森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

『蝦夷錦』10月学習分注記

30-1)「切者」・・切れ物。「優れもの」の意か。すぐれたもの。最良の品。一級品。

としている。

30-3)「何事」・・「事」は、「古」+「又」で、『漢語林』は「事」の古字としている。

30-4)<漢文訓読の話>「無御座候」

   原文(漢文では白文という)・・「無御座候」

   訓読文1(原文+句読点+返り点)・・「無御座候。」

   訓読文2(原文+句読点+返り点・濁点・半濁点+送り仮名)・・

「無ク御座候ウ。」

   書き下し文・・「御座無く候う。」

*古文書では、漢文の白文のような文章が多い。

*例会の朗読では、④を行っている。

30-9)「珍物(ちんぶつ)」・・珍しい物。珍品。具体的には、山丹交易による軽物といわれる品物で、唐物(蝦夷錦、樺太玉)、クマの毛皮と胆のう、ラッコなどの毛皮、オットセイの睾丸、ワシの羽(真羽)など。

30-9)「替事(かえごと)」・・互いに取り換えること。交換。

31-1)「御法度(ごはっと)」・・近世において、法令によって禁じられている行為や、使用を禁止されている品物。また、一般に禁じられていることを指す。代表的なものに「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」、「諸士法度」などがある。

31-2)「御城書」・・「御掟書(おきてがき・ごじょうしょ)」、「御定書(おさだめがき・ごじょうしょ)」「御諚書(ごじょうしょ)」。公布法の一形式。命令書、仰せ書。

31-3)「さ候得ば」・・書簡などでの用語。話を本題に導入する場合などに、文頭に置いて用いる。さて。

31-4)「候候而も」・・「候」がふたつあるが、一つは衍字(えんじ)か。

     *衍字・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。脱字の逆。誤入の文は衍文。

     *「衍」・・解字は「行」+「水」。「行」はみちの象形。水が道にあふれひろがるの意味をあらわす。

31-4)「少分(しょうぶん)」・・少量。少数。わずかであること。

31-5)「一ケ月三ケ日(いっかげつ、さんがにち)」・・一ケ月のうち三日間の意か。

31-6)「日並(ひなみ)」・・毎日すること。毎日。日ごと。

32-2)「国替(くにがえ)」・・大名の領地を移しかえること。徳川幕府は、大名の統制策として行った。移封。転封とも。

32-4)「当四月帰国」・・文化年間当時、外様大名の多くは、隔年(一年交代)の参勤交代となっており、南部(盛岡)藩は、表(子、寅、辰、午、申、戌)の年の四月参府、翌年の三月入部(江戸から国許へ帰ること。帰国、御暇)を通例としていた。その後、文政期には、半年交代となり、九月参府、三月入部(御暇、帰国)になる。

32-5)「御暇(おいとま)」・・大名や幕臣の場合は、将軍の前を去ること。辞去すること。帰ること。

32-6)「上使(じょうし)」・・江戸幕府および藩などで主家から上意を伝えるために家臣などへ派遣される御使(使者)をいい、その名称は室町幕府に起源をもつという。江戸幕府では、老中・奏者番・使番・小性あるいは高家・側衆などが、時に応じてその役目を勤めた。『柳営秘鑑』によって一例を示すと、老中は三家・国持大名の参府・帰国あるいは三家の病気のとき、奏者番は准国持大名の参府・帰国あるいは国持大名の病気のとき、使番は松平出雲守(富山藩主)・同大和守(白河藩主)・同左兵衛督(明石藩主)の三家の参国・帰国あるいは松平肥後守(会津藩主)・同讃岐守(高松藩主)・同下総守(桑名藩主)・同但馬守(高須藩主)・同左京大夫(西条藩主)の五家の参府のとき、また小性は老中の病気のとき、それぞれ上使に立つ定めであったという。

32-7)「是非々々(ぜひぜひ)」・・「是非」の次の記号は、繰り返し記号。是非(必ず、きっと)の意味を強調している。

32-7)「裁許(さいきょ)」・・役所などで下から上申された事項を審査して許可すること。

32-9)「代り合(かわりあい)」・・順番に代わること。交替すること。

32-933-1)「当四月出府」・・津軽(弘前)藩の参勤交代のパターンは、南部(盛岡)藩と入れ替わる形で、裏(丑、卯、巳、未、酉、亥)の年の四月参府、翌年三月入部(御暇、帰国)となっていた。その後、文政期には、南部藩と同様、半年交代で、裏の年九月参府、翌年三月入部となっていた。

33-2)「拝領物(はいりょうもの)」・・たまわり物。いただき物。

33-4)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。はじめは使役とよばれた。戦時中は伝令、指示、戦功の監察、敵方への使者などを任務とし、武功・器量ともにすぐれた者がえらばれた。島原の乱後は軍事的職務は必要なくなり、全国統治上の視察・監察を主要な役職とした。二条・大坂・駿府・甲府城など幕府直轄の要地の目付、両番とともに藩領地の視察、幼少の大名の後見を行う国目付、将軍の代替りごとの諸国の巡察、城郭の受取・引渡しの際の監理などに任ぜられ、また目付役とともに火事場の視察・報告・指揮、大名火消・定火消役の監察・考課などにあたった。若年寄支配。役料五百俵、役高は千石高。慶応三年(一八六七)には役金五百両を与えられ、千石以上はその半額が給せられた。定員は元和三年(一六一七)、二十八名と定められたが、文化年間(一八〇四―一八)以降に五、六十名程度、慶応年間に百十余人の人員がみられる。

33-4)「村上大学」・・ロシアの蝦夷地襲撃事件当時、使番で、文化4(1807)64日、使番小菅猪右衛門、目付遠山金四郎景晋(かげみち)とともに、蝦夷地出張を命じられた。

33-4)「安藤治右衛門(あんどうじうえもん)」・・幕臣(旗本)。家禄2450石。御使番には、文化4卯年(1807)正月11日、西丸御書院番水野石見守組より就任、文化6巳年1111日死去。(『柳営補任』)。なお、蝦夷地出張を命じられた使番は、小菅猪右衛門で、安藤ではない。

33-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府の職名。定員は、初め十数名~二十名程に及んだが、享保十七年(一七三二)に十名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保八年(一七二三)に役高千石とされた。

33-5)「遠山金四郎(とおやまきんしろう)」・・遠山景晋(かげみち)。幕臣。通称、金四郎。文化四年(一八〇七)六月四日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。目付。その後、長崎奉行、)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、町奉行の「遠山の金さん」。

33-7)「望人(のぞみひと)」・・あることを希望する人。ある職業や地位につくことを希望する人。  

33-8)「高達(こうたつ)」・・「公達(こうたつ)」か。「公達」は、政府や官庁が言い渡すこと。また、そのもの。おおやけからの通達。

9月 町吟味役中日記注記  

                             

(90-2)「唐津内町(からつないまち)」:現松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(90-3)「加留堂(かるた)」:カルタ。加留多・賀留多・歌留多・骨牌などの文字を宛て、近世南蛮人の来航に伴って伝来し流行をみるようになったカルタの名はポルトガル語のcartaによったもの。カルテ、カードと同源。博奕の弊害があって、はやくも慶長二年(一五九七)の『長宗我部元親百箇条』に「博奕カルタ諸勝負令 停止 」とみえる。カルタ札は四十八枚一組で、イス(剣)・コップ(盃)・オウル(貨幣)・ハウ(棒)の四種の紋標のそれぞれが一から九までの数の札と妃・騎士・王の絵の札と合わせて十二枚によって構成されている。伝来後まもなくそれをまねてわが国で版行するようになった。

 天明7年(1787)、老中松平定信の「寛政の改革」が始まると、 カルタの流行に終止符が打たれる。 この改革の中で、教育系のかるた(歌カルタ・いろはカルタ等)以外の賭博用かるたが全面禁止された。

 そんな状況の中19世紀初頭、それら全面禁止された賭博カルタに代わって、幕府の弾圧を避けるために巧みに転換し生み出されたのが、「花かるた(後の花札)」である。賭博かるたに付きものであった数標を表に出さず、それを花鳥風月と12ヶ月に託したが、やがて花札も賭博の対象となった。

 明治元年(1868)、新政府は幕府に続いて、賭博用カルタ(花札も含む)販売を禁止した。

文明開化により西洋文化の流入。この時期「西洋かるた(トランプ)」が輸入され人気に。 西洋では、トランプは賭博に使用した場合は罰せられるが、遊戯用としてなら問題ない。

明治新政府はこれに倣い、花札も売買まで禁じることは不自然との考えから、 明治18(1885)末で「花札」の禁令を解除し、発売が公に許されることになる。この解禁を機に、「花札」は庶民の間に急速に広まり、爆発的な流行を見せ始める。

明治22年(1889)には、他の禁止されていたカルタの禁令も解除、販売が再開された。

*<変体仮名>「堂」:「堂(どう)」の歴史的仮名遣いの「だう」から。

(90-3)「八間田綱右衛門(やつまだあみえもん)」:『松前藩士名前控』の「古組御足軽中」に「八間田綱右衛門」の名がある。また、嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。テキスト4ページ2行目に「八ツ間縄右衛門」とある。

(90-5)「上在(かみざい)」:松前城下から西の集落。広域名称として松前城下から東海岸を「下ノ国」「下在」と称したのに対し、西海岸を「上ノ国」「上在」と称していた。

(90-6)「町代(ちょうだい・まちだい)」:町内のことをとりしきる者。特に江戸時代、個別の町(ちょう)の名主や年寄などを補佐した。松前城下では、町年寄―町下代―町小使―名主―町代―組合頭―五人組という系列であった。

 (90-6)「五人組」:江戸時代における最末端の治安・行政単位。地域ごとに五戸前後を組み合わせ、年貢納入・治安維持の連帯責任単位とした。

 江戸幕府の五人組の起源は、慶長二年(一五九七)三月の豊臣秀吉の「御掟」とするのが有力である。この「御掟」は、辻斬り・すり・盗賊・悪逆人などの相互検察を目的として、侍は五人組、下人は十人組を組織させたものである。これは武士を対象としたもので、農民や町人にかかわるものではなかったが、やがて、五人組や十人組による相互検察・連帯責任制が農民・町人の間に及ぼされていった。

 この五人組制度が全国的規模で幕領・譜代大名領などで実施されたのは寛永10年(1633)代である。

 兵農分離による武士階級の城下町集住化に伴う近世農村の治安対策に、年貢納入・耕作労働の連帯責任制の確立、また小農民の土地緊縛などを実現するところに、五人組制度を強力に推進した幕府のねらいがあったとする。五人組の編成方法は、町では家持(地主)と家主(家持の代理人)とをもって構成し、村では本百姓または高持百姓をその構成員とした。組合せ方は、家並に最寄り次第五人ずつ組み合わせるのが普通であったが、また百姓の持高の大小を考えて平均するように組んだところもあり、また仲のよい者や親類ばかりを組み合わせてはならないと限定したところもある。人数は五人あるいは、六人・七人にしたところもあり、十数名を一組にしたのも稀にはある。組の中から重立った者を五人組頭とした。それは組員で選んだこともあり、庄屋などが選定したこともある。この五人組頭は、五人頭・判頭(はんがしら)・組親・組持・つりがしらなどともいっている。松前藩では「組合頭」という。五人組としての責務は、組中に徒(いたずら)者・悪者があれば申告すること、キリシタン関係の者は隠しておかないこと、欠落人のないように注意すること、もしあれば組中にて尋ね出すこと、組中に病人などがあって耕作のできかねる時はお互いに助け合って、年貢そのほかを不納することのないように努めること、もし未進者があれば組中で弁済することなどであって、相互検察・連帯責任制を明確にしている。

(90-8)<くずし字>「六月初旬」の「月」:連綿体のように極端にくずれている。

 *<漢字の話>「旬」:ぐるりとめぐる。十日を旬とする。解字は、「勹(つつむ)」+「日」。「徧(あまね)くするなり。十日を旬と爲す。勹日に從ふ」(『説文解字』)

(91-2)「内吟味役(うちぎんみやく)」:目付配下の役職。松前藩では、目付―内吟味役―徒士目付―足軽目付の系列であった。

(91-2)三村周太(みむらしゅうた)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「三村周太」の名がある。

(91-3)「祐筆」:武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成 にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。松前藩では、奥用人の配下に、側頭―御近習頭―御納戸番―祐筆の系列がある。

(91-3)「新井田五郎左衛門(にいだごろうざえもん)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「新井田五郎左衛門」の名がある。

(91-3) 「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」を音読みにした語。 「断(ことわり)」は、理由。わけ。よってきたるゆえん。

(91-4)「工藤小伝治(くどうこでんじ)」:『松前藩士名前控』の「御目附」に「工藤小伝次」の名がある。

(91-5)「御勘定吟味役」:勘定奉行の補佐役。

(91-5)「藤林重治(ふじばやししげじ)」:『松前藩士名前控』の「御勘定吟味役」に「藤林重次」の名がある。

(91-6)「御前(ごぜん)」:近世、大名、旗本などをその家臣が敬って呼ぶ語。また、明治以後、高位高官の人を敬って呼ぶ語。

(91-7)「工藤茂五郎」:松前藩士。天保5(1834)には町奉行吟 味役に就任した。安政2(1855)、幕府の蝦夷地再直轄に際し、幕吏へ事務引継を行った。町奉行吟味役時、「工藤長栄」の名で、吟味役日記である「工藤長栄日記」を著わしている。

 (91-9)「御厩頭取(みまやとうどり)」:御用人配下の職。厩(うまや)のことを担当する責任者。「御厩(みまや)」は、「みうまや」の変化した形。「み」は接頭語。「うまや(馬屋・厩)」の敬称。

(91-9)今泉新八(いまいずみしんぱち)」:『松前藩士名前控』 の「中之間御中小姓」に「今泉新八」の名がある。

*<くずし字>「今泉新八」の「今」:楷書は4画だが、かなの「て」のように一気に書く場合がある。

(92-1)「山下達次郎(やましたたつじろう)」:『松前藩士名前控』 の「士席御先手組」に「山下辰次郎」の名がある。

(92-2)「石塚官蔵(いしづかかんぞう)」:『松前藩士名前控』 の「士席御先手組」に「石塚官蔵」の名がある。

(92-4)「東蝦夷地一番手牧田七郎右衛門」:天保2(1831)2月、イギリス船「レディロウエナ」号が厚岸のウライネコタン沖に来航、日本側と戦闘になった。松前藩は、1番手・2番手人数を派遣した。牧田は、1番手の隊長。

(92-4)「牧田七郎右衛門(まきたしちろうえもん)」:牧田はウライネコタン事件のとき、1番手の隊長。アッケシからの帰路、このとし6月、絵鞆に滞在していた時、噴火湾でまたまた異国船に遭遇、戦闘があった。天保4(1833)915日、松前藩の箱館奉行になった。

(92-5)「侍中(さむらいじゅう)」:侍ども。侍のものども。侍の連中。侍衆。

(92-6)「出役(しゅつやく)」:江戸時代、本役のほかに、臨時に他の職務を兼ねること。また、その役人。

(93-7)「薄暑(はくしょ・うすしょ)」:夏の初めの、やや暑さを覚える時分。

(93-8)「御堅固(ごけんご)」:無事息災であること。健康であること。また、そのさま。達者。書簡のあいさつ文に使用される。

(93-8)「珍重(ちんちょう)」:書簡などに用いて、相手に自重自愛をすすめる語。

(93-9)「然者(しかれば)」:先行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。

(94-3)「繁用(はんよう)」:用事の多いこと。多忙なこと。

(94-4)「段々(だんだん)」:事柄の一つ一つ。

(94-4)<くずし字>「奉存候」:連綿体様になっている。「存」のくずしが極端。

(94-5)「御状(ごじょう)」:他人を敬って、その書状をいう語。お手紙。御書。

(94-6)「手掛(てがかり)」:手をつけるいとぐち。調べたりするためのいとぐちとなるもの。

(94-7)「可得貴意(きいをうべき)」:多く、手紙の慣用語。お聞きしたい。「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(94-7)「被仰越(おおせこされ)」:「仰越」は、言っておよこしになること。

(94-8)<くずし字>「青」「森」:「青」は、冠が「木」、脚が「て」のようになる。「森」の脚は、「成」のように書く場合がある。

(94-8)「駅(えき)」:令制で、官道に設置された宿場。官人のために駅家(えきか)が人馬を継ぎ立て、宿舎、食料を供した。鎌倉以降衰え、代わって宿(しゅく)が発生した。

 明治のはじめには、「ステーション(ステンショ)」「停車場(ていしゃば・ていしゃじょう)」が旧来の駅と区別して使われたが、しだいに音節数の少ない「駅」が一般的になる。「ステーション」は、早くに用いられなくなる。

(95-1)「難渋之者」:経済的に困窮している者。貧困な者。難渋人。ここの「難渋」は、暮らし向きが悪くて苦しむこと。また、貧困であること。

(95-2)「元質取主(もとしちとりぬし)」:「質取主」は、質権を有する人。質権者。「元質取主」は規模の大きい質屋。 

『蝦夷錦』9月学習分注記

             
25-1)「関谷茂八郎(せきやもはちろう)」・・箱館(後松前)奉行支配調役下役。ヱトロフ島シヤナ会所詰め。『休明光記』では、関谷茂八郎は、児玉嘉内と共に、「其方ども儀、ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来之節、会所を明退候段、未練之始末、不届之至に候。依之重追放申付之」として、重追放の処分を受けている。

         *関連資料(『北辺紀聞』北海道立文書館蔵より

25-1)「御府」・・「御雇」か。『藤岡屋日記第一巻』(近世庶民生活史料 三一書     房発行)所収の「五月十九日付けの鈴木甚内書状」には、「御雇医師久保田見達」

とある。

*<漢字の話>

 ①「府」の部首は「广」(まだれ=麻垂)。「府」は、国家が文書や財物を収納する建物。転じて官庁・屋敷。また、「庫」は兵車や武器を収納するものを指した。「倉」は、穀物を入れておく建物。「蔵」は仏語では経典をおさめる所。

 ②「雇」の部首は、「戸」でなく、「隹」(ふるとり。「𦾔」の字に用いられているのでいう。「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。『説文解字』に「九雇。農桑の候鳥なり。」とある。9種類の雇(ウズラ)は、農業や養蚕における時期を知らせる渡り鳥で、農民に農時を誤らせないものである。「隹(とり)」から構成され、「戸」が音。(『漢辞海』)

