森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

12月学習 町吟味役中日記 注記

(35-3)「無念(ぶねん)」・・不念(ぶねん)に同じ。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(35-7)「馬形東新町(まかどひがししんまち)」・・現松前郡松前町字豊岡豊岡。近世は松前城下の一町。東片(ひがしかた)町、馬形新町とも称された。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の東部の南側に位置し、西は東上町。文化頃の松前分間絵図には「東新町又片町トモ申」と記され、松前大膳邸などがある。

(35-12)<変体仮名>「もの」の「も」・・字母は、「毛」。「毛」の横画は3画ある。現在のひらがなの横は2画だが、古文書のくずし字は横3画の名残を書くことがママある。

(35-14)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世は松前城下の一町。単に端立町ともいい、羽立はたて町とも称した。大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上の西側にあり、西方は袋町。当町を含む海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(一四四四―五二)頃造立され、のち法華ほつけ寺西隣に移転したという。

(36-3) 「ヲコシリ島」・・奥尻島。菅江真澄は「於胡斯離」を当てている。、「蝦夷日誌」(二編)は「此処へ松前地の咎人は流罪に被仰付候由也。当時は十二、三人計居りけるよし」と流人の居住者があったことが記されている。武田信広がついたとされる地には字初松前(はつまつまえ)の地名が残る。

(36-3)「遠島(えんとう)」・・松前藩の流刑奥尻島遠島について、『松前町史』は、「越山と異なり復興期以降にしか明証を得ることができない」とし、その理由について「藩政初期から越山という松前藩独自の流刑が存在した」とある。遠島者は、「煎海鼠(なまこ)、白星鮑、昆布等の長崎御用俵物生産の労働を課せられていたこともほとんど疑いない」と述べている。なお、奥尻島遠島と類似している「奥尻場所請負人への身柄預け」という奥尻島への追放もあったことが記載されている。

(36-4)「中河原町(なかかわらまち)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中川原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。「蝦夷日誌」(一編)に「川原町のうしろ也。少しの町にして此処は妓楼と妓楼の小宿のミ也。(中略)妓楼ニ到らんもの此処に到りて案内を致させ、または此処ニ妓を呼巫山の夢を結ぶも有。(中略)他商売のもの絶てなし」と記される。これより少し前の天保14年(1843)の藩政改革に際して、茶屋渡世は蔵町と当町の二時刻が定められている。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-5)「大松前町(おおまつまえちょう)」・・現松前郡松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川の下流左岸に位置し、西は同川を挟んで小松前町、東は枝ヶ崎町。両町や唐津内町とともに城下の有力商人が店を構える町であった。大松前川河口は松前湊のうちでも最も澗口の広い船入澗で、おそらく福山館築城以前から重要な地域であったとみられる。松浦武四郎は町名について「法華寺の坂ニ松の有しより起るや」と記し、「昔しは此地海湾に而有りしが、当時は城下第一の繁華の地となりたり。請負人岡田等此所ニ住す。北は横町町会所に到る。南法華寺坂、枝ケ崎ニかゝり、西小松前川(町)ニ境ふ也」と続けている(「蝦夷日誌」一編)。明治33(1900)福山町の一部となる。

(36-13)「金子(きんす)」・・「す」は「子」の唐宋音。金子は金貨幣、銀子は銀貨幣のことで、江戸時代一般に広く用いられた語句であるが、金銀貨幣がようやく一部に流通され出した中世末期から始まるものである。しかし、のちには金子は金貨幣のことを示すのみでなく広く貨幣(おかね)全般のことに拡大されるに至った。なお銀子の語は江戸時代に銀貨幣が中心に動いていた関西で主として使われたものである。

(37-2)「座料(ざりょう)」・・座敷などを貸す料金。席料。

(37-10)「検使(けんし)」・・江戸時代に、一般的には現場の臨検ないしそれを行う役人の称呼。たとえば、刑罰としての武士の切腹や敲刑の執行などに立ち会う者を検使と呼んでいるが、狭義では変死・傷害・出水などに出張する検使をいう。

(38-2)「奥村栄晋(おくむらえいしん)」・・奥村英晋とも。松前藩医。御雇医師。

(38-6)「大塚伴□并藻寄恒齊」・・『蝦夷地醫家人字彙』には、「大塚伴博」「藻寄恒齊」の名がある。ふたりとも、天保3年(1832)、江差に旅人医師として居住しているとしている。

(39-3)「工藤茂五郎」・・『松前藩士名前控』に、「中之間御中小姓」として「工藤茂五郎」の名がある。

(39-5)「羽州温海(うしゅうあつみ)」・・「羽州」は出羽国。「温海」は、現山形県鶴岡市温海。温海岳の西方、日本海沿岸に位置し、地内の南を温海川が西流する。村名は川の中に湧出する温泉で海も温かくなったことに由来するという(温海郷土誌)。浜街道が

通り、その宿駅であった。

(39-6)「口書(くちがき)」・・江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(39-8)「光善寺」・・現松前郡松前町字松城。近世の松前城下寺てら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると法幢ほうとう寺の南、龍雲りゆううん院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2二年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1603)(福山秘府)。元和7年(1621)五世良故が後水尾天皇に接見した折宸翰竪額ならびに綸旨を与えられたと伝え、これを機に松前藩主の菩提所の一つに列することになった。文化5年・天保9年(1838)の二度にわたる火災の都度再建(寺院沿革誌)。寺蔵の永代毎年千部経大法会回向帳によれば、永代供養のため五〇〇余人の城下檀信徒が加わっており、そのうちの約二〇〇人が商人であった。明治元年(1868)に正保2年(1645)から支院に列していた義経山欣求ごんぐ院を合併(寺院沿革誌)。同六年の一大漁民一揆である福山・檜山漁民騒動の際正行しようぎよう寺とともに一揆勢の結集の場となった。朱塗の山門・仁王門は宝暦2年(1752)の建立。

(39-8)「江指観音寺」・・現檜山郡江差町字泊町。字泊町にある真言宗寺院。山号白性山、本尊千手観音。嘉吉元年(1441)京都仁和寺真光院僧正の徒弟旭威が泊村に創建したと伝える(夏原家文書)。一時廃寺となったが、永正6年(1509)蠣崎光広の次男高広(剃髪し永快)が中興し、松前阿吽あうん寺の末になったという(江差町史)。しかし「福山秘府」では泊村観音寺は元和元年(1615)の草創、阿吽寺末とある。「蝦夷日誌」(二編)によると、当寺は蝦夷地太田山おおたさん(現大成町太田神社)の別当寺で、太田山に参詣する者は当寺でお札を受けたという。安政年間(一八五四―六〇)伽藍を焼失、その後再建された。円空仏と木食仏が安置されている。

(39-9)「答書(とうしょ)」・・問い合わせに対する返答の書状。こたえの書状。返事。

 

 

魯夷始末書12月学習注記

56-6)「番人之程」・・P55-8「番人之詮」との比較から、「詮(かい)」と書くところを「程」としたか。「詮(かい)」は、「甲斐」で、価値、値打。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     なお「埒」は馬場などの囲いの意で、「不埒」は、埒のあかないことから転じて、事が解決しないこと。決着のつかないこともいう。

     また、古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は、競馬場など、内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

56-8)「生来(しゅらい・せいらい)」・・生まれたときからの性質や能力。また、生まれつき。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。異本は「感伏(かんぷく)」とする。感心して心から従うこと。ひどく感心すること。文脈から「感伏」の方が、合っているか。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

57-1)「承引(しょういん・うけひき)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

57-1)「承引(しょういん)」・・聞き入れること。引き受けること。承諾。

57-2)「外三人」・・シトクランの息子の数は、分かち書き(P57-9)では、惣領、、次男、三男の三名となっているが、外三人とすると、合わせて四人となり、数に不都合が生ずる。「三人」は、「二人」が正しいか。

57-2)「クシユンナイ」・・日本語表記地名「久春内」。「楠内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「東海岸なる真縫(マアヌイ)に至る横断路の基点にして、川に沿ひて上り、スメチヤノを経て、トドロキを越え、真縫川の谷に通ず。~此の間は一の地峡を成し、幅僅に七里となる。~南方トマリオロに至る七里半、北方ライチシカに至る十四里半。鰊漁業の一中心地。」とある。

57-2)「マカヌイ」・・「マアヌイ」、「マアヌエ」とも。日本語表記地名「真縫」。樺太東海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「本島(樺太)の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホツク海に濱す。」、「此地方は、古来名高き漁場なるのみならず、真縫は西海岸に越ゆる岐路として名高く、間宮(林蔵)氏は、此より地頸を横断して久春内に出でたり」とある。

57-2~3)「クシュンナイより山越致し、東浦マカヌイ江出」・・西海岸のクシュンナイ(久春内)~東海岸マカヌイ(真縫)は、サハリン島の最狭部

57-3)「搔送船(かきおくりぶね)」・・櫂(かい)で水を搔いて進める舟。ここでは、アイヌの板綴舟か。一方、搔送船に対比される舟として「押送船(櫓を押して進む船)~和船」がある。

57-3)「水先案内」・・船舶が港湾に入るとき、また、内海や運河などの水域を通航するとき、その船に乗り込み、また、水先船で正しい水路を案内すること。

57-4)「甚助」・・異本は「忠助」。

57-4)「無謂(いわれなく)」・・物事をなすのに、正当な根拠、理由がないこと。間違っていること。
57-5)「無制(むせい)」・・掟のないこと。定がないこと。法度がないこと。

57-6)「無訖度(きっとなく)」・・「訖」は、「屹」の誤用か。厳しくないこと。やさしいこと。

576.7)「廻浦之節~案内仕」・・シトクランが案内したのは、支配勘定上川傳一郎、同下役長谷川就作、御普請役代り津田十一郎、同福岡金吾、松前藩士今井八九郎。

     このうち、上川らの幕吏は「ホロコタン」まで、今井八九郎は更に北の「ナツコ」まで探索。

*「ホロコタン」・・日本語表記地名「鰭尾(ビレヲ)」で、『大日本地名辞書』には、「北緯五十度なる国境を距る、北方約二里の海岸」、また、今井八九郎の『北地里数取調書』では、「ホロコタン 此所夷家一軒、シメレンクル(スメルンクル)家五軒、~(略)~此所よりロモーまで山越ニ道有よし」とある。

57-9)「惣領(そうりょう)」・・ここでは、家を継ぐ子。嗣子。特に長男または長女。

57-10)「生成(うまれなり)」・・「成(なり)」は、動詞「なる(成)」の連用形の名詞化で、「生(な)ること。」、「生(お)出でること。」の意。「生成」の意は、生まれた時から。生れ付き。なお、異本は「生来」につくる。

57-10)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり

58-1)「曾祖父(そうそふ)」・・祖父または祖母の父。シトクランの直系尊属の系図は、曾祖父(ヨーチテアイノ=ヤウチウテイ=揚忠貞)―祖父(サヱンケアイノサン)―父(シロトマアイノ)―本人(シトクラン)―子(惣領サヱンケアイノ、次男アヱブ子、三男カンチユマンテ)。

58-2)「官人(かんにん、かんじん)」・・官吏。役人。日本の官制では、①諸司の主典(さかん)以上の役人。②近衛将監以下および院司の庁官などの総称。③検非違使庁の「佐」と「尉」の役人。

58-2)「副都統(ふくととう)」・・中国(清)の官名。清代の八旗制下の各旗の長官(満州語ではグーサ・イ・エジュン)である「都統(漢字)」の下に、都統を補佐するために二人置かれたのが「副都統(満州語メイレン・イ・エジュン)。いわゆる「副長官」。なお、「都統」は、主として兵馬のことをつかさどった。清初の1714年(康煕53年)三姓協領衙門の設置が上奏され、1731年(雍正9年)には三姓地方副都統の設置が上奏され、翌年には副都統が設置され、黒竜江下流、松花江中流域及び沿海州などを統括した。

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魯夷始末書11月学習注記    

        

53-3)「越年(えつねん・おつねん・としこし)」・・漱石は、『三四郎』で「越年(ヲツネン)の計(はかりごと)は貧者の頭(コウベ)に落ちた」と、「ヲツネン」とルビをしている。また『北海道方言集』は、「出稼ぎ人が正月になっても帰宅しないこと」を「おつねん」としている。

     *<雑学>「越年(おっとし・おとし)」・・節分の夜の火祭りを「おっとし」「おとし」という地方がある。節分が旧正月に近く、「節分正月」ともいわれることから、節分の行事に「越年」があるといわれている。

53-4)「以堂し(いたし)」・・「以」は「い」、「堂」は「た」の変体仮名。ちなみに、「堂」

     は、「トウ」(漢音)、「ドウ」(呉音)で、「た」という読みはない。なぜ変体仮名の「た」かといえば、「堂」の旧仮名遣いが「タウ」「ダウ」と表記することによる。

 53-5)「鉄炮(てっぽう)」・・「炮(ぽう)」の偏は「火」、旁の部分は「巳」。なお、「石偏」の「砲」の旧字体の旁も「巳」。新字体は「己」。

     <漢字の話>「巳」と「己」

    「包」は、常用漢字(新字体)になって構えの中が「巳」から「己」に変わった。

    常用漢字に採用されて「巳」が「己」に変わった字・・包、選、遷(遷都など)、抱、、泡(あわ)、砲、胞、飽(飽食など)

    常用漢字に採用されていないので「巳」のままの字・・匏(ひさご)、咆(ほ)える、枹(ばち)、疱(ほう。疱瘡など)、祀(まつ)る。鉋(かんな)、雹(ひょう)、鞄(かばん)、巷(ちまた)、撰(撰者、撰集など)、巽(たつみ)、庖(庖丁など)、炮(あぶ)る、鮑(あわび)など。

    常用漢字も旧字体も「己」のままの字・・改、忌、紀、配、妃、記。

    旧字体は「卩」であったが、「己」に変わった字・・巻、圏

53-7)「明払(あけはらい)」・・連用形。家や城などを立ち退いて他人に渡すこと。明渡すこと。

53-7)「空虚(くうきょ)」・・何もないこと。から。建物や部屋などに人のいないこと。また、人を立ち去らせてからにすること。

53-8)「安危(あんき)」・・安全と危険。安全であるか危険であるかということ。

53-9)「ナイフツ」・・「ナエブチ」、「ナエブツ」とも。日本語表記地名「内沸」、「内淵」、「苗淵」とも。樺太東海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、「柏(相とも)濱の北西一里、内沸河口に在る漁村なり。大泊、豊原より、多来加湾岸なる内寄、静香に通する路にあたる。」、「此地、早くより邦人に知られし夷村なり、元禄郷帳を始めとして、~(略)~、文化五年(1808)間宮(林蔵)氏の第一回探検図にも記入せられる。」とある。

54-1)「不念(ぶねん)」・・考えが足りないこと。不注意なこと。江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。軽過失を意味する「不斗(ふと)」に対する語。例文としては、「吟味の上、不念之儀於有之は、一等重く可申付事」となる。

54―1)<くずし字>「不念無之」の「無」

54-1)「国地(こくち)」・・国の地域中、島から本土をさしていう語。島に対する本土。

     ここでは、カラフトから見て蝦夷地のこと。

54-2)「凌方(しのぎかた)」・・「しのぎ」は、動詞「しのぐ」の連用形の名詞形。困難なことや苦しみなどを我慢して切りぬけること。また、その方法や手段。

     また、「方」は、手段。方法。やり方。

54-2)「心付(こころづき)」・・連体形。気がつくこと。分別や才覚が生じること。

54-3)「殊勝(しゅしょう)」・・けなげなさま。感心なさま。神妙な様子。

54-3)「和人(わじん)」・・本来、昔、中国の立場からの日本人の称。ここでは、アイヌの人(蝦夷人)と対比した日本人の称。

54-4)<見せ消ち>「より」を「江」に訂正・・「より」を「ヽ」で消し、右に「江」とした。

54-4)「随身(ずいしん)」・・つき従うこと。随従すること。

54-5)「危踏(あやぶみ)」・・連用形。危険だと思う。不安で気がかりに思う。

54-6)「畢竟(ひっきょう)」・・つまるところ。ついには。つまり。結局。元来は、梵語atyanta の訳語。「畢」も「竟」も終わる意)仏語。究極、至極、最終などの意。

