森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

『魯夷始末書』1月学習分注記

1210)「ハツトマリ」・・満州(現ロシア沿海州地方)の海岸の集落。『幕外文書7-補遺22』(『秘書』の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」に同じ。)に、「満州之続き、~、爰は大陸の内」、「魯西亜人よりハツトマリと申立の由」、「通弁(清水)清三郎らは、アツサムと計り心得候哉」とあり、また、享和元年(1801)に幕吏中村小市郎が樺太調査をした時の麁絵図に「アツシヤム」の名がみえる(『秘書』注記P57-958-1参照)。これらのことから、「ハツトマリ」は、嘉永6年(1853)初頭に海軍大佐ネヴェリスコイが部下の海軍大尉ボシニャークに命じてアムール川下流地方の「デ・カストリ湾」に設けた「アレキサントロフ哨所」の場所と比定できる。

13-4)「去ル戌年」・・嘉永3年(1850)。本書が書かれた寅年(安政元年)の4年前。

134.5)「萬国地理図」・・『秘書』P44の「明清地理書」および『秘書』P35の「西洋ニテ近来彫刻仕候地図」と同じものを指すか。幕末の日本に影響を与えた「世界地理書」としては、清国人の魏源が著した「海国図志」がある。以下、大谷敏夫著『魏源と林則徐』(山川出版社 世界史リブレット人シリーズ)により、『海国図志』の概要を紹介する。

     1844年(道光24年=弘化元年)、魏源は『海国図志』50巻を完成。この書は、林則徐の『四洲志』を底本に、歴代の史志および明以来の島志、外国に関する書や新聞を加えて書いた世界地理書。

      *『四洲志』~イギリスの地理学者ヒュー・マレー(中国名:慕瑞)の『世界地理大全』や『明史』、『清史』、西洋人フェルビースト(南懐仁)の『坤輿図説』などを材料にしている歴史地理書。

     ②1847年(道光27年=弘化4年)、アメリカ人のプロテスタント宣教師ブリッ

ジマン(高理文・裨冶文)の『美理哥合省国志略』、オランダの法律学者ヴァ

ッテル(滑達爾)の『各国律例』、イギリス人のイギリス東インド会社広州駐

在の貿易監督官ディヴィス(徳庇時)の『華事夷言』、ドイツ人の伝教士チャ

ールズ・FA・ギュツラフ(郭実獵・郭士力)の『貿易通志』を用いて、増

補し、『海国図志』60巻本を完成。

     ③その後、更に、ポルトガル人のマチス(馮吉士)の『地理備考』、徐継畲(じ

ょけいよ)の『瀛環志略(えいかんしりゃく)』などを書き加えて、1852年(咸

2年=嘉永5年)に、『海国図志』100巻本を完成。

     ④日本へは、嘉永3年(1850)に、『海国図志』60巻本、3部が渡来したが、キリスト教に関する記述のため禁書になり、その後、嘉永6年(1853)、ペリーの来航に伴って、100巻本が再び輸入され、この書の研究が盛んになった。 

13-5)「満州」・・中国の東北地方を指していった旧通称。その領域はロシアとの係争地

となり、時代によって変遷がある。1858年(安政5年)までは、外満州(がい

まんしゅう)といわれる外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南、黒竜江(アムール

川)以北・ウスリー川以東の地域(現在のロシア連邦の沿海地方、アムール州、

ユダヤ自冶洲、ハバロフスク州)を含んでいたが、1858年(安政5年)のアイ

グン条約、1860年(万延元年)の北京条約によって、外満州がロシアに割譲さ

れ、以後、中国東北部の「内満州」地域が単に満州と呼ばれた。

13-5)「支那」・・中国に対してかって日本が用いた呼称。中国最初の統一国家の秦(シ

ン)の音に由来するとされる。日本では江戸中期以後、第二次大戦末まで用いら

れた。

13-5)「蒙古」・・モンゴリア。内陸アジア東部のモンゴル高原、ゴビ砂漠を中心とした

地域。

13-6)「止白里」・・シベリア。ロシア語名「シベリー」。ユーラシア大陸北部、ウラル山脈から太平洋岸に至るロシア連邦領アジアの総称。ロシア全土の約57㌫を占める広大な地域。なお、シベリアの当て字に、「止白里也」「止白里亜」「止百里」「止伯里亜」「失部唎旋」「西比利亜」「西伯里亜」「西伯里」「斉百里」「叙比利亜」「悉白里亜」「細白里」「細伯里亜」「紫比利亜」などがある。(『宛字外来語辞典』柏書房)

(13-6)「彊(さかい)」・・境界。

(13-6)「コツカ」・・「オホーツク」か。アムール川が流れ注ぐオホーツク海沿岸域。現ロシア連邦ハバロフスク州のオホーツク地方。

13-6)「日本海繞(にほんかいじょう)」・・日本海の北辺部を指すか。「繞」は「めぐる。まとう。まとわりつく。」のほか、「もすそ(裳裾)=衣服の裾」の意がある。日本海の北辺部は、中国(北京)からみると、辺境で、衣服の裾部分にあたる。なお、日本海は、アジア大陸、サハリン島、日本列島に囲まれた縁海で、1815年(文化12年)ロシアの航海者クルーゼンシュテルンの作った海図で、初めて「日本海」の名が付けられた。

13-7)「シンクカレと云ル大山脈」・・興安嶺と外興安嶺。中国北東、内モンゴル自冶区と黒竜江省にかけての西の大興安嶺(ターシンアンリン)、伊勒呼里山脈、東の小興安嶺(シヤオインアンリン)からなる興安嶺とそれにつながる現在のロシア連邦シベリア南東部の外興安嶺(スタノヴォイ山脈)。なお、外興安嶺は、ロシアと清国との係争地で、1689(元禄2)のネルチンスク条約で一旦清国とロシアとの境界になったが、1858年(安政5年)のアイグン条約で、完全にロシア領になった。

13-7)「シカト云山」・・シホテ・アリニ山脈。現ロシア・ハバロフスク州と沿海州にまたがる平均標高800~1,000mの中山性の山地。日本海側とアムール川流域(オホーツク海に注ぐ。)の分水嶺になっている。日本海北西岸に沿い、北東から南西方向に続く。長さ1,200キロ、幅200~250キロ。最高峰は、北緯49度付近のトルドキ・ヤニ峰(2077m)。

13-8)「推考(すいこう)」・・道理や事情などからおしはかって考えること。

1310)「松前箱館沖」・・津軽海峡。

1310)「南蝦夷地北蝦夷地之間海」・・宗谷海峡。

13-10~14-1)「カムサスカ」・・カムチャッカ。現在のロシア連邦極東連邦管区カムチャッカ地方にある「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」。『北槎聞略(大黒屋光太夫ロシア漂流記)』(桂川甫周著亀井高孝校訂 岩波文庫)には、「カムシヤツカ」について、「ヲホツカとアナヂルスカヤの間にさし出でたる大地なり。」とある。

14-2)「●掛(ま・がかり)」・・●は「舟扁に閒」か。船が碇泊すること。

14-2)「用弁(ようべん)」・・用便とも。用事をたすこと。

14-3)「キイヨロ」・・ナイヨロ。

14-3)「シトタラン」・・シトクラン。

14-3)「任申(もうす・に・まかせ)」・・「任申」は、返読で、「申すに任せ」。「(相手の)言うがままに」の意。

14-4)「クシンナイ」・・クシュンナイ。日本名「久春内」、「楠苗」とも。樺太西海岸のうち。樺太地名NO89.吉田東伍著『大日本地名辞書』には、「西白漘の北5里の海岸に在り、東海岸なる真縫に至る横断路の基点にして、~略~、真縫川の谷に通ず。此の間は一の地峡を成し、幅僅に7里となる。」とある。

14-4)「マカヌイ」・・マアヌイ。日本名「真縫」。樺太東海岸のうち。樺太地名NO173

     『大日本地名辞書』には、「本島の幅員最も狭き、地峡部の東側に在り、オホーツク海に濱す。西岸なる久春内との間、直距7里に過ぎず、」とある。

14-8)「イリノスロイ」・・(人名)ネヴェリスコイ。

14-9)「ヲロノフ」・・(人名)オルロフ

1410)「フースセ」・・(人名)ブッセ

1410)「コタノスケ」・・(人名)ルダノフスキー

15-1)「曾而(かって)」・・全然。少しも。下に打消しの語を伴って、強い否定を表す。

15-2.3)「不案心(ふあんしん)」・・古く「ふあんじん」とも。安心できないこと。気がかりで落ち着かないこと。

15-6)「米三千俵」・・米(玄米)1俵の量(「俵入」という。)は、江戸時代、各地、各藩ごとに一定せず、天領(幕府の直轄地)の場合、関東では、3斗5升入であったが、俵入は、2升の延米を加え3斗7升が普通。越後、三河などは4斗入、尾張、摂津、肥後などは5斗入。関東の私領では、上野では4斗2升または4斗3升入、下総では3斗9升または4斗入であった。(『日史大辞典』)。一方、松前藩の蝦夷地における俵入について、田島佳也神奈川大学経済学部教授は、『近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人』の著述のなかで、「蝦夷俵は、(4斗入れではなく、)最初2斗入れが寛文年間(1661~1673)に、7、8升入れになった。」、また「1857年(安政4年)、箱館奉行の一行とともに蝦夷地を査察した玉虫左太夫の『入北記』によると、苫前場所では、8升入れ米俵が、(1俵として)交易品の交換基準とされていた。」と指摘している。

15-8)「心付(こころづけ)」・・気をつけること。注意。配慮。

158.9)「無油断」・・「ゆだん・なく」

16-1)「右不申(本ノマヽ)」・・「右にもうさざる」で、「出稼ぎをしている46人ではない」ということを意味しているか。意味的にはやや不鮮明。それで、「本ノマヽ」のルビがあるのか。

16-2)「老衰(ろうすい)」・・年とって体の衰えること。老いて衰弱すること。

16-6)「山方(やまかた)」・・山のある地方。里方に対する山村、山林。

16-6)「蝦夷舩椴檜」・・「蝦夷舩」は「蝦夷松」の誤りか。「椴(とど)」は「椴松」。「檜」は、樺太に生育していたかは疑問、別種の樹木(翌檜=ヒバの類)か。

16-6)「元口(もとくち)」・・丸太材の根元に近い方の太い切口。反対語「末口」。

16-9)「自侭(じまま)・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願
します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2016111日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカ
ムチャッカに送られ同
13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

②『魯夷樺太島江渡来始末書』・・安政元年(1864)、カラフトに国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された幕吏間宮鉄次郎などの諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『魯夷始末書』12月学習分注記

(9-1)「ソウヤ」・・現稚内市宗谷村。西蝦夷地ソウヤ場所の内。ソウヤ場所は、松前藩により、貞享年間(16884~1688)に開設されたといわれ、運上屋が置かれ、アイヌ集落も形成され、場所運営の拠点となるほか、早くから北蝦夷地、利尻、礼文のアイヌ交易の中心地となった。場所請負人は、寛延3(1750)村山伝兵衛、以降変遷を経て、文化5(1808)柏屋(藤野)喜兵衛が請負い、その後一時共同請負になったが、文化12年(1815)には再び藤野喜兵衛が単独で請負い、以後明治2(1869)まで、藤野家が経営にあたった。

(9-1)「領主(りょうしゅ)」・・松前藩主のこと。当時の藩主は12代崇広(たかひろ)。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(9-2)「丑蔵(うしぞう」・・「丑」。くずし字用例辞典p12

(9-4)「シラタン」・・「シラヌシ」の誤りか。

(9-4)「立越(たちこえ」・・連用形。「たち」は接頭語。山や川などの障害物となるものを越えてゆくこと。出かける、出かけて行くこと。

(9-5)「申通(もうしとおし」・・連用形。伝言などを取り次いで申し上げること。取り次いで申し上げること。申し届けること。

(9-5.6)「勤番所」・・松前藩は、文化5(1822)の復領後、蝦夷地の警備と行政監督のため、勤番所を12ヶ所(東蝦夷地9~ヤムクシナイ、エトモ、ユウフツ、シャマニ、クスリ、アッケシ、子モロ、クナシリ、エトロフ、西蝦夷地2~イシカリ、ソウヤ北蝦夷地1クシュンコタン)を設けた。嘉永3(1850)時のソウヤ勤番所の体制は、物頭1、目付代1、組士2、徒士2、医師1、足軽(在住足軽で場所請負人の番人)4となっている。(『松前町史』)

(9-6)「領主役場」・・松前藩の藩政を取りおこなう場所、役所。8.29のロシア船来航の報告については、9.16に松前に届いている。

(9-6)「注進(ちゅうしん)」・・〔「注」は書くの意〕。事件の内容を書き記して急ぎ上申すること。事件を急いで報告すること。

(9-9)「エンルエーツ」・・日本名「真岡」か。エンルモコマプ、エンルコマフとも。

     樺太西海岸漁業の中心地。本島唯一の不凍港である真岡港を控える。『大日本地名辞書』には、「西の運上屋とて、総て西浦の漁業を括する所なり。支配人、番人居住し、甚手広なり。夷家も38軒あるよし。」とある。『樺太(サハリン)関係略地図および同地名対照表』(以下「樺太地名対照表」と略)NO67

