森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

魯夷始末書3月学習分注記

68-1)「両口(りょうぐち)」・・両方の口。二つの口。日本とロシアの両方に二股をかけていることを意味するか。

68-1)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。

68-2)「内実(ないじつ)」・・内部の事情。内幕(うちまく)。

68-3)「伊豆守」・・松前藩第12代藩主松前伊豆守崇広。藩主在任期間:嘉永2年(184969日~慶応2(1866)424日。のち、老中(元治元11~)、海陸軍総裁(慶応元9.21~10.1)となる。また、崇広の時代、松前藩は、箱館周辺に加えて、安政2(1855)2月、和人地の大半(東部木古内以北、西部乙部村以北)と東・西・北蝦夷地を収公(幕府の直轄領)されるが、同年12月、替地として陸奥国伊達郡梁川などを与えられたことにより、無高から表高3万石の正式な大名となった。

68-2)「不被及御沙汰(ごさたにおよればず)」・・問題になされず。「不被及(およばれず)」の組成は、「及ぶ」の未然形「およば」+尊敬の助動詞「被(る)」の未然形「れ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

     *「不被及」は、「およばられず」とも読めるが、語調が不自然で、ここは、「およばず」とする。

     *「被」は、多くは受身・尊敬の助動詞「らる」(及びその活用形)として用いられるが、受身・尊敬の助動詞「る」(及びその活用形)としても使われる。

     *尊敬を表す「る」は、他の尊敬を表す「給う」などにくらべると尊敬の度合いが低い。

     *助辞「被」・・「被」を「らる」「る」と読むのは、漢文訓読用法から派生した読み方。動詞の前に置かれ、受身であることを表す。

      吾皇太后徴  われ皇太后に徴(チョウ)さるるも、

      未為  未(いまだ)為(な)す所を知らず(『三国志』)

68-3)「后後(こうご)」・・のちのち。あとあと。「后」には、「きさき」「のち」の訓がある。『新漢語林』は、<常用漢字表には、この字の音は「コウ」しかないので、現在表記で「後」の代わりとして「戦后」「午后」「食后」などど公の場で用いるのは、適切でない>としている。

     *「后」は常用漢字(6学年習得相当の教育漢字でもある)

     常用漢字表は、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すもの」(平成221130日内閣告示の「常用漢字表」前文)だから、「皇室典範」第15条、17条に「皇后」があるので、「后」は、常用漢字から外せない。

     同様に、「朕」、御名御璽の「璽」も、日本国憲法の「上諭(じょうゆ)」(天皇の裁可)にある文言だから、常用漢字になっている。

68-4)「不立入様(たちいらざるよう・たちいらぬよう)」・・

     「不」は、漢文訓読の返読用法で、基本形は打消しの助動詞「ず」。

 

未然

連用

終止

連体

已然

命令

 

ざら

 

ざり

 

 

ざる

 

ざれ

 

ざれ

     テキストは、連体形だから、「ざる」「ぬ」の両方の読みがある。両方とも文語体だが、「ざる」の方が、固いニュアンスがある。

68-5)「巨細(こさい)」・・一部始終。委細。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

     <(1)字義どおりの「巨と細」の意味に加えて、漢籍で「無巨細」と使われることが多く、そこから「細大もらさず」という意味になっていったと思われる。また、中世以降、記録とその影響を受けた軍記物を中心として、「巨細」だけで「詳しく」という意味を持つようになる。

(2)キョサイの読みも「伊呂波字類抄」に見えるが、呉音系のコサイの読みの方が一般的である。>とある。

68-8)「寅(とら)」・・ここでは、嘉永7年あるいは安政元年、西暦(グレゴリオ暦)1854年を指す。(嘉永7年1127日、御所の炎上やペリー再航などにより、安政に改元された。)

69-1)「今年三月」・・安政元年(1854)三月を指す。ロシア使節プチャーチンは、安政元年323日に長崎に再々来航し、329日に沿海州のインペラート湾へ出航。

     この時、プチャーチンは、日本側に対して、「本年六月樺太アニワ港において境界交渉を行う」旨の覚書を送っている。なお、『村垣公務日記之二』によれば、堀と村垣が、老中の阿部伊勢守からの「魯西亜使節、からふと江相廻り候ハヽ、境界之大要等応接いたし候様」命じられた御用状を受け取ったのは、59日、ソウヤ逗留中であった。

69-1)「筒井肥前守(つついひぜんのかみ)」・・幕臣。生没年、安永7年(1778)~安政6年(1859)。82歳。名、政憲(まさのり)。字、子恒。叙任名、伊賀守、和泉守、紀伊守、肥前守。文化14年(1817)長崎奉行。文政4年(1821)江戸町奉行。天保12年(1841)西丸留守居。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)大目付(海防掛)。同年1221日締結の日露和親条約に署名。

69-1)「川路左衛門尉(かわじさえもんのじょう)」・・幕臣。生没年、享和元年(1801)~慶応4(1868)68歳。名、聖謨(としあきら)。叙任名、左衛門尉。幕府徒士内藤歳由の次男。文化9年(1812)川路光房の養子。天保11年(1840)佐渡奉行。小普請奉行、普請奉行、奈良奉行、大阪東奉行を経て、嘉永5年(1852)勘定奉行。嘉永6年(1853)ロシア使節応接掛。安政元年(1854)日露和親条約締結に署名。安政5年(1858)西丸留守居。安政6年(1859)隠居。文久3(1863)外国奉行。慶応4(1867)315日江戸城開城目前にして拳銃自殺。

69-3)「疆界(きょうかい)」・・(日本とロシアとの)国境。「疆」は、「さかい」を意味し、同訓は「境」。弓扁の「彊(きょう)」は、別字。

69-3)「某等(それがしら)」・・幕府から派遣された御目付堀織部正と御勘定吟味役村垣与三郎ら一行。

69-4)「六月十八日」・・『蝦夷日記』によれば、「堀、村垣の両殿様は、(617日、クシュンコタンを御出立、リヤトマリに泊り、)618日、シラヌシ御着となり、以後、三日間逗留と」している。

     その後、村垣は、622日、シラヌシ出立、西海岸エンルモコマナイ(真岡)まで行き、71日、シラヌシに立ち戻り、逗留し、711日にソウヤへ渡海、樺太島を離れ、閏729日、箱館へ帰着。一方、堀は、622日、シラヌシ出立、西海岸ライチシカ~東海岸マーヌイを見分後、820日、箱館に帰っている。

694.5)「貴国之人」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の隊長ブッゼら。

69-5)「営柵(えいさく)」・・柵、営造物、建築物。

69-5)「使節」・・ロシアの遣日全権大使エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(海軍提督)。本書ではホウチヤチン。日本語表記名「布恬廷」。

69-5)「両人」・・ロシア使節応接掛の筒井肥前守と川路左衛門尉。

69-5)「書」・・暦数千八百五十四年(1854611日(安政元年516日)付け船将次官ポスシエト名義の筒井・川路宛の「アニワ港での境界交渉の中止」を告げる書簡(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書)

69-7)「二国」・・日本とロシア

69-8)「議(ぎ)せむ」・・「議する」は、集まって意見を述べ合う。審議する。

69-8)「東西」・・樺太の東浦(東海岸)や西浦(西海岸)を指す。

69-9)「与里て(よりて)」・・「与=よ」、「里=り」。

6910)「む那し具(むなしく)」・・「那=な」、「具=く」。「空しく、虚しく」

6910)「怒(ぬ)」・・「怒=ぬ」。

70-1)「此日」・・本文書中には、特定した日にちが記されていないが、『村垣公務日記之ニないし三』では、村垣が西海岸廻浦を終えシラヌシに逗留中の710日の条に、「露人来ラバ箱館へ廻航セヨト」告げるように指示をしたり、ソウヤ逗留中の713日の条に、「露人へ示スベキ置書簡(蘭文)」として、料紙大奉書を箱に入れ、堀織部が廻浦から(クシュンコタンへ)戻って来た時に渡すように、松前藩の田崎与兵衛へ託したことが、記されていることから、「此日」とは、「713日前後」と推認できる。

71-図中右・上)「豕畜類(いちくるい)」・・「豕(シ、い、いのこ)」は、本来、「いのしし」を指すが、「豚」類の総称としても用いられる。

71-図中右・中)「大将ホツサイ」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長ブッセ(陸軍少佐)。

71-図中右・下)「役出小屋」・・P73-10の説明では、「一 西ノ角焚出小屋」と、「焚出」となっている。また、異図(「唐太島くしゅんこたん露西亜人城柵之図 浩然随筆所収」~『村垣公務日記』所収」では、「焼出シ部屋也」となっている。

72-図中左・中)「ロタノスケ」・・ムラヴィヨフ哨所の副隊長ルダノフスキー(海軍大尉)

74-9)「畳上(たたみあぐ)」・・積み上げる。積み重ねる。

7414)「剣付鉄炮」・・「剱」は、「剣」の異体字(俗字)。また、「炮」は、火扁で、旁は勹(つつみがまえ)の中が「巳」である。剣付鉄炮は、先端に剣をつけた小銃。銃剣。

 

 

2月町吟味役中日記 注記

(47-2)「某(それがし)」・・ここでは、自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 なお、他称に用いる場合も多く、「なにがし」と読む。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

 <「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い>

 とある。

 *「某彼某(それがし‐かれがし・それがし-かがし)」・・他称。名がわからない、または、はっきり示さない場合、二人以上の人をさしていう。だれだれ。なにがしかにがし。それがしかがし。それがしそれがし。それかれ。

 *「某某(それがし-それがし)・・「それがしかれがし(某彼某)」に同じ。

 *「其此(それこれ)」・・他称。数多くの人や事物をさし示す。あれやこれや。

 *「其彼(それかれ)」・・他称。二人以上の名をそれと明示しないでいう語。

(47-2)<くずし字>「問合(といあわせ)」の「問」・・門構えが、「つ」のようになる。テキスト影印は、極端な「一」。なお。「問」の部首は、門構えでなく、「口」部。

(47-3)「申付(もうしつく)」・・ここは、終止形と見て、下二段動詞「もうしつく」。現代用語では、「付(つ)く」は、「付(つ)ける」。

(47-2)「申渡」・(47-3)「申付」・・「申」の5画目が長く、「申し」と「し」があるように見えるが、古文書では、「申(もうし)」には、「し」の送り仮名は、ほとんど付けない。

 「申入」「申上」「申候」「申立」「申遣」「申越」

(47-7)「乗馬(じょうば・のりうま)」・・乗るために用いる馬。

(47-78)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。なお、勝馬自身、嘉永元年(1848)48日から同3(1850)7月まで、御側頭になり、そして、『御側頭御役中御用手控』、『番日記』(いずれも北海道大学附属図書館蔵)を残している。『番日記』は、嘉永3(1850)77日で終っている。「奥平履歴」にある「病気差重、存命無覚束候ニ付、御役御免奉願」は、この時期か。勝馬は、この年112日、没した。

(47-8)「依而(よって・よりて)」・・動詞「よる(寄)」の連用形に助詞「て」の付いてできた語。漢文の訓読から生じた。前の事柄が原因・理由になって、後の事柄が起こることを示す。だから。故に。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、

 <(「よって」の)出現時期については、読み仮名・送り仮名が無い場合の「因」「依」「仍」を「よりて」「よって」のどちらに読むのか断定できないため、鎌倉時代初頭頃までさかのぼる可能性がある。>

 とある。

(47-8)「其刻(そのきざみ)」・・その時。その当日。そのおり。

*文明本節用集〔室町中〕「其刻 ソノキザミ」

(48-3)四ツ半時」・・午前11時頃。

(48-3)<欠字>「登城」・・「登」と「城」の間の空白は、尊敬の体裁の欠字。

 *多く使用される欠字・・①尊敬の動詞の前「被 仰付(おおせつけられ)」「被 申(もうされ)」「被 召(めされ)」「被 成(なられ)」「被 下(くだされ)」「被 達(たっせられ)

  ②「御」、「公」

  ③テキストのような「城」の前の欠字

(48-5)「下(さが)ル」・・目上の人や客などのいる前などから退く。退出する。

(48-6)「夕七ツ半」夕七ツ半

(48-8)「大塚伴博」・・P38は、「大塚伴亮」としている。

(48-9)「案内」・・事情、様子などを知らせること。しらせ。中古のかな文では、撥音「ん」を表記しないで「あない」と書くことが多い。本来、「案」は文書の写し、および下書きをいい、「案内」は案の内容を意味した。平安時代以後、内情、事情その他の意に転じて用いられている。漢語本来の意味としては「事件の内に・一件中に」などを指すが、日本では、上代・中古の格(律令を執行するための臨時の法令)、符(上級官司から下級官司に出す命令文書)等の古文書、記録、日記類の漢文あるいは変体漢文に盛んに用いられ、日本語として独自の意味をもつようになったもの。

(48-9)「相詰ル」・・「相(あい)」は接頭語。

    「詰ル」は、古文では、下二段活用「詰む」の連体形とすると、「詰(ツム)ル」で、連体止め。

    現代文法では、下一段活用の終止形で、「詰(つめ)ル」。

(49-2)(49-7)<くずし字>「いたし候」・・連綿体。行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの。

(49-3)「知内村」・・上磯郡知内町。近世から明治39年(1906)までの村。北は木古内い村(現木古内町)、南は小谷石村(現知内町のうち)。

(49-6)「下役(したやく)」・・町奉行の吟味役配下の役職。本テキストは「吟味下役」(P37)としている。永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色―」(新北海道史編集機関誌『新しい道史 第11号』1965)には「下吟味役」とある。

(49-6)「梅沢由右衛門」・・松前藩町奉行配下の吟味下役。

(50-2)「古田八平」・・『松前藩士名前控』に、新組足軽として名がある。

(50-2)「岡田作兵衛」・・『松前藩士名前控』に、足軽並として名がある。

(50-3)「下着(げちゃく)」・・都から地方へくだり、その目的地に着くこと。

(50-3)「恐悦(きょうえつ)」・・ひどく喜ぶこと。

(50-4)「小川永郎」・・「栄郎」は「永節」か。小川永節は、松前藩医。

(50-5) <くずし字>「處」・・影印は、「処」の旧字体「處」。「人」のように見える最終画の「ノ」は、「虍」(とらがしら)の4画目の左払いの「ノ」。

 *<漢字の話>「処」の部首は「几」(きにょう・つくえ・かぜかんむり)

