森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

占守島での戦闘

<国会議事録から></大>

第134回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第2号 平成七年十二月六日(水曜日)

○国務大臣(中山正暉君) 北方領土問題というのは、御承知のように、終戦の年、昭和二十年の二月四日から十一日までヤルタ会談というのがございまして、四月十二日にルーズベルトは脳溢血で亡くなっていかれるわけでございますが、お体を大変悪くしておられたルーズベルトとスターリンとの間の話がこれの私は発端だと思っております。
 つまり、中国における日本の作戦行動が大変成功しておりましたので、ルーズベルトは焦りを感じまして、ぜひ日本に対する戦争に参加してほしいということをスターリンに要請したわけでございます。それに対しましてスターリンが要求をした場所というのが、満州それから北朝鮮、樺太、千島列島というような地域であったわけでございます。
 ドイツとの戦争が進んで五月九日に終戦を迎えておりますが、その後、三カ月後に日本との戦争に参加するということをそのときルーズベルトに約束をしておりますが、御承知のように七月十六日に原爆の実験に成功いたしまして、十七日から始まりましたポツダム会議、これはソ連はこのポツダム宣言には現地のポツダムでは署名をしておりません。八月二日でこのポツダム会議は終了するわけでございますが、原爆の投下によって突然に日本が終戦に向かった。
 これはまことに残念なことでございますが、日本の天皇陛下の玉音放送が御承知のように八月十五日の正午にございました。杉野、佐藤両旅団長のもとに八月十八日の午後四時ということで三宅坂の陸軍参謀本部からもう停戦命令が出ておりましたものですから、占守島第九十一師団の堤不夾貴中将はまさかその後に攻撃があると思っていなかったのでございますが、慌てたソ連軍は、戦争が済んで三日目に極東軍司令官のワシレフスキーがカムチャツカ半島にいたグネチコという将軍に対して攻撃命令を天皇の玉音放送の三時間後に発しております。
 それで、八千六百名の兵士、三十隻の上陸用舟艇、それから二十四隻の護衛艦、八十機の飛行機、これで突然攻撃を開始して、その島は八月十八日から九月三日、日本の終戦記念日は八月十五日でございますが、アメリカの日本に対する戦勝記念日は九月二日、ソ連の日本に対する戦勝記念日は九月三日となっております。
 終戦記念日とアメリカとロシアの戦勝記念日の間に半月の差があるのは、私はこれが大変な北方領土問題の根底を示すものだと思っておりますが、実は八月十六日に発せられた日本の占領行政命令第一号の中に、ルーズベルトがスターリンに約束した四つの場所の中で一つだけが欠けておりました。それが北方領土であったわけでございます。
 ロシアは千島列島に対する要求を突きつけてまいりまして、半月の間に次の大統領になりましたトルーマンとスターリンの間に書簡のやりとりがあって、ついにアリューシャン列島の中に一つソ連軍の基地を確保する、千島列島の中に米軍の基地を確保するということを条件に折り合ったのが事実上の戦勝記念日になったということでございます。

樺太開拓使

<樺太開拓使> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

樺太開拓使は、明治3年2月13日から明治4年8月7日まで、樺太開拓のために設けられた官庁である。開拓使から分離して設置されたが、一年余りで廃止して元に戻った。

樺太は江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約で日露雑居の地とされ、王政復古の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。裁判所時代から現地の行政は岡本監輔が執り、明治元年と2年から移住した日本人入植者約五百人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
この間ロシア側の移住と開発の速度は日本側を上回り、さらに日本人との紛争が頻発した。これには、現地の岡本が日露和親条約の効力を否定し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発を原則拒否する態度をとっていたことにも原因があった。岡本の考えは、日露和親条約は条約締結権のない徳川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改めて国境を決定しなければならないというものだった。この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識に立つ日本政府と異なるものであった。
岡本は事態の緊急性を告げるべく上京した。政府は報告に危機感を抱き、明治3年2月13日に樺太の所管を開拓使から分離して樺太開拓使を設置した。独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所を樺太開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。ついで5月9日に、黒田清隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命し、樺太専務とした。黒田は樺太視察に赴き、8月に現地に到着した。黒田は日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。岡本はこの年閏10月に辞職した。
東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれば三年しかもたないという建議を出し、北方開拓を本格化する必要を説いた。これが、開拓使十年計画という予算計画を産むことになった。十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太の状況は基本的に変わらなかった。樺太にはこれ以後高官が派遣されることも任命されることもなく、樺太開拓使は明治4年8月7日に廃止された。

一方、開拓使は、北方開拓のために明治2年7月8日から明治15年2月8日まで置かれた官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年 (1870年) 2月13日から明治4年 (1871年) 8月7日までは、北海道開拓使と称した。

最初の「開拓使」の「役所」はどこにあったか

最初の「開拓使」の「役所」はどこにあったか

1.「「開拓使」設置までの経過
○1868(慶応4)
・4.12・・新政府(朝廷)は、箱館裁判所設置(旧幕府の箱館奉行所を引き継いだ蝦夷地統治の機関)。仁和寺宮嘉彰(よしあきら)(議定兼軍防事務局督)を箱館裁判所総督、清水谷公考(きんなる)(侍従)・土井利恒(としつね)(大野藩主)を副総督とし蝦夷地開拓の兼知を命じる。仁和寺宮嘉彰は、辞退する。
*「裁判所」・・旧幕府の遠国奉行、軍代がおかれていた重要地域に、新政府(朝廷)が置いた行政機関
・閏4.5・・箱館裁判所副総督清水谷公考(きんなる)を同総督に任命。新たに、判事、権判事も任命。
・閏4.21・・新政府、「裁判所」を「府」、「県」に改編。「箱館裁判所」は「箱館府」と改称、清水谷公考(きんなる)が府知事に任命された。この日、清水谷公考(きんなる)は、江差に到着(閏4.14、京都出発)
・閏4.26・・清水谷公考、箱館着。翌27日、旧幕府箱館奉行杉浦勝誠(かつのぶ)より事務を引き継ぐ。
・5.1・・清水谷公考、「箱館裁判所」を五稜郭に開く。(中央での「裁判所」廃止後に現地で「裁判所」が新設されたことになる。
・7.17・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を管内に告示。
・8.1・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を蝦夷地に告布達。

○1868(明治元)
・9.8・・慶応4年を明治元年と改める。
・10.20・・榎本武揚率いる旧幕軍、鷲ノ木に上陸。
・10.25・・清水谷公考(きんなる)知事、箱館を退去、青森に向かう。
・12・15・・旧幕軍、全島平定を在箱各国領事に告げる。榎本武揚が総裁になる。

○1869(明治2)
・4.9・・政府軍、乙部に上陸。
・5.11・・政府軍、陸海より箱館に進撃
・5.18・・榎本武揚以下、政府軍に降伏
・6.4・・鍋島直正(中納言・議定・上局議長)に蝦夷開拓督務の兼務を命じる。
・6.24・・第19代松前藩主・松前兼広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事となる。

2.新政府の官制
・慶応3(1867).12.9・・「王政復古」の大号令
同時に「三職」設置(総裁、議定、参与)
・慶応4(1868).1.17・・三職七科制とする。
・同年2.3・・三職八局とする。
・同年閏4.21・・太政官制を定める。太政官は京都に置かれた。
・同年閏4.27・・政体書を出す「天下の権力総てこれを太政官に帰す」
・明治2(1869)7.8・・官制改革
① 神祇官の復活し、太政官よりも上位に置かれた
② 太政官の下に、民部省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省が設置され、2官6省制が採られ、弾正台、集議院などの機関と同時に「開拓使」も設置された。

2.開拓使の設置
・明治2年7月8日、新しい太政官制が導入され、開拓使設置される。

・最初の開拓使役人の詰所(役所=開拓使庁)は、太政官のもとの民部省内(旧江戸城内)に置かれた。

・同年8月、開拓使を、民部省中から、太政官中に移す。

*太政官の役所
・明治2.2.24・・天皇、東京滞在中、太政官を東京に移すことを達する(東京遷都)。太政官は旧江戸城(皇居)内に置かれた。

・したがって、最初の開拓使の役所は、皇居内に置かれた。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(8) 

Ⅵ.晩秋の旧天北線沿線の旅

・「空知太駅跡碑」・・明治25年2月1日北炭線で開業、明治31年7月16日上川線の開通まで日本の最北端の駅。上川へ向かう人々は、空知太神社にお参りして北へ出発したそうです。
・「上川道路開鑿記念碑」・・明治12年、空知川に架かる空知太橋のたもとにあります。樺戸と空知集治監の囚人を使役して90キロの仮道路が完成。
・空知川鉄橋
・滝川公園・・啄木碑「空知川雪に埋れて鳥も見えず 岸辺の林に人ひとりいき」。明治41年1月20日、23歳の啄木が車窓から空知川を見たときの歌。
・《「北海道立畜産試験場滝川試験地(旧農商務省滝川種羊場)」》・「現在の機械庫」・《「開拓の村に復元の旧機械庫跡」》
・「妹背牛駅」、《「現在の藤原宅(旧藤原車橇製作所跡地)」》
・「納内駅」・・啄木は、空知川を渡った後、「見ると右も左も一望の雪の中に姿淋しき雑木の林、其(その)間(あいだ)間(あいだ)に雪を被った屋根の規則正しく幾列も並んでいるのは、名に聞こゆる空知の屯田兵村であろう」と日記に書いている。啄木も、《納内の屯田兵村》を眺めたのだろう。
・「塩狩峠」、「長野政雄殉職の地」碑、「三浦綾子記念館」
・「恩根内駅」
・「音威子府駅の天北線資料館」
・「上音威子府こ線橋」、「天北線標識プレート」、「天北トンネルを望む」・・・トンネルの内部はレンガ造り。「真冬の天北峠付近を走る三重連」
・「小頓別バス停(旧小頓別駅跡)」・・「小頓別駅」のプレートもありました。「丹波屋旅館」・・大正2年に建てられた駅前にある登録有形文化財の和洋折衷の建物。左は3階建てのしゃれた洋館。
・「敏音知駅の看板」、「敏音知駅跡公園」、「現ピンネシリ道の駅」
・「松音知駅舎」、「松音知の看板」、「手動のポイント」、「線路脇に転がる腕木式信号機」、「とぎれた線路」
・「中頓別バスターミナル(旧中頓別駅跡)」、「現宮崎商店《旧渡辺商店跡》」、「壁が剥げ落ちた商店」、「看板で隠す」・・屋号は同じ【イリヤマ平(「ヤマは金ともいい、イリヤマは《金が入るということを表している》=ツガイヤマ平とも】 ・「旧渡辺商店の解体工事」
*宮崎豊氏談「再三、開拓の村から譲渡申し入れがあったが、昭和60年の商工会の研修旅行で開拓の村を訪問した後、手放す決心をした」
*「開拓の村からもらったのはこのアルバム1冊だけ」と苦笑された。
・「鬼河原川橋梁」(中頓別・下頓別間)・・「鬼の河原?」。辺境の地というより、地獄の入り口といった趣の名。「鬼河原川橋梁」・・天北線遺跡のひとつ。
・「この川の名前はあるか?」「名無川という名前がある」
・「浜頓別バスターミナル(旧浜頓別駅)、「北オホーツクサイクリングロード」・・旧天北線跡。猿仏までできている。「天北線跡」、「クッチャロ湖」
・クッチャロ湖・・春と秋には2万羽におよぶ白鳥などが飛来し、日本有数の渡り鳥飛来地で、平成元年にはラムサール条約登録湿地となりました。
・「猿仏原野」・・のどかな酪農地帯。大小の沼が散在。「カムイト沼」・・幻の魚・イトウが住む沼。「晩秋の湖」・・静寂そのものでした。
・「飛行場前」・・駅名の看板。鬼志別バスターミナルの天北線記念館にありました。昭和30年12月1日、山形からの集団入植者の要望を受けて開駅。地名もない所。飛行場など、もちろんない。陸軍特設警備隊が12戸の開拓民を強制退去させ、建設工事には、昭和17年11月から800人の朝鮮人労働者を主力に、囚人、タコ労働者を投入された。厚さ15センチの板を敷き詰めた「板敷飛行場」で、2000Mの滑走路を持った浅茅野飛行場が作られた。浅茅野の真宗大谷派寺院の過去帳には、朝鮮人労働者89名の名前が記録されている。毎日のように死亡者の名が記載されており、強制労働の内容のすさまじさを物語っています。
「出来上がった飛行場は、板敷きで、小さな飛行機が木陰に1機隠すように置いてありました」(開拓者の妻の手記『岩高蘭』より)
・インデギルカ号遭難慰霊碑・・猿払村は、世界史に登場します。昭和14年12月12日深夜、カムチャッカ漁場から切り上げて帰郷する漁民・家族・船員1125名を乗せ、ウラジオストックに向け航行中の貨物船インデギルカ号(4200トン)が、魔の暗礁といわれる浜鬼志別沖合のトド岩付近の浅瀬に乗り上げ横転、702名が死亡するという世界海難史上まれな大惨事がオホーツクの一寒村・猿仏村の浜辺で繰り広げられた。なお、北海道大学の原暉之(てるゆき)氏は、著書「インディギルカ号の悲劇」の中で、「乗客の大半が実は強制収容所の刑期を終えたか再審を受ける囚人だった」と新事実を解き明かし、衝撃を与えました。事故のちょうど7ケ月前の昭和14年5月12日、ソ満国境では、日ソ両軍が激突した、世にいうノモンハン事件が起き、猿仏村でも柿崎喜一氏、本堂直吉氏が戦死しており、国民感情は決して穏やかではなかったが、村長以下、村民500名が、救助と死体処理に当たった。猿仏村史は「国境の垣根を越え、しかも険悪な国情の中で繰り広げられたインデギルカ号遭難救助絵巻」を克明に描いています。昭和46年10月12日、遭難のトド岩を一望できる浜鬼志別の断崖の上に、「インデギルカ号遭難犠牲碑」が建立されました。

