森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

明治期の北海道の開拓(2)

○札幌本府づくり
・札幌を北海道の行政府の中心にする意見は、天明期の幕府調査隊山口鉄五郎、寛政・文化期の近藤重蔵、幕末の松浦武四郎も意見を述べている。
「他日ここ札幌に府を置きたまわば、石狩は不日にして(まもなく)大坂の繁栄を得べく、十里を遡(さかのぼ)り津石狩は伏見に等しき地となり、川舟三里を上がり、札幌の地ぞ帝京の尊きにも及ばん。・・手宮・高島は兵庫・神戸の両港にも譬(たと)うべし」(松浦武四郎「西蝦夷日誌」安政4年=1857=)
・島義勇(よしたけ。彼の銅像が札幌市役所にある)・・円山に登って、「札幌本府」建設の雄大な構想で始められた。島は南北基線の大友堀(創成川)と東西基線の銭函道(南一条道り)が交叉する橋(創成橋)を本府の中心とした。肥前(現在の佐賀県)出身の開拓判官・島義勇が札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れて札幌入りしたのは、この年の暮れのこと。このときの札幌中心部の人口は「2戸7人」と記録されている。近郊の住民はアイヌの人びとも含めてせいぜい100人ばかり。鹿や熊や狼がうろつく、太古のままの原野だった。島判官は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡したといいます。
彼の漢詩の1節
「4通8達 宜しく府を開くべし」 
他日5州第一の都」
予算をオーバーし、東久世長官と衝突し、退任。
・後任の岩村道俊判官の手で、創生橋(南1条)のたもとを基点に、幅60間(108M)の大通りで南北を分け、大友掘りを境に東西を分け60間四方の碁盤の目の整然とした市街地の建設が始まった。
・大通りの北は官庁街・官僚・お雇い外人の住宅、南は民家が中心。
・碁盤の目の街つくり・・「奈良・京都を模した」といわれるが、城下町に近い。島が住んだ佐賀城下によく似ているといわれる。
・明治5年(1872)9月、札幌に開拓使札幌本庁を置き、函館。根室、宗谷、浦河、樺太の5支庁を置いた。開拓使札幌本庁の落成は翌明治6年(1873)11月24日のこと。
・札幌周辺(元村、苗穂、丘珠、円山、月寒、平岸、篠路、白石、手稲など)に農民を募集して入植させる。
・すすきの・・開拓最前線に送り込まれた、役人はもとより、請負人・大工・職人・人夫らが一時に大量に札幌へ流れ込みました。妻子を東京に残して来た「札チョン族」の岩村通俊判官は、開拓のために札幌にやってきた男子をこの地に引きとめておく方策として、明治4年、薄井(うすい)龍之開拓使監事に命じて現在の南4、5条西3、4丁目の二町四方を土塁で囲み、中央には門を設置し、創成橋近辺の貸座敷、旅人宿、飲食店をここに移した。このために薄野は官許遊廓と呼ばれるようになりました。
「薄野遊廓」は、岩村判官により名づけられましたが、これはこの地を選んだ工事監事「薄井龍之」の姓にちなんだもの、というのが通説になっていますが、一説には当時この一帯が「茅野(すすきのの別称)」だったことから名づけられたという自然地名説もあり、本当のところは藪の中ならぬ、すすきの中、といったところでしょうか。すすきのの南はずれにある豊川稲荷の玉垣には、芸者の名前が刻まれています。

○黒田清隆の登場とケプロンなどお雇い外国人の登用
・明治3年(1870)5月、薩摩出身の黒田清隆、開拓次官となる。(樺太専務)
・同年10月、黒田は、樺太及び内政問題に関する建議を提出。北海道の開拓を西洋技術の導入によって進めることを示した。
・翌4年1月~5月まで欧米出張を命じられる。アメリカで、アメリカ農務長官ホーレス・ケプロンを開拓顧問に招くことに成功、その後の多数のお雇い外国人の招聘の道を開いた。
・同年8月、いわゆる「開拓使10年計画」が決まり、これまで1年20万円の「定額金」を10年で1000万円にすることが決まった。(年平均にすると100万円だから5倍に増額された)。屯田殖民費、幌内炭鉱起業費は別枠。
・政府がこの時期に北海道開拓に巨大な資金を投じた。開拓使時代の北海道経営費は、国家財政の4~5%、7%のときもあった。
・黒田清隆は、明治7年(1874)7月に、陸軍中将となり、屯田兵憲兵事務総理となり、屯田兵開拓長官となる。「黒田は陸軍、開拓使、政府の要職を一身に兼ねた。開拓使=黒田王国」ともいわれるもとが確立した」(榎本守恵著「北海道の歴史」)

明治期の北海道の開拓(1)

(これは、2006年10月14日の「高齢者市民講座」での講演の要旨です)

<報告要旨>
・北海道は、明治維新の内乱、戊辰戦争という近代日本の黎明期の激動に無縁ではなかった。箱館戦争の終結、開拓使の設置、移民と入植、屯田兵、炭鉱、鉄道の発展、ニシン漁の盛衰、農業開拓を重点とした拓殖政策など、明治期の北海道開拓の歴史を概括してみる。

1. 明治新政権と蝦夷地
○箱館戦争~旧幕脱走軍と五稜郭落城~
・慶応3年(1867)10月15日・・徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還、同年12月9日、朝廷は王政復古を宣言、270年に及ぶ江戸幕府は崩れ去った。
・つづいて、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の闘いをきっかけに、内乱、戊辰(ボシン・つちのえたつ)戦争へ突入。
・蝦夷地・・慶応4(1868)4月12日、箱館裁判所設置(旧幕府遠国奉行・郡代が置かれた重要地域に新政府が置いた行政機関。のち、同閏4月24日箱館府となる)、新政府、清水谷公考(きんなる)を蝦夷地に派遣、閏4月27日、旧幕府箱館奉行・杉浦勝誠(かつのぶ)から事務を引き継ぐ。松前藩は若手の正議(せいぎ)隊が決起し新政府支持を表明、厚沢部に館(たて)城新築にとりかかる。
・一方、旧幕府軍は、江戸城開城後も上野に立てこもって抵抗(彰義隊)するが壊滅、更に、会津戦争で、旧幕府軍、敗北。白虎隊の悲劇。
・旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、旗艦・開陽丸(幕府が注文しオランダで建造。2800トン、400馬力、大砲26門を備えた当時日本最強の軍艦)など8隻で品川沖を出帆、旧幕敗走兵らを収容し、蝦夷地をめざして北上。
・明治改元は、9月8日。「慶応4年」を「明治元年」と改める。
・10月20日、榎本武揚率いる脱走軍艦隊・開陽丸以下7隻が内浦湾に現れた。土方歳三らは鷲ノ木に上陸。箱館に向い五稜郭を占領。清水谷箱館府知事以下、箱館を退去、青森に移る。
・11月1日、榎本は開陽丸で箱館港に至り、五稜郭に無血入城。11月5日、松前落城。城下7500戸のうち5000戸が焼失。
・11月15日、江差を攻撃した旗艦・開陽丸は江差沖で座礁・沈没。榎本軍の海軍力は一挙にくずれた。
・12月15日、全道平定を箱館在留各国領事に通告。公選で総裁榎本以下を決める。
・五稜郭落城
・明治2年春4月9日、政府軍8000人は、乙部に上陸、第2軍、第3軍あわせて1万2000人。迎え撃つ榎本軍は3000人で奮闘するも、政府軍、福山奪回、箱館へ進撃、箱館海戦にも勝利する。
・5月18日、榎本武揚以下、五稜郭を出て降伏。
・ここに、鳥羽・伏見の戦い以来、約1年半続いた戊辰戦争は、終結し、明治維新政府は名実ともに全国支配を確立した。蝦夷地(五稜郭)は、江戸幕藩体制の終焉の地となったといえる。
・エピソード・・①政府軍参謀・黒田清隆は、降伏入牢した榎本の助命のため、坊主頭になって奔走。のち、黒田は、出獄後の明治5年(1872)榎本武揚を開拓使4等出仕(しゅっし)として採用している。
②政府軍戦死者は、政府軍によって埋葬されたが、榎本軍の遺体は放置されてが、箱館の侠客・柳川熊吉(江戸の新門辰五郎の子分といわれる)は政府軍のおどしに屈せず、遺体を集めて葬った。明治8年(1875)、八幡宮の裏山に碧血(へきけつ)碑が建てられた。
③箱館病院長・高松凌雲は、敵味方を問わず傷病兵を治療し、捕虜を送還するなど、わが国最初の赤十字精神の発露とたたえられている。
・箱館戦争の終結が、近代日本の黎明期の激動に終止符を打った。後に、榎本武揚ほか、脱走軍幹部の多くは、開拓使官僚として登用された。

2. 開拓使の設置と北海道開拓
○北海道の誕生
・開拓使設置・・明治2年7月8日、太政官制の改革に伴い、中央官庁のひとつとして設置され、北海道と樺太、千島を管轄することになった。初代長官・鍋島直正(前佐賀藩主。わすか2ケ月で一度も北海道に来なかった)。次官に清水谷公考、開拓判官に、島義勇(よしたけ)、岩村通俊、松本十郎、岡本監輔(かんすけ)、松浦武四郎らが開拓判官に任じられた。
・「北海道」の命名・・同年8月15日、蝦夷地一円を「北海道」と命名。11ケ国86郡を置く。(開拓判官・松浦武四郎が提案)。千島全域を「千島郡」とする。
・松前藩は、版籍奉還後、「館藩」と称していたが「館県」、「弘前県(のち青森県)」の管轄を経て開拓使所管に入った。
・8月25日、2代目長官に東久世通禧(みちよし。ミチトミとも)が任命される。9月30日、旧箱館裁判所を「開拓使出張所」と改称。10月根室、宗谷に開拓使出張所を置く。
・広い北海道の開拓のため、諸藩に分割(分領)開拓・・水戸、佐賀、徳島など20藩以上が出願。出願しない鹿児島、金沢など大藩には強制割当。その他、伊達邦成(くにしげ)、片倉邦憲(くにのり)などの士族、東京府、増上寺など、行政庁、寺院にも分領させた。この分領開拓は、ほとんど成果がなく、明治4年7月の廃藩置県で終わる。開拓使が全道を管轄するのは、明治5年秋のこと。

蝦夷地上知に際しての松前藩への処置

◎文化4年(1807)3月22日、松前藩主・松前章広へ松前西蝦夷地一円の上知が命じられた。
その達しの中に「先達而東蝦夷地上地被仰出、従公儀御処置被仰付候」とあるが、その「処置」と、あわせて、以後の松前西蝦夷地上知、復領、再直轄の際の「処置」を概括する。

1.東蝦夷地上知
寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地(ウラカワより知床及び東奥島々まで)を当分(7ケ年)、試みに仮上知する旨、松前藩に通達。
○同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
○同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
○同年.9.28・・幕府、代地500石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)

○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。
○同年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。仮上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。

2.松前西蝦夷地一円の上地
文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
奥州伊達郡梁川(現福島県伊達郡梁川町)9000石に移封。
<飛び地>
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
<合計>
総領知高 18,626石余

3.松前藩復領
○文政4(1821).12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

4.幕府再直轄
○嘉永7(1854).6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2(1855).2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

5.松前地の一部返還
○元治元年(1865)7月7日・・松前崇広(たかひろ)(松前藩12代藩主)、老中格陸海軍総奉行に就任、同年11月10日、老中となった。同年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

カラフト場所の請負人と運上屋・番屋等(年表)

