森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

古文書解読学習会のご案内

           札幌歴史懇話会主催 古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願いします。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2017年5月8日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3


◎現在の学習内容

 ①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。
②『蝦夷錦』・・文化丁卯事件の公文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の狼狽ぶりがよく表れています。

  4月 町吟味役中日記注記                                              

(59-1)「莚(むしろ)」・・藺(い)・竹・藁(わら)・蒲(がま)などで編んで作った敷物の総称。平安・鎌倉期は屋内用であったが、畳の普及後は屋外用となった。今はもっぱら藁筵(わらむしろ)をいう。

 *「莚」・・草で作ったむしろ。

  「筵」・・竹製のむしろ。

  「蓆」・・草でつくったむしろ。

  「席」・・むしろ。「筵」は下に敷くもの。「席」は、その上に敷くもの。

(59-1)「埋(うづむ・うづむる)」・・下2段「うづむ」の連体形。物の一部、または全部を土や灰の中などに入れ込んで外から見えなくする。また、埋葬する。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

 *<文法>・・平安期は、4段活用「うづむ」の連体形「うづむ」だが、室町期以降は下2段活用の連体形「うづむる」の用例が出てくる。

*「うずむ・うずめる」の基本的な意味は、「物の上に土など盛り上げて覆う」ことであり、これに対し、「うむ・うめる」のほうは「くぼみなどに物をつめてふさぐ、また、物を土などの中に入れ込む」ことである。中にある物は、「うずむ」「うむ」どちらの場合でも隠れて見えなくなるところから、同じような意味に用いられるようになったと思われる。「うずむ」・・・いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

「うずめる」・・人や物で、ある場所をいっぱいにする。いっぱい積み重なって下のものを覆い隠す。

「うめる」・・あたたかさや濃さを適度にするために、他の物をまぜ入れる。損失や不足などを補う。「欠員をうめる」「赤字をうめる」

(59-2)「訴出(うったえいで」・・事情を述べ伝える。また、要求や不平、うらみなどを人に告げる。申し出る。「出(いで)」は、下2動詞「出(い)づ」の連用形。

(59-3)「勝見米三郎」・・文政期の『松前藩士名簿控』には、足軽並に勝見米三郎の名前が見える。

(59-4)「相立(あいたち)」・・「相」は接頭語。「立(たち)」は、「たつ」の連用形。時が過ぎる。現在では、「経つ」を用いることが多い。

(59-4)「着類(きるい)」・・着るもの。衣類。衣服。また、そのたぐい。「着類(きるい)」と読むのは湯桶読み。

  *湯桶読み・・(「ゆ」は「湯」を訓読みしたもの、「とう」は「桶」を音読みしたものであるところから)上の字を訓で、下の字を音で読むこと。テキストの場合、「着(き)」は訓読み、「類(るい)」は音読み。ほかに、「手本(てほん)」「身分(みぶん)」「野宿(のじゅく)」「下絵(したえ)」「夕刊(ゆうかん)」など。

  *「咄家(はなしか)と云ては湯桶訓(ユトウヨミ)だ。咄は訓なり、家は漢音だ」(滑稽本・浮世床〔1813〜23〕)

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

<「書言字考節用集」が初出とされるが、それに先行して、「文明本節用集」(室町中)には「湯桶文章」、「かた言‐五」(一六五〇)には「湯桶言葉」といった表現が見られる。元来は音訓の順番を問わず混読語の総称として用いられていた。明治時代でも大槻文彦の「言海」(一八八九)では「重箱読み」との区別がされていないが、山田美妙の「日本大辞書」(一八九二〜九三)では区別している。使い分けが定着したのは、第二次世界大戦後か。>とある。

(59-6)「吉岡村(よしおかむら)」・・現松前郡福島町字吉岡・字館崎(たてさき)・字豊浜・字美山。近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置し、北方は宮歌(みやのうた)村、東は津軽海峡。明治39年(1906)吉岡・宮歌・礼髭(れいひげ)の三村が合併、二級町村吉岡村を経て、。昭和30(1955)福島町に合併。

(59-67)「廣念庵(こうねんあん)」・・光念庵(のち海福寺)。元禄6(1693)高庵により造営。浄土宗。松前正行寺末。

(59-7)「回向(えこう)」・・読経や念仏など、善根の功徳を死者に手向けること。死者の冥福(めいふく)を祈って読経をしたり、念仏を唱えたり、供えをしたりすること。供養。たむけ。

  *「回」を「え」と読むのは、唐音の「ウイ」から転じたと思われるが、慣用音とする辞書もあり、湯桶読みともいえる。

(59-8)「正行寺(しょうぎょうじ)」・・現松前町字豊岡にある浄土宗の寺院。近世の松前城下に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華寺がある。護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。元禄14年(1701)京都知恩院の末寺となった。寛政9年(179710月大松前町からの出火で馬形宮・法華寺などとともに類焼。文政10年(1827122日には当寺から出火して全焼した。明治6年(1873)福山・檜山漁民騒動といわれる減税要求の漁民一揆が江差・松前地域に起きた際、浄土宗の光善こうぜん寺とともにその結集の場となった。

(59-8)「被下候もの」・・下され物。頂戴物。拝領品。たまわりもの。くだされ。

(59-9)「取調子(とりじょうし)」・・取調べ書。

(60-枠外上)「捨札(すてふだ)」・・近世、重罪人の処刑前後、その氏名・年齢および科書といわれる罪状を板に記し、広く民衆への見せしめのため、三十日間街頭に掲げた高札の一種。鋸挽・火焙・磔・獄門などの執行時は必ず建てられた。『御定書百箇条』に「磔(中略)科書之捨札建之」とある。江戸での火焙には捨札が日本橋・筋違橋・赤坂御門・両国橋・四谷御門の五ヵ所に建てられ、これを五ヵ所引廻と呼び、引廻の際、先頭を歩む非人が捨札をかかげ持った。罪状公示の外にも、通達文書が書かれた場合もある。

 11文字の縦書き・・日本語は漢文に倣い、文字を上から下へ、また行を右から左へと進めて表記を行うものである。漢字と仮名は縦書きを前提とした筆順。扁額や石碑の題字などは一見すると右横書きのように見えるが、これらは「11文字の縦書き」、つまり縦書きの規範で書かれたものであって右横書きではない。日本で出版物に左横書きが現れるのは、18世紀後半に蘭学が紹介されてからのこと。

  ◎「昔は右横書き、戦後左書き」という説明は正確ではない。

◎戦後、GHQによるローマ字採用勧告や漢字の廃止運動など、西欧の記法に倣う左横書きが革新的、「11文字の縦書き」は保守的、というイメージは決定的なものとなり、「11文字の縦書き」は衰退の一途をたどることとなった。

◎戦前は11文字右縦書きだったが、戦後左横書きになった

続きを読む

【2017.4月学習 注記】

0―1)「箱館奉行」・・享和2(1802223日、蝦夷地奉行として新設されたが、同  

   年510日(『柳営補任』では33日、『通航一覧』付録は5117)、箱館奉行と改称、以後、文化4(1807)101024日、奉行所が、箱館から福山(松前)に移転し、松前奉行と改称した。

0-1)「支配組頭」・・支配吟味役。支配吟味役は、300俵高、御役金百両。定員3人。

0-1)「高橋三平」・・高橋守重賢(たかはししげかた)。幕臣。生没:宝暦8(1758)~天保4(1833)。寛政11(1799)蝦夷地御用を命じられる。享和2(1802)1018日箱館奉行支配吟味役となる。文化10(1813)のロシア人艦長ゴロウニンの釈放交渉では応接掛を務めた。のち、文政3(1820)38日、松前奉行となる。

0-2・4)「被□仰付」・・「被」と「仰付」の間が空いているが、「仰」などの文字の前を空けることがある。これは古文書特有の尊敬の体裁で、「欠字」という。

0-4)「卯」・・文化4丁卯年(1807)

0-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府・諸藩の職名。定員は、初め十数名~20名程に及んだが、享保17(1732)10名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保8(1723)に役高千石とされた。     退任後は、長崎奉行、佐渡奉行などの遠国奉行、小普請奉行などへ進む者が多かった。

0-5)「遠山金四郎」・・遠山景晋(かげみち。かげくにとも。)。幕臣。生没:宝暦2(1752)~天保8(1837)。通称、金四郎。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。箱館着は712日。寛政6(1794)学問吟味甲科筆頭で合格。目付(享和2(1802)3.13~文化9(1812)2.17)、その後、長崎奉行、同13(1816)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、名奉行と称された「遠山の金さん」。

0-6)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。若年寄支配の役料500俵、役高は千石。島原の乱後は、軍事的な職務は必要なくなり、全国統治上の視察、監察を主要な役職とした。また、目付とともに、火事場の視察、報告、指揮、大名火消、定火消役の監察、考査などにあたった。定員は、元和3(1617)28名と定められたが、文化年間(1804~18)以降は、560名程度。慶応年間は110余人の人員がみられる。

0-6)「小菅猪右衛門(こすげいえもん)」・・小菅正容(まさかた)。幕臣。高1500石。使番の在任期間:寛政9(1797)正.11~文化510.24。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は726日。

(1-1)「村上大学」・・村上義雄(よしかつ)。幕臣。高1065石。使番在任期間:享和2(1802)正.11~文化7(1810)7.8.目付へ。文化4(1807)64日、蝦夷地出張を命じられた。箱館着は711日。この時、大学は監物と改名。

(1-3)「彼地へ被指遣(さしつかわされ)」・・「被指遣」。「指遣」は、普通は「差遣」。派遣される。「へ」は、「ヽ」と右側のみになる場合が多い。「被」は、小さく、ひらがなの「ら」のように書く場合がある。

(1-5)「発足(はっそく・ほっそく)」・・旅立つこと。出立すること

(1-8)「大名三手江壱人宛」・・「大名三手」とあるが、箱館奉行羽太正養が派兵を要請したのは、南部藩・津軽藩・秋田藩・庄内藩の4藩。南部・津軽・秋田・庄内藩では変報到来とともに出兵の準備をなし、6月中には4藩の兵3000人余が箱館に到着、箱館(南部勢342、秋田勢591人)・サハラ(南部勢30人)・ウラカワ(南部勢100人)・アッケシ(南部勢130人)・ネムロ(南部勢130人)・クナシリ(南部勢380人)・松前(南部勢130人、津軽勢330人。    

庄内勢318人)・江差(津軽勢300人)・ソウヤ(津軽勢230人)・シャリ(津軽勢100人)に分遣される。

(1-8)「差添(さしぞい)」・・付き添うこと。かかわり合うこと。他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。小菅、村上らは、諸藩の兵を監督した。

(1-9)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ・だいぜんのかみ)」・・大名。陸奥国盛岡藩の10代藩主南部利敬(としたか)。受領名、大膳大夫。藩主在任期間:天明4(1784)7.17~文政3(1820)6.15

(2-1)「津軽越中守」・・大名。陸奥国弘前藩(津軽藩とも)の9代藩主、津軽寧親(やすちか)。受領名、出羽守、越中守。藩主在任期間は寛政3(1791)8.28~文政8(1825)4.10)。

(2-2)「発駕(はつが・ほつが)」・・駕籠で出立すること。貴人の出立をいう。

(2-5)「松平政千代」・・大名。陸奥国仙台藩9代藩主伊達周宗(ちかむね)。通称、政千代。受領名、なし(歴代藩主で唯一人「陸奥守」の受領名がない)。寛政8(1796)、父斉村(なりむら)の死により、伯父堀田正敬の補佐のもと、10歳で襲封。藩主在任期間は寛政8(1796)9.29~文化9(1812)2.7。文化9(1812)424日卒、17歳。なお、「松平」姓は、慶長13(1608)に、初代藩主政宗が賜り、陸奥守に転任していることから、以後の藩主も、「松平」の姓を名乗ることがある。

(2-6)「千勢」・・「千」は、「手」で、手勢か。手勢は、その人が直接ひきいている軍勢。

(2-7)「佐竹右京大夫(さたけうきょうのだいぶ・うきょうのかみ)」・・大名。出羽国秋田藩(別称久保田藩)9代藩主佐竹義和(よしまさ)。受領名、右京大夫。藩主在任期間は、天明5(1785)726日~文化12(1815)78日。

(2-9)「物頭(ものがしら)」・・弓組、槍組、鉄砲組などの足軽の頭。足軽大将。 

(3-3)「若年寄(わかどしより)」・・江戸幕府で老中に次ぐ要職。将軍に直属し、老中支配以外の諸役人及び旗本を統轄した。定員は、3~5人。ほかに、将軍世子付の西丸若年寄、前将軍付きの大御所付若年寄があった。6万石以下(主に1万石~3万石)の譜代大名で、奏者番、奏者番兼寺社奉行、側衆、大番頭などからの登用が多かった。

(3-3)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・大名。近江国堅田藩主堀田正敬(まさあつ)。受領名、摂津守。仙台藩9代藩主伊達宗村の8男で、近江国堅田藩主堀田正富の養子となる。若年寄(在任期間:寛政2(1790)~天保3(1832))として財政事務を担当し、老中松平定信を補佐するとともに、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めた。のち、文政3(1820)、下野国佐野へ転封。

続きを読む

『蝦夷錦』4月学習注記(1)

【書誌】

  本書の影印は、昭和8(1933)127日、北海道帝国大学附属図書館(現北海道大学附属図書館)の所蔵になった『蝦夷錦』である。成立年は文化4(1807)

内容説明 文化丁卯事件の際の公私文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の     狼狽振りがよくあらわれている。

【文化露寇事件まで】(『新北海道史年表』参照)

<寛政4年(1792)

9.5 ロシアの遣日使節ラックスマン、大黒屋幸太夫をともないネムロに入津。修好要望の書簡を持参。

<寛政5(1793)

6.27 ラックスマン、幕臣石川忠房より長崎に至るべき信牌の交付をうける。

<寛政11(1799)