・「鬼志別バスターミナル(旧鬼志別駅)」・・猿仏村の役場在地。猿仏村は、日本一ホタテの生産。日本最北端の村。「鬼志別駅標識」、「開駅プレート」、「天北線線路跡」、「鬼志別バスターミナルの時刻表」、

○旅の感想・・「さいはての旅」(堀田善衛)

Ⅴ.まとめ
1.・来正旅館の時刻表は、「網走」行があって、「稚内」行がない期間、つまり、名寄線全通初日(大正10年10月5日)から、宗谷本線(頓別回り)稚内開通前日(大正11年10月31日)までの期間のもの。(1年と26日)
2.積雪厳寒期に来正旅館に配置されるボランティアのひとりとして、歴代の時刻表を眺めて、往時を偲びたいと思います。
3.「天北」の未来に思いを馳せる・・(三浦綾子「天北原野」の結び)
・中頓別、浜頓別、猿仏の3町村は、合併するそうです。そして、その町の名前は・・「天北町」です。3町に隣接する幌延町は、核廃棄物処理場として生き残りの道を求めました。「最果ての天北町」は、どの道をたどるのでしょうか。猿仏は日本一のホタテの産地です。ラムサール条約指定のクッチャロ湖は、ハクチョウの休息地です。猿仏原野の大小の沼は、幻の魚・イトウの生息地として知られています。また、一帯はのどかな酪農地帯です。この豊かな幸、豊かな自然がいつまでも残ることを願って、私の話を終わらせていただきます。

【参考文献】
◎「北海道鉄道百年史」(日本国有鉄道北海道総局刊)
◎「北海道の鉄道」(田中和夫著 北海道新聞社刊)
◎「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊)
◎「移住者の定住過程と地域おける基盤形成の一形態」(中島宏一著 北海道開拓の村研究報告2)
◎「北海道文化成立に関わる母県文化の継承―古宇郡泊村茅沼に定住した漁業移民、武井家を事例に」(中島宏一著)
◎「高知県出身者による地場産業の育成」(中島宏一著 北海道開拓の村調査研究報告5)
◎「楡はみていたー永山・生活の記録誌」(永山女性三人の会著 第一印刷刊)
◎「北海道浪漫鉄道」(田村喜子著 新潮社刊)
◎「北海道の駅 878ものがたり~駅名のルーツ探求~」(太田幸夫著 富士コンテム刊)
◎「石炭の語る日本の近代」(矢野牧夫ほか著 そしえて刊)
◎「復刻版明治大正鉄道省列車時刻表」(新人物往来社刊)
◎「各駅停車全国歴史散歩 北海道」(北海道新聞社篇 河出書房新社刊)
◎「明治期鉄道史資料」(野田正穂・原田勝正・青木栄一共著 日本経済評論社刊)
◎「北海道の大地をゆくー廃線の旅―」(山谷正著 愛育社刊)
◎「写真集 国鉄北海道ローカル線」(北海道新聞社編)
◎「昭和の旅―雑誌「旅」にみるなつかしの旅行史―」(JTB刊)
◎「国鉄・JR列車名大事典」(寺本光照著 中央書院刊)
◎「ホタテの村で・北海道猿仏村」(鎌田慧著「日本列島を往く(3)」所収 岩波現代文庫)
◎「北海道歴史散歩50コース」(北海道歴史教育者協議会編 草土文化社刊)
◎「岩高蘭」(猿仏村農協編)
◎「石川啄木全集」(筑摩書房刊)
◎「インディギルカ号の悲劇」(原暉之著 筑摩書房)
◎「天北原野 上・下」(三浦綾子著 新潮文庫)
◎「さいはての旅-オホーツクへの情熱―」(「堀田善衛全集」14巻 筑摩書房刊)
◎「最果てのオホーツク 急行『天北』殺人事件」(西村京太郎著 光文社文庫)
◎「北海道道路地図」(昭文社刊)
◎「角川日本地名大辞典」(角川書店刊)
◎「北海道史人名彙」(河野常吉編 北海道出版企画センター刊)
◎「新北海道史」
◎「永山町史」
◎「音威子府村史」
◎「中頓別町史」
◎「浜頓別町史」
◎「猿払村史」
◎「遠軽町百年史」
◎「稚内市史」

【参考ウェブサイト】(OHP=公式ホームページの略)
◎北海道立文書館OHP
◎「とまり エネルギーのふるさと」(泊村役場OHP)
◎「オホーツク情報 教えて」(製作者不明)
◎川重車両協同組合OHP
◎音威子府村役場OHP
◎中頓別町役場OHP
◎浜頓別町OHP
◎猿払村OHP
◎「Yomiuri On Line」の「ふるさと探見」
◎「暮らしのリフォームBOOK」(松建ホームテック株式会社OHP)の「さっぽろ散歩」
◎「時刻表歴史館」(曽我誉旨生氏作成)
◎「国鉄天北線」(吉田恭一氏作成)
◎「鉄道廃線跡探訪」(塚本雅浩氏作成)
◎「日本の車窓・雨男の紀行文」(江口肇氏作成)

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(7) 

4.【頓別回りの衰退】

・(天塩回り)大正13年6月25日、天塩北線(兜沼・稚内間)開業
・(天塩回り)大正14年7月20日、天塩南線(音威子府・幌延間)開業

・(天塩回り)大正15年9月25日、幌延・兜沼間開業。天塩回りの音威子府・稚内間開通。天塩周りの音威子府・稚内間を天塩線と改称。(「時刻表11」)。
・函館~稚内直通便は、天塩線経由に変更され、頓別回りの宗谷本線から消えた。
・頓別回り宗谷本線は、わずか4年で、単に北海道北辺の過疎地帯を走るローカル線と化し、衰退の道を歩むことになる。
・昭和3年12月26日、稚内・稚内港間(宗谷本線)開業。
・昭和5年4月1日、(天塩回り)天塩線を宗谷本線と改称。(昭和14年2月1日、「稚内桟橋」駅の開業に伴い「稚内」と改めた。)~現在に至る。
・同日、(頓別回り)の音威子府・稚内間を「北見線」と改称。表街道から凋落した。
*この時、「天北線」とせず、「北見線」としたのは、全線150キロのうち、「天塩国」は、音威子府・天北トンネル間の1割もない、わずか12キロで、90%以上は「北見国」を走るからでしょうか。「北見」は、まだ「野付牛」村だった。
・昭和36年4月1日、北見線を天北線(音威子府・南稚内間)と改称。
*「北見」は、昭和17年市制施行しており、宗谷支庁を走る線路として、もはや、「北見」とは無縁になっていたからだろうか。
・ところで、天北線が久しぶりの活気を取り戻した時期がありました。・・昭和36年10月から札幌・稚内間に新設の急行「天北」が、天北線経由で走りました。
・昭和30年代後半から40年代半ばにかけて北海道旅行ブームの追い風も受け、急行「天北」は、編成を増強、最高時7両となりました。1日最高5往復、1~2両の普通列車しか走らない天北線では、急行「天北」は、女王そのものでした。ホームにひっかかるのは、せいぜい2両。乗降客もほとんどなく、場違いの感じですらありました。
・昭和57年、天北線は第2次廃止対象路線に指定されますが、時代に逆行したかのように、急行「天北」は、さらに、グレードアップされます。
・これまでディーゼルカーだった急行「天北」は、昭和60年3月改正で、なんと、機関車牽引の特急型客車になりました。その上、稚内発の上りが、宗谷本線経由札幌行の夜行急行「利尻」と車両を共通にしているため、ブルートレイン・寝台車が、昼、天北線を走る下り急行「天北」に連結されました。(昼間の上りは、寝台車は、急行「宗谷」に連結されたので、上り「天北」には寝台車は連結されていない)。寝台車は、自由席・座席車代用扱いで、自由に利用でき、「昼寝急行」とも呼ばれ、ひるまの急行としては、前代未聞の編成となりました。最果てを走るブルートレイン・・・、これは、推理小説に格好のネタを提供しました。列車ミステリー作家・西村京太郎はこれを見逃すはずがありません。題名は、ずばり、「最果てのブルートレイン『急行天北殺人事件』」。
*美深で、「上り天北」と「下り天北」が交差するのを利用したトリックで、「上り天北」で発見された被害者が「下り天北」の切符を持っていたというたわいもない話ではありますが・・
・さて、天北線の運転方法は、通行手形のようなタブレットの受け渡しで行われ、信号機は手動のポイントと連結した手動の腕木式だった。そのため、客がいなくても、駅員は必要だった。時代遅れの鉄道だが、廃止を前に、自動化するまでもなかったのだろう。沿線の駅は、廃止まで無人化されることはなかった。