    <くずし字>①「畢竟」の「畢」は脚部が「十」、②「異国」は「異」脚部が「大」

    ③「霊」は、脚部が「火」

54-6)「守護(しゅご)」・・守ること。警護。守備。

54-8)「奇特(きとく・きどく)」・・神仏などの不思議な力。霊験。奇蹟。明治頃までは「きどく」か。現代は「きとく」がふつう。

55-2)<くずし字>「竹蔵」の「竹」・・「行」に見える。「竹」と「行」の違いは難しいが、人名では、「竹」と読む場合が多い。

55-8)「詮(かい、せん)」・・「甲斐」とも。ある行為に値するだけのしるし、効き目、効果。代価。代償。

56-6)「番人之程」・・「程」は、物事の度合。程度。P55-8「番人之詮」との比較から、「詮」と書くところを「程」としたか。

56-6)「不埒(ふらち)」・・道理にはずれていて非難されるべきこと。法にはずれていること。けしからぬこと。「不束」に同じ。用例文として「是者、御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可成と見込之分は、不束或は不埒と認」。

     (56-8)「丈夫(じょうぶ、じょうふ)」・・身に少しの病患、損傷もなく、元気があるさま。勇気ある立派なさま。昔、中国の周の制で、八寸を一尺とし、十尺を一丈とし、一丈を男子の身長としたところからいう。

56-7右)「ナイヨロ」・・「ナヨロ」とも。日本語表記地名「名寄」。樺太西海岸のうち。吉田著『大日本地名辞書』には、安政元年(1854)(堀付添の)鈴木尚太郎(重尚。号茶渓。後箱館奉行支配組頭)著『唐太日記』を引用し、「九(久)春内より浜伝ひ二里餘にて、ナヨロに着し、当所乙名シトクランケの家に泊す。此シトクランケは、楊忠貞といへる者の曾孫なるよし」と記述している。

56-8)「力量(りきりょう)」・・物事をなす力の程度。能力、腕前、器量。

568/9)「奸智(かんち)」・・奸知、姦智とも。わるがしこい才知。悪知恵。

56-9)「弁舌(べんぜつ)」・・ものを言うこと。特に、すらすらと上手にいうさま。

56-9)「威服(いふく)」・・権力や威力をもって服従させること。

5610)「ヲロノフ」・・ロシアの陸軍中尉。ネヴェリスコイのクシュンコタン上陸に先立って、6人の部下とともに、樺太の状況を偵察するため、樺太西海岸北緯51度付近に上陸し、クシュンコタンに向けて南下の途中、ナヨロのシトクランケのところに立ち寄った。

5610)「山韃船(さんたんぶね)」・・『北夷談 三』(松田伝十郎著)によれば、「舟は、五葉の松を以って製造し、舟の敷は、丸木を彫(ほる)なり。釘はことごとく木釘なり。故に大洋或は風波の時は、乗り難し。図左のごとし。」とある。

11月学習 町吟味役中日記 注記

(30-1)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出を禁ずるもの。「押込」を「おしこみ」と読むと、「人家に押し入って強盗すること。また、その賊。強盗。」の意味になる。

(30-2)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来。

(30-4)「面体(めんてい)」・・かおかたち。おもざし。面貌。面相。

 <漢字の話」「体(テイ)」・・「体」を「テイ」と読むのは、漢音。「タイ」は呉音。

  「体裁(ていさい)」「世間体(せけんてい)」「風体(ふうてい)」「ほうほうの体(てい)」「あり体(てい)」「体(てい)のいい~」「体(てい)たらく」など。

(30-5)「売渡(うりわたし)」・・売買の対象となっている物を売って相手に渡す。⇔買い受ける。

 <漢字の話「売」>・・①テキスト影印は、「売」の旧字体「賣」。②部首は、新字体の「売」が「士(さむらい)」部、旧字体の「賣」は、「貝」部。③「賣」の解字は「出」+「買」「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。④新字体の「売」は、「賣」の省略体の俗字。

(30-6)<くずし字>「差出」の「出」・・影印は、「山」+「〻」(繰り返し記号)。ほかに「炎」も「火」+「〻」。また、「品」、「州」、「森」、「轟」、「澁」、「姦」、「傀儡」の「儡」、「磊落」の「磊」などの脚部が、繰返し記号になる場合がある。

(30-6)「売徳(うりどく)」・・売得。物を売ることによって利益を得ること。また、その利益。影印の「売徳」の「徳」は当て字。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の用例に

  <高野山文書‐(年月日未詳)〔江戸〕高野山衆僧法度写(大日本古文書六・一二一九)「衆僧山林入薪等取売徳仕間敷事」>を挙げている。

(30-7)「地蔵町(じぞうまち)」・・函館市末広町・豊川町・弁天町・大町・内澗町・当町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋立てられていった。内澗町寄りから一―六丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町二―三丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、六丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。

(30-8)「手代(てだい)」・・商業使用人の一つ。番頭とならんで、商人の営業に関するある種類または特定の事項について代理権を有するもの。支配人と異なり営業全般について代理権は及ばない。現在では、ふつう部長、課長、出張所長などと呼ばれる。

(31-1)「山之上町(やまのうえちょう)」・・現函館市弥生町。山ノ上町・山の上町・山上町とも記す。「蝦夷日誌」(一編)が「山の上」は東を法華寺(実行寺)、西は神明社、北は裏町(大黒町)の坂を限りとする「此処の惣名也」とし、「箱館夜話草」には「山ノ上町といふは惣じて神明宮の通りより芝居町此辺までをさいていふ処なり」とあるように、元来は箱館町の表通り(弁天町・大町の通り)の上手(山手)、函館山北東面の小高い山裾一帯に開けた新開地をいった。小名を含む広義の山之上町は文化年間(一八〇四―一八)に南部出身の大石屋忠次郎が芝居小屋を設けたのを契機に、茶屋などが集まる遊興地となり、近世末には山ノ上一―二丁目から常盤町・茶屋町・坂町にかけての一帯に山ノ上遊廓が形成された。

(32-1)「深泊り」・・P32の注記参照。

(32-6)「代銭(だいせん)」・・代金。なお、「代銀」は銀目で支払う代価。銀本位であった上方地方で多く用いられた。

(32-7)「不届至極(ふとどきしごく)」・・江戸時代、死罪に処すべき判決の末尾に書く罪名に冠して用いたことば。

(32-78)「可被仰付処(おおせつけ・らる・べき・ところ)」・・

  書下しは「可仰付処」。

  組成は、下ニ動詞「仰付(おおせつく)」の未然形「仰付(おおせつけ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の終止形「被(らる)」+推定の助動詞「可(べし)」の連体形「可(べき)」+名詞「処(ところ)」。

(32-8)「入墨」の「墨」・・影印は2字に見えるが縦長の「墨」1字。脚の「土」はひらがなの「ち」のようになる場合がある。

(32-9)「馬形東上町(まかどひがしうえまち)」・・現松前郡松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川と伝治川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、段丘の北側は馬形上町、南は東中町、東は東新町。

(32-11)「身元請(みもとうけ)」・・雇われて働く者の身元を保証すること。

(32-12)「トラメキ町」・・現松前郡松前町字月島・字朝日。「寅向」・「とらめき」とも表記される。ほか登良女喜・度良目木・戸羅目木などの文字を当てる。伝治沢川から及部川に至る海岸沿いの地域にあり、西は泊川町。当町は天明―寛政期に町立てされたとみられる。文化6年(1809)の村鑑下組帳(松前町蔵)では伝治沢町と合せて家数一二七・人数四一四。また「とらめき町、下は水かふり、平磯にて町裏地所無之、町屋東裏は崖之下ニ而、夫より泊川町際ニ至而は地面無之、崖下往還壱筋計も狭く」と記され、崖際に立地して目前に海が迫り、地形的に恵まれていない様子がわかる。「蝦夷日誌」(一編)には「トラメキ」として「此並川向也。人家より足軽多く有。此上に平野有。野畜の馬多し」とある。

(32-12)「逗宿(とうしゅく)」・・逗宿は足を止めて宿をとること。

(32-15)「不束(ふつつか)」・・江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合には「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

*聞訟秘鑑一口書詰文言之事(古事類苑・法律部三一)「御叱り、急度御叱り、手鎖、過料等に可 成と見込之分は、不束或は不埒と認、所払、追放等にも可 成者は、不届之旨と認」

*「不束或は不埒」・・御叱り、急度御叱り、手鎖、過料。

*「不届」・・所払、追放。

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古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年1114日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書10月分学習注記


49-2)「年礼(ねんれい)」・・年賀の礼。年始。藩では、松前藩では、元旦に藩主が八幡宮に参り、家臣が登城し年賀礼が行われた。

49-3)「村役人」・・江戸時代、村方三役の名主、組頭、百姓代(東国の称。西国では、庄屋、年寄、百姓代)の総称。

49-3)「麻上下(あさかみしも)」・・麻裃とも。近世の武家の礼服。麻布で製した裃で、肩衣(かたぎぬ)と袴を同質、同色の布で作り、裏をつけない。近世後期は、絹との交織もあった。小紋が多く、無地、子持筋(こもちすぢ)もある。紋所は、肩衣に三か所、袴に一か所つく。継上下がややくだけた体であるのに対し、麻上下は、本格的な正式の服である。式日その他威儀を正す折に用いられた。町人の葬式の折にも用いられる。

49-6)「ナイホ」・・「ナイボ」、「チイカエナイボ」とも。日本語表記地名「内保」。樺太西海岸のうち。『大日本地名辞書』に、「ウッス岬南隣の漁場にして、野田寒の北六里、今此處に駅逓の設あり」とある。

49-6)「トルマイ」・・トルマエとも。日本語表記地名「鳥舞」。樺太西海岸のうち。

49-6)「サイカクシ」・・人名。安政六年(1859)、北蝦夷地西浦、富内詰の足軽倉内忠右衛門が、島内を見廻りした際の随従者の一人として、「平土人サイカクシ」の名が見える。*「富内」・・樺太西海岸のうち。西富内、真岡とも。アイヌ語地名エンルコマフ、エンルモコマフとも。箱館奉行所の御用所があった。

49-8)「アサナイ」・・「アサンナイ」とも。日本語表記地名「麻内」。樺太西海岸のうち。

49-10)「掻送(かきおくり)」・・櫂(かい)で水を掻いて舟を進める。

4910)「時節後(じせつおくれ)」・・適当な時期に遅れること。季節にはずれること。

50-1)「不束(ふつつか)」・・「ふとつか」の転。「つか」は、接尾語。①太くたくましいさま。②ぶかっこう。不細工。③②から転じて、物事の整っていないさま。礼儀を知らないさま。無粋なさま。

江戸時代、吟味筋(刑事裁判)の審理が終わり、被疑者に出させる犯罪事実を認める旨の吟味詰(つま)りの口書の末尾の詰文言の一つで、叱り、急度叱り、手鎖、過料などの軽い刑に当たる罪の場合に、「不束之旨吟味受、可申立様無御座候」のように詰めた。

50-4)「心底(しんそこ、しんてい)」・・心の奥底。本心。

50-5)「帰服(きふく、きぶく)」・・心を寄せてつき従うこと。なお、「きふく」と「きぶく」には、使い分けがあったらしい。「きふく」は、抵抗をやめて服従すること。支配下に入ること。降参。「きぶく」は、仏語で、神仏、高僧などをあがめて、心から信頼をよせること。心服。帰依におなじ。

50-6)「共与篤与」の「与(と)」・・古文書で、日本語の助詞「と」に「与」を当てる場合がある。「与」は、変体仮名ではなく、漢文に起源する文字。漢文の助辞(助字)で、漢文訓読の際、「と」と訓じることから、「与」を日本語の助詞「と」とした。

     「AB」(AとBと)

     *「富与貴、是人之所欲也」(『論語 里仁』)

      (フウとキとは、是人の欲する所なり)

       富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。

50-7)「賞誉(しょうよ)」・・称誉とも。ほめたたえること。ほめること。称賛。

50-6)「奇特(きとく)」・・古くは「きどく」。心がけや行ないが普通よりもすぐれていて、ほめるべきさま。負担がかかるようなことを、すすんで行なってほめるべきであるさまにもいう。殊勝。感心。

50-8)「リヤトマリ」・・「リヤコタン」とも。日本語表記地名「利家泊」、「利家古丹」。樺太南海岸のうち。

50-8)「クリウヱントマリ」・・不詳。

50-9)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「八虎泊」、「母子泊」、「函泊」とも。樺太南海岸のうち。

50-9)「ヲハヱタイ」・・「ヲフユトマリ」か。日本語表記地名「雄吠泊」、「小冬泊」か。樺太南海岸のうち。

5010)「シヽユヤ」・・「ヒシユヤ」、「スヾヤ」とも。日本語表記地名「鈴谷」。樺太南海岸のうち。

5010)「ホロアントマリ」・・「ポロアントマリ」とも。日本語表記地名「大泊」。樺太南海岸のうち。

5010)「チイトモ」・・「ナイトモ」、「ナエトモ」か。日本語表記地名「内友」。

51-1)「チナヱホ」・・「チナイボ」とも。樺太南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、日本語表記地名「三之澤」地区の説明の中に「チナイボ」の記述があり、「チナイポ、此に清水平三郎の持小屋あり、」とある。

51-1)「コシフイ」・・不詳。

51-4)「海潮(かいちょう)」・・海水。海水の流れ。

51-4)「骨折(ほねおり)」・・連用形。精を出して一生懸命する。尽力する。

51-8)「清水平三郎」・・文化元年(1804)松前生まれ。安政元年(1854)春松前藩御徒士席、同年七月御目見得以上に抜擢。安政三年(1856)二月箱館奉行組同心御抱入、同年六月箱館奉行支配調役下役。

5110)「差働(さしはたらき)」・・「差(さ)し」は、接頭語。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

5110)「山靼(さんたん)」・・「山丹」、「山旦」とも。「山旦人」というのは、アムール河下流域住民の総称であるが、サハリン島に渡来したのはキジ湖周辺の「オルチャ(ウリチ)」人で、ギリヤーク人が彼らのことを「ジャタン」と呼び、それをサハリン・アイヌたちが、「サンタン」と訛ったものという(『東韃紀行』)。山旦人が中国の産物をサハリン島にもたらしたことから、「山旦貿易」として知られ、

     松前藩は、交易品のうち、蝦夷錦、山旦切、青玉(虫巣玉、樺太玉)などを松前名物として、千島経由のラッコ皮、鷲羽、熊胆などととともに「軽物」と称して売買を独占した。のちには、山旦人のシラヌシ渡来が普通になり、北海道からもサハリンに赴くアイヌが多くなり、その結果、宗谷アイヌの山旦人への多額の借財問題も生じた。なお、山旦品に対しては、毛皮類のほか、米、酒、煙草、古衣、鉄器、椀その他日本の家事用品が交易された。(秋月著『日露関係とサハリン島』から抜粋)

52-2)「壱人立(ひとりたち)」・・独立のこと。他からの援助を受けないで、自分だけの力でやっていくこと。行動をともにする仲間や味方のないこと。ひとりぼっち。

52-2)「国威(こくい)」・・国の威力。一国またはその国を治める威力や権威。

52-4)「附添候役人共」・・松前藩から、堀に付添った江戸留守居役田崎与兵衛らと村垣に付添った町奉行新井田玄番(嘉藤太)らを指すか。

52-5)「万端(ばんたん)」・・すべての事柄。万般。

52-5)「用弁(ようべん)」・・用事をすますこと。用の足りること。「用便」。

52-6)「差配(さはい)」・・とりさばくこと。とりしきること。

52-9)「林右衛門」・・伊達林右衛門。代々「林右衛門」を通称とする。栖原と並称せられる松前の富商。場所請負人。文化六年(1809)栖原屋と共に北蝦夷地場所を請負う。本文書時は、三代目。なお、安政元年(1854)、松前藩永世士席に列し、次いで勘定奉行となる。

52-9)「六右衛門」・・栖原六右衛門。場所請負人。栖原家(本家は代々「角兵衛」を通称とする。)は、松前店の支配人に代々、「栖原」の姓を名乗らせた。本文書時は、八代目で、本姓は、川村六右衛門。なお、安政元年(1854)、松前藩において、一代士席に班し、先手組格に列せられる。

 

10月学習町吟味役中日記 注記

                        

(24-1)格助詞「へ」・・「え」と発音する。現代かなづかい(昭和211116日、内閣訓令第八号、内閣告示第三三号で示された)は、部分的には、それまでの伝統的な表記意識や方言の語音などを考慮したため、歴史的仮名遣いを受けついでいたり、許容していたりするところがある。それらの例外や許容に助詞の「へ」がある。本則は、「へ」と書くが、「え」を許容する。その他、①助詞の「を」はもとのままとし、②助詞の「は」ももとのままに書くのを本則(「わ」を許容)とする。

