森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

『ふなをさ日記』7月学習注  

(108-2)「塚田留次郎」・・当時。松前奉行調役下役。

(108-2)「松井庄三郎」・・異本は「村井庄三郎」とある。

(103-2)「神無月(かんなづき、かみなしづき、かみなきづき、かみなづき、かむなづき、かみなかりづき)」・・陰暦十月のこと。「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には語源説が11項目ある。折口信夫の説「一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された」も紹介されている。なお、異本は「十一月四日」とある。

(108-3)「三厩」・・「みんまや」。テキスト影印は「うまや」とルビがある。三厩は青森県北西部の地名。津軽半島の北西端にある。松前街道の宿駅。漁業が主。龍飛(たっぴ)崎がある。

(108-3)*「忠右衛門(ちゅうゑもん)」・・右衛門は、「ゑもん」か「うゑもん」か。古くは「右衛門」と書いて「うゑもん」。""も発音していた。なぜ「うゑもん」と言っていたのに「ゑもん」になってしまったのか。「忠右衛門」は、元々は「うゑもん」。「ゑ」は「we(うぇ)」に近い発音で、「uwemon(ううぇもん)」だった。それが「u」と「we」の発音が一緒になって「wemon(うぇもん)」。その後、「ゑ」と「え」の発音が区別されなくなり「右衛門」と書いて「emon(ゑもん)」と発音するようになった。

 <律令の職「右衛門府(うえもんふ)」>・・左衛門府とともに衛士を率いて宮城諸門の警衛、開閉をつかさどった。職員に督、佐各一人、大尉・少尉・大志・小志各二人のほか、府生、衛士等がある。

 <変体仮名の「衛」>・・「ゑ」。「恵」「奥のゑ」「重たいゑ」という。したがって、「忠右衛門」のルビは、「ちゅうゑもん」が本来。なおカタカナの「ヱ」は、「かぎのヱ」。

 <黙字>・・「右衛門」の「右」のように、発音しない字を黙字という。「伊達(だて)」の「伊」、「和泉」の「和」など。

(108-5)「三十日経て十二月四日」・・「神無月(10月)四日」に三厩を出発して、「三十日を経」れば、「十一月四日」だから日数が合わない。「神無月(10月)四日」は、異本の「十一月四日」が正しいか。

(108-5)「千住(せんじゅ)」・・東京都足立区南部の地名。旧南足立郡千住町。広くは荒川区南千住(旧北豊島郡南千住町)を含める。江戸時代は奥州街道最初の宿場町として、遊女も多く繁栄した。

 なお、「千住」の語源説に「千手観音堂があったところから千手の転」がある。

(108-6)「ヱゾ会所」・・松前奉行所の江戸会所。直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。

<江戸の箱館奉行所(のち松前奉行所)の江戸会所>
 箱館奉行所(松前奉行所)の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島の霊岸橋際埋立地に置かれた(現東京都中央区新川町1丁目霊岸島児童公園付近)。江戸時代から、蝦夷地の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行、のち松前奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。

(108-7)「霊岸島(れいがんじま)」・・霊巖寺が建てられてあったところから呼ばれた。東京都中央区、隅田川河口の島。現在新川一・二丁目となる。江戸初期までは中島と呼ばれていた。万治元年(1658)霊巖寺が深川に移ると、水運に恵まれた地の利から倉庫が並び、江戸時代は材木問屋街、のち清酒問屋街として発展した。

(108-9)「御奉行」・・この時期、江戸在勤の松前奉行は、服部貞勝。

 *箱館奉行の勤務体制・・江戸と箱館(のち松前)と1年交代で勤務した。

(108-910)「尾張の古郷の方」・・重吉の故郷、尾張藩の江戸屋敷の役人。

(108-11)「尾州御屋敷(びしゅうおやしき)」・・江戸の尾張藩の屋敷。上屋敷は、市ヶ谷にあった。

(109-1)「尾州御蔵方」・・尾張藩の御蔵奉行の役人。

(109-1)「木曽路(きそじ)」・・江戸時代の五街道の一つ、中山道をいう。江戸日本橋から板橋、浦和、高崎の宿を経由し、碓氷(うすい)峠を越えて信濃に入り、鳥居峠を越えて、木曾谷から美濃、近江に至り、草津宿で東海道に合するもの。この間、六十七次。草津、大津を加えて六十九次ともいう。

 狭意には、長野県南西部、中山道の鳥居峠付近から馬籠(まごめ)峠に至る間をいう。奈良時代の初めに開かれ、江戸時代には贄川(にえかわ)から、奈良井、藪原、宮越(みやのこし)、福島、上松(あげまつ)、須原、野尻、三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠まで十一宿が置かれた。吉蘇路。信濃路とも。

 *重吉が通った名古屋までの道筋

  ①下諏訪まで・・イ.中山道 

.甲州道

  ②中山道から名古屋まで

.下街道・・中山道の大井宿と大久手宿の間の槇ヶ根追分から土岐川沿いに名古屋城下の伝馬町札の辻に至る。

.上街道(うわかいどう)・・中山道伏見宿を過ぎて、太田宿の手前の太田の渡しの手前から上街道に入り、土田(どた)宿、善師野(ぜんじの)宿、小牧宿を経て名古屋城下に至る。

(109-2)「清水御門(しみずごもん)」・・名古屋城三の丸北側にあった唯一の門。門内に尾張藩の勘定奉行所があった。枡形の内部を土塁で仕切る厳重な構造であった。だが、門そのものは櫓門ではなく、矢来を組み上げただけの比較的簡易な施設となっていた。門跡は、現在は道路になっており、旧状をまったくとどめていない。

