森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

1月 町吟味役中日記注記

                          

(90-1)「熨斗目(のしめ)」:練り糸を縦に、生糸(きいと)を横にして織った絹布。また、その布地で作った、腰の部分だけ縞(しま)を織り出した衣服。江戸時代に武家の礼服として用い、麻の裃(かみしも)の下に着た。

   *「熨斗目」の語源:「のし目」という言葉の由来は定かではありませんが、本来は平織物の横段柄であったので、平織物の滑らかな風合いから、「伸し目(のしめ)」、と呼ばれるようになったとか、あるいは火伸しの道具である熨斗(アイロンのようなものでしょうか)によって平らにされた絹地という意味だともいわれています。(ウェブサイト『丸太や』HP)

   *<日常の食事のおかずは野菜が中心であっても、めでたいときの食事には、ぜひとも生臭物を口にしたいと念願した。そういう背景のなかで、仏教はたてまえとして魚食を禁じ、仏事のときの食事はすべて精進(しょうじん)料理であった。そのため仏事以外の贈答品には、精進でないことを示すために生臭物の代表として「熨斗鮑」を添えることになった。魚の鰭(ひれ)を台所の板戸などに貼(は)り付けておき、23本ひっかいて、めでたいときの贈答品に添える例もあり、鶏の羽を1本添える所もある。正月の鏡餅(もち)に大(おお)熨斗、束ね熨斗を飾るのも、婚礼の結納品目に束ね熨斗が入っているのも、凶事でないことを強調する意味があった。したがって凶事の贈答品には、熨斗をつけないのが本来の形であったが、近年は紅白の紙にかえて黒と白または青と白の紙に挟み、同色の水引で結んだ熨斗をつけることが一般化している。吉凶にかかわらず、熨斗鮑の部分に黄色い紙などを使い、また、熨斗と水引を印刷した進物用の包み紙や、金銭を贈るときに使う熨斗袋もあり、本来の意味が忘れられて形式化している。>(ジャパンナレッジ版『日本大百科全書』)

   *「熨斗」:本来は、「ひのし」(アイロン)で、「熨」を「のす」と動詞扱いに訓じた。「斗」は、ひしゃくの形をしたもの。

(90-3)「暇乞御礼(いとまごいおれい)」:「暇乞」は、別れを告げること。別れのあいさつをすること。「御礼」は、江戸時代、在府の大名が、毎月一日、一五日、二八日の月次(つきなみ)、および大礼の日に登城して将軍に拝謁すること。ここでは逝去した松前藩主道広の遺髪に拝謁すること。

   *「乞」のくずし字:楷書では「ノ」+「一」だが、くずし字では2画目の「一」を右から書き、1画目の「ノ」に続ける。

(90-3)「服紗小袖(ふくさこそで)」:袱紗小袖。江戸時代の小袖の一種。晴の小袖に対するもので、男子の場合は羽二重以外、女子の場合は綸子以外の布地を用いた小袖。

(90-4)「独礼(どくれい)」:儀式のある日、藩主に謁見する際に、ひとりで進み出ること。

(90-4)「奉(ほう)」:奉送。貴人を見送ること。お見送り申し上げること。

(90-5)「御用達(ごようたし・ごようだち)」:認可を得て、宮中・幕府・諸大名などに用品を納入する商人。

(90-5)「御目見(おめみえ)」:江戸時代、将軍に直接お目通りすること。また、それが許される身分。御目見以上は旗本、御目見以下は御家人を意味する。

   <(1)「見る」という行為を自発的なものとして表現する動詞「見ゆ」の連用形「みえ」に名詞「目」を冠した「目見え」に、さらに尊敬を表わす接頭語「お」を冠した語。女性語としては「御目文字」が使われる。

(2)「お目に掛かる」と同様に目上の人の目に見えるという婉曲表現による謙譲表現。

(3)「目見」と関連して、別に「まみゆ」の語形があるが、こちらは院政期の文献までさかのぼることができる。これに対して「目」を「め」とする「おめみえ」は、中世末から近世以降の新しい語形と考えられる。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』語誌)

(90-7)「犬上郡兵衛」:松前藩勘定奉行。

(90-7)「桜庭丈左衛門」:松前藩勘定奉行

(90-8)「鹿能善藏」:松前藩勘定奉行。

   *「鹿」のくずし字・異体字は、脚部の「比」が省略される場合がある。

(90-8)「三村周太」:松前藩目附。

(90-8)「桜庭左右吉」:松前藩勘定吟味役。

(91-2)「御意(ぎょい)」:主君や貴人などの仰せ。おさしず。ご命令。おことば。

(92-1)「紋付(もんつき)」:紋のついた礼装用の和服。紋服。五つ紋を正式なものとし、略式に一つ紋と三つ紋とがある。

(92-1)「上下(かみしも)」:①(上代において)上着と袴(はかま)。

②(平安・中世において)狩衣(かりぎぬ)・水干(すいかん)・直垂(ひたたれ)・素襖(すおう)などの上着と袴(はかま)とが、同色の同じ布地のもの。

③(近世において)武家正装の一つ。同色の同じ布地で作った肩衣(かたぎぬ)と袴。紋付きの熨斗目(のしめ)か紋付きの小袖(こそで)の上に着用。

*「かみしも」に「裃」を当てる場合がある。「裃」は国字。

(92-1)「具(ぐ)」:「具」は必要なものを備えることを表し、一揃 (ひとそろ) いの用具を数える。主に、衣服・器具などを数えるのに用いる。

    ふたつ以上のものがそろって完備する衣裳。「裃 (かみしも) 1具」「御衣(おんぞ)    一具」②印籠(いんろう)③輿 (こし)④数珠(じゅず)➄櫛 (くし)⑥鞍(くら)⑦駕籠

    (かご)

  *一具弓懸(いちぐゆがけ):弓を射るときに指を守るための手袋。(ジャパンナレッジ版『数え方の辞典』)

  *「」は、常用漢字。旧字体は「 」。

*「倶知安」、「倶利伽羅峠」の「」は、俗字。正字は「」。

   *ところが、「危惧(きぐ)」の「」は、常用漢字になっている。「忄」+「具」は俗字。

(92-2)「被下置(くだしおかれ)」:「下置」は、「申し渡しておく」または「与えおく」。

      「被」は、くずし字の決まり字。ひらがなの「ら」に見える。

   *訓読文「()(くだ)()」(くだしおかれ)

下は、『くずし字辞典』の「被」

(92-3)「肴(さかな)」:「酒(さか)菜(な)」の意。「な」は副食物の総称。

   酒を飲む時の副食物。酒のさかな。つまみ。

   酒宴に興を添えるための歌や踊り。酒席の余興。

*「魚」は、もともとイヲ・ウヲが用いられていた。江戸時代以降、しだいにサカナがこの意味領域を侵しはじめ、明治時代以降、イヲ・ウヲにとって代わるようになった。

(92-4)「荷(か)」:「荷」は天秤棒(てんびんぼう)の前後に下げる荷物を数える語。樽2本で「1荷」。「1駄」は酒35升入りの樽、2樽のこと。

(92-5)「不被下置」:訓読文は「()()(くだ)()」(くだシおかれず)

(92-6)「計(ばかり)」:…だけ。中古には(「ほんの…ぐらい(だけ)」の意において用いられ、やがて限定の用法が成立する。次第に限定の「ばかり」が勢力を増し、「ばかり」より語史的には古い「のみ」を侵していく。しかし、中世では副助詞「ほど」に、近世では「ほど」「ぐらい」に程度の用法を侵され、また、近世以後「だけ」「きり」に限定の用法を侵されることになる。

(92-6)「不致旨(いたさざるむね)」:ここの「不」は「可」で、「可致旨(いたすべき)」か。

(92-7)「嘉十郎」:豊田嘉十郎。松前藩町吟味役。

(93-5)「名乗(なのり)」:公家・武家の男子が元服に際して、幼名や通称のほかに新しくつける名。牛若丸・九郎に対する義経の類。実名(じつみょう)。

(93-6)「懸紙(かけがみ)」:文書(もんじょ)の上にかけて包む紙。本紙(ほんし)を包むための包み紙、封をするための封紙(ふうし)などの総称。

(93-7)「先手組(さきてぐみ)」:江戸幕府の職名の一つ。先手鉄砲組・先手弓組の併称。寛永九年(一六三二)に鉄砲一五組、弓一〇組の計二五組と定めたが、のち二八組(鉄砲二〇組、弓八組)となった。江戸城内外の警衛、将軍出向の際の警固、市中の火付盗賊改などに当たった。各藩にも同様の組織があった。

『周廻紀行』1月学習分注記(P35~P39)

(35-1)「順盃(じゅんぱい)」:宴席で、順々に酒杯を回すこと。影印の「盃」は、「杯」の異体字(俗字)。

(35-1~2)「貴賤老少」:「貴賤」は身分の高い人と低い人。「貴賤老若」とも。

    *「貝」部:「貝」は子安貝の象形。古代中国では、貝は、財産の象徴で、「財」「貴」「貧」「賤」など、「貝」部の漢字には、金銭や地位・身分などに関係するものが多い。

     「貝」であればどんな貝でもいいわけではなく、シジミやアサリなど万人がたやすく入手できるものが、財産のシンボルになるはずがなく、財産のシンボルとして使われた貝は、簡単には入手できないものでなければならなかった。財産とみなされた貝は、かるか遠方の東南沿海地方から運ばれてきた「子安貝」だった。『竹取物語』のかぐや姫が言い寄る男性に出す無理難題に「燕の持ちたる子安の貝」がある。(この項阿辻哲次著『部首のはなし』より)

(35-2)「強(こわ・つよ)めり」:厳格である。

(35-3)「湖水」:クッチャロ湖か。

(35-3)「よりて」:動詞「よる(寄)」の連用形に助詞「て」の付いた語。漢文の訓読から生じた)前の事柄が原因・理由になって、後の事柄が起こることを示す。だから。

(35-4)「シホナイ」:シヨナイとも。漢字表記地名「斜内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現浜頓別町斜内。当地は近代に入って成立した枝幸村・頓別村の境界にあたり、現浜頓別町に字斜内(しやない)がある。

(35-4)「チセトマヱ」:『山川地理取調図』に「チヱトイヲマイ」と記されている。

(35-6)「卯半刻(うのはんどき)」:午前7時頃。

(35-6)「そふて」:「そふ」は歴史的仮名遣い。現代仮名遣いは「そい」。歴史的仮名遣いのハ行はワ行になるから、「そふ」は「そう」。

(35-6)「梺(ふもと)」:国字。

(35-7)「峩々」:山、岩などが、高く角(かど)だってそびえているさま。影印の「峩」は、「峨」の俗字。

(35-7)「凌雲(りょううん):高く雲をしのぐこと。

(35-7)「突立(とつりつ)」:つきたつこと。一きわ目立ってそびえること。

(35-8)「艸(くさ)」:部首名で、「艸」を使った熟語はない。「草」は、「艸」と同一語であるが、音(ソウ)を示すため「早」が付された。

(35-9)「半腹(はんぷく)」:山の頂上と麓との中間。山のなかほど。中腹。

(35-9)「過ぎてば」の「てば」:完了の助動詞「つ」の未然形「て」+接続助詞「ば」。(下に推量の表現を伴って)…たならば。…ているならば。

     *「梅が香を袖(そで)に移して留(とど)めてば春は過ぐとも形見ならまし」(『古今集』)

(35-10~36-1)「滄海(そうかい)」:青々とした海。あおうなばら。あおうみ。大海。

(36-1)「みくず」:水屑。水中のごみ。水中で死ぬ、溺死する意のたとえ。また、多く、はかない身の上のたとえに用いられる。

     *「いまだ十歳のうちにして、底のみくづとならせ給ふ」(『平家物語』)

          *「水」の訓読みは普通「みず」だが、先頭音の「み」だけで表現する場合がある。「水無月(なづき)」、「水面(なも)」「水脈(お)」など。

(36-1)「カモヰベロギ」:神威岬。枝幸郡枝幸町と同郡浜頓別町との境界に位置する岬で、オホーツク海に突き出す。北見神威岬とも。

(36-2)「ペライウシナイ」:『山川地理取調図』に「ヘラエウシナイ」と記されている。

(36-5)「ヱサシ」:漢字表記地名「枝幸」のもととなったアイヌ語に由来する地名。2006320日、()枝幸町、歌登町と対等合併し、()枝幸町が成立。

(36-5)「ホロベツ」:漢字表記地名「幌別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。現枝幸町下幌別。

(36-7)「遣ひ」:「遣う」は弁当を食べること。

     *「兵粮を遣(ツカ)ふ時分に昼食(ひるま)の総菜にするんだはな」(総生寛=ほそう・かん=著『西洋道中膝栗毛』)

(36-7)「ホロナイ」:漢字表記地名「幌内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。紋別郡雄武町幌内。

(36-9)「松前より」の「より」:ある物や人の働きかけが起点となる場合。…の働きで。それがもとで。

(38絵図)「ノボリトカリトモ」の「トモ」:「ト」と「モ」の合字。

    他に「トキ」「ト云」など。

(39-2)「サワキ」:漢字表記地名「沢木」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現紋別郡雄武町。