・昭和57年、天北線が第2次廃止対象路線に指定される。
・昭和59年2月1日、貨物営業を廃止。この日、宗谷本線を含め、名寄以北のすべての区間で貨物取り扱いがなくなり、鉄道貨物の凋落を象徴する日、そして同時に、トラック輸送の盛隆、つまり、モータリゼーション時代への転換日となった。
・平成元年4月30日、天北線の運輸営業廃止、バス転換。
・全線150キロに及ぶ、廃止路線としては日本で最もながい天北線は、廃止となり、バスに転換した。
・現在、ほぼ旧天北線に沿って、稚内・音威子府間を4時間かかり走る宗谷バスの路線名は、「天北線」である。
・旭川・鬼志別間の都市間急行バス「天北号」が運行されている。
*天北線の変遷(まとめ)
・宗谷線(大正7年8月25日 ・音威子府・浜頓別間開通。)
・宗谷本線(大正8年10月20日 宗谷線を宗谷本線と改称)
・宗谷線(大正10年10月5日 宗谷本線=音威子府・鬼志別間=を宗谷線に戻す)
*この日全通した名寄線(名寄・遠軽間)が「本線」といわないのに、全通していない線を「本線」と称するのは、おこがましかったか。
・宗谷線(大正11年11月1日 音威子府・稚内間開通)
・宗谷本線(大正11年11月4日、宗谷線を再び宗谷本線に格上げ)
・北見線(昭和5年4月1日改称、「宗谷本線」の名は、日本海=天塩回りに譲った。
・天北線(昭和36年4月1日改称)
・廃止:平成元年4月30日、天北線廃止。バスに転換。

【天北線は、宗谷本線開通で、また、名寄本線は石北本線の開通で衰微し、ともに、奇しくも同じ日に廃止になった。】

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(6)

2.【オホーツクへ】

・鉄道省決定の8ケ月後の大正元年10月工事開始(7月30日、明治天皇死去)

○天北峠(190M)は、トンネル掘削・・手塩川の支流、オトイネップ川を上る。神威古譚帯の蛇紋岩の軟弱地質で難行。急勾配、狭い渓谷。15キロを2年懸かりで小頓別へ。
CF:名寄本線にも「天北峠」(300M)がある。こちらは、峠越え。高いが勾配はゆるやか。名寄川の広い河川敷。
・(天塩と北見の)国境の長いトンネルを抜けるとそこは頓別原野だった。長いといっても、367Mだが・・。頓別川をオホーツク海へ下る。2年かかりで・・

○小頓別(しょうとんべつ・宗谷線)・・大正3年11月7日開駅。
・「天北鉄道延長、鉄軌愈々頓別原野に入る」(「中頓別町史」P199~201)
・大正4年の乗降客は34000人、1日93人。道央、枝幸を結ぶ交通の要所、頓別原野への窓口として発展する。
・百戸以上の市街地に・・料理店11軒、旅館4軒も。菅井旅館(大正2年開業。昭和3年建設の3階建ての「丹波屋旅館」は、稚内にもないといわれたしゃれた和洋旅館。平成12年、国の「登録有形文化財」に指定された。
*のち、北海道殖民軌道(小頓別・歌登間)の分岐になり、小頓別は交通の要所となった。
*「頓別」・・35キロの間に「小頓別」「上頓別」「中頓別」「下頓別」「浜頓別」の5駅がある。なお、浜頓別から分岐した興浜北線の最初の駅は「頓別」。

*中頓別へ・・橋梁建設が中心。頓別川本流7、支流5に架橋。石材、レンガの資材の確保と輸送が問題だった。これまた2年かかり・・

○敏音知(ぴんねしり・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅
・「御待合」(早坂やい)、料亭「ぴんねしり大正亭」「富士見亭」など7軒

○松音知(まつねしり・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅。
・明治末から白金ブーム。400人~1000人とも。鉄道開通でさらににぎわう。
・大正元年、大根菊次郎、待合兼旅館を開く。
・旅館4軒、料理店10軒を数え、夜ごとにぎわいを見せた。

○中頓別(なかとんべつ・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅。
・明治31年、頓別川の支流・ペーチャン川のゴールドラッシュ。東洋のクロンダイク(カナダ。19世紀末。ギールドラッシュで沸いた)とまでいわれ、1万6千人を越える砂金採取人で沸いた。
・待合所・・「大根菊次郎」・・松音知から移転。
・市街のにぎわい・・「中頓別料理屋組合」の広告
・沿線の繁栄・・

・大澤商店
(開拓の村に復元の旧渡辺商店の最初の所有者・大沢政次郎が経営)
・大沢政次郎・・「頓別村発達史」
・大正3年建設(「中頓別町史」。開拓の村パンフレットは「大正前期」、解説書は、「大正7年頃」)
・1300平方メートルの敷地に、木造漆喰仕上げ、瓦葺き、総2階建ての母屋。異荒壁、瓦葺き防火扉付土蔵(倉庫)。
・大正7年4月9日中頓別市街地大火(「中頓別町史」は「51棟焼ける」とし、「中頓別消防沿革史」は「69戸全焼」としている。)
・「大沢は倉の中の味噌樽をありったけ持ち出させて手当たり次第に壁に塗らせて飛び火を防いだ。・・この味噌樽のおかげで・・炎症を免れた。」(「中頓別町史」)
・床の間・・砂金入り壁。
・極めつけは、倉庫と店舗の間に軌道を敷いてトロッコを走らせたこと。
・大沢商店、倒産。
*大正12年、渡辺胤之(たねゆき)氏(山梨県北巨摩郡鳥原村出身:中頓別の兄・勝重=明治35年来道、小樽で働いた後、大正3年、中頓別で荒物・金物商を開く=の店で働いていた)が買い取り、「渡辺商店」を開業。(開拓の村の「旧渡辺商店」の店内に「賣薬請賣業 渡辺胤之」の看板がある。)
・胤之氏没後、長女・久子さんと結婚した宮崎豊氏・久子夫妻で経営を続ける。
・昭和52年には、「宮崎商店」(所有者名義は、胤之氏の長男・渡辺博氏)と店名も変わった。

○浜頓別(はまとんべつ・宗谷線)・・大正7年8月25日開駅。
・明治11年、頓別村が成立。42年、合併で枝幸村となり、大正5年、枝幸村から分村して、再び頓別村が成立。
・中頓別からの予定線は、まっすぐオホーツク(今の浜頓別)に出るのではなく、クッチャロ湖の裏(西側)を通って浅茅野に出る案。
・単なる森林地帯で地名もなかった現浜頓別市街地の土地の大半を所有していた大地主・菅野栄助の猛運動。浜頓別の市街地の形成に私費を投入。「新市街」と呼ばれた。頓別に倍する市街地が形成された。
・駅名は、単に「浜に近い頓別」から。やがて、駅名は、頓別村の字名になり、昭和26年町制施行から、ついに、町の名にまでなった。

*大正8年10月20日、「宗谷本線」(旭川・浜頓別間)と改称。

○浅茅野(あさちの・宗谷本線)・・大正8年11月1日開駅。

○猿仏(さるふつ・宗谷本線)・・大正9年11月1日開駅。
*「猿仏村」が、「宗谷村」から分村・独立したのは、大正13年1月のこと。
役場の所在地ではない。

○鬼志別(おにしべつ・宗谷本線)・・大正9年11月1日開駅。
*猿仏村の役場所在地。開通の日、駅前に丸太で舞台が組み上げられ、「金色夜叉」が上演されたと、「猿仏村史」伝えている。

*鬼志別は開駅(大正9年11月1日)されたが、名寄線は、まだ、全通していない時期。

*来正旅館の時刻表は、「網走」行があって、「稚内」行がない期間、
つまり、名寄線全通初日(大正10年10月5日)から、宗谷本線(頓別回り)稚内開通前日(大正11年10月31日)までの期間のもの。(1年と26日)
・上り・下りの時刻、下り行先は、正しく表示されている。惜しむらくは、上りの行先が、正確でない。

*大正10年10月5日、「宗谷本線」を「宗谷線」(旭川・鬼志別間)に戻す。

・小石(こいし)・曲淵(まがりふち)、大正11年11月1日開駅。この間の距離 17.7キロ。約50分かかり、駅距離間としては、日本の鉄道では最長だった。

○稚内(わっかない・国鉄宗谷線)・・大正11年11月1日開駅。頓別回りの音威子府・稚内間全通。旭川から明治31年5月着工だから、実に24年目の全線開通だった。
*大正11年11月4日、「宗谷線」を「宗谷本線」(頓別回り:旭川・稚内間)と再び格上げ。

*現「南稚内駅」名の変遷
・最初は、「稚内駅」(頓別回り・宗谷線)・・大正11年11月1日開駅。
・「南稚内駅」(宗谷本線)・・昭和14年2月1日。昭和3年12月26日、これまで稚泊航路の連絡待合所が線路延長してできた「稚内港」駅が、「稚内」と改められため、「南稚内」と改称。

*稚泊(ちはく)航路(稚内・大泊=現コルサコフ間)・・大正12年5月1日、大泊から稚内に向けて壱岐丸(1680トン)が出港したのが最初。当初1日6便。昭和20年8月24日の宗谷丸の運行が最後。
・1995(平成7)年、「サハリン航路」として復活。現在、東日本海フェりーが「アインス宗谷」を年間50便運行。

・ここに、「(頓別回り)宗谷本線は、函館本線とともに、北海道内の最重要路線となった。稚泊航路開設の大正12年5月からは、函館桟橋・頓別回り稚内間に、1・2等寝台車、洋食堂車を連結した急行(区間は函館桟橋・滝川間、大正13年6月から名寄へ延長)が運転されるという華やかな時代を迎えた。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(5) 

Ⅴ.鉄路、北オホーツクへ

1.【頓別回り先行建設の経過】

○音威子府以北の路線の選定
①天塩川の右岸に沿って進み、サロベツ原野を経て日本海岸に出て稚内に至る線(天塩回り)
②天北峠を越え、頓別原野に降りてオホーツク海岸を北上し猿仏原野を通って稚内に至る線(頓別回り)

○音威子府・稚内間の比較
①天塩回り130キロ、平坦なサロベツ原野を北上。天塩川流域は肥沃で木材・石炭資源もある。道庁も積極的に移住を奨励、沿線にはすでに4000戸2万人が入植していた。
②頓別回りは167キロと長く、天北峠の難所を控えている。原野は牧草地して払い下げられた地帯。工期も長引き、建設費も割高になり、頓別回り先行建設は不利で、住民も予期していなかった。

○枝幸・頓別地方は、交通、運輸が汽船による海上輸送だけが頼りで流氷に閉ざされる冬期間は陸の孤島と化した。住民にとって鉄道建設は悲願であった。
明治43年2月、枝幸・頓別・猿払の住民が「枝幸鉄道速成期成同盟」を結成、中頓別から、大沢政次郎(のち、大正3年、《旧渡辺商店》の前身の大沢商店を建設)も加わっている。

○明治45年2月、鉄道院は「天塩回りの予定線を変更して頓別通過の宗谷線を確定線とし、早急に敷設に着手」を決定。

*「前者(天塩回り)は天塩川の水運を利用し、客貨を運送する便(べん)があるのに、後者(頓別回り)の沿線には広大な頓別原野などの有望な開拓地があるのに、効果的な輸送手段を欠いているため、まずこの地域に鉄道を建設することが必要」(「北海道鉄道百年史」)
*「強引ともいえる宗谷線のルート変更・・政治家や資本家の利権と結びついている」(「中頓別町史」)
*浅羽靖、安達謙蔵、佐々友房、長谷部純孝(文部大臣)代議士らはオホーツク沿岸の広大な土地の払い下げを受けていた。浅羽は猿仏に海岸6キロ、内陸6キロ、3600ヘクタールを所有。知人の話(「中頓別町史」P193)