(109-3)「かたみ(互)に」・・たがいに。 

*「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは〈清原元輔〉」(後拾遺和歌集)

(109-3)「つばら」・・委曲・審。くわしいさま。十分なさま。つばらつばら。つまびらか。つばらか。

(109-4)「鳴海の御代官」・・「鳴海」は鳴海陣屋・鳴海代官所。戦国時代には織田・今川両勢力の接触地点で鳴海砦が設けられた。慶長検地では高三千七百三十八石余の大村。慶長6年(1601)東海道三河池鯉鮒(ちりゅう)宿と熱田宮宿の間の宿駅となり、本陣一・脇本陣二・問屋三があり、L字状の街道に沿って十ヵ町の町並が続いた。天明2年(1782)尾張国愛知・知多郡の一部と三河国の領分計百二ヵ村を支配する鳴海代官所が村内の森下に設けられた。慶長13(1608)に始まるとされる木綿の鳴海絞が東海道の旅客に名産として売られ、伝統産業として続いている。明治19年(1886)東海道線開通で寂れたが、同22(1889)町制施行。名古屋鉄道本線や国道一号線などによって復活、第二次世界大戦後は住宅地として開発が進み、昭和三十八年(一九六三)四月一日名古屋市に合併、緑区が生まれ、その一部となった。

鳴海代官は大代官で鳴海村から愛知郡東南部、知多郡東半分を収めた(石高七万二千石)。重吉の故郷半田村も鳴海代官所の支配であった。

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7月学習『秘書注』  

(64-1)「廻浦(かいほ)」・・海岸をめぐること。

 *<漢字の話>「浦」と「津」・・「浦」は、海岸。「津」は港。「津々浦々」は、和製4字熟語。

(64-3)「御普請役(ごふしんやく)」・・江戸幕府の職名。享保九年(一七二四)に勘定奉行支配御普請役として新設。東海道五川、一五か国の幕府領の堤、川除(かわよけ)、用水などの普請箇所の検分・修築、新田の検分などをつかさどったもの。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。→

(64-3)「間宮鉄次郎」・・安政元年(1854)、堀・村垣に従い蝦夷地に出張し、カラフトに渡り、東海岸を巡視した。のち、箱館奉行支配調役下役となり、同3(1856)調役並、万延元年(1860)調役に進んだ。

(64-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員五〇人。小人横目。

(64-5)「弁利(べんり)」・・便利。都合。

(64-7)「トンナイチヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名富内。頓内茶、屯内茶とも。

(64-7)「シユマヤ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名島矢。栄浜の北にある。なお、トンナイチヤとシユマヤ間は「凡廿里余」とあるが、『南樺太全図』の航路を計算すると約19里。

(64-89)「シラヽヲロ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名白浦。シユマヤ~シラヽヲロ間は、約13里。

(64-9)「砂素浜(すなすはま・すなすわま)」・・砂洲浜。「素浜」は、洲浜。「洲浜」は、浜辺の入りこんだところ。水の湾入したなぎさ。州が出入りしている海岸。

(64-11)「ナイブツ」・・カラフト南部東海岸の地名。日本名内淵。本書の間宮、松岡らの巡検に先立つこと53年、享和元年(1801)、カラフト島検分を命じられた幕吏・中村小一郎は東海岸を内淵まで検分した。

(64-11)「タライカ」・・日本名多来加。南樺太北部東岸、北知床(テルペニヤ)岬と野手戸(のてと)(ソイモノフ)岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(ネフスコエ湖、面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(65-1)「往返(おうへん)」・・行き来。往来。往復。

(65-1)「縁辺(えんぺん)」・・ゆかりある人。縁続きの人。縁家。

(66-7)「相対(あいたい)」・・対等であること。対等で事をなすこと。

(67-2)「平日(へいじつ)」・・ふだん。平生。平素。

(67-3)「シウカ」・・シスカか。日本名敷香。南樺太北部東岸の地名。多来加湾西部に位置する。

(67-34)「ホロナイ川」・・幌内川。北カラフトに源を発し、北緯50度からから南樺太に入り、多来加湖の西側を流れ、多来加湾へ注ぐ。長さ320kmは利根川に匹敵する長さを誇り、樺太の日本統治時代の当時は日本唯一の国際河川として知られていた。

(67-4)「タナンコタン川」・・「タナンコタン」は、日本名多蘭。多蘭川は、幌内川下流で、幌内川から分流し、多来加湖西部を流れ、多来加湾に注ぐ。

(67-5)「野鄙(やひ)」・・下品でいやしいこと。

(67-10)「容貌(ようぼう)」・・テキスト影印の「㒵」は「貌」の異体字(俗字)。なお「皃」は同字。テキスト翻刻の凡例に「異体字は正字に直す」としたので、本注記の見出しも同様にする。

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史や地理、民俗などを、月1回(通常第2月曜・7月は第1月曜)学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円お願いします。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時:2015年7月6日(月)13時~16時
◎会場:エルプラザ4階大研修室
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談
『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。


代表:深畑勝広
  事務局:森勇二 電話090-8371-8473  moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』月6学習の注 

             

(103-1)「嘉十郎」・・高田屋嘉兵衛の兄弟は六人いたが、その一番末の実弟。安永8年(1779)~天保5年(1834)。高田屋は文化8(1811)からエトロフ場所を請け負っていた。

