森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

町吟味役中日記 7月注記

(6-4)「新井田壽右衛門」・・『松前藩士名前控』(北大附属図書館蔵)の「新組御徒士衆」に名前がある。

(6-4)「木村弥三郎」・・『松前藩士名前控』の「士席御先手組」に、「木村弥三郎」の名前が

ある。また、『御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳』(『松前町史史料編第1巻』所収)

に、「先手組」「御武器方」に「木村弥三郎」の名がみえる。

(6-4~5)「新井田壽右衛門、木村弥三郎居宅江之通り」・・「福山城下家臣屋敷割復元図」(『松前町史通説編第一巻下』所収)を見ると、松前城下愛宕町通りか。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「可申達旨(もうし・たっす・べき・むね)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の終止形「達す」+「可(べし)」の連体形「可(べき)」+「旨(むね)」

(6-9)「可被申達(もうし・たっせ・らる・べく)」・・組成は、「申す」の連用形「申し」+「達す」の未然形「達せ」+「らる」の終止形「らる」+「可(べし)」の連用形「可(べく)」

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もし、などの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。つまり、「則」は「即」。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。

(7-5)「杦村伝五郎」の「杦」・・国字。「杉」の旁の「彡」を書写体に従って「久」に改めた

もの。筆書きで、「彡」の最後の[]を「ゝ」のように書いたのを「亥」の最後3画のよう

にし、[ノ人]の初め2画[ノノ]をИ字状に続けて[]のように書いたものを、活字にす

るときに、書かれたとおりに作ったので、[][ノ人][]と変化した。

*同様に、「形」「彫」「影」など、「彡」を含む漢字のくずし字は、「久」となる場合があ

る。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-6)「新井田」の名前は「周治」か「周次」か。

(7-8)「押込(おしこめ)」・・江戸時代の刑罰の一種。門を閉じ蟄居(ちっきょ)させ、外出

を禁ずるもの。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

(8-3)「深泊り」・・現青森県東津軽郡外ケ浜町蟹田塩越。東は陸奥湾に面し、南は石浜村、

西は山を隔てて小国村、北は二ッ谷村に接する。古くは、東風泊(こちどまり)と呼

ばれ、貞享4年(1687)の検地帳には深泊の名がみえる。小字に塩越の名がある。明治

22年(1889)の町村制施行と同時に、石浜村の字として貞享年の検地帳の字名をと

り、塩越となった。享和2(1802)の「測量日記」に家一六軒とあり、嘉永3年(1850

の「東奥沿海日誌」に「深泊り村同じく人家二十軒斗」とある。明治初年の「新撰陸奥国

誌」に家数四六としてる。

 『蟹田町史』には「蟹田浜の追鰊漁師らは二月末から・・松前へ渡海し、あるいは、鰊漁場の使用人に転向したり、土着する人も多かった」とある。

(8-5)「引合(ひきあい)」・・連れ。配偶者。

(8-7)「馬形端立町(まかどはたてまち)」・・大松前川と伝治沢川(大泊川)に挟まれた海岸段丘上にある。海岸段丘上の台地を「まかどの」「まがとの」と称し、馬形野観音が文安―宝徳年間(1444―)頃造立された。多くの文献は、「馬形町」と「端立町」を別々にしている。天保14年(1843)の御触留書(市立函館図書館蔵)に「馬形羽立(まかどはたて)町一本橋通り」とある。

 『松前町史通説編第一巻下』所収の天保14(1843)の「公定価格・借家家賃」表」には、「馬形足軽町」「馬形東新町」「馬形東上町」「馬形東中町」「馬形東下町」があり、「馬形羽立町通り」もある。

(8-9)「口書爪印(こうしょつめいん)」・・江戸時代、法廷での取調べの後、その口書(くちがき)を読み聞かせてその誤りのないことの承認の証として、それに爪印を押させたこと。

 *「口書(くちがき)」・・江戸時代、検使役人が作成した調書のこと。変死や殺人、傷害など検使を要する事件が発生した際、現場で関係者の供述を記したもの。

 *「爪印(つめいん)」・・江戸時代の刑事裁判で、被疑者が口書(くちがき)に捺印する場合に用いられた印。重罪にあたる被疑者は吟味中入牢させられ、普通、印を所持していないため、この方法がとられた。ただしこれは庶民に限られ、武士には書判(かきはん)を書かせた。爪判。

*「爪印(つまじるし)」・・①文章などの注意すべきところや、よくわからないところ、すぐれたところ、またすぐれた和歌などにつめの先でつけておくしるし。爪点。②遊女と客が互いの愛情の変わらないことを表わすための証。また、そのような行為。もと、客への心中だてのために、遊女が自分のつめをはがしておくったことから派生したことばという。

(8-9)「某(それがし)」・・自称。他称から自称に転用されたもの。もっぱら男性が謙遜して用い、後には主として武士が威厳をもって用いた。わたくし。

 *「某(なにがし)」・・他称。名の不明な人・事物をばくぜんとさし示す。また、故意に名を伏せたり、名を明示する必要のない場合にも用いる。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には<「それがし」が自称にも用いられはじめたのは、「なにがし」の場合よりやや遅い。>」とある。

(10-3)「年行事(としぎょうじ)」・・

江戸時代、一年任期で五人組や問屋・株仲間など商工業の組合の事務を処理した世話役。「行事」は、江戸時代、町内または商人の組合などで、その組合を代表して事務を執り扱う人。

(10-5)「薬服(やくふく)」・・薬を服用すること。

(11-1)「取質(とりしち)」・・品物を預かって、お金を渡すこと。

(11-2)「受質(うけしち)」・・元金と質料を受け取り、預かっている質草を返却すること。

(11-2)「御目長(おめなが)」・・「めなが(目長)」の敬語。目先のことにとらわれないで気ながに物事を見るさま。ながい目でみるさま。

(11-4)「傳兵衛(でんべえ)」・・町吟味役配下の町年寄。場所請負人。

 *「町年寄」・・鈴江英一著『北海道町村制度史の研究』(北海道大学図書刊行会 1985

 を引用して、町年寄について記す。町年寄は、「藩士目見以上ノ格式ヲ付与シ、且帯刀ヲ許ス。其町年寄ニ登用セラレ勤功アルモノハ士席ニ列ス」(村尾元長著『維新前町村制度考』)とあるように、町年寄に選任されるのは、全町民一般からでなく、上層の町人に限られる。この町人層はまた、藩主らの吉凶などにあたって先んじて多額の献金をし、これに対して酒肴などを下賜される関係を持つなど、藩とは特別な交渉のある城下の特権的商人層である。表の町年寄の氏名をみても、町年寄と特権的商人層の結合が窺える。

    藩御用達・・伊達・栖原

    問屋及び頭取一族・・上田(近江屋)・富永・張江

    場所請負人とその一族・・村山・西川・林・塩田・桜庭

(11-8)<漢字の話>「醫師」の「醫」・・①「醫」は「医」の旧字体。音符の「殹」は、「エイッという、まじないの声の擬声語。治療に薬草酒を用いるようになり、酉を付し、病気をなおす人の意味を表す」(『新漢語林』②部首は「酉」。「ひよみのとり」「さけのとり」という。「酉」は、酒つぼの象形。②「酒」「酩」「酊」「酔」「酌」「酎」「酢」「酪」「酵」「醸」など、酒や発酵させて作る食品にかんする文字ができている。

(11-8)「高木三省(たかぎさんせい)」・・島田保久編著『蝦夷地醫家人名字彙』(自費出版2015)

には、「たかぎーさんせい」とし、「松前藩医。天保十一年(一八四〇)二月七日、病死者 

の容躰書を書く」とある。 

魯夷始末書6月学習注記


33
-3)「役々之者」・・目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正らの一行。

33-5)「国法」・・国のおきて。

33-6)「陣羽織」・・陣中で鎧・具足の上に着用された上着。

33-7)「着服(ちゃくぶく、ちゃくふく)」・・衣服を着ること。

33-8~10)「文化度・・乱妨ニ及候儀有之」・・文化3年(1806)9月~文化4年(1805)5月にかけて、露米商会の「ユナイ」号(艦長スヴォストフ)などによって引き起こされたクシュンコタン、エトロフ襲撃事件の記述。なお、本書は、「ヱトロフ、クナシリ等ニ於て魯西亜船之人数上陸・・」とあるが、クナシリには上陸していない。

33-9)「剰(あまっさへ、あまつさえ)・・そればかりか。そのうえに。「あまりさへ」の転。近世では、「あまっさへ」と「つ」が促音。現代では「あまつさえ」。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に<「剰」は唐の時代に行なわれた助字で、わが国では「あまりさへ」と訓読された。中世まで一般に「あまさへ」と表記されるが、これは「あまっさへ」の促音無表記。「落窪」には落窪の君の父の言葉に「あまさへ」の語が見えるところから、「あまっさへ」は平安時代にはすでに男子の日常語になっていたと考えられる。近世には「あまっさへ」と表記されるようになり、近代以降は文字に引かれて「あまつさへ」となった。>とある。

3310)「擒(とりこ)」・・いけどり。なお「とりこ」には、「擒」のほか、「虜」「俘」「囚」を当てる。また、語源説に「トリコ(捕籠)の義」などがある。

33910)「我国の人をも擒ニ致、連参」・・ロシア人は、文化3(1805)911日のクシュンコタン襲撃では、番人富五郎ら4人を捕え連行、翌4(1806)423日のエトロフのナイボ襲撃では、五郎治ら5人を連行、同29日のエトロフのシャナ襲を襲撃し、南部藩の火薬師大村治五平を捕えた。

     なお、五郎治は文化9(1812)帰国。シベリア滞在中に牛痘接種法をまなび,もちかえった種痘書はのち馬場佐十郎が翻訳。文政7(1836)松前で種痘を実施した。

34-1)「畢竟(ひっきょう)」・・つまるところ。結局。しょせん。「畢」も「竟」も「終わる」の意。

33-2)「手向(てむかい)」・・腕力や武力を用いて抵抗する。反抗する。

34-2)<かなづかいの話>「相見へ」・・口語の「見える」は、文語ではヤ行下2段活用「見ゆ」。連用形は、ヤ行の「見え」。つまり、ヤ行で活用しているから「見へ」ではなく、「見え」が正しい。「見へ」とすると、ハ行活用だから、終止形は、「見ふ」だが、そういう言い方はしない。同様に、「越える」も文語体は「越ゆ」。連用形は、「越へ」でなく、「越え」。また、「植える」の文語体「植う」もワ行で活用している動詞で、連用形は「植へ」でなく、「植ゑ」が正しい。古文書では、「見え」を「見へ」とする仮名遣いのあやまりがよく見られる。

34―3)「船高(ふなだか)」・・船石高。和船の大きさを示す単位。石高は、積荷である米の石高からきている。

     *<海運雑学>「トン」の由来は酒樽を叩いた音・・船の大きさを現すとき、重量トン、総トンなどの表現が用いられるが、このトンという単位、じつは酒樽を叩いたときの“トン”という音に由来するというのは、嘘のようで本当の話。15世紀頃、フランスからイギリスへボルドー産のワインを運ぶ船の大きさを表すのに使われ始めたものだという。ワインの樽をいくつ積めるかで、船の載荷能力を示した。当時の酒樽1個の容積は約40立方フィート。これにワインをいっぱいに詰めると2,240ポンドになり、これをメートル法で表すと1,016キログラムになる。このため、以前のイギリスの単位では、1トンは1,016キログラムだった。しかし現在ではメートル法が適用され、1,000キログラムが1重量トンになっている。容積も、かつては酒樽1個を単位としていたが、こちらも100立方フィートが1総トンとなり、現在では船の容積に一定の係数を乗じて得られた数値を1総トンとしている。東西を問わず、その時代時代の代表的な貨物が、船の大きさを表す単位になっているわけで、船がいかに人間の暮らしに密着した輸送機関だったかが、こうした点からもよくわかる。(日本船主協会HPより)

34-4)「船高凡三千石積位之異国船」・・ロシア軍艦「オリフツア」号。ブッセ著『サハリン島占領日記』では、「オリフツア」号は、プチャーチン提督指揮下の4艘の艦隊の1艘に加えられて、ひとつで、インペラートル湾から長崎に到来した軍艦で、ヨーロッパで、ロシアが英仏との断交が迫ったことを知ったプチャーチンは、艦隊を北方に展開するに際し、「オリフツア」号をタタール海峡に派遣して、アムール遠征隊長ネヴェリスコイと連絡をとらせたのち、カムチャッカの防衛強化のため、ペトロハバロフスク港へ向かうことを命じた。その途中、カラフトのクシュンコタンに入港した。ブッセは、日記に「万歳!ロシア船が到着した」と喜びを記している。彼は、ネヴェリスコイが開氷期と同時に派遣を約束していたロシア船は到来せず、見張りをアニワ岬に出し、自らもボートでエンドモロ岬を廻航してロシア船の到来を待ち望んでいた。(秋月俊之著『日露関係とサハリン島』)。

34-5)「船将ナセモク」・・軍艦「オリフツア」号の艦長ナジモフ。(秋月俊之著『日露関係とサハリン島』)。

34-7)「長崎使節」・・ロシアの遣日全権使節のプチャーチン。

34-7)「類船四艘」・・プチャーチン一行の軍艦4艘のこと。

    船将プチャーチン:旗艦「ハルラーダー〔パルラダ〕」号。

    船将コルサコフ:「ウストック〔ボストック。ヴォストークとも〕」号。

    船将ナシーモツ(ナジモフ):「アリフツサー〔オリブーツオリフツアとも〕」号。

    船将フウルウルヘルム:「メーンシーユヲ〔メンチコフ。メンシコフとも〕」号。(『幕末外国関係文書之一NO284』)ほか。

34-8)「南京」・・「上海」の誤りか。参考までに、嘉永67月~安政26月までのプチャーチンの日本への航海の行程を略記すると、以下のとおり。

    嘉永6(1853)7.18長崎来航(旗艦「パルラダ」号ほか3隻)同年10.23上海へ同年12.5長崎再来航安政元年(1854)1.8マニラへ琉球巨文島(朝鮮済州海峡)同年3.23長崎再々来航同年3.29インペラートル湾(沿海州)へ。

    安政元年(1854)8.30函館来航(旗艦「ディアナ」号単独)同年9.18大坂(天保山)同年10.14下田来航:〔「ディアナ」号、11.27の安政東海地震により大破、戸田(へだ)村で代船建造。12.21日露和親条約(日露通好条約とも)締結〕安政2年(1855)3.22「ヘダ」号(戸田村に因んで命名)でペトロパブロフスクへ同年6.20ニコラエフスク到着。 

参考文献:秋月著『日露関係とサハリン島』、『新北海道史年表』ほか。

34-8)「ホウチヤチン」・・エフィーミー(エフィム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン。日本語表記「布恬廷」。ロシアの海軍提督。遣日使節。1822年海軍兵学校を卒業、ラザレフの世界周航探検隊に参加し、ペルシア派遣使節などを経たのち、日本との国交および通商関係樹立の特命を受け、53年(嘉永6718日、パルラダ号以下軍艦四隻を率いて長崎に来航した。ロシア皇帝の国書を手交し、千島・樺太の測量と開国通商を求めたが調わず、同年125日再度来航して長崎で通好条約、国境問題の交渉を開始した。クリミア戦争の勃発により、翌年1月一時上海に退いたが、その後も長崎、樺太、箱館などに現れて機をうかがい、1221日下田において日露通好条約を結んだ。下田滞在中に津波にあって乗船ディアナ号を失い、戸田で代船ヘダ号を建造させた。これがわが国での西洋型船建造の始まりである。その後、57年(安政497日長崎で日露追加条約、翌年711日江戸で日露修好通商条約および付属貿易章程の調印に携わり、その功により海軍大将に昇進した。以後文部大臣、国務顧問官などを歴任し、831016日パリで没した。

35-9)「用所(ようしょ)」・・用事、所用。

35-5)「使節会議」・・魯西亜使節応接掛を命じられたのは、大目付格(西丸留守居)筒井肥前守政憲、勘定奉行川路左衛門尉聖謨、目付荒尾土佐守成允。ロシアと日本(筒井と川路)の両者の本格的な会談が行われたのは、嘉永6年(1853)年1220日で、その後、断続的に行われたが、翌年の安政元年(1854)正月8日、プチャーチンは長崎を出航している。(『幕末外国関係文書之一』)

35-5)「同所并大坂松前箱館」・・ロシア側は、ロシアの軍艦、商船に薪水・食料などを供与してもらうために開港を求めた港」は、「其一は本大島の大坂、其一は蝦夷島のハコダテ」(安政元年(1854)正月2日に差しだされた「日露修好条約草案」 『幕末外国関係文書之四―6』所収)の二港であったが、日本側は「大坂」に難色を示し、結局、その後、安政元年(1854)1221日、下田において締結した「日露和親条約」で、「箱館、下田、長崎」の三港に決まり、「大坂」は除外された。なお、ロシアに先立ち、安政元年(185433日に締結した日米和親条約では、下田と松前箱館の二港であり、日露和親条約は、これに沿ったものとなっている。