◎江戸期の文書には、松前藩及び場所請負人の現地の建物・施設のことを、「運上屋」、「番屋」、更に、幕府直轄時代には「会所」、「勤番所」ともよばれた。別に「陣屋」が置かれた時期もあった。以下、その略年表を記す。
◎文化3年(1806)9月11日のロシア人樺太襲撃時は、樺太は松前藩が直営していた。
◎カラフト場所の勤務実態
「寛政の始にいたり、運上屋体の家居も補理ひ、軽き家来も少々渡し、漁業其外処置するといへども、只首夏(しゅか=夏の初め。初夏)より初秋までの事にて、家来は引取、番人体の町人三四人ヅツ爰かしこの運上屋に越年するまで也。然るに文化三寅年九月十一日・・此時は例のごとく松前氏の家来は引取たる跡也」(「休明光記」巻之七)

○寛政2年(1790)・・樺太調査を命じられた松前藩士の高橋荘四郎、鈴木熊蔵、松前平角ら番屋をシラヌシ、荷物小屋をトンナイ、クシュンコタンに設置。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。しかし、寛政8年(1796)3月、松前藩の叱りを蒙り差配場所(ソウヤ、シャリ、カラフト)を引上げられる(大阪商人小山屋権兵衛の手代が8代藩主・松前道広の妾の兄の板垣豊四郎と結んで道広に取り入り、伝兵衛差配の良場所を獲得するため謀計をめぐらし伝兵衛を陥れたという)
○寛政8年(1796)・・大坂商人小山屋権兵衛、松前藩士板垣豊四郎、カラフト場所を請負う。
○寛政9年(1797)・・板垣豊四郎、単独でカラフト場所を請負う(資本は栖原角兵衛)
○寛政12年(1800)・・松前藩、カラフトを直営(藩士・高橋荘四郎、目谷安次郎管理し、摂州兵庫津の商人柴谷長太夫差配す)
○文化4年(1807)・・柴谷長太夫、カラフト場所を請負う。
○文化6年(1809)
・幕府、シラヌシ、クシュンコタンに「勤番所」を置く。
・6月、幕府、カラフト島を「北蝦夷地」と唱えるべき旨、達する。
・伊達林右衛門、栖原三右衛門、カラフト場所請負人となる。両氏共同商会を「北帳場」と称する。以後、明治8年(1875)まで継続。
・津軽藩、この年以降文化11年(1814)まで、カラフト警備を命じられる。夏季にクシュンコタン、ルータカ、シラヌシに陣屋を置く。(本陣は増毛)
○文政4年(1821)・・幕府、蝦夷地を松前藩に返還、松前藩、夏季のみ、シラヌシ、クシュンコタンに勤番所を置く。
○安政3年(1856)・・越後の大庄屋・松川弁之助、カラフト奥地漁場開発を出願、幕府、北蝦夷地知床・ノタサン以北を直捌地とし、松川弁之助を差配人とし、漁場の開発、産物取開きなどを命じる。
○安政4年(1857)・・越後の鳥井権之助、カラフト奥地差配人を命じられる。
○安政5年(1858)
・箱館奉行、鳥井権之助に加え新たに越後・水原村の佐藤忠蔵、同・中村浜の佐藤広右衛門に北蝦夷地直捌差配人を命じる。
・越前大野藩、カラフト西岸ライチシカより北ホロコタンまでの間に土農を移すこと、ウショロに「元会所」設置を許可される。
・山田文右衛門(サル・ユウフツの場所請負人)、カラフト直捌場所出願、許可される。
・箱館奉行調役荒井金助指揮により、並城六郎、クシュンナイに漁場を開設。
・箱館奉行定役小田井蔵太、東岸シスカ川漁場開発許可される。
○文久2年(1862)・・この年のカラフト勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ、ワーレ、クシュンナイの5ケ所
・安房・勝山藩、藩士渡辺隆之助をカラフトに派遣、シスカに漁場を開設。
○元治元年(1864)・幕府、カラフト直捌場所差配人に、伊達林右衛門、志原半六に命じる。
○慶応3年(1867)・・箱館奉行、カラフト場所請負人廃止。出稼ぎ希望者を許可する旨通達。
○慶応4年(1868)・・新政府の箱館裁判所・権判事岡本監輔、農工民200人余を率い久春古丹(クシュンコタン)に赴任、公議所を設立。

[参考文献]
・「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・発行、1995)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター発行、1979)

・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道編発行、1936)

江戸城「波の間」~松前藩主への老中達しの座敷~

◎はじめに
文化4年(1807)3月22日、江戸城本丸「波の間」において、松前藩主・松前若狭守章広(あきひろ)に対し、老中列座のなか、老中・松平伊豆守信明(のぶあきら=三河・吉田藩主=)より、松前西蝦夷地一円の上知が達せられた。その江戸城本丸の「波の間」と松前家の関係について考察する。

1. 江戸城本丸の建設、炎上、再建
まず、江戸城本丸の建築、炎上、再建について触れる。
① 慶長11年(1606)3月・・本丸構築
② 寛永14年(1637)8月・・本丸改築の竣工
③ 寛永16年(1639)8月・・本丸焼失(1回目)
④ 寛永17年(1640)4月・・本丸再建(第1次再建)
⑤ 明暦3年(1657)1月・・いわゆる「振袖大火」で天守閣、本丸、二の丸、三の丸まで炎上(以後、天守閣は再建されていない)(2回目)
⑥ 万治2年(1659)8月・・本丸再建(第2次再建)
⑦ 天保15年(1844)5月・・本丸炎上(3回目)
⑧ 弘化2年(1845)2月・・本丸修築終わる(第3次再建)
⑨ 安政6年(1859)10月・・本丸炎上(4回目)
⑩ 万延元年(1860)・・本丸再建(第4次再建)
⑪ 文久3年(1863)6月・・江戸大火で本丸、西の丸類焼し、全焼(5回目)西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、本丸は、再建されなかった。
・以上のように、本丸は5回炎上し、4回再建されている。

2. 「波の間」の概要
・位置・・白書院の西側、黒書院へ渡る「竹の廊下」の手前にあった。
・広さ・・22畳半(2間半×4間半)
・座敷障壁画と筆者・・絵画は「波千鳥」。
作者・・各座敷の絵画は、当然ながら、再建の都度、筆者は異なるが、「史料徳川幕府の制度」付録の「御本丸御殿各御座敷絵画竝ニ筆者」(以下「座敷絵画」)には、奥絵師(注1)・木挽町狩野派(注2)の養朴(注3)、同じく鍛冶橋狩野派(注4)の狩野探原(注5)の2名の名前がある。
 「狩野探原」は、前期「座敷絵画」によると、「弘化二乙己年御普請出来之節筆者」とあるから、彼が、本丸第4次再建後の「波の間」に「波千鳥」を描いたことになる。
 養朴が木挽町狩野を継いだのは、慶安3年(1650)だから、養朴が「波千鳥」を描いたのは第2次再建=万治2年(1659)=以降だろう。

3. 松前家の格付け
 松前家の対幕府関係での格付けには変遷があるが、享保4年(1719)には、幕府より月次礼席(注6)は、「万石以上」の指示を受けた。松前家はここに至って初めて正式に1万石格の「大名」となった。
「文化武鑑」の文化3年(1806)の項には松前藩は大名の最末尾に掲げられ、石高・領地については「無高 蝦夷松前一円従先祖代々領之」とある。なお、松前家の将軍お目見えの月次礼席の格は、「大広間」(注7)、城中の詰め間は、「柳の間」(注8)だった。

4. 老中達しがあった「波の間」
 老中から松前家に「波の間」で達しがあったのは、これが初めてではない。「松前年々記」に記されている「波の間」での老中達しの例を挙げてみる。
①元文6年(1716)2月11日の項に「傅吉(注9)同道登城、波之間ニテ願之通松前三郎兵衛(注10)三男傳吉養子被仰付、御老中列座久世大和守(注11)被仰渡」とあり、老中からの達しが「波の間」で行われている。
 この背景を述べると、松前藩6代藩主・矩広(のりひろ)には3人の男子がいたが、長男竹三郎と、3男卓之助は早世し、この年、元文6年(1716)正月13日、次男の橘太郎(きつたろう)富広も江戸で病死する。世継ぎがいなくなった松前家では、急遽、傅吉を養子に迎え嗣子とすることを幕府へ届け、この日、老中達しとなった。
②享保6年(1721)7月11日の項に「於波之間御老中列座井上河内守被申渡、志摩守跡式被下之仕置トウ之義志摩守時之様可仕旨被仰渡候」とある。前年の享保5年(1720)の暮12月21日、松前藩6代藩主・矩広が松前で死去、跡目相続願のため、嗣子の傅吉は翌享保6年(1721)6月15日松前出船、7月8日江戸着、同11日に登城し、前記のように「波の間」で、「跡式」安堵が老中より申し渡された。10月には従五位下・志摩守に叙任された。

◎結論
松前藩に対する、江戸城での「老中達し」は、「波の間」で行われたと推測する。
なお、「松前年々記」には、「祝儀献上」は「桧の間」で行われている。
 「松前年々記」に見る江戸城における松前家の応対座敷は
・将軍お目見え・月次礼席は、「大広間」
・老中達しは「波の間」
・祝儀献上は「桧の間」
であった。
 このような座敷扱いは、松前家だけのものなのか、松前家と同じ「柳の間」詰めの「従4位以下の外様大名」がすべて同様の扱いだったかどうかは、今後の研究課題としたい。

(注1)「奥絵師」・・江戸幕府御用絵師を「表絵師」というが、「奥絵師」は、その中でももっとも格式が高い職位。狩野探幽に始まる「鍜治橋狩野」、狩野尚信の「木挽町狩野」、狩野安信の「中橋狩野」狩野尚信の「浜町狩野」の四家を「表絵師」と区別して「奥絵師四家」と呼んだ。
(注3)「木挽町狩野派」・・奥絵師四家のひとつ。狩野尚信を祖とし、安永6年(1777)狩野典信(みちのぶ)が田沼意次から木挽町に土地を得て移転してから、この名で呼ばれるようになった。
(注3)「養朴」・・画家・狩野常信(寛永13.3.13-正徳3.1.27=1636-1713)の号。奥絵師四家(注2)の一つ、木挽町狩野(注3)の始祖・狩野尚信の長男として京都に生まれる。慶安3年(1650)父の後を継ぎ、内裏(だいり)障壁画制作に参加。の画家。養朴の名は「殿上の間」「黒書院・松溜」「連歌の間」にも見える。
(注4)「鍛冶橋狩野派」・・狩野探幽が元和3年(1617)徳川幕府より鍛冶橋門外に屋敷を拝領したことに始まる。
(注5)「狩野探原」・・狩野探淵の子。
(注6)「月次礼席」・・毎月の朔日、15日の将軍お目見・儀式。「朔望の礼」ともいう。ただし、正月、1,4、7、12月は28日も登城した。格によって、お目見・儀式の際の座敷、順序が定められていた。
(注7)「大広間」・・玄関を入って左にある。上段、中段、下段の各間と、1から4の間まであり、溜、縁を含め490畳半あり、江戸城でもっとも広い座敷。
(注8)「柳の間」・・「大広間」の奥。庭を挟んで「松の廊下」の向い。「御次」と2間あり、いずれも48畳。従4位以下の外様大名の詰の間。松前章広は、「従5位下」。礼席は、主として外様大名の席。
(注9)「傅吉」・・松前藩7代藩主・松前邦広の幼名。
(注10)「松前三郎兵衛」・・幕臣・松前三郎兵衛本広。500石。小姓組から書院番。本広系江戸松前家の祖。祖父は松前初代藩主・慶広(よしひろ)の2男の忠広(幕臣となり、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で奮戦し1000石加増の2000石となった。忠広系江戸松前家の祖)。
(注11)「久世大和守」・・久世重之。大名。幕臣。重之一代のときに関宿藩から備中・庭瀬ついで丹波・亀山さらに三河・吉田へとめまぐるしく転封をつづけ、宝永2年(1705)再び関宿に復帰する。本論の元文6年(1716)2月11日当時は、三河・吉田藩主。正徳3年(1713)~享保5年(1720)まで老中。