・浅羽靖(あさば・しずか)・・明治12年札幌区長兼札幌外8郡長に任ぜられる。明治18年、北海英語学校創立(明治38年、《私立北海中学》に改称)。初代校長は「大津和多理」。浅羽が校長になったのは、明治20年のこと。明治24年札幌製糖社長。26年苗穂村に農場を開く(浅羽農場)。37年札幌区選出衆議院議員に当選。開拓の村の《旧北海中学》職員室の歴代校長の額にあるが、浅羽靖は「初代校長」。当初、政友会北海道支部長。のち、大同倶楽部に移る。大正3年10月22日、頓別回りの鉄道完成を待たずして死去。享年61歳。
・「大同倶楽部と後藤新平鉄道院総裁の取引。沿線住民は“大同倶楽部線”とい
った」(北海タイムスの記事)

*三井、三菱の思惑。
・三菱合名会社・・石炭採掘(良質な宗谷炭田の内陸輸送のため)
・三井物産・・明治42年から頓別原野で木材資源開発。港からの積み出しでは内陸の造材は困難。(「中頓別町史」P195)
*天塩関係5村の憤懣。「天北鉄道に関する請願書」(「北海道の鉄道」P147)

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(4)

Ⅳ.鉄路、更に北へ

1.【鉄路、永山まで】
○永山(ながやま・官設鉄道天塩線)・・明治31年8月12日、単独開駅。
・明治30年6月から名寄に向かって工事開始されている。
・蘭留開駅まで3ケ月余、終着・始発駅だった。
*行き先が「砂川」までであるのは、砂川以南の北炭鉄道線との連絡運輸が始まっていないから。ただし、北炭線の「空知太(旭川開駅と同時に廃止になったが、所有は北炭)・砂川間」は、使用契約を結ぶ。
*当時の北海道は、北海道鉄道部(官設鉄道)、北炭鉄道会社(小樽・砂川、室蘭・岩見沢、追分・夕張など)、北海道鉄道会社(函館・小樽間)が営業。(釧路鉄道会社も営業)
*相互連絡運輸の開始は、明治35年12月5日から。日本郵船(青森・函館・室蘭間の定期航路)、日本鉄道(上野・青森間営業)とも連絡。
・永山・・明治22年8月、屯田兵司令官に補せられた第2代北海道庁長官・永山武四郎は、上川原野に屯田兵村の建設に着手。
・明治23年9月永山村の設置。(昭和29年永山町を経て昭和36年4月旭川市に合併)
・明治23年11月から、屯田兵400戸2400名、永山東・西兵村に入地開始。(第3大隊第1,2中隊)
*第1大隊(琴似、発寒、山鼻、江別、篠津、野幌、根室・東和田、西和田、室蘭・輪西、篠路、)
第2大隊(江別、篠路、野幌、など)
第3大隊(第1中隊=永山西兵村200戸、第2中隊=第3中隊=下東旭川兵村200戸、南剣淵兵村各167戸、第4中隊=上東旭川兵村200戸、北剣淵兵村各167戸、第5中隊=士別兵村200戸、西当麻兵村200戸、第6中隊=東当麻兵村200戸)
・明治24年4月、土佐・江ノ口(えのくち)村(大正6年から高知市江ノ口)から屯田歩兵第三大隊第二中隊・東兵村兵屋番号277号・《来正策馬》が入村。(資料3)
・明治31年、7年間の現役・予備役を退役後、駅前に待合所を開業。
・大正7年7月、石狩川氾濫で被害を受け、翌8年、旅館兼待合所を建設。昭和59年5月まで営業。
・市街地の様子(「楡はみていた」より)・・来正写真館もあった。

2.【鉄路、音威子府まで】
○蘭留(らんる・官設鉄道天塩線)・・明治31年11月25日開駅。現比布町・塩狩峠の南の麓の集落。
*塩狩峠越え。・・これまでは、日本第3位・石狩川の本流・支流を登ってきたが、ここからは、手塩川支流を下る。
*三浦綾子著「塩狩峠」・・明治42年2月28日、鉄道職員長野政雄氏が逆方向に暴走した車両の下に飛び込み、自らの肉体を歯止めにして乗客の命を救った。
○和寒(わっさむ・官設鉄道天塩線)・・明治32年11月15日開駅。

○士別(しべつ・官設鉄道天塩線)・・明治33年8月5日開駅。
・駅を過ぎて日本第4位の大河・天塩川の本流を渡る。これ以北、鉄道は、天塩川の本流を渡ることはなく、常に、川を西側に見る。

○名寄(なよろ・官設鉄道天塩線)・・明治36年9月3日開駅。(「時刻表3」)
・名寄以北の工事は、日露戦争勃発(明治37年2月)による財政緊縮で中止された。その後、地元有志により建設促進の運動が続けられた。

*この間、明治39年3月31日、「鉄道国有法」(国鉄法)公布。
明治39年10月1日、北炭線が国有。
明治40年7月1日、北海道鉄道会社(官設鉄道)線が国有。

○恩根内(おんねない・天塩線)・・明治44年11月3日開駅。現美深町恩根内。名寄開通後、8年が経過した。(「時刻表4」「来正時刻表1」・・大正7年の石狩川氾濫以前の第1次「来正待合所」に掲示されたであろう、時刻表。)
・時刻表の24時間表示は、昭和17年11月(関門海峡トンネル開通)から。それ以前は、午前は細字、午後は太字で表示されていた。
・24時間表示の理由・・①軍が24時間制。②満鉄など大陸の鉄道が24時間制で、連携を考慮。
・時刻表の「中央小樽」に関して・・蛇足だが・・
「小樽駅」名の変遷・・
①「小樽中央」(北海道鉄道線)明治36年6月28日
*「小樽」は、現「南小樽」が、「小樽」として、別にあった。
②「高島」(北海道鉄道線)明治37年10月15日
*この日、函館・高島間が全通した。
*高島・小樽間開通は明治38年8月1日。それまで、高島・小樽間は、人力車か馬車に乗った。
*函館・札幌間の直通列車の運行は、明治39年9月8日から。
③「中央小樽」(北海道鉄道線)明治38年12月7日・・
④「小樽」(国鉄函館本線)大正9年7月15日~現在。

現「南小樽」の変遷
①「海運町」(幌内鉄道)明治13年11月28日
②「住吉」(幌内鉄道)明治14年5月25日
③「小樽」(北海道鉄道線)明治33年6月1日
④「南小樽」(国鉄函館本線)大正9年7月15日~現在。

・天塩線(旭川・名寄間)を宗谷線と改称(大正元年9月21日)

○音威子府(おといねっぷ・宗谷線)・・大正元年11月5日開駅。(「時刻表5」「来正時刻表2」)(7月30日、明治天皇死去)
・旭川・音威子府間約6時間、中央小樽から13時間。
・道内で最も人口の少ない村(9月末現在1091人)
・宗谷本線、天北線の分岐、運行、保守関係の基地であり国鉄の一大拠点となった。国鉄職員が全人口の3割を占めた。
・昭和38年には、村の名前も、駅名にあわせ、「常盤村」から「音威子府村」と改称。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(3)

Ⅲ.鉄路、北へ

1.【豊平川を渡る】
・明治14年4月着工。そもそも、幌内と小樽港を結ぶ目的。工事を急ぐ。石狩川支流の大川・豊平川架橋は、難工事が予想された。最初から鉄橋を架ける計画。大雨で二度も破壊される。仮の木橋で開通。汽車が北海道最初の鉄橋をわたったのは、明治16年5月18日のこと。2年かかりで完成。北海道初の鉄橋。
・明治15年11月13日、幌内鉄道:岩見沢~幌内間全通。幌内鉄道完成。

2.【北有社による営業】
・20年12月、村田堤(つつみ)が幌内鉄道の運輸業務の請負を道庁へ出願。赤字経営に苦しむ道庁は21年3月に許可。村田は「北有社」(本社小樽)を組織、明治21年4月1日から北有社による営業開始。冬期間、札幌以東の運転休止など、拓殖の使命に添わない運営。わずか1年半あまりで歴史を終えた。

3.【北海道炭鉱鉄道】
・北有社の経営が、冬季の札幌以北の運転中止など、拓殖の主意に沿わないことから、道庁第二部長堀基(もとい)は、官を辞し、自ら鉄道の延長、炭山の採掘などの開発に乗り出す。夕張、空知炭鉱の開発、鉄道の室蘭までの敷設による、石炭の小樽、室蘭、両港への搬出を設立目的のひとつにする。
・明治22年11月18日、北海炭鉱鉄道会社(明治39、北海道炭鉱汽船株式会社に改称=北炭)設立,鉄道運輸営業(北炭線)を認可され、堀は初代社長に就任。12月11日、幌内鉄道の譲渡を受け、鉄道営業開始。(北有社へ償還金30万円を支払う)
・北炭、炭山と積出港を結ぶ鉄道建設を急ぐ。
・明治24年7月5日、北炭線岩見沢・歌志内間開業
・明治25年2月1日、北炭線:砂川・空知太間開業
・空知太(明治22年、奈良県十津川村から入植後、「滝川村」と称した)
・明治31年7月16日、旭川までの上川線が開通すると同時に廃止。

・道路(12号線、上川道路)は、空知川上流に木橋でつくられていた。「囚人道路」岩見沢~旭川までの90キロは樺戸(明治14年設置)、空知集治監(明治15年設置)の囚徒のべ17万人を動員して明治19年築かれた。
・明治29年2月3日、上川線(空知太~旭川)56.3キロの建設が予算委員会で否決されるが、第9回帝国議会本会議で可決。

・明治25年8月1日、北炭線:室蘭(現東室蘭)・岩見沢間開業
・明治25年11月1日、北炭線:追分・夕張間開業
*北炭の路線延長、328キロになる。

・明治39年3月31日、鉄道国有法公布
・明治39年10月1日、政府、北海道炭鉱鉄道会社を買収、国有化された。

4.【北海道鉄道会社】・・函館・小樽間の鉄道建設と営業。
・明治31年3月、社長を北海道庁長官北垣国道とし函樽鉄道会社創立、明治33年10月、北海道鉄道会社と社名を変更。函館・小樽間の工事に着手。
・明治37年10月15日、函館・小樽中央(現小樽)間、翌38年8月1日、高島(現小樽)・小樽(現南小樽)間開業。(函館・旭川間全通。「函館本線」と線名変更は、明治42年10月12日)
・明治40年7月1日、政府、北海道鉄道会社を買収、国有となる。

5.【北海道官設鉄道】
・明治29年3月26日、「北海道鉄道敷設法」成立。
1.予定路線:
*明治29年5月8日、北海道庁に臨時北海道鉄道敷設部が設けられた。
*予定路線
上川線(空知太・旭川間56.3キロ、明治31年7月16日全通)、
釧路線(帯広・釧路間129.1キロ、明治38年10月21日全通)、
十勝線(旭川・帯広間180キロ、明治40年9月8日開業、これで旭川・釧路間が全通)、
天塩線(旭川・名寄間76.2キロ、明治36年9月3日全通。)
*3300万円
*15年間で完成させる。

◎北海道鉄道敷設部(以下、官設鉄道)上川線
・明治29年7月、官設鉄道、上川線の工事着工。
・難工事続く・・
① 空知川橋梁・・河床が大玉石混合の地質で除去作業が遅れる。
② 第一石狩川橋梁(江部乙・妹背牛間。石狩川本流の初の橋梁。)
③ 第二石狩川橋梁(伊納・旭川間。現在は近文=明治32年8月11日、旭川師団専用線近文停車場として開設、信号所を経て明治44年1月11日から一般駅となった。
④ カムイナイのトンネル掘削。