   「几繞(きにょう)」ともいうが、実際に「繞(にょう)」の位置にくる文字はない。

   「鬼繞(きにょう)」と同じ読みになりまぎらわしい。

   「几(つくえ)」を音符として、つくえの意味を含む文字ができるが、例は少ない。

   「かぜかんむり」ともいうが、9画の部首「風」があり、これまたまぎらわしい。

(50-6)「差下(さしくだ)シ」・・「差し下す」の連体形。「さし」は接頭語。下の方へ動かす。下方へ移動させる。ここでは、江戸から松前に帰着すること。

(50-6)「当着」・・「当」は、「到」の当て字で、「到着」か。

(51-5)「侍座(じざ)」・・貴人や客など上位の人のおそばにすわること。

(51-8)「柏屋利兵衛」・・「柏屋」は、場所請負人藤野四郎兵衛の屋号。商標は又十。「利兵衛」は、「喜兵衛」か。藤野嘉兵衛(柏屋)は、藤野四郎兵衛の松前における営業名。代々喜兵衛を以て営業した。近江国愛知(えち)郡日枝(ひえ)村(現滋賀県犬上郡豊郷町)出身の近江商人。

(51-9)「萬屋増蔵」・・「萬屋」屋号。商標は、山十。場所請負人宮川増蔵。藤野の義兄にあたる。

(52-1)「抱女(かかえおんな)」・・芸娼妓や茶屋女で、年季契約などでかかえられた者。かかえ。

(52-45)「可相成(あいなるべく)」・・「あい」は接頭語。「なるべく」は、動詞「なる(成)」の終止形に、可能の助動詞「べし」の連用形が付いてできた語。もしできるなら。なるべくは。

(52-2)「相対死(あいたいじに)」・・心中、情死のこと。心中が、近松などの戯曲により著しく美化され、元祿頃から流行する傾向にあって、風俗退廃の大きな原因となったため、八代将軍吉宗が心中に代えて使わせた語。

 *心中・・もともと心中とは心の誠ということで、「心中立て」はこの意味の語である。、心の中の誠を具体的に表現する必要から、放爪(ほうそう)、断髪、切指(指を切り落とすこと)、貫肉(股(もも)などを刃物で突くこと)など身体の一部を傷つけたり、切り取って相手に渡したり、または互いの名をいれずみしたりする風習がおこり、これらの手段を心中というようになった。このなかで互いの生命を賭(か)ける心中死は、心中の極致と考えられ、やがて心中は心中死(情死)を意味するに至った。この変化は、およそ元禄(16881704)前後のことと考えられるが、ちょうどそのころ京坂を中心に情死が多発している。情死事件が起こるとすぐに読売り祭文や近松の浄瑠璃につくられ、それがまた次の情死の誘因ともなった。情死者が斬新な死の手段を考えたことは、明らかに自分たちの死の効果を予想したものであった。

  この風潮に対して、江戸幕府は享保7(1722)に心中死の取締り規則を定め、公式には相対死(あいたいじに)と称するようにした。その罰則は、情死者の死骸取捨て、未遂者の非人扱い、また1人が死亡のときは相手は死刑、さらに、主従関係(主人側は軽い)や男女(女は軽罪)の差異が認められた。

(52-6) <くずし字>「今」・・ひらがなの「て」のようになることがある。

 ここの「今」は、副詞で、「さらに。その上に。あと。もう。」の意味。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <古くは、挙例「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、挙例「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

 *「いま一息(ひといき)」・・もう少し。あとちょっと。

 *「いまひとつ」‥もう一つ。更にもう少し

 *「いま一度(ひとたび・いちど)」・・もういちど。もういっぺん。今いちど。

  **「小倉山峯のもみぢば心あらば今ひとたびの御幸またなむ〈藤原忠平〉」(『拾遺和歌集』

魯夷始末書2月学習分注記

64-1)「四拾三人」・・異本(『北蝦夷地御場所江異国人上陸ニ付見分御届書』)では、「四拾六人」としている。

64-7)「右之外近所住居罷在候処」・・異本では「右之外遠近所々住居罷在候蝦夷人共弐百五十九人クシユンコタン外四ケ所漁場働いたし罷在候処」としている。

64-8)「愚昧(ぐまい)」・・愚かで道理にくらいこと。また、そのさま。

64-8)「驚動(きょうどう)」・・驚き動揺すること。驚きさわぐこと。

64-9)「差而(さして)」・・副詞。「然して」。(動詞「さす」の連用形に助詞「て」のついた形から、下に打ち消しの語を伴って)、「それほどでも~ない」の意。

6410)「一通(ひととおり)」・・はじめから終わりまでざっと。ひとあたり。

64-1)「生立(おいたち)」・・生まれながらの性質。生まれつき。

65-1)「不相開(あいひらかず)」・・「開く」は「啓く」と同義で、暗愚を解消するの意。

65-1)「一図(いちず、いっと)」・・「一途」とも。一つのことだけに打ち込むこと。ひたむき。ただそればかり。

65-2)「存込(ぞんじこみ)」・・動詞「存込む」の連用形。「存込む」は「思い込む」の謙譲語。

65-2)「解兼(ときかね)」・・動詞「解く」の連用形+動詞「兼ねる」の連用形。「解く」は、人の気持ちをほぐす。気持ちや感情をやわらげる。「兼ねる」は動詞の連用形について、「~しようとしてもできない。~することに堪えられない」の意。

     したがって、気持ちや感情を和らげることができない状態をいう。

65-2)「風俗(ふうぞく)」・・日常生活上のしきたり。ならわし。

65-2)「本蝦夷地」・・蝦夷島(北海道)の内、道南の松前、箱館近在の松前地(和人地、シャモ地とも。)を除く、東蝦夷地と西蝦夷地を指す。なお、蝦夷地一円(松前地、東・西蝦夷地)は、明治二年(1869)八月十五日、「北海道」に改称され、11国86郡に画定された。

65-3)「上国(じょうこく)」・・文化の進んだ、優れた国。また、豊かな国。元来は、令制で、国を管郡数・戸口数などにより四等級に分けたその第二位の国の称。山城・摂津など。大国・中国・下国に対していう。

65-3)「風意(ふうい)」・・ならわしと考えかた。

65-4)「北蝦夷地」・・樺太島。奥蝦夷とも。幕府は、文化六年(1809)六月、「樺太島をいご北蝦夷地と唱えるべき旨を命じ」(松田伝十郎著『北夷談』)、明治二年(1869)八月、北蝦夷地を樺太と改称(『北海道史』)。なお、𠮷田著『大日本地名辞書』では、「文化六年、幕府の北辺経営にあたり、唐太を改号して北蝦夷と曰ふ。幕府公文書多く之を用ゐしも、爾餘には、カラフトと幷び行はれたり。」、「文化以前には、~ 東西両海岸に分ちて、その北岸なる(今北見国)地方にも泛称したり。~ 奥蝦夷といふ。」とある。  

65-4)「纔(わずか)」・・<漢字の話>『字通』の解字に<「纔は淺きなり。読みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>としている。

     また、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、同訓異字として、次のようにある。

     【僅】(キン)ほんのすこし。すこしばかり。特に、数が少なくわずか。「僅差」「僅僅」「僅少」《古わずかに・すくなし・ほとんど》

【纔】(サイ・サン)色のまじったきぬ。転じて、どうにかこうにか足りるくらい。かろうじて。やっと。特に、量がわずか。どうにか。かつかつ。《古わつかに・わづか・つひに》

【才】(サイ)「纔」に同じ。《古わづか》

【些】(サ)ふぞろいに並べる。転じて、いささか。いくらか。すこし。「些細」「些事」「些少」「些末」

【涓】(ケン)しずく。小さい流れ。転じて、量がきわめてわずか。ほんの少し。「涓涓」「涓埃」《古みづたまり・あひだ・あはひ》

【財】(ザイ)価値あるもの。たから。転じて、「纔」に同じ。「財足」《古わづかに》

【毫】(ゴウ)細い毛。転じて、ごくわずか。ほんのすこし。ちょっぴり。「毫末」「毫毛」「一毫」「白毫(びゃくごう)」《古ふむで・ふで》

【錙】(シ)古代中国で重さの単位。転じて、目方がわずか。価値があまりない。また、物事がこまかくかすか。微細だ。「錙銖(シシュ)」

65-4)「而己(のみ)」・・副助詞。他を排除して、ある事柄だけに限定する意を表す。現代語では「のみ」に相当する助詞として、一般に「だけ」、「ばかり」の語が用いられる。

     *「而己」・・漢文の助辞。漢文では、文末におかれて限定・強意を表す。「のみ」と訓じる。「~だけである」「~にすぎない」の意味。「而己」よりさらに語気が加わった「而己矣」がある。

     夫子之道   夫子(フウシ)のみち、

     忠恕而己矣  忠恕(チュウジョ)のみ。  (『論語 里仁』)

     (先生の説かれる道は、まごころのこもった思いやり、ただそれだけである)

     *古田島洋介氏は、『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(吉川弘文館 2013)のなかで、「のみ」は、「啻(ただ)に」や「独(ひと)り」と組み合わさって限定の意味であるが、「~なのである」と強調の意にもなることを念頭に置くべきと論じている。

 

65-4)「漁業働人足(ぎょぎょうばたらきにんそく」の「働」・

    *<漢字の話>「働」・・①国字。中国でも使用された。『字通』には『中華大字典』を引いて、「日本の字なり。通じて之れを読むこと動の若(ごと)しとみえる。」とある。

②解字は「人が動く。はたらくの意味を表す」(『新漢語林』)。なお、旁の「動」について、『字通』は「農耕に従うこと」とあり、「力は耒(すき)の象形。童僕が耒を執って農耕に従うことをいう」とある。『新漢語林』は、「力+重。おもい喪のに力を加えて、うごかすの意味を表す」とある。

65-5)「僻(へき、ひが、ひがみ)」・・「僻」は、ひがむこと。素直に見ないで、疑い曲解すること。また、その見解。異本は、「仕癖」とある。

65-5)「妄(もう)し」・・「妄」は、つつしみのないこと。みだりなこと。また、真実でないこと。また、そのさま。異本は「安(やすん)じ」とある。

65-5)「別而(べっして)」・・とりわけ。特別に。

65-5)「偏国(へんこく)」・・都から遠い国、地方。偏境。

65-5)「領主」・・松前藩主。

65-6)「専要(せんよう)」・・極めて重要なこと。またそのさま。肝要。

65-6)「儀」・・異本は「哉」としており、こちらの方が文意に添うか。

65-6)「仕置(しおき)」・・江戸時代、罪人を処罰すること。また、その刑罰。

65-7)「咎(とがめ)」・・非難。処罰。罰。

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1月学習 町吟味役中日記 注記 

(41-4)「引合(ひきあい)」・・かかわり合い。共犯者。

(41-4)「御仕置(おしおき)」・・処罰。処分。この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(1804)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(170411)までに成っていたとみられる。

(41-7)「及部(およべ)村」・・現松前郡松前町字朝日・字東山・字上川。近世の一時期存在した松前城下東在の村。松前湾に注ぐ河川のなかで最大の及部川の河口部と流域に位置する。同川は城下に最も近い鮭漁ができる川である。

   天明元年(1781)の松前広長「松前志」には及部村として「旧記及を覃につくれり、二村あり」とみえ、天明期までには二村に分離されたようである。なおこれ以降も下及部村を及部村と称することがあった。

(41-7)「初鱒(はつます)」・・「鱒」は、サケ目サケ科の魚類のうち「マス」と名のつく種類のものの俗称。多くはサクラマスをいうが、ベニマスとその陸封型のヒメマス、マスノスケ、ビワマス、カワマスなどの略称としても用いられる。

サケは秋に川を遡るが、サクラマスやサツキマスはその名が示す通り春~初夏に川を遡る。この遡上時期の差が本来のサケとマスの区別点となる。 サケもマスも産卵期は秋だが、春に遡上するマスは川で餌をとりながらゆっくりと上流に向うので、川で餌をとらないサケと違って身に脂がのって美味い。サクラマスやサツキマスが遡上する川では、初夏の御馳走として喜ばれる。

(41-7)「在方掛(ざいかたかか)り」・・松前藩町奉行配下の役職。

(41-8)「杦田留平」・・「杦」の字について、『新漢語林』は「国字」とし、「杉の旁の彡を書写体に従って久に改めたもの」とある。

   なお、板橋正樹著「幕末松前藩の警察下僚組織について(1)」(『松前藩と松前―松前町史研究紀要―20号』松前町史編集室刊 1958 所収)には、「杉田留兵衛」とある。

(42-1)「当賀(とうが)」・・松前藩では、表御殿での領主への拝謁が、毎月1日、15日に行われた。

(42-2)「御祝儀(ごしゅうぎ)」・・お祝いの挨拶。「しゅう」は「祝」の漢音。なお、「しゅく」は唐音。

(42-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。白老などを請負った。場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(42-4)<くずし字。「畢而(おわりて)」・・テキスト影印は「畢」の異体字。

(42-6)「蛯子七左衛門」・・箱館の町年寄。

(42-7)「伊藤清三郎」・・町年寄末席並名主締方(箱館詰)

(42-8)「和賀屋宇右衛門」・・箱館在住の場所請負人。有珠、三石、根室など

を請負った。

(43-2)「小林屋重吉」・・文政8(1825)1月箱館に生れる。幼名を庄五郎と言った。5代の祖庄兵衛は陸奥国北郡大畑村の人で、寛政年間松前に渡り、その子半次郎の時箱館に転住した。半次郎の子寅五郎は、文政年間東蝦夷地三石場所請負人となった。安政年間今の大野町に新田20町歩を開発し、また赤川にあすなろや杉を植林した。文久2(1862)私費をもって願乗寺川に鳥見橋を架け、後架け換えの時用材23石を寄附した。明治元年町年寄を命じられ、また箱館戦争で旧幕府脱走軍が港内に敷設した鋼索を自己所有の船を使用して排除した。更に箱館山裏の寒川から新政府軍を誘導して奇襲を成功させ、勝利の一端を担った。これによって後々まで官の信用を得た。またこの年、蛯子友輔が函館山の上より水道を開掘したが、資金が尽きて中止したのを自費1,600円を投じて工事を遂行し、汐見町、元町、会所町に清水を供給した。

    重吉はまた漁具、漁網改良を試み、三石郡姨布村に刻み昆布の製造所を設立し、清国(中国)への昆布輸出の基礎をつくり三石昆布として全国的に有名になった。明治14(1881)9月東川町に移転し、益々その業を盛んにした。その他学校、病院の設立、橋梁の架設、窮民の救済等枚挙にいとまがなかった。明治3643078歳で歿した。