(39-3)「辰刻(たつのこく)」:午前8時頃。

(39-4)「モンベツトマリ」:近世後期、オホーツク海沿岸部ほぼ中央に位置していた漁業基地。1680年代に開設したソウヤ場所に属した。寛政元年(1789)クナシリ・メナシの戦に関連しソウヤ場所請負人飛騨屋久兵衛が失脚、翌905月松前藩は北辺の取締を理由にソウヤ場所からカラフトシラヌシとシャリ場所を分離し藩の直領とした(「蝦夷地一件」など)。シャリ場所設置により沿岸部の帆船航路がシャリ(現斜里町)まで延長、このためソウヤ場所とシャリ場所との間で寄港地が必要となり、自然湾形に恵まれた当地に番屋が設置された。

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月400円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代700円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2021年1月11日(月)、1月15日(金)13時~16時 コロナ対策のため、同一内容を2グループに分けて学習します。

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3)

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵)

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

12月 町吟味役中日記注記

(86-2)「熊石村」:近世から明治35年(1902)までの村。爾志郡の北部に位置し、西は日本海に面する。北境に分水嶺の遊楽部(ゆうらつぷ)岳(見市岳)があり、大部分は山地・丘陵地で、その間に谷を形成して関内川・平田内(ひらたない)川が南西流して日本海に注ぐ。「地名考并里程記」は「熊石」について「夷語クマウシなり」とし、クマとは「魚類、又は網等干に杭の上に棹を渡したる」の意味、ウシは「生す」の意味とする。また浜辺に熊の形の岩があるので熊石と称したともいう(西蝦夷地場所地名等控)。

    *昭和37(1962)、町制施行で爾志郡熊石町となり、平成17(2005)山越郡や八雲町と合併し、現在は八雲町熊石。郡名は新たに二海郡となった。

(86-2)「第次郎」:影印は「第」の俗字。

(86-2)「跡式(あとしき)」:鎌倉時代以後の語。「後職(あとしき)」の意から。相続の対象となる家督または財産。また、家督と財産。分割相続が普通であった鎌倉時代には、総領の相続する家督と財産、庶子の相続する財産をいったが、長子単独相続制に変わった室町時代には、家督と長子に集中する財産との単一体を意味した。江戸時代、武士間では単独相続が一般的であったため、原則として家名と家祿の結合体を意味する語として用いられたが、分割相続が広範にみられ、しかも、財産が相続の客体として重視された町人階級では、財産だけをさす場合に使用されることもあった。

    *影印は「式」に左払いがあるが、誤字。P24には、左払いはない。

(86-3)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(86-3)「利解」:道理を説いて説得すること。

(86-3・4)「被申聞(もうしきかされ)」:、「言い聞かせる」を重々しく言う。告げ知らせる。道理を述べて教えさとす。申し聞ける。

(86-4)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(86-5)「梅沢由右衛門」:町吟味役。

(86-6)「午年より当年迄」:「午年」は、文政5年(1822)、当年は天保3(1831)

    10年間をいう。

(86-6)「取揚金(とりあげきん)」:収支金額。

(86-7)「新井田」の「井」:カナカナの「カ」のように崩れる場合がある。

(86-8)「村山傳兵衛」:初代は、能登国羽咋郡(はくいぐん)安部屋(あぶや)出身。松前の巨商で場所請負人。当時の村山家は七代目で、石狩場所を請け負った。

(86-9)「繰合(くりあわせ)」:やりくりして都合をつけること。

(87-3)」「牢屋敷」:)江戸時代、未決囚を拘留した場所。

(87-4)「痛メ」:痛吟味(いためぎんみ)。江戸時代の拷問のこと。「拷問」と呼ばれた笞打(むちう)ちと、「牢問」と呼ばれた石抱(いしだ)き、海老責(えびぜ)め、吊責(つるしぜ)めの四種の幕府法上の総称。被疑者が普通の吟味で白状しない場合に、肉体を痛めつけ、苦痛を与えることにより自白させたところからいう。いため。責問(せめどい)。厳敷吟味(きびしきぎんみ)。

(87-4)「いたし候事」の「候事」:連綿体。

(87-5)「高田屋金兵衛」:高田屋嘉兵衛の実弟(四男)。高田屋の経営総責任者。長男嘉兵衛より、高田屋二代目を継ぐ。以降高田屋の家系は金兵衛直系の家系となる。天保4(1833)幕府より闕所を言い渡され財産を没収される。

    *高田屋の没落の概略(『函館市史』デジタル版より)

    ①天保21831)年512日、東蝦夷地の高田屋の請負場所に米塩を送るため、大坂の伊丹屋平兵衛所有の栄徳丸という船を雇い、船頭重蔵が乗ってきたが、たまたま風がなく様似沖で漂っていたところ、2艘のロシア船に遭い、その船から異人がボートを出して栄徳丸に乗組み、若干の米酒を奪い取って去った。それから風を得て栄徳丸は幌泉に入港した。

    ②折から厚岸のウラヤコタンの外国船乱暴事件の調査のため、蝦夷地に派遺された幕吏川窪忠兵衛の耳にはいり、船が更に根室に行った際、船頭外一同会所に呼び出され、糾問を受けた。しかし、重蔵らは異国船との関係は何もなかったと申し述べたものの、再応の取調べで、ここで真実を申し述べれば何もないが、万一乗合せの儀を隠しおくならば、やがて江戸に引かれて糾問されるであろうということなので、それを恐れ、重蔵らは前記のごとく風がなく漂っていたところロシア船に行き逢い、 印の小旗を出して通過したが、異人は小船で乗込み有合せの酒を奪い取って去ったということを申し述べた。

    ③この小旗を示して通過するという旗合せのことから密貿易の嫌疑となり、引続き福山で糾明を受け、更に同年11月金兵衛および船頭重蔵ならびに水夫ら11名が江戸に召喚され、さきに箱館奉行であった当時の勘定奉行村垣定行の取調べを受けるに至った。そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化91812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられカムチャツカに至った際、日本に幽閉されていたゴロウニンの釈放を約し、その斡旋に努力したことによって、ロシア人は大いにこれを感謝し、これに報いるため以後高田屋の船舶には、いかなることがあっても劫掠(ごうりゃく)などせず、もしも海上で遭遇した場合には、高田屋の店印である 印の小旗を掲げ示す時は、ロシア船もまた赤布を掲げてこれに応答しようという密約が結ばれていた。そこで嘉兵衛は、このことをひそかに所有船ならびに雇船の各船頭に申し含め、幅2尺長さ3尺ばかりの小旗を交付したが、以来これを使用することもなく過すうち、嘉兵衛は文政101827)年この世を去り、それから4年後にはじめて使用されたものであった。

    ④うして天保38月、この事件は評定所一座の審問の結果、海上で外国船に会い、酒などを与えたことはあるが、密貿易の事実は認められなかった。しかし、ロシアとの密約のことが明らかとなり、そのことをこれまで隠していたこと、また嘉兵衛とともに捕えられて帰った徳兵衛なるものは、領主領内の外へみだりに出入することを禁じられているにもかかわらず、これを自由に召使ったことなどの罪科により、翌天保4223日、金兵衛はその所有船12隻ならびに小旗を没収され、江戸10里四方追放、生国淡路郡志本村領主松平阿波守領分のほかに他出すべからざること、金兵衛養子嘉市は船稼ぎ差留め、所払いならびに兵庫・大坂の支店地に立入るべからざることを申し渡され、更に金兵衛所有家屋、倉庫、器財などは、同人親類の意志にまかせて処分すべき旨が達しられた。これがため、さしも全盛を極めた高田屋もついに没落するに至り、箱館市中なども一時は全く火の消えたようになってしまったと伝えられる。

(87-5)「手船(てぶね)」:幕府・諸大名をはじめ廻船問屋や商人などが所有する船。彼らが適宜にやとう雇船に対していう。

(87-6)「順通丸」:高田屋の所有船(917石)。高田屋没落後、高田屋の所有船は、競売に付され、同じく場所請負人の藤野喜兵衛に売却された。

(87-6)「水主(かこ)」:梶子(かこ)の当て字。「梶」を「か」と読むのは、「かじ」の古形。「かとり(梶取)」「かこ(梶子)」「やそか(八十梶)」など複合した場合にだけ現われる。

(87-8)「播州赤穂(ばんしゅうあこう)」:「播州」は、播磨国。兵庫県南西端の地名。江戸時代初めに、姫路の池田輝政の子が独立して一藩をおこす。浅野長直(ながなお)入城後五万三千石の城下町として発展。孫、長矩(ながのり)のとき刃傷(にんじょう)によって浅野家は改易となり、のち永井氏、森氏と続いた。赤穂義士、製塩の町で知られた。

    *「赤穂」をなぜ「アコー」と発音するのか。

    ①歴史的仮名遣いは「アカホ」。→「ハ行」は「ワ行」に読むから「アカウ」

    ②「アカウ(akau)」の「(au)」は二重母音で「オー(o―)」と読む。

    ③「アコー(ako―)」となる。

(87-10)「爰元(ここもと)」:話し手自身の方をいう。自分の方。当方。つまり、奥平勝馬自身のこと。

    *「爰」の部首は、「爪」部。俗に、冠の形から「のつ(ノツ)」とも。

    *テキスト影印の冠部は、「宀(うかんむり)」のように見えるが、「のつ(ノツ)」。

(87-10)「爰元」の次は、見せ消ちか。

(88-7)「乙部村(おとべむら)」:現爾志(にし)郡乙部町。乙部はアイヌ語で「ヲトヲウンベ」、沼のある所の意という(地名考并里程記)。「東遊雑記」に「乙部浦百余軒の町にて、漁士斗の町にて家居悪からず」とあり、幕府巡見使は乙部まで来て、出迎えのアイヌの鶴の舞や弓矢で的を射る儀式を見て引返す慣例だったと記される。

(88-9)「□合」:□は「馴」か。影印の「馬」+「卆」の字はない。

(88-10)「江指」:現在は、「指」は「差」で、「江差」。「江差」は「江指」「江刺」とも記された、「地名考并里程記」には、「江指 夷語エシヤシなり」とある

(88-10)「小平沢」:現江差町字陣屋町など。『江差地図』(秦憶丸著 文化4年=1807=)などでは、「小平治沢」としている。近世から明治33年(一1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた。。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。

(89-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(89-4)「詰印形(つめいんぎょう)」:爪印形。江戸時代の刑事裁判で、被疑者が口書(くちがき)に捺印する場合に用いられた印。重罪にあたる被疑者は吟味中入牢させられ、普通、印を所持していないため、この方法がとられた。ただしこれは庶民に限られ、武士には書判(かきはん)を書かせた。爪判。

(89-5)「侍座(じざ)」:貴人や客など上位の人のおそばにすわること。

(89-7)「最前(さいぜん)」:さきほど。さっき。いましがた。先刻。多く副詞的に用いる。

(89-7)「御下シ(おくだし)」:動詞「くだす(下)」の連用形の名詞化。くだすこと。申しわたすこと。下命。

(89-8)「御内書(ごないしょ)」:主君から臣下へ直接に出す書状。執事・奉行などの手を経ないもので、将軍の出す直状はとくに御内書(ごないしょ)とよばれた。直書(じきしょ)。

(89-8)「忌明(いみあき・いみあけ)」:服喪の期間が終わること。天保3(1832)620日江戸で死去した松前藩8代藩主松前道広(諡号は松吟院)の服喪が終わること。

(89-9)「披見(ひけん)」:923日に松前に到着した松吟院の遺髪を拝見すること。

(89-9)「畢(おわりて・おえて)」:田は畢(あみ)の形。夂(ち)は神霊の降下する形。畢(あみ)で一網打尽にとり尽くすので「畢(おわ)る」意となる。(『字通』)

『周廻紀行』12月学習分注記(P32~P34)

(32-1)「巳刻(みのこく)」:午前10時頃。

(32-2)「ソヤ」:アイヌ語。「ソヤ【soya】」。蜂。

(32-4)「チセトマヘ」:「チセトマヱ」とも。『山川地理取調図』に「チヱトイヲマイ」と記されている。

(32-5)「高(たこ)ふして」:形容詞「高し」の連用形「高く」が、ウ音便で「高う」になった。

     *①「たかふ」→ハ行は、ワ行になるから「たかう」。

      ②「たかう」→ア段「か」+「う」は、オ段にするから「かう」は、「こう」。

     *「男は、口惜(くちを)しき際(きは)の人だに、心を高うこそ使ふなれ」〈源氏・少女〉

     訳: 男というものは、低い身分の人でさえ、自尊心を高く持つものである。

(32-7)「卯半刻(うのはんどき)」:午前7時頃。

(32-9)「万里長城」:歴代中国王朝が北方辺境防衛のためにつくった大城壁。

(33-1)「ぞありける」:「ける」は助動詞「けり」の連体形。普通の文は終止形で結ぶが、係助詞「ぞ」を用いると、文末は連体形で結ぶ。「係り結びの法則」という。

(33-1)「森々(しんしん)」:高く茂り立つさま。

      *わが国では、もりは神の住むところ。〔万葉〕に「神社」を「もり」と訓する。「ちはやぶる神の社(もり)に我が懸けし幣は賜らむ妹に逢はなくに」

(33-3)「開壁」:「開闢(かいびゃく)」か。仏教語。開も闢も「ひらく」の意。天地のはじまり。世の中のはじまり。荒地などが切り開かれること。北大本も「開壁」に作っている。

(33-3)「樵夫(しょうふ)」:きこり。そまびと。

(33-4)「サルブツ」:現猿払村。漢字表記地名「猿払」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名などととしてもみえ、天保郷帳では、「ソウヤ持場」内に、「サルブツ」と記されている。