・妹背牛(もせうし・官設鉄道上川線)・・明治31年7月16日開駅。
・石狩川橋梁を渡れば、妹背牛。
*《藤原車橇製作所》の創業は明治36年だから、開駅当時、まだない。昭和26年藤原軽車両。「車橇」?読み方、意味は?
「Cart and Sleigh」(荷馬車と橇)で理解。

・納内(おさむない・官設鉄道上川線)・・明治31年7月16日開駅。深川を過ぎると、納内。2年前の明治29年4月、山口県から納内に移住し、《納内屯田歩兵第一大隊第十中隊(明治29年8月から第5中隊)第87番兵屋に入居した村上広吉氏》ら、納内の屯田兵は、この開通した列車に乗って、明治29年5月から正式に設置された旭川の第7師団本部まで通ったことでしょう。あるいは、カムイコタンのトンネル掘削工事に動員されたかも知れない。

・カムイコタンのトンネル掘削・・神威古譚帯といわれる蛇紋岩層(軽く変形しやすい)で難行。
当初、2年の計画が3年かかった。

・明治31年7月16日、官設鉄道上川線、滝川~旭川間開通。
明治23年に徳島から移住し、《この年、明治31年、近藤染舗を開業した近藤仙蔵・円蔵兄弟》は、鉄道開通式典に参列したに違いない。
*砂川・旭川間3時間で1日3往復運行。(北炭線の砂川・空知太間は使用契約)。
*開業6日後の7月23日、氾濫で第一石狩川(江部乙・妹背牛間)橋梁が、次いで9月7日の氾濫で第一、第二橋梁が墜落。開業してもなお水害との闘いが続けられた。
・明治38年8月1日、函館・旭川間が全通し、現在の函館本線が完成。
・明治40年7月7日、鉄道国有法により国有化された。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(2)

Ⅱ.北海道の鉄道の黎明

1.【茅沼炭鉱鉄道】
*神奈川条約(1854=嘉永7)日米和親条約で、下田、函館の開港、アメリカ船に石炭、食料を供給することが決まったことから、北海道での石炭採掘を促した。
*茅沼海岸~鉱山間(明治2年)。2.8キロ。牛に引かせた「牛車軌道」・・海岸へは傾斜を利用して自走、貯炭場へは牛の力。後、馬になった。石炭は船で函館へ輸送された。
・日本初の鉄道(横浜~新橋間・明治5年)より3年早い。
・昭和2年(1921)蒸気機関車による鉄道輸送になった。
《武井家》は、天保年間、青森から渡道以来、茅沼で漁場を経営、住宅・酒造部、呉服部など拠点施設は、鉄道の海岸側終点にあった。中島宏一氏は、論文の中で《武井家》関係者の談を引用し、「蒸気鉄道は、酒造部の軒先をかすめるように走っていた」と記している。実際、「北海道立志伝」の武井家の絵図には、敷地内に軌道が描かれている。
・安政3(1856)、初代武井忠兵衛の雇い人の船頭・忠蔵が山中で「燃える石」を発見、函館奉行に届けたことが茅沼炭鉱の発端。
・なお、武井家は、明治16年1月、茅沼炭鉱採掘中止(幌内鉄道開通により、幌内炭鉱と比較して輸送面の不備。相次ぐ炭鉱災害などで)後、明治17年、2代目武井忠兵衛が中心となり、「茅沼炭山採炭組合」を組織、鉱山営業参入。  
・大正末期からの鰊不漁で、泊村の経済は、漁業から茅沼炭鉱に大きく依存していった。
・武井家、明治28年頃、酒造業に乗り出す(開拓の村の武井酒造部の建物は明治19年頃建てられたもの。)
2.【幌内鉄道】
・幌内炭山の発見・・明治元年、小樽本願寺の建設用材の切り出しに幌内(三笠)付近の山へ入った石狩のそま夫・木村吉太郎が黒光りする塊を発見。その後、明治4年、島松の猟師紺野松五郎が、外国船で使用されている石炭であることを確信し、開拓使に届ける。
・石炭搬出路
①榎本案・・石狩川水運利用案。→オランダ人ゲントが継承。
②開拓使顧問ケプロン案・・幌内・室蘭間の鉄道敷設案→クロフォードが継承。

クロフォード(アメリカ)・・明治11年、鉄道建設兼土木顧問として札幌に着任。陸路担当、幌内~小樽間の鉄道建設をめざす。「余はここに一言を呈せんとす。即ち、江別太より小樽によって石炭を運送するときは、石炭のほかに運送費を負担すべきものなしといえども、鉄路を小樽に延長するときは、荷物・乗客より生ずべき利益は、ことごとく石炭の運送費を減少すべき補助となるべきことなり」と提言。

・開拓使は、石狩川案の洪水もあり、凍結する冬季間の利用もむずかしいと判断し、クロフォード案を採用、幌内~手宮の鉄道建設を決定。

・クロフォードを技師長に、明治13年1月8日、鉄道建設の第一歩である小樽若竹町第3トンネルの開削にとりかかる。
・銭函までは、トンネル工事が続く。海岸線は馬車道の転用。明治13年11月11日、銭函まで試運転。

・明治13年11月28日、手宮~札幌間35キロの運転式挙行。(「時刻表1」)
・日本で3番目の鉄道。
・車輪が真紅で縁取られた機関車弁慶号は、客車3両を引いて9時、手宮発、運転手は機械製造手長ハロウェイ。~12時札幌着。3時間かかった。着手してからわずか11ヶ月。

*一方、漁民の騒ぎもあった。翌明治17年、小樽沿岸一帯の鰊漁は不振に見舞われ、漁民は、「汽車の轟音で鰊が近づかなくなった」と騒ぎ出し、張碓トンネルを閉鎖しようとまで発展した事件がありました。この漁民の中に、祝津海岸で鰊建網漁が軌道に乗りはじめた49歳の《青山留吉》がいたかどうか。

・《手宮駅長官舎》・・開拓の村パンフレットは、明治17年建設としている。とすれば、北海道鉄道史上、最古の記念建造物。昭和35年、鉄道記念物に指定された旧手宮機関庫は、明治18年創建だから、それより古いことになる。
ついでながら、5日前の9月12日、電話線が完成。北海道最初の電話開通。

・駅、停車場、ステーション
・幌内鉄道における駅長第1号の手宮駅長・村上彰一の辞令によると、「手宮停車場長心得」とあり、「停車場長」。「駅長」ではなかった。
・「駅」・・「旅人の宿泊地、馬継ぎ場」「馬偏」に★(馬を次から次へとたぐりよせるようにして乗り継ぐために用意された所。宿場の意味)
・大宝律令(701)・・「駅」。駅制=馬、舟、人夫などを供給する場所。
・ステーション:明治5年5月3日、品川・横浜間仮営業発表文には、「品川ステーションより横浜間汽車運転、来る7日より仮に営業相成り候条此旨相達候事・・」と「ステーション」と呼称している。
・「駅」が最初に登場するのは、明治19年7月1日改正の時刻表から。それ以前は「停車場」。現在、鉄道廃止地域の道路路線名に「停車場線」が各地に残っているのはおもしろい。

・明治末期の啄木は、停車場と駅、両方を表現している。
「石狩の美国といへる停車場の 柵に乾してありし 赤き布片(きれ)かな」(H15、美唄駅前に建立)
「真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢(びん)の古き瘡あと」(倶知安駅前)
「さいはての 駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」(釧路 港文館前)
「ふるさとの  なまり懐かし停車場の  人ごみの中にそを聞きにゆく」

・鉄道唱歌(明治32年発表。大和田建樹(たけき)作詞)は、駅とステーション。
5番:鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション
   湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで
16番:三島は近年ひらけたる 豆相(ずそう)線路のわかれみち
   駅には此地の名を得たる 官幣大社の宮居あり
46番:東寺の塔を左にて とまれば七条ステーション
   「京都々々」とよびたつる 駅夫のこゑも勇ましや

・《札幌停車場》・・「空知通=北6条通」。最初の停車場は、本屋11坪の仮停車場。開拓の村の札幌停車場は、明治41年12月に完成した3代目駅舎。(5分の4に縮小再現されている。)

*《開拓使札幌本庁舎》・・あたかも江戸城本丸のよう。周辺は、役宅。大通りの南は、民家。条は、今も、中通で分かれる。
*《南1条派出所》・・南1条通り(当時は渡島通)に、明治4年、大友堀が改修された際、木橋が架けられ、開拓使長官岩村道俊により創成橋と名づけられた。明治18年、その西側に木造の「創成橋交番」ができた。のちにレンガ積みの開拓の村へ移転された「南1条派出所」になった。
*南2条通は、「爾志通」=《旧開拓使爾志通洋造家=白官舎》が見える。
・ところで、現存する創成橋は、明治43年に架けられた札幌最古の橋。札幌軟石を使ったアーチ橋。日本初のトラス構造。札幌の区画割の基点となっている。欄干には3代目の擬宝珠がある。
(1~2代目の擬宝珠が旧交番跡地向かいの東ビル前に展示されている)。
・「大友堀」=1866年(慶応2)9月大友亀太郎が完成。豊平川の支流(鴨々川=今も、一部が残る)南4西2のすすきの・アオキビルの裏から引く。当時は「新川」と呼んでいた。死後、彼を評価して使われるようになった。
*CF:幌内線の橋は、全部で191すべて木橋。アーチ型の石造の橋梁が駅西側のシャクシ・コトニ川に架けられた。
*《開拓使工業局》が創成川をはさんで、大通の東に見える。
*《札幌拓殖倉庫》・・「米蔵」とある。

旧来正旅館の時刻表―旧天北線の変遷に触れてー(1)

◎はじめに
北海道開拓の村に復元されている来正旅館に掲示されている時刻表に「下り鬼志別」行とありますが、私は、天北原野の鬼志別に惹かれました。

【報告の要旨】
メインテーマ:
旧来正旅館に掲示されている時刻表の年代の特定と、旧天北線の変遷をたどり、鉄路が北へ延長のつど、改定され掲示されたであろう永山駅前・来正旅館の歴代時刻表を作成し、その時刻表を通して北海道開拓の歴史・鉄道史の断片に触れて見たいと思います。

【来正旅館の時刻表に関心を持ったきっかけ】
・来正旅館の時刻表を見た来村者から、「鬼志別ってどこ?」と聞かれ、答えられなかったことです。
・また、その時刻表に「下り網走行」があり、永山から、「下り網走行」どういうことかと疑問に思いました。

【天北】
・天北=天塩と北見。
*「北見」・・「北蝦夷地(樺太)を見る」・・稚内、利尻・礼文も「北見国」
*「天塩」・・語源はアイヌ語の「テッシ・オ」(簗=やな=のような岩)の意味。その岩は、「天塩岳」標高1557M、道北一高く、天塩川の源流になっています。
・天北原野・・日本海側のサロベツ原野とオホーツク側の、頓別原野、猿払原野、声問原野を合わせた総称。
・明治2年、11国86郡画定
*訂正・・①「千歳郡」は「胆振国」。②「86郡」・・5つ多い。(松前郡と、千島国の4郡)
*「石狩国」は今の石狩支庁、空知支庁、上川支庁の一部を含んだ地域。
*「天塩国」は今の上川支庁の一部、留萌支庁を含んだ地域
*「北見国」は、網走支庁、宗谷支庁管内の地域
・天北峠はふたつある。
① 天塩国・現上川支庁音威子府村~北見国・現宗谷支庁中頓別町=旧天北線
② 天塩国・現上川支庁下川町~北見国・現宗谷支庁西興部村=旧名寄本線
・他の両国の名前を取った地名・・塩狩峠(石狩国・現上川支庁比布町~天塩国・現和寒町)、石北峠(石狩国・現上川支庁上川町~北見国・現網走支庁留辺蕊町)、石北線、狩勝峠、日勝峠、根釧原野、石勝線(南千歳・新得間)、三国峠(十勝国・現士幌町、北見国・現網走支庁置戸町、石狩国・現上川支庁上川町)