1.16 幕府、書院番頭松平信濃守忠明・勘定奉行石川左近将監忠房・目付羽太庄左衛門正養(まさやす)ら、東蝦夷地仮上知に付、この件の担当老中戸田采女正氏教より、蝦夷地取締御用を命じられる。

1.16 幕府、異国境取締のため、東蝦夷地を当分の間、試みに上知する旨松前藩に通達(上知の範囲を東蝦夷地浦川より知床および東奥島までとし、期間を7か年。『松前家記』によれば211日に松前藩に通達。)

6.- 松前藩、東蝦夷地の仮上知にともない幕吏の松前藩領往来繁雑にて困難の筋もあるにつき、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知を内願(同じ頃仮上知の代地も内願)。

8.12 幕府、内願のとおり5000石の代地(武蔵国埼玉郡の12か村)を下付し、追上知を認める旨、松前章広に達す。

11.2 幕府、箱館表の警固を罷め、サハラならびにクスリ辺に勤番所を取建て、御用地年限中、重役の者2~3人、足軽1000人程を駐留させるべき旨、南部大膳太夫・津軽越中守に命じる。毎年、双方より、500人ずつ足軽を派遣、津軽藩は、サハラよりウラカワまで、南部藩は、ウラカワ以東を固め、南部・津軽藩は、箱館にそれぞれ本陣を置き、以後、津軽藩は、サハラ・エトロフに、南部藩は、ネモロ・クナシリ・エトロフに勤番所を補理する。

<寛政12(1800)

2.16 幕府小納戸頭取格戸川藤十郎安諭(やすのり)・小納戸大河内善十郎政良、蝦夷地巡見を命じられる。3月江戸出発、東蝦夷地クナシリ島まで巡見、9月帰府。

<享和元年(1801)

4.1 松平忠明・羽太正養・石川忠房、箱館に到着。忠明は4.22箱館出発、勇払よりシコツ川を通り西蝦夷地を巡見、7.7箱館帰着、7.10帰帆。正養は4.22箱館出発、東蝦夷地をクナシリ島まで巡見、9.5箱館帰着、福山見分、9.16出帆。忠房は4.21箱館出発、東蝦夷地をシレトコ崎まで巡見、7.10箱館帰着、出帆。

5.30 幕府普請役中村小市郎・小人目付高橋次太夫、カラフト島見分の命を受け、東海岸を小市郎が担当してナイブツまで、西海岸を次太夫が担当してショウヤ崎まで検分、8月山丹交易事情や松前藩の樺太の取扱い等を復命。

6.27 幕府支配勘定格富山元十郎・仲間目付深山宇平太、ウルップ島見回り御用にて、エトロフ島シベトロを出船、ウルップ島オカイワタラの岡に「天長地久大日本属島」の標柱を建て、ラッコ猟のためトウボ滞在中のロシア人に遇い、その状況をさぐり、7.7シベトロに帰着。

<享和2年(1802)

2.23 幕府、蝦夷地奉行を新設。戸川筑前守安諭・目付羽太庄左衛門正養(12.16安芸守に任ぜられる。)をこれに任命。

5.10 幕府、蝦夷奉行を箱館奉行と改称。

7.24 幕府、東蝦夷地の仮上知を改め、永上知とする旨松前藩に申渡す。永上知の代価として年々3500両ずつ下付し、武州久喜の所務および東蝦夷地収納よりの下渡金を廃止。

12.14 幕府、戸川安諭、羽太正養に1年毎交代にて箱館在勤を下命。

<享和3癸亥年(1803)

1.18 幕府、箱館奉行支配調役6人・同調役並5人、同調役下役10人を任命、箱館奉行所の体制を整える。2.2321人のうち14人在勤、7人を江戸掛と決定。

<文化元年(1804)

4.21 箱館奉行羽太正養、江戸出発、箱館に到り、戸川安諭と交代。

8.2 幕府、南部・津軽藩の蝦夷地勤番を寛政11年より7か年間の期限付きから永々勤番に改める。

9.6 ロシアの遣日全権使節レザノフ、クルーゼンシテルンの率いる世界周航の探検隊と共に、ナデジダ号に搭乗し、仙台の漂流民津太夫ら4人を伴い長崎に来航。通商をもとめる。レザノフは、上陸中も幽囚同様の扱いを受けた。レザノフは、寛政4(1793)に松前で幕府がラックスマンに交付した信牌を携えた正式な使節であった。

<文化2年(1805)

3.7 ロシア使節レザノフ、長崎奉行所にて、奉行肥田豊後守、幕府派遣の目付遠山金四郎出席のもと、通商要求を拒絶される。

3.18 ナデジダ号、レザノフをのせて長崎出航。日本海を北上してカムチャッカに向かう。レザノフは、帰国後、ロシア皇帝に樺太の領有を具申し、かつ部下のスヴォストフとダヴィドフに報復処置を示唆するという。

7.16 幕府、目付遠山金四郎・勘定吟味役村垣左太夫定行に、西蝦夷地派遣につき準備を命じる(西蝦夷地を収公するための調査と考えられている。)。遠山金四郎は、勘定・徒目付などを伴い閏8.13江戸出発、冬(10.3)福山に到着。村垣左太夫は病気のため途中引き返し、翌年春福山着。

 

続きを読む

古文書解読学習会のご案内

           札幌歴史懇話会主催 古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願いします。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2017年4月10日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。
②『蝦夷錦』・・文化丁卯事件の公文書を収録。不正確な情報とデマの流行に当時の狼狽ぶりがよく表れています。

3月学習町吟味役中日記 注記 

(53-1)「沖ノ口」・・松前藩の役所。

(53-12)「桜庭梅太郎」・・「町年寄日記抜書」(『松前町史史料編第二巻』所収)文政9813日の項には、「町年寄」にその名がある。また、文政期(年代不詳)の『松前藩士名前控』には「町下代」に名が見える。

(53-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代では、口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有する者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。口書は下役人が作成して供述者に捺印させる。男子は印形を用いさせるが、なければ爪印、女子は爪印、武士は書判であった。捺印された口書は奉行による供述者の訊問によって確認されるが、奉行の面前で捺印させる場合もあった。吟味詰りの口書は場合により詰文言を異にすることで知られる。詰文言は「不埓之旨御吟味受申立様無御座候」というような文言であるが、叱・急度叱・手鎖・過料などの軽い刑(御咎)の場合には、「不埓」「不念」「不束(ふつつか)」と(「不埓詰」)、所払追放以上の刑(御仕置)の場合には、「不届」と(「不届詰」)、数罪あるときは、軽い方には「旁不埓」、重い方には「重々不届」と詰めた。

(53-6)「調子(ちょうし)」・・調子帳(ちょうしちょう)。調書。

(53-9)「在方下役(ざいかたしたやく)」・・町奉行配下の在方掛に属する役人。

(54-1)「大沢村(おおさわむら)」・・現松前郡松前町字大沢。近世は東在城下付の一村で、大沢川河口域に位置する。「福山秘府」によれば文亀2年(1502)大沢に永善坊(のちの寿養寺)が建立されたといい、「松前家記」には永正14年(1517)「大沢ノ寿養寺ヲ大館ニ遷ス」とあることから、一六世紀の初めにはある程度の集落の存在が考えられる。「福山秘府」や「松前年々記」などによれば、元和3年(1617)には大沢川で砂金が発見され、この砂金掘りには迫害を逃れたキリシタンが入っていた。寛永16年(1639)には「於本藩東部大沢亦刎首其宗徒男女都五十人也」(和田本「福山秘府」)とあるように、キリシタン弾圧の舞台となった。

 大正12(1923)、上及部村・大沢村・荒谷村・炭焼沢村が合併し、二級町村として発足、四大字を編成した。昭和29(1954) 松前町の一部となる。

(54-1)「温泉場」・・大沢村の温泉場は、天保6年(1835)には城下寅向(どらめき)町上野へ汲湯することになった。現在同地に、日帰り温泉施設「松前温泉保養センター」がある。

(54-2)「願書(ねがいがき)」・・願いごとを記した書き付け、手紙。

(54-4)「頭取 古田八平」・・足軽頭取。くずし字「頭」

(55-7)「様子(ようす)」・・現代では、けはい。そぶりの意味が強いが、ここでは、そういう状況であることをいう。

(55-8)「跡役(あとやく)」・・前任者の役や権利を引き継ぐこと。また、その人。後任。後任者。

(57-1)「八幡宮」・・松前家2世・光広が永正13(1516)、徳山館に建立した。

(57-1)「殿様」・・松前藩9代・松前章広。

(58-2)「奥村英晋」・・松前藩医者。

(58-6)「御匙医(おさじい)」・・匙で薬を盛るところから、将軍、大名等の病気を診断するのを専門とする医師。おさじ

  江戸時代の医師は、一般には刀圭家(とうけいか)、将軍家や大名などの侍医、御典医は、お匙(おさじ)と呼ばれており、これは江戸時代の漢方医が、薬を調剤するときに「薬匙」を扱う姿を、周囲の人々には頼もしく映ったことに由来する呼称。

 そもそも「薬匙」とは、固形薬物または粉末薬をすくって調合する匙で、大小さまざまな大きさと形の種類がある。材質は金属、あるいは動物の牙や角や、木製などからできていて、日常的には丈夫で錆が生じ難い真鍮製、金、銀、銅(近年ではステンレスやプラスチック)の製品を用いていた。しかし、金属に触れて変化する薬物を扱う際には、牛角や象牙製のものを使用していた。

 *「匙加減」・・道具としてだけでなく、その微妙な調整技術を含めて「匙加減」という言葉が多用されるようになった。もともとは、匙ですくう薬の多少を「匙加減」と言い、患者を生かすも殺すも、この待医の「匙加減」一つで決まったことから派生して物事を扱う場合の状況に応じた手加減、手心の加え方を表す意味としても広く使われている。

 *「匙を投げる」・・「匙を投げる」とは、医者が匙を投げ出すことから、患者に治る見込みがないと診断して治療を断念すること。物事の見込みがないとあきらめて、これ以上やってもしょうがないと見放す意味で使われるようになった。

  匙を使って薬を盛る医師の技術は、この他にも「匙先」「匙執り」など、さまざまな言葉で表されていて、微妙な匙加減は、医師の大切な技術だったことがわかる。

(58-9)「宮ノ哥村(みやのうたむら)」・・現松前郡福島町字宮歌(みやうた)。

近世から明治39年(1906)まで存続した村。近世は東在の一村で、宮歌みやうた川の流域に位置し、北方は白符(しらふ)村、東は津軽海峡。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「宮のうた 小川有 澗あり 家二十軒」とみえる。元禄郷帳に「宮のうた村」、享保12年所附には「宮の哥村 此辺おやち沢迄一里」と記される。天保郷帳では宮之哥村。宮歌村文書、宮歌村旧記(北海道大学北方資料室蔵)によると、寛永3年(1626)西津軽鰺ヶ沢から六人の漁民が来て澗内(まない)の沢に定着し、当地に家を建てた。二~三年後には戸数も二〇軒ほどになり、澗内川で引網を張って鮭をとったという。宮歌村旧記によれば同12年松前八左衛門の知行所に定められ、用人の加川喜三郎が江戸から下り、上鍋島かみなべしまから下根祭しもねまつり岬までを松前藩主より拝領したという。その際大茂内(おおもない)村(現乙部町)が枝村として、上ヨイチ場所が知行所として付与され、のち九艘川(くそうがわ)村(現江差町)も枝村となったという。松前八左衛門は二代松前藩主松前公広の三男として寛永4年福山館に生れ、小字を竹松丸、または甚十郎と称し、長じて八左衛門泰広と名乗った。同一九年出府し、そのまま幕府に召され、正保3年(1646)廩米(扶持米)一千俵高の旗本となっている。明暦元年(1655)松前に来て藩主高広の後見をし、シャクシャインの戦でも平定に尽力した。のち一千一〇〇石の大身となった(寛政重修諸家譜・松前町史)。当村は明暦元年以降八左衛門の知行所となったと考えられ、同年八左衛門は八幡宮を建立している(福島町史)。

蝦夷島の和人地が松前藩の家臣ではない旗本の知行所となるということは前例がなく、異質の知行体制であった。このように複雑な構造下にある宮歌村は多くの問題を抱えていたが、その最大のものは白符村との村境争いであった。元文4年(1739)には両村の間に騒動が起き、当村は八左衛門代理人で家老の松前将監貢を頼んで藩に訴え出ているが解決をみなかったらしく、天明7年(1787)、文久3年(1863)、慶応4年(1868)、明治7年などにも同様の訴えがあり、紛争が絶えなかった(前掲旧記・宮歌村文書)。当村は一村で沖之口問屋株をもっていた。問屋は寛政6年(1794)の設置で(「永代之記録」宮歌村文書)、沖之口の番所を吉岡よしおか村に設けたものの港が悪く、荷物の積下ろしは実質貝取かいとり澗(現字豊浜)と宮歌の澗で行われていた関係から、宮歌村に問屋を設けて管理する必要があったためとされる(宮歌村文書など)。明治39年吉岡村に合併。

魯夷始末書3月学習分注記

68-1)「両口(りょうぐち)」・・両方の口。二つの口。日本とロシアの両方に二股をかけていることを意味するか。

68-1)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。

68-2)「内実(ないじつ)」・・内部の事情。内幕(うちまく)。

68-3)「伊豆守」・・松前藩第12代藩主松前伊豆守崇広。藩主在任期間:嘉永2年(184969日~慶応2(1866)424日。のち、老中(元治元11~)、海陸軍総裁(慶応元9.21~10.1)となる。また、崇広の時代、松前藩は、箱館周辺に加えて、安政2(1855)2月、和人地の大半(東部木古内以北、西部乙部村以北)と東・西・北蝦夷地を収公(幕府の直轄領)されるが、同年12月、替地として陸奥国伊達郡梁川などを与えられたことにより、無高から表高3万石の正式な大名となった。