(33-5)「トウベツ」:現浜頓別町付近。「トンベツ」か。漢字表記地名「頓別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、河川名などとしてもみえる。『山川取調図』に、「トンヘツ」と記されている。

(33-7)「根笹」:千里竹とも。土手や丘などに群生するササ。高さは2メートル内外。ここでは、「根曲がり竹」をいうか。イネ科のタケササ類で、深山の斜面に群生。ネマガリ。チシマザサ。

(33-8)「ひめ置(おき)たる」:人に知れないように隠しておいた。秘蔵しておいた。

      *「ひ」は変体かな。字母は「飛」。

 

(33-9)「具足(ぐそく)」:身につける武具。鎧(よろい)や兜(かぶと)。

(33-9)「領(りょう)」:助数詞で、鎧・衣服など一そろいのものを数えるのに用いる。「領」はうなじ・首・襟 (えり) を表し、甲冑(かっちゅう)などを数える。。「両」とも書く。

      *「打ち掛け」も、もともとは武家の婦人の礼服だったため、鎧(よろい)

       と同じ「領」で数える。

(34-1)「ヒリカ」:アイヌ語。「ピカ【pirka】」よい。美しい。かわいい。

(34-1)「カリ」:アイヌ語。「カリ【kari】。①徘徊する。回る。②化けた。

(34-1)「鎌倉時代」:通常、源頼朝が平氏を滅ぼして全国の軍事警察を掌握した1185年から、北条高時が滅びる1333年までの約150年間をいう。なお、始期については、頼朝挙兵の1180年、東国行政権の認められた1183年、征夷大将軍になった1192年など諸説がある。

(34-2)「行器(ほかい)」:①「こうき」の場合は、旅行用の器具。②「ほかい(外居)」の場合は、食物を盛って運ぶ器。「ほかい」は、形は丸く高く、蓋と外側へ反った三本の脚があり、杉の白木製の物や黒漆塗りの物などがある。本書の「行器」は、②の「ほかい・外居」か。アイヌの間では,シントコといって,宝壇に飾ったり穀物などを入れるのに使われた。これは日本内地との交易によってもたらされ,近世初頭の製作品も少なくないという。語源説に、①ホカユク(外行)の義。②旅行など外で食べる時用いる意。③ホカヒ(穂器)の意。などがある。

      *当て字「行器(ほかい)」の語源説:ホカユク(外行)の義。外行に居(すえ)る意〔大言海〕。旅行など外で食べる時用いる意など。

(34-2)「おかし」:趣がある。風情がある。

(34-2)「タン子ツプ」:アイヌ語。「タンネピコtannep-ikor】」。長い宝刀。

(34-2割注右)「太刀(たち)」:刃を下に向けて腰につり下げる長大な刀の称。刃を上に向けて帯に差す「かたな」に対していう。

      *平安時代以降、反刀(そりがたな)が用いられるようになるとともに、「たち」は「大刀」から「太刀」と書かれるようになり、さらに近世以降は、刃を上にして帯にさす打刀が流布し、その二腰を大刀・小刀と称したので、それとの混同を防ぐため、「たち」は太刀と書くのが慣例になった。

なお、今日では、古墳時代以後、奈良時代までの直刀(ちょくとう)を「大刀」、平安以降の反刀(そりがたな)を「太刀」と書いて区別している。

(34-3)「ヱモシ」:アイヌ語。「エムemus】」。刀。剣。

(34-4)「我師」:一行の長である「松平信濃守忠明」か。

(34-4)「黒ぬり金蒔絵」:黒漆で文様を描き、金色粉などを付着させた漆工芸。蒔絵には、技法上から、研ぎ出し蒔絵、平蒔絵、高蒔絵に大別され、絵以外の地の装飾としては、梨子地(なしじ)、塵地、平目地、沃懸(いかけ)地などがある。奈良時代に始まり平安時代に盛んになる。漆工芸の代表。

(34-4)挿入記号:「ければ」と「耳」の間にある「〇」は挿入記号。

(34-4)「耳盥(みみ・だらい)」:左右に耳状の柄のついている盥。多く漆器で、口をすすぎ、手を洗うのに用いた。

(34-5)「ト°ウキ」:アイヌ語、「トキ【tuki】」か。杯(さかずき)の総称。お椀のような形の塗り物。

 

 

 

 

 

 

 

 

(34-6)「杓」:影印は「木」+「夕」のように崩してある。

(34-6)「イト°ニプ」:銅提(ひさげ)(佐藤玄六郎ほか著『蝦夷拾遺』)、銚子(金製の急須の形)(秦檍丸著『蝦夷島奇観』)

(34-7)「つかしめて」:「注がしめて」。器に物(酒などの液体)を入れさせる。注ぎ入れさせる。

(34-7)「いたゝき」:動詞「戴く・頂く」の連用形。頭の上にのせて持つこと。

(34-8)「吞箸〔イクバシ〕」:「イクバシ」は、「イクパシイ【iku-pasuy】で、棒酒箸。お祈りの時に神へアイヌの願を伝えてくれる箸。

(34-8)「手向(たむけ)」:神仏、あるいは死者の前に物を供えること。また、その物。

      *「手向け」の「た(て)」は、訓読み。「下手(へた)」など。

      *本来旅人が土地の道祖神にその旅の安全を祈るもので、旅人は幣(ぬさ)としての木綿(ゆう)・布・紙などを幣袋(ぬさぶくろ)に入れて持参する。後世は、単に物を供えて神仏に祈る意にもなる。中世以降「たむけ」から「たうげ」にウ音便化し、その地勢から「峠」という国字を作って当てる。

      *中世以降「たむけ」から「たうげ」にウ音便化し、その地勢から「峠」という国字を作って当てる。

(34-9)「ことし」:影印は、「こと」の合字。「ごとし(如し)」。

(34-8)「呑箸(イクバシ)」:祭祀に使用する箸。

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月400円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代700円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2020年12月21日(月)、12月23日(水)13時~16時 コロナ対策のため、同一内容を2グループに分けて学習します。

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3)

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵


事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

11月 町吟味役中日記注記

(83-1)「如何(いかが)」:決まり字。

(83-1)「脇差ヲ」の「ヲ」:「ヲ」の字母は「乎」。片仮名は漢字の省略で、漢字の最初の画を書くことが多い。「ヲ」の字母は「乎」。片仮名は、最初の画と、最後の画の組み合わせの場合がある。「ヲ」は「乎」の一画目と最後の四~五画目の組み合わせ。故に「ヲ」は「二」+「ノ」と、三画で書く。「フ」+「一」と二画では書かない。

(83-2)「存」:決まり字。

(82-23)「ひろへ」:ここは、「ひろひ」が本来。は行4段活用の連用形は「ひろひ」。現代仮名遣いは「ひろい」。「ひ」は変体かな・字母は「飛」。

(83-3)「七軒町」:町前城下、大松前川の東、町奉行所の前にあった。

(83-4)「弥太郎」:町方・溝江弥太郎。

(83-4)「紀兵衛」:町方・高井紀兵衛。

(83-4)「関平」:不詳。

(83-4)「元七」:町方廻り・小笠原元七。

    町方廻り一覧(『松前藩と松前』20号所収)

(83-6)「酒井大連」:松前藩の藩医・酒井子順の親類か。酒井家は、代々、松前家の藩医の家柄だった。

(83-6)「気ぶれ」:気狂(ぶれ)れ。気が狂う。

   「ふ」「れ」はいずれも変体かな。字母は現行ひらがなの字母である「不」、「礼」。

   影印は、「礼」の旧字体「禮」で、旁の「豊」の脚部「豆」の最終画が長く伸び、「し」があるように見える。

(83-8)「より」:「よ」と「り」の合字。

 

(83-9)「松前内蔵(まつまえくら)」:松前藩家老。

(84-1)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(84-3)「限(ぎり)」:(「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。また、促音が入って「っきり」となる場合も多い)体言またはそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。「…かぎり」「…だけ」の意。

(84-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(84-5)「酒井子順(さかい・しじゅん)」:松前藩の藩医。 (『蝦夷地医家人名字彙』より)

(84-78)「通り違い」:すれ違い。

(84-52)「出精(しゅっせい)」:精を出すこと。励みつとめること。精励。励精。

(85-3)「称美(しょうび)」:ほめたたえること。賛美すること。賛称。

(85-3)「いたし度(たく)」の「度(たく)」:①「度(タク)」は、漢音。「忖度(そんたく)」「支度(したく)」など。②「いたし度(たく)」の「度(たく)」は、助動詞「たし」の連用形。鎌倉時代ごろから、漢音「タク」を利用して、助動詞「たし」の各活用形の表記に用いられた。(『漢辞海』)

  *「めでたから(ず)(未然形)」「めでたく(連用形)」「めでたし(終止形)」

「めでたき(連体形)」「めでたけれ(已然形)

  *つまり、「タク」は、元来は漢音だが、国訓の「たし」の活用にも、用いられた。

『周廻紀行』11月学習分注記(P27~P31)

(27-1)「公命(こうめい・くめい)」:公の命令。君命。

(27-1)「まかりて(罷りて)」:「罷る」は、朝廷などの意向を受けて地方または他所へ行くこと。ここでは、幕命を受けて蝦夷地のソウヤのような遠隔の地に行ったことをいう。

(27-1)「ライ」:【ray】。アイヌ語で死。死ぬ。逝く。

(27-4)「鎧(よろい)」:身体をおおい、守るために、鉄・革などで作って着用する武具。胴鎧のこと。また、「打掛(うちかけ)鎧」は、「かけ・よろい」とも。肩に打ち掛けて着る鎧の意で、古墳時代から行われた鎧で、鉄片や革を組み糸や革紐で綴り合せたもの。平安時代になると全く儀式用となったとある。

(27-4)「蓑(みの)」:影印の竹冠の「簑」は、草冠の「蓑」の俗字とされている。(『くずし字用例辞典』外)

(27-5)「打掛鎧(うちかけよろい)」:(うちかけのように肩にかけて着る鎧の意)

鉄や革の小片を横に綴じつらね、縦に威(おど)して胴の前後を覆う鎧。中古以後は武官の威儀の鎧となり、布帛で作り甲板を彩色した

(27-5)「製(そせい)」:粗雑なもの。影印の「麁」は、「麤」の俗字。

(27-5)「三絃(さんげん)」:三味線の別名。「げん」には、「絃(いと)」と「弦(つる)」があるが、「弦」は、「絃」の書き換え字とされている。北大本も「絃」につくる。

(27-7)「カ」:【ka】。(編む)糸。ここでは、「絃楽器」のこと。

(27-7)「鼓(く・こ)す」:(「く」は「鼓」の呉音)楽器を打ち、または弾いて鳴らす。特に、琴を演奏する。ひく。

(27-8)「平調(ひょうじょう)」:《雅楽用語》十二律の一つで、西洋音階のホの音にほぼ相当する。また、その音を基音とする旋律。

(27-8)「謡曲」:詞章を謡うこと。

(27-8)「弾曲(だんきょく)」:曲(メロディー)のみを奏でること。

(28-1)「カモイ」:「カムイ【kamuy】」か。神。熊。

(28-1)「フンベイ」:「フンベ【hummpe】」か。鯨。

(28-1)「ライゲ」:「ライケ【rayke】」か。殺す。

(28-1)「ハウヱ」:【haw/hawe】。声。音。言葉。

(28-2)「ベーツ」:「ペツ【pet】」か。川。

(28-2)「ハッカ」:「ワッカ【wakka】」か。水。

(28-2)「モム」:「モム【mom】。流れる。

(28-3)「山丹(さんたん)」:江戸時代、樺太へ交易を目的に渡来する黒竜江下流域の住民をサンタン(山丹・山旦・山靼)人とよんでいた。文化六年(一八〇九)の間宮林蔵の探検によって、黒竜江の河口ちかくに居住するギリヤークGilyakが、その上流に接して住むオルチャOlchaをジャンタとよび、サンタンはこれから転訛したアイヌ語であることが知られた。

(28-3)「メノコ」:【menoko】。女。

(28-3)「ヘカチ」:【hekaci】。少年。子供。

(28-3)「チシ」:「チシ【cis】。泣く。

(28-3)「ヲッタ」:「オッタ【orta】」。~の時に。~のばしょで。

(28-3)「フンケ」:「プンキネ【punki-ne】」か。守る。守備する。見張り。

(28-4)「クマノシヽ」:「クマ【kuma】」は、掛け竿。「ノシヽ」は不詳。

(28-4)「トラノ」:「ト゜ラノ」。一緒に。(連れ立ち)

(28-4)「シノ」:「シノツ【sinot】」。遊ぶ。遊び。

(28-5)「ムニ」:「ムン【mun】」か。草。雑草。

(28-5)「ヲシケタキ」:「ヲシケ【o-sike】」は、荷を背負う。「タキ」は不詳。

(28-5)「キヽリ」:【kikir】。虫。

(28-6)「パシクロ」:「パシクル【pasikur】」。烏(からす)。

(28-6)「イベ」:「イペ【ipe】」。食べる。

(28-6)「アンベ」:「アンペ【anpe】」。本当のこと。真実。

(28-6)「カバチリ」:「カパ(ツ)リ【kapacir】」。鷲。鷹。

(28-6)「ウコイキ」:【u:koyki】。喧嘩する。

(28-7)「レタ・チリ」:【retar-cir】。白い鳥。白鳥。

(28-8)「モシリ」:「モシリ【mosir】」。静かな大地。国土。島。

(28-8)「カリ」:【kari】。徘徊する。廻る。

(28-8)「アフカシ」【apkas】。歩く。

(28-9)「イタンキ」【itanki】。椀。茶碗。

(28-9)「イト°」:不詳。

(29-1)「アヨツペ」:「ハヨクぺ【hayok-pe】」か。よろい。武具。

(30-1)「苧(ちょ・お)」:からむし。イラクサ科の多年草。麻の一種。茎の皮の繊維で布を織り、縄の原料とする。

(30-1)「ヨリ糸」:「撚り糸」。撚りをかけた糸のこと。

(30-1)「カ」:【ka/ka(ha)】。萱野『アイヌ語辞典』では、「編む糸」の意。武四郎の『蝦夷漫画』には、図の絃楽器(「トンコリ【tonkori】」)を、「五絃琴(カー)、またトンクルとも云。長三尺より五尺位まで有、糸は蕁麻の皮を用ゆ。是カラフト、ソウヤ辺の土人多く用ゆ」とある。