(103-3)「申(さる)の時」・・午後4時。

(103-3)「ヲトイヤハシ」・・ヲトイマウシ。エトロフ島東部のオホーツク海に面した集落。トウロの近く。

(103-6)「ヘツトウブ」・・日本名別飛(べっとぶ)。シヤナの東に位置し、北はオホーツク海に面する集落。明治初年にベトフなどを包含してベトプ村が成立。同6年(1873)の戸数はアイヌ5、男10、・女17寄留人は平民男25・女1(千島国地誌提要)。同8(1875)ベツトブ(ベトプ)村が村名表記を別飛に改める(根室支庁布達全書)

(103-6)「サナ」・・日本名紗那(しゃな)。北はオホーツク海に臨み、紗那湾に紗那港がある。文化4(1807)まで、会所があり、エトロフの中心地だった。文化4(1807)、ロシヤの襲撃で会所が焼き払われ、会所はフウレベツに移転した。明治初年にシヤナなどを包含してシヤナ村が成立。同6年(1873)紗に開拓使根室支庁の出張所が置かれた。

(103-7)「フルヱベツ」・・日本名振別(ふれべつ・ふうれべつ)。エトロフ島中央部にあり、留別村の西、北はオホーツク海に面し、海に突き出した野斗路岬(ノトロ岬)の南に緩やかな大湾(老門湾)があり、振別港がある。文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「フルヱベツは、此島の中にての都(みやこ)」・・文化4(1807)以降、会所がおかれ、エトロフの中心地となった。

(103-8)「いかめしき」・・「いかめしい」は。姿や形が普通より大きく、がっしりしている。

(103-10)「一とふり」・・一通り。「通(とほ)り」は、動詞「とおる(通)」の連用形の名詞化。テキスト影印は、「一とふり」とあるが、「通り」を「とふり」と訓じることはない。ここは、「とほり」が正しい。

(104-3)「下人(げにん)」・・江戸時代、年季奉公人のこと。主家への隷属性が強く、譜代奉公人として家事や耕作労働に使役され、初期の頃は売買質入の対象ともなったが、中頃からは下男・下女と呼ばれ次第に年季奉公人化した。

(104-4)「ヲトイ」・・「オイト」か。「オイト」は、日本名老門。フウレベツの西にある集落。

(104-5)「ヲタシツ」・・日本名宇多須都(うたすつ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-5)「ナイホウ」・・日本名内保(ないほ)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。

(104-7)「タ子モイ」・・日本名丹根萌(たんねもい)。エトロフ島西部のオホーツク海に面した集落。クナシリ島への渡航地。

(104-8割書右)「ヱトロフ島の岸の」・・「岸の」は、語調がよくない。異本は「の」を「を」とし、「岸を」としている。

(104-9)「丑寅(うしとら)」・・方位を十二支にあてて呼ぶときの、丑と寅の中間にあたる方角。北東。陰陽道などで丑寅の方角が神霊、鬼の訪れる方位とされるところから、特に鬼門の意がこめられることがある。

(104-9)「アトイロ」・・アトイヤ。日本名安渡移矢(あといや)。クナシリ島の北端の岬。エトロフへの渡航地。

(104-10)「二百十日」・・立春から数えて二百十日目にあたる日。このころは嵐が多く、また稲の開花期にあたっていたので、その時期を警戒する意味で生まれた暦注。太陽暦では九月一日ごろと一定であるが、旧暦の日付では七月十七日から八月十一日ごろまでのどの日になるか一定でないためこのような暦注が必要であった。なお、越中八尾の「おわら風の盆」は毎年9月1日から三日間おこなわれているが、二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う祭りという。

(104-10)「ゆへ」・・故。歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」で、「ゆへ」はない。

(104-11)「所々の番屋に。十七日」・・異本は「番屋に」のあとに、「やどり」がある。

(104-11)「セヽキ」・・クナシリ島中部の太平洋に面した集落。日本名瀬石。

(105-1)「海の岸に温泉あり」・・「セセキ」は、「湯の湧くところ」の意味という。なお、異本は、「温泉」に「イデユ」とルビがある。

(105-1)「トマリ」・・日本名泊。クナシリ島西部の集落。ネムロからの渡航地であった。

(105-5)「子モノ」・・根室。

(105-9)「そこばく」・・副詞「そこば」に副詞語尾「く」の付いたもの。「若干」「幾許」を当てる。数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす語。多く。たくさん。はなはだ。たいそう。

(106-3割書左)「便り」・・便利。便宜。都合。

(106-9)「閏八月」・・文化13(1816)は、閏八月があった。

(106-5)「臼(うす)」・・有珠。

(106-6)「信濃の善光寺分身」・・有珠善光寺の公式HPに、「天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている浄土宗のお寺です。」とある。慈覚大師は、平安期の天台宗山門派の祖・円仁のことで、等澍院文書には、それを理由に、等澍院を有珠に建立したい旨、陳情した経過がある。(別添『北の青嵐180号』の拙論参照)

 更に、等澍院文書は、「善光寺を彼宗に被奪取候様、世上之沙汰末々迄難遁」と、きつい口上で述べている。

(106-6)「寺主(てらぬし・てらあるじ・じしゅ)」・・文化13(1816)当時の善光寺の住職は、3辨瑞。なお、辨瑞は、念仏上人といわれ、掛け軸「念仏上人画像」は、平成17年に国の重要文化財に指定された。また、アイヌ語がそえられた和讃、木版「念仏上人子引歌(カモイポボウンケイナ)」も重要文化財に指定されている。

