閑期に行われ、開墾と農業に従事した。農業は、養蚕と製麻が主だった。
 明治10年(1887)の西南戦争には、琴似、山鼻の屯田兵が動員された。死者54人を出した。

明治期の北海道の開拓(2)

○札幌本府づくり
・札幌を北海道の行政府の中心にする意見は、天明期の幕府調査隊山口鉄五郎、寛政・文化期の近藤重蔵、幕末の松浦武四郎も意見を述べている。
「他日ここ札幌に府を置きたまわば、石狩は不日にして(まもなく)大坂の繁栄を得べく、十里を遡(さかのぼ)り津石狩は伏見に等しき地となり、川舟三里を上がり、札幌の地ぞ帝京の尊きにも及ばん。・・手宮・高島は兵庫・神戸の両港にも譬(たと)うべし」(松浦武四郎「西蝦夷日誌」安政4年=1857=)
・島義勇(よしたけ。彼の銅像が札幌市役所にある)・・円山に登って、「札幌本府」建設の雄大な構想で始められた。島は南北基線の大友堀(創成川)と東西基線の銭函道(南一条道り)が交叉する橋(創成橋)を本府の中心とした。肥前(現在の佐賀県)出身の開拓判官・島義勇が札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れて札幌入りしたのは、この年の暮れのこと。このときの札幌中心部の人口は「2戸7人」と記録されている。近郊の住民はアイヌの人びとも含めてせいぜい100人ばかり。鹿や熊や狼がうろつく、太古のままの原野だった。島判官は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡したといいます。
彼の漢詩の1節
「4通8達 宜しく府を開くべし」 
他日5州第一の都」
予算をオーバーし、東久世長官と衝突し、退任。
・後任の岩村道俊判官の手で、創生橋(南1条)のたもとを基点に、幅60間(108M)の大通りで南北を分け、大友掘りを境に東西を分け60間四方の碁盤の目の整然とした市街地の建設が始まった。
・大通りの北は官庁街・官僚・お雇い外人の住宅、南は民家が中心。
・碁盤の目の街つくり・・「奈良・京都を模した」といわれるが、城下町に近い。島が住んだ佐賀城下によく似ているといわれる。
・明治5年(1872)9月、札幌に開拓使札幌本庁を置き、函館。根室、宗谷、浦河、樺太の5支庁を置いた。開拓使札幌本庁の落成は翌明治6年(1873)11月24日のこと。
・札幌周辺(元村、苗穂、丘珠、円山、月寒、平岸、篠路、白石、手稲など)に農民を募集して入植させる。
・すすきの・・開拓最前線に送り込まれた、役人はもとより、請負人・大工・職人・人夫らが一時に大量に札幌へ流れ込みました。妻子を東京に残して来た「札チョン族」の岩村通俊判官は、開拓のために札幌にやってきた男子をこの地に引きとめておく方策として、明治4年、薄井(うすい)龍之開拓使監事に命じて現在の南4、5条西3、4丁目の二町四方を土塁で囲み、中央には門を設置し、創成橋近辺の貸座敷、旅人宿、飲食店をここに移した。このために薄野は官許遊廓と呼ばれるようになりました。
「薄野遊廓」は、岩村判官により名づけられましたが、これはこの地を選んだ工事監事「薄井龍之」の姓にちなんだもの、というのが通説になっていますが、一説には当時この一帯が「茅野(すすきのの別称)」だったことから名づけられたという自然地名説もあり、本当のところは藪の中ならぬ、すすきの中、といったところでしょうか。すすきのの南はずれにある豊川稲荷の玉垣には、芸者の名前が刻まれています。

○黒田清隆の登場とケプロンなどお雇い外国人の登用
・明治3年(1870)5月、薩摩出身の黒田清隆、開拓次官となる。(樺太専務)
・同年10月、黒田は、樺太及び内政問題に関する建議を提出。北海道の開拓を西洋技術の導入によって進めることを示した。
・翌4年1月~5月まで欧米出張を命じられる。アメリカで、アメリカ農務長官ホーレス・ケプロンを開拓顧問に招くことに成功、その後の多数のお雇い外国人の招聘の道を開いた。
・同年8月、いわゆる「開拓使10年計画」が決まり、これまで1年20万円の「定額金」を10年で1000万円にすることが決まった。(年平均にすると100万円だから5倍に増額された)。屯田殖民費、幌内炭鉱起業費は別枠。
・政府がこの時期に北海道開拓に巨大な資金を投じた。開拓使時代の北海道経営費は、国家財政の4~5%、7%のときもあった。
・黒田清隆は、明治7年(1874)7月に、陸軍中将となり、屯田兵憲兵事務総理となり、屯田兵開拓長官となる。「黒田は陸軍、開拓使、政府の要職を一身に兼ねた。開拓使=黒田王国」ともいわれるもとが確立した」(榎本守恵著「北海道の歴史」)

明治期の北海道の開拓(1)

(これは、2006年10月14日の「高齢者市民講座」での講演の要旨です)

<報告要旨>
・北海道は、明治維新の内乱、戊辰戦争という近代日本の黎明期の激動に無縁ではなかった。箱館戦争の終結、開拓使の設置、移民と入植、屯田兵、炭鉱、鉄道の発展、ニシン漁の盛衰、農業開拓を重点とした拓殖政策など、明治期の北海道開拓の歴史を概括してみる。