35-6)「治定(じてい)之書面」・・日本側がロシア側に渡した、安政元年(1854)正月6日付の「開港通商及利益均霑(和親通商問題についての将来の開国(港)と最恵国待遇の約束)の件」の文書と「樺太島経界の件」の文書。

36-4)「異国ニ無相違」・・秋月俊幸著『日露関係とサハリン島』には、この船は「バイカル」号で、「日本側の資料によれば、船印を下して数日間沖合に漂っており、カムチャッカから来たのであるが、哨所の異変を恐れて容易に近づかなったのである。」としている。また、この船は、52日(露暦515日)にクシュンコタンに着船し、同6日に出帆したとある。

36-7)「異変之程」・・秋月俊幸氏は、『日露関係とサハリン島』で、「恐らくはクシュンコタンにおびただしく翻る松前藩の旗指物をみて懸念したものであろう」と述べている。、松前藩兵の1番手は311日、2番手は321日には、クシュンコタンに、すでに到着していた。

36-7)「態(わざと)」・・故意に。

町吟味役中日記 6月注記

(1-1)「天保(てんぽう)三壬辰年」・・1832年。

 *<漢字の話>「天保(てんぽう)」の「保(ほう・ぽう)」・・「保」は、呉音が「ほ」、漢音が「ほう」。日本の元号の「保」は、漢音の「ほう(ぽう)」と読む。

「保元(ほうげん)の乱」、「享保(きょうほう)」「寛保(かんぽう)」「神田神保町(ジンボウチョウ)など。

*古文書に見る年月日の表記・・①元号・年数字・十干・十二支・年②元号・年数字・十干・十二支(年を省略)③元号・年数字・十二支(十干だけを残すことはない)など様々な形式がある。

(1-23)「小四月・小五月」・・太陰太陽暦(俗に陰暦・旧暦と呼ばれる)では、月のみちかけの周期である一朔望月をもとに暦を組立てる。一朔望月は、平均で29.53日であるから、暦の一ヶ月の日数は必ず30日か29日のどちらかになる。30日の月を「大の月」、29日の月を「小の月」という。平朔(各月の朔をきめるのに、朔望月の平均の長さを順次加え朔の日をきめたもの)を用いて暦を作れば、大小の配列は大小大小大小と順序よく大小が交互にあらわれ、16ヶ月くらいに大大となるが、月の運動は大変複雑であるから、定朔(新月の日=朔=が一日となるように、小の月と大の月とを適当に組み合わせていく暦法。)を採用すると大小の順序、配列は多様になる。本テキストの天保3年の場合、大小大小小小大小大小大大小であった。

(2-1)「当番」・・なお、町奉行と町吟味役の勤務は、ともに一人ずつが毎日、一と六の日、すなわち、一・六・十一・十六・二十一・二十六日にそれぞれ交代する五日交代勤務であった。ただし非番でも原則として毎日出勤し、必要に応じ当番にあたる者を助けていた。また、奉行と吟味役のうち一人が毎夜泊り番として宿直に当っていた。

(2-1)「新井田周治」・・町奉行。町奉行は2名いた。

(2-2)「御用番(ごようばん)」・・月番。家老職も月ごと当番で業務にあたっか。

(2-2)「松前監物(まつまえけんもつ)」・・当時の松前藩家老職。

(2-3)「鈴木紀三郎」・・町奉行。

(2-3)「泊番(とまりばん)」・・町奉行2名と町吟味役2名の4人が交代で宿直にあたった。

(2-4)「当賀(とうが)」・・祝賀に当る日。記念日。お祝い。

(2-4)「表御礼(おもておれい)」・・表御殿での領主への拝謁。松前藩では、毎月1日、15に行われた。

(2-4)「内御礼」・・御内礼か。御内礼とは家老以下役職によって直接藩主に謁見することを許されること。

(2-5)「被仰出達(おおせいだされたっし)」・・指令書、指示書、命令書。

(2-7)「新組御徒士席(しんぐみおかちぜき)」・・松前藩の士分の職制のひとつ。足軽から昇進した。町奉行では、小使の職務。

(3-2)「御用状(ごようじょう)」・・御用の書状。主君あるいは官府の公的書状。

(3-5)「内澗町(うちまちょう)」・・現函館市末広町。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・当町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋立てられ、東浜ひがしはま町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。

(3-3)「引合(ひきあい)」・・訴訟事件の関係者として法廷に召喚され、審理および判決の材料を提供すること。また、その人。引合人。単なる訴訟関係者、証人、被害者および共犯者など

(3-5)「百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)」・・江戸時代の町人に対して、百姓身分の人々。検地帳に登録された田畑をもち年貢を納める。大部分は農民。年貢を納める漁民・職人・商人なども百姓と称された。

(3-7)「旅籠(はたご)」・・旅籠屋。宿駅で武士や一般庶民の宿泊する食事付きの旅館。近世においては、普通に旅人を泊める平旅籠屋と、黙許の売笑婦を置く飯盛旅籠屋とがあった。

旅籠は元来,馬料入れの丈の低い竹籠をさしたが,《今昔物語集》等によれば旅行中に食糧を入れて持参する旅具であった。中世には宿屋が出現して馬の飼料を用意し,その馬槽を宿屋の看板としたことから〈馬駄餉〉,後世転じて旅籠屋というようになった。このようにして旅籠には,馬の食を盛る籠,旅行の食糧雑品を入れる竹の容器,宿屋,宿屋の食料,宿料といった各様の意味と変遷がある。宿屋としての旅籠は江戸時代初期に成立した。

 なお、「旅籠」は、「旗籠」を「旅籠」に書き誤ったところからという説がある。

(4-2)「町方(まちかた)」・・松前藩では、町奉行配下の士分以下の同心。幕藩制国家は従来の農民混住の都市から農民を除外した行政区画を設定して町方とし、農村の村方、漁村の浦方と区別した。町方は町奉行支配とした。松前藩では、町奉行配下に、町方掛、在方掛、下代があり、町方掛には、町方頭取の下に町方がおかれた。

(4-2)「八ツ間縄右衛門」・・嘉永6(1853)の松前藩の「御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』所収)に「足軽頭取」として「八間田網右衛門」の名がある。

(4-3)「下代(げだい・しただい)」・・一般には下級の役人。松前藩では、町奉行配下に、町下代が置かれた。なお、鈴江英一氏の論考「松前城下・町年寄の職掌と機能―松前藩における城下町支配解明のための一考察―」(『松前藩と松前11号』1977)には、寛政10(1798)の事例として町年寄(2名)のうち1名は町下代兼勤としている。「下代 伝兵衛」とあるから、当時の町年寄の一人、ここでいう「下代」は、町年寄の村山伝兵衛さすのだろうか。

 また、前記鈴江氏の論文で、天明3(1783)の平秩東作の『東遊記』を引いて「江差の地役人として下タ代・・」の記事を紹介している。時代は違うが、「下代」は「しただい」と読んだことも考えられる。

(4-4)「伝兵衛」・・村山伝兵衛か。伝兵衛は、元禄年間に能登国羽咋郡安部屋村から蝦夷地に進出した商人。「伝兵衛」は初代以降の当主によってたびたび襲名されている。本書当時の伝兵衛は6代目。

(4-6)<くずし字>「もの共」の「共」・・脚部の「ハ」は、「ん」のようになる場合がある。

(4-6)「欣求院(ごんぐいん)」・・松前にあった寺院。正保2年(1645)から光善寺の支院に列していた。明治元年(1868)に光善寺に合併。欣求院は、山号が「義経山」で、義経が津軽海峡を渡った際に海上の安全を弥陀如来に祈り、無事に渡ることが出来たので御礼として、仏像千体を作り、祭ったという、いわゆる「義経北行伝説」も伝わる。ちなみに、「欣求」は、仏語。よろこんで願い求めること。心から求めること。

(4-8)「殿様(とのさま)」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。

 *「殿様」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意の程度が低下し、それを補うために、「様」を添えてできたもので、成立事情は「殿御」と同様。室町期に「鹿苑院殿様」のように、接尾語「殿」に「様」を添えた例があり、この接尾語「殿様」が独立して、名詞「殿様」が生まれた。>とある。

 *「殿」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、<(1)もともとは貴人の邸宅の意だが、のちには邸宅とその住人の両方を表わすようになる。さらに、貴人の名を直接表現することを避ける風習により、住人だけを表わすようになったが、「殿」で称される人物が増加するとともに「殿」の表わす敬意の程度は低下した。

   (2)社会的な高位者に対する呼称から、相対的上位者、すなわち表現者よりも高い地位の者に対する呼称として用いられるようになり、たとえば、従者が主人に、妻が夫に、女が男に対して用いることになる。>とある。

   **「殿(しんがり)」・・「臀(デン)」と通じ、しり、うしろ、しんがり、最後部。なお、軍隊の先鋒、さきぞなえ・さきばらいは「啓」。

 *「様」・・室町時代から用いられ、「殿(どの)」より丁重な表現であった。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「殿」の表わす敬意が低下し、それに代わって「様」が使われるようになった。室町期においては「様」が最も高い敬意を表わし、「公」に続く三番目に「殿」が位置していた。江戸期には「様」の使用が増加し、「様」から転じた「さん」も江戸後期には多用されるようになる。なお「殿」から転じた「どん」は、奉公人に対してだけ用いる呼称という制約もあり、勢力が拡大しないまま衰退したが、方言として敬意を示すのに使う地域もある。>とある。

   **「さん」・・「さま(様)」の変化した語。「さま」よりくだけたいい方。

   ***ビジメスマナーとしての「殿」、「様」・・公文書の宛先は「殿」を用いるのが一般的だが、尊大な印象があるので、「様」を用いる自治体も増加しており、使い分けは揺れている。

(4-8)「被為入(いらせられ)」・・おはいりになり。「入(い)る」の未然形「入(い)ら」+尊敬の助動詞「為(す)」の未然形「為(せ)」+尊敬の助動詞「被(らる)」の連用形「被(られ)」

(5-12)「南條長六郎」・・町吟味役。

(5-3)「砌(みぎり)」・・「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからという。軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所。転じて、庭。また、境界。さらに転じて、あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。

(5-4)「御直(おじき)」・・直接、主君の側近に親しく仕えている家臣。松前藩では、奥用人を指すか。なお、永田富智著「松前藩の職制についてー変遷とその特色」(『新しい道史 第11号』 所収 北海道総務部文書課 1965)に、「奥用人」について「藩主の側近にあって、藩主の行動日程の設定、家老、用人との連絡事項の伝達、大奥弘敷との連絡などが、主たる業務で1~2人が任命された。その系列には、側頭=御近習頭=御納戸番=祐筆=御奥弘敷番=御近習=御部屋付=北ノ丸御隠居番=刀番=医師=御馬取=草履取などがあった」と述べている。

(5-6)「口書(くちがき)」・・口書は広義では被糺問者の供述を録取したものをいうが、狭義では吟味筋における「吟味詰りの口書」を意味した。武士およびこれに準ずる身分を有す町人の分は「口書」といった。吟味筋の手続では、被疑者および関係者を訊問し、ときには拷問を用いたが、これによって犯罪の事実が認定されると、吟味詰りすなわち吟味終結る者(寺社侍以上)については「口上書(こうじょうがき)」と呼び、足軽以下、百姓・の口書が作られる。この訊問および口書の作成は奉行の下役によって行われる。

(5-6)「取調子(ちょうしと)ル」・・「調子」は、語調。「調子を取る」は、物事のぐあいをちょうどよい状態に整えること。「てにをは」を合わせる、漢詩などで平仄(へいそく)・韻を踏むこともいう。

(5-8)「光善寺(こうぜんじ)」・・松前郡松前町字松城にある浄土宗の寺院。近世の松前城下寺町に所在。文化(180418)頃の松前分間絵図によると法幢寺の南、龍雲院の西隣にあたる。浄土宗、高徳山と号し、本尊阿弥陀如来。天文2年(1533)鎮西派名越流に属する了縁を開山に開創したと伝える(寺院沿革誌)。宝暦11年(1761)の「御巡見使応答申合書」、「福山秘府」はともに天正3年(1575)の建立とする。初め高山寺と号し、光善寺と改号したのは慶長7年(1602)(福山秘府)。松前藩主の菩提所の一つで、藩主の奥方の墓がある。なお松前藩主の墓所のある菩提寺は、法幢寺(ほうとうじ)。

(6-4)「新井田寄右衛門」・・不詳。

(6-4)「木村弥三郎」・・「御扶持家列席帳・御役人諸向勤姓名帳」(『松前町史史料編第1巻』

所収)に、「先手組」「御武器方」に名がみえる。

(6-5)「ちりあくた」・・ちりとあくた。「ちり」は「チリ(散)」から、「あくた」は、<アは接頭語。クタはクタル(腐)の語根>など、語源には諸説ある。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

<乾燥した粉末状のものを指す「ちり」に対し、「あくた」は水気をもった廃物をいう。

「ほこり」と「ごみ」にもこれと類似の対応が認められるが、水気をもつものの方が廃物

の意味全体の代表となる点で、「あくた」は「ごみ」と共通している。>とある。

(6-7)「則(すぐ)」・・「則」は「即」。「即」は「則」と通じ、すなわち、あるいは、もしなどの副詞に用いるが、ここでは、その逆をいうか。

(7-1)「御会席」・・会合する席。

(7-12)「引取(ひきとる)」・・その場から退き去る。

(7-4)「正九ツ時」・・正午。

(7-5)「紙面(しめん)」・・書面。

(7-45)「御側頭(おそばがしら)」・・藩主の側近職の奥用人支配下の役職。(5-4)「御直(おじき)」の項参照。

(7-8)「押込(おしこみ)」・・監禁する。とじこめる。

(7-8)「御免(ごめん)」・・容赦、赦免すること。

町吟味役中日記 注記1【はじめに】

1.『町吟味役中日記』の書誌

 ①本書は、北海道大学附属図書館(以下北大図書館)所蔵(請求番号・奥平家130)である。同図書館が所蔵する奥平家資料は全部で161点にのぼる。本書はそのなかの1点である。

 ②本書は、松前藩町吟味役を勤めた奥平貞守(勝馬)の天保3(1832)4月、5月の勤務日記で、93丁ある。

 ③本書に押されている受入印によると、「JUL.20.‘33」とあるから、昭和8(1933)220日に現北海道大学の前身である北海道帝国大学附属図書館が所蔵したことになる。

 ④奥平家資料の中に、奥平貞守の子孫である奥平義行氏が述べた『奥平家文書の著者に就て』では、

  ・昭和4(1929)2月、義行氏の父・敬太郎死去

  ・同年6月、義行氏は樺太庁技師として出向、亡母に託した家伝の古写本全部が散逸。

  ・昭和417月、古本屋で「北海道総務部企画室編 北海道史料所在目録第5集」記載の「奥平家文書の著者について」を発見。

  ・義行氏は前掲書のなかで、「当方から寄附申出又ハ売却など考えられず、何者かの処置によっての結果であるが、よくも本道学究の総元締である北大に蔵せられてゐる事はその処を得たものとして喜びに堪えない」と述べている。

 ⑤以上から、本書は、昭和4年から同8年の間に、北大図書館の所蔵になったものと考えられる。

2.奥平貞守(勝馬)の来歴

 『奥平家文書の著者に就て』に詳しいが、略歴を述べる。

 ・天明7(1787)117日、桑名藩士奥平貞親の長男として生まれる。

 ・文政7(1824)811日、松前藩に召出され桑名出発。

 ・同年927日、手先組被仰付。

 ・文政8(1825)214日、側役被仰付。

 ・文政10(1827)410日、中小姓中の間被仰付。

 ・文政11(1828)523日、目付役被仰付。

 ・文政12(1828)215日、ソウヤ勤番物頭役被仰付。

 ・天保元年(1830)88日、町吟味役被仰付。本書は、徳馬のこの時期の日記。

 ・天保6(1835)215日、エトロフ勤番物頭役被仰付。

 ・天保9(1838)511日、町吟味役被仰付。

 ・天保14(1843)512日、見廻取締方掛被仰付。

 ・弘化元年(1844)215日、ソウヤ勤番物頭役被仰付。

 ・嘉永元年(1848)48日、御そば物頭役被仰付。

 ・嘉永3(1850)7月まで勤務、病気のためお役御免。

 ・同年112日死去。法源寺に埋葬。

3.近世の蝦夷地と松前藩

①松前藩の成立・松前藩時代・・慶長年間より寛政11(1799)までの約200年間

・慶長9(1604)、松前慶広(よしひろ)、家康より黒印状を頂戴する。以後、将軍代替のつど、蝦夷地の領知権、徴役権、交易の独占権を認める黒印制書を受ける。

②前期幕府直轄時代(松前藩は「梁川時代」)・・寛政11年より文政4年(182112

までの1510ヶ月の間。

・寛政4年(1792)ロシア使節ラックスマンの来航をはじめ、外国船の到来により、幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。