(30-左上部)「カシヤバ」:不詳。

(30-左上部)「カアシカイ」:不詳。

(30-左上部)「カムツル」:不詳。

(31-1)「山瀬といふ風」:「山背風」。山を越えて吹いてくる風。オホーツク海高気圧がもたらす冷湿な風で、長く吹くと冷害の原因となる。『松前蝦夷記(松前蝦

夷地覚書)』には、「山背風」として、「夏四五月に、東(卯)の方角から吹く風」としている。

(31-1)「夜(よ)べ」:影印の「夜」は「よ」、「遍」は「へ」。「よんべ」とも。漢字表記では「昨夜」で、「きのうの晩」、「ゆうべ」のこと。

(31-2)「重(かさ)ね」の「ね」:変体かな。字母は「年」。

(31-2)「霜月(しもつき)」:「11月」の異称。なお、

11月の異称には、「鴨月」、「霜降月」、「神帰月」、「仲冬」、「黄鐘」等々がある。

(31-4)「氷やれて」:「やれて」は、「ゆれて(揺れて)」か。北大本は、「ゆれて」につくる。「氷が揺れ動く」の意。北大本は「ゆれて」。

(31-5)「まゝ」:間間。そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。「ままある」

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月400円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代700円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2020年11月9日(月)、11月18日(水)13時~16時
   コロナ対策のため、同一内容を2グループに分けて学習します。

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3)

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵


事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 『周廻紀行』10月学習分注記(P22~P26)

(22-1)「大音(だいおん)」:大きな音。特に、大きな声。高い声。おおごえ。

(22-1)「発し」の「発」:影印は旧字体の「發」のくずし字。極端なくずし字は「癶(はつがしら)」を省略して「友」のようになる場合がある。

(22-4)「行。三里計」:以下の文章の繫がりは、「行。○(挿入記号)三里計にして、~、網引居たり。杖を立て(行換え)→暫、見居たれハ、~ 案内し、しはし(行換え)→ 休息しぬ。~ かそへかたし。尤、(行換え)→隔年なる ~ 二十本を一束とす。(行換え)→六月七月 ~ 物語れり。(行換え、4行目の○の次)十壱里計の所、~ テシホに着ぬ。」

(22-4)「マルマツ」:現遠別町字丸松。「マルマウツ」とも。アイヌ語に由来する地名。のちの「丸松」のもととなる。『山川取調図』には、「モウツ、一名マルマウツ」とある。

(22-4)「からふじて」:「からくして」のウ音便。実現の困難なことを実現した、そのしかたに余裕がほとんどないさまを表わす語。どうやらこうやら。やっとのことで。ようやく。からくも。

     *「ウ音便」:「く」「ぐ」「ひ」「び」「み」などが、「ウ」の音になる現象。「よく(良)」が「よう」に、「かぐはし」が「かうばし」に、「おとひと(弟)」が「おとうと」など。

(22-4)「申刻(さるのこく)」:午後4時頃。

(22-6)「挙(あげ)て」:一つ一つとりたてて。

(22-7)「猟年(りょうねん)」:猟の多い年。影印は「肉(にくづき)」の「臘」に見えるが、「猟」か。また、「猟」は、鳥獣の捕獲で、魚の捕獲は「氵(さんずい)」の「漁」。

(22-8)「盛臘」:「臘」は、本来は「漁」。盛漁は、一年のうちで、漁の特に盛んな時期。漁業が盛んになる時期。

(22-8)「壱束(いつそく・ひとたば)」:「束」は、束ねたものを数える単位呼称。

     因みに、『北海道志』によれば、

・鱒は、20尾で1束、600束で100石(但し石狩では、400束で100石)

・鮭は、20尾で1束、300束で100

・鱈は、干鱈2貫500目で1束、1600束で100石、塩鱈20尾で1束、300束で100石。

このほか、鯡、海鼠、鮑、鯣の束ねた単位呼称は、

・鯡の場合は、生鯡200尾を1丸、300丸を100石、身欠鯡100片を1把、24把を1本。胴鯡(外割二裂も同じ)20尾を1連、10連を1束。

但し、売買の習慣は、尾数を問わず、2貫目で1

・海鼠(煎海鼠)、鮑(干蚫)は、160目を1斤、1箇を12貫目。

・鯣(するめ)は、20枚で1把、75把を1箇、4000貫を100石。

(22-9)「卯刻(うのこく)」:午前6時頃。

(22-9)「未刻(ひつじのこく)」:午後3時頃。

(22-9)「ハツカイベツ」:現稚内市字抜海。「バツカヱ」とも。漢字表記地名「抜海」のもととなったアイヌ語の由来する地名。コタン名のほか、岬名、番屋元などとしてもみえる。

(22-10)」「糧米(りょうまい)」:食糧としての米。かてとする米。

(22-11)「四壁(しへき)」:部屋の四方のかべ。まわりのかべ。

(22-12)「陪従(ばいじゅう・ばいしょう・べいじゅう)」:天皇、貴人などの供として従う
     こと。また、その人。

(23-1)「トヽ」:椴松のこと。北海道以北に自生する松科の常緑高木。

(23-1)「もて」:「もちて(以て)」の変化したもの。(「もって」の促音の無表記から動詞「持つ」の本来の意味が薄れて、助詞のように用いられる。手段・方法・材料などを示す。…で(もって)。…によって。

(23-1)「造れり」の「り」:影印は、

(23-1)「かり小屋三軒有、是ハ~」:文章のつながりは、以下のとおり。「小屋三軒→(以下挿入文)<有、是ハ松前より(2行へ)沙汰せられたるよし聞へし。>(1行にもどり)されども、(2行行頭へ)未(いまだ)ソウヤ・・」

     *「かり小屋」の「かり」は「漁(猟)」。

(23-2)「聞(きこゆ)へし」:「聞ゆ」は、「理解される。意味が通じる。わけがわかる。」の意。「べし」は、確実な推測を表す助動詞で、「きっと‥だろう。・・にちがいない。」の意。「聞ゆべし」の語釈としては、「きっと、(松前からご命令があった)のにちがいない。」。

(23-2)「不来(きたらず)」:漢文調に返読する。

(23-3)「つくろい」:動詞「繕ふ」の連用形。手入れする。修繕する。

     *「つくろい」の「つ」:変体かな。字母は「徒」。現在では「徒」は「ト」と発音するが、漢字伝来時、「tu(ツ)」と聞いたか。万葉仮名にも「つ」がある。

(23-4)「くたひれ」の「ひ(び)」は変体かな。字母は「飛」。

(23-3)「炊屋(かしきや)」:炊事場。飯を煮炊きする所。

(23-4)「ふしぬ」:「伏しぬ。臥しぬ。」で、横になる。寝ること。

(23-5)「木の丸房」:「房(ぼう)」は、小部屋。僧の住む小べや。

(23-5)「旅寐(たびね)」:影印の「ね」は、「寐」で、「ねむりにつく。ねいる」の意。一方、「寝」は、「床につく」の意。なお、北大本は、「旅寝」につくる。

(23-5)「ぞ・する」:係結びの法則。通常の文は終止形で結ぶが、係助詞「ぞ」を用いると、文末は連体形で結ぶ。ここでは、「する」の終止形「す」でなく、連体形の「する」。

(23-6)「脊負(せおう)」:影印の「せ」は、「脊」で、「背」とは、別字とされている。

(23-6)「背負ヿ」の「ヿ」:「事」の異体字。「事」の略字説と「コ」と「ト」の合字説がある。

(23-6)「後ロ(うしろ)」:送り仮名にカタカナの「ロ」が使われることがある。

(23-7)「大なる岩」:抜海岩。抜海岩の下には海食洞があり,先史時代の遺跡があることがわかり、昭和38年に行われた発掘調査で、オホーツク土器、擦文式土器や続縄文式土器などが確認された。現在では、稚内市により「抜海岩陰遺跡」として指定されている。

(23-7)「名くる」:「名づくる」で、「づ」が脱か。

(23-7)「すその」の「す」:変体かな。字母は「春」。漢字伝来時、「syun(シュン)」を「スン」と聞いたか。

(23-8)「わすれ草」:ヤブカンゾウの別名。ユリ科の多年草。朱赤色のユリに似た八重の一日花を次々に開く。川岸や湿原に自生。心の憂さを忘れる草といわれ、下着の紐(ひも)につけたり、庭に植えたりした。「忘るる草」とも。

     *「忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜(しこ)の醜草なほ恋ひにけり」〈万葉・123062

訳<忘れ草を垣根いっぱいに植えたけれど、この草は何の効(き)き目もないつまらない草だ、やはり、恋しい気持ちは少しも変わらないことだ。>

*「わすれ草」の「わ」:変体かな。字母は「王」。「王」の歴史的仮名遣いの「ワウ」から、変体かなになった。

(23-9)「卯半刻(うのはんどき)」:午前7時頃。

(23-9)「未刻(ひつじのこく)」:午後2時頃。

(24-1)「勤番の士」:松前藩のソウヤ勤番所に派遣されて勤務している藩士ら。

(24-3)「ノツシヤブの崎」:現稚内市の北西端にある岬。「ノッシャプ」。漢字表記地名「野寒布」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、岬名などとしてもみえる。

(24-4)「ヒリカタイ」:現稚内市宗谷村の内。アイヌ語に由来する地名。『山川地理取調図』には、「ソウヤ」の近くに「ヒリカタイ」の名がみえる。

(24-4)「唐太」:現ロシア領サハリン。旧樺太。江戸期、東・西蝦夷地に対して、「北蝦夷地」と称された。

(24-4)「シラヌシ」:漢字表記名「白主」。能登呂半島の南端。西能登呂岬の北西二里。往昔、内地との交通は、専ら、此の小泊に依れり。(吉田東伍著『大日本地名辞書』)

(24-4)「小児」:「ソウニ」、漢字表記地名「宗仁」か。白主岬の北西五里にソウニ埼あり、北にソウニ湾を擁し、湾岸にソウニといふ小集落を有す。(『大日本地名辞書』)

(24-4)「ノトロ」:「西能登呂岬」をいう。元は、単に「ノトロ岬」と称し、露国人は、「クリリヲン岬」と称せり。近時、近藤岬ともいひ、西能登呂ともいふ。アニワ湾口の西角を成し、十州島宗谷岬と相対す。

(24-5)「天女の社」:「弁天社」のことか。『西蝦夷日誌』には、ソウヤに関し、「弁天社、今は是に伊勢大神宮を祭る。元和五年巳未三月と有」と記している。

(24-5)「西宮(にし)のみや)の船頭」:播州西宮の船頭徳五郎。最上徳内著『蝦夷草紙』に、「日本人カラフト嶋に漂流之事」として、「播州西宮の船頭徳五郎という者が、宝暦12(1762)621日、難風に遭遇、カラフト嶋タライカとヲツチシの間辺に漂着、912日、白主に至り、翌年424日ソウヤ地方に着岸、64日福山城下(松前)に到着したこと」が、「松前家旧記漂流船の吟味留書」に書かれていると記している。

(24-6)「荒(あら)まし」:「粗まし」とも。事件などのだいたいの次第。概略。「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう〔俚言集覧〕。

(24-6)「絵馬」:祈願または報謝のため寺社に奉納する絵入りの額や板絵。生きた馬を奉納するための代用として馬の絵が描かれたものが多い。上部が屋根形になっており、額絵馬・小絵馬などの種類がある。

(24-7)「書つゞりて」の「書」:くずし字は、脚部の「曰(ひらび)」が省略される場合がある。

     *「書」の部首:「曰(ひらび)」という。「日(ひ)」を部首とする漢字は、太陽や光、時間などに関係する意味を持っているが、「日」を含む漢字でありながら、実際にはお日様とは何の関係もない漢字がある。見た目には同じ「日」を含んでいる漢字の中にも、お日様に関係するグループと、そうでないグループとがある。そこで、前者の部首を「日(ひ)」と呼び、後者の部首を「曰(ひらび)」と呼んで区別する。「曰(ひらび)」に属する漢字は、そもそも寄せ集め軍団で、意味的に共通するものはない。だから、「ひらび」という名前も、単に「日(ひ)」と区別するために付けられたもので、「日(ひ)」の「平べったい」もの、というくらいの意味。(この項は、大修館書店のHP「漢字文化資料館」より引用)