(106-67)「江戸の増上寺より来る」・・蝦夷三ヶ寺建立に際し、僧侶を派遣する最初に本山が決められた。寛永寺(様似・等澍院の本山)、増上寺(有珠・善光寺の本山)、金地院(厚岸・国泰寺の本山)。寛永寺、増上寺は、徳川家の菩提寺である。

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『ふなをさ日記』5月学習の注 

(98-1)「又(また)の日(ひ)」・・次の日。翌日。一般には「別の日。後日」の意が多いが、ここは、翌日の意。

(98-1)「何国(いづく)」・・異本は、ひらかなで「いづく」としている。

(98-2)「辰巳風(たつみ・たつみかぜ・たつみのかぜ)」・・東南の方角から吹いてくる強風。「辰巳風」と書いて、たんに「たつみ」「たづみ」という地方がある。なお、余談だが、「辰巳風」を「とつみふう」と読めば、江戸深川の遊里の気風や風俗。意気と張りを特色とした。また、語源説に、「

日の立ちのぼり見ゆの転略〔国語蟹心鈔〕」がある。

(98-23)「磁石を立(たて)」・・ここの「立(たて)る」は、使ったり仕事をしたりするのに十分な働きをさせること。「磁石を使い」の意。

(98-3)「申酉(さるとり)」・・西南西。

(98-3)「夜(よる)の戌(いぬ)の時」・・午後8時頃。

(98-4)「はて(果)」・・いちばんはしの所。

(98-8)「羆(ひぐま)」・・ひぐま。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <「二十巻本和名抄‐一八」に「羆 爾雅集注云羆〈音碑 和名之久万〉」とあるように、古くはシクマ(シグマ)と呼ばれていた。ヒグマの語形は近代以降多く見られるようになるが、「言海」(一八八九〜九一)は、ヒグマとシグマの両方を見出し語にあげ、ヒグマの項で「しぐまノ誤」と述べており、シグマを正しい語形としている。その後も同様の辞書が多く見られ、明治中期以降も、シグマを正しいとする規範意識があったことがうかがわれる。ヒグマが一般化したのは大正期か。>とある。

 また、『新漢語林』の「羆」の項には、<「しぐま」と、よむのは字形による>とある。

 <漢字の話>

「熊」:「火」部。「火」が脚(あし・漢字の下部)になるときは、「灬」の形をとり、「連火(れんか)」あるいは「列火(れっか)」と呼ぶ。

「羆」:「罒(よこめ・あみがしら・よんかしら)」部。

(98-8)「やらん」・・~であろうか。疑いをもった推量を表す。「にやあらむ」の転。断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「や」+ラ変動詞「あり」の未然形「あら」+推量の助動詞「む」の連体形「む」。

(98-89)「いくらともなく」・・数多く。

(98-11)「ひまなく」・・隙(ひま)なく。休みなく。「隙(ひま)」は、連続して行なわれる動作のあいま。間断。

(98-11)「東風(こち・ひがしかぜ・こちかぜ・あゆ・あゆのかぜ)」・・東の方から吹いて来る風。特に、春に吹く東の風をいう。

(99-1)「夜」<見せ消ち>・・影印は、「今」の左に、カタカナの「ヒ」に似た記号がある。これを「見せ消ち」記号という。「今」を訂正して、「夜」とした。

(99-23)「焚けるに、今宵は羆のうれひもなかりける・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、係助詞「ぞ」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。ここは、「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(99-3)「辰時(たつどき)」・・午前8時ころ。

(99-4)「かねて」・・以前から。

(99-4)「任(まか)せ」・・随って。

(99-5)「高山(こうざん)あり」・・エトロフ島北部にあるラッキベツ山(1206メートル)か。

(99-5)「大成滝(だいなるたき)おちる」・・エトロフ島北部のラッキベツ岬北の断崖絶壁にあるラッキベツ滝。高さは140メートル。テキストには「三十間」とあるが、その3倍ある。嘉永2年(1849)、千島に渡った松浦武四郎は、『三航蝦夷日記』の「ラッキベツ」という小項目のなかで、「其間は、皆峨峨たる岸壁にして船を寄する処無、実に恐敷海岸なり。其落る滝高サ五丈仭と云えども、先三十丈と見ゆる也。幅は先五丈位も有る様に思わる。一道の白絹岩端に掛けたる風景、実に目覚ましき光景なり。然れ共我等も岸を隔つこと廿三、四丁にて眺望至す故に、委敷は見取がたし。然れ共其形本邦にては、紀州郡那智山の滝よりも一等大なり」と記している。

(99-67)「岩ほ」・・巌(いわお)。旧仮名遣いは、「いはほ」で、発音は「イワオ」。語源説に、「イハホ(石秀)の略言」がある。

(99-8)「熊野なちの山の滝」・・熊野那智山の大滝。落差は、133メートルだから、ラッキベツ滝の方が、直瀑(ちょくばく。水の落ち口から、岩壁を離れ、また岩壁に沿ってほぼ垂直に落下する滝)としては、大きい。エトロフが日本に返還されると、ラッキベツ滝が日本一となる。

(99-9)「ふねを乗(のる)」・・船をすすめる。「乗る」は、乗物などをあやつって進ませる。走らせる。操縦する。「のりまわす」「のりこなす」などの形で用いられることが多い。

(99-9)「となり」・・格助詞「と」に断定の助動詞「なり」の付いたもの。…というのである。…ということである。

(99-10)「きつらん」・・来つらん。来ただろうか。カ変動詞「来(く)」の連用形「()」+完了の助動詞「つ」の終止形「」+推量の助動詞「らん(む)」の終止形「らん」。