68-2)「不被及御沙汰(ごさたにおよればず)」・・問題になされず。「不被及(およばれず)」の組成は、「及ぶ」の未然形「およば」+尊敬の助動詞「被(る)」の未然形「れ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

     *「不被及」は、「およばられず」とも読めるが、語調が不自然で、ここは、「およばず」とする。

     *「被」は、多くは受身・尊敬の助動詞「らる」(及びその活用形)として用いられるが、受身・尊敬の助動詞「る」(及びその活用形)としても使われる。

     *尊敬を表す「る」は、他の尊敬を表す「給う」などにくらべると尊敬の度合いが低い。

     *助辞「被」・・「被」を「らる」「る」と読むのは、漢文訓読用法から派生した読み方。動詞の前に置かれ、受身であることを表す。

      吾皇太后徴  われ皇太后に徴(チョウ)さるるも、

      未為  未(いまだ)為(な)す所を知らず(『三国志』)

68-3)「后後(こうご)」・・のちのち。あとあと。「后」には、「きさき」「のち」の訓がある。『新漢語林』は、<常用漢字表には、この字の音は「コウ」しかないので、現在表記で「後」の代わりとして「戦后」「午后」「食后」などど公の場で用いるのは、適切でない>としている。

     *「后」は常用漢字(6学年習得相当の教育漢字でもある)

     常用漢字表は、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すもの」(平成221130日内閣告示の「常用漢字表」前文)だから、「皇室典範」第15条、17条に「皇后」があるので、「后」は、常用漢字から外せない。

     同様に、「朕」、御名御璽の「璽」も、日本国憲法の「上諭(じょうゆ)」(天皇の裁可)にある文言だから、常用漢字になっている。

68-4)「不立入様(たちいらざるよう・たちいらぬよう)」・・

     「不」は、漢文訓読の返読用法で、基本形は打消しの助動詞「ず」。

 

未然

連用

終止

連体

已然

命令

 

ざら

 

ざり

 

 

ざる

 

ざれ

 

ざれ

     テキストは、連体形だから、「ざる」「ぬ」の両方の読みがある。両方とも文語体だが、「ざる」の方が、固いニュアンスがある。

68-5)「巨細(こさい)」・・一部始終。委細。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

     <(1)字義どおりの「巨と細」の意味に加えて、漢籍で「無巨細」と使われることが多く、そこから「細大もらさず」という意味になっていったと思われる。また、中世以降、記録とその影響を受けた軍記物を中心として、「巨細」だけで「詳しく」という意味を持つようになる。

(2)キョサイの読みも「伊呂波字類抄」に見えるが、呉音系のコサイの読みの方が一般的である。>とある。

68-8)「寅(とら)」・・ここでは、嘉永7年あるいは安政元年、西暦(グレゴリオ暦)1854年を指す。(嘉永7年1127日、御所の炎上やペリー再航などにより、安政に改元された。)

69-1)「今年三月」・・安政元年(1854)三月を指す。ロシア使節プチャーチンは、安政元年323日に長崎に再々来航し、329日に沿海州のインペラート湾へ出航。

     この時、プチャーチンは、日本側に対して、「本年六月樺太アニワ港において境界交渉を行う」旨の覚書を送っている。なお、『村垣公務日記之二』によれば、堀と村垣が、老中の阿部伊勢守からの「魯西亜使節、からふと江相廻り候ハヽ、境界之大要等応接いたし候様」命じられた御用状を受け取ったのは、59日、ソウヤ逗留中であった。

69-1)「筒井肥前守(つついひぜんのかみ)」・・幕臣。生没年、安永7年(1778)~安政6年(1859)。82歳。名、政憲(まさのり)。字、子恒。叙任名、伊賀守、和泉守、紀伊守、肥前守。文化14年(1817)長崎奉行。文政4年(1821)江戸町奉行。天保12年(1841)西丸留守居。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)大目付(海防掛)。同年1221日締結の日露和親条約に署名。

69-1)「川路左衛門尉(かわじさえもんのじょう)」・・幕臣。生没年、享和元年(1801)~慶応4(1868)68歳。名、聖謨(としあきら)。叙任名、左衛門尉。幕府徒士内藤歳由の次男。文化9年(1812)川路光房の養子。天保11年(1840)佐渡奉行。小普請奉行、普請奉行、奈良奉行、大阪東奉行を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)日露和親条約締結に署名。安政5年(1858)西丸留守居。安政6年(1859)隠居。文久3(1863)外国奉行。慶応4(1867)315日江戸城開城目前にして拳銃自殺。

69-3)「疆界(きょうかい)」・・(日本とロシアとの)国境。「疆」は、「さかい」を意味し、同訓は「境」。弓扁の「彊(きょう)」は、別字。

69-3)「某等(それがしら)」・・幕府から派遣された御目付堀織部正と御勘定吟味役村垣与三郎ら一行。

69-4)「六月十八日」・・『蝦夷日記』によれば、「堀、村垣の両殿様は、(617日、クシュンコタンを御出立、リヤトマリに泊り、)618日、シラヌシ御着となり、以後、三日間逗留と」している。

     その後、村垣は、622日、シラヌシ出立、西海岸エンルモコマナイ(真岡)まで行き、71日、シラヌシに立ち戻り、逗留し、711日にソウヤへ渡海、樺太島を離れ、閏729日、箱館へ帰着。一方、堀は、622日、シラヌシ出立、西海岸ライチシカ~東海岸マーヌイを見分後、820日、箱館に帰っている。

694.5)「貴国之人」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の隊長ブッゼら。

69-5)「営柵(えいさく)」・・柵、営造物、建築物。

69-5)「使節」・・ロシアの遣日全権大使エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(海軍提督)。本書ではホウチヤチン。日本語表記名「布恬廷」。

69-5)「両人」・・ロシア使節応接掛の筒井肥前守と川路左衛門尉。

69-5)「書」・・暦数千八百五十四年(1854611日(安政元年516日)付け船将次官ポスシエト名義の筒井・川路宛の「アニワ港での境界交渉の中止」を告げる書簡(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書)

69-7)「二国」・・日本とロシア

69-8)「議(ぎ)せむ」・・「議する」は、集まって意見を述べ合う。審議する。

69-8)「東西」・・樺太の東浦(東海岸)や西浦(西海岸)を指す。

69-9)「与里て(よりて)」・・「与=よ」、「里=り」。

6910)「む那し具(むなしく)」・・「那=な」、「具=く」。「空しく、虚しく」

6910)「怒(ぬ)」・・「怒=ぬ」。

70-1)「此日」・・本文書中には、特定した日にちが記されていないが、『村垣公務日記之ニないし三』では、村垣が西海岸廻浦を終えシラヌシに逗留中の710日の条に、「露人来ラバ箱館へ廻航セヨト」告げるように指示をしたり、ソウヤ逗留中の713日の条に、「露人へ示スベキ置書簡(蘭文)」として、料紙大奉書を箱に入れ、堀織部が廻浦から(クシュンコタンへ)戻って来た時に渡すように、松前藩の田崎与兵衛へ託したことが、記されていることから、「此日」とは、「713日前後」と推認できる。

71-図中右・上)「豕畜類(いちくるい)」・・「豕(シ、い、いのこ)」は、本来、「いのしし」を指すが、「豚」類の総称としても用いられる。

71-図中右・中)「大将ホツサイ」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長ブッセ(陸軍少佐)。

71-図中右・下)「役出小屋」・・P73-10の説明では、「一 西ノ角焚出小屋」と、「焚出」となっている。また、異図(「唐太島くしゅんこたん露西亜人城柵之図 浩然随筆所収」~『村垣公務日記』所収」では、「焼出シ部屋也」となっている。

72-図中左・中)「ロタノスケ」・・ムラヴィヨフ哨所の副隊長ルダノフスキー(海軍大尉)

74-9)「畳上(たたみあぐ)」・・積み上げる。積み重ねる。

7414)「剣付鉄炮」・・「剱」は、「剣」の異体字(俗字)。また、「炮」は、火扁で、旁は勹(つつみがまえ)の中が「巳」である。剣付鉄炮は、先端に剣をつけた小銃。銃剣。

 

 

2月町吟味役中日記 注記

(47-2)「某(それがし)」・・ここでは、自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 なお、他称に用いる場合も多く、「なにがし」と読む。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

 <「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い>

 とある。

 *「某彼某(それがし‐かれがし・それがし-かがし)」・・他称。名がわからない、または、はっきり示さない場合、二人以上の人をさしていう。だれだれ。なにがしかにがし。それがしかがし。それがしそれがし。それかれ。

 *「某某(それがし-それがし)・・「それがしかれがし(某彼某)」に同じ。

 *「其此(それこれ)」・・他称。数多くの人や事物をさし示す。あれやこれや。

 *「其彼(それかれ)」・・他称。二人以上の名をそれと明示しないでいう語。

(47-2)<くずし字>「問合(といあわせ)」の「問」・・門構えが、「つ」のようになる。テキスト影印は、極端な「一」。なお。「問」の部首は、門構えでなく、「口」部。

(47-3)「申付(もうしつく)」・・ここは、終止形と見て、下二段動詞「もうしつく」。現代用語では、「付(つ)く」は、「付(つ)ける」。

(47-2)「申渡」・(47-3)「申付」・・「申」の5画目が長く、「申し」と「し」があるように見えるが、古文書では、「申(もうし)」には、「し」の送り仮名は、ほとんど付けない。

 「申入」「申上」「申候」「申立」「申遣」「申越」

(47-7)「乗馬(じょうば・のりうま)」・・乗るために用いる馬。

(47-78)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。なお、勝馬自身、嘉永元年(1848)48日から同3(1850)7月まで、御側頭になり、そして、『御側頭御役中御用手控』、『番日記』(いずれも北海道大学附属図書館蔵)を残している。『番日記』は、嘉永3(1850)77日で終っている。「奥平履歴」にある「病気差重、存命無覚束候ニ付、御役御免奉願」は、この時期か。勝馬は、この年112日、没した。

(47-8)「依而(よって・よりて)」・・動詞「よる(寄)」の連用形に助詞「て」の付いてできた語。漢文の訓読から生じた。前の事柄が原因・理由になって、後の事柄が起こることを示す。だから。故に。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、

 <(「よって」の)出現時期については、読み仮名・送り仮名が無い場合の「因」「依」「仍」を「よりて」「よって」のどちらに読むのか断定できないため、鎌倉時代初頭頃までさかのぼる可能性がある。>

 とある。

(47-8)「其刻(そのきざみ)」・・その時。その当日。そのおり。

*文明本節用集〔室町中〕「其刻 ソノキザミ」

(48-3)四ツ半時」・・午前11時頃。

(48-3)<欠字>「登城」・・「登」と「城」の間の空白は、尊敬の体裁の欠字。

 *多く使用される欠字・・①尊敬の動詞の前「被 仰付(おおせつけられ)」「被 申(もうされ)」「被 召(めされ)」「被 成(なられ)」「被 下(くだされ)」「被 達(たっせられ)

  ②「御」、「公」

  ③テキストのような「城」の前の欠字

(48-5)「下(さが)ル」・・目上の人や客などのいる前などから退く。退出する。

(48-6)「夕七ツ半」夕七ツ半

(48-8)「大塚伴博」・・P38は、「大塚伴亮」としている。

(48-9)「案内」・・事情、様子などを知らせること。しらせ。中古のかな文では、撥音「ん」を表記しないで「あない」と書くことが多い。本来、「案」は文書の写し、および下書きをいい、「案内」は案の内容を意味した。平安時代以後、内情、事情その他の意に転じて用いられている。漢語本来の意味としては「事件の内に・一件中に」などを指すが、日本では、上代・中古の格(律令を執行するための臨時の法令)、符(上級官司から下級官司に出す命令文書)等の古文書、記録、日記類の漢文あるいは変体漢文に盛んに用いられ、日本語として独自の意味をもつようになったもの。

(48-9)「相詰ル」・・「相(あい)」は接頭語。

    「詰ル」は、古文では、下二段活用「詰む」の連体形とすると、「詰(ツム)ル」で、連体止め。

    現代文法では、下一段活用の終止形で、「詰(つめ)ル」。

(49-2)(49-7)<くずし字>「いたし候」・・連綿体。行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの。

(49-3)「知内村」・・上磯郡知内町。近世から明治39年(1906)までの村。北は木古内い村(現木古内町)、南は小谷石村(現知内町のうち)。

(49-6)「下役(したやく)」・・町奉行の吟味役配下の役職。本テキストは「吟味下役」(P37)としている。永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色―」(新北海道史編集機関誌『新しい道史 第11号』1965)には「下吟味役」とある。

(49-6)「梅沢由右衛門」・・松前藩町奉行配下の吟味下役。

(50-2)「古田八平」・・『松前藩士名前控』に、新組足軽として名がある。

(50-2)「岡田作兵衛」・・『松前藩士名前控』に、足軽並として名がある。

(50-3)「下着(げちゃく)」・・都から地方へくだり、その目的地に着くこと。

(50-3)「恐悦(きょうえつ)」・・ひどく喜ぶこと。

(50-4)「小川永郎」・・「栄郎」は「永節」か。小川永節は、松前藩医。

(50-5) <くずし字>「處」・・影印は、「処」の旧字体「處」。「人」のように見える最終画の「ノ」は、「虍」(とらがしら)の4画目の左払いの「ノ」。

 *<漢字の話>「処」の部首は「几」(きにょう・つくえ・かぜかんむり)