Ⅰ.鉄道の始まり

1.【世界】
・鉄道=レール=横木、横棒。
・世界の鉄道(石炭の運搬)・・・紀元前3500年頃のメソポタミアの絵文字に車輪つきの乗り物が描かれている。
・古代ローマでは、道路に石を敷き詰めて、車輪が地面にめりこまないようした。ローマの石の道は、車輪のあとがすりへっている。「すべての道はローマに通ず」を、ローマを旅行して実感する。
・レールは、16世紀、イギリスの鉱山で、もともと炭鉱で石炭を運び出すのに使ったのが最初といわれている。木製から木に鉄板を貼り付けるようになり、鉄製のレールに変わっていった。
・1825年 ストックトン・デーリントン間(世界最初の蒸気機関鉄道)
・1830年 マンチェスター・リバプール間鉄道開通。
2.【日本】
・日本では、江戸時代、大津~京都間の急な坂で車輪と車輪の幅に合わせて敷石に溝をつけ、溝に車をはめこんで動かすようにした。これを「車石」と呼んだ。
・都市と都市を結んで人と物の流通を図ることが主目的。
・明治5年5月横浜~品川間で鉄道仮営業。9月横浜~新橋間鉄道開業。
・明治7年に大阪・神戸間の鉄道が開通。

楠木正成の愛刀 景光

昨日、蕎麦の訪問販売が来た。で、商品名が「景光そば」。効能書きに「商品名は楠木正成公の愛刀で細身が美しい国宝備前長船小竜景光からとりました」とあった。
ネットで検索してみた。
以下は、「ヴァナディール名物帳」なるサイトから転載。

景光は備前国長船(岡山県東南部)の刀工であり、長船三代目を継いだ名手である。太刀、短刀はもとより、薙刀や剣も造る多芸な刀鍛冶であった。名作・秀作が多く、父「長光」についで作刀も多く残されている。 景光の太刀で最も傑出の一本にこの「小竜景光」がある。
 この太刀は「楠正成」の佩刀と言われているが、発見されたのが大阪の「豪農」の納屋であったため、本阿弥家(刀の鑑定屋)に折紙(鑑定書)をもらいに行ったが、本阿弥家はその刀を「信じ難い」として、結局折紙は出されなかった。この太刀は彫物から「小竜景光」の号があり、磨上げられたはばきから竜が覗いているようであるところから「のぞき竜景光」とも称された。
 江戸時代以前の所在は不明であったが、幕末の試切家山田浅右衛門の所有となり、明治6年(1873)4月、東京府知事大久保一翁を通じて浅右衛門が明治天皇に献上した。
 鎬造、庵棟、腰反り高く中鋒の太刀である。茎は磨上、先栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔三つ。鍛は小板目肌最もよくつみ、乱れ映り見事に立つ。刃文は小丁子刃、小互の目まじり、足・葉逆がかってしきりに入り、匂口締まる。帽子刃は湾れて小丸。彫物は表棒樋中に倶利伽羅竜の浮彫、裏棒樋中に梵字の浮彫。刃の長さ74.0センチ、反り2.9センチ、元幅2.9センチ、先幅2.1センチ、鋒の長さ4.5センチ。 東京国立博物館所蔵 国宝 太刀

北辰旗を掲げた船~開拓使附属船について~(3)

Ⅱ.北辰旗制定の経過と変遷

1. 太政官布告で外国形輸送船には国旗と省府藩旗が掲げることになった。
明治3(1870)年1月27日、太政官布告第五十七号」『郵船商船規則』

2.「蛯子末次郎の伺」(資料②)
・(右)
「今般 樺太運送御用御取運被遊候ニ就テハ御軍
艦諸廻漕船区別ノ為メ左書雛形ノ通青色地ニ
北晨星ヲ象り北海道旗章被立置候テ如何
哉 此段奉伺候 以上
申正月     御用係
               蛯子末次郎」
・(左)
「此五陵形旗章ノ原因タルヤ北晨星ヲ
象リ則青色地ニ赤色ヲ點付ス」

・明治5(1872)1月、蛯子末次郎は、開拓使に「北海道旗章立置方、伺」を提出。(「北晨」の文字は、この「伺」以外には、見当たらない。)
<蛯子末次郎>
・天保13(1842)年箱館生まれ。
・武田斐三郎(あやさぶろう=五稜郭、弁天岬砲台の設計者)門下に入る。
*「蛯子は、恩師・武田の作った五稜郭をイメージして星の旗章を考えた」とする意見もある。(「北ノ星ヲメザシテ」=北海道ポータルサイト・北海道人)
・明治5年(1872)1月、開拓使御用係となり、樺戸丸船長を命じられる。
この月、「北海道旗章立置方、伺」提出。
・その後、弘明丸、函館丸、矯龍丸、玄武丸の船長となる。

2. 明治5(1872)年2月、開拓使、附属船旗章を定める。
①「本使附属船旗章ヲ蒼色五稜形ニ定ム」(開拓使事業報告)
②「開拓使より大蔵外務両省へ差回 達」(明治5年2月15日 「開拓使公文録」)
「  大蔵省
外務省 御中                開拓使
当使船艦旗章 別紙雛形之通相定候間 為御心得御達申候
尤、縦横寸法等ハ船之大小ニ寄差別有之一定致ガタク候ニ付、
書載不致、此段為念申達置候也
  壬申二月十五日」
・北辰旗は、明治5年(1872)2月、3隻の開拓使附属船(安渡丸、辛未丸、石明丸)に最初に掲げられた。
青地に朱色の五稜形であった。

3. 明治6(1873)年10月竣工の開拓使本庁舎に掲げられた北辰旗の地の色は、青か白か(佐藤京子論文)

・御雇米人ホルトの絵(「新撰北海道史 巻3」所収)は、紺地赤5稜星。
・札幌本庁舎完成直後の写真(明治6年=1873=10月、北海道大学附属図書館所蔵)、
別海缶詰所開所式の写真(明治11年=1878、北海道大学附属図書館所蔵)は、白か
・明治7(1874)年、札幌本庁から東京出張所あて開拓使旗章の注文に
「旗章用品ハ白繻子(しゅす)呉呂(ゴロ)並緋呉呂類相当ノ品」とある。
・明治10(1877)年の小樽分署の「旗章新調願」の旗の材料は紺と朱の旗布。

5. 黒田清隆開拓次官の「旗章更正伺」(資料⑤)
・明治5(1872)年9月19日、黒田清隆開拓次官は、青地に赤7稜星の雛形を正院(せいいん。「しょういん」とも。明治維新政府の最高政治機関。明治4年(1871)の官制改革で太政官内に左院・右院とともに設置され、太政大臣・左大臣・右大臣・参議などで構成された。同10年廃止。)へ提出。

「當使官邸並用船等ヘ章建用候大小旗
章、先般雛形を以申上置候処、今般、
別紙旗影之通、致更正候間、御布
告相成候様、仕度此段奉伺候也
 壬申九月十九日    黒田開拓次官
     正院 御中         」(「稟裁録」
・正院は、却下する。その理由(「赤れんが」佐藤京子論文)

*明治5(1872)年8月30日、開拓使は、函館に邏卒(警官)を置く。その徽章は7稜星。

*黒田清隆開拓次官は、なぜ7光星の旗章への変更を申請したか。

6. 保任社用船の旗章
・清国商人は、北海道海産物、特に昆布輸出の商権を独占、過酷な条件で生産物を買い占めた。開拓使は、清国商人を排除して直接清国に輸出する対策が考えられた。
・明治6(1872)1月、保任社創立(総頭取・榎本六兵衛、木村万平は副頭取のひとり)
・開拓使から北海丸の貸与と官費の補助を受け、多くの船舶を購入して海運に当たった。
・明治7(1873)年4月、わずか1年余で解散。(社員と結託した官吏の背任行為が原因とも=新北海道史=)
*社用船の徽章・・二重の5光星。旗地・中の星は「彩色なし」、外側の星は朱。

7. 北辰旗掲揚の取りやめ
・明治11(1878)年1月で本庁はじめ、各関係機関の旗章掲揚は取りやめになった。
「乙第2号             各局分署
 従来本庁竝工業局、警察署、官公立学校、病院、其他出張所、分署等ノ内、標旗掲揚致来候向モ有之候処、自今官衙(かんが=役所)ハ総而掲ルニ不及候条、此旨更ニ
相達候事
   明治十一年一月十日     札幌本庁 開拓大書記官  堀 基」

Ⅲ.(付)北海道旗について
・開道百年記念事業の一環で制定
「道旗は、本道開拓使が使用した北辰旗と、当時着想されていた七稜星のイメージを現代的に表現したもので、地色の紺色は北の海や空を意味し、星を囲む白は光輝と風雪を表し、七光星の赤は道民の不屈のエネルギーを、またその光芒は未来への発展を象徴したものです。」(昭和42年=1967=5月1日制定)
・蛯子長三郎の異議
「道章は、すでに決まっている。赤の五稜星である。なぜ今更変える必要があるか」(高倉新一郎 論文)

◎まとめ
・北辰旗は、明治5年(1872)2月、3隻の開拓使附属船(安渡丸、辛未丸、石明丸)に最初に掲げられた。青地に朱色の五稜形であった。
・開拓使本庁舎に翻った「北辰旗」の地の色は、いまだ、解明されていない。

<調べ終えて・・・・突飛な私のロマン・感想>
1. 蛯子末次郎が、伺を出した「北晨旗」の青地に赤5光星は、古代中国の二十八宿の東方・青龍の域にある赤い星=さそり座アルファ星・アンタレスをイメージしたものであるのではないか・・
2.黒田清隆と榎本武揚の男の友情が、七稜星の旗章の提起になり、今日、北海道旗として、蘇った。

北辰旗を掲げた船~開拓使附属船について~(2)