25-1.2)「久保田見達(くぼたけんだち)」・・本事件当時、箱館奉行支配のヱトロフ島(シヤナ会所)詰御雇医師。備前の人。初め後藤十郎と称し、備中松山藩士。性来武を好み、軍学を修めたが、藩を退去。後、幕府の医師となり、長崎に赴いた。文化四年の露寇に際し、御雇医師として実地を見分し、その詳細を箱館に注進。『北地日記』(『蝦夷筆記』、『見達筆記』とも)を著す。

25-2・3)<くずし字>「申越」・・「申」は「P」のように見える。「越」の旁の「戉」は「月」のようになる場合がある。

25-2)「早飛脚(はやびきゃく)」・・特別に急いで書状を運んだ飛脚。依頼のあり次第出立することも、昼夜兼行で運搬にあたることもあった。早便。

25-4)「如何計(いかばかり)」・・程度についての疑問の意を表す。 どれくらい。どれほど。どんなに。

    *<くずし字>「如何」の「如」・・ひらがなの「め」または、「女」のようになる。

    *<くずし字>「如何計」の「計(ばかり)」・・「計」と「斗」は似ているが文意が「ばかり」であれば、「計」とする。

     *「ばかり」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <語源については、名詞の「はかり(計)」から転じたものと考えられる。上代では副詞的な要素に下接した「かくばかり」「いかばかり」の形が過半を占め、語源である名詞「はかり」の意そのままに「おおよそ…ぐらい」の意を表わしており、多く疑問・推量・仮定などの不確実な意味の表現において用いられているが、中古には確定的な意の表現と共存する例が多くなる。

     次第に限定の「ばかり」が勢力を増し、「ばかり」より語史的には古い「のみ」を侵していく。しかし、中世では副助詞「ほど」に、近世では「ほど」「ぐらい」に程度の用法を侵され、また、近世以後「だけ」「きり」に限定の用法を侵されることになる。>とある。

25-4)「愁傷(しゅうしょう)」・・人に死なれて嘆き悲しむこと。気の毒なこと。

25-6)「御帰府(ごきふ)」・・江戸府内に帰ること。

     箱館奉行(後松前奉行)は二人体制で、一人は在府、一人は箱館在勤だった。再直轄後の箱館奉行三人体制では、それぞれ、在府、在勤、蝦夷地巡検と分担した。

(参考)箱館奉行(蝦夷地奉行、松前奉行)の任免と在府・箱館在勤について

享和2年から文化5年の動きを中心に一覧表を作成(「新北海道史年表」など参照)

ことがら

戸川安論

羽太正養

寛政12

(1799)

 

2.16小納戸頭取格・戸川藤十郎安論(やすのぶ)、蝦夷地巡見を命じられる。

3.-江戸出発、東蝦夷地クナシリに至り9月帰府。

12.-筑前守(従5位下)に叙任。

 

享和2

1802

2.23蝦夷地奉行新設

5.10箱館奉行と改称

12.14戸川、羽太、一年毎交代で箱館在勤を下命

2.23蝦夷地奉行に任命。禄百石を増賜され五百石となる。

目付・羽太庄左衛門正養(まさよし)、蝦夷地奉行に任命。

 

12.-、安藝守(従5位下)に叙任

享和3

(1803

 

3.27江戸出発。

在府

享和4

(1804)

2.1「文化」に改元

夏、帰府

4.21江戸出発、箱館で戸川と交代

文化2

(1805)

 

箱館在勤

在府

文化3

(1806)

 

在府

箱館在勤

文化4

(1807)

3.22松前西蝦夷地一円上地

4.6前年のロシア人のカラフト襲撃の報、福山に到来

5.18ロシア人、エトロフ島シャナ会所襲撃の報、箱館に到来。

10.24奉行所を福山に移し、松前奉行と改称。河尻春之、村垣定行、松前奉行に任命

12.22荒尾成章、松前奉行に任命

 

5.10江戸出発

赴任の途中、事件の報に接し、江戸に注進

6.12箱館到着

89.蝦夷地巡見、福山に至る。

 

 

5.18羽太は、南部・津軽藩に増兵を促し、秋田・庄内藩に臨時人数催促の書簡を送る。

10.-帰府

11.18罷免される

文化5

(1808)

2.28村垣、福山到着、戸川と交代

3.29河尻、福山着、西蝦夷地を宗谷まで見分

9.22河尻、福山出帆10.19河尻、江戸着

3.8福山出帆

 

4.3江戸へ帰る

4.6罷免される

 

25-7)「品々(しなじな)」・・いろいろな品物やさまざまな物事があること。さまざまな種類があること。また、そのさま。くさぐさ。いろいろ。

25-7)「相含(あいふくみ)」・・「相含む」の連用形。「相」は接頭語として、動詞に付いて、語調を整え、また意味を強める。「含む」は、「事情を理解して考慮に入れる」の意。

25-8)「扶助(ふじょ)」・・たすけること。力をそえること。

26-2)「鈴木甚内」・・『休明光記』では、「御勘定所勘定吟味役方改役」から「箱館奉行支配調役」に補任。後、イシカリ詰の「箱館奉行支配吟味役」を務めている。

26-3)「御目見以上(おめみえいじょう)」・・江戸幕府の場合、将軍にお目通りできる格のものを「御目見」という。だいたい、家禄が二百石(俵)以上か、御番方、または異例もあるが役高二百石(俵)以上の者。御目見以上を俗に「旗本」といっている。(『江戸幕府役職集成 増補版』)

26-5)「大嶋米次郎」・・『休明光記』では、「御勘定奉行支配御勘定役」から「箱館奉行支配調役」に補任、後、江差詰の「箱館奉行支配吟味役格」を務めている。

26-8)「ヲロシヤ人拾八人召捕」・・文化四年(1807)、ヱトロフ島において魯西亜人を召し捕った事件はない。『休明光記』によれば、「奥州北郡牛瀧村(南部藩領)百姓源右衛門の持船「慶祥丸」が、享和三年(1803)、難風のため破船、ロシアへ漂着。その後、船頭継右衛門ら六人が、文化三年(1806)七月、ヱトロフ島シベトロへ帰着。翌四年(1807)四月、菊池惣内が、彼らを引連れて箱館へでかけていたため、本事件当時、シヤナを不在にしていた。」としている。

2610)「菊池惣内」・・箱館奉行支配調役。ヱトロフ島シヤナ会所の責任者。後、松前奉行支配吟味役格。本件に関し、「其方儀、ゑとろふ嶋之儀、引請罷在候上者、御要害第一心懸可申処、御備向等閑にいたし置、去夏魯西亜人及乱妨候節も、於箱館相違之儀を申立候始末、旁不埒之至に候。依之役儀召放。」と、役儀召放の処分を受けた。

27-2)「三拾弐才」・・『藤岡屋日記』では、戸田又太夫の年齢は、「三十六」としている。

27-3)「児玉嘉内」・・箱館(松前)奉行支配調役下役。ヱトロフ島シヤナ会所詰め。本事件に関し、調役下役の関谷茂八郎と同じく、重追放の処分を受けている。

27-6)「別段(べつだん)」・・特に異なること。常と異なること。特別なこと。

27-7)「賊舟(ぞくぶね)」・・敵対する舟。文化三年に樺太のクシュンコタンなどを襲ったのは露米商会のユナイ号。なお、翌年の文化四年にヱトロフ島のナイホ、シヤナを襲ったのはユナイ号とアヴォシ号の二艘。(『新北海道史年表』)

27-6)「さわり」・・「障り」か。妨げとなる。じゃまになる。

27-7)「出懸(でがけ)」・・「出懸(でか)く」の連用形。出て行く。でむく。

27-7)<くずし字>「申候」・・「申」が連綿体風のきまり字。

27-8)「東西」・・「東北」か。

28-4)「退(のき・しりぞき)」・・「退(の・しりぞ)く」の連用形。その位置、立場からははなれる。立ち去る。

28-4)「妖術(ようじゅつ)」・・人をまどわすあやしい術。奇怪なわざを見せる術。

28-6)「戸川筑前守(とがわちくぜんのかみ)」・・戸川安諭(やすのぶ)。本事件当時、箱館(松前)奉行(在任期間:享和2戌年(1802)223日~文化5辰年(1808)45日)。『柳営補任』では、「享和二戌年二月廿三日御小納戸頭取より、百石御加増五百石高被成下」、箱館奉行に補任。その後、「文化五辰四月五日、去年魯商人罷越候節、取締不宜候一件ニ付、御役被召放寄合之旨、堀田摂津守殿、於御宅被仰渡、且差扣被仰付」の処分となった。

29-1)<くずし字>「参(まい)り」

29-4)<くずし字>「船覆り」の「覆」・・テキスト影印は縦長で、冠の「西」と脚の「復」の大きさが違うので2文字のようにみえる。

    <漢字の話>「覆」・・部首は、「(かなめのかしら)」。「要」の旧字体       の冠部は「西」でなく、「襾」

28-8)「筈(はず)」・・①弓の両端の弦をかけるところ。弓筈(ゆはず)。②弓弦(ゆづる)からはずれないように、矢の末端につけるもの。③相撲で、押し相撲の手の型の一。親指を人差し指から離して広げ、相手の脇の下か腹にあてること。④(弦と筈がよく合うことから)道理。当然なこと。転じて、予定、見込みなどの意にもいう。ここでは、④の意味で、予定、見込みの意。

29-4)「折節(おりふし)」・・ちょうどその時節。ちゅどその時。折から。

29-8)「家門(かもん)」・・一家一門。一族。身分の重い家筋。

29-9)「手助(てだすけ)」・・手伝うこと。また、手伝いとして役に立つこと。

8月 町吟味役中日記注記  

            

(84-2)「惣御役人中」の「中(じゅう)」・・集団の成員のすべて。「親戚中」「生徒中」

   *テキストタイトルの「町吟味役中」の「中(じゅう)」・・物事を行なっているあいだの時。

(84-2)「御七日(おなぬか・おなのか・ごしょしち)」・・人が死んでから七日目に当たる日。

   *「なぬか」と「なのか」・・現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(84-23)「御伺機嫌(ごきげんうかがい)」・・(1)目上の人を訪問して、その人や家族の安否をたずねること。(2)相手のきげんを見てうまくとりいろうとすること。

   ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「機嫌」の項には、

<①(譏嫌)そしりきらうこと。世人の嫌悪すること。②事を行なうしおどき。③その時々の様子や形勢。事情。④表情、言葉、態度にあらわれている、その人の気分のよしあし。⑤(形動)気分のよいこと。心持の愉快なさま。ごきげん。>とある。

   *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

   <①「譏嫌」が本来の用字と思われる。「随筆・安斎随筆‐一六」に「言偏の譏の字を用いて譏嫌と書たるは〈略〉人に譏られ嫌らはるると云事なり。木偏の機字を用ひたるとは別の事なり」とあって、「譏嫌」と「機嫌」を別語としているが、疑問。①を考慮するところから②の意が生じ、②を見はからうために③の意が生じることになったと見られる。

②③の挙例「色葉字類抄」で「気験」を当てるのは早くから④の意味のニュアンスが生じていたからと思われる。さらに転じて、⑤の意になり、現代語ではもっぱらこれを「ごきげん」の語形で用いている。>とある。

*ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「機嫌」の項には、

<「本来は仏教語で「譏嫌」と書き、譏(そし)り嫌うの意で、世間の人々が嫌うことをさしたが、のち意義が多様に分かれ、それとともに「機嫌」とも書くようになった。「嫌」の字を「げん」と読むのは呉音(ごおん)による。譏り嫌うことに気を配る必要があるところから、ことばや態度、物腰などに表れた他人の意向や思惑(おもわく)を意味するようになり、さらに転じて、ようすや形勢、あるいは気分や気持ちの意となり、他方では事のおこる時機や機会を意味するようにもなった。今日では一般的に感情や気分をいい、「御」の字を冠して、愉快な心持ち、晴れやかな気分をいうことも多い。>とある。

(84-3)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」・・継上下(つぎがみしも)。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)をそれぞれ別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(173641)末頃から平日の登城にも着用した。

*肩衣(かたぎぬ)・・室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴(はかま)と合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。

(84-4)「罷出得共」・・「罷出」のあとに「候」欠で、「罷出候得共」か。

(84-4)「羽織袴(はおり・はかま)」・・羽織と袴。羽織と袴を着用した、正式の服装。

(84-6)「田村達右衛門」・・『松前藩士名前控』に「新組足軽」として「田村辰右衛門」の名

がある。

(84-6)「去年中(きょねんじゅう)」の「中(じゅう)」・・ある期間のなかのあるとき。

(84-8)「塩屋惣左衛門与申者」の「与(と)」・・1.「与」は漢文の助字で、漢文訓読の場合、①接続詞「と」、②前置詞「ともに」などに使われる。テキストの場合、日本語の格助詞「と」に「与」を当てているが、漢文訓読の場合の「与(よ)」の流用といえる。

   2.変体仮名「与」は「よ」で、「と」と読む場合は、変体仮名ではなく、「漢文訓読」の「与(よ)」の流用。

(85-3)「粗(あらあら・あらら)」・・詳細、丁寧にではなく物事を行なうさまを表わす語。おおよそ。ざっと。概略。通常は「粗粗」とするが、「粗」一字でも「あらあら」と読む場合がある。

(85-4)「私ニおゐて」・・~に関しては。…にあっては。「おゐ(い)て」は、おきて」の変化した語。漢文訓読において用いられ始めた。「…において」の形で、格助詞的に用いられる。

   ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

   <格助詞「に」をともなう「において」の形は「於」を訓読した「ニオキテ」の音便形。「於」は平安時代から「ニオイテ」の他、「ニシテ」とも読まれ(その際、平安初期では、「於」は不読とされ、「ニシテ」は読み添えられる場合が多い)、「ニシテ」が主として具体的な場所を指すのに対し、「ニオキテ(ニオイテ)」は論理的・抽象的な関係を示していた。院政期頃まではこのような使い分けがなされていたようであるが、それがやがて場所・時間を表わす場合にも「ニオキテ(ニオイテ)」が用いられるようになった。平安時代の和文では、「宇津保物語」「源氏物語」「浜松中納言物語」の男性の会話または手紙の中に用いられている。>とある。

(85-4)「奉存候」の「存」・・「存」の中の「子」が、大きく書くことがある。

(86-187-5)「何連より」の「連」・・翻刻の際、①「何連」を「いずれ」と読む熟字訓とし、「何連」とするか。②「連」を変体仮名と見て「何れ」とするか。

(86-2)「近藤吉左衛門」・・『松前藩士名前控』に「勘定奉行吟味役」として「近藤吉左衛門」の名がある。

(86-3)「参府(さんぷ)」・・江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

(86-4)「払方(はらいかた)」・・金銭を支払う人。会計方。

   *江戸幕府の金奉行の中に、収納をつかさどる「元方(もとかた)」と、支払いを担当する「払方」があった。それぞれ「元方同心」「払方同心」と呼んだ。

   *金奉行(かねぶぎょう)」・・江戸幕府の職名。定員は四~七人。職掌は、幕府の金庫の管理・出納をつかさどるものであり、元方・払方の二局に分かれ、おのおの収納・支払いを担当した。文政三年(一八二〇)七月、元方・払方の分掌は廃止となり、一局に統合される。

 (86-9)「油川(あぶらかわ)」・・現青森市油川。東は陸奥湾に面し、東南は新田村、西は羽白村・岡町村、西北は十三森村に接する。油川を含む外ヶ浜上磯地域は鎌倉時代から戦国期にかけて、日本海航路の終点の港として栄え、近江や北陸出身の商人たちが移住した。なかでも津軽平野を後背地にもつ油川は、陸奥湾の中心港として大浜の名で知られ、多くの寺社も勧請された。

(87-1)「御用部屋」・・町奉行所で奉行が執務した部屋。

(87-2)「差図被致候方」の「方」・・ここでは、指図されたこと。「方」は、その内容。動詞の連用形、また動作性の漢語名詞に付いて、それをする意を表わす。「打ちかたやめ」「事件の調査かたを頼む」など。

(87-4)紙(きりがみ)」・・切紙。折り紙を折り目から二つに切ったもの。また、それに書きつけた書簡や文書。なお、「剪紙(せんし)」は、一般には中国の民芸品の切り絵細工をいう。

   *「剪」は「ととのえて切断する」の意。

   *「剪髪易書(かみをきりショをかう)」・・元の陳祐(ちんゆう)の母が、髪を切って書を買い、子供に読ませた故事。

(87-4)「然者(しかれば、されば)」・・行の事柄を一応おさめて、話題を転じるのに用いる。そうして。さて。ところで。「しかれば」は、<動詞「しかり」の已然形「しかれ」+接続助詞「ば」>、「されば」は<さあれば>の変化した形。

   *「然者」を「しからば」と読めば、 順接の仮定条件を表す。そうであるならば。そうしたら。

(87-7)「官吾殿」・・『松前藩士名前控』に「御用人御留主居兼」として「藤倉官吾」の名がある。

(87-8)「幸(さいわ)ひ」・・「さきわひ」のイ音便。

   *イ音便・・音便の一つ。発音の便宜のために、おもに活用語末などの、「き」「ぎ」「し」の子音k・g・sが脱落して、「イ」の音になる現象。「書きて」が「書いて」に、「次ぎて」が「次いで」に、「熱き」が「熱い」に、平安時代初期に発生し、以後多くなった。現代語の形容詞「─い」は文語の形容詞の連体形「─き」のイ音便がもと。また、サ行四段の動詞の連用形は現代の共通語ではイ音便にならない。

   *「幸」の解字・・吉であって凶から免れる。「屰(=逆らう)」と「夭(=若死)」から構成される。「夭」は死ぬこと。したがって「死」は「不幸」ともいう。

(88-1)「貴公様(きこうさま)」・・「さま」は接尾語。武家が目上の男性を敬って用いる。「貴公」より敬意が高く、多く書簡文に用いた。

(88-3)「貴所様(きしょさま)」・・「さま」は接尾語。身分の高い人の居所や、また、そこにいる人を敬っていう語。

(88-789-1)「披露(ひろう・ひろ)」・・文書などを披(ひら)き露(あらわ)す意。報告すること。上申すること。意見を申し上げること。

   *<くずし字>「披露」の「露」・・「雨」冠と脚部の「路」大きく縦長に書かれ、二文字あるように見える。また、脚の「路」が冠の「雨」より大きく書かれる場合がよくある。一般に、冠と脚で構成される漢字は、縦長に書かれる場合がある。