(9-9)「斬(本ノママ)」・・「春漁為手当、□を伐」とする前後の文脈から、「斬」は、「薪」か。

10-2)「勘弁(かんべん)」・・考えわきまえること。熟考すること。

10-5)「倶々(ともども)」・・一緒に。つれだって。

10-6)「空嶋(からしま)」・・「空(から)」は、内部に本来ならあるべきものがないこと。何も持っていないこと。うつつ。例:「から元気」、「から威張」。

     「空嶋」は、松前藩士や場所請負人の支配人、番人が、樺太から居ない状態になること。

10-8)「乙名(おとな)」・・中世後期以降の村落においてその代表者あるいはその上層階層を呼ぶ名称(『日史大辞典』)。蝦夷地においては、「役土人」の名称の一つ。

     以下、「乙名」をはじめとする「役土人」について、『新北海道史』の記述を部分引用する。

【乙名、脇乙名(わきおとな)、小使(こづかい)】

     寛文の乱に敗北した蝦夷は、まったくその独立を失い、(略)今まで藩主と対等の地位にあった蝦夷の酋長は松前氏に服属することになった。その結果室町末期の自冶体の首脳をさして呼んだ「おとな」の名称が従属した酋長に用いられ、名主、庄屋と解されるにいたった。(略)さらに、各部落には乙名のほかに、脇乙名、小使が任命された。乙名は部落長、脇乙名はその補佐役、小使は乙名の命によって部落の者を号令するもので、これを三役と称し、部落の統治はこの三役を通じて行われたのである。(以下略。)

     【惣乙名、惣小使、】

     寛政ごろから場所ごとに惣乙名、惣小使などの役名が設けられ、蝦夷中の名望家をもってこれに充てた。惣乙名は一場所の乙名上に立つもので、普通はその地方一の家柄の者をもってこれに充て、(略)惣小使は場所のおける小使の上に立つものである。

      *参考 『日史大辞典』によると、『惣(そう)』は、中世に出現した村落共同体組織をいう。「惣」は、「揔」の異字で、音通に同じく、「聚束(あつめたばねる)」の意味をもつ。(『角川漢和中辞典』~「惣」は「揔」を誤って書き伝えた字)

     【土産取(みやげとり)】

     「年寄」といった役土人を監督する地位にあるものであり、乙名、小使などに準ずる格式で、オムシャの際などにはそれらとほぼ同様の待遇によって、土産を受けるものであった。

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記事タイトル『難船之始末』12月学習の注

*本テキストについて

 本テキストは、北海道大学附属図書館所蔵本である。(請求番号 奥平家116

 文化10(1813)10月江戸より帰航の途中伊豆沖で暴風に逢い、14ケ月の漂流ののち英国船に救助され、カムチャッカから薩摩の永寿丸の乗組員らとともにロシア船で帰国した督乗丸船頭長右衛門(重吉)と水主音吉の口書(くちがき)。本書の末尾に「文化十三子七月」とあるから、エトロフ島での口書と思われる。

◎『ふなをさ日記』によると、エトロフ上陸以来、重吉らは次のように各所で取り調べを受けている。

1.文化13(1816)79日・・エトロフ島シヒトロ番屋にて箱館奉行調役下役村上貞助の調べ。

2.同年720日より82日まで・・エトロフ島フルエベツ番屋に滞在中の調べ。

3.同年82日・・エトロフ島ヲトヒ番屋にての調べ。

4.同年819日・・クナシリ島トマリ番屋にての調べ。

5.同年919日より数日・・箱館奉行所にて調べられ、その口書は江戸へ送られる。

6.同年124日以後・・江戸霊岸島にて、箱館奉行江戸会所の役人に取り調べを受ける。

7.文化14年(18175月初旬・・名古屋城清水御門にて尾張藩の勘定奉行より取り調べを受ける。

8.その後2日間・・鳴海の代官所にての調べ。

(1)「奥平家文書」・・文政7年(1824)松前藩に仕官し、御側御用・町吟味役を歴任した元桑名藩士奥平貞守(勝馬)旧蔵の資料。

(1)「納屋町(なやまち)」・・現名古屋市中村区名駅(めいえき)五丁目・名駅南(めいえきみなみ)一丁目一帯。納屋町は、慶長15(1619)に掘削された熱田湊に通ずる堀川(下流に、熱田~桑名間の東海道の海路・七里の渡しの渡船場がある)に臨み、廻船問屋などが軒を並べて繁栄した。江戸時代には「納屋の富は名古屋の七分」と言われた。(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964)なお、「納屋町」の地名の由来については、「魚を入れておく小屋を納屋(なや)がけといい、苫葺の魚納屋で商売したところから、町号が生じた」とある。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

(1)「小嶋庄右衛門」・・「役所御用達」をつとめ、指折りの豪商。(『督乗丸の漂流』)

(1)「千弐百石積」・・120総トン見当。

(2-1)「長右衛門」・・「督乗丸の船頭は、長右衛門という人物で、重吉の叔父であると記録されている。漂流したときは、何かの都合で重吉が叔父の代わりに船頭として乗組んでいたため、帰国後の口書(調書)には、この名を使っている」(村松澄之著『船長日記 その信憑性と価値』風媒社 2013

(2-12)「生国知田郡半田村」・・重吉は三河湾に浮かぶ佐久島(現愛知県西尾市一色町佐久島)の百姓善三郎の次男として天明5(1785)に生まれた。15歳の時から船乗り生活に入り、後に知多郡半田村荒古(現愛知県半田市荒古町)の百姓庄兵衛の養子になった。

(2-1)「郡(ぐん・こおり)」・・①律令制で、一国の下の行政区画。郡司が管轄する。この下に郷、里があった。

(2-2)「門徒宗」・・浄土真宗の俗称。その信徒を門徒と呼ぶところからいう。「門徒」は、元来は仏教用語。『梵摩渝経(ぼんまゆぎょう)』その他にみられ、古代からあることば。初めは、門下、門人、門葉を意味し、末寺寺院の僧侶(そうりょ)をさす。その後、俗を含んだ同信者の集団をも門徒といい、親鸞(しんらん)の門弟の場合、地名を冠して、高田門徒、鹿島門徒などと称した。さらに下って浄土真宗では、もっぱら在俗の信者を門徒といった。檀家・檀徒を門徒と通称し、それを基盤に成り立つため、真宗を俗に門徒宗ともよんだ。

(2-34)「文化十酉年」・・1813年。

(2-5)「尾張様」・・尾張藩。尾張藩は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は619500石。文化10(1813)当時の藩主は10代徳川斉朝(なりとも)。

(2-5)「廻米(かいまい)」・・江戸時代に遠隔地へ米を廻送すること、またその米をいう。江戸幕府は、1620年(元和6)初めて江戸浅草に御米蔵を建て、翌年大坂に御蔵奉行(おくらぶぎょう)を置いて諸国の廻米を収蔵した。諸侯も、大坂、江戸などの蔵屋敷へ貢租米を廻送して、市中の米問屋を通じて換金に努めている。江戸、大坂などの中央市場へは多量の米が廻送されたが、それらは、天領などからの御城米(ごじょうまい)、藩からの蔵米(くらまい)のほか、商人が農民から貢租余剰米を買い付けた納屋米(なやまい)もあった。江戸幕府は、米の輸送の安全のために厳しい廻米仕法に努めたので、城米の品質や員数などが厳重に点検された。廻米には、海路が多く用いられたが、河川や駄馬も併用された。交通の整備とともに廻米量は増加し、市場に米の供給が過剰となった享保(171636)以降、幕府はしばしば江戸、大坂への廻米を制限して、米価の調節を図った。

(2-7)「師崎(もろざき)」・・多半島の先端に位置し、東に日間賀(ひまか)島・篠(しの)島を望む。南知多は尾張氏との関係が深く、その一族の師介が支配者となったので、この地名が生れたとも伝える。師崎には、遠見番所があり、船奉行が海上諸船の往来を管理した。

(2-8)<漢字の話>「売払」の「売」・・影印は、旧字体の「賣」。解字は「出」+「買」。「買」が、「かう」の意味に用いられたため、区別して「出」を付し、「うる」の意味を表す。常用漢字の「売」は、省略形の俗字による。

(2-9)「子浦(こうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。文化10(1813)当湊で日和待ちしたのちに出帆した督乗丸は御前崎沖で流され一七ヵ月間太平洋を漂流した後、イギリス船に助けられた。その後ロシアなどを経て文化一四年に帰国。乗組員一四名のうちに子浦出身の音吉がおり、体験を記した水主音吉救助帰国聞書(戸崎家文書)が残り、浄土宗西林寺には音吉の墓がある。

(3-1)「相繋り」・・「袋」「災」「醤」「豊」「賀」など、脚のある字は、縦長に書かれ、二字に見える場合がよくある。

(3-1)「霜月」・・陰暦十一月の異称。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語源説に、

(1)ヲシモノツキ(食物月)の略〔大言海〕。

(2)シモフリツキ(霜降月)の略〔奥義抄・名語記・和爾雅・日本釈名・万葉考

別記・紫門和語類集〕。また、シモツキ(霜月)の義〔類聚名物考・和訓栞〕。

(3)貢の新穀を収める月であるところから、シテオサメ月の略か〔兎園小説外集〕。

(4)シモグル月の義。シモグルは、ものがしおれいたむ意の古語シモゲルから

〔嚶々筆語〕。

(5)スリモミヅキ(摺籾月)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)十月を上の月と考え、それに対して下月といったものか。十は盈数なので、十一を下の一と考えたもの〔古今要覧稿〕。

(7)新陽がはじめて生ずる月であるところから、シモツキ(新陽月)の義〔和語私臆鈔〕。

(8)シモ(下)ミナ月、あるいはシモナ月の略。祭り月であるカミナ月に連続するものとしてシモナツ

キを考えたものらしい〔霜及び霜月=折口信夫〕。

がある。

(3-2)<決まり字>「夜ニ入」の「夜」・・決まり字は形で覚える。

(3-34)「暗夜(やみよ・あんや)」・・暗い夜。

(3-9)<漢字の話>「檣(ほばしら)」・・多く「帆柱」と書く。「檣」の音読みは、「ショウ」。

 *「檣灯(しょうとう)」:夜間航行中、マストの先端に掲げる白色の灯火。「赤いガラスを嵌(は)めた檣灯が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取って閃(ひらめ)いた」(有島武郎『或る女』)

 *「檣楼(しょうろう)」:艦船の帆柱の中間にある物見台。「艦内に行きかふ人の影織るが如く、檣楼に上る者、機関室に下る者、水雷室に行く者」(徳富蘆花『不如帰』)

(4-1)「七島(しちとう)」・・ここでは伊豆七島。行政上の管轄は、明治以前は伊豆国に属し、江戸時代には幕府の直轄領として韮山代官の支配下にあった。明治2年(1869)八丈島・青ヶ島は相模府に、その他は韮山県に属し、翌三年には八丈島・青ヶ島も韮山県に編入された。その後同四年足柄県、九年静岡県と移ったが、11(1878)東京府に編入され今日に至っている。

(4-2)「見え渡り」・・(1)全般にわたって見える。一面に見える。(2)一見してそれとわかる。見て推察される。

(4-4)<漢字の話>「其侭」の「侭」・・影印の「侭」は、「儘」の俗字。

(4-6)「登り船」・・異本は「戻り船」とある。

(4-9)「豆粥(まめがゆ・トウジュク)」・・大豆をまぜて炊いた粥。

 *<漢字の話>「粥」の音読みは「ジュク」「シュク」「イク」

 *「粥腫(ジュクシュ)」:皮膚に脂肪などがたまってできる腫瘤(しゅりゅう)。アテローム。

 *「粥状硬化(ジュクジョウコウカ)」:動脈硬化の代表的なもの。

(5-1)「切(きり)」・・「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言また

はそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。「…かぎり」「…だけ」の意。

(5-1)「仕廻(しまい)」・・物事が終わること。「仕舞」「終い」「了い」なども当てる。

(5-3)「永々(ながなが・えいえい・ようよう)」・・長い間。

(6-7)「島山(しまやま)」・・島の中にある山。山の形をしている島。また、川水などにかこまれて島のように見える山。

(6-7)「䑺船(ほぶね・はんせん・はしりぶね)」・・異本は「走船」とある。

(6-89)「万年暦(まんねんごよみ)」・・一年限りの用ではなく、いつの年にも通用する暦。日や方角の吉凶、男女の相性などを記した書物。

記事タイトル『魯夷始末書』11月学習の注記

(5-1)「与三右衛門」・・「門」は、『くずし字用例辞典』P1134

(5-1)「常蔵」・・「常」は、『くずし字用例辞典』P281

(5-1)「儀兵衛」・・「儀兵衛」の「衛」はP963。下記は「兵衛」の例(『古文書解読字典』より)参照。

(5-2)「豊吉(とよきち)」・・「豊」は、『くずし字用例辞典』P1023

(5-3)「居越(いこし)」・・「居越す」の連用形。いつづけること。

(5-4)「同月晦日」・・嘉永6年(1853829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイは、陸軍少佐ブッセその他の将校と共に73名を率いてクシュンコタン沖に来航。翌30日、ボート3艘に16人が分乗して沿岸一帯の測量を始めた。そのうち主だったもの数人が上陸した。

*和暦の「月」・・大の月(30日)と、小の月(29日)とがあるが、この年の8月は、大の月で、晦日の日付は、30日であった。

    *「晦日」・・「みそか」の語源説に「ミトヲカ(三十日)の転」がある。暦の月の初めから三〇番めの日。また、月の末日をいい、一二月の末日は大みそか、二九日で終わるのを九日みそかという。尽日(じんじつ)。つごもりとも。