1. 明治新政権と蝦夷地
○箱館戦争~旧幕脱走軍と五稜郭落城~
・慶応3年(1867)10月15日・・徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還、同年12月9日、朝廷は王政復古を宣言、270年に及ぶ江戸幕府は崩れ去った。
・つづいて、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の闘いをきっかけに、内乱、戊辰(ボシン・つちのえたつ)戦争へ突入。
・蝦夷地・・慶応4(1868)4月12日、箱館裁判所設置(旧幕府遠国奉行・郡代が置かれた重要地域に新政府が置いた行政機関。のち、同閏4月24日箱館府となる)、新政府、清水谷公考(きんなる)を蝦夷地に派遣、閏4月27日、旧幕府箱館奉行・杉浦勝誠(かつのぶ)から事務を引き継ぐ。松前藩は若手の正議(せいぎ)隊が決起し新政府支持を表明、厚沢部に館(たて)城新築にとりかかる。
・一方、旧幕府軍は、江戸城開城後も上野に立てこもって抵抗(彰義隊)するが壊滅、更に、会津戦争で、旧幕府軍、敗北。白虎隊の悲劇。
・旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、旗艦・開陽丸(幕府が注文しオランダで建造。2800トン、400馬力、大砲26門を備えた当時日本最強の軍艦)など8隻で品川沖を出帆、旧幕敗走兵らを収容し、蝦夷地をめざして北上。
・明治改元は、9月8日。「慶応4年」を「明治元年」と改める。
・10月20日、榎本武揚率いる脱走軍艦隊・開陽丸以下7隻が内浦湾に現れた。土方歳三らは鷲ノ木に上陸。箱館に向い五稜郭を占領。清水谷箱館府知事以下、箱館を退去、青森に移る。
・11月1日、榎本は開陽丸で箱館港に至り、五稜郭に無血入城。11月5日、松前落城。城下7500戸のうち5000戸が焼失。
・11月15日、江差を攻撃した旗艦・開陽丸は江差沖で座礁・沈没。榎本軍の海軍力は一挙にくずれた。
・12月15日、全道平定を箱館在留各国領事に通告。公選で総裁榎本以下を決める。
・五稜郭落城
・明治2年春4月9日、政府軍8000人は、乙部に上陸、第2軍、第3軍あわせて1万2000人。迎え撃つ榎本軍は3000人で奮闘するも、政府軍、福山奪回、箱館へ進撃、箱館海戦にも勝利する。
・5月18日、榎本武揚以下、五稜郭を出て降伏。
・ここに、鳥羽・伏見の戦い以来、約1年半続いた戊辰戦争は、終結し、明治維新政府は名実ともに全国支配を確立した。蝦夷地(五稜郭)は、江戸幕藩体制の終焉の地となったといえる。
・エピソード・・①政府軍参謀・黒田清隆は、降伏入牢した榎本の助命のため、坊主頭になって奔走。のち、黒田は、出獄後の明治5年(1872)榎本武揚を開拓使4等出仕(しゅっし)として採用している。
②政府軍戦死者は、政府軍によって埋葬されたが、榎本軍の遺体は放置されてが、箱館の侠客・柳川熊吉(江戸の新門辰五郎の子分といわれる)は政府軍のおどしに屈せず、遺体を集めて葬った。明治8年(1875)、八幡宮の裏山に碧血(へきけつ)碑が建てられた。
③箱館病院長・高松凌雲は、敵味方を問わず傷病兵を治療し、捕虜を送還するなど、わが国最初の赤十字精神の発露とたたえられている。
・箱館戦争の終結が、近代日本の黎明期の激動に終止符を打った。後に、榎本武揚ほか、脱走軍幹部の多くは、開拓使官僚として登用された。

2. 開拓使の設置と北海道開拓
○北海道の誕生
・開拓使設置・・明治2年7月8日、太政官制の改革に伴い、中央官庁のひとつとして設置され、北海道と樺太、千島を管轄することになった。初代長官・鍋島直正(前佐賀藩主。わすか2ケ月で一度も北海道に来なかった)。次官に清水谷公考、開拓判官に、島義勇(よしたけ)、岩村通俊、松本十郎、岡本監輔(かんすけ)、松浦武四郎らが開拓判官に任じられた。
・「北海道」の命名・・同年8月15日、蝦夷地一円を「北海道」と命名。11ケ国86郡を置く。(開拓判官・松浦武四郎が提案)。千島全域を「千島郡」とする。
・松前藩は、版籍奉還後、「館藩」と称していたが「館県」、「弘前県(のち青森県)」の管轄を経て開拓使所管に入った。
・8月25日、2代目長官に東久世通禧(みちよし。ミチトミとも)が任命される。9月30日、旧箱館裁判所を「開拓使出張所」と改称。10月根室、宗谷に開拓使出張所を置く。
・広い北海道の開拓のため、諸藩に分割(分領)開拓・・水戸、佐賀、徳島など20藩以上が出願。出願しない鹿児島、金沢など大藩には強制割当。その他、伊達邦成(くにしげ)、片倉邦憲(くにのり)などの士族、東京府、増上寺など、行政庁、寺院にも分領させた。この分領開拓は、ほとんど成果がなく、明治4年7月の廃藩置県で終わる。開拓使が全道を管轄するのは、明治5年秋のこと。

蝦夷地上知に際しての松前藩への処置

◎文化4年(1807)3月22日、松前藩主・松前章広へ松前西蝦夷地一円の上知が命じられた。
その達しの中に「先達而東蝦夷地上地被仰出、従公儀御処置被仰付候」とあるが、その「処置」と、あわせて、以後の松前西蝦夷地上知、復領、再直轄の際の「処置」を概括する。

1.東蝦夷地上知
寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地(ウラカワより知床及び東奥島々まで)を当分(7ケ年)、試みに仮上知する旨、松前藩に通達。
○同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
○同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
○同年.9.28・・幕府、代地500石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)

○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。
○同年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。仮上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。

2.松前西蝦夷地一円の上地
文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
奥州伊達郡梁川(現福島県伊達郡梁川町)9000石に移封。
<飛び地>
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
<合計>
総領知高 18,626石余

3.松前藩復領
○文政4(1821).12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

4.幕府再直轄
○嘉永7(1854).6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2(1855).2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

5.松前地の一部返還
○元治元年(1865)7月7日・・松前崇広(たかひろ)(松前藩12代藩主)、老中格陸海軍総奉行に就任、同年11月10日、老中となった。同年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

カラフト場所の請負人と運上屋・番屋等(年表)

◎江戸期の文書には、松前藩及び場所請負人の現地の建物・施設のことを、「運上屋」、「番屋」、更に、幕府直轄時代には「会所」、「勤番所」ともよばれた。別に「陣屋」が置かれた時期もあった。以下、その略年表を記す。
◎文化3年(1806)9月11日のロシア人樺太襲撃時は、樺太は松前藩が直営していた。
◎カラフト場所の勤務実態
「寛政の始にいたり、運上屋体の家居も補理ひ、軽き家来も少々渡し、漁業其外処置するといへども、只首夏(しゅか=夏の初め。初夏)より初秋までの事にて、家来は引取、番人体の町人三四人ヅツ爰かしこの運上屋に越年するまで也。然るに文化三寅年九月十一日・・此時は例のごとく松前氏の家来は引取たる跡也」(「休明光記」巻之七)