(88-9)「被為入(いらせられ)」・・「入る」は、敬語とともに用いられて、 「行く」「来る」「居る」の意を表す。いらっしゃる。組成は、4段動詞「入る」の未然形「入(い)ら」+サ変動詞「す」の未然形「せ」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」。

   *サ変動詞「す」は、活用語の未然形に接続する。

   *尊敬の助動詞「被(ら)る」は、未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に節読する。

   *なお、「いらっしゃる」(おいでになるの意)は、この「いらせらる」が変化して、四段化したもの。

(88-9)「忌明(いみあき・いみあけ・きあけ)」・・喪に服する期間が終わること。

(89-7)<カタカナの話>「趣ヲ以」の「ヲ」・・ひらがな「を」の字形は「遠」の草体から出たもの、「ヲ」の字形は「乎」の変形。従って、「ヲ」は、「二」+「ノ」と三画で書く。

(89-9)<くずし字の話>「加筆」の「筆」・・楷書や活字では最終画の縦棒は、真っすぐだが、くずし字には、右にはねる場合がある。  

 『蝦夷錦』8月学習分注記

20-1)<くずし字>「行方(ゆくえ)」・・「行」のくずし字は「り」のようになる場合がある。

   *なお、「行方」のように、「方」を「え」と読むのは当て字。「行衛」ともあてる。

    ほかに、「方」の読みに、「何方(どちら)」、「彼方(かなた)」「貴方(あなた)」など、「ら」「た」などを当てる。

20-1)<くずし字>「仍之(これによりて・これによって・これにより)」・・「仍」はきまり字。

     *<雑学>「仍(ジョウ)」解字は、人+乃。音符の「乃」は胎児の象形で、人と胎児と世代が重なる様から、「かさなる」「よる」の意味を表す。

     *「仍孫(じょうそん)」・・自分から八世後の世代の呼び名。

       本人・子・孫・曽孫・玄孫・来孫(耳孫)・昆孫・仍孫・雲孫の順。

      **玄孫以下を「鶴の子」ともいい、千年の寿命を保つといわれる鶴のひなに托して長寿を祝い、期する気持で用いられる。

20-3)「後詰(ごづめ・うしろづめ)」・・先陣の交替補充のため、後ろに控えている軍勢。予備軍。援軍。

20-4)「軍船(ぐんせん・いくさぶね)」・・水上の戦に用いる船。戦争に使用する船。

20-5)「兵船(へいせん)」・・戦争に使用する船。兵艦。

20-6)「もつて」の「つ」・・①「つ」「ツ」の字形の起源は諸説があって定めがたい。その原字には、「川」「州」「津」「闘」などがあげられているが、古代朝鮮半島における用字を参考にした「州」の説が有力である。」(『ジャパンナレッジ版本国語大辞典』)②平仮名の「つ」および片仮名の「ツ」は「川」または「州」からできたものかと考えられるが、未詳。(『ジャパンナレッジ版日本百科全書(ニッポニカ』)

     *「川」は、漢音・呉音とも「セン」。訓では「かわ」。万葉仮名で「ツ」と音に用いられているが、漢・呉・唐のいづれの音にも属さない。「州」の呉音「ス」が「ツ」に近いか。

20-8)「天満舟(てんまぶね)」・・伝馬船。橋船。はしけ。本船に搭載し、岸との連絡や荷物の積み下ろしに使用する木造の小船。

20-9)「宛(ずつ)」・・「宛」を「あて」と読めば割当てること、「ずつ」と読めば一定量の割り当てを示す副助詞。本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。(『漢辞海』)

21-1)「飛道具(とびどうぐ)」・・遠くから飛ばして敵を撃つ武器。鉄砲、弓矢の類。

21-1)「石火矢(いしびや)」・・戦国末期に西洋から伝来した大砲の呼び名。

21-3)「人数働(にんじゅばたらき)」・・軍勢を人員を手配し、配置すること。

21-4)「かね」・・兼ね。「ね」は、変体仮名の「年」。「兼(か)ぬ」の連用形。補助動詞として用いられる場合、動詞の連用形について、「~し続けることができない」、「~しようとしてできない」と、否定の意をあらわす。

22-1)「戸田久大夫」・・戸田又太夫。本事件当時は、ヱトロフ島紗那会所詰めの箱館奉行支配調役下役元〆。八十俵三人扶持、役金拾両、在勤年数御手当金二十両、雑用金五十五両。なお、戸田又太夫に関しては、「ゑとろふ嶋へ魯西亜人渡来候節、会所を明退、自殺候に付、御宛行並屋敷上候」となり、「又太夫が悴、後に松前奉行所同心に御抱入ありけるよし聞へぬ。」と『休明光記』にある。

     また、『写真集 懐かしの千島』(写真集懐かしの千島編纂委員会編 国書刊行会 1981)には、「戸田亦太夫藤原常保の墓」なる写真が掲載されており、「戸田亦太夫の男亦五郎本島に来り石碑を建てしものなりという」と説明がある。

22―1)「縁類(えんるい)」・・縁者。姻戚。親類。

22-5)「ナイホ番所」・・ヱトロフ島のナイホに、場所請負人の番人らが、漁期に出張して住み込んだ番屋。

23-3)「両家」・・南部、津軽両藩のこと。『休明光記』には、「ヱトロフ掛りは、吟味役格菊池惣内、下役元〆戸田又太夫、下役關谷茂八郎、児玉嘉内、其外同心共、在住御家人并南部津軽勤番士足軽等詰合たり」とある。また、日置英剛編著の『新国史大年表』には、「盛岡藩南部家・弘前藩津軽家の藩士300人が、ヱトロフ島紗那の会所を守った」とある。

23-3)「相妨」・・「相防」の誤りか。

23-7)「ルベツ」・・日本語表記地名「留別」。留別村は、択捉島のほぼ中央部に位置し、西は振別村、東は紗那郡有萌村、北はオホーツク海に臨み、留別川の河口に留別港がある。南は太平洋に面し、単冠湾に年萌港がある。寛政10(1798)幕府蝦夷地調査の別働隊近藤重蔵一行が「ベレタルヘ」へ着き、タンネモイに「大日本恵登呂府」の標柱を建てた(木村「蝦夷日記」)。翌年エトロフ島が幕府直轄地となり、1800年にエトロフ場所が設定されると、ヲイトに会所が置かれた。会所は享和3(1803)までに現紗那村のシャナに移されたが、文化4(1807)にロシア船によりナイボの番屋とシャナ会所が襲撃され、老門湾のフウレベツに移された。

24-9)「自害(しがい)」・・自分自らを傷つけて死ぬこと。自殺。『休明光記』によると、戸田又太夫は、「五月朔日、アリムイ(有萌)とシベツとの間において、一同休居している間に、脇差で咽を突きたて、うつぶしになりはや事きれたり。」とある。

7月 町吟味役中日記注記 

( 78-2)「詰木石町(つみきいしちょう)」・・現江差町字愛宕町。近世から明治33年(1900)まで存続した町。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川町・豊部内町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新町・中新町・北新町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(78-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など。

(78-3) 「山之上町(やまのうえまち)」・・江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(78-7)「正覚院(しょうがくいん)」・・曹洞宗寺院。山号嶽浄山、本尊釈迦如来。「福山秘府」に寛永8年(1631)建立、元禄2年(1689)江差村に移転とある。もと江良町村(現松前町)にあった泉龍寺境内に造立されていたが、松前法幢寺三世の良天が寛永八年江差中歌町に移し、頭陀山正覚院と称したという。元禄2年明石文左衛門が周辺の山谷を開いて伽藍を建立し、翌3年嶽浄山正覚院と公称した。

(78-9)「且者(かつは)」・・その上に。加えて。

(79-1)「都合(つごう)」・・〔副詞〕 「都」はすべての意。 すべて合わせて。ひっくるめて。全部で。合計で。

(79-6)「突合(つきあわせ)」・・突合吟味。原告と被告とを対席させて吟味すること。

(79-7)「明(あくる)」・・動詞「あく(明)」の連体形。「夜、年などが明けてから」の意。連体詞としても用いる。次の。翌。次にくる日、月、年などについていう

 *連体詞・・日本語の品詞の一つ。もっぱら連体修飾語として用いられる自立語。主語・述語・被修飾語あるいは独立語とはならない。口語では「この・その・あの・かの・どの・わが・あらゆる・いわゆる・ある・さる・とある・いろんな・ほんの・大した・とんだ」など、文語では「ある・あらゆる・いはゆる・さしたる・させる・さんぬる・いんじ・然(さ)る・来(きた)る・あらぬ・明くる」などがこれにあたる。ただし、学者によってはこの品詞を立てず、また、所属の語に若干の異同がある。

(79-8)「寔元(ここもと)」・・自分の方。わたくしの方。「是」に通用する。

(79-9)「賄手馬(まかないでま)」・・「手馬」は「手間」の当て字か。食費を含み旅費をさすか。

(79-9)「印鑑(いんかん)」・・江戸時代、照合用として、あらかじめ関所、番所などに届け出ておく特定の印影の見本。判鑑(はんかがみ)。いんかがみ。

(80-1)<くずし字>「問合」の「問」・・門構えが「ワ」、また「一」のようになっている場合がある。

(80-5)「追咎(ツイキュウ・おいとがめ)」・・事が済んだあとで、とがめだてをすること。

(80-8)「一七日(いちしちにち・ひとなぬか)」・・人の死後の七日間。または、七日目にあたる日。初七日(しょなのか)。

(81-2)「香奠(こうでん)」・・香奠は今日では見舞い・悔みという性格がつよいが、以前は米などをおくって実質的な葬儀への協力が行われた。

 *<漢字の話>「奠(漢音でテン、呉音でデン)」・・解字は「一」+「酉」。「一」は台を示す。神に酒をそなえてまつるの意味をあらわす。現代表記では「典」に書き換えることがある。

(81-2.3)「拾五挺」・・蠟燭の数え方は、形状によって数え方が異なる。

1.細長いものは「本」、

2.燭台 (しょくだい) に載せて手に持って使うものは「挺(丁)」

3.立方体や太く短い円柱などの、細長くはない形状のろうそくは「個」。

*取引単位はろうそく100本で「1 (いっそく) 」。

(81-3)「備(そなう・そなゆ)る」・・神仏や貴人に、物を整えてさしあげる。現在では「供える」と使用する。なお、室町時代頃からヤ行(備ゆ)にも活用した。

(81-4,5)「席」・・席次。

(81-5)<くずし字>「如何」・・「如」は、「め」のように見える。   

(82-1)「当節句」・・祝いの行事があり、特別の食物を食べる風習

があった。節日(せちにち)。五節句は、

人日(じんじつ=一月七日)

上巳(じょうし=三月三日)

端午(たんご=五月五日)

七夕(たなばた=七月七日)

重陽(ちょうよう=九月九日)

(82-1)「馬士(ばし)」・・江戸時代、宿駅や農村において駄馬を牽いて渡世する者。馬子・馬口取・馬追・馬方ともいう。宿駅では、伝馬役は馬役・歩行役両屋敷地の者が負担したが、特に馬の飼養は馬役の者の義務であった。しかし、直接の労役は宿内外の馬子を雇って代替させてもよく、当時はそれが一般的であった。もっとも、馬子の中には、自分の馬で駄賃取を営業とする者もいたが、多くは零細農民が馬役の者の田地を小作したり、給金を得て伝馬役に従事し、江戸時代後期には次第に博徒化して雲助に接近する傾向もみられた。

(82-1)「町端(まちはな)」・・ここから町になるというあたり。

(82-1)「馬乗(うまのり)」・・競馬。松前では、端午の節句に競馬が行われた。(『松前町史 通説編第1巻下』P1054)                      

(82-2)<くずし字>「今日」の「日」・・縦画を最後に書く場合がある。   

(82-2)<古文書の体裁・欠字>「今日者 殿様」・・「者」と「殿」間に空白があるが、古文書独特の尊敬の体裁で「欠字」という。

 (83-1,2) <古文書の体裁・平出>「江戸表江」で改行している。次の行の「御用物」を尊敬する古文書の体裁で「平出」という。「平出」は、「平頭抄出」の意と釈し、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。

(83-2)「御用物(ごようもの)」・・宮中や官府などの用に供するもの。

   

 『蝦夷錦』7月学習分注記

15-1)「遠見番所(とおみばんしょ)」・・江戸時代、異国船を見張るため沿岸各地に設けられた番所。北郡には、寛政5(1793)、黒岩に遠見番所が設けられたほか、泊ノ崎、尻屋崎、牛滝にも設置された。

15-2)「境伍(けいご)」・・警固の当て字か。「境」を「ケイ」と読むのは漢音。「境内(ケイダイ)」など。

15-5)「有之哉(これあるや)」・・係助詞「や」は、①文末に用いる場合、活用語には終止形につく。②文中に用いられる場合、係り結びの法則により、それを受けて終止する活用語は連体形となる。テキストは文中にあるので、②.ラ変動詞「あり」の連体形は「ある」なので、ここは、「あるや」となる。

     『蝦夷紀聞』のこの部分は、「可有之哉(これあるべきや)」とある。助動詞「べし」の連体形は「べき」。

15-6)「火業師(ひわざし)」・・砲術師のこと。

156.7)「歩行武者(かちむしゃ)」・・「徒武者」とも。「徒」は、武士の身分の一つ。江戸時代、騎馬を許されぬ軽輩の武士。徒歩の兵士、歩卒。

     *「歩行」を「かち」と訓じる用法を熟字訓という。     

      **「熟字訓」:漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。昨日(きのう)、乳母(うば)、大人(おとな)、五月雨(さみだれ)など。

     *「歩行(かち)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』

      (1)クガチ(陸地)の略であるカチ(陸)の義。カチ(陸)より行くこと〔大言海〕。

(2)クガダチ(陸立)の反〔名語記〕。

(3)カチ(駈道)の義〔言元梯〕。

(4)蹴分けて行く義〔和訓集説〕。

(5)韓語カタ(行くの意)の転〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

15-9)「佐久井」・・「佐井」か。

15-9)「䑺通(はしりとおり)」・・「䑺」は、「舟」と「風」からなり、帆船が風のように速く走る意を表す。類似例として、馬が風のように速く走る意の「馬+風」がある。

16-1)「下風呂(しもふろ)」・・北郡田名部通風間浦のうち。盛岡藩領。現青森県下北郡風間浦村下風呂。下北半島の津軽海峡に面した本州最北部の地区。享和3(1803)、幕府から佐井が箱館への渡航地に指定されたことにより、文化元年((1804)、大畑大赤川から下風呂境滝まで新道開削し、人足伝馬の徴発が頻繁となる。古く、松前への出稼ぎも見られ、寛政元年(1789)のクナシリ事件(クナシリ・メナシ蝦夷乱)における和人犠牲者の71人中3人が当村出身者。

16-1)「申ノ刻(さるのこく)」・・午後4時から午後6時の間の2時間程。なお、江戸時代は、不定時法によって、昼・夜それぞれを六等分した一区切りを、一刻あるいは一時などと称したが、その長さは、一時間60分ではなく、季節によって、長さが異なり、夏の日中の一刻は長く、反対に、冬は短くしていた。

     時刻の表示は、以下のとおり(形式上、一刻:2時間として表示)。

     ・子刻(九つ):0時~ ・丑刻(八つ):2時~ ・寅刻(七つ):4時~

     ・卯刻(明六つ):6時~ ・辰刻(五つ):8時~ ・巳刻(四つ):10時~

     ・午刻(九つ):12時~ ・未刻(八つ):14時~ ・申刻(七つ):16時~

     ・酉刻(暮六つ):18時~ ・戌刻(五つ):20時~ ・亥刻(四つ):22時~

16-2)「赤川(あかがわ)」・・北郡田名部通大畑町のうち。盛岡藩領。現青森県むつ市大畑町のうち。享和3(1803)の「仮名付帳」の町場の名前の一つに「赤川」の名が見え、また、『原始謾筆風土年表』に、「赤川に硫黄山があった。」と記されている(『青森県の地名』)。

16-4)「漕戻し(こぎもどし)」・・漕いで、もとへもどる。漕ぎ返る。

16-5)「従在所(ざいしょより)」・・「従(より)」は、格助詞。ここでは、動作、作用の時間的、空間的起点をあらわす。したがって、「従在所」と返読。起点を示す同訓としては、「自」がある(P14-4)。

16-7)「津軽越中守」・・本届書の内容は、盛岡藩領内の北郡田名部通の状況を記述していることから、差出人の名義は、弘前藩主の「津軽越中守」は、盛岡藩主の「南部大膳大夫」か。『蝦夷紀聞』は「南部大膳大夫」としている。

     *青森県の変遷

     1.江戸時代、西には弘前藩および黒石藩が、東には盛岡藩の支配地と八戸藩とがあった。

2.明治元年(1868)盛岡藩の一部北郡・三戸郡・二戸郡が弘前藩主の支配を、続いて大関美作守の支配を受け三戸県と称された。

3.同3年、南部信順・同信方、津軽承昭・同承叙がそれぞれ八戸・七戸・弘前・黒石藩知事となった。

4.その後若干の変遷を経て同35月、松平容大が斗南藩知事となった。

5.同年7月廃藩置県により、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸・館の諸県が併存した。

6.同年9月諸県を弘前県に合併、ついで青森県と改称。

7.同年11月改めて青森県を新置した。同五年館県を開拓使に移した。

8.同9年二戸郡を岩手県に移して現在の行政区域に落ち着いた。

17-1)「飛脚(ひきゃく)」・・①鎌倉時代から江戸時代まで、文書、金銭、小貨物などを送達する使いや人夫。②他人の急用の使いをする者。

      「飛脚」の源流は、古代の駅馬に発し、鎌倉時代には、京・鎌倉間に早馬を用い、7日間で通信の速達にあたり、鎌倉飛脚、六波羅飛脚、関東飛脚といった。

     その後、駅伝の法が衰退したが、戦国末期に復活、江戸幕府が通信機関として採用し、その整備に努めた。幕府公用のための「継飛脚」、諸大名が前者にならって設けた「大名飛脚」、民間の営業にかかる「町飛脚」に大別される。