○著名な附属船

<咸臨丸>
・安政4(1857)年3月、幕府が発注した蒸気船、オランダ・キンデルダルクで完成(Japan=ヤパン=号)
・同年8月4日、ヤパン号長崎に到着、「咸臨丸」と改名、幕府長崎海軍伝習所練習船となる。
・安政7(1860)年1月13日、日米修好通商条約の批准書交換のため太平洋を横断、2月26日サンフランシスコ入港、万延元=(1860.3.18改元)=5月6日帰国。提督を務めたのは軍艦奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ)、勝海舟は海軍伝習所の教授として同乗。
・慶応2(1866)年・・機関部の老朽化で蒸気機関を撤去、帆船となる。軍艦籍を抜かれ運搬船となる。
・慶応4(1868)年8月19日、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走、暴風雨で下田港に漂着
・明治元年=1868.9.8改元=9月18日、清水港修理中、新政府軍に襲撃され拿捕(だほ)される。その後、浦賀で修理。
・明治2(1869)年9月、政府は、兵部省所管だった咸臨丸を開拓使に交付、開拓使附属船となる。同年10月15日、開拓使へ引き渡される。3日後の10月18日、東京から函館へ廻漕、その際、八戸県への救助米運搬を初仕事としている。翌明治3年5月からは官物輸送のほかに、一般の荷物、乗客の輸送も行うようになった。
・明治4(1871)年5月、「元組回漕会社」(木村万平社長)の手に貸与される。
・同年9月12日、以前に、白石城を預かっていた旧伊達藩家臣・片倉小十郎邦憲の旧臣の北海道移住第3陣1班401名を乗せ、松島湾・寒風澤(かぶざわ)港を出港、函館を経て小樽に向かう途中、9月20日、泉沢村(現渡島管内木古内町)サラキ岬で座礁、沈没。(なお、移住団は無事上陸避難、小樽に到着し、望月寒(もつきさむ)川流域に入植、視察に来た岩村道俊判官は「白石村」と命名。
・1968年、サラキ岬付近で、咸臨丸のものと見られる錨が発見された。今年5月14日、岬に「咸臨丸終焉の地」碑が建立された。
・ちなみに、「咸臨」は、易経の「咸臨貞吉」(みなのぞむ。ていきち。互いに感じて臨む。貞正にして吉。心を一つにして協力して進む)から取った。

<昌平丸>
・安政元(1854)年、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船。桜島造船所で竣工。薩摩藩原船名:昇平丸
・安政2(1855)年、幕府に献上される。「昌平丸」と改称。
・明治2(1869)年9月、咸臨丸と同時に、兵部省所管だった昌平丸を交付、開拓使附属船となる。
・同年12月24日、米穀を積み入れ石狩に向け函館を出帆、逆風のため南部・
安渡(あんど・現青森県むつ市大湊)に漂着、翌安政3(1870)3月2日木の子村(現上ノ国字木の子)の海岸で座礁破砕。5名の犠牲者をだし、国産初の洋式軍艦は15年余りの短命に終わった。

○康午(こうご)丸
・安政4(1857)年、イギリスで製造
・明治3(1870)6月、プロシャ人ユンク・ニフラルより汽船「バルカン」号を購入、康午丸と命名(明治3年は、康午=かのえ・うま=年)
・開拓使は、御用達・木村万平に貸与。木村は「回漕会社」を設立し北海道の産物を回漕する。木村は、この年、札幌・銭函通り=南1条=に洋風の運漕店を建設した人物でもある。店舗は、札幌における洋風家屋の始まりとしている。
・同年10月、厚岸で難破(難破年について、「開拓使事業報告」の「本文」は、「明治3年」とし、同「附属船明細票」は、「7年難破」としている。)

○辛未(しんび)丸
・明治3(1870)年、イギリスで製造された蒸気船「レッサ」号
・明治4(1881)年5月購入、辛未丸と改称。(明治4年は、辛未=かのと・ひつじ=年)
・同年9月、取扱を木村万平の「回漕会社」に託す。(1ケ年借賃金3500円)

○稲川丸
・万延元(1860)年、清国・香港で製造。
・明治5(1872)年、開拓使、横浜の鈴木安兵衛から購入。
・同年5月、森・室蘭間の定期航路に充てる。

○安渡丸
・明治5(1872)年2月、斗南藩より購入。
・当初、石明丸とともに、石狩川運送に供された。
・明治5(1872)9月、森・室蘭~函館~南部・川内(かわうち、現青森県むつ市川内)
*斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)容保の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870年)成立した藩である。会津藩を没収された会津松平家は、改めて下北半島の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられ、現在の青森県むつ市田名部にある徳玄寺に陣屋を構えた。斗南藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入された。
○弘明丸
・明治3年(1870)横須賀造船所で製造、開拓使は、明治5(1872)年4月購入。
・明治6(1873)2月、開拓使、函館~青森・安渡間に弘明丸をもって定期航路を開設。
・明治8(1875)5月、小樽~石狩~篠路太を回航。

○玄武丸
・明治4(1871)年9月、黒田次官から要請を受けたケプロンがアメリカに建造を依頼、ニューヨークで進水。
・明治6(1873)年5月に日本に回着、当初「黒田丸」と称し、8月に玄武丸と改称。
・明治8(1875)年1月、東京~函館~小樽の定期航路の航海に充てられた。
・黒田長官大砲事件の時の使用船、蛯子船長が処分を受ける。

○矯龍丸
・ケプロンの依頼で、玄武丸とともに、ニューヨークで完成。進水時の船名は「ケプロン」号。
・明治5(1872)年4月購入。

・明治6(1873)年5月に日本に回着、当初「樺太丸」と称し、同年10月に矯龍丸と改称。

・明治6(1873)年5月、開拓使附属船となる。

○蟠龍(はんりゅう、呉音読みで、「はんりょう」とも)丸=のち、雷電丸
・数奇な運命を辿る。
・安政3(1856)年、イギリスで製造。原名:「エンペラー」号。王室用武装帆船。
・安政5(1858)年7月、ヴィクトリア女王より幕府に贈られた。
・戊辰戦争では、榎本脱走艦隊に属して蝦夷地に向かう。
・明治2(1869)年5月11日、榎本政府最後の1隻として死闘、新政府軍艦朝陽丸を撃沈するも、最後は機関の故障で大森浜に乗り上げ、船員は蟠龍丸に火をつけ下船、蟠龍丸炎上で旧幕海軍は壊滅した。
・しかし、完全には焼失せず、バチェルダー(東京築地居住のアメリカ商人。箱館戦争では官軍の輸送にあたる)機関修理を申し出、上海で修理される。
・明治6(1873)年6月、開拓使、蟠龍丸を購入。のち、「雷電丸」と改称。
・明治10(1877)年2月、沖鷹丸(海軍省附属船)と交換、海軍砲艦「雷電」として、根室定繋(ていけい)となる。
・明治21(1888)年1月、海軍を除籍、廃艦。
・高知県に無償で払い下げられ、捕鯨船となる。
・さらに、大坂、名古屋の船会社に転籍。商船となる。
・明治30(1897)、大坂・前川造船所で解体。41年の生涯であった。
・ちなみに、「蟠龍(はんりょう)」は、「地上にわだかまって、まだ昇天しない龍」のこと。

○北海丸
・明治元(1869)年、フランスで進水。開拓使附属船では最大の1100トン。神奈川県が購入、「雑喜丸」と命名
・明治5(1872)年、開拓使が購入、「北海丸」と改称。
・明治7(1875)年、海軍省に移管。巡洋艦「浅間」と改名。
・明治8(1876)年8月、5月に調印された千島・樺太交換条約に基づく
千島受領に際し、儀礼艦として大泊港へ派遣
・明治10(1877)年、西南戦争に参加。その後、練習艦となる。
・明治29(1896)年、売却された。

北辰旗を掲げた船~開拓使附属船について~(1)

◎要旨
I. 開拓使の海運政策と附属船
II. 北辰旗制定の経過と変遷

◎はじめに・・5つのトンガリのある星の呼び方
①「北晨星」
・「晨」・・二十八宿の房(ぼう)宿の和名。蝎(さそり)座の頭部の四星より成る。
「晨」とは「房星(ふさぼし)」の別名でもある。「房星」とは「房宿(ぼうしゅく)」の距星(中心となる星)で、さそり座π星。
・「宿」とは中国では星座を意味し、そのうちほぼ天の赤道帯に沿った部分を重要なものと位置付け二十八宿として定めていた。この「房宿」も二十八宿の一つで第4番目)。その左側のアンタレスは「心宿(しんしゅく)」と呼ばれている。
二十八宿とは古代中国(恐らく3世紀)で、月の通り道である白道に沿って選ばれた星座を言う。太陰暦の中心となる月が1日に1つの宿にやどると考えられた。これは恒星月の約27.3日から来ていると思われる。
・ところで、「晨」は、「夜明け」の意味があり、「晨星」=「夜明けの星」という言葉もあり、「晨星落落」という熟語もある。(晨星のまばらなこと、転じて、友人などが(死んだりして)少なくなったこと)
・四神・・28星宿は、7つずつの4グループに分けられる。順番に東、北、西、南の4つの方位に割り振り、青龍、玄武、白虎、朱雀の4つの獣神の姿を当てはめた。高松塚古墳、キトラ古墳に、天文図と4神が描かれていることで知られている。
・東方7宿・青龍・・・・さそり座のSカーブと、それに続くてんびん座、おとめ座の領域を巨大な竜の姿に当てはめています。
・江戸幕府天文方渋川春海による貞享(じょうきょう)2年(1685年)の改暦で、二十七宿が廃され、中国起源の二十八宿に変更された。貞享暦は別名を大和暦ともいい、渋川が独自で開発した暦法であるが、星宿に関しては反対に中国流を取り入れたのである。
②「北辰星」
・「辰」
(ア) さそり座の首星・アンアタレスのこと、和名「なかごぼし」
(イ) 「房星」の別名。
(ウ) 北極星。
*「北辰」・・北極星の異称
③「五光星」
④「五陵星」・・「陵」・・山の背すじ。すじ状の山波の線。
⑤「五稜星」・・「稜」・・角。隣り合った二つの面が交わってなす直線。函館の「五稜郭」は、この「稜」の字。

Ⅰ.開拓使の海運政策と附属船

1. 開拓使の海運政策の中心点
・「本道ハ四面海ヲ環(めぐ)ラシ貨物の出入皆船艦ノ力ニ由(よ)ラザルナシ」(「開拓使事業略記」)という状況で、北海道の開拓には、輸送手段の確保が重要事であった。
・脆弱(ぜいじゃく)な日本型木造船から西洋型船による海運への革新と、開拓使自らが船舶を所有し交通手段を拡充する必要があった。

<その理由>
① 北海道の豊富な海産物の移出と、米・塩など生活必需品の移入のため、海運はその生命線
② 移民導入のうえからも、士族移民団の遭難の多発で海上交通の安全確保が重大関心事
③ 明治政府自体、日本船の航海権を確保することは、政治的にも国防上からも要請され、積極的に西洋型船舶の導入を図った。開拓使の海運政策もこれに沿って進められた。
④ 開拓使の管轄が樺太、千島を含み、また陸路の交通手段が未整備でいきおい海運手段に頼らざるをえなかった。
⑤ 地方庁、中央省庁という開拓使の二重性から、たえず中央との連絡を必要とした。

2.開拓使附属船(外国船雇用・西洋型船の所有)の経過
○明治2(1869)年2月・・東久世道禧(みちよし、ミチトミとも)開拓使2代長官が政府に提示した14ケ条の「開拓施策要項」の中で「附属船を備ふる事」の項目を掲げ、太政官に帆船・汽船各1隻の交付を要求。
○明治2年9月・・咸臨丸、昌平丸が交付された。
○2隻では、需要をまかないきれず、開拓使は、高運賃の外国商船を雇用。しかし、事業が煩雑になるに従い、不当な傭船にたよるわけにはいかなくなり、外国船の買取りを計画。まず、康午丸、辛未丸を購入。
○そのほか、政府から貸下げを受けるとか、国内船を買い上げるなど、開拓使所有船の充実を図り、開拓使廃止の明治15(1882)年まで、開拓使附属の汽船・西洋型帆船はのべ29隻に達している。(資料①)