・寛政11(1799)116日、東蝦夷地ウラカワ以東知床及び東奥島々までの仮上知。

・同年812日、シリウチ川以東の追上知。

 ・同年928日、幕府、代地5000石の地として武蔵国埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。

 ・享和2(1802)、幕府、蝦夷地奉行を新設。同年510日、箱館奉行と改称。

 ・同年724日、東蝦夷地の永上知。

 ・文化4(1807)322日、蝦夷地一円の上知。727日、松前藩に新領地が示され、松前藩は、陸奥梁川へ移封。

 ・同年1024日、幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

 ③松前家の復領時代・・文政4年より安政2(1855)2月までの333ヶ月の間

 ・文政4(1821)127日、幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

  表面の理由は、幕府の蝦夷地直轄の結果、取締、アイヌ人撫育、産物の取捌きなどが行き届くようになり旧家格別の儀をもって、旧来の通り、松前氏に蝦夷地を領有させるとした。裏面には、水野忠成(ただあきら)が、松前氏の運動をききいれたことがある。水野忠成がそうしたのは、当時の北辺防備意識の衰退があった。

 ④後期幕府直轄時代(松前藩は道南地域部分支配)・・安政22月より明治元年(1868)4月箱館裁判所設置に至る133ヶ月の間。

  嘉永6(1853)7月、ロシア使節プチャーチン来朝、境界の決定と和親通商を請求。同8月、ロシア兵、クシュンコタン占拠、安政元年(1854)3月、日米和親条約締結、箱館開港などを背景に、幕府は蝦夷地の再直轄に乗り出す。

 ・安政元年(1854)626日、幕府、箱館および同所より6里四方を上知。

 ・同年630日、幕府、箱館奉行を置く。

 ・安政2(1854)222日、幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。

○松前藩の福山城下および東部木古内村以西、西部乙部村以南は、松前藩として残ったほか、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

 ⑤松前地の一部返還

・元治元年(1864)1119日、乙部~熊石の8ケ村が返還される。

幕末の蝦夷地は、東部・木古内村以西、西部・関内村以南が松前家所領、それ以外は、幕府直轄領と分割支配体制となった。

⑥附:明治維新と松前藩

<版籍奉還まで>

・明治元年(1868)412日、新政府、箱館裁判所設置。

・同年91日、松前藩、館(たて)村(現桧山郡厚沢部町城丘)に築城開始。

・同年1025日、完成。

・同年113日、松前藩13代徳広、館城に入城。

・同年1111日、徳広、榎本軍の襲撃で、館城を出る。

・同年1119日、徳弘、熊石の関内から津軽へ逃れる。

・同年1129日、徳広、弘前で死去。

・明治2(1869)19日、修広(ながひろ)14代襲封(しゅうほう)。

・同年49日、新政府軍と松前藩兵(修広)、乙部上陸。

・同年417日、修広、福山奪還。

・同年624日、修広、版籍奉還。松前藩は、館藩と称し、修広、館藩知事に任命される。所領は、渡島国福島、津軽、爾志、檜山の4郡。(明治14.7.8福島郡と津軽郡は、合併し松前郡と改称)

<開拓使移管まで>

・明治4(1871)714日、廃藩置県で、館藩は、「館県」となる。

・同年99日、館県、「弘前県」に併合(9.23・・弘前県は、「青森県」と改称)

 ・明治5(1872)920日、「青森」県の渡島国4郡(旧松前藩領)を開拓使に移管。

4.松前藩の職制と寺社町奉行・町吟味役

 ①松前藩の職制

松前藩の職制は、復領後も、移封以前と大きく変わることはなかった。

  また、本州諸藩と著しく異なった点を挙げると、「他藩にあっては、町方は町奉行、寺社方は寺社奉行(宗門奉行などの名称もある)というように、町方と寺社方を司る役職が分かれている例が多かった」が、松前藩にあっては、両者を寺社町奉行が統一して支配した。」(『松前町史通説編第一巻上』)

 ②寺社町奉行の成立と職掌

 以下、『松前町史通説編第一巻上』を参考に述べる。

 寺社町奉行の設置年代は定かでないが、『新羅之記録』の記事から、慶長17(1613)以前にはすでにその設置をみていた。その職掌は、単に町方と寺社方にかかわるものだけでなく、和人地と蝦夷地の支配にかかわる広範囲なものであった。また、出入船舶・人物などいわば沖の口番所にかかわる権限さえ所持していた。

 寺社町奉行がこうした権限を所有していたのは、松前藩にとっては、蝦夷地と和人地の統一的支配と本州諸港との商品流通の統制が、藩制成立当初から藩の存立基盤そのものにかかわる重大課題となり、寺社町奉行は、まさにこうした課題に対処するための諸職の要として位置づけられていた。寺社町奉行は、用人が兼任する場合が多かったが、こうした現象も、寺社町奉行の位置づけと深くかかわるものであった。

 なお、寺社町奉行支配下の役所は、「町奉行所」または「町役所」と称し、寛文7(1667)までは蔵町にあったが、その後川原町の現松前町役場所在地に移された。

 ③町役人の組織

 城下の支配体制は、町奉行を頂点とし、部下に町吟味役を配した。町奉行、町吟味役は各2名ずつ任命された。奉行所の出納にあたる町下代が置かれた。町役人としては、町年寄の下に、名主・町代がおり、また、五人組が組織されて、そこには組合頭(組頭)を置いた。町奉行の職務は、城下と城下付在々の民政全般・裁判・ 警察などの治安、諸税収納・産業・駅馬往来・人別・地所割渡など広範囲なものであった。

④町吟味役勤務日記の意義

町吟味役の勤務日記については、奥平勝馬の日記として、天保3(1832)4月、5月、9月分の記録として『町吟味役中日記』、天保7(1836)821日から1225日にかけての『町吟味役御勤中日』、翌天保8(1837)正月」元日から1225日にかけての『当番御用記』があり、また、天保5(1834)以降町吟味役を勤めた工藤茂五郎(後に長栄)の『松前藩町奉行所吟味役 工藤長栄日記』がある。

『松前町史』はこれらの史料の意義について、「必ずしも連日の記録ではないことと、欠年があること等の制約はありつつも、いわゆる天保の大飢饉を間にはさむ時期の記録でもあり、また松前藩の治安・警察・裁判担当者の直接の記録であることから、当時の犯罪・裁判・刑罰の実態を知る上で、他に代えがたい史料である」と記している。

魯夷始末書5月学習分注記

29-1)「一通(ひととおり)」・・ひとわたり。あらまし。

29-1)「承糺(うけたまわりただし)」・・よく話しを訊いて問い糾し。

29-2)「小屋より」・・「より」の左に「へ」があるが、「ヽ」で、消してある。これを「見せ消ち」という。「小屋へ」と書いて、後「小屋より」と訂正してある。

     *松前藩士三輪らが、アニワ湾西岸のリヤトマリへ到着したところ、プッセの命を受け、ムラヴィヨフ哨所より派遣されたリョースキンと、ヱレキセイフとアレクセーエフが滞在していたことをいう。

「小屋」は、クシュンコタンにロシアが構築した・ムラヴィヨフ哨所。

29-2)「士卒之内 (空白部分) と申者」・・「空白部分」は、へレケンとヱレキセイフの2人か。『サハリン島占領日記』(平凡社刊 東洋文庫 ニコライ・ブッセ著、秋月俊幸訳)によれば、「ヘレケン」はコサックの「ベリョースキン」、「ヱレキセイフ」は水兵の「アレクセーエフ」とある。

29-2)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。

29-3)「首長(しゅちょう)」・・ムラヴィヨフ哨所の隊長・プッセのこと。

29-6)「申諭(もうしさとし)」・・連用形。言い聞かせて納得させること。教えてのみこませること。

29-7)「小屋場(こやば)」・・ムラヴィヨフ哨所。

29-9)「偽言(ぎげん)」・・うそ。虚言。

2910)「無跡形(あとかたなき)」・・痕跡をとどめないこと。根拠がないこと。

2910)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。いざこざ。

30-1)「事を好む」・・何か事件が起こることを望む。事を荒立てたがる。求めて争おうとする。事を構う。

     *「事」・・事件、出来事、変事。特別な用事。「ことあり」「こと出ず」「ことにのぞむ」「ことに遇う」などの形のときは、事件、変事などの意を表わし、「こととする」「ことと思う」などでは、重要な事態の意で用いられ、指定の助詞・助動詞を伴って述語になるときは、大変だの意となる。

30-1)「無思慮(むしりょ・ぶしりょ)」・・思慮の足りないこと。深い考えのないこと。また、そのさま。「無」を「ブ」と読むのは漢音。「ム」は呉音。

30-3)「不少(すくなからざる)」・・返読。少なくないこと。

30-3)<くずし字>「御座候」・・別紙に連綿体。

30-4)<くずし字>「懸念」の「懸」・・「を」や「近」と似ている。

30-5)「聊以(いささかもって)」・・「聊」は、「少しも。ちっとも。ほんのちょっと。」の意で、下に打消しの言葉を伴って使われる。「以(もって)」は、動詞「もつ(持つ)」の音便形に接続助詞「て」のついたもので、動詞本来の意味が次第に薄れて、助詞のように用いられるようになった。したがって「聊以」は、「少しも、(~ない。)」という形でもちいられる。

30-5)「闘論(とうろん)」・・言い争うこと。論議を闘わすこと。

30-6.7)「葡萄等」・・「葡萄」の次の字は、不詳。因みに、前掲『サハリン島占領日記』では、「棒砂糖と数フントの乾スモモと乾ブドウ」とある。

30-8)「演(えんじ)」・・連用形。言葉で述べること。詳しく述べること。

30-8)「承受(しょうじゅ・うけたまわりうけ)」・・お受けする。

30-9)「預置(あずかりおき)」・・連用形。保管、管理しておくこと。

30-9)「応対(おうたい)」・・ある問題について話し合うこと。談判。

31-2)<変体仮名>「通弁いたし」の「た(堂)」・・「堂」は変体仮名。音読みでは「ドウ」であるが、「と」とするのは、「トウ」の原音「ダウ」による。また、歴史的仮名遣いで、「堂」を「ダウ」と書いた。

31-3)「ロシカイ」・・ロシア。ロシアは、九世紀にロシア平原の西部に興り、のちヨーロッパの東部からシベリアに及ぶ地域を支配したスラブ民族を中心にした巨大国。九世紀後半キエフ公国の成立後、一二世紀には封建的諸公国の分立時代となり、一三世紀にモンゴルの征服を受け一時期キプチャク‐カン国の属国となった。その後一四世紀にはロシア帝国のもととなるモスクワ大公国が生まれ、中央集権国家として成長。一七世紀以降はロマノフ家の支配が始まりピョートル一世の時に絶対主義体制を完成、ロシア帝国として発展。しかし、1917年の二月革命によりロマノフ朝は崩壊。続く十月革命によりソビエト社会主義共和国連邦が成立。1991年、バルト三国を除く旧ソ連邦構成国(一二か国)とともに独立国家共同体を結成。オロシャ。

31-4)「ニカラ地名」・・ニコラエフスク・ナ・アムール。「ニコラエフスク」とも。日本名「尼港」。『世界地名大事典』(小林房太郎著 日本図書センター)には、「我が国人は、単に尼港と呼び、シベリアの東部即ち極東地方に位する都邑で、1850年、ネウェルスキー将軍が之を占領し、露帝ニコライ一世の名によりし、ニコライエフスクと命名した。其位置が黒竜江口に近く(上流80キロ)、江の左岸に位し、1855年軍港となり一時は盛大を極めたが、同軍港を浦塩斯徳(ウラジオスットク)に移せしより次第に衰えた。」とある。

     *「尼港事件(にこうじけん)」・・シベリア出兵中、黒龍江口のニコラエフスクを占領していた日本軍が、1920年(大正92月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが312日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。パルチザンに包囲されて全員殺害された事件。日本は事件解決まで北樺太を保障占領したが、賠償要求も成らず撤退した。

31-4)「都府(とふ)」・・みやこロシアの帝都「サンクトペテルブルク」のこと。日本語では「ペテルブルク」と表記されることもある。1703年、ピョートル一世がペトロパヴロフスク要塞を建造したことに始まり、「ザンクトペテルブルク」と名付けられ、1712年から1914年の十月革命に至る迄、ロシア帝国の首都であった。

31-4)「ニカライ長官」・・ロシアの皇帝ニコライ1世(在位182555)。パーベル1世の三男として生まれる。長兄アレクサンドル1世の急死と、次兄コンスタンティン大公の皇位継承権放棄によって、1825年即位した。おりからデカブリストが首都ペテルブルグの元老院広場で反乱を起こしたが、軍隊を使ってこれを鎮圧し、主謀者を処刑した。まじめな性格で規律を愛し、生涯を通じて革命思想、自由思想を弾圧した。26年、悪名高い秘密警察「皇帝官房第三課」を創設し、プーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンら多くの文学者や思想家を流刑にした。3031年のポーランドの反乱、4849年のハンガリーの革命を厳しく抑圧し、「ヨーロッパの憲兵」として恐れられた。中央アジアに出兵して、領土を拡張したが、クリミア戦争を引き起こし、敗色濃いなかで死去した。

31-5)「イニブスコイ」・・東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けて、嘉永691日、クシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。

31-6)「去秋退帆」・・ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した嘉永6(1853)96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。

     ネヴェルスコイは、沿海州インペラートル湾のコンスタンチノフスク哨所に寄港して、ポシニャークをその指揮官として残し、デ・カストリ湾のハツトマリのアレクサンドロフスク哨所に帰着した。

31-6)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と思われる。

31-7)「マンゴー川」・・アムール川。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長四三五〇キロメートル。黒龍江。

31-7)「営柵(えいさく)」・・とりでを建設すること。ネヴェルスコイは、アムール河河口上流にニコラエクス哨所を設置した。

31-7)「戍兵(じゅへい)」・・辺境の守備の兵。「戍」は、「人」+「戈(ほこ)」で、人がほこを持って守るの意味。特に辺境を守るの意味を表す。

31-7)「籠置(ろうち・こめおき)」・・留め置くこと。

32-1)「営砦(えいさい)」・・とりで。

32-2)「書役(かきやく)」・・文書の起草、記録などの事に当たる役。書記。なお、江戸時代、町年寄、町名主の補助をするための町(ちょう)役人のことで、江戸では、「書役」ともいい、自身番に出勤して、文書作成などの事務にあたった。

32-4)「ウンラ」・・樺太南海岸。日本名「雲羅」。吉田東伍著『大日本地名辞書』では、「露人ペルワヤパーヂ(一之澤)の地なるべし、九春古丹の北一里許、此辺に旧ウシュンナイといへる夷村もありしとぞ。」とある。

32-5)「無拠(よんどころなく)」・・返読。やむを得ないこと。

32-7)「瓦土(かわらつち)」・・粘土。

32-8)「圃地(はたち)」・・畑。菜園。なお「田圃(たんぼ)」は、「たのも(田面)」あるいは「たおも(田面)」の音変化で、田と畑ではなく、水田をいい、「田圃」は当て字。

32-8)「五升芋(ごしょういも)」・・「ばれいしょ(馬鈴薯)」(農林水産省の品種登録の名称)の異名。「じゃがいも」とも。「五升芋」は方言で、他に類似の方言として、「ごおしょういも」、「ごおしゅういも」、「ごおしいも」、「ごしいも」、「ごしも」、「ごしょなりいも」があるとしているものがある。

      探検家最上徳内が天明6年(1786)に本道に持ち込んだ時は「五升芋(ごしょういも)」を使っており、また、『村垣淡路守公務日記之九』の安政4年4月5日、同6日の条に、(米国捕鯨船が箱館へ入港したことにより)、亜国士官ライス江、「五升芋二俵、梨子二箱遣し候」と、「五升芋」を贈ったことが記されている。「五升芋」の語源説に、「こうしゅういも(甲州芋)」の転とという説もある。

32-7)「下地(したじ)」・・土台。基礎。

『難船之始末』5月学習の注

(25-1)「帰島」・・異本は、「帰国」とある。

(25-2)「達而(たって)」・・「達」はあて字。無理を押してもしゃにむに物事をするさまをいう。強いて。是非とも。

(25-3)「さも」・・副詞「さ」に助詞「も」が付いてできたもの。副詞「さ(然)」を強めたいい方。そのようにも。その通りにも。影印の「左」は変体仮名で「さ」。

(25-6)「与」・・「与」は、漢文の助辞。漢文訓読で「Aト与レB(AとBと)」の「与」

*「富与レ貴、是人之所レ欲也」(『論語』)