   「几繞(きにょう)」ともいうが、実際に「繞(にょう)」の位置にくる文字はない。

   「鬼繞(きにょう)」と同じ読みになりまぎらわしい。

   「几(つくえ)」を音符として、つくえの意味を含む文字ができるが、例は少ない。

   「かぜかんむり」ともいうが、9画の部首「風」があり、これまたまぎらわしい。

(50-6)「差下(さしくだ)シ」・・「差し下す」の連体形。「さし」は接頭語。下の方へ動かす。下方へ移動させる。ここでは、江戸から松前に帰着すること。

(50-6)「当着」・・「当」は、「到」の当て字で、「到着」か。

(51-5)「侍座(じざ)」・・貴人や客など上位の人のおそばにすわること。

(51-8)「柏屋利兵衛」・・「柏屋」は、場所請負人藤野四郎兵衛の屋号。商標は又十。「利兵衛」は、「喜兵衛」か。藤野嘉兵衛(柏屋)は、藤野四郎兵衛の松前における営業名。代々喜兵衛を以て営業した。近江国愛知(えち)郡日枝(ひえ)村(現滋賀県犬上郡豊郷町)出身の近江商人。

(51-9)「萬屋増蔵」・・「萬屋」屋号。商標は、山十。場所請負人宮川増蔵。藤野の義兄にあたる。

(52-1)「抱女(かかえおんな)」・・芸娼妓や茶屋女で、年季契約などでかかえられた者。かかえ。

(52-45)「可相成(あいなるべく)」・・「あい」は接頭語。「なるべく」は、動詞「なる(成)」の終止形に、可能の助動詞「べし」の連用形が付いてできた語。もしできるなら。なるべくは。

(52-2)「相対死(あいたいじに)」・・心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

 *心中・・もともと心中とは心の誠ということで、「心中立て」はこの意味の語である。、心の中の誠を具体的に表現する必要から、放爪(ほうそう)、断髪、切指(指を切り落とすこと)、貫肉(股(もも)などを刃物で突くこと)など身体の一部を傷つけたり、切り取って相手に渡したり、または互いの名をいれずみしたりする風習がおこり、これらの手段を心中というようになった。このなかで互いの生命を賭(か)ける心中死は、心中の極致と考えられ、やがて心中は心中死(情死)を意味するに至った。この変化は、およそ元禄(16881704)前後のことと考えられるが、ちょうどそのころ京坂を中心に情死が多発している。情死事件が起こるとすぐに読売り祭文や近松の浄瑠璃につくられ、それがまた次の情死の誘因ともなった。情死者が斬新な死の手段を考えたことは、明らかに自分たちの死の効果を予想したものであった。

  この風潮に対して、江戸幕府は享保7(1722)に心中死の取締り規則を定め、公式には相対死(あいたいじに)と称するようにした。その罰則は、情死者の死骸取捨て、未遂者の非人扱い、また1人が死亡のときは相手は死刑、さらに、主従関係(主人側は軽い)や男女(女は軽罪)の差異が認められた。

(52-6) <くずし字>「今」・・ひらがなの「て」のようになることがある。

 ここの「今」は、副詞で、「さらに。その上に。あと。もう。」の意味。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <古くは、挙例「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、挙例「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

 *「いま一息(ひといき)」・・もう少し。あとちょっと。

 *「いまひとつ」‥もう一つ。更にもう少し

 *「いま一度(ひとたび・いちど)」・・もういちど。もういっぺん。今いちど。

  **「小倉山峯のもみぢば心あらば今ひとたびの御幸またなむ〈藤原忠平〉」(『拾遺和歌集』

魯夷始末書2月学習分注記

64-1)「四拾三人」・・異本(『北蝦夷地御場所江異国人上陸ニ付見分御届書』)では、「四拾六人」としている。

64-7)「右之外近所住居罷在候処」・・異本では「右之外遠近所々住居罷在候蝦夷人共弐百五十九人クシユンコタン外四ケ所漁場働いたし罷在候処」としている。

64-8)「愚昧(ぐまい)」・・愚かで道理にくらいこと。また、そのさま。

64-8)「驚動(きょうどう)」・・驚き動揺すること。驚きさわぐこと。

64-9)「差而(さして)」・・副詞。「然して」。(動詞「さす」の連用形に助詞「て」のついた形から、下に打ち消しの語を伴って)、「それほどでも~ない」の意。

6410)「一通(ひととおり)」・・はじめから終わりまでざっと。ひとあたり。

64-1)「生立(おいたち)」・・生まれながらの性質。生まれつき。

65-1)「不相開(あいひらかず)」・・「開く」は「啓く」と同義で、暗愚を解消するの意。

65-1)「一図(いちず、いっと)」・・「一途」とも。一つのことだけに打ち込むこと。ひたむき。ただそればかり。

65-2)「存込(ぞんじこみ)」・・動詞「存込む」の連用形。「存込む」は「思い込む」の謙譲語。

65-2)「解兼(ときかね)」・・動詞「解く」の連用形+動詞「兼ねる」の連用形。「解く」は、人の気持ちをほぐす。気持ちや感情をやわらげる。「兼ねる」は動詞の連用形について、「~しようとしてもできない。~することに堪えられない」の意。

     したがって、気持ちや感情を和らげることができない状態をいう。

65-2)「風俗(ふうぞく)」・・日常生活上のしきたり。ならわし。

65-2)「本蝦夷地」・・蝦夷島(北海道)の内、道南の松前、箱館近在の松前地(和人地、シャモ地とも。)を除く、東蝦夷地と西蝦夷地を指す。なお、蝦夷地一円(松前地、東・西蝦夷地)は、明治二年(1869)八月十五日、「北海道」に改称され、11国86郡に画定された。

65-3)「上国(じょうこく)」・・文化の進んだ、優れた国。また、豊かな国。元来は、令制で、国を管郡数・戸口数などにより四等級に分けたその第二位の国の称。山城・摂津など。大国・中国・下国に対していう。

65-3)「風意(ふうい)」・・ならわしと考えかた。

65-4)「北蝦夷地」・・樺太島。奥蝦夷とも。幕府は、文化六年(1809)六月、「樺太島をいご北蝦夷地と唱えるべき旨を命じ」(松田伝十郎著『北夷談』)、明治二年(1869)八月、北蝦夷地を樺太と改称(『北海道史』)。なお、𠮷田著『大日本地名辞書』では、「文化六年、幕府の北辺経営にあたり、唐太を改号して北蝦夷と曰ふ。幕府公文書多く之を用ゐしも、爾餘には、カラフトと幷び行はれたり。」、「文化以前には、~ 東西両海岸に分ちて、その北岸なる(今北見国)地方にも泛称したり。~ 奥蝦夷といふ。」とある。  

65-4)「纔(わずか)」・・<漢字の話>『字通』の解字に<「纔は淺きなり。読みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>としている。

     また、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、同訓異字として、次のようにある。

     【僅】(キン)ほんのすこし。すこしばかり。特に、数が少なくわずか。「僅差」「僅僅」「僅少」《古わずかに・すくなし・ほとんど》

【纔】(サイ・サン)色のまじったきぬ。転じて、どうにかこうにか足りるくらい。かろうじて。やっと。特に、量がわずか。どうにか。かつかつ。《古わつかに・わづか・つひに》

【才】(サイ)「纔」に同じ。《古わづか》

【些】(サ)ふぞろいに並べる。転じて、いささか。いくらか。すこし。「些細」「些事」「些少」「些末」

【涓】(ケン)しずく。小さい流れ。転じて、量がきわめてわずか。ほんの少し。「涓涓」「涓埃」《古みづたまり・あひだ・あはひ》

【財】(ザイ)価値あるもの。たから。転じて、「纔」に同じ。「財足」《古わづかに》

【毫】(ゴウ)細い毛。転じて、ごくわずか。ほんのすこし。ちょっぴり。「毫末」「毫毛」「一毫」「白毫(びゃくごう)」《古ふむで・ふで》

【錙】(シ)古代中国で重さの単位。転じて、目方がわずか。価値があまりない。また、物事がこまかくかすか。微細だ。「錙銖(シシュ)」

65-4)「而己(のみ)」・・副助詞。他を排除して、ある事柄だけに限定する意を表す。現代語では「のみ」に相当する助詞として、一般に「だけ」、「ばかり」の語が用いられる。

     *「而己」・・漢文の助辞。漢文では、文末におかれて限定・強意を表す。「のみ」と訓じる。「~だけである」「~にすぎない」の意味。「而己」よりさらに語気が加わった「而己矣」がある。

     夫子之道   夫子(フウシ)のみち、

     忠恕而己矣  忠恕(チュウジョ)のみ。  (『論語 里仁』)

     (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

     *古田島洋介氏は、『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(吉川弘文館 2013)のなかで、「のみ」は、「啻(ただ)に」や「独(ひと)り」と組み合わさって限定の意味であるが、「~なのである」と強調の意にもなることを念頭に置くべきと論じている。

 

65-4)「漁業働人足(ぎょぎょうばたらきにんそく」の「働」・

    *<漢字の話>「働」・・①国字。中国でも使用された。『字通』には『中華大字典』を引いて、「日本の字なり。通じて之れを読むこと動の若(ごと)しとみえる。」とある。

②解字は「人が動く。はたらくの意味を表す」(『新漢語林』)。なお、旁の「動」について、『字通』は「農耕に従うこと」とあり、「力は耒(すき)の象形。童僕が耒を執って農耕に従うことをいう」とある。『新漢語林』は、「力+重。おもい喪のに力を加えて、うごかすの意味を表す」とある。

65-5)「僻(へき、ひが、ひがみ)」・・「僻」は、ひがむこと。素直に見ないで、疑い曲解すること。また、その見解。異本は、「仕癖」とある。

65-5)「妄(もう)し」・・「妄」は、つつしみのないこと。みだりなこと。また、真実でないこと。また、そのさま。異本は「安(やすん)じ」とある。

65-5)「別而(べっして)」・・とりわけ。特別に。

65-5)「偏国(へんこく)」・・都から遠い国、地方。偏境。

65-5)「領主」・・松前藩主。

65-6)「専要(せんよう)」・・極めて重要なこと。またそのさま。肝要。

65-6)「儀」・・異本は「哉」としており、こちらの方が文意に添うか。

65-6)「仕置(しおき)」・・江戸時代、罪人を処罰すること。また、その刑罰。

65-7)「咎(とがめ)」・・非難。処罰。罰。

続きを読む

1月学習 町吟味役中日記 注記 

(41-4)「引合(ひきあい)」・・かかわり合い。共犯者。

(41-4)「御仕置(おしおき)」・・処罰。処分。この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(170411)までに成っていたとみられる。

(41-7)「及部(およべ)村」・・現松前郡松前町字朝日・字東山・字上川。近世の一時期存在した松前城下東在の村。松前湾に注ぐ河川のなかで最大の及部川の河口部と流域に位置する。同川は城下に最も近い鮭漁ができる川である。

   天明元年(1781)の松前広長「松前志」には及部村として「旧記及を覃につくれり、二村あり」とみえ、天明期までには二村に分離されたようである。なおこれ以降も下及部村を及部村と称することがあった。

(41-7)「初鱒(はつます)」・・「鱒」は、サケ目サケ科の魚類のうち「マス」と名のつく種類のものの俗称。多くはサクラマスをいうが、ベニマスとその陸封型のヒメマス、マスノスケ、ビワマス、カワマスなどの略称としても用いられる。

サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれる。

(41-7)「在方掛(ざいかたかか)り」・・松前藩町奉行配下の役職。

(41-8)「杦田留平」・・「杦」の字について、『新漢語林』は「国字」とし、「杉の旁の彡を書写体に従って久に改めたもの」とある。

   なお、板橋正樹著「幕末松前藩の警察下僚組織について(1)」(『松前藩と松前―松前町史研究紀要―20号』松前町史編集室刊 1958 所収)には、「杉田留兵衛」とある。

(42-1)「当賀(とうが)」・・松前藩では、表御殿での領主への拝謁が、毎月1日、15日に行われた。

(42-2)「御祝儀(ごしゅうぎ)」・・お祝いの挨拶。「しゅう」は「祝」の漢音。なお、「しゅく」は唐音。

(42-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。白老などを請負った。場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(42-4)<くずし字。「畢而(おわりて)」・・テキスト影印は「畢」の異体字。

(42-6)「蛯子七左衛門」・・箱館の町年寄。

(42-7)「伊藤清三郎」・・町年寄末席並名主締方(箱館詰)

(42-8)「和賀屋宇右衛門」・・箱館在住の場所請負人。有珠、三石、根室など

を請負った。

(43-2)「小林屋重吉」・・文政8(1825)1月箱館に生れる。幼名を庄五郎と言った。5代の祖庄兵衛は陸奥国北郡大畑村の人で、寛政年間松前に渡り、その子半次郎の時箱館に転住した。半次郎の子寅五郎は、文政年間東蝦夷地三石場所請負人となった。安政年間今の大野町に新田20町歩を開発し、また赤川にあすなろや杉を植林した。文久2(1862)私費をもって願乗寺川に鳥見橋を架け、後架け換えの時用材23石を寄附した。明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った。これによって後々まで官の信用を得た。またこの年、蛯子友輔が函館山の上より水道を開掘したが、資金が尽きて中止したのを自費1,600円を投じて工事を遂行し、汐見町、元町、会所町に清水を供給した。

    重吉はまた漁具、漁網改良を試み、三石郡姨布村に刻み昆布の製造所を設立し、清国(中国)への昆布輸出の基礎をつくり三石昆布として全国的に有名になった。明治14(1881)9月東川町に移転し、益々その業を盛んにした。その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救済等枚挙にいとまがなかった。明治3643078歳で歿した。

(43-3)「林七郎兵衛」・・箱館の商人。松前藩の御雇船主。

(43-8)「若殿様、御水痘(すいとう)」・・「若殿様」は、8歳の良広(のち松前藩10代藩主)良広は、文政9(1826)523日生まれ。松前見広(ちかひろ。9代章広の次男)の子。「若殿様」とあるが、この時期、良広の父・見広はすでに他界し、祖父章広の嫡孫(承祖者)だった。祖父章広ののあと,天保5(1834)12月、9歳で松前藩主10代となる。病弱のため、同族の旗本松前広茂(ひろしげ)が藩政を担当。天保10(1839)824日死去。享年14

