森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

8月 町吟味役中日記注記

         

(151-2)「取留(とりとまり・とりとめ)」:しっかりと定まること。まとまり。しまり。とりとめ。多く、否定の語を伴って用いる。

(151-2)「証拠(しょうこ)」:一定の根拠に基づいて、事実を証明すること。証明のよりどころとすること。また、その材料。証明の根拠。あかし。しるし。証左。

 *テキスト影印の「証」は、旧字体の「證」。

①もと「證」と「証」は別字。当用漢字表で「證」の新字体として「証」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。

②昭和21年11月の当用漢字表制定当初に、「証」が「證」の新字体として選ばれた。常用漢字表では、いわゆる康煕字典体の活字として「証」の括弧内に「證」が掲げられている。

*「證」の解字は、「言」+「登」。言葉を下から上の者にもうしつげる意味をあらわす。転じて、物事を昭らかにする。

 「証」は、「言」+「正」。言葉で正す、いさめるの意味を表す。

*したがって、事実を明らかにする意味では、「證拠」が本来の意味。「証拠」は、意味が通じない。「證」が「証」に置き換えられたために、本来の意味が不明になった。

(151-3)「片口(かたくち)」:一方の人だけの陳述。片方だけの言い分。または、それだけをとりあげること。

(151-4)「可相分兼候(あいわかりかぬべくそうろう)」:組成は「相分(あいわかり)」+ 

 「兼(か)ぬ」(終止形)+助動詞「可(べし)」の連用形「可(べく)」+動詞「候(そうろう)」。

 *兼ぬ:接尾語ナ行下二段型。動詞の連用形に付く。「思いどおりに実現できない意を表す。…しかねる。…しにくい」の意の動詞をつくる。

 *助動詞「べし」は、動詞の終止形(ラ変動詞は」連体形)に接続する。

(151-6)「不容易(よういならざる)」:「不」の訓に「なら」をおぎなって、「ならず」がある。「ざる」は、文語の打消しの助動詞「ず」の連体形で、動詞および一部の助動詞の未然形に付く。打消しの意を表す。文章語的表現や慣用的表現に用いられる。「準備不足と言わざるを得ない」「たゆまざる努力」など。

  *「回也愚」:[回也(かいや)愚(ぐ)ナラず](『論語 為政』)

   <顔回(回也=孔子の愛弟子)は、おろかではない>

 

 

 

 

 

 

(151-6)「再応」:同じことを繰り返すこと。再度。ふたたび。多く副詞的に用いられる。

(152-1)「厳敷遂吟味候」:「厳しく吟味(を)遂げ候」。「遂」のしんにょうが、「し」のようになっている。

(152-1)「可相果候」:「相・果(はつ)・可(べく)・候(そうろう)」

 *「可(べし)」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続するので、「果(は)つ」(終止形)で読む。

(152-34)「早急(さっきゅう・そうきゅう)」:「さっ」は「早」の慣用音。非常に急ぐこと。

 *慣用音:呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」と読むなど。慣用読み。

(152-3~4)「成丈ケ(なるたけ・なるだけ・なりたけ・なりだけ)」:(動詞「なる(成)」にそれ限りの意を表わす副助詞「たけ」が付いてできた語。)できる限り。できるだけ。なるべく。なりたけ。なりったけ。なるったけ。なるべくたけ。なるべきだけ。

(152-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(152-4)「仕置(しおき)」:動詞「しおく(仕置)」の連用形の名詞化処罰。処分。成敗。おしおき。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<この語は、江戸幕府の法令整備(「公事方御定書」など)が進むなかで、権力による支配のための采配の意から刑罰とその執行の意に移行した。文化元年(一八〇四)以降に順次編集された「御仕置例類集」は幕府の刑事判例集の集大成であるが、それに先立って「御仕置裁許帳」が幕府最初のまとまった刑事判例集として、宝永期(一七〇四〜一一)までに成っていたとみられる>とある。

(153-1)「為御含」:「御含(おふくみ)ノ為(ため)」

 *「為」:下に動詞が来る場合、「す」「さす」とその活用。

      下に名詞が来る場合、「ため」「として」「たり」「なる」

(153-2)「可貴意」:「貴意(きい)ヲ得(う)可(べく)」:相手の考えを聞くことを敬っていう語。多く書簡文に用いる。

(153-3)「松前志摩守」:松前章広。安永4730日生まれ。松前道広の長男。寛政4年松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11年東蝦夷地が,文化4年には全蝦夷地が幕府直轄地となり、章広は陸奥梁川(福島県)9000石に移封された。文政4年松前復帰がかない、5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4925日死去。59歳。初名は敷広。通称は勇之助。

(153-4)「蛎崎四郎左衛門」:松前藩町奉行。

(153-5)「新井田周治」:松前藩町奉行。

(154-6)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(154-1)「津軽左近将監(つがるさこんのしょうげん)」:津軽信順(のぶゆき)。寛政12325日生まれ。津軽寧親(やすちか)の子。文政8)弘前藩藩主津軽家10代となる。藩政にはあまり熱心ではなく、派手ごのみを幕府からとがめられる。天保10年隠居。文久21014日死去。63歳。号は好問斎,如海,瞳山。

 *「将監」:近衛府の第三等官(判官=じょう)。

(154-1)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。

(155-1)「寅」:天保元年(1830)。

(155-1)「被 仰付(おおせつけられ)」:「被(られ)」と「仰付」の間が一字分空いている。

 尊敬の体裁で、「欠字」という。「仰付」が下接する場合、欠字の体裁をとることが多い。

(155-2)「此節」の「節」:竹冠が小さく、脚部が大きく縦長になっている。

(155-3)「胡乱(うろん)」:(「う」「ろん」ともに「胡」「乱」の唐音)。あやしく疑わしいこと。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られる。中国でも「碧巖録」など禅籍に見えるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献にも見える。

(2)「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、「胡─乱─」の形でも「胡説乱道」「胡言乱語」「胡思乱想」などが見え、「胡」と「乱」がほぼ同じ意味で使われていることがうかがえる。語の意味も、中国では(1)の意味であったが、日本では(2)の意味をも派生し、後にはこちらの意味の方が多用されることとなった。>とある。

*「胡」は、でたらめの意。また胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。

(155-4及び8)「候」:「候」が「ヽ()」にように、極端なくずしになっている。

(155-4)「先年」の「年」:最終画の縦棒をまるく跳ね上げて、円のようになる。

(155-4)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。

(155-6)「頭取(とうどり)」:松前藩町奉行配下の町方の頭取。

 *「頭取」:元来は、音頭を取る人。音頭取。雅楽の合奏で、各楽器特に、管楽器の首席演奏者。音頭(おんどう)が原意。転じて、一般に頭(かしら)だつ人の意になった。

(155-7)「不埒(ふらち)」:法にはずれていること。けしからぬこと。また、そのさま。ふつごう。ふとどき。不法。

 *「埒(らち)」:馬場の周囲に設けた柵(さく)。古くは高く作った左側を雄埒、低く作った右側を雌埒といい、現在は内側のものを内埒、外側のものを外埒という。

*「埒外」(かこいのそと。転じて一定の範囲の外)

*「埒が明く」:物事がはかどる。てきぱきと事がはこぶ。きまりがつく。かたづく。「埒が明かない」はその逆。語源説に、(1)奈良・春日大社の祭礼で、一夜、神輿の回りに埒を作っておき、翌朝、金春太夫がそれをあけて祝言を読む行事から。(2)賀茂の競馬の時に埒を結ぶところから。

(155-8)「唐津内沢町」:現松前郡松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。

(155-8)「御慈悲(ごじひ)」:「慈悲」は、仏語。「慈」は{梵}maitr 、「悲」は{梵}karuna の訳語。衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲。喜びを与え、苦しみを除くこと。テキストでは、あわれんでなさけをかけること。また、「お慈悲でございますから」などの形で、あわれみを請う意の慣用表現としても用いる。

(156-1)「願書(ねがいがき)」:願いごとを記した書き付け、手紙。

(156-2)「風邪(ふうじゃ・かぜ)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<(1)中国古代の「風」は、大気の物理的な動きとともに、肉体に何らかの影響を与える原因としての大気、またその影響を受けたものとしての肉体の状態を意味した。日本での「かぜ」はもともと大気の動きであるが、「感冒」の意の「かぜ」は、平安時代初期から見られ、おそらくは中国語の「風」の移入か。

(2)感冒が「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

(3)「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。>とある。

(156-3)「西舘町(にしだてまち)」:現松前郡松前町字西館・字唐津・字愛宕。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。

(156-4)「当時(とうじ)」:現代では、「その時。その頃。その昔」の意に用いるが、古文書では、「ただいま。現在。現今。今日(こんにち)」の意味になる場合が多い。

 (156-4)「ケシヨウ川」:現在の化粧川は、松前町建石地区を流れる普通河川。光明寺の奥が水源で、国道228号線に架かる大磯橋付近で日本海に注ぐ。

(156-6)「惣社堂」:松前郡松前町字建石・字弁天。近世から明治三三年(一九〇〇)まで存続した町。近世は松前城下の一町。松前城下の最も西に位置する町。東は生符いけつぷ町。

(156-9)「臥居(ふしおり)」:「臥」の偏の「臣」は「石」のように見え、旁の「人」は「ト」のように見える。

(156-10)「風呂敷」:物を包むための正方形の絹または木綿の布。正倉院の宝物にも、崑崙裹(こんろんのつつみ)といって、号楽の装束を包んだ、表は黄あしぎぬ、裏は白のあしぎぬの袷の風呂敷がある。古くは平包とか平油単と呼ばれていた。風呂敷と呼ばれるようになったのは銭湯の発達に伴うもので、手拭い、その他入浴に必要な品を包んで行き、入浴する時は脱衣などを包んでおき、帰りには濡れたものを包んで持ち帰ったところからきている。中世までは入浴に際し、男性は湯褌、女性は湯巻といって、入浴専用の褌と腰巻につけ替えて入り、湯から上がる時はこれを専用の下盥で洗って帰ったためである。このため、他人のものと間違えないように家紋や屋号を染め抜いて用いた。しかし江戸時代中期ごろには湯褌や湯巻を用いる習慣がなくなると同時に、脱衣籠や棚が出現したため、本来の風呂敷としての必要性は少なくなり、平包が風呂敷と同型のため、もっぱら平包を風呂敷と呼ぶようになった。荷物の持ち運びから商人の商品の運搬、旅行具にもなった。また蒲団などの収納具としても重宝されてきた。その他、江戸時代には頭巾にも用いられた。御高祖(おこそ)頭巾とか風呂敷ぼっちといってもっぱら女性が用いたが、この場合は表が黒や紫のちりめん、裏に紅絹(もみ)をつけたり、浅葱木綿でつくったりした。風呂敷の代表柄である唐草模様は、江戸時代の更紗の流行以後、寿柄として伝えられている。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』8月学習分注記

 7月学習分の注記の追加

(30-4)「ゆりきうたの崎」・・武四郎『廻浦日記』に、関内を過ぎて、「スナカイトリマ」と「ウスベツ」の間に「ヨリキウタ」があり、「少しの浜 漁小屋一軒有」とある。現せたな町の「ヨリキ岬」か。

(30-4)「ほろ嶋」・・武四郎『廻浦日記』には、「コウタ」(現せたな町の小歌岬)を過ぎて「ホロシュマ 小岬なり」とある。

 

8月学習注記

(32-1・2・4)「見ゆる」・・自動詞ヤ行下二段。活用形は、え(未然)・え(連用)・ゆ(終止)・ゆる(連体)・ゆれ(已然)・えよ(命令)。

 *1行目は、「見ゆる石」で、「見ゆる」は「石」にかかる連体形。

 *2・4行目は、「見ゆる。」で、感情や余情を含んで終止する「連帯止め」。本来は終止形の「見ゆ」。

(32-1)「水(み、みず)ぎわ」・・「幾」は「き(ぎ)」、「王」は「わ」の変体仮名。水際のこと。

 *「王」は、変体かなで「わ」の字源。旧仮名遣いでは「ワウ」。中国音で[wáng]。日本の発音では「ワン」に近い。

 *「王仁」は、「ワニ」と呼ぶ。応神天皇のとき、百済から呼びよせたとされる渡来人。「古事記」に「論語」をもたらしたとある。

 *「王」(4画)の部首は「玉」部(5画)で、部首より画数が少ない。

(32-2)「工(たくみ)」・・匠。「石工(いしく、せっこう)」のことか。

 *「工」を「ク」と読むのは、呉音。大工(だいく)、金工(きんく)など。

(32-2)「奥尻嶋」・・桧山地方の西方に位置し、日本海に浮かぶ離島。東西11㎞、南北27㎞、周囲84㎞。「奥尻」は、アイヌ語の「イクシュンシリ(向の島)」が転訛したもの。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に「おこしり島」、「天保郷帳」に、江差村持場之内ヲコシリとの記載がある。アイヌに命じて捕獲したオットセイの皮などは、幕府の献上品として重要視された。後、文久元年(1861)建網が導入され、春の鰊、夏の長崎俵物の生産場所に移っていった。

(32-2・3)「かいとりま」・・漢字表記名「貝取間」。昭和30年まで貝取澗村として存在。昭和30年、久遠村と貝取澗村が合併し、「大成町」となった。『北海道市町村行政区画便覧』によると、「旧貝取澗村は、文化年間に初めて乙部村の来住者をみてより、その後、慶応年間に至り東北地方より二十数戸の移住者がり戸口が増加するに至った」とある。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ(一名石カイトリマヘツ)」とある。

(32-3)「沙取間」・・『廻浦日記』には、「スナカイトリマ」とある。

(32-4)「鰊猟(にしんりょう)」・・「鰊」の旁は「東」でなく、「柬」。なお、中国では「鰊(レン)」は、「小魚」をいい、「ニシン」は「鯖」と書く。

(32-5)「松前」・・「松」は、「木」+「公」を上下に書いた異体字。

(32-5)「家也」・・「也」は、ひらがな「や」の字源。古文書にある「や」は、変体かなの「や」か、「也(なり)」と読む漢字かを、文意で判断する必要がある。テキストでは、「なり」と読み、「也」と翻刻する。

(32-6)「ウスベチ」・・「ウスベツ」とも。漢字表記地名「臼別」。江戸期、クドウ一円は、「ウスベツ」とも称され、場所名もウスベツ場所と呼ばれることもあった。

『廻浦日記』には、「ウシベツ」とあり、「本名ウスベツなるべし。夷人は、ウシベと云。川巾凡三十間余。小石川にて浅し。秋は鮭少し上るよし也。川中蒲柳おおしと。」とある。

(33-1)「小河しり」・・「しり」は、「尻、臀、後」で、最後の部分。後尾。しまい。

 本書では、「クドウ」の地名の由来を「小河じり」としているが、その由来は、諸説があり、以下、参考まで記す。

 1.上原熊次郎地名考

  夷語クントゥなり。弓を置く崎ということ。Ku-un-tu(仕掛け弓・ある・山崎)の意。市街の東側の稲穂崎のことである。

 2.松浦武四郎説。

   『再航蝦夷日誌』では、この岬を「本名クント(?)エトと云よし。クンは 黒し、エトは岬。也黒サキと云こと也」とする。

②『西蝦夷日誌』では、「グウンゾウにて、弓形に入り込んだ処のある岬」として、「弓・   の・山崎」と読んだものらしい。

3. 永田方正説

 ①元名「クンルー」(kun-ru)。危路の意。久遠村の岬端崩壊して、通路危険なるに名づく。

 ②アイヌが「クンルー」と発音するや殆ど「グンヅー」と聞ゆるを以て、和人      誤聞して「クドウ」と呼ぶ。旧地名解に弓を置く岬と訳し、松浦日誌に弓形と訳したるは、誤聞によりて誤訳したるなり。

或人云う、久遠の原名は、「アナクド」なりと。これは、俚人の妄想に係るのみ。     更科源三、山田秀三両氏とも、どちらが正しいか、急には決めることが出来ない

というスタンスといえる。          

(33-1・2)「ゆのしり」・・『廻浦日記』には、「ニヨシリナイ、訛てユノシリ川と云。」として、「ユノシリ」の名が見える。

(33-2)「運上屋(うんじょうや)」・・江戸期、場所請負人が、場所経営の拠点として現地に設けたのが運上屋(家)。第一次幕領期に、東蝦夷地が幕府の直営になったとき、「運上屋」は、「会所」に改められたが、西蝦夷地では、幕領となった後も場所請負制度が続けられたため、「運上屋」の名称は変更されなかった。なお、松前藩の復領後も、東蝦夷地では「会所」、西蝦夷地では「運上屋」の名称が継続された。

(33-4)「拝礼(はいれい)」・・頭を下げて、礼をすること。拝むこと。

(33-5~34-2)・・この儀式を「ヤンカブチ」という。

(33-5)「あくらをかき」・・「あくら」は、「胡座(あぐら)」で、「かき」は、「掛く、懸く、繫く」の連用形。両ひざを左右に開き、両足首を組み合わせて座る座り方をすること。

(33-6)「あげて」・・「阿(あ)」・「希(け・げ)」・「天(て)」。

 *「希」は、変体かなで「き」の字源。「希」の呉音が「け」。「希有(けう)」など。「き」は漢音。

(33-6)「いたヾく」・・「頂く、戴く」で、頭の上にのせてもつこと。

(34-1)「ひげを」・・「飛(ひ)」・「希(け・げ)」・「越(を)」

(34-2)「つゝしみたる容貌(ようぼう)」・・「津」は「つ」、「三」は「み」、「多」は「た」。影印の「兒」は、「貌」の異体字。常用漢字は、「貌」。

(34-2)「酋長(しゅうちょう)」・・かしら。特に未開人の部族のかしら。酋領。なお、「酋長」は、差別用語として、放送禁止用語に指定され、「首長」と訂正されている。

(34-2)「乙名(おとな)」・・一族の長。家長。中世末期、村落の代表者を指した。近世、蝦夷地において、請負場所内の各集落(コタン)の長を乙名と呼称した。なお、各コタンには、乙名のほか、脇乙名、小使と称する役蝦夷(役土人)がいた。後、安政3(1856)には、場所全体を統括する惣乙名を庄屋、惣脇乙名を惣名主、各コタンの乙名は名主と呼称が改められた。

(34-3)「耳かね」・・「耳金(みみがね)」で、耳たぶにつける金属製の装飾品。

(34-3)「耳かねをはめ」・・「耳」「可(か)」・「ね(年)」・「越(を)」・「者(は)」・「女(め)」。

(34-3)「黒羽二重(くろはぶたえ)」・・黒色の紋付などの礼装用の和服地。羽二重は、たて糸に撚りをかけない生糸を用いて平織りにした、あと練りの絹織物。柔らかく上品な光沢がある。

(34-3)「立葵(たちあおい)」・・アオイ科の越年草、延齢草の別名。茎のある葵の葉三つを杉形(すぎなり)に立てた形の紋所の名。

(34-4)「ぬふたる」・・影印は、「ぬ(縫)ふ」+「たる」となっているが、「縫ふ」の連用形は「縫(ぬ)ひ」で、活用からは、「ぬ(縫)ひたる」となるか。

(34-4)「単物(ひとえもの)」・・裏を付けないで仕立てた衣類の総称。特に、裏を付けない長着をいう。

(34-5)「黒紗綾(くろさや)」・・平織り地に四枚綾で稲妻や菱垣(ひしがき)などの文様を織り出した光沢のある黒色の絹織物。

(34-5)「しめたり」・・締めたり。「女」は「め」、「多」は「た」。

(34-6)「結たれは」・・影印の字形は「詰」にみえるが、文意から、「結」で「結(むすび)たれば」か。

(34-6)「惣髪(そうはつ)」・・男子の結髪の一つ。月代(さかやき)を剃らず、伸ばした髪の毛全部を頭頂で束ねて結ったり、または、束ねたり剃ったりしないで、髪を全部後ろへなでつけて垂下げたもの。

(35-2)「あつゝし」・・「あっし」とも。ここでは、オヒョウの靭皮の繊維を細かく裂き、糸にして織った布。またその布で作られたアイヌの服。

(35-3)「きれはち」・・「幾」は「き」、「連」は「れ」、「者」は「は」、「知」は「ち」で、「切れ端(きれはじ・きれはし)」のことか。

(35-3)「唐草様の形」・・唐草は、ウマゴヤシの別名。「唐草模様」のこと。つる草が絡み合う様を図案化した装飾模様のこと。日本では中国からの伝来といわれるが、古くから世界各地で用いられ、アラベスク(イスラム美術の装飾文様)もその一種。

(35-4)「筒袖の半てん」・・「筒袖(つつそで、つつっぽ)」和服で袂の部分がない筒型の袖の形をした、羽織に似た丈の短い上着。「半てん」は、「半纏、袢纏」。

(35-5)「呼給(よびたま)ひて」・・ここでの「給ふ」は、動作の主体(呼ぶ人)に対する尊敬を表す意で用いられており、「お呼びになられる」の意。

(35-6)「給(たまは)り」・・ここでの「給ふ」は、「与える」の尊敬語として用いられ、「お与えになる」の意。

(36-1)「釘」・・影印の字形は、「釘(くぎ)」に見えるが、前後の文意から、「針(はり)」の意。

(36-1)「賜(たま)ふ」・・「与ふ」、「授く」、「やる」などの尊敬語。

(36-2)「一覧(いちらん)」・・一通りざっと目を通すこと。

 *「覧」・・冠部左の「臣」が、大きく独立し、旁のように見え、脚部の「見」は、旁に見える場合がある。

(36-2割注左)「筆紙」・・筆と紙。文章に書き表すこと。用例として、「筆紙に尽くし難い」がよく使われる。

(36-3)「拝(はい)す」・・頭を深くたれて、敬礼する。

(36-3)「尋(たづぬ)る」・・「尋ぬ」の連体形。事情を問いただす。質問する。

(36-4)「掛刀」・・松浦武四郎の『蝦夷漫画』に描かれている「たん子ぷ、太刀のこと」か。   

(36-4)「弓箭󠄀(きゅうぜん・きゅうせん・ゆみや)」・・弓矢。

(36-5)「見ん事」・・「ん」は、文語助動詞「む」の転化したもの。「む」は、助動詞で、話し手自身の意志や決意を表し、「~するつもりだ。」、「~するようにしたい。」。

(36-5)「乞(こふ・こう)」・・人にあることを求める。

(36-5)「日本語(にほんご)」・・日本の言葉、言語。

(36-5)「悉(ことごとく)」・・のこらず。みな。

(36-6)「一二(いちに」・・一つ、二つ。若干。

『蝦夷嶋巡行記』7月学習分注記  

         

27-1)「官軍(かんぐん)」:天子・国家の正規軍。朝廷の軍勢。政府方の軍隊。ここでは松前藩の軍勢をいうか。なお、近世日本では、狭義には戊辰戦争時の新政府側軍隊を指す。

*続日本紀‐慶雲四年〔707〕五月癸亥「初救百済也。官軍不利」

*太平記〔14C後〕九・六波羅攻事「官軍多討れて内野へはっと引」

晉書‐桓温伝「耆老感泣曰、不図今日復見官軍」 

       <耆老(キロウ)感泣(カンキュウ)して曰(イワ)く、

        不図(ハカラズ)も、今日(キョウ)復(また)官軍を見(み)る>

       [古老は感泣して言った。「また官軍を見られるなんて、思ってもみなかった」]

  **「耆老」・・「耆」は六〇歳、「老」は七〇歳。六、七〇歳の老人。としより。

  **「晉書」・・中国の正史。二十四史の一つ。一三〇巻。房玄齢ら奉勅撰。唐の太宗の時、貞観二〇年(六四六)成立。

27―1)「日本と蝦夷と戦し時」・・『角川日本地名大辞典』には、

   「中世のアイヌと和人の攻防」として、享禄2(1529)3月、西部セタナイ(瀬棚)の首長タナイヌが乱を起こし、蠣崎義広が工藤祐兼と弟祐致を将としてセタナイに迎撃させたが、兄祐兼は戦死し、弟祐致は熊石まで逃れた。アイヌの進撃が急で、致し方なく海岸の巨巌に身を隠したところ、巌から黒煙が吹き出し、爆風雷光がとどろき、アイヌがたじろぐわずかな隙に、上ノ国に逃れることが出来たと伝える。

   更に、天文5(1536)、熊石の首長タリコナ(タナイヌの娘婿)が勢力を得て、上ノ国に攻めのぼるが、義広に謀られ斬殺された。それ以後、地内も静謐となったという。

(27-2)「其山」の「其」・・脚部が省略されて「廿」の形になることがある。

(27-2)「闇夜(やみよ・あんや)」・・くらい夜。月の出ない夜。

(27-2)「闇夜」の「闇」・(27-6)「問し」の「問」・・「門(もんがまえ)」のくずし字は、省略されて平たいカタカナの「ワ」、または、ひらがなの「つ」の形になることがある。

 *なお「問」の部首は、「門」ではなく、「口」部。

(27-2)「利を失ひ」・・「利を失う」は、いくさなどで、不利になる。劣勢になる。勝利を失う。敗れる。

 *「失ひ」の「失」の影印は、「矢」だが、くずし字では、よくある字形。

 (272.3)「進事不能(すすむことあたわず)」・・進むことができないこと。

 *「不能」・・「あたわず」と読むのは、漢文訓読の返読。

 *「能(あたう)」・・あとに必ず打消を伴って用いられたが、明治以後は肯定形も見られる。従って、「あたは」「あたふ」の形だけが用いられる。

(27-3)「敗軍(はいぐん)」・・戦いに負けること。

 *「敗軍」の「敗」・・くずし字では、旁の「攵(ぼくづくり・ぼくにょう・とまた・のぶん)が「久」の形になることがある。

(27-4)「言(いい)あやまり」・・言いまちがう。言いそこなう。言いあやまつ。

(27-4)「クトウ」・・現久遠郡せたな町大成区久遠。近世、「クトウ」は、西蝦夷地内の集落で、『松前西東在郷並蝦夷地所附』には、「うすへち」、「湯の尻」と並んで「くど」の名がみえ、また、『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「熊石村」より、「クトウ迄四里廿四丁五十六間」とある。