 (フウとキとは、これひとのほっするところなり)

(26-3)「船寄(ふなよせ)」・・船を寄せること。

(26-4)「掛戻(かけもどり)」・・駆け戻り。駆けてもといた場所へ帰る。

(27-1)「勝手(かって)」・・物事を行なうときなどの都合や便利。

(27-3)「入湾(にゅうわん)」・・入り込んだ湾。

(27-3)「入湾」のルビ「モトノマヽ」・・一般には「本(ほん)のまま」という。書物などを書写・校合する際に、不明の部分を原本どおり写し取ったこと。または、そのしるし。略して「ママ」と傍記することがある。

 *「本(ほん)」・・漢語では、もともと、草木の根、または根に近い部分をいうが、日本では物事のもとになるもの、根本、基本の意から、規範となるもの、主たるもの、本来的なものなどをさしていう。もとになるもの。書写されるもとの書物など、ある状況から転じて現在の姿に変わったものに対して、そのもとのものをいう。

(27-3)(クウ)(シツ歟)」・・異本は「穴居の跡」とある。なお『ふなをさ日記』には、「空室」に「あきや」とルビがある。   

(27-3のルビ)「歟(か)」・・漢文で、疑問をあわらす助辞。

(27-4)「ワニナウ」・・ウルップ島東海岸の地名。日本名は小舟。文献に現れた「ワニナウ」を拾うと、

 ・明和5(1769)・・「子年にはウルツブ島東浦ワニナウといふ処へヲロシヤ人多く乗りたる大船渡来」(『休明光記』)

 ・安永9年(1780)・・「彼もの共の乗船ウルツプ島ワニナウといふ所へ繋置しに、海浪にて山手へ打上げ、おろす能ず。(『休明光記』)

  *「海浪」は、この年18日に始まった大地震で、6月18日には最大規模に達して津波が起こったことをいう。停泊中のロシア船はナタリア号。4名が溺死。(『新北海道史年表』)

 ・天明元年(1781)・・前年のオロシヤ人(船長シャパーリン)、「小船に乗組帰国」(『休明光記』)

 ・天明4年(1784)・・ナタリア号引き下げのため派遣されたシャパーリンら、ワニナウに渡航したが、乗組員の不和も発生し、ナタリア号は放置される。(『新北海道史年表』)

・寛政7(1795)オロシヤ人ケレトプセ、ソシリ、コンネニチ数十人が、ウルップ島ワニナウへ大船で渡来、34人は家居をつくり永住、ラッコその他漁業を営むとともに、厚岸の長夷イトコエらと交易を開始した。(『新北海道史』)

(27-6)「泙合(なぎあい)」・・海が平穏の間。「なぎ」は、「凪」「和ぎ」「𣷓」とも書く。なお、愛知県豊川市の地名に「泙野(なぎの)」がある。

 *<漢字の話>「泙」・・漢文では、「ホウ」と読み、「水の勢いのさかんなさま」。「なぎ」とは逆の意味。「水」+「平」で、「なぎ」と訓じるのは、典型的な国訓。

(27-6)「両三日(りょうさんにち)」・・2,3日。「両」は、数の二。ふたつ。一般には、「両手」「両端」など、「対になっている物の双方」の意味で使われることが多い。

(27-6)「相立(あいたち)」・・相経(た)ち。(日数が)経過し。「立」は、「経ち」の当て字。

(27-7)「ラソワ人」・・中部千島ラショワ島に住む人。ラショワ島は、千島アイヌが居住していた。文2(18059月から翌年2月にかけて、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名がアイヌやロシア人ズヴェズドチョトフと共に滞在した。「ラソワ」は、日本名「羅処和」。  

(27-9)「和泙(なぎ)」・・当て字。「和」も、「泙」もなぎの意。「なぎ」は「和ぎ」とも書く。なお、「なぎ」の語源として、<水面がなぎ倒されたように平らになることで、「なぐ(薙)」の連用形の名詞化とする説もある。>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

(28-1)「礠針(じしん)」・・磁石の針。影印は、「礠」。

(28-2)「相極(あいきめ)」・・相決め。「極」の訓は、普通には、「みわめる」だが、古文、古文書では、「きめる」と読み事が多い。なお、現代語にも、「月極(つきぎめ)」「取極(とりきめ)」などがある。

(28-6)「時分(じぶん)」・・大体のとき。ころ。時期。

(28-8)「礼儀(れいぎ)」・・敬礼・謹慎を表わす作法。「礼」はその大なるもの、「儀」は小なるものをいう。社会のきまりにあった、交際上の動作や作法。挨拶のしかた。また、それを行なうこと。

(29-1)「然ば(しかれば・しからば)」・・先行の事柄の当然の結果として、後続の事柄が起こることを示す。順態の確定条件。そうであるから。だから。

 *「しからば」は、①順態の仮定条件(そうであるならば。それならば)を示す場合が多いが、➁順態の確定条件(そうであるからには。だから)をも表わす。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「しからば」の語誌には、<已然形に「ば」のついた「しかれば」と用法上接近して、中世末には➁の用法が多くなる>とある。

(29-4)<くずし字>「異国」の「異」・・「霊」「畢」のくずしと似ている。「異」は脚が「大」で、「霊」は、「火」、「畢」は、「十」だが、区別がつかない場合もある。

(29-5)<くずし字>「器物」の「器」・・冠と脚で構成される字は縦長になる場合が多い。

(29-5)<くずし字>「器物等」の「等」・・「ホ」の形になる。

『難船之始末』4月学習の注 

(20-1)「アトイヤ」・・日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(20-1)<くずし字>「衣服」の「服」・・「月」偏の1画目が短く「ノ」になる場合がある。

(20-2)「蔭(かげ)」・・かばったり守ったりしてくれる人。また、その恩恵。めぐみ。おかげ。

(20-3)「去冬中・・六人同居越年」・・文化12年(18159月初旬、督乗丸の船頭重吉、水主半兵衛、水主音吉の三人は、薩摩の永寿丸に乗った漂流民、船頭喜三左衛門水主の佐助、角次の三人と出会う。六人は、カムチャッカのペテロハバロフスクで、一緒に生活し、越冬した。

(20-6)「ハアウヱル」・・セント・パヴェル号。

(20-9)「便船(びんせん)」・・都合よく自分を乗せて出る船。

(20-921-1)「男女六人」・・『ふなをさ日記』には、「便船のもの男女都合六十八人乗」とある。

(21-1)「風順(ふうじゅん)」・・風向きのぐあい。

(21-2)「漸(ようやく・ようよう)」・・「ようやく」は、漢文訓読特有語で、仮名文学、和文脈では「ようよう」。

(21-6)<カタカナの話>「ヲホシツカ」の「ヲ」・・

①「オ」と「ヲ」の発音は鎌倉時代に区別されなくなり、五十音図上で「オ」と「ヲ」とが誤って転換したものが江戸時代まで普通に用いられた。

  「ヲ」の字母は、「乎」。「乎」の最初の第1画、2画、3画を取ったもの。従って、「ヲ」の書き方は、「フ」+「一」の2画ではなく、「ニ」+「ノ」と3画で書くのが正しい。

(21-6)「取用(しょよう)」・・現在は、「所用」を用いる。用件。用事。用向き。

(21-7)「大キニ」・・大きに。副詞。もと形容動詞「おおき(なり)」の連用形。連体詞「おおきな」が成立した室町時代以後の用例を副詞と認める)。はなはだ。たいそう。大いに。

(21-7)「愁傷(しゅうしょう)」・・人に死なれて嘆き悲しむこと。また、その嘆きや悲しみ。

(21-9)「真切(まぎり)」・・帆船の逆風時での帆走法で、船は風を斜め前からうけて開き帆とし、上手廻しまたは下手廻しをもって右開き・左開きを交互に行ないながら、ジグザグのコースをとって風上に向かって帆走すること。間切り乗り。まぎれ走り。まぎれ。

(22-2)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

(23-2)「可参段、夫より船を後より、薩摩三人江申聞候由、夫より乗戻候節」・・異本によると、ここは、写本の写し間違いで、異本は、「可参段、薩摩人々江申聞、夫より船を後へ乗戻候節」とある。

(23-7)<漢字の話>「相成候處」の「處」・・昭和2111月の当用漢字制定当初に、「処」が「處」の新字体として選ばれた。それ以前は、「処」は「處」の俗字とみなされていた。

(23-7)「翌日」の「翌」・・古文書では、脚のある字は縦長で書かれ、2字~3字に見えることがある。

(24-2)<くずし字>「四五日」の「日」・・縦の画は、「点」になる場合がある。

 *囗(国構え)の字の縦の画も「点」になる場合がある。

(24-4)「手間取(てまどり)」・・時間がかかる。「手間」は、手を使う仕事などで、その手を動かす動作のとぎれめ。また、その次の動作までの合い間。

(24-6)「其元(そこもと)」・・其許。対称。近世、同等またはやや目下の相手に対して用いる。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「其許」「其元」はともに「そこもと」「そのもと」両様に読め、江戸後半期には「そこもと」と並行して用いられたが、「そこもと」の方が標準的な言い方であったらしい。>とある。

(24-7)<カタカナの話>「ヱトロフ」の「ヱ」・・「ヱ」の字母は「恵」。「ヱトロフ」は、漢字では、「恵登呂府」を当てた。寛政10年(1798)、近藤重蔵は最上徳内と共にクナシリ島、エトロフ島を調査し、エトロフ島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てている。

 なお、「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比寿」なので、「ヱ」を使っている。

 また、無線電話で通信文の聞き間違いを防ぐために制定された規則である総務省令無線局運用規則別表第5号では、

「ヱ」は「かぎのあるヱ」、(「エ」は「英語のエ」

「ヲ」は「尾張のヲ」、(「オ」は「大阪のオ」)

「ヰ」は、「ゐどのヰ」(「イ」は「いろはのイ」)

と呼ぶことが定められている。

(24-7)「存寄(ぞんじより)」・・「存じ寄る」の連用形。思いつく、ある考えが浮かぶの意の謙譲語。

魯夷始末書4月学習注記

25-1)「簱」・・ロシアの国旗で、白・青・赤の三色の旗。「嘉永六丑秋ニカライ人滞留北蝦夷地クシュンコタン山上江居小屋他取建候書面写」(北海道大学付属図書館所蔵)の絵図面では、東側物見台の上に掲揚されているのが見える。

25-1)「華飾文彩之簱(かしょくぶんさいのはた)」・・ロシアの国章旗。ロシアでは、国旗のほかに、国の紋章あるいは徽章として、双頭の鷲を中心に、盾、王冠、王笏、宝珠がデザインされ、彩色された「国章」が定められている。そのデザイン、色模様は、時代によって異なるが、本書当時は、双頭の鷲は黒色、盾は赤となっている。

     「華飾」は、華美なこと。「文彩」は、いろどり。「華飾文彩之簱」は。華美ないろどりの籏。

25-6)「遠見(とおみ)」・・警戒または偵察のために、遠くの状勢をうかがうこと。高い所から四方を見張ったり、遠くまで潜行して敵状をさぐること。またその人。

25-7)「リヤトマリ」・・リヤコタンとも。日本名「利家泊」、「利耶泊」、「利屋泊」。樺太南海岸の内。樺太地名NO3。吉田東伍著『大日本地名辞書』に、「アニワ湾の西岸の大漁場にして、白主を去る十里許。鱒、鯡の好漁場として知られた地」とある。

25-7)「捕押(とらえおさえ、とりおさえ)」・・つかまえること。捕まえ拘束すること。

25-7)「打擲(ちょうちゃく・うちなぐり)」・・なぐること。殴打すること。

     <漢字の話>

   「打」を「だ」と読むのは、慣用音。

*慣用音・・呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

     ②「打」を「チョウ」と読むのは呉音。手元の漢和辞典には、「打擲(ちょうちゃく)」以外に、「打」を「チョウ」と読む熟語はない。

25-9)「差向(さしむき)」・・今のところ。さしあたり。

25-9)「安否(あんぴ)・・無事かどうかということ。

25-10)「申宥(もうしなだめ)」・・「申宥む」の連用形。とりなして申し上げること。申し上げて相手の心を静めること。

26-1)「候得(本ノマヽ)」・・「候得共」で、「共」が脱か。

26-1)「未為取調(いまだとりしらべせず)」・・「未」は再読文字で、「いまだ~(せ)ず」となる。

26-1)「物頭(ものがしら)」・・槍、弓、鉄砲などの足軽を統率する武将。足軽大将のこと。江戸時代は、各藩にあったほか、幕府の職名として、先手組(さきてぐみ)の弓組、鉄砲組の頭を称した(『角川古語大辞典』)。松前藩では、嘉永3年(1850)の軍制改革で、一番隊の隊長は、「物頭」を以ってすることに決められた(『松前町史』)。また、「嘉永三年(1850)の蝦夷地勤番家臣名」(『松前町史史料編第1巻』)によれば、ヱトロフ、クナシリ、ソウヤの勤番所の筆頭者の役職が「物頭」となっている。さらに、本事件発生後の安政元年(1854)118日、職制の改正がなされ、番頭(ばんがしら)、近習番頭、旗奉行、小納戸の職とともに「物頭」の職が増置されている(『新北海道史年表』)。

26-2)「三輪持(みわ・たもつ)」・・松前藩士。当時の列席は中書院。役職は御用人で、江差奉行・寺社奉行を兼帯。

26-2)「倹使(けんし)」・・「倹」は「検」の誤りか。事実をあらため、見届けるために派遣される使者。室町時代以降に用いられた語で、鎌倉時代には、一般に実検使といった。この時、氏家丹右衛門が、検使役として、樺太に派遣された。

     *検使は、このほか、以下の役があった。①殺傷、自殺、変死などの実情を調べ確認するために奉行所などから派遣される役人。また、その役人の取調べ。江戸時代には、領内騒擾、喧嘩乱闘、行き倒れ、変死など変事発生のときは、必ず確認を請わなければならなかった。②土地境界争いが起こったとき、実地に見分するため派遣される役人。また、その見分。地境論のある場合は、多く、双方が立ち会って作成した絵図の提出を求めるが、絵図だけで不明の場合に派遣された役人。③切腹の場に立ち会い、それを見届けること。また、その役の人。江戸時代、大名などの切腹の場合は、多く、大目付あるいは目付が任命された。④江戸以外の犯罪地または代官陣屋などで死刑が執行されるとき、それに立ち会うため派遣される役人。また、その立会い。

26-2)「氏家丑右衛門」・・「丑」は、「丹」か。氏家丹右衛門は、松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では、江差奉行出役、町吟味役。「嘉永六癸丑御扶持家列席帳」では、「中之間御中小姓」の条にその名がみえる。

26-2)「支配人平三郎」・・清水平三郎。北蝦夷地クシュンコタン場所支配人。山丹通辞。安政元年(1854)春松前藩士分。同年7月御徒士席、目見得以上。安政3年(1856)2月箱館奉行組同心抱入、北蝦夷地詰。安政3年(1856)6月箱館奉行所調役下役出役申渡、北蝦夷地詰。万延元年(18607月函館奉行所定役。文久3年(18638月歿。享年59。

26-4)「伝授(でんじゅ)」・・大切なことや物事を教え伝えること。特に、秘伝、秘法などを師から弟子に伝え授けること。なお、伝え受け継ぐ場合は、「伝受」と表記する。

26-9)「直支配(じきしはい)」・・漁場などを商人に請負わせるのではなく、松前藩が直接、管理経営すること。「直捌」のこと。

27-2)「目見(めみえ)」・・動詞「まみゆ」の連用形「まみえ」の訛(『江戸語大辞典』)。江戸時代、将軍(主君)に直接お目通りすること。また、それが許される身分。

27-4)「番人共」・・樺太経営は、伊達屋林右衛門、須原屋六右衛門両名の場所請負人にゆだねらていた。漁業は、春から夏にかけて支配人や百数十人の番人の指揮のもとに、アイヌを使役して行われていた。松前藩は、毎春勤番の藩士を派遣して監督した。秋の始めには勤番藩士、支配人、番人も引き上げた。当地には、越冬番人37名を残すばかりであった。

27-5)「急脚を飛せ候」・・番人の伝吉、吉兵衛を、ソウヤから、急使として、急ぎに急がせて松前の領主役場まで報告に派遣している。「急脚(きゅうきゃく)」は、急な便りを運ぶ者。急飛脚。

27-6)「重立(おもだち)」・・4段動詞「重立(おもだ)つ」の連用形。中心となって。

     *ふつう、「おもだった」の形で用いる。「会社のおもだった人」

27-6)「請負人共」・・当時、北蝦夷地クシュンコタン場所の請負人は、栖原屋(六右衛門)と伊達屋(林右衛門)の共同請負になっていた。

277~8)「一番、二番手追々出立~(略)~マシケ并ソウヤ着」・・一番隊は、嘉永6(1853)917日松前出発、109日ソウヤ着、二番隊は、918日松前出発、1010日マシケ着、渡海できずそのまま越年。(『新北海道史年表』)