○寛政2年(1790)・・樺太調査を命じられた松前藩士の高橋荘四郎、鈴木熊蔵、松前平角ら番屋をシラヌシ、荷物小屋をトンナイ、クシュンコタンに設置。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。しかし、寛政8年(1796)3月、松前藩の叱りを蒙り差配場所(ソウヤ、シャリ、カラフト)を引上げられる(大阪商人小山屋権兵衛の手代が8代藩主・松前道広の妾の兄の板垣豊四郎と結んで道広に取り入り、伝兵衛差配の良場所を獲得するため謀計をめぐらし伝兵衛を陥れたという)
○寛政8年(1796)・・大坂商人小山屋権兵衛、松前藩士板垣豊四郎、カラフト場所を請負う。
○寛政9年(1797)・・板垣豊四郎、単独でカラフト場所を請負う(資本は栖原角兵衛)
○寛政12年(1800)・・松前藩、カラフトを直営(藩士・高橋荘四郎、目谷安次郎管理し、摂州兵庫津の商人柴谷長太夫差配す)
○文化4年(1807)・・柴谷長太夫、カラフト場所を請負う。
○文化6年(1809)
・幕府、シラヌシ、クシュンコタンに「勤番所」を置く。
・6月、幕府、カラフト島を「北蝦夷地」と唱えるべき旨、達する。
・伊達林右衛門、栖原三右衛門、カラフト場所請負人となる。両氏共同商会を「北帳場」と称する。以後、明治8年(1875)まで継続。
・津軽藩、この年以降文化11年(1814)まで、カラフト警備を命じられる。夏季にクシュンコタン、ルータカ、シラヌシに陣屋を置く。(本陣は増毛)
○文政4年(1821)・・幕府、蝦夷地を松前藩に返還、松前藩、夏季のみ、シラヌシ、クシュンコタンに勤番所を置く。
○安政3年(1856)・・越後の大庄屋・松川弁之助、カラフト奥地漁場開発を出願、幕府、北蝦夷地知床・ノタサン以北を直捌地とし、松川弁之助を差配人とし、漁場の開発、産物取開きなどを命じる。
○安政4年(1857)・・越後の鳥井権之助、カラフト奥地差配人を命じられる。
○安政5年(1858)
・箱館奉行、鳥井権之助に加え新たに越後・水原村の佐藤忠蔵、同・中村浜の佐藤広右衛門に北蝦夷地直捌差配人を命じる。
・越前大野藩、カラフト西岸ライチシカより北ホロコタンまでの間に土農を移すこと、ウショロに「元会所」設置を許可される。
・山田文右衛門(サル・ユウフツの場所請負人)、カラフト直捌場所出願、許可される。
・箱館奉行調役荒井金助指揮により、並城六郎、クシュンナイに漁場を開設。
・箱館奉行定役小田井蔵太、東岸シスカ川漁場開発許可される。
○文久2年(1862)・・この年のカラフト勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ、ワーレ、クシュンナイの5ケ所
・安房・勝山藩、藩士渡辺隆之助をカラフトに派遣、シスカに漁場を開設。
○元治元年(1864)・幕府、カラフト直捌場所差配人に、伊達林右衛門、志原半六に命じる。
○慶応3年(1867)・・箱館奉行、カラフト場所請負人廃止。出稼ぎ希望者を許可する旨通達。
○慶応4年(1868)・・新政府の箱館裁判所・権判事岡本監輔、農工民200人余を率い久春古丹(クシュンコタン)に赴任、公議所を設立。

[参考文献]
・「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・発行、1995)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター発行、1979)

・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道編発行、1936)

江戸城「波の間」~松前藩主への老中達しの座敷~

◎はじめに
文化4年(1807)3月22日、江戸城本丸「波の間」において、松前藩主・松前若狭守章広(あきひろ)に対し、老中列座のなか、老中・松平伊豆守信明(のぶあきら=三河・吉田藩主=)より、松前西蝦夷地一円の上知が達せられた。その江戸城本丸の「波の間」と松前家の関係について考察する。

1. 江戸城本丸の建設、炎上、再建
まず、江戸城本丸の建築、炎上、再建について触れる。
① 慶長11年(1606)3月・・本丸構築
② 寛永14年(1637)8月・・本丸改築の竣工
③ 寛永16年(1639)8月・・本丸焼失(1回目)
④ 寛永17年(1640)4月・・本丸再建(第1次再建)
⑤ 明暦3年(1657)1月・・いわゆる「振袖大火」で天守閣、本丸、二の丸、三の丸まで炎上(以後、天守閣は再建されていない)(2回目)
⑥ 万治2年(1659)8月・・本丸再建(第2次再建)
⑦ 天保15年(1844)5月・・本丸炎上(3回目)
⑧ 弘化2年(1845)2月・・本丸修築終わる(第3次再建)
⑨ 安政6年(1859)10月・・本丸炎上(4回目)
⑩ 万延元年(1860)・・本丸再建(第4次再建)
⑪ 文久3年(1863)6月・・江戸大火で本丸、西の丸類焼し、全焼(5回目)西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、本丸は、再建されなかった。
・以上のように、本丸は5回炎上し、4回再建されている。

2. 「波の間」の概要
・位置・・白書院の西側、黒書院へ渡る「竹の廊下」の手前にあった。
・広さ・・22畳半(2間半×4間半)
・座敷障壁画と筆者・・絵画は「波千鳥」。
作者・・各座敷の絵画は、当然ながら、再建の都度、筆者は異なるが、「史料徳川幕府の制度」付録の「御本丸御殿各御座敷絵画竝ニ筆者」(以下「座敷絵画」)には、奥絵師(注1)・木挽町狩野派(注2)の養朴(注3)、同じく鍛冶橋狩野派(注4)の狩野探原(注5)の2名の名前がある。
 「狩野探原」は、前期「座敷絵画」によると、「弘化二乙己年御普請出来之節筆者」とあるから、彼が、本丸第4次再建後の「波の間」に「波千鳥」を描いたことになる。
 養朴が木挽町狩野を継いだのは、慶安3年(1650)だから、養朴が「波千鳥」を描いたのは第2次再建=万治2年(1659)=以降だろう。