   「水痘」は、水痘ウイルスによって起こる感染症。みずぼうそう。

*松前藩10代松前良広を中心にして、時系列に、松前藩の系譜を見る。

章広(あきひろ)、9代藩主襲封。寛政4(1792)10月就任。

 ・寛政10(1798)、長男慶之助(よしのすけ)を嫡子とする。

  ・享和3(1803)長男慶之助、死亡。10歳。

  ・同年、次男誠之介(のち見広=ちかひろ=)を嫡子とする。

  ・文政6(1823)5月、見広に長男隆之介(のち10代良広=よしひろ=)生まれる。

  ・文政10(1827)7月、見広、死去。23歳。

  ・文政10(1827)8月、見広の次男準次郎(のち11代昌広=まさひろ=)生まれる。

  ・同年、良広、祖父章広(9代藩主)の嫡孫(承祖者)を許可される。

 ○天保3(1832)4月、テキスト・奥平勝馬の「町吟味役中日記」

    「若殿様(良広=9代章広の孫)、御水痘ニ被為在」

  ・天保4(1833)7月、9代章広死去59歳。死去の公表は、翌5(1834)9月。

  ・松前藩、対応策に奔走、同族の旗本松前広茂を藩主名代とし、許可される。

 ○良広、9歳で、10代藩主襲封。天保5(1834)12月。

  ・良広、病弱(『松前町史』には、精神病説も記載)で、将軍への家督御礼の拝謁もできなかった。藩では、新たな善後策を講じる必要を迫られ、名代広茂の在国延長を再三願い出る。

  ・天保10(1839)7月、準次郎(のち、11代昌広)、兄10代藩主良広(14)の嗣子となる。松前藩、領主権の危機を脱する。

  ・天保10(1839)8月、良広死去。14歳。

 ○昌広、13歳で、11代藩主となる。天保10(1839)10

*テキストの天保3(1832)は、松前藩にとって、嫡子(章広の長男・慶之助、次男・見

広の早逝、藩主章広の高齢化、嫡孫良広の病弱という中で、前途に暗雲が立ち込めてい

た時期であった。

続きを読む

魯夷始末書1月学習注記


(60-1)<くずし字>「申ニも」の「申」
・・くずしは、「中」のように見える。どちらかという 
     と、「P」に近い。

60-1)「間鋪(まじく)」・・「まじく」は、強い打消し推量の助動詞「まじ」の連用形。漢字で表記される場合、「間敷」の「敷」と混用され、「間鋪」が頻出する。「鋪」を使った用例として、「屋鋪」、「厳鋪」などがある。

60-2)「祖父」・・異本は「父祖」。「祖父」は、「父母の父」、「父祖」は、先祖、祖先の意が強い。「父祖」の方が文意に適合しているか。

60-2)「利欲(りよく)」・・利益を得ようとする欲望。

60-2)「当節(とうせつ)」・・この時節。現今。今。

60-3)「用立(ようだち)」・・「用立(ようだ)つ」の連用形。役に立つ。用いることができる。

60-3)「仁恵(じんけい)」・・なさけ。めぐみ。慈悲。

60-4)「御懐ケ被遊候(おなつけあそばされそうろう)」・・「懐(なつ・なづ)ケ」は、「懐(なつ・なづ)ける」の連用形。なつくようにする。てなずけて従わせる。「遊ばされ」は、補助動詞「遊ばす」の連用形。多く動作性の語に付いて、その動作をする人に対する尊敬の意を表わす。動詞の連用形につく場合は、多く、尊敬の接頭語「お」を伴う。本文の例は、「お(御)」+「懐(なつ・なづ)け」(動詞の連用形)+「被遊(あそばされ)」+「候(そうろう)」

     「遊ばす」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<意味は徐々に「あそぶ」意から広がったが、長く芸能・技芸の範囲にとどまっていた。中世の「平家物語」(覚一本)でも、書く意、演奏する意、読経する意、詠ずる意、射る意であり、一般的なする意の用例は、中世末期から近世初期を待たねばならない。近世には補助動詞用法も生じた。敬意は高いが、戦後は衰勢にあり、文部省の『これからの敬語』(1952)でも、「お…あそばす」を「おいおいにすたれる形であろう」としている>とある。

60-4)<くずし字>「被遊候ハバ」・・「被」も、「遊」も決まり字。「遊」は、旁の「方」が偏のようになり、シンニョウは、旁のに続けて「を」のようになる。

60-4)「帰服(きふく・きぶく)」・・つき従うこと。支配下にはいること。服従。帰順。降伏。降参。

60-4)「一助(いちじょ)」・・ちょっとした助け。何かのたし。

60-4)「却而(かえって)」・・副詞。〔「かえりて」の転〕。反対に。逆に。

60-6)<見せ消ち>「カンチユコンテ」・・先に書かれたのは「カンチヱマンラ」。「ヱ」「マ」「ラ」の左にある点(ヽ)は、訂正したことを示す見せ消ち記号。それぞれの右に、「ヱ」を「ユ」、「マ」を「コ」、「ラ」を「テ」と訂正している。異本は「カンチユマンテ」。

60-6)「シラリヲハマ」・・「シララヲロ」とも。日本語表記名「白浦(シラヲロ)」。ここでは樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「元東白漘(ヒガシシラオロ)といへり。白浦村に駅逓あり、南は十里にしてアイ驛に至り、北は二里にして真縫驛に接す。」とある。

60-6)「ウヱケシナ」・・異本は「ウエケシユ」とする。アイヌの人名。

60-6)「ロレイ」・・日本語表記地名「魯礼」「露礼」。樺太東海岸のうち。

『大日本地名辞書』には、「(栄浜の)近地に、シユマヤ、サツサジ、ロレイなどの名あり。」とし、「ロレイ」の名が見える。

60-7)「コタン」・・異本は「コンタ」とする。アイヌの人名。

60-7)「ヲソヱンコ」・・「ヲソエコニ」とも。日本ご表記地名「押江」。樺太東海岸のうち。

6010)「ヱノシマナイ」・・「ヱヌシコマナイ」、「ヱヌシコマナイホ」、「イヌシコマナイ」とも。日本語表記地名「犬駒内」、「犬主駒」、「江主高麗内」とも。樺太南海岸のうち。『大日本辞書』には、「於布伊泊(ヲフユトマリ)の隣村とす、イヌシコマ川(ナイ)といふ。釜泊はさらに犬主駒の東に在り。」、「楠渓(クシユンコタン)より、四里にしてヲフイトマリ番屋一軒、土人家五軒許、六里にしてイヌシコマナイ、土人家十軒許。」とある。

6010)「ハイロ」・・異本は「ロクヽシ厄介 ハイロ」とする。

61-1)「ヲマヘツ」・・「ヲマンベツ」とも。日本語表記地名「小満別」。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』に「満別」として「遠淵の南方六里の孤村にし、大、小の二部に分かる。」とあり、「大」が「弥満別(ヤワンベツ)」、「小」が「小満別(ヲマンベツ)」か。

61-3)「恐敷(おそろしく)」・・「恐」は、旁のくずし様によって判読の困難さは増す(『古文書くずし字200選 柏書房』)とされている。

61-4)「普請(ふしん)」・・家屋を建て、また修理すること。建築または土木工事。

61-4)「懇意(こんい)」・・親しくしていること。遠慮のいらない間柄であること。

61-5)「首長(しゅちょう)・・上に立って集団や団体を支配、統率する人。かしら。ここでは、クシュンコタンに建てられた「ムラヴィヨフ哨󠄀所」の隊長ニコライ・ブッセ(本書ではフースセ)を指す。

61-5)「迠(まで)」・・「迄」の誤用。(『新漢語林』)。なお、「迄」と、「迠」は別字で、

     読みも「迄」は、「キツ(漢音)」「コチ(呉音)」、「迠」は、「ショウ」。

61-6)「俄(にわか)に」・・形容動詞「俄(にわか)なり」の連用形。物事が急に起こるさま。また、事態が急変するさま。急激で荒々しいさま。だしぬけ。突然。

61-6)「咎(とが、とがめ)」・・罪、罰。

61-6)「只管(ひたすら)」・・もっぱらそのことに集中するさま、その状態に終始するさまを表わす語。いちずに。ただただ。なお、「只管」は、元来は漢語・仏教用語で、「シカン」と読み、「ただ、ひたすら、一途に、余念をまじえないで」といった意。「只管打坐(しかんたざ)」は、余念をまじえず、ただひたすらに坐禅を行うこと。坐禅に意義や条件をもとめず、無所得の立場に立って坐禅を実践するもので、道元が強調した禅。

61-7)「同船(どうせん)」・・同じ船に乗ること。乗り合わせること。

61-7)「領主役人」・・松前藩士の三輪持、氏家丹右衛門ら。

61-7)「召連(めしつれ)」・・下二動詞「召連(めしつ)る」の連用形。貴人が従者などを従えていく。

61-8)「国法(こくほう)」・・徳川幕府の定めた禁令、法度などの法令のこと。ここでは、いわゆる「鎖国令」としての「海外渡航の禁止」のことを指す。。松前奉行や箱館奉行が任地に赴く時の将軍黒印状に「海外渡航の禁止」のことが触れられている。

*<文化五年(1808)正月七日付松前奉行(荒尾但馬守)宛徳川家斉黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅可停止」(『蝦夷地御用内密留』~阿部家文書/道立文書館保管)

*<嘉永七年(1854)閏七月十五日付箱館奉行(竹内下野守)宛徳川家定黒印状>

「日本人異国江不可遣之、若異国住宅之日本人於帰朝者、宗門其外念入相糺可注進之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

*<安政三年(1856)二月十五日付箱館奉行(村垣淡路守)宛徳川家定黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅停止之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

6110)「何方江歟(いづかたえか)」・・「歟(か)」は、係助詞で、種々の語、語句に付いて不確かな気持ちを表す。

62-1)「行衛(ゆくえ)」・・「行方」と同義。行くべき方向。行った方向。

62-2)「理解(りかい)」・・ここは、道理を説いて聞かせること。

続きを読む

12月学習 町吟味役中日記 注記

(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。

(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。

(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという。

(36-3) 「ヲコシリ島」・・奥尻島。菅江真澄は「於胡斯離」を当てている。、「蝦夷日誌」(二編)は「此処へ松前地の咎人は流罪に被仰付候由也。当時は十二、三人計居りけるよし」と流人の居住者があったことが記されている。武田信広がついたとされる地には字初松前(はつまつまえ)の地名が残る。

(36-3)「遠島(えんとう)」・・松前藩の流刑奥尻島遠島について、『松前町史』は、「越山と異なり復興期以降にしか明証を得ることができない」とし、その理由について「藩政初期から越山という松前藩独自の流刑が存在した」とある。遠島者は、「煎海鼠(なまこ)、白星鮑、昆布等の長崎御用俵物生産の労働を課せられていたこともほとんど疑いない」と述べている。なお、奥尻島遠島と類似している「奥尻場所請負人への身柄預け」という奥尻島への追放もあったことが記載されている。

(36-4)「中河原町(なかかわらまち)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中川原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。「蝦夷日誌」(一編)に「川原町のうしろ也。少しの町にして此処は妓楼と妓楼の小宿のミ也。(中略)妓楼ニ到らんもの此処に到りて案内を致させ、または此処ニ妓を呼巫山の夢を結ぶも有。(中略)他商売のもの絶てなし」と記される。これより少し前の天保14年(1843)の藩政改革に際して、茶屋渡世は蔵町と当町の二時刻が定められている。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-5)「大松前町(おおまつまえちょう)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記し、「昔しは此地海湾に而有りしが、当時は城下第一の繁華の地となりたり。請負人岡田等此所ニ住す。北は横町町会所に到る。南法華寺坂、枝ケ崎ニかゝり、西小松前川(町)ニ境ふ也」と続けている(「蝦夷日誌」一編)。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-13)「金子(きんす)」・・「す」は「子」の唐宋音。金子は金貨幣、銀子は銀貨幣のことで、江戸時代一般に広く用いられた語句であるが、金銀貨幣がようやく一部に流通され出した中世末期から始まるものである。しかし、のちには金子は金貨幣のことを示すのみでなく広く貨幣(おかね)全般のことに拡大されるに至った。なお銀子の語は江戸時代に銀貨幣が中心に動いていた関西で主として使われたものである。

(37-2)「座料(ざりょう)」・・座敷などを貸す料金。席料。

(37-10)「検使(けんし)」・・江戸時代に、一般的には現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。たとえば、刑罰としての武士の切腹や敲刑の執行などに立ち会う者を検使と呼んでいるが、狭義では変死・傷害・出水などに出張する検使をいう。

(38-2)「奥村栄晋(おくむらえいしん)」・・奥村英晋とも。松前藩医。御雇医師。

(38-6)「大塚伴□并藻寄恒齊」・・『蝦夷地醫家人字彙』には、「大塚伴博」「藻寄恒齊」の名がある。ふたりとも、天保3年(1832)、江差に旅人医師として居住しているとしている。

(39-3)「工藤茂五郎」・・『松前藩士名前控』に、「中之間御中小姓」として「工藤茂五郎」の名がある。

(39-5)「羽州温海(うしゅうあつみ)」・・「羽州」は出羽国。「温海」は、現山形県鶴岡市温海。温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜街道が

通り、その宿駅であった。

(39-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(39-8)「光善寺」・・現松前郡松前町字松城。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2二年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1603)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化5年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求ごんぐ院を合併(寺院沿革誌)。同六年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行しようぎよう寺とともに一揆勢の結集の場となった。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

(39-8)「江指観音寺」・・現檜山郡江差町字泊町。字泊町にある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(1441)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正6年(1509)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(1615)の草創、阿吽寺末とある。「蝦夷日誌」(二編)によると、当寺は蝦夷地太田山おおたさん(現大成町太田神社)の別当寺で、太田山に参詣する者は当寺でお札を受けたという。安政年間(一八五四―六〇)伽藍を焼失、その後再建された。円空仏と木食仏が安置されている。