      *「「曰(ひらび)」に属する主な漢字:「曰(いわく)」「曳」「曲」「更」「書」

      「曹」「曽」「曼」「最」「替」など。

(24-8)「三橋藤右衛門」:「三橋藤右衛門成方(みはし・とうえもん・なりみち)」。幕臣。家禄400石。勘定吟味役在任期間:寛政8(1796)~享和2(1802)。寛政10年(1798)、蝦夷地巡見を命ぜられ、西蝦夷地を担当し、宗谷に至り冬江戸に帰る。翌11年、改めて蝦夷地の用を命ぜられ、東蝦夷地を巡回す。浦河に至り、病気のため同地に止まり、事を処理し、秋江戸に帰る。更に、同123月、江戸を発し、箱館に至り事を執り、9月江戸に帰る。後、日光奉行、京都町奉行となる。(『北海道史人名字彙』)

(24-8)「去(さる)」:ここでは、「基準点から隔たっている」、「そこから離れた位置にある」ことの意。移動する意で、古くは近づく場合にも遠ざかる場合にもいう。普通は、「至」が使われる。

     *「去斉八百里」(「セイをさること、ハッピャクリ」)=穀梁伝

(24-9)「庵原某」:庵原(いばら)六(宣方)。「いおりばら」とするもあり(『江戸幕臣人名辞典』)。幕吏、普請役。蝦夷地探検家。天明5((1785)幕府の命を受け、西蝦夷地を調査し、北蝦夷地に渡り、宗谷に帰り、寒気を試みんがために越年し、病にかかり歿す。後、その功積を三橋藤右衛門が、江戸にかえり、幕府に具申したことにより、「庵原家」が再興。以後、庵原直一(松前奉行支配調役下役)、同菡斎(普請役)、同直一郎、同勇三郎(箱館奉行支配向定役)が家を承ぐ。(『北海道史人名字彙』)

(24-9)「身まかりける」:動詞「身罷る」の連用形+助動詞「ける」。死んでしまった。死去してしまった。身が現世から罷り去る。この世から去る。死ぬ。特に、中古では、自己側の者の「死ぬ」のをへりくだっていうのに用いる。

10月 町吟味役中日記注記

         

(79-1)「辰九月」:天保3(1832)9月。

(79-2)「可被相触候(あいふれ・らる・べく・そうろう)」:

*「触(ふれ)」:広く告げる。告げ知らせる。吹聴する。

(79-3)「江戸表より申来」:寄進依頼状は、最初は、幕府の大目付へ提出された。大目付は、それを受け、諸国へ通達した。その寄進依頼状が、松前藩に届いたことをいう。

(79-3)「より」:「よ」と「り」の合字。

(79-4)「向々(むきむき)」:諸方面。

(79-4)「不洩(もらざる・もれざる)」:「洩(も)る」の活用は、四段が「ら・り・る。・る・れ・れ」、下二段が「れ・れる・る・るる・れよ」とふたつある。下二段は平安中期以降用いられるようになった。組成は下2段「洩る」の未然形「もれ」+打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」。

   *「もれ」と「もれざる」の二通りあるが、「(ざら・ざり・)ざる」はおもに漢文訓読で用いられた。

(79-5)「辰九月」の「月」:縦長に極端にくずしている。

(79-6)「御達」の「達」:シンニョウが脚部に横線のみに省略されている。旁が大きい。

(80-2)「腫病(はれやまい)」:からだがむくんでくる病気。水腫(すいしゅ)。

(80-2)「候て」の「て」:字母の1~2画目の横線が小さく書かれる場合がある。

(80-3)「石塚求吾(いしづかきゅうご)、坂本東漁(坂本東漁)」:松前藩士。

(80-5)「夜五つ時」:午後八時頃。影印の「日」+「寸」は「時」の俗字。

(80-5)平出:5行目の行末「江戸表より」で、改行している。藩主だった「松吟院」を尊敬する古文書の体裁で、「平出」という。

(80-6) 「松吟院(しょうぎんいん)」:松前藩8代藩主・松前道広の戒名。道広は天保3(1832)620日江戸で死去。享年79。墓所は松前・法憧寺。
(80-7)
「鈴木熊五郎」:松前藩御側衆。

(80-7)「高橋市之進」:松前藩小書院御側。

(80-7.8)「附添(つきぞえ・つきぞい)」:いろいろな世話をするため、主人・保護すべき人などに付き添うこと。

(80-9)「御門」の「門」:くずしは、ひらがなの「つ」のように省略される場合がある。

(80-981-1)「塀重門(へいじゅうもん)」:鏡柱、冠木、控柱、扉のうち、鏡柱と扉のみのもの。ほとんど省略した非常に簡単な門。御殿の前庭への入り口などに設けられていまた。旗指物(はたさしもの)を背中に差した騎馬武者が冠木に当たらないように通るための簡易的な門。

   *「塀」の旁の「屛」には、「へい」「おおい」の意味がある。これに土偏を加えた国字。

(81-12)「松前監物(まつまえけんもつ)」:松前藩家老。

   *「監物(けんもつ)」:由来は、令制で、中務(なかつかさ)省に属して、大蔵、内蔵などの出納(すいとう)を監察、管理した官人。

(81-2)「桜庭丈左衛門」:松前藩勘定奉行。

(81-2)「青山壮司」:松前藩目付。

(81-3)「藤林重治」:松前藩勘定吟味役。

(81-5)「被仰出(おおせいだされ)」の「出」:くずしでは、横線が1本の場合がある。
◎歴史的仮名遣いは「おせ」(ohose
◎現代仮名遣いでは、「は行」は「わ行」に読み、「ho」は「o」になる。ふりがなは、「おせ」(oose
◎連続する母音(oo)は、長音化する。
読みは「オーセ

(81-6)欠字:「候間」と「殿様」のあいだに一字空けているが、「殿様」を尊敬する古文書の体裁で欠字という。

(81-6)「殿様」:松前章広。安永4年(1775年)、8代藩主・松前道広の長男として誕生。寛政4年(1792年)1028日、父・道広の隠居により、家督を継ぐ。同年1111日、11代将軍・徳川家斉にお目見え、従五位下若狭守に叙任する。テキストのとき、天保3(1832)9月は、在国。

(81-7)「被為遊(あそばせられ)候」:補助動詞として用いられる。多く動作性の語に付いて、その動作をする人に対する尊敬の意を表わす。助動詞「る」「ます」を下につけて敬意を強める場合もある。組成は4段動詞「遊(あそ)ぶ」の未然形「遊(あそ)ば」+尊敬の助動詞「す」の未然形「せ」+尊敬の助動詞「らる)」の連用形「られ)」+動詞「候(そうろう)」。

   *なお、「遊」のくずし字は決まり字。

822)「昨今(さっこん)」:きのうきょう。きょうこのごろ。ちかごろ。現在に近い過去から現在までを含めて漠然という。

822)「川原町(かわらまち)」:近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

823)「不居」:「居」は「存」か。「不存(ぞんぜず)」。

(82-5)「抜(ぬ)ヶ」:「抜く」は、ある場所から逃げ去る。のがれ出る。ぬけだす。

826)「抜打(ぬきうち)」:刀を抜くと同時に切りつけること。また、突然相手に襲いかかること。

826)「引外(ひきはず)し」:身をひいて避ける。そらす。

   *「ひき」:動詞の上に付けて勢いよくする意を添え、または、語調を強める。「ひき失う」「ひき移す」「ひき劣る」「ひきかえる」など。さらに強めて、「ひっ」「ひん」と音変化した用法も多い。「ひっつかむ」「ひんまげる」など。

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月400円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代700円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2020年10月12日(月)、10月20日(火)13時~16時
   コロナ対策のため、同一内容を2グループに分けて学習します。

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3)

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵


事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp   

9月 町吟味役中日記注記

(75-3)「九ツ時」:夜12時頃。

(75-4)「分金(ぶんきん・わけがね)」:グループの働きで得た利益や遺産などを分けること。

(75-5)「届書(とどけがき)」:江戸時代、六か月経過後なお解決しない公事訴訟・諸願事および詮議事を、上級役所に届け出る書付。解決しない理由や係り裁判官の名などが記された。

      *こもんじょでは、「届書」は、「とどけしょ」と湯桶(ゆとう)読みしないで、「とどけがき」と訓読みを通例とする。

       **「湯桶(ゆとう)読み」:「ゆ」は「湯」を訓読みしたもの、「とう」は「桶」を音読みしたものであるところから、上の字を訓で、下の字を音で読むこと。「手本」を「てほん」、「身分」を「みぶん」、「野宿」を「のじゅく」、「下絵」を「したえ」、「夕刊」を「ゆうかん」と読む類。

      *「届書」の「書」:脚部の「曰」(ひらび)が省略されることがある。

(75-6)「進達(しんたつ):下級の行政機関から上級の行政機関に対し、一定の事項を通知し、または一定の書類を届けること。

      *「進」は、「近」と似ているので、文意を勘案すること。

(75-6)「揚屋(あがりや)」:江戸時代の牢屋の一つ。江戸では、小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。各藩もこれに倣って置いた。

      *「揚屋(あがりや)入り」は、揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

      *「揚屋」を「あげや」と読めば、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店のこと。

(75-7)「申付旨(もうしつく・べき・むね)」:組成は「申付(もうしつく)」の終止形+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+「旨」。

      *「可(べき)」のくずしは「一」「の」のように見える。

      *「申付候」だと、「もうしつく・べく・そうろう」

(75-7)「被 仰出(おおせ・いだされ)」:命令を発せられ。お言いつけになられ。

      *「被」と「仰出」の間のスペースは、尊敬の体裁の欠字。

(76-5)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(76-5)「印形(いんぎょう)」:墨や印肉を付けて、文書などに押すこと。古く中国では、天子の用いるものを「璽(じ)」、臣のものを「印」として区別した。

(76-7)「八木源三郎」:町奉行配下の町方勤。

(76-8・9)「溝江弥太郎」:町奉行配下の町方。

(77-1)「大目付(おおめつけ)」:江戸幕府の職名。寛永九年(一六三二)設置。老中支配に属し、幕政の監察にあたるとともに、諸大名の行動を監視した。旗本から選ばれ、定員は四名か五名で、うち一名は道中奉行を兼ねた。はじめ総目付と呼ばれ、大横目、総横目の称もある。大目付役。

(77-2)「下総国(しもうさのくに)」:北は常陸・下野、西は武蔵、南は上総、東は海(太平洋)。武蔵国境と上総国境が常総じようそう台地を形成するが、ほかは関東平野の一部。おおむね西部・北部は現茨城県西南部、南部は現千葉県北部にあたる。初め「ふさ(総)の国」、大化改新により上総と下総の2国に分かれた。「ふさ」とは麻のことであり、ふさの国はよい麻を産する所の意味。

      *「下総」の現代の振り仮名は「しもうさ」、読みは「シモーサ」。

(77-3)「意冨日皇大神宮(おふひの・こうたいじんぐう)」:現千葉県船橋市にある意富比神社(通称船橋大神宮)。社伝によれば、景行天皇40年、皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国御平定の折、当地にて平定成就と旱天に苦しんでいた住民のために天照皇大御神を祀り祈願した処、御神徳の顕現があり、これが当宮の創始という。平安時代、延長5年(927)に編纂が完成した『延喜式』にも当宮が記載されている。後冷泉天皇時代、天喜年間(105358)には、源頼義・義家親子が当宮を修造し、近衛天皇時代、仁平年間(115154)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とある。鎌倉時代、日蓮聖人(122282)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、曼荼羅本尊と剣を奉納、

      江戸開府の頃、徳川家康(15461616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石の土地が幕府から寄進され幕末に至る。往時の諸社殿の景観は、江戸時代末期の「江戸名所図会」に窺えるが明治維新の戦火のため焼失、その後、明治6年(1873)に本殿が造営されたのを初めとして、大正12年(1923)、昭和38年(1963)、同50年(1975)、60年(1985)に本殿・拝殿・末社・鳥居・玉垣・参道に至るまで随時造営がなされ、県文化財指定の灯明台の修復なども経て、今日に至っている。

      *「意冨日(おふひ)」:「意冨比」とも。「意」は万葉仮名で「お」、「富」は「ふ」。歴史的仮名遣いは「おふひ」で、現代仮名遣いでは「おうひ」、読みは「オーヒ」。

(77-4)「大宮司(だいぐうじ)」:明治以前、伊勢・宇佐・熱田・鹿島・香取・阿蘇・香椎・宗像(むなかた)などの神宮・神社の長官。

(77-5)「冨上総(とみ・かずさ)」:『江戸名所図会』によれば「当社大宮司富氏(とみうじ)の始祖は、景行天皇第四の皇子五百城入彦尊(いおりき・いりひこのみこと)なり」とあり、代々大宮司は富氏が務めた。

(77-8)「右  御宮」:「右」と「御宮」の間に3字分空白があるが、下に「御」がある場合、尊敬の体裁の欠字とする場合がある。

(77-9)「修覆(しゅうふく)」:普通は「修復」と「復」だが、「修覆」とも書く。文意では「修復」は「ふたたびなおす」、「修覆」は、「壊れたものをなおす」。

(77-9)「助成(じょじょう)」:仏教語。「じょう」は「成(せい)」の呉音。完成を助けること。力を添えて成功させること。物質的援助を意味することも多い。

      *「「大般若(だいはんにゃ)書写の大願有。汝助成(じょじょう)結縁すべし」(『十訓抄』)