<参考文献>
・「史料徳川幕府の制度」(小野清著、高柳金芳校訂、人物往来社、1968)
・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道、1936)
・「松前年々記」(「松前町史史料編第1巻」所収、松前町、1974)
・「松前町史通説編第1巻上」(松前町史編集室編、松前町、1984)
・「文化武鑑1」(石井良助監修、柏書房、1981)

前島密と蝦夷地・北海道

わが国郵便制度の創始者・前島密と蝦夷地・北海道とのつながりを記す。

◎安政5年から巻退蔵と自称しこの年の11月、箱館におもむき諸術調所に入門、武田斐三郎に航海学を学び、安政6年、奉行から預けられた箱館丸に乗り、北海を巡航し、更に転じて南海に出て、摂津・播磨・上総・下総から陸奥を経て南部の宮古に越冬し、翌万延元年箱館にもどる。翌文久元年には、亀田丸に乗ってロシア領ニコライエフスクにも航海した。
 当時、航海術を実地に学べるところは箱館と長崎より他になく、特に武田斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に頁献する有為の人材を生むに至った。門下生には山尾庸三、井上勝、蛇子末次郎、今井兼輔などがおり、前島密もその一人であった。

◎明治元年3月、蝦夷地開拓につき陳情。明治初期開拓使設置当初のころ、開拓使はその地名に漢字をあて政府に報告していたが、密は北海道の地名はアイヌ語よりその源を発しているので、仮名で書くのが適当ではないかといい、以来北海道との深い関わりが生れた。(「はこだて人物史」より転載)

◎明治新政府の首都について、江戸遷都を説く。首都としての江戸の長所を6項目挙げ、その第一に、「蝦夷地開拓が進むと、江戸は日本の中央になる」と論じた。

幕府の蝦夷地直轄の背景・経過と松前藩の代地・移封

○東蝦夷地ウラカワ以東の仮上知
<背景と経過>
・寛政元年(1789)クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起、同4年ロシア使節ラックスマンの来航、寛政8・9年(1796~97)ブロートン指揮する英国船プロビデンス号内浦湾へ来航・・幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。
・寛政10年(1798)3月、目付渡辺久蔵らに蝦夷地巡見を命じる。11月帰府、幕府に詳細を報告。
・幕府、蝦夷地直轄の方針を固め、同年12月、書院番頭・松平忠明に「蝦夷地御用」を命じる。
・寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地を当分の間試みに上知する旨松前藩に通達。
・同年2.11・・上知の期間を7ケ年、範囲をウラカワよりより知床及びクナシリまで)試みに仮上知する旨、松前藩に通達。

○シリウチ川以東の追上知
・同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
<背景>
・幕吏の松前藩支配下の東蝦夷地通行の負担が増大し、東蝦夷地の領有がかえって負担になるという状態にみまわれた。
・いずれ箱館を含む和人地も上知の対象となることを予測し、少しでも有利な条件を手に入れるため、先手を打ったという見方もある(松前町史)
・同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
・同年.9.28・・幕府、代地5000石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)

○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。

○東蝦夷地の永上知
<背景と経過>
・箱館奉行、幕府に対し、松前藩が蝦夷地警備に何ら力を注がないとして、①「蝦夷東西一円永上知」②「東蝦夷地のみ永上知、西蝦夷地は松前家に任せ、成績があがらなければ、残らず上知」の二案を建議。
・享和2年(1802).7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。永上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
松前藩の財政は、大きく圧迫された。

○蝦夷地一円の上知
<経過>
・文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余

総領知高 18,626石余

○同年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

松前藩の梁川移封

○文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
総領知高 18,626石余

「石狩挽歌とニシン漁」

日時:2006年8月17日(木)13:30~15:40
場所:札幌市東区民センター2階視聴覚室(札幌市東区北11条東7丁目)
参加費は無料。ご希望の方は直接会場へ。(予約不要)
主催:札幌市社会教育協会
演題:「石狩挽歌とニシン漁~笠戸丸の生涯を中心に~

「石狩挽歌」と笠戸丸-2-

3.豪華客船になった「笠戸丸」
・1909(M42)大坂商船(日本郵船と並ぶ海運界の雄)が「笠戸丸」を台湾航路に使用するため借用。客船として大改造される。大ホール、柱、壁、調度品に立派な彫刻が施された。
・日清戦争後、日本は、台湾を領有、台湾航路開発を競う。笠戸丸は、1910(M43)4月、神戸~キールン間に就航。日本郵船も、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。翌1911(M45)大坂商船は、笠戸丸を海軍省から購入。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・2度目のブラジル行き・・第一次世界大戦(1914=T3)の勃発で、日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴びる。大坂商船は、笠戸丸を投入、1916年(T5)12月神戸出港。ドイツ潜水艦の目を避けるため迷彩を施す。商船として始めて笠戸丸がブエノスアイリスに入港。
・帰国後、再び台湾航路に就く。
○1927(S2)、病院船として揚子江へ
・同年5月、田中義一内閣、山東出兵を決める。7~9月、笠戸丸は、揚子江へ3度出動、上海~南京~漢口まで遡る。
・同年10月、インド・カルカッタ航路第1船となり、神戸を出港。

4.工船、そして軍徴用船になった笠戸丸
・造船技術の進歩のなかで、海運業者は、優秀船舶の建造をはじめ、明治期の客船は引退の時期を迎えた。
・いわし工船・・・1930(S5)、東洋興行に売却。同社は、いわしの工船漁業に乗り出し、笠戸丸を購入。笠戸丸は「商船」として終止符を打つ。
笠戸丸を母船とする、いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場とした。いわし工船漁業は、不漁のため、翌1931(S6)年に中止となる。
・1932(S7)、新興水産に移籍、笠戸丸は、ミール工船としてアラスカ沖で働く(太平洋漁業は、信濃丸をミール工船漁業に起用)
・翌1933(S8)も笠戸丸と信濃丸がミール工船としてアラスカ沖に出漁し競い合った。
・カニ工船・・工船カニ漁業を取り仕切った日本水産。笠戸丸は、1938(S13)、日本水産所有の最大の工船となり、西カムチャッカへ出漁。
*サケマス工船の信濃丸とカニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・1941(S16)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船として徴用される。
・1944(S19)7月3日、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、5日、小樽出港、目的地は北千島ホロムシロ島・柏原湾。笠戸丸は、その後、カムチャッカのサケマス漁場の工場へ漁夫、女工300人の輸送にあたる。途中、船団の護衛艦・「薄雲」、魚雷を受け轟沈。陸軍徴用船の「太平丸」も沈む。笠戸丸は、無事、西カムチャッカの漁場に着く。
・1945(S20)4月、中国・大連から塩を運搬中、日本海で潜水艦の攻撃を受け被弾。

○1944(S19)千島、北海道近海で撃沈された軍艦、輸送船
・輸送船「日蓮丸」、駆逐艦「白雲」・・3月16日、厚岸沖、死者3000余名
・輸送船「伏見丸」・・5月3日、ウルップ島沖、死者594名
・輸送船「まどらす丸」・・中部千島・マツワ島沖、死者139名
・輸送船「高島丸」・・6月13日、北千島アライド島沖、死者45名。高島丸稚泊航路(稚内~大泊)の豪華客船だったが、軍に徴用され、千島航路に就航、「花の輸送船」といわれた。
・輸送船「大平丸」・・7月9日、北千島アライド島沖、死者956名。
・日魯漁業でも「神武丸」「正気丸」が沈没した。

○1945年の出漁と日魯の対応
・平塚常次郎社長は出漁中止の意向だったが、政府は「今やソ連は外国との唯一のパイプである。そのつながりを維持するためにも是非出漁すべし」と閣議決定した。

・当初、信濃丸を本部線として、6隻で船団を組む計画。
・7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、山東丸が銃撃を受け出漁不能となる。

○北海道空襲(北海道・東北空襲)
・7月14日~15日、ホルジ海軍大将率いるアメリカ海軍第3艦隊が八戸沖東方海上から北海道・東北を攻撃、小樽攻撃は15日、笠戸丸、船首に被弾するも無事。
・7月25日、第2龍寶丸(2230トン)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽出港
・8月1日、西カムチャッカ・ウトカ沖に到着。
・8日、積荷作業完了(新巻2100函、缶詰2300函、塩蔵マス550トンなど)
この日、ソ連、対日宣戦布告。
・9日、午前、乗船者に下船命令。午後1時55分、ソ連戦闘機攻撃開始、夕刻、沈没。

○8月16日、ソ連軍カムチャッカのロパトカ岬(細川かたしが「北緯50度」で歌う)
から占守島を砲撃、18日、ソ連が占守島の北岸「武田浜」に奇襲上陸、日本守備隊との壮絶な戦闘が展開された。第91師団長・堤不夾貴(ふさき)中将は終戦後にも関わらず戦闘命令を発令。戦いは熾烈を極めた。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回り、一説によれば8月20日の停戦までに軍の戦死者八百余名、ソ連の戦死者三千余名とも言われている。23日になってやっと局地停戦協定が結ばれ戦闘が終わった。
ソ連、9月1日、全千島の占領完了。
・北洋での漁業者の犠牲・・カムチャッカで600人以上、北千島で1500人、樺太で150人以上がソ連軍に抑留された。明治6年の千島・樺太交換条約以来、70年に亘って日本漁民の地と汗で営々として築いた北洋漁業は、一旦終止符を打った。再開は、戦後・昭和27年まで待たねばならない。
<信濃丸>(6388トン)
・日本も、航海奨励法、造船奨励法(1896年)で、海運、造船の整備拡充を図った。
・1900年(M33)、イギリス・グラスゴーで進水。国策会社・日本郵船が発注。欧州航路の定期客船となる。
1093(M36)アメリカ航路に転じる。永井荷風が信濃丸でアメリカに渡る。「あめりか物語」を書く。
・日本海海戦で有名・・・信濃丸(日露戦争時は、徴用され巡洋艦となる)1905年5月27日午前3時、信濃丸はロシア艦隊の病院船「アリヨール」号(1899年、「カザン」と同様に、ニューキャスルで建造された)を発見、「敵艦見ゆ」を聯合艦隊旗艦・「三笠」に打電。パルチック艦隊発見の第1報。連合艦隊、大本営に「天気晴朗なれども波高し」を打電。
・午後2時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚を図ったエピソードが有名。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」が告げられた。
28日、日本側の完勝のうちに終わる。
・戦後の1906年、再び、北米シアトル航路に就く。
・1910(M43)、日本郵船は、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・1929(S4)、北進汽船に売却
・1930(S5)、日魯漁業へ売却、
・1932(S7)、太平洋漁業へ売却、アラスカ沖のミール工船となる。後、サケマス工船となる。
・1938(S13)サケマス工船となり、カニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。

