森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

記事タイトル『ふなをさ日記 人』9月注 

【北海道立文書館所蔵のふなをさ日記の書誌】

「ふなをさ日記」は、北海道立文書館所蔵図書である(旧記1316)。その書誌(書物の外観・材質・内容成立上特徴を記述したもの。書史)に触れる。表紙の「ふなをさ日記」の下に丸に星印があり、星の中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印である。

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、同年55日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42111日午後6時過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「ふなをさ日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳である。

(表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。「簽」は、竹で作ったので竹部。

 <漢字の話1>古く竹で作った文具・書を表す漢字・・①「符(ふ)」・・両片を合わせて証拠とする竹製のわりふの意味を表す。②筆、③箋(せん)・・戔は薄いの意。うすくひらたい竹・ふだの意。④篇、⑤簡(かん)・・竹をけずり編んで文字を書くふだ。⑥「簿(ぼ)」・・竹を薄くけずったちょうめんの意味を表す。

 <漢字の話2>竹部の漢字・・①「第(だい)」・・順序よく連ねた竹簡の意味から、一般に、順序の意味を表す。②答(トウ。こたえ)・・竹ふだが合うさまから、こたえるの意味を表す。③「等(トウ。ひとしい)」・・「竹+寺」。竹は竹簡(書類)、脚の「寺」は役所の意味。役人が書籍を整理するの意味からひとしい。④「算(さん)」・・「竹+具」。数をかぞえる竹の棒をかぞえるの意味を表す。

(表紙)「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

 <漢字の話>①「旧」の部首は、多くの漢和辞典では「日」。「舊」の略字として用いられてきたが昭和21年の当用漢字制定当初に「舊」の新字体として選ばれた。

②「舊」の部首は「臼」。

③部首に「隹(ふるとり)」がある。「雀」「雁」「雛」などを含む。この部首を「ふるとり」と呼ぶのは、「舊」に字にもちいられているため。しかし、「舊」は「隹」部ではない。

(表紙)「ふなをさ」・・船頭。現在は「船長(せんちょう)」が一般的に用いられる。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は、仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を、歴史的仮名遣いで「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻緒(はなを)、甥(をひ)、終(を)へる、雄々(をを)しい、丘(をか)、岡(をか)、可笑(をか)しい、犯(をか)す、拝(をが)む、桶(をけ)、長(をさ)、幼い(をさ)ない、収(をさ)める、叔父(をじ)、伯父(をぢ)、惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(をっと)、男(をとこ)、一昨日(をととひ)、少女(をとめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、折(を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・青(あを)、功(いさを)、魚(うを)、香(かをり)、鰹(かつを)、竿(さを)、栞(しをり)、萎(しを)れる、十(とを)、益荒男(ますらを)、澪(みを)、操(みさを)、夫婦(めをと)など。

 *<「を」>・・いろは順では第十二位で、定家かなづかいの流では、「端のを」と呼んでいる。一方「お」は、いろは順では第二十七位で、「奥のお」と呼んでいる。

<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。

 *<変体仮名の固有名詞を、漢字として扱っている例>「さうせいはし」を「左宇勢以橋」としている。

(表紙)「人(じん)」・・日本の古典籍(こてんせき)、和古書(わこしょ)、和本(わほん)の冊数の数え方の三番目の冊。各冊(巻)に「第一、二 …」などと数字の呼称が与えられている場合が多い。数字以外では通常、「乾・坤(けん・こん)」、「上・中・下(じょう・ちゅう・げ)」、「天・地・人(てん・ち・じん)」、「序・破・急(じょ・は・きゅう)」などが用いられる。

また、「元・亨・利・貞(げん・こう・り・てい)」、「仁・義・礼・智・信(じん・ぎ・れい・ち・しん)」などといった呼称が用いられる。

(1) (表紙)「ふなをさ」・・船頭。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻緒(はなを)、甥(をひ)、終(を)へる、雄々(をを)しい、丘(をか)、岡(をか)、可笑(をか)しい、犯(をか)す、拝(をが)む、桶(をけ)、長(をさ)、幼い(をさ)ない、収(をさ)める、叔父(をじ)、伯父(をぢ)惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(えおっと)、男(をとこ)、一昨日(をととひ)、少女(をとめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、折(を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・青(あを)、功(いさを)、魚(うを)、香(かをり)、鰹(かつを)、竿(さを)、栞(しをり)、萎(しを)れる、十(とを)、益荒男(ますらを)、澪(みを)、操(みさを)、夫婦(めをと)など。

 *<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。

*<無線局運用規則別表第5号和文通話表(昭和251130日公布)>・・音声通信で通信文の聞き間違いを防ぐために(「オ」と「ヲ」を区別するために)、「大阪の『オ』」「尾張の『ヲ』」と呼ぶことが決められている。ちなみに「ヰ」は、「ゐどのヰ」、「ヱ」は、「かぎのあるヱ」。

 <転音>「船長(ふなをさ)」・・「船(ふね)」が「ふな」と発音することを「転音」という。「船底(ふなぞこ)」「船便(ふなびん)」など。日本語では主として、複合語をつくる際の、前の部分の語末におこる母音の転換をいう。酒(さけ)→酒樽(さかだる)、酒屋(さかや)のたぐい。

(2)「器財(きざい)」・・うつわ。道具。また、家財道具。器材。

(3)「鯱(しゃち・しゃちほこ)」・・国字。

 <漢字の話>「鯱」一字で、「じゅちほこ」と読むことがある。「金の鯱(しゃちほこ)」。なお、「鯱」を「コ」と読んで「金鯱(キンコ)」と読むことがあるが、「コ」は音読みではない。

(3)「六寸五寸」・・「五寸」は「五分」の誤りか。

(4)「一角(いっかく)」・・イッカク科の哺乳類。イルカに類似し、体長約五メートル。

(4)「牛酪(ぎゅうらく)」・・牛乳の脂肪質を固めたもの。バター。

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古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。
参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は、資料代600円をお願いします。おいで下さる方は、資料を準備する関係がありますので、事前に事務局(森)まで連絡下さい。

◎日時:2015914日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp 


8月学習『秘書注』 

(68-1)(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。(まま)」・・そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

(68-3)「穴居(けっきょ)」・・原始あるいは古代社会において、自然の洞穴や、竪穴をうがちその上に簡単な覆屋を設けて住む風習があり、これに対して用いられた呼称である。

(68-4)「木陰(こかげ)」・・木のかげ。樹木の幹や枝葉のかげになっているところ。

 *「木陰(こさ)」・・木陰が多くて耕作に不向きな土地。

 *「木陰引(こさひき)」・・江戸時代、往来の並木や砂除(すなよけ)林、魚附(うおつけ)林などの陰になったり、山や高いがけの日陰になったりして、作物のできのわるい田畑の年貢を減免すること。木蔭引(こかげひき)。

 *「木陰払(こさはらい)」・・田畑の日当たりをよくするためにこさを伐ること。関東には屋敷林が多いので、田畑の所有者の日照権を守るため、こさを伐らせるか陰代として料金を取ることを認めていた。

 *「木陰(こかげ)に臥(ふ)す者は枝を手折(たお)らず」・・なさけをかけてくれた人に対しては、害を加えないのが人情であるということのたとえ。

 (「韓詩外伝‐二」の「食其食者不毀其器、陰其樹者不折其枝」による)

(68-4)<漢字の話>「陰」の「木」・・①「き」の語源説が面白いので紹介する。

 (1)イキ(生)の上略〔日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海〕。

(2)ケ(毛)の転。素戔嗚尊の投げた毛が木になったという伝説から〔円珠庵雑記〕。木は大地の毛髪であるところからか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(3)キ(黄)の義〔言元梯〕。

(4)草がクサクサとして別ち難いのに対し、木はキッと立ち、松は松、梅は梅とキハマルところから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(5)ツチキ(土精気)の上略で、キムシ(地気生)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)キリ(切)、またはコリ(樵)の反〔名語記〕。

(7)五行相剋の説では、金剋木といって木は金にキラルルところから〔和句解〕。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

➁「木」はテキストのように、複合語の場合、語頭では「こ」と変化することがある。

「木漏(こもれ)れ日」「木霊(こだま)」「木(こ)っ端(ぱ)」「小梢(こずえ)」「木立(こだち)」「木花開耶姫(このはなのさくやひめ)」

(68-56)「山丹切(さんたんぎれ)」・・黒龍江下流に住む山靼人と、樺太アイヌ・北海道宗谷アイヌとが交易し、その際に伝わった中国(明末清初頃)産の錦。蝦夷錦(えぞにしき)。

(68-6)「きせる」・・キセル。({カンボジア}khsier 「管」の意)管の一端に刻みタバコをつめて火をつけ、他端の吸口からその煙を吸う道具。両端が金属、途中が竹でできている物が多い。タバコをつめる口を火皿、火皿のついた湾曲している部分全体を雁首(がんくび)、雁首と吸口の中間の管を羅宇(ラウ)と呼ぶ。キセリ。キセロ。キセル筒。

 日本に慶長(15961615)頃に伝来したとされるが、以降、慶長初期に流行した火皿の大きな河骨型(こうぼねがた)と呼ばれるもの、元和・寛永(16151644)頃に遊侠の徒が護身用に用いた鉄製の長い「喧嘩煙管」など、時代によりさまざまな形のものがある。「俳諧・毛吹草‐四」には、近江水口、肥後隈本などの名産としてキセルが挙げられており、近世初期にはかなり普及していたことが知られる。

(70-2)「ニクフン人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。1897年の人口4650人中、1971人が樺太に居住していた。樺太の原住民は北部のギリヤーク、中部東岸のオロッコ、南部のアイヌであるが、1959年のその総人口人中、ギリヤークが人を占めている(アイヌは人で、ほぼ同数が第二次世界大戦後、北海道に引き揚げた)。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、キーレン語のGilekkoの転訛、中国人のいう乞烈賓・乞列迷・吉烈迷・済勒弥はゴルジの称呼Gillemiの音訳、別にFiyakaとも呼び費牙喀などと音訳、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。皮膚は黄褐色、顔貌は蒙古型で丸くて扁平、頭髪は直毛で黒色、髭が多い。人種・言語の系統は不明で、古アジア族の一つとされている。夏は校倉式に丸太を組み立ててつくった小屋を、冬は竪穴を住居としていた。氏族制をもち、族外婚規制がまもられている。漁業をもっぱらとし、冬はわずかに狩猟をしていたが、いまはオロッコとともに、トナカイ=コルホーズの組織をつくっている。文化5(1808)に樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。