(43-3)「林七郎兵衛」・・箱館の商人。松前藩の御雇船主。

(43-8)「若殿様、御水痘(すいとう)」・・「若殿様」は、8歳の良広(のち松前藩10代藩主)良広は、文政9(1826)523日生まれ。松前見広(ちかひろ。9代章広の次男)の子。「若殿様」とあるが、この時期、良広の父・見広はすでに他界し、祖父章広の嫡孫(承祖者)だった。祖父章広ののあと,天保5(1834)12月、9歳で松前藩主10代となる。病弱のため、同族の旗本松前広茂(ひろしげ)が藩政を担当。天保10(1839)824日死去。享年14

   「水痘」は、水痘ウイルスによって起こる感染症。みずぼうそう。

*松前藩10代松前良広を中心にして、時系列に、松前藩の系譜を見る。

章広(あきひろ)、9代藩主襲封。寛政4(1792)10月就任。

 ・寛政10(1798)、長男慶之助(よしのすけ)を嫡子とする。

  ・享和3(1803)長男慶之助、死亡。10歳。

  ・同年、次男誠之介(のち見広=ちかひろ=)を嫡子とする。

  ・文政6(1823)5月、見広に長男隆之介(のち10代良広=よしひろ=)生まれる。

  ・文政10(1827)7月、見広、死去。23歳。

  ・文政10(1827)8月、見広の次男準次郎(のち11代昌広=まさひろ=)生まれる。

  ・同年、良広、祖父章広(9代藩主)の嫡孫(承祖者)を許可される。

 ○天保3(1832)4月、テキスト・奥平勝馬の「町吟味役中日記」

    「若殿様(良広=9代章広の孫)、御水痘ニ被為在」

  ・天保4(1833)7月、9代章広死去59歳。死去の公表は、翌5(1834)9月。

  ・松前藩、対応策に奔走、同族の旗本松前広茂を藩主名代とし、許可される。

 ○良広、9歳で、10代藩主襲封。天保5(1834)12月。

  ・良広、病弱(『松前町史』には、精神病説も記載)で、将軍への家督御礼の拝謁もできなかった。藩では、新たな善後策を講じる必要を迫られ、名代広茂の在国延長を再三願い出る。

  ・天保10(1839)7月、準次郎(のち、11代昌広)、兄10代藩主良広(14)の嗣子となる。松前藩、領主権の危機を脱する。

  ・天保10(1839)8月、良広死去。14歳。

 ○昌広、13歳で、11代藩主となる。天保10(1839)10

*テキストの天保3(1832)は、松前藩にとって、嫡子(章広の長男・慶之助、次男・見

広の早逝、藩主章広の高齢化、嫡孫良広の病弱という中で、前途に暗雲が立ち込めてい

た時期であった。

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魯夷始末書1月学習注記


(60-1)<くずし字>「申ニも」の「申」
・・くずしは、「中」のように見える。どちらかという 
     と、「P」に近い。

60-1)「間鋪(まじく)」・・「まじく」は、強い打消し推量の助動詞「まじ」の連用形。漢字で表記される場合、「間敷」の「敷」と混用され、「間鋪」が頻出する。「鋪」を使った用例として、「屋鋪」、「厳鋪」などがある。

60-2)「祖父」・・異本は「父祖」。「祖父」は、「父母の父」、「父祖」は、先祖、祖先の意が強い。「父祖」の方が文意に適合しているか。

60-2)「利欲(りよく)」・・利益を得ようとする欲望。

60-2)「当節(とうせつ)」・・この時節。現今。今。

60-3)「用立(ようだち)」・・「用立(ようだ)つ」の連用形。役に立つ。用いることができる。

60-3)「仁恵(じんけい)」・・なさけ。めぐみ。慈悲。

60-4)「御懐ケ被遊候(おなつけあそばされそうろう)」・・「懐(なつ・なづ)ケ」は、「懐(なつ・なづ)ける」の連用形。なつくようにする。てなずけて従わせる。「遊ばされ」は、補助動詞「遊ばす」の連用形。多く動作性の語に付いて、その動作をする人に対する尊敬の意を表わす。動詞の連用形につく場合は、多く、尊敬の接頭語「お」を伴う。本文の例は、「お(御)」+「懐(なつ・なづ)け」(動詞の連用形)+「被遊(あそばされ)」+「候(そうろう)」

     「遊ばす」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<意味は徐々に「あそぶ」意から広がったが、長く芸能・技芸の範囲にとどまっていた。中世の「平家物語」(覚一本)でも、書く意、演奏する意、読経する意、詠ずる意、射る意であり、一般的なする意の用例は、中世末期から近世初期を待たねばならない。近世には補助動詞用法も生じた。敬意は高いが、戦後は衰勢にあり、文部省の『これからの敬語』(1952)でも、「お…あそばす」を「おいおいにすたれる形であろう」としている>とある。

60-4)<くずし字>「被遊候ハバ」・・「被」も、「遊」も決まり字。「遊」は、旁の「方」が偏のようになり、シンニョウは、旁のに続けて「を」のようになる。

60-4)「帰服(きふく・きぶく)」・・つき従うこと。支配下にはいること。服従。帰順。降伏。降参。

60-4)「一助(いちじょ)」・・ちょっとした助け。何かのたし。

60-4)「却而(かえって)」・・副詞。〔「かえりて」の転〕。反対に。逆に。

60-6)<見せ消ち>「カンチユコンテ」・・先に書かれたのは「カンチヱマンラ」。「ヱ」「マ」「ラ」の左にある点(ヽ)は、訂正したことを示す見せ消ち記号。それぞれの右に、「ヱ」を「ユ」、「マ」を「コ」、「ラ」を「テ」と訂正している。異本は「カンチユマンテ」。

60-6)「シラリヲハマ」・・「シララヲロ」とも。日本語表記名「白浦(シラヲロ)」。ここでは樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「元東白漘(ヒガシシラオロ)といへり。白浦村に駅逓あり、南は十里にしてアイ驛に至り、北は二里にして真縫驛に接す。」とある。

60-6)「ウヱケシナ」・・異本は「ウエケシユ」とする。アイヌの人名。

60-6)「ロレイ」・・日本語表記地名「魯礼」「露礼」。樺太東海岸のうち。

『大日本地名辞書』には、「(栄浜の)近地に、シユマヤ、サツサジ、ロレイなどの名あり。」とし、「ロレイ」の名が見える。

60-7)「コタン」・・異本は「コンタ」とする。アイヌの人名。

60-7)「ヲソヱンコ」・・「ヲソエコニ」とも。日本ご表記地名「押江」。樺太東海岸のうち。

6010)「ヱノシマナイ」・・「ヱヌシコマナイ」、「ヱヌシコマナイホ」、「イヌシコマナイ」とも。日本語表記地名「犬駒内」、「犬主駒」、「江主高麗内」とも。樺太南海岸のうち。『大日本辞書』には、「於布伊泊(ヲフユトマリ)の隣村とす、イヌシコマ川(ナイ)といふ。釜泊はさらに犬主駒の東に在り。」、「楠渓(クシユンコタン)より、四里にしてヲフイトマリ番屋一軒、土人家五軒許、六里にしてイヌシコマナイ、土人家十軒許。」とある。

6010)「ハイロ」・・異本は「ロクヽシ厄介 ハイロ」とする。

61-1)「ヲマヘツ」・・「ヲマンベツ」とも。日本語表記地名「小満別」。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』に「満別」として「遠淵の南方六里の孤村にし、大、小の二部に分かる。」とあり、「大」が「弥満別(ヤワンベツ)」、「小」が「小満別(ヲマンベツ)」か。

61-3)「恐敷(おそろしく)」・・「恐」は、旁のくずし様によって判読の困難さは増す(『古文書くずし字200選 柏書房』)とされている。

61-4)「普請(ふしん)」・・家屋を建て、また修理すること。建築または土木工事。

61-4)「懇意(こんい)」・・親しくしていること。遠慮のいらない間柄であること。

61-5)「首長(しゅちょう)・・上に立って集団や団体を支配、統率する人。かしら。ここでは、クシュンコタンに建てられた「ムラヴィヨフ哨󠄀所」の隊長ニコライ・ブッセ(本書ではフースセ)を指す。

61-5)「迠(まで)」・・「迄」の誤用。(『新漢語林』)。なお、「迄」と、「迠」は別字で、

     読みも「迄」は、「キツ(漢音)」「コチ(呉音)」、「迠」は、「ショウ」。

61-6)「俄(にわか)に」・・形容動詞「俄(にわか)なり」の連用形。物事が急に起こるさま。また、事態が急変するさま。急激で荒々しいさま。だしぬけ。突然。

61-6)「咎(とが、とがめ)」・・罪、罰。

61-6)「只管(ひたすら)」・・もっぱらそのことに集中するさま、その状態に終始するさまを表わす語。いちずに。ただただ。なお、「只管」は、元来は漢語・仏教用語で、「シカン」と読み、「ただ、ひたすら、一途に、余念をまじえないで」といった意。「只管打坐(しかんたざ)」は、余念をまじえず、ただひたすらに坐禅を行うこと。坐禅に意義や条件をもとめず、無所得の立場に立って坐禅を実践するもので、道元が強調した禅。

61-7)「同船(どうせん)」・・同じ船に乗ること。乗り合わせること。

61-7)「領主役人」・・松前藩士の三輪持、氏家丹右衛門ら。

61-7)「召連(めしつれ)」・・下二動詞「召連(めしつ)る」の連用形。貴人が従者などを従えていく。

61-8)「国法(こくほう)」・・徳川幕府の定めた禁令、法度などの法令のこと。ここでは、いわゆる「鎖国令」としての「海外渡航の禁止」のことを指す。。松前奉行や箱館奉行が任地に赴く時の将軍黒印状に「海外渡航の禁止」のことが触れられている。

*<文化五年(1808)正月七日付松前奉行(荒尾但馬守)宛徳川家斉黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅可停止」(『蝦夷地御用内密留』~阿部家文書/道立文書館保管)

*<嘉永七年(1854)閏七月十五日付箱館奉行(竹内下野守)宛徳川家定黒印状>

「日本人異国江不可遣之、若異国住宅之日本人於帰朝者、宗門其外念入相糺可注進之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

*<安政三年(1856)二月十五日付箱館奉行(村垣淡路守)宛徳川家定黒印状>

「異国境嶋々之儀、厳重取計、日本人者不及申、雖蝦夷人、異国江令渡海儀、堅停止之」(国立公文書館内閣文庫所蔵)

6110)「何方江歟(いづかたえか)」・・「歟(か)」は、係助詞で、種々の語、語句に付いて不確かな気持ちを表す。

62-1)「行衛(ゆくえ)」・・「行方」と同義。行くべき方向。行った方向。

62-2)「理解(りかい)」・・ここは、道理を説いて聞かせること。

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12月学習 町吟味役中日記 注記

(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。

(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。

(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという。

(36-3) 「ヲコシリ島」・・奥尻島。菅江真澄は「於胡斯離」を当てている。、「蝦夷日誌」(二編)は「此処へ松前地の咎人は流罪に被仰付候由也。当時は十二、三人計居りけるよし」と流人の居住者があったことが記されている。武田信広がついたとされる地には字初松前(はつまつまえ)の地名が残る。

(36-3)「遠島(えんとう)」・・松前藩の流刑奥尻島遠島について、『松前町史』は、「越山と異なり復興期以降にしか明証を得ることができない」とし、その理由について「藩政初期から越山という松前藩独自の流刑が存在した」とある。遠島者は、「煎海鼠(なまこ)、白星鮑、昆布等の長崎御用俵物生産の労働を課せられていたこともほとんど疑いない」と述べている。なお、奥尻島遠島と類似している「奥尻場所請負人への身柄預け」という奥尻島への追放もあったことが記載されている。

(36-4)「中河原町(なかかわらまち)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中川原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。「蝦夷日誌」(一編)に「川原町のうしろ也。少しの町にして此処は妓楼と妓楼の小宿のミ也。(中略)妓楼ニ到らんもの此処に到りて案内を致させ、または此処ニ妓を呼巫山の夢を結ぶも有。(中略)他商売のもの絶てなし」と記される。これより少し前の天保14年(1843)の藩政改革に際して、茶屋渡世は蔵町と当町の二時刻が定められている。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-5)「大松前町(おおまつまえちょう)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記し、「昔しは此地海湾に而有りしが、当時は城下第一の繁華の地となりたり。請負人岡田等此所ニ住す。北は横町町会所に到る。南法華寺坂、枝ケ崎ニかゝり、西小松前川(町)ニ境ふ也」と続けている(「蝦夷日誌」一編)。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-13)「金子(きんす)」・・「す」は「子」の唐宋音。金子は金貨幣、銀子は銀貨幣のことで、江戸時代一般に広く用いられた語句であるが、金銀貨幣がようやく一部に流通され出した中世末期から始まるものである。しかし、のちには金子は金貨幣のことを示すのみでなく広く貨幣(おかね)全般のことに拡大されるに至った。なお銀子の語は江戸時代に銀貨幣が中心に動いていた関西で主として使われたものである。

(37-2)「座料(ざりょう)」・・座敷などを貸す料金。席料。

(37-10)「検使(けんし)」・・江戸時代に、一般的には現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。たとえば、刑罰としての武士の切腹や敲刑の執行などに立ち会う者を検使と呼んでいるが、狭義では変死・傷害・出水などに出張する検使をいう。

(38-2)「奥村栄晋(おくむらえいしん)」・・奥村英晋とも。松前藩医。御雇医師。

(38-6)「大塚伴□并藻寄恒齊」・・『蝦夷地醫家人字彙』には、「大塚伴博」「藻寄恒齊」の名がある。ふたりとも、天保3年(1832)、江差に旅人医師として居住しているとしている。

(39-3)「工藤茂五郎」・・『松前藩士名前控』に、「中之間御中小姓」として「工藤茂五郎」の名がある。

(39-5)「羽州温海(うしゅうあつみ)」・・「羽州」は出羽国。「温海」は、現山形県鶴岡市温海。温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜街道が

通り、その宿駅であった。

(39-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(39-8)「光善寺」・・現松前郡松前町字松城。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2二年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1603)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化5年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求ごんぐ院を合併(寺院沿革誌)。同六年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行しようぎよう寺とともに一揆勢の結集の場となった。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

(39-8)「江指観音寺」・・現檜山郡江差町字泊町。字泊町にある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(1441)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正6年(1509)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(1615)の草創、阿吽寺末とある。「蝦夷日誌」(二編)によると、当寺は蝦夷地太田山おおたさん(現大成町太田神社)の別当寺で、太田山に参詣する者は当寺でお札を受けたという。安政年間(一八五四―六〇)伽藍を焼失、その後再建された。円空仏と木食仏が安置されている。