(5-5)「異国船」・・露米会社の「ニコライ」号。「露米会社」は、極東と北アメリカでの植民地経営と毛皮交易を目的としたロシア帝国の国策会社。1799年、パーヴェル1世の勅許により、正式に「露米会社」となった。

     なお、露米会社は、「ニコライ」号の使用を認めなかったが、ネヴェルスコイはそれを無視してこの船で樺太占領の航海に向かった。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」=北海道大学スラブ研究センター刊『スラヴ研究19巻』所収 1974))

(5-5)「端船(はしぶね・はぶね)」・・伝馬船(てんません)。本船に曳航または搭載され、必要に応じて本船と陸岸との往来や荷物の積みおろしに使われる小船。艀(はしけ)・脚継船(あしつぎぶね)ともいう。近世の廻船では百石積以上になると伝馬船を搭載したが、その大きさは本船の積石数の三十分の一前後が標準で、千石積では三十石積級で全長約四十尺もあり、櫓八挺と打櫂(うちかい)・練櫂(ねりかい)をもち、帆まで装備する。空荷の時は船体中央胴の間の伝馬込(てんまこみ)に載せ、積荷のある時は船首側の合羽(かっぱ)の上に搭載した。船体は本船への上げおろし作業を考慮し、一本水押(みよし)ながら先端を上棚より突出させない形式でこれが伝馬船の特徴であった。しかし軍船の場合、大型関船でも伝馬船は搭載不可能でこれを随伴させるのを常とした。そのため通常の一本水押とするなど、廻船用の伝馬船とはやや船型を異にした。また軍船の船団行動にはこのほかにも碇の上げおろし用の碇伝馬や飲料水を積む水伝馬などを伴った。

(5-6)「頭立(かしただち)」・・「頭立つ」の連体形。「かしらに立つ」の意。人の上に立つ。長となる。また、中心になる。

(5-7)「首長ノニリスコイ」・・「ノニリスコイ」は、東シベリア総督ムラヴィヨフから指令を受けてクシュンコタン占拠を指揮したロシア海軍大佐ネヴェリスコイ。なお、ネヴェルスコイは、荷揚げを完了した96日に、ニコライ号に乗って去り、ムラビヨフ哨所には、陸軍少佐ブッセ、海軍中尉ルダノフスキーの外69人の兵士たちが残留した。(『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』、『新撰北海道史』)

(5-7)「プスセ」・・陸軍少佐ブッセ。ネヴェルスコイ退去後のムラビヨフ哨所の隊長となった。

(5-8)「次官ロタノスケ」・・ムラビヨフ哨所の副官・海軍中尉ルダノフスキー。なお、ロシア側資料では、上陸士官は、ネヴェリスコイ、ブッセ、ボシニャークで、日本側資料では、ボシニャークをルダノフシキーと取違えているが、ルダノフシキーは本船に待機していた。(秋月利幸著「嘉永年間ロシア人の久春古丹占拠」)

(5-9)「何か」・・影印の「歟」は変体仮名と見る。

(5-9)「更紗風呂敷」・・「サラサ」の語源はポルトガル語。人物、花、鳥獣、幾何学模様などをさまざまな色で手描きや型染めにした綿布。室町末期より南アジア諸国から輸入され、日本でも作られた。印花布、花布、更紗ともいう。

     また、「風呂敷」について、『守貞謾稿』には、「衣類、夜具のみにあらず、諸物ともに専ら風呂敷に包む。この風呂敷を昔は平裹(ひらづゝみ)と云ふなり。風呂敷と云ふは、浴室に方形の布を敷きて足を拭ふの料とする物故に、ふろしきと号く。また、古雅器、茶器等の商人は、鬱金(うこん)木綿と云ふて黄もめん風呂しきを用ふるもあり。皆必ず縦横同尺の方形なり。」とある。

(5-10)「仕方(しかた)」・・身ぶり、手まねをすること。しぐさ。

(6-2)「出来合(できあい)」・・前から作ってあって、まにあうこと。既製のもの。

(6-3)「乞請(きっせい・こっしょう)」・・こいねがうこと。こい求めること。

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記事タイトル『ふなをさ日記 人』11月注

(37-2)<漢字の話>「成」・・常用漢字の「成」は、「戈(ほこづくり・カのほこ・たすき)」部の2画(総画6画)だが、旧字体は7画。解字は「戊」+「丁」で。「丁」はくぎを表し、くぎづけにする・平定

するの意味。「戊」は、大きな刃のついたまさかりの意味。まさかり敵を平定するの意味から、ある事がらがなる、安定するの意味を表す。

 *「城」・・①常用漢字は、9画、旧字体は10画。旁の「成」の画数の違いによる。

②解字は、「土」+「成」で、土を盛り上げ、人を入れて安定させる、しろの意味を表す。

(37-3)「五星(ごせい)」・・中国で古代から知られている五つの惑星。歳星(木星)・ 惑(けいこく=火星)・鎮星(土星)・太白(たいはく=金星)・辰星(しんせい=水星)の総称。五緯。

(37-3)「二十八宿」・・月・太陽・春分点・冬至点などの位置を示すために黄道付近の星座を二八個定め、これを宿と呼んだもの。二八という数は月の恒星月二七・三日から考えられたといわれ、中国では蒼龍=東、玄武=北、白虎=西、朱雀=南の四宮に分け、それをさらに七分した。すなわち、東は角(すぼし)・亢(あみぼし)・ (とも)・房(そい)・心(なかご)・尾(あしたれ)・箕(み)、西は奎(とかき)・婁(たたら)・胃(えきえ)・昴(すばる)・畢(あめふり)・觜(とろき)・参(からすき)、南は井(ちちり)・鬼(たまおの)・柳(ぬりご)・星(ほとほり)・張(ちりこ)・翼(たすき)・軫(みつかけ)、北は斗(ひつき)・牛(いなみ)・女(うるき)・虚(とみて)・危(うみやめ)・室(はつい)・壁(なまめ)。

(37-3)<漢字の話>「日」・・(ジャパンナレッジ版『字通』より)太陽の形。中に小点を加えて、その実体があることを示す。三日月の形に小点を加えて、夕とするのと同じ。〔釈名、釈天〕の「日は實なり。~月は缺なり」とするのによるもので、音義説である。日と實、月と缺とは、今の音ははるかに異なるが、古音は近く、わが国の漢字音にはなおその古音が残されている。

(37-5)「日午(じつご・にちご)」・・午(うま)の刻。すなわち、午前一二時ごろ。正午。まひる。

(37-8)「七鼓(ななつ)」・・本来、古代中国の都市では鐘と鼓によって人々に時刻を知らせており、明清時代、「晨鐘暮鼓(しんしょうぼこ)」または、「朝鐘暮鼓(ちょうしょうぼこ)」といい、城池の東に鐘楼、西に鼓楼を設け、毎日、寅時(午前4時)と戌時(午後8時)に鐘を鳴らし、戌時から2時間ごとに鼓を打った。このため「一鼓・二鼓…」というように「鼓」時で夜の時間を表した

 1鼓(20時)、2鼓(22)、3鼓(24時)、4鼓(2時)、5鼓(4時)と5つの区切りになっている。

 テキストの「七鼓」は、ない。

 江戸後期の読本作者滝沢馬琴の『近世説美少年録』「七鼓(ななつ)は過ぎて明るに易き・・」とあり、

 「七鼓」を「ななつ」(午前4時)としている。テキストの「七鼓」も「ななつ」と読みたい

 なお、日本の時法について

 『日本の時刻制度』(橋本万平著 塙書房)には次のように述べられている。

 「延喜式に見られる時報の数は、後世まで襲用されているのであるが、何故にこの様に子午で九つ、丑未で八つという様な不思議な数が使用されるようになったかについては、首肯し得る説明は見つからない。次の様な説もあるが、いずれも信用できない。」 として、

 「第一は、陰陽思想から発したものである。陰陽思想では九という数字を非常に重視し、日中及び真夜中の時刻すなわち午の時と子の時には九九の、十九が九で九を打ち、以下順に申寅では三九の二十七で七つ、酉卯では四九の三十六で六つ、戌辰では五九の四十五で五つ、亥巳では六九の五十四で四つを打ったというのである。

 第二の説は、日暮れである申の時を基準として、十二支を逆に勘定し九番目に当たる子時に九つ、八番目である丑の時に八つ、以下順に七つ、八つと鳴らしていった。又他方、夜明けである寅を基準として逆算し、九番目の午の時から同様に九つ、八つと打っていったとするのである。全く荒唐無稽に近い説であるが、現在ではこれ以外の説明は見つかっていない。」

*日本の時法も古く、中国の時法の影響を受け、奈良時代の『養老令』職員令には陰陽寮に漏剋博士(ろこくのはくじ)二人が守辰丁(しゅしんちょう)を率いて漏剋(ろこく=水時計)を管理すること、守辰丁二十人は漏剋によって鐘と鼓を打って時を報じることが規定されている。

 *万葉集にも、

「時守の打ち鳴す鼓(つづみ) 数(よ)みみれば 時にはなりぬ 逢はなくもあやし」(巻11)

  とあるように、時刻は時守が打ち鳴らす鼓の数によって一同に知らされた。後世暮れ六つなどはこれによる。「数(よ)みみれば」は「数をかぞえてみると」という意味。「時守の打ち鳴らす鼓の音の数をかぞえてみると、もうやってきてもよい時刻、なのに逢いにやってこないのは怪訝」という歌である。

(38-4)「暖帯」・・地球上の、赤道から南北の回帰線までの地帯。今日の「熱帯」をいう江戸から明治初期にかけての語。

(38-4)「四時(しじ・しいじ)」・・春・夏・秋・冬の四つの季節の総称。四運。四季。よつのとき。

(38-8)「蔕(へた)」・・

 

(38-7)「瓜(うり)」・・影印は、「爪」。<「瓜(うり)」に「ヽ(ツメ)」あり、「爪(つめ)」に「ヽ(ツメ)」なし>

(38-8)<漢字の話>「蔕(へた)」・・解字は「艸」+「帯」。果実の茎につくところに帯状につく「へた」の意味を表す。語源説に、「ヘタ(端)の義、またハタ(端)の転」がある。

(39-2)「正帯(せいたい)」・・温帯。江戸時代に使われた語。

(39-2)「七鼓半時(ななつはんどき)」・・中古から近世にかけての時刻の呼び方で、午前または午後の五時頃。

(39-3)<文法の話>「見(み)へ」・・下二動詞「見ゆ」の連用形は、「見え」。「見へ」は、文法的には間違い。もし、「見へ」なら、終止形は「見ふ」だが、そういう用法はない。「え」も「へ」も「エ」と発音するので、誤用されることがままある。

 *ヤ行下二動詞「見ゆ」の活用

見え(未然)・見え(連用)・見ゆ(終止)・見ゆる(連体)・見ゆれ(已然)・見えよ(命令)

*ほかにも、ヤ行下二動詞の未然形・連用形が誤って用いられる場合がある。

 ・「消(き)ゆ」・・未然形・連用形は本来「消え」。「消へ」と誤用される。

 ・「聞(き)こゆ」・・未然形・連用形は本来「聞こえ」。「聞こへ」と誤用される。

 ・「越(こ)ゆ」・・未然形・連用形は本来「越え」。「越へ」と誤用される。

 ・「絶(た)ゆ」・・未然形・連用形は本来「絶え」。「絶へ」と誤用される。

 ・「覚(おぼ)ゆ」・・未然形・連用形は本来「覚え」。「覚へ」と誤用される。

*また、ワ行下二動詞も同様に、誤用される場合がある。

 ・「植(う)う」・・未然形・連用形は本来「植え」。「植へ」と誤用される。

 ・「飢(う)う」・・未然形・連用形は本来「飢え」。「飢へ」と誤用される。

 ・「据(す)う」・・未然形・連用形は本来「植え」。「植へ」と誤用される。

*下二動詞の未然・連用形が誤用される理由・・ハ行の動詞の数が多いため、「え」と「へ」のように、発音が同じものを書き分けることが完全にはできなくなった。

(39-3)<仮名遣いの話>「ゆへ」・・歴史的仮名遣いは「ゆゑ」。「ゆへ」は誤用。

(39-4)「夜国(やこく)」・・一年の大半は夜ばかり続き日光を見ない、地球の南北両極に近い国。

(39-5)「正帯(せいたい)」・・「おんたい(温帯)」に同じ。江戸時代に使われた語

(39-89)「極星(きょくせい)」・・天球の北極に最も近い恒星。北極星のこと。

(40-5)「大尾(たいび)」・・まったくの終わり。おしまい。最後。終局

記事タイトル『始末書』10月学習の注記

【魯夷唐太嶋渡来の年代経過 ― 『新北海道史年表』より

<嘉永5年(1852)>

 ~ロシアの海軍大佐ネヴェリスコイ、ボスニャック海軍大尉に樺太探検を命じる。

<嘉永6年(1853)>

 7.18 ロシア使節プチャーチン、4隻の軍艦を率いて長崎に来航。

8.19 長崎奉行に国書を手交して、国交およびカラフト・千島の境界画定を要求。

 8.29 ロシア海軍大佐ネヴェリスコイ、カラフトの占領の命を受けて、陸軍少佐ブッセそ

の他の将校とともに陸戦隊73人を率い、露米会社の汽船ニコライ号にて樺太久

春古丹(クシュンコタン)に来航。

 9.1 上陸を開始し、屋舎、物見櫓、穴蔵をつくり、柵をめぐらした陣営(ムラビヨフ哨

所)を築く。

 9.16 樺太へ異国船来航の報が松前に届き、9.17に一番隊、9.18に二番隊を派遣。

幕府へも報告。(10.10二番隊マシケに到着、そのまま越年。)