27-8)「マシナ」・・「マシケ」か。

27-9)「在(本ノマヽ)蝦夷」・・「在」と見えるのは、「北」の誤りか。

28-4)「竹田作郎」・・松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では御勘定奉行出役、「嘉永六癸丑年御扶持家列席帳」では士席御先手組の条に、その名前がみえる。なお、『松前町史』では、一番隊の隊長は、物頭竹田忠憲となっている。

28-4)「目付役」・・「目付」とも。江戸幕府の目付は、旗本の監察役で、部下に徒目付、小人目付がいた。各藩でも、部下を監察する者を目付あるいは目付役と呼び、その部下は、徒目付あるいは横目付と呼んだ。

28-5)「足軽」・・軽武装の歩卒。徒歩軍(かちいくさ)をする身軽な兵。近世には、幕府や各藩の兵卒として組織されるようになり、二人扶持、三人扶持という軽輩者であったが、「士分」であり、名字、帯刀を許され、羽織を着用した。渡り奉公人の「中間(ちゅうげん)」とは区別される。諸藩の足軽は、その領内から召し抱えられるのが原則で、譜代の者が多かった。職務は、平時は、警固、巡視などを勤め、戦場では、組を組織して、弓や鉄砲を扱った(弓足軽、鉄砲足軽という。)

28-5)「雑兵(ぞうひょう)」・・名もない下級の兵士。徒歩立の軽卒をいう。一騎立ちの武者の従卒や大将直属の組子(くみこ)、中間をいう(『角川古語大辞典』)。

28-6)「酒井蔀(さかい・しとみ)」・・松前藩士。「嘉永六癸丑年御役人諸向勤姓名帳」では、御用人にその名前がみれる。なお、『松前町史では、二番隊の隊長として派遣されたのは、番頭の新井田朝訓としている。 

4月学習の樺太をめぐる動き(略年表)> 

◎嘉永6年(1853

8.28・・ロシア将兵、クシュンコタンに来航。

8.30~9.1・・ハツコトマリ(クシュンコタン北隣)へ上陸、陣営(ムラヴィヨフ哨所)建

築。日本の越冬番人は、食料を、饗応、玄米10俵を与える。

更に、積荷揚陸のため艀(はしけ)を貸与、ロシア人の宿泊と物資の保管のために倉庫

を清掃して明け渡す。また、乾燥した木材の使用も認める。

9.3以降・・越年番人らは、全員クシュンコタンを退去。多くはシラヌシからソウヤへ逃

げ帰る。越年頭長助など13名は、樺太に留まることにしたが、山を越えナイブチへ避

難。後の取締を惣乙名ベンカクレ、脇乙名ラムランケ、小使イッポングに託す。

ナイブチへ逃げた番人らは、ロシア人オルロフ一行(クシュンナイに上陸し、マーヌイ

経由で南下)に出会い、クシュコタンへ戻ることを勧められ、928日までにクシュ

ンコタンへ帰還。

9,16・・ロシア人のクシュンコタン占拠の報、松前へ届く。

9.17・・1番隊(物頭竹田作郎ほか85名)松前出発。10.9ソウヤ到着。越冬。

9.18・・2番隊(物頭酒井蔀ほか77名)松前発進。10.10マシケ着。越冬。

 

◎嘉永7年(安政元年1853

3.20・・松前藩士物頭三輪持、検使氏家丹右衛門、支配人清水平八郎、番人60名が同行

し、藩兵に先立って渡海、シラヌシへ向かう。3.26シヤトマリ着。3.28クシュンコタ

ン着。

4.11・・1番隊、クシュンコタン着、クシュンコタン勤番所を詰所とする。

4.215.3・・2番隊、ハツコトマリ(クシュンコタン北隣)に到着、仮陣屋を建てる。

『難船之始末』3月学習の注

     

(15-1)「抔(など)」・・漢音で「ホウ」、呉音で「ブ」。「すくう」「あつめる」の意。国訓で「など」だが、なぜ、いつから、複数を示す「など」の意に、「抔」が使われたかは、はっきりしない。

(15-1)「玉込(たまごめ)」・・銃砲に弾丸をこめること。また、装填された銃。

 *「玉込鉄砲」・・江戸時代、農作物を荒らし人馬に危害を加えるイノシシ、オオカミなどを撃ち殺すために百姓に貸与された、弾丸を込めた鉄砲。

(15-1)「仕置(しおき)」・・「仕置(しお)く」の連用形。「し」はサ変動詞「する」の連用形。しておく。処置する。しまつをつける。

(15-2)「内(うち)」・・一続きの時間。また、それに含まれるある時。

(15-3)「類(たぐい)」・・動詞「たぐう(比・類・副)」の連用形の名詞化。「たぐう」は、並ぶ。寄り添う。いっしょにいる。連れだっている。

(15-3)「等」・・音読みは「トウ」。訓読みで「など」だが、「ら」も訓読み。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「等」の補注に、

 <、「ロドリゲス日本大文典〈土井忠生訳〉」に「複数に使われる助辞はタチ、シュウ、ドモ、Ra (ラ)である。これらは名詞の後で直接に格助辞の前に置かれる。これらの語の間には敬意の度合による相違がある。〈略〉Ra (ラ)は謙遜する場合の第一人称に用い、また第二人称および第三人称をはなはだしく侮辱し軽蔑する場合に用いる。例、〈略〉Acuninra (アクニンラ)、Varera (ワレラ)、Fiacuxo ra (ヒャクシャウラ)」とある。>とある。

(15-4)「猟」・・ラッコ。普通は、「猟虎」と2字を当てる。あるいは、ここは、「猟虎、貂の皮」と読み、「虎」のルビ「トラ」を誤りと見るか。

 なお、異本は、「猟虎、豹」とある。

(15-4)「虎」・・影印は、虍(とらかんむり)が、いびつになっている。

(15-4)「貂」・・影印は、「ヒヨウ」とルビがある。「貂」は、普通は「テン」(イタチ科テン属)。なお、「ヒョウ」(ネコ科ヒョウ属)は、「豹」を当てる。

(15-6)「ヲホシカ」・・オホーツク。オホーツクは、ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。人口約1万。漁業コンビナート、船舶修理工場がある。極東におけるロシアのもっとも古い植民地の一つで、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく=砦=)が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

 なお、「オホーツク」の語源は、オホタ川という川の河口にある町なので、「オホタ」という言葉にロシア語で形容詞を作る語尾をつけたのが「オホーツク」=「オホタの(町)」の意。

(15-6)「漸(ようやく)」・・普通は、「漸く」と送り仮名「く」を伴う。「ややく(稍)」に「う」の音の加わってできた語か。他に、「やくやく(漸漸)」の変化した語、「やをやく」の変化した語などとする説がある。漢文訓読では「に」を伴って用いることが多い。

 なお、「漸(ようよ)う」は、「ようやく(漸)」の変化した語。「と」「に」を伴って用いることもある

古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。」また、「漸漸」「漸々」は、「ようよう」と読む。

(15-8)「煙霧(えんむ)」・・影印の「雺」は、「霧」の異体字。なお、「雰囲気」の「雰」も「きり」の意味がある。

*気象学上の「煙霧」・・地面から吹き上げられて大気中に浮かんでいる細塵(さいじん)や煙の粒子。またそれらのために遠方の風景がはっきり見えなくなる現象をもいう。気象観測上の用語で、煙霧は霧ではない。地面から吹き上げられた細塵であることがはっきりしている場合には塵(ちり)煙霧、燃焼によって生じた煙であることがはっきりしている場合には単に煙といい、そのいずれとも判別できないものを煙霧とよんでいる。

(15-9)「不得」・・「止」が欠か。「不止(やむをえず)」。

 *漢文訓読の返り点

  ①小返り(一字返りを示す)・・レ点(かりがね点=雁点)。古く雁(かりがね・ガン)の飛ぶ形

        を書いたことから。

      

 

 ②大返り

   ・一二点・上(中)下点・甲乙(丙)点・天地(人)点

(16-1)「去亥年」・・文化12年(1815)。

(16-2)「カワン」・・『ふなをさ日記地』の本文には、「カムサスカのカワン」の次に、「港の事也」と割書きがある。

(16-5)「馳走」・・<雑学>次ページ参照。

(16-6)「日本人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

(17-475)「不為致(いたせず)」・・組成は、4段活用動詞「致(いた)す」の未然形「致(いた)さ」+サ変動詞「為(す)」の未然形「せ」+打消しの助動詞「ず」の連用形「ず」。

(17-8)「悦喜(えっき)」・・大いによろこぶこと。また、そのさま。喜悦。

 *促音便・・「悦(えつ)」を「えっ」とするのは、促音便。促音便は、音便の一つ。発音の便宜のために、語中において、ある音が促音に転ずる現象。活用語の連用形語尾の「ち」「ひ」「り」が、タ行音の助辞「て」「たり」などに連なる直前で起こるものが、最も多い。 「立ちて→立って」「食ひて→食って」「取りたり→取ったり」の類。ただし、その外、名詞の中で起こることもあり(夫「をひと→をっと」の類)、真白(ましろ→まっしろ)のように強調の意をこめたものもある。この現象は古くからあったと思われるが、促音の表記法が一定していなかったので、明らかでない。現在のように「っ」で表記した例は院政期ごろから見られる。

(18-1)「失費(しっぴ)」・・何かをするのについやした費用

(18-2)「ランラン」・・ロンドン。ここでは、イギリスのことをさすか。

(18-6)「イルコシツカ」・・イルクーツク。バイカル湖の西方にある商工業都市。本文の時期、帝政ロシアのシベリア総督府がおかれ、行政・経済の中心地であった。

(18-78)「さ候得ば」・・そうであるので。「さ」は「然」。影印の「左」は変体仮名で「さ」。

(18-9)「否(いな)」・・自分の発言を途中で否定したり、ためらったりするときに発することば。いや。いやそうではなく。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「否」の語誌には

 <(1)会話の中で、否定の応答として用いられたのは平安末ごろまで。それ以降は、文語として使われ続けたが、否定していることを手短かに表わす語として、「否を申す」のように、名詞として単独で、また、「否と思う」といった引用の形で、口語文の中にも多く用いられた。

(2)現代語においても、やや堅い文体の中では、「…だろうか。否、…である」のように、主張を強調するために、わざと反対の意見を前に出して否定する場合などに用いられる。>とある。

(19-1)「差帰(さしかえり)」・・「さし」は接頭語。

 *接頭語・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には

  <語構成要素の一つ。独立した一語としての機能をもたない造語成分(接辞)のうち、語や語基の前につくもの。語調を整えたり意味を添えたりする。「こ雨(さめ)」「お手紙」「御親切」「どん底」「たやすい」などの「こ」「お」「御」「どん」「た」の類。なお、「うちあける」「さしおさえる」の「うち」「さし」のように、動詞語源のたどられるものは接辞としての取扱いに問題がある。接頭辞。接頭。>とある。

(19-1)「今(いま)」・・さらに。その上に。あと。もう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「今」の語誌に

 *「貝のいろは蘇芳(すはう)に、五色にいまひといろぞたらぬ」(土左日記)

 <旧くは、「万葉」「古今」の「今二日」「今いくか(幾日)」も、この現在の瞬間に連続する同質時間としての二日・幾日といった意味であったと考えられ、「土左日記」の「いまひといろ(一色)ぞたらぬ」も、現在のこの状況(「いま」)においては、五色には一色足りないという意味で使われていたものととらえられる。>とある。

(19-4)「如何程歟」の「歟」・・「歟」は、本来は、漢文の助字。句末に用いて疑問・反語・推量・感嘆の意を表す。「欠(あくび)」部の13画(総画17画)。なお、変体仮名の「か」にもなる。

(19-4)「無本意(ほいなく)」・・もとからの気持や意志が達せられずに残念である。

 「本意」は、現代語では「ほんい」と読むが、「ほんい(本意)」の撥音「ん」の無表記で、古文では、「ほい」と読む。

(19-6)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。 かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま。

(19-6)「是非(ぜひ・しいひ・しひ)」・・「是非共(とも)に」の意から。是であれ非であれ共に。事情がどうあろうとも、あることを実現しよう、実現したいという強い意志や要望を表わす語。是が非でも。どうあっても。きっと。ぜひとも。

 *「儻(もしく)は所謂(いはゆる) 天道是か、非か。」(『史記』)[天道というものは信じてもよいものなのか、そうではないのか]

(19-8)「別而(べして・べっして)」・・特別に。とりわけて。格別に。ことに。

魯夷始末書3月分注記

21-1)「達之(本ノマヽ)」・・「之」は「者」で、「達者」か。熟達し上手なこと。

21―1)「通弁(つうべん)」・・通訳。

21-2)「小頭(こがしら)」・・組をなす人々のなかで、その一部分の小分した組の長。

     小隊長あるいは分隊長。

21-4)「魚漁(ぎょりょう)」・・魚介類をとること。「漁猟」と同義。「漁」を「りょう」と読むのは、「猟」にあてた国訓。

21-5)「ヱノシマナイ」・・ヱヌシコマナイ、エヌシコマナイホ。日本名「犬駒内」。樺

     太南部アニワ湾沿いの地名。樺太地名NO28。『樺太の地名』には、明治六年林氏紀行を引用し「湳渓より・・六里にしてイヌシクマナイ土人家十戸」とある。

21-5)「ヲマヘツ」・・ヲマンベツ。マンベツ。ヲマンヘチ。日本名「小満別」。樺太南  

     部中知床半島西岸。樺太地名NO39

21-5)「水 欠 働方」・・欠の部分は、「主」か。「水主働方」とか。

21-7)「従随(本ノマヽ)」・・「随従(ずいじゅう)」で、「従」と「随」の順序が逆か。

     「随従」は、つきしたがうこと。人の言うことを聞いてそれに従うこと。

21-8)「宿営(しゅくえい)」・・軍隊が兵営外で宿泊すること、また、其の場所。久春古丹の「ムラヴィヨフ哨所」に駐屯していること。

2110)「松前より引続候蝦夷地」・・近世、蝦夷島(北海道)において、松前藩は、その統治政策の一つとして、松前を中心とする周辺地域を和人の定住地(松前地、和人地、日本人地とも。)とし、和人の定住地以北の地を蝦夷地(東・西蝦夷地)と称するアイヌの人々の居住地とに区分した。「松前地=和人地」の区域は、時代により異なるが、17世紀には、北方は熊石(現八雲町内)、東方は亀田(現函館市内)が境界、19世紀末には、東方の範囲が山越内(現八雲町内)まで拡大した。

22-2)「恩沢(おんたく)」・・恵み。

22-4)「憤(いきどおり)」・・「憤る」の連用形。憤慨すること。

怒りの気ちを持つこと。

22-4)「以之外(もってのほか)」・・(事柄が普通でなくとがめ立てされるような場合に用いる)とんでもないこと。けしからぬこと。

語源説に、

(1)オモッテノホカ(思外)の義〔言元梯〕。

(2)オモヒ(以)ノホカ(外)の文字読〔大言海〕。

がある。

22-4)「申罵(もうしののしる)」・・悪口を言い立てること。

22-6)「異見(いけん)」・・「意見」。他人をいましめること。説教。

     ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

     <(1)表記は、挙例のように「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

     (2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

     (3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、(2)の挙例「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

22-6)「無本意躰(ほいなきてい)」・・「本意」は「ほい」で、「ほんい」の撥音「ん」の表記されないかたち。本来の意志、もとからの望み。

22-8~9)「ナイフリ」・・ナイブチ(内淵)か。

23-3)「人跡(じんせき)」・・人が通った跡。

23-4)「究竟(きゅうきょう・くきょう)」・・事をきわめて、究極に達したところ。最高であること。また、そのさま。

23-5)「長橇(ながかんじき)」・・「橇」には、「そり」のほか、「かんじき」の訓がある。「履」や「歩行」の文言があることから、雪の中に足を踏み込んだり、滑ったりしないよう靴などの下に付ける道具の「かんじき」。

23-6)「巧者(こうしゃ)」・・物事に器用で、巧みなこと、あるいは、人のこと。

2310)「毎月七之日、三日」・・月毎の7、17、27の「7」の付く日の3日間。

2310)「いたし(以堂し)」・・「いたし」の「い」は「以」、「た」は「堂」の変体かな。

24-1)「打臥(うちふせ)」・・「打臥(うちふす)」の連用形。「打(うち)」は接頭語で、下の動詞の意を強める。「臥す」は、病気などのため、寝床に横になる。ふせる。