17-3)「川支(かわづかえ)」・・「川止、川留」とも。川の水量が増して、人の渡ることが禁止されたり、できなくなったりすること。

17-3)「日間取(ひまどり)」・・日数がかかること。手間取ること。

17-4)「演舌(えんぜつ)」・・(1)文書でなく、音声によって説明すること。(2)多くの人の前で自分の主義、主張や意見を述べること。テキスト場面では(1)

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

     <(1)中国の古典語であるが、日本でも平安時代から幕末・明治初期まで(1)の意味で用いていた。

(2)江戸中期以降、蘭学者の間で、オランダ語 redevoering の訳語として用いられ、さらに明治時代になってから英語 speech の訳語にも当てられるようになった。なお、当時の表記としては「演説」の他に「演舌」なども見られるが、後に次第に「演説」に統一されていった。>とある。

17-5)「大兵船(だいへいせん)」・・戦用の大型船。

17-6)「取懸り(とりかかり)」・・着手する。相手に打ってかかる。

17-7)<くずし字>「南部」の「部」・・影印は「部」の旁の草書化。さらにくずして、現在のひたがなの「へ」になった。

17-7)「往来(おうらい)」・・行ったり来たりすること。人の行き来。つきあい。

17-7)「断切(たちきり)」・・行動などをさえぎりとめること。

17-8)「両諸喉」・・「喉」は「侯」か。「諸侯」は諸大名のこと。

17-8)「無勢(ぶぜい)」・・古くは「ぶせい」。人数が少ないこと。

18-1)「早舟(はやぶね、はやふね)」・・江戸時代、大坂はじめ瀬戸内海諸港を連絡した速力の早い貨客船。漕ぎ手を多くのせ、高速で走る船。

18-1)「国元(くにもと)」・・弘前藩津軽家の居城地と盛岡藩南部家の居城地。

18-1)「早打(はやうち)」・・馬を走らせて急用を伝えること、また、その使者。

18-2)「鷹野(たかの)」・・「鷹狩(たかがり)」に同じ。飼いならした鷹や隼を放して鳥獣をとらえる狩猟。古代から貴族や武家の間で行われていた。

18-3)「人数配(にんじゅくばり・にんずくばり)」・・いくつかの箇所へ人員を配置すること。

18-5)「将又(はたまた)」・・接続詞。それともまた。あるいは。

18-5.6)「被仰渡(おおせわたされ)」・・ご命令。「被仰渡(おおせわさる)」の連用形「被仰渡(おおせわたされ)」が名詞になったもの。「連用形転成名詞」という。「被仰出書(おおせいだされしょ)」など。

     *連用形転成名詞・・「流れ(流る)」「遊び(遊ぶ)」「もみぢ(もみつ)」「心得(こころう)」「浮き(浮く)」「斎(いつき・斎く)」「暮(暮る)」「など。現代用語では、「一気飲み」「かばん持ち」「仁王立ち」「立ち読み」「読み書き」「左打ち」「普段着」「模様替え」「子育て」など。

18-8)「右国元(みぎくにもと)」・・秋田藩(久保田藩)佐竹家の居城の地(現秋田県秋田市)。

18-8)「五月晦日出立」・・秋田藩では、箱館奉行からの援兵要請を、524日受け取り、翌25日に369人、26日に222人が秋田を出発している(『新国史大年表』)。

18-9)「未だ不相知(いまだあいしらず)」・・「未」は漢文訓読の再読文字で、本来は、「不」がなくても、「いまだ~ず」と読むが、テキストでは、「未(いま)だ」を再読文字にしていない。日本流(亜流)の漢文訓読といえる。

19-3)「近々(ちかぢか、きんきん)」・・しばしば。頻繁に。

19-7)「地方(じかた)」・・江戸時代、町方に対して、村方のこと。農村。

19-7)「問屋(といや、とんや)」・・「問屋場(といやば)」、「伝馬(てんま)」とも。江戸時代、宿駅で人馬の継立などをする事務所。宿の中央に一か所ある場合や、上下に一か所ずつ、あるいは、上、中、下と三か所あるなど、各宿によって異なる。ここを主宰するのは、問屋役で、年寄役がこれを補佐し、その下に、帳付、馬指、人足指、小指などがあった。

19-7)「町屋(まちや)」・・町の中にある家。町人の家。商人の家。

19-8)「雑物(ざつぶつ)」・・雑多なもの。こまごましたもの。

6月 町吟味役中日記注記    

(P71)「小五月」・・天保35月も「小の月」で29日までしかない。

 *旧暦は、朔望(月の満ち欠け)を基準としている。朔(新月)を迎えた日を月はじめの1日(朔日)するなので、「小の月(29)」「大の月30()」は、朔の日を計算すれば、大小は自動的に決まる。

  ところで、朔望の周期は、平均29.53日だが、月の運動は不規則で、前後6.5時間ほど変動する。したがって、月の配列は、必ずしも大・小・大・小というわけにはいかない。

  庶民にとって、例えば掛け売りの支払い、借金の返済などで、大の月か、小の月かが問題になる。そこで、商店などでは、「大小板」を掲げて知らせた。

 *大小暦・・古くは大小または絵暦と呼び、江戸時代にその年の月の大小の順を知らせるために作られた略暦の一種である。当時行用の太陰太陽暦では毎年月の大小の配列が相違していたため、その年の大小の順や閏月の位置を覚えるための和歌・俳句・漢詩等の短文などが作られた。これらの短文や大の月・小の月の数字を組み合わせて文字や絵にしたもの、あるいは図案の内に散らしたり隠したりした小型の摺物が作られるようになり、好事家の間で年頭に贈答された。大小暦は万治・寛文年間(165873)ごろからあらわれるが、明和2年(1765)に大流行した際、鈴木春信がはじめて錦絵のものを版行してから、華麗なものが作られるようになった。大小暦は江戸を中心に各地で機智に富んだものが案出され、また浮世絵師の多くが手を染めたので、江戸時代の文化の特色を示す好史料となる。

 *天保3(1832)の大小は、次のような配列だった。

  大の月・・正(1).3.7.9.11.閏11.12

  小の月・・2.4.5.6.8.10.

(72-2)「御用番(ごようばん)」・・江戸時代、幕府役人のうち、月番に当たっている者。老中はじめ、寺社・町・勘定奉行などの勤務は、いずれも月番制で、毎月それぞれ一人が事務を主宰し、他はこれを補佐する制度がとられ、その月の事務を主宰している老中などをいう。松前藩でも、家老などの勤務に同様の制度が執られた。

(72-2)「下国斎宮(しもくに・いつきのみや・さいぐう)」・・松前藩家老・下国季鄰(しもくに・すえちか)。斎宮は、季鄰の官名。(小字=しょうめい。幼時の呼び名)は、清治。また小四郎、環と称した。10代章広、11第良広に仕えた。始め蠣崎広年(波響)の養嗣子になったが、のち、実家に戻った。文化11(1814)家督を継ぐ。文政6(1823)家老職に就く。天保7(1836)1014日、50歳で没した。

  *「下国氏」・・下国氏の祖は、奥州蝦夷管領安東氏(のち秋田氏)で、末裔が蝦夷地に渡って一族重臣を道南の十二館に配置し支配体制を固めた。十二館は茂別館(現北斗市字矢不来)中心の「下の国」、大館中心の「松前」、花沢館中心の「上の国」の三守護地域に分けられ、下の国守護職の政季が「下国」を名乗った。下の国守護の下国氏はのちに蠣崎(松前)氏の家臣となる。茂別の下国氏は蠣崎氏の家臣となったものの、寄合席に列し蠣崎・松前氏以外では唯一家老となることのできる家柄として松前藩政に大きな影響を与えた。松前藩主家とは婚姻関係を通じて深いつながりを持ち、藩閥形成の上で家格も最上位にあって、重要な地位を保ち、代々家老職を出して藩政に参与した。

  *「斎宮(さいぐう・いつきのみや)」・・斎宮(伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王)の居住するところ。斎王の御所。斎宮寮の内院。

(72-4)「小書院(こじょいん)」・・母屋(もや)に続けて建てのばした部屋。

(72-5)「若殿様(わかとのさま)」・・主君の世継ぎとなる子をいう。ここでは、藩主章広の孫・良広。文政10年(1827年)1116日、父見広(ちかひろ)の死去により、祖父章広の嫡孫となる。

(72-5)「御七歳」・・良広は文政9(1826)523日生まれだから、この時7歳(数え)だった。服忌令(ぶっきりょう)が適用されるのは8歳以上の者。

(72-5)「被為在(あら・せ・られ)」・・~になっておられ。組成はラ変動詞「在(あ)り」の未然形「在(あ)ら」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」。

(72-6)「忌服(いみぶく・きぶく)」・・一定の期間、喪に服して家にひきこもること。服忌(ぶっき)。

(72-6)「不受(うけ・なさ・れ・ず)」・・組成は、下2動詞「受(う)く」の連用形「受(うけ)」+補助動詞「為(な)す」の未然形「為(な)さ」+受身の助動詞「被(る)」の未然形「被(れ)」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」。

(73-56)<漢文訓読の話>「未吟味不相済(いまだぎんみあいすまざる)」

  ①「未」は、漢文では再読文字で、「いまだ~(せ)ず」と「未」を「いまだ」と「(せ)ず」の二度読む。

  *知其一、未知其二 其の一を知るも、未だ其の二を知ら (『史記』高祖本紀)

  その体で行くと、テキストの「不」は必要がなく、「未吟味相済」だけで、「いまだぎんみあいすまざる」と読める。しかし、和文が漢文訓読を正確に取り入れない場合も、あり、テキストのように、一見、二重否定にも見えるような書き方もある。

  *「不」を「ざり」と読むことに関して・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(「ざり」は)未然形、連用形は他の助動詞への連接の場合に用いられ、命令形の命令法とともに、「ず」の用法を補っている。終止形「ざり」は普通用いられない。連体形「ざる」と已然形「ざれ」とは、普通漢文訓読系統のものに用いられ、和文系統の連体形「ぬ」、命令形「ね」に対応している。連用形「ざり」は、「き」「けり」につづくほか、中世には「て」「た」にも連なるようになり、「り」が促音化した「ざっし」「ざった」なども生じた。

  *「ざる」・・《文語の打消しの助動詞「ず」の連体形》動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」

(74-4)「法幢寺(ほうとうじ)」・・松前町字松城にある曹洞宗の寺院。大洞山と号し、本尊釈迦如来。延徳2年(1490)大館に開創され、永正10年(1513)蠣崎義広が祖先追福のため若狭出身の宗源を開山に寺宇を建立(寺院沿革誌)。天文15年(1546)蠣崎季広がアイヌの襲撃により破壊されていた当寺を再建して以降蠣崎氏の菩提寺となったという(「松前町史」など)。天保6年(183510月焼失し、翌年から再建されることになった(「湯浅此治日記」同六年一二月条)。同5年に再建された御霊屋には位牌壇と礼拝堂があり、位牌壇には代々の藩主や夫人および一族の位牌が七〇基余安置されている。天井には蠣崎波響筆の花鳥図がはめ込まれている。

(74-6)「重廣院(じゅうこういん)」・・和佐太郎の法名。

(74-7)「熨斗目(のしめ)」・・本来は経に生糸、緯に半練糸を用いて、細い経糸をやや粗く、緯を密に織り込んだ平織の段または縞、あるいは (しじら)織にした絹織物を指しているが、これらの織物で仕立てた小袖を熨斗目小袖といい、略して熨斗目ともいう。熨斗目小袖は室町時代ごろから素襖や大紋の下に着られるようになり、江戸時代には武家の礼装の素襖・大紋・裃の下には必ずこれが着用されるようになった。熨斗目小袖には無地熨斗目と腰替り(腰明け)といって、腰の部分だけを色違いとしたり、そこに格子や段や絣の文様を織り出したものとがある。また能装束の着付として、庶民や下人の役柄に用いられる熨斗目は、すべて平織の無地や格子、段で、舞台衣裳としての性質上、色遣いや文様は派手になっている。

  <漢字の話>「熨斗」・・「のし」と訓じるのは当て字。音読みは「ウット」で、火のし(炭火を中にいれるアイロン)は、漢代にすでにあったという。一方、日本でも「ひのし」といって、布のしわをのばすための道具があった(柄のついた底の平らな容器で中に炭火を入れるもの)。

(75-3)「御埋(おうめ)」・・埋葬する。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の五氏には、「うずめる」と「うめる」の違いについて、<「うずむ・うずめる」の基本的な意味は、「物の上に土など盛り上げて覆う」ことであり、これに対し、「うむ・うめる」のほうは「くぼみなどに物をつめてふさぐ、また、物を土などの中に入れ込む」ことである。中にある物は、「うずむ」「うむ」どちらの場合でも隠れて見えなくなるところから、同じような意味に用いられるようになったと思われる。>とある。

(75-3)「申上(もうしあげ)」・・①(「言う」の謙譲語)目上の人に向かって、うやうやしくいう。言上(ごんじょう)する。上申する。元来は、公的に身分格差が大きい場合などに用いられた。現在では「申す」が、「言う」などの丁重な表現に多用されるようになったため、言う対象を敬う気持を強く表わすのに用いられる。②上の人のために、ある行為をしてさしあげる。多く、「お」や「御」の付いた自分の行為を表わす体言の下に付けて、その行為の対象を敬う。

  ここでは②。

(75-7)「等澍院(とうじゅいん)」・・北海道日高支庁様似郡様似町にある天台宗の寺。帰嚮山厚沢寺等澍院と号す。文化元年(1804)、江戸幕府により蝦夷三官寺の一つとして、民心の安定を目的に幕府により創建された。檀家のない寺院なので、幕府から年間米100俵のほか扶持米、手当金が支給された。初代住職の秀暁以来12代徳弁まで存続したが,明治18年(1885)年に廃寺,再興された。洪水,熊の害,国道改修などにより数度の移転をへて今日に至っている。

(75-7)「役僧(やくそう)」・・住職の下にあって、寺院の事務などを行う僧侶。当時の等澍院住職は5慈潭。『等澍院文書』に慈潭代のものは欠如している。

  *復領期の松前藩と蝦夷三官寺・・幕府の直轄領だった松前蝦夷地一円は文政4(1821)、松前家へ還された。蝦夷三官寺の管理も松前家に移ることになる。『等澍院文書』には、等澍院と松前家が、待遇などについて再三やり取りしている記述が見える。

(76-1)「町方構(まちかたかまえ)」・・町奉行所配下の町方役人の勤務する役所。「構」は、邸宅。家屋敷の意味。

(76-2)「昨年アツケシ差出候御人数」・・天保2(1830)218日、アッケシのウラヤコタン(現浜中町羨古丹)へイギリスの捕鯨船「レディロウエナ号」(323トン、ラッセル船長)が来航、222日アッケシ勤番所出張人数がウラヤコタンを警固、224日より戦闘になったが、26日夜、アッケシ勤番人数は利あらずして同所を引き払い、アッケシ勤番所の警固にまわる。異国船は、ウラヤコタン、キリタップの漁小屋を焼き払い、34ウラヤコタンを出帆。この間、松前藩は1番手・2番手人数を派遣した。

  この事件に関して田端宏著「松前藩、捕鯨船に敗れるー天保2年ウラヤコタンの銃撃戦―」(北海道史研究協議会『会報第69号』所収 2001)を、田畑先生の許可を得て別添する。

  なお、「御人数(ごにんずう)」・・正式の整備隊というほどの意味。(田畑宏氏の前掲論文)

(76-2)「牧田七郎右衛門」・・牧田はこのとき、1番手の隊長。アッケシからの帰路、絵鞆に滞在していた時、噴火湾でまたまた異国船に遭遇、戦闘があった。天保4(1833)915日、松前藩の箱館奉行になった。

(76-5)「小平沢町(こへいざわまち)」・・現江差町字陣屋町など。近世から明治33年(一1900)まで存続した町。寺小屋町・碇町の北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた。。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。

(76-6)「清部村(きよべむら)」・・現松前町字清部・字小浜・字高野。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、茂草もぐさ村の北方にあり、西は海。寛保元年(1741)の大津波でほとんど全滅となったが(函館支庁管内町村誌)、本テキスト時の文化4年(1807)には「家数廿軒程不宜」(「西蝦夷地日記」同年八月一七日条)となった。

(77-2)「御仕置(おしおき)」・・江戸時代、刑罰、特に死刑をいう。

(77-2)「伺書(うかがいがき・うかがいしょ)」・・上司などの意見または指令を請うために差し出す文書。

(77-3)「口書(くちがき)」・・)江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(77-4)「又候(またぞろ)」・・(副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの)同じようなことがもう一度繰り返されるさま。あきれた気持ちや一種のおかしみを込めていう。またしても。またもや。

(77-6)「随身(ずいじん・ずいしん)」・・寺に身を寄せて寺務や住職の身のまわりの世話をすること。また、その者。

『蝦夷錦』6月学習注記


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-2)「別条」・・変った事。変事。

10-2)「世上(せじょう)・・世の中。世間。

10-3)「彼是(あれこれ・かれこれ・それこれ)」・・数多くの人や事物を指し示す。あれやこれや。

10-3)「風聞(ふうぶん)」・・うわさ。風のたより。

10-4)「向々(むきむき)」・・諸方面。思い思いであること。

10-4)「無急度(きっとなく)」・・「急度」に同じ。きちんと。間違いなく。

     *「且形()部卿様御事、御隠居御慎被仰出候。夫に付ては外々にも御座候様子に候へ共、未不承候、且又 御城無急度御堅めも有之候由、此御方へも品に寄御人数被差越候様心得」(川合小梅著『小梅日記 1 幕末・明治を紀州に生きる』 東洋文庫256所収 1974

     *「一体大身之輩ハ心掛次第大部之書一二部ズツ茂蔵板致シ普ク後来ニモ相伝候様有レ之度事二候。此段十万石以上之面々江無急度可レ被二相達一候事。六月二十日。七月被二仰出」(松崎慊堂著『 慊堂日暦』東洋文庫420所収 1983