 10.10 プチャーチン、老中に交渉開始の督促状をおくり、千島・カラフトの所属を問い、

蝦夷島に1か所開港を要求。(10.23 長崎を一旦退去) 

12.5 プチャーチンの率いる軍艦、長崎に再来航。

12.14 幕府応接掛、プチャーチンと会見。12.20より国境と和親通商について交渉開始。

*幕府応接掛の対応

・エトロフ島につては、「蝦夷ハ日本所属の人民なれハ、あいの居候処は日本領ニ候」と日本領を主張。

・カラフトについては、半分に分割もありうるが自分らでは決定しがたいと主張。

12.26 境界画定のため、日本の役人カラフトに派遣し見分することを提案。

12.28 ロシア使節より、樺太見分のために派遣する日本の幕吏に無礼のないようにとの

カラフトのロシア守備兵宛紹介状を受け取る。

<安政元年(1854) 11.27嘉永から安政へ改元>

 1.2 ロシア使節、日本領の境界をエトロフ島とカラフト南端アニワ港に限ると主張。

 1.3 幕府応接掛、エトロフ島は日本領、樺太島は、調査の上決定すると主張。

 1.8 ロシア使節、長崎出帆(上海へ)。

 2.8 目付堀利煕、勘定吟味役村垣範正、松前蝦夷地出張を命ぜられる。

 3.23 プチャーチン、長崎に来航。

3.28長崎奉行に本年6月樺太アニワ港において境界交渉を行う旨の覚書を送る。

3.29長崎退去。

 3.26 松前藩の樺太警備一番隊、樺太リヤトマリに着岸。

3.28取調べの家来、クシュンコタンに到着。

4.1クシュンコタンのロシア陣営を視察。

4.9二番隊シラヌシに到着。

 5.17 ロシア船将ポシェットら、クシュンコタン滞船のディアナ号で、松前藩の同地勤務物頭三輪持らと会見。ポシェットより幕府の露使応接掛宛書簡(アニワ湾での日露の境界画定交渉の中止と樺太のロシア兵を退去させる旨)などを受け取る。

5.18 ロシア船4隻は、滞留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去る。

   (『日露関係とサハリン島(秋月俊幸著)』によると、ロシア兵の撤退は、クリミヤ戦争(1853~1856年、ロシア対トルコ・英仏連合)開戦の報が届いており、英仏艦隊によるムラヴィヨフ哨所の攻撃を避けるためであったとする。)

5.28 掘、宗谷に到着(村垣は6.2到着)。ロシア人の久春古丹退去の報を受け、幕府にその状況を報告。

6.12 掘、村垣ら、北蝦夷地久春古丹に渡航。ロシア陣営を視察。それより北に進み、西はライチシカ、東はオハコタンに至る。

   (普請役間宮鉄次郎、御小人目付松岡徳次郎は東海岸タライカまで、支配勘定上川伝一郎は西海岸ホロコタン、さらに松前藩士今井八九郎はナツコまで調査。)

(1-5)「魯夷」・・ロシア(魯西亜)人に対する蔑称。「夷」は、未開の国、未開人、特に東方のえびすの意。中国人が周辺に住む異民族に対して用いた呼称に「東夷、北狄、西戎、南蛮」がある。

(1-5)「始末書」・・『大辞林』では、事故を起こした者が、その報告や謝罪のために、その間の事情を記して提出する文書とあるが、本書の始末書は、謝罪とは関係がなく、単に、事故が起こったとき、その始末(顛末)を書いて、目上の人や当局に差し出す文書の意(『角川漢和中辞典』)。

(1-6)「クシュンコタン」・・久春古丹、楠渓とも。日本領時代は「大泊」。「クシュンコタンは、宝暦(1850年代)以来、邦人の魚場を開ける処にして、松前氏出張番屋を置きし地なり。明治政府、樺太開拓使を置き、其使廳を此に定めしも政治の着手に由なし。征露戦役後、明治39(1906)まで民政署を置き、民政署を廃するに及び支廳を置き、南部の治所とす。」(『大日本地名辞書(吉田東伍著)』)

(1-6)「退帆(たいはん・たいほ)」・・船が帆をあげて帰途につくこと。たいほ。

(1-7)「御勘定評定所留役水野正左衛門」・・評定所では、寺社、町(江戸)、勘定の三奉行が、相互にまたがる事件を集会して裁判したり、国家の重大事件を裁いた。留役勘定(22人、単に「留役」とも)は、留役勘定組頭(1人)の次席で、常に評定所の立会いに列座。多忙な職務で、この職から奉行職に出世した者は幾人もいる。『柳営補任(幕臣の役職者名簿)』によれば、水野正左衛門は、嘉永7(1854)725日御勘定評定所留役より、箱館奉行支配組頭に任ぜられ、同年11月箱館に於いて死亡とある。しかし、『村垣淡路守公務日記』には、同年閏717日卒中のため、クスリ(釧路)で死亡したとある。

(1-7)「支配勘定出役矢口請三郎」・・支配勘定御勘定所の役職の一つである支配勘定(勘定の次席で、役高は100俵、御目見以下譜代席)でいながら、他の職を兼ねたものを支配勘定出役(しゅつやく・でやく)という。(笹間良彦著『江戸幕府役職集成』)

     矢口請三郎は不詳。

(1-8)「御徒目付河津三郎太郎」・・徒目付は、目付の命令によって、探偵をし、城内の宿直、大名登城の時の玄関の取締り、評定所、伝奏屋敷、紅葉山、牢獄への出役を行い、また、目付の命令によって文案の起草、旧規の調査などを行った。1005人扶持、御譜代席。人数は、50人位、ほかに西の丸にも245人位。

     河津三郎太郎は、『柳営補任』によれば、嘉永7(1854)728日箱館奉行支配調役、同年1227日同支配組頭に任ぜられている。のち、長崎奉行、外国事務総裁、更に明治元年(1868)229日若年寄に任ぜられ、幕末を迎えている。

(1-9)「御勘定奉行」・・その職は、諸国の代官を管掌し、収税、金穀などの出納と幕府領内の人民に関する訴訟を扱った。勝手方公事方があり、勝手方は、収税、金穀の出納、禄米の支給、貨幣の鋳造から河川橋梁の普請、幕府の一切の出入費について取扱い、公事方は、天領(幕府の領地)の訴訟を取扱った。幕府の財政を掌る所に老中の所掌である勘定所があり、この勘定所を直接支配するのが、御勘定奉行勝手方である。定員は4名で、勝手方2名、公事方2名。1年で交替しあう。

(1-9)「御目付」・・その職は、旗本を監察糾弾する役で、御目見以下を監察糾弾する徒目付、小人目付を支配している。定員は、享保(1720~30)頃から10名。職域は広く、礼式、規則の監察用部屋から廻ってくる願書、伺書、建議書の意見具申を将軍や老中に申し立てられる。また、殿中を巡視して諸役の勤怠を見廻り、評定所裁判にも陪席し、御台所見廻り、御勝手向、上水、道方などの廻りの分担もあった。1000石高。ここでは、堀を指すか。

(1-9)「吟味役」・・「御勘定吟味役」か。ここでは、村垣を指すか。その職は、勘定所の目付であり、御勘定奉行の相談役。勘定所関係の事務一切の検査をする役であり、非違があれば、老中に具申する権限を持ち、奉行が支配下の役人を転免させる折は連署をする。幕府で臨時出費として巨額を要する時は、その御掛となった。

     100300俵位の家禄の者(勘定組頭、評定所留役、代官など)から抜擢され、御勘定奉行、遠国奉行、二の丸留守居役へ昇進をする。定員は、当初4名、のち6名。役高は500石、御役料は300俵。部下に、吟味方改役、吟味改役、吟味下役がいる。

(1-9)「出帆懸(しゅっぱんがけ)」・・出帆の際。「懸け」は、その動作が起ころうとする直前の状態であることを表わす。「死にかけ」「つぶれかけ」。

(1-10)「差向」・・今のところ、目下、さしあたり。

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『ふなをさ日記 人』10月注(2)

(32右下)「シイリ」・・チリ。

(32右下)「カロ」・・

(32右下)「テルラゲルニヤ」・・アルゼンチンか。

(32右下)「テルレデヘウ」・・ティラデルフエゴ。現アルゼンチンの州。アルゼンチン本土とはマゼラン海峡によって隔てられている。

(32右下)「長人国」・・*談義本・成仙玉一口玄談〔1785〕一・箒良到伯西児(ブラジル)之談「此国の人長壱丈あるを以て、世に是国を長人国と称(なづ)けたり」

(32右下)「銀河」・・ラプラタ川か。

(33)「北極」のうち

(33右上)「モンカリヤ」・・

(33左上)「スーヱイデン」・・スエーデン。

(33左上)「ノーハウヱントイン」・・ノルウエー。

(33左上)「大北洋」・・ノルウエー海か。

(33左上)「クルウンラント」・・グリーンランド。

(33)「正帯」(北)のうち

(33右上)「テルアラコンハキイ」・・

(33右上)「カムサスカ」・・カムチャッカ。

(33右上)「ヲロシヤ」・・オロシャ。

(33右上)「八丈」「四国」「九刕(州)」「琉球」

(33右上)「大寃(たいえん)」・・台湾。

 *増補華夷通商考〔1708〕三「白砂糖〈略〉木綿 西瓜 薬種少々 鳥獣 米 南瓜 ボウブラ 右の類唐船に積来る也。是を大寃船(タイワンフネ)と云」

(33右上)「ヱゾ」・・蝦夷

(33右上)「カラフト」・・樺太

(33右上)「サド」・・佐渡

(33右上)「オキ」・・隠岐

(33右上)「イキ」・・壱岐

(33右上)「ツシマ」・・対馬。

(33右上)「カイ子ニ」・・

(33右上)「ニヒヤ」・・

(33右上)「女直」・・「女真」。中国、東北地方東部に居住し、粛慎・勿吉・靺鞨などと呼ばれてきたトゥングース系民族の遼・宋以後の名称。女直ともいう。

(33右上)「朝鮮」・・「女直」の右下にある。

(33右上)「ヲランカイ」・・渤海か。

(33右上)「ヒヤンス」・・ツングースか。

(33右上)「カイマキタ」・・

(33右上)「大韃靼」・・タタール。

(33右上)「チンケシキ」・・キルギスか。

(33右上)「シビリヤ」・・シベリヤ。

(33右上)「カルムキ」・・ウルムチか。

(33右上)「トルケクダニヤ」・・トルキスタンか。

(33右上)「カタイ」・・

(33右上)「大流沙」・・ゴビ砂漠か。

(33右上)「コンロン」・・崑崙。

(33右上)「莫卧尓」・・モゴル。ムガール。モンゴル(蒙古)とインドムガール帝国の混同が見られる。

(33右上)「大清(だいしん)」・・清、清朝、大清国、大清帝国ともいい、1636年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝。

(33右上)「大清」内の都市名・・「北京」「山東」「福建」「南京」「広東」「雲南」「四川」「寵門」

(33右上)「東天竺」「北天竺」「西天竺」「中天竺」「南天竺」・・「天竺」は、中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。

(33右上)「夏至昼長線」・・北回帰線のこと。夏至線ともいう。「回帰線」は、地球の北緯および南緯約2326分の等緯度線のこと。それぞれ北回帰線、南回帰線という。また地球から見て太陽が夏至のころにかに座に入り、冬至のころにやぎ座に入るので、それぞれ夏至線、冬至線、あるいは、かに座の回帰線、やぎ座の回帰線ともいう。太陽が春分点から次の春分点まで戻る時間を1回帰年(または太陽年)とよぶが、この1年間に太陽は赤道―北回帰線―赤道―南回帰線―赤道の順に動き、このことから回帰線の名が生まれた。

(33左上)「モスコビイ」・・モスクワ。

(33左上)「リユスランド」・・

(33左上)「ヘルシマ」・・ペルシャか。

(33左上)「大夏」・・バルクを中心とする北アフガニスタンの、中国での呼称。漢代のバクトリア王国にあたるとされるが、紀元前二世紀、この国を滅ぼしたトハラの音訳ともいわれる。

(33左上)「ヲルカリヤ」・・ブルガリヤ。

(33左上) 「北高海」・・カスピ海。ロシア南部からイラン北部にひろがる世界最大の湖。塩湖。

  *管蠡秘言〔1777〕「海泉川湖〈略〉亜細亜の西辺に北高海と称するものあり。実は海にあらず、大湖なり」

(33左上)「太海」・・位置からエーゲ海と黒海か。

(33左上)「キリイケニ」・・ギリシャか。

(33左上)「ヲンカリヤ」・・ブルガリヤか。

(33左上)「ナトリヤ」・・アナトリア。小アジアの異称。アジアの西端にあり、トルコの大半部を占める、地中海と黒海に挟まれた半島。

(33左上)「ジユデヤ」・・シリア。

(33左上)「天堂国」・・位置からイラクか。

(33左上)「アラビヤ」・・アラビア

(33左上)「ホフレン」・・ルーマニアか。

(33左上) 「小ダッタン」・・ウクライナか。

(33左上)「フンカリヤ」・・ブルガリヤ。

(33左上)「イタリヤ」・・イタリア。

(33左上)「トイツランド」・・ドイツ。

(33左上)「紅毛」・・オランダ。

(33左上)「北海」・・北海。

(33左上)「スニツランド」・・スコットランド。

(33左上)「ヱイスランド」・・アイスランド。

(33左上)「イルランド」・・アイルランド。

(33左上)「フランス」・・フランス。

(33左上)「イスハニヤ」・・イスパニア(スペイン)。

(33左上)「ホルトカル」・・ポルトガル。

(33左上)「地中海」・・地中海。原意は「まわりを陸地で囲まれ、海峡により他の海域に連なる海。」ここでは、ユーラシア・アフリカの二大陸に囲まれ、西はジブラルタル海峡により大西洋に通じる海域。大西洋の付属海で、ボスポラス海峡以北は黒海と呼ばれる。東はスエズ運河により紅海・インド洋に通じる。