黒田清隆の開拓使籏章更正伺

明治5年9月、開拓次官黒田清隆が、正院宛に「開拓使籏章更正伺」を提出している。その理由について推察してみる。

1.北辰旗制定の経過
まず、開拓使の北辰旗制定の経過を要約すると、明治5年正月、開拓使御用係の蛯子末次郎が、開拓使に「北海道旗章立置伺」を提出し、その中で「此五陵形籏章ノ原因タルヤ北晨星ヲ象リ則青色地ニ赤色ヲ點付ス」(「本支庁文移録」、北海道文書館所蔵)と述べている。
なお付言すれば、蛯子末次郎の師は、五稜郭を設計した武田斐三郎である。
開拓使は翌2月、蛯子の案を受け入れ、「本使附属船籏章ヲ蒼色五稜形ニ定ム」(「開拓使事業報告」、同)とした。ここに、五稜星の北辰旗が誕生した。

2.黒田清隆の北辰旗の旗影変更伺
ところが、北辰旗制定から間もない同年9月、黒田は、突然、以下の「籏章更正伺」を正院に提出している。

「當使官邸並用船等ヘ建用候大小籏章、先般雛形を以申上置候處、
今般別紙籏影之通、致更正候間御布告相成候様仕度此段奉伺候也
    壬申九月十九日       黒田開拓次官
    正院 御中                」(「稟裁録」、同)

黒田は、「別紙」で、「五陵形」を「七陵形」に変更した「籏影」案を提出している。
 正院は、黒田の「伺」を「従前相定候品可相用事」として却下している。(同)

3.その理由
ところで、なぜ、黒田は、その北辰旗の旗影の変更を伺い出たのだろうか。
 私は、その理由に、黒田と榎本武揚の男の友情を見る。
明治2年5月、函館戦争の際、官軍参謀の黒田が、五稜郭に立てこもった旧幕軍の榎本の助命を嘆願したことはよく知られている。黒田に助けられた榎本は、明治5年3月8日、開拓使四等出仕に任じられている。
 開拓使官吏となった榎本は、自らの敗北の地である「五稜郭」を彷彿させる「開拓使旗章」に内心忸怩たるものがあったのではないか。
 黒田と榎本は、互いに肝胆相照らす仲であり、黒田は、榎本の気持を汲み、榎本赴任から半年後の9月、開拓使旗章を「五陵形」から「七陵形」へ変更する「伺」となったのではないか。
のち、明治21年、榎本は、黒田内閣の農商務大臣兼逓信大臣に任命され、更に、明治33年、黒田の死去の際して、葬儀委員長も務めている。

4.まとめ
 以上、黒田清隆が北辰旗の旗章変更伺を提出した理由について、私の突飛な暴論ともいえる推察である。
 なお、現在の北海道旗について、北海道は、「本道開拓使が使用した北辰旗と、当時着想されていた七陵星のイメージを現代的に表現したもの」と説明している。
正院には却下されたが、黒田が「籏章更正伺」を提出した幻の七陵星の北辰旗、つまり、私流にいえば、黒田清隆と榎本武揚の男の友情が現代に蘇り、北海道各地に翻っている。
北海道旗を見るたびに、私は、ひとり、歴史のロマンに浸っている次第である。

開拓使本庁舎と桜

<特大>札幌は、5月12日、桜の満開が発表されました。
開拓の村の桜も、満開でした。
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札幌市都市景観重要建築物

■指定建築物等

第1号 「日本食品製造合資会社旧工場」

 所在地:札幌市西区八軒1条西1丁目13-1
 建築年:昭和4(1929)年
 構造:れんが造
 指定年月日:平成13(2001)年7月31日


第2号 「北星女学校宣教師館」
      (現北星学園創立百周年記念館)

 所在地:札幌市中央区南4条西17丁目2
 建築年:大正15(1926)年
 構造:木造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日 


第3号 「三谷牧場牛舎・サイロ」

 所在地:札幌市西区発寒8条13丁目1
 建築年:昭和3(1928)年
 構造:れんが造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日

第4号 「小熊邸」
       (現ろいず珈琲館)

 所在地:札幌市中央区伏見5丁目1875-33の内
 建築年:昭和2(1927)年
 構造:木造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日 

第5号 「石山郵便局」
       (現ぽすとかん)

 所在地:札幌市南区石山2条3丁目1-26
 建築年:昭和15(1940)年
 構造:石造(札幌軟石)
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日 

第6号 「杉野目邸」

 所在地:札幌市中央区南19条西11丁目
 建築年:昭和8(1933)年
 構造:木骨れんが造
 指定年月日:平成17(2005)年3月3日

 ※個人宅につき非公開。
   敷地内無断立入り禁止。 


平成18年3月7日に以下の5件が新たに指定されました。
第7号 「日本基督教団札幌教会礼拝堂」

 所在地:札幌市中央区北1条東1丁目
 建築年:明治37(1904)年
 構造:木骨石造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

  

第8号 「旧吉田善太郎別邸」
     (現八紘学園栗林記念館)

 所在地:札幌市豊平区月寒東1条12丁目
 建築年:明治42(1909)年
 構造:木造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日
  

第9号 「旧吉田牧場畜舎・サイロ」
     (八紘学園資料館)

 所在地:札幌市豊平区月寒東1条13丁目
 建築年:明治37(1904)年
 構造:木造(畜舎)、石造(サイロ)
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

  

第10号 「旧石切山駅」
      (現石山振興会館)

 所在地:札幌市南区石山1条3丁目
 建築年:大正7(1918)年
 構造:木造一部石造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

  

第11号 「旧中井家リンゴ倉庫」
      (現平岸天神太鼓道場)

 所在地:札幌市豊平区平岸3条2丁目
 建築年:昭和10(1935)年
 構造:れんが造
 指定年月日:平成18(2006)年3月7日

*詳しくは札幌市のホームページの「さっぽろの都市計画」の「都市景観重要建築物等」を参照ください。
↓です。
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/index.html

江戸時代の蝦夷地の支配体制 略年表

江戸時代の蝦夷地の支配体制 略年表

【松前藩領】
○文禄2(1593).1.2・・蠣崎慶(よし)広(ひろ)(松前家5世・初代松前藩主)、肥前・名護屋の陣営で朝鮮侵攻のため滞在中の豊臣秀吉に拝謁、志摩守に任じられる。
○同年.1.6・・慶広、秀吉より朱印状の交付を受け、蝦夷島の支配者として公認される。
○慶長4(1599).11.7・・慶広、大坂城で家康に拝謁。氏を「蠣崎」から「松前」に改める。
○慶長9(1604).1.27・・慶広、家康より黒印状を賜る。

*松前藩の地域区分と呼び方
・松前地(和人地ともいう)・・福山城を中心に東西25キロ、東は亀田(のち山越内まで拡大される)、西は熊石にいたる間とする。
・東西蝦夷地・・亀田から東を「東蝦夷地」、熊石から「西蝦夷地」と。のち、東西蝦夷地の奥を知床半島で境とした。はじめは海岸線だけの区分を内陸部にも及ぼし、知床半島から蝦夷地を横断してイザリ(現恵庭市)を通り、熊石にいたる線で分けられることになった。
・口蝦夷地・奥蝦夷地という呼び方もある・・「口」は、松前に近い方、「奥」は遠い方をさし、東は襟裳岬、西は神威岬(または雄冬岬)を境とした。

【前期幕府直轄】
○寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地(ウラカワより知床及び東奥島々まで)を当分(7ケ年)、試みに仮上知する旨、松前藩に通達。
○同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
○同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
○同年.9.28・・幕府、代地500石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)
○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。
○同年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。仮上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
○文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前藩は、奥州伊達郡梁川(現福島県伊達郡梁川町)9000石に移封。
○同年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

【松前藩復領】
○文政4(1821).12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

【幕府再直轄】
○嘉永7(1854).6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2(1855).2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。
○慶応元(1865).9月・・松前崇(たか)広(ひろ)(松前藩12代藩主)、陸海軍総奉行に就任の際、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

歴代女性天皇の系譜(5)

(7)108代・明正(めいしょう)天皇=7歳で即位、21歳で上皇になった女帝
・明正の名は、女帝の43代・元明(げんめい)天皇とその娘の44代・元正(げんしょう)天皇から取ったとされています。
・徳川氏を外戚とする天皇は明正天皇が最初です。これは、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の対朝廷政策が確立した事を意味するとされています。
・108代・後水尾天皇の第2皇女で、母は、徳川2代将軍・秀忠の娘徳川和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。つまり、明正天皇は、秀忠の孫娘ということになります。
・<経過>
・1629年(寛永6年)の紫(し)衣(え)事件や幕府から春日局が無官のまま参内した事件などで、父の後水尾天皇から突然の譲位を受け、興子(おきこ)内親王として7歳で即位する。彼女の即位で、四八代・称徳天皇以来859年ぶりの女帝が誕生した。治世中は後水尾上皇の院政が敷かれた。
・<紫(し)衣(え)事件>
紫(し)衣(え)とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
1613年(慶長18年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
・このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府、3代将軍・徳川家光は、1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
・<春日局事件>
・2代将軍徳川秀忠正室お江与の従女民部卿局の仲介で、子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。
・初の大奥総取締として大奥の制度を統率し、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。江戸城大奥の礎を築いた人物で「大奥最高の女帝」とまで言われている。
・1629年、将軍の名代で、無位無官の身で朝廷へ参内。後水尾天皇に拝謁し、従三位の位と「春日局」の称号、天杯を賜る。後に従二位に叙られる。
・1643年(寛永20年)に、異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となる
(8)117代・後桜町天皇・・最後の女帝
・114代・桜町天皇の第2皇女。智子(としこ)内親王。
・宝暦12年(1762年)、桃園天皇の遺詔を受けて践祚。同帝の皇子英(ひで)仁(ひと)親王(後の118代・後桃園天皇)が五歳の幼さであった為、中継ぎとしての皇位継承である。
また彼女の即位で、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となる。
在位九年の後、明和7年(1770年),甥の後桃園天皇に譲位。
・<皇統の傍流への移行>
しかし、この御代は長く続かず、安永8年(1779年)皇子を残さぬまま後桃園天皇が崩御。
・9歳の兼(とも)仁(ひと)親王(のちの光格天皇)に決まった。
元々は、閑院(かんいんの)宮家(みやけ)から聖護院に入寺し、出家する予定であったが、1779年、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったので、急遽養子として迎えいれられて即位。
<閑院(かんいんの)宮家(みやけ)>
・、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。
・皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、新宮家誕生となった。
・閑院宮家6代の載仁(ことひと)親王・・1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。 1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。 1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。また、稀に見る美男子であった。
第7代 春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子。公爵 一条実輝の娘 直子と結婚。陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将として、戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏が失われるとして反対の論陣を張ったが、1947年(昭和22年)に皇籍離脱。 閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。 戦後の新生活は波乱とスキャンダルにみちたもので、直子とは離婚。 妹 華子女王は、皇族出身の侯爵 華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。1988年(昭和63年)6月、85歳で死去。子は無く、閑院(宮)家は断絶した。

(後桃園天皇からみると、曽祖父=ひいじいさん=の弟の孫)
*現今の「旧皇族の活用」論、つまり、「旧皇族から養子を迎える」という論の論拠になっています。実際は、現行皇室典範9条が「天皇及び皇族は養子を迎えることができない」と、禁止しています。
<まとめ>
・日本には、10代(8人)の女帝がいました。
・女帝、特に飛鳥・奈良時代の6世紀末から8世紀後半までの8代(6人)の女帝は、政権能力の優れた王族内の長(おさ)が即位したのであって、「中継ぎ」などではなかったという説にうなづけるものを感じます。
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