(70-3)「泝(さかのぼ)り」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<〔説文〕十一上に泝を正字とし、重文として遡を出しているが、二形ともに行われており、ただ慣用を異にするところがある。水流にさかのぼるときには泝を用いるが、時間的にさかのぼるばあい、たとえば法律の効力がその発布以前にさかのぼって及ぶようなときには遡及といい、泝は用いない。>とある。

(70-4)「ロモウ川」・・現トゥイミ川。北カラフト最大の川。「ロモウ」は「ロゴウ」か。ロゴウはカラフト北部東海岸の地名。旧日本名は呂郷。

(70-10)「アラコイ」・・カラフト北部西海岸の地名。北緯51度付近。旧日本名は荒子井。

 「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』)の「アラコイ」の項に 

 「オツチシより凡弐里半 此処スメレンクル家七軒あり、大川有、川口弐拾間余、川上7七八十権間位もあるよし、小石地ニ而、奥山遠く青木立、是より山道越ニ而タライカナイ江凡弐拾六七日の里程なるよし」とる。

(71-2)<くずし字>「互に」の「互」・・「楽」「閑」と類似しているので、文脈から判断する。 

(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。南樺太の北東部から南南東に向けて突出する半島、またその南端の岬。旧称シンノシレトコ(真知床)岬。ロシア連邦ではサハリン州に属し、テルペニヤ岬Мыс Терпения/Ms Terpeniyaとよぶ。東北山脈の延長にあたり、半島は長さ約70キロメートル。幅約5キロメートルの地峡をもつ。この岬により、オホーツク海と多来加(たらいか)湾(テルペニヤ湾)を分ける。低平な丘陵の半島で、樺太島の東端(東経14440分)にあたる。半島の東岸は寒流の勢力に強く影響されて6月まで流氷があり、7月の平均気温はわずか10℃。岬の沖合いには海豹(かいひょう)島(チュレーニー島)がある。文化6(1809)間宮林蔵(まみやりんぞう)はこの岬まで探検にきて引き返している。

 

『ふなをさ日記』8月注 

(113-1)「はごこまん」・・「育(はぐく)まん」に同じ。世話をする。面倒をみる。語成は、「育(はごく)む」の未然形「育(はごく)ま」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

 *「育(はぐく)む」は、「羽包(はくく)む」の意。親鳥がひな鳥を羽でおおい包む。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <ククムは親鳥が雛を羽でもって包み養う意。上代・中古にはハグクムが一般に用いられていたが、中世になるとハゴクムの勢力が強くなり、ハグクムは歌論・注釈書などに用いられるのみとなった。これは、語源が忘れられたことと、当時オ段とウ段の交替現象が広く生じていたことによる。しかし、江戸時代になって語源が再認識され、ハグクムの形が次第に勢力を取り戻し、近代には、日常語として復活した。>とある。」

 *<漢字の話①>「育」・・部首は「肉(にくづき)」。解字は「女性が子を生む形にかたどり、うむ・はぐくむの意味をあらわす」(『新漢語林』)

 *<漢字の話➁>「ツキ」の部首・・現在の多くの漢和辞典は、「検索」の便利さを重視しているため、その立場から、部首の統廃合、漢字の部首移動が行われている。以下に、現在、「月」部に統合されている「月」の本来の部首(『康煕字典』による部首)を記す。

  1.「日月」の「月(つき)」(つきへん)・・常用漢字では、

月、有(本来は「肉部」)、朗、朝、望。

    常用漢字で「つきへん」の字はない。ほとんどが「肉

月(にくづき)」。

  2.「肉部」(偏になるときは「月」の形になるので「肉月

(にくづき)」・・肌、育、肩、背、肺、胸胴、脚、腕、腎、腰、膝など、多数ある。

  3.「舟月(ふなづき)」・・常用漢字では、朕、服。

    **「服」・・「舟」はふねの両側につけるそえ板の意味。転じて身につけるの意味を表す。

    **「朕」・・舟を上流に向かっておしあげる航跡をがくさまから、しるし・あとの意味を表す。

          借りて天子の自称の意味を表す。

 *<漢字の話③>本来の部首の「月」の字形

  1.「日月」の「月」・・「月」の中の横線が右の縦線に接しない。

  2.「肉月」の「月」・・横線が左右に接する。

  3.「舟月」の「月」・・横線でなく、「ヽ」がふたつの形をとる。

(113-1)「すぎわひ」・・生業(すぎわい)。生計を立てるための職業。世渡りの手段。なりわい。生計。

(113-3)「なぞや」・・何ぞや。連語「な(何)ぞ」+係助詞「や」。反語の意を表す。どうして…か。

(113-3)「いみじさ」・・「いみじき」か。「いみじ」は、ひどくつらい、苦しい、みじめである、悲しい、情けない、恐ろしい、困ったことである、などの気持を表わす。

(113-3)「とふ」・・問(と)う。

(113-5)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。逆接の仮定条件を表わす語。もし。かりに。たとい。万一。よしんば。

 *ふるさとは遠きにありて思ふもの

   そして悲しくうたふもの

    よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

    ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

  そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや (『室生犀星「小景異情」』)

(113-5)「乞食(こつじき・こじき・かたい・ほいと)」・・「こつ」は「乞」の慣用音。「じき」は「食」の呉音。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)中古の「こじき」は促音の無表記で、「こっじき」と読むべきか。中世から近世にかけて「こつじき」が一般的で、近世にしだいに「こじき」が増え、近代以降「こじき」が普通となった。

(2)本来は托鉢と同じで僧の修行の一つであったが、中世頃から物もらいの意で用いられるようになり、近世になると托鉢の意ではあまり用いられなくなる。そのため、「こじき」は、もっぱら物もらいの意となり、特にそれと区別して、托鉢のことを「こつじき」と古い形でいうこともある。>

とある。

 *「ほいと」・・「ほいとう(陪堂)」の変化した語。「陪堂(ほいとう)」の「ほい」は「陪」の唐宋音。

禅宗で、僧堂の外で、食事のもてなし(陪食=ばいしょく=)を受けること。

(113-6)「本意(ほんい・ほい)」・・本来の志。かねてからの希望。

(113-7)「あながち」・・(下に打消を伴って)一概には。必ずしも。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)「あな」は自己、「かち」は勝ちか。自分勝手に物事を一方的に押し進めて、他を顧みないさまが原義と思われる。

(2)類義語「しいて(強)」が相手の意志にさからって事を進める意で、古代の和歌や散文に用いられているのに対して、「あながち」は自己の内部の衝動によっていちずに動く意。客観的に見ればわがままという情態性を表わすが、「源氏物語」に百例以上も用いられている以外はあまり頻用されない。

(3)連用形「あながちに」は以後徐々に情態性を失い、程度性の強い語へと変化していく。平安末から否定表現と呼応する用法が多くなり、中世には語尾の落ちた「あながち」に否定を伴った形が現われ、陳述副詞のように用いられた。>とある。

(113-8)「田地(でんち・でんじ)」・・田となっている土地。田。

 *<漢字の話>「田(でん)」・・①元来は、区画された狩猟地・耕地の象形で、田ばかりでなく、耕作地の総称。②したがって、「田」は狩りをする意もあり、「田(でん)す」は、狩りをすること。

<晋・陶潜〔帰去来の辞〕>

帰去来兮       帰去来兮(かへりなん いざ)

   田園將蕪胡不帰    田園 將(まさ)に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる

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古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

              札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいま

す。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい

方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の

歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応

します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は

資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、

事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015810日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室

(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』7月学習注  

(108-2)「塚田留次郎」・・当時。松前奉行調役下役。

(108-2)「松井庄三郎」・・異本は「村井庄三郎」とある。

(103-2)「神無月(かんなづき、かみなしづき、かみなきづき、かみなづき、かむなづき、かみなかりづき)」・・陰暦十月のこと。「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には語源説が11項目ある。折口信夫の説「一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された」も紹介されている。なお、異本は「十一月四日」とある。

(108-3)「三厩」・・「みんまや」。テキスト影印は「うまや」とルビがある。三厩は青森県北西部の地名。津軽半島の北西端にある。松前街道の宿駅。漁業が主。龍飛(たっぴ)崎がある。

(108-3)*「忠右衛門(ちゅうゑもん)」・・右衛門は、「ゑもん」か「うゑもん」か。古くは「右衛門」と書いて「うゑもん」。""も発音していた。なぜ「うゑもん」と言っていたのに「ゑもん」になってしまったのか。「忠右衛門」は、元々は「うゑもん」。「ゑ」は「we(うぇ)」に近い発音で、「uwemon(ううぇもん)」だった。それが「u」と「we」の発音が一緒になって「wemon(うぇもん)」。その後、「ゑ」と「え」の発音が区別されなくなり「右衛門」と書いて「emon(ゑもん)」と発音するようになった。

 <律令の職「右衛門府(うえもんふ)」>・・左衛門府とともに衛士を率いて宮城諸門の警衛、開閉をつかさどった。職員に督、佐各一人、大尉・少尉・大志・小志各二人のほか、府生、衛士等がある。

 <変体仮名の「衛」>・・「ゑ」。「恵」「奥のゑ」「重たいゑ」という。したがって、「忠右衛門」のルビは、「ちゅうゑもん」が本来。なおカタカナの「ヱ」は、「かぎのヱ」。

 <黙字>・・「右衛門」の「右」のように、発音しない字を黙字という。「伊達(だて)」の「伊」、「和泉」の「和」など。

(108-5)「三十日経て十二月四日」・・「神無月(10月)四日」に三厩を出発して、「三十日を経」れば、「十一月四日」だから日数が合わない。「神無月(10月)四日」は、異本の「十一月四日」が正しいか。

(108-5)「千住(せんじゅ)」・・東京都足立区南部の地名。旧南足立郡千住町。広くは荒川区南千住(旧北豊島郡南千住町)を含める。江戸時代は奥州街道最初の宿場町として、遊女も多く繁栄した。

 なお、「千住」の語源説に「千手観音堂があったところから千手の転」がある。

(108-6)「ヱゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。

<江戸の箱館奉行所(のち松前奉行所)の江戸会所>
 箱館奉行所(松前奉行所)の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島の霊岸橋際埋立地に置かれた(現東京都中央区新川町1丁目霊岸島児童公園付近)。江戸時代から、蝦夷地の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行、のち松前奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。

(108-7)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(108-9)「御奉行」・・この時期、江戸在勤の松前奉行は、服部貞勝。

 *箱館奉行の勤務体制・・江戸と箱館(のち松前)と1年交代で勤務した。

(108-910)「尾張の古郷の方」・・重吉の故郷、尾張藩の江戸屋敷の役人。

(108-11)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(109-1)「尾州御蔵方」・・尾張藩の御蔵奉行の役人。