(33左上)「西紅海」・・紅海。カルフォルニヤ湾を「東紅海」とするのに対していうか。

(33左上)「ヱシツト」・・エジプト。

(33左上)「ハルハリヤ」・・リビアか。

(33左上)「サカラ」・・サハラか。

(33左上)「ヒルトルゲリツト」・・位置的に、アルジェリアか。

(33)「暖帯」のうち

(33右中)「ヲガシマ」・・小笠原諸島。

(33右中)「呂宋」・・ルソン。フィリピンの古称。

(33)「澎湖(ほうこ)三十六湖」・・「澎湖諸島」は、台湾の西方海上50キロ、台湾海峡中にある群島。中国では澎湖列島という。欧名ペスカドールは漁人諸島の意。六十四の島々からなる。

(33右中)「ホル子ヲ」・・ボルネオ。マレー諸島の中央部にある世界第三の大島。北西部のマレーシア領サバ・サラワク両州およびブルネイ‐ダルサラーム国を除いて約四分の三はインドネシア領のカリマンタン州。赤道直下にあり高温多湿で大半は密林におおわれている。

(33右中)「安南」・・ベトナム中部地方。また、この地に建てられたベトナム人国家の称。唐代に安南都護府が置かれて以来の呼称。

(33右中)「南蛮(なんばん)」・・戦国時代以後わが国で、ルソンやジャワなどの東南アジア方面をさして用いた呼称。また、東南アジアに植民地をもつポルトガル・スペインをさし、オランダ・イギリスなどと区別して用いた呼称。

(33右中)「チヤンハン」・・

(33右中)「カボチヤ」・・カンボジア。

(33右中)「マラツカ」・・マラッカ。マレー半島の先端。

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記事タイトル『ふなをさ日記 人』10月注(1)

(26)「腹ゴモリ」・・胎内にいたこども。

(26)「皃(かお)」・・「貌」の異体字。

(26)「古渡(こわたり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(26)「色取(いろどり)」・・古く外国から渡ってきた品物。特に、室町時代またはそれ以前に渡来した織物、薬品、陶磁器などの称。良質、高貴として珍重された。

(27)「水豹(すいひょう)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(27)「コハゼ」・・小鉤・鞐。真鍮、角、象牙などでつくった爪形のもの。書物の帙(ちつ)、足袋、脚絆、合羽などの合わせめの端につけて、「こはぜかけ」にかけて合わせとめる。

 <漢字の話>「鞐(こはぜ)」・・国字。

(29)「弥帆(やほ)」・・(「や」は重なる意)和船の船首に展張する小型の補助帆。本帆に対して重ねてかけるところからいい、また、八重帆ともいう。江戸時代の千石積荷船の場合、その面積は本帆の一割以下で帆走力の増加は期待できず、装備はしても実際にはあまり使用されなかった。

(29)「タツル」・・建てる。タ行下二段活用他動詞「建(た)つ」の連体形「建(た)つる。

(30)「石碑」・・重吉が建立した供養碑の変遷を略記する。(村松澄之著『「船長日記」その信憑性と価値』風媒体社 2013 参照 以下『村松本』)

 ・文政5(1822)頃 笠寺(現名古屋市南区笠寺町)に建立(川合彦充著『督乗丸の漂流』筑摩書房 1964 以下『川合本』) 

 ・天保11(1840)から嘉永6(1853)までの間、成福寺(じょうふくじ 現名古屋市熱田区)に移転

  なお、『村松本』は、安政元年の大地震で笠寺の石碑は転倒、放置され、それ以後、成福寺の帰山和尚が移転したとする。

 *碑の台石は、督乗丸をイメージした船の形で、その上に円形の塔がある。

(30)「徳本(とくほん)」・・江戸時代中期の浄土宗の僧。紀伊国日高郡の人。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。宝暦8年(1758)生まれる。天明4年(17846月出家。諸所に草庵を結び、木食草衣、長髪で高声念仏、苦修練行すること多年、わずかに『阿弥陀経』の句読しか習わず、宗義を学ばずして、おのずから念仏の教えの要諦を得たという。教化の足跡は紀伊はもとより、河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など広域に及んでいる。享和3年(180311月京都鹿ヶ谷法然院で長髪長爪の異相を改め、翌月江戸小石川伝通院智厳について宗戒両脈を相承した。文化11年(181410月小石川に一行院が再興されるや、推されて中興開山となった。文政元年(1818106日没。六十一歳。一行院に葬られる。庶民教化者らしく道歌、説法聞書、請待記録、伝記などが多く伝わり、特異な筆跡を刻んだ名号碑が各地に建立されている。戸松啓真他編『徳本行者全集』がある。

(30)「徳本筆(とくほんひつ)」・・徳本の書いたもの。「徳本文字」といわれ、各地に徳本の書いた「南無阿弥陀仏」の六字名号碑や掛軸が残っている。

(30)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」・・梵語namo amitabhaya buddhaya の音訳で、「帰命無量光覚」と訳す。仏語。阿彌陀仏に帰依することを表わすことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。

(30)台座・・死亡年月日、名前が彫られている。

(30)「矢場(やば)」・・矢場町(やばちょう)。現名古屋市中区大須三丁目・栄三丁目。町号の由来は寛文8年(1668)三輪神社の境内に弓矢場が作られたためとされる。

(30)「半田村(はんだむら)」・・現愛知県半田市の内。北は英比(あぐい・阿久比)川を挟んで乙川村に、次いで岩滑(やなべ)村に接し、南は成岩(ならわ)村に接する。英比川と船江川の河口に挟まれた所で南は海に面している。

(30)「伊豆子浦(いずこうら)」・・現静岡県南伊豆町子浦。妻良(めら)村の北、駿河湾に臨み妻良湊の北側に位置する。妻良からの道は険しく「妻良の七坂、子浦の八坂」といわれ、渡船で往来することも多かった。

(30)「乙川村(おつかわむら)」・・現愛知県半田市の内。北部は丘陵部で南部は海に面し、東は亀崎かめざき村、南は英比あぐい(阿久比)川を境に半田はんだ村に接する

(30)「伊豆柿崎(いずかきざき」・・現静岡県下田市柿崎。下田町の東、南に突き出した須崎半島付根に位置する。枝郷として北に外浦がある。

(30)「田子(たご)」・・現]西伊豆町田子。駿河湾に面し、東には天城山系の山を負う。農耕地区の大田子(おおたご)と漁業に適した井田子(いたご)からなる。

(30)「亀崎(かめざき)」・・北側で有脇村に接するが、北から東南にかけて海に面し、西は乙川村に接する。海沿いの急斜面に集落を形成する漁村であり港町の様相を示している。

(31)漢文の体裁

 ①原文・・白文                    子曰学而時習之

 ②~1訓読文1・・原文+句読点+返り点        子曰ク、学而時習之、

 ②~2訓読文2・・原文+句読点+返り点+送り仮名   

                            子曰ク、学テ而時ニ習ウ之ヲ、

 ③書き下し文・・                   ()(いは)く、(まなび)(とき)(これ)(なら)う、

(31-4)「喎蘭新訳地球全図(オランダしんやくちきゅうぜんず)」・・いわゆるマテオ・リッチ系地図。寛政8年(1896)に日本で刊行された世界地図で、東西が二つの半球で描かれている。未だオーストラリア大陸の東側が不分明であった時代の世界地図が基となっている。地誌的な記述をまわりに配し、これ1枚で多くの地理情報を得ることができる。50×90cmくらいの一枚図で、東西両半球図のまわりにヨーロッパ・北アメリカなどの地誌が細かく書き込まれたもの。作者の橋本宗吉は幼名を直政、大槻玄沢に学び、大阪蘭学の基礎を築いた人物。 

*マテオ・リッチ系地図・・イエズス会士マテオ・リッチ(1552-1610)が中国での普及活動の一助として「坤興万国全図」を出版したのは、1602年のこと。それから50年後の1652年、この「坤興万国全図」をもとにしたと思われる「万国総図」が、わが国で出されている。「万国総図」は作者不詳だが、これが西洋知識に基づいて作られたわが国最初の世界地図で、マテオ・リッチ系地図と呼ばれる。そして1708年、この「万国総図」をもとにして当時の地図製作の第一人者である石川流宣が「万国総界図」を発表し、さらに1788(天明8)に至り、石川流宣の流れを継いだ長久保赤水が「地球万国山海興地全図説」を発表しました。赤水は原目貞清の「興地図」(1720)とこのマテオ・リッチ系世界地図を参考にしたといわれている。「喎蘭新訳地球全図」、1796(寛政8)の発表で製作者は大阪の医師橋本伯敏(橋本宗吉)、校閲は長久保赤水。赤水は1788(天明8)発表の「地球万国山海興地全図説」の前に「改正地球万国全図」(1785年・天明5) も刊行しており、橋本伯敏が世界地図を発表したときにはすでに世界地図製作の権威の一人になっていた。その赤水の校閲を得るということは、いわば「喎蘭新訳地球全図」は、当代第一人者のお墨付きを得た「最新の地図」ということになる。

(この項ウェブサイト「いるか書房別館」を参照)

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9月『秘書注』

(72-1)「気随(きずい)」・・自分の気持、気分のままにふるまうこと。また、そのさま。気まま。

(71-5)<決まり字>「寒気」の「寒」のくずし字・・冠部分が「う」、脚部分が「を」のようになる。

(71-5)「広野(こうや)」・・ひろびろとした野原。テキスト影印は「広」の旧字体の「廣」。

 「広野」と言う場合、「曠野」を使うことが多い。

(72-10)「江ナカイ」・・テキスト影印は、「ヲロツコ人共江」と、「江」に見えるが、「江」は、「ト」で、「トナカイ」か。

(72-10)「手染」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は。「染」を「馴」とし、「手馴」としている。

(73-5)「欠隔(かけへだて)」・・ここは、「かけへだて」で、「欠」は、「懸(かけ)」の当て字か。

(73-6)「自儘(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手

(73-7)「当年(とうねん・ことし)」・・ことし。今年。本年。

(73-10)「承引(しょういん)」・・承知して引き受けること。承知すること。承諾すること。聞き入れること。

(73-11)「致来(いたしきたり)」・・してきたこと。伝えてきたこと。しきたり。

 

 

(74-3)<見せ消ち>「当人」→「番人」・・「当」の左に、見せ消ち記号の「ヒ」があり、右に「番」と訂正している。

(74-3) <決まり字>「任置(まかせおき)」の「任」・・旁の「壬」が、「己」のようになる。

 (74-3)「所業(しょぎょう・しょごう・しわざ)」・・行なう事柄。多く、好ましくない行為にいう。しわざ。

(74-4)「気請(きうけ・きしょう)」・・「請」は、「受」の当て字なら、「気受(きうけ)」、「性」の当て字なら「気性」。意味は「気質。気だて」。

(74-5)「コタンケシ」・・カラフト東海岸のタライカ湾西部の地名。日本名「古丹岸」「古丹消」

(74-7)「ニイトイ川」・・日本名新問川。『樺太の地名』(葛西猛千代他共著 第一書房 1930)に「新問川はエストル山の北方、西樺太山中に発し南東より湾曲して、ノテト岬の南方より湾に注ぐ、長さ二十里、南は知取(シリトル)、北は内路に接す」とある。

(75-3)「麁絵図(そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。

 <漢字の話>「麁」・・「麤」の俗字。「麤」は、あらい、そまつの意味。解字は「鹿」+「鹿」+「鹿」で、しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる、あらいの意味を表す。なお、「群」の部首も「羊」で、むらがるひつじの意味をあらわす。

(75-5)「寅八月」・・嘉永7年(=安政元年)1854年。

(75-6)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(75-7)「松岡徳次郎」・・松岡徳次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣の蝦夷地巡見に随行し、間宮鉄次郎と共に、北蝦夷地(カラフト)の東海岸を見分。のち、安政元年(1854)閏七月箱館奉行所調役下役、同3年(1856)同支配勘定格、文久3年(1663)同調役並、慶応2年(1866)同調役に進んだ。(『江戸幕臣人名事典(新人物往来社)』、『慶応二年履歴短冊(道立文書館蔵)』)

記事タイトル『ふなをさ日記 人』9月注 

【北海道立文書館所蔵のふなをさ日記の書誌】

「ふなをさ日記」は、北海道立文書館所蔵図書である(旧記1316)。その書誌(書物の外観・材質・内容成立上特徴を記述したもの。書史)に触れる。表紙の「ふなをさ日記」の下に丸に星印があり、星の中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印である。

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、同年55日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42111日午後6時過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「ふなをさ日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳である。

(表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。「簽」は、竹で作ったので竹部。

 <漢字の話1>古く竹で作った文具・書を表す漢字・・①「符(ふ)」・・両片を合わせて証拠とする竹製のわりふの意味を表す。②筆、③箋(せん)・・戔は薄いの意。うすくひらたい竹・ふだの意。④篇、⑤簡(かん)・・竹をけずり編んで文字を書くふだ。⑥「簿(ぼ)」・・竹を薄くけずったちょうめんの意味を表す。