(24-2)「預ケ」・・罪科のある人を他にあずけること。

 ()江戸時代、未決囚を預けること。吟味期間中、重罪人は入牢させたが、軽罪のものは公事宿(くじやど)、町村役人、親類などに預けられた。

()江戸時代の刑罰の一つ。罪人をある特定の者に預けて監禁するもの。武士、庶民共に科せられ、預かり主が誰であるかにより、大名預、頭(組頭、支配頭)預、町預、村預、所預、親類預などの区別がみられた。終身預けることを「永く御預け(永預)」という。

()江戸時代、遠島または追放の刑を申し渡された幼年者を、刑の執行される成年(一五歳)に達するまでの期間預けること。溜預と親類預があった。

(24-5)「揚屋入(あがりやいり)」・・揚屋に拘禁されること。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

  *「揚屋(あがりや)」・・江戸時代の牢屋の一つ。江戸小伝馬町の牢屋敷に置かれ、御目見(おめみえ)以下の御家人、陪臣(ばいしん)、僧侶、医師などの未決囚を収容した雑居房。西口の揚屋は女牢(おんなろう)といって、揚座敷(あがりざしき)に入れる者を除き、武家、町人の別なく、女囚を収容した。テキストにあるように、各藩でも牢屋を揚屋(あがりや)と呼んだ。

  *「揚屋」を「あげや」と呼ぶ場合・・近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。

(24-7)「牢舎(ろうしゃ)」・・牢舎人。牢屋に入れられている者。囚人。囚徒。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「牢舎」の補注に<和製漢語か。幽閉・禁獄の意味で用いられ、古くは「籠舎」「籠者」と表記された。「牢舎」「牢者」などの「牢」の字は、後に新しい語源解釈によって与えられたもの。>とある。

(24-8)「再応(さいおう)」・・同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(25-1)「御目録(おんもくろく)」・・進物の時、実物の代わりに、仮にその品目の名だけを記して贈るもの。

(25-4)「ヲタルナイ」・・漢字表記地名「小樽内」のもととなったアイヌ語に由来する地名。「ヲタルナイ石カリの境目」であった(廻浦日記)。コタン名のほか、場所(領)や河川の名称としてもみえる。「おたる内」(「狄蜂起集書」・元禄郷帳・享保十二年所附)、「オタルナイ」(蝦夷志)、「おたるなへ」(寛政五年「松前地図」)、「ヲタルナイ」(武藤「蝦夷日記」)、「ヲクルナイ」(蝦夷拾遺)などとあり、「於多留奈井」(支配所持名前帳)、「尾樽内」(蝦夷商賈聞書)、「砂路沢」(蝦夷喧辞弁・行程記)、「小樽内」「小垂内」(観国録)などの漢字表記がみられる。

(25-4)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名・コタン名のほか河川名としても記録されている。

  *「ユウブツ越」・・勇払から勇払川を舟でさかのぼり、ウトナイ湖、美々川を経て陸路で千歳に入り、さらに舟で千歳川を経て石狩川に達するルートで、「シコツ越え」とも称し、東西蝦夷地を結ぶ重要な道であった。

  *「アイヌの丸木舟」・・昭和41(1966)、沼ノ端の旧勇払川右岸から、5艘の丸木舟と櫂、棹などの船具が発掘された。舟の長さが7~9メートルの大きさで、材料はカツラやヤナギが使われており、昭和42(1967)年には北海道の指定文化財になっている。現在苫小牧市美術博物館に展示されている。

(25-7)「奉紙(ほうし)」・・奉書紙(ほうしょがみ)。楮(こうぞ)を原料とする厚手、純白の高級紙。室町時代から各地で漉(す)かれ、主に儀式用に用いられた。

(25-9~26-1)「大儀料(たいぎりょう)」・・骨折り賃。苦労してやったことに対する報酬。

(26-5)「越後笹口村」・・現新潟県胎内市笹口浜。西は日本海に面し、東南一帯は砂丘が広がる。東は高畑(たかばたけ)村、東南は山王(さんのう)村に接する。村上藩領に属し、宝永6年(1709)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。

(26-7)「卯(う)」・・天保2(1831)

(26-7)「唐津内町(からつないまち)」・・近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内の地名について上原熊次郎は「夷語カルシナイなり。則、椎茸の沢と訳す。昔時此沢の伝へに椎茸のある故に地名になすなるべし」と記す(地名考并里程記)。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(26-8)「𥿻(きぬ)」・・国字。絹に同じ。旁の「旨」に「うるわしい」の意味がある。

(26-8)「抱」・・「把(は)」か。綛(かせ)をたばねてくくったものを数える単位。生糸の捻り造りしたものを三〇綛ずつ木綿の括糸で三か所結束したものをいう。生糸一俵(約六〇キログラム)は把二八〜三〇個に相当する。

(26-9)「積り」・・みつもり。予算。また、計算

(26-10)「死罪にも被仰付候処、格別之以御憐愍」・・『松前町史』には、「復領期の松前藩においては、本来死刑に処すべき犯罪者であっても、これに死刑判決を下すことを極力忌避する法規範、換言すれば死刑を軽減することが法習慣となっている独自の刑罰体系が存在していたと見做してよかろう」とある。

(26-10)「憐愍(れんびん)」・・なさけをかけること。憐憫・憐閔とも書く。

(26-11)「墨入百擲(すみいれひゃくたたき)」・・江戸時代の刑罰の一つ。入れ墨の刑に付加して罪人の肩、背などを鞭打つもの。普通「擲」は「敲」と表記される場合が多い。

  *「入墨」・・腕、足、額などに墨汁をさし入れて犯罪人の目じるしとするもの。江戸時代には、追放、叩きなどの刑に付加して行なわれた。

  「幕府の遠国奉行の入墨はみな腕に施す。・・藩では・・額に彫るのが多い。・・入墨のあり所およびその形によって、どこで入墨されたかがすぐわかるようになっていた」

  (石井良助著『江戸の刑罰』中公文庫1964 次ページの図も)

 *<漢字の話>「擲」・・①漢音で「テキ」、「投擲競技」など。呉音で「ジャク」。「チャク」は慣用音(中国の原音によらない誤読から生じた日本での漢字音)。

②訓読みでは「うつ」「なげる」「なぐる」「たたく」「はねる」「ふるう」「なげうつ」「ほうる」などがある。

  「主人は此野郎と吾輩の襟がみを攫(つか)んでえいと計りに縁側へ擲(たた)きつけた」(漱石『吾輩は猫である』)

  ③「打擲(ちょうちゃく)」・・打ちたたくこと。なぐること。特に、御成敗式目では刑事犯罪の一つに数えられている。「打」を「チョウ」と発音するのは呉音。「シャク」は慣用音。「呉音」+「慣用音」の例。

(26-11)「渡海(とかい)」・・『松前町史』には、「死刑にかえて現実に下された判断、すなわち越山・遠島・渡海にも松前藩の刑罰体系の独自性を見出すことができる」とある。

  さらに、「越山・遠島が百姓もしくは無宿者に適用されるのに対し、渡海は旅人に適用される点であり、例外や不明例は少ない」としている。

(27-3)「同断(どうだん)」・・「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。また、そのさま。同然。同様。「理(ことわり)」(理由。わけ。よってきたるゆえん。また、理由などをあげてする弁明。)と同じ訓の「断(ことわり)」の音をあてた造語。

(27-3)「琴壱面」・・普通、「張 (ちょう) 」は琴を数える語。「調 (ちょう) 」の字をあてることもある。弦を張った楽器であるため「張り」でも数える。「面」は琴・太鼓・琵琶 (びわ) など、表面部分で演奏する日本古来の楽器を数える語。

(27-4)「迄(まで)」・・「迠」は「迄」の誤字(『漢語林』)。しかし、「ショウ」と読み、

「ゆく(行)」の意味がある漢語。古文書にある「迠」を翻刻する場合、「迄」の誤字と見て、

「迄」とする。

(27-4)「そして」・・影印は、連綿体(行草書や、かなの各文字の間が切れないでつらなって書かれたもの)という。

(27-6)「最上(もがみ)」・・最上地方。最上郡。郡域は元和8年(1622)の最上氏改易と相前後して定まったもので、律令制下では当初陸奥国最上郡、のち出羽国最上郡の郡域に含まれ、仁和二年(八八六)出羽国最上郡から村山郡が分れて以降は(「三代実録」同年一月一一日条)、近世初期まで村山郡のうちとして推移した。

(27-6)「日和田村(ひわだむら)」・・現山形県寒河江市日和田。箕輪村の西、葉山の南東麓に位置し、西は慈恩寺の所在する醍醐に続く。中世には檜皮とも記し、慈恩寺領があり寒河江庄(北方)に属した。慈恩寺領は最上氏にも安堵された(慶長五年九月二一日「最上義光願文」工藤文書)。当地の新御堂(すみど)に市神が残り、慈恩寺門前の市が立っていたと思われる。最上氏改易後は高七九一石余(西村山郡史)の日和田村は上山藩領となり、寺領は残らなかった。文化12年(181)幕府領となって幕末に至る。

(27-7)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」・・現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(27-7)「当時」・・今では、過去のある時点を、あとからふり返っていう場合に使われるが、

  古文書の「当時」は、「ただいま。現在。現今。」という意味に使われることが多い。

(27-8)「馴合(なれあい)」・・なれ合い夫婦。正式の仲介によらないで、なれあっていっしょになった夫婦。出来合夫婦。

(27-10)「不埒(ふらち)」・・「埒」は馬場などの囲いの意。法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

(27-14)「無判(むはん・むばん)」・・無判者。松前藩の許可なく上陸した者。

(27-15)「不念(ぶねん)」・・江戸時代の法律用語で、過失犯のうちの重過失を意味する語。予見できたのにかかわらず、不注意であった場合に用いられ、軽過失を意味する不斗(ふと)に対する語。

(28-1) 「五〆文(ごかんもん)」・・「五貫文」。「〆」は、「貫」の略字。銭貨を数える単位。唐の開元通宝1枚の重さが1匁(もんめ)であったところから、わが国でもそのまま銭1枚を1文と呼称するようになったといわれ、銭1000文をもって1貫と称する。なお、「文」は、足袋(たび)底の長さを測るのに、一文銭を並べて数えたところから、足袋や靴、靴下などの履き物の大きさの単位ともなったが、この場合の1文は尺貫法の8分(ぶ)(約2.4センチメートル)に相当する。また、江戸初期から中期にかけての金1両(4000文)は10万円に相当するといわれ、1貫文は1000文だから、25000円に相当するが、ただ幕末にかけて激しいインフレに見舞われるので、1貫文は7000円程度まで下落するようだ。とすると、5貫文=5000文=3万5000円ほどか。

(28-1)「過料(かりょう)」・・江戸時代の刑罰の一種。銭貨を納めて罪科をつぐなわせたもの。軽過料、重過料、応分過料、村過料などの種別があった。

(28-2)「馬形町(まかどまち)」・・現松前町字豊岡。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にあり、西は蔵町、南西は端立町。。「蝦夷日誌」(一編)に馬形町として「また山之上とも云。一段高きところにしてひろし。藩士また小商人、番人入接り。其山を名になし有」と記される。

(28-3)「悴(せがれ)」・・影印の「忰」は、「悴」の俗字。なお、自分のむすこを意味する「せがれ」は、「倅」が正しい。「悴」は、「倅」と似ていることから起こった誤用。(『新漢語林』)

(28-7)「構(かまえ・かまい)」・・江戸時代の一種の追放刑。特定地域から排除する場合と,特定団体・社会関係から排除する場合とがあった。日本国外追放を日本国構と称したことなどは前者の例であるが,後期幕府法においては,刑名はおもに追放,払(はらい)の語を用い,立入り,居住制限区域をとくに御構場所(おかまいばしよ)と呼んでいた。一方団体・社会関係からの排除として《公事方御定書》には,僧尼の閏刑で追院,退院より重い一宗構(所属宗旨からの追放),および一派構(宗旨中の所属宗派からの追放)の刑名がある。さらに武家が家中に科する刑罰的処分に奉公構があった。これは家臣が主従関係を離れる際,将来他家へ召し抱えられることを禁ずるもので,1635年(寛永12)の武家諸法度および諸士法度によって幕府法上も保障された。以後主家からの出奔は武士にとって容易なことではなくなった。近代に至って,追放刑の廃止,封建的身分制度の廃止により構の概念も消滅した。

  なお、処分しない、とがめがないことをいう「かまい 無し」の語源でもある。

(28-11)「留主(るす)」・・留守。元来は、天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたること。「主」を「ス」と読むのは呉音。なお、「守」を「ス」と読むのは、日本での慣用音。

(28-11)「盗賊与者(とは)」・・「与者」が、上書きされている。

(28-13~14)「所払(ところばらい)」・・江戸時代の追放刑の一種。居住の町村から追放し、立入りを禁止する軽罰。ところがまえ。

(28-15)「仲町(なかまち)」・・中町。現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川下流左岸に位置し、南は大松前町、北は横町、東は袋町で町域は狭い。)。「蝦夷日誌」(一編)には「少しの町也。大松前のうしろに当る。小商人のミ也」とある。

 

古文書解読学習会のご案内

              札幌歴史懇話会主催
古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代60

0円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務

局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年103日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

魯夷始末書9月学習注記

45-2)「江戸表(えどおもて)」・・地方から江戸を敬っていう称。将軍在住の地による。朝廷の所在地京都をよぶに京都表という類。(『江戸語の辞典』)

45-2)「場所」・・この「場所」は、クシュンコタン(九春古丹)をさす。

45-4)「畢竟(ひっきょう)」・・「畢」も「竟」も終わる意。仏語。究極、至極、最終などの意。途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

45-6)「変事(へんじ)」・・異常な出来事。異変。

46-7・8)<欠字の体裁>欠字は、本来は、『大宝令』『養老令』など、公式令(くしきりょう)で定められた書式の一つ。文章の中に、帝王または高貴な人の称号などが出た時、敬意を表して、その上を一字分もしくは二字分ほどあけておくことをいう。

   7行目「不申候処」と「公儀」の間が空いている。

   8行目「相成候は」と「御威光」の間が空いている。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「欠字」の語誌に、

     <(1)「台頭」「平出」と共に唐の制度から学んで大宝令に取り入れたもの。台頭は上奏文などに用いるが、日本ではそれ以外あまり見られない。平出は令の規定以来公式に行なわれたが、闕字が最も一般的である。

     (2)闕字は台頭・平出より少し軽く、平安時代以降も永く用いられたが、その用法は必ずしも厳密ではない。しかし、天皇・院・三后などの皇族には中・近世に至るまで比較的本来の形で存続し、明治以降天皇制のもとで復活重用されるようになる。>とある。

4510)「寅」・・十二支のうちの寅年をさす。元号では、安政元年(或は嘉永七年)。西暦1854年にあたる。此の年の1127日に、御所炎上(46日)とペリーの浦賀再来航(116日)などを理由により、安政に改元。

46-5)「堀織部」・・堀利熙。織部は通称。

46-6)「村垣与三郎」・・村垣範正。与三郎は通称。

4678)「探索(たんさく)」・・(人の居場所などを)探し求めること。

46-9)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地・北海道では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察すること。

47-2)「ベンカクレ」・・『村垣淡路守公務日記之二』六月十五日の条では、「ヘンクカレ」としている。

47-3)「ラムラニケ」・・前掲書では、「ラムランケ」。

47-4)「カミリ」・・前掲書では「アシリ」。

47-5)「アハユヱキ」・・前掲書では、記載がない。

47-6)「ナイトモ」・・前掲書では「ナヱトモ」。日本語表記地名「内友」、「内冨」。カラフト南海岸のうち。

47-7)「イツホニク」・・前掲書では「イツホンク」。

47-8)「ハツコトマリ」・・日本語表記地名「母子泊」、「函泊」。カラフト南海岸のうち。

47-8)「マラレアイ」・・前掲書では「マウレアヱノ」。

47-8)「土産取(みやげとり)」・・アイヌ集落での階層。和人からの下されもの(清

酒・玄米・炊飯・煙草が主)それらの下されものを無償でもらうことのできる階

層。

なお、アイヌ集落での階層は、地域によって異なるが、一般に、惣乙名・脇乙名・並乙名・小使・土産取・平夷人といわれる。

47-9)「ホロアントマリ」・・日本語表記地名「大泊」。クシュンコタンより二十丁許以南の地。カラフト南海岸のうち。

4710)「チヘシヤニ」・・日本語表記地名「池辺讃(チベサニ)」、「千辺沙荷」。大泊の東方7里の地(吉田東伍『大日本地名辞書』)。カラフト南海岸のうち。

48-1)「シヱマヲコタン」・・前掲書では「シユマヲコタン」としているが、不詳。

48-2)「トウラフツ」・・前掲書では「トウフツ」。「トウブツ」とも。日本語表記地名「遠淵(トウブチ)」。カラフト南海岸のうち。『大日本地名辞書』には、「ブッセ湖の海に通ずる處にして、古来漁場として夙に名あり。」、「寛政七年に至り、伊達、栖原二人、始めて漁場受負人として、撓淵(タウブチ)に至り、漁業を営みたり。之れ、本島に於ける民間漁業の濫觴なりと云ふ。撓淵は即ちトーブツなり。」とある。