(109-1)「木曽路(きそじ)」・・江戸時代の五街道の一つ、中山道をいう。江戸日本橋から板橋、浦和、高崎の宿を経由し、碓氷(うすい)峠を越えて信濃に入り、鳥居峠を越えて、木曾谷から美濃、近江に至り、草津宿で東海道に合するもの。この間、六十七次。草津、大津を加えて六十九次ともいう。

 狭意には、長野県南西部、中山道の鳥居峠付近から馬籠(まごめ)峠に至る間をいう。奈良時代の初めに開かれ、江戸時代には贄川(にえかわ)から、奈良井、藪原、宮越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠まで十一宿が置かれた。吉蘇路。信濃路とも。

 *重吉が通った名古屋までの道筋

  ①下諏訪まで・・イ.中山道 

.甲州道

  ②中山道から名古屋まで

.下街道・・中山道の大井宿と大久手宿の間の槇ヶ根追分から土岐川沿いに名古屋城下の伝馬町札の辻に至る。

.上街道(うわかいどう)・・中山道伏見宿を過ぎて、太田宿の手前の太田の渡しの手前から上街道に入り、土田(どた)宿、善師野(ぜんじの)宿、小牧宿を経て名古屋城下に至る。

(109-2)「清水御門(しみずごもん)」・・名古屋城三の丸北側にあった唯一の門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。枡形の内部を土塁で仕切る厳重な構造であった。だが、門そのものは櫓門ではなく、矢来を組み上げただけの比較的簡易な施設となっていた。門跡は、現在は道路になっており、旧状をまったくとどめていない。

(109-3)「かたみ(互)に」・・たがいに。 

*「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集)

(109-3)「つばら」・・委曲・審。くわしいさま。十分なさま。つばらつばら。つまびらか。つばらか。

(109-4)「鳴海の御代官」・・「鳴海」は鳴海陣屋・鳴海代官所。戦国時代には織田・今川両勢力の接触地点で鳴海砦が設けられた。慶長検地では高三千七百三十八石余の大村。慶長6年(1601)東海道三河池鯉鮒(ちりゅう)宿と熱田宮宿の間の宿駅となり、本陣一・脇本陣二・問屋三があり、L字状の街道に沿って十ヵ町の町並が続いた。天明2年(1782)尾張国愛知・知多郡の一部と三河国の領分計百二ヵ村を支配する鳴海代官所が村内の森下に設けられた。慶長13(1608)に始まるとされる木綿の鳴海絞が東海道の旅客に名産として売られ、伝統産業として続いている。明治19年(1886)東海道線開通で寂れたが、同22(1889)町制施行。名古屋鉄道本線や国道一号線などによって復活、第二次世界大戦後は住宅地として開発が進み、昭和三十八年(一九六三)四月一日名古屋市に合併、緑区が生まれ、その一部となった。

鳴海代官は大代官で鳴海村から愛知郡東南部、知多郡東半分を収めた(石高七万二千石)。重吉の故郷半田村も鳴海代官所の支配であった。

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7月学習『秘書注』  

(64-1)「廻浦(かいほ)」・・海岸をめぐること。

 *<漢字の話>「浦」と「津」・・「浦」は、海岸。「津」は港。「津々浦々」は、和製4字熟語。

(64-3)「御普請役(ごふしんやく)」・・江戸幕府の職名。享保九年(一七二四)に勘定奉行支配御普請役として新設。東海道五川、一五か国の幕府領の堤、川除(かわよけ)、用水などの普請箇所の検分・修築、新田の検分などをつかさどったもの。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。→

(64-3)「間宮鉄次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣に従い蝦夷地に出張し、カラフトに渡り、東海岸を巡視した。のち、箱館奉行支配調役下役となり、同3(1856)調役並、万延元年(1860)調役に進んだ。

(64-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(64-5)「弁利(べんり)」・・便利。都合。

(64-7)「トンナイチヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名富内。頓内茶、屯内茶とも。

(64-7)「シユマヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名島矢。栄浜の北にある。なお、トンナイチヤとシユマヤ間は「凡廿里余」とあるが、『南樺太全図』の航路を計算すると約19里。

(64-89)「シラヽヲロ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名白浦。シユマヤ~シラヽヲロ間は、約13里。

(64-9)「砂素浜(すなすはま・すなすわま)」・・砂洲浜。「素浜」は、洲浜。「洲浜」は、浜辺の入りこんだところ。水の湾入したなぎさ。州が出入りしている海岸。

(64-11)「ナイブツ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名内淵。本書の間宮、松岡らの巡検に先立つこと53年、享和元年(1801)、カラフト島検分を命じられた幕吏・中村小一郎は東海岸を内淵まで検分した。

(64-11)「タライカ」・・日本名多来加。南樺太北部東岸、北知床(テルペニヤ)岬と野手戸(のてと)(ソイモノフ)岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(ネフスコエ湖、面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(65-1)「往返(おうへん)」・・行き来。往来。往復。

(65-1)「縁辺(えんぺん)」・・ゆかりある人。縁続きの人。縁家。

(66-7)「相対(あいたい)」・・対等であること。対等で事をなすこと。

(67-2)「平日(へいじつ)」・・ふだん。平生。平素。

(67-3)「シウカ」・・シスカか。日本名敷香。南樺太北部東岸の地名。多来加湾西部に位置する。

(67-34)「ホロナイ川」・・幌内川。北カラフトに源を発し、北緯50度からから南樺太に入り、多来加湖の西側を流れ、多来加湾へ注ぐ。長さ320kmは利根川に匹敵する長さを誇り、樺太の日本統治時代の当時は日本唯一の国際河川として知られていた。

(67-4)「タナンコタン川」・・「タナンコタン」は、日本名多蘭。多蘭川は、幌内川下流で、幌内川から分流し、多来加湖西部を流れ、多来加湾に注ぐ。

(67-5)「野鄙(やひ)」・・下品でいやしいこと。

(67-10)「容貌(ようぼう)」・・テキスト影印の「㒵」は「貌」の異体字(俗字)。なお「皃」は同字。テキスト翻刻の凡例に「異体字は正字に直す」としたので、本注記の見出しも同様にする。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(通常第2月曜・7月は第1月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円お願いします。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時:2015年7月6日(月)13時~16時
◎会場:エルプラザ4階大研修室
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談
『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。


代表:深畑勝広
  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』月6学習の注 

             

(103-1)「嘉十郎」・・高田屋嘉兵衛の兄弟は六人いたが、その一番末の実弟。安永8年(1779)~天保5年(1834)。高田屋は文化8(1811)からエトロフ場所を請け負っていた。

(103-3)「申(さる)の時」・・午後4時。

(103-3)「ヲトイヤハシ」・・ヲトイマウシ。エトロフ島東部のオホーツク海に面した集落。トウロの近く。

(103-6)「ヘツトウブ」・・日本名別飛(べっとぶ)。シヤナの東に位置し、北はオホーツク海に面する集落。明治初年にベトフなどを包含してベトプ村が成立。同6年(1873)の戸数はアイヌ5、男10、・女17寄留人は平民男25・女1(千島国地誌提要)。同8(1875)ベツトブ(ベトプ)村が村名表記を別飛に改める(根室支庁布達全書)

(103-6)「サナ」・・日本名紗那(しゃな)。北はオホーツク海に臨み、紗那湾に紗那港がある。文化4(1807)まで、会所があり、エトロフの中心地だった。文化4(1807)、ロシヤの襲撃で会所が焼き払われ、会所はフウレベツに移転した。明治初年にシヤナなどを包含してシヤナ村が成立。同6年(1873)紗に開拓使根室支庁の出張所が置かれた。

(103-7)「フルヱベツ」・・日本名振別(ふれべつ・ふうれべつ)。エトロフ島中央部にあり、留別村の西、北はオホーツク海に面し、海に突き出した野斗路岬(ノトロ岬)の南に緩やかな大湾(老門湾)があり、振別港がある。文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「フルヱベツは、此島の中にての都(みやこ)」・・文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「いかめしき」・・「いかめしい」は。姿や形が普通より大きく、がっしりしている。

(103-10)「一とふり」・・一通り。「通(とほ)り」は、動詞「とおる(通)」の連用形の名詞化。テキスト影印は、「一とふり」とあるが、「通り」を「とふり」と訓じることはない。ここは、「とほり」が正しい。

(104-3)「下人(げにん)」・・江戸時代、年季奉公人のこと。主家への隷属性が強く、譜代奉公人として家事や耕作労働に使役され、初期の頃は売買質入の対象ともなったが、中頃からは下男・下女と呼ばれ次第に年季奉公人化した。

(104-4)「ヲトイ」・・「オイト」か。「オイト」は、日本名老門。フウレベツの西にある集落。

(104-5)「ヲタシツ」・・日本名宇多須都(うたすつ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-5)「ナイホウ」・・日本名内保(ないほ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-7)「タ子モイ」・・日本名丹根萌(たんねもい)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。クナシリ島への渡航地。

(104-8割書右)「ヱトロフ島の岸の」・・「岸の」は、語調がよくない。異本は「の」を「を」とし、「岸を」としている。

(104-9)「丑寅(うしとら)」・・方位を十二支にあてて呼ぶときの、丑と寅の中間にあたる方角。北東。陰陽道などで丑寅の方角が神霊、鬼の訪れる方位とされるところから、特に鬼門の意がこめられることがある。

(104-9)「アトイロ」・・アトイヤ。日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(104-10)「二百十日」・・立春から数えて二百十日目にあたる日。このころは嵐が多く、また稲の開花期にあたっていたので、その時期を警戒する意味で生まれた暦注。太陽暦では九月一日ごろと一定であるが、旧暦の日付では七月十七日から八月十一日ごろまでのどの日になるか一定でないためこのような暦注が必要であった。なお、越中八尾の「おわら風の盆」は毎年9月1日から三日間おこなわれているが、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う祭りという。

(104-10)「ゆへ」・・故。歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」で、「ゆへ」はない。

(104-11)「所々の番屋に。十七日」・・異本は「番屋に」のあとに、「やどり」がある。

(104-11)「セヽキ」・・クナシリ島中部の太平洋に面した集落。日本名瀬石。

(105-1)「海の岸に温泉あり」・・「セセキ」は、「湯の湧くところ」の意味という。なお、異本は、「温泉」に「イデユ」とルビがある。

(105-1)「トマリ」・・日本名泊。クナシリ島西部の集落。ネムロからの渡航地であった。

(105-5)「子モノ」・・根室。

(105-9)「そこばく」・・副詞「そこば」に副詞語尾「く」の付いたもの。「若干」「幾許」を当てる。数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす語。多く。たくさん。はなはだ。たいそう。