     *「きっと」は、「きと(すばやくの意)」の促音便。「急度」は当て字。

10-6)「南部」・・盛岡藩の藩主家の姓。当時の藩主:南部大膳太夫利敬(天明4.7.17~文政3.6.15)。領地:陸奥国北、三戸(以上青森県)、二戸、九戸、閉伊、岩手、志和、稗貫、和賀(以上岩手県)、鹿角(秋田県)の10郡。当時の石高10万石(文化520万石)。外様中藩(後期から大藩)。居城:盛岡市内丸。

10-6)「津軽」・・弘前藩の藩主家の姓。当時の藩主:津軽越中守(当初出羽守)寧親(寛政3.8.28~文政8.4.10)。領地:陸奥国津軽郡。当時の石高:7万石(文化510万石)。外様小藩(後期中藩)。居城:青森県弘前市下白銀町。

10-6)<くずし字>「書写」の「書」・・・脚部の「日」が省略されることがある。

11-1・6)<くずし字>「趣」・・何とも「おもむき」のあるくずし字。

11-1)「騎(き)」・・接尾語。馬に乗った人、また馬に乗ること。江戸時代、武士の身分の称の一つで、主君から知行を分与される上士をいう。

     また、『地方凡例録(寛政6年(1794))』には、「今の一騎は、知行高二百石以上。侍二人、馬口取一人、鎗持一人、草履取一人、自分とも六人也」とある。

11-4)<くずし字>「目付役」の「目」・・3~5画の横画が省略される場合がある。

11-4)「小奉行(こぶぎょう)」・・奉行の下で、これを補佐する職名。『休明光記』の「南部大膳大夫領分海辺付場所々幷箱館蝦夷地松前表備人数武器員数」中に、物頭、目付、歩武者の役職名とともに、「小奉行」の職名が見える。

11-9)「浦(うら)」・・海や湖の陸地に入りこんだ所。入江。海辺の村里。

12-4)「五月晦日」・・「晦日(みそか)」は、暦の月の初めから30番目の日、または月の末日。旧暦では、月の日数が、大の月(30日)と小の月(29日)があり、本書の「文化四年(1807)五月」は、大の月となっており、晦日は「30日」である。反対に、月の第一の日は、「朔日(さくじつ、ついたち)」である。

12-6)「タナリ島」・・クナシリ島か。『休明光記』によると、当時、箱館奉行支配調役下役元〆中村小市郎(当時シャリ会所詰合)は、クナシリ島へ参り、居合わせており、また、向井勘介(助とも)は、クナシリ詰の箱館奉行支配調役下役であったことから、「タナリ島」は、「クナシリ島」と比定できる。

12-6)「同所会」・・「会所」の「所」が脱で、「同所会所」か。または、「所」と「会」が逆で、「同会所」か。「会所」は、クナシリ島の泊(トマリ)に置かれた会所のこと。

12-7)「中村小市郎」・・当時、箱館奉行(後松前奉行に改称)支配調役下役元〆。本事件発生の際、クナシリ島に居合せた。しかし、その際の対応が悪く、後日(1215日)、(老中)牧野備前守の御下知にて、(松前奉行)村垣定行の宅に於て、左の通申渡しがあった。(『休明光記』)

        松前奉行支配調役下役元〆  中村 小市郎

      其方儀夏クナシリ島へ参り合居候節、ルシア之方に大筒の音相聞、異国船寄来候趣に候処、右場所には向井勘助壱人詰合罷在候を取急不心付、自分持場江罷越とは乍申、右場所引取候段不行届之儀に付、急度可叱置旨、牧野備前守殿被仰渡候。   

12-7)「向井勘介」・・「勘助」とも。当時、クナシリ島詰合の箱館奉行支配調役下役。本件事件発生の際、クナシリ島の防御の手配などに功績があり、老中から以下のとおり、お誉があった。(『休明光記』)

      魯西亜船相見候節防方手配之次第委細老中衆へ申達候処、心掛宜一段之事        

      に候旨被申候、此段申聞誉置可被申事。(箱館奉行より、名代の者に対して申渡があった。)

12-9)「ヘシヨコタン」・・不詳。記述の内容は、「ナイホ」への襲撃事件であることから、「ナイホ」のことか。

132.3)「ゑとろふ之会所」・・ヱトロフ島の会所は、シヤナ(紗那)に置かれていた。

13-1)「生捕(いけどり)」・・「いけ」は生かしておく意の「いける」の連用形から。

つかまえること。捕虜にすること。

13-3)「浪懸(なみがかり)」・・船を碇泊させる意の「澗懸(まがかり)」の誤りか。

13-4)「御番所(ごばんしょ)」・・番人の詰め所。江戸時代、交通の要所などに設けられ、監視、徴税などを行った所。ここでは、クナシリ島に置かれた箱館奉行所の役人の詰め所。「御(ご)」は、番所を敬って言う語。

13-5)「相囲(あいかこみ)」・・連用形。「相」は、接頭語で、動詞についた場合は、語調を整え、また、意味を強める。「囲う」は、中にとりこめて周囲をふさぐ。害から守ってやる。助けまもる。

13-8)「唐太島一件」・・前年(文化3年)に起こった樺太オフイトマリやクシュンコタンへロシアによる襲撃事件をさすか。

14-1)「出来兼(できかね)」・・「かねる」は、補助動詞として用いられる場合は、動詞の連用形について、「~し続けることができない。~しようとしてもできない。」と否定のために用いられる。

14-2)「難計(はかりがたき)」・・「難計」と返読。「計る」は、思いめぐらす。配慮する。「難い」は、難しい。容易でない。困難だ。「計りがたい」は、思いめぐらすことができない。考慮できない。

14-2)「増人数(ましにんずう)」・・「増し」は、「増す」の連用形の名詞化した形で、増すこと。「増人数」は、「増員」の意。箱館奉行は、518日、盛岡、弘前両藩に増兵を、秋田、庄内両藩には援兵を命じた。これを受け、弘前藩は、523日、692人を派遣。秋田藩は、525396人、同26222人計618人が秋田出発。盛岡藩は、65日から806人が盛岡出発。庄内藩は、526319人を派遣。(『新国史大年表』日置英剛編著 図書刊行会)

なお、『新北海道史』では、各藩の人数は、南部藩兵692人(ほかに定式人数250人)、津軽藩兵500余人、秋田藩兵591人、庄内藩兵319人としている。

14-4)「申越(もうしこし)」・・連用形。手紙や使いなどで、言ってよこす。

14-4)「在所(ざいしょ)」・・江戸時代、大名の政庁の所在地、または、旗本や給人の知行地をいう。

14-5)<くずし字>「以上」・・書簡文の末尾を、「以上」という語で結ぶことを「以上止め」という。かなりくずされて、連綿体になる場合がある。

14-6)「南部大膳大夫」・・本御届書の差出人「南部大膳大夫」となっているが、その前の御届書(P10P12)も同じ「南部大膳大夫」となっており、差出月日も、同じ「五月晦日」になっている。同日の日付で、かつ、同じ大名から、幕府への御届出書二通が出されるのが、本御届書の差出人は、「津軽越中守」か。

14―8)「私(わたくし)」・・自分自身に関すること。一人称の代名詞。男女ともに丁寧な言い方として、多く目上の人に対するときやあらたまった場面などで用いられる。ここでは、津軽越中守か。

14-8)「領分(りょうぶん)」・・領有する分。所有する地域。領地。

14-8)「北郡(きたぐん・きたごおり)」・・陸奥国にあった郡。江戸期は南部藩領。現在の下北郡、上北郡、むつ市、十和田市、三沢市にあたる地域。中世以来、南部氏領(盛岡藩領)に属し、正式に北郡という名で呼ばれたのは、江戸時代初期。津軽郡および三戸郡(津軽藩領)に接していた。。明治11(1876)上北・下北の二郡に分かれたため「北郡」は消滅した。津軽越中守が幕府に対する御届書で、南部藩領の北郡について、「私領分」というのは、矛盾がある。

14-8)「田名部(たなぶ)」・・現青森県むつ市の地名。北郡のうち。江戸時代、盛岡藩領。寛文13年(延宝元年 (1673))、盛岡藩の田名部代官所が設置され、田名部通34ケ村を統治し、下北半島の行政上の中心地。このため、下北半島一円を田名部と総称することもあった。

14-8)「佐久浦」・・「佐久」は「佐井」か。「佐井」は、現青森県下北郡佐井村。盛岡藩領の北郡田名部通に属す。下北半島西北端、津軽海峡に注ぐ大佐井川と古佐井川の河辺に位置。享和3(1803)、箱館への渡航地として幕府から指定された。また、寛政5(1793)、黒岩に船遠見番所、文化5(1808)東村に大砲3門、矢越に同8門設置された。なお、佐井は、ヒバの産地、積出港としても栄えた。

14-9)「巳ノ下刻(みのげこく)」・・「下刻」とは、一刻(2時間)を、上、中、下刻に三分した最後の時。したがって、「巳の下刻」は、午前11時30分頃をいう。

14-9)「異国船一艘」・・アラスカ・広東間の毛皮貿易に従事し、津軽海峡を通ってペテルパブロフスクに向かった米国船「イクリプス号」か。

5月 町吟味役中日記注記 

        

(65-1)「参府(さんぷ)」・・①江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。②また、一般に江戸へ出ること。出府。ここでは松前藩9代章広が出府を命じられたことをいう。

  章広は、この年、天保3(1833)1012日開帆、118日に江戸到着。

(65-1)「被仰出候(おおせいだされそうろう)」・・命令を発せられなさった。「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。

(65-2)「継肩衣(つぎかたぎぬ)」・・継上下(つぎがみしも)。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)をそれぞれ別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(173641)末頃から平日の登城にも着用した。

*肩衣(かたぎぬ)・・室町末期から素襖(すおう)の略装として用いた武士の公服。素襖の袖を取り除いたもので、小袖の上から着る。袴(はかま)と合わせて用い、上下が同地質同色の場合は裃(かみしも)といい、江戸時代には礼装とされ、相違するときは継ぎ裃とよんで略儀とした。

 *<漢字の話>「衣(きぬ)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<上代では日常の普段着。旅行着や外出着は「ころも」といった。そのため「きぬ」は歌ことばとはならなかったようで、複合して「ぬれぎぬ」以外は三代集以降姿を消す。院政期以降は衣服の総称でなくなり、「絹」の意の例が見えはじめ、軍記物語では上層階級や女性の着衣の意味で用いられている。語源上は、材質の「絹」とかかわるか。下層階級の衣服は「いしゃう」であった>とある。

 *「歯に衣着せぬ」・・思ったとおりをずけずけと言うこと。「衣」を「ころも」と発音するのは誤り。また、「𥿻着せぬ」も誤り。

 *<漢字の話>「裃(かみしも・はかま)」・・「衣偏」+「上下」で、国字。

(65-4)「御留守居(おるすい)」・・①江戸時代、諸大名家の職名。江戸に在勤し、藩主に代わり、幕府をはじめ諸藩との交渉、連絡にあたった者。幕府法令が諸藩に達せられるときなど、江戸城に出頭し、これを受領した。

 ②また、大名の他行(出府)に際し、藩にとどまり、その留守を預かった者。

 ここでは、②

(65-6)「被申聞候(もうしきかせ・られ・そうろう)」・・告げ知せられました。「申聞」を「申し聞く」と読めば、「申す」(話す)と、「聞く」という正反対の所作を一緒にすることになり、訳がわからなくなる。「申聞」は、「もうしきかせる」で、<申しあげてお聞かせする。告げ知らせ申しあげる。また、「言い聞かせる」を重々しく言う>(『日本国語大辞典』)

  したがって、組成は、下一段「申し聞かせる」の未然形「申し聞かせ」+尊敬の助動詞「被(ら)る」の連用形「被(ら)れ」+候。

(65-2)「恐悦(きょうえつ)」・・「恐悦」は、相手の過分な好意やもてなしに対して喜びの気持ちを表す言葉。「もったいない」、「恐れ多い」というニュアンスが含まれている。

(65-4)「蠣崎次郎」・・文政10(1827)4月、蝦夷地回島御用をつとめ、福山を出立した。

(65-5)「蠣崎三七」・・文政9年(1826118日、家老格となる。

(65-9)「尋(たずね・ただし・ききだたし)」・・「尋ねる」は、ここでは、「問いただす」の意味。尋問。

(65-8)「常右衛門」の「常」・・脚部の「巾」が、「ヽ(点)」か、「一」になる場合がある。

(65-9)「帰郷」の「郷」・・「郷」のくずし字は、きまり字で、形で覚えるしかない。

(67-2)「和佐五郎」・・松前重広の幼名。松前9代藩主松前章広の5男。「和佐・五郎」ではなく、名の「和佐五郎」。9代藩主章広の長男慶之助、次男見広(ちかひろ)、三男久之助が相次いで早世し、更に、この日(天保4428日)5男和佐五郎(重広)を失ったことになる。

 (66-2)「退役(たいやく)」・・役職を退くこと。役をやめること。

(67-2)「長病(ながやみ)」・・長い間、病気であること。また、その病気。ながわずらい。ながやまい。実際は、和佐五郎は、早世した。

(67-23)「不叶」・・叶うことがおできにならなくて。

   「かなひ(い)なされず」・・組成は動詞「叶う」の連用形「叶ひ(い)+動詞「為(な)す」の未然形「為(な)さ」+尊敬の助動詞「被(る)」の未然形「被(れ)」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」。

   「かなは(わ)せられず」・・租税は、動詞「叶う」の未然形「叶はわ」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の未然形「被(られ)」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」。

(67-6)「伺御機嫌(ごきげんうかがい)」・・①相手のきげんを見てうまくとりいろうとすること。②目上の人を訪問して、その人や家族の安否をたずねること。ここでは②。

(67-5)「殿様」・・松前藩9代藩主章広。章広は前年の天保2(1832)49日、松前に帰国し、天保3(1833)1012日開帆、118日に江戸到着。テキストの天保3428日は、松前で執務していた。

(67-5)「若様」・・昌広の孫・良広。昌広の嫡男の相次ぐ死亡で、文政10(1827)113日、良広を嫡孫(継承者)に決め、幕府に願書を提出、同月16日許可された。

(67-7)「鳴物高声(なりものたかごえ)」・・藩主やその家族などの死去や法事に際して、「鳴物高声停止」(音楽など娯楽をつつしむ)などの服忌令(ぶっきりょう)が出された。

江戸時代、大葬・国葬などの際、国中あるいは江戸・京都に令を発して、一定期間、一般人民に、営繕・音曲を禁止した。

(67-8)「御家中(ごかちゅう)」・・江戸時代大名家の内の総称として用いられ、したがって家臣団全体を総称する場合が多かった。

 (67-8)「町(まち)、在(ざい)」・・町と在。「在」は「在郷(ざいごう)」の略。いなか。在所。特に、都会から少し離れた所をいうことが多い。ここでは、松前城下と、東西の在郷。

(67-9)「普請不苦(ふしんくるしからず)」・・普請は行ってもよい。服忌令(ぶっきりょう)の内容に、「普請停止」もあるが、ここでは、普請を服忌の対象にしていない。

(68-1)「定式(ていしき・じょうしき)」・・さだまった形式。一定の方式。一定の儀式。

(68-1)「忌服(いみぶく・きぶく)」・・「きぶく(忌服)」の湯桶読み。また「きぶく」とも。一定の期間、喪に服して家にひきこもること。「忌(き)」は穢(けがれ)を忌(い)むこと。「服」は喪服(そうふく)の意。服忌(ぶっき)。

 *「服忌令(ぶっきりょう)」・・近親者が死没した際、喪に服する期間を定めた江戸幕府の法令。服は喪服、忌は紀で、年・節と同じく期間を意味する。ほかに、産穢・死穢など触穢に関する規定も付されていることが多い。文治政治を推進した五代将軍徳川綱吉は、儒者林鳳岡に同木下順庵・神道方吉川惟足らを協力させて服忌制度を整備させ、貞享元年(16842月日、服忌令を公布した。同年四月には、幕府の許可を得ずに服忌令を板行した者が処罰されているから、この令が発令後ただちに民間にも流布したことが察しられる。服忌令は、その後、細部について数回の改正があり、八代将軍吉宗のとき、元文元年(1736915日の改訂令で最終的に確定した。この改訂令は、親族の服忌を尊卑・親疎の程度によって六段階に分け、ここに規定された範囲の親族が原則的に親類とされて、種々の法的義務を課された。幕府の服忌令は武士および庶民に適用されるもので、諸藩においてもおおむねこれが準用されている。

 *以下は、溝渕利博著「讃岐高松藩における死の政治学と幕藩制的社会秩序の維持強化(上) =服忌令等葬送儀礼関連法令の政治文化史的役割を問うなかでー」(『高松大学・高松短期大学研究紀要第6061合併号』所収 2014)に見る高松藩の服忌の例

 (1)将軍の場合・・普請・鳴物・高声等停止、郷中諸殺生・魚鳥売買停止、川普請相止・諸事相慎、(宝暦11年=1761=の九代将軍徳川家重薧御の際)

(2)将軍夫人の場合・・七日間の普請・鳴物・高声等停止、弥火元入念(明和8=1771=の十代将軍家治の正室倫子薧去の際)

(3)天皇の場合・・七日間の普請・鳴物等惣而高声等停止、諸事相慎、火元入念、郷中井川普請穏便、三日間の仕掛之普請相止(安永8年=1779=の後桃園天皇崩御の

際)

 (4)藩主の場合・・①(領内全域へ)諸殺生禁止、津留、火之元等入念、諸事穏便、

②(町方へ)魚商売・諸殺生・鍛冶屋槌音・檜物屋槌音・綿打槌音・普請鳴物高声の停止、遊山の禁止、他所からの出入りの禁止、町年寄の昼夜見廻り励行、出口番所の監視、町中木戸・路地の〆切りなど三十三項目

③(浦方へ)家業之殺生・魚鳥商売の停止など三項目

④(郷中へ)家普請鳴物等の停止、川普請の停止、山分猟師及び諸殺生の停止、塩屋方手代の諸事静・相慎、昼夜火之廻り、鍛冶・鋳物師・木綿打・桶師等の停止など九項目、合計四十五項目にわたる細々とした服忌規制が出されている。(享保20年=1735=の高松藩三代藩主松平頼豊逝去の際)