3. 松前家の格付け
 松前家の対幕府関係での格付けには変遷があるが、享保4年(1719)には、幕府より月次礼席(注6)は、「万石以上」の指示を受けた。松前家はここに至って初めて正式に1万石格の「大名」となった。
「文化武鑑」の文化3年(1806)の項には松前藩は大名の最末尾に掲げられ、石高・領地については「無高 蝦夷松前一円従先祖代々領之」とある。なお、松前家の将軍お目見えの月次礼席の格は、「大広間」(注7)、城中の詰め間は、「柳の間」(注8)だった。

4. 老中達しがあった「波の間」
 老中から松前家に「波の間」で達しがあったのは、これが初めてではない。「松前年々記」に記されている「波の間」での老中達しの例を挙げてみる。
①元文6年(1716)2月11日の項に「傅吉(注9)同道登城、波之間ニテ願之通松前三郎兵衛(注10)三男傳吉養子被仰付、御老中列座久世大和守(注11)被仰渡」とあり、老中からの達しが「波の間」で行われている。
 この背景を述べると、松前藩6代藩主・矩広(のりひろ)には3人の男子がいたが、長男竹三郎と、3男卓之助は早世し、この年、元文6年(1716)正月13日、次男の橘太郎(きつたろう)富広も江戸で病死する。世継ぎがいなくなった松前家では、急遽、傅吉を養子に迎え嗣子とすることを幕府へ届け、この日、老中達しとなった。
②享保6年(1721)7月11日の項に「於波之間御老中列座井上河内守被申渡、志摩守跡式被下之仕置トウ之義志摩守時之様可仕旨被仰渡候」とある。前年の享保5年(1720)の暮12月21日、松前藩6代藩主・矩広が松前で死去、跡目相続願のため、嗣子の傅吉は翌享保6年(1721)6月15日松前出船、7月8日江戸着、同11日に登城し、前記のように「波の間」で、「跡式」安堵が老中より申し渡された。10月には従五位下・志摩守に叙任された。

◎結論
松前藩に対する、江戸城での「老中達し」は、「波の間」で行われたと推測する。
なお、「松前年々記」には、「祝儀献上」は「桧の間」で行われている。
 「松前年々記」に見る江戸城における松前家の応対座敷は
・将軍お目見え・月次礼席は、「大広間」
・老中達しは「波の間」
・祝儀献上は「桧の間」
であった。
 このような座敷扱いは、松前家だけのものなのか、松前家と同じ「柳の間」詰めの「従4位以下の外様大名」がすべて同様の扱いだったかどうかは、今後の研究課題としたい。

(注1)「奥絵師」・・江戸幕府御用絵師を「表絵師」というが、「奥絵師」は、その中でももっとも格式が高い職位。狩野探幽に始まる「鍜治橋狩野」、狩野尚信の「木挽町狩野」、狩野安信の「中橋狩野」狩野尚信の「浜町狩野」の四家を「表絵師」と区別して「奥絵師四家」と呼んだ。
(注3)「木挽町狩野派」・・奥絵師四家のひとつ。狩野尚信を祖とし、安永6年(1777)狩野典信(みちのぶ)が田沼意次から木挽町に土地を得て移転してから、この名で呼ばれるようになった。
(注3)「養朴」・・画家・狩野常信(寛永13.3.13-正徳3.1.27=1636-1713)の号。奥絵師四家(注2)の一つ、木挽町狩野(注3)の始祖・狩野尚信の長男として京都に生まれる。慶安3年(1650)父の後を継ぎ、内裏(だいり)障壁画制作に参加。の画家。養朴の名は「殿上の間」「黒書院・松溜」「連歌の間」にも見える。
(注4)「鍛冶橋狩野派」・・狩野探幽が元和3年(1617)徳川幕府より鍛冶橋門外に屋敷を拝領したことに始まる。
(注5)「狩野探原」・・狩野探淵の子。
(注6)「月次礼席」・・毎月の朔日、15日の将軍お目見・儀式。「朔望の礼」ともいう。ただし、正月、1,4、7、12月は28日も登城した。格によって、お目見・儀式の際の座敷、順序が定められていた。
(注7)「大広間」・・玄関を入って左にある。上段、中段、下段の各間と、1から4の間まであり、溜、縁を含め490畳半あり、江戸城でもっとも広い座敷。
(注8)「柳の間」・・「大広間」の奥。庭を挟んで「松の廊下」の向い。「御次」と2間あり、いずれも48畳。従4位以下の外様大名の詰の間。松前章広は、「従5位下」。礼席は、主として外様大名の席。
(注9)「傅吉」・・松前藩7代藩主・松前邦広の幼名。
(注10)「松前三郎兵衛」・・幕臣・松前三郎兵衛本広。500石。小姓組から書院番。本広系江戸松前家の祖。祖父は松前初代藩主・慶広(よしひろ)の2男の忠広(幕臣となり、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で奮戦し1000石加増の2000石となった。忠広系江戸松前家の祖)。
(注11)「久世大和守」・・久世重之。大名。幕臣。重之一代のときに関宿藩から備中・庭瀬ついで丹波・亀山さらに三河・吉田へとめまぐるしく転封をつづけ、宝永2年(1705)再び関宿に復帰する。本論の元文6年(1716)2月11日当時は、三河・吉田藩主。正徳3年(1713)~享保5年(1720)まで老中。

<参考文献>
・「史料徳川幕府の制度」(小野清著、高柳金芳校訂、人物往来社、1968)
・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道、1936)
・「松前年々記」(「松前町史史料編第1巻」所収、松前町、1974)
・「松前町史通説編第1巻上」(松前町史編集室編、松前町、1984)
・「文化武鑑1」(石井良助監修、柏書房、1981)