24-3)「申断(もうしだんじ)」・・「申断(もうしだんず)」の連用形。拒絶、断わりを言い立てること。

24-4)「折檻(せっかん)」・・厳しく戒めること。たたいて懲らしめること。

24-5)「来ル廿六日迄七日之間」・・和暦の「来ル(安政元年(1854)2月)26日迄7日之間」は、ロシア暦(ユリウス暦)では、185436日~312日、西暦(グレゴリオ暦)では、1854318日~324日にあたる。

24-5~6)「彼国之正月」・・ロシア暦による「新年の正月」ではなく、キリスト教にとって最も重要な行事である復活祭(イースター)の祝祭の期間を指す。復活祭は、春分の日の後の満月に続く日曜日が、その祝日にあたり、西暦(グレゴリオ暦)では、321日~425日の間で、年によって変わる。そして、祝日の一週間前の日曜日から、キリストの復活を祝う特別な行事がおこなわれる。

24―7)「領主城下」・・松前のこと。時の松前藩主は12代崇広(たかひろ)。

24-7)「出勢(しゅっせい)」・・「勢」は軍勢、兵力の意で、出兵すること。

24-9)「申談(もうしだんじ)」・・「申談(もうしだんず)」の連用形。『くずし字用例辞典』には、「申談」は、「もうしだんず」と訓がある。かけあうこと。談判すること。   

24-10)「籏(はた)」・・国字。「竹」と「旗」の合字。

古文書解読学習会

              札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

            参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年3月14日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室

   (札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。
代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 

『魯夷始末書』2月学習分注記

(17-2)「逸ゝ(いちいち)」・・(副詞的に用いて)一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。ことこまかに。
(17-3)「素立(すだて)」・・まだ骨組だけで、内装も外装もほどこされていない家。

    柱立や梁などの組み上がった状態。棟上の終わった状態。

(17-3)「造作(ぞうさく)」・・建物内部の仕上工事。天井、床板、建具、棚、階段などを取り付けること。

(17-3)「正月」・・一年のいちばんはじめの月。むつき。いちがつ。語源説に「政治に専念した秦の始皇の降誕の月であるところからセイグヮツ(政月)といっていたものが、『正月』と書かれるようになり、音が改められたもの」なある。

(17-5)「遠台(えんだい)」・・警戒や偵察など遠見のために設けたやぐら。物見櫓、遠見櫓、遠見台、望遠台とも。

(17-6)「矢狹(やざま)」・・城内から矢を射ることができるように、城の廓や櫓の側面に設けた多く、縦長の小穴。三角形のこともある。

(17-6)「隅々(すみずみ)」・・方々の隅。あらゆる隅。

(17-8)「士卒」しそつ)」・・士と卒。士官と兵卒。武士と雑兵

(17-8)「焚出場(たきだしば)」・・一時に大量の炊事をして、大勢の者に食事を配り与える所。

(17-10)「畳上(たたみあげ)」・・積み重ねる。幾重にも積む。重ね上げる。

(18-1)「布蓙(ぬのござ)」・・「蓙」は国字で、藺(い)などを編んで作った敷物、薄縁(うすべり)、ござむしろ。「布蓙」は、布製の敷物、薄縁。

(18-3)「炉気(ろき)」・・香炉のかおり。

(18-3~4)「仕懸(しかけ)」・・仕掛け。

*「仕懸文庫(しかけぶんこ)」・・①江戸深川の遊里で、遊女の着替えを入れて持ち運ぶための手箱。②洒落本。1冊。山東京伝作・画。寛政3年(1791)刊。江戸深川仲町の岡場所の風俗を描く。

(18-4~5)「銅銭或は銀札」・・銅銭は「コペイカ銅貨」、銀札は、「ルーブル銀貨あるいはコペイカ銀貨」。当時の帝政ロシアの貨幣制度は、本位金貨幣であるルーブル金貨のほか、補助貨幣として、銀貨(1ルーブル銀貨、5025201510の各コペイカ銀貨)や銅貨(53211214コペイカ銅貨)が流通していた。

(18-6)「弁用(べんよう)」・・ある用件を適切に処理すること。また、役に立つように用いること。

(18-7)「板檀(いただん)」・・「板壇」か。

(18-7)「土竈」・・土を固めて作ったかまど。へっつい。土間や庭に直接、土で焚口を構えるものたが、町家の場合は、木作りの箱の中に、石を敷いたものを台として、その上に土製の竈が置かれ、この総体を「へっつい」という。『守貞謾稿』には、「竈(かまど)」を俗に「へつい」と云う。また、訛て「へつゝい」と云ふなりとある。

    *<漢字の話>「竃」・・かまど。「ど」は処の意。土・石・煉瓦(れんが)などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。

    「釜」・・飯を炊いたり湯を沸かしたりするための器具。

    *「塩竃市」・・宮城県中央部、松島湾に面する市。

(18-8)「火勢(かせい)」・・火の燃える勢い。火気。

(18-8)「屡(しばしば)」・・副詞。「しば(屡)」を重ねたもの。たびたび。しきりに。幾度も。何回となく。なお「屡(しば)」は、「頻(し)く」「頻(しき)る」などの語基「し」に、「もと」「端」などを意味した「は」の付いたものとする説もある。

(18-8)「濺き(そそぎ)」・・「濺ぐ」の連用形。水を注ぐの意。

    *「濺」の解字・・旁の「賤」は、うすいの意味。

(18-9)「所謂(いわゆる)」・・動詞「いう(言)」の未然形に上代の受身の助動詞「ゆ」の連体形が付いて一語化したもの。①世間一般にいわれている。また、一般にそうたとえられている。②すでに周知の。言うまでもない。

    *漢文として使われていた「所謂」を「謂う所(いうところ)」と読み、その意味となる日本語が「いはゆる」だったので、「いわゆる」となったもの。

    ○[論語] 所謂大臣者、以道事君、不可則止

        所謂(いわゆる)大臣なるものは、道を以て君(きみ)に事(つか)え、不可(ふか)ならば、則(すなわち)止(や)む>

→(すぐれた大臣といわれるものは、道により主君に仕え、意見が採用されなければ辞任するものだ。)

    ○[史記] 管仲世所謂賢臣、然孔子小

        <管仲(カンチュウ)は、世に所謂(いわゆる)賢人(けんじん)なり。然(しか)るに、孔子は之を小(ショウ)とす。>

        →(管仲は、世に言う賢人だが、孔子はこの人物を小者と考えた)

(18-9)「蒸気風呂」・・蒸し風呂。サウナ風呂か。サウナ風呂(フィンランド風の蒸し風呂)は、石塊を入れた鉄釜を下から熱した熱と、その石に水をかけて発する蒸気熱とで室内の温度・湿度を高め、その室内に入って汗を流す。

(19-1)「夫役(ぶやく・ぶえき)」・・労働課役。主として地方の農民を強制的に徴発し、公事の労役に従事させること。

(19-2)「軍卒(ぐんそつ)」・・軍兵。兵士。または、軍勢。

(19-4)「雨覆(あまおおい)」・・建物のある部分に雨がかかるのを防ぐ設備。「雨(あめ)を「あま」と読むのは転音。「雨垂(あまだ)れ」「雨傘(あまがさ)」

*「変音」・・日本語で、二つの成分が結合して新たな合成語ができるとき、しばしばその成分の音素に変化が生じることがある。音素の変化を「変音」という。

これには①「転音または母音交替(あまだれ)」②「連濁(あおぞら)」「音便(つんざく)」「音韻添加(まっしろ)」「音韻脱落(手洗い→たらい)」「音韻融合(けふ→きょう)」「連声」「半濁音化(ひっぱがす)」がある。

*「転音」・・語音が本来の形を変えること。また、その変わった音。日本語では主として、複合語をつくる際の、前の部分の語末におこる母音の転換をいう。酒(さけ)→酒樽(さかだる)の「か」、舟(ふね)→舟足(ふなあし)の「な」の類。

(19-7)「一時(いっとき)」・・昔の時間区分で、一日の十二分の一。今のおおよそ二時間。一刻。奈良・平安時代の定時法では二時間、鎌倉時代以降の不定時法では季節により、また昼夜によって相違する。

(19-7)「朝は六ツ半」・・午前七時ころ。

(19-8)「顔をそゝき」・・顔を洗い清めること。「そゝぎ」は「注ぐ」の連用形で、「洗い清める」の意もあるが、『角川古語大辞典』には、本来は、「すすぐ(濯ぐ)=洗い清める」との間に、意義の混淆があるとある。      

(19-9)「銅板之如き仏像」・・イコン。アイコンとも。ギリシャ正教会やロシア正教会などの東方教会で、礼拝の対象とした聖画像。多くは板絵で、キリスト・聖母・聖伝などを描いた。

19-20~20-1)「足並調練(あしなみ・ちょうれん)」・・歩調をそろえる行進訓練。

(20-3)「夕七ッ時頃」・・午後四時頃。不定時法における昼と暮の境の時間帯。

(20-4)「灯籠(とうろう・とうろ)」・・照明器具の一つ。火袋を有することが特徴で、その中に油火またはろうそくを点ずる。

(20-5)「謡物(うたいもの)」・・詞章に節を付けて歌うものの総称。

(20-6)「類船(るいせん)」・・船が行動をともにすること。また、その船。江戸時代では同時に出港する船や同じ水域を航行している船をもいう。友船。片船。

(20-6)「表準(ひょうじゅん)」・・標準。そこに達すべきよりどころ。目標。

(20-7)「腰掛(こしかけ)」・・腰を下ろして休むための椅子や台。ここは「ベット」か。

(20-8)「妄(みだり)に」・・思慮、分別もなく、いい加減に。でたらめに

(20-10)「慇懃(いんぎん)」・・礼儀正しいこと。へり下って丁寧なこと。

(20-10)「会釈(えしゃく)」・・軽くお辞儀をするさま。なお、「会釈」と書いて「あしらい=能、狂言、歌舞伎などの囃子の一種で、一般に調子に乗らず、音も小さい単純な伴奏をいう。」と読む場合がある。関連する用語として、「会釈囃子(あしらい・ばやし)」、「会釈間(あしらい・あい)」などがある。

 

 

 

 

 

(18-7)「竃」関連資料(塩竃市公式ホームページから)

 

*塩竈市の『竈』の字については、『竈』と『釜』の両方を使用することが認められていま

す。

『竈』は21画と画数が多く、書き方も難しい漢字ですので、正しい書き順を左に示します。

ちなみに市役所で用いる公用文ではこの『竈』を用いることになっています。

◎地名の由来

海水を煮て塩をつくるかまど(竈)のことを「塩竈」といいました。つまり、もともとは

地名ではなく、製塩用のかまどのことを指す名詞でした。以前は日本の各地の砂浜にこの

ようなかまど(塩竈)があり、これが海辺の風景におもむきを添えていたといわれていま

す。わが郷土も、この竈のある場所として有名になり、それがそのまま地名になっていっ

たといわれています。

 塩竈という地名のほかに、国府津(『こうづ』と読み、国府の港という意味です)とも呼

ばれていましたが、塩竈神社が、陸奥国の総鎮守(多賀城から見て東北の方角に位置する

鬼門を守る意味がある)として建てられ、信仰を集めるようになり、国府津よりも塩竈の

方が地名として定着していったものといわれています。

◎塩竈か塩釜か

塩竈市役所で作成する公文書においては、「塩竈」を使用することになっています。ただ

し、市民の方、あるいは他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解

釈して受理することとしています。

 市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、

それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。

「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」

と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むもの

であるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。

『難船之始末』2月学習の注 

      

(14-2)「馳走(ちそう)」・・(1)心を込めたもてなし。また、そのときふるまう酒や料理など。(2)うまい飲み物や食べ物。ぜいたくな食事。立派な料理。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

 <(1)江戸時代には、まだ漢語「馳走」の原義(走り回る・周旋の意)が残っていたと思われ、(1)の用法では、酒や料理の意で用いられることよりも、接待・もてなしの意で用いる方が一般的。

(2)現代語では(1)(2)の用法でのみ用いられるが、(1)の用法としては、もっぱら「ご馳走する」「ご馳走になる」の形で用いられ、形式が固定化している。

(3)江戸時代など、ふるくは「馳走になる」など「馳走」の形で用いられることもあったが、次第に丁寧語形「ご馳走」の方が一般的となった。>とある。

(10-2)「徃返(おうへん・ゆきかえり)」・・行きと帰り。また、行って帰ること。往復。

(10-4)「揚荷(あげに)」・・船舶などから陸揚げされる荷物

(10-4)「仕廻(しまい)」・・「仕舞」などの当て字がある。「し」は動詞「する」の連用形。し終える。し

(10-9)「旱必丹(カピタン)」・・船長のこと。なお、江戸時代は、オランダ商館長もさした。

 「カピタン」の当て字には、ほかに、加比丹、加必丹、加昆丹、加昆旦、甲比旦、甲必丹、葛必丹などがある。

(11-2)<漢字の話>「大工」・・①「工」を「ク」と読むのは呉音。「大工(だいく)」の外には、「石工(いしく)」「画工(がく)」「楽工(がっく)」がある。②なお「工」の解字は、にぎるところのある、のみ(鑿)の象形とも、さしがねの象形ともいう。工具の象形から、工作するの意味をあらわす。

(11-3)「ルキン」・・『ふなをさ日記』には、「ヲロシヤに随へる国にてルキンといふ所也といふ。ルキンは北アメリカなり」とある。

(11-34)「此所は魯西亜領分之内」・・アラスカは、1741年、ロシアのピョートル帝に雇われたデンマーク人ベーリングが発見した。ロシア毛皮商人が徐々に入植していき、18世紀末にはロシア・アメリカ会社が毛皮貿易を独占し、シトカを建設して19世紀初めに繁栄を誇った。しかし19世紀なかばになると、ロシアはイギリスがアラスカを奪いはしないかと恐れて、アメリカへの売却交渉を始め、結局1867年にアメリカのシュアード国務長官が720万ドルで購入した。これは当時「シュアードの冷蔵庫」などと嘲笑されたが、シュアードは太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていたといわれる。1896年クロンダイクで金鉱が発見されると、アラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じたが、これも調停でアメリカに有利に解決した(1903)。

 1912年に準州となり、1959年に49番目の州として連邦に編入され、アメリカの大陸防衛体制の前哨(ぜんしょう)地域として戦略上重要な役割を担っている。

 *ロシアのアメリカ大陸進出略史(小坂洋右=ようすけ=著『流亡』参照)

 ・1725年1月・ロシア皇帝ピョートル1世が、ベーリングを長とする探検隊派遣命令に署名。

 ・1728322日、探検隊、カムチャッカのニジネ・カムチャックに到着。34日間航海して引き返す。

 ・1732428日、女帝アンナ・ヨアンノヴア、第二次探検隊を発令。

 ・17333月出発、ヤクーツクで3年間準備し、オホーツクに着いたのは1737年秋。

 ・17409月、ベーリングら一行第二次探検隊、アメリカ航海に乗り出す。

1741年、ベーリング、アラスカ海岸に上陸。

1784年、ロシアがコディアック島に拠点を建設 。

1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる。

1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案。

1861329日、ロシア政府が露米会社から行政権を回収。

18671018日、ロシアがアメリカにアラスカを売却 。

1959年1月3日、アラスカ、アメリカの州に昇格。

 (14-4)穿(?)」・・「釵」はかんざし。「釵子(さいし)」は、宮中に奉仕する女官の髪飾りの一種。古くは唐制に倣って、わが国で髪上げの際に用いた2本脚の金属製のかんざしである。江戸時代、女房の晴装束のおりに、おすべらかしの前髪にあてる平額(ひらびたい)を挿すこととなり、従来の釵子をかんざしといった。釵子は平額を、宝髻(ほうけい)の名残である丸かもじと地髪に留めるために、平額の下方にある丸い二つの穴と、角の穴にかんざしを挿し込んだ。つまりかんざし3本が1組となっている。

(14-6)「気強成(きづよなる)」・・形容動詞「気強なり」の連体形。気が強いさま。

(14-6)「乱妄(らんぼう)」・・乱暴。荒々しい行ないをすること。


 

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願い
します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016年2月8日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカ
ムチャッカに送られ同
13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『難船之始末』1月学習の注 

(7-4)「麾(まね)キ」・・船から他船または陸地に対し、合図のため掲げる標識。近世の船方では、漂流船などが救助を求めるために掲げる標識をいい、適宜手元の筵、布、笠などを棹の先端につけて立てた。

(7-4)「マキリ䑺(ばしり)」・・間切䑺。帆船の逆風時での帆走法で、船は風を斜め前からうけて開き帆とし、上手廻しまたは下手廻しをもって右開き・左開きを交互に行ないながら、ジグザグのコースをとって風上に向かって帆走すること。間切り乗り。