 安政3(1856)の松浦武四郎の『松浦竹四郎廻浦日記』(以下『廻浦日記』と略)には、「当所の地勢後は平山、左の方エナヲサキ、右の方ニシユヱトフと対峙して一湾をなし、浜未申に向ひて其処々家居す。此処小場所にして、惣て通行継立無レ無、只風波不レ宜時のみ此処に寄る也。」とある。

近代になり、明治14(1881)久遠郡の一艘澗村、三艘澗村、日方泊村が合併して、久遠村が成立。その後、昭和30(1955)貝取澗村と合併し大成町となり、更に平成17(2005)には、瀬棚郡瀬棚町、北桧山町、久遠郡大成町が合併し、久遠郡せたな町となる。

(28-1)「大鱲(たいりょう)」・「鱲師(りょうし)」の「鱲」・・「鱲」は、「猟」の当て字。本来、「鱲」は中国ではチョウザメ、わが国では、からすみ」をいう。

28-1)「互(たがい)に」の「互」・・くずしは、「楽」に似ているので、文脈で判断する。

28-1)「かせき」・・「稼ぎ」の意。

28-2)「そうて」・・沿うて。「そ」は「楚」、「う」は「宇」は、「て」は「帝」。

28-3)「深谷(しんこく)」・・底深い谷。

29-1)「併(しかし)」・・「併」は、国訓で、「しかしながら」の意に用いる。

29-2)「六月五日」・・『蝦夷日記』にも、一行は、64日から8日朝まで熊石に滞在。8日、熊石村を出帆している。

 *「六月五日」の「六」・・くずしは、冠の「亠(なべぶた)」を1画で書く場合がある。「下」のくずしと類似している。

291.2)「いかつち堂」・・「雷神堂」のこと。『渡島日誌』に、熊石村の中に、「畑中上に、雷神堂並て毘沙門堂並て雲母(キララ)崎小岬」とある。

29-3)「小祠(しょうし)」・・小さいやしろ。小さいほこら。

29-4)「びんの間」・・『松前西村々蝦夷地クトウより北蝦夷地嶋迄地名海岸里数書(写本)』には、「ヒンノマ」とある。『渡島日誌』には、「ヒンノマ、此処迄人家有。」としている。

 *「びんの間」の「び」・・変体仮名「ひ」。字源は「飛」。

29-6)「ゆかゝした」・・『松前西村々蝦夷地クトウ~里数書(写本)』には「ヲカノシタ」、『渡島日誌』には「岡下」とある。「ヲカノシタ」か。

29-6)「湄(ほとり)」・・みぎわ。水と草とが交わるところ。『漢辞海』に臨むは、後漢の『釈名』)を引き、「水に臨むさまが、眉が目に臨むのに似ている。」とある。

30-1)「せきない村」・・現八雲町熊石関内町。近世初期、和人地の西境が、それまでの上ノ国から熊石まで拡大されて、関内に番所が設置された。『渡島日誌』には、「関内村、人家十二軒、熊石村分也。前に川有、歩行わたり。海にヨシカシマ暗礁という有。」、「テケマ四丁二十間、ホンモエ、境目に至る。是を境に(西地)入るや皆場所と云。是迄をシャモ土云也。」とある。

30-3)「でけま」・・「渡島日誌」には、「テケマ」とある。

30-3.4)「ゆりきうたの崎」・・不詳。

30-4)「ほろ嶋」・・不詳。

31-2)「究(きめ)たれハ」・・「究める(動詞)」の連用形+「たり(助動詞)」の未然形+「ば(接続助詞)」。

31-3)「同(ひとし)」・・『名義抄』に、「同」の訓に、「オナジ・ヒトシ・ヒトシウス・アツマル・トトノフ・ノリ・カタシ」などをあげている。

*『名義抄』・・『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』の略。平安末期の漢和辞書。編者名は不明だが法相(ほっそう)宗の僧侶の編で、院政期の成立かという。仏・法・僧の三部仕立とし、漢字を偏旁によって分類、音訓・字体などを示す。文字史・漢文訓読語研究の重要資料であり、和訓の部分に付された声点は平安時代のアクセントを知るのに貴重。

31-4)「いしかい取澗」・・現せたな町大成区貝取澗の内。『廻浦日記』には、「カイトリマヘツ、小川也。一名石カイトリマヘツと云。訳は石浜なれば也。本名カイトマイなるべし。」とある。

31-6)「そばたちたる」・・峙ちたる。聳ちたる。「峙つ。聳つ。」は、稜(そば)が立つ意で、岩、山などが、ほかよりひときわ高くそびえていること。

 *変体仮名の字源は、「楚(そ)・者(ば)・多(た)・ち(知)・た(太)る(留)」

7月 町吟味役中日記注記

(146-6)「漸(ようやく・ようよう)」:①漢語「漸」は「しだいに、だんだん」の意。②和語の「ようやく」は、①「しだいに、だんだん」に加えて、「やっと、どうにかこうにか」の意味もある。つまり、古くは漢文訓読用語であった「ようやく(漸)」に対して、主として仮名文学、和文脈で用いられた。別添資料『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』(古田島洋介著 吉川弘文館 2013)参照。

(148-1)「最前」の「最」:テキスト影印は「最」の俗字「㝡」のくずし字。

(148-2)「若(もし)」:「若」を「もし」と読むのは、漢文訓読体。「若(わか)し」は、国訓に過ぎず、漢字本来の意味ではない。なお、漢文訓読体で「わかし」は、「少(わか)し」。

(148-2)「如何(いかが)」:くずし字の決まり字。形で覚える。

(148-3)「周章(しゅうしょう)」:あわてふためくこと。うろたえ騒ぐこと。

(148-5)「別て(而)」:副詞。特に、とりわけ、ことに。

(148-6)「其方(そのほう)」:室町時代以降の用法。武士や僧が、自分より目下の者に対して用いるやや固い響きの語。おまえ。きさま。

(150-4)「曽(かつ・かっ・かつっ)て」:①ある事実が、今まで一度として存在したことがない、という経験に基づく否定を表わす。今まで一度も。まだ全然。かつてもって。

 ②ある事実が、過去のある時点に存在したことがある、という回想的な肯定を表わす。以前。昔。ある時。③まだ起こらない事について、それは実現しないだろう、また、実現させるべきではない、という否定を表わす。どんな事態になっても。ちょっとでも。

 *テキストでは、①か➂。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)「日本書紀」の古訓や訓点本などにみられるが、上代の文献で仮名書きの例は見当たらない。「万葉集」では「都」と「曾」の文字がカツテと読まれている。

(2)「都」は本来、すべての意であるが、打消の語を伴って完全否定のような用いられ方をし、「曾」は以前の意で「嘗」と通用して使われる一方、打消の語とともに用いられて「都」同様、否定の強調に使用される。

(3)この語は平安時代では漢文訓読に用いられ、和文では、「つゆ」が用いられる。カッテと促音に読むのは近世以後のことである。>とある。

(150-4)「無御座候」:「無」が極端に平になっている。また、「御」と接近している。

(150-5)「手合利(てごうり)」:手行李。行李は、携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。それより少し大きいものは旅人たちの振分荷物を入れるものとして手行李とよばれた。江州水口では小さな精巧な真藤製品がつくられ、同高宮や山城でも同じく真藤製品が名産、但州の豊岡・出石と因州用瀬は柳製品の産地である。現在では兵庫県豊岡市(柳行李)、静岡県御殿場市周辺(竹行李)などで生産されている。

(150-6)「差図(さしず)」:「差図」は、本来は、地図・絵図・設計図をいう。また、建築の簡単な平面図をいう。設計のため、あるいは儀式などの舗設を示すために描いたもの。平安時代の日記類には指図が多く描かれていて、風俗史・住宅史の貴重な史料となっている。なお正倉院蔵の東大寺講堂院の図はこれに類するもので、建築の平面図として最古のものである。

 *テキストでは、物事の方法、順序、配置などを指示すること。指揮すること。また、その指示・指揮。命令。現在では、「指図」が一般的。

 *「差図」の「図」:くずし字では、「囗(くにがまえ)」の縦棒を、最後に、左右に「ヽ」を書く場合がある。


5月 町吟味役中日記注記

                                       

4月学習テキストP1403行の「左近将監」の注記について>

◎参加者から<近衛府と衛門府とでは次官(スケ)の呼び方(表記の仕方)が異なる。すなわち、近衛府の次官は『中将または少将(左や佐ではなくて)』だから、『右近衛中将(うこんえのちゆうじょう』『左近衛少将(さこんえのしょうしょう』という呼び方になる。、吉良上野介は『左近衛少将』>とのご意見をいただきました。

◎「近衛府」と「衛門府」の官名を混同していましたので訂正します。

・近衛府の4等官名・1位(かみ):大将、2位(すけ):中将、少将、3位(じょう):将監(しょうげん)、4位(さかん):将曹(しょうそう)

・衛門府の4等官名・・1位(かみ):衛門督(えもんのかみ)、2位(すけ):衛門佐(えもんのすけ)、3位(じょう):衛門大尉(えもんのだいじょう)、衛門少尉(えもんのしょうじょう)二人、4位(さかん):衛門大志(えもんのだいさかん)、衛門少志(えもんのしょうさかん)

 

5月学習分>

(141-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く

書簡文に用いる。

(141-4)「其(それ)」:文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。

(141-4)「領分(りょうぶん)」:江戸幕府の制。目見(めみえ)以上の領地を知行、目見以下の領地を給知といったのに対し、一万石以上の大名の領地の称。

(141-4)「平内茂良(ひらないもら)村」:現青森県東津軽郡平内町茂浦。東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂(しらすな)村・滝村と境し、南は浪打(なみうち)山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。茂浦から北方の夏泊崎まではリアス海岸で、漁業に適し、藩政時代海浜は製塩地として重視され、平内地方の総生産は月一千俵とみられた。塩は青森の塩しお町の業者に移出し、飯米と交換していた。

当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。前述の「一人旅に宿貸すな」もその一つで、若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜しおがま神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。身を切るような冬の夜、水浴して心身を清めるのは、海に生きる若者たちへの試練であろう。

(141-5)「五ヶ年」の「ヶ」:「ヶ」は、もともと「箇(か)」の略体「个」から出たもので、かたかなとは起源を異にする。いわば記号といえる。「三ケ日(さんがにち)」「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように、読みに、連体助詞の「が」にあてることがある。これは「ケ」の転用である。

(141-5)已前(いぜん)」:「已」は、「以」と通用する。「已」も「以」も漢文訓読用法では

助詞「から」「より」で、「已前」は、「前より」と返読する。テキストの「已前よ

り」は、「前よりより」となり、「より」が重複することになる。

(141-6)「去卯(さるう)」:去年の卯年。天保2(1831)辛卯(シンボウ・かのとう)。

    *「天保」の読み方:「保」は、「ホ」(呉音)でなく、漢音「ホウ(ボウ・ポウ)と読む。年号の「保」は、漢音で読む。「享保(きょうほう)」「保元(ほうげん)」「神田神保町(かんだじんぼうちょう)」など。

(142-2)「鯡(にしん)」:<近世蝦夷地の漁業の中核をなしたものはニシン漁業である。ニシンは和名を「かど」、「青魚」「鯖」「白」「鰊」の文字をあてていたが、近世において特に「鯡 」の俗字が用いられていた。蝦夷地では米が穫れず、ニシンが肥料として本州へ移出され、米となって還元されて来るので、米に代わる魚として「鯡 」という字が造られたといわれている。それほど、ニシンは蝦夷地の漁民にとって重要な魚であった>(『福島町史』)

*「鯡」は、「金肥」といわれ、「魚に非(あら)ず」と書いて「ニシン」と読んだことから、国字とする向きもあるが、「はららご」(産卵前の魚類の卵塊)を意味する漢字である。音は「ヒ」。国訓で「にしん」だが、近世、中国に逆輸出され、現在、中国でも「鯡」を「にしん」の意味で使う。もともと、中国で「にしん」には「鯖」を当てた。

(142-3)「さも無之(これなく)」:「さ(然)もなし」は、たいしたこともない。どうということもない。影印は「左茂無之」とあるが、「左」も「茂」も変体仮名。翻刻は「さも無之」とする。

(142-3)「酒狂(シュキョウ・さかぐるい)」:酒に酔って狂い乱れること。また、酒におぼれること。酒乱。

(142-4)「不法之儀等」の「等」:カタカナの「ホ」に近いくずしになる場合がある。この形になることについて、茨木正子著『これでわかる仮名の成り立ち』(友月書房)は「脚部の寸が独立したものと思われる。『す』と区別するため、肩に「ヽ」がついたものか」とある。

(142-4)「手向(てむかい・たむかい・てむかえ・たむかえ)」:てむかうこと。はむかい。抵抗。反抗。てむかえ。

(142-5)「異見(いけん)」:いさめること。忠告。説教。訓戒。

    *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

     <(1)表記は、「色葉字類抄」に「意見」とあるが、中世後期の古辞書類になると「異見」とするものが多く、「又作意見」(黒本本節用集)のように注記を添えているものも見られる。近世の節用集類も「異見」を見出し表記に上げているが、明治時代に入ると典拠主義の辞書編纂の立場から「意見」が再び採られるようになり「異見」は別の語とされた。文学作品の用例を見ても、中世後期から近世にかけては、「異見」が一般的であった。

(2)「意見」は、「色葉字類抄」に「政理分」と記されていることや「平家物語」の用例によると、本来は政務などに関する衆議の場において各人が提出する考えであった。そのような場で発言するには、他の人とは異なる考えを提出する必要がある。そのようなところから、「異見」との混同が生じたものと思われる。

(3)中世も後期になると、「異見」の使用される状況も拡大し、「虎明本狂言・宗論」などに見られるように、二者間においても使用されるようになった。それに伴い、「日葡辞書」が示すような(2)の意味も生じてきた。この意味での使用が多くなり、「異見す」というサ変動詞や「異見に付く」や「異見を加ふ」といった慣用句までできてきた。最初のうちは、相手が目上・目下に関わらず使用されていたが、訓戒の意が強くなり、次第に目上から目下へと用法が限定されてきた。>とある。

(142-6)「差加(さしくわ)へ」:「差し」は接頭語。動詞「さす(差)」の連用形から転じたもの。動詞の上に付いて、その意味を強め、あるいは語調を整える。「さす」の原義を残して用いるものもある。「さし出す」「さし置く」「さし据う」「さし曇る」など。

    *「差」など、冠と脚で構成される漢字のくずしは、2字分あると思うほど縦長になる場合がある。

(143-4)「腰縄(こしなわ)」:江戸幕府の被疑者・犯罪者戒護の一方法で、捕縄を用いた縛り方。被疑者・犯罪者の逮捕や護送などにあたり、捕縛に本縄と腰縄の別があった。腰縄は軽い罪の場合に用いられ、腰に縄を巻き、併せて両腕が伸びないように羽がいじめに縛り、羽織着用の場合はそのうえから縄をかけた。上級武士には本縄はかけず、腰縄だけであった。遠隔地からの庶民の護送は、軽い場合には手鎖腰縄つき、または腰縄だけで歩かせ、重い場合には唐丸駕籠(とうまるかご)に入れた。

(143-4)「酔醒(よいざめ・よいざまし)」:酒の酔いがさめること。また、その時。

    *「酔」:「酉」+「卒」。「酉」は酒つぼの象形で、酒の意、「卒」は、「まっとうする」で、「酒の量をまっとうする」→「よ(酔)う」の意を表す。

    *「醒」:「星」は「澄みきったほし」の意味。酒の酔いがさめて気分がすっきりするの意味を表す。

    *「酔」は、常用漢字になっている。旁は「卒」の俗字「卆」。旧字体は「醉」で、旁は「卒」。「酔」の構成部分(旁)に、俗字が採用された例。

    *常用漢字になって構成部分が俗字の「卆」が使用された例:「粋」(旧字体は「粹」)

    *常用漢字でないので、構成部分が「卒」のままの例:「悴(せがれ)」、膵臓の「膵」、翡翠の「翠」

(143-4)「酔醒候迄」の「迄」:決まり字。

(144-2)「一体(いったい)」:もともと。

(144-2)「不快(ふかい)」:病気などのために気分がよくないさま。また、病気。

(144-4)「合利(こうり)」:行李。携行用収納具の一種。竹・柳・真藤などでつくられ、古代より行われる。大中小さまざまの形態があり、大は衣服入れ、小は弁当行李として利用され、中は越中の薬売や越後の毒消売をはじめ、近世社会の行商人はこれを風呂敷に包んでかついだ。

(144-6)「手合利」:手行李。旅人たちの振分荷物を入れるもの。

(145-3)「朋輩(ほうばい)」:「朋」はあて字。同じ主君、家、師などに仕えたり、付いたりする同僚。同役。同門。転じて、仲間。友達。

『蝦夷嶋巡行記』5月学習分注記  

     

4月例会での意見について>

P142.3行「折居神は、姥の娘」か、「姥の始」か。

・影印は、「娘」とする。

・姥神大神宮の由来については諸説あり、「於隣(おりん)」なる姥のお告げで、ニシンが群来して人々を飢えと寒さから救い、以来、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀ったと云われている説、老夫婦説もある。「娘」説は見当たらない。「姥の始」も、「姥が始」とすれば、意味が通じなくもない。しかし、影印は「娘」として、ここは「姥の娘」と見る。

 

<5月学習分> 

22-1)「語者有」の「語」・・旁の「吾」の脚部の「口」が「ニ」のようになる。

22-1)「彼か(が)家」・・彼の家。「が」は、格助詞。

22-2)「さも」・・「佐」は「さ」。「さも」は、副詞「然(さ)」に助詞「も」が付いた連語。いかにも。まことに。

22-3)「忍びかね」・・「ひ(び)」は「飛」、「か」は「可」、「ね」は「年」。

     *変体仮名「年(ね)」・・最終画を上に円を描くように跳ね上げる。

      4行目「去年」の「年」、6行目「年々」の「年」など。

22-3)「持合居たる」の「た」・・字源は「多」。上部の「夕」が小さく、下部の「夕」が大きく、「両」のくずしのようになる。極端にくずすと「こ」になる。

223.4)「三右衛門トも」・・「トも」は「共」の意か。

22-4)「門送(かどおくり)」・・人を門口まで見送ること。葬式の時、死者の家へ行かず、自分の家の門に立って棺を見送ること。

22-4)「駒(こま)」・・子馬、小さい馬。牡馬をさしていうこともある。転じて、馬の総称。

22-4)「別而(べっして)」・・副詞。格別であるさま。特に。とりわけ。

     *「別方(べっしてかた)」・・特別に親しくしている人。別懇の方。

     *「別者(べっしてもの)」・・特別に親しくしている者。特に懇意な者。

22-5)「所々(しょしょ・ところどころ)」・・あちこと。ここかしこ。

22-6)「ふせぎ」・・「婦」は「ふ」、「世」は「せ」、「幾“」は「ぎ」。

23-1)「船橋(ふなばし・ふねはし)」:多数の船を横に並べて綱または鎖でつなぎ、その上に板を渡して橋としたもの。橋梁のかけにくい河川に恒久的に設けるものと、橋梁のない河川で臨時に設けるものがある。浮橋。

     *「船橋」のランキング・・江戸時代後期における日本の橋の長さを並べた番付表『日本大橋尽』にある船橋では、「越中船橋」(65艘・現富山市・神通川)が65艘、ついで南部船橋(48艘・現盛岡市・北上川)、3位は「越前船橋」(48艘・現福井市・九頭竜川)が上位にある。

     *千葉県船橋市・・船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し、橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。

     *越前船橋・・九頭竜川に架かる越前船橋について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』に、

     <「越藩拾遺録」は「凡此川幅百五間余、橋ノ長サ百二十間、鎖五百二十尋、舟四十八艘、浦々ヨリ出スニ、イロハノ印ヲナシテ今ニ至リテ毎年修理ヲ加フ」と記し、次のようにある。

所謂いノ印二艘泥原新保浦、ろ一艘和布浦、は一艘蓑浦・松蔭浦、に一艘長橋浦、ほ一艘菅生浦・鮎川浦、へ二艘大丹生浦・小丹生浦、と一艘大味浦、ち三艘蒲生浦・茱崎浦、り一艘居倉浦、ぬ半艘左右浦、る一艘半玉川浦、を三艘海浦、わ二艘宿浦、か二艘新保浦、よ一艘小樟浦、た一艘大樟浦、れ二艘道口浦、そ一艘厨浦・茂原浦、つ一艘高佐浦、ね一艘米浦、な一艘糠浦、ら一艘甲楽城浦、む一艘今泉浦、う一艘河野浦、ゐ一艘池ノ平浦、の二艘大谷浦、お三艘三国浦・宿浦、く一艘米ケ脇浦、や一艘安島浦、ま一艘崎浦、け一艘梶浦、ふ一艘浜地浦、こ一艘波松浦、え二艘北方浦、て一艘半浜坂浦、あ一艘半吉崎浦、以上四十八艘、藤縄ハ国中在々ヨリ出シ丸岡領ハ代物ニテ出ス。鋪板百十組、行桁八十六間、長板三十六間但長三間、亘一尺五寸、厚四寸福井領ヨリ出ス。大水ニテ橋流レタル時、他領ニテ留レバ舟一艘ニ鳥目二百文、鋪板一組ニ百文、行桁一本ニ五十文ヅツ、福井領ハ舟一艘ニ人足二人、鋪板一組ニ人足一人、行桁一本ニ人足半人ヅツ下サルル定ナリ>とある。

23-1)「大茂内村(おもない・むら)」・・現乙部町のうち。近世から明治初年の村。小茂内(こもない)村の北、突符(とつぷ)川流域に位置する。『松前島郷帳』には「大もないむら」、『天保郷帳』には「大茂内村」とある。『渡島日誌』には、「大茂内村、突符村分、八十八軒。文化度四十五軒。従小茂内三丁五間。産物同前。鎮守熊野社並て天満宮、傍に清順庵と云道場有」とある。「松前随商録」には「ヲウモナイ」として「運上場、小名トツフ・ヲカシナイ・ミツヤ・川シラ」とあり、突符(とつぷ)村・三谷(みつや)村・蚊柱(かばしら)村などをも含んでいたようである。旗本領であったため、天明年間(1781~89)に松前藩領の小茂内村と村境相論が発生。文化5年(1808)には本村の宮歌村の定住者と当村への出稼者との間で税負担をめぐり争論が起きている。

23-3)「桑林」・・影印の「桒」は「桑」の異体字(俗字)。

23-4)「往来は船に而往来せしか(が)」・・最初の「往来」は、「往古」で、「往古は船に而往来せしか(が)」か。

23-5)「如斯(かくのごとく)」・・「如斯」と返読する。「如」のくずしは「め」「そ」「ち」のように、極端にくずれる場合がある。下は『くずし字辞典』より

24-1)「三谷村(みつや・むら)」・・現乙部町三ツ谷(みつや)。町の北部。西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「清水川越て三ツ谷村、人家六十二軒。文化度は三十五軒也と。産物鯡、鱈、烏賊、鮑、海参、昆布、海苔、雑漁多しと。浜形酉向、西に宮歌岬。左りヲカシナイ岬、其間一湾をなしたり。」とある。

24-2)「瓦崎」・・影印は「瓦」に近い。「シビノウタ」か。『渡島日誌』には、「シビノウタ、小川、人家有、従是本道は九折を上りて野に出る。此処に境目、岡道有。傍にスボの社、所祭諏訪社也。是諏訪の訛かと思はる。」とある。また、『罕有日記』には、「シビ崎、スワ崎ともいう。」としている。

24-2)「ゑワ崎」・・武四郎『東西蝦夷山川地理取調図』に「イワサキ」が見える。

24-4)「蚊野村」・・「蚊柱村(かばしら・むら)」か。現乙部町のうち。『松前島郷帳』には「かはじら村」、『天保郷帳』には「蚊柱村」とある。『渡島日誌』には、「蚊柱村、人家八十一軒。文化度五十四軒。従三谷村三十一丁廿間。浜形戌向。上は崖、浜には磯多く、其間に小船懸るに宜し。産物前に同じ。」とある。

24-5.6)「相沼内(あいぬまない)」・・現八雲町熊石相沼町。町の南部。南境を相沼内川が流れ、南西は日本海に面する。『天保郷帳』には「相沼内村」とある。『渡島日誌』には、「相沼内村、人家百六十二軒。文化度百八軒。従蚊柱村一里三丁。~中略~。名義は蕁麻多沢(アイウシナイ)との儀なり。*蕁麻=いらくさ・からむし」、「浜形酉向、左ヲリト岬、右黒岩岬の間一湾となりて砂利場。処々暗礁有て小船懸り宜し。土産蚊柱に同じ。」とある。

25-3)「泊り川村(とまりかわ・むら)」・・現八雲町熊石泊川町。『松前島郷帳』、『天保郷帳』ともに、「泊川村」とある。旧熊石町の南部。北東は旧八雲町に接し、南西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「泊川村、人家二百六軒。文化度八十六軒。従相沼内七丁五十六間。浜形相沼内に同じく、土産も同じ。」とある。

25-3)「境権現(さかいごんげん)」・・『渡島日誌』には、「是立岩権現とも、また境権現とも云」とある。

25-4)「水かれて」・・「可」は「か」、「連」は「れ」。「水涸れて」の意。

25-5)「うかち」・・「宇」は「う」、「可」は「か」、「知」は「ち」。「穿(うが)つ」の連用形。

261.2)「幅四十間の河」・・見市川(けんにちがわ)。「渡島日誌」には、「見日川、川巾二十余間、急流、石川なり。雪融頃は時々怪我人有。此辺りえは渡し船を備置度事也」とある。