前島密と蝦夷地・北海道

わが国郵便制度の創始者・前島密と蝦夷地・北海道とのつながりを記す。

◎安政5年から巻退蔵と自称しこの年の11月、箱館におもむき諸術調所に入門、武田斐三郎に航海学を学び、安政6年、奉行から預けられた箱館丸に乗り、北海を巡航し、更に転じて南海に出て、摂津・播磨・上総・下総から陸奥を経て南部の宮古に越冬し、翌万延元年箱館にもどる。翌文久元年には、亀田丸に乗ってロシア領ニコライエフスクにも航海した。
 当時、航海術を実地に学べるところは箱館と長崎より他になく、特に武田斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に頁献する有為の人材を生むに至った。門下生には山尾庸三、井上勝、蛇子末次郎、今井兼輔などがおり、前島密もその一人であった。

◎明治元年3月、蝦夷地開拓につき陳情。明治初期開拓使設置当初のころ、開拓使はその地名に漢字をあて政府に報告していたが、密は北海道の地名はアイヌ語よりその源を発しているので、仮名で書くのが適当ではないかといい、以来北海道との深い関わりが生れた。(「はこだて人物史」より転載)

◎明治新政府の首都について、江戸遷都を説く。首都としての江戸の長所を6項目挙げ、その第一に、「蝦夷地開拓が進むと、江戸は日本の中央になる」と論じた。

幕府の蝦夷地直轄の背景・経過と松前藩の代地・移封

○東蝦夷地ウラカワ以東の仮上知
<背景と経過>
・寛政元年(1789)クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起、同4年ロシア使節ラックスマンの来航、寛政8・9年(1796~97)ブロートン指揮する英国船プロビデンス号内浦湾へ来航・・幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。
・寛政10年(1798)3月、目付渡辺久蔵らに蝦夷地巡見を命じる。11月帰府、幕府に詳細を報告。
・幕府、蝦夷地直轄の方針を固め、同年12月、書院番頭・松平忠明に「蝦夷地御用」を命じる。
・寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地を当分の間試みに上知する旨松前藩に通達。
・同年2.11・・上知の期間を7ケ年、範囲をウラカワよりより知床及びクナシリまで)試みに仮上知する旨、松前藩に通達。

○シリウチ川以東の追上知
・同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
<背景>
・幕吏の松前藩支配下の東蝦夷地通行の負担が増大し、東蝦夷地の領有がかえって負担になるという状態にみまわれた。
・いずれ箱館を含む和人地も上知の対象となることを予測し、少しでも有利な条件を手に入れるため、先手を打ったという見方もある(松前町史)
・同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
・同年.9.28・・幕府、代地5000石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)

○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。

○東蝦夷地の永上知
<背景と経過>
・箱館奉行、幕府に対し、松前藩が蝦夷地警備に何ら力を注がないとして、①「蝦夷東西一円永上知」②「東蝦夷地のみ永上知、西蝦夷地は松前家に任せ、成績があがらなければ、残らず上知」の二案を建議。
・享和2年(1802).7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。永上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
松前藩の財政は、大きく圧迫された。

○蝦夷地一円の上知
<経過>
・文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余

総領知高 18,626石余

○同年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

松前藩の梁川移封

○文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
総領知高 18,626石余

「石狩挽歌とニシン漁」

日時:2006年8月17日(木)13:30~15:40
場所:札幌市東区民センター2階視聴覚室(札幌市東区北11条東7丁目)
参加費は無料。ご希望の方は直接会場へ。(予約不要)
主催:札幌市社会教育協会
演題:「石狩挽歌とニシン漁~笠戸丸の生涯を中心に~

「石狩挽歌」と笠戸丸-2-

3.豪華客船になった「笠戸丸」
・1909(M42)大坂商船(日本郵船と並ぶ海運界の雄)が「笠戸丸」を台湾航路に使用するため借用。客船として大改造される。大ホール、柱、壁、調度品に立派な彫刻が施された。
・日清戦争後、日本は、台湾を領有、台湾航路開発を競う。笠戸丸は、1910(M43)4月、神戸~キールン間に就航。日本郵船も、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。翌1911(M45)大坂商船は、笠戸丸を海軍省から購入。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・2度目のブラジル行き・・第一次世界大戦(1914=T3)の勃発で、日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴びる。大坂商船は、笠戸丸を投入、1916年(T5)12月神戸出港。ドイツ潜水艦の目を避けるため迷彩を施す。商船として始めて笠戸丸がブエノスアイリスに入港。
・帰国後、再び台湾航路に就く。
○1927(S2)、病院船として揚子江へ
・同年5月、田中義一内閣、山東出兵を決める。7~9月、笠戸丸は、揚子江へ3度出動、上海~南京~漢口まで遡る。
・同年10月、インド・カルカッタ航路第1船となり、神戸を出港。

4.工船、そして軍徴用船になった笠戸丸
・造船技術の進歩のなかで、海運業者は、優秀船舶の建造をはじめ、明治期の客船は引退の時期を迎えた。
・いわし工船・・・1930(S5)、東洋興行に売却。同社は、いわしの工船漁業に乗り出し、笠戸丸を購入。笠戸丸は「商船」として終止符を打つ。
笠戸丸を母船とする、いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場とした。いわし工船漁業は、不漁のため、翌1931(S6)年に中止となる。
・1932(S7)、新興水産に移籍、笠戸丸は、ミール工船としてアラスカ沖で働く(太平洋漁業は、信濃丸をミール工船漁業に起用)
・翌1933(S8)も笠戸丸と信濃丸がミール工船としてアラスカ沖に出漁し競い合った。
・カニ工船・・工船カニ漁業を取り仕切った日本水産。笠戸丸は、1938(S13)、日本水産所有の最大の工船となり、西カムチャッカへ出漁。
*サケマス工船の信濃丸とカニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・1941(S16)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船として徴用される。
・1944(S19)7月3日、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、5日、小樽出港、目的地は北千島ホロムシロ島・柏原湾。笠戸丸は、その後、カムチャッカのサケマス漁場の工場へ漁夫、女工300人の輸送にあたる。途中、船団の護衛艦・「薄雲」、魚雷を受け轟沈。陸軍徴用船の「太平丸」も沈む。笠戸丸は、無事、西カムチャッカの漁場に着く。
・1945(S20)4月、中国・大連から塩を運搬中、日本海で潜水艦の攻撃を受け被弾。