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『蝦夷錦』5月学習注記

(5-1)「候之義」・・普通は、「候義」で助詞「之」はないのが一般的だが、「之」が挿入されている文書もある。組成はハ行四段活用動詞「候」の連体形「候」+格助詞「の」+形式名詞「義」。ほかに「候之間」「候之処」「候之時」「候之条」「候之由」「候之旨」「候之様」など。

     *「候」の活用:は(未然)・ひ(連用)・ふ(終止)・ふ(連体)・へ(已然)・へ(命令)。終止形と連体形が同じ「さふらふ」(現代仮名遣いでは「そうろう」)

     *格助詞「の」の接続:「の」は、体言と活用語の連体形に接続する。

     *形式名詞:国文法で、名詞の下位分類の一つ。松下大三郎の用語。それ自体には実質的意義が薄く連体修飾語を受けて名詞句を作る。和語では「こと・もの・あいだ・うち・とおり・とき・せい・はず・かた・ほど・よし・ふし・ところ・ゆえ」など、漢語では「件・儀(義)・体(てい)・方(ほう)・点・段・分」などがある。「事(こと)重大である」「そんなことをいうと為(ため)にならぬぞ」など、単独に用いられる場合は特に「実質名詞」として区別される。

**「形式名詞は形式的意義ばかりで実質的意義を欠く名詞である」(松下大三郎『標準日本口語法』〔1930〕)

     *連体形+「の」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

     <中世中頃、漢文訓読の場から、「あざむかざるの記」と書くような用法が成立する。連体形は連体格表示機能を有するから、その下にさらに連体格助詞「の」を用いることは本来あり得ないが、漢文の字面を離れても置字のあることがわかるようにとの配慮から、朱子新注学を奉ずる人々が従来不読の置字であった助字「之」を読んだところから生じたもの(小林芳規「『花を見るの記』の言い方の成立考」〔文学論藻‐一四〕)。>とある。

(5-5)「伯父(おじ)」・・父または母の兄弟。また、父または母の姉妹の夫。若年寄堀田摂津守正敬と仙台藩9代藩主松平政千代との関係は、正敬は、政千代の父(仙台藩8代藩主斉村)の弟にあたり、政千代にとって中国の序列に従えば、「叔父」になる。

*中国では、兄弟の序列は、「伯・仲・叔・李」の順。

**「伯仲(はくちゆう)」・・伯・仲・叔・季のうちの伯仲。一番上の兄と次の兄の間にある差という意味で、ほとんど変わらないこと。優劣がつけにくいこと両者匹敵する状態をいう。

傅毅之於班固、伯仲之閒耳。[傅毅(ふき)の班固(はんこ)に於ける、伯仲の閒なるのみ。]

〔(後漢の章帝のときに宮廷に仕えていた)傳毅と班固においては、(その才に)優劣はありませんでした。]

*<くずし字>「伯父」の「伯」の旁の「白」・・極端に崩れると、左右の縦画が「ヽ(点)」になる場合がある。

(5-5)「合力(ごうりき)」・・力を貸して助けること。金銭や物品を恵み与えること。

(6-1)「調役下役(しらべやくしたやく)・・奉行所の役職名。303人扶持。役扶持3人扶持。役金30両。なお、当時の松前奉行所の体制は、奉行→吟味役→吟味役格→調役→調役並→調役下役元締→調役下役→同心。

(6-1)「庵原直市」・・「直一」とも。(『休明光記附録別巻三』)。また、慶応三年の『履歴明細短冊』でも、箱館奉行支配向調役下役(定役)庵原勇三郎の祖父として、「庵原直一」の名前がある。

     *「庵原」の読み(『人名漢字辞典』)

テキスト ボックス: 姓	読み方
庵原	     あいはら
庵原	あまはら
庵原	あんばら
庵原	いおはら
庵原	いおばら
庵原	いおりはら
庵原	いはら
庵原	いばら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


(6-3)「寺西十次郎(てらにしじゅうじろう)」・・「重次郎」とも。寺西重次郎封元(たかもと)。幕臣。禄高705人扶持。徒組頭から陸奥国代官に昇進(『江戸幕府旗本人名辞典』)。寛政4(1792)塙代官として赴任。人口増のため、妊産婦登録制、乳幼児の保護と指導、衣服の簡素化、農村振興策、商工業振興策など多岐にわたる業績を上げた(『角川日本地名辞典』)。また、『国史大辞典』では、寺西封元を寛政の改革から文化期にかけての名代官の一人に挙げている。

(6-3)「花輪」・・「塙(はなわ)」か。陸奥国白川郡のうち。現福島県東白川郡塙町。享保14((1729)から幕府領として塙代官所が支配。塙代官所が所管役所(出張陣屋)を置いたのは、竹貫、小名浜、浅川。

(6-5)「郡中(ぐんちゅう)」・・小名浜は、陸奥国磐前(いわさき)郡に属しており、磐前郡を含めた小名浜陣屋の管轄地をさすか。

(6-4)「男名濱(おなはま)」・・「小名浜(おなはま)」か。陸奥国盤前(いわさき)郡のうち。現福島県いわき市小名浜。米野村、中島村、中町村、西町村の4か村の総称。寛文10((1670)河村瑞賢によって東廻り海運が創始されると、小名浜港は重要な寄港地となる。

(6-8)「御殿(ごてん)」・・代官は、勘定奉行の支配下にあることから、勘定奉行、若年寄、老中らの幕閣が勤務する江戸城さすか。

(6-8)「実音」・・「実音也」は朱書きとなっており、7頁の朱書きに続いている。

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古文書解読学習会のご案内

           札幌歴史懇話会主催 古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願いします。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2017年5月8日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3


◎現在の学習内容

 ①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。
②『蝦夷錦』・・文化丁卯事件の公文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の狼狽ぶりがよく表れています。

  4月 町吟味役中日記注記                                              

(59-1)「莚(むしろ)」・・藺(い)・竹・藁(わら)・蒲(がま)などで編んで作った敷物の総称。平安・鎌倉期は屋内用であったが、畳の普及後は屋外用となった。今はもっぱら藁筵(わらむしろ)をいう。

 *「莚」・・草で作ったむしろ。

  「筵」・・竹製のむしろ。

  「蓆」・・草でつくったむしろ。

  「席」・・むしろ。「筵」は下に敷くもの。「席」は、その上に敷くもの。

(59-1)「埋(うづむ・うづむる)」・・下2段「うづむ」の連体形。物の一部、または全部を土や灰の中などに入れ込んで外から見えなくする。また、埋葬する。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

 *<文法>・・平安期は、4段活用「うづむ」の連体形「うづむ」だが、室町期以降は下2段活用の連体形「うづむる」の用例が出てくる。

*「うずむ・うずめる」の基本的な意味は、「物の上に土など盛り上げて覆う」ことであり、これに対し、「うむ・うめる」のほうは「くぼみなどに物をつめてふさぐ、また、物を土などの中に入れ込む」ことである。中にある物は、「うずむ」「うむ」どちらの場合でも隠れて見えなくなるところから、同じような意味に用いられるようになったと思われる。「うずむ」・・・いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

「うずめる」・・人や物で、ある場所をいっぱいにする。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

「うめる」・・あたたかさや濃さを適度にするために、他の物をまぜ入れる。損失や不足などを補う。「欠員をうめる」「赤字をうめる」

(59-2)「訴出(うったえいで」・・事情を述べ伝える。また、要求や不平、うらみなどを人に告げる。申し出る。「出(いで)」は、下2動詞「出(い)づ」の連用形。

(59-3)「勝見米三郎」・・文政期の『松前藩士名簿控』には、足軽並に勝見米三郎の名前が見える。

(59-4)「相立(あいたち)」・・「相」は接頭語。「立(たち)」は、「たつ」の連用形。時が過ぎる。現在では、「経つ」を用いることが多い。

(59-4)「着類(きるい)」・・着るもの。衣類。衣服。また、そのたぐい。「着類(きるい)」と読むのは湯桶読み。

  *湯桶読み・・(「ゆ」は「湯」を訓読みしたもの、「とう」は「桶」を音読みしたものであるところから)上の字を訓で、下の字を音で読むこと。テキストの場合、「着(き)」は訓読み、「類(るい)」は音読み。ほかに、「手本(てほん)」「身分(みぶん)」「野宿(のじゅく)」「下絵(したえ)」「夕刊(ゆうかん)」など。

  *「咄家(はなしか)と云ては湯桶訓(ユトウヨミ)だ。咄は訓なり、家は漢音だ」(滑稽本・浮世床〔1813〜23〕)

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

<「書言字考節用集」が初出とされるが、それに先行して、「文明本節用集」(室町中)には「湯桶文章」、「かた言‐五」(一六五〇)には「湯桶言葉」といった表現が見られる。元来は音訓の順番を問わず混読語の総称として用いられていた。明治時代でも大槻文彦の「言海」(一八八九)では「重箱読み」との区別がされていないが、山田美妙の「日本大辞書」(一八九二〜九三)では区別している。使い分けが定着したのは、第二次世界大戦後か。>とある。

(59-6)「吉岡村(よしおかむら)」・・現松前郡福島町字吉岡・字館崎(たてさき)・字豊浜・字美山。近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置し、北方は宮歌(みやのうた)村、東は津軽海峡。明治39年(1906)吉岡・宮歌・礼髭(れいひげ)の三村が合併、二級町村吉岡村を経て、。昭和30(1955)福島町に合併。

(59-67)「廣念庵(こうねんあん)」・・光念庵(のち海福寺)。元禄6(1693)高庵により造営。浄土宗。松前正行寺末。

(59-7)「回向(えこう)」・・読経や念仏など、善根の功徳を死者に手向けること。死者の冥福(めいふく)を祈って読経をしたり、念仏を唱えたり、供えをしたりすること。供養。たむけ。

  *「回」を「え」と読むのは、唐音の「ウイ」から転じたと思われるが、慣用音とする辞書もあり、湯桶読みともいえる。

(59-8)「正行寺(しょうぎょうじ)」・・現松前町字豊岡にある浄土宗の寺院。近世の松前城下に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華寺がある。護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。元禄14年(1701)京都知恩院の末寺となった。寛政9年(179710月大松前町からの出火で馬形宮・法華寺などとともに類焼。文政10年(1827122日には当寺から出火して全焼した。明治6年(1873)福山・檜山漁民騒動といわれる減税要求の漁民一揆が江差・松前地域に起きた際、浄土宗の光善こうぜん寺とともにその結集の場となった。

(59-8)「被下候もの」・・下され物。頂戴物。拝領品。たまわりもの。くだされ。

(59-9)「取調子(とりじょうし)」・・取調べ書。

(60-枠外上)「捨札(すてふだ)」・・近世、重罪人の処刑前後、その氏名・年齢および科書といわれる罪状を板に記し、広く民衆への見せしめのため、三十日間街頭に掲げた高札の一種。鋸挽・火焙・磔・獄門などの執行時は必ず建てられた。『御定書百箇条』に「磔(中略)科書之捨札建之」とある。江戸での火焙には捨札が日本橋・筋違橋・赤坂御門・両国橋・四谷御門の五ヵ所に建てられ、これを五ヵ所引廻と呼び、引廻の際、先頭を歩む非人が捨札をかかげ持った。罪状公示の外にも、通達文書が書かれた場合もある。

 11文字の縦書き・・日本語は漢文に倣い、文字を上から下へ、また行を右から左へと進めて表記を行うものである。漢字と仮名は縦書きを前提とした筆順。扁額や石碑の題字などは一見すると右横書きのように見えるが、これらは「11文字の縦書き」、つまり縦書きの規範で書かれたものであって右横書きではない。日本で出版物に左横書きが現れるのは、18世紀後半に蘭学が紹介されてからのこと。

  ◎「昔は右横書き、戦後左書き」という説明は正確ではない。

◎戦後、GHQによるローマ字採用勧告や漢字の廃止運動など、西欧の記法に倣う左横書きが革新的、「11文字の縦書き」は保守的、というイメージは決定的なものとなり、「11文字の縦書き」は衰退の一途をたどることとなった。

◎戦前は11文字右縦書きだったが、戦後左横書きになった

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【2017.4月学習 注記】

0―1)「箱館奉行」・・享和2(1802223日、蝦夷地奉行として新設されたが、同  

   年510日(『柳営補任』では33日、『通航一覧』付録は5117)、箱館奉行と改称、以後、文化4(1807)101024日、奉行所が、箱館から福山(松前)に移転し、松前奉行と改称した。

0-1)「支配組頭」・・支配吟味役。支配吟味役は、300俵高、御役金百両。定員3人。

0-1)「高橋三平」・・高橋守重賢(たかはししげかた)。幕臣。生没:宝暦8(1758)~天保4(1833)。寛政11(1799)蝦夷地御用を命じられる。享和2(1802)1018日箱館奉行支配吟味役となる。文化10(1813)のロシア人艦長ゴロウニンの釈放交渉では応接掛を務めた。のち、文政3(1820)38日、松前奉行となる。

0-2・4)「被□仰付」・・「被」と「仰付」の間が空いているが、「仰」などの文字の前を空けることがある。これは古文書特有の尊敬の体裁で、「欠字」という。

0-4)「卯」・・文化4丁卯年(1807)

0-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府・諸藩の職名。定員は、初め十数名~20名程に及んだが、享保17(1732)10名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保8(1723)に役高千石とされた。     退任後は、長崎奉行、佐渡奉行などの遠国奉行、小普請奉行などへ進む者が多かった。

0-5)「遠山金四郎」・・遠山景晋(かげみち。かげくにとも。)。幕臣。生没:宝暦2(1752)~天保8(1837)。通称、金四郎。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。箱館着は712日。寛政6(1794)学問吟味甲科筆頭で合格。目付(享和2(1802)3.13~文化9(1812)2.17)、その後、長崎奉行、同13(1816)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、名奉行と称された「遠山の金さん」。

0-6)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。若年寄支配の役料500俵、役高は千石。島原の乱後は、軍事的な職務は必要なくなり、全国統治上の視察、監察を主要な役職とした。また、目付とともに、火事場の視察、報告、指揮、大名火消、定火消役の監察、考査などにあたった。定員は、元和3(1617)28名と定められたが、文化年間(1804~18)以降は、560名程度。慶応年間は110余人の人員がみられる。

0-6)「小菅猪右衛門(こすげいえもん)」・・小菅正容(まさかた)。幕臣。高1500石。使番の在任期間:寛政9(1797)正.11~文化510.24。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は726日。

(1-1)「村上大学」・・村上義雄(よしかつ)。幕臣。高1065石。使番在任期間:享和2(1802)正.11~文化7(1810)7.8.目付へ。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は711日。この時、大学は監物と改名。

(1-3)「彼地へ被指遣(さしつかわされ)」・・「被指遣」。「指遣」は、普通は「差遣」。派遣される。「へ」は、「ヽ」と右側のみになる場合が多い。「被」は、小さく、ひらがなの「ら」のように書く場合がある。

(1-5)「発足(はっそく・ほっそく)」・・旅立つこと。出立すること

(1-8)「大名三手江壱人宛」・・「大名三手」とあるが、箱館奉行羽太正養が派兵を要請したのは、南部藩・津軽藩・秋田藩・庄内藩の4藩。南部・津軽・秋田・庄内藩では変報到来とともに出兵の準備をなし、6月中には4藩の兵3000人余が箱館に到着、箱館(南部勢342、秋田勢591人)・サハラ(南部勢30人)・ウラカワ(南部勢100人)・アッケシ(南部勢130人)・ネムロ(南部勢130人)・クナシリ(南部勢380人)・松前(南部勢130人、津軽勢330人。    

庄内勢318人)・江差(津軽勢300人)・ソウヤ(津軽勢230人)・シャリ(津軽勢100人)に分遣される。

(1-8)「差添(さしぞい)」・・付き添うこと。かかわり合うこと。他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。小菅、村上らは、諸藩の兵を監督した。

(1-9)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ・だいぜんのかみ)」・・大名。陸奥国盛岡藩の10代藩主南部利敬(としたか)。受領名、大膳大夫。藩主在任期間:天明4(1784)7.17~文政3(1820)6.15

(2-1)「津軽越中守」・・大名。陸奥国弘前藩(津軽藩とも)の9代藩主、津軽寧親(やすちか)。受領名、出羽守、越中守。藩主在任期間は寛政3(1791)8.28~文政8(1825)4.10)。

(2-2)「発駕(はつが・ほつが)」・・駕籠で出立すること。貴人の出立をいう。

(2-5)「松平政千代」・・大名。陸奥国仙台藩9代藩主伊達周宗(ちかむね)。通称、政千代。受領名、なし(歴代藩主で唯一人「陸奥守」の受領名がない)。寛政8(1796)、父斉村(なりむら)の死により、伯父堀田正敬の補佐のもと、10歳で襲封。藩主在任期間は寛政8(1796)9.29~文化9(1812)2.7。文化9(1812)424日卒、17歳。なお、「松平」姓は、慶長13(1608)に、初代藩主政宗が賜り、陸奥守に転任していることから、以後の藩主も、「松平」の姓を名乗ることがある。

(2-6)「千勢」・・「千」は、「手」で、手勢か。手勢は、その人が直接ひきいている軍勢。

(2-7)「佐竹右京大夫(さたけうきょうのだいぶ・うきょうのかみ)」・・大名。出羽国秋田藩(別称久保田藩)9代藩主佐竹義和(よしまさ)。受領名、右京大夫。藩主在任期間は、天明5(1785)726日~文化12(1815)78日。

(2-9)「物頭(ものがしら)」・・弓組、槍組、鉄砲組などの足軽の頭。足軽大将。 

(3-3)「若年寄(わかどしより)」・・江戸幕府で老中に次ぐ要職。将軍に直属し、老中支配以外の諸役人及び旗本を統轄した。定員は、3~5人。ほかに、将軍世子付の西丸若年寄、前将軍付きの大御所付若年寄があった。6万石以下(主に1万石~3万石)の譜代大名で、奏者番、奏者番兼寺社奉行、側衆、大番頭などからの登用が多かった。

(3-3)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・大名。近江国堅田藩主堀田正敬(まさあつ)。受領名、摂津守。仙台藩9代藩主伊達宗村の8男で、近江国堅田藩主堀田正富の養子となる。若年寄(在任期間:寛政2(1790)~天保3(1832))として財政事務を担当し、老中松平定信を補佐するとともに、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めた。のち、文政3(1820)、下野国佐野へ転封。