・太平洋戦争中、南太平洋で輸送船となって働く。
・1945年7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、銃撃を受け出漁不能となる
・戦後、大陸からの引揚げ船として働き続ける。
・1950(S25)4月20日、ソ連からの集団引揚船の最終船として抑留されていた1244名を乗せてナホトカから舞鶴に入港。
・1951年(S26)、スクラップ。

Ⅱ.「石狩挽歌」に見るニシン漁
① ニシン漁の歴史・・その盛衰
② 歌詞に沿って・・「海猫」(ごめ)、「筒っぽ」、「ヤン衆」、「番屋」、「問い刺し網」、「にしん曇り」

【参考文献】
・「兄弟」(なかにし礼著、文藝春秋、1998)
・「船にみる日本人移民史」(山田廸生著、中公新書、1998)
・「航跡 ロシア船笠戸丸」(藤崎康夫著 時事通信社、1978)
・「日魯漁業経営史」(岡本信男編、水産社、1971)
・「戦時輸送船団史」(駒宮新七郎著、出版協同社 
1987)
・「鰊場物語」(内田五郎著、北海道新聞社、1978)

「石狩挽歌」と笠戸丸-1-

◎はじめに
・歌謡曲は歌って楽しむもので、歌詞を論じるなど、愚の骨頂ですがあえて、お話ししたいと思います。なかにし礼作詞の「石狩挽歌」の中に「沖を通るは笠戸丸」という歌詞がある。1900年(M33)に進水し、1945(S20)、北洋に沈むまでの45年間、まさに日本の近代化と歩みをともにしてきた笠戸丸の波乱に満ちた生涯を中心に話したい。

○作詞者・なかにし礼
・昭和13年9月、黒竜江省牡丹江市生まれ。67歳。本名中西礼三。
・昭和20年8月11日、(3日前の8月8日、ソ連は対日宣戦布告)牡丹江市(東部満州の拠点として関東軍が基地をおき、日本国内のさまざまな会社が木材加工・化学工業・食品など工場を進出させたため一大工業都市として人口は急増。1945年8月のソ連参戦により沿海州からソ連軍の大軍が攻め寄せ、牡丹江省は最前線となった。関東軍部隊は各地で壊滅、多くの死者を出しながら朝鮮北部方面へ引き揚げ、大量の中国残留日本人孤児が発生した。)を脱出、ハルピンで終戦を迎える。昭和21年10月、父母の故郷、小樽に着く。手宮西小学校2年に編入。
・翌昭和21年春、東京、ついで青森へ転居。
・立教大学卒業。
・はじめシャンソンの訳詞を手がけていたが、石原裕次郎の知遇を得て作詞家となり、阿久悠らと並び戦後日本歌謡曲界の主要な作詞家の一人。膨大な作品を世に出す。「今日でお別れ」「北酒場」「時には娼婦のように」など、ヒット曲も多い。そのひとつに「石狩挽歌」がある。
・作曲者は浜圭介、歌手は北原ミレイ。
・「石狩挽歌」は、この春、8歳のなかにし礼は、兄の政之が増毛でニシン漁を行ったその盛衰を目撃したことは背景にある。著書「兄弟」にその詳細が記されている。
・最近は、小説、エッセー執筆も本格化し、2000年には「長崎ぶらぶら節」で直木賞受賞。

Ⅰ.笠戸丸の船歴
1. 進水
・ 1900(M33)6月、イギリス・イングランド北部のニューカースル・アポン・タイン(「太陽の没することのない」と豪語する大英帝国を支える造船業を中心とする一大工業都市)のスワンハンター・アンド・ウィンガム・リチャードソン造船所で建造。
・ 仕様・・長さ400フィート(120M)、幅50フィート(15M)、
 6023トン、速力14.5ノット、航続距離9000カイリ
2.ロシア船として
①「ポトシ」・・・進水時の船名。「ポトシ」はボリビア南部の都市。標高4100M。人の住む都市としては、世界最高地点。16世紀中頃には、世界で最大の町。スペイン人により発見された銀山セロ・リコで有名。しかし銀の掘削は、強制的に集められたインディオの奴隷により行われた。一説には、800万人が犠牲になったといわれ、「人を食う山」として恐れられた。1987年にセロ・リコ銀山を含め、他の構造物とともに世界遺産に登録される。奴隷制度の象徴として、負の世界遺産にも数えられている。
・所有者・・イギリスのPSNC社(パシフィック・スチーム・ナビゲーション社)。リバプール~バルパライソ間航路に就航する予定だったが輸送需要の急減で売却された。
②「カザン」・・・11万ポンドでロシア義勇艦隊協会(10世紀に創立。この頃は移民船が主事業で、有事の際武装し軍務につく補助船をそろえるねらい。政府が補助し、公団組織が保有)が購入。医療施設の整備など追加工事を行う。1000人収容の病院船に転用することが見込まれていた。つまり、後年、南米移民船となる条件が、最初から備わっていた。ロシアの造船地は、黒海のニコライエフ、バルト海のペテルスブルグだが、同年9月、義勇艦「カザン」として完成。「カザン」は、タタール共和国の首都(トルストイ、ゴーリキーも住んだ美しい古都。)
・オデッサが母港。オデッサ~長崎~ウラジオストック(1万カイリ)航路に投入。数航海後、日露戦争が勃発。
*オデッサ・・黒海に面したウクライナの港湾都市。1905年、日露戦争の最中、オデッサに停泊中の戦艦ポチョムキン号の兵士の反乱は、エイゼンシュタイン監督が無声映画「戦艦ポチョムキン」映画化され、モンタージュ手法を確立した映画として名高い。
③1903(M36)4月、ロシア海軍の作戦計画で商船「カザン」をロシア太平洋艦隊(通称ウラジオ艦隊)の補助船とし、ウラジオストック所属となった。実際は、大連・旅順を租借(日清戦争=1894-1895=M37-38)後の1895(M28)の「三国干渉」)したロシアは、天然の要塞港・旅順を主要基地とした。「カザン」も、旅順に配属された。
・日露開戦・・1904(M37)2月4日、御前会議、対露交渉打ち切り開戦決定。8日、日本陸軍部隊、仁川に上陸、・9日旅順港外のロシア艦船を攻撃。
東港に停泊の「カザン」に砲弾が当たり、船内火災を起こしたものの、堅牢な「カザン」は無事。10日、宣戦布告。13日、駆逐艦「朝霧」が旅順襲撃、港外に停泊中の「カザン」を攻撃、損害を受ける。
・旅順攻防の激化で、傷病兵が急増し、ロシア艦隊の病院船となり、傷病兵の手当てに当たる。
・11月、203高地をめぐり、激しい攻防戦。双方で2万人を超す死者。日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことでその闘いのすさまじさが伺える。12月5日、日本軍が占拠、山頂から旅順港内のロシア艦船を砲撃し主力艦を次々撃破。
・「カザン」も浸水、浅瀬に乗り上げた。(日本軍に捕獲されるのを避けるための自沈説もある)。
・1905(M38)1月1日、旅順のロシア軍将校ステッセル、乃木希典(のぎ まれすけ)第三軍司令官(大将)に降伏。
・ロシア・バルチック艦隊が日本海をめざしている中で、日本軍、使用可能なロシア艦船を戦力に加えるため、収容を急いだ。病院船「カザン」も収容される。
・5月12日、サルベージが終わり浮上。6月3日、「笠戸丸」と改名。

2.移民船「笠戸丸」として
①1905(M38)6月3日、「笠戸丸」と改名、日本海軍呉鎮守府所属の運兵船となる。呉のドックで修理、15日、陸軍船となり、三井物産との間に将兵の日本帰還輸送契約結ぶ。その後、満州軍復員の任務に就く。

*「笠戸」=瀬戸内海の西、山口県下松(くだまつ)市にある風光明媚な島の名前。地名の由来は、厳島明神が当地に笠を捨て置いたという伝説に由来。一説に、神(じん)功(ぐう)皇后が九州へ西下の途中、この島に一夜の宿を取り、翌朝、あまりの景色の美しさに、宿の戸口に笠をかけられたままご出発したことから、この島を「笠戸」と呼ぶようになったという説、厳島明神が当地に笠を捨て置いたという説も。
なお、同じ字で、昭和16年、戦時建造の甲型海防艦「笠戸」がある。こちらは「かさど」と濁る。昭和20年4月から7月にかけて、小樽港~占守島間を船団の護送にあたり、7月15日の空襲に会う。小樽港で、あるいは、北洋の海で、カニ工船「笠戸丸」と、海防艦「笠戸」は、遭遇していたかもしれない。

②翌1906年、軍徴用解除、海軍省に返還され、東洋汽船に維持使用を委託。8月26日、646人のハワイ移民を乗せて神戸を出航。これが移民船としての初航海。
③1907(M40)1月5日、第4回ペルー移民452人を乗せて神戸港からペルーのカイヤオ港に向け出航。
④6月4日、メキシコ移民276人を乗せてメキシコ・サリナクルズに向け横浜を出航。更に、10月23日294人を積んで、横浜を発つ。
⑤1908(M41)4.23・・第1回ブラジル移民船として移民781人を乗せ神戸出発、サントス(サンパウロの南80キロ。ブラジル最大の貿易港。)へ運ぶ。インド洋、ケープタウン経由で、6月18日、サントス入港。
・移民は、「保証金」と称して、所持金を船会社に預けさられ、返還されなかった。また、ボイラーマンが、責任者を刺し殺す事件など、船内で、ごたごたがあった。
日本でもブラジル日系人社会でも、この日が「移民の日」になっている。「笠戸丸」の名前を不朽のものにした。
・しかし、現地での労働は、過酷なものであった。
ブラジル日系人社会では、第1回移民とその子孫を「笠戸丸移民」と呼んでいる。サントアンドレ市(サンパウロとサントスの中間にある)には、「ルア・カサトマル」という通りもある。
・1回の航海だけで、笠戸丸は、1908(M41).12月、東洋汽船は、笠戸丸を海軍省に返還。

占守島での戦闘

<国会議事録から></大>

第134回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第2号 平成七年十二月六日(水曜日)

○国務大臣(中山正暉君) 北方領土問題というのは、御承知のように、終戦の年、昭和二十年の二月四日から十一日までヤルタ会談というのがございまして、四月十二日にルーズベルトは脳溢血で亡くなっていかれるわけでございますが、お体を大変悪くしておられたルーズベルトとスターリンとの間の話がこれの私は発端だと思っております。
 つまり、中国における日本の作戦行動が大変成功しておりましたので、ルーズベルトは焦りを感じまして、ぜひ日本に対する戦争に参加してほしいということをスターリンに要請したわけでございます。それに対しましてスターリンが要求をした場所というのが、満州それから北朝鮮、樺太、千島列島というような地域であったわけでございます。
 ドイツとの戦争が進んで五月九日に終戦を迎えておりますが、その後、三カ月後に日本との戦争に参加するということをそのときルーズベルトに約束をしておりますが、御承知のように七月十六日に原爆の実験に成功いたしまして、十七日から始まりましたポツダム会議、これはソ連はこのポツダム宣言には現地のポツダムでは署名をしておりません。八月二日でこのポツダム会議は終了するわけでございますが、原爆の投下によって突然に日本が終戦に向かった。
 これはまことに残念なことでございますが、日本の天皇陛下の玉音放送が御承知のように八月十五日の正午にございました。杉野、佐藤両旅団長のもとに八月十八日の午後四時ということで三宅坂の陸軍参謀本部からもう停戦命令が出ておりましたものですから、占守島第九十一師団の堤不夾貴中将はまさかその後に攻撃があると思っていなかったのでございますが、慌てたソ連軍は、戦争が済んで三日目に極東軍司令官のワシレフスキーがカムチャツカ半島にいたグネチコという将軍に対して攻撃命令を天皇の玉音放送の三時間後に発しております。
 それで、八千六百名の兵士、三十隻の上陸用舟艇、それから二十四隻の護衛艦、八十機の飛行機、これで突然攻撃を開始して、その島は八月十八日から九月三日、日本の終戦記念日は八月十五日でございますが、アメリカの日本に対する戦勝記念日は九月二日、ソ連の日本に対する戦勝記念日は九月三日となっております。
 終戦記念日とアメリカとロシアの戦勝記念日の間に半月の差があるのは、私はこれが大変な北方領土問題の根底を示すものだと思っておりますが、実は八月十六日に発せられた日本の占領行政命令第一号の中に、ルーズベルトがスターリンに約束した四つの場所の中で一つだけが欠けておりました。それが北方領土であったわけでございます。
 ロシアは千島列島に対する要求を突きつけてまいりまして、半月の間に次の大統領になりましたトルーマンとスターリンの間に書簡のやりとりがあって、ついにアリューシャン列島の中に一つソ連軍の基地を確保する、千島列島の中に米軍の基地を確保するということを条件に折り合ったのが事実上の戦勝記念日になったということでございます。

