森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(2)

Ⅱ.北海道の鉄道の黎明

1.【茅沼炭鉱鉄道】
*神奈川条約(1854=嘉永7)日米和親条約で、下田、函館の開港、アメリカ船に石炭、食料を供給することが決まったことから、北海道での石炭採掘を促した。
*茅沼海岸~鉱山間(明治2年)。2.8キロ。牛に引かせた「牛車軌道」・・海岸へは傾斜を利用して自走、貯炭場へは牛の力。後、馬になった。石炭は船で函館へ輸送された。
・日本初の鉄道(横浜~新橋間・明治5年)より3年早い。
・昭和2年(1921)蒸気機関車による鉄道輸送になった。
《武井家》は、天保年間、青森から渡道以来、茅沼で漁場を経営、住宅・酒造部、呉服部など拠点施設は、鉄道の海岸側終点にあった。中島宏一氏は、論文の中で《武井家》関係者の談を引用し、「蒸気鉄道は、酒造部の軒先をかすめるように走っていた」と記している。実際、「北海道立志伝」の武井家の絵図には、敷地内に軌道が描かれている。
・安政3(1856)、初代武井忠兵衛の雇い人の船頭・忠蔵が山中で「燃える石」を発見、函館奉行に届けたことが茅沼炭鉱の発端。
・なお、武井家は、明治16年1月、茅沼炭鉱採掘中止(幌内鉄道開通により、幌内炭鉱と比較して輸送面の不備。相次ぐ炭鉱災害などで)後、明治17年、2代目武井忠兵衛が中心となり、「茅沼炭山採炭組合」を組織、鉱山営業参入。  
・大正末期からの鰊不漁で、泊村の経済は、漁業から茅沼炭鉱に大きく依存していった。
・武井家、明治28年頃、酒造業に乗り出す(開拓の村の武井酒造部の建物は明治19年頃建てられたもの。)
2.【幌内鉄道】
・幌内炭山の発見・・明治元年、小樽本願寺の建設用材の切り出しに幌内(三笠)付近の山へ入った石狩のそま夫・木村吉太郎が黒光りする塊を発見。その後、明治4年、島松の猟師紺野松五郎が、外国船で使用されている石炭であることを確信し、開拓使に届ける。
・石炭搬出路
①榎本案・・石狩川水運利用案。→オランダ人ゲントが継承。
②開拓使顧問ケプロン案・・幌内・室蘭間の鉄道敷設案→クロフォードが継承。

クロフォード(アメリカ)・・明治11年、鉄道建設兼土木顧問として札幌に着任。陸路担当、幌内~小樽間の鉄道建設をめざす。「余はここに一言を呈せんとす。即ち、江別太より小樽によって石炭を運送するときは、石炭のほかに運送費を負担すべきものなしといえども、鉄路を小樽に延長するときは、荷物・乗客より生ずべき利益は、ことごとく石炭の運送費を減少すべき補助となるべきことなり」と提言。

・開拓使は、石狩川案の洪水もあり、凍結する冬季間の利用もむずかしいと判断し、クロフォード案を採用、幌内~手宮の鉄道建設を決定。

・クロフォードを技師長に、明治13年1月8日、鉄道建設の第一歩である小樽若竹町第3トンネルの開削にとりかかる。
・銭函までは、トンネル工事が続く。海岸線は馬車道の転用。明治13年11月11日、銭函まで試運転。

・明治13年11月28日、手宮~札幌間35キロの運転式挙行。(「時刻表1」)
・日本で3番目の鉄道。
・車輪が真紅で縁取られた機関車弁慶号は、客車3両を引いて9時、手宮発、運転手は機械製造手長ハロウェイ。~12時札幌着。3時間かかった。着手してからわずか11ヶ月。

*一方、漁民の騒ぎもあった。翌明治17年、小樽沿岸一帯の鰊漁は不振に見舞われ、漁民は、「汽車の轟音で鰊が近づかなくなった」と騒ぎ出し、張碓トンネルを閉鎖しようとまで発展した事件がありました。この漁民の中に、祝津海岸で鰊建網漁が軌道に乗りはじめた49歳の《青山留吉》がいたかどうか。

・《手宮駅長官舎》・・開拓の村パンフレットは、明治17年建設としている。とすれば、北海道鉄道史上、最古の記念建造物。昭和35年、鉄道記念物に指定された旧手宮機関庫は、明治18年創建だから、それより古いことになる。
ついでながら、5日前の9月12日、電話線が完成。北海道最初の電話開通。

・駅、停車場、ステーション
・幌内鉄道における駅長第1号の手宮駅長・村上彰一の辞令によると、「手宮停車場長心得」とあり、「停車場長」。「駅長」ではなかった。
・「駅」・・「旅人の宿泊地、馬継ぎ場」「馬偏」に★(馬を次から次へとたぐりよせるようにして乗り継ぐために用意された所。宿場の意味)
・大宝律令(701)・・「駅」。駅制=馬、舟、人夫などを供給する場所。
・ステーション:明治5年5月3日、品川・横浜間仮営業発表文には、「品川ステーションより横浜間汽車運転、来る7日より仮に営業相成り候条此旨相達候事・・」と「ステーション」と呼称している。
・「駅」が最初に登場するのは、明治19年7月1日改正の時刻表から。それ以前は「停車場」。現在、鉄道廃止地域の道路路線名に「停車場線」が各地に残っているのはおもしろい。

・明治末期の啄木は、停車場と駅、両方を表現している。
「石狩の美国といへる停車場の 柵に乾してありし 赤き布片(きれ)かな」(H15、美唄駅前に建立)
「真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢(びん)の古き瘡あと」(倶知安駅前)
「さいはての 駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」(釧路 港文館前)
「ふるさとの  なまり懐かし停車場の  人ごみの中にそを聞きにゆく」

・鉄道唱歌(明治32年発表。大和田建樹(たけき)作詞)は、駅とステーション。
5番:鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション
   湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで
16番:三島は近年ひらけたる 豆相(ずそう)線路のわかれみち
   駅には此地の名を得たる 官幣大社の宮居あり
46番:東寺の塔を左にて とまれば七条ステーション
   「京都々々」とよびたつる 駅夫のこゑも勇ましや

・《札幌停車場》・・「空知通=北6条通」。最初の停車場は、本屋11坪の仮停車場。開拓の村の札幌停車場は、明治41年12月に完成した3代目駅舎。(5分の4に縮小再現されている。)

*《開拓使札幌本庁舎》・・あたかも江戸城本丸のよう。周辺は、役宅。大通りの南は、民家。条は、今も、中通で分かれる。
*《南1条派出所》・・南1条通り(当時は渡島通)に、明治4年、大友堀が改修された際、木橋が架けられ、開拓使長官岩村道俊により創成橋と名づけられた。明治18年、その西側に木造の「創成橋交番」ができた。のちにレンガ積みの開拓の村へ移転された「南1条派出所」になった。
*南2条通は、「爾志通」=《旧開拓使爾志通洋造家=白官舎》が見える。
・ところで、現存する創成橋は、明治43年に架けられた札幌最古の橋。札幌軟石を使ったアーチ橋。日本初のトラス構造。札幌の区画割の基点となっている。欄干には3代目の擬宝珠がある。
(1~2代目の擬宝珠が旧交番跡地向かいの東ビル前に展示されている)。
・「大友堀」=1866年(慶応2)9月大友亀太郎が完成。豊平川の支流(鴨々川=今も、一部が残る)南4西2のすすきの・アオキビルの裏から引く。当時は「新川」と呼んでいた。死後、彼を評価して使われるようになった。
*CF:幌内線の橋は、全部で191すべて木橋。アーチ型の石造の橋梁が駅西側のシャクシ・コトニ川に架けられた。
*《開拓使工業局》が創成川をはさんで、大通の東に見える。
*《札幌拓殖倉庫》・・「米蔵」とある。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(1)

◎はじめに
北海道開拓の村に復元されている来正旅館に掲示されている時刻表に「下り鬼志別」行とありますが、私は、天北原野の鬼志別に惹かれました。

【報告の要旨】
メインテーマ:
旧来正旅館に掲示されている時刻表の年代の特定と、旧天北線の変遷をたどり、鉄路が北へ延長のつど、改定され掲示されたであろう永山駅前・来正旅館の歴代時刻表を作成し、その時刻表を通して北海道開拓の歴史・鉄道史の断片に触れて見たいと思います。

【来正旅館の時刻表に関心を持ったきっかけ】
・来正旅館の時刻表を見た来村者から、「鬼志別ってどこ?」と聞かれ、答えられなかったことです。
・また、その時刻表に「下り網走行」があり、永山から、「下り網走行」どういうことかと疑問に思いました。

【天北】
・天北=天塩と北見。
*「北見」・・「北蝦夷地(樺太)を見る」・・稚内、利尻・礼文も「北見国」
*「天塩」・・語源はアイヌ語の「テッシ・オ」(簗=やな=のような岩)の意味。その岩は、「天塩岳」標高1557M、道北一高く、天塩川の源流になっています。
・天北原野・・日本海側のサロベツ原野とオホーツク側の、頓別原野、猿払原野、声問原野を合わせた総称。
・明治2年、11国86郡画定
*訂正・・①「千歳郡」は「胆振国」。②「86郡」・・5つ多い。(松前郡と、千島国の4郡)
*「石狩国」は今の石狩支庁、空知支庁、上川支庁の一部を含んだ地域。
*「天塩国」は今の上川支庁の一部、留萌支庁を含んだ地域
*「北見国」は、網走支庁、宗谷支庁管内の地域
・天北峠はふたつある。
① 天塩国・現上川支庁音威子府村~北見国・現宗谷支庁中頓別町=旧天北線
② 天塩国・現上川支庁下川町~北見国・現宗谷支庁西興部村=旧名寄本線
・他の両国の名前を取った地名・・塩狩峠(石狩国・現上川支庁比布町~天塩国・現和寒町)、石北峠(石狩国・現上川支庁上川町~北見国・現網走支庁留辺蕊町)、石北線、狩勝峠、日勝峠、根釧原野、石勝線(南千歳・新得間)、三国峠(十勝国・現士幌町、北見国・現網走支庁置戸町、石狩国・現上川支庁上川町)

Ⅰ.鉄道の始まり

1.【世界】
・鉄道=レール=横木、横棒。
・世界の鉄道(石炭の運搬)・・・紀元前3500年頃のメソポタミアの絵文字に車輪つきの乗り物が描かれている。
・古代ローマでは、道路に石を敷き詰めて、車輪が地面にめりこまないようした。ローマの石の道は、車輪のあとがすりへっている。「すべての道はローマに通ず」を、ローマを旅行して実感する。
・レールは、16世紀、イギリスの鉱山で、もともと炭鉱で石炭を運び出すのに使ったのが最初といわれている。木製から木に鉄板を貼り付けるようになり、鉄製のレールに変わっていった。
・1825年 ストックトン・デーリントン間(世界最初の蒸気機関鉄道)
・1830年 マンチェスター・リバプール間鉄道開通。
2.【日本】
・日本では、江戸時代、大津~京都間の急な坂で車輪と車輪の幅に合わせて敷石に溝をつけ、溝に車をはめこんで動かすようにした。これを「車石」と呼んだ。
・都市と都市を結んで人と物の流通を図ることが主目的。
・明治5年5月横浜~品川間で鉄道仮営業。9月横浜~新橋間鉄道開業。
・明治7年に大阪・神戸間の鉄道が開通。

楠木正成の愛刀 景光

昨日、蕎麦の訪問販売が来た。で、商品名が「景光そば」。効能書きに「商品名は楠木正成公の愛刀で細身が美しい国宝備前長船小竜景光からとりました」とあった。
ネットで検索してみた。
以下は、「ヴァナディール名物帳」なるサイトから転載。

景光は備前国長船(岡山県東南部)の刀工であり、長船三代目を継いだ名手である。太刀、短刀はもとより、薙刀や剣も造る多芸な刀鍛冶であった。名作・秀作が多く、父「長光」についで作刀も多く残されている。 景光の太刀で最も傑出の一本にこの「小竜景光」がある。
 この太刀は「楠正成」の佩刀と言われているが、発見されたのが大阪の「豪農」の納屋であったため、本阿弥家(刀の鑑定屋)に折紙(鑑定書)をもらいに行ったが、本阿弥家はその刀を「信じ難い」として、結局折紙は出されなかった。この太刀は彫物から「小竜景光」の号があり、磨上げられたはばきから竜が覗いているようであるところから「のぞき竜景光」とも称された。
 江戸時代以前の所在は不明であったが、幕末の試切家山田浅右衛門の所有となり、明治6年(1873)4月、東京府知事大久保一翁を通じて浅右衛門が明治天皇に献上した。
 鎬造、庵棟、腰反り高く中鋒の太刀である。茎は磨上、先栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔三つ。鍛は小板目肌最もよくつみ、乱れ映り見事に立つ。刃文は小丁子刃、小互の目まじり、足・葉逆がかってしきりに入り、匂口締まる。帽子刃は湾れて小丸。彫物は表棒樋中に倶利伽羅竜の浮彫、裏棒樋中に梵字の浮彫。刃の長さ74.0センチ、反り2.9センチ、元幅2.9センチ、先幅2.1センチ、鋒の長さ4.5センチ。 東京国立博物館所蔵 国宝 太刀