(39-9)「答書(とうしょ)」・・問い合わせに対する返答の書状。こたえの書状。返事。

 

 

魯夷始末書12月学習注記

56-6)「番人之程」・・P55-8「番人之詮」との比較から、「詮(かい)」と書くところを「程」としたか。「詮(かい)」は、「甲斐」で、価値、値打。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     なお「埒」は馬場などの囲いの意で、「不埒」は、埒のあかないことから転じて、事が解決しないこと。決着のつかないこともいう。

     また、古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は、競馬場など、内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

56-8)「生来(しゅらい・せいらい)」・・生まれたときからの性質や能力。また、生まれつき。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。異本は「感伏(かんぷく)」とする。感心して心から従うこと。ひどく感心すること。文脈から「感伏」の方が、合っているか。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

57-1)「承引(しょういん・うけひき)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

57-1)「承引(しょういん)」・・聞き入れること。引き受けること。承諾。

57-2)「外三人」・・シトクランの息子の数は、分かち書き(P57-9)では、惣領、、次男、三男の三名となっているが、外三人とすると、合わせて四人となり、数に不都合が生ずる。「三人」は、「二人」が正しいか。

57-2)「クシユンナイ」・・日本語表記地名「久春内」。「楠内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「東海岸なる真縫(マアヌイ)に至る横断路の基点にして、川に沿ひて上り、スメチヤノを経て、トドロキを越え、真縫川の谷に通ず。~此の間は一の地峡を成し、幅僅に七里となる。~南方トマリオロに至る七里半、北方ライチシカに至る十四里半。鰊漁業の一中心地。」とある。

57-2)「マカヌイ」・・「マアヌイ」、「マアヌエ」とも。日本語表記地名「真縫」。樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「本島(樺太)の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホツク海に濱す。」、「此地方は、古来名高き漁場なるのみならず、真縫は西海岸に越ゆる岐路として名高く、間宮(林蔵)氏は、此より地頸を横断して久春内に出でたり」とある。

57-2~3)「クシュンナイより山越致し、東浦マカヌイ江出」・・西海岸のクシュンナイ(久春内)~東海岸マカヌイ(真縫)は、サハリン島の最狭部

57-3)「搔送船(かきおくりぶね)」・・櫂(かい)で水を搔いて進める舟。ここでは、アイヌの板綴舟か。一方、搔送船に対比される舟として「押送船(櫓を押して進む船)~和船」がある。

57-3)「水先案内」・・船舶が港湾に入るとき、また、内海や運河などの水域を通航するとき、その船に乗り込み、また、水先船で正しい水路を案内すること。

57-4)「甚助」・・異本は「忠助」。

57-4)「無謂(いわれなく)」・・物事をなすのに、正当な根拠、理由がないこと。間違っていること。
57-5)「無制(むせい)」・・掟のないこと。定がないこと。法度がないこと。

57-6)「無訖度(きっとなく)」・・「訖」は、「屹」の誤用か。厳しくないこと。やさしいこと。

576.7)「廻浦之節~案内仕」・・シトクランが案内したのは、支配勘定上川傳一郎、同下役長谷川就作、御普請役代り津田十一郎、同福岡金吾、松前藩士今井八九郎。

     このうち、上川らの幕吏は「ホロコタン」まで、今井八九郎は更に北の「ナツコ」まで探索。

*「ホロコタン」・・日本語表記地名「鰭尾(ビレヲ)」で、『大日本地名辞書』には、「北緯五十度なる国境を距る、北方約二里の海岸」、また、今井八九郎の『北地里数取調書』では、「ホロコタン 此所夷家一軒、シメレンクル(スメルンクル)家五軒、~(略)~此所よりロモーまで山越ニ道有よし」とある。

57-9)「惣領(そうりょう)」・・ここでは、家を継ぐ子。嗣子。特に長男または長女。

57-10)「生成(うまれなり)」・・「成(なり)」は、動詞「なる(成)」の連用形の名詞化で、「生(な)ること。」、「生(お)出でること。」の意。「生成」の意は、生まれた時から。生れ付き。なお、異本は「生来」につくる。

57-10)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり

58-1)「曾祖父(そうそふ)」・・祖父または祖母の父。シトクランの直系尊属の系図は、曾祖父(ヨーチテアイノ=ヤウチウテイ=揚忠貞)―祖父(サヱンケアイノサン)―父(シロトマアイノ)―本人(シトクラン)―子(惣領サヱンケアイノ、次男アヱブ子、三男カンチユマンテ)。

58-2)「官人(かんにん、かんじん)」・・官吏。役人。日本の官制では、①諸司の主典(さかん)以上の役人。②近衛将監以下および院司の庁官などの総称。③検非違使庁の「佐」と「尉」の役人。

58-2)「副都統(ふくととう)」・・中国(清)の官名。清代の八旗制下の各旗の長官(満州語ではグーサ・イ・エジュン)である「都統(漢字)」の下に、都統を補佐するために二人置かれたのが「副都統(満州語メイレン・イ・エジュン)。いわゆる「副長官」。なお、「都統」は、主として兵馬のことをつかさどった。清初の1714年(康煕53年)三姓協領衙門の設置が上奏され、1731年(雍正9年)には三姓地方副都統の設置が上奏され、翌年には副都統が設置され、黒竜江下流、松花江中流域及び沿海州などを統括した。

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魯夷始末書11月学習注記    

        

53-3)「越年(えつねん・おつねん・としこし)」・・漱石は、『三四郎』で「越年(ヲツネン)の計(はかりごと)は貧者の頭(コウベ)に落ちた」と、「ヲツネン」とルビをしている。また『北海道方言集』は、「出稼ぎ人が正月になっても帰宅しないこと」を「おつねん」としている。

     *<雑学>「越年(おっとし・おとし)」・・節分の夜の火祭りを「おっとし」「おとし」という地方がある。節分が旧正月に近く、「節分正月」ともいわれることから、節分の行事に「越年」があるといわれている。

53-4)「以堂し(いたし)」・・「以」は「い」、「堂」は「た」の変体仮名。ちなみに、「堂」

     は、「トウ」(漢音)、「ドウ」(呉音)で、「た」という読みはない。なぜ変体仮名の「た」かといえば、「堂」の旧仮名遣いが「タウ」「ダウ」と表記することによる。

 53-5)「鉄炮(てっぽう)」・・「炮(ぽう)」の偏は「火」、旁の部分は「巳」。なお、「石偏」の「砲」の旧字体の旁も「巳」。新字体は「己」。

     <漢字の話>「巳」と「己」

    「包」は、常用漢字(新字体)になって構えの中が「巳」から「己」に変わった。

    常用漢字に採用されて「巳」が「己」に変わった字・・包、選、遷(遷都など)、抱、、泡(あわ)、砲、胞、飽(飽食など)

    常用漢字に採用されていないので「巳」のままの字・・匏(ひさご)、咆(ほ)える、枹(ばち)、疱(ほう。疱瘡など)、祀(まつ)る。鉋(かんな)、雹(ひょう)、鞄(かばん)、巷(ちまた)、撰(撰者、撰集など)、巽(たつみ)、庖(庖丁など)、炮(あぶ)る、鮑(あわび)など。

    常用漢字も旧字体も「己」のままの字・・改、忌、紀、配、妃、記。

    旧字体は「卩」であったが、「己」に変わった字・・巻、圏

53-7)「明払(あけはらい)」・・連用形。家や城などを立ち退いて他人に渡すこと。明渡すこと。

53-7)「空虚(くうきょ)」・・何もないこと。から。建物や部屋などに人のいないこと。また、人を立ち去らせてからにすること。

53-8)「安危(あんき)」・・安全と危険。安全であるか危険であるかということ。

53-9)「ナイフツ」・・「ナエブチ」、「ナエブツ」とも。日本語表記地名「内沸」、「内淵」、「苗淵」とも。樺太東海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、「柏(相とも)濱の北西一里、内沸河口に在る漁村なり。大泊、豊原より、多来加湾岸なる内寄、静香に通する路にあたる。」、「此地、早くより邦人に知られし夷村なり、元禄郷帳を始めとして、~(略)~、文化五年(1808)間宮(林蔵)氏の第一回探検図にも記入せられる。」とある。

54-1)「不念(ぶねん)」・・考えが足りないこと。不注意なこと。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。軽過失を意味する「不斗(ふと)」に対する語。例文としては、「吟味の上、不念之儀於有之は、一等重く可申付事」となる。

54―1)<くずし字>「不念無之」の「無」

54-1)「国地(こくち)」・・国の地域中、島から本土をさしていう語。島に対する本土。

     ここでは、カラフトから見て蝦夷地のこと。

54-2)「凌方(しのぎかた)」・・「しのぎ」は、動詞「しのぐ」の連用形の名詞形。困難なことや苦しみなどを我慢して切りぬけること。また、その方法や手段。

     また、「方」は、手段。方法。やり方。

54-2)「心付(こころづき)」・・連体形。気がつくこと。分別や才覚が生じること。

54-3)「殊勝(しゅしょう)」・・けなげなさま。感心なさま。神妙な様子。

54-3)「和人(わじん)」・・本来、昔、中国の立場からの日本人の称。ここでは、アイヌの人(蝦夷人)と対比した日本人の称。

54-4)<見せ消ち>「より」を「江」に訂正・・「より」を「ヽ」で消し、右に「江」とした。

54-4)「随身(ずいしん)」・・つき従うこと。随従すること。

54-5)「危踏(あやぶみ)」・・連用形。危険だと思う。不安で気がかりに思う。

54-6)「畢竟(ひっきょう)」・・つまるところ。ついには。つまり。結局。元来は、梵語atyanta の訳語。「畢」も「竟」も終わる意)仏語。究極、至極、最終などの意。

    <くずし字>①「畢竟」の「畢」は脚部が「十」、②「異国」は「異」脚部が「大」

    ③「霊」は、脚部が「火」

54-6)「守護(しゅご)」・・守ること。警護。守備。

54-8)「奇特(きとく・きどく)」・・神仏などの不思議な力。霊験。奇蹟。明治頃までは「きどく」か。現代は「きとく」がふつう。

55-2)<くずし字>「竹蔵」の「竹」・・「行」に見える。「竹」と「行」の違いは難しいが、人名では、「竹」と読む場合が多い。

55-8)「詮(かい、せん)」・・「甲斐」とも。ある行為に値するだけのしるし、効き目、効果。代価。代償。

56-6)「番人之程」・・「程」は、物事の度合。程度。P55-8「番人之詮」との比較から、「詮」と書くところを「程」としたか。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     (56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

11月学習 町吟味役中日記 注記

(30-1)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出を禁ずるもの。「押込」を「おしこみ」と読むと、「人家に押し入って強盗すること。また、その賊。強盗。」の意味になる。

(30-2)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来。

(30-4)「面体(めんてい)」・・かおかたち。おもざし。面貌。面相。

 <漢字の話」「体(テイ)」・・「体」を「テイ」と読むのは、漢音。「タイ」は呉音。

  「体裁(ていさい)」「世間体(せけんてい)」「風体(ふうてい)」「ほうほうの体(てい)」「あり体(てい)」「体(てい)のいい~」「体(てい)たらく」など。

(30-5)「売渡(うりわたし)」・・売買の対象となっている物を売って相手に渡す。⇔買い受ける。

 <漢字の話「売」>・・①テキスト影印は、「売」の旧字体「賣」。②部首は、新字体の「売」が「士(さむらい)」部、旧字体の「賣」は、「貝」部。③「賣」の解字は「出」+「買」「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。④新字体の「売」は、「賣」の省略体の俗字。

(30-6)<くずし字>「差出」の「出」・・影印は、「山」+「〻」(繰り返し記号)。ほかに「炎」も「火」+「〻」。また、「品」、「州」、「森」、「轟」、「澁」、「姦」、「傀儡」の「儡」、「磊落」の「磊」などの脚部が、繰返し記号になる場合がある。

(30-6)「売徳(うりどく)」・・売得。物を売ることによって利益を得ること。また、その利益。影印の「売徳」の「徳」は当て字。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の用例に

  <高野山文書‐(年月日未詳)〔江戸〕高野山衆僧法度写(大日本古文書六・一二一九)「衆僧山林入薪等取売徳仕間敷事」>を挙げている。

(30-7)「地蔵町(じぞうまち)」・・函館市末広町・豊川町・弁天町・大町・内澗町・当町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋立てられていった。内澗町寄りから一―六丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町二―三丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、六丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。

(30-8)「手代(てだい)」・・商業使用人の一つ。番頭とならんで、商人の営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。

(31-1)「山之上町(やまのうえちょう)」・・現函館市弥生町。山ノ上町・山の上町・山上町とも記す。「蝦夷日誌」(一編)が「山の上」は東を法華寺(実行寺)、西は神明社、北は裏町(大黒町)の坂を限りとする「此処の惣名也」とし、「箱館夜話草」には「山ノ上町といふは惣じて神明宮の通りより芝居町此辺までをさいていふ処なり」とあるように、元来は箱館町の表通り(弁天町・大町の通り)の上手(山手)、函館山北東面の小高い山裾一帯に開けた新開地をいった。小名を含む広義の山之上町は文化年間(一八〇四―一八)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一―二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(32-1)「深泊り」・・P32の注記参照。

(32-6)「代銭(だいせん)」・・代金。なお、「代銀」は銀目で支払う代価。銀本位であった上方地方で多く用いられた。

(32-7)「不届至極(ふとどきしごく)」・・江戸時代、死罪に処すべき判決の末尾に書く罪名に冠して用いたことば。

(32-78)「可被仰付処(おおせつけ・らる・べき・ところ)」・・

  書下しは「可仰付処」。

  組成は、下ニ動詞「仰付(おおせつく)」の未然形「仰付(おおせつけ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の終止形「被(らる)」+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+名詞「処(ところ)」。

(32-8)「入墨」の「墨」・・影印は2字に見えるが縦長の「墨」1字。脚の「土」はひらがなの「ち」のようになる場合がある。

(32-9)「馬形東上町(まかどひがしうえまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川と伝治川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、段丘の北側は馬形上町、南は東中町、東は東新町。