(106-3割書左)「便り」・・便利。便宜。都合。

(106-9)「閏八月」・・文化13(1816)は、閏八月があった。

(106-5)「臼(うす)」・・有珠。

(106-6)「信濃の善光寺分身」・・有珠善光寺の公式HPに、「天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている浄土宗のお寺です。」とある。慈覚大師は、平安期の天台宗山門派の祖・円仁のことで、等澍院文書には、それを理由に、等澍院を有珠に建立したい旨、陳情した経過がある。(別添『北の青嵐180号』の拙論参照)

 更に、等澍院文書は、「善光寺を彼宗に被奪取候様、世上之沙汰末々迄難遁」と、きつい口上で述べている。

(106-6)「寺主(てらぬし・てらあるじ・じしゅ)」・・文化13(1816)当時の善光寺の住職は、3辨瑞。なお、辨瑞は、念仏上人といわれ、掛け軸「念仏上人画像」は、平成17年に国の重要文化財に指定された。また、アイヌ語がそえられた和讃、木版「念仏上人子引歌(カモイポボウンケイナ)」も重要文化財に指定されている。

(106-67)「江戸の増上寺より来る」・・蝦夷三ヶ寺建立に際し、僧侶を派遣する最初に本山が決められた。寛永寺(様似・等澍院の本山)、増上寺(有珠・善光寺の本山)、金地院(厚岸・国泰寺の本山)。寛永寺、増上寺は、徳川家の菩提寺である。

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『ふなをさ日記』5月学習の注 

(98-1)「又(また)の日(ひ)」・・次の日。翌日。一般には「別の日。後日」の意が多いが、ここは、翌日の意。

(98-1)「何国(いづく)」・・異本は、ひらかなで「いづく」としている。

(98-2)「辰巳風(たつみ・たつみかぜ・たつみのかぜ)」・・東南の方角から吹いてくる強風。「辰巳風」と書いて、たんに「たつみ」「たづみ」という地方がある。なお、余談だが、「辰巳風」を「とつみふう」と読めば、江戸深川の遊里の気風や風俗。意気と張りを特色とした。また、語源説に、「

日の立ちのぼり見ゆの転略〔国語蟹心鈔〕」がある。

(98-23)「磁石を立(たて)」・・ここの「立(たて)る」は、使ったり仕事をしたりするのに十分な働きをさせること。「磁石を使い」の意。

(98-3)「申酉(さるとり)」・・西南西。

(98-3)「夜(よる)の戌(いぬ)の時」・・午後8時頃。

(98-4)「はて(果)」・・いちばんはしの所。

(98-8)「羆(ひぐま)」・・ひぐま。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <「二十巻本和名抄‐一八」に「羆 爾雅集注云羆〈音碑 和名之久万〉」とあるように、古くはシクマ(シグマ)と呼ばれていた。ヒグマの語形は近代以降多く見られるようになるが、「言海」(一八八九〜九一)は、ヒグマとシグマの両方を見出し語にあげ、ヒグマの項で「しぐまノ誤」と述べており、シグマを正しい語形としている。その後も同様の辞書が多く見られ、明治中期以降も、シグマを正しいとする規範意識があったことがうかがわれる。ヒグマが一般化したのは大正期か。>とある。

 また、『新漢語林』の「羆」の項には、<「しぐま」と、よむのは字形による>とある。

 <漢字の話>

「熊」:「火」部。「火」が脚(あし・漢字の下部)になるときは、「灬」の形をとり、「連火(れんか)」あるいは「列火(れっか)」と呼ぶ。

「羆」:「罒(よこめ・あみがしら・よんかしら)」部。

(98-8)「やらん」・・~であろうか。疑いをもった推量を表す。「にやあらむ」の転。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」+ラ変動詞「あり」の未然形「あら」+推量の助動詞「む」の連体形「む」。

(98-89)「いくらともなく」・・数多く。

(98-11)「ひまなく」・・隙(ひま)なく。休みなく。「隙(ひま)」は、連続して行なわれる動作のあいま。間断。

(98-11)「東風(こち・ひがしかぜ・こちかぜ・あゆ・あゆのかぜ)」・・東の方から吹いて来る風。特に、春に吹く東の風をいう。

(99-1)「夜」<見せ消ち>・・影印は、「今」の左に、カタカナの「ヒ」に似た記号がある。これを「見せ消ち」記号という。「今」を訂正して、「夜」とした。

(99-23)「焚けるに、今宵は羆のうれひもなかりける・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、係助詞「ぞ」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。ここは、「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(99-3)「辰時(たつどき)」・・午前8時ころ。

(99-4)「かねて」・・以前から。

(99-4)「任(まか)せ」・・随って。

(99-5)「高山(こうざん)あり」・・エトロフ島北部にあるラッキベツ山(1206メートル)か。

(99-5)「大成滝(だいなるたき)おちる」・・エトロフ島北部のラッキベツ岬北の断崖絶壁にあるラッキベツ滝。高さは140メートル。テキストには「三十間」とあるが、その3倍ある。嘉永2年(1849)、千島に渡った松浦武四郎は、『三航蝦夷日記』の「ラッキベツ」という小項目のなかで、「其間は、皆峨峨たる岸壁にして船を寄する処無、実に恐敷海岸なり。其落る滝高サ五丈仭と云えども、先三十丈と見ゆる也。幅は先五丈位も有る様に思わる。一道の白絹岩端に掛けたる風景、実に目覚ましき光景なり。然れ共我等も岸を隔つこと廿三、四丁にて眺望至す故に、委敷は見取がたし。然れ共其形本邦にては、紀州郡那智山の滝よりも一等大なり」と記している。

(99-67)「岩ほ」・・巌(いわお)。旧仮名遣いは、「いはほ」で、発音は「イワオ」。語源説に、「イハホ(石秀)の略言」がある。

(99-8)「熊野なちの山の滝」・・熊野那智山の大滝。落差は、133メートルだから、ラッキベツ滝の方が、直瀑(ちょくばく。水の落ち口から、岩壁を離れ、また岩壁に沿ってほぼ垂直に落下する滝)としては、大きい。エトロフが日本に返還されると、ラッキベツ滝が日本一となる。

(99-9)「ふねを乗(のる)」・・船をすすめる。「乗る」は、乗物などをあやつって進ませる。走らせる。操縦する。「のりまわす」「のりこなす」などの形で用いられることが多い。

(99-9)「となり」・・格助詞「と」に断定の助動詞「なり」の付いたもの。…というのである。…ということである。

(99-10)「きつらん」・・来つらん。来ただろうか。カ変動詞「来(く)」の連用形「()」+完了の助動詞「つ」の終止形「」+推量の助動詞「らん(む)」の終止形「らん」。

(99-1)「思(おもい)しかども」・・思ったのだけれども。動詞「思う(ふ)」の連用形「思い(ひ)」+過去の助動詞「き」の已然形「しか」+逆接確定条件の接続助詞「ども」。

(100-1)「出(いで)こん」・・出てくるだろう。下2動詞「出(い)づ」の連用形「出(い)で」+カ変動詞「来(く)」の未然形「」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)

(100-1)「あらん」・・あるだろう。ラ変動詞「有(あ)り」の未然形「あら」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

(100-3)「はな」・・端(はな)。突き出た所。岬や岩壁の先。

(100-8)「いざ給(たま)へ」・・さあ、おいでなさい。「たまえ」は尊敬の意を表わす補助動詞「たまう(給)」の命令形で、上に来るはずの「行く」「来る」の意を表わす動詞を略したもの。さあ、おいでなさい。場面によって、私といっしょに行きましょうの意にも、私の所へいらっしゃいの意にもなる。中古以降、親しい間柄、気楽な相手への誘いかけとして、よく用いられている。

「御(み)いとまなくとも、かの主(ぬし)は出で立ち給なん。いざたまへ、桂(かつら)へ」(『宇津保物語』)

いざ給へかし、内裏(うち)へ、といふ」(『枕草紙』)

「萩、すすきの生ひ残りたる所へ、手を取りて、いざ給へ、とて引き入れつ」(『宇治拾遺物語』)

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5月学習『秘書注』 

                

(61-4)「其村々江」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「江」に「よりカ」と傍注している。

(61-5)「而巳(のみ)」・・漢文訓読の当て字。「のみ」は、「~にすぎない」「~だけだ」という限定を表すだけでなく、強く言い切る漢文訓読文で用いられる。したがって、テキスト文章の「人別相届候而巳」は、「人別を届けだけ」というより、「人別を届けたのである」と強調の意味に解すべきであろう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「のみ」の語誌に、

<漢文における文末助辞「而巳」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而巳」字を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。>とある。

古田島洋介氏は、漢文表現の「のみ」について、<「のみ」をひたすら限定と考え、「~にすぎない」「または「~だけだ」と訳そうとすると、否定的な意味合いに傾き、語感を取り違える危険性がある。時として「のみ」が強調の意にもなることを念頭に置いて、「~なのである」をも用意し、さらには限定と強調を兼ねた響きを持つ「~ばかりである」あるいは「~にほかならない」なども手駒に加えておくのが無難だろう、訓読表現の「のみ」は、日本語の「のみ」よりも意味の範囲が広いのである」(『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』吉川弘文館 2013)と述べている。

(61-7)<見せ消ち>「ウ子」→「字」・・「ウ」と「子」の左に「ヒ」のような記号がある。これは見せ消ちの記号で、「ウ」「子」を消し、右に「字」と訂正している。写した原本の「字」の冠の「ウ」と脚の「子」が、離れていたのか。

 (61-7)「チヨーメン」・・黒龍江河口右岸の港。

(61-8)「ナツコ」・・北樺太の地名。北緯52度の南。山丹への渡り口。『足軽書付』の「ナツコ」の項には、「満州地方僅ニ壱里半位ニ見ゆる。此処ニ而交易之為メ渡来の山丹人に逢ふ」とある。

 下は、中村小市郎著『樺太雑記』(『犀川会資料』所収 北海道出版企画センター刊 1982)より

 (62-1)「髪薄く」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「髪薄く」の「髪」を「鬚」とし、「鬚薄く」とある。

(62-1)「弁髪(べんぱつ)」・・男の結髪の一種で、頭髪の周囲は剃って、中央に残った髪を編んで長く後ろに垂らしたもの。もと満州人の習俗であったが、清朝時代には中国全域に行なわれた。

(62-2)「衣裾(いきょ)」・・きもののすそ。

(62-4)「耳かね」・・耳金。耳につける金属製の装飾品。耳輪、耳鎖の類。

(62-4)「姿容(しよう・すがたかたち)」・・すがたかたち。みめかたち。容姿。

(62-5)「温柔(おんじゅう)」・・人柄がおだやかで、すなおなこと。また、そのさま。やさしくて、人にさからわないさま。温順。

(62-5)「男子」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「男」に「女カ」と傍注している。

(62-5)「幼稚」・・幼児。「幼」も「稚」も小さいの意。なお「稚」の旁の「隹」は「小さい鳥」の意で、「隹」(ふるとり)」として部首になっている。「隹」には、「雀」「隼」「雛」などがある。