樺太開拓使

<樺太開拓使> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

樺太開拓使は、明治3年2月13日から明治4年8月7日まで、樺太開拓のために設けられた官庁である。開拓使から分離して設置されたが、一年余りで廃止して元に戻った。

樺太は江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約で日露雑居の地とされ、王政復古の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。裁判所時代から現地の行政は岡本監輔が執り、明治元年と2年から移住した日本人入植者約五百人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
この間ロシア側の移住と開発の速度は日本側を上回り、さらに日本人との紛争が頻発した。これには、現地の岡本が日露和親条約の効力を否定し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発を原則拒否する態度をとっていたことにも原因があった。岡本の考えは、日露和親条約は条約締結権のない徳川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改めて国境を決定しなければならないというものだった。この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識に立つ日本政府と異なるものであった。
岡本は事態の緊急性を告げるべく上京した。政府は報告に危機感を抱き、明治3年2月13日に樺太の所管を開拓使から分離して樺太開拓使を設置した。独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所を樺太開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。ついで5月9日に、黒田清隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命し、樺太専務とした。黒田は樺太視察に赴き、8月に現地に到着した。黒田は日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。岡本はこの年閏10月に辞職した。
東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれば三年しかもたないという建議を出し、北方開拓を本格化する必要を説いた。これが、開拓使十年計画という予算計画を産むことになった。十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太の状況は基本的に変わらなかった。樺太にはこれ以後高官が派遣されることも任命されることもなく、樺太開拓使は明治4年8月7日に廃止された。

一方、開拓使は、北方開拓のために明治2年7月8日から明治15年2月8日まで置かれた官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年 (1870年) 2月13日から明治4年 (1871年) 8月7日までは、北海道開拓使と称した。

最初の「開拓使」の「役所」はどこにあったか

最初の「開拓使」の「役所」はどこにあったか

1.「「開拓使」設置までの経過
○1868(慶応4)
・4.12・・新政府(朝廷)は、箱館裁判所設置(旧幕府の箱館奉行所を引き継いだ蝦夷地統治の機関)。仁和寺宮嘉彰(よしあきら)(議定兼軍防事務局督)を箱館裁判所総督、清水谷公考(きんなる)(侍従)・土井利恒(としつね)(大野藩主)を副総督とし蝦夷地開拓の兼知を命じる。仁和寺宮嘉彰は、辞退する。
*「裁判所」・・旧幕府の遠国奉行、軍代がおかれていた重要地域に、新政府(朝廷)が置いた行政機関
・閏4.5・・箱館裁判所副総督清水谷公考(きんなる)を同総督に任命。新たに、判事、権判事も任命。
・閏4.21・・新政府、「裁判所」を「府」、「県」に改編。「箱館裁判所」は「箱館府」と改称、清水谷公考(きんなる)が府知事に任命された。この日、清水谷公考(きんなる)は、江差に到着(閏4.14、京都出発)
・閏4.26・・清水谷公考、箱館着。翌27日、旧幕府箱館奉行杉浦勝誠(かつのぶ)より事務を引き継ぐ。
・5.1・・清水谷公考、「箱館裁判所」を五稜郭に開く。(中央での「裁判所」廃止後に現地で「裁判所」が新設されたことになる。
・7.17・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を管内に告示。
・8.1・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を蝦夷地に告布達。

○1868(明治元)
・9.8・・慶応4年を明治元年と改める。
・10.20・・榎本武揚率いる旧幕軍、鷲ノ木に上陸。
・10.25・・清水谷公考(きんなる)知事、箱館を退去、青森に向かう。
・12・15・・旧幕軍、全島平定を在箱各国領事に告げる。榎本武揚が総裁になる。

○1869(明治2)
・4.9・・政府軍、乙部に上陸。
・5.11・・政府軍、陸海より箱館に進撃
・5.18・・榎本武揚以下、政府軍に降伏
・6.4・・鍋島直正(中納言・議定・上局議長)に蝦夷開拓督務の兼務を命じる。
・6.24・・第19代松前藩主・松前兼広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事となる。

2.新政府の官制
・慶応3(1867).12.9・・「王政復古」の大号令
同時に「三職」設置(総裁、議定、参与)
・慶応4(1868).1.17・・三職七科制とする。
・同年2.3・・三職八局とする。
・同年閏4.21・・太政官制を定める。太政官は京都に置かれた。
・同年閏4.27・・政体書を出す「天下の権力総てこれを太政官に帰す」
・明治2(1869)7.8・・官制改革
① 神祇官の復活し、太政官よりも上位に置かれた
② 太政官の下に、民部省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省が設置され、2官6省制が採られ、弾正台、集議院などの機関と同時に「開拓使」も設置された。

2.開拓使の設置
・明治2年7月8日、新しい太政官制が導入され、開拓使設置される。

・最初の開拓使役人の詰所(役所=開拓使庁)は、太政官のもとの民部省内(旧江戸城内)に置かれた。

・同年8月、開拓使を、民部省中から、太政官中に移す。

*太政官の役所
・明治2.2.24・・天皇、東京滞在中、太政官を東京に移すことを達する(東京遷都)。太政官は旧江戸城(皇居)内に置かれた。

・したがって、最初の開拓使の役所は、皇居内に置かれた。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(8) 

Ⅵ.晩秋の旧天北線沿線の旅

・「空知太駅跡碑」・・明治25年2月1日北炭線で開業、明治31年7月16日上川線の開通まで日本の最北端の駅。上川へ向かう人々は、空知太神社にお参りして北へ出発したそうです。
・「上川道路開鑿記念碑」・・明治12年、空知川に架かる空知太橋のたもとにあります。樺戸と空知集治監の囚人を使役して90キロの仮道路が完成。
・空知川鉄橋
・滝川公園・・啄木碑「空知川雪に埋れて鳥も見えず 岸辺の林に人ひとりいき」。明治41年1月20日、23歳の啄木が車窓から空知川を見たときの歌。
・《「北海道立畜産試験場滝川試験地(旧農商務省滝川種羊場)」》・「現在の機械庫」・《「開拓の村に復元の旧機械庫跡」》
・「妹背牛駅」、《「現在の藤原宅(旧藤原車橇製作所跡地)」》
・「納内駅」・・啄木は、空知川を渡った後、「見ると右も左も一望の雪の中に姿淋しき雑木の林、其(その)間(あいだ)間(あいだ)に雪を被った屋根の規則正しく幾列も並んでいるのは、名に聞こゆる空知の屯田兵村であろう」と日記に書いている。啄木も、《納内の屯田兵村》を眺めたのだろう。
・「塩狩峠」、「長野政雄殉職の地」碑、「三浦綾子記念館」
・「恩根内駅」
・「音威子府駅の天北線資料館」
・「上音威子府こ線橋」、「天北線標識プレート」、「天北トンネルを望む」・・・トンネルの内部はレンガ造り。「真冬の天北峠付近を走る三重連」
・「小頓別バス停(旧小頓別駅跡)」・・「小頓別駅」のプレートもありました。「丹波屋旅館」・・大正2年に建てられた駅前にある登録有形文化財の和洋折衷の建物。左は3階建てのしゃれた洋館。
・「敏音知駅の看板」、「敏音知駅跡公園」、「現ピンネシリ道の駅」
・「松音知駅舎」、「松音知の看板」、「手動のポイント」、「線路脇に転がる腕木式信号機」、「とぎれた線路」
・「中頓別バスターミナル(旧中頓別駅跡)」、「現宮崎商店《旧渡辺商店跡》」、「壁が剥げ落ちた商店」、「看板で隠す」・・屋号は同じ【イリヤマ平(「ヤマは金ともいい、イリヤマは《金が入るということを表している》=ツガイヤマ平とも】 ・「旧渡辺商店の解体工事」
*宮崎豊氏談「再三、開拓の村から譲渡申し入れがあったが、昭和60年の商工会の研修旅行で開拓の村を訪問した後、手放す決心をした」
*「開拓の村からもらったのはこのアルバム1冊だけ」と苦笑された。
・「鬼河原川橋梁」(中頓別・下頓別間)・・「鬼の河原?」。辺境の地というより、地獄の入り口といった趣の名。「鬼河原川橋梁」・・天北線遺跡のひとつ。
・「この川の名前はあるか?」「名無川という名前がある」
・「浜頓別バスターミナル(旧浜頓別駅)、「北オホーツクサイクリングロード」・・旧天北線跡。猿仏までできている。「天北線跡」、「クッチャロ湖」
・クッチャロ湖・・春と秋には2万羽におよぶ白鳥などが飛来し、日本有数の渡り鳥飛来地で、平成元年にはラムサール条約登録湿地となりました。
・「猿仏原野」・・のどかな酪農地帯。大小の沼が散在。「カムイト沼」・・幻の魚・イトウが住む沼。「晩秋の湖」・・静寂そのものでした。
・「飛行場前」・・駅名の看板。鬼志別バスターミナルの天北線記念館にありました。昭和30年12月1日、山形からの集団入植者の要望を受けて開駅。地名もない所。飛行場など、もちろんない。陸軍特設警備隊が12戸の開拓民を強制退去させ、建設工事には、昭和17年11月から800人の朝鮮人労働者を主力に、囚人、タコ労働者を投入された。厚さ15センチの板を敷き詰めた「板敷飛行場」で、2000Mの滑走路を持った浅茅野飛行場が作られた。浅茅野の真宗大谷派寺院の過去帳には、朝鮮人労働者89名の名前が記録されている。毎日のように死亡者の名が記載されており、強制労働の内容のすさまじさを物語っています。
「出来上がった飛行場は、板敷きで、小さな飛行機が木陰に1機隠すように置いてありました」(開拓者の妻の手記『岩高蘭』より)
・インデギルカ号遭難慰霊碑・・猿払村は、世界史に登場します。昭和14年12月12日深夜、カムチャッカ漁場から切り上げて帰郷する漁民・家族・船員1125名を乗せ、ウラジオストックに向け航行中の貨物船インデギルカ号(4200トン)が、魔の暗礁といわれる浜鬼志別沖合のトド岩付近の浅瀬に乗り上げ横転、702名が死亡するという世界海難史上まれな大惨事がオホーツクの一寒村・猿仏村の浜辺で繰り広げられた。なお、北海道大学の原暉之(てるゆき)氏は、著書「インディギルカ号の悲劇」の中で、「乗客の大半が実は強制収容所の刑期を終えたか再審を受ける囚人だった」と新事実を解き明かし、衝撃を与えました。事故のちょうど7ケ月前の昭和14年5月12日、ソ満国境では、日ソ両軍が激突した、世にいうノモンハン事件が起き、猿仏村でも柿崎喜一氏、本堂直吉氏が戦死しており、国民感情は決して穏やかではなかったが、村長以下、村民500名が、救助と死体処理に当たった。猿仏村史は「国境の垣根を越え、しかも険悪な国情の中で繰り広げられたインデギルカ号遭難救助絵巻」を克明に描いています。昭和46年10月12日、遭難のトド岩を一望できる浜鬼志別の断崖の上に、「インデギルカ号遭難犠牲碑」が建立されました。