(7-8)「仕形(しかた)」・・身ぶり。手まね。

 *「仕形声(しかたごえ)」・・ある作業や身ぶりなどをまねて、からだを動かし、声をはりあげること。また、その声。

 *「仕形談義」・・身ぶり、手ぶりをまじえた説教

 *「仕形咄」・・①手ぶり、身ぶりして語る話。②江戸時代、身ぶりを豊富にとり入れた笑い話。また、所作入りの落語。

 *「仕形舞」・・ことばに合わせ、身ぶり手まねで舞うこと。また、その舞。

(7-21)「尾州御船印(おふなじるし)」・・「船印」は、近世の船に広く使われた標識で、船体・帆・幟などに船主または雇主を明示するためのもの。廻米・廻銅用に幕府が傭った廻船につけた「日の丸船印」はその好例だが、本来は戦国時代の水軍が所属大名の印としてつけた標識が次第に派手となり、江戸時代には幕府・諸藩の軍船は帆に家紋または色わけの意匠、船体各部に銅製金鍍金の家紋をつけ、矢倉上にも特別に装飾的印を立てて船印と称し、また多数の幟・吹流し・しない・四半・幕などの飾り物で装飾し、それら全体を総称して船飾りと呼んだ。こうした船印により参勤交代で航海する諸大名の大船団も一見して何藩と識別できた。一方、民間廻船は船主の標識として帆に黒(稀に赤)の縦・横・斜めの線かそれらを組み合わせた簡素な印をつけたが、家紋的なものは大名船との混同を避けて使わなかった。その代り水押側面に船主の船印つまり屋号の紋章をつけ、船名幟の下部に同じ印を染める程度であった。この船印に対して帆の場合は別に帆印と呼んで区別することが多い。

 尾張藩の船印は、五本骨の黒扇、「尾」印、日の丸に「八」の字を白く抜いたものなど、いろいろあった。

(7-21-2)「浦賀御判物(ごはんもつ)」・・「御判物」は、奉行の裏判のある書類。「浦賀」は、「浦賀奉行」のこと。

 *浦賀奉行・・江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸入津船の管理には、元和2年(1616)ごろから下田に番所が設けられていたが、風波の難が多いところから、享保5年(172012月に下田番所を廃して翌6(1721)正月浦賀にうつした。武家の船では、武器・武具、あるいは婦女、囚人・怪我人をのせ五百俵以上の米・大豆を積んだものは浦賀奉行に申告し、廻船などの商船も、漁船と空船を除いては検査を受けて証印を得ることとなった。老中支配、千石高、役料五百俵(元文二年(一七三七))、芙蓉間詰。安政ごろから開国にともない要職となり、従五位、長崎奉行の上席となった。

(7-27-8)「穿鑿(せんさく)」・・さぐり求めること。根ほり葉ほり尋ねること。

 <漢字の話>①「穿」の部首は「穴」部。解字は、「穴」+「牙」で、きばであなをほる、うがつの意味を表す。

 ②「穿」の脚の「牙」は、4画。「穿」は常用漢字ではない。

 ③ところが、常用漢字になっている「邪」、「雅」「芽」の「牙」は、1画多い「牙󠄀」で5画。常用漢字になって1画増えた。これらの旧字体の「牙」部分は4画。

 ④ところが平成22年に改訂された「常用漢字表」で追加された「牙」は、4画。

(7-28-9)「手道具(てどうぐ)」・・身の回りの小道具や調度。手具足。

(7-297-3~1)「何方(いずかた)」・・どちら。テキストでは、国を表し、どこ(の国)。

 *「何方道(どっちみち)」・・どっちみち。いずれにしても。

 *「何方不付(どっちつかず)」・・中途半端なさま。

 *「何方此方(どっちこっち)」・・複数のもののうちどれか。

 *「何方此方(どっちんかっちん)」・・どちらも。どっちもこっちも。

 *「何方此方無(どっちこっちない)」・・①優劣がつけにくい。互角である。②大したことはない。

(7-32)「ランタン」・・『ふなをさ日記』には、「ランダンとは、ヲランタといふ事成べし」とある。しかし、後に、「諳乂利亜(アンケリア・イキリス)の都ロンドン」としている。(『ふなをさ日記―地』のP8)。

(7-37)「篤実(とくじつ)」・・人情にあつく実直なこと。誠実で親切なこと。

(8-1)「丑ノ方」・・北北東。

(8-2)「皮船」・・簡単な骨組に動物の皮革などで外部を張って造った船

(8-6)「コシリヤカ」・・『ふなをさ日記』にはには「猟師は、スハコーリヤカといふ所のものなりとぞ」とある。

(8-89)「シユツハン」・・『ふなをさ日記』には「アミシスカ」とある。現アメリカ合衆国アラスカ州のアレキサンダー諸島のパラノフ島西部の町・シトカか。

(8-9)「地方(じかた)」・・海上から見て、陸地のこと。

(9-4)「名ヲハヲケカ」・・・『ふなをさ日記』は、「ヲテカ」としている。それなら、ここは、「名ヲハ(をば)、ヲケカ」と読むか。

『魯夷始末書』1月学習分注記

1210)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』(『秘書』の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」に同じ。)に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる(『秘書』注記P57-958-1参照)。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と比定できる。

13-4)「去ル戌年」・・嘉永3年(1850)。本書が書かれた寅年(安政元年)の4年前。

134.5)「萬国地理図」・・『秘書』P44の「明清地理書」および『秘書』P35の「西洋ニテ近来彫刻仕候地図」と同じものを指すか。幕末の日本に影響を与えた「世界地理書」としては、清国人の魏源が著した「海国図志」がある。以下、大谷敏夫著『魏源と林則徐』(山川出版社 世界史リブレット人シリーズ)により、『海国図志』の概要を紹介する。

     1844年(道光24年=弘化元年)、魏源は『海国図志』50巻を完成。この書は、林則徐の『四洲志』を底本に、歴代の史志および明以来の島志、外国に関する書や新聞を加えて書いた世界地理書。

      *『四洲志』~イギリスの地理学者ヒュー・マレー(中国名:慕瑞)の『世界地理大全』や『明史』、『清史』、西洋人フェルビースト(南懐仁)の『坤輿図説』などを材料にしている歴史地理書。

     ②1847年(道光27年=弘化4年)、アメリカ人のプロテスタント宣教師ブリッ

ジマン(高理文・裨冶文)の『美理哥合省国志略』、オランダの法律学者ヴァ

ッテル(滑達爾)の『各国律例』、イギリス人のイギリス東インド会社広州駐

在の貿易監督官ディヴィス(徳庇時)の『華事夷言』、ドイツ人の伝教士チャ

ールズ・FA・ギュツラフ(郭実獵・郭士力)の『貿易通志』を用いて、増

補し、『海国図志』60巻本を完成。

     ③その後、更に、ポルトガル人のマチス(馮吉士)の『地理備考』、徐継畲(じ

ょけいよ)の『瀛環志略(えいかんしりゃく)』などを書き加えて、1852年(咸

2年=嘉永5年)に、『海国図志』100巻本を完成。

     ④日本へは、嘉永3年(1850)に、『海国図志』60巻本、3部が渡来したが、キリスト教に関する記述のため禁書になり、その後、嘉永6年(1853)、ペリーの来航に伴って、100巻本が再び輸入され、この書の研究が盛んになった。 

13-5)「満州」・・中国の東北地方を指していった旧通称。その領域はロシアとの係争地

となり、時代によって変遷がある。1858年(安政5年)までは、外満州(がい

まんしゅう)といわれる外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江(アムール

川)以北・ウスリー川以東の地域(現在のロシア連邦の沿海地方、アムール州、

ユダヤ自冶洲、ハバロフスク州)を含んでいたが、1858年(安政5年)のアイ

グン条約、1860年(万延元年)の北京条約によって、外満州がロシアに割譲さ

れ、以後、中国東北部の「内満州」地域が単に満州と呼ばれた。

13-5)「支那」・・中国に対してかって日本が用いた呼称。中国最初の統一国家の秦(シ

ン)の音に由来するとされる。日本では江戸中期以後、第二次大戦末まで用いら

れた。

13-5)「蒙古」・・モンゴリア。内陸アジア東部のモンゴル高原、ゴビ砂漠を中心とした

地域。

13-6)「止白里」・・シベリア。ロシア語名「シベリー」。ユーラシア大陸北部、ウラル山脈から太平洋岸に至るロシア連邦領アジアの総称。ロシア全土の約57㌫を占める広大な地域。なお、シベリアの当て字に、「止白里也」「止白里亜」「止百里」「止伯里亜」「失部唎旋」「西比利亜」「西伯里亜」「西伯里」「斉百里」「叙比利亜」「悉白里亜」「細白里」「細伯里亜」「紫比利亜」などがある。(『宛字外来語辞典』柏書房)

(13-6)「彊(さかい)」・・境界。

(13-6)「コツカ」・・「オホーツク」か。アムール川が流れ注ぐオホーツク海沿岸域。現ロシア連邦ハバロフスク州のオホーツク地方。

13-6)「日本海繞(にほんかいじょう)」・・日本海の北辺部を指すか。「繞」は「めぐる。まとう。まとわりつく。」のほか、「もすそ(裳裾)=衣服の裾」の意がある。日本海の北辺部は、中国(北京)からみると、辺境で、衣服の裾部分にあたる。なお、日本海は、アジア大陸、サハリン島、日本列島に囲まれた縁海で、1815年(文化12年)ロシアの航海者クルーゼンシュテルンの作った海図で、初めて「日本海」の名が付けられた。

13-7)「シンクカレと云ル大山脈」・・興安嶺と外興安嶺。中国北東、内モンゴル自冶区と黒竜江省にかけての西の大興安嶺(ターシンアンリン)、伊勒呼里山脈、東の小興安嶺(シヤオインアンリン)からなる興安嶺とそれにつながる現在のロシア連邦シベリア南東部の外興安嶺(スタノヴォイ山脈)。なお、外興安嶺は、ロシアと清国との係争地で、1689(元禄2)のネルチンスク条約で一旦清国とロシアとの境界になったが、1858年(安政5年)のアイグン条約で、完全にロシア領になった。

13-7)「シカト云山」・・シホテ・アリニ山脈。現ロシア・ハバロフスク州と沿海州にまたがる平均標高800~1,000mの中山性の山地。日本海側とアムール川流域(オホーツク海に注ぐ。)の分水嶺になっている。日本海北西岸に沿い、北東から南西方向に続く。長さ1,200キロ、幅200~250キロ。最高峰は、北緯49度付近のトルドキ・ヤニ峰(2077m)。

13-8)「推考(すいこう)」・・道理や事情などからおしはかって考えること。

1310)「松前箱館沖」・・津軽海峡。

1310)「南蝦夷地北蝦夷地之間海」・・宗谷海峡。

13-10~14-1)「カムサスカ」・・カムチャッカ。現在のロシア連邦極東連邦管区カムチャッカ地方にある「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」。『北槎聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)』(桂川甫周著亀井高孝校訂 岩波文庫)には、「カムシヤツカ」について、「ヲホツカとアナヂルスカヤの間にさし出でたる大地なり。」とある。

14-2)「●掛(ま・がかり)」・・●は「舟扁に閒」か。船が碇泊すること。

14-2)「用弁(ようべん)」・・用便とも。用事をたすこと。

14-3)「キイヨロ」・・ナイヨロ。

14-3)「シトタラン」・・シトクラン。

14-3)「任申(もうす・に・まかせ)」・・「任申」は、返読で、「申すに任せ」。「(相手の)言うがままに」の意。

14-4)「クシンナイ」・・クシュンナイ。日本名「久春内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。樺太地名NO89.吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「西白漘の北5里の海岸に在り、東海岸なる真縫に至る横断路の基点にして、~略~、真縫川の谷に通ず。此の間は一の地峡を成し、幅僅に7里となる。」とある。

14-4)「マカヌイ」・・マアヌイ。日本名「真縫」。樺太東海岸のうち。樺太地名NO173

     『大日本地名辞書』には、「本島の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホーツク海に濱す。西岸なる久春内との間、直距7里に過ぎず、」とある。

14-8)「イリノスロイ」・・(人名)ネヴェリスコイ。

14-9)「ヲロノフ」・・(人名)オルロフ

1410)「フースセ」・・(人名)ブッセ

1410)「コタノスケ」・・(人名)ルダノフスキー

15-1)「曾而(かって)」・・全然。少しも。下に打消しの語を伴って、強い否定を表す。

15-2.3)「不案心(ふあんしん)」・・古く「ふあんじん」とも。安心できないこと。気がかりで落ち着かないこと。

15-6)「米三千俵」・・米(玄米)1俵の量(「俵入」という。)は、江戸時代、各地、各藩ごとに一定せず、天領(幕府の直轄地)の場合、関東では、3斗5升入であったが、俵入は、2升の延米を加え3斗7升が普通。越後、三河などは4斗入、尾張、摂津、肥後などは5斗入。関東の私領では、上野では4斗2升または4斗3升入、下総では3斗9升または4斗入であった。(『日史大辞典』)。一方、松前藩の蝦夷地における俵入について、田島佳也神奈川大学経済学部教授は、『近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人』の著述のなかで、「蝦夷俵は、(4斗入れではなく、)最初2斗入れが寛文年間(1661~1673)に、7、8升入れになった。」、また「1857年(安政4年)、箱館奉行の一行とともに蝦夷地を査察した玉虫左太夫の『入北記』によると、苫前場所では、8升入れ米俵が、(1俵として)交易品の交換基準とされていた。」と指摘している。

15-8)「心付(こころづけ)」・・気をつけること。注意。配慮。

158.9)「無油断」・・「ゆだん・なく」

16-1)「右不申(本ノマヽ)」・・「右にもうさざる」で、「出稼ぎをしている46人ではない」ということを意味しているか。意味的にはやや不鮮明。それで、「本ノマヽ」のルビがあるのか。

16-2)「老衰(ろうすい)」・・年とって体の衰えること。老いて衰弱すること。

16-6)「山方(やまかた)」・・山のある地方。里方に対する山村、山林。

16-6)「蝦夷舩椴檜」・・「蝦夷舩」は「蝦夷松」の誤りか。「椴(とど)」は「椴松」。「檜」は、樺太に生育していたかは疑問、別種の樹木(翌檜=ヒバの類)か。

16-6)「元口(もとくち)」・・丸太材の根元に近い方の太い切口。反対語「末口」。

16-9)「自侭(じまま)・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

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します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016111日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカ
ムチャッカに送られ同
13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『魯夷始末書』12月学習分注記

(9-1)「ソウヤ」・・現稚内市宗谷村。西蝦夷地ソウヤ場所の内。ソウヤ場所は、松前藩により、貞享年間(16884~1688)に開設されたといわれ、運上屋が置かれ、アイヌ集落も形成され、場所運営の拠点となるほか、早くから北蝦夷地、利尻、礼文のアイヌ交易の中心地となった。場所請負人は、寛延3(1750)村山伝兵衛、以降変遷を経て、文化5(1808)柏屋(藤野)喜兵衛が請負い、その後一時共同請負になったが、文化12年(1815)には再び藤野喜兵衛が単独で請負い、以後明治2(1869)まで、藤野家が経営にあたった。

(9-1)「領主(りょうしゅ)」・・松前藩主のこと。当時の藩主は12代崇広(たかひろ)。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(9-2)「丑蔵(うしぞう」・・「丑」。くずし字用例辞典p12

(9-4)「シラタン」・・「シラヌシ」の誤りか。

(9-4)「立越(たちこえ」・・連用形。「たち」は接頭語。山や川などの障害物となるものを越えてゆくこと。出かける、出かけて行くこと。

(9-5)「申通(もうしとおし」・・連用形。伝言などを取り次いで申し上げること。取り次いで申し上げること。申し届けること。

(9-5.6)「勤番所」・・松前藩は、文化5(1822)の復領後、蝦夷地の警備と行政監督のため、勤番所を12ヶ所(東蝦夷地9~ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフ、西蝦夷地2~イシカリ、ソウヤ北蝦夷地1クシュンコタン)を設けた。嘉永3(1850)時のソウヤ勤番所の体制は、物頭1、目付代1、組士2、徒士2、医師1、足軽(在住足軽で場所請負人の番人)4となっている。(『松前町史』)

(9-6)「領主役場」・・松前藩の藩政を取りおこなう場所、役所。8.29のロシア船来航の報告については、9.16に松前に届いている。

(9-6)「注進(ちゅうしん)」・・〔「注」は書くの意〕。事件の内容を書き記して急ぎ上申すること。事件を急いで報告すること。

(9-9)「エンルエーツ」・・日本名「真岡」か。エンルモコマプ、エンルコマフとも。

     樺太西海岸漁業の中心地。本島唯一の不凍港である真岡港を控える。『大日本地名辞書』には、「西の運上屋とて、総て西浦の漁業を括する所なり。支配人、番人居住し、甚手広なり。夷家も38軒あるよし。」とある。『樺太(サハリン)関係略地図および同地名対照表』(以下「樺太地名対照表」と略)NO67