北辰旗を掲げた船~開拓使附属船について~(3)

Ⅱ.北辰旗制定の経過と変遷

1. 太政官布告で外国形輸送船には国旗と省府藩旗が掲げることになった。
明治3(1870)年1月27日、太政官布告第五十七号」『郵船商船規則』

2.「蛯子末次郎の伺」(資料②)
・(右)
「今般 樺太運送御用御取運被遊候ニ就テハ御軍
艦諸廻漕船区別ノ為メ左書雛形ノ通青色地ニ
北晨星ヲ象り北海道旗章被立置候テ如何
哉 此段奉伺候 以上
申正月     御用係
               蛯子末次郎」
・(左)
「此五陵形旗章ノ原因タルヤ北晨星ヲ
象リ則青色地ニ赤色ヲ點付ス」

・明治5(1872)1月、蛯子末次郎は、開拓使に「北海道旗章立置方、伺」を提出。(「北晨」の文字は、この「伺」以外には、見当たらない。)
<蛯子末次郎>
・天保13(1842)年箱館生まれ。
・武田斐三郎(あやさぶろう=五稜郭、弁天岬砲台の設計者)門下に入る。
*「蛯子は、恩師・武田の作った五稜郭をイメージして星の旗章を考えた」とする意見もある。(「北ノ星ヲメザシテ」=北海道ポータルサイト・北海道人)
・明治5年(1872)1月、開拓使御用係となり、樺戸丸船長を命じられる。
この月、「北海道旗章立置方、伺」提出。
・その後、弘明丸、函館丸、矯龍丸、玄武丸の船長となる。

2. 明治5(1872)年2月、開拓使、附属船旗章を定める。
①「本使附属船旗章ヲ蒼色五稜形ニ定ム」(開拓使事業報告)
②「開拓使より大蔵外務両省へ差回 達」(明治5年2月15日 「開拓使公文録」)
「  大蔵省
外務省 御中                開拓使
当使船艦旗章 別紙雛形之通相定候間 為御心得御達申候
尤、縦横寸法等ハ船之大小ニ寄差別有之一定致ガタク候ニ付、
書載不致、此段為念申達置候也
  壬申二月十五日」
・北辰旗は、明治5年(1872)2月、3隻の開拓使附属船(安渡丸、辛未丸、石明丸)に最初に掲げられた。
青地に朱色の五稜形であった。

3. 明治6(1873)年10月竣工の開拓使本庁舎に掲げられた北辰旗の地の色は、青か白か(佐藤京子論文)

・御雇米人ホルトの絵(「新撰北海道史 巻3」所収)は、紺地赤5稜星。
・札幌本庁舎完成直後の写真(明治6年=1873=10月、北海道大学附属図書館所蔵)、
別海缶詰所開所式の写真(明治11年=1878、北海道大学附属図書館所蔵)は、白か
・明治7(1874)年、札幌本庁から東京出張所あて開拓使旗章の注文に
「旗章用品ハ白繻子(しゅす)呉呂(ゴロ)並緋呉呂類相当ノ品」とある。
・明治10(1877)年の小樽分署の「旗章新調願」の旗の材料は紺と朱の旗布。

5. 黒田清隆開拓次官の「旗章更正伺」(資料⑤)
・明治5(1872)年9月19日、黒田清隆開拓次官は、青地に赤7稜星の雛形を正院(せいいん。「しょういん」とも。明治維新政府の最高政治機関。明治4年(1871)の官制改革で太政官内に左院・右院とともに設置され、太政大臣・左大臣・右大臣・参議などで構成された。同10年廃止。)へ提出。

「當使官邸並用船等ヘ章建用候大小旗
章、先般雛形を以申上置候処、今般、
別紙旗影之通、致更正候間、御布
告相成候様、仕度此段奉伺候也
 壬申九月十九日    黒田開拓次官
     正院 御中         」(「稟裁録」
・正院は、却下する。その理由(「赤れんが」佐藤京子論文)

*明治5(1872)年8月30日、開拓使は、函館に邏卒(警官)を置く。その徽章は7稜星。

*黒田清隆開拓次官は、なぜ7光星の旗章への変更を申請したか。

6. 保任社用船の旗章
・清国商人は、北海道海産物、特に昆布輸出の商権を独占、過酷な条件で生産物を買い占めた。開拓使は、清国商人を排除して直接清国に輸出する対策が考えられた。
・明治6(1872)1月、保任社創立(総頭取・榎本六兵衛、木村万平は副頭取のひとり)
・開拓使から北海丸の貸与と官費の補助を受け、多くの船舶を購入して海運に当たった。
・明治7(1873)年4月、わずか1年余で解散。(社員と結託した官吏の背任行為が原因とも=新北海道史=)
*社用船の徽章・・二重の5光星。旗地・中の星は「彩色なし」、外側の星は朱。

7. 北辰旗掲揚の取りやめ
・明治11(1878)年1月で本庁はじめ、各関係機関の旗章掲揚は取りやめになった。
「乙第2号             各局分署
 従来本庁竝工業局、警察署、官公立学校、病院、其他出張所、分署等ノ内、標旗掲揚致来候向モ有之候処、自今官衙(かんが=役所)ハ総而掲ルニ不及候条、此旨更ニ
相達候事
   明治十一年一月十日     札幌本庁 開拓大書記官  堀 基」

Ⅲ.(付)北海道旗について
・開道百年記念事業の一環で制定
「道旗は、本道開拓使が使用した北辰旗と、当時着想されていた七稜星のイメージを現代的に表現したもので、地色の紺色は北の海や空を意味し、星を囲む白は光輝と風雪を表し、七光星の赤は道民の不屈のエネルギーを、またその光芒は未来への発展を象徴したものです。」(昭和42年=1967=5月1日制定)
・蛯子長三郎の異議
「道章は、すでに決まっている。赤の五稜星である。なぜ今更変える必要があるか」(高倉新一郎 論文)

◎まとめ
・北辰旗は、明治5年(1872)2月、3隻の開拓使附属船(安渡丸、辛未丸、石明丸)に最初に掲げられた。青地に朱色の五稜形であった。
・開拓使本庁舎に翻った「北辰旗」の地の色は、いまだ、解明されていない。

<調べ終えて・・・・突飛な私のロマン・感想>
1. 蛯子末次郎が、伺を出した「北晨旗」の青地に赤5光星は、古代中国の二十八宿の東方・青龍の域にある赤い星=さそり座アルファ星・アンタレスをイメージしたものであるのではないか・・
2.黒田清隆と榎本武揚の男の友情が、七稜星の旗章の提起になり、今日、北海道旗として、蘇った。

北辰旗を掲げた船~開拓使附属船について~(2)

○著名な附属船

<咸臨丸>
・安政4(1857)年3月、幕府が発注した蒸気船、オランダ・キンデルダルクで完成(Japan=ヤパン=号)
・同年8月4日、ヤパン号長崎に到着、「咸臨丸」と改名、幕府長崎海軍伝習所練習船となる。
・安政7(1860)年1月13日、日米修好通商条約の批准書交換のため太平洋を横断、2月26日サンフランシスコ入港、万延元=(1860.3.18改元)=5月6日帰国。提督を務めたのは軍艦奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ)、勝海舟は海軍伝習所の教授として同乗。
・慶応2(1866)年・・機関部の老朽化で蒸気機関を撤去、帆船となる。軍艦籍を抜かれ運搬船となる。
・慶応4(1868)年8月19日、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走、暴風雨で下田港に漂着
・明治元年=1868.9.8改元=9月18日、清水港修理中、新政府軍に襲撃され拿捕(だほ)される。その後、浦賀で修理。
・明治2(1869)年9月、政府は、兵部省所管だった咸臨丸を開拓使に交付、開拓使附属船となる。同年10月15日、開拓使へ引き渡される。3日後の10月18日、東京から函館へ廻漕、その際、八戸県への救助米運搬を初仕事としている。翌明治3年5月からは官物輸送のほかに、一般の荷物、乗客の輸送も行うようになった。
・明治4(1871)年5月、「元組回漕会社」(木村万平社長)の手に貸与される。
・同年9月12日、以前に、白石城を預かっていた旧伊達藩家臣・片倉小十郎邦憲の旧臣の北海道移住第3陣1班401名を乗せ、松島湾・寒風澤(かぶざわ)港を出港、函館を経て小樽に向かう途中、9月20日、泉沢村(現渡島管内木古内町)サラキ岬で座礁、沈没。(なお、移住団は無事上陸避難、小樽に到着し、望月寒(もつきさむ)川流域に入植、視察に来た岩村道俊判官は「白石村」と命名。
・1968年、サラキ岬付近で、咸臨丸のものと見られる錨が発見された。今年5月14日、岬に「咸臨丸終焉の地」碑が建立された。
・ちなみに、「咸臨」は、易経の「咸臨貞吉」(みなのぞむ。ていきち。互いに感じて臨む。貞正にして吉。心を一つにして協力して進む)から取った。

<昌平丸>
・安政元(1854)年、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船。桜島造船所で竣工。薩摩藩原船名:昇平丸
・安政2(1855)年、幕府に献上される。「昌平丸」と改称。
・明治2(1869)年9月、咸臨丸と同時に、兵部省所管だった昌平丸を交付、開拓使附属船となる。
・同年12月24日、米穀を積み入れ石狩に向け函館を出帆、逆風のため南部・
安渡(あんど・現青森県むつ市大湊)に漂着、翌安政3(1870)3月2日木の子村(現上ノ国字木の子)の海岸で座礁破砕。5名の犠牲者をだし、国産初の洋式軍艦は15年余りの短命に終わった。

○康午(こうご)丸
・安政4(1857)年、イギリスで製造
・明治3(1870)6月、プロシャ人ユンク・ニフラルより汽船「バルカン」号を購入、康午丸と命名(明治3年は、康午=かのえ・うま=年)
・開拓使は、御用達・木村万平に貸与。木村は「回漕会社」を設立し北海道の産物を回漕する。木村は、この年、札幌・銭函通り=南1条=に洋風の運漕店を建設した人物でもある。店舗は、札幌における洋風家屋の始まりとしている。
・同年10月、厚岸で難破(難破年について、「開拓使事業報告」の「本文」は、「明治3年」とし、同「附属船明細票」は、「7年難破」としている。)

○辛未(しんび)丸
・明治3(1870)年、イギリスで製造された蒸気船「レッサ」号
・明治4(1881)年5月購入、辛未丸と改称。(明治4年は、辛未=かのと・ひつじ=年)
・同年9月、取扱を木村万平の「回漕会社」に託す。(1ケ年借賃金3500円)

○稲川丸
・万延元(1860)年、清国・香港で製造。
・明治5(1872)年、開拓使、横浜の鈴木安兵衛から購入。
・同年5月、森・室蘭間の定期航路に充てる。

○安渡丸
・明治5(1872)年2月、斗南藩より購入。
・当初、石明丸とともに、石狩川運送に供された。
・明治5(1872)9月、森・室蘭~函館~南部・川内(かわうち、現青森県むつ市川内)
*斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)容保の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870年)成立した藩である。会津藩を没収された会津松平家は、改めて下北半島の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられ、現在の青森県むつ市田名部にある徳玄寺に陣屋を構えた。斗南藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入された。
○弘明丸
・明治3年(1870)横須賀造船所で製造、開拓使は、明治5(1872)年4月購入。
・明治6(1873)2月、開拓使、函館~青森・安渡間に弘明丸をもって定期航路を開設。
・明治8(1875)5月、小樽~石狩~篠路太を回航。

○玄武丸
・明治4(1871)年9月、黒田次官から要請を受けたケプロンがアメリカに建造を依頼、ニューヨークで進水。
・明治6(1873)年5月に日本に回着、当初「黒田丸」と称し、8月に玄武丸と改称。
・明治8(1875)年1月、東京~函館~小樽の定期航路の航海に充てられた。
・黒田長官大砲事件の時の使用船、蛯子船長が処分を受ける。