(99-1)「思(おもい)しかども」・・思ったのだけれども。動詞「思う(ふ)」の連用形「思い(ひ)」+過去の助動詞「き」の已然形「しか」+逆接確定条件の接続助詞「ども」。

(100-1)「出(いで)こん」・・出てくるだろう。下2動詞「出(い)づ」の連用形「出(い)で」+カ変動詞「来(く)」の未然形「」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)

(100-1)「あらん」・・あるだろう。ラ変動詞「有(あ)り」の未然形「あら」+推量の助動詞「ん(む)」の連体形「ん(む)」。

(100-3)「はな」・・端(はな)。突き出た所。岬や岩壁の先。

(100-8)「いざ給(たま)へ」・・さあ、おいでなさい。「たまえ」は尊敬の意を表わす補助動詞「たまう(給)」の命令形で、上に来るはずの「行く」「来る」の意を表わす動詞を略したもの。さあ、おいでなさい。場面によって、私といっしょに行きましょうの意にも、私の所へいらっしゃいの意にもなる。中古以降、親しい間柄、気楽な相手への誘いかけとして、よく用いられている。

「御(み)いとまなくとも、かの主(ぬし)は出で立ち給なん。いざたまへ、桂(かつら)へ」(『宇津保物語』)

いざ給へかし、内裏(うち)へ、といふ」(『枕草紙』)

「萩、すすきの生ひ残りたる所へ、手を取りて、いざ給へ、とて引き入れつ」(『宇治拾遺物語』)

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5月学習『秘書注』 

                

(61-4)「其村々江」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「江」に「よりカ」と傍注している。

(61-5)「而巳(のみ)」・・漢文訓読の当て字。「のみ」は、「~にすぎない」「~だけだ」という限定を表すだけでなく、強く言い切る漢文訓読文で用いられる。したがって、テキスト文章の「人別相届候而巳」は、「人別を届けだけ」というより、「人別を届けたのである」と強調の意味に解すべきであろう。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「のみ」の語誌に、

<漢文における文末助辞「而巳」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而巳」字を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。>とある。

古田島洋介氏は、漢文表現の「のみ」について、<「のみ」をひたすら限定と考え、「~にすぎない」「または「~だけだ」と訳そうとすると、否定的な意味合いに傾き、語感を取り違える危険性がある。時として「のみ」が強調の意にもなることを念頭に置いて、「~なのである」をも用意し、さらには限定と強調を兼ねた響きを持つ「~ばかりである」あるいは「~にほかならない」なども手駒に加えておくのが無難だろう、訓読表現の「のみ」は、日本語の「のみ」よりも意味の範囲が広いのである」(『日本近代史を学ぶための文語文入門 漢文訓読体の地平』吉川弘文館 2013)と述べている。

(61-7)<見せ消ち>「ウ子」→「字」・・「ウ」と「子」の左に「ヒ」のような記号がある。これは見せ消ちの記号で、「ウ」「子」を消し、右に「字」と訂正している。写した原本の「字」の冠の「ウ」と脚の「子」が、離れていたのか。

 (61-7)「チヨーメン」・・黒龍江河口右岸の港。

(61-8)「ナツコ」・・北樺太の地名。北緯52度の南。山丹への渡り口。『足軽書付』の「ナツコ」の項には、「満州地方僅ニ壱里半位ニ見ゆる。此処ニ而交易之為メ渡来の山丹人に逢ふ」とある。

 下は、中村小市郎著『樺太雑記』(『犀川会資料』所収 北海道出版企画センター刊 1982)より

 (62-1)「髪薄く」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「髪薄く」の「髪」を「鬚」とし、「鬚薄く」とある。

(62-1)「弁髪(べんぱつ)」・・男の結髪の一種で、頭髪の周囲は剃って、中央に残った髪を編んで長く後ろに垂らしたもの。もと満州人の習俗であったが、清朝時代には中国全域に行なわれた。

(62-2)「衣裾(いきょ)」・・きもののすそ。

(62-4)「耳かね」・・耳金。耳につける金属製の装飾品。耳輪、耳鎖の類。

(62-4)「姿容(しよう・すがたかたち)」・・すがたかたち。みめかたち。容姿。

(62-5)「温柔(おんじゅう)」・・人柄がおだやかで、すなおなこと。また、そのさま。やさしくて、人にさからわないさま。温順。

(62-5)「男子」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「男」に「女カ」と傍注している。

(62-5)「幼稚」・・幼児。「幼」も「稚」も小さいの意。なお「稚」の旁の「隹」は「小さい鳥」の意で、「隹」(ふるとり)」として部首になっている。「隹」には、「雀」「隼」「雛」などがある。

 *晋・陶潜〔帰去来の辞、序〕

  余家貧、耕植不足以自給  余(われ)、家貧しく、耕植するも以て自ら給するに足らず。

幼稚盈室、瓶無儲粟    幼稚、室に盈(み)ち、瓶(かめ)に儲粟(ちょぞく)     

無し。

(62-6)「口吻」・・

(62-5)「手甲(てっこう・てこう・てっこ)」・・手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-6)「文字」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)は、「字」に「身カ」と傍注している。「文身(ぶんしん)」は、手の甲(こう)。手の表面。てこう。

(62-8)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(62-8)「家居(かきょ・いえい)」・・すまい。家。

(62-9)「睍(のぞ)き」・・覗き窓。影印は「睍」だが、ふつうは「覗」を使う。

(62-10)「婚(こん)」・・旁の昏は昏夕(ゆうべ)。その時刻より婚儀が行われた。

『ふなをさ日記』4月学習の注

    