26-2)「熊野村」・・「熊石村」か。現八雲町熊石。昭和387月版の『北海道市町村行政区画便覧』の熊石町の「開基及び沿革」にいると、「アイヌ語「クマウシ」(魚乾竿のある所)より転訛したものである。遠く宝徳年間(1449~1452)より和人が居住していたが、寛保元年(1741)の大海嘯のため全村が全滅し、延享元年(1744)に佐野権次郎江差より移住してより再び移住者を見るようになった。享禄2(1529)本村を雲石と称したが、元禄5(1692)5月熊石村と改称された。」とある。『蝦夷日記』には、「熊石村泊、松前より三十二里、家数五十七軒、人数二百拾六人。当所は蝦夷地の境なり。クドウ場所迄海上五、六里。風待にて二日逗留。」とある。

      『渡島日誌』には、「熊石村役所、従泊り川村二里十丁五十間。従江指御役所下川々除き九里二十七丁二十三間。従松前沖ノ口役所二十六里二十丁四十間。人家三百二十六軒、文化度百九十一軒。元はクマウシと云し也。訳して鯡棚多し(クマウシ)の儀。鯡棚一面に架れば如此号し也。」とある。

      また、『角川日本地名大辞典』によれば、「江戸期の熊石村の町域には、元禄13年の『松前島郷帳』には、あいの間内村、泊川村、見日村、くま石村、ほろむい村。『天保郷帳』には、相沼内村、泊川村、熊石村がみえる。文化年間(1804~18)の記録によると、地内には相沼内、泊川村、見日村、熊石村、関内村の5集落がある。」としている。

      この外、熊石地内から、縄文期の大洞式の注口土器とともに、頭、手、胸、下腹部に白色メノウ(瑪瑙)5個を挿入した土偶が出土しており、国内では例がなく「メノウ入り土偶」と呼ばれ、東京国立博物館に所蔵されている。

26-5)「突兀(とっこつ・とつこつ)」・・山や岩などの険しくそびえているさま。

26-6)「そひへたる」・・「楚」は「そ」、「飛」は「ひ」、「多」は「た」。「聳えたる」

26-6)「雲石」・・『渡島日誌』には、「雲石、沖中二丁に有。と云石有。」と「石」にしている。なお、奇岩「雲石」は、現八雲町熊石雲石(うんせき)町内に所在する。

4月 町吟味役中日記注記 2018.4.9

(134-1)「鯡(にしん)」:国訓では「ニシン」。漢語では「ヒ」と読み、魚の卵のこと。なお、中国では「鯖」が「ニシン」を表す。

(134-3)「家内(かない・いえうち)」:家中の者。家の者全部。

    ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

    <(1)「家庭」という言葉が一般に用いられるようになる明治中期以前は、「家内」や「家」がその意味を担っていた。明治初期の家事関係の書物には「家内心得草」(ビートン著、穂積清軒訳、明治九年五月)のように、「家内」が用いられている。

(2)現在では「家内安全」のような熟語にまだ以前の名残があるものの、「家庭」の意味ではほとんど使われなくなり、自分の妻を指す意味のみが残る。>とある。

(13-4)「荒増(あらまし)」:事件などのだいたいの次第。概略。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

    <「粗(あら)まし」という語源を考える説もある。また、「まし」は「はし(端)」の転で、有り始めの意からともいう。>とある。

(135-3)「呼越(よびこし)」:「呼び越す」は、呼んで来させる。招き寄せる。

(135-6)「幸ひ」:「幸」の脚部の「干」が円(まる)になる場合がある。

 (136-3)「別心(べつしん)」:相手を裏切るような心。そむこうとする気持。ふたごころ。異心。

(136-4)「手限(てぎり)」:江戸時代、奉行、代官などが上司の指図を得ないで事件を吟味し、判決を下すこと。手限吟味。

(136-4)「相当(そうとう)」:ふさわしいこと。また、そのさま。相応。6

(136-4)「申付度(もうしつけたく)」の「度(たく)」:願望の助動詞「たし」の連用形で、訓読み。漢音を和語に利用した。

    *「忖度」の「度(タク)」は漢音。(「度」は呉音)

    *鎌倉時代ころから、「度」の字音「タク」を利用して「めでたく」「目出度」と表記した   例が見られる。のち、願望の助動詞「たし」の各活用の表記に用いられた。(『漢辞海』)

(136-5)「無急度(きっとなく)」:急度と同じ。かならず。

(136-5)「利解(りかい)」:理解。道理。わけ。また、わけを話して聞かせること。説得すること。

(136-6)「兎角(とかく)」:副詞「と」と副詞「かく」を合わせたもの。「兎角」は、当て字。

あれこれ。あれやこれや。何やかや。さまざま。いろいろ。とかくに。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には

(1)対照的な内容をもつ副詞「と」と「かく」を複合して用いるもので、中古以降現代まで使われている。古語においては、「かく」のクがウ音便化して「とかう」となることもある。

(2)「と」「かく」にそれぞれ付加的要素をつけて、「とにかくに」「とにもかくにも」「ともかくも」「とやかくや」「とてもかくても」「とてやかくてや」、また「とあるもかくあるも」「と言ふともかく言ふと」「とやせんかくやあらまし」など、「と」「かく」それぞれが単独で副詞本来の用法を果たすものである。名詞が結びついて、「戸様各様」の用に用いられることもある。>とある。

(136-6)「得心(とくしん)」:心から承知すること。納得(なっとく)。

(137-2)<尊敬の体裁・平出>:2行目の行末「吟味」のあと、空白があり改行されている。この体裁を「平出」といい、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。テキストでは、「公辺」に敬意を表している。

(137-2)「公辺(こうへん)」:公儀。将軍家。幕府。政府。お上(かみ)。また、それにつながるもの。役所。

(137-3)「差出」の「差」:冠部と脚部が離れており二字見えるが「差」一字。

(137-3)「左候節(さそうろうせつ)」:然(さ)候節。そのような折。「左」は本来は、縦書きの文章では、次のことが左側にあるところから、次に述べるような、文章や事項をいうが、テキストでは、「然(さ=そうような)」の当て字。

(137-4)「遠国(おんごく・えんごく)」:①遠くはなれた国。都から遠くはなれた辺鄙(へんぴ)な土地.②律令制の行政区画である国を、都からの距離によって、近・中・遠の三等に分けた一つ。延喜式によると、遠国には、関東以北、越後以北、安芸石見以南および土佐国が含まれた。テキストでは①。「オン」は呉音、「エン」は漢音。

(137-5)「手数(てかず・てすう)」:それに施すべき手段・手法・技(わざ)などの数。「てすう」と読むと湯桶読み。

(137-6)「腹蔵(ふくぞう)」:心の内にひめ隠すこと。心に思っていることをつつみ隠して外に現わさないこと。

(137-6)「被仰合(おおせあわせられ)」:「仰せ合す」は、多く、助動詞「らる」を付けて用いる。「言い合わす」の尊敬語。御相談になる。

(137-6)「被仰合」の「仰」のくずし字:旁が極端に省略されている。

(138-4)「乍去(さりながら)」:そうではあるが。しかしながら。「さり」は、本来「然り」で、「去」は当て字。

(138-5)「被仰聞(おおせきけられ)」:下一段活用他動詞。「聞ける」は「聞かせる」の意。

    「いいきかせる(言聞)」の尊敬語。言ってお聞かせになる。聞かせて下さる。また、上の命令などをお言い聞かせになる。

     *「聞ける」の活用:れ(未然)・れ(連用)・ける(終止)・ける(連体)・けれ(已然)・けよ(命令)。

     *「被仰聞(おおせきけられ)」の組成:「仰聞(おおせきける)の未然形「おおせきけ」+尊敬の助動詞「らる」の連用形「られ」。

      **助動詞「らる」の接続:未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続する。「おおせきく」の未然形は「おおせきけ」で「け(ke)」で「e」。

(138-6)「可得貴意(きいをうべく)」:「貴意」は、相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

    *組成:「貴意」+下2段動詞「得(う)」の終止形「う」+推定の助動詞「べし」の連用形「べく」

      **助動詞「べし」は動詞の終止形(ラ変動詞は連体形)に接続する。

(139-1)「恐惶謹言」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。「惶」はおそれかしこむ。書き止めという。テキスト影印はわりとしっかりかかれているが、崩した連綿体も多い。

    *「書き止め」:書状など文書の末尾に書く文言。書止め文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。

    代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。

実際の文書では「謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。

(139-3)「蛎崎四郎左衛門」:当時、松前藩の勘定奉行で、町奉行も兼ていた。のち家老格となった。

(139-6)「新井田周次」:松前藩町奉行。

(140-1)「鈴木紀三郎」:松前藩町奉行。

(140-3)「津軽左近将監」:弘前藩11代藩主・津軽順承(ゆきつぐ)。在位期間天保10年(1839)~安政5(1859)。寛政12(1800)113日生まれ。三河吉田藩主松平信明(のぶあきら)3男。津軽親足(ちかたり)の養子となり、文政8(1825)陸奥黒石藩藩主津軽家2代。ついで宗家津軽信順(のぶゆき)の養子となり、天保10

(1839)陸奥弘前藩藩主津軽家11代。倹約,開墾により藩財政を再建,また洋式兵学をとりいれた。元治2(1864)25日死去。66歳。

   *「左近将監」:官位名。「左近」は、左近衛府。右近衛府禁中の警固、行幸の警備などに当たった律令国家の軍事組か。「将監」はその近衛府の第三等官(ジョウ)。なお、第一等官(カミ)は、大将、第二等官(スケ)は、衛門左、第三等官(ジョウ)が将監、第四等官(サカン)は、将曹(しょうそう)。

(139-46及び140-2)<花押・華押(かおう)>:花字(かじ)の押字の意。 文書で、署名の下に書く自筆の書き判。多くは、実名の文字をくずして図案化したものを用いた。

   *花押:自署の代りに書く記号。押字ともいい、その形が花模様の如くであるところ

から花押とよばれた。また判・判形ともよばれ、印判と区別して書判(かきはん)と

もいう。花押は個人の表徴として文書に証拠力を与えるもので、他人の模倣・偽作を

防ぐため、その作成には種々の工夫が凝らされた。

   花押は中国唐代の文書からみえるが、我が国では十世紀の頃から次第に用いられる

ようになった。はじめ自署は楷書で書くのが例であったが、行書から草書へと変わ

り、特に実名の下の文字を極端に簡略化し、次第に二字の区別がつかなくなって図

様化した。これを草名(そうみょう)という。

   花押には、その人の趣向や時代の流行により、各種の作り方があった。江戸時代の有

職家、伊勢貞丈(一七一七―八四)の『押字考』は、草名体・二合体・一字体・別用

体・明朝体の五種を挙げている。草名体は、上記の如く花押の発生期に現われたもの

であるが、鎌倉時代以降も書札様文書に多く用いられた。藤原行成・吉田定房・一条

兼良(覚恵)などの花押がそれである。二合体は、実名の二字の一部を組み合わせて

草体にしたもので、藤原佐理・藤原頼長・源頼朝などの花押にみられる。一字体は、

名の一字だけをとって作るもので、平忠盛・北条義時・足利義満などの花押がその例

である。別用体は、文字と関係のない図形を用いたもので、三好政康・真木島昭光・

伊達政宗・徳川光圀などの花押がそれにあたり、いずれも鳥の姿を図形化したもの

である。明朝体は、中国明朝の頃に流行した様式であるためにこの名があり、天地の

二本の横線の間に書くことを特徴とする。徳川家康・加藤清正など、その例は多い。

花押の類型は、以上に尽きるわけではなく、前述の複合型もあり、戦国・織豊時代から文字を倒置したり、裏返したものが現われ、苗字・実名・通称などの 組み合わせによるものなど、新様式が発生し、その様相は一段と複雑になった。また一字体の変種とみることもできるが、足利義持・義政の「慈」、織田信長の「麟」、豊臣秀吉の「悉」のように、実名と関係のない文字を選んで花押とすることも行われた。禅僧様の花押も一種独特の類型に属するもので、文字よりは符号に近く、抽象的表現の中に禅宗風の寓意がこめられたものと思われる。さらに平安時代よりみられる略押も花押の一種で、画指に代り身分の低い者や無筆の者が用いる、簡略な符号であった。

 同一人でも、草名体と他の形式の花押を持つ例があり、義満以降の足利将軍のように、尊氏に始まる武家様(特に足利様ともいう)の花押と公家様の花押の両種を使用する例もあった。また一生の間には花押の変遷があり、若年期と老年期では書風の変化がみられるが、意識的に花押を改変することも多かった。改名、出家、政治的地位の変化等を転機とするものであるが、偽造を防ぐために頻繁に変えたり、数種の花押を用途によって使い分けることもあった。

   花押は時代によりその様相が変遷する。平安時代は草名体・二合体が主流であり、中

世に至って二合体・一字体がそれに代わり、さらに前述の如き新様式が現われ、江戸

時代には明朝体が一世を風靡した。また特に武家社会では、同族や主従の間に類似

の花押が用いられる傾向が強く、足利様や徳川判の流行のような現象もみられた。

 花押は自署の代りとして発生したが、平安末期より実名の下に花押が書かれるよう

になり、後には自署と花押を連記する風が生じた。一字体の出現以降は、実名と花押

との関係が薄れ、名と関係のない文字で理想や願望を表わしたりするようになると、

印章と変わるところがなくなった。版刻の花押は鎌倉時代中期から現われるが、近

世になると花押を籠字に彫って、これを押した上に填墨する方法、花押を印章の中

に組み入れたものが現われるなど、花押の印章化が進み、花押と印章は文書の上で

その地位を交代した。(ジャパンナレッジ版『国史大辞典』より)

『蝦夷嶋巡行記』4月学習分注記

3月学習分の補足>

○P12―1行「上の國河」・・注記で「天ノ川のこと」としたが、「天の川とは別に、上の国川がある」との意見があったが、テキストでいう「上の國河」は「天ノ川」のこととする。
①天ノ川の河口に近い処に、北から入ってくる支流に目名川があり、「上ノ国目名川」があるが、「上ノ国」を冠したのは、目名川が、南部の石崎川、北の厚沢部川にもあることからと思われる。(山田秀三著『北海道の地名』)

  ②次の行に「幅凡八拾五間計」とある。150メートルを超えるから、支流の「上ノ国目名川」では広過ぎるので、本流の「天ノ川」を指すと思われる。

○P12―4~5行「三間四面」・・堂の規模を表し、三間四面は桁行三間の母屋(もや:中心部の柱の高いところ)に四面の庇(ひさし:母屋の外側にある柱の低いところ)が付く構造。

17-1)「老賤(ろうせん)」・・身分の卑しい老人、年寄。

17-1)「聞(きく)」・・「聞」のくずし字。

17-1)「物語(ものがたり)」・・話。談話。あるまとまった内容のことを話すこと。

17-3)「真菰(まこも)」・・「真薦」とも。「ま」は美称の接頭語。イネ科の大形多年草。各地の水辺に生える。高さ1~2㍍。地下茎は太く、横にはう。葉は線形で長さ0.51㍍。秋、茎頂に円錐形の大きな花穂を伸ばし、上部に淡緑色で、芒(のぎ)のある雌小穂を、下部に赤紫色で披針の雄小穂をつける。黒穂病にかかった幼苗を「こもづの」といい、食用にし、また、油を加えて眉墨をつくる。葉で、「むしろ」を編み、「ちまき」を巻く。

17―4)「語(かたる)」・・話してきかせる。ある事柄をよく説明する。

17-5)「甚(はなはだ)」・・「甚」のくずし字。

17-5)「うとき」・・「疎い」(形容詞)の連体形。よく知らないこと。事情に暗いこと。

17-6)「蒔様(まきさま・まきよう)」・・種子の蒔く方法、やり方。

17-6)「宛(ずつ)」・・「ずつ」の本来の用字「充」の異体字が「宛」と似ているため、中世以降混用された。「宛行扶持(あてがいぶち)」など。

     *「宛」の音読み・・「エン」。熟語に「宛転(エンテン=ゆるやかにめぐる。女の眉の美しいさま)」など。

     **宛転蛾眉能幾時  宛転たる蛾眉(がび)、能(よ)く幾時(いくとき)ぞ、

須臾鶴髪乱如絲  須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)、乱れて糸の如し。

[すらりとした美しい眉の美人も、いつまでそのままでいられようか。たちまちにして白髪が糸のように乱れたおばあさんになってしまうだろう。]

       ***「年年歳歳花相似」(年年歳歳 花相似たり)の名句がある唐の詩人・劉希夷(りゅうきい)の「代悲白頭翁」(白頭を悲しむ翁に代わって)より。

P18―P16と重複)

19-1)「抜透(ぬきすか)す」・・①すき間なくつまっているものから間が透くように抜き取る。まびく。うろぬく。おろぬく。②刀を、鞘(さや)から抜きはずす。また刀を鞘から、ちょっと抜く。

     テキストでは、①

19-1)「ぬき搤(と)る」・・引き抜いて取ること。間引きすること。

19-1)「鍬(くわ・すき)」・・「鍬」の国訓は「くわ」で、土を掘り起こす農具をさす。一方、「鋤(すき)」は、田を耕し除草する農具をさす。また、国訓の「鍬(くわ)」は、「田畑を耕すのに使う農具で、長い柄の先に土を掘り起こす刃の部分を取り付けた物」をさし、「鋤(すき)」は、「幅の広い刃に柄を付けた櫂状の農具(スコップ・シャベルの形状)で、手と足で土を掘り起こすのに用いるもの」とする辞書もある。

19-2)「たすけもかけす」・・「多」は「た」、「須」は「す」、「希」は「け」、「可」は「か」、「春」は「す」。『日本国語大辞典』によると、「たすけ」には、「畑の肥料、緑肥」の意があることから、ここでは、「たすけもかけす」は、「畑に肥料を施さない」意か。

19-4)「は」・・変体仮名「盤」。

19-5)「土橋村(つちはし・むら)」・・現在は、厚沢部町の町域であるが、近世は、江差村の域内に存在した目名村の枝村。「天保郷帳」には、目名村の枝村として、「土橋村・俄虫村・鯎(うごひ)村」などとして、「土橋村」の名が見える。「蝦夷日誌」(二編)には土橋村が二村記され、泊村(現江差町)支郷の「土橋村」は目名村の南、広い沢地に人家が一三軒ばかりあり、「土橋ハ皆支郷の惣名にして、惣而此名何村の土橋、何村の土橋と書て有也。土産、鮭、其外畑物多し」とし、目名村支郷の土橋村については「人家四十軒計。畑多し」とある。

19-5)「どば村」・・「土場村」。現江差町柳崎(やなぎざき)町。『天保郷帳』には、伏木戸村の枝村として「土場」の名が見え、安政六年(1859)に、「柳崎村」に改称されている。江差町の北部、厚沢部川の下流域に位置し、東の一部は、厚沢部町に接し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「追分有、右厚沢部、左土場道、凡半里計にして土場村、人家十二三軒小商人有、是安野呂村の分也。」とある。『罕有日記』には、「田沢村より山路に入て平坦畳の如し。半里にて土場七八軒の家立あり、近村より耕作のため家作りいたす。数村の寄集りなりと。」とある。

    近世から明治初年まで存続した村。伏木戸村の北に位置し、南東から東にかけては目名村・厚沢部村(現厚沢部町)、北東は鰔川(うぐいかわ)村。西は日本海に面する。「つちば」とも訓じる(行程記)。厚沢部川河口に位置する当村は、江戸時代に上流で伐採された木材の貯木場(土場)として集落が形成されたところと推定され、現在土場・川袋という小字地名が残る。

19-6)「厚沢部川(あっさぶがわ)」・・二級河川。流路延長43.5㎞。支流には、目名川・安野呂川・鶉川など11の河川を持つ。また、厚沢部川は、重臣松前蔵人の給地として、江差商人が最初50両、後100両と生鮭100尾の運上で請け負って鮭漁にあたった場所。『渡島日誌』には、厚沢部川と安野呂(あんのろ)川について、「大川端に出る。此処二股也。右本川、厚沢部川と云、此方少し大きし。左を安野呂川と云。両川とも巾十余間、遅流にして深し。~。此処操船にて越る。」とある。『罕有日記』には、「アツサブ川五拾間の川幅にて、繰船にて渡る。馬も同断。」とある。

    なお、松浦図には、本流を「アンヌル川」としている。

20-1)「溝川(みぞがわ)」・・水を流すために地面を細長く掘ったような川。どぶ川。

20-2)「つまの湯」・・江差町五厘沢町に所在する「五厘沢温泉」。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「乙部村分郷に五輪沢村という有。此処ツマノ湯という温泉あり、諸病によろし。」とある。『渡島日誌』には、「温泉場、小流右の方に入り、一丁。湯守一軒、上に薬師堂あり。是を乙部の湯と云へども、境はまだ先なり。此湯を見附しもの乙部の者なれば如レ此号しか。開きしは松前家々臣蠣崎蔵人先祖なりと伝ふ。」 

     とあり、武四郎は、「つまの湯」を「乙部の湯」としている。『罕有日記』には、「路の傍らに、つまの湯とて温泉あり、浴室四五軒あり」とある。

20-2)「痰症(たんしょう)」・・漢方で体液の異常分泌および水分代謝障害一般をさすが、狭義では胃内停水をいう。痰飲。痰病。

20-3)「印(しるし)」・・ここは、「印」と同源の「験・徴」の意で、御利益。ききめ。効能。

20-4)「分郷(ぶんごう)」・・村内の一つの集落を指す。「郷」は、昔の行政区画の名で、「郡」の下の名称であるが、郷飲酒などを行う一つの単位である村落も「郷」というようになった。(『角川漢和中辞典』)

20―5)「こりん沢」・・現江差町五厘沢町。町の北端。北は、乙部町に接し、西は日本海に面する。五厘沢川下流北岸段丘に温泉(五厘沢温泉)が湧出している。

20-6)「せもない村」・・『罕有日記』には、「瀬茂内」とある。『渡島日誌』には、「シモナイ、人家三四軒など有」と、「シモナイ」に作る。

20-6)「在家(ざいか)」・・いなかの家。「ざいけ」と読めば、普通は、出家しない、在俗のままで仏の教えに帰依すること。また、その人や家をさす。

21-1)「乙部村(おとべ・むら)」・・現乙部町。北海道南西部、桧山地方の中央部に位置し、北は熊石町、北東は八雲町、東は厚沢部町、南は江差町に接し、西は日本海に面する。近世、はじめ松前藩領、次いで幕府領、松前藩領という変遷を繰り返し、明治2(1869)まで、松前藩領西在江差付村々に属した。また、当町域として、元禄13(1700)の『松前島郷帳』には、「乙部村、小茂内、大もない村、とつふ村、みつ屋村、かはじら村」が、『天保郷帳』には、「乙部村、小茂内村、大茂内村、突符村、三ツ谷村、蚊柱村」の名がみえる。

     『渡島日誌』には、「乙部村、人家三百四軒、文化度百九十軒。一条町にて漁有、畑作又船持等有。~中略~、此村往昔松前家臣下国図書の給地なりと。」とある。

21-1)「羆(ひぐま)」・・大型のクマ。北海道には、ヒグマの一亜種エゾヒグマが生息する。

21-2)「巡見(じゅんけん)」・・警戒、監督などのため、ある場所を見て回ること。江戸幕府が特使を派遣して御料(幕府領)、私領の施政や民情を査察させること。諸藩にも同様の施策があり、巡見と称した。

21-2)「行懸(いきかか・ゆきかか)り」・・移動する際に、ある場所を過ぎようとすること。さしかかること。

212.3)「追退(おい・しりぞけ)たり」・・追い払ってしまうこと。撃退してしまうこと。

21-3)「あやうき」・・「阿」は「あ」、「也」は「や」、「宇」は「う」、「幾」は「き」。形容詞「危うい」の連体形。

21-3)「船橋(ふなはし・ふなばし)」・・船をつなぎ並べ、上に板を渡して橋としたもの。浮き橋。

21-5)「小茂内(こもない・むら)」・・現爾志郡乙部町字鳥山・字富岡。近世から明治三五年(一九〇二)までの村。乙部村・相泊村の北、西流して日本海に注ぐ小茂内川流域に位置する。北は突符(とつぷ)村。『渡島日誌』には、「小茂内村、人家五十四軒。文化度三十七軒。従レ乙部村二十九丁。産物乙部に同じ。」とある。

21-6)「百性(ひゃくしょう)」・・柏書房の『古文書くずし字500選』には、「性」は、「百姓」の「姓」と混用されたもので、古文書では、「百性」が頻出するとある。

3月 町吟味役中日記注記

◎2月学習のうち、「旅人」について

例会後、参加者からご意見が寄せられましたので、コメントします。

<意見>罪人の肩書の「旅人」は、「たびびと」でなく「たびにん」と読むべきでないか。

<森のコメント>

・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、

1.「旅人(たびびと)」:旅行をしている人。旅路にある人。たびゅうど。たびうど。たびと。旅行者。旅客。「たびにん(旅人)」は別意。

2.「旅人(たびにん)」旅から旅へと渡り歩く人。各地をわたり歩いている博徒・てきやの類。わたりどり。テキストの罪人の肩書はこの「たびにん」が適当か。

  *なお、「旅人」を「たび・にん」と読むのは湯桶(ゆとう)読み(訓読み+音読み)

   逆は重箱読み(音読み+訓読み)