 *晋・陶潜〔帰去来の辞、序〕

  余家貧、耕植不足以自給  余(われ)、家貧しく、耕植するも以て自ら給するに足らず。

幼稚盈室、瓶無儲粟    幼稚、室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)     

無し。

(62-6)「口吻」・・

(62-5)「手甲(てっこう・てこう・てっこ)」・・手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-6)「文字」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「字」に「身カ」と傍注している。「文身(ぶんしん)」は、手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-8)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(62-8)「家居(かきょ・いえい)」・・すまい。家。

(62-9)「睍(のぞ)き」・・覗き窓。影印は「睍」だが、ふつうは「覗」を使う。

(62-10)「婚(こん)」・・旁の昏は昏夕(ゆうべ)。その時刻より婚儀が行われた。

『ふなをさ日記』4月学習の注

    

(93-1)「来たれかし」・・来てください。「かし」は終助詞。呼びかけや命令の文末に付いて、強く念を押したり、同意を求めたりする意を表す。…ことだ。…よ。

(93-1)「南京(なんきん)」・・「きん」は「京」の唐宋音。揚子江下流の曲流点の江浙デルタの頂点に位置する。水陸交通の中心地。明の永楽帝の時北京に対して称した。近世、このあたりの地一帯、ひいては中国のことをもいった。

(93-1)「広東(かんとん)」・・珠江三角州の北端にあり、華南地方の政治、経済、文化の中心。特に唐代以後は華南最大の貿易港として繁栄した。現広東省の省都・広州。

(93-1)「天竺(てんじく)」・・中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。文献では『後漢書(ごかんじょ)』「西域伝」に「天竺国、一名身毒。月氏(げつし)の東南数千里にあり」とあるのが最初であり、魏晋(ぎしん)南北朝期に一般化し、日本にも広まった。

(93-1)「紅毛(こうもう」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番(『東西洋考』)・紅毛夷(『野獲編』)の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

(93-1)「珍らしき」・・影印は、「珍」の俗字の「珎」。古文書では、「珎」は頻出する俗字。

(93-2)「にぞ」・・格助詞「に」+協調の係助詞「ぞ」。「~ので」。ここは「言い出したので」。

(93-3)「だに」・・副助詞。名詞、活用語の連体形・連用形、副詞、助詞に付く。軽い事柄をあげて他のより重い事柄のあることを類推させる意を表す。…さえも。…でさえ。…だって。

(93-4)「中々に」・・予想した以上に。意外に。かなり。

(93-1011)「重吉こそ連行んとは思ひたれ・・思ったけれども。組成は、係助詞「こそ」+完了の助動詞「たり」の已然形「たれ」。「こそ」を受けて、文を終止する場合、活用語は已然形となる。「係結

終止法」という。意味的に次の文に逆説で続くときは、読点にする。

(93-11)「気色(けしき)」・・物の外面の様子、有様。また、外見から受ける感じ。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「気色」の呉音読みによる語。和文中では、はやく平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持を表わす語として和語化していった。

(2)類義の「けはひ(けわい)」が雰囲気によって感じられる心情や品性といった内面的なものの現われを表わすことに傾くのに対し、「けしき」は顔色や言動といった一時的な外面を表わすことにその重心がある。

(3)鎌倉時代以降、人の気分や気持を表わす意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は現在のようにもっぱら自然界の様子を表わすようになった。それによって表記も近世になって「景色」があてられるようになる。>とある。

(94-1)「斯ては果じ」・・これでは、いつまでたってもらちがあかない。「果(は)つ」は、打消しを伴って、「はかどる」。ここでは「はかどらない」

(94-1)「免(ゆる)し」・・「ゆるす」は、願いを聞き入れる。聞き届ける。

(94-1)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(94-3)「ウルツー島」・・ウルップ島(得撫島)。千島列島南西部、択捉島北東方の火山島。

(94-3)<カナの話>なぜ、「ヱトロフ」の「ヱ」は、カギの「ヱ」か。・・

 ①「ヱトロフ」は、「惠登呂府」を当てた。例えば、寛政10(1798)、近藤重蔵がエトロフに立てた標柱は「大日本惠登呂府」。「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比恵」から取ったので、「ヱ」。

 ②変体仮名の「惠」は、ひらがなの「ゑ」、カタカナでは、カギの「ヱ」のもとになった字。

 ③カタカナの「五十音図」のア行は、元来は、「ア・イ・ウ・ヱ・ヲ」。「エ」よりもカギの「ヱ」が多く用いられた。なお、「オ」よりも「ヲ」が多用された。

(94-4)「あわひ」・・動詞「あふ(合)」に接尾語「ふ」の付いた「あはふ」の名詞化か。物と物との交わったところ。重なったところ。また、境目のところ。中間。間。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<平安時代、「あひだ」は和文には例が必ずしも多くはなく、しかも時間的用法が主であるのに対し、「あはひ」は和文に多用され、空間的用法が中心となる。漠然性は現代語においても、表現として効果的に生かされている。このように、共通語としては、雅語として固定的に使われているが、各地方言では、生活語として命脈を保っている。>とある。

 <仮名遣いの話>歴史的仮名遣いでは、「あはい」。現代仮名遣いでは「あわい」。影印の「あわひ」は、それをチャンポンにした仮名遣い。

(94-5)「言しろひなり」・・「言いしろひなり」は、形容詞。「しろふ」は、は互いに事をし合う意。互いに言い合う。あれこれと話し合う。

(94-67)「いとはぬか」・・かまわないか。

(94-7)「心得て侍る上は」・・承知の上であるから。

(94-8)「わりなく」・・しかたなく。「わり(理)なし」は、仕方がない。やむを得ない。余儀ない。是非もない。

(94-9)「わたり」・・辺。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。へん。へ。近所。

(94-11)「ゆゑよし」・・故由。わけ。いわれ。

(95-1)「心とけたるとはいへども」・・和解しあっているとはいうものの。

(95-12)「先にもヲロシヤの人、松前へとらはれて、三年計も居たる」・・ゴローニンの来航と逮捕事件。「三年計」とあるが、実質2年半、ゴローはニンは、捕らわれの身だった。その概略を記す。

 ・文化8(1811).5.26・・千島諸島および満州沿岸測量の命を受けた船将ゴローニン率いるディアナ号、薪水、食料補給のためクナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年6.4・・ゴローニンらトマリに上陸、クナシリ会所にて調役役奈佐瀬右衛門と会見、会見中逃亡を図ったため捕縛。副将リコルドは救出をあきらめカムチャッカへ去る。

 ・同年7.2・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。822日箱館出発、25日福山到着。

 ・この冬・・村上貞助、松前奉行の命によりゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)1.26・・幕府、ゴローニンらの処置を決定、返還せずに留置き、ロシア船の渡来あれば打払うべき旨、松前奉行、南部津軽両家に通達。

 ・同年2月・・松前奉行、ゴローニンらの捕囚を緩め、松前近在の逍遥を許す。

 ・同年2月・・間宮林蔵、ゴローニンらと面会し、天文・測量などを質問。

 ・文化9(1813).3.24・・ゴローニンら、置所の板塀の下土を掘って逃亡、44日、江差付木の子村で捕えられ、福山に送還、入牢。

 ・同年8.4・・リコルド、ゴローニンらの返還交渉のため、文化4年(1807)エトロフで、フヴォストフに捉えられた五郎次と漂民6名(文化7年=1810=漂流した摂州の歓喜丸乗組員)をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、クナシリ在勤役人と交渉したが、役人は、ゴローニンは処刑されたとして拒否される。リコルドは、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖で高田屋屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、カムチャッカにむけて去る。

 ・文化104.7・・リコルド、ディアナ号に嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。嘉兵衛を介してクナシリ詰役人と交渉。先年のフォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨述べ、ゴローニンのを放還を求める。

 ・同年6.19・・松前詰吟味役高橋三平ら、松前奉行の命により捕虜のロシア人シイモノフをともない、クナシリ島に到着、諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件としてロシア国長官の陳謝書の提出と先年掠奪した平気・器物の返却を要求。リコルドはこれを承諾し、上官と相談の上、諭書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、6月24日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年8.17・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山より箱館に移す。同月20日、ゴローニン箱館着。

 ・同年9.16・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。同日リコルドはオホーツク総督ミニィツキィの書を提出。19日には上陸を許されて沖の口番所にて高橋三平らと会見、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・同年9.26・・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、箱館沖の口番所にてゴローニンらをリコルドに引き渡す。

 ・同年9.29・・ディアナ号箱館より帰帆。

(95-23)「さはいへ」・・「然(さ)はいえ」。そうは言うものの。さは言えど。影印の「左」は、変体かなの「さ」。ここでは、1行目の「ヲロシアとは互に心とけたる」を受けて、「そうは言っても」となっている。

 *「さ(然)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <奈良時代には「しか」が主流で、「さ」は「さて」や「さても」のように複合した形でしかみえない。

平安時代に入っても、和歌については「しか」が優勢で、物語などの散文で「さ」が発達してから和

歌にも浸透し、一二世紀から一三世紀にかけて用例が激増した。それに対し、「しか」は漢文訓読文や

和漢混交文に残るだけとなる。

 室町時代後期になると「さう」の例が見えはじめ、「さ」で表現すべきところを次第に「さう」で表現

するようになる。現代では「そう」を用い、「さ」は「さよう」「さほど」などの複合語として残るの

みで、単独では用いられない。>とある。

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『秘書』4月注記



(57-2)「チヤンヌリ」・・チャン(瀝青)塗り。語源説に、①英語chianturpentine の略か〔大言海〕。②「青」の音tsin から〔外来語辞典=荒川惣兵衛〕。がある。なお、「瀝青」は、樹木、泥炭、褐炭などから、ベンゼンなどの有機溶剤で抽出される有機物質の総称

(57-4)「又(また)」・・接続詞。並びに。

(57-4)「重立(おもだち)」・・「重立つ」の連用形。集団の中で主要な人物である。中心になる。かしらだつ。

(57-9)「麁絵図(あらえず・そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。「麁」は、「麤」の俗字。

(57-9)「アツサム」・・ロシア沿海州の集落。享和元年(1801)、幕吏中村小市郎がカラフトを調査の折、山丹人らに尋ねた記録『唐松の根』には、アムール河下流地方の地図があり、「アツシヤム。家四軒。山丹人躰にて言語、夷人山丹と交る。」と記載されている。