(93-1)「来たれかし」・・来てください。「かし」は終助詞。呼びかけや命令の文末に付いて、強く念を押したり、同意を求めたりする意を表す。…ことだ。…よ。

(93-1)「南京(なんきん)」・・「きん」は「京」の唐宋音。揚子江下流の曲流点の江浙デルタの頂点に位置する。水陸交通の中心地。明の永楽帝の時北京に対して称した。近世、このあたりの地一帯、ひいては中国のことをもいった。

(93-1)「広東(かんとん)」・・珠江三角州の北端にあり、華南地方の政治、経済、文化の中心。特に唐代以後は華南最大の貿易港として繁栄した。現広東省の省都・広州。

(93-1)「天竺(てんじく)」・・中国古代のインド地方の呼び名。同系統の古称としては天篤(てんとく)、天督(てんとく)、天豆(てんとう)、天定(てんてい)などがあり、語源は、身毒(しんどく)、印度(いんど)などと同じく、サンスクリットのシンドゥーSindhu(インダス川地方)であるとされる。文献では『後漢書(ごかんじょ)』「西域伝」に「天竺国、一名身毒。月氏(げつし)の東南数千里にあり」とあるのが最初であり、魏晋(ぎしん)南北朝期に一般化し、日本にも広まった。

(93-1)「紅毛(こうもう」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番(『東西洋考』)・紅毛夷(『野獲編』)の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

(93-1)「珍らしき」・・影印は、「珍」の俗字の「珎」。古文書では、「珎」は頻出する俗字。

(93-2)「にぞ」・・格助詞「に」+協調の係助詞「ぞ」。「~ので」。ここは「言い出したので」。

(93-3)「だに」・・副助詞。名詞、活用語の連体形・連用形、副詞、助詞に付く。軽い事柄をあげて他のより重い事柄のあることを類推させる意を表す。…さえも。…でさえ。…だって。

(93-4)「中々に」・・予想した以上に。意外に。かなり。

(93-1011)「重吉こそ連行んとは思ひたれ・・思ったけれども。組成は、係助詞「こそ」+完了の助動詞「たり」の已然形「たれ」。「こそ」を受けて、文を終止する場合、活用語は已然形となる。「係結

終止法」という。意味的に次の文に逆説で続くときは、読点にする。

(93-11)「気色(けしき)」・・物の外面の様子、有様。また、外見から受ける感じ。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)「気色」の呉音読みによる語。和文中では、はやく平安初期から用いられているが、自然界の有様や人の様子や気持を表わす語として和語化していった。

(2)類義の「けはひ(けわい)」が雰囲気によって感じられる心情や品性といった内面的なものの現われを表わすことに傾くのに対し、「けしき」は顔色や言動といった一時的な外面を表わすことにその重心がある。

(3)鎌倉時代以降、人の気分や気持を表わす意は漢音読みの「きそく」「きしょく」に譲り、「けしき」は現在のようにもっぱら自然界の様子を表わすようになった。それによって表記も近世になって「景色」があてられるようになる。>とある。

(94-1)「斯ては果じ」・・これでは、いつまでたってもらちがあかない。「果(は)つ」は、打消しを伴って、「はかどる」。ここでは「はかどらない」

(94-1)「免(ゆる)し」・・「ゆるす」は、願いを聞き入れる。聞き届ける。

(94-1)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(94-3)「ウルツー島」・・ウルップ島(得撫島)。千島列島南西部、択捉島北東方の火山島。

(94-3)<カナの話>なぜ、「ヱトロフ」の「ヱ」は、カギの「ヱ」か。・・

 ①「ヱトロフ」は、「惠登呂府」を当てた。例えば、寛政10(1798)、近藤重蔵がエトロフに立てた標柱は「大日本惠登呂府」。「ヱビスビール」の「ヱビス」は、「恵比恵」から取ったので、「ヱ」。

 ②変体仮名の「惠」は、ひらがなの「ゑ」、カタカナでは、カギの「ヱ」のもとになった字。

 ③カタカナの「五十音図」のア行は、元来は、「ア・イ・ウ・ヱ・ヲ」。「エ」よりもカギの「ヱ」が多く用いられた。なお、「オ」よりも「ヲ」が多用された。

(94-4)「あわひ」・・動詞「あふ(合)」に接尾語「ふ」の付いた「あはふ」の名詞化か。物と物との交わったところ。重なったところ。また、境目のところ。中間。間。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<平安時代、「あひだ」は和文には例が必ずしも多くはなく、しかも時間的用法が主であるのに対し、「あはひ」は和文に多用され、空間的用法が中心となる。漠然性は現代語においても、表現として効果的に生かされている。このように、共通語としては、雅語として固定的に使われているが、各地方言では、生活語として命脈を保っている。>とある。

 <仮名遣いの話>歴史的仮名遣いでは、「あはい」。現代仮名遣いでは「あわい」。影印の「あわひ」は、それをチャンポンにした仮名遣い。

(94-5)「言しろひなり」・・「言いしろひなり」は、形容詞。「しろふ」は、は互いに事をし合う意。互いに言い合う。あれこれと話し合う。

(94-67)「いとはぬか」・・かまわないか。

(94-7)「心得て侍る上は」・・承知の上であるから。

(94-8)「わりなく」・・しかたなく。「わり(理)なし」は、仕方がない。やむを得ない。余儀ない。是非もない。

(94-9)「わたり」・・辺。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。へん。へ。近所。

(94-11)「ゆゑよし」・・故由。わけ。いわれ。

(95-1)「心とけたるとはいへども」・・和解しあっているとはいうものの。

(95-12)「先にもヲロシヤの人、松前へとらはれて、三年計も居たる」・・ゴローニンの来航と逮捕事件。「三年計」とあるが、実質2年半、ゴローはニンは、捕らわれの身だった。その概略を記す。