3.「旅人(たびじん)」:他国の人。

4.「旅人(りょじん)」:中国周代の官名。官位のある平民で料理をつかさどる。

*「旅」:解字は「軍旗の象形。多くの人が軍旗をおしたてて行くの意味から。軍隊・たびの意味を表す。

*「旅(りょ)」は、中国周の時代に、兵士五百人を一団とした軍隊。五旅を一師、五師を一軍とした。つまり、

  「1旅」・・500人 (旧日本陸軍・・2~4連隊で1旅団)

  「1師」=5旅・・2500人 (旧日本陸軍・・2~4旅団で1師団)

  「1軍」=5師・・12,500人

 

(127-1)「処」:影印は、旧字体の「處」。『説文解字』では「処」が本字、「處」は別体であるが、後世、「處」の俗字とみなされた。我国では、昭和21年当用漢字表制定当初に、俗字であった「処」が「處」の新字体として選ばれた。

  *「処」は、「本字」→「俗字」→「当用漢字」(現常用漢字)と変遷の道をたどる。

  *「説文解字(せつもんかいじ)」:中国の漢字字書。略して『説文』ともいう。「文字」の「説解」の意。許慎著。序一、本文十四の全十五巻。のちに、各巻は上下に分けられて三十巻となった。後漢の100121年に成立。字形の分析にもとづき、漢字を偏や旁(つくり)などの構成要素に分け、その相違によって、9353字を五百四十部に類別した。なお重文(じゅうぶん、異体字)も1163字入れてある。部首別字書として、また、形音義を説明したものとしては最古。これ以前の字書は、識字用が普通。六書(りくしょ)説による字形の説明は、漢字成立の根本にまで及んでいて、高い評価を受けている。古来、重視され研究が重ねられているが、特に、南唐の徐(じょかい)が注を加えた『説文解字繋伝』(小徐本)四十巻、その兄、北宋の徐鉉(じょげん)が986年に校訂刊行したもの(大徐本)三十巻(以後の標準的テキスト)、また、清の段玉裁が1807年に作った訓詁の書『説文解字注』などが有名。小徐本は華文書房、大徐本は世界書局(ともに台湾)などが刊。原本は現存しない。

(127-2)「入牢(じゅろう・にゅうろう)」:牢屋にはいること。牢屋に入れられること。

  *「入」を「ジュ」と読むのは慣用音(日本での漢字の音。和製漢語音)

   例として「入内(じゅだい・中宮・女御などが内裏に参入すること)」、「入水(じゅすい・人が死ぬために、水中に身を投げること)」、「入御(じゅぎょ・天皇・皇后・皇太后が内におはいりになること)」「入院(じゅいん・じゅえん・寺に入ること、または、新任の住持がはじめて寺に入り住持となること)」「入輿(じゅよ・身分の高い人が嫁入りすること)」など。

  **「慣用音」呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音。たとえば、「消耗」の「耗(こう)」を「もう」、「運輸」の「輸(しゅ)」を「ゆ」、「堪能」の「堪(かん)」を「たん」、「立案」の「立(りゅう=りふ)」を「りつ」、「雑誌」の「雑(ぞう=ざふ)」を「ざつ」、「情緒」の「緒(しょ)」を「ちょ」と読むなど。このほか、「喫」は正しくは「ケキ・キヤク」であるのを「キツ」に転じ、「劇」は正しくは「ケキ・ギヤク」であるのを「ゲキ」に転じ、「石」は「セキ・シヤク」であるのを「斛」と混じて「コク」とするような例もある。

(127-5)「力業(ちからわざ)」:強い力をたのんでするわざ。強い力だけが武器であるような武芸
(127-5)
「曲持(きょくもち)」:曲芸として、手、足、肩、腹などで重い物や人を持ち上げて自由にあやつること。

(127-5/6)「旅人宿(りょじんやど)」:旅人を宿。旅籠(はたご)。旅籠屋。やどや。

(128-1)「平内(ひらない)」:陸奥湾に突き出た夏泊半島と南部の山地からなる。平内とい

う地名はアイヌ語の「ピラナイ」(山と山の間に川がある土地の意)からきたといわれ

る。鎌倉~南北朝時代までは南部氏の支配下にあったが、1585年(天正13)以降津軽

氏領となった。盛岡藩境の狩場沢(かりばさわ)には関所が置かれ、藩境塚(県の史跡)

が残る。

(128-3)「如何(いかが)」:「いかに」に助詞「か」の付いた「いかにか」が変化したもの。(心の中で疑い危ぶむ意を表わす)どう。どのように。どうして。どんなに。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

 <(1)「いかにか」から「いかが」という変化は、「に」の撥音化とそれに並行する「か」の濁音化、すなわち「イカンガ」を媒介にして成立したと考えられる。すなわち一〇世紀初頭の仮名資料に「いかか」が現われ始めるが、この時期はまだn撥音を無表記としており、例えば「土左‐承平五年二月四日」の「しし(こ)」が「死にし(子)」であり、「シンジ(コ)」と発音されていたと推測されるように、同じく「そもそもいかかよむたる」〔土左‐承平五年一月七日〕の「いかか」も「イカンガ」と発音されていたかもしれない。

(2)意味は上代の「いかにか」「いかに」とほぼ同じであり、呼び掛け的に使われたり、状態や様子が甚だしいことを表わしたりする点も同様である。

(3)平安期以降ほぼ状態や様子に限定されながら、鎌倉期には「その様子が望ましくない、困ったものだ」という意味を派生する(中世後半から近世になると「いかがし」「いかがはし」を派生する)のに対して、「いかに」は状態・様子以外に理由・原因を問う用法が発達する。>とある。

*「如何」を「いかが」「いかん」「いかんセン」と読むのは漢文訓読の熟字訓。

「取妻如何(つまヲめとルコトいかん)」[妻を娶(めと)るのには、どのようにすればよいか](詩経・伐柯=ばっか=)

**なお「何如」は、「いずレゾ」と訓じる。

(128-8)「丹地八五郎」:P15に「丹地屋八五郎」がある。

(129-4)「小平沢町(こへえさわ町)」:現檜山郡

江差町字陣屋町など。近世から明治33年(1900)で存続した町。寺小屋町・碇町の

北、中茂尻町の東に位置し、東は山地。横巷十九町の一(「蝦夷日誌」二編)。「西蝦夷

地場所地名等控」に江差村の町々の一として小平沢町がみえる。文化4年(1807)の江差図(京都大学文学部蔵)では、寺小屋町と中茂尻町の間の小川の上流沢地が「小平治沢」となっている。同年に松前藩領から幕府領になった際、弘前藩の陣屋が設けられた(江差町史)。「蝦夷日誌」(二編)によれば、茂尻(中茂尻か)より沢(小川)の南にあって、町の上は皆畑で広い。「人家二十二軒といへども五十軒計も有。(中略)津軽陣屋跡といへるもの有」とある。弘化3年(1846)夏に出た温泉があり、薬湯として用いられ、傍らに薬師堂が建てられていた。「渡島日誌」には「小兵衛沢」と記され、「畑多く、近頃人家少し立たり」とある。

(130-1)「内済(ないさい)」:江戸時代、裁判上の和解のこと。江戸幕府は、民事裁判ではなるべく両当事者の和解による訴訟の終了を望んだが、ことに無担保利子付きの金銭債務に関する訴訟、すなわち金公事(かねくじ)においては、強力に内済を勧奨した。内済は訴訟両当事者連判の内済証文を奉行(ぶぎょう)所に提出して、その認可を受けることによって有効となったが、金公事の場合には片済口(かたすみくち)と称して原告が作成した内済証文だけで足りた。

(130-1)「熟談(じゅくだん)」:話合いで、ものごとや問題となっていることをおさめること。示談。和談。

  *「場所熟談」:江戸時代、用水、悪水、新田、新堤、川除(かわよけ)などの訴訟。これらの争いについて、奉行所では訴が提起されても直ちに受理せず、問題の地の代官や地頭の家来を呼びだして訴状を下げ渡し、現場で双方の納得のいくような話合を命じ、極力和解による問題の解決を図って、和解が成立しない場合に初めて訴が受理された。

(133-1)「貴意(きい)」:相手を敬って、その考えをいう語。お考え。御意見。御意。多く書簡文に用いる。

(133-3)「堅勝(けんしょう)」:からだに悪いところがなく健康なこと。また、そのさま。多く「御健勝」の形で相手の健康についていう。

(133-4.5)「其御許様(そこおもとさま)」:「そこもと」に敬意を表わす接尾語「さま」の付いたもので、更に「其許」の「許」に敬語の「御」がついたもの。

  *平出の体裁:4行目の「其」で改行して、「御許様」としているのは、尊敬の体裁で、「平出(へいしゅつ)」という。

  **「平出」:律令国家の公文書の記述中に,天皇・皇后・皇祖等を示す語があるとき,文章を改行してその語を行の先頭に置き,敬意を表す記述方法。律令国家の公文書(公式様文書)の様式等を制した公式令に定められている。同令には,平出のほか皇太子・中宮の称号あるいは天皇の行為を示す語について,その1~数字分上を空ける闕字(けつじ)の方法も定められている。中世では,この平出,闕字は,公式様文書ばかりでなく,書札様文書にも使用され,平出はもっぱら院宣・綸旨の院・天皇の仰せを表す〈院宣〉〈院〉〈御気色〉〈天気〉〈綸旨〉等にのみ用いられ,文書としての院宣・綸旨,その他〈奏聞〉〈天裁〉〈禁裏〉等の語,あるいは皇太子・親王・摂関を示す語には闕字が用いられている。将軍については,鎌倉時代には闕字・平出ともにみられない。室町時代以降〈公方〉が闕字扱いされ,近世には〈御公儀〉や公儀からの〈仰出〉に平出が用いられるようになる。また近世では,公儀のほか〈太守様〉や〈御役所様〉まで闕字あるいは平出で扱われ,さらに平出より敬意を表す擡頭も現れる。

(133-5)「茂良村」:現青森県平内町茂浦(もうら)。「茂良」は、「もうら」を詰まって「もら」と発音し、「良」の呉音「ら」から、「茂良」を当てたか。なお、ひらがなの「ら」は、「良」の草体からできた。

  茂浦村は、東は夏泊半島の脊梁山脈で白砂村・滝村と境し、南は浪打山で浪打村に接し、西は陸奥湾に面し、北は支村の浦田村。当村は平内地区のうちでも街道から外れており、アネコ坂の難路を通らないと来られないため、特色ある風習が残る。若者たちの寒垢離の神事である「お籠り」は、現在まで継承されている。旧暦一月一六日は塩釜神社の祭日で、若者たちは夕方から神社にこもり、下着一つで八時・一〇時・一一時の三回海に入って水垢離をとり、一二時までに供餅を御神酒で清め神事を済ませる。神事が終わるまで神社は女人禁制で、一二時過ぎになると村の老若男女が神社にこもり、夜の明けるまで賑かに過ごす。

(133-6)「悴(せがれ)」:影印は俗字の「忰」。自分の息子。「せがれ」は、室町以降の語で、語源説に、「痩(や)せ枯(か)れ」がある。なお、「忰」を「せがれ」と読むのは、「倅」の字と似ていることから起こった誤用説もある。(『新漢語林』)

  また、『くずし字用例辞典』には「悴」の項に<「忰」は「せがれの場合に用い>とあるが、「悴」も「せがれ」の意味に使われる。「忰」は、「悴」の俗字に過ぎない。

  *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。>とある。

  *語源説に、<自分の子を卑下していうヤセカレ(痩枯)の略。ヤセカレは屈原の「漁父辞」にある「顔色憔悴(やせ)、形容枯槁(かれ)」から>がある。

  **「顔色憔悴、形容枯槁。」<顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。>

     [顔はやつれて、その姿は痩せ衰えています]

『蝦夷嶋巡行記』3月学習分注記                

(12-1)「城跡(しろあと・じょうせき」・・勝山館。松前氏の祖である武田信広が15世紀後半に築いた山城で、16世紀後半まで、武田、蠣崎氏の日本海側での政治、軍事、交易の一大拠点。昭和52年国指定の史跡

  *「しろあと」には、「城址(じょうし)」「城趾(じょうし)」も当てる。

12-1)「八幡宮」・・上ノ国八幡宮。文明5年(1473)松前藩祖武田信広公が勝山館に守護神として創祀。上ノ国三社(現夷王山神社、砂館神社、上ノ国八幡宮)の一つ。祭神は、天照大御神ら六神。

12-1)「勧請(かんじょう)」・・神仏の来臨を請うこと。神仏の分霊を他の場所にうつし祀ること。もとは仏教語で、十方の諸仏に、身をとどめて久住し、恒に法輪を転じて衆生を救護せんことを請うをいう。しかしてこれを懺悔・随喜・回向などとともに、四悔・五悔の一つとし、菩薩行修の重要な項目ともしている。また、わが国では、その意を転じて、実の開山にあらざるものを開山とするときは、これを勧請開山と呼び、あるいは神仏、ことに八幡大菩薩・熊野権現などのごとき垂迹神の神託を請い奉ることを勧請と称し、さらにはそれより転じて、神仏の霊ないしはその形像を招請して奉安することをも勧請というに至った。つまり、神道でいえば、本祀の社の祭神の分霊を迎えて、新たに設けた分祀の社殿に鎮祭することをいうのである。したがって、その新たに鎮祭した神を勧請神ともいうのである。ないしはその時々に執り行う祭祀の場に神の降臨を請うことをも、勧請と称するのである。

12-1)「上国寺(じょうこくじ)」・・山号は華徳山。現在は浄土宗、光善寺の末寺。嘉吉3(1443)の創建時は、上ノ国館の鎮護寺として創立された真言宗の草庵。江戸中期十世徹和和尚の時浄土宗に改宗、十八世戒運和尚が福山の光善寺に転住し、光善寺の末寺となる。『渡島日誌』には、「花徳山上国寺、浄土宗、寛永二十巳年草創、順見使申上書」とある。本堂は18世紀半ばの建立とされ、国の重要文化財に指定されている。

12-2)「禅林(ぜんりん)」・・禅宗の寺院。また、一般に寺院。

12-2)「千念寺」・・「専念寺(せんねんじ)」のこと。天文2(1533)の開山。松前専念寺(浄土真宗本願寺派)により建てられた掛所道場の一つ。明治5(1872)清浄寺と称する。

12-2)「門徒寺(もんとでら)」・・「門徒」は、中世後期以降、もっぱら浄土真宗の信者一般に対する呼称となり、「門徒寺」は、門徒宗(浄土真宗)の寺院を指すようになった。

12-2)「上の国河」・・二級河川の「天ノ川」のこと。総延長28.6㎞。なお、「天ノ川」の由来は、元和4年(1618)、イエズス会の宣教師ジェロラモ・デ・アンジェリスがヨーロッパ人として最初の蝦夷地上陸を果たし、その三年後作成した地図の上陸地点に「ツガ」と表記されていたことから、上ノ国の古名の「ツガ(テガ)」の漢字表記「天河」にあるとされている。

12-3)「手繰船(てぐりぶね)」・・手繰り網をつかい、磯で漁をする小船。また、江戸時代、大坂・伏見間を往復していた早船を指す。

123.4)「とゝへ河」・・「とど川」か。江差町内に「椴川」。「椴川」の名を冠した「椴川町」の町名が残る。『渡島日誌』に、「トヾ川 川巾五六間。砂川也。此処境目(上ノ国・五勝手)なり。人家五六軒、北村分也」とある。「戸渡川」とも。 

12-4)「へりへつ(へりへ川)」・・「へりへつ」、または「へりへ川」か。元禄13(1700)の「松前島郷帳」に、「とど川村、ふるべち村、こかつて村」とあり、「ふるべち村」の名がみえるが、享保12(1727)の「松前西東在郷並蝦夷地所附」やその後の「天保郷帳」には、村としての名前がみえない。『渡島日誌』には、「ヒリフチ沢」とある。また、松浦武四郎『東西蝦夷山川取調図』には、「ヒリフチサワ」とある。『江差町史』には「古ヒツ川」(古川)とある。

  *「古櫃川」・・上ノ国町との境にある古櫃の浜は、右手にかもめ島、左手に上ノ国の町並みと夷王山の風車、渡島大島の島影を望むことができる絶好の夕日ポイント。

12―5)「船つき(ぎ)」・・船繋ぎ。港のこと。

12-5)「繁昌(かんじょう)」・・元来は、草木がさかんにしげること。日本語では町や店がにぎわい栄えること。

12-6)「仲秋(ちゅうしゅう)」・・秋の三か月を孟・仲・季と分け、その真中をいう。陰暦八月の異称。

13-1)「初秋(しょしゅう)」・・影印の「穐」は、「秋」の俗字。旧暦では「七月」、新暦では「八月」を指す。

  *「龝」の解字・・もとは、「禾」+「火」+「龜」。古代の占いは亀の甲に火を近づけて行われた。その亀は秋季に捕獲され、また秋季には穀物の収穫もあるため、「禾(いね)」を付し、「あき」の意味を表す。(『新漢語林』)

  *「あき(秋)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「秋」の補注に

  <「万葉集」には、五行説の影響から「金」字を秋にあてているものがみられる。「金(あきのの)の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬し思ほゆ〈額田王〉」、「金風(あきかぜ)に山吹の瀬の鳴るなへに天雲翔る雁にあへるかも〈人麻呂歌集〉」 など。>とある。

(13-1)「繁花」・・「繁華」。「花」は「華」の当て字。①花が咲きほこる。②にぎわう。➂若く美しい。ここでは②。

  *天津橋下陽春水、天津橋上繁華子(劉希夷 『公子行』)

  <天津橋下 陽春の水、天津橋上 繁華の子(し)>

  [洛陽の都の天津橋の下を流れる、暖かな春の時節の水。洛陽の都の天津橋の上を行き交う、今を盛りと栄えている貴公子たち]

   **繁華子=綺麗に着飾った青年子女。

13-2)「常夜灯」・・『渡島日誌』には、「常夜灯、此処津鼻の上に突出してよく見ゆる場所なれば、置レ之」とある。

  *影印の「燈」は、「灯」の旧字体。もと「燈(トウ)」と「灯(テイ)」は別字だが混用されることも多かった。常用漢字表(昭和56年)で「燈」の新字体として「灯」が選ばれたため、両者の字形の区別がなくなった。なお、「燈」は平成16年に人名漢字に追加された。

13-4)「沖の口番所」・・松前藩が、江差湊に入港する船舶、人、荷物などを取締まるため設けた番所。ここで徴収する運上金は重要な財源となった。『渡島日誌』には、「津鼻の上に有。常夜灯を置、目鏡を架て、出入の船を改むる。是を以て出入船の運上を取立る処なり。」とある。

13―4)「姥神と言神社(うばがみというじんじゃ)」・・「陸奥国松前・一の宮姥神大神宮・北海開祖神」あるいは「陸奥国松前・勅宣正一位姥神大神宮・北海開祖神」と称する蝦夷島(北海道)において最古といわれる神社。現所在地は、江差町姥神町。  

     社号 勅宣正一位姥神大神宮

     祭神 天照大御神(あまてらすおおかみ)、春日大明神(天児屋根命(あめのこやねのみこと))、住吉大明神(底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命、表筒男命の三柱)。

創立 年暦不詳(建保四年(1216)とも、文安四年(1447)とも。)

        社地往古より津花町浜手(現折居井戸の聖地)に鎮座していたが、正保元年(1644)岩崎の麓に遷座、それによって姥神町と名付けられた。後、社地手狭となり、安永三年(1774)令宮所(拝殿)を社地替えして現在に至る。鰊漁業の祈願所として御領主松前公より永久祈祷仰付けられ、領主巡国の折には、祈願遊ばされ、例祭には御代参(江差奉行)を派遣された。文化十三年(1816)神階の儀に付願上御公儀御聞済の上、文化十四年(1817)七月吉田家出奏、正一位姥神大神宮の額面を拝載する。

     祭礼 当社姥神宮、弁天両社祭礼  

        八月十四日 神輿洗   八月十五、十六日 神輿渡御

*十五日 御領主様御代参

     摂社(本社に付属し、本社に縁故の深い神を祀った神社の称号)に折居社と厳島神社がある。(『江差町史』)

     この外、姥神大神宮の縁起として、北海道神社庁誌によると、「江差の津花に天変地異を予知し住民に知らせ、神のように敬われていた折居様という老婆が草庵を結び住んでおり、ある日鴎島の巌上に現れた翁から小瓶を授かり、その中の水を海に注ぐと鰊が群来するとの啓示を受け、水を海に注いだところ鰊が群来した。その後老婆は、忽然と姿を消し、草庵に残されていた老婆の祀る五体の御神像を人々が小祠を建立し姥神としてお祀りし、後に老婆も祀った」とある。

13-5)「銅瓦(どうが)」・・銅製のかわら。銅製の屋根板のこと。江戸時代初期に檜皮に代わって、寺院の本殿や城の天守閣などの屋根葺き材に使われはじめた。

13-5)「奇麗(きれい)」・・美しくはなやかなさま。きらびやかなさま。うるわしいさま。普通、「綺麗」と書く。

  ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に、

  <(1)キレイとビレイ(美麗)とは類義語であるが、日本では、ビレイは一般化せず、室町時代には、キレイが優勢となり、その語義も拡大する。建物・衣裳・容姿の美しさの外に、新たに心・自然・事物の清潔なこと、純粋なことを表わすようになる。江戸時代には、更に語義が分化した。

(2)キレイがもつ清潔、純粋等の意は、日本で生じたものであり、ウルハシ・クハシ・キヨシ・キラキラシ・イサギヨシ等の和語の意を吸収しつつ勢力を拡大し、ついにウツクシイと相並ぶようになった。>とある。

13-5)「神明(しんめい)」・・祭神としての「天照御大神」のこと。

13-6)「春日(かすが)」・・春日大明神。春日神社の祭神のうちの一柱である「天児屋根命」のこと。

13-6)「相殿(あいでん、あいどの)」・・同じ社殿に、二柱以上の神を合祀すること。また、その社殿。姥神大神宮は、三社を合祀っている。

13-6)「折居明神(おりいみょうじん))」・・「おりえみょうじん」とも。 姥神大神宮の摂社である「折居社」の祭神折居神霊(往古鰊漁を教えた老婆の神霊、折居(於隣))のこと。折居社は、津花町浜手に鎮座していたが、天明二年(1782)岩崎の地(姥神大神宮の境内)に遷座。祭礼は三月十六日。(『江差町史』)

14-1)「すぎわひ」・・「春」は、「す」、「記」は「き、ぎ」、「王」は「わ」、「飛」は「ひ」。「生業(すぎわい)」で、生計を立てるための職業。なりわい。「生業(すぎわい)」の語源説に「世を過グルナリハヒの業の義」などがある。

  *慣用句「生業(すぎわい)は草の種」・・生計を立てる道は、草の種のように多く、いたる所にある。

14-3)「祭礼(さいれい)」・・神社などの祭り。祭典。祭儀。

14-4)「日蓮宗」・・日蓮が開いた仏教の一宗派。法華宗とも。「日蓮宗」の寺は、成翁山法華寺をさす。

14-4)「禅宗」・・大乗仏教の宗派の一つ。日本では臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の総称。「禅宗」の寺は、曹洞宗の嶽浄山正覚院をさす。

14-5)「浅利甚之丞(あさり・じんのじょう)」・・「寛政十年家中及扶持人列席調」(『松前町史』)の長爐列の席に、浅利甚之丞の名がみえる。

14-5)「持口(もちくち)」・・持ち場。受け持っている方面。

14-6)「浮島」・・「嶋」、「山+鳥」は、俗字。「鴎島」のこと。鴎島は、町の中央部。津花岬の西方350メートルの日本海に浮かぶ周囲2.6㎞の小島。『渡島日誌』には、「鴎島、従中歌八丁。津花より五丁位。此間湾深く船懸りよろし。長サ六丁、巾一丁の島なり。周囲絶壁、西面に千畳敷と云平磯有。北に廻りて義経巻物かくしの石、蹄石。土人、義経の三馬屋にて繋ぎて渡海なし玉ひしが、其馬竜と化して来り上りし処也と云。蛭子(えびす)社、テツカヘシ大岩岬也。弁天社など有。此二社共に順見使の廻り場所なり。」とある。

15-1)「弁財天(べんざいてん)の社」・・「弁財天」は、元来インドの河神で、音楽、知恵、財物の神として、吉祥天とともに広く信仰された女神。仏教にも取り入れられたが、吉祥天と同一視されるようになった。弁天。「べざいてん」とも。

15-1)「姥子神の社」・・「蛭子(ゑびす)社」あるいは「恵比須社」の誤りか。鴎島に、「弁財天の社」と「恵比須社」が鎮座するとする記録はあるが、「姥子神の社」の記録はない。「恵比須社」は、姥神大神宮の付属社で、祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ。恵比須・蛭子)で、年暦不詳。鴎島に鎮座、その下浜を恵比寿浜と称す(『松前町史』)。なお、「ゑびす」は、七福神の一つで、商売繁盛、福の神として広く信仰され、特に、古くは、豊漁の神として漁民に信仰され、漁業との関係が深い。『松前町史』には、「漁師の恵比須信仰は鰊網の中央の大浮子をエビスアバと称し恵比寿の加護を信じ、又大漁のあった時網に引き上げられた石を「エビス石」と称して神性視し、御神体として祀るなど漁業は恵比須信仰に支えられていた。」とある。

15-2)「神石」・・「瓶子岩」のことか。

15-2)「天神石」・・「天神石」と称する言伝えはない。「天神(菅原道真の神号)」様と「石」との信仰上の関係性は薄く、むしろ漁業を介した「えびす」様と「石」・「岩」との信仰上の関係が強い。