○矯龍丸
・ケプロンの依頼で、玄武丸とともに、ニューヨークで完成。進水時の船名は「ケプロン」号。
・明治5(1872)年4月購入。

・明治6(1873)年5月に日本に回着、当初「樺太丸」と称し、同年10月に矯龍丸と改称。

・明治6(1873)年5月、開拓使附属船となる。

○蟠龍(はんりゅう、呉音読みで、「はんりょう」とも)丸=のち、雷電丸
・数奇な運命を辿る。
・安政3(1856)年、イギリスで製造。原名:「エンペラー」号。王室用武装帆船。
・安政5(1858)年7月、ヴィクトリア女王より幕府に贈られた。
・戊辰戦争では、榎本脱走艦隊に属して蝦夷地に向かう。
・明治2(1869)年5月11日、榎本政府最後の1隻として死闘、新政府軍艦朝陽丸を撃沈するも、最後は機関の故障で大森浜に乗り上げ、船員は蟠龍丸に火をつけ下船、蟠龍丸炎上で旧幕海軍は壊滅した。
・しかし、完全には焼失せず、バチェルダー(東京築地居住のアメリカ商人。箱館戦争では官軍の輸送にあたる)機関修理を申し出、上海で修理される。
・明治6(1873)年6月、開拓使、蟠龍丸を購入。のち、「雷電丸」と改称。
・明治10(1877)年2月、沖鷹丸(海軍省附属船)と交換、海軍砲艦「雷電」として、根室定繋(ていけい)となる。
・明治21(1888)年1月、海軍を除籍、廃艦。
・高知県に無償で払い下げられ、捕鯨船となる。
・さらに、大坂、名古屋の船会社に転籍。商船となる。
・明治30(1897)、大坂・前川造船所で解体。41年の生涯であった。
・ちなみに、「蟠龍(はんりょう)」は、「地上にわだかまって、まだ昇天しない龍」のこと。

○北海丸
・明治元(1869)年、フランスで進水。開拓使附属船では最大の1100トン。神奈川県が購入、「雑喜丸」と命名
・明治5(1872)年、開拓使が購入、「北海丸」と改称。
・明治7(1875)年、海軍省に移管。巡洋艦「浅間」と改名。
・明治8(1876)年8月、5月に調印された千島・樺太交換条約に基づく
千島受領に際し、儀礼艦として大泊港へ派遣
・明治10(1877)年、西南戦争に参加。その後、練習艦となる。
・明治29(1896)年、売却された。

北辰旗を掲げた船~開拓使附属船について~(1)

◎要旨
I. 開拓使の海運政策と附属船
II. 北辰旗制定の経過と変遷

◎はじめに・・5つのトンガリのある星の呼び方
①「北晨星」
・「晨」・・二十八宿の房(ぼう)宿の和名。蝎(さそり)座の頭部の四星より成る。
「晨」とは「房星(ふさぼし)」の別名でもある。「房星」とは「房宿(ぼうしゅく)」の距星(中心となる星)で、さそり座π星。
・「宿」とは中国では星座を意味し、そのうちほぼ天の赤道帯に沿った部分を重要なものと位置付け二十八宿として定めていた。この「房宿」も二十八宿の一つで第4番目)。その左側のアンタレスは「心宿(しんしゅく)」と呼ばれている。
二十八宿とは古代中国(恐らく3世紀)で、月の通り道である白道に沿って選ばれた星座を言う。太陰暦の中心となる月が1日に1つの宿にやどると考えられた。これは恒星月の約27.3日から来ていると思われる。
・ところで、「晨」は、「夜明け」の意味があり、「晨星」=「夜明けの星」という言葉もあり、「晨星落落」という熟語もある。(晨星のまばらなこと、転じて、友人などが(死んだりして)少なくなったこと)
・四神・・28星宿は、7つずつの4グループに分けられる。順番に東、北、西、南の4つの方位に割り振り、青龍、玄武、白虎、朱雀の4つの獣神の姿を当てはめた。高松塚古墳、キトラ古墳に、天文図と4神が描かれていることで知られている。
・東方7宿・青龍・・・・さそり座のSカーブと、それに続くてんびん座、おとめ座の領域を巨大な竜の姿に当てはめています。
・江戸幕府天文方渋川春海による貞享(じょうきょう)2年(1685年)の改暦で、二十七宿が廃され、中国起源の二十八宿に変更された。貞享暦は別名を大和暦ともいい、渋川が独自で開発した暦法であるが、星宿に関しては反対に中国流を取り入れたのである。
②「北辰星」
・「辰」
(ア) さそり座の首星・アンアタレスのこと、和名「なかごぼし」
(イ) 「房星」の別名。
(ウ) 北極星。
*「北辰」・・北極星の異称
③「五光星」
④「五陵星」・・「陵」・・山の背すじ。すじ状の山波の線。
⑤「五稜星」・・「稜」・・角。隣り合った二つの面が交わってなす直線。函館の「五稜郭」は、この「稜」の字。

Ⅰ.開拓使の海運政策と附属船

1. 開拓使の海運政策の中心点
・「本道ハ四面海ヲ環(めぐ)ラシ貨物の出入皆船艦ノ力ニ由(よ)ラザルナシ」(「開拓使事業略記」)という状況で、北海道の開拓には、輸送手段の確保が重要事であった。
・脆弱(ぜいじゃく)な日本型木造船から西洋型船による海運への革新と、開拓使自らが船舶を所有し交通手段を拡充する必要があった。

<その理由>
① 北海道の豊富な海産物の移出と、米・塩など生活必需品の移入のため、海運はその生命線
② 移民導入のうえからも、士族移民団の遭難の多発で海上交通の安全確保が重大関心事
③ 明治政府自体、日本船の航海権を確保することは、政治的にも国防上からも要請され、積極的に西洋型船舶の導入を図った。開拓使の海運政策もこれに沿って進められた。
④ 開拓使の管轄が樺太、千島を含み、また陸路の交通手段が未整備でいきおい海運手段に頼らざるをえなかった。
⑤ 地方庁、中央省庁という開拓使の二重性から、たえず中央との連絡を必要とした。

2.開拓使附属船(外国船雇用・西洋型船の所有)の経過
○明治2(1869)年2月・・東久世道禧(みちよし、ミチトミとも)開拓使2代長官が政府に提示した14ケ条の「開拓施策要項」の中で「附属船を備ふる事」の項目を掲げ、太政官に帆船・汽船各1隻の交付を要求。
○明治2年9月・・咸臨丸、昌平丸が交付された。
○2隻では、需要をまかないきれず、開拓使は、高運賃の外国商船を雇用。しかし、事業が煩雑になるに従い、不当な傭船にたよるわけにはいかなくなり、外国船の買取りを計画。まず、康午丸、辛未丸を購入。
○そのほか、政府から貸下げを受けるとか、国内船を買い上げるなど、開拓使所有船の充実を図り、開拓使廃止の明治15(1882)年まで、開拓使附属の汽船・西洋型帆船はのべ29隻に達している。(資料①)

黒田清隆の開拓使籏章更正伺

明治5年9月、開拓次官黒田清隆が、正院宛に「開拓使籏章更正伺」を提出している。その理由について推察してみる。

1.北辰旗制定の経過
まず、開拓使の北辰旗制定の経過を要約すると、明治5年正月、開拓使御用係の蛯子末次郎が、開拓使に「北海道旗章立置伺」を提出し、その中で「此五陵形籏章ノ原因タルヤ北晨星ヲ象リ則青色地ニ赤色ヲ點付ス」(「本支庁文移録」、北海道文書館所蔵)と述べている。
なお付言すれば、蛯子末次郎の師は、五稜郭を設計した武田斐三郎である。
開拓使は翌2月、蛯子の案を受け入れ、「本使附属船籏章ヲ蒼色五稜形ニ定ム」(「開拓使事業報告」、同)とした。ここに、五稜星の北辰旗が誕生した。

2.黒田清隆の北辰旗の旗影変更伺
ところが、北辰旗制定から間もない同年9月、黒田は、突然、以下の「籏章更正伺」を正院に提出している。

「當使官邸並用船等ヘ建用候大小籏章、先般雛形を以申上置候處、
今般別紙籏影之通、致更正候間御布告相成候様仕度此段奉伺候也
    壬申九月十九日       黒田開拓次官
    正院 御中                」(「稟裁録」、同)

黒田は、「別紙」で、「五陵形」を「七陵形」に変更した「籏影」案を提出している。
 正院は、黒田の「伺」を「従前相定候品可相用事」として却下している。(同)

3.その理由
ところで、なぜ、黒田は、その北辰旗の旗影の変更を伺い出たのだろうか。
 私は、その理由に、黒田と榎本武揚の男の友情を見る。
明治2年5月、函館戦争の際、官軍参謀の黒田が、五稜郭に立てこもった旧幕軍の榎本の助命を嘆願したことはよく知られている。黒田に助けられた榎本は、明治5年3月8日、開拓使四等出仕に任じられている。
 開拓使官吏となった榎本は、自らの敗北の地である「五稜郭」を彷彿させる「開拓使旗章」に内心忸怩たるものがあったのではないか。
 黒田と榎本は、互いに肝胆相照らす仲であり、黒田は、榎本の気持を汲み、榎本赴任から半年後の9月、開拓使旗章を「五陵形」から「七陵形」へ変更する「伺」となったのではないか。
のち、明治21年、榎本は、黒田内閣の農商務大臣兼逓信大臣に任命され、更に、明治33年、黒田の死去の際して、葬儀委員長も務めている。

4.まとめ
 以上、黒田清隆が北辰旗の旗章変更伺を提出した理由について、私の突飛な暴論ともいえる推察である。
 なお、現在の北海道旗について、北海道は、「本道開拓使が使用した北辰旗と、当時着想されていた七陵星のイメージを現代的に表現したもの」と説明している。
正院には却下されたが、黒田が「籏章更正伺」を提出した幻の七陵星の北辰旗、つまり、私流にいえば、黒田清隆と榎本武揚の男の友情が現代に蘇り、北海道各地に翻っている。
北海道旗を見るたびに、私は、ひとり、歴史のロマンに浸っている次第である。

開拓使本庁舎と桜

<特大>札幌は、5月12日、桜の満開が発表されました。
開拓の村の桜も、満開でした。
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札幌市都市景観重要建築物

■指定建築物等

第1号 「日本食品製造合資会社旧工場」

 所在地:札幌市西区八軒1条西1丁目13-1
 建築年:昭和4(1929)年
 構造:れんが造
 指定年月日:平成13(2001)年7月31日


第2号 「北星女学校宣教師館」
      (現北星学園創立百周年記念館)

 所在地:札幌市中央区南4条西17丁目2
 建築年:大正15(1926)年
 構造:木造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日 


第3号 「三谷牧場牛舎・サイロ」

 所在地:札幌市西区発寒8条13丁目1
 建築年:昭和3(1928)年
 構造:れんが造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日

第4号 「小熊邸」
       (現ろいず珈琲館)

 所在地:札幌市中央区伏見5丁目1875-33の内
 建築年:昭和2(1927)年
 構造:木造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日 

第5号 「石山郵便局」
       (現ぽすとかん)

 所在地:札幌市南区石山2条3丁目1-26
 建築年:昭和15(1940)年
 構造:石造(札幌軟石)
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日 

第6号 「杉野目邸」

 所在地:札幌市中央区南19条西11丁目
 建築年:昭和8(1933)年
 構造:木骨れんが造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日

 ※個人宅につき非公開。
   敷地内無断立入り禁止。 


平成18年3月7日に以下の5件が新たに指定されました。
第7号 「日本基督教団札幌教会礼拝堂」

 所在地:札幌市中央区北1条東1丁目
 建築年:明治37(1904)年
 構造:木骨石造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

  

第8号 「旧吉田善太郎別邸」
     (現八紘学園栗林記念館)

 所在地:札幌市豊平区月寒東1条12丁目
 建築年:明治42(1909)年
 構造:木造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日
  

第9号 「旧吉田牧場畜舎・サイロ」
     (八紘学園資料館)

 所在地:札幌市豊平区月寒東1条13丁目
 建築年:明治37(1904)年
 構造:木造(畜舎)、石造(サイロ)
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

  

第10号 「旧石切山駅」
      (現石山振興会館)

 所在地:札幌市南区石山1条3丁目
 建築年:大正7(1918)年
 構造:木造一部石造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

  

第11号 「旧中井家リンゴ倉庫」
      (現平岸天神太鼓道場)

 所在地:札幌市豊平区平岸3条2丁目
 建築年:昭和10(1935)年
 構造:れんが造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