(32-11)「身元請(みもとうけ)」・・雇われて働く者の身元を保証すること。

(32-12)「トラメキ町」・・現松前郡松前町字月島・字朝日。「寅向」・「とらめき」とも表記される。ほか登良女喜・度良目木・戸羅目木などの文字を当てる。伝治沢川から及部川に至る海岸沿いの地域にあり、西は泊川町。当町は天明―寛政期に町立てされたとみられる。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)では伝治沢町と合せて家数一二七・人数四一四。また「とらめき町、下は水かふり、平磯にて町裏地所無之、町屋東裏は崖之下ニ而、夫より泊川町際ニ至而は地面無之、崖下往還壱筋計も狭く」と記され、崖際に立地して目前に海が迫り、地形的に恵まれていない様子がわかる。「蝦夷日誌」(一編)には「トラメキ」として「此並川向也。人家より足軽多く有。此上に平野有。野畜の馬多し」とある。

(32-12)「逗宿(とうしゅく)」・・逗宿は足を止めて宿をとること。

(32-15)「不束(ふつつか)」・・江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可 成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可 成者は、不届之旨と認」

*「不束或は不埒」・・御叱り、急度御叱り、手鎖、過料。

*「不届」・・所払、追放。

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古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年1114日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書10月分学習注記


49-2)「年礼(ねんれい)」・・年賀の礼。年始。藩では、松前藩では、元旦に藩主が八幡宮に参り、家臣が登城し年賀礼が行われた。

49-3)「村役人」・・江戸時代、村方三役の名主、組頭、百姓代(東国の称。西国では、庄屋、年寄、百姓代)の総称。

49-3)「麻上下(あさかみしも)」・・麻裃とも。近世の武家の礼服。麻布で製した裃で、肩衣(かたぎぬ)と袴を同質、同色の布で作り、裏をつけない。近世後期は、絹との交織もあった。小紋が多く、無地、子持筋(こもちすぢ)もある。紋所は、肩衣に三か所、袴に一か所つく。継上下がややくだけた体であるのに対し、麻上下は、本格的な正式の服である。式日その他威儀を正す折に用いられた。町人の葬式の折にも用いられる。

49-6)「ナイホ」・・「ナイボ」、「チイカエナイボ」とも。日本語表記地名「内保」。樺太西海岸のうち。『大日本地名辞書』に、「ウッス岬南隣の漁場にして、野田寒の北六里、今此處に駅逓の設あり」とある。

49-6)「トルマイ」・・トルマエとも。日本語表記地名「鳥舞」。樺太西海岸のうち。

49-6)「サイカクシ」・・人名。安政六年(1859)、北蝦夷地西浦、富内詰の足軽倉内忠右衛門が、島内を見廻りした際の随従者の一人として、「平土人サイカクシ」の名が見える。*「富内」・・樺太西海岸のうち。西富内、真岡とも。アイヌ語地名エンルコマフ、エンルモコマフとも。箱館奉行所の御用所があった。

49-8)「アサナイ」・・「アサンナイ」とも。日本語表記地名「麻内」。樺太西海岸のうち。

49-10)「掻送(かきおくり)」・・櫂(かい)で水を掻いて舟を進める。

4910)「時節後(じせつおくれ)」・・適当な時期に遅れること。季節にはずれること。

50-1)「不束(ふつつか)」・・「ふとつか」の転。「つか」は、接尾語。①太くたくましいさま。②ぶかっこう。不細工。③②から転じて、物事の整っていないさま。礼儀を知らないさま。無粋なさま。

江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合に、「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

50-4)「心底(しんそこ、しんてい)」・・心の奥底。本心。

50-5)「帰服(きふく、きぶく)」・・心を寄せてつき従うこと。なお、「きふく」と「きぶく」には、使い分けがあったらしい。「きふく」は、抵抗をやめて服従すること。支配下に入ること。降参。「きぶく」は、仏語で、神仏、高僧などをあがめて、心から信頼をよせること。心服。帰依におなじ。

50-6)「共与篤与」の「与(と)」・・古文書で、日本語の助詞「と」に「与」を当てる場合がある。「与」は、変体仮名ではなく、漢文に起源する文字。漢文の助辞(助字)で、漢文訓読の際、「と」と訓じることから、「与」を日本語の助詞「と」とした。

     「AB」(AとBと)

     *「富与貴、是人之所欲也」(『論語 里仁』)

      (フウとキとは、是人の欲する所なり)

       富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。

50-7)「賞誉(しょうよ)」・・称誉とも。ほめたたえること。ほめること。称賛。

50-6)「奇特(きとく)」・・古くは「きどく」。心がけや行ないが普通よりもすぐれていて、ほめるべきさま。負担がかかるようなことを、すすんで行なってほめるべきであるさまにもいう。殊勝。感心。

50-8)「リヤトマリ」・・「リヤコタン」とも。日本語表記地名「利家泊」、「利家古丹」。樺太南海岸のうち。

50-8)「クリウヱントマリ」・・不詳。

50-9)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「八虎泊」、「母子泊」、「函泊」とも。樺太南海岸のうち。

50-9)「ヲハヱタイ」・・「ヲフユトマリ」か。日本語表記地名「雄吠泊」、「小冬泊」か。樺太南海岸のうち。

5010)「シヽユヤ」・・「ヒシユヤ」、「スヾヤ」とも。日本語表記地名「鈴谷」。樺太南海岸のうち。

5010)「ホロアントマリ」・・「ポロアントマリ」とも。日本語表記地名「大泊」。樺太南海岸のうち。

5010)「チイトモ」・・「ナイトモ」、「ナエトモ」か。日本語表記地名「内友」。

51-1)「チナヱホ」・・「チナイボ」とも。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、日本語表記地名「三之澤」地区の説明の中に「チナイボ」の記述があり、「チナイポ、此に清水平三郎の持小屋あり、」とある。

51-1)「コシフイ」・・不詳。

51-4)「海潮(かいちょう)」・・海水。海水の流れ。

51-4)「骨折(ほねおり)」・・連用形。精を出して一生懸命する。尽力する。

51-8)「清水平三郎」・・文化元年(1804)松前生まれ。安政元年(1854)春松前藩御徒士席、同年七月御目見得以上に抜擢。安政三年(1856)二月箱館奉行組同心御抱入、同年六月箱館奉行支配調役下役。

5110)「差働(さしはたらき)」・・「差(さ)し」は、接頭語。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

5110)「山靼(さんたん)」・・「山丹」、「山旦」とも。「山旦人」というのは、アムール河下流域住民の総称であるが、サハリン島に渡来したのはキジ湖周辺の「オルチャ(ウリチ)」人で、ギリヤーク人が彼らのことを「ジャタン」と呼び、それをサハリン・アイヌたちが、「サンタン」と訛ったものという(『東韃紀行』)。山旦人が中国の産物をサハリン島にもたらしたことから、「山旦貿易」として知られ、

     松前藩は、交易品のうち、蝦夷錦、山旦切、青玉(虫巣玉、樺太玉)などを松前名物として、千島経由のラッコ皮、鷲羽、熊胆などととともに「軽物」と称して売買を独占した。のちには、山旦人のシラヌシ渡来が普通になり、北海道からもサハリンに赴くアイヌが多くなり、その結果、宗谷アイヌの山旦人への多額の借財問題も生じた。なお、山旦品に対しては、毛皮類のほか、米、酒、煙草、古衣、鉄器、椀その他日本の家事用品が交易された。(秋月著『日露関係とサハリン島』から抜粋)

52-2)「壱人立(ひとりたち)」・・独立のこと。他からの援助を受けないで、自分だけの力でやっていくこと。行動をともにする仲間や味方のないこと。ひとりぼっち。

52-2)「国威(こくい)」・・国の威力。一国またはその国を治める威力や権威。

52-4)「附添候役人共」・・松前藩から、堀に付添った江戸留守居役田崎与兵衛らと村垣に付添った町奉行新井田玄番(嘉藤太)らを指すか。

52-5)「万端(ばんたん)」・・すべての事柄。万般。

52-5)「用弁(ようべん)」・・用事をすますこと。用の足りること。「用便」。

52-6)「差配(さはい)」・・とりさばくこと。とりしきること。

52-9)「林右衛門」・・伊達林右衛門。代々「林右衛門」を通称とする。栖原と並称せられる松前の富商。場所請負人。文化六年(1809)栖原屋と共に北蝦夷地場所を請負う。本文書時は、三代目。なお、安政元年(1854)、松前藩永世士席に列し、次いで勘定奉行となる。

52-9)「六右衛門」・・栖原六右衛門。場所請負人。栖原家(本家は代々「角兵衛」を通称とする。)は、松前店の支配人に代々、「栖原」の姓を名乗らせた。本文書時は、八代目で、本姓は、川村六右衛門。なお、安政元年(1854)、松前藩において、一代士席に班し、先手組格に列せられる。

 

10月学習町吟味役中日記 注記

                        

(24-1)格助詞「へ」・・「え」と発音する。現代かなづかい(昭和211116日、内閣訓令第八号、内閣告示第三三号で示された)は、部分的には、それまでの伝統的な表記意識や方言の語音などを考慮したため、歴史的仮名遣いを受けついでいたり、許容していたりするところがある。それらの例外や許容に助詞の「へ」がある。本則は、「へ」と書くが、「え」を許容する。その他、①助詞の「を」はもとのままとし、②助詞の「は」ももとのままに書くのを本則(「わ」を許容)とする。

(24-2)「預ケ」・・罪科のある人を他にあずけること。

 ()江戸時代、未決囚を預けること。吟味期間中、重罪人は入牢させたが、軽罪のものは公事宿(くじやど)、町村役人、親類などに預けられた。

()江戸時代の刑罰の一つ。罪人をある特定の者に預けて監禁するもの。武士、庶民共に科せられ、預かり主が誰であるかにより、大名預、頭(組頭、支配頭)預、町預、村預、所預、親類預などの区別がみられた。終身預けることを「永く御預け(永預)」という。

()江戸時代、遠島または追放の刑を申し渡された幼年者を、刑の執行される成年(一五歳)に達するまでの期間預けること。溜預と親類預があった。

(24-5)「揚屋入(あがりやいり)」・・揚屋に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

  *「揚屋(あがりや)」・・江戸時代の牢屋の一つ。江戸小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。テキストにあるように、各藩でも牢屋を揚屋(あがりや)と呼んだ。

  *「揚屋」を「あげや」と呼ぶ場合・・近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。

(24-7)「牢舎(ろうしゃ)」・・牢舎人。牢屋に入れられている者。囚人。囚徒。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「牢舎」の補注に<和製漢語か。幽閉・禁獄の意味で用いられ、古くは「籠舎」「籠者」と表記された。「牢舎」「牢者」などの「牢」の字は、後に新しい語源解釈によって与えられたもの。>とある。

(24-8)「再応(さいおう)」・・同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(25-1)「御目録(おんもくろく)」・・進物の時、実物の代わりに、仮にその品目の名だけを記して贈るもの。

(25-4)「ヲタルナイ」・・漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヲタルナイ石カリの境目」であった(廻浦日記)。コタン名のほか、場所(領)や河川の名称としてもみえる。「おたる内」(「狄蜂起集書」・元禄郷帳・享保十二年所附)、「オタルナイ」(蝦夷志)、「おたるなへ」(寛政五年「松前地図」)、「ヲタルナイ」(武藤「蝦夷日記」)、「ヲクルナイ」(蝦夷拾遺)などとあり、「於多留奈井」(支配所持名前帳)、「尾樽内」(蝦夷商賈聞書)、「砂路沢」(蝦夷喧辞弁・行程記)、「小樽内」「小垂内」(観国録)などの漢字表記がみられる。

(25-4)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか河川名としても記録されている。

  *「ユウブツ越」・・勇払から勇払川を舟でさかのぼり、ウトナイ湖、美々川を経て陸路で千歳に入り、さらに舟で千歳川を経て石狩川に達するルートで、「シコツ越え」とも称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な道であった。

  *「アイヌの丸木舟」・・昭和41(1966)、沼ノ端の旧勇払川右岸から、5艘の丸木舟と櫂、棹などの船具が発掘された。舟の長さが7~9メートルの大きさで、材料はカツラやヤナギが使われており、昭和42(1967)年には北海道の指定文化財になっている。現在苫小牧市美術博物館に展示されている。

(25-7)「奉紙(ほうし)」・・奉書紙(ほうしょがみ)。楮(こうぞ)を原料とする厚手、純白の高級紙。室町時代から各地で漉(す)かれ、主に儀式用に用いられた。

(25-9~26-1)「大儀料(たいぎりょう)」・・骨折り賃。苦労してやったことに対する報酬。

(26-5)「越後笹口村」・・現新潟県胎内市笹口浜。西は日本海に面し、東南一帯は砂丘が広がる。東は高畑(たかばたけ)村、東南は山王(さんのう)村に接する。村上藩領に属し、宝永6年(1709)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。

(26-7)「卯(う)」・・天保2(1831)

(26-7)「唐津内町(からつないまち)」・・近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(26-8)「𥿻(きぬ)」・・国字。絹に同じ。旁の「旨」に「うるわしい」の意味がある。

(26-8)「抱」・・「把(は)」か。綛(かせ)をたばねてくくったものを数える単位。生糸の捻り造りしたものを三〇綛ずつ木綿の括糸で三か所結束したものをいう。生糸一俵(約六〇キログラム)は把二八〜三〇個に相当する。

(26-9)「積り」・・みつもり。予算。また、計算

(26-10)「死罪にも被仰付候処、格別之以御憐愍」・・『松前町史』には、「復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を軽減することが法習慣となっている独自の刑罰体系が存在していたと見做してよかろう」とある。

(26-10)「憐愍(れんびん)」・・なさけをかけること。憐憫・憐閔とも書く。

(26-11)「墨入百擲(すみいれひゃくたたき)」・・江戸時代の刑罰の一つ。入れ墨の刑に付加して罪人の肩、背などを鞭打つもの。普通「擲」は「敲」と表記される場合が多い。

  *「入墨」・・腕、足、額などに墨汁をさし入れて犯罪人の目じるしとするもの。江戸時代には、追放、叩きなどの刑に付加して行なわれた。

  「幕府の遠国奉行の入墨はみな腕に施す。・・藩では・・額に彫るのが多い。・・入墨のあり所およびその形によって、どこで入墨されたかがすぐわかるようになっていた」

  (石井良助著『江戸の刑罰』中公文庫1964 次ページの図も)

 *<漢字の話>「擲」・・①漢音で「テキ」、「投擲競技」など。呉音で「ジャク」。「チャク」は慣用音(中国の原音によらない誤読から生じた日本での漢字音)。

②訓読みでは「うつ」「なげる」「なぐる」「たたく」「はねる」「ふるう」「なげうつ」「ほうる」などがある。

  「主人は此野郎と吾輩の襟がみを攫(つか)んでえいと計りに縁側へ擲(たた)きつけた」(漱石『吾輩は猫である』)