 ・文化8(1811).5.26・・千島諸島および満州沿岸測量の命を受けた船将ゴローニン率いるディアナ号、薪水、食料補給のためクナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年6.4・・ゴローニンらトマリに上陸、クナシリ会所にて調役役奈佐瀬右衛門と会見、会見中逃亡を図ったため捕縛。副将リコルドは救出をあきらめカムチャッカへ去る。

 ・同年7.2・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。822日箱館出発、25日福山到着。

 ・この冬・・村上貞助、松前奉行の命によりゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)1.26・・幕府、ゴローニンらの処置を決定、返還せずに留置き、ロシア船の渡来あれば打払うべき旨、松前奉行、南部津軽両家に通達。

 ・同年2月・・松前奉行、ゴローニンらの捕囚を緩め、松前近在の逍遥を許す。

 ・同年2月・・間宮林蔵、ゴローニンらと面会し、天文・測量などを質問。

 ・文化9(1813).3.24・・ゴローニンら、置所の板塀の下土を掘って逃亡、44日、江差付木の子村で捕えられ、福山に送還、入牢。

 ・同年8.4・・リコルド、ゴローニンらの返還交渉のため、文化4年(1807)エトロフで、フヴォストフに捉えられた五郎次と漂民6名(文化7年=1810=漂流した摂州の歓喜丸乗組員)をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、クナシリ在勤役人と交渉したが、役人は、ゴローニンは処刑されたとして拒否される。リコルドは、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖で高田屋屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、カムチャッカにむけて去る。

 ・文化104.7・・リコルド、ディアナ号に嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。嘉兵衛を介してクナシリ詰役人と交渉。先年のフォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨述べ、ゴローニンのを放還を求める。

 ・同年6.19・・松前詰吟味役高橋三平ら、松前奉行の命により捕虜のロシア人シイモノフをともない、クナシリ島に到着、諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件としてロシア国長官の陳謝書の提出と先年掠奪した平気・器物の返却を要求。リコルドはこれを承諾し、上官と相談の上、諭書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、6月24日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年8.17・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山より箱館に移す。同月20日、ゴローニン箱館着。

 ・同年9.16・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。同日リコルドはオホーツク総督ミニィツキィの書を提出。19日には上陸を許されて沖の口番所にて高橋三平らと会見、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・同年9.26・・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、箱館沖の口番所にてゴローニンらをリコルドに引き渡す。

 ・同年9.29・・ディアナ号箱館より帰帆。

(95-23)「さはいへ」・・「然(さ)はいえ」。そうは言うものの。さは言えど。影印の「左」は、変体かなの「さ」。ここでは、1行目の「ヲロシアとは互に心とけたる」を受けて、「そうは言っても」となっている。

 *「さ(然)」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <奈良時代には「しか」が主流で、「さ」は「さて」や「さても」のように複合した形でしかみえない。

平安時代に入っても、和歌については「しか」が優勢で、物語などの散文で「さ」が発達してから和

歌にも浸透し、一二世紀から一三世紀にかけて用例が激増した。それに対し、「しか」は漢文訓読文や

和漢混交文に残るだけとなる。

 室町時代後期になると「さう」の例が見えはじめ、「さ」で表現すべきところを次第に「さう」で表現

するようになる。現代では「そう」を用い、「さ」は「さよう」「さほど」などの複合語として残るの

みで、単独では用いられない。>とある。

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『秘書』4月注記



(57-2)「チヤンヌリ」・・チャン(瀝青)塗り。語源説に、①英語chianturpentine の略か〔大言海〕。②「青」の音tsin から〔外来語辞典=荒川惣兵衛〕。がある。なお、「瀝青」は、樹木、泥炭、褐炭などから、ベンゼンなどの有機溶剤で抽出される有機物質の総称

(57-4)「又(また)」・・接続詞。並びに。

(57-4)「重立(おもだち)」・・「重立つ」の連用形。集団の中で主要な人物である。中心になる。かしらだつ。

(57-9)「麁絵図(あらえず・そえず)」・・江戸時代、願・届書などに添えて提出する粗末な絵図・見取図・略図の類。「麁」は、「麤」の俗字。

(57-9)「アツサム」・・ロシア沿海州の集落。享和元年(1801)、幕吏中村小市郎がカラフトを調査の折、山丹人らに尋ねた記録『唐松の根』には、アムール河下流地方の地図があり、「アツシヤム。家四軒。山丹人躰にて言語、夷人山丹と交る。」と記載されている。

(58-1)「大湾(だいわん・おおわん)」・・インペラートルスカヤ湾か、またはデ・カストリ湾か。ロシヤ海軍少佐ネヴィスコイは、嘉永6(1853)、アムール河下流地方と沿海州進出を図り、部下のポシニャークは、タタール海峡沿岸を調査し、北緯49度附近でインペラートル湾を発見、ネヴィスコイはここに、哨所を設置し、当時のロシヤ皇帝ニコライ1世の息子コンスタンティンにちなみ、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所と名付けた。デ・カストリ湾に設けた哨所は、アレクサンドル哨所。