*詳しくは札幌市のホームページの「さっぽろの都市計画」の「都市景観重要建築物等」を参照ください。
↓です。
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/index.html

江戸時代の蝦夷地の支配体制 略年表

江戸時代の蝦夷地の支配体制 略年表

【松前藩領】
○文禄2(1593).1.2・・蠣崎慶(よし)広(ひろ)(松前家5世・初代松前藩主)、肥前・名護屋の陣営で朝鮮侵攻のため滞在中の豊臣秀吉に拝謁、志摩守に任じられる。
○同年.1.6・・慶広、秀吉より朱印状の交付を受け、蝦夷島の支配者として公認される。
○慶長4(1599).11.7・・慶広、大坂城で家康に拝謁。氏を「蠣崎」から「松前」に改める。
○慶長9(1604).1.27・・慶広、家康より黒印状を賜る。

*松前藩の地域区分と呼び方
・松前地(和人地ともいう)・・福山城を中心に東西25キロ、東は亀田(のち山越内まで拡大される)、西は熊石にいたる間とする。
・東西蝦夷地・・亀田から東を「東蝦夷地」、熊石から「西蝦夷地」と。のち、東西蝦夷地の奥を知床半島で境とした。はじめは海岸線だけの区分を内陸部にも及ぼし、知床半島から蝦夷地を横断してイザリ(現恵庭市)を通り、熊石にいたる線で分けられることになった。
・口蝦夷地・奥蝦夷地という呼び方もある・・「口」は、松前に近い方、「奥」は遠い方をさし、東は襟裳岬、西は神威岬(または雄冬岬)を境とした。

【前期幕府直轄】
○寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地(ウラカワより知床及び東奥島々まで)を当分(7ケ年)、試みに仮上知する旨、松前藩に通達。
○同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
○同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
○同年.9.28・・幕府、代地500石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)
○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。
○同年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。仮上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
○文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前藩は、奥州伊達郡梁川(現福島県伊達郡梁川町)9000石に移封。
○同年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

【松前藩復領】
○文政4(1821).12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

【幕府再直轄】
○嘉永7(1854).6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2(1855).2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。
○慶応元(1865).9月・・松前崇(たか)広(ひろ)(松前藩12代藩主)、陸海軍総奉行に就任の際、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

歴代女性天皇の系譜(5)

(7)108代・明正(めいしょう)天皇=7歳で即位、21歳で上皇になった女帝
・明正の名は、女帝の43代・元明(げんめい)天皇とその娘の44代・元正(げんしょう)天皇から取ったとされています。
・徳川氏を外戚とする天皇は明正天皇が最初です。これは、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の対朝廷政策が確立した事を意味するとされています。
・108代・後水尾天皇の第2皇女で、母は、徳川2代将軍・秀忠の娘徳川和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。つまり、明正天皇は、秀忠の孫娘ということになります。
・<経過>
・1629年(寛永6年)の紫(し)衣(え)事件や幕府から春日局が無官のまま参内した事件などで、父の後水尾天皇から突然の譲位を受け、興子(おきこ)内親王として7歳で即位する。彼女の即位で、四八代・称徳天皇以来859年ぶりの女帝が誕生した。治世中は後水尾上皇の院政が敷かれた。
・<紫(し)衣(え)事件>
紫(し)衣(え)とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
1613年(慶長18年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
・このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府、3代将軍・徳川家光は、1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
・<春日局事件>
・2代将軍徳川秀忠正室お江与の従女民部卿局の仲介で、子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。
・初の大奥総取締として大奥の制度を統率し、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。江戸城大奥の礎を築いた人物で「大奥最高の女帝」とまで言われている。
・1629年、将軍の名代で、無位無官の身で朝廷へ参内。後水尾天皇に拝謁し、従三位の位と「春日局」の称号、天杯を賜る。後に従二位に叙られる。
・1643年(寛永20年)に、異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となる
(8)117代・後桜町天皇・・最後の女帝
・114代・桜町天皇の第2皇女。智子(としこ)内親王。
・宝暦12年(1762年)、桃園天皇の遺詔を受けて践祚。同帝の皇子英(ひで)仁(ひと)親王(後の118代・後桃園天皇)が五歳の幼さであった為、中継ぎとしての皇位継承である。
また彼女の即位で、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となる。
在位九年の後、明和7年(1770年),甥の後桃園天皇に譲位。
・<皇統の傍流への移行>
しかし、この御代は長く続かず、安永8年(1779年)皇子を残さぬまま後桃園天皇が崩御。
・9歳の兼(とも)仁(ひと)親王(のちの光格天皇)に決まった。
元々は、閑院(かんいんの)宮家(みやけ)から聖護院に入寺し、出家する予定であったが、1779年、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったので、急遽養子として迎えいれられて即位。
<閑院(かんいんの)宮家(みやけ)>
・、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。
・皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、新宮家誕生となった。
・閑院宮家6代の載仁(ことひと)親王・・1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。 1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。 1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。また、稀に見る美男子であった。
第7代 春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子。公爵 一条実輝の娘 直子と結婚。陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将として、戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏が失われるとして反対の論陣を張ったが、1947年(昭和22年)に皇籍離脱。 閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。 戦後の新生活は波乱とスキャンダルにみちたもので、直子とは離婚。 妹 華子女王は、皇族出身の侯爵 華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。1988年(昭和63年)6月、85歳で死去。子は無く、閑院(宮)家は断絶した。

(後桃園天皇からみると、曽祖父=ひいじいさん=の弟の孫)
*現今の「旧皇族の活用」論、つまり、「旧皇族から養子を迎える」という論の論拠になっています。実際は、現行皇室典範9条が「天皇及び皇族は養子を迎えることができない」と、禁止しています。
<まとめ>
・日本には、10代(8人)の女帝がいました。
・女帝、特に飛鳥・奈良時代の6世紀末から8世紀後半までの8代(6人)の女帝は、政権能力の優れた王族内の長(おさ)が即位したのであって、「中継ぎ」などではなかったという説にうなづけるものを感じます。

歴代女性天皇の系譜(4)

(6-1)46代孝謙天皇・・生涯独身で仏教の篤い信者だった女帝
・6人目の女帝は、46代孝謙天皇です。
・45代聖武天皇の皇女で阿部内親王といった。母は、藤原不比等の娘・光(こう)明(みょう)子(し)。聖武天皇は、基(もとい)皇子を皇太子としたが、わずか2歳で死亡、738年、阿部内親王が初めての女性皇太子となる。12年間、皇太子として天皇を助け、749年譲位され即位。
<父・45代聖武天皇の時代のこと>
・大仏建立・・「奈良の大仏」を作った。728年、聖武天皇が皇太子・基(もとい)皇子の供養のため建立したのが東大寺の始まり。華厳宗大本山。743年になり聖武天皇が大仏造顕の詔を公布した。
・国分寺建立の詔(741、続日本紀)(a) 国ごとに国分寺(金光明四天王護国寺)、国分尼寺(法華滅罪寺)を設置
・42代文武天皇と藤原宮子の間に生まれ、14歳で皇太子になり、藤原不比等の娘・光(こう)明(みょう)子(し)(のち光明皇后・母宮子とは異母姉妹だから、祖父が同じ不比等という叔母)と結婚。はじめて皇族出でない者が皇后となった。藤原氏の至上の面目である。ふたりの間に生まれた基(もとい)皇子を生後1ケ月で皇太子に立てたが、翌年病死。
・長屋王事件・・左大臣になった長屋王が謀反を企てたとして自害させられた。
・天然痘の大流行、地震など、相次ぐ天変地変で、聖武天皇は、一層、仏教に救いを求め、国分寺の建立、そして、10年の歳月をかけ東大寺の巨大な大仏・盧(る)舎(しゃ)那(な)仏(ぶつ)を建立。
・聖武天皇(在位724~749)相継ぐ遷都
※平城京→恭(く)仁(に)京(きょう)(740・山城)→難波宮(744・摂津)→紫(し)香(が)楽(らきの)宮(みや)(744・近江・現滋賀県甲賀市信楽町北部)→平城京(745)
<孝謙天皇誕生のいきさつ>
・基(もとい)皇子の死後、皇子が生まれない以上、阿部内親王を皇太子として、皇位継承者にする以外になかった。・・日本で初めて、また後世にも例を見ない女性の皇太子が誕生した。
<46代孝謙天皇として>
・女性皇太子としての即位。独身で通したので、皇位継承をめぐって大きな問題が起るが・・まず、孝謙天皇の時代を見る・・
・即位は、749年7月2日。この日をもって、年号を、天平感宝から天平勝宝と改元。この年、749年は、年号が3回変わった。つまり、1~4月が「天平21年」、元正太政天皇が死去し、年号が「天平感宝」に変わり、
4~7月が「天平感宝元年」、7月から「天平勝宝」となった史上でも珍しい年です。
・父・聖武天皇から引き継いだ大仏建立が完成し、父・聖武太政天皇、はは・光明皇太后と一緒に東大寺へ行幸し、盛大な開眼(かいげん)供養(くよう)が行われたのは752年=天平勝宝4年4月9日のこと。
・孝謙天皇の時代は、仏教興隆の時代でした。唐の僧、鑑真和上が来日、唐招提寺を建立したのも、この時代。
<橘奈良麻呂の乱>
・一方、皇位をめぐる不穏な動きが膨らむ。
・聖武太政天皇は、皇太子を道(ふな)祖(ど)王(おおきみ)(天武天皇の孫)にすると遺言し、756年、崩じた。
・しかし皇太子となった道(ふな)祖(どの)王(おうきみ)は、亡き聖武太上天皇の服喪期間中であるにかかわらず、淫らな行為に耽って喪に服することなく恭敬の念も見られず、また国家機密を民間に漏洩したり春宮を抜け出たりと問題行動が多く、孝謙天皇もしばしば戒めたものの聞き入れる様子がなかったようである。遂に天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)(757)年3月に皇太子を廃されてしまうことになる。
・新皇太子に選ばれたのは孝謙天皇の詔勅を受け、藤原仲麻呂と親しい大炊(おおい)王(おおきみ)(舎人(とねり)皇子の子)と決まる。
・一連の廃太子劇が、藤原仲麻呂による謀略なのか、いずれにせよ藤原仲麻呂の権勢はより一層大きいものとなったのである。
・やがて同年7月、『橘奈良麻呂の乱』に連座したとして逮捕され、道(ふな)祖(ど)王(おおきみ)は、拷問を受け亡くなることになる。
◎758年=天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)2年=8月、孝謙天皇は、皇太子・大炊(おおい)王に譲位した。その理由は、年をとった母・光明皇太后に孝養を尽くしたいということといわれています。譲位後も、太上天皇として、政治にかかわる。太上天皇(だじょうてんのう)とは皇位を後継者に譲った天皇。またはその人の称号。上皇(じょうこう)と略することが多い。由来は中国の皇帝が位を退くと太上皇と尊称されたことにあるといわれる。なお出家した上皇を太上法皇、法皇(ほうおう)と称する。
・さらに、重祚(ちょうそ)ということで再び皇位につく。