48-2)「ヲカフ」・・前掲書では「ヲカワ」。

48-3)「右ヘンカクレ外三人シヨシコロ外六人」・・本書では、合わせて十一人の名前が列記されているが、前掲書では、十人(クシュンコタン平夷人アハユヱキが除かれている。)となっている。      

48-3)「稼方(かせぎかた)・・稼ぎ人たちのこと。働き手たちのこと。

48―4)「罷(ヽ在)居候(まかりおりそうろう)」・・「ヽ在」の「ヽ」の記号は、見せ消ち記号。「在」の左に「ヽ」で、「在」を打消し、右に「居」としている。「罷り在候」を「罷居候」と訂正している。

48-4)「去丑八月中旬魯西亜人共渡来」・・ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらが陸戦隊73人を率い、クシュンコタンに来航したのは嘉永6丑年829日で、翌830日は上陸地点の調査、91日にクシュンコタンの北隣のハツコトマリへ上陸。したがって、本書では、「八月中旬」となっているが、厳密には、「八月下旬から九月上旬」。

48-8)「神妙(しんみょう)」・・古くは「しんびょう」とも。けなげなこと。感心なこと。また、そのさま。

48-8)「奇特(きどく、きとく)」・・おこないが感心なさま。けなげなさま。

4810)「手切(てきり、てぎり)」・・「手限」とも。自分の一存で決めること。江戸時代、奉行、諸役人・代官などが上部機構の裁断を仰がず、自己の責任で事件を処理し、あるいは判決を下すこと。

4810)「心得(こころえ)」・・心がまえ。心がけ。

4810)「役夷」・・役夷人。(惣)乙名、(惣)脇乙名、(惣)小使、土産取(みやげとり)の役職についたアイヌの人たち。ここでは、P47に列記されているクシュンコタン惣乙名、同脇乙名、ナイトモ惣小使、同小使、ハツコトマリ土産取。

48-10~49-1)「褒美之品(ほうびのしな)」・・前掲書では、十人のうち、役夷人のヘンクカレ、ラムランケ、アシリ、シヨシコロ、イツホンク、マウレアヱノの六人には、「紅板〆一切と舞扇一本」づつ、平夷人のシフランマ、ヲンクロ、ホマヲウ、ヲカワの四人には、「紅板〆一切と白平骨扇一本」づつ、「外に一同江米三表、酒一盃充、遣ス」旨記載されている。

     なお、「切」は織部(堀)が出し、「扇」は自分(村垣)が出したともある。

9月学習 町吟味役中日記 注記

                   

(18-1)「御免」・・「ご」は接頭語。ここでは、免官、または、免職することを、その動作主を敬っていう語。。「御免」は、もともと「許可」を意味する「免」に尊敬を表わす接頭語「御」のついた語で、鎌倉時代から使われている。その後、「御免」の下に命令形を伴って、軽いことわりや、詫びの意を表わす「ごめんあれ」「ごめんくだされ」「ごめんなされ」などの形が生じた。これが定着すると、省略形としての「ごめん」も近世中期頃から用いられるようになった。(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(18-4)「江良村」・・現松前町字江良・字高野・字大津・字二越・字白坂。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。大正4年大島村の一部になる。なお大島村は昭和29年(1954)松前町の一部となる。現在、江良地域に、大島小学校がある。

(18-4)「米塩(べいえん・まいえん・こめしお)」・・人間の生活に欠くことのできない米と塩。食料一般をもいう。

 *「米塩の資(し・たすけ)」・・生計を立てるための費用。生活費。

 *「米塩の虫」・・食べていかなくてはならない者。生計をたてていかなくてはならない存在。

(18-5)「粒鯡(つぶにしん)」・・①荷出しする生の鰊。②数の子も白子も取り出した後の鰊。

(18-5)「空船(からぶね)」・・貨客を積んでいない船。とくに、江戸時代の御城米船では積込港まで貨客を積まないで航海させられた。

(18-6)「小砂子(ちいさご)村」・・現檜山郡上ノ国町字小砂子(ちいさご)。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子 夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。明治35(1902) 上ノ国村に合併。

(18-6)「落船(おちぶね・らくせん)」・・漂着船。津軽海峡横断の航路は津軽三厩から南または東の風に乗るのが最良とされ、途中風が南西に変わる場合は松前に着けず、押流されて吉岡付近の海上に漂着することが多く、これを落船とよんでいる。(『福島町史』)松前藩は沖之口おきのくち役所のある松前・江差・箱館の三湊以外での入国・通関は認めなかったが、航海が繁多になってくるにしたがい落船が増加したため、寛政年間には一部の落船を認める措置をとった

(18-7)「沖ノ口」・・江良に沖ノ口奉行配下の番所があった。武四郎の。『廻浦日記』では「廻船懸る由なればとて沖の口出張所有て下役一人出張す。」とある。

(18-7)「出役(でやく・しゅつやく)」・・①江戸時代、本役を持つものが、そのままで、臨時に他の職務に服すること。また、その役人。しゅつやく。広く、本業以外の公的な役回り、役職などのことをもいう。②職務上の出張。出張勤務。また、その役人。

(18-7)「船改(ふねあらため・ふなあらため)」・・港に出入する船舶の積荷・乗組・便船人などを船番所の役人が検査すること。また、その役人。江戸時代では、江戸に出入する廻船を下田または浦賀で改め、禁制の品や人間の流入・流出を防止したのが代表的な例。

(18-9)「沖口下代」・・沖ノ口奉行配下の役職。

(20-7)「挨拶(あいさつ)」・・応答。受け答え。

(21-2)「印紙(いんし)」・・署名捺印した書付。

(21-3)「売渡(うりわたし)」・・影印の「賣」は、「売」の旧字体。

 <漢字の話>「賣」・・①部首は「貝」で、「貝」部は、金銭・財貨や、それらにかかわる行為・状態などに関する文字でできている。「貢」「財」「貨」「貧「販」「貴」「賤」など。

 ②「貝」は、古代中国では貨幣とされ、財産のシンボルとして珍重された。しかし、近くにある川や池でたやすく手に入る貝ではなく、財産とされた貝は、黄河中流域に位置した殷王朝が、はるか遠方の東南沿海地方から運ばれてきた子安貝だった。

 ③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。                              

③「貝」は、子安貝の象形。子安貝は、その形から、生殖・安産・豊熟の象徴として珍重される。妊婦がお産をするときこれを握っていると安産すると信ぜられ,コヤスガイの名もそれによる。また《竹取物語》にはかぐや姫が〈いそのかみの中納言には,燕の持ちたる子安の貝ひとつとりて給え〉と条件を出した一節があるが、中国からの伝承と言われている。

④「買(かう)」と「賣(うる)」・・「売」の旧字体「賣」の解字は、「出」+「買」。「買」が「かう」の意味に用いられたため、区別して、「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、「賣」の省略形の俗字による。なお、「買」の解字は「网」+「貝」で、「网」は「あみ」の意味、「貝」は「財貨」の意味。あみをかぶせて財貨をとりいれる、かうの意味をあらわす。

 ⑤また、「賣」は、平成16年に人名漢字になった。「賣野(うりの)」「木賣(きうり)」「賣豆紀(めずき)」など。

(21-3)「筈」・・①矢の上端で、弓の弦をかける部分。矢筈(やはず)。②弓の両端。弓の弦を受けるところ。弓弭(ゆはず)。③矢筈と弦とはよく合うところから、物事が当然そうなること。道理。理屈。筋道。転じて、予定・てはず・約束などの意にもいう。

 なお、棒の先に股のある、掛け物を掛ける道具も「矢筈」という。

 <漢字の話>「筈」・・解字は、「竹」+「舌」。音符の「舌」は、「会」に通じ「あう」の意味。弓のつると矢とが会する部分。

(21-5)「大留(おおどめ)村」・・現檜山郡上ノ国町字大留。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村の北、天ノ川の下流域北側に位置する。明治35年上ノ国村に合併。

(21-6)「年寄(としより)」・・近世では町役人・村役人・宿役人などの称ともなった。村役人としては、名主または庄屋に次ぐ地位の者をいうことが多い。大留村では、次に「百姓代」とあるので、「年寄」は、村の長を年寄と称していたか。

(21-1022-1)「碁盤坂」・・現松前郡福島町字千軒附近。なお、昭和13(1938)1021日国有鉄道福山線渡島知内駅 - 当駅間開通に伴い、碁盤坂駅として開業。昭和47(1972)15日に千軒駅に改称。

(22-1)「倒死(たおれじに・とうし)」・・路上などでたおれて死ぬこと。ゆきだおれ。

(23-5)「碇町」・・檜山郡江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。寺小屋てらこや町の東に続き、東は山地、南は武士川を挟んで五勝手村。武四郎の『再航蝦夷日誌』に「寺小屋町の上也。漁者、水主、小商人等也」とある。

(22-7)「通書(つうしょ)」・・手紙。

(22-7)「山之上町」・・武四郎の『再航蝦夷日誌』に「薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。

(22-9)「幸便(こうびん)」・・つごうがよいこと。よいついで。また、そのような時に人に手紙を託することが多かったので、手紙の書き出しの文句や添え書きのことばとしても用いる。

(23-1)「被仰出(おおせいだされ)」・・ご命令されて。「仰せいだす」は、「命じ出だす」「言い出だす」の尊敬語。命令を発せられる。お言いつけになる。お言葉を口に出される。

 なお、「被仰出(おおせいだされ)」は、「おおせいださる」の連用形の名詞化で、名詞として、「おいいつけ。御命令。おおせいで」の意味になることがある。「被仰出書(おおせいだされがき)」(ご命令書)

(23-1)「供(ども)」・・人を表す言葉について複数を表す接尾語。複数の意味がうすれた「子供」以外は、多く「共」と書く。

 *「子供」・・(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

(2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

(3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌)

(23-2)「辰之刻」・・午前8時。

(23-8)「差添(さしぞい・さしぞえ)」・・他の人を守ったり助けたりするために同伴すること。また、その人。

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◎日時:2016年912日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

『蝦夷日記 下』発行

田端宏監修 札幌歴史懇話会刊 

古文書解読選第五集『蝦夷日記 下』発行

定価2200円(送料360円)

 

札幌歴史懇話会では、このたび、『蝦夷日記 下』を刊行しました。

本書は、嘉永七年目付堀利煕、勘定吟味役村垣与三郎の蝦夷地巡検に随行したものの道中日記です。

上巻は、松前から樺太まででしたが、下巻は帰路オホーツク沿岸、東蝦夷地を経由して箱館帰着までの紀行文です。

影印と解読文が見開きになり、古文書学習に適していると思います。

記述にかんする注記にもページを割いて、当時の事情や地名について詳細に、述べています。

ぜひ、購入くださいますよう、ご案内します。

魯夷始末書8月学習注記

41-1)「水野正左衛門」・・本書時、御勘定評定所留役。村垣範正の附添として西・北・東蝦夷地を廻浦。『柳営補任』では、「嘉永7(安政元)年(1854)寅閏725日箱館奉行支配組頭、永々御目見以上」に任じられ、「同年(嘉永711月於箱館死」となっている。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、「(嘉永7年閏7月)17日夕刻、クスリ(現釧路)ニ而、正左衛門急病発し、卒中風之由、同夜九頃、事切申候由」とあり、実際は、嘉永7(安政元)年閏717日、脳卒中により死去したことがうかがえる。

41-2)「煩労(はんろう)」・・心をわずらわし身を疲れさせること。わずらわしい骨折。

41-3)「咎(とがめ)」・・「とが」とも。罪、罪科

41-4)「宥恕(ゆうじょ)」・・寛大な心でゆるすこと。おおめに見て見逃すこと。

41-4)「沙汰(さた)」・・物事の是非を選び分けて、正しく処理すること。始末すること。処置すること。

41-4)「別而(べっして)」・・特別に、とりわけて、格別に。

41-6)「執成(とりなし)」・・【連用形】具合の悪い状態を、間に入って取り計い好転させること。間に立って、周旋してうまくその場を納めること。

41-6)「内得(ないどく)?」・・影印は「内」か、「納」かのどちらか。「内得=役職を利して取る利得、役得。」とすると、意味が不明。「納得=承知すること。同意すること。」か。

41-7)「木品(きしな)」・・樹木および材木の種類、または、材木・白木(割材)類の品質。

41-8)「猥(みだり)に」・・節度を失しているさま。度を過して、むやみやたらであるさま。なお「猥」を「みだら」と読むと、「いやらしい」の意味。

    *「猥」の解字・・「犭(犬)」+「畏」。音符の「畏(イ・ワイ)」は、犬の鳴き声の擬声語。犬のほえ声を表し、転じてみだらの意味をも表す。

41—10)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。なお「治定(じてい)」は、国などをおさめさだめること。

42-2)「横文字之書面」・・本書面は、『幕末外国関係文書之六』所収の第213号文書(「五月十七日樺太島アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセ書翰 松前藩士へ アニワ退去の件」)。この点について、『村垣淡路守公務日記之二』62日の条に、「魯西亜人カラフト退去之始末、幷書翰一通ハ、開状ニ而、領主家来(三輪持)江向候文躰、蘭文魯西亜文有之」、「彼之地ニ而、(水野)正左衛門、(河津)三郎太郎受取、直ニ(名村)五八郎ニ和解申付」とあり、堀、村垣らの一行に同行したオランダ通詞の名村五八郎が、和訳したことが記述されている。なお、『幕末外国関係文書之六』に収録されている文書の第一譯文の和訳者は、名村五八郎ではなく、森山栄之助と本木昌造となっているが、以下、参考までに記載をしておく。

     【第一譯文】

        アニワ港滞在之日本武官へ

     我重役之命を奉し、当場所を退候ニ付てハ、是迄応接致候日本人幷アイノス人と是迄之懇情、且八ヶ月間、ハカトマシ滞在中、諸用弁し被呉候芳志之段及禮謝候、

     凡何頃迄当場所出張差止候哉、又ハ何れに差遣候哉、其段ハ重役之心得にて候得共、日本人とアイノス人と之間ニ聊子細無之儀ハ、急度御請合申候、日本人ハ賢良之国民ニ候得ハ、アイノス人ニ対し、不承知之筋申掛候儀有之間敷候、アイノス人ハ、我等之為ニ格別用達致し、諸方乗廻り候節ハ案内致し、住所取建之節ハ、手傳等致し、又水主之働も致し候、右柔弱之アイノス人を如何之取扱ニ相成候て(ハヾ)、ハカトマレニ罷在魯西亜人ニ対し、不和を被含候も同様ニ有之候、

                             マヨール(Majoor

                               ブースセ(Busse

     右真譯致シ候、

      暦数千八百五十四年第六月十二日

                             船将次官

                                ポスシエト

     右之通文意和解差上申候、以上、

       寅七月                   森山栄之助 印

                             本木 昌造 印

    【参考】

 森山栄之助 文政3(1820)生。家代々のオランダ通詞。英語も学び、蘭・英2ヶ国を使いこなせる通詞として活躍。嘉永6年(1853)、プチャーチン、長崎来航の際、川路聖謨(魯西亜使節応接掛)の通詞を務める。文久2年(1862)の竹内保徳らの遣欧使節団の通訳。

本木 昌造 文政7(1824)生。江戸幕府の通詞。安政元年(1854)、プチャーチンが下田へ来航の際、下田条約の交渉の通詞を務める。

42-2)「和蘭通詞(オランダつうじ)」・・「阿蘭陀通詞」とも。江戸時代に長崎でオランダとの折衝にあたった日本人通訳官。なお、本書時、堀・村垣一行には、オランダ語の通詞として、武田斐三郎と名村五八郎が随行。二人は、遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、日本側の魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の書翰(『幕末外国関係文書之六』所収の第212号文書「露西亜応接掛へ 国境幷和親條約の件」)について、蘭文和譯ノ一として名村五八郎が、蘭文和譯ノニとして武田斐三郎が、それぞれ和訳している。なお、封をされて渡された筒井川路宛の書翰を、現地の一存で開封して和訳をした経緯については、『村垣淡路守公務日記之二』では、「筒井川路江之書翰、何様之義有之哉、一旦江戸表江差立、和解御下ケニ而ハ、差向御用弁ニも相成不申不都合ニ付、織部一存ニ而、五八郎江和解申付、開封いたし」、「筒井川路江宛候魯西亜人書翰漢文一通蘭文一通、五八郎和解いたし候処、~ 明日ハ斐三郎参着ニ候間、同人も一応和解申付候上、御用状差立候方ニ治定、」した旨、記述している。