15-3)「累々(るいるい)」・・「累々」+「たり」の場合は、形容動詞。あたり一面に重なり合って、たくさんあるさま。

15-4)「一むら」・・一叢。「武」は「む」。「一叢、一群」で、集まっている一団。ひとかたまり。

15-4.5)「蝦夷たてと言観音の堂」・・『渡島日誌』には、「えぞたて」として「夷塞、此処桧山弾正の古塞と思はる。礎掘溝のあと今に有り。樹木陰森として、如何にも殺気撲レ面て怨鬼の在るかと思はるの地なり。此中に観音堂小堂有。」、また、「村内鎮守八幡、蝦夷塞観音堂。是も往古酋長の塞也。土器、雷斧、矢根石等多く出る。祭礼七月十七日」とある。このことから、「たて」は、「館(たて・たち)」で、防備を施した武将、豪族の邸宅。小規模の城の意。

15-6)「放(はなれ)」・・「離れ」の意か。

15-6)「泊村」・・現江差町泊町(とまりちょう)。町の中央部。東は厚沢部町に接し、西は日本海に面する。泊川が西流して日本海に注ぎ河岸平地を形成。『渡島日誌』には、「泊村、人家二百二十軒。漁者、畑作、船持、商人計也。文化度六十八軒也と。」、「村内鎮守八幡、蝦夷塞観音堂、地蔵堂・戎合殿、また村の上に白性山観音寺、松前阿吽寺末寺。」とある。

(16-1)「小山村(おやま・むら)」・・現江差町尾山町。町の北部。西は日本海に面する。北を田沢川が流れる。泊川と田沢川の海浜と、その後背段丘及び山陵地域からなる。『松前島郷帳』には「おやま村」、『天保郷帳』には、「尾山村」として、その名がみえる。『渡島日誌』には、泊村と田沢村の境に、「此辺り家つゞきにして尾山村、泊村分村也。尾山の権現、祭礼七月二十九日、何神を祭る哉、甲冑を帯せし像なり。」とある。

16-2)「此川」・・『渡島日誌』には、「ホンヘツ、小川。此処村境也。」とある。

16-3)「田沢村(たざわむら)」・・現江差町田沢町。町の北部。北・東は厚沢部町に接する。田沢川河口の海浜から続く荒磯の海岸と、田沢川流域、後背の山陵地帯からなる。『元禄郷帳』、『天保郷帳』のいずれにも「田沢村」の名が見える。『渡島日誌』には、「田沢、人家四十一軒。文化度廿八軒。海産泊り村に同じ。川有、此筋稗田多き故号くと。」ある。

16-4)「行場(ぎょうば)」・・「行」は、仏語で、「住・坐・臥・行」の四威儀の一つで、「歩くこと」、「巡ること」の意があり、ここでは、「観音巡り」のために西国三十三カ所の観音霊場が設けられているように、津軽から松前地にかけて設けられた巡礼を行う観音霊場のことか。

2月 町吟味役中日記注記

(120-1)「御用物(ごようもの)」:宮中や官府などの用に供するもの。

(120-3)「弥(いよいよ)」:副詞「いや(彌)」の変化した「いよ」を重ねて強調したもの。

(120-34)「三馬屋(みんまや)」:三厩。青森県津軽半島北西端に位置する村。竜飛(たっぴ)崎が突出している。江戸時代には寒村であったが、松前蝦夷地渡海の要津であった。松

 前藩主の参勤交代、幕府巡見使の渡航にも利用され、木材の積出し、松前から買入れる海産物の中継地としても重要で、湊役人が置かれ、幕末には海防の要地ともされた。

(121-2)「馬形後町(まかどうしろまち)」:馬形町は、北から南に馬形上町・馬形中町・馬形下町が並んでいる。文化4(1807)の松前市街図に「馬形裏町」がみえるが、「後町」との関係は不明。

(121-4)「中川原町(なかかわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。中河原町とも記される。大松前川の下流左岸、川原町と蔵町との間の町。

(121-5)「川原町(かわらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前おおまつまえ川に沿って南北に通ずる二筋の道のうち西側の道に沿う町。河原町とも記した。

(121-8)「四十弐」の「弐」:漢数字の一、二、三などのかわりに用いる壱、弐、参などの文字を大字(だいじ)という。数値について厳密を要する文脈では、令の公式令(くしきりょう)に大字(だいじ、壱・弐・参・肆・伍・陸・・捌・玖・拾など)を用いるべきことを定め、実用された。たとえば『古事記』の中の天皇の享年、『正倉院文書』における物資の数量の記載など。現代にもその遺風があって、漢数字を用いる金銭証票は大字を使用する。

 *「公式令(くしきりょう)」:律令制の中央集権的行政および官僚制的秩序の根幹にかかわる、以下のような広範な内容の条文を収める。公文書の様式、その作成および施行についての細則、公文書に用いる平出・闕字と用字および公印、公文書の保管などについての細則、駅馬・伝馬の利用と公的使者の発遣に関する細則、官人の秩序・執務についての細則、授位・任官の行事に関する諸規定、訴訟手続および意見陳上の手続など。

(122-1)「即夜(そくや)」:すぐその夜。当夜。多く副詞的に用いる。

(122-1)「博奕(ばくえき・ばくち)」:金品など財物を賭けて、囲碁・樗蒲(ちょぼ)・双六などの遊戯の中で勝負をすること。博とも書き、「はくち」「はくよう」とも読む。博戯・博打(ばくち)・賭博ともいい、また樗蒲とか樗蒲一(ちょぼいち)、「かりうち」(朝鮮語系統の語)ともいっている。樗も奕も賭博の意として賽を指す。後世になるともっぱら采・花札などを用いている。十七世紀前半にはウンスンカルタが流行した。そして遊女やその客の間でも遊ばれるようになっていた。また天正カルタという「めくりカルタ」が流行する。やがて十九世紀初めには花札も盛行した。このカルタが賭博用となった。賭銭二百文ともいわれ、カルタ賭博は娯楽とはいいがたいものであり、双六賭博も行われた。中世から近世にかけては、碁・将棋の勝負も賭物としたため、慶長2年(1597)には、『長宗我部元親百箇条』で禁止されている。また慶安2年(1649)二月にもかかる博奕の禁制があり、ついで承応元年(1652)の町触れでも碁・将棋・双六の勝負を賭けることを禁止している。その反面庶民風俗として盤上遊戯が普及し、風呂屋の二階に娯楽場がつくられている。江戸時代には楊弓・大黒・天狗頼母子・布袋屋骨牌・カブ・三枚加留多・ナヲ八・キンゴ打・三つぼ・四つぼ・冠付・独楽・源平・富突・大黒つき・三笠付などいろいろな種類の博奕が生まれている。明治3年(1870)十二月新律綱領には「およそ財物を賭け、博戯を為す者は、皆杖八十の刑に処す、賭場の財物は官が没収する、賭博宿を開帳する者は、賭博に加われないといえども同罪とする」と述べ、士族で盗賊や賭博の罪を犯したものは庶人とするとされた。また明治35年の刑法改正案には「六月以下の懲役又は三百円以下の罰金」という金刑の思想が入って来ている。

*「博奕」の「博」:古代中国のゲームの一種。六本の棒と十二の駒を用いる。なお、テキスト影印の偏は「忄」(リッシンベン)の「愽」で、「博」の俗字。

*「博奕」の「奕」:碁を打つこと。囲碁。なおテキスト影印の脚は「火」に見えるが「大」。

*「ばくち」は、普通「博打」を当てるが、「ばくち」は、「ばくうち」の変化した形。

(122-1)「蔵町(くらまち)」:現松前町字福山。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。大松前川に沿う二本の南北道のうち東側の道に沿った町。南は袋町、西は中川原町。

(122-6)「今暁(こんぎょう)」:今日の夜明けがた。今朝。

(122-7)「自身番」:江戸時代に江戸・大坂・京都などで主として町内警衛のために設けられていた自警制度。町内の大通りの両端に木戸があり、木戸に接して番屋を設け、一方の番屋に木戸番、他の一方に自身番が詰めたので、転じてこの番所をも自身番と称した。自身番は大町には一町に一つ設けたが、二、三ヵ町共同で設置するものもあり、幕末の嘉永3年(1850)には江戸中で九百九十四ヵ所あった。自身番の名称は、はじめ町内の地主町人が自身で交替に勤めたところから生じたという。しかしのちには家主(やぬし)・店番(たなばん)・町内雇いの番人らが組んで昼夜に分かれて詰めた。江戸の天保年間(1830-44)の制度では、大町および二、三ヵ町合同の番所は家主二人・店番二人・番人一人の計五人、小町では家主・店番・番人各一人の計三人が詰め、非常時には増員することになっている。自身番の任務は、交替で町内を巡回し、不審者が町内に立ち廻れば捕えて番所にとどめ置き、奉行所に訴え出る。喧嘩口論をいましめ、夜は火の元を用心させる。また町廻りの奉行所同心などが犯罪容疑者を捕えたとき一時ここに留置して取調べを行うなどのこともあった。元禄11年(1698)の規定によると、自身番所では夜も戸障子を立ててはならず、寄合い咄しなどは禁止され、当番の者は食事も番所ではなく各自の家ですることになっており、勤務の規定も厳重なものであった。しかしのちには町内の寄合相談事などもここで行われ、また町の雇い職員である町代・書役などもここに勤務して町内の雑務を処理するようになった。このため家主らの勤務も名目的なものとなって、雇いの定番人を置いたり、その定番人が妻帯して番屋が住居同然となったりすることもあり、また町内の家主たちが寄合を名目に酒食の会を催すなどして綱紀の乱れを警告されることも多くなった。番所の建物にも規定があり、原則としては九尺二間の小屋であったが、文政12年(1829)には梁間九尺・桁行二間半・軒高一丈三尺と定められた。しかし前述のように番所が番人の住居化する状態ではこの規定は守られず、家の造作を一般家屋同様にしたり、あるいは二階づくりにしたりする者もあったため、町奉行所から増築を禁止し、規定以上の分は建直しのとき縮小するよう申渡しが行われたりしている。自身番屋の多くには、屋根に火の見を設けていた。火の見の構造は枠火の見で、建て梯子をかけ、半鐘をつるしてある。火の見の総高は二丈六尺五寸、枠高三尺五寸、幅三尺五寸四方、一丈五尺の建て梯子を枠内に建ててあった。自身番屋内には纒・鳶口・竜吐水・玄蕃桶などの火消用具が常備されており、半鐘が鳴らされると町役人・火消人足が自身番所にかけつけ、道具を持ち出し、勢揃いしてから火事場に赴いた。番人の賃金、建物の維持改修費、火消用具などの備品費など、自身番所の諸費用はすべて町入用をもって賄われた。

 *じしんばん‐しょうぎ【自身番将棋】:自身番の番屋で、つれづれにさす下手な将棋のこと。床屋将棋、縁台将棋の類。

(122-8)「一段」:(多く「と」を伴って用いる)ひときわ程度がはなはだしいさま。きわだ

っているさま。いっそう。格別に。

(123-1)「宿預(やどあずけ)」:江戸時代、未決囚拘禁の方法の一つ。出府した被疑者を、取調べ期間中公事宿(くじやど=江戸宿)に預けること。手鎖(てじょう)、過料、叱(しかり)など軽い罪にあたるものに用いられた方法で、重罪のものは入牢させた。

(123-2)「宜(よろしく)」:〔副〕形容詞「よろしい」の連用形から。漢文訓読で「宜」の字を「よろしく…べし」と読むところから、そうすることが当然であったり、必要であったりするさまを表わす語。すべからく。まさに。ぜひとも。必ず。

 *「宜は、漢文訓読の再読文字で、「宜」だけで、「よろしく~べし」と読む。テキスト影印は、「宜可有之」と「可(べき)」が重複するが、和製漢文といえる。

 **功宜為王 【功(こう)、宜(よろ)シク王(おう)為(た)ルベシ】(『史記』)

   [功績からすれば、王となるのがよろしい]

(123-7)「未召捕ニ不相成」:「未」は漢文訓読の再読文字で、「未」だけで、「いまだ~ず」だが、テキスト影印は、「不」があり、「ず」が重複するが、これも和製漢文。

(123-8)「詰木石町(づみきいしちよう・つみきいしちょう)」:江差町字愛宕町。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。地名の由来は、松浦武四郎『再航蝦夷日誌』によれば、沖合いに潮の満ちる時現われ、潮が引く時隠れるというウツメキ石があることによるという。緒木石(しみきいし)町(罕有日記)とも記される。海岸沿いの道に沿う縦街十町の一(「蝦夷日誌」二編)。もと詰木石村であったが、町場が形成されて改称された。九艘川(くそうがわ)町・豊部内(とよべない)町の北、豊部内川の河口部の北岸に位置する。東に川原新(かわらしん)町・中新(なかしん)町・北新(きたしん)町がある。江戸後期から明治初期の鍛冶町・浜町は当町に含まれるという。

(124-3)「落着(おちつき・らくちゃく)」:事件などが治まること。物事の解決。

(124-3)「又候(またぞろ)」:副詞「また」に「そうろう」がついた「またぞうろう」の変化したもの)。類似する状態が既にあるのに、他の同様の状態が新たに存在することを、一種のあきれた気持・滑稽感を含めて表わす語。なんともう一度。こりもせずにもう一度。

 *またぞろ‐かたきうち 【又候敵討】:敵討をしようとしながら返討(かえりうち)にあ

ったため、また敵討をすること。又候敵討の願は許可されなかった。

(124-5)「町代久右衛門」:P123には、「久左衛門」とある。

(124-9)「一統(いっとう)」:一つにまとめ合わせた全体。総体。一同。

(124-9)「向後(こうご・きょうこう)」:今から後。こののち。今後。もと漢語で、平安時代の漢文資料に多く見られるが、鎌倉時代以降国語化が進み、口頭語・記録語の中に定着した。時代を問わず漢音で「きゃうこう」と読まれたが、江戸時代には「かう(呉音)+ご(慣用音)」という読み方もされた。

(125-4)「風邪(かぜ・ふうじゃ)」:鼻、のど、気管などの上気道のカタル性炎症。「医心方‐三・風病証候・第一」に「黄帝大素経云風者百病之長也」とあるように、万病のもととされた。感冒。ふうじゃ。かぜのやまい。

 *「風邪」:「風」の影響を受けるとすることは、「風を引く」の例でわかるが、その症状は必ずしも感冒には限らず、腹の病気や慢性の神経性疾患などを表わしていたことが、「竹取物語」や「栄花物語」などの例でわかる。また、身体以外に、茶や薬などが空気にふれて損じ、効き目を失うことを「カゼヒク」といったことが、「日葡辞書」から知られる。

「風邪」は、漢籍では病気名とは言えず、「日葡辞書」でも「Fûja (フウジャ)」は「ヨコシマノ カゼ」で、身体に影響する「悪い風」とされている。近世では、「風邪」は一般に「ふうじゃ」と読まれ、感冒をさすようになった。病気の「かぜ」に「風邪」を当てることが一般的になったのは明治以降のことである。

(125-6)「西館稲荷(にしだていなり)」:「西舘」は、現松前町字西館・字唐津・字愛宕。

近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。福山城の西、小松

前川と唐津内沢川に挟まれた台地一帯、唐津内町の背後(北側)にあたる。当地は上級家

臣の屋敷地とされ、シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に西館町とみえる。享

2年(1717)の「松前蝦夷記」には当町域とみられるなかに西立(にしだて)町・端立(

たて)町・端立中町・今(いま)町・西立寺(にしだててら)町が載り、宝暦11年(1761)の

「御巡見使応答申合書」では西館町・端立町・今館町・端立中町・西立寺町がみえ、文化

4年(1807)の松前市街図には西館町・今町・西端立町が描かれる。しかしこれ以降の史

料には西館町以外の町名はみえず、西館町として統一されたようである。文化頃の松前

分間絵図では台地南東部に蠣崎時松・松前勇馬・蠣崎将監(広年・波響)の屋敷がある。

家の北に稲荷社がある。稲荷社は慶長17(1612)年蠣崎右衛門が西館に造営した。寛文7

(1667)蠣崎蔵人が造営、元禄14年(1701)同家が修理している(福山秘府)。明治38

(1905)徳山大神宮に合祀された。

(126-1)「飯鉢(いいばち・めしびつ・めじばち)」:飯を入れる木製の器。めしびつ。めしばち。

(126-4)「申口(もうしぐち・もうしくち)」:言い分。申し立て。特に、官府や上位の人などに申し立てることば。

(126-7)「正行寺(しようぎようじ)」:松前町字豊岡にある寺院。近世の松前城下に所在。文化(1804-18)頃の松前分間絵図によると武家屋敷地に隣接しており、南西方に法華ほつけ寺がある。浄土宗、護念山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は永禄10年(1567)あるいは天正12年(1584)とも伝える。

『蝦夷嶋巡行記』2月学習分注記                

(7-1)「雨垂石村(あまだれいし・むら)」・・『渡島日記』には、「雨垂石村、従赤神村十丁四十間、人家十五軒、~村内に雨垂石と云大岩有。是に注連を張たり。頗る神威よし。」とある。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、赤神村の北方、茂草と赤神川に挟まれた地域にあり、西は日本海に面する。地名は当地にある雨垂石という岩に由来するという.

(7-2)「ふだん水のたるゝ事」・・「ふ」は「婦」、「た」はいずれも「多」。「ゝ」は前の単語を繰り返す踊り字。

(7-2)「点蹢(てんてき)」・・「蹢」は「滴」か。「点滴」は、しずく、雨だれ。雨垂石を「点滴石」ともいう。

(7-3)「名とせし」・・影印の「勢」変体仮名。「せ」の字源。

(7-3)「茂草村(もぐさ・むら)」・・現松前町茂草。『渡島日記』には、人家に十七軒。大島を戌(西北西)の初針)、小島を未(南西)の正中に見る。浜は砂原、上は平野にして畑地によろし。土人、好て蕪、馬鈴芋を作りて常食に当り。」とある。一行は、ここで、休憩をした。近世から大正12年(1923)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、雨垂石村の北方にあり、日本海に注ぐ茂草川河口域に位置する。

(7-4)「清部村(きよべ・むら)」・・現松前町清部。町の北西部。『渡島日記』には、「人家五十二軒。従茂草三十二丁四十間。村の上に穴居跡多し。漁者にして畑もの大根、蕪、馬齢芋、栗、稗を作る。海中に二ツ石と云奇岩有。」とある。

(7-4)「けはしき坂」・・影印の「希」は「け」、「者」は「は」、「幾」は「き」。『渡島日記』には、「カド岩岬の上を越る。八丁十間、境目、茂草境三十一丁三十五間。此処海岸絶壁有て通り難し。」とある。

(7-6)「越て」・・影印の「帝」は「て」。

(7-6)「江市町村」・・影印の「市」は、「良」か。「江良町(えらまち)村」。現松前町江良。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、南方は清部村、西は海に臨む。『渡島日記』には、「人家八十四軒、文化度三十七軒有しと。旅籠屋、荒物屋等有。~弁才十二艘を繋ぎ沖ノ口出張所有。」とある。

     一行は、ここで宿泊。

(8-1)「往還(おうかん)」・・人の行き来する道。

(8-3)「下れば」・・影印の「連」は「れ」、「ハ」は「は」。

(8-4)「此処に()て」・・影印の「尓」は「に」。「に」の下の「」は、「て」の挿入記号。

(8-6)「じやばみ沢」・・松前町字白坂。享保十二年所附にみえる地名。江良町村の北方、現二越川を越えた辺りをいう。シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「ちやばん 家三軒」とみえるのが早く、ゑら町まちの次に記される。前掲所附でも江良町村、「せそこ内」「ふたこゑ」に続いてあげられる。史料には坂名・川名としてみえることが多く、菅江真澄は「蝦夷喧辞弁」で「蛇喰」の文字を当て、「蛇喰坂を下れば」と記す。「蝦夷日誌」(二編)には「シヤハミ小沢」もみえ、「少しの沢也」と記す。現在はジャヌケとよんでいる。(ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』)

 *奥未川から二越川までの間には次のような主な地名がある。

・ノタトマリ大波のことをノタという。大波がでても舟が着けられる場所という意味。

・ゴロタ(転太)大きな丸い石の意味。こうした石がゴロゴロしているところ。

・ソマルへ(ソマヘ・ソマルベ)意味不明。

菅江真澄の「えみしのさえき」によれば、男根のかたちをした岩が磯辺に立っ

ているので、是をあからさまに言わず、地元の人々は是を物語の名で読んで いると説明している。笠石とも呼んでいる。

     ・ミズナシ岩の岬

・ジャバミ(蛇喰・蛇抜(じゃぬけ))石山さんの牛舎のある沢(一本木の沢)付近の北側。土砂が地滑りを起こして大きくえぐれていた。新国道の工事の時には、この地滑りに気が付かずにずいぶん難工事だった。付近は蛇が多く、地滑りでえぐれた地形を見て、昔の人はこの名前をつけたらしい。現在でも名前の通りマムシは非常に多い。(ウェブ『北海道松前観光奉行』より)

      *松前町白坂の「蛇喰」は興味深い例で、享保12年(1727 の古文書や寛政元年(1789)の菅江真澄の紀行「えみしのさへき」などに「蛇喰」 と記されているのだが、現在は「ジャヌケ」と呼ぶという。(齊藤純『蛇抜けと法螺抜け ─天変地異を起こす怪物』より)

      *影印の「志“」は「じ」、「者”」は「ば」、「ミ」は「み」。「み」と「沢」の間の横線-は、「み」と「沢」をつなぐ矢印線。

(8-6)「歩行(かち)」・・乗り物を使わず、自分の足であるくこと。徒歩のこと。

(9-1)「おこしうぬ河」・・漢字表記地名「奥末川」か。『渡島日記』には、「ヲクスエ海岸小石浜。川有巾十間計り洪水の時十七八間に成。歩行わたり。雪解の時、時々怪我人有。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲクスエサワ」とある。

(9-2)「原口村(はらぐち・むら)」・・松前郡松前町字原口・字神山。近世から大正4年(1915)まで存続した村。近世は西在城下付の一村で、江良町村の北方にあたり、西は海に面する。地名の由来について「地名考并里程記」に「夷語バラコツなり。則、広き渓間と訳す。扨、バラとは広き又ハ打開けたる所をいふ。コツは水なき渓間亦は窪むと申事にて」と記される。一五世紀中葉に道南十二館の一つ原口館があったという(新羅之記録)。当村に続けて五枚間・おつこの木坂・かきかけ坂・五郎左衛門坂・堂の坂、「彦四郎沢 合三十六丁一里」、とちの木き沢が載り、小砂子村(現上ノ国町)に至る。「此間断崖絶壁景気尤も妙也」であった。「行程記」は「大難所あり。此辺冬は雪にて道を失ふことあり船をよしとす」と記す。

(9-3)「おんこの木沢」・・『渡島日記』には、「三ノウタ沢〔小流、三丁四十間〕、ヲンコノ木沢〔二丁三十間〕、カギカケ沢〔小沢〕此処村境(原口・小砂子)なり」とある。又、『罕有日記』には、此辺の地形について、「蓑歌沢、ヲンコノ木沢、願掛沢、彦四郎沢、橡の木沢、相泊沢渉降ともに険はし、中に就て願掛、彦四郎の二沢険悪にして深し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヲンコノキ」とある。

(9-4)「小砂子村(ちいさご・むら)」・・現上ノ国町字小砂子など。近世から明治35年(1902)まで存続した村。石崎村の南に位置し、東部は山地、西は日本海に面する。児砂(蝦夷草紙別録)、児砂子(「蝦夷日誌」二編)などとも記される。「地名考并里程記」に「小砂子夷語チシヱムコなり。則、高岩の水上ミといふ事」とある。北の石崎村との間に「堺川」「めのこしわしり」「もつ立石」「はちかみ沢」「泉沢」「大滝」「矢立石」「あふみ沢」「らしたつへ」が記される。「めのこしわしり」はメノコシ岬、「はちかみ沢」は初神沢はじかみさわ、「あふみ沢」は鐙沢、「らしたつへ」はラスタッペ岬などと、海岸沿いの現在地名に比定される。

102.3)「石崎村」・・現上ノ国町石崎。町の南部。南境を石崎川が西流し、西は日本海に面する。『渡島日誌』には、「人家七十五軒(文化度三十七軒)。浜形申八分向。人家川の北岸に立並び、」、「往古は松前内蔵の領分なりしと。」とある。

10-3)「はねさし村」・・現上ノ国町羽根差。町の中央部。長内川下流右岸に位置し、西は日本海に面す。長内川右岸は小さく突き出た岬状を呈し、この岬北側の海岸にはかって集落が形成されたが、現在人家はない。『渡島日誌』には、「羽根差村人家十五軒汐吹村分也。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「羽子サシ」とある。

10-3)「塩吹村(しおふき・むら)」・・現上ノ国町字汐吹・字扇石。町の中央部。西は日本海に面す。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「此日塩吹村泊り。家数四拾三軒、人数百三拾六人。木古村昼休。蠣崎将監知行所なり。一ケ年収納豊年には五六百両もあり。鯡漁、図合船一艘にて凡金百両余の渡世になる。諸入用は弐拾両程の費なり。此十四五年鯡漁なく、凶年にて甚だ困窮といへり。」とある。地名の由来は、沖合の汐吹岩が、西風の強い時に鯨の潮吹きのように汐を吹き上げるkとに由来するという。

10-4)「方(ほう)」・・四角形。方形。その形であるさま。正方形の一辺。

10-5)「しほふき石」・・「志」は「し」、「本」は「ほ」、「婦」は「ふ」、「幾」は「き」。「汐吹石」は、汐吹岩は別名大文字岩と呼ばれ、現在は汐吹港防波堤の一部となっている。『渡島日誌』には、「汐吹石とて汐の打込時数丈烟霧を噴上る石有。是を牛坂の半腹より見る時は頗る奇也。」とある。また、『罕有日記』では、「径り三十尋許の隆然たる巨巌なり、其色灰に似て其形稜角あり、~、巌下窟をなし西風には潮水窟に入って上部へ吹出す体なり。昨夜より東風強きが故に潮水洞窟を漬かず、塩吹の空し、不見は遺憾多し。」としている。     