  ③「打擲(ちょうちゃく)」・・打ちたたくこと。なぐること。特に、御成敗式目では刑事犯罪の一つに数えられている。「打」を「チョウ」と発音するのは呉音。「シャク」は慣用音。「呉音」+「慣用音」の例。

(26-11)「渡海(とかい)」・・『松前町史』には、「死刑にかえて現実に下された判断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことができる」とある。

  さらに、「越山・遠島が百姓もしくは無宿者に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される点であり、例外や不明例は少ない」としている。

(27-3)「同断(どうだん)」・・「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。また、そのさま。同然。同様。「理(ことわり)」(理由。わけ。よってきたるゆえん。また、理由などをあげてする弁明。)と同じ訓の「断(ことわり)」の音をあてた造語。

(27-3)「琴壱面」・・普通、「張 (ちょう) 」は琴を数える語。「調 (ちょう) 」の字をあてることもある。弦を張った楽器であるため「張り」でも数える。「面」は琴・太鼓・琵琶 (びわ) など、表面部分で演奏する日本古来の楽器を数える語。

(27-4)「迄(まで)」・・「迠」は「迄」の誤字(『漢語林』)。しかし、「ショウ」と読み、

「ゆく(行)」の意味がある漢語。古文書にある「迠」を翻刻する場合、「迄」の誤字と見て、

「迄」とする。

(27-4)「そして」・・影印は、連綿体(行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの)という。

(27-6)「最上(もがみ)」・・最上地方。最上郡。郡域は元和8年(1622)の最上氏改易と相前後して定まったもので、律令制下では当初陸奥国最上郡、のち出羽国最上郡の郡域に含まれ、仁和二年(八八六)出羽国最上郡から村山郡が分れて以降は(「三代実録」同年一月一一日条)、近世初期まで村山郡のうちとして推移した。

(27-6)「日和田村(ひわだむら)」・・現山形県寒河江市日和田。箕輪村の西、葉山の南東麓に位置し、西は慈恩寺の所在する醍醐に続く。中世には檜皮とも記し、慈恩寺領があり寒河江庄(北方)に属した。慈恩寺領は最上氏にも安堵された(慶長五年九月二一日「最上義光願文」工藤文書)。当地の新御堂(すみど)に市神が残り、慈恩寺門前の市が立っていたと思われる。最上氏改易後は高七九一石余(西村山郡史)の日和田村は上山藩領となり、寺領は残らなかった。文化12年(181)幕府領となって幕末に至る。

(27-7)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」・・現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(27-7)「当時」・・今では、過去のある時点を、あとからふり返っていう場合に使われるが、

  古文書の「当時」は、「ただいま。現在。現今。」という意味に使われることが多い。

(27-8)「馴合(なれあい)」・・なれ合い夫婦。正式の仲介によらないで、なれあっていっしょになった夫婦。出来合夫婦。

(27-10)「不埒(ふらち)」・・「埒」は馬場などの囲いの意。法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

(27-14)「無判(むはん・むばん)」・・無判者。松前藩の許可なく上陸した者。

(27-15)「不念(ぶねん)」・・江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(28-1) 「五〆文(ごかんもん)」・・「五貫文」。「〆」は、「貫」の略字。銭貨を数える単位。唐の開元通宝1枚の重さが1匁(もんめ)であったところから、わが国でもそのまま銭1枚を1文と呼称するようになったといわれ、銭1000文をもって1貫と称する。なお、「文」は、足袋(たび)底の長さを測るのに、一文銭を並べて数えたところから、足袋や靴、靴下などの履き物の大きさの単位ともなったが、この場合の1文は尺貫法の8分(ぶ)(約2.4センチメートル)に相当する。また、江戸初期から中期にかけての金1両(4000文)は10万円に相当するといわれ、1貫文は1000文だから、25000円に相当するが、ただ幕末にかけて激しいインフレに見舞われるので、1貫文は7000円程度まで下落するようだ。とすると、5貫文=5000文=3万5000円ほどか。

(28-1)「過料(かりょう)」・・江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

(28-2)「馬形町(まかどまち)」・・現松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、西は蔵町、南西は端立町。。「蝦夷日誌」(一編)に馬形町として「また山之上とも云。一段高きところにしてひろし。藩士また小商人、番人入接り。其山を名になし有」と記される。

(28-3)「悴(せがれ)」・・影印の「忰」は、「悴」の俗字。なお、自分のむすこを意味する「せがれ」は、「倅」が正しい。「悴」は、「倅」と似ていることから起こった誤用。(『新漢語林』)

(28-7)「構(かまえ・かまい)」・・江戸時代の一種の追放刑。特定地域から排除する場合と,特定団体・社会関係から排除する場合とがあった。日本国外追放を日本国構と称したことなどは前者の例であるが,後期幕府法においては,刑名はおもに追放,払(はらい)の語を用い,立入り,居住制限区域をとくに御構場所(おかまいばしよ)と呼んでいた。一方団体・社会関係からの排除として《公事方御定書》には,僧尼の閏刑で追院,退院より重い一宗構(所属宗旨からの追放),および一派構(宗旨中の所属宗派からの追放)の刑名がある。さらに武家が家中に科する刑罰的処分に奉公構があった。これは家臣が主従関係を離れる際,将来他家へ召し抱えられることを禁ずるもので,1635年(寛永12)の武家諸法度および諸士法度によって幕府法上も保障された。以後主家からの出奔は武士にとって容易なことではなくなった。近代に至って,追放刑の廃止,封建的身分制度の廃止により構の概念も消滅した。

  なお、処分しない、とがめがないことをいう「かまい 無し」の語源でもある。

(28-11)「留主(るす)」・・留守。元来は、天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたること。「主」を「ス」と読むのは呉音。なお、「守」を「ス」と読むのは、日本での慣用音。

(28-11)「盗賊与者(とは)」・・「与者」が、上書きされている。

(28-13~14)「所払(ところばらい)」・・江戸時代の追放刑の一種。居住の町村から追放し、立入りを禁止する軽罰。ところがまえ。

(28-15)「仲町(なかまち)」・・中町。現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置し、南は大松前町、北は横町、東は袋町で町域は狭い。)。「蝦夷日誌」(一編)には「少しの町也。大松前のうしろに当る。小商人のミ也」とある。

 

古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催
古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年103日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書9月学習注記

45-2)「江戸表(えどおもて)」・・地方から江戸を敬っていう称。将軍在住の地による。朝廷の所在地京都をよぶに京都表という類。(『江戸語の辞典』)

45-2)「場所」・・この「場所」は、クシュンコタン(九春古丹)をさす。

45-4)「畢竟(ひっきょう)」・・「畢」も「竟」も終わる意。仏語。究極、至極、最終などの意。途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

45-6)「変事(へんじ)」・・異常な出来事。異変。

46-7・8)<欠字の体裁>欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。

   7行目「不申候処」と「公儀」の間が空いている。

   8行目「相成候は」と「御威光」の間が空いている。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「欠字」の語誌に、

     <(1)「台頭」「平出」と共に唐の制度から学んで大宝令に取り入れたもの。台頭は上奏文などに用いるが、日本ではそれ以外あまり見られない。平出は令の規定以来公式に行なわれたが、闕字が最も一般的である。

     (2)闕字は台頭・平出より少し軽く、平安時代以降も永く用いられたが、その用法は必ずしも厳密ではない。しかし、天皇・院・三后などの皇族には中・近世に至るまで比較的本来の形で存続し、明治以降天皇制のもとで復活重用されるようになる。>とある。

4510)「寅」・・十二支のうちの寅年をさす。元号では、安政元年(或は嘉永七年)。西暦1854年にあたる。此の年の1127日に、御所炎上(46日)とペリーの浦賀再来航(116日)などを理由により、安政に改元。

46-5)「堀織部」・・堀利熙。織部は通称。

46-6)「村垣与三郎」・・村垣範正。与三郎は通称。

4678)「探索(たんさく)」・・(人の居場所などを)探し求めること。

46-9)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地・北海道では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察すること。

47-2)「ベンカクレ」・・『村垣淡路守公務日記之二』六月十五日の条では、「ヘンクカレ」としている。

47-3)「ラムラニケ」・・前掲書では、「ラムランケ」。

47-4)「カミリ」・・前掲書では「アシリ」。

47-5)「アハユヱキ」・・前掲書では、記載がない。

47-6)「ナイトモ」・・前掲書では「ナヱトモ」。日本語表記地名「内友」、「内冨」。カラフト南海岸のうち。

47-7)「イツホニク」・・前掲書では「イツホンク」。

47-8)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「母子泊」、「函泊」。カラフト南海岸のうち。

47-8)「マラレアイ」・・前掲書では「マウレアヱノ」。

47-8)「土産取(みやげとり)」・・アイヌ集落での階層。和人からの下されもの(清

酒・玄米・炊飯・煙草が主)それらの下されものを無償でもらうことのできる階

層。

なお、アイヌ集落での階層は、地域によって異なるが、一般に、惣乙名・脇乙名・並乙名・小使・土産取・平夷人といわれる。

47-9)「ホロアントマリ」・・日本語表記地名「大泊」。クシュンコタンより二十丁許以南の地。カラフト南海岸のうち。

4710)「チヘシヤニ」・・日本語表記地名「池辺讃(チベサニ)」、「千辺沙荷」。大泊の東方7里の地(吉田東伍『大日本地名辞書』)。カラフト南海岸のうち。

48-1)「シヱマヲコタン」・・前掲書では「シユマヲコタン」としているが、不詳。

48-2)「トウラフツ」・・前掲書では「トウフツ」。「トウブツ」とも。日本語表記地名「遠淵(トウブチ)」。カラフト南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「ブッセ湖の海に通ずる處にして、古来漁場として夙に名あり。」、「寛政七年に至り、伊達、栖原二人、始めて漁場受負人として、撓淵(タウブチ)に至り、漁業を営みたり。之れ、本島に於ける民間漁業の濫觴なりと云ふ。撓淵は即ちトーブツなり。」とある。

48-2)「ヲカフ」・・前掲書では「ヲカワ」。

48-3)「右ヘンカクレ外三人シヨシコロ外六人」・・本書では、合わせて十一人の名前が列記されているが、前掲書では、十人(クシュンコタン平夷人アハユヱキが除かれている。)となっている。      

48-3)「稼方(かせぎかた)・・稼ぎ人たちのこと。働き手たちのこと。

48―4)「罷(ヽ在)居候(まかりおりそうろう)」・・「ヽ在」の「ヽ」の記号は、見せ消ち記号。「在」の左に「ヽ」で、「在」を打消し、右に「居」としている。「罷り在候」を「罷居候」と訂正している。

48-4)「去丑八月中旬魯西亜人共渡来」・・ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらが陸戦隊73人を率い、クシュンコタンに来航したのは嘉永6丑年829日で、翌830日は上陸地点の調査、91日にクシュンコタンの北隣のハツコトマリへ上陸。したがって、本書では、「八月中旬」となっているが、厳密には、「八月下旬から九月上旬」。

48-8)「神妙(しんみょう)」・・古くは「しんびょう」とも。けなげなこと。感心なこと。また、そのさま。

48-8)「奇特(きどく、きとく)」・・おこないが感心なさま。けなげなさま。

4810)「手切(てきり、てぎり)」・・「手限」とも。自分の一存で決めること。江戸時代、奉行、諸役人・代官などが上部機構の裁断を仰がず、自己の責任で事件を処理し、あるいは判決を下すこと。

4810)「心得(こころえ)」・・心がまえ。心がけ。

4810)「役夷」・・役夷人。(惣)乙名、(惣)脇乙名、(惣)小使、土産取(みやげとり)の役職についたアイヌの人たち。ここでは、P47に列記されているクシュンコタン惣乙名、同脇乙名、ナイトモ惣小使、同小使、ハツコトマリ土産取。

48-10~49-1)「褒美之品(ほうびのしな)」・・前掲書では、十人のうち、役夷人のヘンクカレ、ラムランケ、アシリ、シヨシコロ、イツホンク、マウレアヱノの六人には、「紅板〆一切と舞扇一本」づつ、平夷人のシフランマ、ヲンクロ、ホマヲウ、ヲカワの四人には、「紅板〆一切と白平骨扇一本」づつ、「外に一同江米三表、酒一盃充、遣ス」旨記載されている。

     なお、「切」は織部(堀)が出し、「扇」は自分(村垣)が出したともある。

9月学習 町吟味役中日記 注記

                   

(18-1)「御免」・・「ご」は接頭語。ここでは、免官、または、免職することを、その動作主を敬っていう語。。「御免」は、もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(18-4)「江良村」・・現松前町字江良・字高野・字大津・字二越・字白坂。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。大正4年大島村の一部になる。なお大島村は昭和29年(1954)松前町の一部となる。現在、江良地域に、大島小学校がある。

(18-4)「米塩(べいえん・まいえん・こめしお)」・・人間の生活に欠くことのできない米と塩。食料一般をもいう。

 *「米塩の資(し・たすけ)」・・生計を立てるための費用。生活費。

 *「米塩の虫」・・食べていかなくてはならない者。生計をたてていかなくてはならない存在。

(18-5)「粒鯡(つぶにしん)」・・①荷出しする生の鰊。②数の子も白子も取り出した後の鰊。

(18-5)「空船(からぶね)」・・貨客を積んでいない船。とくに、江戸時代の御城米船では積込港まで貨客を積まないで航海させられた。

(18-6)「小砂子(ちいさご)村」・・現檜山郡上ノ国町字小砂子(ちいさご)。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子 夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。明治35(1902) 上ノ国村に合併。

(18-6)「落船(おちぶね・らくせん)」・・漂着船。津軽海峡横断の航路は津軽三厩から南または東の風に乗るのが最良とされ、途中風が南西に変わる場合は松前に着けず、押流されて吉岡付近の海上に漂着することが多く、これを落船とよんでいる。(『福島町史』)松前藩は沖之口おきのくち役所のある松前・江差・箱館の三湊以外での入国・通関は認めなかったが、航海が繁多になってくるにしたがい落船が増加したため、寛政年間には一部の落船を認める措置をとった

(18-7)「沖ノ口」・・江良に沖ノ口奉行配下の番所があった。武四郎の。『廻浦日記』では「廻船懸る由なればとて沖の口出張所有て下役一人出張す。」とある。

(18-7)「出役(でやく・しゅつやく)」・・①江戸時代、本役を持つものが、そのままで、臨時に他の職務に服すること。また、その役人。しゅつやく。広く、本業以外の公的な役回り、役職などのことをもいう。②職務上の出張。出張勤務。また、その役人。