(78-1)「府内(ふない)」:江戸時代、江戸町奉行支配に属した区域内。品川大木戸・四谷大木戸・板橋・千住・本所・深川以内の地。御府内(ごふない)。

      *「府」は、重要な書類や財宝をしまっておくくらの意味、転じてみやこ、政府の意味。

(78-1)「勧化(かんげ)」:僧侶などが、寺の堂塔や仏像の建立などのため金品を信者に勧めて出させること。転じて、寺院に対する、一般の寄付を求めることもいう。勧進(かんじん)。

(78-1・2)「勧化御免」:「勧化」で、改行している。尊敬の体裁の平出という。

(78-2・3)「勧化状(かんげじょう)」:江戸時代、寺院再建などに必要な金銭を集める行為を認めた寺社奉行の書状。

(78-3)「当辰(たつ)九月」:天保3年九月。

(78-4)「来ル未八月」:天保6年8月。

(78-4・5)「御料(ごりょう)」:江戸幕府の直轄地。全国約三〇〇〇万石のうち大体四、五〇〇万石ほどを占め、普通幕府の代官・郡代などに支配させたが、大名などに預けられることもあった。

(78-5)「私領(しりょう)」:御料所に対して、大小名の領地。

(78-5)「寺社領(じしゃりょう)」:神社、仏寺の領有、支配する土地。

(78-5)「在町(ざいまち)」:郷村と町の総称。

(78-6)「信仰(しんこう)」の「信」:旁の「言」の4画目の横線が長くなっており、「倍」のように見える。

(78-6)「輩(ともがら)」:同じような人々。ある一定の種類に属する人々を、その集団として表現する語。なかま。同類。

      *平安時代の和文資料にはほとんど用いられず、訓点資料に多用される漢文訓読語で、この語に対する和文脈語は「ひとびと」(人々)である。

      *冠部の「非」と脚部の「車」が縦長になっており、二字に見える。

(78-7)「奇進」:寄進。神社や寺院に、金銭や物品を寄付すること。奉納。奉加(ほうが)。「奇」は、「寄」が普通。

(78-6)「多少」の「多」:くずし字でよく出てくる決まり字。

(78-5・6、7)」「可(べく)」と「可(べき)」:推定の助動詞「べし」の活用は、「べく(未然)・べく(連用)・べし(終止)・べき(連体)・べけれ(已然)。

     *巡行候間(巡行致すべく候間):動詞「候」に接続するので、連用形の「べく」。

     *奇進旨(奇進致すべき旨):抽象名詞「旨」に接続するので、連体形の「べき」。

(78-7)「よらず」の「ず」:変体かな。字母は「須」。現行ひらがなの「す」の字母は「寸」。

(78-7)「御料」:直前の「旨」のあと、2字ほど空けている。尊敬の体裁欠字。

 『周廻紀行』(9月)学習分注記(P19~P23)

(19-1)「午(うま)の刻(こく)」:午前11時から午後1時まで。

     *「正午(しょうご)」:昼の12時。十二支の午(うま)の刻の中央点。なお、夜の12時は、正子(しょうし)。「正(しょう)、午(うま)の刻」と、重箱読みする場合もある。(落語『ちきり伊勢屋』)

     **「牽牛花(あさがお)は早晨(ソウシン=早朝)を司り、鼓子花(ひるがほ)は正午を報ず」(『東京新繁昌記』)

(19-1)「行に」の「に」:変体かな。字母は「耳」。現行ひらがなの「に」の字母は「仁」。

(19-2)「テウケイ」:現留萌市礼受付近。『山川取調図』の「レウケ」。

(19-3)「ルヽモツペ」:現留萌市。漢字表記地名「留萌」のもとになったアイヌ語に由来する地名。留萌川の河口部にあたる。なお、「ルルモッペ場所」は、元文4年(1739)当時は「トママイ場所」に含まれていたが、安永8年(1779)に「ルルモッペ場所」として独立した。

     なお、「同村場所附」には、(場所請負人)として、「栖原屋茂兵衛」の名が記されているが、当時の栖原屋の支配人(代々支配人が、栖原の姓を名乗って、店務を管理)は、「彦兵衛」である。北大本は、単に、「栖原屋」とのみ記載している。

(19-3)「松前直領(まつまえじきりょう)」:松前藩の支配下の地。「直領」は、主君が直接に支配している領地。

     幕府は、寛政11年(1799812日、シリウチ川以東を追上知を認めたが、西蝦夷地は、依然松前藩が支配していた。テキストの書かれた享和元年(1800)は、西蝦夷地はまだ、松前藩が支配していた。その後、文化4年(1807322日、松前・西蝦夷地一円を召上げ、蝦夷地全域が幕僚となった。

(19-3・4)「増毛(ましけ)」:「増毛(ましけ)」:マシケ場所の中心地は当時マシケとよばれたハママシケ(現石狩市浜益)であり、マシケは当時ホロトマリと称されていた。1780年代にハママシケ場所とマシケ場所に分割された。

(19-5)「卯(う)の刻」:午前5時~7時ころ。

(19-6)「いさゝか」:形容動詞。「聊か」。下に打消のことばを伴って)少しも。ちっとも。いささかも。

(19-6)「さへきる」:「遮る」。視界をじゃまする。さまたげる。

(19-7)「トイラツキ」:現小平町内。「トヱラツケ」とも。アイヌ語に由来する地名。『西蝦夷地名考』では、「トヱラッケ トヱとは土の事。ラッケとは上より下りし事をいふ也。土の如くの岩出崎有。故に名とす。」とある。『山川取調図』に「ホントヱラツケ」とある。

(21-1)「旅のつかれ」の「つ」:変体かなの「つ」。字母は「徒」。現行ひらがな「つ」の字母は「川」。「徒」の読みに「つ」はない。漢字渡来時、「徒」の中国音「tu」を「つ」と聞いた。万葉仮名「つ」。

(19-8)「絶(たえ)す」:絶えてしまうようになる。きれるようになる。絶える。尽きる。

(19-9)「止事(やむこと)を得(え)す」:「不止事」。「やむ・を・え・ず」とも。とどまることができない。仕方がないことの意。

     *普通、「已」を「やむをえず」と、訓読する。「やむ(已む)を得ず」は、漢文訓読を固定化させ、漢字を善くも悪しくも血肉化させた日本語ならではの表現法なのであった。(三省堂HP笹原 宏之著「ことばのコラム」より)

(19-9)「見合(みあわせ)」:「見合わせる」の連用形。時期や時を見はからうこと。よい機会・時節の到来を待つ。時機を見はからう。よい折を待つ。

(20-1)「駆(かけ)ぬけて」:影印の「駈」は、「駆」の異体字。『角川漢和中辞典』には、俗字とある。

(20-1)「はせて」:「馳せて」。車や馬などを早く走らせること。帆船などの場合、「舟+走」、「舟+風」あるいは「風+走」を当てる事例も見受けられる。

(20-1)「ソウヤ」:現稚内市宗谷。漢字表記地名「宗谷」のもととなったアイヌ語地名に由来する地名。コタン名のほか、場所名、岬名などとしても見え、また、広域通称名でもあった。狭義のソウヤ一帯は、近代に入って宗谷村に含まれた。表記は「ソウヤ」、「ソオヤ」、「そうや」、「ソヲヤ」、「曹谷」、「曾谷」など。「ソウヤ場所」は、西蝦夷地北端、ソウヤを中心とする場所名で、「モンベツ場所(持場)」も含み、広大な海岸線を有した。場所の開設は、1680年代(貞享年中)といわれている。寛政4年(1792)、ソウヤに御救交易会所が設けられ、ソウヤ場所は、飛騨屋久兵衛から、松前藩主の直支配となり、村山伝兵衛が差配人に命じられた。その後、文化4年(1807)幕府領となり、藤野喜兵衛(柏屋)、西川准兵衛、坪田佐兵衛の共同請負となったが、文化12年(1815)からは、藤野家の単独経営となった。

(20-2)「召舟」:貴人が乗る船。「御座船(ござふね)」とも。

(20-2)「スワイ船」:図合船。江戸時代から明治期にかけて、北海道と奥羽地方北部でつくられた百石積以下の海船の地方的呼称。小廻しの廻船や漁船として使われた。船型は水押付の弁才船系統であるが、百石積以上の廻船を弁才船として区別するため特に呼ばれるもの。

*三航蝦夷日誌〔1850〕初航蝦夷日誌・凡例「図合船 七十五石より九十五石迄之船を云也。此船近場所通ひに多く用ゆ」

(20-3)「そふて」:「そふ」は下に接続助詞「て」がある場合、連用形の「そひて」になるのが普通。

(20-3)「こき・つらね・たり」:「漕ぎ・連ね・たり」

(20-3~4)「或は・・或は::現在では、「あるいは・・・あるいは」だが、古文では「あるは…、あるは…」の形で、同類の事柄を列挙し、それぞれの場合があることを示す。あるものは。ある場合は。一方では。

(20-4)「オニシカ」:現小平町鬼鹿。「ヲニシカ」とも。漢字表記地名「鬼鹿」のもととなったアイヌ語地名に由来する地名。コタン名のほか、河川、岬の名称としてもみえる。『山川取調図』に「ホンヲニシカ、ホロヲニシカ」の名がみえる。

(20-4)「昼餉(ひるげ)」:昼食。ひるめし。「餉(け)」は食事の意。「あさげ(朝餉)」「ゆふげ(夕餉)」の「げ」は「け」が連濁(れんだく)になったもの。

(20-4)「とりしたゝめ」:「とりしたたむ」の連用形。食事をする。「とり」は接頭語。

      基本的には、しっかりと手抜かりなく処理する、の意で、いろいろな仕事について用いる。現代語では、主に手紙を書きしるすに用いる。

(20-5)「風なぎぬれば」:風が止んだので。「なぐ」は、「和ぐ」「凪ぐ」を当てる。風がやみ海面が静かになる。風波がおさまる。波が穏やかになる。

     *「凪」は国字。「几(かぜかんむり)」の国字に「凧」「凩(こがらし)」、「颪(おろし)」がある。

(20-5)「申(さる)の刻」:午後3時~午後5時頃。

(20-5)「トマヽヱ」:現苫前町。「トママイ」、トママヘ」とも。漢字表記地名「苫前」のもととなったアイヌ語地名に由来する地名。コタン名のほか、場所名、岬の名称としてもみえる。「トママイ場所」は、現苫前郡域をその範囲として設定され、北はテシホ場所、南はルルモッペ場所、東はイシカリ場所に接する。

     なお、『同村場所附』には、請負人(伊達屋)林右衛門、また、地頭として、松前熊五郎(御寄合席)の名が記されている。また、此所より北西の海中に、二島、テヲリ(天売)、ヤンケシリ(焼尻)があるとしている。

(20-7)「卯半刻(うのはんどき):午前6時頃。

(20-7)「ハボロ(ベツ)」:「川」に「ベツ」と振り仮名がある。「ベツ」は、アイヌ語で「川〔ペ〕【pet】」の意。ハボロ川(羽幌川)は、羽幌町域を流れ、日本海に注ぐ二級河川。流路延長57.3㎞。

     「ハホロ川」については、『同村場所附』に、「此辺砂金アルヨシ三国通覧ニ見たれとも見当たらす」とある。なお、『三国通覧』とするのは、正確には、『三国通覧図説』か。天明5年(1785)、林子平によって書かれた江戸時代の地理書・経世書で、日本に隣接する三国(朝鮮、琉球、蝦夷とその付近の島々)についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚である。

(20-7)「ツクビツ」:現羽幌町築別。「チクベツ」。「ツクヘツ」、「ツクベツ」、「チユクベツ」などとも。漢字表記地名「築別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

     『山川取調図』に「チユクベツ」とある。

(20-7)「シヨシヤンベツ」:現初山別村。「シユサンベツ」、「シュシャンベツ」、シユシヤンベツ」とも。漢字表記地名「初山別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「ホロシユサンベ、モシユサンベツ」の名がみえる。

(20-9)「本陣」:陣中で大将のいる所。江戸時代、宿駅で諸大名などが宿所とした公認の旅館。

(20-9)「あやしけなる」:「あやし・げ・なる」。〔形容詞シク活用〕 《感動詞「あや」+語尾「し」》異常で理解しがたい、不思議だ、が基本的な意。高貴な人の目から見ると、貧しい庶民の生活は、理解しがたい不思議なものに見えるので、「粗末で見苦しい。みすぼらしい。」の意が出てくる。

(20-9)「莚(むしろ)かこひ」:わらなどを編んで作ったもので囲うこと。また、囲ったもの。

(21-1)「しつらひ」:「しつらふ」は「設ふ」。設備する。語源説に「シツクロフ(為繕)の義」がある。

(21-1)「此ほど」:(再度に及ぶ物事について)このたび。今度。今回。

(21-1)「此ほど」の「ほ」:変体かな。字母は「本」。現行ひらがなの「ほ」の字母は「保」。

(21-2)「食しぬ」:本来は、完了の助動詞「ぬ」の連体形「ぬる」。

     *「食す」の読みの「おす」「じきす」がある。

(21-2)「にや」:《断定の助動詞「なり」の連用形+係助詞「や」》下の「あらむ」を省略した形で、…であろうか。…であったろうか。

(21-4)「仕度をぞし侍る」:「ぞ」は、係助詞で、一つの事物(仕度)を強く指示する意を表す。「ぞ・・侍る」は、係結びの法則。普通は、「侍り」と終止形で終わるが、「ぞ」があると、動詞は連体形で結ぶ。