(6-2)称徳天皇・・女心に揺れつつ、出家した女帝
<即位のいきさつ>
・758年=天平宝字2年=孝謙天皇が譲位して皇太子・大炊(おおい)王が25歳の若さで即位。47代淳(じゅん)仁(にん)天皇。淳仁天皇は、即位したとき、改元をしなかった。以前のままの「天平宝字」を用いた。これは歴史上ないこと。
・太上天皇になった孝謙天皇が政治を指導、事実上政治を動かしたのは、引き続き藤原仲麻呂でした。
・淳仁天皇は、仲麻呂の長男・真(ま)依(より)の未亡人・粟(あわ)田(たの)諸(もろ)姉(ね)を妻として、仲麻呂邸に住んでいた。こうして藤原仲麻呂は、自他共に認める地位を確保していった。
・仲麻呂の専制に反発して起ったのが、橘奈良麻呂の乱。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して失敗した。
・仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。天平宝字2年(758年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、そして、天平宝字4年(760年)には太政大臣にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、天平宝字8年(764年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ。
・さて、孝謙太上天皇と淳仁天皇は、平城宮(ぐう)改修のため、近江の保(ほ)良(ら)離宮に滞在するが、病気になった孝謙太上天皇を看病した道鏡と孝謙太上天皇が親しくなるのを警告するが孝謙太上天皇は法華寺に入り落飾(らくしょく)(髪をそり落として仏門に入ること。落髪とも)し、法(ほう)基(き)尼(に)となった。
<藤原仲麻呂の乱>
・栄耀栄華を極めた仲麻呂だが、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛しはじめたことで暗転する。
・孝謙上皇の道鏡への寵愛は深まり、逆に仲麻呂を激しく憎むようになった。焦った仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、仲麻呂は都に兵力を集めて反乱を起こそうと企んでいた。
・孝謙上皇は、官位の剥奪と藤原姓を名乗らせぬとの宣言をさせる。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、
・淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、氷上塩焼(かつての塩焼王)を偽帝に擁立し、太政官符をもって諸国に号令した。ここに、二つの朝廷ができたことになる。
・官軍と仲麻呂軍が応戦する。ついに仲麻呂軍は敗れた。仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、官兵に襲われ斬殺された。塩焼王も琵琶湖畔で処刑された。
・仲麻呂の一族は滅び、淳仁天皇は廃位され淡路に流され、「淡路の廃帝」として歴史に名を残すことになります。代わって孝謙上皇が重(ちょう)祚(そ)する(称徳天皇)。称徳天皇の道鏡への寵愛は深まり、道鏡は、太政大臣禅師、法王にまで昇り、皇位をうかがうまでの権勢を持つようになる。
<称徳天皇の誕生>
◎道鏡の出現
・称徳治世は道鏡なしには語れない。道鏡は、河内・弓削(ゆげ)氏の出で、弓削(ゆげの)道(どう)鏡(きょう)ともいわれます。呪(じゅ)験(けん)力(まじない)を身につけていました。
・保(ほ)良(ら)離宮で看病禅師として宮中に出入りし、称徳上皇を看病し、次第に政権の中核に上り詰めていった。
・弓削道鏡は孝謙(称徳)天皇に仕え、天皇から大僧正の信任を得、法王にまでのぼりつめ、天皇に代わって政事(まつりごと)を司り、西大寺などを建立した実力者であった。彼には「女帝を拐かし、自らが天皇になろうとした悪僧!」という悪名が常につきまとう。いづれにしても、称徳天皇の治世は、道鏡の主導の下に進められていきました。
・道鏡の主導のもと、「宇佐八幡事件」など、ざわつきがあったが、769年=神護景雲3年8月、称徳天皇は、53歳で崩御しました。
・称徳天皇の生涯はかなり波乱に富んでいます。天皇という特別な存在とは別に、一人の女性としての生き方を貫いた人間だったといえます。
・以後、平安、室町時代に女帝は、おらず、859年後の1629年=寛永6年、江戸時代まで、女帝は、いません。

歴代女性天皇の系譜(3)

◎41代持統天皇の誕生
・&#40469;(う)野(のの)皇女の人となりについて、日本書紀は、
「しめやかにして、おおきなる、のりまします」とある。つまり、落ち着いて重々しい。
・天武天皇の皇后になってからは、よき伴侶として天皇を補佐した。
・天武天皇の死後、実子で皇太子だったの草壁皇子は即位せず、皇后がそのまま政務に当たった。
○大津皇子事件
・天武天皇の死後(686年9月9日)1ケ月もたたない10月2日、大津皇子(天武天皇の第3皇子、母は、天智天皇の長女の太田皇女)は、謀反が発覚したとして捕えられ、直ちに処刑された。大津皇子は、古代王朝の悲劇として、歴史にその名をとどめ、同情者も多い。
・皇后にとって、はじめて新しい時代の到来、つまり、皇位=権力が夫天武系から父天智系に移ったことを意味する。
○持統天皇の即位
・天武天皇の殯(ひん)宮(きゅう)(棺を埋葬の時まで安置しておくこと、その宮殿)は2年余り続いた。誰もが皇太子・草壁皇子が即位することを疑いませんでした。
・ところが、687年4月、草壁皇子は28歳で、急死してしまいます。
・草壁皇子の妃は、阿(あ)閇(べ)皇女(天智天皇の娘・草壁皇子の叔母・のち43代元明天皇)で、ふたりの間に軽(かるの)王子があったが、まだ7歳でした。
・自己の血統を守るためにも、ここは、出るしかない。
・690年正月、高天原(たかまがはら)広野(ひろの)姫(ひめの)天皇(すめらみこと) すなわち、持統天皇として即位。
<治世>
○天皇を中心とした中央集権国家の確立。
・官制・・中央官庁の整備
・税制・・個人単位の税制になり、そのため戸籍があらためられた。いわゆる庚(こう)寅(いん)年(ねん)籍(じゃく)。
・地方制度・・国、郡、里の確立。中央から国司の派遣。
○新しい都必要・・→藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)の造営。
○春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山
・百人一首でも有名なこの歌は、万葉集を代表する歌のひとつです。
・697年、孫にあたる軽王子(42代文(もん)武(む)天皇)に譲位し、大宝律令の完成に情熱を傾けたが、702年、波乱に富んだ生涯に幕を降ろした。飛鳥時代最後の女帝である。
・「日本書紀」は、神代から持統天皇の時代で終わっている。
(完成したのは、奈良時代に入ってからの720年=養老4年で、天武天皇の皇子・舎人(とねり)皇子が中心となって編纂された日本最初の勅撰の歴史書)

Ⅱ.奈良時代・・3人4代の女帝
(4)元明天皇・・人民への心配りが細やかで控えめな女帝
・青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」
と歌われた奈良の都に女性の天皇が君臨しました。その第1代の天皇が元明天皇です。
・天智天皇の第4皇女・阿(あ)閇(べ)皇女、母は姪(めいの)娘(いらつめ)ですから、持統天皇の異母妹になります。
・草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)と結婚して軽皇子をもうける。
・持統天皇から譲位された軽王子(42代文(もん)武(む)天皇)が15歳で即位したが、24歳で崩御。
・藤原不比等の娘・宮子との間に首(おびとの)皇子(元明天皇の孫・のち聖武天皇)があったが、まだ7歳でした。氷(ひ)高(だかの)皇女と吉備(きびの)皇女以外に兄弟はなかった。
・天武天皇派には、大勢の皇子がいて健在で、皇位を狙うかもしれないという心配。皇位を自分の血統で守っていくためには、母自身が即位するしかない。
・女帝44代元明天皇が誕生した。
<経過>
・文(もん)武(む)治世期・・大宝律令の公布(701年)。遣唐使、31年ぶりに派遣があったものの、とくに大事件は起らず、順調に時は流れた。
・707年、文(もん)武(む)天皇崩御。皇統を守る上からも、母・阿(あ)閇(べ)皇女が継ぐ以外になかった。
◎43代元明天皇の誕生
・母が、子のあとを継ぐという前例にない継承。
・歴史家は、「天智天皇は、近江令(りょう)に「嫡子相続制を決めていた。元明天皇は、次の天皇たる孫の首(おびとの)皇子の成長を待って皇位継承を行う前哨として、即位した。あくまで中継ぎのための即位」とする説が有力。
・715年、在位8年で、皇位を娘の氷(ひ)高(だかの)皇女に譲り、上皇となった。721年、61歳で生涯を終えました。
<大きな出来事>
・708年、日本で最初の流通貨幣、和銅開珎(ちん)の公布。現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね。純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあったといわれています。
○平城京
・藤原京から平城京への遷都は707年に始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大(だい)極(きょく)殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。山城国に遷都してのちは南都(なんと)とも呼ばれ、平城天皇は平城京に再び遷都することを図ったが、これは実現しなかった。740年、聖武天皇の恭(く)仁(に)京(きょう)=現京都府相楽(さがらか)郡加茂町=への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び首都となった。

(5)元正天皇・・はじめて独身で即位した女帝
<即位のいきさつ>
・氷(ひ)高(だかの)皇女は、元明天皇と早世した草壁皇子の皇女で、天武天皇・持統天皇の孫、天智天皇の孫にもなる。
・元明天皇は、孫の首(おびとの)皇子が成人するのを待たず、娘の皇女氷(ひ)高(だかの)内親王(「親王、内親王」のことばは、このころから使われた。)に譲位した。それが36歳でなぜか独身の元正天皇。日本史上にない2代続けての女帝となった。
・首(おびとの)皇子の父は文武天皇であるが、母は藤原不比等の娘・宮子。藤原氏にとっては、藤原家から天皇がでるという願ってもないチャンスでもあった。
・それへのためらいもあったか、元明天皇としては、ひとまず、娘の氷(ひ)高(だかの)皇女に譲位した。
○44代元正天皇の誕生
<その治世>
・「続(しょく)日(に)本(ほん)記(ぎ)」(『日本書紀』につづく勅撰史書。文武元年(697)から延暦10年(791)のほぼ100年間,律令の整備,平城遷都から長岡京,平安遷都にいたる“万葉人の時代”の躍動と苦悩を伝える記録)は、見識深く、落ち着き礼節にかなった言動と記している。優れた資質の持ち主であったといわれています。
・3度の改元・・「和銅」から「霊亀」。
・さらに2年後717年に「養老」へ改元・・この地を行幸した元正天皇は、「醴(れい)泉(せん)は美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して霊亀3年を改め養老元年となすべし」との詔を出して、「養老」と改元した。
有名な「養老の滝」の逸話は・・貧しいが親をうやまう樵(きこり)が住んでいました。年老いた父を養っていましたが、その日の暮らしに追われて老父の好む酒を十分に買うことができませんでした。
 ある日、苔むした岩から滑り落ちてしまいました。ふと気づくとどこからか酒の香りがただよってくるのです。岩間の泉から山吹色の水が湧き出ているのです。すくってなめてみると、かぐわしい酒の味がするのです。「有難(ありがた)や」と腰にさげているひょうたんに汲んで帰り老父に飲ませたところ、老父はこの不思議な水を飲んだので白い髪は黒くなり、顔の皺(しわ)もなくなり、すっかり若々しくなりました。この不思議な水の出来事が、やがて都に伝えられると・・ここで、元正天皇の行幸になるのです。美泉で元正女帝も美顔になった・・とか・・。女性らしさがうかがえる改元ではあります。
・その他の行政・・農業の充実、免税、出(すい)挙(こ)という貸付制度、仏教の隆興、「日本書紀」の完成、日本初の女医を置く。(産婦人科、外科など30名を養成した)
・724年、在位9年で、甥の皇太子・首(おびとの)皇子に皇位を譲った。45代・聖武天皇の誕生です。
・自らは上皇となる。748年崩御。69歳。

歴代女性天皇の系譜(2)

(2-2).37代斉明天皇・・はじめて重祚(ちょうそ)。(祚(そ)=朝廷の君主の位。再祚、復祚とも)建設好きの女帝
○即位までの動向
・退位した京極天皇は次期天皇に鎌足の意見をいれて、軽皇子(かるのおうじ)を推したが、皇子は辞退し中大兄皇子の異母兄の古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)(蘇我馬子の孫)を推薦。古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)は蘇我氏の血筋をひいているので蘇我氏滅亡の今、皇位につくはずもないとして出家し吉野にこもってしまう。
・やむなく、軽皇子(かるのおうじ)が即位
=36代孝徳天皇。50歳での即位。
<元号>について
・645年、年号を「大化」とする。(「日本書紀」は、年号制のはじまりとする。
・江戸時代までは、大きな出来事が起きると改元した。
・明治天皇の前の孝明天皇在位中、元号は、弘化、嘉永、安政、文久、元治、慶応と7回代わった。室町時代の後花園天皇期には、なんと9回も変わった。
・「一世一代の詔(みことのり)」・・明治元年=一八六八年九月八日行政官布告「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス」
・元号法・・昭和54年=1979年法律第43号、たった2行。「1.元号は、政令で定める。2.元号は皇位の継承があった場合に限り改める」