(39-9)「答書(とうしょ)」・・問い合わせに対する返答の書状。こたえの書状。返事。

 

 

魯夷始末書12月学習注記

56-6)「番人之程」・・P55-8「番人之詮」との比較から、「詮(かい)」と書くところを「程」としたか。「詮(かい)」は、「甲斐」で、価値、値打。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     なお「埒」は馬場などの囲いの意で、「不埒」は、埒のあかないことから転じて、事が解決しないこと。決着のつかないこともいう。

     また、古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は、競馬場など、内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

56-8)「生来(しゅらい・せいらい)」・・生まれたときからの性質や能力。また、生まれつき。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。異本は「感伏(かんぷく)」とする。感心して心から従うこと。ひどく感心すること。文脈から「感伏」の方が、合っているか。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

57-1)「承引(しょういん・うけひき)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

57-1)「承引(しょういん)」・・聞き入れること。引き受けること。承諾。

57-2)「外三人」・・シトクランの息子の数は、分かち書き(P57-9)では、惣領、、次男、三男の三名となっているが、外三人とすると、合わせて四人となり、数に不都合が生ずる。「三人」は、「二人」が正しいか。

57-2)「クシユンナイ」・・日本語表記地名「久春内」。「楠内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「東海岸なる真縫(マアヌイ)に至る横断路の基点にして、川に沿ひて上り、スメチヤノを経て、トドロキを越え、真縫川の谷に通ず。~此の間は一の地峡を成し、幅僅に七里となる。~南方トマリオロに至る七里半、北方ライチシカに至る十四里半。鰊漁業の一中心地。」とある。

57-2)「マカヌイ」・・「マアヌイ」、「マアヌエ」とも。日本語表記地名「真縫」。樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「本島(樺太)の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホツク海に濱す。」、「此地方は、古来名高き漁場なるのみならず、真縫は西海岸に越ゆる岐路として名高く、間宮(林蔵)氏は、此より地頸を横断して久春内に出でたり」とある。

57-2~3)「クシュンナイより山越致し、東浦マカヌイ江出」・・西海岸のクシュンナイ(久春内)~東海岸マカヌイ(真縫)は、サハリン島の最狭部

57-3)「搔送船(かきおくりぶね)」・・櫂(かい)で水を搔いて進める舟。ここでは、アイヌの板綴舟か。一方、搔送船に対比される舟として「押送船(櫓を押して進む船)~和船」がある。

57-3)「水先案内」・・船舶が港湾に入るとき、また、内海や運河などの水域を通航するとき、その船に乗り込み、また、水先船で正しい水路を案内すること。

57-4)「甚助」・・異本は「忠助」。

57-4)「無謂(いわれなく)」・・物事をなすのに、正当な根拠、理由がないこと。間違っていること。
57-5)「無制(むせい)」・・掟のないこと。定がないこと。法度がないこと。

57-6)「無訖度(きっとなく)」・・「訖」は、「屹」の誤用か。厳しくないこと。やさしいこと。

576.7)「廻浦之節~案内仕」・・シトクランが案内したのは、支配勘定上川傳一郎、同下役長谷川就作、御普請役代り津田十一郎、同福岡金吾、松前藩士今井八九郎。

     このうち、上川らの幕吏は「ホロコタン」まで、今井八九郎は更に北の「ナツコ」まで探索。

*「ホロコタン」・・日本語表記地名「鰭尾(ビレヲ)」で、『大日本地名辞書』には、「北緯五十度なる国境を距る、北方約二里の海岸」、また、今井八九郎の『北地里数取調書』では、「ホロコタン 此所夷家一軒、シメレンクル(スメルンクル)家五軒、~(略)~此所よりロモーまで山越ニ道有よし」とある。

57-9)「惣領(そうりょう)」・・ここでは、家を継ぐ子。嗣子。特に長男または長女。

57-10)「生成(うまれなり)」・・「成(なり)」は、動詞「なる(成)」の連用形の名詞化で、「生(な)ること。」、「生(お)出でること。」の意。「生成」の意は、生まれた時から。生れ付き。なお、異本は「生来」につくる。

57-10)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり

58-1)「曾祖父(そうそふ)」・・祖父または祖母の父。シトクランの直系尊属の系図は、曾祖父(ヨーチテアイノ=ヤウチウテイ=揚忠貞)―祖父(サヱンケアイノサン)―父(シロトマアイノ)―本人(シトクラン)―子(惣領サヱンケアイノ、次男アヱブ子、三男カンチユマンテ)。

58-2)「官人(かんにん、かんじん)」・・官吏。役人。日本の官制では、①諸司の主典(さかん)以上の役人。②近衛将監以下および院司の庁官などの総称。③検非違使庁の「佐」と「尉」の役人。

58-2)「副都統(ふくととう)」・・中国(清)の官名。清代の八旗制下の各旗の長官(満州語ではグーサ・イ・エジュン)である「都統(漢字)」の下に、都統を補佐するために二人置かれたのが「副都統(満州語メイレン・イ・エジュン)。いわゆる「副長官」。なお、「都統」は、主として兵馬のことをつかさどった。清初の1714年(康煕53年)三姓協領衙門の設置が上奏され、1731年(雍正9年)には三姓地方副都統の設置が上奏され、翌年には副都統が設置され、黒竜江下流、松花江中流域及び沿海州などを統括した。

続きを読む

魯夷始末書11月学習注記    

        

53-3)「越年(えつねん・おつねん・としこし)」・・漱石は、『三四郎』で「越年(ヲツネン)の計(はかりごと)は貧者の頭(コウベ)に落ちた」と、「ヲツネン」とルビをしている。また『北海道方言集』は、「出稼ぎ人が正月になっても帰宅しないこと」を「おつねん」としている。

     *<雑学>「越年(おっとし・おとし)」・・節分の夜の火祭りを「おっとし」「おとし」という地方がある。節分が旧正月に近く、「節分正月」ともいわれることから、節分の行事に「越年」があるといわれている。

53-4)「以堂し(いたし)」・・「以」は「い」、「堂」は「た」の変体仮名。ちなみに、「堂」

     は、「トウ」(漢音)、「ドウ」(呉音)で、「た」という読みはない。なぜ変体仮名の「た」かといえば、「堂」の旧仮名遣いが「タウ」「ダウ」と表記することによる。

 53-5)「鉄炮(てっぽう)」・・「炮(ぽう)」の偏は「火」、旁の部分は「巳」。なお、「石偏」の「砲」の旧字体の旁も「巳」。新字体は「己」。

     <漢字の話>「巳」と「己」

    「包」は、常用漢字(新字体)になって構えの中が「巳」から「己」に変わった。

    常用漢字に採用されて「巳」が「己」に変わった字・・包、選、遷(遷都など)、抱、、泡(あわ)、砲、胞、飽(飽食など)

    常用漢字に採用されていないので「巳」のままの字・・匏(ひさご)、咆(ほ)える、枹(ばち)、疱(ほう。疱瘡など)、祀(まつ)る。鉋(かんな)、雹(ひょう)、鞄(かばん)、巷(ちまた)、撰(撰者、撰集など)、巽(たつみ)、庖(庖丁など)、炮(あぶ)る、鮑(あわび)など。

    常用漢字も旧字体も「己」のままの字・・改、忌、紀、配、妃、記。

    旧字体は「卩」であったが、「己」に変わった字・・巻、圏

53-7)「明払(あけはらい)」・・連用形。家や城などを立ち退いて他人に渡すこと。明渡すこと。

53-7)「空虚(くうきょ)」・・何もないこと。から。建物や部屋などに人のいないこと。また、人を立ち去らせてからにすること。

53-8)「安危(あんき)」・・安全と危険。安全であるか危険であるかということ。

53-9)「ナイフツ」・・「ナエブチ」、「ナエブツ」とも。日本語表記地名「内沸」、「内淵」、「苗淵」とも。樺太東海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、「柏(相とも)濱の北西一里、内沸河口に在る漁村なり。大泊、豊原より、多来加湾岸なる内寄、静香に通する路にあたる。」、「此地、早くより邦人に知られし夷村なり、元禄郷帳を始めとして、~(略)~、文化五年(1808)間宮(林蔵)氏の第一回探検図にも記入せられる。」とある。

54-1)「不念(ぶねん)」・・考えが足りないこと。不注意なこと。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。軽過失を意味する「不斗(ふと)」に対する語。例文としては、「吟味の上、不念之儀於有之は、一等重く可申付事」となる。

54―1)<くずし字>「不念無之」の「無」

54-1)「国地(こくち)」・・国の地域中、島から本土をさしていう語。島に対する本土。

     ここでは、カラフトから見て蝦夷地のこと。

54-2)「凌方(しのぎかた)」・・「しのぎ」は、動詞「しのぐ」の連用形の名詞形。困難なことや苦しみなどを我慢して切りぬけること。また、その方法や手段。

     また、「方」は、手段。方法。やり方。

54-2)「心付(こころづき)」・・連体形。気がつくこと。分別や才覚が生じること。

54-3)「殊勝(しゅしょう)」・・けなげなさま。感心なさま。神妙な様子。

54-3)「和人(わじん)」・・本来、昔、中国の立場からの日本人の称。ここでは、アイヌの人(蝦夷人)と対比した日本人の称。

54-4)<見せ消ち>「より」を「江」に訂正・・「より」を「ヽ」で消し、右に「江」とした。

54-4)「随身(ずいしん)」・・つき従うこと。随従すること。

54-5)「危踏(あやぶみ)」・・連用形。危険だと思う。不安で気がかりに思う。

54-6)「畢竟(ひっきょう)」・・つまるところ。ついには。つまり。結局。元来は、梵語atyanta の訳語。「畢」も「竟」も終わる意)仏語。究極、至極、最終などの意。

    <くずし字>①「畢竟」の「畢」は脚部が「十」、②「異国」は「異」脚部が「大」

    ③「霊」は、脚部が「火」

54-6)「守護(しゅご)」・・守ること。警護。守備。

54-8)「奇特(きとく・きどく)」・・神仏などの不思議な力。霊験。奇蹟。明治頃までは「きどく」か。現代は「きとく」がふつう。

55-2)<くずし字>「竹蔵」の「竹」・・「行」に見える。「竹」と「行」の違いは難しいが、人名では、「竹」と読む場合が多い。

55-8)「詮(かい、せん)」・・「甲斐」とも。ある行為に値するだけのしるし、効き目、効果。代価。代償。

56-6)「番人之程」・・「程」は、物事の度合。程度。P55-8「番人之詮」との比較から、「詮」と書くところを「程」としたか。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     (56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

11月学習 町吟味役中日記 注記

(30-1)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出を禁ずるもの。「押込」を「おしこみ」と読むと、「人家に押し入って強盗すること。また、その賊。強盗。」の意味になる。

(30-2)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来。

(30-4)「面体(めんてい)」・・かおかたち。おもざし。面貌。面相。

 <漢字の話」「体(テイ)」・・「体」を「テイ」と読むのは、漢音。「タイ」は呉音。

  「体裁(ていさい)」「世間体(せけんてい)」「風体(ふうてい)」「ほうほうの体(てい)」「あり体(てい)」「体(てい)のいい~」「体(てい)たらく」など。

(30-5)「売渡(うりわたし)」・・売買の対象となっている物を売って相手に渡す。⇔買い受ける。

 <漢字の話「売」>・・①テキスト影印は、「売」の旧字体「賣」。②部首は、新字体の「売」が「士(さむらい)」部、旧字体の「賣」は、「貝」部。③「賣」の解字は「出」+「買」「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。④新字体の「売」は、「賣」の省略体の俗字。

(30-6)<くずし字>「差出」の「出」・・影印は、「山」+「〻」(繰り返し記号)。ほかに「炎」も「火」+「〻」。また、「品」、「州」、「森」、「轟」、「澁」、「姦」、「傀儡」の「儡」、「磊落」の「磊」などの脚部が、繰返し記号になる場合がある。

(30-6)「売徳(うりどく)」・・売得。物を売ることによって利益を得ること。また、その利益。影印の「売徳」の「徳」は当て字。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の用例に

  <高野山文書‐(年月日未詳)〔江戸〕高野山衆僧法度写(大日本古文書六・一二一九)「衆僧山林入薪等取売徳仕間敷事」>を挙げている。

(30-7)「地蔵町(じぞうまち)」・・函館市末広町・豊川町・弁天町・大町・内澗町・当町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋立てられていった。内澗町寄りから一―六丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町二―三丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、六丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。

(30-8)「手代(てだい)」・・商業使用人の一つ。番頭とならんで、商人の営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。

(31-1)「山之上町(やまのうえちょう)」・・現函館市弥生町。山ノ上町・山の上町・山上町とも記す。「蝦夷日誌」(一編)が「山の上」は東を法華寺(実行寺)、西は神明社、北は裏町(大黒町)の坂を限りとする「此処の惣名也」とし、「箱館夜話草」には「山ノ上町といふは惣じて神明宮の通りより芝居町此辺までをさいていふ処なり」とあるように、元来は箱館町の表通り(弁天町・大町の通り)の上手(山手)、函館山北東面の小高い山裾一帯に開けた新開地をいった。小名を含む広義の山之上町は文化年間(一八〇四―一八)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一―二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(32-1)「深泊り」・・P32の注記参照。

(32-6)「代銭(だいせん)」・・代金。なお、「代銀」は銀目で支払う代価。銀本位であった上方地方で多く用いられた。

(32-7)「不届至極(ふとどきしごく)」・・江戸時代、死罪に処すべき判決の末尾に書く罪名に冠して用いたことば。

(32-78)「可被仰付処(おおせつけ・らる・べき・ところ)」・・

  書下しは「可仰付処」。

  組成は、下ニ動詞「仰付(おおせつく)」の未然形「仰付(おおせつけ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の終止形「被(らる)」+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+名詞「処(ところ)」。