 <漢字の話2>竹部の漢字・・①「第(だい)」・・順序よく連ねた竹簡の意味から、一般に、順序の意味を表す。②答(トウ。こたえ)・・竹ふだが合うさまから、こたえるの意味を表す。③「等(トウ。ひとしい)」・・「竹+寺」。竹は竹簡(書類)、脚の「寺」は役所の意味。役人が書籍を整理するの意味からひとしい。④「算(さん)」・・「竹+具」。数をかぞえる竹の棒をかぞえるの意味を表す。

(表紙)「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

 <漢字の話>①「旧」の部首は、多くの漢和辞典では「日」。「舊」の略字として用いられてきたが昭和21年の当用漢字制定当初に「舊」の新字体として選ばれた。

②「舊」の部首は「臼」。

③部首に「隹(ふるとり)」がある。「雀」「雁」「雛」などを含む。この部首を「ふるとり」と呼ぶのは、「舊」に字にもちいられているため。しかし、「舊」は「隹」部ではない。

(表紙)「ふなをさ」・・船頭。現在は「船長(せんちょう)」が一般的に用いられる。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は、仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を、歴史的仮名遣いで「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻緒(はなを)、甥(をひ)、終(を)へる、雄々(をを)しい、丘(をか)、岡(をか)、可笑(をか)しい、犯(をか)す、拝(をが)む、桶(をけ)、長(をさ)、幼い(をさ)ない、収(をさ)める、叔父(をじ)、伯父(をぢ)、惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(をっと)、男(をとこ)、一昨日(をととひ)、少女(をとめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、折(を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・青(あを)、功(いさを)、魚(うを)、香(かをり)、鰹(かつを)、竿(さを)、栞(しをり)、萎(しを)れる、十(とを)、益荒男(ますらを)、澪(みを)、操(みさを)、夫婦(めをと)など。

 *<「を」>・・いろは順では第十二位で、定家かなづかいの流では、「端のを」と呼んでいる。一方「お」は、いろは順では第二十七位で、「奥のお」と呼んでいる。

<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。

 *<変体仮名の固有名詞を、漢字として扱っている例>「さうせいはし」を「左宇勢以橋」としている。

(表紙)「人(じん)」・・日本の古典籍(こてんせき)、和古書(わこしょ)、和本(わほん)の冊数の数え方の三番目の冊。各冊(巻)に「第一、二 …」などと数字の呼称が与えられている場合が多い。数字以外では通常、「乾・坤(けん・こん)」、「上・中・下(じょう・ちゅう・げ)」、「天・地・人(てん・ち・じん)」、「序・破・急(じょ・は・きゅう)」などが用いられる。

また、「元・亨・利・貞(げん・こう・り・てい)」、「仁・義・礼・智・信(じん・ぎ・れい・ち・しん)」などといった呼称が用いられる。

(1) (表紙)「ふなをさ」・・船頭。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

<漢字の話>「遠」・・「エン」は漢音、「オン」は呉音。変体仮名「遠(を)」の「を」は、呉音から発生した。呉音の例として「遠流(おんる)」「久遠(くおん)」などがある。

<変体仮名>「遠(を)」・・「を」は仮名文字発明当時、「ウォ」のような発音だった。だから、現在の発音の語頭の「オ」を「を」と書かれたものがある。

*語頭が「を」の例・・尾(を)張、鼻緒(はなを)、甥(をひ)、終(を)へる、雄々(をを)しい、丘(をか)、岡(をか)、可笑(をか)しい、犯(をか)す、拝(をが)む、桶(をけ)、長(をさ)、幼い(をさ)ない、収(をさ)める、叔父(をじ)、伯父(をぢ)惜(を)しい、教(をし)へる、牡(をす)、夫(えおっと)、男(をとこ)、一昨日(をととひ)、少女(をとめ)、囮(をとり)、踊(をど)る、斧(をの)、檻(をり)、折(を)る、居(を)る、終(を)はる、女(をんな)など。

*語頭以外で「を」の例・・青(あを)、功(いさを)、魚(うを)、香(かをり)、鰹(かつを)、竿(さを)、栞(しをり)、萎(しを)れる、十(とを)、益荒男(ますらを)、澪(みを)、操(みさを)、夫婦(めをと)など。

 *<重たい「を」>・・ワ行の「を」を、関東など、「重たい『を』」と呼ぶ地方がある。

*<無線局運用規則別表第5号和文通話表(昭和251130日公布)>・・音声通信で通信文の聞き間違いを防ぐために(「オ」と「ヲ」を区別するために)、「大阪の『オ』」「尾張の『ヲ』」と呼ぶことが決められている。ちなみに「ヰ」は、「ゐどのヰ」、「ヱ」は、「かぎのあるヱ」。

 <転音>「船長(ふなをさ)」・・「船(ふね)」が「ふな」と発音することを「転音」という。「船底(ふなぞこ)」「船便(ふなびん)」など。日本語では主として、複合語をつくる際の、前の部分の語末におこる母音の転換をいう。酒(さけ)→酒樽(さかだる)、酒屋(さかや)のたぐい。

(2)「器財(きざい)」・・うつわ。道具。また、家財道具。器材。

(3)「鯱(しゃち・しゃちほこ)」・・国字。

 <漢字の話>「鯱」一字で、「じゅちほこ」と読むことがある。「金の鯱(しゃちほこ)」。なお、「鯱」を「コ」と読んで「金鯱(キンコ)」と読むことがあるが、「コ」は音読みではない。

(3)「六寸五寸」・・「五寸」は「五分」の誤りか。

(4)「一角(いっかく)」・・イッカク科の哺乳類。イルカに類似し、体長約五メートル。

(4)「牛酪(ぎゅうらく)」・・牛乳の脂肪質を固めたもの。バター。

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古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。
参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は、資料代600円をお願いします。おいで下さる方は、資料を準備する関係がありますので、事前に事務局(森)まで連絡下さい。

◎日時:2015914日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp 


8月学習『秘書注』 

(68-1)(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。(まま)」・・そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

(68-3)「穴居(けっきょ)」・・原始あるいは古代社会において、自然の洞穴や、竪穴をうがちその上に簡単な覆屋を設けて住む風習があり、これに対して用いられた呼称である。

(68-4)「木陰(こかげ)」・・木のかげ。樹木の幹や枝葉のかげになっているところ。

 *「木陰(こさ)」・・木陰が多くて耕作に不向きな土地。

 *「木陰引(こさひき)」・・江戸時代、往来の並木や砂除(すなよけ)林、魚附(うおつけ)林などの陰になったり、山や高いがけの日陰になったりして、作物のできのわるい田畑の年貢を減免すること。木蔭引(こかげひき)。

 *「木陰払(こさはらい)」・・田畑の日当たりをよくするためにこさを伐ること。関東には屋敷林が多いので、田畑の所有者の日照権を守るため、こさを伐らせるか陰代として料金を取ることを認めていた。

 *「木陰(こかげ)に臥(ふ)す者は枝を手折(たお)らず」・・なさけをかけてくれた人に対しては、害を加えないのが人情であるということのたとえ。

 (「韓詩外伝‐二」の「食其食者不毀其器、陰其樹者不折其枝」による)

(68-4)<漢字の話>「陰」の「木」・・①「き」の語源説が面白いので紹介する。

 (1)イキ(生)の上略〔日本釈名・名言通・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・国語の語根とその分類=大島正健・大言海〕。

(2)ケ(毛)の転。素戔嗚尊の投げた毛が木になったという伝説から〔円珠庵雑記〕。木は大地の毛髪であるところからか〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(3)キ(黄)の義〔言元梯〕。

(4)草がクサクサとして別ち難いのに対し、木はキッと立ち、松は松、梅は梅とキハマルところから〔本朝辞源=宇田甘冥〕。

(5)ツチキ(土精気)の上略で、キムシ(地気生)の義〔日本語原学=林甕臣〕。

(6)キリ(切)、またはコリ(樵)の反〔名語記〕。

(7)五行相剋の説では、金剋木といって木は金にキラルルところから〔和句解〕。

(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)

➁「木」はテキストのように、複合語の場合、語頭では「こ」と変化することがある。

「木漏(こもれ)れ日」「木霊(こだま)」「木(こ)っ端(ぱ)」「小梢(こずえ)」「木立(こだち)」「木花開耶姫(このはなのさくやひめ)」

(68-56)「山丹切(さんたんぎれ)」・・黒龍江下流に住む山靼人と、樺太アイヌ・北海道宗谷アイヌとが交易し、その際に伝わった中国(明末清初頃)産の錦。蝦夷錦(えぞにしき)。

(68-6)「きせる」・・キセル。({カンボジア}khsier 「管」の意)管の一端に刻みタバコをつめて火をつけ、他端の吸口からその煙を吸う道具。両端が金属、途中が竹でできている物が多い。タバコをつめる口を火皿、火皿のついた湾曲している部分全体を雁首(がんくび)、雁首と吸口の中間の管を羅宇(ラウ)と呼ぶ。キセリ。キセロ。キセル筒。

 日本に慶長(15961615)頃に伝来したとされるが、以降、慶長初期に流行した火皿の大きな河骨型(こうぼねがた)と呼ばれるもの、元和・寛永(16151644)頃に遊侠の徒が護身用に用いた鉄製の長い「喧嘩煙管」など、時代によりさまざまな形のものがある。「俳諧・毛吹草‐四」には、近江水口、肥後隈本などの名産としてキセルが挙げられており、近世初期にはかなり普及していたことが知られる。

(70-2)「ニクフン人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。1897年の人口4650人中、1971人が樺太に居住していた。樺太の原住民は北部のギリヤーク、中部東岸のオロッコ、南部のアイヌであるが、1959年のその総人口人中、ギリヤークが人を占めている(アイヌは人で、ほぼ同数が第二次世界大戦後、北海道に引き揚げた)。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、キーレン語のGilekkoの転訛、中国人のいう乞烈賓・乞列迷・吉烈迷・済勒弥はゴルジの称呼Gillemiの音訳、別にFiyakaとも呼び費牙喀などと音訳、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。皮膚は黄褐色、顔貌は蒙古型で丸くて扁平、頭髪は直毛で黒色、髭が多い。人種・言語の系統は不明で、古アジア族の一つとされている。夏は校倉式に丸太を組み立ててつくった小屋を、冬は竪穴を住居としていた。氏族制をもち、族外婚規制がまもられている。漁業をもっぱらとし、冬はわずかに狩猟をしていたが、いまはオロッコとともに、トナカイ=コルホーズの組織をつくっている。文化5(1808)に樺太と黒竜江下流域を探検した間宮林蔵の『北蝦夷図説』四(スメレンクル)は最古のギリヤーク民族誌で、記述もくわしい。

(70-3)「泝(さかのぼ)り」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<〔説文〕十一上に泝を正字とし、重文として遡を出しているが、二形ともに行われており、ただ慣用を異にするところがある。水流にさかのぼるときには泝を用いるが、時間的にさかのぼるばあい、たとえば法律の効力がその発布以前にさかのぼって及ぶようなときには遡及といい、泝は用いない。>とある。

(70-4)「ロモウ川」・・現トゥイミ川。北カラフト最大の川。「ロモウ」は「ロゴウ」か。ロゴウはカラフト北部東海岸の地名。旧日本名は呂郷。

(70-10)「アラコイ」・・カラフト北部西海岸の地名。北緯51度付近。旧日本名は荒子井。

 「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』)の「アラコイ」の項に 

 「オツチシより凡弐里半 此処スメレンクル家七軒あり、大川有、川口弐拾間余、川上7七八十権間位もあるよし、小石地ニ而、奥山遠く青木立、是より山道越ニ而タライカナイ江凡弐拾六七日の里程なるよし」とる。

(71-2)<くずし字>「互に」の「互」・・「楽」「閑」と類似しているので、文脈から判断する。 

(71-6)「シレトコ崎」・・北知床岬。南樺太の北東部から南南東に向けて突出する半島、またその南端の岬。旧称シンノシレトコ(真知床)岬。ロシア連邦ではサハリン州に属し、テルペニヤ岬Мыс Терпения/Ms Terpeniyaとよぶ。東北山脈の延長にあたり、半島は長さ約70キロメートル。幅約5キロメートルの地峡をもつ。この岬により、オホーツク海と多来加(たらいか)湾(テルペニヤ湾)を分ける。低平な丘陵の半島で、樺太島の東端(東経14440分)にあたる。半島の東岸は寒流の勢力に強く影響されて6月まで流氷があり、7月の平均気温はわずか10℃。岬の沖合いには海豹(かいひょう)島(チュレーニー島)がある。文化6(1809)間宮林蔵(まみやりんぞう)はこの岬まで探検にきて引き返している。

 

『ふなをさ日記』8月注 

(113-1)「はごこまん」・・「育(はぐく)まん」に同じ。世話をする。面倒をみる。語成は、「育(はごく)む」の未然形「育(はごく)ま」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

 *「育(はぐく)む」は、「羽包(はくく)む」の意。親鳥がひな鳥を羽でおおい包む。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <ククムは親鳥が雛を羽でもって包み養う意。上代・中古にはハグクムが一般に用いられていたが、中世になるとハゴクムの勢力が強くなり、ハグクムは歌論・注釈書などに用いられるのみとなった。これは、語源が忘れられたことと、当時オ段とウ段の交替現象が広く生じていたことによる。しかし、江戸時代になって語源が再認識され、ハグクムの形が次第に勢力を取り戻し、近代には、日常語として復活した。>とある。」