    【参考】

     武田斐三郎  伊予国大洲の人。適塾などで蘭学を修める。嘉永6(1853)プチャーチン長崎来航の際、箕作阮甫に従い、通詞御用を務める。後、箱館奉行所諸術調所教授役として五稜郭の設計建設などにあたる。元治元年(1864)開成所教授職並。明治維新後、兵学寮・士官学校教授、長官を務める。

     名村五八郎  文政9年(1826)生。長崎阿蘭陀通詞の家に生まれ、家業を継ぎ、英語も修めた。嘉永6(1853)幕府の命により出府。安政元年(1854)、日米和親条約締結のため働き、後、箱館奉行所詰となり、同3(1856)箱館奉行所支配調役下役となる。万延元年(1860)、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米、遣米使節団(正使新見豊前守、副使村垣淡路守)の首席通詞を務める。又、慶応2(1866)、小出大和守らの遣露使節団の随行員として訪露、同3(1867)帰国。北海道で最初の「英語稽古所」を創設。

42-3)「緋羅沙(ひらしゃ)」・・緋羅紗。濃くあかるい朱色の毛織物。

42-8)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広。「伊豆守」は受領名。藩主在任期間は、嘉永2(1849)69日~慶応2(1866)425日。この間、幕府の寺社奉行(文久3年(1863428日~同年8月)、老中格(松前藩:無高)・海陸軍総奉行(元治元年(1861)77日~)、老中(松前藩:3万石)(元治元年11月~慶応元年(1865)101日)・海陸軍総裁(慶応元年(1865)~同年101日)を務める。

     【参考】:松前藩の石高は、米が穫れないため表高は「無高」とされていたため、3万石~10万石の家格の譜代大名がなれる「老中」には、一足飛びにはなれず、「老中格」として就任、その後、加増されて「3万石」の家格となり、「格」がとれて、正式に「老中」となった。

43-1)「可成丈(なるべきだけ)」・・「なるたけ(成丈)」に同じ。できるかぎり。なるべく。

     「なりたけ」をはじめ、多くの異形を生じたが、これら以前は「なるほど」がこの意味用法をになっていた。「なりたけ」は江戸東京語で、「なりったけ」はその促音形。「なるべきだけ」の発生は「なるたけ」に少し遅れる。なお、「なるべきだけ」の語形は重言の意識が働いてか、その後急速にすたれ、現在では「なるべく」「なるたけ」の短い形がこの意味用法で残っている。(『ジャパンナレッジ版日本国語大辞典』の語誌)

43-3)「矢来(やらい)」・・竹や丸太を縦横に粗く組んだ仮の囲い。「やらい(遣=追い払うこと。)」からをいう。「矢来」は、当て字。

43-7)「先手組(さきてぐみ)」・・『文政六(一八二三)年十一月松前藩家臣名簿』の「職席」欄に「御先手組」として、細界太佐士(頭取)外、10名の氏名が記載され、『嘉永六癸丑年(1853)御扶持家列席帳』には、「士席御先手組(同格、同格医師、勤中格を含む。)」として、161名の氏名が記載され、一番隊物頭の竹田作郎や今井八九郎、『町吟味役中日記』の奥平勝馬の名もみえる。本来、「先手組」は、武勇に優れた者で編成され、戦時の際の陣立で本陣の前にいて、敵を攻撃する部隊。平時は、城の内外や主君の出向の際の警固、(幕府の場合、市中の火付盗賊改め)に当たった。幕府の場合の職名は、先手鉄砲組、先手弓組の併称。

44-7)「狼狽(ろうばい)」・・うろたえ騒ぐこと。あわてふためくこと。「狼」も「狽」もオオカミの一種で、「狼」は、前足が長く、後足が短いが、「狽」はその逆。常に共に行き、離れれば倒れるので、あわてうろたえるということからきている。

44-9)「ラヌシ」・・「シラヌシ」の「シ」が脱か。

44-9)「風筋(かざすじ)」・・風の吹く方向。風向き。

44-9)「沖掛(おきがかり)」・・沖合に停泊すること。「沖懸」、「沖繫」と同じ。

4410)「リイシリ」・・漢字表記名「利尻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。利尻島。

8月学習 町吟味役中日記 注記 

         

(12-1)「服薬(ふくやく・ぶくやく)」・・服用するために薬を調合すること。また、その調合した薬。調剤。

 *「服」の解字は、舟の両側にそえる板の意味を表す。転じて身につける意味を表す。

 *「服」は、『康煕字典』では、「舟月(ふなづき)」部。「舟月」部に属する漢字といして、「朋」「朝」「朕」がある。現在の漢和辞典は「月」部に統一されているが、元来、「月(つき)部、「肉月(にくづき)」「舟月(ふなづき)」に分かれていた。

 *「服用」を「薬を飲むこと」とするのは日本での意味。漢語では、身につけて用いること。「和漢異義語」という。国訓が漢字一字の字義に和文要素が混入する現象であるのに対し、「和漢異義語」は、漢字二字以上の熟語の語義に和文要素が混入する現象。(古田島洋介著『日本近代史を学ぶための文語文入門 -漢文訓読体の地平―』吉川弘文館 2013

<くずし字>「服薬」の「服」、「薬」。

 *「服」の偏「月」のくずし字

 *「薬」・・「廾(くさかんむり)」+「楽」の「楽」のくずし字は頻出します。

(12-1)「煎薬(せんじぐすり・せんやく)」・・植物の根・実・皮などを煎じて用いる医薬。

漢方薬の主流をなす。

(12-1)「一角(イッカク)」・・北極海に生息するイッカク科の哺乳類イッカクの牙を用いる。

イッカクはイルカの近縁動物で、体調は約5mで、雄の上顎に1対ある歯牙のひとつの門歯が長くなり、細長く2m以上に伸びるため、イッカクと呼ばれている。牙は象牙質で螺旋形になっている。

 イッカクの角は中世ヨーロッパにおいて神秘的な解毒薬として珍重されていた。日本に 

 はオランダ医学とともに江戸時代に伝えられた。

漢方薬ではないが、サイカク(犀角)と同様の解熱・鎮静の効能があるといわれ、粉末にして服用する。

(12-2)「壱分目」・・全体の十分の一。「分目」は、数詞につけて、あるものの全体の量を

 10としたとき、その内のどれだけの量であるかを表わすのに用いる。

(13-6)「風説」の「風」・・普通は2画目は外側から中に入る。

(14-6)「江指(えさし)」・・江差。江刺とも書く、村の成立時期は不明であるが、寛永7(1630)沖の口番所は市中津花町に設置され、交易港となる。続いて上の国に設置されていた檜山(ひのきやま)番所が延宝6(1678)市中中歌町に移転、のち安永元年(1772)江差奉行所と改称、松前藩西在の官府となる。

(14-6)「山之上町(やまのうえまち)」・・はじめ江差は、桧材、続いて元禄年間(16881703)以降鰊荷物が主な積出し荷物となる。港としての機能が高まるとともに沿岸部の津花、姥神、中歌、九艘川、詰木石で町場化が進み、慶安年間(16481651)には法華寺の前身妙翁寺が創建されも寺町の様相を呈した。市中の発展により後背段丘は「山の上町」として町場化が進んだ。

 海岸沿いの市街地(下町)と段丘上(山の上町)は、それぞれ断崖を掘削して、阿弥陀寺坂・法華坂・馬坂などの坂道や石段を造築して参道とした。

 松浦武四郎『再航蝦夷日記』には、「縦町十町」と並んで「横巷十九町」を挙げ、その中に、「山の上町」が見える。さらに「山の上町 薬師町より上なる町也。此辺り青楼の小宿(こやど)、水主、船頭の囲ひもの、小商人多し」とある。松前口説に「国は サァーエー 松前 江差の郡(こおり) 江差 山の上 げんだい町の 音に聞こえし こばやし茶屋に 抱えおなごは 三十二人」と唄われた花街であった。

(14-7) 「横死(おうし)」・・殺害されたり、不慮の災難にあったりして死ぬこと。天命を全うしないで死ぬこと。不慮の死。非業の死。

(14-8)「到着」の「到」・・「リ(リットウ)」が、「()」になる場合がある。

(14-8)「下役梅沢由右衛門」・・「下役」は、吟味下役で、町奉行吟味役吟味下役と、役職があった。

(15-2)「小使(こずかい)」・・町奉行の職制で、下代の下に「小使」があった。

(15-4)「今日」の「今」、「日」・・「今」は「て」のようになる場合がある。また、「日」の

 縦画を最後に「ゝ(点)」をつける場合がある。

 (15-4)「手鎖(てじょう・てぐさり)」・・「手鎖」は、罪人の手に施す刑具。鉄製瓢箪型で、両手にはめて錠をかけ、手が使えないようにするもの。てがね。

 ①江戸時代の刑罰の一つ。手鎖をかけるところから起こった名で、庶民の軽罪に科せられ、三〇日、五〇日、一〇〇日の別があり、前二者は五日目ごとに、後者は隔日に封印を改める。御咎手錠。

 ②江戸時代、未決囚を拘留する方法。手鎖をかけた上、公事宿、町村役人などに預け、逃亡を防いだ。

 ここでは、②か。

(15-45)「旅人宿(りょじんやど)」・・江戸時代、訴訟・裁判のため地方から出府したものが泊まった公事宿(くじやど)の一つ。

(15-6)「四月九日」の「九日」・・「ここのか」か、「ここぬか」か。

 *「九(ここのつ)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)ココラ、またはココタ(許多)の転音か〔東方言語史叢考=新村出〕。

(2)陽数で、一の子は三、三の子は九とするところからコノコ(子子)の義〔志不可起〕。

(3)ココ(此処)でトヲ(十)に迫ったとの意か〔大言海〕。

(4)ココノツ(凝々箇・凝津)の義〔十数伝・紫門和語類集〕。

(5)八方の中央という意から凝の義。また、イヤツ(八)よりココダ(多数)の意か〔和訓栞〕。

(6)コタツ(甲立)の転〔名語記〕。

(7)爰ぞよく熟する時の意からココトス(爰)の転〔名言通〕。

(8)古韓語コ(大)の畳語。本来は多大の義であるが、ヤ(八)を最大数とした時代があったので、更にその上に一つ加えた数九をココと称えるようになったか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(15-8)「雁(がん・かり)の御吸物」・・雁、鴻、鶴、白鳥、などの吸物は、普段は、藩主などが食した。

 *<漢字の話>

①「雁」の部首は「厂(がんだれ)」ではない。

②「雁」の部首は「隹(ふるとり)」

③「隹」を「ふるとり」というのは、「舊(きゅう・ふるい)」(新字体は「旧」)

 に用いられているので、「鳥」「酉(ひよみのとり)」と区別する。

(16-1)「四月十日」の「十日」・・「とお」か「とう」か。

遠く大きな氷の上を多くほおずきくわえて、づつ通った。」

 *「十(とお)」の語源説(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

 (1)トはタル(足)の反ツの転。オはヨコ(横)の反ヨの転。算の位において、十に満ちるとその後は横の算になるところから〔名語記〕。

(2)一から十まで通っているところから、トホル(通)の略トホの転〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(3)トはト(止)の意〔百草露・大言海・日本語源=賀茂百樹〕。上の五と下の五とが合い止まる数であるところからトは止の義。ヲは、陽の一数を含み鎮める意で陽の義〔紫門和語類集〕。

(4)数は九で極まるところからトは外の意〔日本釈名・紫門和語類集〕。十は位の一つであるところから数のト(外)の義〔志不可起〕。

(5)一から数えて遠くにあるところから、トホ(遠)の義〔和句解〕。

(6)トヲ(止尾)の義で、数の終わりの意〔国語の語根とその分類=大島正健〕。

(7)一ツから九ツまでの終わりであるところから、ツヲ(津尾・筒尾)の転〔和訓栞・紫門和語類集・言葉の根しらべ=鈴江潔子・大言海〕。

(8)テヲ(手終)の義〔言元梯〕。

(9)筒尾の義という〔日本語源=賀茂百樹〕。

(10)トヲ(瓊尾)の義〔十数伝〕。

(16-2)「腹痛」の「腹」・・「服」と似ている。

 (16-5)「三関勝蔵」の「関」・・門構えは、「ワ」の形になることが多い。中には「一」になる場合もある。

(17-1)「小書院(こじょいん)」・・一般には、母屋(もや)に続けて建てのばした部屋。小さな書院。松前城での位置は不明。『嘉永癸丑年御役人諸向勤姓名帳』に、「御小書院御次詰」という職務がある。

(17-3)「立石野(たていしの)」・・松前城下の西端、けわい坂を上り、折戸坂を下るまでの間の野原をさす。武四郎は「海岸に大なる自然の弐丈ばかりなる岩石有。立石野の名も是より起るか」(『再航蝦夷日誌』)とする。

(17-3)「ツクシナイ」・・和名は尽内、津久志内。松前城下西方の海浜をさす。折戸の次の集落。『蝦夷日誌』(二編)では、東から西に進んで「小ツクシ川と云、尺一刎也。清水にして甚冷し。越て」として大ツクシ川をあげる。

(17-4)「手限(てぎり)」・・上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(17-4)「市在(しざい)」・・「在」はいなか。松前市中と、近郊。城下には、東在、西在があった。

(17-7)「忠兵衛」の「忠」・・「中」の縦画が、「心」の1画目の点へ繋げるため、「ノ」のように右払いになる場合がある。

魯夷始末書7月学習注記

37-3)「又候(またぞろ)」・・ 「またぞうろう」の変化したもの。なんともう一度。こりもせずもう一度。

37-3)「船高凡弐千四五百石位之異国船」・・秋月著『日露関係とサハリン島』によれば、船号は「ニコライ」号。

37-4)「船頭ケムカシテロム」・・前掲書では、ニコライ号の船長名は「クリンコフストレム」とし、日本側の資料では船長名を「ケムカシテロム」と訛っているとしている。

37-6)「船高凡千六七百石位之異国船」・・前掲書では、船号は「イルトゥイシ」号としている。

37-7)「船将チハチヨウ」・・前掲書では、「チハチョフ」としており、役職を船長代理としている。(船長のPF・ガヴリロフは、インペラートル湾で重症の壊血病に罹っていたとしている。)

37-9・10)「船号チヱエナ、船将ソンレツフ」・・前掲書では、船号を「ドヴィナ」号、船将を「AA・ワシリエフ」としている。

38-1)「アヤン」・・シベリア東部・オホーツク海西岸の港。1844年から露米会社の出張所が移設された。アヤンは、露米会社の前進基地としてオホーツク港、ペトロハブロフスク港、ニコライエフスク港と並んで極東ロシア海域の四大主要港となった。

38-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

383.4)「船高凡弐千六七百石位之異国船」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

38-4,5)「船将アーレルメン」・・前掲書では、「船長IV・フルゲルム」。

38-6)「取片付(とりかたづけ)」・・整理する。きちんとあとかたづけをする。

38-8)「難心得(こころえがたく)」・・理解しがたく。会得しがたく。

38-9)「布恬延(プチャーチン)」・・ロシアの遣日全権使節「エフィミー・ヴァシーリエヴィッチ・プチャーチン」の日本語表記。(『宛字外来語辞典』)

39-1)「一ト先(ひとまず)」・・何はともあれ。さしあたって。

39-2)「首長」・・クシュンコタンのムラヴィヨフ哨󠄀所の隊長ブッセ。

39-3)「蜜々(みつみつ)」・・密々。内々に行動すること。また、そのさま。ひそひそ。人に知られないようにこっそり。

39-3)「終夜(しゅうや・よすがら・よもすがら)」・・一晩中。夜どおし。「すがら」は、名詞に付いて、初めから終わりまで続く意を表わす。ずっと。

(39-4)「チユヱナ」・・37-9・10)には「船号チヱエナ」とある。

39-4)「フーレルン」・・前掲書では、「メンシコフ」号。

39-4)「ヲロトフユ」・・前掲書では「ヲロトフマ」。長崎でオランダ語の通訳を務めたプチャーチンの幕僚「ポシェット中佐」で、日本側資料で「ヲロトフマ」と呼んでいるのは、彼の官名(蘭文和解では「カピタンロイテナント」)の訛であろうかとしている。なお、ポシェット中佐は、プチャーチンからのムラヴィヨフ哨󠄀所撤退の提案を持参した。