○1944(S19)千島、北海道近海で撃沈された軍艦、輸送船
・輸送船「日蓮丸」、駆逐艦「白雲」・・3月16日、厚岸沖、死者3000余名
・輸送船「伏見丸」・・5月3日、ウルップ島沖、死者594名
・輸送船「まどらす丸」・・中部千島・マツワ島沖、死者139名
・輸送船「高島丸」・・6月13日、北千島アライド島沖、死者45名。高島丸稚泊航路(稚内~大泊)の豪華客船だったが、軍に徴用され、千島航路に就航、「花の輸送船」といわれた。
・輸送船「大平丸」・・7月9日、北千島アライド島沖、死者956名。
・日魯漁業でも「神武丸」「正気丸」が沈没した。

○1945年の出漁と日魯の対応
・平塚常次郎社長は出漁中止の意向だったが、政府は「今やソ連は外国との唯一のパイプである。そのつながりを維持するためにも是非出漁すべし」と閣議決定した。

・当初、信濃丸を本部線として、6隻で船団を組む計画。
・7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、山東丸が銃撃を受け出漁不能となる。

○北海道空襲(北海道・東北空襲)
・7月14日~15日、ホルジ海軍大将率いるアメリカ海軍第3艦隊が八戸沖東方海上から北海道・東北を攻撃、小樽攻撃は15日、笠戸丸、船首に被弾するも無事。
・7月25日、第2龍寶丸(2230トン)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽出港
・8月1日、西カムチャッカ・ウトカ沖に到着。
・8日、積荷作業完了(新巻2100函、缶詰2300函、塩蔵マス550トンなど)
この日、ソ連、対日宣戦布告。
・9日、午前、乗船者に下船命令。午後1時55分、ソ連戦闘機攻撃開始、夕刻、沈没。

○8月16日、ソ連軍カムチャッカのロパトカ岬(細川かたしが「北緯50度」で歌う)
から占守島を砲撃、18日、ソ連が占守島の北岸「武田浜」に奇襲上陸、日本守備隊との壮絶な戦闘が展開された。第91師団長・堤不夾貴(ふさき)中将は終戦後にも関わらず戦闘命令を発令。戦いは熾烈を極めた。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回り、一説によれば8月20日の停戦までに軍の戦死者八百余名、ソ連の戦死者三千余名とも言われている。23日になってやっと局地停戦協定が結ばれ戦闘が終わった。
ソ連、9月1日、全千島の占領完了。
・北洋での漁業者の犠牲・・カムチャッカで600人以上、北千島で1500人、樺太で150人以上がソ連軍に抑留された。明治6年の千島・樺太交換条約以来、70年に亘って日本漁民の地と汗で営々として築いた北洋漁業は、一旦終止符を打った。再開は、戦後・昭和27年まで待たねばならない。
<信濃丸>(6388トン)
・日本も、航海奨励法、造船奨励法(1896年)で、海運、造船の整備拡充を図った。
・1900年(M33)、イギリス・グラスゴーで進水。国策会社・日本郵船が発注。欧州航路の定期客船となる。
1093(M36)アメリカ航路に転じる。永井荷風が信濃丸でアメリカに渡る。「あめりか物語」を書く。
・日本海海戦で有名・・・信濃丸(日露戦争時は、徴用され巡洋艦となる)1905年5月27日午前3時、信濃丸はロシア艦隊の病院船「アリヨール」号(1899年、「カザン」と同様に、ニューキャスルで建造された)を発見、「敵艦見ゆ」を聯合艦隊旗艦・「三笠」に打電。パルチック艦隊発見の第1報。連合艦隊、大本営に「天気晴朗なれども波高し」を打電。
・午後2時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚を図ったエピソードが有名。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」が告げられた。
28日、日本側の完勝のうちに終わる。
・戦後の1906年、再び、北米シアトル航路に就く。
・1910(M43)、日本郵船は、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・1929(S4)、北進汽船に売却
・1930(S5)、日魯漁業へ売却、
・1932(S7)、太平洋漁業へ売却、アラスカ沖のミール工船となる。後、サケマス工船となる。
・1938(S13)サケマス工船となり、カニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。

・太平洋戦争中、南太平洋で輸送船となって働く。
・1945年7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、銃撃を受け出漁不能となる
・戦後、大陸からの引揚げ船として働き続ける。
・1950(S25)4月20日、ソ連からの集団引揚船の最終船として抑留されていた1244名を乗せてナホトカから舞鶴に入港。
・1951年(S26)、スクラップ。

Ⅱ.「石狩挽歌」に見るニシン漁
① ニシン漁の歴史・・その盛衰
② 歌詞に沿って・・「海猫」(ごめ)、「筒っぽ」、「ヤン衆」、「番屋」、「問い刺し網」、「にしん曇り」

【参考文献】
・「兄弟」(なかにし礼著、文藝春秋、1998)
・「船にみる日本人移民史」(山田廸生著、中公新書、1998)
・「航跡 ロシア船笠戸丸」(藤崎康夫著 時事通信社、1978)
・「日魯漁業経営史」(岡本信男編、水産社、1971)
・「戦時輸送船団史」(駒宮新七郎著、出版協同社 
1987)
・「鰊場物語」(内田五郎著、北海道新聞社、1978)

「石狩挽歌」と笠戸丸-1-

◎はじめに
・歌謡曲は歌って楽しむもので、歌詞を論じるなど、愚の骨頂ですがあえて、お話ししたいと思います。なかにし礼作詞の「石狩挽歌」の中に「沖を通るは笠戸丸」という歌詞がある。1900年(M33)に進水し、1945(S20)、北洋に沈むまでの45年間、まさに日本の近代化と歩みをともにしてきた笠戸丸の波乱に満ちた生涯を中心に話したい。