 *<漢字の話①>「育」・・部首は「肉(にくづき)」。解字は「女性が子を生む形にかたどり、うむ・はぐくむの意味をあらわす」(『新漢語林』)

 *<漢字の話➁>「ツキ」の部首・・現在の多くの漢和辞典は、「検索」の便利さを重視しているため、その立場から、部首の統廃合、漢字の部首移動が行われている。以下に、現在、「月」部に統合されている「月」の本来の部首(『康煕字典』による部首)を記す。

  1.「日月」の「月(つき)」(つきへん)・・常用漢字では、

月、有(本来は「肉部」)、朗、朝、望。

    常用漢字で「つきへん」の字はない。ほとんどが「肉

月(にくづき)」。

  2.「肉部」(偏になるときは「月」の形になるので「肉月

(にくづき)」・・肌、育、肩、背、肺、胸胴、脚、腕、腎、腰、膝など、多数ある。

  3.「舟月(ふなづき)」・・常用漢字では、朕、服。

    **「服」・・「舟」はふねの両側につけるそえ板の意味。転じて身につけるの意味を表す。

    **「朕」・・舟を上流に向かっておしあげる航跡をがくさまから、しるし・あとの意味を表す。

          借りて天子の自称の意味を表す。

 *<漢字の話③>本来の部首の「月」の字形

  1.「日月」の「月」・・「月」の中の横線が右の縦線に接しない。

  2.「肉月」の「月」・・横線が左右に接する。

  3.「舟月」の「月」・・横線でなく、「ヽ」がふたつの形をとる。

(113-1)「すぎわひ」・・生業(すぎわい)。生計を立てるための職業。世渡りの手段。なりわい。生計。

(113-3)「なぞや」・・何ぞや。連語「な(何)ぞ」+係助詞「や」。反語の意を表す。どうして…か。

(113-3)「いみじさ」・・「いみじき」か。「いみじ」は、ひどくつらい、苦しい、みじめである、悲しい、情けない、恐ろしい、困ったことである、などの気持を表わす。

(113-3)「とふ」・・問(と)う。

(113-5)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。逆接の仮定条件を表わす語。もし。かりに。たとい。万一。よしんば。

 *ふるさとは遠きにありて思ふもの

   そして悲しくうたふもの

    よしやうらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

    ひとり都のゆふぐれに

 ふるさとおもひ涙ぐむ

  そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや (『室生犀星「小景異情」』)

(113-5)「乞食(こつじき・こじき・かたい・ほいと)」・・「こつ」は「乞」の慣用音。「じき」は「食」の呉音。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)中古の「こじき」は促音の無表記で、「こっじき」と読むべきか。中世から近世にかけて「こつじき」が一般的で、近世にしだいに「こじき」が増え、近代以降「こじき」が普通となった。

(2)本来は托鉢と同じで僧の修行の一つであったが、中世頃から物もらいの意で用いられるようになり、近世になると托鉢の意ではあまり用いられなくなる。そのため、「こじき」は、もっぱら物もらいの意となり、特にそれと区別して、托鉢のことを「こつじき」と古い形でいうこともある。>

とある。

 *「ほいと」・・「ほいとう(陪堂)」の変化した語。「陪堂(ほいとう)」の「ほい」は「陪」の唐宋音。

禅宗で、僧堂の外で、食事のもてなし(陪食=ばいしょく=)を受けること。

(113-6)「本意(ほんい・ほい)」・・本来の志。かねてからの希望。

(113-7)「あながち」・・(下に打消を伴って)一概には。必ずしも。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」には、

 <(1)「あな」は自己、「かち」は勝ちか。自分勝手に物事を一方的に押し進めて、他を顧みないさまが原義と思われる。

(2)類義語「しいて(強)」が相手の意志にさからって事を進める意で、古代の和歌や散文に用いられているのに対して、「あながち」は自己の内部の衝動によっていちずに動く意。客観的に見ればわがままという情態性を表わすが、「源氏物語」に百例以上も用いられている以外はあまり頻用されない。

(3)連用形「あながちに」は以後徐々に情態性を失い、程度性の強い語へと変化していく。平安末から否定表現と呼応する用法が多くなり、中世には語尾の落ちた「あながち」に否定を伴った形が現われ、陳述副詞のように用いられた。>とある。

(113-8)「田地(でんち・でんじ)」・・田となっている土地。田。

 *<漢字の話>「田(でん)」・・①元来は、区画された狩猟地・耕地の象形で、田ばかりでなく、耕作地の総称。②したがって、「田」は狩りをする意もあり、「田(でん)す」は、狩りをすること。

<晋・陶潜〔帰去来の辞〕>

帰去来兮       帰去来兮(かへりなん いざ)

   田園將蕪胡不帰    田園 將(まさ)に蕪れなんとす 胡(なん)ぞ帰らざる

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古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

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す。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい

方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の

歴史や地理、民俗などを、月1回(第2月曜)学習しています。初心者には、親切に対応

します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は

資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、

事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015810日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階大研修室

(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。

代表:深畑勝広  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』7月学習注  

(108-2)「塚田留次郎」・・当時。松前奉行調役下役。

(108-2)「松井庄三郎」・・異本は「村井庄三郎」とある。

(103-2)「神無月(かんなづき、かみなしづき、かみなきづき、かみなづき、かむなづき、かみなかりづき)」・・陰暦十月のこと。「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には語源説が11項目ある。折口信夫の説「一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された」も紹介されている。なお、異本は「十一月四日」とある。

(108-3)「三厩」・・「みんまや」。テキスト影印は「うまや」とルビがある。三厩は青森県北西部の地名。津軽半島の北西端にある。松前街道の宿駅。漁業が主。龍飛(たっぴ)崎がある。

(108-3)*「忠右衛門(ちゅうゑもん)」・・右衛門は、「ゑもん」か「うゑもん」か。古くは「右衛門」と書いて「うゑもん」。""も発音していた。なぜ「うゑもん」と言っていたのに「ゑもん」になってしまったのか。「忠右衛門」は、元々は「うゑもん」。「ゑ」は「we(うぇ)」に近い発音で、「uwemon(ううぇもん)」だった。それが「u」と「we」の発音が一緒になって「wemon(うぇもん)」。その後、「ゑ」と「え」の発音が区別されなくなり「右衛門」と書いて「emon(ゑもん)」と発音するようになった。

 <律令の職「右衛門府(うえもんふ)」>・・左衛門府とともに衛士を率いて宮城諸門の警衛、開閉をつかさどった。職員に督、佐各一人、大尉・少尉・大志・小志各二人のほか、府生、衛士等がある。

 <変体仮名の「衛」>・・「ゑ」。「恵」「奥のゑ」「重たいゑ」という。したがって、「忠右衛門」のルビは、「ちゅうゑもん」が本来。なおカタカナの「ヱ」は、「かぎのヱ」。

 <黙字>・・「右衛門」の「右」のように、発音しない字を黙字という。「伊達(だて)」の「伊」、「和泉」の「和」など。

(108-5)「三十日経て十二月四日」・・「神無月(10月)四日」に三厩を出発して、「三十日を経」れば、「十一月四日」だから日数が合わない。「神無月(10月)四日」は、異本の「十一月四日」が正しいか。

(108-5)「千住(せんじゅ)」・・東京都足立区南部の地名。旧南足立郡千住町。広くは荒川区南千住(旧北豊島郡南千住町)を含める。江戸時代は奥州街道最初の宿場町として、遊女も多く繁栄した。

 なお、「千住」の語源説に「千手観音堂があったところから千手の転」がある。

(108-6)「ヱゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。

<江戸の箱館奉行所(のち松前奉行所)の江戸会所>
 箱館奉行所(松前奉行所)の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島の霊岸橋際埋立地に置かれた(現東京都中央区新川町1丁目霊岸島児童公園付近)。江戸時代から、蝦夷地の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行、のち松前奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。

(108-7)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(108-9)「御奉行」・・この時期、江戸在勤の松前奉行は、服部貞勝。

 *箱館奉行の勤務体制・・江戸と箱館(のち松前)と1年交代で勤務した。

(108-910)「尾張の古郷の方」・・重吉の故郷、尾張藩の江戸屋敷の役人。

(108-11)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(109-1)「尾州御蔵方」・・尾張藩の御蔵奉行の役人。

(109-1)「木曽路(きそじ)」・・江戸時代の五街道の一つ、中山道をいう。江戸日本橋から板橋、浦和、高崎の宿を経由し、碓氷(うすい)峠を越えて信濃に入り、鳥居峠を越えて、木曾谷から美濃、近江に至り、草津宿で東海道に合するもの。この間、六十七次。草津、大津を加えて六十九次ともいう。

 狭意には、長野県南西部、中山道の鳥居峠付近から馬籠(まごめ)峠に至る間をいう。奈良時代の初めに開かれ、江戸時代には贄川(にえかわ)から、奈良井、藪原、宮越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠まで十一宿が置かれた。吉蘇路。信濃路とも。

 *重吉が通った名古屋までの道筋

  ①下諏訪まで・・イ.中山道 

.甲州道

  ②中山道から名古屋まで

.下街道・・中山道の大井宿と大久手宿の間の槇ヶ根追分から土岐川沿いに名古屋城下の伝馬町札の辻に至る。

.上街道(うわかいどう)・・中山道伏見宿を過ぎて、太田宿の手前の太田の渡しの手前から上街道に入り、土田(どた)宿、善師野(ぜんじの)宿、小牧宿を経て名古屋城下に至る。

(109-2)「清水御門(しみずごもん)」・・名古屋城三の丸北側にあった唯一の門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。枡形の内部を土塁で仕切る厳重な構造であった。だが、門そのものは櫓門ではなく、矢来を組み上げただけの比較的簡易な施設となっていた。門跡は、現在は道路になっており、旧状をまったくとどめていない。

(109-3)「かたみ(互)に」・・たがいに。 

*「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集)

(109-3)「つばら」・・委曲・審。くわしいさま。十分なさま。つばらつばら。つまびらか。つばらか。

(109-4)「鳴海の御代官」・・「鳴海」は鳴海陣屋・鳴海代官所。戦国時代には織田・今川両勢力の接触地点で鳴海砦が設けられた。慶長検地では高三千七百三十八石余の大村。慶長6年(1601)東海道三河池鯉鮒(ちりゅう)宿と熱田宮宿の間の宿駅となり、本陣一・脇本陣二・問屋三があり、L字状の街道に沿って十ヵ町の町並が続いた。天明2年(1782)尾張国愛知・知多郡の一部と三河国の領分計百二ヵ村を支配する鳴海代官所が村内の森下に設けられた。慶長13(1608)に始まるとされる木綿の鳴海絞が東海道の旅客に名産として売られ、伝統産業として続いている。明治19年(1886)東海道線開通で寂れたが、同22(1889)町制施行。名古屋鉄道本線や国道一号線などによって復活、第二次世界大戦後は住宅地として開発が進み、昭和三十八年(一九六三)四月一日名古屋市に合併、緑区が生まれ、その一部となった。

鳴海代官は大代官で鳴海村から愛知郡東南部、知多郡東半分を収めた(石高七万二千石)。重吉の故郷半田村も鳴海代官所の支配であった。

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7月学習『秘書注』  

(64-1)「廻浦(かいほ)」・・海岸をめぐること。

 *<漢字の話>「浦」と「津」・・「浦」は、海岸。「津」は港。「津々浦々」は、和製4字熟語。

(64-3)「御普請役(ごふしんやく)」・・江戸幕府の職名。享保九年(一七二四)に勘定奉行支配御普請役として新設。東海道五川、一五か国の幕府領の堤、川除(かわよけ)、用水などの普請箇所の検分・修築、新田の検分などをつかさどったもの。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。→

(64-3)「間宮鉄次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣に従い蝦夷地に出張し、カラフトに渡り、東海岸を巡視した。のち、箱館奉行支配調役下役となり、同3(1856)調役並、万延元年(1860)調役に進んだ。

(64-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(64-5)「弁利(べんり)」・・便利。都合。

(64-7)「トンナイチヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名富内。頓内茶、屯内茶とも。

(64-7)「シユマヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名島矢。栄浜の北にある。なお、トンナイチヤとシユマヤ間は「凡廿里余」とあるが、『南樺太全図』の航路を計算すると約19里。

(64-89)「シラヽヲロ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名白浦。シユマヤ~シラヽヲロ間は、約13里。

(64-9)「砂素浜(すなすはま・すなすわま)」・・砂洲浜。「素浜」は、洲浜。「洲浜」は、浜辺の入りこんだところ。水の湾入したなぎさ。州が出入りしている海岸。

(64-11)「ナイブツ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名内淵。本書の間宮、松岡らの巡検に先立つこと53年、享和元年(1801)、カラフト島検分を命じられた幕吏・中村小一郎は東海岸を内淵まで検分した。

(64-11)「タライカ」・・日本名多来加。南樺太北部東岸、北知床(テルペニヤ)岬と野手戸(のてと)(ソイモノフ)岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(ネフスコエ湖、面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(65-1)「往返(おうへん)」・・行き来。往来。往復。