(18-7)「船改(ふねあらため・ふなあらため)」・・港に出入する船舶の積荷・乗組・便船人などを船番所の役人が検査すること。また、その役人。江戸時代では、江戸に出入する廻船を下田または浦賀で改め、禁制の品や人間の流入・流出を防止したのが代表的な例。

(18-9)「沖口下代」・・沖ノ口奉行配下の役職。

(20-7)「挨拶(あいさつ)」・・応答。受け答え。

(21-2)「印紙(いんし)」・・署名捺印した書付。

(21-3)「売渡(うりわたし)」・・影印の「賣」は、「売」の旧字体。

 <漢字の話>「賣」・・①部首は「貝」で、「貝」部は、金銭・財貨や、それらにかかわる行為・状態などに関する文字でできている。「貢」「財」「貨」「貧「販」「貴」「賤」など。

 ②「貝」は、古代中国では貨幣とされ、財産のシンボルとして珍重された。しかし、近くにある川や池でたやすく手に入る貝ではなく、財産とされた貝は、黄河中流域に位置した殷王朝が、はるか遠方の東南沿海地方から運ばれてきた子安貝だった。

 ③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。                              

③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。

④「買(かう)」と「賣(うる)」・・「売」の旧字体「賣」の解字は、「出」+「買」。「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、「賣」の省略形の俗字による。なお、「買」の解字は「网」+「貝」で、「网」は「あみ」の意味、「貝」は「財貨」の意味。あみをかぶせて財貨をとりいれる、かうの意味をあらわす。

 ⑤また、「賣」は、平成16年に人名漢字になった。「賣野(うりの)」「木賣(きうり)」「賣豆紀(めずき)」など。

(21-3)「筈」・・①矢の上端で、弓の弦をかける部分。矢筈(やはず)。②弓の両端。弓の弦を受けるところ。弓弭(ゆはず)。③矢筈と弦とはよく合うところから、物事が当然そうなること。道理。理屈。筋道。転じて、予定・てはず・約束などの意にもいう。

 なお、棒の先に股のある、掛け物を掛ける道具も「矢筈」という。

 <漢字の話>「筈」・・解字は、「竹」+「舌」。音符の「舌」は、「会」に通じ「あう」の意味。弓のつると矢とが会する部分。

(21-5)「大留(おおどめ)村」・・現檜山郡上ノ国町字大留。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村の北、天ノ川の下流域北側に位置する。明治35年上ノ国村に合併。

(21-6)「年寄(としより)」・・近世では町役人・村役人・宿役人などの称ともなった。村役人としては、名主または庄屋に次ぐ地位の者をいうことが多い。大留村では、次に「百姓代」とあるので、「年寄」は、村の長を年寄と称していたか。

(21-1022-1)「碁盤坂」・・現松前郡福島町字千軒附近。なお、昭和13(1938)1021日国有鉄道福山線渡島知内駅 - 当駅間開通に伴い、碁盤坂駅として開業。昭和47(1972)15日に千軒駅に改称。

(22-1)「倒死(たおれじに・とうし)」・・路上などでたおれて死ぬこと。ゆきだおれ。

(23-5)「碇町」・・檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。武四郎の『再航蝦夷日誌』に「寺小屋町の上也。漁者、水主、小商人等也」とある。

(22-7)「通書(つうしょ)」・・手紙。

(22-7)「山之上町」・・武四郎の『再航蝦夷日誌』に「薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。

(22-9)「幸便(こうびん)」・・つごうがよいこと。よいついで。また、そのような時に人に手紙を託することが多かったので、手紙の書き出しの文句や添え書きのことばとしても用いる。

(23-1)「被仰出(おおせいだされ)」・・ご命令されて。「仰せいだす」は、「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。命令を発せられる。お言いつけになる。お言葉を口に出される。

 なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、「おおせいださる」の連用形の名詞化で、名詞として、「おいいつけ。御命令。おおせいで」の意味になることがある。「被仰出書(おおせいだされがき)」(ご命令書)

(23-1)「供(ども)」・・人を表す言葉について複数を表す接尾語。複数の意味がうすれた「子供」以外は、多く「共」と書く。

 *「子供」・・(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

(2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

(3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌)

(23-2)「辰之刻」・・午前8時。

(23-8)「差添(さしぞい・さしぞえ)」・・他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。また、その人。

古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年912日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

『蝦夷日記 下』発行

田端宏監修 札幌歴史懇話会刊 

古文書解読選第五集『蝦夷日記 下』発行

定価2200円(送料360円)

 

札幌歴史懇話会では、このたび、『蝦夷日記 下』を刊行しました。

本書は、嘉永七年目付堀利煕、勘定吟味役村垣与三郎の蝦夷地巡検に随行したものの道中日記です。

上巻は、松前から樺太まででしたが、下巻は帰路オホーツク沿岸、東蝦夷地を経由して箱館帰着までの紀行文です。

影印と解読文が見開きになり、古文書学習に適していると思います。

記述にかんする注記にもページを割いて、当時の事情や地名について詳細に、述べています。

ぜひ、購入くださいますよう、ご案内します。

魯夷始末書8月学習注記

41-1)「水野正左衛門」・・本書時、御勘定評定所留役。村垣範正の附添として西・北・東蝦夷地を廻浦。『柳営補任』では、「嘉永7(安政元)年(1854)寅閏725日箱館奉行支配組頭、永々御目見以上」に任じられ、「同年(嘉永711月於箱館死」となっている。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、「(嘉永7年閏7月)17日夕刻、クスリ(現釧路)ニ而、正左衛門急病発し、卒中風之由、同夜九頃、事切申候由」とあり、実際は、嘉永7(安政元)年閏717日、脳卒中により死去したことがうかがえる。

41-2)「煩労(はんろう)」・・心をわずらわし身を疲れさせること。わずらわしい骨折。

41-3)「咎(とがめ)」・・「とが」とも。罪、罪科

41-4)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。おおめに見て見逃すこと。

41-4)「沙汰(さた)」・・物事の是非を選び分けて、正しく処理すること。始末すること。処置すること。

41-4)「別而(べっして)」・・特別に、とりわけて、格別に。

41-6)「執成(とりなし)」・・【連用形】具合の悪い状態を、間に入って取り計い好転させること。間に立って、周旋してうまくその場を納めること。

41-6)「内得(ないどく)?」・・影印は「内」か、「納」かのどちらか。「内得=役職を利して取る利得、役得。」とすると、意味が不明。「納得=承知すること。同意すること。」か。

41-7)「木品(きしな)」・・樹木および材木の種類、または、材木・白木(割材)類の品質。

41-8)「猥(みだり)に」・・節度を失しているさま。度を過して、むやみやたらであるさま。なお「猥」を「みだら」と読むと、「いやらしい」の意味。

    *「猥」の解字・・「犭(犬)」+「畏」。音符の「畏(イ・ワイ)」は、犬の鳴き声の擬声語。犬のほえ声を表し、転じてみだらの意味をも表す。

41—10)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。なお「治定(じてい)」は、国などをおさめさだめること。

42-2)「横文字之書面」・・本書面は、『幕末外国関係文書之六』所収の第213号文書(「五月十七日樺太島アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセ書翰 松前藩士へ アニワ退去の件」)。この点について、『村垣淡路守公務日記之二』62日の条に、「魯西亜人カラフト退去之始末、幷書翰一通ハ、開状ニ而、領主家来(三輪持)江向候文躰、蘭文魯西亜文有之」、「彼之地ニ而、(水野)正左衛門、(河津)三郎太郎受取、直ニ(名村)五八郎ニ和解申付」とあり、堀、村垣らの一行に同行したオランダ通詞の名村五八郎が、和訳したことが記述されている。なお、『幕末外国関係文書之六』に収録されている文書の第一譯文の和訳者は、名村五八郎ではなく、森山栄之助と本木昌造となっているが、以下、参考までに記載をしておく。

     【第一譯文】

        アニワ港滞在之日本武官へ

     我重役之命を奉し、当場所を退候ニ付てハ、是迄応接致候日本人幷アイノス人と是迄之懇情、且八ヶ月間、ハカトマシ滞在中、諸用弁し被呉候芳志之段及禮謝候、

     凡何頃迄当場所出張差止候哉、又ハ何れに差遣候哉、其段ハ重役之心得にて候得共、日本人とアイノス人と之間ニ聊子細無之儀ハ、急度御請合申候、日本人ハ賢良之国民ニ候得ハ、アイノス人ニ対し、不承知之筋申掛候儀有之間敷候、アイノス人ハ、我等之為ニ格別用達致し、諸方乗廻り候節ハ案内致し、住所取建之節ハ、手傳等致し、又水主之働も致し候、右柔弱之アイノス人を如何之取扱ニ相成候て(ハヾ)、ハカトマレニ罷在魯西亜人ニ対し、不和を被含候も同様ニ有之候、

                             マヨール(Majoor

                               ブースセ(Busse

     右真譯致シ候、

      暦数千八百五十四年第六月十二日

                             船将次官

                                ポスシエト

     右之通文意和解差上申候、以上、

       寅七月                   森山栄之助 印

                             本木 昌造 印

    【参考】

 森山栄之助 文政3(1820)生。家代々のオランダ通詞。英語も学び、蘭・英2ヶ国を使いこなせる通詞として活躍。嘉永6年(1853)、プチャーチン、長崎来航の際、川路聖謨(魯西亜使節応接掛)の通詞を務める。文久2年(1862)の竹内保徳らの遣欧使節団の通訳。

本木 昌造 文政7(1824)生。江戸幕府の通詞。安政元年(1854)、プチャーチンが下田へ来航の際、下田条約の交渉の通詞を務める。

42-2)「和蘭通詞(オランダつうじ)」・・「阿蘭陀通詞」とも。江戸時代に長崎でオランダとの折衝にあたった日本人通訳官。なお、本書時、堀・村垣一行には、オランダ語の通詞として、武田斐三郎と名村五八郎が随行。二人は、遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、日本側の魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の書翰(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書「露西亜応接掛へ 国境幷和親條約の件」)について、蘭文和譯ノ一として名村五八郎が、蘭文和譯ノニとして武田斐三郎が、それぞれ和訳している。なお、封をされて渡された筒井川路宛の書翰を、現地の一存で開封して和訳をした経緯については、『村垣淡路守公務日記之二』では、「筒井川路江之書翰、何様之義有之哉、一旦江戸表江差立、和解御下ケニ而ハ、差向御用弁ニも相成不申不都合ニ付、織部一存ニ而、五八郎江和解申付、開封いたし」、「筒井川路江宛候魯西亜人書翰漢文一通蘭文一通、五八郎和解いたし候処、~ 明日ハ斐三郎参着ニ候間、同人も一応和解申付候上、御用状差立候方ニ治定、」した旨、記述している。

    【参考】

     武田斐三郎  伊予国大洲の人。適塾などで蘭学を修める。嘉永6(1853)プチャーチン長崎来航の際、箕作阮甫に従い、通詞御用を務める。後、箱館奉行所諸術調所教授役として五稜郭の設計建設などにあたる。元治元年(1864)開成所教授職並。明治維新後、兵学寮・士官学校教授、長官を務める。

     名村五八郎  文政9年(1826)生。長崎阿蘭陀通詞の家に生まれ、家業を継ぎ、英語も修めた。嘉永6(1853)幕府の命により出府。安政元年(1854)、日米和親条約締結のため働き、後、箱館奉行所詰となり、同3(1856)箱館奉行所支配調役下役となる。万延元年(1860)、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米、遣米使節団(正使新見豊前守、副使村垣淡路守)の首席通詞を務める。又、慶応2(1866)、小出大和守らの遣露使節団の随行員として訪露、同3(1867)帰国。北海道で最初の「英語稽古所」を創設。

42-3)「緋羅沙(ひらしゃ)」・・緋羅紗。濃くあかるい朱色の毛織物。

42-8)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広。「伊豆守」は受領名。藩主在任期間は、嘉永2(1849)69日~慶応2(1866)425日。この間、幕府の寺社奉行(文久3年(1863428日~同年8月)、老中格(松前藩:無高)・海陸軍総奉行(元治元年(1861)77日~)、老中(松前藩:3万石)(元治元年11月~慶応元年(1865)101日)・海陸軍総裁(慶応元年(1865)~同年101日)を務める。

     【参考】:松前藩の石高は、米が穫れないため表高は「無高」とされていたため、3万石~10万石の家格の譜代大名がなれる「老中」には、一足飛びにはなれず、「老中格」として就任、その後、加増されて「3万石」の家格となり、「格」がとれて、正式に「老中」となった。

43-1)「可成丈(なるべきだけ)」・・「なるたけ(成丈)」に同じ。できるかぎり。なるべく。

     「なりたけ」をはじめ、多くの異形を生じたが、これら以前は「なるほど」がこの意味用法をになっていた。「なりたけ」は江戸東京語で、「なりったけ」はその促音形。「なるべきだけ」の発生は「なるたけ」に少し遅れる。なお、「なるべきだけ」の語形は重言の意識が働いてか、その後急速にすたれ、現在では「なるべく」「なるたけ」の短い形がこの意味用法で残っている。(『ジャパンナレッジ版日本国語大辞典』の語誌)

43-3)「矢来(やらい)」・・竹や丸太を縦横に粗く組んだ仮の囲い。「やらい(遣=追い払うこと。)」からをいう。「矢来」は、当て字。

43-7)「先手組(さきてぐみ)」・・『文政六(一八二三)年十一月松前藩家臣名簿』の「職席」欄に「御先手組」として、細界太佐士(頭取)外、10名の氏名が記載され、『嘉永六癸丑年(1853)御扶持家列席帳』には、「士席御先手組(同格、同格医師、勤中格を含む。)」として、161名の氏名が記載され、一番隊物頭の竹田作郎や今井八九郎、『町吟味役中日記』の奥平勝馬の名もみえる。本来、「先手組」は、武勇に優れた者で編成され、戦時の際の陣立で本陣の前にいて、敵を攻撃する部隊。平時は、城の内外や主君の出向の際の警固、(幕府の場合、市中の火付盗賊改め)に当たった。幕府の場合の職名は、先手鉄砲組、先手弓組の併称。

44-7)「狼狽(ろうばい)」・・うろたえ騒ぐこと。あわてふためくこと。「狼」も「狽」もオオカミの一種で、「狼」は、前足が長く、後足が短いが、「狽」はその逆。常に共に行き、離れれば倒れるので、あわてうろたえるということからきている。