10-6)「扇石村(おうぎいし・むら)」・・現上ノ国町扇石。町の中央部。東は山林、西は日本海に面す。『渡島日誌』には、「人家十五六軒。汐吹村の出郷なり」とある。

10-6)「木の子村(きのこ・むら)」・・現上ノ国町木ノ子。町の中央部。西は日本海に面す。北部を小安在川が西流する。地名の由来は、木の切り株からキノコを産したことによるとの説がある。『渡島日誌』には、「人家四十九軒、文化頃も同じ。此辺に至るや馬大に少きよし也。此村畑作多し。此村には商人多し。」ともある。

11-1)「あんさい沢」、「小あんさい沢」・・『渡島日誌』に、「小アンサイ、大アンサイ共に小川 両岸広地流屈曲して深し。」とある。

11-2)「虎之沢」・・『渡島日誌』に、「トラ川 小川、夏分は此処より野に上り、上の国八幡の傍に下るによろし。秋過より冬春は通り難し」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「トラノサワ」とある。

11-2)「初秋」・・旧暦では七月。旧暦の季節区分は、春は正月、二月、三月。夏は四月、五月、六月。秋は七月、八月、九月。冬は十月、十一月、十二月。なお、閏月は前の月(例:閏七月は七月)に付く。

11-3)「よしや沢」・・「蝦夷巡覧筆記」には、大アンサイにはトラノ沢・ヨシカ沢などの沢があり、沢中に畑地がある。シネコ(洲根子)岬を経ずに上ノ国村に至る山道がある。『渡島日誌』には、「ヨシ沢、小沢。従レ是野道十余丁を過て、医王山より九折を下り坂下に出る。ヨシ沢、是上の国村境なり、汐吹村境より一里三十四丁、従レ是海岸は大岩立重、歩行道なし。」とある。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ヨシカサワ」とある。

11-4)「しねか崎」・・和名「洲根子」を当てる。『渡島日誌』では「戻子(ス子コ)岬」、『罕有日記』では「シコロ子崎」につくる。武四郎「東西蝦夷山川取調図」には、「ス子コサキ」とある。

11-4)「上之国村」・・現上ノ国町。北海道の南西部。桧山地方の南端に位置し、北は江差町、厚沢部町、東は木古内町、南は知内町、福島町、松前町に接し、西は日本海に接する。『北海道市町村行政区画便覧(昭和307月、北海道自治協会)』によれば、その開基と沿革は、「村名上の国の由来は、応永年間に安東氏の一族が湊家を起し、津軽大光寺西浜上三郡を領し、上の国と称したことによる(他の一族は津軽下三郡を領し、下の国と称した。)。上の国は七百年の歴史を有する本道最古の村である。昔源頼朝の奥羽征伐によって、敗残の将士の多くが、蝦夷にのがれ、その一派が上の国に来て館を築いた。それが花沢館である。後、松前藩祖武田信広が若狭より渡って、花沢館に遊客中、折から乱を起こしたアイヌの酋長コシャマインを斬って勇武を顕し、以後勝山城を築いて全道に号令するに至った。」とある。

11-5)「高き坂」・・『罕有日記』には、「緩やかな昇り二町余りにて上之国嶺上に至る。下り臨めば江差港より上之国喜多村の村落掌を指すが如し。」とある。

11-6)「北村(きた・むら)」・・現上ノ国町字北村・字内郷。近世から明治35年(1902)まで存続した村。上ノ国村・大留村の北、天ノ川の河口北側に位置する。北は椴川を挟んで五勝手村(現江差町)、西は日本海に面する。元禄郷帳・享保十二年所附に喜多村、天保郷帳には北村とみえる。『渡島日誌』には、「北村 人家八十六軒、文化度七十軒。人家多く、畑作り、山稼、鯡の稼等也。」とある。

11-6)「御勝手村(ごかってむら)」・・現江差町南浜町付近。町の南部。上の国との境。『渡島日誌』には、「五勝手村、人家百三十七軒。浜形酉五六分。海岸砂地なり。入口柏森大明神、下に地蔵堂、金毘羅堂、恵比寿堂。」とある。近世から明治33年(1900)まで存続した村。南は椴川を境にして北村(現上ノ国町)と接し、北は武士ぶし川を境にして江差寺小屋町と接する。東は山地、西は日本海。

11-6)「江差村(えさし・むら)」・・現江差町。北海道南西部、檜山地方の南部に位置。北は乙部町、東は厚沢部町、南は上ノ国町に接し、西は日本海に面する。『市町村行政区画便覧』による開基及び沿革には、「文治五年源頼朝が奥州を征めた時、南部津軽の人達が本道にのがれ現在の松前、江差付近に占居したのが開拓の初めである。延宝六年に松前氏が檜山を開くに当たって、江差に奉行を置き、檜の伐採と補植を行い、あわせて、一般民政を掌らしめたのが、管内における置庁の始まりである。」とある。武藤勘蔵の『蝦夷日記』には、「江差村泊、家数八百八拾九軒、人数三千五百十二人」、「当所は、松前、箱館同様繁昌の湊にて、浜辺には小屋懸けの内にガノズ 売女の事也 幾人ともなく並び居、三味線を引、松阪節をうたふ。」とある。『渡島日誌』には、江差の繁栄について、「人家三千余軒、四月より五六七月の間の盛なる事、是を未央還(みおうかん~未だ半ばに至らずかえる)と号て、北地より帰る処の船々、岸に纜(ともづな)を繋ぎ、実にめざましき事なり。」としている。一方、『罕有日記』には、「戸数凡二千許り。松前、箱館、此地を以て三港と称す。船懸りは中等なるべし。繁栄はニ港に劣る事遥かなり。」としている。『角川日本地名大辞典』には、「元禄年間(1688~1704)に入って魚肥の需要が高まると、藩の生産主体が鯡漁業へと移行し、享保~寛延年間(1716~51)にかけ、場所請負制が成立し、藩の生産構造が確立した。この推移の中で江差港は、西蝦夷地鯡漁業の基地、生産物の集荷地、交易港として急速に発展した。」、また、「江差港は、慶長15(1610)近江商人の福島屋田付新助を先達に、寛永7年頃から近江商人が続々進出して出店を設置、彼らの商取引ルートの中で、商港としての基盤が確立した。その中で、近江商人の手代や舟子、杣夫・漁夫が、主として北陸から渡来、定住するようになり、彼らの中から独立して地場商人(江差商人)に成長するものが出てきた。寛政年間(1789~1801)に入ると、自由商取引の気運が高まり、西廻海運の安全性確認もあって、近江商人の蝦夷地取引独占の荷所船に対抗して、瀬戸内、北陸商人の買積船(北前舩)が雄飛するようになると、江差商人も彼らと取引し、北前舩の経営に乗出す者が出てきた。近江商人は、場所請負制の確立もあって、資本家にとて有利な場所請負人となり、生産面の経営にあたり、江差の出店を閉鎖した。天明~寛政年間(1781~1801)頃には、江差港の商権は、地場商人(江差在郷商人)の手に移り、北前舩商取引時代に入り、江差港は繁栄期を迎え、北前舩の終焉する明治30年代まで続いた。」とある。

11-6)「はげ山」・・夷王山(標高159メートル)。夷王山は、松前氏の祖武田信広や蠣崎氏一族の居館・勝山館の「詰めの丸」といわれ、山頂に、武田信広を祀る夷王神社がある。

11-6)「松前氏の先祖」・・松前藩の藩祖は、蠣崎季繁の娘と客将武田信広との子の「松前慶広」であるが、当初「蠣崎慶広」と称していたが、文禄2年(1598)秀吉より本領松前を安堵、蝦夷一円の支配が認められ、慶長4年(1599)、「蠣崎」の姓を「松前」と改称。同9(1604)家康よりも蝦夷地の支配権を保証されたことにより、徳川幕藩体制の下における松前藩が成立している。(『新編物語藩史』 新人物往来社)。なお、『罕有日記』には、「寛永の系図に、松前の元祖若狭守信広、上之国の城主蛎崎修理太夫の家督を継ぐと記したり。」ともある。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回学習しています。

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2018212日(月・祝日)13時~16時   

◎会場:エルプラザ4階大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『町吟味役中日記』・・天保年間の松前藩の町吟味役・奥平勝馬の勤務日記。当時の松前市中と近在の庶民の様子がうかがえて興味深い。

②『蝦夷嶋巡行記』・・寛政10年、幕府の蝦夷地調査隊に参加した幕吏の記録。

  

事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

1月 町吟味役中日記注記

(113-3)「下男供」の「供(ども)」:名詞・代名詞に付いて、そのものを含めて、同類の物事が数多くあることを示すが、必ずしも多数とは限らないで、同類のものの一、二をさしてもいう。人を表わす場合は「たち」に比べて敬意が低く、目下、または軽蔑すべき者たちの意を含めて用いる。現代では、複数の人を表わすのに用いられることが多い。名詞に付いて複数を表す。人を表す名詞に付いた場合は、「たち」よりも敬意が低い。

*「共」と同語源。一般には、「共」が多いが、「供」は、現在、「子供(こども)」などに残っている。

(113-4)「親ニ代り」の「代」:「代」に左払いの「ノ」があり、「伐」に見えるが、筆運びの勢いの「ノ」。

(113-6)「篤与(とくと)」の「与」:「与」は変体かなではなく、漢文訓読の助辞の「与」

の訓読みであり、日本語の古文や古文書に援用されたもの。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)

(フウは、これひとのほっするところなり)

  [富と尊い身分とは、どんな人でも望むものである。]

 *漢文の語が、わが国の古文書で読まれるとき(訓読)、助詞として援用される語

  ・「与」・・「と」

  ・「之」・・「の」

  ・「自・従」・・「より」

  ・「者」・・「は」「ば」

  ・「而」・・「して」

  ・「也・乎・耶・歟」・・「や」「か」

  ・「耳・爾・而已」・・「のみ」

  ・「許・可」・・「ばかり」

  ・「哉・夫・矣」・・「かな」

  ・「也」・・「や」(呼びかけ)

  ・「乎」・・「よ」(呼びかけ)

(113-6)「御認メ(おしたため)」の「御」:極端に崩され「ワ」「ツ」「ソ」のようになる場合がある。      

(113-7)「岡田團右衛門」の「岡」:構の「冂」が、極端に省略される場合がある。

(113-7)「岡田團右衛門」の「團」:「囗」(くにがまえ)は最後に書く場合がある。さらに、

「囗」(くにがまえ)の横棒は省略され、縦棒も「ヽ(点)」で書く場合がある。

(113-7)「某供(それがし)」の「某」:①〔代名詞〕 《人称代名詞。自称》 男性があらたまった気持ちで謙譲的にいう語。わたくし。拙者(せっしゃ)。小生(しょうせい)。

 ②人名や地名、事物などが不明の時、または具体的なことを省略する時に用いる語。だれそれ。どこそこ。何とかいう。

 ➂人名、地名、事柄など、一般によく知られているためにかえってぼかしていう時に用いる語。

 ここでは、①。

(113-7)「某供(それがしども)」の「供(ども)」:自称の代名詞、または自分の身内の者を表わす名詞に付けて、単数・複数にかかわらず、謙遜した表現として用いる。「私ども」「親ども」など。

(114-1)「湯殿沢町(ゆどのさわまち)」:現松前町字松城・字唐津。近世から明治33年(1900まで存続した町。近世は松前城下の一町。小松前こまつまえ川下流、東西の両海岸段丘に挟まれた地。東は福山城、南は小松前町・唐津内町、西は西館町。

(114-2)「唐津内町(からつないまち)」:松前町字唐津。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。南は海に臨み、東は小松前川を挟んで小松前町、北は段丘上の西館町、西は唐津内沢川を境に博知石町に対する。城下のほぼ中央部に位置する。

(114-6)「目操札(めくりふだ)」: 捲(めくり)札。カルタ札の一種。日本で初めてのカルタである天正カルタの図柄が後に極端に崩れ、一枚ずつめくり、手札としたものの組合せなどにより点数を競う競技に使用されるようになって以後の呼称。また、それを用いて行なう競技や賭博(とばく)。めくりカルタ。

 *「紙をめくる」など、「はがす」の意味の「めくる」は、「捲(めく)る」と「捲」を当てる。影印の「繰」は、「あやつる」の意味で、「目操」は「めくり」と読むのだろうが、当て字としては「目捲」が適当か。

(114-9)「畢而(おわりて)」の「畢」:「畢」は、あみの形。鳥獣などを捕るあみで、下部に長い柄がある。上のまるい形が小網の部分。〔説文〕四下に「田罔(でんまう)なり。田に從ひ、(はん)に從ふ。象形。或いは曰く、田(でん)聲」(段注本)とするが、字の全体が象形である。原の初文である(げん)は、狩猟のはじめに祈る儀礼を示し、犠牲の獣の上に畢をおいて、成功を祈る。田は畢(あみ)の形。夂(ち)は神霊の降下する形。畢で一網打尽にとり尽くすので「畢(おわ)る」意となり、「畢(ことごと)く」という副詞に用いる。

 *テキスト影印の「畢」は、異体字。

(114-6)「店売(たなうり)」:暖簾(のれん)をかかげた商店で品物を売ること。店を構えて商売すること。みせあきない。

(114-67)「吟味詰口書(ぎんみつまりのくちがき)」:江戸時代の刑事訴訟文書の一種。奉行所吟味役人が被疑者を吟味した結果、有罪判決を下すのに十分な供述が得られた場合に作成する文書。被疑者が罪を白状した形式になっていて、被疑者の爪印(武士の場合は書き判)が必要とされ、奉行所ではこれをもとにして刑罰を決定した。

 *「吟味詰(ぎんみづめ)」:江戸時代の刑事訴訟で、吟味筋の裁判を終結させること。被疑者はもはや異議を申し立てることはできず、判決を待つばかりだった。

(115-1)「始メお目見得(はじめおめみえ)」:御目見以上の家に生まれた者が、はじめて将軍に謁見することを特に「初御目見(はつおめみえ)」といった。ここでは、松前藩主へ初めて謁見することをいう。

(115-6)「両浜(りょうはま)」:両浜組。近世初期から北海道に進出して活躍した近江商人の仲間組織。おもに近江国愛智郡薩摩村・柳川村両村(彦根藩領)と蒲生郡八幡町(幕領→尾張藩領→幕領)出身の商人で組織され、両浜組に属する商人を両浜商人または近江店などと称した。両浜の語源については、薩摩・柳川両村にちなんだとするものと、薩摩・柳川両村は互いに隣村であることから両村を一浜とみ八幡を加えて両浜としたとする二説がある。

(115-6)「問屋(といや・とんや)」:近世における商業組織では仲買とともにその中心をなし、荷主から委託された物資を仲買人に売りさばいた。江戸では「とんや」ともいう。

(115-6)「都合(つごう)」:「都」はすべての意。 みんな合わせて。ひっくるめて。全部で。

(115-7)「表座敷(おもてざしき)」:家の表の方にある座敷。客間とする。「座敷」は、表居間昔の部屋の床は板張りのままで、畳・しとね・円座などを敷いて座ったことからできた語。室町時代、書院造りが発達し、畳が敷きつめられるようになってから、よく用いられるようになる。

(115-8)「砌(みぎり)」:「水限(みぎり)」の意で、雨滴の落ちるきわ、また、そこを限るところからというその時。おり。場面。雨だれを受けるために軒下に石を敷いた所。転じて、庭。

 *「砌」:〔説文新附〕に「階の甃(いしだたみ)なり」とあり、階下のしき瓦を敷いたところをいう。もと切石を敷いたものであろう。(『ジャパンナレッジ版字通』)

  **「玉砌(ぎょくせい)」:玉の石だたみ。

(116-2)「同断(どうだん)」:「同じ断(ことわり)」の音読。ほかと同じであること。前と同じであること。

(116-7)「参府(さんぷ)」:江戸時代、大名などが江戸へ参勤したこと。また、一般に江戸へ出ること。出府。

 *「府」:国家が文書または財物を収蔵する場所。くら。「秘府(ひふ)=宮中の書庫」、「内府(だいふ)=宮中の金庫」。

  **「府」は、文書や財物を収蔵し、「倉」「庫」は、兵車や武器を収蔵、「蔵」は、穀物を収蔵するところ。

(116-8)「一統(いっとう)」:総体。一同。

(117-2)「ウス場所(ばしょ)」:現在の有珠うす湾を中心に開かれた近世の場所(持場)名。

一六一三年慶長18(1613)に松前藩主松前慶広がウス善光寺を再建したといわれ(新

羅之記録)、その頃には開設されていたという(伊達町史)。往古の境界は、西側はウコソ

ンコウシ(現在の北有珠町付近)をもってアブタ場所に、東側はヘケレヲタ川(現室蘭市

陣屋町付近)をもってヱトモ場所に接していたが、一八〇〇―一八一〇年代にモロラン

会所(現室蘭市崎守町)が新設されてから、チマイヘツ川(現在の伊達市・室蘭市境のチ

マイベツ川)をもってモロラン場所に接していた(場所境調書)。

「ウス場所」は新井田浅次郎の給地で、運上金七〇両、場所請負人は箱館の浜屋兵右衛門

であった。当時の運上屋は一戸(蝦夷拾遺)。九一年(寛政三年)の「東蝦夷地道中記」

によれば、ウス場所は細見磯右衛門の給地で、請負人は箱館の覚左衛門、ウスに運上屋が

あり、ヲサルベツ、ツバイベツの家数は二軒ほどであった。

寛政11(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、場所請負制を廃止して直捌としたため、

運上屋は会所と改められた。

(117-3)「下乗(げしょう)」:寺社の境内や城内などに車馬を乗り入れることを禁じること。

(117-5)「ウス牧場(まきば)」:文化2(1805)、箱館奉行は蝦夷地初の牧場経営を行ない、アブタ・ウスに牧場を開設した。戸川は、種馬三頭の下付を受けて、南部藩からの献上された馬で、牝馬四頭、購入牝馬五頭とともに放牧、順次繁殖などで増やした。文政5(1822)の記録では、2553頭に達した。なお、この年の有珠山噴火で多くの馬が斃死(へいし)した。

(117-7)「六ヶ場所(ろっかばしょ)」:『北海道史附録年表』(河野常吉編)には、

<享和元年(1801年)「是歳(このとし)幕府、六箇場所『小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追』の地、和人の居住するもの多きを以て村並となし、山越内を華夷(かい)の境界となす」と記述されており、地名も漢字で表記されている。これらの記録から『箱館六ケ場所の村並化は1800年、寛政12年に決定し、翌年、1801年、享和元年に、いわゆる公布・施行』されたものと推定される。>とある。

(117-8)「御構(おかまえ)」:立ち入ることを禁じること。重い追放ほどその範囲は広くなった。御構場。御構場所。

(117-8)「永々之御暇(ながながのおいとま)」:主従などの関係を絶ちきって去らせること。

(118-4)「当時(とうじ)」:現在。現今。

(118-7)「改(あらため)」:調べただすこと。江戸時代、公儀の役人が罪科の有無、罪人・違反者の有無などを吟味し取り調べること。取り調べ。吟味。

(118-8)「法度(はっと)」:法として禁ずること。禁令。禁制。さしとめ。

 *「法度(はっと)」の読みは、「ほうと」の旧仮名遣い「はふと」の促音化した形。

(118-8)「触出(ふれだし)」:触れを出すこと。

(118-10)「手鎖(てじょう・てぐさり)」:江戸時代、刑具の一種、またこれを用いて庶民にのみ科した軽罪の一種。「てぐさり」ともいう。手鎖は鉄製瓢箪型の金具であって、両手を前に組ませてこれをはめ、小穴に錠をかけ紙で封印する。適用実例としては百姓・町人が筋違いの願事をなした場合、不届きとされ、そのお咎として申し付けられる場合が多く、時として不義密通の女や、博奕の自訴、山東京伝の洒落本、為永春水の『春色梅児誉美』などのごとく風俗紊乱の書物を著わしたお咎として科される場合にもみられる。手鎖は「過怠手鎖」と「吟味中手鎖」とに大別される。過怠手鎖はさらに、過料に代えて入牢させ、牢内で執行するものと、自宅・親族などの私宅・宿預・町預のうえ手鎖を付着、謹慎させるものとに区別される。いずれにせよ過怠手鎖は咎の軽重により一定期間(三十日・五十日・百日)手鎖が施されるもので、『公事方御定書』に、「其掛りニ而手鎖懸、封印付、五日目切ニ封印改、百日手鎖之分ハ隔日封印改」とあるように、三十日、五十日手鎖は五日ごとに「錠改め」と呼ぶ定期検査を行い、百日手鎖は一日置きに検査が繰り返された。牢内ではその掛が改め、町預など牢以外の所での手鎖は監視役の町奉行所配下同心・町役人・大家がこれを改めた。自宅での手鎖などは「せっちんでかかあどのやと手じょう呼び」との古川柳が物語るように、日常雑事・用便に至るまで手がかかり、無事期限がくれば、「両の手を出して大屋へ礼に来る」と、御礼参りも慣習的な作法の一つであった。

 *「てじょう」は、「手錠」だが、「手鎖」を「てじょう」と詠むのは当て字。

(118-11)「七日(なのか・なぬか)」:ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』のほちゅうには、<現代東京語では「なのか」が優勢だが、「なぬか」の例は奈良・平安・鎌倉時代に多数見られ、現代でも関西で多用される。「なのか」の確例に乏しいのは、これが東日本で生まれた新しい形だからか。江戸の人であった滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」には「なのか」の例が多い。>とある。

(118-11119-1)「急度御叱(きっとおしかり)」:江戸幕府の刑罰。幕府法上最も軽いものが叱責の刑であって、それには急度叱と叱の重軽二種があった。庶民だけではなく、下級武士にも適用された。白洲で奉行ら裁判の責任者が判決にあたって罪状を述べたあと「急度叱」、あるいは「急度叱置(しかりおく)」と言い渡すだけである。このような刑罰でも、幕府が士庶の身分的挙動の適否を随時公示するために意味があったし、これを受けた者は居住地域の知人らに対し公然と面目を失うことに苦痛があり、むしろ名誉刑の機能をもった。

(119-1)「三貫文(さんかんもん)」:「貫」は、計銭の単位。銭一千文を一貫と称するが、その由来は一文銭千枚を一条の緡(さし)に貫いて一結としたことにあるという。また一貫を一〆と記すことが多いが、これも一結すなわち一しめ、からきたもののようである。

(119-1)「過料(かりょう)」:中世から近世に行われた財産刑の一種。主刑として経済的負担を課することは律令制の衰退以後に始まる。過怠と称して寺社の修理などを命じたり財物や銭貨を徴したが、ことに銭貨を徴することを過怠銭・過銭・過料などと称した。享保三年に過料刑の体系は整備された。『公事方御定書』は御仕置仕形之事に同年極として「過料、三貫文、五貫文、但、重キハ拾貫文又ハ弐拾両三拾両、其者之身上に随ひ、或村高に応し員数相定、三日之内為納候、尤至而軽キ身上ニ而過料差出かたきものハ手鎖」との箇条をおいている。これらの過料刑は広汎に適用され江戸幕府刑法では博奕その他軽罪に対する主要な刑罰であった。さらに御定書以降もある犯罪に対する従来の刑罰を過料刑に変えた例もかなりあり、過料刑が刑罰に占める位置はいよいよ大きくなった。

(119-4)「御役所限(おやくしょぎり)」:「限(きり・ぎり)」は、「限る」意の名詞から転じたもの。「ぎり」とも。体言またはそれに準ずる語に付いて、それに限る意を表わす。

「…かぎり」「…だけ」の意。

(119-5)「披露(ひろう)」:公表。

『蝦夷嶋巡行記』1月学習分注記    

◎本テキストの概要: 本書は、北海道大学附属図書館所蔵の『蝦夷嶋巡行記』(旧記040)の影印本であり、寛政8年(1796)と同9年(1797)の二度のイギリス船の来航により、松前藩の北方警備に危惧を抱いた江戸幕府は、寛政10年(1798)、大規模な蝦夷地調査隊を派遣したが、そのうちの西蝦夷地の調査に随行した筆者の公暇斎蔵(身分不詳)が、5月から8月にわたり、松前より宗谷まで、帰路は石狩川、ユウフツ経由で松前まで巡見し、翌寛政11年(17999月に『蝦夷嶋巡行記』として取りまとめた紀行記である。

【イギリス船の来航と幕府の蝦夷地調査】

【寛政8年-1回目の来航】

 寛政8年(17968月、一艘のイギリス船が、海図作成のため、東蝦夷地内浦湾のアブタ(虻田)沖に姿を現した。

 18世紀後半、新興のロシアや世界に先駆けて産業革命を成し遂げたイギリスなどの西洋列強、さらに1776年(安永5)に独立を果たしたアメリカによる太平洋海域への進出が盛んになる中、毛皮交易などのため重要な広東、上海、厦門とアラスカ、北アメリカ西海岸を結ぶ海路上に位置するカラフト(唐太)東海岸や蝦夷地周辺の海域は、これまで十分な測量がなされていない海図の空白区域となっていた。

 イギリスの海軍士官ジェームス・クック(キャプテン・クック)隊による第3次探検(1776(安永5)~1779(安永8)によって、ハワイ諸島、北アメリカ西海岸、アラスカ、ベーリング海域の調査はなされたが、千島列島と蝦夷地の沿岸海域については、風と濃霧のため十分な測量がなされず、また、天明7(1787)のフランスのラ・ペルーズ探検隊の調査によっても、対馬海峡から日本海(能登岬まで)を測量しながら北上し、さらに沿海州沿岸とカラフト西岸を測量(間宮海峡を発見できず)し、宗谷海峡(この時、ラ・ペルーズ海峡と命名)を通過してカムチャッカに至ったが、カラフト東岸や蝦夷地周辺の海域は、依然として空白のまま残された。