(58-1)「大湾(だいわん・おおわん)」・・インペラートルスカヤ湾か、またはデ・カストリ湾か。ロシヤ海軍少佐ネヴィスコイは、嘉永6(1853)、アムール河下流地方と沿海州進出を図り、部下のポシニャークは、タタール海峡沿岸を調査し、北緯49度附近でインペラートル湾を発見、ネヴィスコイはここに、哨所を設置し、当時のロシヤ皇帝ニコライ1世の息子コンスタンティンにちなみ、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所と名付けた。デ・カストリ湾に設けた哨所は、アレクサンドル哨所。

 *ロシアの東方進出

 1547年イヴァン4世(雷帝)初めて公式に全ロシアのツアー(皇帝)と称す。

1553年カザン・ハン国を攻略、ついで1556年アストラカン・カン国を併合し、ヴォルガ流域を制圧。

・商人とコサックは毛皮を求めて東進。ロシアは、城塞を建て、毛皮税を取立てる。

1601年にトムスク、1628年にクライノヤルスクを建設。1632年レナ川を渡り、ヤクールクを開く。

1639年にはコサックはオホ-ツク海に達した。

1697年、コサック隊長アトラーソフは、カムチャッカ西岸で漂流民デンベイ(伝兵衛)を発見、モスクワへ送還。

1738年、ロシア探検隊のシパンベルク、ウルップ沖に来る。

 ・1767年、コサックのチョールヌイフ、エトロフに至り、アイヌ人に毛皮税を課す。

 1782(天明2)、大黒屋光太夫、アムチトカ島に漂着、クルクーツクでラクスマンに会い、首都ペテルブルクへ連行。エカチャリーナ女帝に拝謁。

 ・1792年(寛政4年)エカチェリーナ2世号、根室に入津。

 ・1804年(文化元年)レザノフ、長崎に来航、通商を求める。

 ・180607(文化34年)、フヴォストフらクシュンコタン、エロトフ島を襲撃。

 ・1811年(文化8年)、ゴローニン、エトリフで補縛される。

(58-1)「構塞(こうさい)」・・とりでを構えること。「塞」は、辺境のとりで。ここでは、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所か。

(58-5)「所住(しょじゅう)」・・住んでいる場所。住所

(58-8)「被打潰(うちつぶされ)」・・攻め滅ぼされ。

(58-8)「当時(とうじ)」・・現在。

(58-8~9)「マンコ川口より二日路先、字メヲと申所江魯西亜より構塞」・・嘉永6(1853)にネヴィスコイが設置したニコライ哨所をさすか。

 *アムール川下流域・沿海州をめぐる清国とロシヤの国境問題略史

  ・ネルチンスク条約・・16898月(和暦では元禄2年)、アルール川上流のネルチンスクでアムール川上流域の清露の国境画定。西部国境はアルグン河とゴルヴィツァ河を国境とする。東方では、外興安嶺(こうあんれい・スタノヴィ山脈)に続き、その山嶺から南方のアムール河に流入する河川はすべて清国領となった。しかし、東辺地方は未定とされた。

   清国はアムール河からのロシア人を駆逐し、この地方に対する影響力を決定的にした。ギリヤークなど、アムール河下流域の住民も清国に対する朝貢関係に入った。

 *アイグン条約・・1858年に清とロシアが中国黒竜江省北部のアイグン(愛琿)で結んだ条約。ロシアはクリミア戦争を機とし、清領のアムール川を航行し、沿岸に植民していたが、アロー戦争が起こると、黒竜江を自領とするために、ネルチンスク条約の未決定境界の条項を利用し、清側に圧力を加え、条約を結んだ。要点は、(1)黒竜江左岸はロシア領、黒竜江右岸は、烏蘇里江(ウスリー川)以西を清領、同江以東、海までの地を両国の共同管理とする。(2)黒竜江左岸の満州人集落は清国が管轄

する。というもの。

 *北京条約・・1860年。アイグン条約で、国境確定まで両国で共有することとされていたウスリー川以東の沿海地方をロシア領とすること。

(58-11)<変体仮名>「離散のため」の「た(堂)」・・「堂」を「た」と読みのは、「堂」の歴史的仮名遣いが「タウ」であるため。

 その外に、頻出する変体仮名で歴史的仮名遣いによる読みの例をあげる。

 ・「当(タウ)」→「た」                

・「良(ラウ)」→「ら」

・「王(ワウ)」→「わ」

・「遠(ヲン)」→「を」

・「越(ヲツ・ヲチ)」→「を」

(58-11)「官府(かんぷ)」・・官庁。役所。当時の清の首都は北京。

(58-11~59-1)「其後争戦を初め候」・・黒龍江を挿んで、清国とロシアの争いの噂。1854年(安政元年)ロシア軍は黒龍江の北を占領した。

(59-2)「王后(おうこう)」・・「后」は、「天子。君主。」(『角川漢和中辞典』)「満州」は、「清の故土」。満州を統治していたのは単なる「諸侯」ではなく、愛新覚羅の一族(男性皇族)。それで、「満州王后」とした。

 当時の王后は、清国九代愛新覚羅奕詝(アイシンギョロ・イジュ)=咸豊帝(かんぽうてい)

(59-2割書右)「后惣大将」・・『大日本古文書 幕末外交文書第8巻』所収の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」には、「后」を「後」とし、「後惣大将」としている。

(59-2割書左)「由ニ而」・・『廻浦録』は、「而」を「候」とし、「由ニ候」とある。

(59-7)「アテンキ」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「アテンキ 一里半位 此所小川 スメレンクル家五軒有。但小沢砂地高山大木有。シメレンクルの男女五十七人之由」とある。

(59-8~9)「露西亜人、北蝦夷地内クシユンコタン江塞柵」・・嘉永6(1853)9月、ロシア海軍大佐ネヴェスコイがクシユンコタンに構築したいわゆるムラビヨフ哨所。

(59-9)「塞柵(さいさく)」・・「塞」も「柵」もとりで。

(59-9)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。

(59-9)「命之由」・・『廻浦録』は、「之」を「候」とし、「命候由」とある。

(59-11)「ヲツノ□」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「ヲツチシ 弐里半 此所夷小屋一軒有。但平地砂浜大沼大川有。川口六十間位、岩崎沖ニ高き岩有。当所よりロモーへ山越」とある。

(59-11割書右)「□里位」・・「里」の前の字が虫食い状態で読めないが、『廻浦録』は「六」とある。

(60-2)「木品(きしな・もくひん)」・・木の品質。木目。

(60-4)「山根」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)には、「山脇」とある。

(60-10)「姿」・・『廻浦録』には、「恣」とある。

(60-10~11)「貸遣ひ」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」には、「貸」を「借」とし、「借遣ひ」とある。

(60-11)「自侭(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

古文書学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗などを学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015年4月13日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。
問い合わせは、森勇二まで 電話090-8371-8473 
メール moriyuzi@fd6.so-net.ne

『ふなをさ日記』3月学習の注 

(88-1)「重吉、書付たる一さつ」・・重吉が帰国後、板行した『ヲロシヤノ言』をさすと思われる。

(88-12)「天地山川(せんちさんせん)」・・天と地、山と川。つまり自然全体をいう。

(88-2)「人倫(じんりん)」・・ひと。人々。人類。特定の個人や集団ではなく、人間一般をいう。

 なお、テキスト影印の「リン」は、「ニンベン」より、「リッシンベン」に近いが、「忄」+「侖」の字はない。ここは好意的に「倫」とする。

(88-2)「生(しょう)る〔い〕」・・影印は、「生る」だけで、「い」が脱か。

(88-2)<漢字の話>「衣喰」の「喰」・・テキスト影印の「衣喰」の読みは、「イショク」が妥当か。しかし、「喰」に「ショク」という字音はない。『新潮日本語漢字辞典』は「喰」を国字として「くう・くらう・たべる」などの日本語読みはあるが、漢語風の読みはない。なお、『康煕字典』には、同字があるが、字音は「サン」。テキストの場合、「喰」を「食(しょく)」の当て字として、使用していると思われる。異本は、「衣食」として「喰」は使っていない。

(88-2)「器財(きざい)」・・うつわ。道具。また、家財道具。器材。

(88-2)「わかちて」・・分類して。

(88-3)<文法の話>「うつしおかまじ」・・この用法は二重の意味で誤り。

①打消の助動詞「まじ」は、終止形(ラ変動詞には連体形)に接続するから、「うつしおかまじ」という用法は誤り。「うつしおくまじ」が正しい。しかし、それは、文意のそぐわない。

②異本は、「うつしおかまし」と、打消の「まじ」ではなく、推量の助動詞「まし」になっている。

「まし」は未然形に接続するから、「うつしおかまし」なら正しい。

③文意も「写し置こう」ということだから、②が正しい。

(88-4)「一体(いったい)」・・そもそも。おしなべて。一般に。

(88-4)「遣ひさま」・・遣い方。「さま」は接尾語。後世は「ざま」とも。動詞に付いて、そういう動作のしかたを表わす。方(かた)。様(よう)。ぶり。

(88-5)<くずし字>「書付がたきが多く」・・       下は『これでわかる仮名の成り立ち』

「がたきが」の変体仮名は「可・多・支・可」。     (茨木正子編 友月書房刊)より

 *<変体仮名「支(き)」・・右の表参照。

 *<漢字の話>「支(き)」・・①手元の漢和字典に「支」を「キ」とするものはない。

  ②万葉仮名(甲類)に「き」がある。

  ③古代中国字音が「キ」に近かったとされる。  (『新潮日本語漢字字典』)

  ④「支」の部首・・「支」は部首。部首名は、「じゅうまた」「しにょう」「えだにょう」とも。「しにょう(繞)」と「繞」の名を持つが、その例は、「翅」のみ。

(88-9)「末つかた」・・「つ」は「の」の意。ある期間の終わりのころ。月や季節などの終わりのころ。末のころ。「つ」は、奈良時代に使われた格助詞。平安時代以降は、「天つ風」「沖つ白波」のように、複合語として慣用的にだけ用いられた。現在では、「まつげ(目つ毛)」「やつこ(家つ子)」「わたつみ(海神)」に一語の中に化石的に残っているにすぎない。