○作詞者・なかにし礼
・昭和13年9月、黒竜江省牡丹江市生まれ。67歳。本名中西礼三。
・昭和20年8月11日、(3日前の8月8日、ソ連は対日宣戦布告)牡丹江市(東部満州の拠点として関東軍が基地をおき、日本国内のさまざまな会社が木材加工・化学工業・食品など工場を進出させたため一大工業都市として人口は急増。1945年8月のソ連参戦により沿海州からソ連軍の大軍が攻め寄せ、牡丹江省は最前線となった。関東軍部隊は各地で壊滅、多くの死者を出しながら朝鮮北部方面へ引き揚げ、大量の中国残留日本人孤児が発生した。)を脱出、ハルピンで終戦を迎える。昭和21年10月、父母の故郷、小樽に着く。手宮西小学校2年に編入。
・翌昭和21年春、東京、ついで青森へ転居。
・立教大学卒業。
・はじめシャンソンの訳詞を手がけていたが、石原裕次郎の知遇を得て作詞家となり、阿久悠らと並び戦後日本歌謡曲界の主要な作詞家の一人。膨大な作品を世に出す。「今日でお別れ」「北酒場」「時には娼婦のように」など、ヒット曲も多い。そのひとつに「石狩挽歌」がある。
・作曲者は浜圭介、歌手は北原ミレイ。
・「石狩挽歌」は、この春、8歳のなかにし礼は、兄の政之が増毛でニシン漁を行ったその盛衰を目撃したことは背景にある。著書「兄弟」にその詳細が記されている。
・最近は、小説、エッセー執筆も本格化し、2000年には「長崎ぶらぶら節」で直木賞受賞。

Ⅰ.笠戸丸の船歴
1. 進水
・ 1900(M33)6月、イギリス・イングランド北部のニューカースル・アポン・タイン(「太陽の没することのない」と豪語する大英帝国を支える造船業を中心とする一大工業都市)のスワンハンター・アンド・ウィンガム・リチャードソン造船所で建造。
・ 仕様・・長さ400フィート(120M)、幅50フィート(15M)、
 6023トン、速力14.5ノット、航続距離9000カイリ
2.ロシア船として
①「ポトシ」・・・進水時の船名。「ポトシ」はボリビア南部の都市。標高4100M。人の住む都市としては、世界最高地点。16世紀中頃には、世界で最大の町。スペイン人により発見された銀山セロ・リコで有名。しかし銀の掘削は、強制的に集められたインディオの奴隷により行われた。一説には、800万人が犠牲になったといわれ、「人を食う山」として恐れられた。1987年にセロ・リコ銀山を含め、他の構造物とともに世界遺産に登録される。奴隷制度の象徴として、負の世界遺産にも数えられている。
・所有者・・イギリスのPSNC社(パシフィック・スチーム・ナビゲーション社)。リバプール~バルパライソ間航路に就航する予定だったが輸送需要の急減で売却された。
②「カザン」・・・11万ポンドでロシア義勇艦隊協会(10世紀に創立。この頃は移民船が主事業で、有事の際武装し軍務につく補助船をそろえるねらい。政府が補助し、公団組織が保有)が購入。医療施設の整備など追加工事を行う。1000人収容の病院船に転用することが見込まれていた。つまり、後年、南米移民船となる条件が、最初から備わっていた。ロシアの造船地は、黒海のニコライエフ、バルト海のペテルスブルグだが、同年9月、義勇艦「カザン」として完成。「カザン」は、タタール共和国の首都(トルストイ、ゴーリキーも住んだ美しい古都。)
・オデッサが母港。オデッサ~長崎~ウラジオストック(1万カイリ)航路に投入。数航海後、日露戦争が勃発。
*オデッサ・・黒海に面したウクライナの港湾都市。1905年、日露戦争の最中、オデッサに停泊中の戦艦ポチョムキン号の兵士の反乱は、エイゼンシュタイン監督が無声映画「戦艦ポチョムキン」映画化され、モンタージュ手法を確立した映画として名高い。
③1903(M36)4月、ロシア海軍の作戦計画で商船「カザン」をロシア太平洋艦隊(通称ウラジオ艦隊)の補助船とし、ウラジオストック所属となった。実際は、大連・旅順を租借(日清戦争=1894-1895=M37-38)後の1895(M28)の「三国干渉」)したロシアは、天然の要塞港・旅順を主要基地とした。「カザン」も、旅順に配属された。
・日露開戦・・1904(M37)2月4日、御前会議、対露交渉打ち切り開戦決定。8日、日本陸軍部隊、仁川に上陸、・9日旅順港外のロシア艦船を攻撃。
東港に停泊の「カザン」に砲弾が当たり、船内火災を起こしたものの、堅牢な「カザン」は無事。10日、宣戦布告。13日、駆逐艦「朝霧」が旅順襲撃、港外に停泊中の「カザン」を攻撃、損害を受ける。
・旅順攻防の激化で、傷病兵が急増し、ロシア艦隊の病院船となり、傷病兵の手当てに当たる。
・11月、203高地をめぐり、激しい攻防戦。双方で2万人を超す死者。日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことでその闘いのすさまじさが伺える。12月5日、日本軍が占拠、山頂から旅順港内のロシア艦船を砲撃し主力艦を次々撃破。
・「カザン」も浸水、浅瀬に乗り上げた。(日本軍に捕獲されるのを避けるための自沈説もある)。
・1905(M38)1月1日、旅順のロシア軍将校ステッセル、乃木希典(のぎ まれすけ)第三軍司令官(大将)に降伏。
・ロシア・バルチック艦隊が日本海をめざしている中で、日本軍、使用可能なロシア艦船を戦力に加えるため、収容を急いだ。病院船「カザン」も収容される。
・5月12日、サルベージが終わり浮上。6月3日、「笠戸丸」と改名。

2.移民船「笠戸丸」として
①1905(M38)6月3日、「笠戸丸」と改名、日本海軍呉鎮守府所属の運兵船となる。呉のドックで修理、15日、陸軍船となり、三井物産との間に将兵の日本帰還輸送契約結ぶ。その後、満州軍復員の任務に就く。

*「笠戸」=瀬戸内海の西、山口県下松(くだまつ)市にある風光明媚な島の名前。地名の由来は、厳島明神が当地に笠を捨て置いたという伝説に由来。一説に、神(じん)功(ぐう)皇后が九州へ西下の途中、この島に一夜の宿を取り、翌朝、あまりの景色の美しさに、宿の戸口に笠をかけられたままご出発したことから、この島を「笠戸」と呼ぶようになったという説、厳島明神が当地に笠を捨て置いたという説も。
なお、同じ字で、昭和16年、戦時建造の甲型海防艦「笠戸」がある。こちらは「かさど」と濁る。昭和20年4月から7月にかけて、小樽港~占守島間を船団の護送にあたり、7月15日の空襲に会う。小樽港で、あるいは、北洋の海で、カニ工船「笠戸丸」と、海防艦「笠戸」は、遭遇していたかもしれない。