 このため、当時東南アジアで競合するオランダに第4次英蘭戦争(17801784)で勝利し、南太平洋の制海権を握ったイギリスは、1795年(寛政7)、海軍中佐ウイリアム・ロバート・ブロートンに、東シナ海沿いの琉球から日本列島、朝鮮半島を経て、未知の蝦夷地、サハリンに至る正確な海図の作製を命じた。

寛政8年(1796814日、東北地方を北上してきたブロートンの指揮するプロビデンス号(430トン、乗員150人)は、東蝦夷地内浦湾に入り、アブタ沖に停泊、その後、17日にヱトモ(絵鞆)に移動、停泊をした。

この時東蝦夷地巡見中の家老松前左膳広政からの急報を受けた松前藩は、寛政4年(1792)のロシア遣日使節アダム・ラックスマン一行の応接御用を務めた藩士工藤平右衛門、同米田右衛門及び医師加藤肩吾を通弁見届として、藩士高橋壮四郎を付添いとして派遣、825日に、プロビデンス号を訪れ船内の見分をするとともに、翌26日再び訪問し、松前藩の地図を贈り、その返礼としてブロートンからキャプテン・クックの航跡を図示した世界地図を贈られた。その後、プロビデンス号は、ヱトモ周辺を測量、内浦湾を噴火湾(Volcano-bay)と名付け、830日、死亡した水兵をオルドソン島と名付けた大黒島に埋葬し、出帆、千島列島を経て中国(厦門)へ向かった。

 この間、隠居松前道広(前8代藩主)が鷹狩と称して826日、藩兵280人を率いて亀田まで出兵し、引き返したほか、828日には、津軽藩が出兵準備を行っている。

 幕府は、9月、松前藩から報告を受け、109日、工藤平右衛門、加藤肩吾を、勘定奉行久世丹後守邸において尋問するとともに、老中太田備中守資愛、勘定奉行間宮筑前守信好、目付村上大学を松前御用掛に任じ(間もなく、太田備中守は戸田采女正氏教に、村上大学は新見長門守にそれぞれ交代)、さらに、勘定金子助三郎、普請役宮田左右吉、徒目付古屋平左衛門、小人目付田草川伝次郎、松永善之助を松前見分御用に任じて松前に派遣、5名は、翌寛政9年(17971月~3月にかけて、東蝦夷地を中心に、江差方面の調査をも行い、同5月、幕府に調査報告書を提出した。

【寛政9年―2回目の来航】

 寛政9年(17974月、ブロートンは、再び北方探検のため厦門を出発したが、420日、琉球宮古沖でプロビデンス号が座礁、沈没したため、スクーネル船(80トン、乗員34人)に乗り換え、日本の東海岸を北上、719日、ふたたびヱトモ沖に姿を現した。

 松前藩は、アブタ勤番の酒井栄からの急報により、前年と同様、工藤平右衛門と加藤肩吾を派遣、724日、ブロートンを訪問したが、二人の監視するような応接の態度を怪しんだブロートンは、閏72日、ヱトモを出帆、その後、恵山沖で水深を測り、7日箱館沖に現れ、白神岬をまわって、閏79日には福山城下に接近、その後、津軽海峡を日本海に出、西蝦夷地リイシリ(利尻)島、レブンシリ(礼文)島を経てカラフト西岸を北緯52度まで北上後、反転し、対馬を経て、南シナ海を探検し、厦門に帰っている。

 この間、松前藩は、下国武、新谷六左衛門ら藩兵300人をヱトモに差し向け、また、閏79日の福山接近に際しては、福山城下の守備を固めるなど戦々競々の日を送った。

 幕府は、928日、松前藩主松前若狭守章広の参勤交代による出府の中止を命じ、既に925日福山を開帆、仙台領水沢まで赴いていたのを引き返させ、代わって隠居松前道広の出府を命じ(幕府は、言動に疑惑のある道広の松前居住を好まなかったためともいわれている)、松前道広は、1127日に福山を開帆、江戸に赴いている。

 また、幕府は、922日、津軽藩に対し、近年松前に異国船が度々入来するにつき、番頭1組の箱館への派遣を命じ、津軽藩は、114日、番頭山田剛太郎、目付佐野吉郎兵衛以下550人を出発させ、翌寛政10年(1798)正月3日箱館着後、浄玄寺に本陣を置き、警備に当たらせた。

【寛政10年-幕府の蝦夷地調査と東蝦夷地の仮上知】

 幕府は、ロシア船やイギリス船の相次ぐ来航により、松前藩の北方警備に対し重大な危惧を抱き、寛政10年(1798314日、目付渡辺久蔵胤、使番大河内善兵衛政寿に、同17日には勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、それぞれ松前表異国船見届御用を命じ、勘定組頭松山惣右衛門、勘定太田十右衛門、支配勘定近藤重蔵、勘定吟味方改役並水越源兵衛、大島栄次郎、その他御徒目付5、小人目付8、普請役7など総勢180余名で、415日江戸出立、516日福山城下に到着した。

 一行のうち、目付渡辺胤、勘定組頭松山惣右衛門は、福山城下に留まり事に当り、勘定吟味役三橋藤右衛門一行(上下27人)は、西蝦夷地視察した。使番大河内政寿一行の本隊は東蝦夷地シヤマニまで巡回し、別動隊の支配勘定近藤重蔵ら一行(最上徳内、下野源助(木村謙次)、秦檍丸(村上島之丞))は、さらに奥蝦夷地のエトロフ(択捉)島に渡り、727日、モイレマとタンネモイの間の丘に「大日本恵登呂府」の標柱を建立している。

本書の著者・公暇斎蔵は、西蝦夷地巡行の三橋藤右衛門の従者のひとり。一行は、525日、松前を出発し、西蝦夷地をソウヤまで、帰路は、石狩川、千歳経由で巡見した。松前帰着は822日で、86日間、556里の旅であった。

 帰府した渡辺、大河内、三橋の三人は、1115日、将軍(11代家斉)に拝謁、復命した。幕閣らは、この復命に基づいて評議を重ね、ついに、蝦夷地の経営を幕府みずから行うことを決した。

幕府は、翌寛政11年(1799116日に、異国境取締りのため東蝦夷地(範囲は浦川(後、知内)より知床および東奥島まで)を当分の間(期間は7か年)試みに上知する旨松前藩に通達するとともに、御書院番頭松平信濃守忠明、勘定奉行石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正養、使番大河内善兵衛政寿、勘定吟味役三橋藤右衛門成方に、蝦夷地御取締御用を命じた。

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12月 町吟味役中日記注記

        
(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。

(108-1)「加州」:加賀国(石川県南部)の別称。賀州とも。ただし、「伊賀」が「賀州」ということが多いので、「加賀」は、「加州」という場合が多い。影印の「州」は、異体字の省略体。

 *ほかに、旧字体「澁」の旁の草体(略体)「渋」は、常用漢字に「昇格」した。

(108-1)「橋立(はしたて)」:現石川県加賀市橋立町。江戸後期から明治中期にかけて活躍した北前船の船主や船頭が多く居住した集落。船主数は享和元年(1801)四六人、文化6年(1806)四九人、文政10年(1827)二七人。有力な船主には久保彦兵衛・西出孫左衛門・酒谷長兵衛らがあり、藩の財政改革にも積極的に協力した。現在、国指定の重要伝統的建造物群保存地区に指定されれいる。保存地区には往時の様子を伝える船主屋敷が起伏に富む地形に展開しており、敷石や石垣には淡緑青色の笏谷石(しゃくだにいし)が使われ、集落に柔らかな質感を与えている。

(108-2)「入津(にゅうしん・にゅうつ)」:船が河海の津(港)にはいること。入港。

(108-3)「深浦(ふかうら)」:現青森県西津軽郡深浦町。県最西端にある日本海に臨む港町。中世には西浜と称され、安藤氏の支配下にあった。近世には弘前藩領。

(108-4)「小箪笥(こだんす)」:小さい箪笥。「箪笥」は、

 (1)中国では、竹または葦で作られた、飯食を盛るための器のことを「箪」「笥」といい、丸いものが「箪」、四角いものが「笥」であった。

(2)日本における「箪笥」の初期の形態がどのようなものであったか知ることはできないが、「書言字考節用集‐七」には「本朝俗謂書為箪笥」とあり、近世初期には書籍の収納に用いられていたようである。

(3)その後、材質も竹から木になり、「曲亭雑記」によれば、寛永頃から桐の木を用いた引き出しなどのある「箪笥」が現われ、衣類の収納にも用いられるようになり、一般に普及していったという。

(108-6)「錠前(じょうまえ)」:「錠」は「鎖(ジョウ)」の当て字。「ジョウマエ」は、重箱読み。戸などにとりつけて、開かないようにする金具。なお「前」は接尾語で、その属性、機能を強調していう。「腕前」「男前」など。

(108-6)「小松前」:現松前町字松城。松前城下の一町。小松前の地名について上原熊次郎は「夷語ポンマツナイなり。即、妾の沢又は小サき女の沢と訳す。ポンとは小イと申事。マツは婦人の事なり」「妾の事をポンマツと云ふ」と記し、続けて「則此沢に妾の住けるゆへに此名ありと云ふ」とする。福山城の南側、大松前川と小松前川に挟まれた海岸沿いの地域。沖之口役所があり、有力商人が軒を並べる城下の中心であった。

(108-8)「弐分金」:江戸時代の金貨の一種。二分判ともいう。四分で一両だから、二分金は一両の半分。文政元年(一八一八)にはじめて鋳造された。同十一年品位の異なる二分金が作られたが、貨幣の背に刻された紀年の「文」の字が、前者は楷書、後者は草書であったため、それぞれ、真文二分金(判)、草文二分金(判)とよばれた。その後も、安政三年(一八五六)、万延元年(一八六〇)、明治元年(一八六八)に鋳造されており、それらの通用期間・量目・品位・鋳造高は別表のとおりである。草文二分金以後のものが、当時の小判に比し、品位が低かったのは、一つには改鋳益金(出目(でめ))を得るためであったが、安政以降は、外国との通商が開けたために、不利な条件で金が海外に流出するのを防ぐ意味もあった。しかし幣制に統一を欠き、金銀比価が均衡を失していたために、その目的は達せられなかったが、国内では良貨が退蔵され、二分金が大量に流通した。さらに明治元年から二年までに、二百万両に近い劣悪な二分金が維新政府の手で鋳造された上に、多量の贋貨も市中に出廻ったため、明治初年には二分金が主要な通貨として用いられた。また明治七年に旧貨幣の価格を定めたとき、二分金二枚=一両の価値が算定の基準とされた。

(108-8)「浅黄木綿(あさぎもめん)」:木綿織物の一つ。経(たていと)、緯(よこいと)ともにあさぎ色に染めた糸を使って平織りにした無地の木綿。多くは裏地用に用いる。

(108-8)「肌附(はだつき)」:肌着(はだぎ)。

 *「肌付金(はだつけがね・はだつきがね)」:肌身はなさず持っている金銭。肌につけて大切にしている金。所持金。はだつきがね。

**浮世草子・好色五人女〔1686〕四・三「殊更見せまじき物は道中の肌付金(ハタツケカネ)」

(109-9)「壱朱金」:江戸時代の金貨幣。一両の十六分の一、一分の四分の一に相当する正方形の金貨。品位きわめて悪く、形も小さく、取り扱いが不便で、俗に「小二朱」とも呼んだ一朱の金貨としては、文政期改鋳の一環として、文政七年(一八二四)に発行した一種があるのみ。一個の重さは〇・三七五匁(一・四一グラム)という軽量である上に、規定の品位は三百六十五匁、江戸時代を通じて無類の悪弊であった。通用開始は七月二日と布告されているが、大坂では、七月二十一日から鴻池善右衛門・米屋平右衛門ら十五軒組合の両替屋たちが、二朱金一万五百両を預って引替えにあたった。しかし上方での評判はいたって悪く、主として古二朱銀と引き替えた高は、九月十六日現在で、ようやくにして二千両余。以後、大坂へ一朱金を差し登せることは御免ねがいたいと訴えるほどであった。それにしても、天保四年(一八三三)七月までの発行量は二百九十二万両に達した。

(108-11)「金高(かねだか・きんだか)」:金銭を合計した額。金額。

(109-1)「南鐐銀(なんりょうぎん)」:二朱銀の異称。八枚をもって金一両とする「金代り通用の銀」。つまり、二枚で一分、八枚で一両に当たる。南挺。江戸時代、安永元年(一七七二)以後鋳造された。「鐐」は白銀の美しいものの意。純分比百分の九十八という良質の銀(上銀)を素材としているので南鐐と呼ばれた。なお、幕府は、南鐐一朱銀(文政一朱銀)を鋳造、7月より通用開始した。

*P108・8行~P109・1行の計算

 ①「弐分金拾両」:4分で1両だから、「弐分金」は2枚で4分=1両。

   10両=2分金×10=20枚(2分金換算)

 ②「壱朱金三両」:1朱は、1両の16分の1。3両は16×3=48枚(1朱金換算)

 ③「南鐐銀二両」:(イ)「南鐐銀」は通常、2朱銀だから、2枚で1分。8枚で4分=1両。二両は16枚。(ロ)南鐐一朱銀の場合は、(イ)の2倍で32枚。

(109-3)「猿(さる)」:扉(とびら)や雨戸の戸締まりをするために、上下、あるいは横にすべらせ、周囲の材の穴に差し込む木、あるいは金物。戸の上部に差し込むものを上猿(あげざる)、下の框(かまち)に差し込むものを落猿(おとしざる)、横に差し込むものを横猿という。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』』)

 *以下、出村道昭氏(6班)のコメント

  「猿」は、一般的に雨戸の戸締り用に使用する。仕掛けについては、「上げ猿」「落し猿」「横猿」があり、それを固定するための「寄せ猿(または、送り猿とも)」がセットになっている。

 『吟味役中日記』の「表入口戸猿外より錐にて明」の読み方だが、

   「表入口戸、猿、外より錐にて明」と読んでも

    「表入口、戸猿、外より錐にて明」と読んでも意味には違いがない。

  しかし、①の「猿」のみの単独表現では、ぎこちない言葉遣いではないか。「猿」は、雨戸に使用するのが一般的であり、「上げ猿」「落し猿」「横猿」の仕掛の総称の呼び方として「戸猿」(雨戸の猿の意)という方が素直な呼び方ではないか。

(110-4)<くずし字>「其旨共」の「共」:脚部の「八」の左払いが省略される場合が多い。

(110-7)「不包(つつまず)」:かくさず。「包む」は、表面にあらわさないで心の中にかくす。心にひめる。涙をこらえることにもいう。

(112-5)「内証(ないしょう)」:影印の「証」は旧字体の「證」。人に知らせないこと。あら

 わにしないこと。

(112-6)「取〆り(とりしまり)」:「〆」は、国字。「封」の草体の極端な省略とする。ここでは「締」の略として使われている。

 『蝦夷錦』12月学習分注記

34-1)「大迷惑(おおめいわく)」・・「大」は、接頭語で、名詞につき、程度のはなはだしい 
     ことを表し、「迷惑」は、どうしてよいか迷うこと。途方にくれること。困惑したり不快 
     に感じたるさま。

34-2)「御城附衆(おしろづきしゅう)」・・お城務めの者。お城詰の者。

34-3)「絵図(えず)」・・19世紀(明治前期)以前の日本での普通の地図に対する呼称。そもそもは条里制施行時代,農地の状態を表した図に〈田図〉があったが、条里名称などを注記した方格のみの〈田図〉を〈白図〉と呼び,方格のほか山川、湖海、道路、家屋など地形・地物を記入した〈田図〉を、〈白図〉と区別して〈絵図〉と呼んだ。

     江戸時代を通じて地図一般を指す呼称として〈絵図〉が主流ではあったが、〈地図〉もまたときにその同義語として使用されていた。

     〈絵図〉という語が影をひそめるのは、明治政府が学校教育に〈地図〉という呼称を持ちこんでからであり、明治中期以降地図一般を〈絵図〉と称することはほとんどなくなった。現在では〈絵地図〉という語があって、古来使用されてきた〈絵図〉を〈絵地図〉と解するむきもあるが、誤り。

     *<漢字の話>「絵」を「エ」と読むのは、国訓ではなく、呉音。漢音は「カイ」。なお、「図」も「ズ」は呉音で、漢音は「ト」。したがって「絵図」を「エズ」と読むのは、呉音読み。

     *「江戸絵図の川という筋」・・江戸の絵図には川筋が青く塗ってあったことから、額の青筋をしゃれていう語。

     洒落本・辰巳婦言〔1798〕四つ明の部「あいつが懸河(けんが)の弁をふるっちゃア、どんなやつでもひたいへ江戸絵図の川といふ筋を出して、一ばんひねって見るのサ」

34-6)「御右筆衆(ごゆうひつしゅう)」・・「右筆」は、「祐筆」とも。江戸城には、御表御祐筆(営中の書記を掌り、日記方、分限方、家督方、吟味方などの分掌を担当)30名位と御奥御祐筆(営中の記録係で、老中の文案を悉く記録し、古例に徴して事の当否を議する役で、機密の事を担当)13名位がおり、御表御祐筆より、御奥御祐筆の方がより重い役であった。

34-4)<くずし字>「等」・・くずし字では、「ホ」の形になる場合が多い。

         ・なぜ「ホ」の形になるかについて、<脚部の「寸」が独立したもの。「す(寸)」と区別するため、肩に「ヽ」つけたもの>(茨木正子偏『これでわかる仮名の成り立ち』友月書房)

     ・<「等」の草体からできた字である。但し、そういうせんさくは一切抜きにして、直ちに古文書の「等」これなりと覚えてください>(笹目蔵之助著『古文書解読入門』新人物往来社)

(34-9)「堀田摂津守(ほったせっつのかみ)」・・江戸時代後期の大名、若年寄。近江国堅田(かたた)藩主、下野国佐野藩主。藤八郎・村由。水月と号す。陸奥仙台藩主伊達宗村の八男。寛政2年(1790)、若年寄に進み、勝手掛となり、寛政の改革の財政を担当。文化3年(1806)勝手掛出精につき三千石加増。翌4年蝦夷地にロシア船来航につき松前へ派遣される。天保3年(1832)七十五歳で致仕するまで四十三年にわたり若年寄の職にあった。同年六月十七日死去。若年寄在任中、『寛政重修諸家譜』編纂を総裁した。

(35-2)「南部大膳大夫(なんぶだいぜんのだいぶ)」・・令制の中宮職・春宮坊・左右京職・大膳職・摂津職の長官。令外の皇后宮(皇太后宮・太皇太后宮)職および修理職の長官も大夫と称した。『貞丈雑記』には、「大夫をすみて云と、にごりて云に差別あり」とし、左京大夫・修理大夫などは濁っていい、「たいふ」と澄んでいうときは五位の事であると説いている。また長官を「だいぶ」と読むのは、八省の次官の大輔を「たいふ」というのと区別するためであるとする説もある。

     *「大膳職(だいぜんしき)」・・令制宮内省所管の官司。「おおかしわでのつかさ」と訓む。内膳司が供御の調製、供進を担当したのに対し、大膳職は主として朝廷の饗膳の調進を職掌とした。職員令によれば、その職員は大夫(だいぶ)一人、亮(すけ)一人、大進(だいじょう)一人、少進(しょうじょう)二人、大属(だいさかん)一人、少属(しょうさかん)二人、ほかに、史生(ししょう)、主醤(ひしおのちかさ)、主菓餅(くだもののつかさ)、膳部(かしわでべ)、使部(しぶ)、直丁(じきちょう)、駈使丁(くしちょう)などから成り、そのほかに雑供戸(鵜飼・江人・網引・未醤戸など)が付属していた。主醤は醤・未醤など調味料の製造を掌り、主菓餅は菓子(木の実)のことおよび雑餅の製造を掌った。

     *「大夫・太夫(だゆう)」・・鎌倉時代末ごろ、大和猿楽座の棟梁が従五位下の位を得て大夫と称してから、芸能の世界でも大夫が棟梁の地位を示す称となり、「たゆう」とよむのを例としたが、江戸時代には遊女の最上級者の呼称にもなった。

(35-3)「大番組(おおばんぐみ)」・・江戸幕府の職名。老中支配で、三河の譜代家臣を母体として、今川氏や武田氏、後北条氏の遺臣を組み込んで編成され、戦時は、先鋒となり、平時は、要地を守衛。後年、江戸城及び江戸市中の警備にあたるほか、毎年、二組ずつ順次交替して、二条城と大阪城に在番した。寛永11(1634)には12組に増設され、以後幕末まで固定した。各組は、大番頭(5000石)1人、組頭(600石)4人、番士(200俵高)50人、与力10騎、同心20人で構成。

35-5~6)<古文書の体裁>「平出」「欠字」・・5行目に「右之通於」で改行しているが、尊敬の体裁で「平出」という。また、6行目「御前被」と「仰付」の間が1字分空いているが、「欠字」という。

35-6)「御前(ごぜん)」・・ここでは、「将軍」を指す。本書時(文化4年)の将軍は、第11代の家斉(いえなり)。

35-7)「榊原式部大輔(さかきばらしきぶのたいふ)」・・越後高田藩(10万石)の藩主榊原政敦(まさあつ)。受領名式部大輔。藩主在任期間(寛政元年(1789)~文化7(1810))。

     *式部省・・令制で、太政官八府の一つ。朝廷の礼式、文官の選課、選叙、賜禄などを司り、大学寮、散位寮を所管した。また、式部省の位階は、卿、大・少輔、大・少丞、大・少録などの順となっている。

35-8)「城請取」・・『松前町史』(別添)によると、松前藩居所受取の幕吏は、男谷平蔵(おだにへいぞう)と守屋権之丞で、榊原政敦の名はない。

36-1)「籏本(はたもと)」・・旗本。影印は、竹冠の「籏」になっている。なお、「旛」は国字。「旗本」は、江戸幕府直属の家臣で、将軍に御目通りできる格の御目見以上で、家禄がおおざっぱにいってだいたい二百石以上の武家。十八世紀半頃の調べでは、5200余家あった。(『江戸幕府役職集成増補版』)

36-3)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。思考。

36-3)「了簡(りょうけん)」・・考え。気持ち。思案。「料簡」とも。

36-4)「しかし」・・「し」は、変体かなの「志」。

36-6)「御詫言(おわびごと)」・・あやまりの言葉。

36-8)「かうゑき」・・「交易=こうえき」で、互いに物品の交換や売買をすること。

37-1)「一昨年」・・本書の成立は、文化4年(1807)であることから、「一昨年」は、文化2年(1805)となる。

37-1)「星の貫キ」・・不吉の前兆としてその出現が恐れられている「彗星(別名ほうき星)」、あるいは「流星」を指すか。『近世日本天文史料』(大崎政次編著 原書房)には、文化2年(1805)に、彗星や大規模な流星が出現したとする記録が記載されていない。ただ、ヨーロッパでは、後年に「エンケ彗星」と名付けられた「太陽の周りを周期3.3年で公転する彗星」が1805年に出現している。(『平凡社大百科事典』)

3712)「水戸の国」・・水戸徳川藩の領地で、国名では、常陸の国。

37-2)「月影(つきかげ)」・・月の形の意で、天文現象としての「月食」を指すか。『近世日本天文史料』には、「文化二年(1805)六月十六日戊辰、月帯食。とらの四刻上と左の間よりかけはしめ、とらの八刻八分はかりかけながら入。食分東国にてハ浅く、西国にてハ深かるへし」、「六月十七日己巳、晴 今暁月蝕也」、「六月十六日、夜寅ノ刻月蝕八分」の記録があり、水戸でも、早朝4時~5時頃に、部分月食が出現したと思われる。

37-4)「仙台(せんだい)」・・仙台伊達藩をさす。

37-4)「佐竹(さたけ)」・・秋田(別称久保田)佐竹藩をさす。

11月 町吟味役中日記注記       

(102-1)「倅(せがれ)」:影印の「伜」は俗字。自分の息子をさしてへりくだっていう語。古くは男子・女子ともにさしていった。元来、「悴」を当てていたが、人を指すことを明示するために、立心偏を人偏に改めて、「倅」を当てたもの。なお「せがれ」は、室町以降の語で、「痩。せ枯れ」の意とされる。「悴」の字義から生じた訓。

(102-8)「勘定奉行」:金穀収支の業務にあたる。(別表参照)

(102-8)「蠣崎四郎左衛門」:後、松前藩家老(格)となる蠣崎吉包。影印の「蛎」は、「蠣」の俗字。「日本橋蛎殻町」は、俗字の「蛎」を使用。

 *<漢字の話1>①「右」と「左」の書き順・・「右」は払いを1画目、横棒を1画目に書く。「左」は、横棒を1画目、払いを2画目に書く。

 その理由・・「右」は、右手に神に捧げる祈りの文章を入れた器(口)を持っているところで、払いが手のひら、横棒が腕。

「左」は、左手に祈りのときに使う道具(工)を持っている姿で、横棒が手のひら、払いが腕。

 *手のひらを書いてから腕を書くから、「右」は、払いから、「左」は横棒から書く。

  (上記は、日本漢字能力検定協会のHPより)

 ②「筆順指導の手引き」(昭和33年・文部省)・・「本書に取り上げた筆順は、学習指導上の観点から、一つの文字については一つの形に統一されているが、このことは本書に掲げられた以外の筆順で、従来行われてきたものを誤りとするものではない。