北大本は、「仕度をけし侍る」で、「仕度をげじ(下知)侍る」につくる。

(21-5)「また」:影印には濁点がないが、ここは、「まだ」。

(21-5)「ほの暗き」:形容詞「仄暗い」の連体形。ものの輪郭がぼんやりと見える程度の暗さ。うすぐらい。「ほの」は接頭語。 ほのかに、かすかに、わずかに、などの意を添える。「ほの聞く」「ほの暗し」「ほの見る」など。

(21-6)「やつがれ」:「やつこ(奴)あれ(吾)」の変化したものという。

①自分をへりくだっていう。上代、中古では、男女を通じて、へりくだる場面で用いられた。近世以降になると、もっぱらある程度の身分ある男性の、やや改まった場での文語的な用法という感じで使われ、近世後期には気どったり茶化したりする用法にもなった。これは明治初期まで引き継がれ、その後は、書生ことばなどで、ややおどけた口調の際などに用いられている。

②下働きの男。下男。下僕。しもべ。

ここでは、①。

(21-7)「或(ある)は」:8行目の「あるは」と連動する。

(21-8)「あるは」:或いは。ラ変動詞「あり(有)」の連体形に係助詞「は」の付いたものから。(「あるは…、あるは…」の形で)同類の事柄を列挙し、それぞれの場合があることを示す。あるものは。ある場合は。一方では。

(21-8)「やうやう」:歴史的仮名遣い。発音は「ヨーヨー」。現代仮名遣いでは「ようよう」。

(21-8)「ウエベツ」:現遠別町。「ウヱンベツ」。漢字表記地名「遠別」のもととなったアイヌ語に由来する地名。『山川取調図』に「ウエンベツ」の名がみえる。

(21-9)「大(おおい)なる川」: 北海道北部を北北西方に流れ、留萌地方天塩町で日本海に注ぐ一級河川。近世にはテシオ川・テシヲ川・テシホ川などと記されたが、明治初年には天塩川の表記が通用した(「闢幽日記」など)。流路延長二五六・三キロ(うち指定区間二四四・四キロ)は道内では石狩川に次ぎ第二位、国内では四位。北見山地の天塩岳(一五五七・六メートル)などに発し、上流より上川支庁朝日あさひ町域でポンテシオ川・ペンケヌカナンプ川、士別市域で金川・剣淵川、名寄市域で名寄川・風連別川・智恵文川、美深町域でペンケニウプ川・オテレコッペ川、音威子府村域でパンケサックル川・音威子府川、中川町域で安平志内川、留萌管内幌延町域で問寒別川・サロベツ川、天塩町域で雄信内川などを合流、天塩・幌延両町境を大きく蛇行し、天塩町市街の西側を河口部とする。大部分は上川地方北部を流れるが、剣淵川・名寄川を合せる流域は名寄盆地を形成し、河口付近で合流するサロベツ川一帯はサロベツ原野が広がる。

(21-9)「やう」:様。「やう」歴史的仮名遣い。発音は「ヨー」。現代仮名遣いは「よう」。  

     ある事を実行するための方法。やり方。てだて。手段。

古文書学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2020年9月14日(月)、9月29日(火)13時~16時
   同一内容を2グループに分けて学習します。

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵


事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp   

8月 町吟味役中日記注記

                    

(69~2-2)「某(それがし)」:自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。

  *他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

  *「某某(なにがしくれがし・それがしかれがし・なにがしかがし・ぼうぼう)」:だれそれ。なにがしそれがし。

某某と数へしは頭中将の随身、その小舎人童(こどねりわらは)をなむ、しるしに言ひ侍りし」〈源・夕顔〉

(69~2-3)「殿様(とのさま)」:松前藩10代藩主・章広(あきひろ)。

  *「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。

(69~2-3)「御参府(ごさんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。章広は、この年、1012日松前出帆、118日江戸着、15日将軍家斉に拝謁している。

  *松前氏の参勤交代の様相(『松前町史』より):

  ①.初期は、参勤の間隔が長く、かつ、かなり不規則だった。

    *寛政12(1635)、参勤交代を制度化(武家諸法度)

イ. 寛永13年(1636)~慶安元年(1648)までは、31

ロ. 慶安2(1649)~延宝6(1678)までは、61

ハ. 以後、元禄4(1691)まで、31

ニ. 元禄12年以降、61観。

  ②.梁川移封期の文化4年(1807)~文政4(1821)は、江戸参府は隔年参府であった。

  ③.文政4(1821)12月の復領に伴い5年目毎参府となった。

  ④.天保2(1831)1万石格の実現により、隔年参府。

  *「参府」の「府」:原意は、重要な書類、財物をしまっておく「くら」の意。転じて役所の意味に使われた。日本では、国司の役所が置かれていた所を表し、江戸時代、幕府のあった江戸をさしていう。「在府」「出府」など。

(69~2-3・4)「提重(さげじゅう)」:提重箱。提げて携帯するようにつくられた、酒器、食器などを組み入れにした重箱。小筒(ささえ)。

(69~2-7)「昨」:日偏が省略され、「﹅」になる場合がある。

(69~2-7)「夜」:決まり字。

(69~2-7)「夜五つ時」:午後8時。

(69~2-8)「他出(たしゅつ)」:よそへ出かけること。外出。他行(たぎょう)。

(69~2-8)「宿元(やどもと)」:泊まっている家。宿泊所。

(70-3)「面体(めんてい)」:かおかたち。おもざし。面貌。面相。

(70-5・6)「うづくまり」:「蹲(うずくま)る」の連用形。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

   <仮名づかいは、平安時代の諸資料から見ても「うずくまる」が正しいが、中世後期から「うづくまる」が目立ちはじめ近世には一般化、「和字正濫鈔‐五」も後者を採る。

  類義語「つくばう(蹲)」あるいは「うつむく(俯)」「うつぶす(俯)」などの影響が考えられよう。近世には「うづくまふ」の形が散見され、「つくばう」にも「つくまふ」「つくばる」の異形がある。>とある。

(70-8)「箪笥(たんす)」:ひきだしや開き戸があって、衣類・書物・茶器などを整理して入れておく木製の箱状の家具。

  *<(1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(70-8)「正金(しょうきん)」:強制通用力を有する貨幣。金銀貨幣。補助貨幣である紙幣に対していう。

  *影印の「正」は、つぶれている。

(71-1)「溝江弥太郎」:松前藩町奉行配下の町方。

(71-5)「」:「のみ」。漢文の助辞で、「のみ」は、漢文訓読の用法。ほかに、「すでに」「やむ」「はなはだ」の訓がある。

  *また、「以」と類似の用法で、「上」「下」「前」「後」「来」「往」などの語の前に置かれ、時や場所、方角、数量「已上」「已下」「已然」「已後」「已来」「已往」などの熟語をつくる。

  *影印の「已」は、「己」に見えるが、筆運び。

  

(71-9)「儀倉門治」:松前藩町奉行配下の町方仮勤。

(71―9)「小野伴五郎」:松前藩町奉行配下の町方仮勤。

 

(71-9)「東西在々」:東在(松前より東の村)と、西在(同西の村)。

(72-1)「家内(かない)」:妻。自分の妻を謙遜していう場合が多い。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

  現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(72-3)「壱夜宿」:売春すること。

(72-3)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:①)江戸時代の刑罰の一つ。手錠をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。

  ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手錠をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

(72-8)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では、「処」が本字で、「處」は別体であるが、後世、「処」は「處」の俗字とみなされた。その俗字の「処」が、常用漢字になった。

(73-3)「申口(もうしぐち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(73-8)「旅籠屋(はたごや)」:宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。食糧持参で宿泊費だけを払う「木賃(きちん)泊まり」の宿屋に対して、食事付きの宿屋をいう。

  *語源は「旅籠(はたご)」(旅行の際、馬の飼料を入れて持ち運ぶ竹かご。また、食糧・日用品などを入れて持ち歩くかご)から。

2020年8月開催古文書解読学習会のご案内

2020年8月開催古文書解読学習会ご案内
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2020810日、8月18日:(同一内容です):いずれも13時~16時(同一内容です)

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

① 『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。(北海道大学附属図書館蔵)

② 『蝦夷地周廻巡行』・・享和元年蝦夷地取締御用掛松平忠明の蝦夷地巡見に随行して箱館より白老、湧払、石狩、宗谷、斜里、浦川を経て箱館に帰着するまでの道中日記。(早稲田大学図書館蔵)

 代表:深畑勝広

事務局:森勇二 電話090-8371-8473 

メール:moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

6月例会中止

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、月8日(月)予定の札幌歴史懇話会6月例会を中止します。
なお、7月は、6日(月)=1~3班、
13日(月)=4~6班の
分散開催とします。テキストは『周廻紀行』P12~18です。『吟味役中日記』は8月に学習します。

『周廻紀行』次回学習分注記

              

(12-1)「そなた」:「其方」。そちらの方。そちら側の所。反対語:此方(こなた)。

(12-1)「たつき」:「手(た)付き」が語源と思われ、本来、物事にとりかかる手がかり。「手」を「た」と読むのは、国訓。動詞上につき、手に関する動作であることを強調する。「手(た)折る」「手(た)向く」など。なお、「手綱(たづな)」「下手(へた)」など名詞でも「た」と読む熟語がある。「下手(へた)」は熟字訓。

(12-2)「石狩」:現石狩市。「イシカリ」。コタン名・河川名・山岳名のほか、場所名や運上屋の所在地として記録されている。広義の「イシカリ場所」は、石狩川およびその支流に設置された場所(持場)の総称としても用いられ、イシカリ16場所(後イシカリ13場所)ともいわれた。一方、狭義の「イシカリ場所」は、場所請負人の運上屋・元小屋などのある石狩川の河口部をいう。幕府の直轄地以前の「イシカリ場所」は、夏商い(夏場所)は藩主と家臣、鮭の秋交易は藩主の権利で、商人へ請負に出されていた。また、宝暦2(1752)頃から明和5(1768)頃までは、飛騨屋が、イシカリ山の伐採を行っていた。その後、文化4(1807)、西蝦夷地が幕府の直轄地になると、弘前藩が警備に当たり、藩士189名がイシカリ詰となった。場所の経営は、入札方式が取り入れられ、文化11年(1814)に阿部屋伝兵衛が、5つの持場を請負い、文化12年(1815)以降は13場所の請負い、文政元年(1818)からは秋味も一括して請け負うようになった。当初運上金は夏商いが22百両、秋味が2250両であった。

(12-2)「ズリイ船」:「図合(ズアイ)船」のことか。江戸時代から明治期にかけて、北海道と奥羽地方北部でつくられた百石積以下の海船の地方的呼称。小廻しの廻船や漁船として使われた。船型は水押付の弁才船系統であるが、百石積以上の廻船を弁才船として区別するため特に呼ばれるもの。

比較的大きな漁船で、短距離の沿岸旅行などには、多くこの船が使用されていた。寸法は、 長7間、巾7尺、深2尺5寸(武藤勘蔵『蝦夷日記』)。また、公暇齋蔵『蝦夷嶋巡行記』では、「イベツトウの内江入り、~略~、此処沼浅き故、図合船通らず。夷船に乗替」とあり、水深の浅い沼などでの使用ができないことが記されている。

*三航蝦夷日誌〔1850〕初航蝦夷日誌・凡例「図合船 七十五石より九十五石迄之船を云也。此船近場所通ひに多く用ゆ」

(12-3)「端午の節(たんごのせち)」:五節句の一つ、五月五日の端午の節句。重五。端午の節句は、「菖蒲(しょうぶ)湯」に入り邪気を払う習慣がある。

     *本来は、「端」は初めの意、「午」は「五」と同音で、月の上旬の五日の日をいう。

     *「節」:「セツ」は漢音、「セチ」は呉音。

(12-3)「旅のならひ」:「ならひ」は「習い」。「旅をしているときの常、ならわし。」

(12-4)「思ひきや・・」:意訳「思ってもみなかった。蝦夷地の旅で、五月の夜中に、あやめも見ずに、舟の中で寝るとは」。

(12-4)「思ひきや」:思ったろうか、いや、思わなかった。組成は、動詞「おもふ」の連用形「思ひ」+過去の助動詞「き」の終止形+係助詞「や」。

(12-4)「蝦夷(えみし)」:上代、東部日本に住む中央政府に服さなかった部族。「人」の意のアイヌ語emchiu enchu に由来する語で、アイヌをさすとする説と、特定の異種族ではなく中央政府に服さなかった東部日本の住民をさすとする説がある。

     *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』に「蝦夷(えみし)」の語源説として、

     <(1)人のことを言うアイヌ語の古語エンヂュ、エンチウから出た語〔アイヌの研究=金田一京助〕。エムチュと自分自身を呼んでいた種族を、その時代の日本人はエミシ・エミスと書き、それに蝦夷という字をあてた〔日本語の起源=大野晉〕。

(2)鬚の多いところからエビ(蝦)にたとえたものか〔万葉代匠記・東雅・古事記伝・雅言考・和訓栞〕。

(3)エは赤い意を表わす語。ミシはムシに通じて、ムグメクムシ(蠢虫)にたとえたもの〔松屋筆記〕。

(4)いとわしくて見たくない意のエミジ(得不見)の義〔烹雑の記・大言海〕。

(5)アイヌ人は最も弓術に勝れていたところから、ユミシ(弓手)からの呼称か〔東方言語史叢考=新村出〕。(6)アイヌ語で刀剣をいうエムシまたはエモシから、帯刀者また武人の意に転じ、更に夷人をさすようになったもの〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。>を挙げている。

(12-4)「五月やみ」:五月闇(さつきやみ)。梅雨のころ、雨が降り続いて夜の暗いこと。(夏の季語)