・ちなみに、大正天皇が12月25日崩御。「昭和」・・中国の「書経」の「百(ひゃく)姓(せい)昭明なり、万邦を協和せしむ」からとった(国民のしあわせと平和を願う意味があるという)。ところが、「昭」の字は一般になじみがない。昭という字は『昭和』という年号が定まるまで殆ど使われなかった字。だから昭和以前に生まれた方で『昭』の字をうけた方はほとんどいない。当時の新聞に「どういう意味か」と揶揄した記事が載りました。
・「平成」・・・「史記」の「内平外成」(うち、平らかに、外なる)、「書経」の「地平天成」(地平らかにして天成る)・・内外、天地とも平和が達成される。
① 間人(はしひと)皇女(皇極天皇の娘、中大兄皇子の同母妹、孝徳天皇の姪)を皇后にした。
② 都を難波(なにわ)の長柄豊碕(ながらとよさき)に遷都。
③ 翌646年、「改新の詔勅」を出す。歴史に残る「大化の改新」
④ 白(はく)雉(ち)4年(653)、かねて不仲の皇太子である中大兄皇子は、皇極上皇、間人(はしひと)皇后を率いて大和に戻り飛鳥河辺(かわらの)行宮(かりみや)に移ってしまう。
⑤ 翌654年、失意の孝徳天皇は、難波(なにわ)長柄豊碕(ながらとよさき)宮で崩御。不遇の天皇といえる。
⑥ 皇太子の中大兄皇子(後の天(てん)智(じ)天皇)が継承者のはずだが、不和のなかでの天皇崩御での即位は難しいこと、孝徳天皇の皇子・有馬皇子もいたが、そちらに皇位を渡すわけにはいかず、表向きは内政改革に専念することを理由に、次期を期して、結局、母の先先の帝・皇極天皇が即位。
○37代斎明天皇が即位(655.1)。日本ではじめての重祚。天皇62歳。歴代第一の高齢即位。
・次々と宮殿をつくる。
①板(いた)蓋宮(ぶきのみや)が焼失。(655年冬)飛鳥川原宮(かわらのみや)に仮寓(かぐう)。(655年)
②岡本(夫の舒明天皇の宮跡)に新宮殿を建設 後(のちの)岡(おか)本宮(もとのみや)(656年)
③その東の丘に両(ふた)槻(つき)宮という高殿を建設。
④香久山の西から石上山まで、水道工事をさせ
た。又、二百そうの舟で、石上山の石を積んで運んできて宮の東の山に石垣を造らせた。水道工事に三万人、石垣工事に七万人。世に「狂(たぶれ)心(ごころ)の渠(みぞ)」という。
⑤同年、奈良・吉野に吉野宮を建立。
⑦ 657年、飛鳥寺の西に須(しゅ)弥(み)山(せん)(仏教の中心とされ、世界の中心に聳えるというインドの架空の山)、659年にも甘橿の丘の西にも須(しゅ)弥(み)山(せん)を作る。
⑧ 有馬皇子事件=658年、皇位継承権を持つ孝徳天皇の皇子・有馬皇子が謀反を図ったとして処刑された。18歳の若さで命を落とした。(治療に訪れた白浜温泉は、温泉を世に広めたとして皇子の顕彰碑がある)
⑨ 661年、朝(あさ)倉(くら)橘(たちばなの)広(ひろ)庭(にわの)宮(みや)(現福岡県朝倉郡朝倉町)を建てる。
*斉明朝の有名な事件
・有間皇子事件=謀反をはかったとされて18歳で処刑された悲劇の貴公子。白浜温泉を歴史上最初に世に広めた人としても知られる。
・<阿部(あべの)比羅夫(ひらふ)の渡(わたりの)島(しま)遠征>・・658年、659年の2度(蝦夷地=北海道遠征かどうか諸説あり)
・百済(唐・新羅軍に攻撃されていた)救援軍を送る。
◎661年7月、朝倉宮に没す。68歳。在位6年。

(3).41代持統天皇・・万葉集や百人一首でもおなじみの実力派の女帝
・華やかさと存在感のある女帝。生まれながらにして天皇家の中心的存在だった。
・父は、豪族蘇我氏を倒し、大和朝廷の基礎固めをした中大兄皇子=38代天(てん)智(じ)天皇。その第2皇女&#40469;(う)野(のの)皇女)。
・その弟で律令国家体制の基礎を作り上げた天武天皇の皇后(叔父と13歳で結婚)
◎即位までの経過
○38代天(てん)智(じ)天皇・・661年年、斉明天皇死後、皇太子として天皇を支え、実権を握っていた中大兄皇子は、皇太子のまま政務を執る。
・667年都を近江国大津へ移す。(近江京)
・668年、中大兄皇子、大津宮で即位。
・壬申の乱・・遠く1330年の昔、関が原で古代日本を二分したもう一つの天下分け目の戦いがあった。
<経過>
・天(てん)智(じ)天皇は、実子の大友皇子を後継者にしようとした。
・672年、天(てん)智(じ)天皇が46歳で没すると、吉野に下っていた大海人皇子が挙兵、不破(関が原)を押さえた。この闘いに妃(きさき)の&#40469;(う)野(のの)皇女も同行。
・近江軍(大友皇子軍)と関が原の藤古川をはさんで合戦。その後、瀬田橋(瀬田の唐橋=東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通の要衝でもあったため、「唐橋を制する者は天下を制す」とまでいわれ、この「壬申の乱」、13世紀の「承久の乱」、14世紀の「建武の戦い」など、幾多の戦乱の舞台になり、そのたびに破壊・再建を繰り返してきた橋)の戦いで大友軍は破れ、大友皇子は自害。ときに25歳、悲劇の主人公であった。
・翌673年、大海人皇子は、飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮(のみや)に即位。40代天武天皇の誕生。都は近江から再び飛鳥へ。
・なお、「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していない。大友皇子が「39代弘文天皇」と公式に謚(おくりな)され、即位が公式に認められたのは、明治3年のこと。皇位空白時代を埋めるためともいわれている。それまでは歴代天皇として数えられなかった。現在では非即位説が有力である。
<乱の原因>
① 天智天皇の朝鮮出兵の失敗、国政の急進的改革、近江宮へ移転などでの出費増で豪族、民衆の負担増への不満が背景とされる。
② 皇位継承紛争が契機。
③ 額田王(ぬかだのおおきみ)をめぐって、天智天皇と大海人皇子兄弟の不和が遠因という説。
    あかねさす紫草野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
       野守は見ずや君が袖振る(万葉集の歌は有名)

○40代天武天皇・・妃(きさき)の&#40469;(う)野(のの)皇女のほか、太田皇女、大江皇女、新(にい)田(た)部(べの)皇女(いずれも兄天智天皇の娘、つまり姪)などとの間に軽(かるの)皇(おう)子(じ)(のち42代文(もん)武(む)天皇)、氷(ひ)高(だか)内親王(のち女帝・44代元(げん)正(しょう)天皇)など、じつに皇子10人、皇女7人をなした。
・吉野の盟約=679(天武8)年、吉野の宮に草壁、大津、高(たけ)市(ち)、忍(おし)壁(かべ)、川島、志(し)貴(き)の6皇子を集め、お互いに協力して逆らうことのない誓いを交わした。しかし、時代の波に翻弄され、それぞれの運命をたどることになる。
・薬師寺:&#40469;(う)野(のの)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈り、創建したのをはじめ、仏教への関心が高く、国家仏教をつくりあげてゆく布石となった。
・神道にも崇敬・・伊勢神宮を大切にした。現在も行われている20年ごとの式年(しきねん)遷宮(せんぐう)(社殿の建て替え)は、この時代に始まったとされる。
・686年6月、天武天皇没。65歳。

歴代女性天皇の系譜(1)

◎2006.4.24 札幌市高齢者市民講座で発表したものです。(札幌市厚別区民センターにて)

>歴代女性天皇の譜系
~8人10代の女性天皇の素顔~


1.はじめに
◎「女帝」・・マスコミでの「女帝」は、男勝りで、外国の某大統領夫人とか、
大会社の社長夫人とか、「銀座の女帝」とか、日本に存在した「真の女帝」の著(いち)しく傷つけています。
・日本の「女帝」の称号は、「○○天皇」であり、漢字で書かれた名前だけでは、女帝かどうか、わかりません。外国の例では、女王はQueenであり、男性の王はKingと、称号で区別されています。
・「女王」・・新旧皇室典範の「王、女王」がある。
・皇室典範の「王」「女王」・・皇曾孫、皇玄孫、皇来孫など(逆に「曽祖父」「玄祖父」「来祖父」・・・犬の世界では、いう)

・近代の女性天皇論議 ①「嚶鳴(おうめい)社」の討論(1882=明治15)
           ②新憲法下の国会論議(1947=昭和22)
           ③「皇室典範に関する有識者会議」設立(2005=平成17)
・新旧の皇室典範の成立過程
*旧皇室典範(P61)
*新皇室典範(P227)
・「○○天皇」→死後の諡名(おくりな)。現天皇は、「今上(きんじょう)天皇」
2.神話時代の「女帝」
①神(じん)功(ぐう)皇后・・14代仲哀天皇の皇后。「愚管抄」(慈円=中世の僧。天台座主=が書いた日本最初の歴史論)は「15代天皇」としている。「水鏡(みずかがみ)」(鎌倉初期の歴史物語。神武天皇から54代仁(にん)明(みょう)天皇までの約1500年間の歴史を編年体で記したもの)には「女帝はこの時始まりしなり」と書いてあります。
②飯豊(いいとよ)天皇・・「記紀」(古事記と日本書紀)には「天皇」として扱われ「最初の女帝」と注がある。「扶桑(ふそう)略記」(平安時代末期に成立した歴史書。正史ではない。神武天皇元年(推定紀元前660)より寛治8年(1094)までの国史を 仏教に力点を置きながら略述した私撰の国史)は24代天皇としていています。

3.歴代女性天皇の譜系と素顔
*名前の「呼び方」は、いろいろあるので、わかりやすく、現在の漢字読みにします。また、幼名はじめ、即位前の名前をいくつも持っている人物は、一番有名な名前になるべく統一したいと思います。
「皇子」・・「みこ」→「おうじ」・・「親王」は、奈良期以降
「皇女」・・「ひめ」「ひめみこ」→「皇女」・・「内親王」は、奈良期以降

Ⅰ.【飛鳥時代】・・3人4代の女帝。
・「飛鳥時代」・・範囲については、諸説あり。政治史上は、推古朝(592年・推古天皇の即位)から平城遷都(710)まで。文化史上では、仏教渡来(538)から大化の改新(593)までが主力。
「飛鳥京」・・飛鳥地方におかれた、都の総称。豊浦宮(とゆらのみや)、岡本宮、板(いた)蓋宮(ぶきのみや)、河辺(かわらの)行宮(かりみや)、浄(きよ)御原宮(みはらのみや)
(1)33代推古天皇・・日本で最初の女帝。

○29代欽明天皇第2皇女(額(ぬか)田部(たべの)皇女(こうじょ)・炊屋(かしぎや)姫)。「姿色端麗(みかおきらきら)しく、進止軌制(みふるまいおさおさ)し」(日本書記)とあり、才色兼備の少女だった。
○即位のいきさつ
・30代敏(び)達(たつ)天皇(異母兄)の皇后となる。2男5女を設ける。(兎(う)道(じの)貝(かい)蛸(たこの)皇女(こうじょ)は、厩戸皇子=聖徳太子=の后)。炊屋(かしぎや)姫と聖徳太子は叔母・甥の関係。
・敏達天皇の死後、31代用明天皇(炊屋姫の兄)が即位。この時期、実力者の蘇我馬子(大臣(おおおみ)=大和朝廷の執政者)・物部守屋(大連(おおむらじ)=大和朝廷の執政者)の勢力争いが激しくなります。
・結局、蘇我・物部の対立抗争は、蘇我側の勝利に終わり、蘇我馬子の押す泊(はつ)瀬部(せべ)皇子(おうじ)が即位します。32代崇(す)峻(しゅん)天皇です。
・(32代崇(す)峻(しゅん)天皇)=蘇我馬子の甥で、炊屋(かしぎや)姫とは、異母姉弟。29代・欽明天皇の第12皇子です。馬子の専横を憤り打倒を企てるが逆に馬子に暗殺されます。
臣下により天皇が殺されたのは、日本史ではおそらくこれが唯一の例である(毒殺の疑いのある江戸時代最後の121代孝明天皇。また、20代安(あん)康(こう)天皇は同じ皇族によって暗殺されたとされますが、神話時代で、史実性が低い)。また、死去したその日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことも、他に例が無い。
*欣明天皇以来の天皇は、蘇我氏の権力のもとでのあやつりだった。
・崇(す)峻(しゅん)天皇死後、次期天皇をめぐって混乱。
・結局、群臣は、皇后炊屋(かしぎや)姫自身の帝位就任を再三要請。炊屋(かしぎや)姫は承諾する。
・33代推古天皇の誕生。豊浦宮(とゆらのみや)(現明日香村豊浦)で即位、時に39歳。失墜した王権の回復のために、蘇我氏と朝廷との政治的権力バランスととるために皇位についたという見解が主流。馬子の思惑も。推古天皇の母は、蘇我稲目の娘・堅(きた)塩(しの)媛(ひめ)。
○推古天皇は、甥の厩戸皇子(=聖徳太子)を皇太子に任命、政治の実務に当たらせた。遣隋使の派遣し対中国外交を進展、冠位12階の設定・17条憲法の制定し中央集権国家の基礎を作った。仏教隆興につとめ、法隆寺などを建立。
○蘇我馬子、聖徳太子、実子・竹田皇子に先立たれ、661年、在位36年は飛鳥・奈良時代を通して最長。齢(よわい)75歳の生涯を閉じる。歴代女帝では、最高年齢。