(88-910)「六人の日本人」・・督乗丸の船頭・重吉と水主の音吉、半兵衛、薩摩の永寿丸の漂民で船頭の喜三左衛門、水主の角次、佐助の六人。

(88-10)「フツヱトル」・・セント・パーヴェル号。

(88-10)<くずし字>「用意」の「用」・・1画目が点か、省略されているようになる場合が多い。

(89-3)「スレス」・・ワシリー・スレドニー船長。

(89-3)「イキリスの船頭ベケツ」・・イギリス船フォレスタ号の船長ピケット。

(89-3)「筆者(ものかき)ベネツ」・・フォレスタ号の書記ベネツ。

(89-4)「扨(さて)」・・文脈上すでに存する事物・事態をうけ、これと並行して存する他の事物・事態に話を転じる。一方では。他方。ところで。

(89-4)<略字(異体字)>「薩摩」の「广」・・「广」は、「摩」の略字。

(89-4)「便船(びんせん)」・・便乗すべき船。都合よく自分を乗せて出る船。また

乗る人。

(89-7)「カワンより」・・異本は、「カワン」を「ガワン」とし、そのあとに「みなとの事也」と割注がある。また、「オロシヤノ言」には、「湊の事 ガアハン」とある。

(89-7)「午未(うまひつじ)」・・ほぼ南南西。

(89-8)「亀崎(かめざき)」・・知多半島東岸の漁村で港町。現愛知県半田市亀崎。

(89-9)「いかにせましと」・・どうしようかと。「せまし」の組成は、サ変動詞「す(為)」の未然形「せ」+推量の助動詞「まし」の連体形「まし」。

(89-10)「ゆへ」・・「由」の歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」。

(89-11)「渡り」・・辺り。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <「わたり」は「伊勢物語‐五」に「東の五条わたりにいと忍びてゆきけり」、「土左‐承平五年一月二三日」に「このわたり海賊のおそりあり」とあるように接尾語的に、あるいは「の」「が」による連体修飾に続けて用いられるだけであるのに対し、「あたり」は単独で用いられる。>とある。

(90-3)「然(しか)るべし」・・[連語]ラ変動詞「しかり」の連体形+推量の助動詞「べし」。それが適当であろう。現代語では、連用形から出た「しかるべく」、連体形から出た「しかるべき」の形が用いられるにすぎない。

(90-6)<漢音・呉音>「経文(きょうもん)」・・「経」は、「キョウ」が呉音、「ケイ」が漢音。「文」は、「モン」が呉音、「ブン」が漢音。日本には、呉・越地方、中国中部揚子江流域地方の古い時代の音が、先ず入ってきた。仏教伝来とも係り、仏教用語は、呉音が多い。

(90-6)「そと」・・しずかに。ひそかに。こっそりと。そっと。

(90-7)「言(いう)もさらなり」・・言うまでもない。もちろんである。

(90-9)「不足(たらず)くちおしき」・・とても残念だ。「不足(たらず)」は、不満足で。

(90-9)「いみじく」・・ひどく…である。

(90-10)「沖中(おきなか)」・・海洋の中。

(91-1)<くずし字>「教」・・影印は、「教」の決まり字。

偏は「おいかんむり」+「子」だが、「おいかんむり」を「才」のような形で上に書き、「子」と旁の「攵(ぼくづり・ノ分)」を一緒に脚に書くことが多い。

(91-1)「見えわかず」・・みることができず。「わかず」の組成は、4段動詞「わ(別・分)く」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連用形。

(91-1)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

(91-2)「日数(ひかず・にっすう)」・・経過した、またはこれから要するひにちの数。にっすう。また、何日かの日の数。

(91-23)「海上上」・・「上」がひとつ重複している。

(91-3)「ヱドモ」・・絵鞆か。絵鞆は、絵鞆半島突端北西部に位置し、北と西は内浦湾に面する。

(91-7)「実(げ)に」・・「現に」の変化した語かという。予告や評判どおりの事態に接したときの、思いあたった気持を表わす。なるほど。いかにも。本当に。

(91-6)「船ももろともに」・・「も」が重複で、ここは、「船もろともに」か。

(91-8)<異体字>「乞」・・冠部分が「ト」で脚部分が「乙」になる場合がある。

(91-10)<くずし字>「引かへし」・・「し」が「へ」に食い込んでいる。一見、「へし」が1字に見えるが、このテキスト影印では、よく見かける。

(91-11)「やゝ」・・副詞「や(彌)」を重ねてできた語。ある物事が少しずつ進むさまを表わす語。徐々に。次第に。順を追って。だんだん。

(92-6)「もどりてよかし」・・「よかし」は、意味不明。異本は、「くれよかし」に作る。                   

(92-7)「来年となれぬ」・・「来年と」は、文意が不明。異本は、「来年迄」に作る。

(92-9)「我々計(ばかり)」・・我々だけ。「ばかり」は、体言・活用語の連体形を受け、限定の意を表わす。

(92-10)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(92-11)「言しろはん」・・言い合う。「しろふ」は互いに事をし合う意。

(93-11)「易なく」・・ためにならない。「易」は、「益」の当て字。

3月学習『秘書注』 

(52-1)「通弁(つうべん)」・・「つうやく(通訳)」の古い言い方。

(52-3)「相弁(あいべんじ)」・・「弁ずる」は、わきまえる。

(52-4及び7)<くずし字>「候哉」「可相成哉」の「哉」・・「口」の部分が、「ノ」のように書かれる場合がある。

(52-7)「見合(みあい・みあわせ)」・・対応。検討。

(52-7)「談判(だんぱん)」・・かけあい。

(53-1)「水野正左衛門」・・村垣に随行した評定所留役。水野に先発して安政元年(1854)229日江戸を出発。西蝦夷地、カラフトを巡見し、帰途同年閏717日、クスリで死亡している。

(53-3)「旬季(じゅんき)」・・順当な気候。順当な季節。

(53-5)「今井八九郎」・・松前藩士。

(53-6)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察する意味に使われた。

 *<漢字の話>「浦」・・①元来中国では、川のほとりの意味。②わが国で、陸地に入り込んだ所、入り江を意味する「うら」に「浦」を当てた。「うら」の語源説には、

・ウラ(裏)の義。外海の表に対し、内海の意〔箋注和名抄・名言通・大言海〕。

 ・ウはウミ(海)、ラはカタハラ(傍)から〔和句解・日本釈名〕。

 ・ウラ(海等)の義〔桑家漢語抄〕。

・ウはワタツの約。ウラはワタツラナリ(海連)の義〔和訓集説〕。

など、海と関連づけるものが多い。

③全国いたるところを意味する「津々浦々」は、海に囲まれた日本製の四字熟語。

(53-7)「風説書(ふうせつがき)」・・各地の風説を報告した文書。特に、限定して、江戸時代、幕府に提出された、長崎貿易を通じて得られた海外情報などの報告書をいう。オランダ商館長からのものを「オランダ風説書」、唐船からの情報は「唐船風説書」とよばれた。

(53-9)絵図(あらえず)」・・大まかな絵図。影印の「麁」は、「麤」の俗字。「麤」の解字は、「鹿」+「鹿」+「鹿」。しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる。あらいの意味をあらわす。

(53-9)「上川伝一郎」・・村垣配下の支配勘定。カラフト巡見の際は、堀・村垣の命を受け、西海岸をホロコタンの先まで見分し、さらに、伝一郎に付き添って行った松前藩士今井八九郎は、進んでナツコに至った。

(54-8)「時日(じじつ)」・・ひにちと時間。何日かの期間。日数。

(54-8)「相後(あいおく)レ」・・時間が遅くなる。「おくれる」は、広く「遅れる」と書く。

 *「汽車が四十分程後(おく)れたのだから、もう十時は過(まわ)っている」(漱石『三四郎』)

(54-8)「分間(ぶんかん・ぶんけん)」・・測量。

(54-11)「バンケ」・・今井八九郎の『北地里数取調書』(北海道立文書館蔵)には、「ハンケヱンルモ」とあり、「山丹人当所よりワシフンサキ迄渡海之所也」とある。

(56-2)「一昨亥年(いっさくいどし)」・・嘉永4(1851)

(56-2)「秋秋」・・「秋」がひとつ重複している。

(56-3)「住所」・・「住」は、「同」で「同所」が本来か。

(56-3)「昨子年(さくねどし)」・・嘉永5(1852)

(56-3)「砌(みぎり)」・・あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。土源説に、「そのころの意を其の左右(ゆんでめて)というところからミギリ(右)の義か」がある。

(56-4)「時化(しけ)」・・動詞「しける(時化)」の連用形の名詞化。海で暴風雨が続くこと。海が荒れること。「時化」と訓じるのは、当て字。

 *<漢字の話>「時」・・「し」と読むのは呉音。「時化(しけ)」のほか、「時雨(しぐれ)」がある。

(56-8)「潮勢(ちょうせい)」・・潮の押し寄せる勢い。潮流の勢い。

(56-11)「菩提(ぼだい)」・・梵語bodhi の音訳。道・智・覚と訳す。仏語。

(1)世俗の迷いを離れ、煩悩を断って得られたさとりの智慧。

 (2)死後の冥福。

(56-11)「卒塔姿(そとば・そとうば)」・・梵語stu-paの音訳。頭の頂、髪の房などの義。高顕処・方墳・円塚・霊廟などと訳す。仏語。卒都婆、率都婆などを当てる。

(1)仏舎利の安置や、供養・報恩をしたりするために、土石や(せん)を積み、あるいは木材を組み合わせて造った築造物。塔。塔婆。卒都婆標。そとうば。

 (2)転じて、供養のため墓のうしろに立てる細長い板。上部は五輪卒都婆の形をしており、梵字、経文などが記されている。塔婆。

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015年3月9日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。
問い合わせは、森勇二まで 電話0909-8371-8473
 moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』2月学習の注

(83-1)「扨は」・・事情や状況、また、相手の発言や行動などで、思いあたることのある時に発する語。そう言うところをみると。そんなことをするところから思えば。それでは。

 *<漢字の話>「扨」・・国字。『新漢語林』は、解字を、「刄(叉)」+「扌(手)」とし、「叉」は、サ、「手」はテ、合せてサテの音を表すとしている。なお、「扠」は、「さて」と訓じることもあるが、元来は漢字。

(83-1)「いへたるか」・・ヤ行下2動詞「癒(い)ゆ」の連用形は、「癒(い)え」。「いへ」とすれば、終止形は、「癒(い)ふ」だが、どういう表現はない。ここは、「いえたるか」が正しい。

(83-2)「ゆへ」・・故。文語体では、「ゆゑ」で、「ゆへ」とはいわない。しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「故」の語源説に、「ユはヨリ(因)の約。ヱはヘ(方)の転」とあるから、「ゆへ」とする用法もあったか。