(32-8)「入墨」の「墨」・・影印は2字に見えるが縦長の「墨」1字。脚の「土」はひらがなの「ち」のようになる場合がある。

(32-9)「馬形東上町(まかどひがしうえまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川と伝治川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、段丘の北側は馬形上町、南は東中町、東は東新町。

(32-11)「身元請(みもとうけ)」・・雇われて働く者の身元を保証すること。

(32-12)「トラメキ町」・・現松前郡松前町字月島・字朝日。「寅向」・「とらめき」とも表記される。ほか登良女喜・度良目木・戸羅目木などの文字を当てる。伝治沢川から及部川に至る海岸沿いの地域にあり、西は泊川町。当町は天明―寛政期に町立てされたとみられる。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)では伝治沢町と合せて家数一二七・人数四一四。また「とらめき町、下は水かふり、平磯にて町裏地所無之、町屋東裏は崖之下ニ而、夫より泊川町際ニ至而は地面無之、崖下往還壱筋計も狭く」と記され、崖際に立地して目前に海が迫り、地形的に恵まれていない様子がわかる。「蝦夷日誌」(一編)には「トラメキ」として「此並川向也。人家より足軽多く有。此上に平野有。野畜の馬多し」とある。

(32-12)「逗宿(とうしゅく)」・・逗宿は足を止めて宿をとること。

(32-15)「不束(ふつつか)」・・江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可 成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可 成者は、不届之旨と認」

*「不束或は不埒」・・御叱り、急度御叱り、手鎖、過料。

*「不届」・・所払、追放。

続きを読む

古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年1114日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書10月分学習注記


49-2)「年礼(ねんれい)」・・年賀の礼。年始。藩では、松前藩では、元旦に藩主が八幡宮に参り、家臣が登城し年賀礼が行われた。

49-3)「村役人」・・江戸時代、村方三役の名主、組頭、百姓代(東国の称。西国では、庄屋、年寄、百姓代)の総称。

49-3)「麻上下(あさかみしも)」・・麻裃とも。近世の武家の礼服。麻布で製した裃で、肩衣(かたぎぬ)と袴を同質、同色の布で作り、裏をつけない。近世後期は、絹との交織もあった。小紋が多く、無地、子持筋(こもちすぢ)もある。紋所は、肩衣に三か所、袴に一か所つく。継上下がややくだけた体であるのに対し、麻上下は、本格的な正式の服である。式日その他威儀を正す折に用いられた。町人の葬式の折にも用いられる。

49-6)「ナイホ」・・「ナイボ」、「チイカエナイボ」とも。日本語表記地名「内保」。樺太西海岸のうち。『大日本地名辞書』に、「ウッス岬南隣の漁場にして、野田寒の北六里、今此處に駅逓の設あり」とある。

49-6)「トルマイ」・・トルマエとも。日本語表記地名「鳥舞」。樺太西海岸のうち。

49-6)「サイカクシ」・・人名。安政六年(1859)、北蝦夷地西浦、富内詰の足軽倉内忠右衛門が、島内を見廻りした際の随従者の一人として、「平土人サイカクシ」の名が見える。*「富内」・・樺太西海岸のうち。西富内、真岡とも。アイヌ語地名エンルコマフ、エンルモコマフとも。箱館奉行所の御用所があった。

49-8)「アサナイ」・・「アサンナイ」とも。日本語表記地名「麻内」。樺太西海岸のうち。

49-10)「掻送(かきおくり)」・・櫂(かい)で水を掻いて舟を進める。

4910)「時節後(じせつおくれ)」・・適当な時期に遅れること。季節にはずれること。

50-1)「不束(ふつつか)」・・「ふとつか」の転。「つか」は、接尾語。①太くたくましいさま。②ぶかっこう。不細工。③②から転じて、物事の整っていないさま。礼儀を知らないさま。無粋なさま。

江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合に、「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

50-4)「心底(しんそこ、しんてい)」・・心の奥底。本心。

50-5)「帰服(きふく、きぶく)」・・心を寄せてつき従うこと。なお、「きふく」と「きぶく」には、使い分けがあったらしい。「きふく」は、抵抗をやめて服従すること。支配下に入ること。降参。「きぶく」は、仏語で、神仏、高僧などをあがめて、心から信頼をよせること。心服。帰依におなじ。

50-6)「共与篤与」の「与(と)」・・古文書で、日本語の助詞「と」に「与」を当てる場合がある。「与」は、変体仮名ではなく、漢文に起源する文字。漢文の助辞(助字)で、漢文訓読の際、「と」と訓じることから、「与」を日本語の助詞「と」とした。

     「AB」(AとBと)

     *「富与貴、是人之所欲也」(『論語 里仁』)

      (フウとキとは、是人の欲する所なり)

       富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。

50-7)「賞誉(しょうよ)」・・称誉とも。ほめたたえること。ほめること。称賛。

50-6)「奇特(きとく)」・・古くは「きどく」。心がけや行ないが普通よりもすぐれていて、ほめるべきさま。負担がかかるようなことを、すすんで行なってほめるべきであるさまにもいう。殊勝。感心。

50-8)「リヤトマリ」・・「リヤコタン」とも。日本語表記地名「利家泊」、「利家古丹」。樺太南海岸のうち。

50-8)「クリウヱントマリ」・・不詳。

50-9)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「八虎泊」、「母子泊」、「函泊」とも。樺太南海岸のうち。

50-9)「ヲハヱタイ」・・「ヲフユトマリ」か。日本語表記地名「雄吠泊」、「小冬泊」か。樺太南海岸のうち。

5010)「シヽユヤ」・・「ヒシユヤ」、「スヾヤ」とも。日本語表記地名「鈴谷」。樺太南海岸のうち。

5010)「ホロアントマリ」・・「ポロアントマリ」とも。日本語表記地名「大泊」。樺太南海岸のうち。

5010)「チイトモ」・・「ナイトモ」、「ナエトモ」か。日本語表記地名「内友」。

51-1)「チナヱホ」・・「チナイボ」とも。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、日本語表記地名「三之澤」地区の説明の中に「チナイボ」の記述があり、「チナイポ、此に清水平三郎の持小屋あり、」とある。

51-1)「コシフイ」・・不詳。

51-4)「海潮(かいちょう)」・・海水。海水の流れ。

51-4)「骨折(ほねおり)」・・連用形。精を出して一生懸命する。尽力する。

51-8)「清水平三郎」・・文化元年(1804)松前生まれ。安政元年(1854)春松前藩御徒士席、同年七月御目見得以上に抜擢。安政三年(1856)二月箱館奉行組同心御抱入、同年六月箱館奉行支配調役下役。

5110)「差働(さしはたらき)」・・「差(さ)し」は、接頭語。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

5110)「山靼(さんたん)」・・「山丹」、「山旦」とも。「山旦人」というのは、アムール河下流域住民の総称であるが、サハリン島に渡来したのはキジ湖周辺の「オルチャ(ウリチ)」人で、ギリヤーク人が彼らのことを「ジャタン」と呼び、それをサハリン・アイヌたちが、「サンタン」と訛ったものという(『東韃紀行』)。山旦人が中国の産物をサハリン島にもたらしたことから、「山旦貿易」として知られ、

     松前藩は、交易品のうち、蝦夷錦、山旦切、青玉(虫巣玉、樺太玉)などを松前名物として、千島経由のラッコ皮、鷲羽、熊胆などととともに「軽物」と称して売買を独占した。のちには、山旦人のシラヌシ渡来が普通になり、北海道からもサハリンに赴くアイヌが多くなり、その結果、宗谷アイヌの山旦人への多額の借財問題も生じた。なお、山旦品に対しては、毛皮類のほか、米、酒、煙草、古衣、鉄器、椀その他日本の家事用品が交易された。(秋月著『日露関係とサハリン島』から抜粋)

52-2)「壱人立(ひとりたち)」・・独立のこと。他からの援助を受けないで、自分だけの力でやっていくこと。行動をともにする仲間や味方のないこと。ひとりぼっち。

52-2)「国威(こくい)」・・国の威力。一国またはその国を治める威力や権威。

52-4)「附添候役人共」・・松前藩から、堀に付添った江戸留守居役田崎与兵衛らと村垣に付添った町奉行新井田玄番(嘉藤太)らを指すか。

52-5)「万端(ばんたん)」・・すべての事柄。万般。

52-5)「用弁(ようべん)」・・用事をすますこと。用の足りること。「用便」。

52-6)「差配(さはい)」・・とりさばくこと。とりしきること。

52-9)「林右衛門」・・伊達林右衛門。代々「林右衛門」を通称とする。栖原と並称せられる松前の富商。場所請負人。文化六年(1809)栖原屋と共に北蝦夷地場所を請負う。本文書時は、三代目。なお、安政元年(1854)、松前藩永世士席に列し、次いで勘定奉行となる。

52-9)「六右衛門」・・栖原六右衛門。場所請負人。栖原家(本家は代々「角兵衛」を通称とする。)は、松前店の支配人に代々、「栖原」の姓を名乗らせた。本文書時は、八代目で、本姓は、川村六右衛門。なお、安政元年(1854)、松前藩において、一代士席に班し、先手組格に列せられる。

 

10月学習町吟味役中日記 注記

                        

(24-1)格助詞「へ」・・「え」と発音する。現代かなづかい(昭和211116日、内閣訓令第八号、内閣告示第三三号で示された)は、部分的には、それまでの伝統的な表記意識や方言の語音などを考慮したため、歴史的仮名遣いを受けついでいたり、許容していたりするところがある。それらの例外や許容に助詞の「へ」がある。本則は、「へ」と書くが、「え」を許容する。その他、①助詞の「を」はもとのままとし、②助詞の「は」ももとのままに書くのを本則(「わ」を許容)とする。

(24-2)「預ケ」・・罪科のある人を他にあずけること。

 ()江戸時代、未決囚を預けること。吟味期間中、重罪人は入牢させたが、軽罪のものは公事宿(くじやど)、町村役人、親類などに預けられた。

()江戸時代の刑罰の一つ。罪人をある特定の者に預けて監禁するもの。武士、庶民共に科せられ、預かり主が誰であるかにより、大名預、頭(組頭、支配頭)預、町預、村預、所預、親類預などの区別がみられた。終身預けることを「永く御預け(永預)」という。

()江戸時代、遠島または追放の刑を申し渡された幼年者を、刑の執行される成年(一五歳)に達するまでの期間預けること。溜預と親類預があった。

(24-5)「揚屋入(あがりやいり)」・・揚屋に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

  *「揚屋(あがりや)」・・江戸時代の牢屋の一つ。江戸小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。テキストにあるように、各藩でも牢屋を揚屋(あがりや)と呼んだ。

  *「揚屋」を「あげや」と呼ぶ場合・・近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。

(24-7)「牢舎(ろうしゃ)」・・牢舎人。牢屋に入れられている者。囚人。囚徒。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「牢舎」の補注に<和製漢語か。幽閉・禁獄の意味で用いられ、古くは「籠舎」「籠者」と表記された。「牢舎」「牢者」などの「牢」の字は、後に新しい語源解釈によって与えられたもの。>とある。

(24-8)「再応(さいおう)」・・同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(25-1)「御目録(おんもくろく)」・・進物の時、実物の代わりに、仮にその品目の名だけを記して贈るもの。

(25-4)「ヲタルナイ」・・漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヲタルナイ石カリの境目」であった(廻浦日記)。コタン名のほか、場所(領)や河川の名称としてもみえる。「おたる内」(「狄蜂起集書」・元禄郷帳・享保十二年所附)、「オタルナイ」(蝦夷志)、「おたるなへ」(寛政五年「松前地図」)、「ヲタルナイ」(武藤「蝦夷日記」)、「ヲクルナイ」(蝦夷拾遺)などとあり、「於多留奈井」(支配所持名前帳)、「尾樽内」(蝦夷商賈聞書)、「砂路沢」(蝦夷喧辞弁・行程記)、「小樽内」「小垂内」(観国録)などの漢字表記がみられる。

(25-4)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか河川名としても記録されている。

  *「ユウブツ越」・・勇払から勇払川を舟でさかのぼり、ウトナイ湖、美々川を経て陸路で千歳に入り、さらに舟で千歳川を経て石狩川に達するルートで、「シコツ越え」とも称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な道であった。

  *「アイヌの丸木舟」・・昭和41(1966)、沼ノ端の旧勇払川右岸から、5艘の丸木舟と櫂、棹などの船具が発掘された。舟の長さが7~9メートルの大きさで、材料はカツラやヤナギが使われており、昭和42(1967)年には北海道の指定文化財になっている。現在苫小牧市美術博物館に展示されている。

(25-7)「奉紙(ほうし)」・・奉書紙(ほうしょがみ)。楮(こうぞ)を原料とする厚手、純白の高級紙。室町時代から各地で漉(す)かれ、主に儀式用に用いられた。

(25-9~26-1)「大儀料(たいぎりょう)」・・骨折り賃。苦労してやったことに対する報酬。

(26-5)「越後笹口村」・・現新潟県胎内市笹口浜。西は日本海に面し、東南一帯は砂丘が広がる。東は高畑(たかばたけ)村、東南は山王(さんのう)村に接する。村上藩領に属し、宝永6年(1709)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。

(26-7)「卯(う)」・・天保2(1831)

(26-7)「唐津内町(からつないまち)」・・近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(26-8)「𥿻(きぬ)」・・国字。絹に同じ。旁の「旨」に「うるわしい」の意味がある。

(26-8)「抱」・・「把(は)」か。綛(かせ)をたばねてくくったものを数える単位。生糸の捻り造りしたものを三〇綛ずつ木綿の括糸で三か所結束したものをいう。生糸一俵(約六〇キログラム)は把二八〜三〇個に相当する。