②翌1906年、軍徴用解除、海軍省に返還され、東洋汽船に維持使用を委託。8月26日、646人のハワイ移民を乗せて神戸を出航。これが移民船としての初航海。
③1907(M40)1月5日、第4回ペルー移民452人を乗せて神戸港からペルーのカイヤオ港に向け出航。
④6月4日、メキシコ移民276人を乗せてメキシコ・サリナクルズに向け横浜を出航。更に、10月23日294人を積んで、横浜を発つ。
⑤1908(M41)4.23・・第1回ブラジル移民船として移民781人を乗せ神戸出発、サントス(サンパウロの南80キロ。ブラジル最大の貿易港。)へ運ぶ。インド洋、ケープタウン経由で、6月18日、サントス入港。
・移民は、「保証金」と称して、所持金を船会社に預けさられ、返還されなかった。また、ボイラーマンが、責任者を刺し殺す事件など、船内で、ごたごたがあった。
日本でもブラジル日系人社会でも、この日が「移民の日」になっている。「笠戸丸」の名前を不朽のものにした。
・しかし、現地での労働は、過酷なものであった。
ブラジル日系人社会では、第1回移民とその子孫を「笠戸丸移民」と呼んでいる。サントアンドレ市(サンパウロとサントスの中間にある)には、「ルア・カサトマル」という通りもある。
・1回の航海だけで、笠戸丸は、1908(M41).12月、東洋汽船は、笠戸丸を海軍省に返還。

占守島での戦闘

<国会議事録から></大>

第134回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第2号 平成七年十二月六日(水曜日)

○国務大臣(中山正暉君) 北方領土問題というのは、御承知のように、終戦の年、昭和二十年の二月四日から十一日までヤルタ会談というのがございまして、四月十二日にルーズベルトは脳溢血で亡くなっていかれるわけでございますが、お体を大変悪くしておられたルーズベルトとスターリンとの間の話がこれの私は発端だと思っております。
 つまり、中国における日本の作戦行動が大変成功しておりましたので、ルーズベルトは焦りを感じまして、ぜひ日本に対する戦争に参加してほしいということをスターリンに要請したわけでございます。それに対しましてスターリンが要求をした場所というのが、満州それから北朝鮮、樺太、千島列島というような地域であったわけでございます。
 ドイツとの戦争が進んで五月九日に終戦を迎えておりますが、その後、三カ月後に日本との戦争に参加するということをそのときルーズベルトに約束をしておりますが、御承知のように七月十六日に原爆の実験に成功いたしまして、十七日から始まりましたポツダム会議、これはソ連はこのポツダム宣言には現地のポツダムでは署名をしておりません。八月二日でこのポツダム会議は終了するわけでございますが、原爆の投下によって突然に日本が終戦に向かった。
 これはまことに残念なことでございますが、日本の天皇陛下の玉音放送が御承知のように八月十五日の正午にございました。杉野、佐藤両旅団長のもとに八月十八日の午後四時ということで三宅坂の陸軍参謀本部からもう停戦命令が出ておりましたものですから、占守島第九十一師団の堤不夾貴中将はまさかその後に攻撃があると思っていなかったのでございますが、慌てたソ連軍は、戦争が済んで三日目に極東軍司令官のワシレフスキーがカムチャツカ半島にいたグネチコという将軍に対して攻撃命令を天皇の玉音放送の三時間後に発しております。
 それで、八千六百名の兵士、三十隻の上陸用舟艇、それから二十四隻の護衛艦、八十機の飛行機、これで突然攻撃を開始して、その島は八月十八日から九月三日、日本の終戦記念日は八月十五日でございますが、アメリカの日本に対する戦勝記念日は九月二日、ソ連の日本に対する戦勝記念日は九月三日となっております。
 終戦記念日とアメリカとロシアの戦勝記念日の間に半月の差があるのは、私はこれが大変な北方領土問題の根底を示すものだと思っておりますが、実は八月十六日に発せられた日本の占領行政命令第一号の中に、ルーズベルトがスターリンに約束した四つの場所の中で一つだけが欠けておりました。それが北方領土であったわけでございます。
 ロシアは千島列島に対する要求を突きつけてまいりまして、半月の間に次の大統領になりましたトルーマンとスターリンの間に書簡のやりとりがあって、ついにアリューシャン列島の中に一つソ連軍の基地を確保する、千島列島の中に米軍の基地を確保するということを条件に折り合ったのが事実上の戦勝記念日になったということでございます。

樺太開拓使

<樺太開拓使> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

樺太開拓使は、明治3年2月13日から明治4年8月7日まで、樺太開拓のために設けられた官庁である。開拓使から分離して設置されたが、一年余りで廃止して元に戻った。

樺太は江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約で日露雑居の地とされ、王政復古の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。裁判所時代から現地の行政は岡本監輔が執り、明治元年と2年から移住した日本人入植者約五百人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
この間ロシア側の移住と開発の速度は日本側を上回り、さらに日本人との紛争が頻発した。これには、現地の岡本が日露和親条約の効力を否定し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発を原則拒否する態度をとっていたことにも原因があった。岡本の考えは、日露和親条約は条約締結権のない徳川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改めて国境を決定しなければならないというものだった。この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識に立つ日本政府と異なるものであった。
岡本は事態の緊急性を告げるべく上京した。政府は報告に危機感を抱き、明治3年2月13日に樺太の所管を開拓使から分離して樺太開拓使を設置した。独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所を樺太開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。ついで5月9日に、黒田清隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命し、樺太専務とした。黒田は樺太視察に赴き、8月に現地に到着した。黒田は日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。岡本はこの年閏10月に辞職した。
東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれば三年しかもたないという建議を出し、北方開拓を本格化する必要を説いた。これが、開拓使十年計画という予算計画を産むことになった。十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太の状況は基本的に変わらなかった。樺太にはこれ以後高官が派遣されることも任命されることもなく、樺太開拓使は明治4年8月7日に廃止された。

一方、開拓使は、北方開拓のために明治2年7月8日から明治15年2月8日まで置かれた官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年 (1870年) 2月13日から明治4年 (1871年) 8月7日までは、北海道開拓使と称した。
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