○橿原(かしはら)市で、2000年に巨大石室が出土。推古天皇と竹田皇子の合葬墓の可能性(推古天皇は、生前には自分を作らず、竹田皇子の墓に葬ってほしいと望んだという。愛する息子と同じ墓で眠りたいという老いた母親の心情)

(2-1) 35代皇極天皇・・はじめて生前譲位した女帝
○推古天皇崩御からわずか14年後。次の次の天皇。名を宝皇女という。父は茅(ち)淳(ぬ)王(おおきみ)(30代敏達天皇の孫)、母は吉備(きびの)姫(ひめの)王(おおきみ)(29代欽明天皇の曾孫)
○34代舒明天皇の皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子=38代天智(てんじ)天皇)、大海(おおあま)皇子(40代天武天皇)、間人(はしひと)皇女(36代孝徳天皇の皇后)をなしている。ふたりの天皇と一人の皇后の母親になった。歴史上、珍しい例。
○即位のいきさつ
① 推古天皇死後、次期天皇について、田村皇子派、山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)派が対立。
② 結局、629年、田村皇子が即位(=34代舒明天皇)
③ 翌630年、宝皇女、皇后となる。
④ 欣明期は、比較的平穏だったといえる。遣唐使の派遣、仏教に積極的。
⑤ 641年、舒明天皇崩御
⑥ 皇位継承候補者として、舒明天皇の長男古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)(母は法提郎媛(ほてのいらつめ)=蘇我馬子の娘)、中大兄皇子(後の天智天皇)、山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)がいた。蘇我蝦夷(えみし)・入(い)鹿(るか)親子にとって、3人とも血族。
⑦ 後継者を容易に決定できない状況のもと、宝皇后が「中継ぎ」として即位。
○35代皇極天皇 49歳。
○蘇我入鹿の横暴→中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原鎌足)は蘇我打倒計画を練り蘇我蝦夷(えみし)・入(い)鹿(るか)親子を滅ぼす(乙巳(いっし)の変=645年)。「大化の改新」のはじまり。
*29代欽明天皇から34代舒明天皇まで6代は、蘇我本家の血を色濃くひいている。しかし、この事件は天皇家が他の大豪族から一歩ぬきんでた位置を占める端緒を開いたといえる。
○皇極天皇は大事件(乙巳(いっし)の変=飛鳥板(いた)蓋宮(ぶきのみや))を目の当たりに見た皇極天皇は、事件の2日後、皇位を弟の軽皇子(かるのおうじ)(36代孝徳天皇)に譲る。崩御しないで皇位を譲るという譲位は、はじめてのこと。在位3年余。

生涯学習とボランティア(2)

生涯学習とボランティア(2)

3.生涯学習社会を築くために、取り組むべき課題の一つ:「ボランティア活動の支援・推進」
◎沿革と課題への取り組みの経過
・明治後半のセツルメント運動・・弱者救済、篤志家の奉仕活動と見られた。(米騒動、関東大震災・・東大セツルメントなど学生セツルメント運動)(資料9)
・昭和40年前後から「ボランティア」という言葉が普及し始め、ボランティアによる活動を支援するための組織作りが始められた。
・昭和46年、社会教育審議会答申のなかで、「民間人の意欲的なボランティア活動」が評価された。
・昭和60年代以降、ボランティア活動の分野は、社会福祉のほか、自然環境保護、教育、文化、スポーツ、学術研究、開発途上国や在日外国人への支援・国際交流・協力、人権擁護、保健・医療、まちづくり活動、災害救助活動
など、多岐にわたり広がっている。

4.生涯学習の成果を生かすボランティア活動
◎平成11年生涯学習審議会答申「学習の成果を幅広く生かす」(資料10)
・「個人が学習成果を活用して社会で自己実現を図る場として最も緊要な課題となっているキャリア(職業・職歴ばかりでなく社会的な活動歴をも含む)開発、ボランティア活動、地域社会での活動の振興方策を考察・提言」した。
学習成果を
1) 個人のキャリア開発に生かす。
・勤労者の自己啓発意欲の高まり。
・女性は自己実現を図ることに意義を認める人が増えています。
・高齢者が定年後の生きがいを求める傾向が、仕事ばかりでなく、ボランティア活動など社会活動への参加意欲も高い。
2)ボランティア活動に生かす
近年のボランティアを志向する社会の進展を、「他者のため、社会・公共のため積極的に自分を役立ちたいとする意欲が高まっている」と指摘し、「国民一人一人が自己責任と信頼を基調とする自覚・自立した意識に基づいてボランティアの活動に積極的に関わっていくことが求められる」と記しています。
また、実際に活動しようとすれば、活動にかかわる分野の知識や技術の習得のための学習が必要なものであり、また、ボランティア活動に参加することによって、必然的にさらなる学習に発展することになるなど、生涯学習ボランティア活動は密接な関係にある。ボランティア活動の促進と生涯学習の推進とは実質的に切り離すことができない関係にある」述べ、「ボランティア活動は、学習成果を生かし、体験的にその成果を深める実践の場そのものである」と、生涯学習とボランティア活動の相互関係を定式化しています。
そして、行政として、「人々のあらゆる場における学習活動を振興することが必要であり、学習によって得た知識や技術などの成果を積極的にボランティア活動に生かすことができるようなシステムの構築が求められている」としています。
◎この指摘は、指定管理者・開拓の村と開拓の村ボランティアの関係にも当てはめることができると思います。今年度、年度当初から通年「研修」の設定、各種研修グループの立ち上げ・活動は、その具現であると思います。
3) 地域社会の発展に生かす
・答申はまた、「単に学ぶばかりでなく、学んで得た知識や技術を地域社会の発展や地域の人々のために活用したいとする人たちが増えている」と述べ、「より深い喜びや充実感を得るため、しかるべき学習の後、多くの人々の前でその学習の成果を披露し、また、他の人のために指導やアドバイスをしたりする機会を持とうとする傾向が強くなっている。学習を通じて何らかの形で社会につながり、社会的な事業に参画したい、できれば社会のために貢献したいとする人々の意欲が高まってきている」として、生涯学習の行政も「学習機会の提供のみならず学習成果の活用の促進も、重視されなければならない」と指摘しています。開拓の村に関していえば、今年度から、ボランティアの会の「会員研究発表会」や、今年度導入の「会員研究レポート」の奨励が、それを具体化した先進例といえるでしょう。

5.「生涯学習ボランティア」の活動
・社会教育施設ボランティアの活動、つまり、実践と研修と連携とが、博物館で、図書館で、青少年教育施設で、日々、強められています。
・「ボランティアコーディネーター」の導入による資格制度、「全国V(ボラン)ネット」、「V(ボラン)ネットセミナー」の開催
・「Hands One」・・一度だけの人生を多くの人々のために・・を合言
葉に、誰からも強制されることのない、活動が広がっています。

6.広がり、高度化するボランティア活動の課題
◎平成14年2月、河合隼(はや)雄(お)文化庁長官は就任挨拶の中で「文化ボランティアの推進」を強調し、「文化ボランティア」と言う言葉を使いました。
「博物館ボランティア」は、この「文化ボランティア」の1ジャンルになると思います。 (資料11)
◎今後の課題
~「甘え」、「驕り」は許されない時代に~
・「ボランティアは、自ら積極的に人生を楽しみ、親しむとともに、一度だけの人生を多くの人々のために、他人のお手伝いもしたい」という機運が高まっているなかで、ボランティアは、「単に技術だけでなく、ボランタリーなこころもって」活動することがなによりも求められています。
① 受け入れ側・・職員全員の共通理解の学習が必要で、「何のためにボランティア制度を導入するか」を明確にすることが大事です。
② ボランティア側・・活動する場が与えられたことに感謝するという謙虚な気持ちが大切で、ボランティア活動は、一部の人の参加ではなく、多くの国民が、ボランティア活動に参加する状況(H15年には、前年比105%の779万人)のもとで、「私は、自己犠牲でボランティアをやっている」とか「善意の施しとしてやっている」という「甘え」、「驕り」、「選良」意識、は許されない時代に入りつつあります。
◎ボランティア活動のもつ社会的責任
・平成11年の「生涯学習審議会」答申では、「ボランティア活動は、本来、志さえあれば誰にでもできるものである。しかし、ボランティア活動が無償の、他人や社会に貢献しようとする行為であるとはいえ、それが社会的な活動であるかぎりは、ボランティア活動に対する責任・義務について自覚を持って参加するという意識を醸成していくことが大切になってきている。そのために重要なのは、志や熱意ばかりでなく、受け手(開拓の村でいえば来村者)の気持ちへの配慮、活動を支える知識・技術の獲得や仲間との協調性であり、そうした学習も大切になる」と指摘しています。

◎「ボランティアの評価」の段階に
充実したボランティア活動を行うためには、
① 第一義的に活動に自己評価が重要。ボランティア活動が、自分のためにも行うものでもある以上、何が身に着いたか、何が足りなかったかなど自分で評価することが基本です。
② 受け手側の評価も、次の活動の改善につなげるために重要です。
③ 社会的評価も、一層の自覚・意欲の向上にとって有効です。今年度、当ボランティアの会が「北海道博物館協会表彰」されるそうですが、これも「社会的評価」といえるのではないでしょうか。
◎おわりに
・現在、中教審では、「青少年のボランティアを育てる努力」「青少年にボランティア体験の機会を」が議論されています。青少年のボランティアについては、現在、災害、環境などへの参加が進められていますが、さらに、文化ボランティアへの発展が期待されています。その意味で、開拓の村で、「こどもボランティア」の導入の計画は、注目されるのではないかと思います。
・昨年6月の中教審第49回総会では、「生涯学習はゼロ歳児からはじまるという視点が必要」と指摘され、7月の中教審生涯学習分科会で、湯川れい子委員
が、「新生児を親の心臓の音からすぐ切り離して別室に連れて行ってしまうとか、泣いても抱っこしてもらえない、ミルクをもらう場合も声をかけてもらえない、・・人間を人間として育てるという上でものすごく欠落している部分で、ここの部分に視点を合わせない限り、大きくなって人間とコミュニケートする力を持たせるかと言っても大変に無理だ」と発言しています。そうこうことが論議されています。
実践も、理論も、日々、進んでいることを実感しました。

私は、ボランティア活動の実のひとりですが、今回、「生涯学習論」「ボランティア論」を勉強する機会を得ました。自らの活動を整理するよい機会にもなりました。学んだことを、今後の活動に生かしたいと思っています。私は、北海道開拓の村ボランティアとして、一層の研鑽を深めたいと思います。

生涯学習とボランティア

◎2006年4月22日、北海道開拓の村会員研修会で発表したものです。

生涯学習時代とボランティア(1)


◎はじめに
私は、全国博物館ボランティア研究協議会に参加させていただきました。その報告かたがた、私なりに勉強したことを、「生涯学習時代とボランティア」と題したテーマでお話したいと思います。

・昨年12月5~6日、国立科学博物館を主会場として開催された「第6回全国博物館ボランティア研究協議会」(以下全国会議といいます)に中島学芸員とともに参加しました。
1日目は、午前中に基調講演、午後から「テーマ別分科会」があり、私は「地域や学校と博物館をつなぐボランティア活動」に参加しました。
2日目の「館種別分科会」は、神奈川県立歴史博物館を会場にした「歴史系博物館分科会」に参加しました。
この分科会で、特に指名され、開拓の村ボランティアの活動を発言しました。他の博物館ボランティアの会の報告や発言を聞きましても、「北海道開拓の村ボランティアの会」が全国の博物館ボランティアの中で、先進的な活動をしていることを実感しました。
・そのことは、手前味噌の感想ではなく、例えば、国立科学博物館教育ボランティア推進室長の石川昇氏は、ネット版の「生涯学習研究E辞典」の「博物館とボランティア」の項で、「博物館におけるボランティアの導入の現状」について次のように記述していることからも明らかだと思います。
石川氏によりますと、「一般公募によるボランティア導入は、1974年、北九州立美術館が最初で、各地の美術館へ波及。美術館以外の博物館では、1974年上野動物園でボランティア団体が発足、歴史博物館では(と、項目をたて)1987年=昭和62年、『北海道開拓の村』でボランティアが展示解説、警察の制服を着て解説を演示したのを皮切りに、美術館以外にも、また、展示解説以外の活動にもボランティア活動が導入され、その後、さまざまな活動が開発されるようになった」と述べています。私は、改めて、開拓の村ボランティアが、全国の先進ボランティア組織であることを実感しました。
現在、博物館におけるボランティアの導入は、1117登録博物館・同相当施設中で331館(約28%)、4243博物館類似施設中543館(約13%)が導入しています。
また、「ボランティアの導入の背景」として*(資料1を読む)