(12-4)「うきね」:「浮(き)寝=船の中で寝ること。」と「憂(き)寝=不安な思いで寝ること。」の掛詞。

(12-5)「五日」:「月」の左側の「ヒ」は、見せ消ち記号。右に「日」と訂正している。

(12-5)「林木(りんぼく)」:林の樹木。

     *「春燕帰巣於林木」[春燕(しゅんえん)帰りて林木に巣くう]

       (春になって帰って来た燕が、国は破れ家屋は壊されていて、巣くう場所がなく、林に巣をかける。)(『十八史略』)

(12-7)「松前の運上屋」:本書時の「イシカリ場所」は、西蝦夷地に属し、松前藩の支配地であり、「運上屋」は、請負場所の経営の拠点であった。幕府の直轄地になったのは、文化4年(1807)。しかし、イシカリ場所など西蝦夷地に置かれていた「運上屋」の名称は、幕府の直轄地になった後も、そのまま「運上屋」の名称が残された。なお、東蝦夷地に置かれていた「運上屋」は、「会所」に改称されていた。

(12-7)「松前あき人共」:「商人(あきんど)」。松前に本店を置く商人たちをさすか。

     *「商人」と「あきんど」と読むのは、「あき・びと」の音変化。なお「商」を「あき」と読むのは、「アキ(秋)の義。稲の熟する秋に交易することから起こった語」など諸説ある。

(12-8)「所々(しょしょ)」:あちこち。ここかしこ。方々。

(12-8)「輻湊(ふくそう)して賑ひ」:混み合って、賑やかであること。

     *「輻輳」:「輻」は車の輻(や)、「輳(こしき)」はあつまる意)。車の輻(や)が轂(こしき)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

          *「輻(や)」:「や」は国訓。車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。

     *「輳(こしき)」:「こしき」も国訓。車輪の軸を受けるまるい部分。

(12-9)「近郷(きんごう)」:近くの村ざと。「近」も「郷」もくずし字の決まり字。「近」のくずし字はひらがなの「を」に似ている。また、「郷」はカタカナの「ツ」に似ている。

     *「郷」:「キョウ」は漢音、「コウ」は呉音。「ゴウ」は慣用音(日本で慣用的に用いられている音)。

(12-9)「近郷に」の「に」:変体かな。字源は「耳」。なお、「耳」を「ニ」と読むのは呉音。「耳」は、万葉かなに「に」の読み方がある。

(12-9)「水深く」の「水」:くずし字の決まり字。

(13-1)「千石船」:米千石の重量の荷物を積める荷船の総称。江戸時代の大型荷船が弁財船で占められ、千石積を基準としたため、いつか、積石に関係なく、弁財船の別名になった。大型船の中にはニ千石積に及んだ船もあった。因みに、『休明光記』に記載の幕府や箱館奉行所の御用船の中には、正徳丸1200石積、神風丸1400石積、飛龍丸1400石積、翔鳳丸1500石積など、千石を超える船の名がみえる。

(13-1)「入つべし」:たしかに入るだろう。組成は4段動詞「入る」の連用形+完了の助動詞「つ」の終止形+推量の助動詞「べし」。「つ」は「べし」で表す判断に確信をもっていることを表す、強調の用法。

(13-1)「風待(かぜまち・かざまち)」:船が順風を待つために停泊すること。「かざまち」と読むのは、音韻上で転音という。「風車(かざぐるま)」「風穴(かざあな)」「風上(かざかみ)」の類。ほかに「船便(ふなびん)」「船底(ふなぞこ)」「船足(ふなあし)」、「雨傘(あまがさ)」「雨宿り(あまやどり)」「雨乞(あまごい)」「酒蔵(さかぐら)」「酒屋(さかや)」なども連音。

(13-3)「されこと哥」:「戯(ざ)れ言歌」。影印の「哥」は、「歌」の略体として用いることが多い。字義は、ふざけて作ったこっけいな和歌。

(13-3)「口すさひぬ」:「口遊(すさ)ぶ」の連用形+動作・作用の完了の助動詞「ぬ」。「口遊(すさ)ぶ」は、詩歌などを浮かんだままをうたうこと。

(13-4)「まつ風」:「松風」と「待つ風」の掛詞。

(13-6)「夏(なつ)の宿」の「夏」:影印は決まり字。「度」に似ている。旧暦では四月から六月までをいう。天文学的には夏至から秋分の前日まで、二十四節気では立夏から立秋の前日までをいう。「なつ」は和語で『日本書記』、『万葉集』にも出てくる。語源説に「ねつ(熱)」「あつ(暑)などがある。

     *「夏」の解字:お面(めん)を付けて舞う人を描いた象形文字。舞冠を被り、儀容を整えて舞う人の形。金文の字形は舞冠を著け、両袖を舞わし、足を高く前に挙げる形に作り、廟前の舞容を示す。古く九夏・三夏とよばれる舞楽があり、古代中国の書『周礼(しゅらい)』にみえる。(『漢字源』)

     *「夏」の部首:「夂饒(スイニョウ)」に属する。俗に「なつのあし」とも。「夂」が「夏」の脚部にあるのでいう。

     *<参考1>「冬」の部首:「冬」の旧字体は脚部が「(にすい)」で、「冫」部だった。「冫」は、篆文(てんぶん)では、「〓」で氷の結晶をかたどり、「氷」の原字。

       「冫」部には、「冴える」の「冴」、「冷」、「凍」など「こおる」「さむい」などの意味を含む文字でできている。その「冬」は、昭和2111月の当用漢字表では「冬」に字体整理され、部首は「冫」部から、「夂饒(スイニョウ)」になり、語源の意味がなくなった。。幸い、「夂饒(スイニョウ)」の俗称に「ふゆがしら」とする辞書があり、救われる。なお、常用漢字になっていない「苳(ふき)」「疼(うず)く」などは、「冫」のままだし、「寒」「終」の旧字体も「冫」。

      *<参考2>「立夏」と「夏至」:「立夏」の「夏」は「カ」で漢音、「夏至」の「夏」は「ゲ」

       と呉音で読む。「夏(ゲ)」は仏教語で、夏の三か月。陰暦四月十六日から三か月、または五月十六日から三か月の期間。僧尼はこの「夏(げ)」の間、安居(あんご=仏教の出家修行者たちが夏期に1か所に滞在し、外出を禁じて集団の修行生活を送ること)を行い他出しない。修行者は遊行(ゆぎょう=旅行)をやめて精舎(しょうじゃ=僧が仏道を修行する所、寺院)にこもって修行に専念した。芭蕉の『おくの細道』の句に「しばらくは滝に籠るや夏(げ)の初め」がある。

(13-7)「あつた」:現石狩市熱田区。「アツタ」とも。漢字表記地名「厚田」。「アツタ場所」は、近世の場所(持場)名。宝永3(1706)、マシケ(ハママシケ)場所とともに設置されたという。北は「ハママシケ場所」、南は「イシカリ場所」と接する。

(13-8)「化(け・か)して」:「化す」の連用形。変化する。姿や形が変わって、別のものになること。ここでは、貝の化石をいうか。

(13-8)「つと」:「苞・苞苴」。ここでは、みやげにするその土地の産物。土産物の意。

(13-9)「此辺、山のすそ」:増毛山地の南端。北部から北東に濃昼山(621m)、円錐峰(690.2)、幌内山(648.8)、別狩岳(726.1)の山々が連なる。

(14-2)「囲(い・かこい)」:接尾語。両手を伸ばして抱える位の大木さ、太さを計るのに用いる単位。木の太さを計るのに用いられる。影印は旧字体の「圍」。

(14-4)「タカシマ」:現小樽市高島。漢字表記地名「高島」。運上屋名のほか、場所や岬・浜・澗の名称としてみえる。「タカシマ場所」は、当初「シクズシ場所」とされていたが、1780年代頃までに「タカシマ」に運上屋が移され、「タカシマ場所」と称することが多くなった。はじめ「シクズシ」を切り開いた夷人が交易をしていたが、不便なので、「タカシマ」に移し、場所名は「シクズシ」のままであったという。場所の範囲は、「オショロ境ヨリ、ヲタルナイ境マデノ里数弐里七丁」。文化4年(1807)当時、蠣崎東吾の知行地、請負人は住吉屋助市。

(14-4)「卯半刻(うのはんどき)」:午前6頃。「卯」は奈良・平安時代の定時法では、現在の時刻法のほぼ午前五時から七時まで。鎌倉時代以降の不定時法によれば、春は四時ごろから六時ごろまで、夏は三時すぎから五時ごろまで、秋は四時ごろから六時ごろまで、冬は五時ごろから七時ごろまで。

(14-4)「午刻(うまのこく)」:今の昼の12時ごろ、およびその後の2時間。または昼の12時前後の2時間。

(14-4)「てふ」:[連語]《「と言ふ」の変化した形》…という。

四段に活用するが、「てふ(終止形・連体形:発音はチョウ)」「てへ(已然形・命令形:発音はテエ)」だけが用いられる。

*「恋すてふ(チョウ)我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひ初めしか」〈拾遺・恋1

 (私が恋をしているという評判が早くも立ってしまった。私は人知れずひそかにあの人を思い始めたのに。)

*「春過ぎて夏来(き)にけらし白妙(しろたへ)の衣(ころも)干すてふ(チョウ)天(あま)の香具山(かぐやま)」

(14-5)「後(うし)ロに」:古文書では「後ろ」の「ろ」をカタカナの「ロ」と書く場合がある。

(14-5)「場所」の「場」:影印は俗字の「塲」。

(14-6)「義経の馬石(まやいし)」:小樽塩谷にある桃岩か。青森県三厩に義経伝説の「厩石(まやいし)」があり、「厩」は「まや」と読む。本文でいう「馬」はこの「まや」か。

(14-8)「巌の双立せる所には弁財天を案じ」:「弁財天」は、高島漁港の弁天島か。

(14-8)「案(あん)し」:名詞「案」+ 動詞「す(為)」の連用形。「案(あん)」は、「安」が音を表し、「置く」の意の語源からきている(『角川漢和中辞典』)ことから、字義として「安置(あんぢ、あんち)」と同義で、「神仏の像などをすえて祭ること」。 

(14-8・9)「石門の通路」:オタモイ海岸の窓岩か。

(15-絵図)「鷹島(たかしま)」:現小樽市高島。

(15-絵図)「オタルナイ」:現小樽市銭函のうち。「ヲタルナイ」とも。漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか、場所や河川の名称としてもみえる。「ヲタルナイ場所」は、ヲコバチ川からヲタルナイ川にわたる一帯を中心に設定された場所。文化4年(1807)当時、松前藩士氏家只右衛門の知行地で、請負人岡田(恵美須屋)源兵衛、運上金300両であった。

(17-2)「干海鼠(ほしこ・ほしなまこ・いりこ)」:はらわたを取り去った海鼠(なまこ)を煮て干したもの。

(17-2)「串蛤(くしはまぐり)」:蛤の串さし。

(17-2)「一年」の「年」:決まり字。

(17-3)「寅半刻(とらのはんどき)」:午前4時頃。

(17-3)「船(ふな)もよひ」:船催(ふなもよ)い。出船の準備をすること。

(17-3)「ほら」:法螺。法螺貝の大きな貝殻に細工して吹き鳴らすようにしたもの。古く軍陣で進退の合図に用いた。影印の「ほ」は変体仮名。字源は「本」

(17-5)「勢(いきお)ひ猛(もう)」:勢いが強いこと。

(17-6)「未刻(ひつじのこく)」:午後2時頃。

(17-7)「申刻(さるのこく)」:午後4頃。

(17-7)「増毛(ましけ)」:マシケ場所の中心地は当時マシケとよばれたハママシケであり、マシケは当時ホロトマリと称されていた。一七八〇年代にハママシケ場所とマシケ場所に分割された。

(17-7)「ポロトマリ」:アイヌ語に由来する地名。現増毛。ホロトマリ、ボロトマリなどと呼ばれた。「大いなる澗と訳す」という。

(18-1)「地頭(じとう)」:江戸時代、地方(じかた)知行を持つ幕府の旗本や私藩の給人(きゅうにん)の通称。ここでは松前藩の知行主。

(18-1)「長臣(ちょうしん)」:組織の中の長となる家臣。重臣。

(18-1)「下国豊前(しもぐにぶぜん)」:松前藩家老下国季鄰(すえちか)」。

(18-1)「伊達林右衛門(だてりんえもん)」:マシケ、ハママシケの場所請負人。

(18-2)「けふ」:歴史的仮名遣い。読みはキョウ。

(18-4)「黄金山(こがねやま)」:現石狩市浜益にある山。標高739.5メートル。山容は富士山に似ており、浜益富士・黄金富士と呼ばれている。松浦武四郎は間歩近くの沙をみて「砂金如何ニも大粒」「マシケ川へ廻りて又々川底の砂を取るに、是また金気多し」などと記録している。

(18-5)「巖山(がんざん)」:けわしい山。

(18-7)「古昔(こせき)」:いにしえ。むかし。

(18-7)「如是(かくのごとく)」:[連語]《副詞「かく」+格助詞「の」+比況の助動詞「ごとし」》このようである。

     *「如斯」「如此」も漢文訓読では「かくのごとし」と読む。

(18-7)「別狩(べつかり)」:現増毛町別苅。「別狩崎」は「カムイエト岬」。

5月例会を中止します

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、月11日(月)予定の札幌歴史懇話会5月例会を中止します。


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