・「鬼志別バスターミナル(旧鬼志別駅)」・・猿仏村の役場在地。猿仏村は、日本一ホタテの生産。日本最北端の村。「鬼志別駅標識」、「開駅プレート」、「天北線線路跡」、「鬼志別バスターミナルの時刻表」、

○旅の感想・・「さいはての旅」(堀田善衛)

Ⅴ.まとめ
1.・来正旅館の時刻表は、「網走」行があって、「稚内」行がない期間、つまり、名寄線全通初日(大正10年10月5日)から、宗谷本線(頓別回り)稚内開通前日(大正11年10月31日)までの期間のもの。(1年と26日)
2.積雪厳寒期に来正旅館に配置されるボランティアのひとりとして、歴代の時刻表を眺めて、往時を偲びたいと思います。
3.「天北」の未来に思いを馳せる・・(三浦綾子「天北原野」の結び)
・中頓別、浜頓別、猿仏の3町村は、合併するそうです。そして、その町の名前は・・「天北町」です。3町に隣接する幌延町は、核廃棄物処理場として生き残りの道を求めました。「最果ての天北町」は、どの道をたどるのでしょうか。猿仏は日本一のホタテの産地です。ラムサール条約指定のクッチャロ湖は、ハクチョウの休息地です。猿仏原野の大小の沼は、幻の魚・イトウの生息地として知られています。また、一帯はのどかな酪農地帯です。この豊かな幸、豊かな自然がいつまでも残ることを願って、私の話を終わらせていただきます。

【参考文献】
◎「北海道鉄道百年史」(日本国有鉄道北海道総局刊)
◎「北海道の鉄道」(田中和夫著 北海道新聞社刊)
◎「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊)
◎「移住者の定住過程と地域おける基盤形成の一形態」(中島宏一著 北海道開拓の村研究報告2)
◎「北海道文化成立に関わる母県文化の継承―古宇郡泊村茅沼に定住した漁業移民、武井家を事例に」(中島宏一著)
◎「高知県出身者による地場産業の育成」(中島宏一著 北海道開拓の村調査研究報告5)
◎「楡はみていたー永山・生活の記録誌」(永山女性三人の会著 第一印刷刊)
◎「北海道浪漫鉄道」(田村喜子著 新潮社刊)
◎「北海道の駅 878ものがたり~駅名のルーツ探求~」(太田幸夫著 富士コンテム刊)
◎「石炭の語る日本の近代」(矢野牧夫ほか著 そしえて刊)
◎「復刻版明治大正鉄道省列車時刻表」(新人物往来社刊)
◎「各駅停車全国歴史散歩 北海道」(北海道新聞社篇 河出書房新社刊)
◎「明治期鉄道史資料」(野田正穂・原田勝正・青木栄一共著 日本経済評論社刊)
◎「北海道の大地をゆくー廃線の旅―」(山谷正著 愛育社刊)
◎「写真集 国鉄北海道ローカル線」(北海道新聞社編)
◎「昭和の旅―雑誌「旅」にみるなつかしの旅行史―」(JTB刊)
◎「国鉄・JR列車名大事典」(寺本光照著 中央書院刊)
◎「ホタテの村で・北海道猿仏村」(鎌田慧著「日本列島を往く(3)」所収 岩波現代文庫)
◎「北海道歴史散歩50コース」(北海道歴史教育者協議会編 草土文化社刊)
◎「岩高蘭」(猿仏村農協編)
◎「石川啄木全集」(筑摩書房刊)
◎「インディギルカ号の悲劇」(原暉之著 筑摩書房)
◎「天北原野 上・下」(三浦綾子著 新潮文庫)
◎「さいはての旅-オホーツクへの情熱―」(「堀田善衛全集」14巻 筑摩書房刊)
◎「最果てのオホーツク 急行『天北』殺人事件」(西村京太郎著 光文社文庫)
◎「北海道道路地図」(昭文社刊)
◎「角川日本地名大辞典」(角川書店刊)
◎「北海道史人名彙」(河野常吉編 北海道出版企画センター刊)
◎「新北海道史」
◎「永山町史」
◎「音威子府村史」
◎「中頓別町史」
◎「浜頓別町史」
◎「猿払村史」
◎「遠軽町百年史」
◎「稚内市史」

【参考ウェブサイト】(OHP=公式ホームページの略)
◎北海道立文書館OHP
◎「とまり エネルギーのふるさと」(泊村役場OHP)
◎「オホーツク情報 教えて」(製作者不明)
◎川重車両協同組合OHP
◎音威子府村役場OHP
◎中頓別町役場OHP
◎浜頓別町OHP
◎猿払村OHP
◎「Yomiuri On Line」の「ふるさと探見」
◎「暮らしのリフォームBOOK」(松建ホームテック株式会社OHP)の「さっぽろ散歩」
◎「時刻表歴史館」(曽我誉旨生氏作成)
◎「国鉄天北線」(吉田恭一氏作成)
◎「鉄道廃線跡探訪」(塚本雅浩氏作成)
◎「日本の車窓・雨男の紀行文」(江口肇氏作成)

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(7) 

4.【頓別回りの衰退】

・(天塩回り)大正13年6月25日、天塩北線(兜沼・稚内間)開業
・(天塩回り)大正14年7月20日、天塩南線(音威子府・幌延間)開業

・(天塩回り)大正15年9月25日、幌延・兜沼間開業。天塩回りの音威子府・稚内間開通。天塩周りの音威子府・稚内間を天塩線と改称。(「時刻表11」)。
・函館~稚内直通便は、天塩線経由に変更され、頓別回りの宗谷本線から消えた。
・頓別回り宗谷本線は、わずか4年で、単に北海道北辺の過疎地帯を走るローカル線と化し、衰退の道を歩むことになる。
・昭和3年12月26日、稚内・稚内港間(宗谷本線)開業。
・昭和5年4月1日、(天塩回り)天塩線を宗谷本線と改称。(昭和14年2月1日、「稚内桟橋」駅の開業に伴い「稚内」と改めた。)~現在に至る。
・同日、(頓別回り)の音威子府・稚内間を「北見線」と改称。表街道から凋落した。
*この時、「天北線」とせず、「北見線」としたのは、全線150キロのうち、「天塩国」は、音威子府・天北トンネル間の1割もない、わずか12キロで、90%以上は「北見国」を走るからでしょうか。「北見」は、まだ「野付牛」村だった。
・昭和36年4月1日、北見線を天北線(音威子府・南稚内間)と改称。
*「北見」は、昭和17年市制施行しており、宗谷支庁を走る線路として、もはや、「北見」とは無縁になっていたからだろうか。
・ところで、天北線が久しぶりの活気を取り戻した時期がありました。・・昭和36年10月から札幌・稚内間に新設の急行「天北」が、天北線経由で走りました。
・昭和30年代後半から40年代半ばにかけて北海道旅行ブームの追い風も受け、急行「天北」は、編成を増強、最高時7両となりました。1日最高5往復、1~2両の普通列車しか走らない天北線では、急行「天北」は、女王そのものでした。ホームにひっかかるのは、せいぜい2両。乗降客もほとんどなく、場違いの感じですらありました。
・昭和57年、天北線は第2次廃止対象路線に指定されますが、時代に逆行したかのように、急行「天北」は、さらに、グレードアップされます。
・これまでディーゼルカーだった急行「天北」は、昭和60年3月改正で、なんと、機関車牽引の特急型客車になりました。その上、稚内発の上りが、宗谷本線経由札幌行の夜行急行「利尻」と車両を共通にしているため、ブルートレイン・寝台車が、昼、天北線を走る下り急行「天北」に連結されました。(昼間の上りは、寝台車は、急行「宗谷」に連結されたので、上り「天北」には寝台車は連結されていない)。寝台車は、自由席・座席車代用扱いで、自由に利用でき、「昼寝急行」とも呼ばれ、ひるまの急行としては、前代未聞の編成となりました。最果てを走るブルートレイン・・・、これは、推理小説に格好のネタを提供しました。列車ミステリー作家・西村京太郎はこれを見逃すはずがありません。題名は、ずばり、「最果てのブルートレイン『急行天北殺人事件』」。
*美深で、「上り天北」と「下り天北」が交差するのを利用したトリックで、「上り天北」で発見された被害者が「下り天北」の切符を持っていたというたわいもない話ではありますが・・
・さて、天北線の運転方法は、通行手形のようなタブレットの受け渡しで行われ、信号機は手動のポイントと連結した手動の腕木式だった。そのため、客がいなくても、駅員は必要だった。時代遅れの鉄道だが、廃止を前に、自動化するまでもなかったのだろう。沿線の駅は、廃止まで無人化されることはなかった。

・昭和57年、天北線が第2次廃止対象路線に指定される。
・昭和59年2月1日、貨物営業を廃止。この日、宗谷本線を含め、名寄以北のすべての区間で貨物取り扱いがなくなり、鉄道貨物の凋落を象徴する日、そして同時に、トラック輸送の盛隆、つまり、モータリゼーション時代への転換日となった。
・平成元年4月30日、天北線の運輸営業廃止、バス転換。
・全線150キロに及ぶ、廃止路線としては日本で最もながい天北線は、廃止となり、バスに転換した。
・現在、ほぼ旧天北線に沿って、稚内・音威子府間を4時間かかり走る宗谷バスの路線名は、「天北線」である。
・旭川・鬼志別間の都市間急行バス「天北号」が運行されている。
*天北線の変遷(まとめ)
・宗谷線(大正7年8月25日 ・音威子府・浜頓別間開通。)
・宗谷本線(大正8年10月20日 宗谷線を宗谷本線と改称)
・宗谷線(大正10年10月5日 宗谷本線=音威子府・鬼志別間=を宗谷線に戻す)
*この日全通した名寄線(名寄・遠軽間)が「本線」といわないのに、全通していない線を「本線」と称するのは、おこがましかったか。
・宗谷線(大正11年11月1日 音威子府・稚内間開通)
・宗谷本線(大正11年11月4日、宗谷線を再び宗谷本線に格上げ)
・北見線(昭和5年4月1日改称、「宗谷本線」の名は、日本海=天塩回りに譲った。
・天北線(昭和36年4月1日改称)
・廃止:平成元年4月30日、天北線廃止。バスに転換。

【天北線は、宗谷本線開通で、また、名寄本線は石北本線の開通で衰微し、ともに、奇しくも同じ日に廃止になった。】

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(6)

2.【オホーツクへ】

・鉄道省決定の8ケ月後の大正元年10月工事開始(7月30日、明治天皇死去)

○天北峠(190M)は、トンネル掘削・・手塩川の支流、オトイネップ川を上る。神威古譚帯の蛇紋岩の軟弱地質で難行。急勾配、狭い渓谷。15キロを2年懸かりで小頓別へ。
CF:名寄本線にも「天北峠」(300M)がある。こちらは、峠越え。高いが勾配はゆるやか。名寄川の広い河川敷。
・(天塩と北見の)国境の長いトンネルを抜けるとそこは頓別原野だった。長いといっても、367Mだが・・。頓別川をオホーツク海へ下る。2年かかりで・・