39-6)「今井五郎兵衛」・・松前藩士か。天保15年(1844)時点のヱトロフ勤番所の物頭役に「今井五郎五郎」なる人物の名前がみえる(『松前町史』)。同一人物か。

4045)「従(より)

      公儀」・・「従」以下空白で、改行して「公儀」としているのは、律令で定められた公文書の書式の規定の一つである「平出(へいしゅつ)」で、文書中で、尊敬すべき人の名や称号を書くとき、敬意を表すために行を改めて前の行と同じ高さから書きだす書き方をいう。

なお、「平出」のほか、次の書式がある。

「擡(台)頭(たいとう)」=上奏文などの中で、高貴の人に関した語を書く時、敬意を示すため行を改め、ほかよりも一字分または二字分、上に出して高く書く書き方。

「闕(欠)字(けつじ)」=天子・貴人に関係した称号や言葉の上に、敬意を示すため一字または二字分の余白をあける書き方。

「闕(欠)画(けつかく)」=天子や貴人の名と同じ漢字を書く時、はばかってその最後の一画を省く書き方。

40-5)「品々(しなじな)」・・いろいろ。さまざま。

40-5)「掛合(かけあい)」・・談判すること。交渉すること。

40-6)「先着之者」・・堀・村垣一行のうち、本隊に先行してソウヤを出発し、515日シラヌシ着、同20日クシュンコタン着したのは、堀附添では、御徒目付河津太郎三郎。村垣附添では、御勘定評定所留役水野正左衛門、御普請役橋本悌蔵、支配勘定出役矢口清三郎、御普請役間宮鐡次郎、御小人目付松岡徳次郎。(『村垣淡路守公務日記之二』の「支配向其外北蝦夷地廻浦割」)

40-6)「纔(わずか)之里数」・・ほんの少しの道のり。『蝦夷日記』P92の「シラヌシ」の条に、「クシュンコタンより此所(シラヌシ)迄、海陸里数凡三十五り程」とあり、シラヌシ~クシュンコタン間の距離が記述されている。

     このほか、吉田東伍著『大日本地名辞書』の記述により、シラヌシ~クシュンコタン間の距離を浬(海里)で算出すると、55浬となる。

 単位:1里=3.9㎞ 1浬=1.852

      ・シラヌシ~ノトロ(西能登呂岬)間 2里(7.8㎞)≒4浬

      ・ノトロ~クシュンコタン間 51浬(94.5㎞)

      ○シラヌシ~クシュンコタン間 55浬(102.3㎞)

40-8)「暫時(ざんじ)」・・少しの間。しばらく

40-8)「再応(さいおう)」・・ふたたび。再度。

40-9)「ホウチヤチンより之書翰」・・遣日全権使節プチャーチンの命を奉じた船将ポシェットの名義で、魯西亜使節応接掛筒井備前守、川路左衛門尉宛の封状の書翰(蘭文と漢文で、後日、和解)で、その概要は、「一、使節は、日米和親条約締結(33日)の告報を得、それにより推量するに、我が境界を定むる処置も容易く成就すべきを察し(アニワ港での境界交渉を中止し、)、魯西亜出張の者共、暫の間、アニワ港を退く様取計候。一、使節が尚又申越候には、内約定の事を了するため、江都の近傍なる一港に至らむとするを日本全権に告白す。」とするもの(『幕末外国関係文書之六』―212として所収)。

     なお、『村垣淡路守公務日記之二』によれば、この時、領主家来宛ての開状の蘭文と魯西亜文の書翰(アニワ港駐屯露軍総兵官ブッセからアニワ港滞在の日本武官あて)が(三輪持に)渡されたとあり、後日、和解された書翰には、「我等之為に格別用達致し、案内、手伝い、水主働も致したあいぬ人を虐待することのないように」とする旨が記載されていた(『幕末外国関係文書之六』-213として所収)。

町吟味役中日記 7月注記

(6-4)「新井田壽右衛門」・・『松前藩士名前控』(北大附属図書館蔵)の「新組御徒士衆」に名前がある。

(6-4)「木村弥三郎」・・『松前藩士名前控』の「士席御先手組」に、「木村弥三郎」の名前が

ある。また、『御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)

に、「先手組」「御武器方」に「木村弥三郎」の名がみえる。

(6-4~5)「新井田壽右衛門、木村弥三郎居宅江之通り」・・「福山城下家臣屋敷割復元図」(『松前町史通説編第一巻下』所収)を見ると、松前城下愛宕町通りか。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「可申達旨(もうし・たっす・べき・むね)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の終止形「達す」+「可(べし)」の連体形「可(べき)」+「旨(むね)」

(6-9)「可被申達(もうし・たっせ・らる・べく)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の未然形「達せ」+「らる」の終止形「らる」+「可(べし)」の連用形「可(べく)」

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もし、などの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。つまり、「則」は「即」。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。

(7-5)「杦村伝五郎」の「杦」・・国字。「杉」の旁の「彡」を書写体に従って「久」に改めた

もの。筆書きで、「彡」の最後の[]を「ゝ」のように書いたのを「亥」の最後3画のよう

にし、[ノ人]の初め2画[ノノ]をИ字状に続けて[]のように書いたものを、活字にす

るときに、書かれたとおりに作ったので、[][ノ人][]と変化した。

*同様に、「形」「彫」「影」など、「彡」を含む漢字のくずし字は、「久」となる場合があ

る。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-6)「新井田」の名前は「周治」か「周次」か。

(7-8)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出

を禁ずるもの。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

(8-3)「深泊り」・・現青森県東津軽郡外ケ浜町蟹田塩越。東は陸奥湾に面し、南は石浜村、

西は山を隔てて小国村、北は二ッ谷村に接する。古くは、東風泊(こちどまり)と呼

ばれ、貞享4年(1687)の検地帳には深泊の名がみえる。小字に塩越の名がある。明治

22年(1889)の町村制施行と同時に、石浜村の字として貞享年の検地帳の字名をと

り、塩越となった。享和2(1802)の「測量日記」に家一六軒とあり、嘉永3年(1850

の「東奥沿海日誌」に「深泊り村同じく人家二十軒斗」とある。明治初年の「新撰陸奥国

誌」に家数四六としてる。

 『蟹田町史』には「蟹田浜の追鰊漁師らは二月末から・・松前へ渡海し、あるいは、鰊漁場の使用人に転向したり、土着する人も多かった」とある。

(8-5)「引合(ひきあい)」・・連れ。配偶者。

(8-7)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にある。海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(1444―)頃造立された。多くの文献は、「馬形町」と「端立町」を別々にしている。天保14年(1843)の御触留書(市立函館図書館蔵)に「馬形羽立(まかどはたて)町一本橋通り」とある。

 『松前町史通説編第一巻下』所収の天保14(1843)の「公定価格・借家家賃」表」には、「馬形足軽町」「馬形東新町」「馬形東上町」「馬形東中町」「馬形東下町」があり、「馬形羽立町通り」もある。

(8-9)「口書爪印(こうしょつめいん)」・・江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

 *「口書(くちがき)」・・江戸時代、検使役人が作成した調書のこと。変死や殺人、傷害など検使を要する事件が発生した際、現場で関係者の供述を記したもの。

 *「爪印(つめいん)」・・江戸時代の刑事裁判で、被疑者が口書(くちがき)に捺印する場合に用いられた印。重罪にあたる被疑者は吟味中入牢させられ、普通、印を所持していないため、この方法がとられた。ただしこれは庶民に限られ、武士には書判(かきはん)を書かせた。爪判。

*「爪印(つまじるし)」・・①文章などの注意すべきところや、よくわからないところ、すぐれたところ、またすぐれた和歌などにつめの先でつけておくしるし。爪点。②遊女と客が互いの愛情の変わらないことを表わすための証。また、そのような行為。もと、客への心中だてのために、遊女が自分のつめをはがしておくったことから派生したことばという。

(8-9)「某(それがし)」・・自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 *「某(なにがし)」・・他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には<「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。>」とある。

(10-3)「年行事(としぎょうじ)」・・

江戸時代、一年任期で五人組や問屋・株仲間など商工業の組合の事務を処理した世話役。「行事」は、江戸時代、町内または商人の組合などで、その組合を代表して事務を執り扱う人。

(10-5)「薬服(やくふく)」・・薬を服用すること。

(11-1)「取質(とりしち)」・・品物を預かって、お金を渡すこと。

(11-2)「受質(うけしち)」・・元金と質料を受け取り、預かっている質草を返却すること。

(11-2)「御目長(おめなが)」・・「めなが(目長)」の敬語。目先のことにとらわれないで気ながに物事を見るさま。ながい目でみるさま。

(11-4)「傳兵衛(でんべえ)」・・町吟味役配下の町年寄。場所請負人。

 *「町年寄」・・鈴江英一著『北海道町村制度史の研究』(北海道大学図書刊行会 1985

 を引用して、町年寄について記す。町年寄は、「藩士目見以上ノ格式ヲ付与シ、且帯刀ヲ許ス。其町年寄ニ登用セラレ勤功アルモノハ士席ニ列ス」(村尾元長著『維新前町村制度考』)とあるように、町年寄に選任されるのは、全町民一般からでなく、上層の町人に限られる。この町人層はまた、藩主らの吉凶などにあたって先んじて多額の献金をし、これに対して酒肴などを下賜される関係を持つなど、藩とは特別な交渉のある城下の特権的商人層である。表の町年寄の氏名をみても、町年寄と特権的商人層の結合が窺える。

    藩御用達・・伊達・栖原

    問屋及び頭取一族・・上田(近江屋)・富永・張江

    場所請負人とその一族・・村山・西川・林・塩田・桜庭

(11-8)<漢字の話>「醫師」の「醫」・・①「醫」は「医」の旧字体。音符の「殹」は、「エイッという、まじないの声の擬声語。治療に薬草酒を用いるようになり、酉を付し、病気をなおす人の意味を表す」(『新漢語林』②部首は「酉」。「ひよみのとり」「さけのとり」という。「酉」は、酒つぼの象形。②「酒」「酩」「酊」「酔」「酌」「酎」「酢」「酪」「酵」「醸」など、酒や発酵させて作る食品にかんする文字ができている。

(11-8)「高木三省(たかぎさんせい)」・・島田保久編著『蝦夷地醫家人名字彙』(自費出版2015)

には、「たかぎーさんせい」とし、「松前藩医。天保十一年(一八四〇)二月七日、病死者 

の容躰書を書く」とある。 

魯夷始末書6月学習注記


33
-3)「役々之者」・・目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正らの一行。

33-5)「国法」・・国のおきて。

33-6)「陣羽織」・・陣中で鎧・具足の上に着用された上着。

33-7)「着服(ちゃくぶく、ちゃくふく)」・・衣服を着ること。

33-8~10)「文化度・・乱妨ニ及候儀有之」・・文化3年(1806)9月~文化4年(1805)5月にかけて、露米商会の「ユナイ」号(艦長スヴォストフ)などによって引き起こされたクシュンコタン、エトロフ襲撃事件の記述。なお、本書は、「ヱトロフ、クナシリ等ニ於て魯西亜船之人数上陸・・」とあるが、クナシリには上陸していない。

33-9)「剰(あまっさへ、あまつさえ)・・そればかりか。そのうえに。「あまりさへ」の転。近世では、「あまっさへ」と「つ」が促音。現代では「あまつさえ」。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に<「剰」は唐の時代に行なわれた助字で、わが国では「あまりさへ」と訓読された。中世まで一般に「あまさへ」と表記されるが、これは「あまっさへ」の促音無表記。「落窪」には落窪の君の父の言葉に「あまさへ」の語が見えるところから、「あまっさへ」は平安時代にはすでに男子の日常語になっていたと考えられる。近世には「あまっさへ」と表記されるようになり、近代以降は文字に引かれて「あまつさへ」となった。>とある。

3310)「擒(とりこ)」・・いけどり。なお「とりこ」には、「擒」のほか、「虜」「俘」「囚」を当てる。また、語源説に「トリコ(捕籠)の義」などがある。

33910)「我国の人をも擒ニ致、連参」・・ロシア人は、文化3(1805)911日のクシュンコタン襲撃では、番人富五郎ら4人を捕え連行、翌4(1806)423日のエトロフのナイボ襲撃では、五郎治ら5人を連行、同29日のエトロフのシャナ襲を襲撃し、南部藩の火薬師大村治五平を捕えた。

     なお、五郎治は文化9(1812)帰国。シベリア滞在中に牛痘接種法をまなび,もちかえった種痘書はのち馬場佐十郎が翻訳。文政7(1836)松前で種痘を実施した。

34-1)「畢竟(ひっきょう)」・・つまるところ。結局。しょせん。「畢」も「竟」も「終わる」の意。

33-2)「手向(てむかい)」・・腕力や武力を用いて抵抗する。反抗する。

34-2)<かなづかいの話>「相見へ」・・口語の「見える」は、文語ではヤ行下2段活用「見ゆ」。連用形は、ヤ行の「見え」。つまり、ヤ行で活用しているから「見へ」ではなく、「見え」が正しい。「見へ」とすると、ハ行活用だから、終止形は、「見ふ」だが、そういう言い方はしない。同様に、「越える」も文語体は「越ゆ」。連用形は、「越へ」でなく、「越え」。また、「植える」の文語体「植う」もワ行で活用している動詞で、連用形は「植へ」でなく、「植ゑ」が正しい。古文書では、「見え」を「見へ」とする仮名遣いのあやまりがよく見られる。

34―3)「船高(ふなだか)」・・船石高。和船の大きさを示す単位。石高は、積荷である米の石高からきている。

     *<海運雑学>「トン」の由来は酒樽を叩いた音・・船の大きさを現すとき、重量トン、総トンなどの表現が用いられるが、このトンという単位、じつは酒樽を叩いたときの“トン”という音に由来するというのは、嘘のようで本当の話。15世紀頃、フランスからイギリスへボルドー産のワインを運ぶ船の大きさを表すのに使われ始めたものだという。ワインの樽をいくつ積めるかで、船の載荷能力を示した。当時の酒樽1個の容積は約40立方フィート。これにワインをいっぱいに詰めると2,240ポンドになり、これをメートル法で表すと1,016キログラムになる。このため、以前のイギリスの単位では、1トンは1,016キログラムだった。しかし現在ではメートル法が適用され、1,000キログラムが1重量トンになっている。容積も、かつては酒樽1個を単位としていたが、こちらも100立方フィートが1総トンとなり、現在では船の容積に一定の係数を乗じて得られた数値を1総トンとしている。東西を問わず、その時代時代の代表的な貨物が、船の大きさを表す単位になっているわけで、船がいかに人間の暮らしに密着した輸送機関だったかが、こうした点からもよくわかる。(日本船主協会HPより)

34-4)「船高凡三千石積位之異国船」・・ロシア軍艦「オリフツア」号。ブッセ著『サハリン島占領日記』では、「オリフツア」号は、プチャーチン提督指揮下の4艘の艦隊の1艘に加えられて、ひとつで、インペラートル湾から長崎に到来した軍艦で、ヨーロッパで、ロシアが英仏との断交が迫ったことを知ったプチャーチンは、艦隊を北方に展開するに際し、「オリフツア」号をタタール海峡に派遣して、アムール遠征隊長ネヴェリスコイと連絡をとらせたのち、カムチャッカの防衛強化のため、ペトロハバロフスク港へ向かうことを命じた。その途中、カラフトのクシュンコタンに入港した。ブッセは、日記に「万歳!ロシア船が到着した」と喜びを記している。彼は、ネヴェリスコイが開氷期と同時に派遣を約束していたロシア船は到来せず、見張りをアニワ岬に出し、自らもボートでエンドモロ岬を廻航してロシア船の到来を待ち望んでいた。(秋月俊之著『日露関係とサハリン島』)。