さて、全国会議で、私は、国立少年の家理事長の松下倶(とも)子(こ)氏の「生涯学習時代とボランティア」と題して基調講演がとても勉強になりました。松下氏は、長年、文部科学省の「生涯学習」政策に関わってこられた方で、現在文部科学大臣の諮問機関・中教審(中央教育審議会)の生涯学習分科会の副分科会長を務めておられます。(資料2)
それだけに、松下氏の講演は、「生涯学習」や「ボランティア活動」についての政策的変遷や方向を知ることができました。その基調講演をもとに、お話しを進めたいと思います。
 
1.「生涯学習時代」とは・・21世紀は「生涯学習を構築する時代」といわれています。
◎去る4月13日、自民・公明が「教育基本法」の改正案で合意し、「与党教育基本法改正に関する協議会」最終報告が発表されました。報道は「愛国心」に関することが中心でしたが、実は、この改正案に、「生涯学習」が追加されることが盛り込まれています。「生涯学習の理念」という項目を掲げ「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図らなければならない」としています。この自公改正案が、教育基本法改正案に、あえて、生涯学習の項目を起すことに関して、「現行の教育基本法にも、『教育の目的は、あらゆる教育の機会に、あらゆる場所において実現されなければならない』とあり、現行法でも、今にも十分通用する豊かな中身を持っている」として疑問を投げかける声もでていますが、「生涯学習」が教育の根幹のひとつとして、無視できないものになっている時代だと思いました。(資料3)
◎また、国連も、21世紀の最初の年である2001年を「ボランティア国際年」としました。
◎昭和56年 中央教育審議会(中教審)答申「生涯教育について」・・「生涯教育」の本格的な取り組みが始まります。
◎臨時教育審議会(臨教審。昭和59~62年)最終答申(昭和62年8月)・・学習者の視点から課題を検討する立場を明確にするため、「生涯教育」の言葉に替わり「生涯学習」の言葉を用いて、学習者の立場を尊重する「生涯学習社会の実現」を提唱しました。(資料4)
答申は、今後のあるべき教育改革の視点として
1)個性重視
2)生涯学習体系への移行
3)社会の変化(情報化、国際化)への対応
を強調しました。
◎昭和63年、文部省の「社会教育局」が「生涯学習局」に改組再編された。

2.「生涯学習」と「ボランティア」の出会い
◎昭和64年、井上裕(ゆたか)文部大臣諮問意見のなかで、「ボランティア活動の支援・推進」が挙げられました。
◎平成2年1月中教審答申「生涯学習の基盤整備について」
「生涯学習は、学校や社会の中で意図的・組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション、ボランティア活動などの中でも行われるものである」として、生涯学習とボランティア活動を結びつけました。
◎平成2年6月施行の「生涯学習振興法」に基づき、「生涯学習審議会」設置。
◎平成4年 生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(資料5)
・ボランティア活動の基本理念(キーワード)
自発(自由意志)性、無償(無給)性、公共(公益)性、先駆(開発・発展)性
・生涯学習とボランティア活動の関連の3つの視点
1) ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習となるという視点
2) ボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための生涯学
習があり、学習の成果を生かし深める実践としてボランティア活動があるという視点
3)人々の生涯学習を支援するボランティア活動が、生涯学習を盛んにするという視点 があげられます。
◎答申に基づく取り組み
①「全国生涯学習フェスティバル」(「学びピア」)の開催
 平成元年、第1回千葉市:テーマ「愛したいのは 新しい自分」
 平成7年、第7回札幌市:「まなびでひらく北のふるさと」
 今年第17回鳥取市:
 (主なテーマ=キャッチフレーズ紹介)=(資料6)
②地方自治体の審議会、担当部局の設置
<北海道>(資料7)
・平成2年 「北海道生涯学習推進本部」設置。
・平成3年 「北海道生涯学習審議会」設置
・平成13年 「北海道立生涯学習推進センター」設置
          「道民カレッジ」開始
<札幌市>(資料8)
・平成10年、「生涯学習部」設置。
・平成12年、札幌市生涯学習総合センター(ちえりあ)オープン
      「さっぽろ市民カレッジ」開講
③地方自治体で「生涯学習都市宣言」(平成16年現在全国で170市町村。現在道内では札幌市を含め13自治体)
 北海道初は真狩村(昭和56年)、「生涯学習の村宣言」全国3番目
④昭和58年放送大学設置、昭和60より放送による授業開始。

生涯学習とボランティア

◎会場・・北海道開拓の村ビジターセンター研修室
◎日時・・2006.4.22PM13:00~14:00
◎テーマ・・生涯学習とボランティア
◎発表者・・森勇二
ボランティア研修講義です。
講義後にアップします。

開拓使 略年表

開拓使 略年表

○1868(慶応4)
・4.12・・新政府(朝廷)は、箱館裁判所設置(旧幕府の箱館奉行所を引き継いだ蝦夷地統治の機関)。仁和寺宮嘉(よし)彰(あきら)(議定兼軍防事務局督)を箱館裁判所総督、清水谷公考(きんなる)(侍従)・土井利(とし)恒(つね)(大野藩主)を副総督とし蝦夷地開拓の兼知を命じる。仁和寺宮嘉(よし)彰(あきら)は、辞退する。
*「裁判所」・・旧幕府の遠国奉行、軍代がおかれていた重要地域に、新政府(朝廷)が置いた行政機関
・閏4.5・・箱館裁判所副総督清水谷公考(きんなる)を同総督に任命。新たに、判事、権判事も任命。
・閏4.21・・新政府、「裁判所」を「府」、「県」に改編。「箱館裁判所」は「箱館府」と改称、清水谷公考(きんなる)が府知事に任命された。この日、清水谷公考(きんなる)は、江差に到着(閏4.14、京都出発)
・閏4.26・・清水谷公考(きんなる)、箱館着。翌27日、旧幕府箱館奉行杉浦勝(かつ)誠(のぶ)より事務を引き継ぐ。
・5.1・・清水谷公考(きんなる)、「箱館裁判所」を五稜郭に開く。(中央での「裁判所」廃止後に現地で「裁判所」が新設されたことになる。
・7.17・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を管内に告示。
・8.1・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を蝦夷地に告布達。

○1868(明治元)
・9.8・・慶応4年を明治元年と改める。
・10.20・・榎本武揚率いる旧幕軍、鷲ノ木に上陸。
・10.25・・清水谷公考(きんなる)知事、箱館を退去、青森に向かう。
・12・15・・旧幕軍、全島平定を在箱各国領事に告げる。榎本武揚が総裁になる。

○1869(明治2)
・4.9・・政府軍、乙部に上陸。
・5.11・・政府軍、陸海より箱館に進撃
・5.18・・榎本武揚以下、政府軍に降伏
・6.4・・鍋島直正(中納言・議定・上局議長)に蝦夷開拓督務の兼務を命じる。
・6.24・・第19代松前藩主・松前兼広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事となる。
・7.8・・開拓使を設置(樺太開拓使がおかれた1870年=明治3=2月13日から、1871年=明治4=8月7日までは、「北海道開拓使」と称した)。使員詰所(開拓使庁)を民部省中に置く。
・7.13・・蝦夷開拓督務鍋島直正を開拓使長官に任命(諸省卿と同等)
・7.17・・「箱館府」を廃止し、「箱館県」とする。(わずか7日間で廃止)
・7.22・・島義勇、開拓使判官に任命。
・7.24・・「箱館県」を廃止 清水谷公考(きんなる)、開拓次官になる。
・7.25・・岩村通敏、岡本監(けん)輔(すけ)、開拓使判官に任命。
・8.2・・松浦武四郎、開拓使判官に任命。
・8.15・・蝦夷地を「北海道」と改称し、11国86郡を画定。
・8・18・・松本十郎、開拓判官に任命。
・8.25・・東久世道禧(みちよし)(ミチトミとも)、開拓長官に任命。
・8.29・・杉浦誠(元箱館奉行・勝(かつ)誠(のぶ))開拓判官に任命。
・8.-・・「北蝦夷地」を「樺太」と改称。
・8.-・・民部省内におく開拓使庁を、太政官中に移す。
・8.-・・武田信(のぶ)順(より)、開拓判官に任命。
・9.13・・清水谷公考(きんなる)、開拓次官を辞任。
・9.30・・旧「箱館裁判所」を「開拓使出張所」と改称して開庁。
・9.30・・「箱館」を改めて「函館」とする。
・10.12・・島義勇、銭函に「開拓使仮役所」を設置。
・10.-・・判官松本十郎、根室に根室開拓使出張所を開設。1870(明治3)6月、東京府に移管、10月に開拓使の所管に復帰。
・10.-・・判官武田信順、宗谷に宗谷開拓使出張所を開設。1870(明治3)1月廃止。

○1870(明治3)
・2.13・・樺太開拓使をおく。
・4.-・・判官岩村道俊、銭函仮役所を小樽に移し、「小樽仮役所」と改称。
・5.9・・黒田清隆を開拓次官に任命、樺太専務を命じる。
・6.-・・樺太開拓使仮詰所を東京・北八丁堀におく。
・8.13・・黒田次官、樺太出張を命じられ、品川を出発。(同年10月20日帰京)
・閏10.9・・在京の開拓使庁を廃止。
・閏10.10・・「開拓使東京出張所」と改称、蛎(かき)殻(がら)町の北海道物産会所に移転。(その後、小網町稲荷(とうかん)堀(ぼり)に移転)
・閏10.-・・東京・北八丁堀にある「樺太開拓使仮詰所」を「樺太開拓使出張所」と改称。

○1871(明治4)
・4.-・・札幌に開拓使仮庁舎竣工
・4.24・・東久世長官、函館より札幌へ移転。
・5.-・・札幌に「開拓使庁」を置き、函館、根室の「開拓使出張所」を、それぞれ「函館出張開拓使庁」「根室出張開拓使庁」と改称。
・7.14・・廃藩置県につき、館藩を廃して館県となる(管轄地は、爾志郡、檜山郡、津軽郡、福島郡の4郡)
・7.-・・東京北八丁堀にある「樺太開拓使出張所」を「北海道開拓使東京出張所」に併する。
・8.8・・樺太開拓使を廃止。北海道開拓使に合併。
・8.27・・東京開拓使出張所、小網町稲荷(とうかん)堀(ぼり)より、芝増上寺本坊に移転。(後、同山内方丈跡へ)
・9.9・・館県、弘前県に併合される。(9.23に、青森県と改称、明治5年9月20日、開拓使に移す。
・10.15・・東久世長官、侍従長に移る。(1874=明治7=8.2、黒田清隆が長官に任命されるまで、開拓使長官は、空席)

○1872年(明治5)
・9.14・・札幌に「開拓使本庁」、函館・根室・宗谷・浦河・樺太に5支庁を置く。
・9.20・・東京開拓使出張所を同山内威徳院へ移転。
・11.9「明治五年十二月三日を以って、明治六年一月一日とする」という太政官布告。つまり、明治5年は、12月2日までしかない。

○1873年(明治6)
・11.24・・開拓使、札幌本庁舎落成。

○1874年(明治7)
・8.2・・陸軍中将兼開拓次官黒田清隆、兼任を解き、参議兼開拓長官に任ずる。

○1879年(明治12)
・1.17・・午後7時50分頃、出火。金庫、湯呑所、訴訟人控所を除きことごとく焼失。官金はすべて無事。公文、器具類も過半は搬出する。
・1・20・・旧女学校を仮本庁として事務取り扱いを開始。それからというもの庁舎が建てられないまま経過し、明治15年2月8日に開拓使の廃止を迎える。

○1882年(明治15)
・1.11・・黒田長官、開拓長官を免じ、内閣顧問に任じる。参議農商務卿西郷従(つぐ)道(みち)、開拓長官兼任とする。
・2.8・・開拓使を廃し、函館、札幌、根室の3県を置く。開拓大書記官時任為基を函館県令に、調所(ずしょ)広(ひろ)丈(たけ)、開拓少書記官湯地定基を根室県令に任ずる。

○1886年(明治19)
・1.26・・函館、札幌、根室3県を廃し、北海道庁をおく。北海道庁を札幌に、函館、根室に支庁をおく。司法大輔(だいふ)岩村道俊、北海道庁長官に任命される。
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