○小頓別(しょうとんべつ・宗谷線)・・大正3年11月7日開駅。
・「天北鉄道延長、鉄軌愈々頓別原野に入る」(「中頓別町史」P199~201)
・大正4年の乗降客は34000人、1日93人。道央、枝幸を結ぶ交通の要所、頓別原野への窓口として発展する。
・百戸以上の市街地に・・料理店11軒、旅館4軒も。菅井旅館(大正2年開業。昭和3年建設の3階建ての「丹波屋旅館」は、稚内にもないといわれたしゃれた和洋旅館。平成12年、国の「登録有形文化財」に指定された。
*のち、北海道殖民軌道(小頓別・歌登間)の分岐になり、小頓別は交通の要所となった。
*「頓別」・・35キロの間に「小頓別」「上頓別」「中頓別」「下頓別」「浜頓別」の5駅がある。なお、浜頓別から分岐した興浜北線の最初の駅は「頓別」。

*中頓別へ・・橋梁建設が中心。頓別川本流7、支流5に架橋。石材、レンガの資材の確保と輸送が問題だった。これまた2年かかり・・

○敏音知(ぴんねしり・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅
・「御待合」(早坂やい)、料亭「ぴんねしり大正亭」「富士見亭」など7軒

○松音知(まつねしり・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅。
・明治末から白金ブーム。400人~1000人とも。鉄道開通でさらににぎわう。
・大正元年、大根菊次郎、待合兼旅館を開く。
・旅館4軒、料理店10軒を数え、夜ごとにぎわいを見せた。

○中頓別(なかとんべつ・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅。
・明治31年、頓別川の支流・ペーチャン川のゴールドラッシュ。東洋のクロンダイク(カナダ。19世紀末。ギールドラッシュで沸いた)とまでいわれ、1万6千人を越える砂金採取人で沸いた。
・待合所・・「大根菊次郎」・・松音知から移転。
・市街のにぎわい・・「中頓別料理屋組合」の広告
・沿線の繁栄・・

・大澤商店
(開拓の村に復元の旧渡辺商店の最初の所有者・大沢政次郎が経営)
・大沢政次郎・・「頓別村発達史」
・大正3年建設(「中頓別町史」。開拓の村パンフレットは「大正前期」、解説書は、「大正7年頃」)
・1300平方メートルの敷地に、木造漆喰仕上げ、瓦葺き、総2階建ての母屋。異荒壁、瓦葺き防火扉付土蔵(倉庫)。
・大正7年4月9日中頓別市街地大火(「中頓別町史」は「51棟焼ける」とし、「中頓別消防沿革史」は「69戸全焼」としている。)
・「大沢は倉の中の味噌樽をありったけ持ち出させて手当たり次第に壁に塗らせて飛び火を防いだ。・・この味噌樽のおかげで・・炎症を免れた。」(「中頓別町史」)
・床の間・・砂金入り壁。
・極めつけは、倉庫と店舗の間に軌道を敷いてトロッコを走らせたこと。
・大沢商店、倒産。
*大正12年、渡辺胤之(たねゆき)氏(山梨県北巨摩郡鳥原村出身:中頓別の兄・勝重=明治35年来道、小樽で働いた後、大正3年、中頓別で荒物・金物商を開く=の店で働いていた)が買い取り、「渡辺商店」を開業。(開拓の村の「旧渡辺商店」の店内に「賣薬請賣業 渡辺胤之」の看板がある。)
・胤之氏没後、長女・久子さんと結婚した宮崎豊氏・久子夫妻で経営を続ける。
・昭和52年には、「宮崎商店」(所有者名義は、胤之氏の長男・渡辺博氏)と店名も変わった。

○浜頓別(はまとんべつ・宗谷線)・・大正7年8月25日開駅。
・明治11年、頓別村が成立。42年、合併で枝幸村となり、大正5年、枝幸村から分村して、再び頓別村が成立。
・中頓別からの予定線は、まっすぐオホーツク(今の浜頓別)に出るのではなく、クッチャロ湖の裏(西側)を通って浅茅野に出る案。
・単なる森林地帯で地名もなかった現浜頓別市街地の土地の大半を所有していた大地主・菅野栄助の猛運動。浜頓別の市街地の形成に私費を投入。「新市街」と呼ばれた。頓別に倍する市街地が形成された。
・駅名は、単に「浜に近い頓別」から。やがて、駅名は、頓別村の字名になり、昭和26年町制施行から、ついに、町の名にまでなった。

*大正8年10月20日、「宗谷本線」(旭川・浜頓別間)と改称。

○浅茅野(あさちの・宗谷本線)・・大正8年11月1日開駅。

○猿仏(さるふつ・宗谷本線)・・大正9年11月1日開駅。
*「猿仏村」が、「宗谷村」から分村・独立したのは、大正13年1月のこと。
役場の所在地ではない。

○鬼志別(おにしべつ・宗谷本線)・・大正9年11月1日開駅。
*猿仏村の役場所在地。開通の日、駅前に丸太で舞台が組み上げられ、「金色夜叉」が上演されたと、「猿仏村史」伝えている。

*鬼志別は開駅(大正9年11月1日)されたが、名寄線は、まだ、全通していない時期。

*来正旅館の時刻表は、「網走」行があって、「稚内」行がない期間、
つまり、名寄線全通初日(大正10年10月5日)から、宗谷本線(頓別回り)稚内開通前日(大正11年10月31日)までの期間のもの。(1年と26日)
・上り・下りの時刻、下り行先は、正しく表示されている。惜しむらくは、上りの行先が、正確でない。

*大正10年10月5日、「宗谷本線」を「宗谷線」(旭川・鬼志別間)に戻す。

・小石(こいし)・曲淵(まがりふち)、大正11年11月1日開駅。この間の距離 17.7キロ。約50分かかり、駅距離間としては、日本の鉄道では最長だった。

○稚内(わっかない・国鉄宗谷線)・・大正11年11月1日開駅。頓別回りの音威子府・稚内間全通。旭川から明治31年5月着工だから、実に24年目の全線開通だった。
*大正11年11月4日、「宗谷線」を「宗谷本線」(頓別回り:旭川・稚内間)と再び格上げ。

*現「南稚内駅」名の変遷
・最初は、「稚内駅」(頓別回り・宗谷線)・・大正11年11月1日開駅。
・「南稚内駅」(宗谷本線)・・昭和14年2月1日。昭和3年12月26日、これまで稚泊航路の連絡待合所が線路延長してできた「稚内港」駅が、「稚内」と改められため、「南稚内」と改称。

*稚泊(ちはく)航路(稚内・大泊=現コルサコフ間)・・大正12年5月1日、大泊から稚内に向けて壱岐丸(1680トン)が出港したのが最初。当初1日6便。昭和20年8月24日の宗谷丸の運行が最後。
・1995(平成7)年、「サハリン航路」として復活。現在、東日本海フェりーが「アインス宗谷」を年間50便運行。

・ここに、「(頓別回り)宗谷本線は、函館本線とともに、北海道内の最重要路線となった。稚泊航路開設の大正12年5月からは、函館桟橋・頓別回り稚内間に、1・2等寝台車、洋食堂車を連結した急行(区間は函館桟橋・滝川間、大正13年6月から名寄へ延長)が運転されるという華やかな時代を迎えた。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(5) 

Ⅴ.鉄路、北オホーツクへ

1.【頓別回り先行建設の経過】

○音威子府以北の路線の選定
①天塩川の右岸に沿って進み、サロベツ原野を経て日本海岸に出て稚内に至る線(天塩回り)
②天北峠を越え、頓別原野に降りてオホーツク海岸を北上し猿仏原野を通って稚内に至る線(頓別回り)

○音威子府・稚内間の比較
①天塩回り130キロ、平坦なサロベツ原野を北上。天塩川流域は肥沃で木材・石炭資源もある。道庁も積極的に移住を奨励、沿線にはすでに4000戸2万人が入植していた。
②頓別回りは167キロと長く、天北峠の難所を控えている。原野は牧草地して払い下げられた地帯。工期も長引き、建設費も割高になり、頓別回り先行建設は不利で、住民も予期していなかった。

○枝幸・頓別地方は、交通、運輸が汽船による海上輸送だけが頼りで流氷に閉ざされる冬期間は陸の孤島と化した。住民にとって鉄道建設は悲願であった。
明治43年2月、枝幸・頓別・猿払の住民が「枝幸鉄道速成期成同盟」を結成、中頓別から、大沢政次郎(のち、大正3年、《旧渡辺商店》の前身の大沢商店を建設)も加わっている。

○明治45年2月、鉄道院は「天塩回りの予定線を変更して頓別通過の宗谷線を確定線とし、早急に敷設に着手」を決定。

*「前者(天塩回り)は天塩川の水運を利用し、客貨を運送する便(べん)があるのに、後者(頓別回り)の沿線には広大な頓別原野などの有望な開拓地があるのに、効果的な輸送手段を欠いているため、まずこの地域に鉄道を建設することが必要」(「北海道鉄道百年史」)
*「強引ともいえる宗谷線のルート変更・・政治家や資本家の利権と結びついている」(「中頓別町史」)
*浅羽靖、安達謙蔵、佐々友房、長谷部純孝(文部大臣)代議士らはオホーツク沿岸の広大な土地の払い下げを受けていた。浅羽は猿仏に海岸6キロ、内陸6キロ、3600ヘクタールを所有。知人の話(「中頓別町史」P193)

・浅羽靖(あさば・しずか)・・明治12年札幌区長兼札幌外8郡長に任ぜられる。明治18年、北海英語学校創立(明治38年、《私立北海中学》に改称)。初代校長は「大津和多理」。浅羽が校長になったのは、明治20年のこと。明治24年札幌製糖社長。26年苗穂村に農場を開く(浅羽農場)。37年札幌区選出衆議院議員に当選。開拓の村の《旧北海中学》職員室の歴代校長の額にあるが、浅羽靖は「初代校長」。当初、政友会北海道支部長。のち、大同倶楽部に移る。大正3年10月22日、頓別回りの鉄道完成を待たずして死去。享年61歳。
・「大同倶楽部と後藤新平鉄道院総裁の取引。沿線住民は“大同倶楽部線”とい
った」(北海タイムスの記事)

*三井、三菱の思惑。
・三菱合名会社・・石炭採掘(良質な宗谷炭田の内陸輸送のため)
・三井物産・・明治42年から頓別原野で木材資源開発。港からの積み出しでは内陸の造材は困難。(「中頓別町史」P195)
*天塩関係5村の憤懣。「天北鉄道に関する請願書」(「北海道の鉄道」P147)

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(4)