34-5)「船将ナセモク」・・軍艦「オリフツア」号の艦長ナジモフ。(秋月俊之著『日露関係とサハリン島』)。

34-7)「長崎使節」・・ロシアの遣日全権使節のプチャーチン。

34-7)「類船四艘」・・プチャーチン一行の軍艦4艘のこと。

    船将プチャーチン:旗艦「ハルラーダー〔パルラダ〕」号。

    船将コルサコフ:「ウストック〔ボストック。ヴォストークとも〕」号。

    船将ナシーモツ(ナジモフ):「アリフツサー〔オリブーツオリフツアとも〕」号。

    船将フウルウルヘルム:「メーンシーユヲ〔メンチコフ。メンシコフとも〕」号。(『幕末外国関係文書之一NO284』)ほか。

34-8)「南京」・・「上海」の誤りか。参考までに、嘉永67月~安政26月までのプチャーチンの日本への航海の行程を略記すると、以下のとおり。

    嘉永6(1853)7.18長崎来航(旗艦「パルラダ」号ほか3隻)同年10.23上海へ同年12.5長崎再来航安政元年(1854)1.8マニラへ琉球巨文島(朝鮮済州海峡)同年3.23長崎再々来航同年3.29インペラートル湾(沿海州)へ。

    安政元年(1854)8.30函館来航(旗艦「ディアナ」号単独)同年9.18大坂(天保山)同年10.14下田来航:〔「ディアナ」号、11.27の安政東海地震により大破、戸田(へだ)村で代船建造。12.21日露和親条約(日露通好条約とも)締結〕安政2年(1855)3.22「ヘダ」号(戸田村に因んで命名)でペトロパブロフスクへ同年6.20ニコラエフスク到着。 

参考文献:秋月著『日露関係とサハリン島』、『新北海道史年表』ほか。

34-8)「ホウチヤチン」・・エフィーミー(エフィム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン。日本語表記「布恬廷」。ロシアの海軍提督。遣日使節。1822年海軍兵学校を卒業、ラザレフの世界周航探検隊に参加し、ペルシア派遣使節などを経たのち、日本との国交および通商関係樹立の特命を受け、53年(嘉永6718日、パルラダ号以下軍艦四隻を率いて長崎に来航した。ロシア皇帝の国書を手交し、千島・樺太の測量と開国通商を求めたが調わず、同年125日再度来航して長崎で通好条約、国境問題の交渉を開始した。クリミア戦争の勃発により、翌年1月一時上海に退いたが、その後も長崎、樺太、箱館などに現れて機をうかがい、1221日下田において日露通好条約を結んだ。下田滞在中に津波にあって乗船ディアナ号を失い、戸田で代船ヘダ号を建造させた。これがわが国での西洋型船建造の始まりである。その後、57年(安政497日長崎で日露追加条約、翌年711日江戸で日露修好通商条約および付属貿易章程の調印に携わり、その功により海軍大将に昇進した。以後文部大臣、国務顧問官などを歴任し、831016日パリで没した。

35-9)「用所(ようしょ)」・・用事、所用。

35-5)「使節会議」・・魯西亜使節応接掛を命じられたのは、大目付格(西丸留守居)筒井肥前守政憲、勘定奉行川路左衛門尉聖謨、目付荒尾土佐守成允。ロシアと日本(筒井と川路)の両者の本格的な会談が行われたのは、嘉永6年(1853)年1220日で、その後、断続的に行われたが、翌年の安政元年(1854)正月8日、プチャーチンは長崎を出航している。(『幕末外国関係文書之一』)

35-5)「同所并大坂松前箱館」・・ロシア側は、ロシアの軍艦、商船に薪水・食料などを供与してもらうために開港を求めた港」は、「其一は本大島の大坂、其一は蝦夷島のハコダテ」(安政元年(1854)正月2日に差しだされた「日露修好条約草案」 『幕末外国関係文書之四―6』所収)の二港であったが、日本側は「大坂」に難色を示し、結局、その後、安政元年(1854)1221日、下田において締結した「日露和親条約」で、「箱館、下田、長崎」の三港に決まり、「大坂」は除外された。なお、ロシアに先立ち、安政元年(185433日に締結した日米和親条約では、下田と松前箱館の二港であり、日露和親条約は、これに沿ったものとなっている。

35-6)「治定(じてい)之書面」・・日本側がロシア側に渡した、安政元年(1854)正月6日付の「開港通商及利益均霑(和親通商問題についての将来の開国(港)と最恵国待遇の約束)の件」の文書と「樺太島経界の件」の文書。

36-4)「異国ニ無相違」・・秋月俊幸著『日露関係とサハリン島』には、この船は「バイカル」号で、「日本側の資料によれば、船印を下して数日間沖合に漂っており、カムチャッカから来たのであるが、哨所の異変を恐れて容易に近づかなったのである。」としている。また、この船は、52日(露暦515日)にクシュンコタンに着船し、同6日に出帆したとある。

36-7)「異変之程」・・秋月俊幸氏は、『日露関係とサハリン島』で、「恐らくはクシュンコタンにおびただしく翻る松前藩の旗指物をみて懸念したものであろう」と述べている。、松前藩兵の1番手は311日、2番手は321日には、クシュンコタンに、すでに到着していた。

36-7)「態(わざと)」・・故意に。

町吟味役中日記 6月注記

(1-1)「天保(てんぽう)三壬辰年」・・1832年。

 *<漢字の話>「天保(てんぽう)」の「保(ほう・ぽう)」・・「保」は、呉音が「ほ」、漢音が「ほう」。日本の元号の「保」は、漢音の「ほう(ぽう)」と読む。

「保元(ほうげん)の乱」、「享保(きょうほう)」「寛保(かんぽう)」「神田神保町(ジンボウチョウ)など。

*古文書に見る年月日の表記・・①元号・年数字・十干・十二支・年②元号・年数字・十干・十二支(年を省略)③元号・年数字・十二支(十干だけを残すことはない)など様々な形式がある。

(1-23)「小四月・小五月」・・太陰太陽暦(俗に陰暦・旧暦と呼ばれる)では、月のみちかけの周期である一朔望月をもとに暦を組立てる。一朔望月は、平均で29.53日であるから、暦の一ヶ月の日数は必ず30日か29日のどちらかになる。30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」という。平朔(各月の朔をきめるのに、朔望月の平均の長さを順次加え朔の日をきめたもの)を用いて暦を作れば、大小の配列は大小大小大小と順序よく大小が交互にあらわれ、16ヶ月くらいに大大となるが、月の運動は大変複雑であるから、定朔(新月の日=朔=が一日となるように、小の月と大の月とを適当に組み合わせていく暦法。)を採用すると大小の順序、配列は多様になる。本テキストの天保3年の場合、大小大小小小大小大小大大小であった。

(2-1)「当番」・・なお、町奉行と町吟味役の勤務は、ともに一人ずつが毎日、一と六の日、すなわち、一・六・十一・十六・二十一・二十六日にそれぞれ交代する五日交代勤務であった。ただし非番でも原則として毎日出勤し、必要に応じ当番にあたる者を助けていた。また、奉行と吟味役のうち一人が毎夜泊り番として宿直に当っていた。

(2-1)「新井田周治」・・町奉行。町奉行は2名いた。

(2-2)「御用番(ごようばん)」・・月番。家老職も月ごと当番で業務にあたっか。

(2-2)「松前監物(まつまえけんもつ)」・・当時の松前藩家老職。

(2-3)「鈴木紀三郎」・・町奉行。

(2-3)「泊番(とまりばん)」・・町奉行2名と町吟味役2名の4人が交代で宿直にあたった。

(2-4)「当賀(とうが)」・・祝賀に当る日。記念日。お祝い。

(2-4)「表御礼(おもておれい)」・・表御殿での領主への拝謁。松前藩では、毎月1日、15に行われた。

(2-4)「内御礼」・・御内礼か。御内礼とは家老以下役職によって直接藩主に謁見することを許されること。

(2-5)「被仰出達(おおせいだされたっし)」・・指令書、指示書、命令書。

(2-7)「新組御徒士席(しんぐみおかちぜき)」・・松前藩の士分の職制のひとつ。足軽から昇進した。町奉行では、小使の職務。

(3-2)「御用状(ごようじょう)」・・御用の書状。主君あるいは官府の公的書状。

(3-5)「内澗町(うちまちょう)」・・現函館市末広町。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・当町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋立てられ、東浜ひがしはま町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。

(3-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など

(3-5)「百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)」・・江戸時代の町人に対して、百姓身分の人々。検地帳に登録された田畑をもち年貢を納める。大部分は農民。年貢を納める漁民・職人・商人なども百姓と称された。

(3-7)「旅籠(はたご)」・・旅籠屋。宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。

旅籠は元来,馬料入れの丈の低い竹籠をさしたが,《今昔物語集》等によれば旅行中に食糧を入れて持参する旅具であった。中世には宿屋が出現して馬の飼料を用意し,その馬槽を宿屋の看板としたことから〈馬駄餉〉,後世転じて旅籠屋というようになった。このようにして旅籠には,馬の食を盛る籠,旅行の食糧雑品を入れる竹の容器,宿屋,宿屋の食料,宿料といった各様の意味と変遷がある。宿屋としての旅籠は江戸時代初期に成立した。

 なお、「旅籠」は、「旗籠」を「旅籠」に書き誤ったところからという説がある。

(4-2)「町方(まちかた)」・・松前藩では、町奉行配下の士分以下の同心。幕藩制国家は従来の農民混住の都市から農民を除外した行政区画を設定して町方とし、農村の村方、漁村の浦方と区別した。町方は町奉行支配とした。松前藩では、町奉行配下に、町方掛、在方掛、下代があり、町方掛には、町方頭取の下に町方がおかれた。

(4-2)「八ツ間縄右衛門」・・嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。

(4-3)「下代(げだい・しただい)」・・一般には下級の役人。松前藩では、町奉行配下に、町下代が置かれた。なお、鈴江英一氏の論考「松前城下・町年寄の職掌と機能―松前藩における城下町支配解明のための一考察―」(『松前藩と松前11号』1977)には、寛政10(1798)の事例として町年寄(2名)のうち1名は町下代兼勤としている。「下代 伝兵衛」とあるから、当時の町年寄の一人、ここでいう「下代」は、町年寄の村山伝兵衛さすのだろうか。

 また、前記鈴江氏の論文で、天明3(1783)の平秩東作の『東遊記』を引いて「江差の地役人として下タ代・・」の記事を紹介している。時代は違うが、「下代」は「しただい」と読んだことも考えられる。

(4-4)「伝兵衛」・・村山伝兵衛か。伝兵衛は、元禄年間に能登国羽咋郡安部屋村から蝦夷地に進出した商人。「伝兵衛」は初代以降の当主によってたびたび襲名されている。本書当時の伝兵衛は6代目。

(4-6)<くずし字>「もの共」の「共」・・脚部の「ハ」は、「ん」のようになる場合がある。

(4-6)「欣求院(ごんぐいん)」・・松前にあった寺院。正保2年(1645)から光善寺の支院に列していた。明治元年(1868)に光善寺に合併。欣求院は、山号が「義経山」で、義経が津軽海峡を渡った際に海上の安全を弥陀如来に祈り、無事に渡ることが出来たので御礼として、仏像千体を作り、祭ったという、いわゆる「義経北行伝説」も伝わる。ちなみに、「欣求」は、仏語。よろこんで願い求めること。心から求めること。

(4-8)「殿様(とのさま)」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。

 *「殿様」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。>とある。

 *「殿」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、<(1)もともとは貴人の邸宅の意だが、のちには邸宅とその住人の両方を表わすようになる。さらに、貴人の名を直接表現することを避ける風習により、住人だけを表わすようになったが、「殿」で称される人物が増加するとともに「殿」の表わす敬意の程度は低下した。

   (2)社会的な高位者に対する呼称から、相対的上位者、すなわち表現者よりも高い地位の者に対する呼称として用いられるようになり、たとえば、従者が主人に、妻が夫に、女が男に対して用いることになる。>とある。

   **「殿(しんがり)」・・「臀(デン)」と通じ、しり、うしろ、しんがり、最後部。なお、軍隊の先鋒、さきぞなえ・さきばらいは「啓」。

 *「様」・・室町時代から用いられ、「殿(どの)」より丁重な表現であった。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意が低下し、それに代わって「様」が使われるようになった。室町期においては「様」が最も高い敬意を表わし、「公」に続く三番目に「殿」が位置していた。江戸期には「様」の使用が増加し、「様」から転じた「さん」も江戸後期には多用されるようになる。なお「殿」から転じた「どん」は、奉公人に対してだけ用いる呼称という制約もあり、勢力が拡大しないまま衰退したが、方言として敬意を示すのに使う地域もある。>とある。

   **「さん」・・「さま(様)」の変化した語。「さま」よりくだけたいい方。

   ***ビジメスマナーとしての「殿」、「様」・・公文書の宛先は「殿」を用いるのが一般的だが、尊大な印象があるので、「様」を用いる自治体も増加しており、使い分けは揺れている。

(4-8)「被為入(いらせられ)」・・おはいりになり。「入(い)る」の未然形「入(い)ら」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の連用形「被(られ)」

(5-12)「南條長六郎」・・町吟味役。

(5-3)「砌(みぎり)」・・「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。また、境界。さらに転じて、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

(5-4)「御直(おじき)」・・直接、主君の側近に親しく仕えている家臣。松前藩では、奥用人を指すか。なお、永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色」(『新しい道史 第11号』 所収 北海道総務部文書課 1965)に、「奥用人」について「藩主の側近にあって、藩主の行動日程の設定、家老、用人との連絡事項の伝達、大奥弘敷との連絡などが、主たる業務で1~2人が任命された。その系列には、側頭=御近習頭=御納戸番=祐筆=御奥弘敷番=御近習=御部屋付=北ノ丸御隠居番=刀番=医師=御馬取=草履取などがあった」と述べている。

(5-6)「口書(くちがき)」・・口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有す町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結る者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。

(5-6)「取調子(ちょうしと)ル」・・「調子」は、語調。「調子を取る」は、物事のぐあいをちょうどよい状態に整えること。「てにをは」を合わせる、漢詩などで平仄(へいそく)・韻を踏むこともいう。

(5-8)「光善寺(こうぜんじ)」・・松前郡松前町字松城にある浄土宗の寺院。近世の松前城下寺町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。松前藩主の菩提所の一つで、藩主の奥方の墓がある。なお松前藩主の墓所のある菩提寺は、法幢寺(ほうとうじ)。

(6-4)「新井田寄右衛門」・・不詳。

(6-4)「木村弥三郎」・・「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』

所収)に、「先手組」「御武器方」に名がみえる。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もしなどの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。(5-4)「御直(おじき)」の項参照。

(7-8)「押込(おしこみ)」・・監禁する。とじこめる。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

町吟味役中日記 注記1【はじめに】

1.『町吟味役中日記』の書誌

 ①本書は、北海道大学附属図書館(以下北大図書館)所蔵(請求番号・奥平家130)である。同図書館が所蔵する奥平家資料は全部で161点にのぼる。本書はそのなかの1点である。

 ②本書は、松前藩町吟味役を勤めた奥平貞守(勝馬)の天保3(1832)4月、5月の勤務日記で、93丁ある。

 ③本書に押されている受入印によると、「JUL.20.‘33」とあるから、昭和8(1933)220日に現北海道大学の前身である北海道帝国大学附属図書館が所蔵したことになる。

 ④奥平家資料の中に、奥平貞守の子孫である奥平義行氏が述べた『奥平家文書の著者に就て』では、

  ・昭和4(1929)2月、義行氏の父・敬太郎死去

  ・同年6月、義行氏は樺太庁技師として出向、亡母に託した家伝の古写本全部が散逸。

  ・昭和417月、古本屋で「北海道総務部企画室編 北海道史料所在目録第5集」記載の「奥平家文書の著者について」を発見。

  ・義行氏は前掲書のなかで、「当方から寄附申出又ハ売却など考えられず、何者かの処置によっての結果であるが、よくも本道学究の総元締である北大に蔵せられてゐる事はその処を得たものとして喜びに堪えない」と述べている。