(65-1)「縁辺(えんぺん)」・・ゆかりある人。縁続きの人。縁家。

(66-7)「相対(あいたい)」・・対等であること。対等で事をなすこと。

(67-2)「平日(へいじつ)」・・ふだん。平生。平素。

(67-3)「シウカ」・・シスカか。日本名敷香。南樺太北部東岸の地名。多来加湾西部に位置する。

(67-34)「ホロナイ川」・・幌内川。北カラフトに源を発し、北緯50度からから南樺太に入り、多来加湖の西側を流れ、多来加湾へ注ぐ。長さ320kmは利根川に匹敵する長さを誇り、樺太の日本統治時代の当時は日本唯一の国際河川として知られていた。

(67-4)「タナンコタン川」・・「タナンコタン」は、日本名多蘭。多蘭川は、幌内川下流で、幌内川から分流し、多来加湖西部を流れ、多来加湾に注ぐ。

(67-5)「野鄙(やひ)」・・下品でいやしいこと。

(67-10)「容貌(ようぼう)」・・テキスト影印の「㒵」は「貌」の異体字(俗字)。なお「皃」は同字。テキスト翻刻の凡例に「異体字は正字に直す」としたので、本注記の見出しも同様にする。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(通常第2月曜・7月は第1月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円お願いします。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時:2015年7月6日(月)13時~16時
◎会場:エルプラザ4階大研修室
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談
『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。


代表:深畑勝広
  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』月6学習の注 

             

(103-1)「嘉十郎」・・高田屋嘉兵衛の兄弟は六人いたが、その一番末の実弟。安永8年(1779)~天保5年(1834)。高田屋は文化8(1811)からエトロフ場所を請け負っていた。

(103-3)「申(さる)の時」・・午後4時。

(103-3)「ヲトイヤハシ」・・ヲトイマウシ。エトロフ島東部のオホーツク海に面した集落。トウロの近く。

(103-6)「ヘツトウブ」・・日本名別飛(べっとぶ)。シヤナの東に位置し、北はオホーツク海に面する集落。明治初年にベトフなどを包含してベトプ村が成立。同6年(1873)の戸数はアイヌ5、男10、・女17寄留人は平民男25・女1(千島国地誌提要)。同8(1875)ベツトブ(ベトプ)村が村名表記を別飛に改める(根室支庁布達全書)

(103-6)「サナ」・・日本名紗那(しゃな)。北はオホーツク海に臨み、紗那湾に紗那港がある。文化4(1807)まで、会所があり、エトロフの中心地だった。文化4(1807)、ロシヤの襲撃で会所が焼き払われ、会所はフウレベツに移転した。明治初年にシヤナなどを包含してシヤナ村が成立。同6年(1873)紗に開拓使根室支庁の出張所が置かれた。

(103-7)「フルヱベツ」・・日本名振別(ふれべつ・ふうれべつ)。エトロフ島中央部にあり、留別村の西、北はオホーツク海に面し、海に突き出した野斗路岬(ノトロ岬)の南に緩やかな大湾(老門湾)があり、振別港がある。文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「フルヱベツは、此島の中にての都(みやこ)」・・文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「いかめしき」・・「いかめしい」は。姿や形が普通より大きく、がっしりしている。

(103-10)「一とふり」・・一通り。「通(とほ)り」は、動詞「とおる(通)」の連用形の名詞化。テキスト影印は、「一とふり」とあるが、「通り」を「とふり」と訓じることはない。ここは、「とほり」が正しい。

(104-3)「下人(げにん)」・・江戸時代、年季奉公人のこと。主家への隷属性が強く、譜代奉公人として家事や耕作労働に使役され、初期の頃は売買質入の対象ともなったが、中頃からは下男・下女と呼ばれ次第に年季奉公人化した。

(104-4)「ヲトイ」・・「オイト」か。「オイト」は、日本名老門。フウレベツの西にある集落。

(104-5)「ヲタシツ」・・日本名宇多須都(うたすつ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-5)「ナイホウ」・・日本名内保(ないほ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-7)「タ子モイ」・・日本名丹根萌(たんねもい)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。クナシリ島への渡航地。

(104-8割書右)「ヱトロフ島の岸の」・・「岸の」は、語調がよくない。異本は「の」を「を」とし、「岸を」としている。

(104-9)「丑寅(うしとら)」・・方位を十二支にあてて呼ぶときの、丑と寅の中間にあたる方角。北東。陰陽道などで丑寅の方角が神霊、鬼の訪れる方位とされるところから、特に鬼門の意がこめられることがある。

(104-9)「アトイロ」・・アトイヤ。日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(104-10)「二百十日」・・立春から数えて二百十日目にあたる日。このころは嵐が多く、また稲の開花期にあたっていたので、その時期を警戒する意味で生まれた暦注。太陽暦では九月一日ごろと一定であるが、旧暦の日付では七月十七日から八月十一日ごろまでのどの日になるか一定でないためこのような暦注が必要であった。なお、越中八尾の「おわら風の盆」は毎年9月1日から三日間おこなわれているが、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う祭りという。

(104-10)「ゆへ」・・故。歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」で、「ゆへ」はない。

(104-11)「所々の番屋に。十七日」・・異本は「番屋に」のあとに、「やどり」がある。

(104-11)「セヽキ」・・クナシリ島中部の太平洋に面した集落。日本名瀬石。

(105-1)「海の岸に温泉あり」・・「セセキ」は、「湯の湧くところ」の意味という。なお、異本は、「温泉」に「イデユ」とルビがある。

(105-1)「トマリ」・・日本名泊。クナシリ島西部の集落。ネムロからの渡航地であった。

(105-5)「子モノ」・・根室。

(105-9)「そこばく」・・副詞「そこば」に副詞語尾「く」の付いたもの。「若干」「幾許」を当てる。数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす語。多く。たくさん。はなはだ。たいそう。

(106-3割書左)「便り」・・便利。便宜。都合。

(106-9)「閏八月」・・文化13(1816)は、閏八月があった。

(106-5)「臼(うす)」・・有珠。

(106-6)「信濃の善光寺分身」・・有珠善光寺の公式HPに、「天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている浄土宗のお寺です。」とある。慈覚大師は、平安期の天台宗山門派の祖・円仁のことで、等澍院文書には、それを理由に、等澍院を有珠に建立したい旨、陳情した経過がある。(別添『北の青嵐180号』の拙論参照)

 更に、等澍院文書は、「善光寺を彼宗に被奪取候様、世上之沙汰末々迄難遁」と、きつい口上で述べている。

(106-6)「寺主(てらぬし・てらあるじ・じしゅ)」・・文化13(1816)当時の善光寺の住職は、3辨瑞。なお、辨瑞は、念仏上人といわれ、掛け軸「念仏上人画像」は、平成17年に国の重要文化財に指定された。また、アイヌ語がそえられた和讃、木版「念仏上人子引歌(カモイポボウンケイナ)」も重要文化財に指定されている。

(106-67)「江戸の増上寺より来る」・・蝦夷三ヶ寺建立に際し、僧侶を派遣する最初に本山が決められた。寛永寺(様似・等澍院の本山)、増上寺(有珠・善光寺の本山)、金地院(厚岸・国泰寺の本山)。寛永寺、増上寺は、徳川家の菩提寺である。

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『ふなをさ日記』5月学習の注 

(98-1)「又(また)の日(ひ)」・・次の日。翌日。一般には「別の日。後日」の意が多いが、ここは、翌日の意。

(98-1)「何国(いづく)」・・異本は、ひらかなで「いづく」としている。

(98-2)「辰巳風(たつみ・たつみかぜ・たつみのかぜ)」・・東南の方角から吹いてくる強風。「辰巳風」と書いて、たんに「たつみ」「たづみ」という地方がある。なお、余談だが、「辰巳風」を「とつみふう」と読めば、江戸深川の遊里の気風や風俗。意気と張りを特色とした。また、語源説に、「

日の立ちのぼり見ゆの転略〔国語蟹心鈔〕」がある。

(98-23)「磁石を立(たて)」・・ここの「立(たて)る」は、使ったり仕事をしたりするのに十分な働きをさせること。「磁石を使い」の意。

(98-3)「申酉(さるとり)」・・西南西。

(98-3)「夜(よる)の戌(いぬ)の時」・・午後8時頃。

(98-4)「はて(果)」・・いちばんはしの所。

(98-8)「羆(ひぐま)」・・ひぐま。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <「二十巻本和名抄‐一八」に「羆 爾雅集注云羆〈音碑 和名之久万〉」とあるように、古くはシクマ(シグマ)と呼ばれていた。ヒグマの語形は近代以降多く見られるようになるが、「言海」(一八八九〜九一)は、ヒグマとシグマの両方を見出し語にあげ、ヒグマの項で「しぐまノ誤」と述べており、シグマを正しい語形としている。その後も同様の辞書が多く見られ、明治中期以降も、シグマを正しいとする規範意識があったことがうかがわれる。ヒグマが一般化したのは大正期か。>とある。

 また、『新漢語林』の「羆」の項には、<「しぐま」と、よむのは字形による>とある。

 <漢字の話>

「熊」:「火」部。「火」が脚(あし・漢字の下部)になるときは、「灬」の形をとり、「連火(れんか)」あるいは「列火(れっか)」と呼ぶ。

「羆」:「罒(よこめ・あみがしら・よんかしら)」部。

(98-8)「やらん」・・~であろうか。疑いをもった推量を表す。「にやあらむ」の転。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」+ラ変動詞「あり」の未然形「あら」+推量の助動詞「む」の連体形「む」。

(98-89)「いくらともなく」・・数多く。

(98-11)「ひまなく」・・隙(ひま)なく。休みなく。「隙(ひま)」は、連続して行なわれる動作のあいま。間断。

(98-11)「東風(こち・ひがしかぜ・こちかぜ・あゆ・あゆのかぜ)」・・東の方から吹いて来る風。特に、春に吹く東の風をいう。

(99-1)「夜」<見せ消ち>・・影印は、「今」の左に、カタカナの「ヒ」に似た記号がある。これを「見せ消ち」記号という。「今」を訂正して、「夜」とした。

(99-23)「焚けるに、今宵は羆のうれひもなかりける・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、係助詞「ぞ」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。ここは、「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(99-3)「辰時(たつどき)」・・午前8時ころ。

(99-4)「かねて」・・以前から。

(99-4)「任(まか)せ」・・随って。

(99-5)「高山(こうざん)あり」・・エトロフ島北部にあるラッキベツ山(1206メートル)か。

(99-5)「大成滝(だいなるたき)おちる」・・エトロフ島北部のラッキベツ岬北の断崖絶壁にあるラッキベツ滝。高さは140メートル。テキストには「三十間」とあるが、その3倍ある。嘉永2年(1849)、千島に渡った松浦武四郎は、『三航蝦夷日記』の「ラッキベツ」という小項目のなかで、「其間は、皆峨峨たる岸壁にして船を寄する処無、実に恐敷海岸なり。其落る滝高サ五丈仭と云えども、先三十丈と見ゆる也。幅は先五丈位も有る様に思わる。一道の白絹岩端に掛けたる風景、実に目覚ましき光景なり。然れ共我等も岸を隔つこと廿三、四丁にて眺望至す故に、委敷は見取がたし。然れ共其形本邦にては、紀州郡那智山の滝よりも一等大なり」と記している。

(99-67)「岩ほ」・・巌(いわお)。旧仮名遣いは、「いはほ」で、発音は「イワオ」。語源説に、「イハホ(石秀)の略言」がある。

(99-8)「熊野なちの山の滝」・・熊野那智山の大滝。落差は、133メートルだから、ラッキベツ滝の方が、直瀑(ちょくばく。水の落ち口から、岩壁を離れ、また岩壁に沿ってほぼ垂直に落下する滝)としては、大きい。エトロフが日本に返還されると、ラッキベツ滝が日本一となる。

(99-9)「ふねを乗(のる)」・・船をすすめる。「乗る」は、乗物などをあやつって進ませる。走らせる。操縦する。「のりまわす」「のりこなす」などの形で用いられることが多い。

(99-9)「となり」・・格助詞「と」に断定の助動詞「なり」の付いたもの。…というのである。…ということである。

(99-10)「きつらん」・・来つらん。来ただろうか。カ変動詞「来(く)」の連用形「()」+完了の助動詞「つ」の終止形「」+推量の助動詞「らん(む)」の終止形「らん」。

(99-1)「思(おもい)しかども」・・思ったのだけれども。動詞「思う(ふ)」の連用形「思い(ひ)」+過去の助動詞「き」の已然形「しか」+逆接確定条件の接続助詞「ども」。

(100-1)「出(いで)こん」・・出てくるだろう。下2動詞「出(い)づ」の連用形「出(い)で」+カ変動詞「来(く)」の未然形「」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)

(100-1)「あらん」・・あるだろう。ラ変動詞「有(あ)り」の未然形「あら」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

(100-3)「はな」・・端(はな)。突き出た所。岬や岩壁の先。

(100-8)「いざ給(たま)へ」・・さあ、おいでなさい。「たまえ」は尊敬の意を表わす補助動詞「たまう(給)」の命令形で、上に来るはずの「行く」「来る」の意を表わす動詞を略したもの。さあ、おいでなさい。場面によって、私といっしょに行きましょうの意にも、私の所へいらっしゃいの意にもなる。中古以降、親しい間柄、気楽な相手への誘いかけとして、よく用いられている。

「御(み)いとまなくとも、かの主(ぬし)は出で立ち給なん。いざたまへ、桂(かつら)へ」(『宇津保物語』)

いざ給へかし、内裏(うち)へ、といふ」(『枕草紙』)

「萩、すすきの生ひ残りたる所へ、手を取りて、いざ給へ、とて引き入れつ」(『宇治拾遺物語』)

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