(9-9)「斬(本ノママ)」・・「春漁為手当、□を伐」とする前後の文脈から、「斬」は、「薪」か。

10-2)「勘弁(かんべん)」・・考えわきまえること。熟考すること。

10-5)「倶々(ともども)」・・一緒に。つれだって。

10-6)「空嶋(からしま)」・・「空(から)」は、内部に本来ならあるべきものがないこと。何も持っていないこと。うつつ。例:「から元気」、「から威張」。

     「空嶋」は、松前藩士や場所請負人の支配人、番人が、樺太から居ない状態になること。

10-8)「乙名(おとな)」・・中世後期以降の村落においてその代表者あるいはその上層階層を呼ぶ名称(『日史大辞典』)。蝦夷地においては、「役土人」の名称の一つ。

     以下、「乙名」をはじめとする「役土人」について、『新北海道史』の記述を部分引用する。

【乙名、脇乙名(わきおとな)、小使(こづかい)】

     寛文の乱に敗北した蝦夷は、まったくその独立を失い、(略)今まで藩主と対等の地位にあった蝦夷の酋長は松前氏に服属することになった。その結果室町末期の自冶体の首脳をさして呼んだ「おとな」の名称が従属した酋長に用いられ、名主、庄屋と解されるにいたった。(略)さらに、各部落には乙名のほかに、脇乙名、小使が任命された。乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。(以下略。)

     【惣乙名、惣小使、】

     寛政ごろから場所ごとに惣乙名、惣小使などの役名が設けられ、蝦夷中の名望家をもってこれに充てた。惣乙名は一場所の乙名上に立つもので、普通はその地方一の家柄の者をもってこれに充て、(略)惣小使は場所のおける小使の上に立つものである。

      *参考 『日史大辞典』によると、『惣(そう)』は、中世に出現した村落共同体組織をいう。「惣」は、「揔」の異字で、音通に同じく、「聚束(あつめたばねる)」の意味をもつ。(『角川漢和中辞典』~「惣」は「揔」を誤って書き伝えた字)

     【土産取(みやげとり)】

     「年寄」といった役土人を監督する地位にあるものであり、乙名、小使などに準ずる格式で、オムシャの際などにはそれらとほぼ同様の待遇によって、土産を受けるものであった。

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記事タイトル『難船之始末』12月学習の注

*本テキストについて

 本テキストは、北海道大学附属図書館所蔵本である。(請求番号 奥平家116

 文化10(1813)10月江戸より帰航の途中伊豆沖で暴風に逢い、14ケ月の漂流ののち英国船に救助され、カムチャッカから薩摩の永寿丸の乗組員らとともにロシア船で帰国した督乗丸船頭長右衛門(重吉)と水主音吉の口書(くちがき)。本書の末尾に「文化十三子七月」とあるから、エトロフ島での口書と思われる。

◎『ふなをさ日記』によると、エトロフ上陸以来、重吉らは次のように各所で取り調べを受けている。

1.文化13(1816)79日・・エトロフ島シヒトロ番屋にて箱館奉行調役下役村上貞助の調べ。

2.同年720日より82日まで・・エトロフ島フルエベツ番屋に滞在中の調べ。

3.同年82日・・エトロフ島ヲトヒ番屋にての調べ。

4.同年819日・・クナシリ島トマリ番屋にての調べ。

5.同年919日より数日・・箱館奉行所にて調べられ、その口書は江戸へ送られる。

6.同年124日以後・・江戸霊岸島にて、箱館奉行江戸会所の役人に取り調べを受ける。

7.文化14年(18175月初旬・・名古屋城清水御門にて尾張藩の勘定奉行より取り調べを受ける。

8.その後2日間・・鳴海の代官所にての調べ。

(1)「奥平家文書」・・文政7年(1824)松前藩に仕官し、御側御用・町吟味役を歴任した元桑名藩士奥平貞守(勝馬)旧蔵の資料。

(1)「納屋町(なやまち)」・・現名古屋市中村区名駅(めいえき)五丁目・名駅南(めいえきみなみ)一丁目一帯。納屋町は、慶長15(1619)に掘削された熱田湊に通ずる堀川(下流に、熱田~桑名間の東海道の海路・七里の渡しの渡船場がある)に臨み、廻船問屋などが軒を並べて繁栄した。江戸時代には「納屋の富は名古屋の七分」と言われた。(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964)なお、「納屋町」の地名の由来については、「魚を入れておく小屋を納屋(なや)がけといい、苫葺の魚納屋で商売したところから、町号が生じた」とある。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

(1)「小嶋庄右衛門」・・「役所御用達」をつとめ、指折りの豪商。(『督乗丸の漂流』)

(1)「千弐百石積」・・120総トン見当。

(2-1)「長右衛門」・・「督乗丸の船頭は、長右衛門という人物で、重吉の叔父であると記録されている。漂流したときは、何かの都合で重吉が叔父の代わりに船頭として乗組んでいたため、帰国後の口書(調書)には、この名を使っている」(村松澄之著『船長日記 その信憑性と価値』風媒社 2013

(2-12)「生国知田郡半田村」・・重吉は三河湾に浮かぶ佐久島(現愛知県西尾市一色町佐久島)の百姓善三郎の次男として天明5(1785)に生まれた。15歳の時から船乗り生活に入り、後に知多郡半田村荒古(現愛知県半田市荒古町)の百姓庄兵衛の養子になった。

(2-1)「郡(ぐん・こおり)」・・①律令制で、一国の下の行政区画。郡司が管轄する。この下に郷、里があった。

(2-2)「門徒宗」・・浄土真宗の俗称。その信徒を門徒と呼ぶところからいう。「門徒」は、元来は仏教用語。『梵摩渝経(ぼんまゆぎょう)』その他にみられ、古代からあることば。初めは、門下、門人、門葉を意味し、末寺寺院の僧侶(そうりょ)をさす。その後、俗を含んだ同信者の集団をも門徒といい、親鸞(しんらん)の門弟の場合、地名を冠して、高田門徒、鹿島門徒などと称した。さらに下って浄土真宗では、もっぱら在俗の信者を門徒といった。檀家・檀徒を門徒と通称し、それを基盤に成り立つため、真宗を俗に門徒宗ともよんだ。

(2-34)「文化十酉年」・・1813年。

(2-5)「尾張様」・・尾張藩。尾張藩は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は619500石。文化10(1813)当時の藩主は10代徳川斉朝(なりとも)。

(2-5)「廻米(かいまい)」・・江戸時代に遠隔地へ米を廻送すること、またその米をいう。江戸幕府は、1620年(元和6)初めて江戸浅草に御米蔵を建て、翌年大坂に御蔵奉行(おくらぶぎょう)を置いて諸国の廻米を収蔵した。諸侯も、大坂、江戸などの蔵屋敷へ貢租米を廻送して、市中の米問屋を通じて換金に努めている。江戸、大坂などの中央市場へは多量の米が廻送されたが、それらは、天領などからの御城米(ごじょうまい)、藩からの蔵米(くらまい)のほか、商人が農民から貢租余剰米を買い付けた納屋米(なやまい)もあった。江戸幕府は、米の輸送の安全のために厳しい廻米仕法に努めたので、城米の品質や員数などが厳重に点検された。廻米には、海路が多く用いられたが、河川や駄馬も併用された。交通の整備とともに廻米量は増加し、市場に米の供給が過剰となった享保(171636)以降、幕府はしばしば江戸、大坂への廻米を制限して、米価の調節を図った。

(2-7)「師崎(もろざき)」・・多半島の先端に位置し、東に日間賀(ひまか)島・篠(しの)島を望む。南知多は尾張氏との関係が深く、その一族の師介が支配者となったので、この地名が生れたとも伝える。師崎には、遠見番所があり、船奉行が海上諸船の往来を管理した。

(2-8)<漢字の話>「売払」の「売」・・影印は、旧字体の「賣」。解字は「出」+「買」。「買」が、「かう」の意味に用いられたため、区別して「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、省略形の俗字による。

(2-9)「子浦(こうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。文化10(1813)当湊で日和待ちしたのちに出帆した督乗丸は御前崎沖で流され一七ヵ月間太平洋を漂流した後、イギリス船に助けられた。その後ロシアなどを経て文化一四年に帰国。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林寺には音吉の墓がある。

(3-1)「相繋り」・・「袋」「災」「醤」「豊」「賀」など、脚のある字は、縦長に書かれ、二字に見える場合がよくある。

(3-1)「霜月」・・陰暦十一月の異称。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語源説に、

(1)ヲシモノツキ(食物月)の略〔大言海〕。

(2)シモフリツキ(霜降月)の略〔奥義抄・名語記・和爾雅・日本釈名・万葉考

別記・紫門和語類集〕。また、シモツキ(霜月)の義〔類聚名物考・和訓栞〕。

(3)貢の新穀を収める月であるところから、シテオサメ月の略か〔兎園小説外集〕。

(4)シモグル月の義。シモグルは、ものがしおれいたむ意の古語シモゲルから

〔嚶々筆語〕。

(5)スリモミヅキ(摺籾月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)十月を上の月と考え、それに対して下月といったものか。十は盈数なので、十一を下の一と考えたもの〔古今要覧稿〕。

(7)新陽がはじめて生ずる月であるところから、シモツキ(新陽月)の義〔和語私臆鈔〕。

(8)シモ(下)ミナ月、あるいはシモナ月の略。祭り月であるカミナ月に連続するものとしてシモナツ

キを考えたものらしい〔霜及び霜月=折口信夫〕。

がある。

(3-2)<決まり字>「夜ニ入」の「夜」・・決まり字は形で覚える。

(3-34)「暗夜(やみよ・あんや)」・・暗い夜。

(3-9)<漢字の話>「檣(ほばしら)」・・多く「帆柱」と書く。「檣」の音読みは、「ショウ」。

 *「檣灯(しょうとう)」:夜間航行中、マストの先端に掲げる白色の灯火。「赤いガラスを嵌(は)めた檣灯が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取って閃(ひらめ)いた」(有島武郎『或る女』)

 *「檣楼(しょうろう)」:艦船の帆柱の中間にある物見台。「艦内に行きかふ人の影織るが如く、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者」(徳富蘆花『不如帰』)

(4-1)「七島(しちとう)」・・ここでは伊豆七島。行政上の管轄は、明治以前は伊豆国に属し、江戸時代には幕府の直轄領として韮山代官の支配下にあった。明治2年(1869)八丈島・青ヶ島は相模府に、その他は韮山県に属し、翌三年には八丈島・青ヶ島も韮山県に編入された。その後同四年足柄県、九年静岡県と移ったが、11(1878)東京府に編入され今日に至っている。

(4-2)「見え渡り」・・(1)全般にわたって見える。一面に見える。(2)一見してそれとわかる。見て推察される。

(4-4)<漢字の話>「其侭」の「侭」・・影印の「侭」は、「儘」の俗字。

(4-6)「登り船」・・異本は「戻り船」とある。

(4-9)「豆粥(まめがゆ・トウジュク)」・・大豆をまぜて炊いた粥。

 *<漢字の話>「粥」の音読みは「ジュク」「シュク」「イク」

 *「粥腫(ジュクシュ)」:皮膚に脂肪などがたまってできる腫瘤(しゅりゅう)。アテローム。

 *「粥状硬化(ジュクジョウコウカ)」:動脈硬化の代表的なもの。

(5-1)「切(きり)」・・「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言また

はそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。「…かぎり」「…だけ」の意。

(5-1)「仕廻(しまい)」・・物事が終わること。「仕舞」「終い」「了い」なども当てる。

(5-3)「永々(ながなが・えいえい・ようよう)」・・長い間。

(6-7)「島山(しまやま)」・・島の中にある山。山の形をしている島。また、川水などにかこまれて島のように見える山。

(6-7)「䑺船(ほぶね・はんせん・はしりぶね)」・・異本は「走船」とある。

(6-89)「万年暦(まんねんごよみ)」・・一年限りの用ではなく、いつの年にも通用する暦。日や方角の吉凶、男女の相性などを記した書物。

記事タイトル『魯夷始末書』11月学習の注記

(5-1)「与三右衛門」・・「門」は、『くずし字用例辞典』P1134

(5-1)「常蔵」・・「常」は、『くずし字用例辞典』P281

(5-1)「儀兵衛」・・「儀兵衛」の「衛」はP963。下記は「兵衛」の例(『古文書解読字典』より)参照。

(5-2)「豊吉(とよきち)」・・「豊」は、『くずし字用例辞典』P1023

(5-3)「居越(いこし)」・・「居越す」の連用形。いつづけること。

(5-4)「同月晦日」・・嘉永6年(1853829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイは、陸軍少佐ブッセその他の将校と共に73名を率いてクシュンコタン沖に来航。翌30日、ボート3艘に16人が分乗して沿岸一帯の測量を始めた。そのうち主だったもの数人が上陸した。

*和暦の「月」・・大の月(30日)と、小の月(29日)とがあるが、この年の8月は、大の月で、晦日の日付は、30日であった。

    *「晦日」・・「みそか」の語源説に「ミトヲカ(三十日)の転」がある。暦の月の初めから三〇番めの日。また、月の末日をいい、一二月の末日は大みそか、二九日で終わるのを九日みそかという。尽日(じんじつ)。つごもりとも。

(5-5)「異国船」・・露米会社の「ニコライ」号。「露米会社」は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的としたロシア帝国の国策会社。1799年、パーヴェル1世の勅許により、正式に「露米会社」となった。

     なお、露米会社は、「ニコライ」号の使用を認めなかったが、ネヴェルスコイはそれを無視してこの船で樺太占領の航海に向かった。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」=北海道大学スラブ研究センター刊『スラヴ研究19巻』所収 1974))

(5-5)「端船(はしぶね・はぶね)」・・伝馬船(てんません)。本船に曳航または搭載され、必要に応じて本船と陸岸との往来や荷物の積みおろしに使われる小船。艀(はしけ)・脚継船(あしつぎぶね)ともいう。近世の廻船では百石積以上になると伝馬船を搭載したが、その大きさは本船の積石数の三十分の一前後が標準で、千石積では三十石積級で全長約四十尺もあり、櫓八挺と打櫂(うちかい)・練櫂(ねりかい)をもち、帆まで装備する。空荷の時は船体中央胴の間の伝馬込(てんまこみ)に載せ、積荷のある時は船首側の合羽(かっぱ)の上に搭載した。船体は本船への上げおろし作業を考慮し、一本水押(みよし)ながら先端を上棚より突出させない形式でこれが伝馬船の特徴であった。しかし軍船の場合、大型関船でも伝馬船は搭載不可能でこれを随伴させるのを常とした。そのため通常の一本水押とするなど、廻船用の伝馬船とはやや船型を異にした。また軍船の船団行動にはこのほかにも碇の上げおろし用の碇伝馬や飲料水を積む水伝馬などを伴った。

(5-6)「頭立(かしただち)」・・「頭立つ」の連体形。「かしらに立つ」の意。人の上に立つ。長となる。また、中心になる。

(5-7)「首長ノニリスコイ」・・「ノニリスコイ」は、東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けてクシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。なお、ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。(『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』、『新撰北海道史』)

(5-7)「プスセ」・・陸軍少佐ブッセ。ネヴェルスコイ退去後のムラビヨフ哨所の隊長となった。

(5-8)「次官ロタノスケ」・・ムラビヨフ哨所の副官・海軍中尉ルダノフスキー。なお、ロシア側資料では、上陸士官は、ネヴェリスコイ、ブッセ、ボシニャークで、日本側資料では、ボシニャークをルダノフシキーと取違えているが、ルダノフシキーは本船に待機していた。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」)

(5-9)「何か」・・影印の「歟」は変体仮名と見る。

(5-9)「更紗風呂敷」・・「サラサ」の語源はポルトガル語。人物、花、鳥獣、幾何学模様などをさまざまな色で手描きや型染めにした綿布。室町末期より南アジア諸国から輸入され、日本でも作られた。印花布、花布、更紗ともいう。

     また、「風呂敷」について、『守貞謾稿』には、「衣類、夜具のみにあらず、諸物ともに専ら風呂敷に包む。この風呂敷を昔は平裹(ひらづゝみ)と云ふなり。風呂敷と云ふは、浴室に方形の布を敷きて足を拭ふの料とする物故に、ふろしきと号く。また、古雅器、茶器等の商人は、鬱金(うこん)木綿と云ふて黄もめん風呂しきを用ふるもあり。皆必ず縦横同尺の方形なり。」とある。

(5-10)「仕方(しかた)」・・身ぶり、手まねをすること。しぐさ。

(6-2)「出来合(できあい)」・・前から作ってあって、まにあうこと。既製のもの。

(6-3)「乞請(きっせい・こっしょう)」・・こいねがうこと。こい求めること。

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