44-9)「ラヌシ」・・「シラヌシ」の「シ」が脱か。

44-9)「風筋(かざすじ)」・・風の吹く方向。風向き。

44-9)「沖掛(おきがかり)」・・沖合に停泊すること。「沖懸」、「沖繫」と同じ。

4410)「リイシリ」・・漢字表記名「利尻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。利尻島。

8月学習 町吟味役中日記 注記 

         

(12-1)「服薬(ふくやく・ぶくやく)」・・服用するために薬を調合すること。また、その調合した薬。調剤。

 *「服」の解字は、舟の両側にそえる板の意味を表す。転じて身につける意味を表す。

 *「服」は、『康煕字典』では、「舟月(ふなづき)」部。「舟月」部に属する漢字といして、「朋」「朝」「朕」がある。現在の漢和辞典は「月」部に統一されているが、元来、「月(つき)部、「肉月(にくづき)」「舟月(ふなづき)」に分かれていた。

 *「服用」を「薬を飲むこと」とするのは日本での意味。漢語では、身につけて用いること。「和漢異義語」という。国訓が漢字一字の字義に和文要素が混入する現象であるのに対し、「和漢異義語」は、漢字二字以上の熟語の語義に和文要素が混入する現象。(古田島洋介著『日本近代史を学ぶための文語文入門 -漢文訓読体の地平―』吉川弘文館 2013

<くずし字>「服薬」の「服」、「薬」。

 *「服」の偏「月」のくずし字

 *「薬」・・「廾(くさかんむり)」+「楽」の「楽」のくずし字は頻出します。

(12-1)「煎薬(せんじぐすり・せんやく)」・・植物の根・実・皮などを煎じて用いる医薬。

漢方薬の主流をなす。

(12-1)「一角(イッカク)」・・北極海に生息するイッカク科の哺乳類イッカクの牙を用いる。

イッカクはイルカの近縁動物で、体調は約5mで、雄の上顎に1対ある歯牙のひとつの門歯が長くなり、細長く2m以上に伸びるため、イッカクと呼ばれている。牙は象牙質で螺旋形になっている。

 イッカクの角は中世ヨーロッパにおいて神秘的な解毒薬として珍重されていた。日本に 

 はオランダ医学とともに江戸時代に伝えられた。

漢方薬ではないが、サイカク(犀角)と同様の解熱・鎮静の効能があるといわれ、粉末にして服用する。

(12-2)「壱分目」・・全体の十分の一。「分目」は、数詞につけて、あるものの全体の量を

 10としたとき、その内のどれだけの量であるかを表わすのに用いる。

(13-6)「風説」の「風」・・普通は2画目は外側から中に入る。

(14-6)「江指(えさし)」・・江差。江刺とも書く、村の成立時期は不明であるが、寛永7(1630)沖の口番所は市中津花町に設置され、交易港となる。続いて上の国に設置されていた檜山(ひのきやま)番所が延宝6(1678)市中中歌町に移転、のち安永元年(1772)江差奉行所と改称、松前藩西在の官府となる。

(14-6)「山之上町(やまのうえまち)」・・はじめ江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(14-7) 「横死(おうし)」・・殺害されたり、不慮の災難にあったりして死ぬこと。天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。

(14-8)「到着」の「到」・・「リ(リットウ)」が、「()」になる場合がある。

(14-8)「下役梅沢由右衛門」・・「下役」は、吟味下役で、町奉行吟味役吟味下役と、役職があった。

(15-2)「小使(こずかい)」・・町奉行の職制で、下代の下に「小使」があった。

(15-4)「今日」の「今」、「日」・・「今」は「て」のようになる場合がある。また、「日」の

 縦画を最後に「ゝ(点)」をつける場合がある。

 (15-4)「手鎖(てじょう・てぐさり)」・・「手鎖」は、罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。

 ①江戸時代の刑罰の一つ。手鎖をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。御咎手錠。

 ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

 ここでは、②か。

(15-45)「旅人宿(りょじんやど)」・・江戸時代、訴訟・裁判のため地方から出府したものが泊まった公事宿(くじやど)の一つ。

(15-6)「四月九日」の「九日」・・「ここのか」か、「ここぬか」か。

 *「九(ここのつ)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)ココラ、またはココタ(許多)の転音か〔東方言語史叢考=新村出〕。

(2)陽数で、一の子は三、三の子は九とするところからコノコ(子子)の義〔志不可起〕。

(3)ココ(此処)でトヲ(十)に迫ったとの意か〔大言海〕。

(4)ココノツ(凝々箇・凝津)の義〔十数伝・紫門和語類集〕。

(5)八方の中央という意から凝の義。また、イヤツ(八)よりココダ(多数)の意か〔和訓栞〕。

(6)コタツ(甲立)の転〔名語記〕。

(7)爰ぞよく熟する時の意からココトス(爰)の転〔名言通〕。

(8)古韓語コ(大)の畳語。本来は多大の義であるが、ヤ(八)を最大数とした時代があったので、更にその上に一つ加えた数九をココと称えるようになったか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(15-8)「雁(がん・かり)の御吸物」・・雁、鴻、鶴、白鳥、などの吸物は、普段は、藩主などが食した。

 *<漢字の話>

①「雁」の部首は「厂(がんだれ)」ではない。

②「雁」の部首は「隹(ふるとり)」

③「隹」を「ふるとり」というのは、「舊(きゅう・ふるい)」(新字体は「旧」)

 に用いられているので、「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。

(16-1)「四月十日」の「十日」・・「とお」か「とう」か。

遠く大きな氷の上を多くほおずきくわえて、づつ通った。」

 *「十(とお)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)トはタル(足)の反ツの転。オはヨコ(横)の反ヨの転。算の位において、十に満ちるとその後は横の算になるところから〔名語記〕。

(2)一から十まで通っているところから、トホル(通)の略トホの転〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(3)トはト(止)の意〔百草露・大言海・日本語源=賀茂百樹〕。上の五と下の五とが合い止まる数であるところからトは止の義。ヲは、陽の一数を含み鎮める意で陽の義〔紫門和語類集〕。

(4)数は九で極まるところからトは外の意〔日本釈名・紫門和語類集〕。十は位の一つであるところから数のト(外)の義〔志不可起〕。

(5)一から数えて遠くにあるところから、トホ(遠)の義〔和句解〕。

(6)トヲ(止尾)の義で、数の終わりの意〔国語の語根とその分類=大島正健〕。

(7)一ツから九ツまでの終わりであるところから、ツヲ(津尾・筒尾)の転〔和訓栞・紫門和語類集・言葉の根しらべ=鈴江潔子・大言海〕。

(8)テヲ(手終)の義〔言元梯〕。

(9)筒尾の義という〔日本語源=賀茂百樹〕。

(10)トヲ(瓊尾)の義〔十数伝〕。

(16-2)「腹痛」の「腹」・・「服」と似ている。

 (16-5)「三関勝蔵」の「関」・・門構えは、「ワ」の形になることが多い。中には「一」になる場合もある。

(17-1)「小書院(こじょいん)」・・一般には、母屋(もや)に続けて建てのばした部屋。小さな書院。松前城での位置は不明。『嘉永癸丑年御役人諸向勤姓名帳』に、「御小書院御次詰」という職務がある。

(17-3)「立石野(たていしの)」・・松前城下の西端、けわい坂を上り、折戸坂を下るまでの間の野原をさす。武四郎は「海岸に大なる自然の弐丈ばかりなる岩石有。立石野の名も是より起るか」(『再航蝦夷日誌』)とする。

(17-3)「ツクシナイ」・・和名は尽内、津久志内。松前城下西方の海浜をさす。折戸の次の集落。『蝦夷日誌』(二編)では、東から西に進んで「小ツクシ川と云、尺一刎也。清水にして甚冷し。越て」として大ツクシ川をあげる。

(17-4)「手限(てぎり)」・・上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(17-4)「市在(しざい)」・・「在」はいなか。松前市中と、近郊。城下には、東在、西在があった。

(17-7)「忠兵衛」の「忠」・・「中」の縦画が、「心」の1画目の点へ繋げるため、「ノ」のように右払いになる場合がある。

魯夷始末書7月学習注記

37-3)「又候(またぞろ)」・・ 「またぞうろう」の変化したもの。なんともう一度。こりもせずもう一度。

37-3)「船高凡弐千四五百石位之異国船」・・秋月著『日露関係とサハリン島』によれば、船号は「ニコライ」号。

37-4)「船頭ケムカシテロム」・・前掲書では、ニコライ号の船長名は「クリンコフストレム」とし、日本側の資料では船長名を「ケムカシテロム」と訛っているとしている。

37-6)「船高凡千六七百石位之異国船」・・前掲書では、船号は「イルトゥイシ」号としている。

37-7)「船将チハチヨウ」・・前掲書では、「チハチョフ」としており、役職を船長代理としている。(船長のPF・ガヴリロフは、インペラートル湾で重症の壊血病に罹っていたとしている。)

37-9・10)「船号チヱエナ、船将ソンレツフ」・・前掲書では、船号を「ドヴィナ」号、船将を「AA・ワシリエフ」としている。

38-1)「アヤン」・・シベリア東部・オホーツク海西岸の港。1844年から露米会社の出張所が移設された。アヤンは、露米会社の前進基地としてオホーツク港、ペトロハブロフスク港、ニコライエフスク港と並んで極東ロシア海域の四大主要港となった。

38-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

383.4)「船高凡弐千六七百石位之異国船」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

38-4,5)「船将アーレルメン」・・前掲書では、「船長IV・フルゲルム」。

38-6)「取片付(とりかたづけ)」・・整理する。きちんとあとかたづけをする。

38-8)「難心得(こころえがたく)」・・理解しがたく。会得しがたく。

38-9)「布恬延(プチャーチン)」・・ロシアの遣日全権使節「エフィミー・ヴァシーリエヴィッチ・プチャーチン」の日本語表記。(『宛字外来語辞典』)

39-1)「一ト先(ひとまず)」・・何はともあれ。さしあたって。

39-2)「首長」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨󠄀所の隊長ブッセ。

39-3)「蜜々(みつみつ)」・・密々。内々に行動すること。また、そのさま。ひそひそ。人に知られないようにこっそり。

39-3)「終夜(しゅうや・よすがら・よもすがら)」・・一晩中。夜どおし。「すがら」は、名詞に付いて、初めから終わりまで続く意を表わす。ずっと。

(39-4)「チユヱナ」・・37-9・10)には「船号チヱエナ」とある。

39-4)「フーレルン」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

39-4)「ヲロトフユ」・・前掲書では「ヲロトフマ」。長崎でオランダ語の通訳を務めたプチャーチンの幕僚「ポシェット中佐」で、日本側資料で「ヲロトフマ」と呼んでいるのは、彼の官名(蘭文和解では「カピタンロイテナント」)の訛であろうかとしている。なお、ポシェット中佐は、プチャーチンからのムラヴィヨフ哨󠄀所撤退の提案を持参した。

39-6)「今井五郎兵衛」・・松前藩士か。天保15年(1844)時点のヱトロフ勤番所の物頭役に「今井五郎五郎」なる人物の名前がみえる(『松前町史』)。同一人物か。

4045)「従(より)

      公儀」・・「従」以下空白で、改行して「公儀」としているのは、律令で定められた公文書の書式の規定の一つである「平出(へいしゅつ)」で、文書中で、尊敬すべき人の名や称号を書くとき、敬意を表すために行を改めて前の行と同じ高さから書きだす書き方をいう。

なお、「平出」のほか、次の書式がある。

「擡(台)頭(たいとう)」=上奏文などの中で、高貴の人に関した語を書く時、敬意を示すため行を改め、ほかよりも一字分または二字分、上に出して高く書く書き方。

「闕(欠)字(けつじ)」=天子・貴人に関係した称号や言葉の上に、敬意を示すため一字または二字分の余白をあける書き方。

「闕(欠)画(けつかく)」=天子や貴人の名と同じ漢字を書く時、はばかってその最後の一画を省く書き方。

40-5)「品々(しなじな)」・・いろいろ。さまざま。

40-5)「掛合(かけあい)」・・談判すること。交渉すること。

40-6)「先着之者」・・堀・村垣一行のうち、本隊に先行してソウヤを出発し、515日シラヌシ着、同20日クシュンコタン着したのは、堀附添では、御徒目付河津太郎三郎。村垣附添では、御勘定評定所留役水野正左衛門、御普請役橋本悌蔵、支配勘定出役矢口清三郎、御普請役間宮鐡次郎、御小人目付松岡徳次郎。(『村垣淡路守公務日記之二』の「支配向其外北蝦夷地廻浦割」)

40-6)「纔(わずか)之里数」・・ほんの少しの道のり。『蝦夷日記』P92の「シラヌシ」の条に、「クシュンコタンより此所(シラヌシ)迄、海陸里数凡三十五り程」とあり、シラヌシ~クシュンコタン間の距離が記述されている。

     このほか、吉田東伍著『大日本地名辞書』の記述により、シラヌシ~クシュンコタン間の距離を浬(海里)で算出すると、55浬となる。

 単位:1里=3.9㎞ 1浬=1.852

      ・シラヌシ~ノトロ(西能登呂岬)間 2里(7.8㎞)≒4浬

      ・ノトロ~クシュンコタン間 51浬(94.5㎞)

      ○シラヌシ~クシュンコタン間 55浬(102.3㎞)

40-8)「暫時(ざんじ)」・・少しの間。しばらく

40-8)「再応(さいおう)」・・ふたたび。再度。

40-9)「ホウチヤチンより之書翰」・・遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の封状の書翰(蘭文と漢文で、後日、和解)で、その概要は、「一、使節は、日米和親条約締結(33日)の告報を得、それにより推量するに、我が境界を定むる処置も容易く成就すべきを察し(アニワ港での境界交渉を中止し、)、魯西亜出張の者共、暫の間、アニワ港を退く様取計候。一、使節が尚又申越候には、内約定の事を了するため、江都の近傍なる一港に至らむとするを日本全権に告白す。」とするもの(『幕末外国関係文書之六』―212として所収)。

     なお、『村垣淡路守公務日記之二』によれば、この時、領主家来宛ての開状の蘭文と魯西亜文の書翰(アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセからアニワ港滞在の日本武官あて)が(三輪持に)渡されたとあり、後日、和解された書翰には、「我等之為に格別用達致し、案内、手伝い、水主働も致したあいぬ人を虐待することのないように」とする旨が記載されていた(『幕末外国関係文書之六』-213として所収)。

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