 ⑤以上から、本書は、昭和4年から同8年の間に、北大図書館の所蔵になったものと考えられる。

2.奥平貞守(勝馬)の来歴

 『奥平家文書の著者に就て』に詳しいが、略歴を述べる。

 ・天明7(1787)117日、桑名藩士奥平貞親の長男として生まれる。

 ・文政7(1824)811日、松前藩に召出され桑名出発。

 ・同年927日、手先組被仰付。

 ・文政8(1825)214日、側役被仰付。

 ・文政10(1827)410日、中小姓中の間被仰付。

 ・文政11(1828)523日、目付役被仰付。

 ・文政12(1828)215日、ソウヤ勤番物頭役被仰付。

 ・天保元年(1830)88日、町吟味役被仰付。本書は、徳馬のこの時期の日記。

 ・天保6(1835)215日、エトロフ勤番物頭役被仰付。

 ・天保9(1838)511日、町吟味役被仰付。

 ・天保14(1843)512日、見廻取締方掛被仰付。

 ・弘化元年(1844)215日、ソウヤ勤番物頭役被仰付。

 ・嘉永元年(1848)48日、御そば物頭役被仰付。

 ・嘉永3(1850)7月まで勤務、病気のためお役御免。

 ・同年112日死去。法源寺に埋葬。

3.近世の蝦夷地と松前藩

①松前藩の成立・松前藩時代・・慶長年間より寛政11(1799)までの約200年間

・慶長9(1604)、松前慶広(よしひろ)、家康より黒印状を頂戴する。以後、将軍代替のつど、蝦夷地の領知権、徴役権、交易の独占権を認める黒印制書を受ける。

②前期幕府直轄時代(松前藩は「梁川時代」)・・寛政11年より文政4年(182112

までの1510ヶ月の間。

・寛政4年(1792)ロシア使節ラックスマンの来航をはじめ、外国船の到来により、幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。

・寛政11(1799)116日、東蝦夷地ウラカワ以東知床及び東奥島々までの仮上知。

・同年812日、シリウチ川以東の追上知。

 ・同年928日、幕府、代地5000石の地として武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。

 ・享和2(1802)、幕府、蝦夷地奉行を新設。同年510日、箱館奉行と改称。

 ・同年724日、東蝦夷地の永上知。

 ・文化4(1807)322日、蝦夷地一円の上知。727日、松前藩に新領地が示され、松前藩は、陸奥梁川へ移封。

 ・同年1024日、幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

 ③松前家の復領時代・・文政4年より安政2(1855)2月までの333ヶ月の間

 ・文政4(1821)127日、幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

  表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、旧来の通り、松前氏に蝦夷地を領有させるとした。裏面には、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成がそうしたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

 ④後期幕府直轄時代(松前藩は道南地域部分支配)・・安政22月より明治元年(1868)4月箱館裁判所設置に至る133ヶ月の間。

  嘉永6(1853)7月、ロシア使節プチャーチン来朝、境界の決定と和親通商を請求。同8月、ロシア兵、クシュンコタン占拠、安政元年(1854)3月、日米和親条約締結、箱館開港などを背景に、幕府は蝦夷地の再直轄に乗り出す。

 ・安政元年(1854)626日、幕府、箱館および同所より6里四方を上知。

 ・同年630日、幕府、箱館奉行を置く。

 ・安政2(1854)222日、幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。

○松前藩の福山城下および東部木古内村以西、西部乙部村以南は、松前藩として残ったほか、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

 ⑤松前地の一部返還

・元治元年(1864)1119日、乙部~熊石の8ケ村が返還される。

幕末の蝦夷地は、東部・木古内村以西、西部・関内村以南が松前家所領、それ以外は、幕府直轄領と分割支配体制となった。

⑥附:明治維新と松前藩

<版籍奉還まで>

・明治元年(1868)412日、新政府、箱館裁判所設置。

・同年91日、松前藩、館(たて)村(現桧山郡厚沢部町城丘)に築城開始。

・同年1025日、完成。

・同年113日、松前藩13代徳広、館城に入城。

・同年1111日、徳広、榎本軍の襲撃で、館城を出る。

・同年1119日、徳弘、熊石の関内から津軽へ逃れる。

・同年1129日、徳広、弘前で死去。

・明治2(1869)19日、修広(ながひろ)14代襲封(しゅうほう)。

・同年49日、新政府軍と松前藩兵(修広)、乙部上陸。

・同年417日、修広、福山奪還。

・同年624日、修広、版籍奉還。松前藩は、館藩と称し、修広、館藩知事に任命される。所領は、渡島国福島、津軽、爾志、檜山の4郡。(明治14.7.8福島郡と津軽郡は、合併し松前郡と改称)

<開拓使移管まで>

・明治4(1871)714日、廃藩置県で、館藩は、「館県」となる。

・同年99日、館県、「弘前県」に併合(9.23・・弘前県は、「青森県」と改称)

 ・明治5(1872)920日、「青森」県の渡島国4郡(旧松前藩領)を開拓使に移管。

4.松前藩の職制と寺社町奉行・町吟味役

 ①松前藩の職制

松前藩の職制は、復領後も、移封以前と大きく変わることはなかった。

  また、本州諸藩と著しく異なった点を挙げると、「他藩にあっては、町方は町奉行、寺社方は寺社奉行(宗門奉行などの名称もある)というように、町方と寺社方を司る役職が分かれている例が多かった」が、松前藩にあっては、両者を寺社町奉行が統一して支配した。」(『松前町史通説編第一巻上』)

 ②寺社町奉行の成立と職掌

 以下、『松前町史通説編第一巻上』を参考に述べる。

 寺社町奉行の設置年代は定かでないが、『新羅之記録』の記事から、慶長17(1613)以前にはすでにその設置をみていた。その職掌は、単に町方と寺社方にかかわるものだけでなく、和人地と蝦夷地の支配にかかわる広範囲なものであった。また、出入船舶・人物などいわば沖の口番所にかかわる権限さえ所持していた。

 寺社町奉行がこうした権限を所有していたのは、松前藩にとっては、蝦夷地と和人地の統一的支配と本州諸港との商品流通の統制が、藩制成立当初から藩の存立基盤そのものにかかわる重大課題となり、寺社町奉行は、まさにこうした課題に対処するための諸職の要として位置づけられていた。寺社町奉行は、用人が兼任する場合が多かったが、こうした現象も、寺社町奉行の位置づけと深くかかわるものであった。

 なお、寺社町奉行支配下の役所は、「町奉行所」または「町役所」と称し、寛文7(1667)までは蔵町にあったが、その後川原町の現松前町役場所在地に移された。

 ③町役人の組織

 城下の支配体制は、町奉行を頂点とし、部下に町吟味役を配した。町奉行、町吟味役は各2名ずつ任命された。奉行所の出納にあたる町下代が置かれた。町役人としては、町年寄の下に、名主・町代がおり、また、五人組が組織されて、そこには組合頭(組頭)を置いた。町奉行の職務は、城下と城下付在々の民政全般・裁判・ 警察などの治安、諸税収納・産業・駅馬往来・人別・地所割渡など広範囲なものであった。

④町吟味役勤務日記の意義

町吟味役の勤務日記については、奥平勝馬の日記として、天保3(1832)4月、5月、9月分の記録として『町吟味役中日記』、天保7(1836)821日から1225日にかけての『町吟味役御勤中日』、翌天保8(1837)正月」元日から1225日にかけての『当番御用記』があり、また、天保5(1834)以降町吟味役を勤めた工藤茂五郎(後に長栄)の『松前藩町奉行所吟味役 工藤長栄日記』がある。

『松前町史』はこれらの史料の意義について、「必ずしも連日の記録ではないことと、欠年があること等の制約はありつつも、いわゆる天保の大飢饉を間にはさむ時期の記録でもあり、また松前藩の治安・警察・裁判担当者の直接の記録であることから、当時の犯罪・裁判・刑罰の実態を知る上で、他に代えがたい史料である」と記している。

魯夷始末書5月学習分注記

29-1)「一通(ひととおり)」・・ひとわたり。あらまし。

29-1)「承糺(うけたまわりただし)」・・よく話しを訊いて問い糾し。

29-2)「小屋より」・・「より」の左に「へ」があるが、「ヽ」で、消してある。これを「見せ消ち」という。「小屋へ」と書いて、後「小屋より」と訂正してある。

     *松前藩士三輪らが、アニワ湾西岸のリヤトマリへ到着したところ、プッセの命を受け、ムラヴィヨフ哨所より派遣されたリョースキンと、ヱレキセイフとアレクセーエフが滞在していたことをいう。

「小屋」は、クシュンコタンにロシアが構築した・ムラヴィヨフ哨所。

29-2)「士卒之内 (空白部分) と申者」・・「空白部分」は、へレケンとヱレキセイフの2人か。『サハリン島占領日記』(平凡社刊 東洋文庫 ニコライ・ブッセ著、秋月俊幸訳)によれば、「ヘレケン」はコサックの「ベリョースキン」、「ヱレキセイフ」は水兵の「アレクセーエフ」とある。

29-2)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。

29-3)「首長(しゅちょう)」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長・プッセのこと。

29-6)「申諭(もうしさとし)」・・連用形。言い聞かせて納得させること。教えてのみこませること。

29-7)「小屋場(こやば)」・・ムラヴィヨフ哨所。

29-9)「偽言(ぎげん)」・・うそ。虚言。

2910)「無跡形(あとかたなき)」・・痕跡をとどめないこと。根拠がないこと。

2910)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。いざこざ。

30-1)「事を好む」・・何か事件が起こることを望む。事を荒立てたがる。求めて争おうとする。事を構う。

     *「事」・・事件、出来事、変事。特別な用事。「ことあり」「こと出ず」「ことにのぞむ」「ことに遇う」などの形のときは、事件、変事などの意を表わし、「こととする」「ことと思う」などでは、重要な事態の意で用いられ、指定の助詞・助動詞を伴って述語になるときは、大変だの意となる。

30-1)「無思慮(むしりょ・ぶしりょ)」・・思慮の足りないこと。深い考えのないこと。また、そのさま。「無」を「ブ」と読むのは漢音。「ム」は呉音。

30-3)「不少(すくなからざる)」・・返読。少なくないこと。

30-3)<くずし字>「御座候」・・別紙に連綿体。

30-4)<くずし字>「懸念」の「懸」・・「を」や「近」と似ている。

30-5)「聊以(いささかもって)」・・「聊」は、「少しも。ちっとも。ほんのちょっと。」の意で、下に打消しの言葉を伴って使われる。「以(もって)」は、動詞「もつ(持つ)」の音便形に接続助詞「て」のついたもので、動詞本来の意味が次第に薄れて、助詞のように用いられるようになった。したがって「聊以」は、「少しも、(~ない。)」という形でもちいられる。

30-5)「闘論(とうろん)」・・言い争うこと。論議を闘わすこと。

30-6.7)「葡萄等」・・「葡萄」の次の字は、不詳。因みに、前掲『サハリン島占領日記』では、「棒砂糖と数フントの乾スモモと乾ブドウ」とある。

30-8)「演(えんじ)」・・連用形。言葉で述べること。詳しく述べること。

30-8)「承受(しょうじゅ・うけたまわりうけ)」・・お受けする。

30-9)「預置(あずかりおき)」・・連用形。保管、管理しておくこと。

30-9)「応対(おうたい)」・・ある問題について話し合うこと。談判。

31-2)<変体仮名>「通弁いたし」の「た(堂)」・・「堂」は変体仮名。音読みでは「ドウ」であるが、「と」とするのは、「トウ」の原音「ダウ」による。また、歴史的仮名遣いで、「堂」を「ダウ」と書いた。

31-3)「ロシカイ」・・ロシア。ロシアは、九世紀にロシア平原の西部に興り、のちヨーロッパの東部からシベリアに及ぶ地域を支配したスラブ民族を中心にした巨大国。九世紀後半キエフ公国の成立後、一二世紀には封建的諸公国の分立時代となり、一三世紀にモンゴルの征服を受け一時期キプチャク‐カン国の属国となった。その後一四世紀にはロシア帝国のもととなるモスクワ大公国が生まれ、中央集権国家として成長。一七世紀以降はロマノフ家の支配が始まりピョートル一世の時に絶対主義体制を完成、ロシア帝国として発展。しかし、1917年の二月革命によりロマノフ朝は崩壊。続く十月革命によりソビエト社会主義共和国連邦が成立。1991年、バルト三国を除く旧ソ連邦構成国(一二か国)とともに独立国家共同体を結成。オロシャ。

31-4)「ニカラ地名」・・ニコラエフスク・ナ・アムール。「ニコラエフスク」とも。日本名「尼港」。『世界地名大事典』(小林房太郎著 日本図書センター)には、「我が国人は、単に尼港と呼び、シベリアの東部即ち極東地方に位する都邑で、1850年、ネウェルスキー将軍が之を占領し、露帝ニコライ一世の名によりし、ニコライエフスクと命名した。其位置が黒竜江口に近く(上流80キロ)、江の左岸に位し、1855年軍港となり一時は盛大を極めたが、同軍港を浦塩斯徳(ウラジオスットク)に移せしより次第に衰えた。」とある。

     *「尼港事件(にこうじけん)」・・シベリア出兵中、黒龍江口のニコラエフスクを占領していた日本軍が、1920年(大正92月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが312日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。パルチザンに包囲されて全員殺害された事件。日本は事件解決まで北樺太を保障占領したが、賠償要求も成らず撤退した。

31-4)「都府(とふ)」・・みやこロシアの帝都「サンクトペテルブルク」のこと。日本語では「ペテルブルク」と表記されることもある。1703年、ピョートル一世がペトロパヴロフスク要塞を建造したことに始まり、「ザンクトペテルブルク」と名付けられ、1712年から1914年の十月革命に至る迄、ロシア帝国の首都であった。

31-4)「ニカライ長官」・・ロシアの皇帝ニコライ1世(在位182555)。パーベル1世の三男として生まれる。長兄アレクサンドル1世の急死と、次兄コンスタンティン大公の皇位継承権放棄によって、1825年即位した。おりからデカブリストが首都ペテルブルグの元老院広場で反乱を起こしたが、軍隊を使ってこれを鎮圧し、主謀者を処刑した。まじめな性格で規律を愛し、生涯を通じて革命思想、自由思想を弾圧した。26年、悪名高い秘密警察「皇帝官房第三課」を創設し、プーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンら多くの文学者や思想家を流刑にした。3031年のポーランドの反乱、4849年のハンガリーの革命を厳しく抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられた。中央アジアに出兵して、領土を拡張したが、クリミア戦争を引き起こし、敗色濃いなかで死去した。

31-5)「イニブスコイ」・・東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けて、嘉永691日、クシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。

31-6)「去秋退帆」・・ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した嘉永6(1853)96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。

     ネヴェルスコイは、沿海州インペラートル湾のコンスタンチノフスク哨所に寄港して、ポシニャークをその指揮官として残し、デ・カストリ湾のハツトマリのアレクサンドロフスク哨所に帰着した。

31-6)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と思われる。

31-7)「マンゴー川」・・アムール川。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長四三五〇キロメートル。黒龍江。

31-7)「営柵(えいさく)」・・とりでを建設すること。ネヴェルスコイは、アムール河河口上流にニコラエクス哨所を設置した。

31-7)「戍兵(じゅへい)」・・辺境の守備の兵。「戍」は、「人」+「戈(ほこ)」で、人がほこを持って守るの意味。特に辺境を守るの意味を表す。

31-7)「籠置(ろうち・こめおき)」・・留め置くこと。

32-1)「営砦(えいさい)」・・とりで。

32-2)「書役(かきやく)」・・文書の起草、記録などの事に当たる役。書記。なお、江戸時代、町年寄、町名主の補助をするための町(ちょう)役人のことで、江戸では、「書役」ともいい、自身番に出勤して、文書作成などの事務にあたった。

32-4)「ウンラ」・・樺太南海岸。日本名「雲羅」。吉田東伍著『大日本地名辞書』では、「露人ペルワヤパーヂ(一之澤)の地なるべし、九春古丹の北一里許、此辺に旧ウシュンナイといへる夷村もありしとぞ。」とある。

32-5)「無拠(よんどころなく)」・・返読。やむを得ないこと。

32-7)「瓦土(かわらつち)」・・粘土。

32-8)「圃地(はたち)」・・畑。菜園。なお「田圃(たんぼ)」は、「たのも(田面)」あるいは「たおも(田面)」の音変化で、田と畑ではなく、水田をいい、「田圃」は当て字。

32-8)「五升芋(ごしょういも)」・・「ばれいしょ(馬鈴薯)」(農林水産省の品種登録の名称)の異名。「じゃがいも」とも。「五升芋」は方言で、他に類似の方言として、「ごおしょういも」、「ごおしゅういも」、「ごおしいも」、「ごしいも」、「ごしも」、「ごしょなりいも」があるとしているものがある。

      探検家最上徳内が天明6年(1786)に本道に持ち込んだ時は「五升芋(ごしょういも)」を使っており、また、『村垣淡路守公務日記之九』の安政4年4月5日、同6日の条に、(米国捕鯨船が箱館へ入港したことにより)、亜国士官ライス江、「五升芋二俵、梨子二箱遣し候」と、「五升芋」を贈ったことが記されている。「五升芋」の語源説に、「こうしゅういも(甲州芋)」の転とという説もある。

32-7)「下地(したじ)」・・土台。基礎。

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