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『蝦夷錦』4月学習注記(1)

【書誌】

  本書の影印は、昭和8(1933)127日、北海道帝国大学附属図書館(現北海道大学附属図書館)の所蔵になった『蝦夷錦』である。成立年は文化4(1807)

内容説明 文化丁卯事件の際の公私文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の     狼狽振りがよくあらわれている。

【文化露寇事件まで】(『新北海道史年表』参照)

<寛政4年(1792)

9.5 ロシアの遣日使節ラックスマン、大黒屋幸太夫をともないネムロに入津。修好要望の書簡を持参。

<寛政5(1793)

6.27 ラックスマン、幕臣石川忠房より長崎に至るべき信牌の交付をうける。

<寛政11(1799)

1.16 幕府、書院番頭松平信濃守忠明・勘定奉行石川左近将監忠房・目付羽太庄左衛門正養(まさやす)ら、東蝦夷地仮上知に付、この件の担当老中戸田采女正氏教より、蝦夷地取締御用を命じられる。

1.16 幕府、異国境取締のため、東蝦夷地を当分の間、試みに上知する旨松前藩に通達(上知の範囲を東蝦夷地浦川より知床および東奥島までとし、期間を7か年。『松前家記』によれば211日に松前藩に通達。)

6.- 松前藩、東蝦夷地の仮上知にともない幕吏の松前藩領往来繁雑にて困難の筋もあるにつき、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知を内願(同じ頃仮上知の代地も内願)。

8.12 幕府、内願のとおり5000石の代地(武蔵国埼玉郡の12か村)を下付し、追上知を認める旨、松前章広に達す。

11.2 幕府、箱館表の警固を罷め、サハラならびにクスリ辺に勤番所を取建て、御用地年限中、重役の者2~3人、足軽1000人程を駐留させるべき旨、南部大膳太夫・津軽越中守に命じる。毎年、双方より、500人ずつ足軽を派遣、津軽藩は、サハラよりウラカワまで、南部藩は、ウラカワ以東を固め、南部・津軽藩は、箱館にそれぞれ本陣を置き、以後、津軽藩は、サハラ・エトロフに、南部藩は、ネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を補理する。

<寛政12(1800)

2.16 幕府小納戸頭取格戸川藤十郎安諭(やすのり)・小納戸大河内善十郎政良、蝦夷地巡見を命じられる。3月江戸出発、東蝦夷地クナシリ島まで巡見、9月帰府。

<享和元年(1801)

4.1 松平忠明・羽太正養・石川忠房、箱館に到着。忠明は4.22箱館出発、勇払よりシコツ川を通り西蝦夷地を巡見、7.7箱館帰着、7.10帰帆。正養は4.22箱館出発、東蝦夷地をクナシリ島まで巡見、9.5箱館帰着、福山見分、9.16出帆。忠房は4.21箱館出発、東蝦夷地をシレトコ崎まで巡見、7.10箱館帰着、出帆。

5.30 幕府普請役中村小市郎・小人目付高橋次太夫、カラフト島見分の命を受け、東海岸を小市郎が担当してナイブツまで、西海岸を次太夫が担当してショウヤ崎まで検分、8月山丹交易事情や松前藩の樺太の取扱い等を復命。

6.27 幕府支配勘定格富山元十郎・仲間目付深山宇平太、ウルップ島見回り御用にて、エトロフ島シベトロを出船、ウルップ島オカイワタラの岡に「天長地久大日本属島」の標柱を建て、ラッコ猟のためトウボ滞在中のロシア人に遇い、その状況をさぐり、7.7シベトロに帰着。

<享和2年(1802)

2.23 幕府、蝦夷地奉行を新設。戸川筑前守安諭・目付羽太庄左衛門正養(12.16安芸守に任ぜられる。)をこれに任命。

5.10 幕府、蝦夷奉行を箱館奉行と改称。

7.24 幕府、東蝦夷地の仮上知を改め、永上知とする旨松前藩に申渡す。永上知の代価として年々3500両ずつ下付し、武州久喜の所務および東蝦夷地収納よりの下渡金を廃止。

12.14 幕府、戸川安諭、羽太正養に1年毎交代にて箱館在勤を下命。

<享和3癸亥年(1803)

1.18 幕府、箱館奉行支配調役6人・同調役並5人、同調役下役10人を任命、箱館奉行所の体制を整える。2.2321人のうち14人在勤、7人を江戸掛と決定。

<文化元年(1804)

4.21 箱館奉行羽太正養、江戸出発、箱館に到り、戸川安諭と交代。

8.2 幕府、南部・津軽藩の蝦夷地勤番を寛政11年より7か年間の期限付きから永々勤番に改める。

9.6 ロシアの遣日全権使節レザノフ、クルーゼンシテルンの率いる世界周航の探検隊と共に、ナデジダ号に搭乗し、仙台の漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に来航。通商をもとめる。レザノフは、上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。レザノフは、寛政4(1793)に松前で幕府がラックスマンに交付した信牌を携えた正式な使節であった。

<文化2年(1805)

3.7 ロシア使節レザノフ、長崎奉行所にて、奉行肥田豊後守、幕府派遣の目付遠山金四郎出席のもと、通商要求を拒絶される。

3.18 ナデジダ号、レザノフをのせて長崎出航。日本海を北上してカムチャッカに向かう。レザノフは、帰国後、ロシア皇帝に樺太の領有を具申し、かつ部下のスヴォストフとダヴィドフに報復処置を示唆するという。

7.16 幕府、目付遠山金四郎・勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき準備を命じる(西蝦夷地を収公するための調査と考えられている。)。遠山金四郎は、勘定・徒目付などを伴い閏8.13江戸出発、冬(10.3)福山に到着。村垣左太夫は病気のため途中引き返し、翌年春福山着。

 

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◎日時:2017年4月10日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。
②『蝦夷錦』・・文化丁卯事件の公文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の狼狽ぶりがよく表れています。

3月学習町吟味役中日記 注記 

(53-1)「沖ノ口」・・松前藩の役所。

(53-12)「桜庭梅太郎」・・「町年寄日記抜書」(『松前町史史料編第二巻』所収)文政9813日の項には、「町年寄」にその名がある。また、文政期(年代不詳)の『松前藩士名前控』には「町下代」に名が見える。

(53-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代では、口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有する者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。口書は下役人が作成して供述者に捺印させる。男子は印形を用いさせるが、なければ爪印、女子は爪印、武士は書判であった。捺印された口書は奉行による供述者の訊問によって確認されるが、奉行の面前で捺印させる場合もあった。吟味詰りの口書は場合により詰文言を異にすることで知られる。詰文言は「不埓之旨御吟味受申立様無御座候」というような文言であるが、叱・急度叱・手鎖・過料などの軽い刑(御咎)の場合には、「不埓」「不念」「不束(ふつつか)」と(「不埓詰」)、所払追放以上の刑(御仕置)の場合には、「不届」と(「不届詰」)、数罪あるときは、軽い方には「旁不埓」、重い方には「重々不届」と詰めた。

(53-6)「調子(ちょうし)」・・調子帳(ちょうしちょう)。調書。

(53-9)「在方下役(ざいかたしたやく)」・・町奉行配下の在方掛に属する役人。

(54-1)「大沢村(おおさわむら)」・・現松前郡松前町字大沢。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」によれば文亀2年(1502)大沢に永善坊(のちの寿養寺)が建立されたといい、「松前家記」には永正14年(1517)「大沢ノ寿養寺ヲ大館ニ遷ス」とあることから、一六世紀の初めにはある程度の集落の存在が考えられる。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

 大正12(1923)、上及部村・大沢村・荒谷村・炭焼沢村が合併し、二級町村として発足、四大字を編成した。昭和29(1954) 松前町の一部となる。

(54-1)「温泉場」・・大沢村の温泉場は、天保6年(1835)には城下寅向(どらめき)町上野へ汲湯することになった。現在同地に、日帰り温泉施設「松前温泉保養センター」がある。

(54-2)「願書(ねがいがき)」・・願いごとを記した書き付け、手紙。

(54-4)「頭取 古田八平」・・足軽頭取。くずし字「頭」

(55-7)「様子(ようす)」・・現代では、けはい。そぶりの意味が強いが、ここでは、そういう状況であることをいう。

(55-8)「跡役(あとやく)」・・前任者の役や権利を引き継ぐこと。また、その人。後任。後任者。

(57-1)「八幡宮」・・松前家2世・光広が永正13(1516)、徳山館に建立した。

(57-1)「殿様」・・松前藩9代・松前章広。

(58-2)「奥村英晋」・・松前藩医者。

(58-6)「御匙医(おさじい)」・・匙で薬を盛るところから、将軍、大名等の病気を診断するのを専門とする医師。おさじ

  江戸時代の医師は、一般には刀圭家(とうけいか)、将軍家や大名などの侍医、御典医は、お匙(おさじ)と呼ばれており、これは江戸時代の漢方医が、薬を調剤するときに「薬匙」を扱う姿を、周囲の人々には頼もしく映ったことに由来する呼称。

 そもそも「薬匙」とは、固形薬物または粉末薬をすくって調合する匙で、大小さまざまな大きさと形の種類がある。材質は金属、あるいは動物の牙や角や、木製などからできていて、日常的には丈夫で錆が生じ難い真鍮製、金、銀、銅(近年ではステンレスやプラスチック)の製品を用いていた。しかし、金属に触れて変化する薬物を扱う際には、牛角や象牙製のものを使用していた。

 *「匙加減」・・道具としてだけでなく、その微妙な調整技術を含めて「匙加減」という言葉が多用されるようになった。もともとは、匙ですくう薬の多少を「匙加減」と言い、患者を生かすも殺すも、この待医の「匙加減」一つで決まったことから派生して物事を扱う場合の状況に応じた手加減、手心の加え方を表す意味としても広く使われている。

 *「匙を投げる」・・「匙を投げる」とは、医者が匙を投げ出すことから、患者に治る見込みがないと診断して治療を断念すること。物事の見込みがないとあきらめて、これ以上やってもしょうがないと見放す意味で使われるようになった。

  匙を使って薬を盛る医師の技術は、この他にも「匙先」「匙執り」など、さまざまな言葉で表されていて、微妙な匙加減は、医師の大切な技術だったことがわかる。

(58-9)「宮ノ哥村(みやのうたむら)」・・現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。

近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌みやうた川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「宮のうた 小川有 澗あり 家二十軒」とみえる。元禄郷帳に「宮のうた村」、享保12年所附には「宮の哥村 此辺おやち沢迄一里」と記される。天保郷帳では宮之哥村。宮歌村文書、宮歌村旧記(北海道大学北方資料室蔵)によると、寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。二~三年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村(現乙部町)が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。松前八左衛門は二代松前藩主松前公広の三男として寛永4年福山館に生れ、小字を竹松丸、または甚十郎と称し、長じて八左衛門泰広と名乗った。同一九年出府し、そのまま幕府に召され、正保3年(1646)廩米(扶持米)一千俵高の旗本となっている。明暦元年(1655)松前に来て藩主高広の後見をし、シャクシャインの戦でも平定に尽力した。のち一千一〇〇石の大身となった(寛政重修諸家譜・松前町史)。当村は明暦元年以降八左衛門の知行所となったと考えられ、同年八左衛門は八幡宮を建立している(福島町史)。

蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。元文4年(1739)には両村の間に騒動が起き、当村は八左衛門代理人で家老の松前将監貢を頼んで藩に訴え出ているが解決をみなかったらしく、天明7年(1787)、文久3年(1863)、慶応4年(1868)、明治7年などにも同様の訴えがあり、紛争が絶えなかった(前掲旧記・宮歌村文書)。当村は一村で沖之口問屋株をもっていた。問屋は寛政6年(1794)の設置で(「永代之記録」宮歌村文書)、沖之口の番所を吉岡よしおか村に設けたものの港が悪く、荷物の積下ろしは実質貝取かいとり澗(現字豊浜)と宮歌の澗で行われていた関係から、宮歌村に問屋を設けて管理する必要があったためとされる(宮歌村文書など)。明治39年吉岡村に合併。

魯夷始末書3月学習分注記

68-1)「両口(りょうぐち)」・・両方の口。二つの口。日本とロシアの両方に二股をかけていることを意味するか。

68-1)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。

68-2)「内実(ないじつ)」・・内部の事情。内幕(うちまく)。

68-3)「伊豆守」・・松前藩第12代藩主松前伊豆守崇広。藩主在任期間:嘉永2年(184969日~慶応2(1866)424日。のち、老中(元治元11~)、海陸軍総裁(慶応元9.21~10.1)となる。また、崇広の時代、松前藩は、箱館周辺に加えて、安政2(1855)2月、和人地の大半(東部木古内以北、西部乙部村以北)と東・西・北蝦夷地を収公(幕府の直轄領)されるが、同年12月、替地として陸奥国伊達郡梁川などを与えられたことにより、無高から表高3万石の正式な大名となった。

68-2)「不被及御沙汰(ごさたにおよればず)」・・問題になされず。「不被及(およばれず)」の組成は、「及ぶ」の未然形「およば」+尊敬の助動詞「被(る)」の未然形「れ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

     *「不被及」は、「およばられず」とも読めるが、語調が不自然で、ここは、「およばず」とする。

     *「被」は、多くは受身・尊敬の助動詞「らる」(及びその活用形)として用いられるが、受身・尊敬の助動詞「る」(及びその活用形)としても使われる。

     *尊敬を表す「る」は、他の尊敬を表す「給う」などにくらべると尊敬の度合いが低い。

     *助辞「被」・・「被」を「らる」「る」と読むのは、漢文訓読用法から派生した読み方。動詞の前に置かれ、受身であることを表す。

      吾皇太后徴  われ皇太后に徴(チョウ)さるるも、

      未為  未(いまだ)為(な)す所を知らず(『三国志』)

68-3)「后後(こうご)」・・のちのち。あとあと。「后」には、「きさき」「のち」の訓がある。『新漢語林』は、<常用漢字表には、この字の音は「コウ」しかないので、現在表記で「後」の代わりとして「戦后」「午后」「食后」などど公の場で用いるのは、適切でない>としている。

     *「后」は常用漢字(6学年習得相当の教育漢字でもある)

     常用漢字表は、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すもの」(平成221130日内閣告示の「常用漢字表」前文)だから、「皇室典範」第15条、17条に「皇后」があるので、「后」は、常用漢字から外せない。

     同様に、「朕」、御名御璽の「璽」も、日本国憲法の「上諭(じょうゆ)」(天皇の裁可)にある文言だから、常用漢字になっている。

68-4)「不立入様(たちいらざるよう・たちいらぬよう)」・・

     「不」は、漢文訓読の返読用法で、基本形は打消しの助動詞「ず」。

 

未然

連用

終止

連体

已然

命令

 

ざら

 

ざり

 

 

ざる

 

ざれ

 

ざれ

     テキストは、連体形だから、「ざる」「ぬ」の両方の読みがある。両方とも文語体だが、「ざる」の方が、固いニュアンスがある。

68-5)「巨細(こさい)」・・一部始終。委細。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

     <(1)字義どおりの「巨と細」の意味に加えて、漢籍で「無巨細」と使われることが多く、そこから「細大もらさず」という意味になっていったと思われる。また、中世以降、記録とその影響を受けた軍記物を中心として、「巨細」だけで「詳しく」という意味を持つようになる。

(2)キョサイの読みも「伊呂波字類抄」に見えるが、呉音系のコサイの読みの方が一般的である。>とある。

68-8)「寅(とら)」・・ここでは、嘉永7年あるいは安政元年、西暦(グレゴリオ暦)1854年を指す。(嘉永7年1127日、御所の炎上やペリー再航などにより、安政に改元された。)

69-1)「今年三月」・・安政元年(1854)三月を指す。ロシア使節プチャーチンは、安政元年323日に長崎に再々来航し、329日に沿海州のインペラート湾へ出航。

     この時、プチャーチンは、日本側に対して、「本年六月樺太アニワ港において境界交渉を行う」旨の覚書を送っている。なお、『村垣公務日記之二』によれば、堀と村垣が、老中の阿部伊勢守からの「魯西亜使節、からふと江相廻り候ハヽ、境界之大要等応接いたし候様」命じられた御用状を受け取ったのは、59日、ソウヤ逗留中であった。

69-1)「筒井肥前守(つついひぜんのかみ)」・・幕臣。生没年、安永7年(1778)~安政6年(1859)。82歳。名、政憲(まさのり)。字、子恒。叙任名、伊賀守、和泉守、紀伊守、肥前守。文化14年(1817)長崎奉行。文政4年(1821)江戸町奉行。天保12年(1841)西丸留守居。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)大目付(海防掛)。同年1221日締結の日露和親条約に署名。

69-1)「川路左衛門尉(かわじさえもんのじょう)」・・幕臣。生没年、享和元年(1801)~慶応4(1868)68歳。名、聖謨(としあきら)。叙任名、左衛門尉。幕府徒士内藤歳由の次男。文化9年(1812)川路光房の養子。天保11年(1840)佐渡奉行。小普請奉行、普請奉行、奈良奉行、大阪東奉行を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)日露和親条約締結に署名。安政5年(1858)西丸留守居。安政6年(1859)隠居。文久3(1863)外国奉行。慶応4(1867)315日江戸城開城目前にして拳銃自殺。

69-3)「疆界(きょうかい)」・・(日本とロシアとの)国境。「疆」は、「さかい」を意味し、同訓は「境」。弓扁の「彊(きょう)」は、別字。

69-3)「某等(それがしら)」・・幕府から派遣された御目付堀織部正と御勘定吟味役村垣与三郎ら一行。

69-4)「六月十八日」・・『蝦夷日記』によれば、「堀、村垣の両殿様は、(617日、クシュンコタンを御出立、リヤトマリに泊り、)618日、シラヌシ御着となり、以後、三日間逗留と」している。

     その後、村垣は、622日、シラヌシ出立、西海岸エンルモコマナイ(真岡)まで行き、71日、シラヌシに立ち戻り、逗留し、711日にソウヤへ渡海、樺太島を離れ、閏729日、箱館へ帰着。一方、堀は、622日、シラヌシ出立、西海岸ライチシカ~東海岸マーヌイを見分後、820日、箱館に帰っている。