(26-9)「積り」・・みつもり。予算。また、計算

(26-10)「死罪にも被仰付候処、格別之以御憐愍」・・『松前町史』には、「復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を軽減することが法習慣となっている独自の刑罰体系が存在していたと見做してよかろう」とある。

(26-10)「憐愍(れんびん)」・・なさけをかけること。憐憫・憐閔とも書く。

(26-11)「墨入百擲(すみいれひゃくたたき)」・・江戸時代の刑罰の一つ。入れ墨の刑に付加して罪人の肩、背などを鞭打つもの。普通「擲」は「敲」と表記される場合が多い。

  *「入墨」・・腕、足、額などに墨汁をさし入れて犯罪人の目じるしとするもの。江戸時代には、追放、叩きなどの刑に付加して行なわれた。

  「幕府の遠国奉行の入墨はみな腕に施す。・・藩では・・額に彫るのが多い。・・入墨のあり所およびその形によって、どこで入墨されたかがすぐわかるようになっていた」

  (石井良助著『江戸の刑罰』中公文庫1964 次ページの図も)

 *<漢字の話>「擲」・・①漢音で「テキ」、「投擲競技」など。呉音で「ジャク」。「チャク」は慣用音(中国の原音によらない誤読から生じた日本での漢字音)。

②訓読みでは「うつ」「なげる」「なぐる」「たたく」「はねる」「ふるう」「なげうつ」「ほうる」などがある。

  「主人は此野郎と吾輩の襟がみを攫(つか)んでえいと計りに縁側へ擲(たた)きつけた」(漱石『吾輩は猫である』)

  ③「打擲(ちょうちゃく)」・・打ちたたくこと。なぐること。特に、御成敗式目では刑事犯罪の一つに数えられている。「打」を「チョウ」と発音するのは呉音。「シャク」は慣用音。「呉音」+「慣用音」の例。

(26-11)「渡海(とかい)」・・『松前町史』には、「死刑にかえて現実に下された判断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことができる」とある。

  さらに、「越山・遠島が百姓もしくは無宿者に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される点であり、例外や不明例は少ない」としている。

(27-3)「同断(どうだん)」・・「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。また、そのさま。同然。同様。「理(ことわり)」(理由。わけ。よってきたるゆえん。また、理由などをあげてする弁明。)と同じ訓の「断(ことわり)」の音をあてた造語。

(27-3)「琴壱面」・・普通、「張 (ちょう) 」は琴を数える語。「調 (ちょう) 」の字をあてることもある。弦を張った楽器であるため「張り」でも数える。「面」は琴・太鼓・琵琶 (びわ) など、表面部分で演奏する日本古来の楽器を数える語。

(27-4)「迄(まで)」・・「迠」は「迄」の誤字(『漢語林』)。しかし、「ショウ」と読み、

「ゆく(行)」の意味がある漢語。古文書にある「迠」を翻刻する場合、「迄」の誤字と見て、

「迄」とする。

(27-4)「そして」・・影印は、連綿体(行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの)という。

(27-6)「最上(もがみ)」・・最上地方。最上郡。郡域は元和8年(1622)の最上氏改易と相前後して定まったもので、律令制下では当初陸奥国最上郡、のち出羽国最上郡の郡域に含まれ、仁和二年(八八六)出羽国最上郡から村山郡が分れて以降は(「三代実録」同年一月一一日条)、近世初期まで村山郡のうちとして推移した。

(27-6)「日和田村(ひわだむら)」・・現山形県寒河江市日和田。箕輪村の西、葉山の南東麓に位置し、西は慈恩寺の所在する醍醐に続く。中世には檜皮とも記し、慈恩寺領があり寒河江庄(北方)に属した。慈恩寺領は最上氏にも安堵された(慶長五年九月二一日「最上義光願文」工藤文書)。当地の新御堂(すみど)に市神が残り、慈恩寺門前の市が立っていたと思われる。最上氏改易後は高七九一石余(西村山郡史)の日和田村は上山藩領となり、寺領は残らなかった。文化12年(181)幕府領となって幕末に至る。

(27-7)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」・・現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(27-7)「当時」・・今では、過去のある時点を、あとからふり返っていう場合に使われるが、

  古文書の「当時」は、「ただいま。現在。現今。」という意味に使われることが多い。

(27-8)「馴合(なれあい)」・・なれ合い夫婦。正式の仲介によらないで、なれあっていっしょになった夫婦。出来合夫婦。

(27-10)「不埒(ふらち)」・・「埒」は馬場などの囲いの意。法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

(27-14)「無判(むはん・むばん)」・・無判者。松前藩の許可なく上陸した者。

(27-15)「不念(ぶねん)」・・江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(28-1) 「五〆文(ごかんもん)」・・「五貫文」。「〆」は、「貫」の略字。銭貨を数える単位。唐の開元通宝1枚の重さが1匁(もんめ)であったところから、わが国でもそのまま銭1枚を1文と呼称するようになったといわれ、銭1000文をもって1貫と称する。なお、「文」は、足袋(たび)底の長さを測るのに、一文銭を並べて数えたところから、足袋や靴、靴下などの履き物の大きさの単位ともなったが、この場合の1文は尺貫法の8分(ぶ)(約2.4センチメートル)に相当する。また、江戸初期から中期にかけての金1両(4000文)は10万円に相当するといわれ、1貫文は1000文だから、25000円に相当するが、ただ幕末にかけて激しいインフレに見舞われるので、1貫文は7000円程度まで下落するようだ。とすると、5貫文=5000文=3万5000円ほどか。

(28-1)「過料(かりょう)」・・江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

(28-2)「馬形町(まかどまち)」・・現松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、西は蔵町、南西は端立町。。「蝦夷日誌」(一編)に馬形町として「また山之上とも云。一段高きところにしてひろし。藩士また小商人、番人入接り。其山を名になし有」と記される。

(28-3)「悴(せがれ)」・・影印の「忰」は、「悴」の俗字。なお、自分のむすこを意味する「せがれ」は、「倅」が正しい。「悴」は、「倅」と似ていることから起こった誤用。(『新漢語林』)

(28-7)「構(かまえ・かまい)」・・江戸時代の一種の追放刑。特定地域から排除する場合と,特定団体・社会関係から排除する場合とがあった。日本国外追放を日本国構と称したことなどは前者の例であるが,後期幕府法においては,刑名はおもに追放,払(はらい)の語を用い,立入り,居住制限区域をとくに御構場所(おかまいばしよ)と呼んでいた。一方団体・社会関係からの排除として《公事方御定書》には,僧尼の閏刑で追院,退院より重い一宗構(所属宗旨からの追放),および一派構(宗旨中の所属宗派からの追放)の刑名がある。さらに武家が家中に科する刑罰的処分に奉公構があった。これは家臣が主従関係を離れる際,将来他家へ召し抱えられることを禁ずるもので,1635年(寛永12)の武家諸法度および諸士法度によって幕府法上も保障された。以後主家からの出奔は武士にとって容易なことではなくなった。近代に至って,追放刑の廃止,封建的身分制度の廃止により構の概念も消滅した。

  なお、処分しない、とがめがないことをいう「かまい 無し」の語源でもある。

(28-11)「留主(るす)」・・留守。元来は、天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたること。「主」を「ス」と読むのは呉音。なお、「守」を「ス」と読むのは、日本での慣用音。

(28-11)「盗賊与者(とは)」・・「与者」が、上書きされている。

(28-13~14)「所払(ところばらい)」・・江戸時代の追放刑の一種。居住の町村から追放し、立入りを禁止する軽罰。ところがまえ。

(28-15)「仲町(なかまち)」・・中町。現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置し、南は大松前町、北は横町、東は袋町で町域は狭い。)。「蝦夷日誌」(一編)には「少しの町也。大松前のうしろに当る。小商人のミ也」とある。

 

古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催
古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年103日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書9月学習注記

45-2)「江戸表(えどおもて)」・・地方から江戸を敬っていう称。将軍在住の地による。朝廷の所在地京都をよぶに京都表という類。(『江戸語の辞典』)

45-2)「場所」・・この「場所」は、クシュンコタン(九春古丹)をさす。

45-4)「畢竟(ひっきょう)」・・「畢」も「竟」も終わる意。仏語。究極、至極、最終などの意。途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

45-6)「変事(へんじ)」・・異常な出来事。異変。

46-7・8)<欠字の体裁>欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。

   7行目「不申候処」と「公儀」の間が空いている。

   8行目「相成候は」と「御威光」の間が空いている。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「欠字」の語誌に、

     <(1)「台頭」「平出」と共に唐の制度から学んで大宝令に取り入れたもの。台頭は上奏文などに用いるが、日本ではそれ以外あまり見られない。平出は令の規定以来公式に行なわれたが、闕字が最も一般的である。

     (2)闕字は台頭・平出より少し軽く、平安時代以降も永く用いられたが、その用法は必ずしも厳密ではない。しかし、天皇・院・三后などの皇族には中・近世に至るまで比較的本来の形で存続し、明治以降天皇制のもとで復活重用されるようになる。>とある。

4510)「寅」・・十二支のうちの寅年をさす。元号では、安政元年(或は嘉永七年)。西暦1854年にあたる。此の年の1127日に、御所炎上(46日)とペリーの浦賀再来航(116日)などを理由により、安政に改元。

46-5)「堀織部」・・堀利熙。織部は通称。

46-6)「村垣与三郎」・・村垣範正。与三郎は通称。

4678)「探索(たんさく)」・・(人の居場所などを)探し求めること。

46-9)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地・北海道では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察すること。

47-2)「ベンカクレ」・・『村垣淡路守公務日記之二』六月十五日の条では、「ヘンクカレ」としている。

47-3)「ラムラニケ」・・前掲書では、「ラムランケ」。

47-4)「カミリ」・・前掲書では「アシリ」。

47-5)「アハユヱキ」・・前掲書では、記載がない。

47-6)「ナイトモ」・・前掲書では「ナヱトモ」。日本語表記地名「内友」、「内冨」。カラフト南海岸のうち。

47-7)「イツホニク」・・前掲書では「イツホンク」。

47-8)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「母子泊」、「函泊」。カラフト南海岸のうち。

47-8)「マラレアイ」・・前掲書では「マウレアヱノ」。

47-8)「土産取(みやげとり)」・・アイヌ集落での階層。和人からの下されもの(清

酒・玄米・炊飯・煙草が主)それらの下されものを無償でもらうことのできる階

層。

なお、アイヌ集落での階層は、地域によって異なるが、一般に、惣乙名・脇乙名・並乙名・小使・土産取・平夷人といわれる。

47-9)「ホロアントマリ」・・日本語表記地名「大泊」。クシュンコタンより二十丁許以南の地。カラフト南海岸のうち。

4710)「チヘシヤニ」・・日本語表記地名「池辺讃(チベサニ)」、「千辺沙荷」。大泊の東方7里の地(吉田東伍『大日本地名辞書』)。カラフト南海岸のうち。

48-1)「シヱマヲコタン」・・前掲書では「シユマヲコタン」としているが、不詳。

48-2)「トウラフツ」・・前掲書では「トウフツ」。「トウブツ」とも。日本語表記地名「遠淵(トウブチ)」。カラフト南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「ブッセ湖の海に通ずる處にして、古来漁場として夙に名あり。」、「寛政七年に至り、伊達、栖原二人、始めて漁場受負人として、撓淵(タウブチ)に至り、漁業を営みたり。之れ、本島に於ける民間漁業の濫觴なりと云ふ。撓淵は即ちトーブツなり。」とある。

48-2)「ヲカフ」・・前掲書では「ヲカワ」。

48-3)「右ヘンカクレ外三人シヨシコロ外六人」・・本書では、合わせて十一人の名前が列記されているが、前掲書では、十人(クシュンコタン平夷人アハユヱキが除かれている。)となっている。      

48-3)「稼方(かせぎかた)・・稼ぎ人たちのこと。働き手たちのこと。

48―4)「罷(ヽ在)居候(まかりおりそうろう)」・・「ヽ在」の「ヽ」の記号は、見せ消ち記号。「在」の左に「ヽ」で、「在」を打消し、右に「居」としている。「罷り在候」を「罷居候」と訂正している。

48-4)「去丑八月中旬魯西亜人共渡来」・・ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらが陸戦隊73人を率い、クシュンコタンに来航したのは嘉永6丑年829日で、翌830日は上陸地点の調査、91日にクシュンコタンの北隣のハツコトマリへ上陸。したがって、本書では、「八月中旬」となっているが、厳密には、「八月下旬から九月上旬」。

48-8)「神妙(しんみょう)」・・古くは「しんびょう」とも。けなげなこと。感心なこと。また、そのさま。

48-8)「奇特(きどく、きとく)」・・おこないが感心なさま。けなげなさま。

4810)「手切(てきり、てぎり)」・・「手限」とも。自分の一存で決めること。江戸時代、奉行、諸役人・代官などが上部機構の裁断を仰がず、自己の責任で事件を処理し、あるいは判決を下すこと。

4810)「心得(こころえ)」・・心がまえ。心がけ。

4810)「役夷」・・役夷人。(惣)乙名、(惣)脇乙名、(惣)小使、土産取(みやげとり)の役職についたアイヌの人たち。ここでは、P47に列記されているクシュンコタン惣乙名、同脇乙名、ナイトモ惣小使、同小使、ハツコトマリ土産取。

48-10~49-1)「褒美之品(ほうびのしな)」・・前掲書では、十人のうち、役夷人のヘンクカレ、ラムランケ、アシリ、シヨシコロ、イツホンク、マウレアヱノの六人には、「紅板〆一切と舞扇一本」づつ、平夷人のシフランマ、ヲンクロ、ホマヲウ、ヲカワの四人には、「紅板〆一切と白平骨扇一本」づつ、「外に一同江米三表、酒一盃充、遣ス」旨記載されている。

     なお、「切」は織部(堀)が出し、「扇」は自分(村垣)が出したともある。

記事検索
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