Ⅳ.鉄路、更に北へ

1.【鉄路、永山まで】
○永山(ながやま・官設鉄道天塩線)・・明治31年8月12日、単独開駅。
・明治30年6月から名寄に向かって工事開始されている。
・蘭留開駅まで3ケ月余、終着・始発駅だった。
*行き先が「砂川」までであるのは、砂川以南の北炭鉄道線との連絡運輸が始まっていないから。ただし、北炭線の「空知太(旭川開駅と同時に廃止になったが、所有は北炭)・砂川間」は、使用契約を結ぶ。
*当時の北海道は、北海道鉄道部(官設鉄道)、北炭鉄道会社(小樽・砂川、室蘭・岩見沢、追分・夕張など)、北海道鉄道会社(函館・小樽間)が営業。(釧路鉄道会社も営業)
*相互連絡運輸の開始は、明治35年12月5日から。日本郵船(青森・函館・室蘭間の定期航路)、日本鉄道(上野・青森間営業)とも連絡。
・永山・・明治22年8月、屯田兵司令官に補せられた第2代北海道庁長官・永山武四郎は、上川原野に屯田兵村の建設に着手。
・明治23年9月永山村の設置。(昭和29年永山町を経て昭和36年4月旭川市に合併)
・明治23年11月から、屯田兵400戸2400名、永山東・西兵村に入地開始。(第3大隊第1,2中隊)
*第1大隊(琴似、発寒、山鼻、江別、篠津、野幌、根室・東和田、西和田、室蘭・輪西、篠路、)
第2大隊(江別、篠路、野幌、など)
第3大隊(第1中隊=永山西兵村200戸、第2中隊=第3中隊=下東旭川兵村200戸、南剣淵兵村各167戸、第4中隊=上東旭川兵村200戸、北剣淵兵村各167戸、第5中隊=士別兵村200戸、西当麻兵村200戸、第6中隊=東当麻兵村200戸)
・明治24年4月、土佐・江ノ口(えのくち)村(大正6年から高知市江ノ口)から屯田歩兵第三大隊第二中隊・東兵村兵屋番号277号・《来正策馬》が入村。(資料3)
・明治31年、7年間の現役・予備役を退役後、駅前に待合所を開業。
・大正7年7月、石狩川氾濫で被害を受け、翌8年、旅館兼待合所を建設。昭和59年5月まで営業。
・市街地の様子(「楡はみていた」より)・・来正写真館もあった。

2.【鉄路、音威子府まで】
○蘭留(らんる・官設鉄道天塩線)・・明治31年11月25日開駅。現比布町・塩狩峠の南の麓の集落。
*塩狩峠越え。・・これまでは、日本第3位・石狩川の本流・支流を登ってきたが、ここからは、手塩川支流を下る。
*三浦綾子著「塩狩峠」・・明治42年2月28日、鉄道職員長野政雄氏が逆方向に暴走した車両の下に飛び込み、自らの肉体を歯止めにして乗客の命を救った。
○和寒(わっさむ・官設鉄道天塩線)・・明治32年11月15日開駅。

○士別(しべつ・官設鉄道天塩線)・・明治33年8月5日開駅。
・駅を過ぎて日本第4位の大河・天塩川の本流を渡る。これ以北、鉄道は、天塩川の本流を渡ることはなく、常に、川を西側に見る。

○名寄(なよろ・官設鉄道天塩線)・・明治36年9月3日開駅。(「時刻表3」)
・名寄以北の工事は、日露戦争勃発(明治37年2月)による財政緊縮で中止された。その後、地元有志により建設促進の運動が続けられた。

*この間、明治39年3月31日、「鉄道国有法」(国鉄法)公布。
明治39年10月1日、北炭線が国有。
明治40年7月1日、北海道鉄道会社(官設鉄道)線が国有。

○恩根内(おんねない・天塩線)・・明治44年11月3日開駅。現美深町恩根内。名寄開通後、8年が経過した。(「時刻表4」「来正時刻表1」・・大正7年の石狩川氾濫以前の第1次「来正待合所」に掲示されたであろう、時刻表。)
・時刻表の24時間表示は、昭和17年11月(関門海峡トンネル開通)から。それ以前は、午前は細字、午後は太字で表示されていた。
・24時間表示の理由・・①軍が24時間制。②満鉄など大陸の鉄道が24時間制で、連携を考慮。
・時刻表の「中央小樽」に関して・・蛇足だが・・
「小樽駅」名の変遷・・
①「小樽中央」(北海道鉄道線)明治36年6月28日
*「小樽」は、現「南小樽」が、「小樽」として、別にあった。
②「高島」(北海道鉄道線)明治37年10月15日
*この日、函館・高島間が全通した。
*高島・小樽間開通は明治38年8月1日。それまで、高島・小樽間は、人力車か馬車に乗った。
*函館・札幌間の直通列車の運行は、明治39年9月8日から。
③「中央小樽」(北海道鉄道線)明治38年12月7日・・
④「小樽」(国鉄函館本線)大正9年7月15日~現在。

現「南小樽」の変遷
①「海運町」(幌内鉄道)明治13年11月28日
②「住吉」(幌内鉄道)明治14年5月25日
③「小樽」(北海道鉄道線)明治33年6月1日
④「南小樽」(国鉄函館本線)大正9年7月15日~現在。

・天塩線(旭川・名寄間)を宗谷線と改称(大正元年9月21日)

○音威子府(おといねっぷ・宗谷線)・・大正元年11月5日開駅。(「時刻表5」「来正時刻表2」)(7月30日、明治天皇死去)
・旭川・音威子府間約6時間、中央小樽から13時間。
・道内で最も人口の少ない村(9月末現在1091人)
・宗谷本線、天北線の分岐、運行、保守関係の基地であり国鉄の一大拠点となった。国鉄職員が全人口の3割を占めた。
・昭和38年には、村の名前も、駅名にあわせ、「常盤村」から「音威子府村」と改称。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(3)

Ⅲ.鉄路、北へ

1.【豊平川を渡る】
・明治14年4月着工。そもそも、幌内と小樽港を結ぶ目的。工事を急ぐ。石狩川支流の大川・豊平川架橋は、難工事が予想された。最初から鉄橋を架ける計画。大雨で二度も破壊される。仮の木橋で開通。汽車が北海道最初の鉄橋をわたったのは、明治16年5月18日のこと。2年かかりで完成。北海道初の鉄橋。
・明治15年11月13日、幌内鉄道:岩見沢~幌内間全通。幌内鉄道完成。

2.【北有社による営業】
・20年12月、村田堤(つつみ)が幌内鉄道の運輸業務の請負を道庁へ出願。赤字経営に苦しむ道庁は21年3月に許可。村田は「北有社」(本社小樽)を組織、明治21年4月1日から北有社による営業開始。冬期間、札幌以東の運転休止など、拓殖の使命に添わない運営。わずか1年半あまりで歴史を終えた。

3.【北海道炭鉱鉄道】
・北有社の経営が、冬季の札幌以北の運転中止など、拓殖の主意に沿わないことから、道庁第二部長堀基(もとい)は、官を辞し、自ら鉄道の延長、炭山の採掘などの開発に乗り出す。夕張、空知炭鉱の開発、鉄道の室蘭までの敷設による、石炭の小樽、室蘭、両港への搬出を設立目的のひとつにする。
・明治22年11月18日、北海炭鉱鉄道会社(明治39、北海道炭鉱汽船株式会社に改称=北炭)設立,鉄道運輸営業(北炭線)を認可され、堀は初代社長に就任。12月11日、幌内鉄道の譲渡を受け、鉄道営業開始。(北有社へ償還金30万円を支払う)
・北炭、炭山と積出港を結ぶ鉄道建設を急ぐ。
・明治24年7月5日、北炭線岩見沢・歌志内間開業
・明治25年2月1日、北炭線:砂川・空知太間開業
・空知太(明治22年、奈良県十津川村から入植後、「滝川村」と称した)
・明治31年7月16日、旭川までの上川線が開通すると同時に廃止。

・道路(12号線、上川道路)は、空知川上流に木橋でつくられていた。「囚人道路」岩見沢~旭川までの90キロは樺戸(明治14年設置)、空知集治監(明治15年設置)の囚徒のべ17万人を動員して明治19年築かれた。
・明治29年2月3日、上川線(空知太~旭川)56.3キロの建設が予算委員会で否決されるが、第9回帝国議会本会議で可決。

・明治25年8月1日、北炭線:室蘭(現東室蘭)・岩見沢間開業
・明治25年11月1日、北炭線:追分・夕張間開業
*北炭の路線延長、328キロになる。

・明治39年3月31日、鉄道国有法公布
・明治39年10月1日、政府、北海道炭鉱鉄道会社を買収、国有化された。

4.【北海道鉄道会社】・・函館・小樽間の鉄道建設と営業。
・明治31年3月、社長を北海道庁長官北垣国道とし函樽鉄道会社創立、明治33年10月、北海道鉄道会社と社名を変更。函館・小樽間の工事に着手。
・明治37年10月15日、函館・小樽中央(現小樽)間、翌38年8月1日、高島(現小樽)・小樽(現南小樽)間開業。(函館・旭川間全通。「函館本線」と線名変更は、明治42年10月12日)
・明治40年7月1日、政府、北海道鉄道会社を買収、国有となる。

5.【北海道官設鉄道】
・明治29年3月26日、「北海道鉄道敷設法」成立。
1.予定路線:
*明治29年5月8日、北海道庁に臨時北海道鉄道敷設部が設けられた。
*予定路線
上川線(空知太・旭川間56.3キロ、明治31年7月16日全通)、
釧路線(帯広・釧路間129.1キロ、明治38年10月21日全通)、
十勝線(旭川・帯広間180キロ、明治40年9月8日開業、これで旭川・釧路間が全通)、
天塩線(旭川・名寄間76.2キロ、明治36年9月3日全通。)
*3300万円
*15年間で完成させる。

◎北海道鉄道敷設部(以下、官設鉄道)上川線
・明治29年7月、官設鉄道、上川線の工事着工。
・難工事続く・・
① 空知川橋梁・・河床が大玉石混合の地質で除去作業が遅れる。
② 第一石狩川橋梁(江部乙・妹背牛間。石狩川本流の初の橋梁。)
③ 第二石狩川橋梁(伊納・旭川間。現在は近文=明治32年8月11日、旭川師団専用線近文停車場として開設、信号所を経て明治44年1月11日から一般駅となった。
④ カムイナイのトンネル掘削。

・妹背牛(もせうし・官設鉄道上川線)・・明治31年7月16日開駅。
・石狩川橋梁を渡れば、妹背牛。
*《藤原車橇製作所》の創業は明治36年だから、開駅当時、まだない。昭和26年藤原軽車両。「車橇」?読み方、意味は?
「Cart and Sleigh」(荷馬車と橇)で理解。

・納内(おさむない・官設鉄道上川線)・・明治31年7月16日開駅。深川を過ぎると、納内。2年前の明治29年4月、山口県から納内に移住し、《納内屯田歩兵第一大隊第十中隊(明治29年8月から第5中隊)第87番兵屋に入居した村上広吉氏》ら、納内の屯田兵は、この開通した列車に乗って、明治29年5月から正式に設置された旭川の第7師団本部まで通ったことでしょう。あるいは、カムイコタンのトンネル掘削工事に動員されたかも知れない。

・カムイコタンのトンネル掘削・・神威古譚帯といわれる蛇紋岩層(軽く変形しやすい)で難行。
当初、2年の計画が3年かかった。

・明治31年7月16日、官設鉄道上川線、滝川~旭川間開通。
明治23年に徳島から移住し、《この年、明治31年、近藤染舗を開業した近藤仙蔵・円蔵兄弟》は、鉄道開通式典に参列したに違いない。
*砂川・旭川間3時間で1日3往復運行。(北炭線の砂川・空知太間は使用契約)。
*開業6日後の7月23日、氾濫で第一石狩川(江部乙・妹背牛間)橋梁が、次いで9月7日の氾濫で第一、第二橋梁が墜落。開業してもなお水害との闘いが続けられた。
・明治38年8月1日、函館・旭川間が全通し、現在の函館本線が完成。
・明治40年7月7日、鉄道国有法により国有化された。
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