694.5)「貴国之人」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の隊長ブッゼら。

69-5)「営柵(えいさく)」・・柵、営造物、建築物。

69-5)「使節」・・ロシアの遣日全権大使エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(海軍提督)。本書ではホウチヤチン。日本語表記名「布恬廷」。

69-5)「両人」・・ロシア使節応接掛の筒井肥前守と川路左衛門尉。

69-5)「書」・・暦数千八百五十四年(1854611日(安政元年516日)付け船将次官ポスシエト名義の筒井・川路宛の「アニワ港での境界交渉の中止」を告げる書簡(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書)

69-7)「二国」・・日本とロシア

69-8)「議(ぎ)せむ」・・「議する」は、集まって意見を述べ合う。審議する。

69-8)「東西」・・樺太の東浦(東海岸)や西浦(西海岸)を指す。

69-9)「与里て(よりて)」・・「与=よ」、「里=り」。

6910)「む那し具(むなしく)」・・「那=な」、「具=く」。「空しく、虚しく」

6910)「怒(ぬ)」・・「怒=ぬ」。

70-1)「此日」・・本文書中には、特定した日にちが記されていないが、『村垣公務日記之ニないし三』では、村垣が西海岸廻浦を終えシラヌシに逗留中の710日の条に、「露人来ラバ箱館へ廻航セヨト」告げるように指示をしたり、ソウヤ逗留中の713日の条に、「露人へ示スベキ置書簡(蘭文)」として、料紙大奉書を箱に入れ、堀織部が廻浦から(クシュンコタンへ)戻って来た時に渡すように、松前藩の田崎与兵衛へ託したことが、記されていることから、「此日」とは、「713日前後」と推認できる。

71-図中右・上)「豕畜類(いちくるい)」・・「豕(シ、い、いのこ)」は、本来、「いのしし」を指すが、「豚」類の総称としても用いられる。

71-図中右・中)「大将ホツサイ」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長ブッセ(陸軍少佐)。

71-図中右・下)「役出小屋」・・P73-10の説明では、「一 西ノ角焚出小屋」と、「焚出」となっている。また、異図(「唐太島くしゅんこたん露西亜人城柵之図 浩然随筆所収」~『村垣公務日記』所収」では、「焼出シ部屋也」となっている。

72-図中左・中)「ロタノスケ」・・ムラヴィヨフ哨所の副隊長ルダノフスキー(海軍大尉)

74-9)「畳上(たたみあぐ)」・・積み上げる。積み重ねる。

7414)「剣付鉄炮」・・「剱」は、「剣」の異体字(俗字)。また、「炮」は、火扁で、旁は勹(つつみがまえ)の中が「巳」である。剣付鉄炮は、先端に剣をつけた小銃。銃剣。

 

 

2月町吟味役中日記 注記

(47-2)「某(それがし)」・・ここでは、自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 なお、他称に用いる場合も多く、「なにがし」と読む。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

 <「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い>

 とある。

 *「某彼某(それがし‐かれがし・それがし-かがし)」・・他称。名がわからない、または、はっきり示さない場合、二人以上の人をさしていう。だれだれ。なにがしかにがし。それがしかがし。それがしそれがし。それかれ。

 *「某某(それがし-それがし)・・「それがしかれがし(某彼某)」に同じ。

 *「其此(それこれ)」・・他称。数多くの人や事物をさし示す。あれやこれや。

 *「其彼(それかれ)」・・他称。二人以上の名をそれと明示しないでいう語。

(47-2)<くずし字>「問合(といあわせ)」の「問」・・門構えが、「つ」のようになる。テキスト影印は、極端な「一」。なお。「問」の部首は、門構えでなく、「口」部。

(47-3)「申付(もうしつく)」・・ここは、終止形と見て、下二段動詞「もうしつく」。現代用語では、「付(つ)く」は、「付(つ)ける」。

(47-2)「申渡」・(47-3)「申付」・・「申」の5画目が長く、「申し」と「し」があるように見えるが、古文書では、「申(もうし)」には、「し」の送り仮名は、ほとんど付けない。

 「申入」「申上」「申候」「申立」「申遣」「申越」

(47-7)「乗馬(じょうば・のりうま)」・・乗るために用いる馬。

(47-78)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。なお、勝馬自身、嘉永元年(1848)48日から同3(1850)7月まで、御側頭になり、そして、『御側頭御役中御用手控』、『番日記』(いずれも北海道大学附属図書館蔵)を残している。『番日記』は、嘉永3(1850)77日で終っている。「奥平履歴」にある「病気差重、存命無覚束候ニ付、御役御免奉願」は、この時期か。勝馬は、この年112日、没した。

(47-8)「依而(よって・よりて)」・・動詞「よる(寄)」の連用形に助詞「て」の付いてできた語。漢文の訓読から生じた。前の事柄が原因・理由になって、後の事柄が起こることを示す。だから。故に。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、

 <(「よって」の)出現時期については、読み仮名・送り仮名が無い場合の「因」「依」「仍」を「よりて」「よって」のどちらに読むのか断定できないため、鎌倉時代初頭頃までさかのぼる可能性がある。>

 とある。

(47-8)「其刻(そのきざみ)」・・その時。その当日。そのおり。

*文明本節用集〔室町中〕「其刻 ソノキザミ」

(48-3)四ツ半時」・・午前11時頃。

(48-3)<欠字>「登城」・・「登」と「城」の間の空白は、尊敬の体裁の欠字。

 *多く使用される欠字・・①尊敬の動詞の前「被 仰付(おおせつけられ)」「被 申(もうされ)」「被 召(めされ)」「被 成(なられ)」「被 下(くだされ)」「被 達(たっせられ)

  ②「御」、「公」

  ③テキストのような「城」の前の欠字

(48-5)「下(さが)ル」・・目上の人や客などのいる前などから退く。退出する。

(48-6)「夕七ツ半」夕七ツ半

(48-8)「大塚伴博」・・P38は、「大塚伴亮」としている。

(48-9)「案内」・・事情、様子などを知らせること。しらせ。中古のかな文では、撥音「ん」を表記しないで「あない」と書くことが多い。本来、「案」は文書の写し、および下書きをいい、「案内」は案の内容を意味した。平安時代以後、内情、事情その他の意に転じて用いられている。漢語本来の意味としては「事件の内に・一件中に」などを指すが、日本では、上代・中古の格(律令を執行するための臨時の法令)、符(上級官司から下級官司に出す命令文書)等の古文書、記録、日記類の漢文あるいは変体漢文に盛んに用いられ、日本語として独自の意味をもつようになったもの。

(48-9)「相詰ル」・・「相(あい)」は接頭語。

    「詰ル」は、古文では、下二段活用「詰む」の連体形とすると、「詰(ツム)ル」で、連体止め。

    現代文法では、下一段活用の終止形で、「詰(つめ)ル」。

(49-2)(49-7)<くずし字>「いたし候」・・連綿体。行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの。

(49-3)「知内村」・・上磯郡知内町。近世から明治39年(1906)までの村。北は木古内い村(現木古内町)、南は小谷石村(現知内町のうち)。

(49-6)「下役(したやく)」・・町奉行の吟味役配下の役職。本テキストは「吟味下役」(P37)としている。永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色―」(新北海道史編集機関誌『新しい道史 第11号』1965)には「下吟味役」とある。

(49-6)「梅沢由右衛門」・・松前藩町奉行配下の吟味下役。

(50-2)「古田八平」・・『松前藩士名前控』に、新組足軽として名がある。

(50-2)「岡田作兵衛」・・『松前藩士名前控』に、足軽並として名がある。

(50-3)「下着(げちゃく)」・・都から地方へくだり、その目的地に着くこと。

(50-3)「恐悦(きょうえつ)」・・ひどく喜ぶこと。

(50-4)「小川永郎」・・「栄郎」は「永節」か。小川永節は、松前藩医。

(50-5) <くずし字>「處」・・影印は、「処」の旧字体「處」。「人」のように見える最終画の「ノ」は、「虍」(とらがしら)の4画目の左払いの「ノ」。

 *<漢字の話>「処」の部首は「几」(きにょう・つくえ・かぜかんむり)

   「几繞(きにょう)」ともいうが、実際に「繞(にょう)」の位置にくる文字はない。

   「鬼繞(きにょう)」と同じ読みになりまぎらわしい。

   「几(つくえ)」を音符として、つくえの意味を含む文字ができるが、例は少ない。

   「かぜかんむり」ともいうが、9画の部首「風」があり、これまたまぎらわしい。

(50-6)「差下(さしくだ)シ」・・「差し下す」の連体形。「さし」は接頭語。下の方へ動かす。下方へ移動させる。ここでは、江戸から松前に帰着すること。

(50-6)「当着」・・「当」は、「到」の当て字で、「到着」か。

(51-5)「侍座(じざ)」・・貴人や客など上位の人のおそばにすわること。

(51-8)「柏屋利兵衛」・・「柏屋」は、場所請負人藤野四郎兵衛の屋号。商標は又十。「利兵衛」は、「喜兵衛」か。藤野嘉兵衛(柏屋)は、藤野四郎兵衛の松前における営業名。代々喜兵衛を以て営業した。近江国愛知(えち)郡日枝(ひえ)村(現滋賀県犬上郡豊郷町)出身の近江商人。

(51-9)「萬屋増蔵」・・「萬屋」屋号。商標は、山十。場所請負人宮川増蔵。藤野の義兄にあたる。

(52-1)「抱女(かかえおんな)」・・芸娼妓や茶屋女で、年季契約などでかかえられた者。かかえ。

(52-45)「可相成(あいなるべく)」・・「あい」は接頭語。「なるべく」は、動詞「なる(成)」の終止形に、可能の助動詞「べし」の連用形が付いてできた語。もしできるなら。なるべくは。

(52-2)「相対死(あいたいじに)」・・心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

 *心中・・もともと心中とは心の誠ということで、「心中立て」はこの意味の語である。、心の中の誠を具体的に表現する必要から、放爪(ほうそう)、断髪、切指(指を切り落とすこと)、貫肉(股(もも)などを刃物で突くこと)など身体の一部を傷つけたり、切り取って相手に渡したり、または互いの名をいれずみしたりする風習がおこり、これらの手段を心中というようになった。このなかで互いの生命を賭(か)ける心中死は、心中の極致と考えられ、やがて心中は心中死(情死)を意味するに至った。この変化は、およそ元禄(16881704)前後のことと考えられるが、ちょうどそのころ京坂を中心に情死が多発している。情死事件が起こるとすぐに読売り祭文や近松の浄瑠璃につくられ、それがまた次の情死の誘因ともなった。情死者が斬新な死の手段を考えたことは、明らかに自分たちの死の効果を予想したものであった。

  この風潮に対して、江戸幕府は享保7(1722)に心中死の取締り規則を定め、公式には相対死(あいたいじに)と称するようにした。その罰則は、情死者の死骸取捨て、未遂者の非人扱い、また1人が死亡のときは相手は死刑、さらに、主従関係(主人側は軽い)や男女(女は軽罪)の差異が認められた。

(52-6) <くずし字>「今」・・ひらがなの「て」のようになることがある。

 ここの「今」は、副詞で、「さらに。その上に。あと。もう。」の意味。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <古くは、挙例「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、挙例「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

 *「いま一息(ひといき)」・・もう少し。あとちょっと。

 *「いまひとつ」‥もう一つ。更にもう少し

 *「いま一度(ひとたび・いちど)」・・もういちど。もういっぺん。今いちど。

  **「小倉山峯のもみぢば心あらば今ひとたびの御幸またなむ〈藤原忠平〉」(『拾遺和歌集』

魯夷始末書2月学習分注記

64-1)「四拾三人」・・異本(『北蝦夷地御場所江異国人上陸ニ付見分御届書』)では、「四拾六人」としている。

64-7)「右之外近所住居罷在候処」・・異本では「右之外遠近所々住居罷在候蝦夷人共弐百五十九人クシユンコタン外四ケ所漁場働いたし罷在候処」としている。

64-8)「愚昧(ぐまい)」・・愚かで道理にくらいこと。また、そのさま。

64-8)「驚動(きょうどう)」・・驚き動揺すること。驚きさわぐこと。

64-9)「差而(さして)」・・副詞。「然して」。(動詞「さす」の連用形に助詞「て」のついた形から、下に打ち消しの語を伴って)、「それほどでも~ない」の意。

6410)「一通(ひととおり)」・・はじめから終わりまでざっと。ひとあたり。

64-1)「生立(おいたち)」・・生まれながらの性質。生まれつき。

65-1)「不相開(あいひらかず)」・・「開く」は「啓く」と同義で、暗愚を解消するの意。

65-1)「一図(いちず、いっと)」・・「一途」とも。一つのことだけに打ち込むこと。ひたむき。ただそればかり。

65-2)「存込(ぞんじこみ)」・・動詞「存込む」の連用形。「存込む」は「思い込む」の謙譲語。

65-2)「解兼(ときかね)」・・動詞「解く」の連用形+動詞「兼ねる」の連用形。「解く」は、人の気持ちをほぐす。気持ちや感情をやわらげる。「兼ねる」は動詞の連用形について、「~しようとしてもできない。~することに堪えられない」の意。

     したがって、気持ちや感情を和らげることができない状態をいう。

65-2)「風俗(ふうぞく)」・・日常生活上のしきたり。ならわし。

65-2)「本蝦夷地」・・蝦夷島(北海道)の内、道南の松前、箱館近在の松前地(和人地、シャモ地とも。)を除く、東蝦夷地と西蝦夷地を指す。なお、蝦夷地一円(松前地、東・西蝦夷地)は、明治二年(1869)八月十五日、「北海道」に改称され、11国86郡に画定された。

65-3)「上国(じょうこく)」・・文化の進んだ、優れた国。また、豊かな国。元来は、令制で、国を管郡数・戸口数などにより四等級に分けたその第二位の国の称。山城・摂津など。大国・中国・下国に対していう。

65-3)「風意(ふうい)」・・ならわしと考えかた。

65-4)「北蝦夷地」・・樺太島。奥蝦夷とも。幕府は、文化六年(1809)六月、「樺太島をいご北蝦夷地と唱えるべき旨を命じ」(松田伝十郎著『北夷談』)、明治二年(1869)八月、北蝦夷地を樺太と改称(『北海道史』)。なお、𠮷田著『大日本地名辞書』では、「文化六年、幕府の北辺経営にあたり、唐太を改号して北蝦夷と曰ふ。幕府公文書多く之を用ゐしも、爾餘には、カラフトと幷び行はれたり。」、「文化以前には、~ 東西両海岸に分ちて、その北岸なる(今北見国)地方にも泛称したり。~ 奥蝦夷といふ。」とある。  

65-4)「纔(わずか)」・・<漢字の話>『字通』の解字に<「纔は淺きなり。読みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>としている。

     また、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、同訓異字として、次のようにある。

     【僅】(キン)ほんのすこし。すこしばかり。特に、数が少なくわずか。「僅差」「僅僅」「僅少」《古わずかに・すくなし・ほとんど》

【纔】(サイ・サン)色のまじったきぬ。転じて、どうにかこうにか足りるくらい。かろうじて。やっと。特に、量がわずか。どうにか。かつかつ。《古わつかに・わづか・つひに》

【才】(サイ)「纔」に同じ。《古わづか》

【些】(サ)ふぞろいに並べる。転じて、いささか。いくらか。すこし。「些細」「些事」「些少」「些末」

【涓】(ケン)しずく。小さい流れ。転じて、量がきわめてわずか。ほんの少し。「涓涓」「涓埃」《古みづたまり・あひだ・あはひ》

【財】(ザイ)価値あるもの。たから。転じて、「纔」に同じ。「財足」《古わづかに》

【毫】(ゴウ)細い毛。転じて、ごくわずか。ほんのすこし。ちょっぴり。「毫末」「毫毛」「一毫」「白毫(びゃくごう)」《古ふむで・ふで》

【錙】(シ)古代中国で重さの単位。転じて、目方がわずか。価値があまりない。また、物事がこまかくかすか。微細だ。「錙銖(シシュ)」

65-4)「而己(のみ)」・・副助詞。他を排除して、ある事柄だけに限定する意を表す。現代語では「のみ」に相当する助詞として、一般に「だけ」、「ばかり」の語が用いられる。

     *「而己」・・漢文の助辞。漢文では、文末におかれて限定・強意を表す。「のみ」と訓じる。「~だけである」「~にすぎない」の意味。「而己」よりさらに語気が加わった「而己矣」がある。

     夫子之道   夫子(フウシ)のみち、

     忠恕而己矣  忠恕(チュウジョ)のみ。  (『論語 里仁』)

     (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

     *古田島洋介氏は、『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(吉川弘文館 2013)のなかで、「のみ」は、「啻(ただ)に」や「独(ひと)り」と組み合わさって限定の意味であるが、「~なのである」と強調の意にもなることを念頭に置くべきと論じている。

 

65-4)「漁業働人足(ぎょぎょうばたらきにんそく」の「働」・

    *<漢字の話>「働」・・①国字。中国でも使用された。『字通』には『中華大字典』を引いて、「日本の字なり。通じて之れを読むこと動の若(ごと)しとみえる。」とある。

②解字は「人が動く。はたらくの意味を表す」(『新漢語林』)。なお、旁の「動」について、『字通』は「農耕に従うこと」とあり、「力は耒(すき)の象形。童僕が耒を執って農耕に従うことをいう」とある。『新漢語林』は、「力+重。おもい喪のに力を加えて、うごかすの意味を表す」とある。

65-5)「僻(へき、ひが、ひがみ)」・・「僻」は、ひがむこと。素直に見ないで、疑い曲解すること。また、その見解。異本は、「仕癖」とある。

65-5)「妄(もう)し」・・「妄」は、つつしみのないこと。みだりなこと。また、真実でないこと。また、そのさま。異本は「安(やすん)じ」とある。

65-5)「別而(べっして)」・・とりわけ。特別に。

65-5)「偏国(へんこく)」・・都から遠い国、地方。偏境。

65-5)「領主」・・松前藩主。

65-6)「専要(せんよう)」・・極めて重要なこと。またそのさま。肝要。

65-6)「儀」・・異本は「哉」としており、こちらの方が文意に添うか。

65-6)「仕置(しおき)」・・江戸時代、罪人を処罰すること。また、その刑罰。

65-7)「咎(とがめ)」・・非難。処罰。罰。

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