(103-1)「寺社町奉行」:松前藩での設置は慶長年間といわれる。寛永16(1639)には、切支丹対策の一環として法制化されている。後松前藩時代、一時寺社奉行と町奉行を分離したこともあるが、ほとんどは両奉行を兼帯している。(別表参照)

(103-2)「触面(ふれめん)」:触書の文面。触書は、江戸時代、幕府や藩主などから一般の人々に公布した文書。特定の役人、または関係官庁などにのみ通達された御達(おたっし)に対する語。

(103-3)「村山傳兵衛」:町奉行配下の町下代。

(103-8~9)「武芸」:江戸時代中期になると、武芸は武士たる者の修むべき道として奨励され、儒書の勉学と並んで武士教育の教科となった。そして中世の弓馬に代わって剣術が表芸の第一とされるようになった。そのような状況から、正式の武芸を修行する武士の階層が広まり、したがって武芸師範を本職とする者も急増した。

 *<漢字の話>「芸」:旧字体は「藝」だが、別に「芸」という字があり、「目宿(ウマゴヤシ)」に似た草の名前。「藝」の解字は「芸」+「執」。園芸技術の意味から一般にわざの意味を表すようになった。

(104-6)「唐津内沢町」:現松前町字唐津・字西館・字愛宕など。近世から明治33年(1900)まで存続した町。近世は松前城下の一町。唐津内沢川沿いの町。松浦武四郎は「小商人、番人、水主、船方等多く住す。此流れの向に新井田嘉藤太此処へ被下ニ相成屋敷有。水車有」と記しており(「蝦夷日誌」一編)、船乗りが多かったことがわかる。新井田邸跡は現在北海道唯一の孟宗竹林となっている。

(105-1)「青森赤石町」:現青森県西津軽郡鰺ヶ沢町のうち。日本海に面する漁村。

(105-3)「遣ひ者」:遣い物。贈り物。贈答の品。進物。

(105-9)「取障(とりさへ=え=)」:下2段「取障(とりさ)ふ(う)」の連用形。「取障(とりさう」は、争いの間にはいってなだめる。仲裁する。とりなす。

 *<文法の話>下2段動詞「取障(とりさ)ふ」の活用・・「とりさへ」(未然)・「とりさへ」(連用)・「とりさふ」(終止)・「とりさふる」(連体)・「とりさふれ」(已然)・「とりさへよ」(命令)

(106-23)「揚屋入(あがりやいり)」:揚屋に入牢させること。また、入牢させられること。

 「揚屋(あがりや)」は、牢屋。本来は、江戸時代、江戸小伝馬町(東京都中央区日本橋)の牢屋敷内にあった牢房の称。揚屋に入る未決囚は牢屋敷の牢庭まで乗物で入り、火之番所前で降りる。このとき鎰役は送ってきた者から、囚人の書付を受け取り、当人と引き合わせて間違いがなければ、当人は縁側(外鞘)に入れられる。鎰役の指図で縄を解き、衣服を改め、髪をほぐし、後ろ前に折って改める。改めたあと、鎰役が揚屋に声をかけると、内から名主の答があり、掛り奉行・本人の名前・年齢などのやりとりがあり、鎰役の指図で、平当番が揚屋入口をあけて、本人を中に入れた。

 *「揚屋」を「あげや」という場合は、近世、遊里で、客が遊女屋から太夫、天神、格子など高級な遊女を呼んで遊興する店。大坂では明治まで続いたが、江戸吉原では宝暦10年(1760)頃になくなり、以後揚屋町の名だけ残った。「揚屋入(あげやいり)」は、遊女が客に呼ばれて遊女屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。前帯、裲襠(うちかけ)の盛装に、高下駄をはき、八文字を踏み、若い衆、引舟、禿(かむろ)などを従え、華美な行列で練り歩いた。おいらん道中。

(106-5)「日光海道」:日光街道。東京から宇都宮市を経て日光市に至る道路。江戸時代の五街道の一つ。江戸日本橋を起点として、千住から宇都宮までの一七宿は奥州街道と同じ道を通り、宇都宮から分かれて徳次良・大沢・今市・鉢石を経由して日光に至る。日光道中。宇都宮までは奥州街道と共用。

(106-5)「海道」:①海上の航路。海路。船路(ふなじ)。②海沿いの道。海沿いの諸地方に通ずる道。また、その道に沿った地域。③街道に同じ。④特に、東海道をいう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古くは①を表わすには「海路」が多く使われ、「海道」は主として(2)の意だった。中世、「保元物語」などの軍記物語に頻出する「海道」は④である。

(2)中央から見てその区画の最遠方に至る路線上に海路が含まれる場合、その行政区画ばかりでなく、路線もまた「…海道」と呼ばれた。中世以降、鎌倉─京都の往還が最重要路線となったため、「海道」といえば東海道を指すようになった。④の挙例「平家物語」の「海道宿々の」はその意だが、次第に固有名詞という意識が薄くなり、人通りの多い〈主要道〉という一般名詞③が確立した。

(3)これに基づいて「日光海道」「甲州海道」などの名付けが行なわれたが、これらが海から遠いため、今度は「海」字が不適当と意識されるようになり、「街道」と書かれるようになった。

(4) 「海道」「街道」の表記については、「諺草」が「今俗に陸路を海道と云はあしし。街道といはんが然らん」と論じ、それを挙例の「俚言集覧」が論評していることや古辞書類に「街道」が見えないこと等から、漢籍からの借用というよりは、書き換えによって出現した表記とするのが妥当と思われる。

(5)近世に入ると「街道」の表記が目立つようになるが、次第に「海道」とは同音異(義)語として意識されるようになったものである。

(106-5)「房川(ぼうせん)」:日光道中栗橋宿と中田宿(現茨城県古河市)とを結ぶ利根川の渡船場で、栗橋関所とともに日光道中のなかでも重視されていた交通の要衝であった。呼称の由来は栗橋宿の常薫寺が法華坊と称すことからその坊前の渡の意であるといい(風土記稿)、また中田宿の円光寺が玉泉坊といった頃、坊下の川を坊川とよんだという説、当時この辺りの流れが房状に膨らんでおり、房川(ふさがわ)渡が音読みされたという説もある。「郡村誌」は「ばうかはわたし」と読む。中田渡ともよぶ。

(107-2)「抱子(かかえこ・かかえっこ)」:置屋などでかかえている芸娼妓。

(107-2)「酌取奉公(しゃくとりぼうこう)」:宴席に出てお酌をする勤め。

(107-3)「受判(うけはん)」:請判。契約当事者の債務や身元を保証するために保証人が押す判。また、保証人となって判を押すこと。請けあいの判。

(107-4)「口書(くちがき)」:江戸時代の訴訟文書の一種。出入筋(民事訴訟)では、原告、被告双方の申分を、吟味筋(刑事訴訟)では、被疑者、関係者を訊問して得られた供述を記したもの。口書は百姓、町人にだけ用いられ、武士、僧侶、神官の分は口上書(こうじょうがき)といった。

(107-6)<くずし字>「伺之節」の「節」:全体に、縦長になる場合があり、特に、脚部の「即」の最終画の縦棒が極端に伸びる場合がある。下は『くずし字辞典』(思文閣出版)

(107-7)「訳合(わけあい)」:ことの筋道。理由や事情。訳柄。

(107-7)「口達(くたつ)」:書面でなく、口頭で法令や命令などを伝達すること。

10月 町吟味役中日記注記

(96-1)「被成下(なしくだされ)」:組成は4段動詞「なしくだす」の未然形「なしくださ」

+尊敬の助動詞「る」の連用形「れ」。「成し下す」は、命令などを下す。

(96-2)「国政(こくせい)」:ここいう「国」は、松前藩のこと。

(96-2)「彼是(あれこれ・かれこれ)」:なんのかのと文句をつけて。苦情をいろいろと。

(96-3)「若(もし)」:「若」は、漢文の接続詞.。「もし」と読むのは、国訓。「若」を「わかい(年齢が少ない)の意味に使うのは、同音の「弱」との共通で、上代以降の用法。

(96-4)「実事(じつじ)」:ほんとうのこと。根拠のあること。実際のこと。

(96-6)「可相成(あいなるべき)」:「あい」は接頭語。 下に「儀」「事」を伴って、当然のことながら。

(96-6)「御隣国(ごりんごく)」・・ここでは、津軽藩のこと。

(96-7)「御沙汰ヲ」の「ヲ」:五十音図の第十行第五段(ワ行オ段)におかれ、五十音順で第四十七位(同字の重複を除いて)のかな。いろは順では第十二位で、「る」の次、「わ」の前に位置する。定家かなづかいの流では、「端のを」と呼んでいる。なお、「お」は、いろは順では第二十七位で、「の」の次、「く」の前に位置する。定家かなづかいの流では、「奥のお」と呼んでいる。

*「ヲ」は、「乎」の最初の3画からできている。「ニ」+「ノ」と三画で書く。「フ」+「一」と2画で書くのは間違い。

 *カタカナは、字源の漢字の最初の1~3画からできている場合が多い(別添『片仮名の由来』)  

(96-8)「手軽(てがる)」:面倒な手数をかけないさま。簡単でたやすいさま。筒易。軽便。

(96-8)「事済(ことずみ)」:4段動詞「事済(ことず)む」の連用形。仕事や事件などが完了または、解決する。 

(96-8)「被成下間敷(なしくだされまじき)」:組成は4段動詞「成下(なしくださる)」の終止形「なしくださる」+推量の助動詞「まじ」の連体形「まじき」。

 *推量の助動詞「まじ」は動詞の終止形に接続する。

 *<くずし字>「被成下」の「被」:衣偏が、旁の「皮」より上に飛び出す形になることがある。

(96-9)「差出ヶ間敷(さしでがましき)」の「ケ」:諸説あるが、「ケ」は、もともと「箇」の略体「个」から出たものといわれている。しかし、「箇」は、漢音で「カ」、唐音で「コ」で、「ケ」の音はない。「箇」の冠の「竹」の片割れの「ケ」が起源で、カタカナというより、記号であるという説がある。「ケ」を「カ」と読みのは、「箇」を「カ」と読むことから派生したといえる。

 *「君ケ代」「越ケ谷」「八ケ岳」のように連体助詞の「が」にあてることがある。これは前例の「三ケ日(さんがにち)」等の「ケ」の転用。

(97-1)「如是(かくのごとく)」:このようである。「如斯」「如此」も「かくのごとし」と読む。『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう』には、「是」の和訓に「コレ・ココニ・カカルコト・ヨシ・コトハル・コトハリ・スナハチ・ナホシ・カクノゴトキ・カクノゴトク・タツ」を挙げている。

 (97-1)「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」:男子が、手紙の末尾に書いて、敬意を表す語。恐れながら謹んで申し上げます。書留(かきとめ)といい、書状など文書の末尾に書く文言。書状では「恐々謹言・謹言」、綸旨では「悉之」、御教書(みきょうじょ)などでは「仍執達如件」、下文などでは「以下」というように文書の様式によってその文言はほぼ定まっている。とくに書状では相手との上下関係によって書札礼(しょさつれい)が定まっていた。*書留などは、受取人の敬意の程度を示めし、その書風が楷書、行書、草書と細かく区別されていた。場合によっては、漢字であることが判らないほど崩されている。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

  <代表的な例である「弘安礼節‐書札礼之事」(一二八五)によれば、「恐惶謹言」は、「誠恐謹言」に次いで敬意が高く、目上に対して最も広く用いられ、以下「恐々謹言」「謹言」等があって、目下に対しては「…如件」で結ぶ形式をとるという。実際の文書では「誠惶誠恐謹言」というさらに上位の表現や、「恐惶かしく」「恐惶敬白」といった「恐惶謹言」に準じた形式も見られ、他に「恐惶頓首」「匆々(草々)頓首」「以上」等が用いられる。いずれも実際の書状では符牒のように書かれる。>とある。

(97-5)「書判(かきはん)」:文書の後に自筆で書く判、署名、サイン。奈良時代から平安初期に、自筆で署名する場合には楷書が用いられ、これを自署(じしょ)と呼ぶ。次第に草書体にくずされて、草名(そうみょう)といわれ、草名がさらにくずされて原字が読解不能になり、図案化されて、書判、花押(かおう)と呼ばれる。

 *テキストは、奥平日記の原本だが、津軽家へ差出した手紙の写しだから、手紙にあった花押を書かず、花押があったことを「書判」とした。

(97-8)「御内(おんうち)」:「おん」は接頭語。手紙のあて名の下に書きそえることばの一つ。家族全体にあてて出すときに使う。

(97-10)「大沼又太郎」:『蓬田村史』所収の「積載箚記」に、外が浜代官といして、「大沼又太郎」の名がある。

(98-2)「去卯(さる・う)」:天保2年辛卯(シンボウ・かのとう)。

(98-2)「私(わたくし)」:「わたし」は、。「わたくし」よりくだけた言い方。現在では自分をさす、もっとも普通のことば。近世においては、女性が多く用い、ことに武家階級の男性は用いなかった。

 「わたくし」は、中世前期までは「公(おおやけ)」に対する「個人」の意味で用いられ、一人称の代名詞として用いられたのは、中世後期以降のこと。

(98-3)<くずし字>「三月」の「月」

(98-4)「多分」:ある物事の中の大部分。

(98-4)「偏(ひとえ)に」:もっぱらその行為に徹するさまを表わす語。いちずに。ひたすらに。

*語源は「一重」から。まじりけのないこと。純粋であること。そのことに専心すること。また、そのさま。ひたすら。

<古文書の体裁>「平出(へいしゅつ)」:敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。     

テえキスト影印の場合、5行目行頭の「御威光」を尊敬して、「偏に」で改行している。

(98-5)「難有(ありがたき)」:形容詞「ありがたし」の連体形。「有り」+「難し」で、有ることが難しい、が元の意。めったにない、ということから、めったにないくらい優れている、の意になり、さらに現代語に通じる、感謝にたえない、の意になった。

 *「ありがとう」は「有り難し」から

お礼のことば「ありがとうございます」は、もともと「有り+難(かた)し」、つまり「有ることが難しい(めったにない)」という意味でした。

『枕草子』の「ありがたきもの」の段には、「舅(しうと)にほめらるる婿(むこ)。また、姑(しうとめ)に思はるる嫁の君。毛のよく抜くる銀の毛抜き。……物語・集など書き写すに、本に墨つけぬ」など、まさに「めったにない」ものが集められています。

この「めったにない」が、のちに「(めったにないほど)尊く優れている」「身にあまり、もったいない」の意味になり、さらに現代語に通じる「感謝にたえない」の意味になったのです。

それにしても『枕草子』の「ありがたきもの」が「かたち・心・有様、すぐれ、世に経(ふ)るほど、いささかのきずなき」(容姿・性質・態度ともに優れ、世間で日を送る間に、少しの欠点も持たない人)と続くところには、思わずうなずいてしまいますね。

(『ジャパンナレッジ版小学館全文全訳古語辞典』)

(98-5)「仕合(幸せ)」: 「しあわす(為合)」の連用形の名詞。

(1)  めぐり合わせ。運命。なりゆき。機会。よい場合にも、悪い場合にも用いる。

(2)  幸運であること。また、そのさま。

*今日「しあはせ」は「幸せ」と書いて、もっぱら運のよいことにいうが、古くは(1)だけの意味で、運のよい場合にも悪い場合にも用い、「しあはせよし」とか、「しあはせ悪(わろ)し」のように言い表した。

(98-7)「風聞(ふうぶん)」:ほのかに伝え聞くこと。うわさに聞くこと。うわさ。

*「風」には、「ほのかに」の和訓がある。熟語は、風説、風評など。

*「風す」は、「そよそよと吹く」で、遠まわしにいう。それとなくいう。ほのめかす。

(98-7)「驚入(おどろきいり)」:「おどろきいる」の連用形。ひじょうに驚く。すっかり驚いてしまう。「入る」は、補助動詞として用いられる。動詞の連用形に付く。せつに、深くそうする意を表わす。「思い入る」「念じ入る」「泣き入る」「恐れ入る」「痛み入る」など。

(98-8)「実説(じっせつ)」:)作り話でない、ほんとうにあった話をすること。また、実際にあったとおりの話。実話。

(98-8)「畢竟(ひっきょう)」:途中の曲折や事情があっても最終的に一つの事柄が成り立つことを表わす。つまるところ。ついには。つまり。結局。

(98-8)「聊(いささか)」:「か」は接尾語。程度の少ないさまをいう。少しばかり。わずか。

 *「いささ」:《名詞に付いて》 小さい、ささやかな、わずかな、の意を表す。「いささ群竹(むらたけ)」「いささ小笹(をざさ)」など。

(98-9)「品(しな)」:理由。わけ。

(98-9)「事起(ことおこし)」:事件を起こすこと。

(99-5)「何卒(なにとぞ)」:代名詞「なに(何)」に助詞「と」「ぞ」が付いてできたもの。

*「何卒」の「卒」は特別な意味はなくて「とぞ」ではなく「なに・と・ぞ」の「ぞ」(音のソツ)。あまりいい例が「武蔵国」を「の」が無いのに「むさし・の・くに」と読むように、「と」は省かれている。一種の熟語訓。

(99-6)「仁徳(じんとく・にんとく)」:仁愛の徳。民の辛苦を除き喜びや楽しみを与えようとする徳。

(99-7)「掛合(かけあい)」:要求などを話し合うこと。談判。交渉。

(101-5)<漢文訓独>「右者」の「者」:「者」は、漢文訓読の助辞で、名詞(名詞句)後に置く。音読みは「シャ」、訓読みは「もの」で、「は」は漢文訓読の置き字であり、変体仮名ではない。

 *仁者、天下之表也(じんてんかのひょうなり) 訳<仁とは人の世における規範である>(『礼記』)

 *古者、大事必乗其産 [古者(いにしへ)、大事(だいじ)には必(かなら)ず、其(そ)の産(さん)に乗(の)る。] 通釈の<昔は戦争という国の大事な場合には必ず自国産の馬を用いたものである>(『春秋左氏伝』)

  **「古者」の読みを「古くは」とせず、「いにしへ」と訓じている書き下し文。

(101-5)「久保田松五郎」:『松前藩士名前控』の「中之間中小姓」に「久保田松五郎」の名がある。

(101-6)「留主(るす)」:①漢音で「リュウシュ」。天皇・皇帝・王などの行幸の時、その代理として都城にとどまり、執政すること。また、その人。令制では皇太子もしくは公卿がこれにあたる。②呉音で「ルス」。主人、また、家人が外出した時、その家を守ること。また、その人。③「外出して不在になること。内にいないこと。在宅してないこと。」を意味する「るす」は、国訓。

(101-6)「下乗(したのり)」:調教として他人の馬を乗りならすこと。またその役。

『蝦夷錦』10月学習分注記

30-1)「切者」・・切れ物。「優れもの」の意か。すぐれたもの。最良の品。一級品。

としている。

30-3)「何事」・・「事」は、「古」+「又」で、『漢語林』は「事」の古字としている。

30-4)<漢文訓読の話>「無御座候」

   原文(漢文では白文という)・・「無御座候」

   訓読文1(原文+句読点+返り点)・・「無御座候。」

   訓読文2(原文+句読点+返り点・濁点・半濁点+送り仮名)・・

「無ク御座候ウ。」

   書き下し文・・「御座無く候う。」

*古文書では、漢文の白文のような文章が多い。

*例会の朗読では、④を行っている。

30-9)「珍物(ちんぶつ)」・・珍しい物。珍品。具体的には、山丹交易による軽物といわれる品物で、唐物(蝦夷錦、樺太玉)、クマの毛皮と胆のう、ラッコなどの毛皮、オットセイの睾丸、ワシの羽(真羽)など。

30-9)「替事(かえごと)」・・互いに取り換えること。交換。

31-1)「御法度(ごはっと)」・・近世において、法令によって禁じられている行為や、使用を禁止されている品物。また、一般に禁じられていることを指す。代表的なものに「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」、「諸士法度」などがある。

31-2)「御城書」・・「御掟書(おきてがき・ごじょうしょ)」、「御定書(おさだめがき・ごじょうしょ)」「御諚書(ごじょうしょ)」。公布法の一形式。命令書、仰せ書。

31-3)「さ候得ば」・・書簡などでの用語。話を本題に導入する場合などに、文頭に置いて用いる。さて。

31-4)「候候而も」・・「候」がふたつあるが、一つは衍字(えんじ)か。

     *衍字・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。脱字の逆。誤入の文は衍文。

     *「衍」・・解字は「行」+「水」。「行」はみちの象形。水が道にあふれひろがるの意味をあらわす。

31-4)「少分(しょうぶん)」・・少量。少数。わずかであること。

31-5)「一ケ月三ケ日(いっかげつ、さんがにち)」・・一ケ月のうち三日間の意か。

31-6)「日並(ひなみ)」・・毎日すること。毎日。日ごと。

32-2)「国替(くにがえ)」・・大名の領地を移しかえること。徳川幕府は、大名の統制策として行った。移封。転封とも。

32-4)「当四月帰国」・・文化年間当時、外様大名の多くは、隔年(一年交代)の参勤交代となっており、南部(盛岡)藩は、表(子、寅、辰、午、申、戌)の年の四月参府、翌年の三月入部(江戸から国許へ帰ること。帰国、御暇)を通例としていた。その後、文政期には、半年交代となり、九月参府、三月入部(御暇、帰国)になる。

32-5)「御暇(おいとま)」・・大名や幕臣の場合は、将軍の前を去ること。辞去すること。帰ること。

32-6)「上使(じょうし)」・・江戸幕府および藩などで主家から上意を伝えるために家臣などへ派遣される御使(使者)をいい、その名称は室町幕府に起源をもつという。江戸幕府では、老中・奏者番・使番・小性あるいは高家・側衆などが、時に応じてその役目を勤めた。『柳営秘鑑』によって一例を示すと、老中は三家・国持大名の参府・帰国あるいは三家の病気のとき、奏者番は准国持大名の参府・帰国あるいは国持大名の病気のとき、使番は松平出雲守(富山藩主)・同大和守(白河藩主)・同左兵衛督(明石藩主)の三家の参国・帰国あるいは松平肥後守(会津藩主)・同讃岐守(高松藩主)・同下総守(桑名藩主)・同但馬守(高須藩主)・同左京大夫(西条藩主)の五家の参府のとき、また小性は老中の病気のとき、それぞれ上使に立つ定めであったという。

32-7)「是非々々(ぜひぜひ)」・・「是非」の次の記号は、繰り返し記号。是非(必ず、きっと)の意味を強調している。

32-7)「裁許(さいきょ)」・・役所などで下から上申された事項を審査して許可すること。

32-9)「代り合(かわりあい)」・・順番に代わること。交替すること。

32-933-1)「当四月出府」・・津軽(弘前)藩の参勤交代のパターンは、南部(盛岡)藩と入れ替わる形で、裏(丑、卯、巳、未、酉、亥)の年の四月参府、翌年三月入部(御暇、帰国)となっていた。その後、文政期には、南部藩と同様、半年交代で、裏の年九月参府、翌年三月入部となっていた。

33-2)「拝領物(はいりょうもの)」・・たまわり物。いただき物。

33-4)「御使番(おつかいばん)」・・江戸幕府の職名。はじめは使役とよばれた。戦時中は伝令、指示、戦功の監察、敵方への使者などを任務とし、武功・器量ともにすぐれた者がえらばれた。島原の乱後は軍事的職務は必要なくなり、全国統治上の視察・監察を主要な役職とした。二条・大坂・駿府・甲府城など幕府直轄の要地の目付、両番とともに藩領地の視察、幼少の大名の後見を行う国目付、将軍の代替りごとの諸国の巡察、城郭の受取・引渡しの際の監理などに任ぜられ、また目付役とともに火事場の視察・報告・指揮、大名火消・定火消役の監察・考課などにあたった。若年寄支配。役料五百俵、役高は千石高。慶応三年(一八六七)には役金五百両を与えられ、千石以上はその半額が給せられた。定員は元和三年(一六一七)、二十八名と定められたが、文化年間(一八〇四―一八)以降に五、六十名程度、慶応年間に百十余人の人員がみられる。

33-4)「村上大学」・・ロシアの蝦夷地襲撃事件当時、使番で、文化4(1807)64日、使番小菅猪右衛門、目付遠山金四郎景晋(かげみち)とともに、蝦夷地出張を命じられた。

33-4)「安藤治右衛門(あんどうじうえもん)」・・幕臣(旗本)。家禄2450石。御使番には、文化4卯年(1807)正月11日、西丸御書院番水野石見守組より就任、文化6巳年1111日死去。(『柳営補任』)。なお、蝦夷地出張を命じられた使番は、小菅猪右衛門で、安藤ではない。

33-5)「御目付(おめつけ)」・・江戸幕府の職名。定員は、初め十数名~二十名程に及んだが、享保十七年(一七三二)に十名に定まった。若年寄に属し、旗本・御家人の監察、諸役人の勤方の査検を任とし、日常は、殿中礼法の指揮、将軍参詣・御成の供奉列の監察、評定所出座などを分掌。享保八年(一七二三)に役高千石とされた。

33-5)「遠山金四郎(とおやまきんしろう)」・・遠山景晋(かげみち)。幕臣。通称、金四郎。文化四年(一八〇七)六月四日、蝦夷地出張を命じられた。この時、金四郎は左衛門と改名。目付。その後、長崎奉行、)作事奉行。数度、蝦夷地に渡り、踏査・交渉にあたった。子の景元は、町奉行の「遠山の金さん」。

33-7)「望人(のぞみひと)」・・あることを希望する人。ある職業や地位につくことを希望する人。  

33-8)「高達(こうたつ)」・・「公達(こうたつ)」か。「公達」は、政府や官庁が言い渡すこと。また、そのもの。おおやけからの通達。

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