(83-2)「からき」・・辛き。形容詞「辛(から)し」の連体形。「辛(から)し」は、残酷だ。むごい。ひどい。

(83-2)「せひばひ・・成敗。歴史的仮名遣いでも、「せひばひ」とは書かない。ここは、「せいばい」。

(83-2)「せひばひをし給ひては」・・罪人として仕置きをなされては。

(83-3)「なかなかに」・・かえって。むしろ。

(83-3)「いとほしく」・・形容詞「いとほし」の連用形。「いとほし」は、かわいそうだ。気の毒だ。

(83-3)「なかなかにいとほしくて」・・かえってかわいそうで。

(83-3)「いかで」・・「いかにて」の撥音便化した「いかんて」が変化した語。あとに、意志、推量、願望などの表現を伴って用いる。何とかして。せめて。どうにかして。どうか。

(83-3)「たべ」・・ください。動詞「給(た)ぶ」の命令形。「給(た)ぶ」は、「与ふ」「授(さず)く」の尊敬語で、お与えになる。くださる。

(83-5)「こらして」・・懲らして。過ちを責めて戒めて。

(83-7)「ゆへ」・・ここも、「ゆえ」が正しい用法。

(83-8)「いかで入てたべ」・・なんとかして入れてください。

(83-8)<脱字について>異本は、「たべ」と「きのふ」の間に、「かしと、あながちにいひける事のわりなさに、心ぐるしくは思ひながら座敷へ入れければ」がある。

(83-8)「きのふのよろこびにとて」・・昨日のお礼に来たのだといって。

(83-9)「まして」・・動詞「ます(増)」の連用形に助詞「て」が付いてできたもの。先行する状態よりも程度のはなはだしいさまを表わす語。それ以上に。他のものよりもひどく。今までよりも強く。いっそう。

(83-9)「まして、きのどくに思ひ」・・いよいよ気の毒に思い。

(83-9)「さることにてはなし」・・そんなに心配には及ばない。

(83-11)「いなみ」・・動詞「否(いな)む」の連用形。「否(いな)む」は、承知しないということを表わす。断る。いやがる。辞退する。

(84-1)「悦びて帰りける」<係り結びの法則>・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、

①「ぞ」「なむ」「や(やは)」「か(かは)」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。

 ②「こそ」を用いると已然形で結ぶ。

 テキストの場合、過去の助動詞「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(84-2)「童(わらべ)」・・語成は、「わらわべ」の変化した「わらんべ」の撥音「ん」の無表記から。語源説のひとつに、「その泣き声から、ワアアヘ(部)の義」があるのが、おもしろい。

(84-2)「子共(こども)」・・「ども」は接尾語。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

 (2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

 (3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。>とある。

(84-3)<変体仮名の話>「わらんべ」の「わ(王)」・・「王」は、現代仮名遣いでは「おう」だが、歴史的仮名遣いでは、「わう」。したがって、「王」を変体仮名の「わ」とするのは、歴史的仮名遣いによる。

(84-3)「何心(なにこころ)なく」・・形容詞「何心なし」の連用形。「何心なし」は、何の深い意図・配慮もない。なにげない。

(84-45)<文法の話>「子供が戯れ」の「が」・・「が」は連体格の格助詞で「~の」。「子供戯れ」

 *「君ため春の野に出でて若菜つむわ衣手に雪はふりつつ」(『古今和歌集』)

 *「おら春」(小林一茶の句集の題名)

(84-5)「ものともおもはで」・・異本は、「ものとも」を「物しとも」としている。「物し」は、「気にさわる。不快である。」だから、異本の方が妥当か。

(84-4)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは①か。

(84-8)「からきめをし給ふぞ」・・つらい目にあわせなさるのか。

(84-11)「わきて」・・副詞。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(84-11)「戯言(ざれごと・ざれこと・あきれごと・じゃれごと・たわぶれごと・たわむれごと)」・・

 たわむれに言うことば。ふざけて言うことば。冗談。また、たわむれてすること。ふざけてすること。

(85-2)<漢字の話>「鹿」・・

①「鹿」は部首。解字は角のある雄しかの象形。

②「牛」「犬」「羊」「虫」「貝」など、動物が部首になっている。10画以上でも、「馬」「魚」「鳥」「龜(亀)」「鼠」など。架空の動物では「鬼」「龍(竜)」がある。

 ③殷の紂王(ちゅうおう)が、庭園に酒を満し、枝に肉を懸けて宴を開き、酒池肉林の淫靡な享楽に

  ふけったが、その場所が「鹿台」。黄河流域にはたくさんの鹿が生息していた。(阿辻哲次著『部首の話2』中公新書 2006

 ④「鹿」部で、常用漢字はふたつだけ。「麗」は、「何頭かのシカが連れ立って移動する様」から、美しいことの意味を表した。もうひとつは、平成22(1010)に追加された「麓」。

(85-2)「悦(よろこび)」・・お礼。

(85-3)「なべて」・・動詞「なぶ(並)」の連用形に、助詞「て」の付いてできたもの。事柄が同じ程度・状態であるさまを表わす。すべて。総じて。一般に。概して。

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2月学習『秘書注』  

(48-1)「勘定吟味役下役(かんじょうぎんみやくしたやく)」・・勘定吟味役配下の役職。高500石、役料300俵。勘定吟味役の配下には、勘定吟味方改役(7名、役高150俵で役扶持10人扶持)、その下に、勘定吟味方改役並(5名、役高百俵、持扶持勤めで役扶持七人扶持)、さらに勘定吟味方下役(10名、持高、勤めで役扶持3人扶持)をそれぞれ設けた。

 *勘定吟味役

・設置と改廃止・・天和2年(1682)創置。元禄12年(1699)ひとたび廃止された.正徳2年(1712)新井白石の建議に基づき再置。ついで享保年中(1171636)増員され、以後おおむね四~六名が常置されて慶応3年(1867)に至り廃止された。

・職務・・職務は勘定所での金穀の出納、封地の分与、幕領年貢の徴収と郡代・代官の勤怠、金銀の改鋳、争界の訴訟など一切の監査である。さらに勘定奉行とその属吏に不正があれば直ちに老中に開陳する権限があった。

(48-1)「出役(しゅつやく)」・・江戸幕府の職制。他の役職を兼役する場合の職名。出役には役料が与えられ、兼務する役職の常勤になる場合があり、出役から昇進する例もある。

(48-1)「長谷川就作」・・『蝦夷紀行』には、勘定吟味役村垣範正の配下の勘定吟味方改役下役として「長谷川周作」の名がある。

(48-1)「御普請役」・・江戸幕府の職名。享保9年(1724)に勘定奉行支配御普請役として新設。関東諸河川・用水の御普請を担当した。宝暦3年(1753)からは勘定奉行支配となった。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(48-2)「代(かわ)り」・・代り役。ある人の役目を、他の人がつとめること。また、その人。だいやく。

(48-2)「福岡金吾」・・『蝦夷日記』には、勘定吟味役村垣範正の配下の天文方に「福岡金吾」の名がある。

(48-2)「津田十一郎」・・『蝦夷日記』には、勘定吟味役村垣範正の配下の天文方に「福岡金吾」の名がある。津田も、この時期、御普請役代り役だったか。

(48-2)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員50人。小人横目。

(48-2)「藤田幸蔵」・・『蝦夷日記』には、目付堀織部の配下に「藤田幸蔵」の名がある。

(48-5)「シヨウニ岬」・・シラヌシの北、カラフト南西部の野登呂半島にある地名。日本名「宋仁」を当てる。

(48-9)「イサラ」・・カラフト西海岸中部の地名。コタンウトロの北。日本名「伊皿」。「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』・以下『足軽書付』)には、「ウチヤラナイ」とあり、「此所川有、巾三間、石地、山は雑立木、小岬有、波立之節は通行成かたし」とある。

(48-10)「チトカンベ」・・カラフト西海岸中部の地名。『足軽書付』には、「チトカンヘシ」とあり、「此所出崎、嶮崖通行難相成、山道有、又滝抔有之、絶景奇岩有り」とある。

(49-5)<見せ消ち>・・「より」の左に、見せ消ちの記号「ヒ」が二つあり、右に「江」と訂正してある。ここは、「より」は誤りで読まない。「ライチシカ辺より」でなく、「ライチシカ江」と読む。

(49-6)「湖辺より北之方コタンウトロ」・・「湖」は、「ライチシカ湖」。「北之方」とあるが、『足軽書付』

を計算すると「コタンウトロ」より、6里半ほど北にある。

(49-9)「当時」・・現今。ただいま。当節。

(49-10)「故土(こど)」・・生まれ育った土地。故郷。郷土。

(50-5)「聳へ」・・文語体では、ヤ行下二段動詞「聳ゆ」の連用形は、「聳え」。「聳へ」なら、終止形は、

ハ行の「聳ふ」だが、そういう言葉はない。文語調では、ここは、「へ」は「え」で、「聳え」が本

来。

(50-6)「天度(てんど)」・・緯度。



(50-7)「ホコラ」・・『足軽書付』の「ホコラニ」の項に、「此処スメレンクル家三軒有、川有巾凡弐間、砂浜石地も少々有之、高山青木立」とある。なお、テキストP51には、「ホコラニ」とある。また、『足軽書付』の順路は、キトウシとホコラニが逆になっており、ホコラニの方が、南、つまり、ホロコタンよりである。

(51-2)「キトウシ」・・『足軽書付』の「キトウシ」の項に、「此処川有、巾三間、鱒漁多シ、スメルンクル家弐軒有、砂浜連山青木立、別而高キ大山有、ライチシカよりナツコ迄最一ノ高山ニ而、頂草生、其形リイシリ山之如シ」とある。

(51-4)「薙髪(ていはつ・ちはつ)」・・髪を剃る。剃髪。

(51-5)「乾隆の小銭」・・「乾隆」は、中国清朝6代皇帝乾隆帝在位(1711~1799)の時代。「小銭」とは、「制銭―つまり清朝が正規に発行した銅銭―以外の品質の悪い銅銭」(黨武彦著「乾隆末年における小銭問題について」=『九州大学東洋詩論集312003=)

(51-8)「するどき」・・形容詞「鋭(するど)し」の連体形。「鋭し」は、勇ましくてつよい。精鋭である。

(51-8)「剣下」・・『蝦夷地廻浦録』は、「釼」を「腰」とし、「腰下」としている。なお、影印の「釼」っは、「剣」の俗字で、日本では多く姓氏に「つるぎ」として用いられる。

(51-9)「大指(おおゆび・おおよび・おおおよび)」・・手足の指のうちで、もっとも太い指。おやゆび。

(51-9~10)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(51-1011)「矢狭間(やざま)」・・城壁や櫓(やぐら)などの内側から外をうかがい矢を射るためにあけた小窓。矢間。

(51-11)「閉籠(へいろう・へいろ)」・・家などにとじこもって外に出ないこと。

 

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015年2月9日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。
問い合わせは、森勇二まで moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

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