 *ロシアの東方進出

 1547年イヴァン4世(雷帝)初めて公式に全ロシアのツアー(皇帝)と称す。

1553年カザン・ハン国を攻略、ついで1556年アストラカン・カン国を併合し、ヴォルガ流域を制圧。

・商人とコサックは毛皮を求めて東進。ロシアは、城塞を建て、毛皮税を取立てる。

1601年にトムスク、1628年にクライノヤルスクを建設。1632年レナ川を渡り、ヤクールクを開く。

1639年にはコサックはオホ-ツク海に達した。

1697年、コサック隊長アトラーソフは、カムチャッカ西岸で漂流民デンベイ(伝兵衛)を発見、モスクワへ送還。

1738年、ロシア探検隊のシパンベルク、ウルップ沖に来る。

 ・1767年、コサックのチョールヌイフ、エトロフに至り、アイヌ人に毛皮税を課す。

 1782(天明2)、大黒屋光太夫、アムチトカ島に漂着、クルクーツクでラクスマンに会い、首都ペテルブルクへ連行。エカチャリーナ女帝に拝謁。

 ・1792年(寛政4年)エカチェリーナ2世号、根室に入津。

 ・1804年(文化元年)レザノフ、長崎に来航、通商を求める。

 ・180607(文化34年)、フヴォストフらクシュンコタン、エロトフ島を襲撃。

 ・1811年(文化8年)、ゴローニン、エトリフで補縛される。

(58-1)「構塞(こうさい)」・・とりでを構えること。「塞」は、辺境のとりで。ここでは、コンスタンティン・ニコラエヴィッチ大公哨所か。

(58-5)「所住(しょじゅう)」・・住んでいる場所。住所

(58-8)「被打潰(うちつぶされ)」・・攻め滅ぼされ。

(58-8)「当時(とうじ)」・・現在。

(58-8~9)「マンコ川口より二日路先、字メヲと申所江魯西亜より構塞」・・嘉永6(1853)にネヴィスコイが設置したニコライ哨所をさすか。

 *アムール川下流域・沿海州をめぐる清国とロシヤの国境問題略史

  ・ネルチンスク条約・・16898月(和暦では元禄2年)、アルール川上流のネルチンスクでアムール川上流域の清露の国境画定。西部国境はアルグン河とゴルヴィツァ河を国境とする。東方では、外興安嶺(こうあんれい・スタノヴィ山脈)に続き、その山嶺から南方のアムール河に流入する河川はすべて清国領となった。しかし、東辺地方は未定とされた。

   清国はアムール河からのロシア人を駆逐し、この地方に対する影響力を決定的にした。ギリヤークなど、アムール河下流域の住民も清国に対する朝貢関係に入った。

 *アイグン条約・・1858年に清とロシアが中国黒竜江省北部のアイグン(愛琿)で結んだ条約。ロシアはクリミア戦争を機とし、清領のアムール川を航行し、沿岸に植民していたが、アロー戦争が起こると、黒竜江を自領とするために、ネルチンスク条約の未決定境界の条項を利用し、清側に圧力を加え、条約を結んだ。要点は、(1)黒竜江左岸はロシア領、黒竜江右岸は、烏蘇里江(ウスリー川)以西を清領、同江以東、海までの地を両国の共同管理とする。(2)黒竜江左岸の満州人集落は清国が管轄

する。というもの。

 *北京条約・・1860年。アイグン条約で、国境確定まで両国で共有することとされていたウスリー川以東の沿海地方をロシア領とすること。

(58-11)<変体仮名>「離散のため」の「た(堂)」・・「堂」を「た」と読みのは、「堂」の歴史的仮名遣いが「タウ」であるため。

 その外に、頻出する変体仮名で歴史的仮名遣いによる読みの例をあげる。

 ・「当(タウ)」→「た」                

・「良(ラウ)」→「ら」

・「王(ワウ)」→「わ」

・「遠(ヲン)」→「を」

・「越(ヲツ・ヲチ)」→「を」

(58-11)「官府(かんぷ)」・・官庁。役所。当時の清の首都は北京。

(58-11~59-1)「其後争戦を初め候」・・黒龍江を挿んで、清国とロシアの争いの噂。1854年(安政元年)ロシア軍は黒龍江の北を占領した。

(59-2)「王后(おうこう)」・・「后」は、「天子。君主。」(『角川漢和中辞典』)「満州」は、「清の故土」。満州を統治していたのは単なる「諸侯」ではなく、愛新覚羅の一族(男性皇族)。それで、「満州王后」とした。

 当時の王后は、清国九代愛新覚羅奕詝(アイシンギョロ・イジュ)=咸豊帝(かんぽうてい)

(59-2割書右)「后惣大将」・・『大日本古文書 幕末外交文書第8巻』所収の「北蝦夷地ホロコタンより奥地見分風説書」には、「后」を「後」とし、「後惣大将」としている。

(59-2割書左)「由ニ而」・・『廻浦録』は、「而」を「候」とし、「由ニ候」とある。

(59-7)「アテンキ」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「アテンキ 一里半位 此所小川 スメレンクル家五軒有。但小沢砂地高山大木有。シメレンクルの男女五十七人之由」とある。

(59-8~9)「露西亜人、北蝦夷地内クシユンコタン江塞柵」・・嘉永6(1853)9月、ロシア海軍大佐ネヴェスコイがクシユンコタンに構築したいわゆるムラビヨフ哨所。

(59-9)「塞柵(さいさく)」・・「塞」も「柵」もとりで。

(59-9)「混雑(こんざつ)」・・ごたごたすること。もめること。

(59-9)「命之由」・・『廻浦録』は、「之」を「候」とし、「命候由」とある。

(59-11)「ヲツノ□」・・『今井八九郎北地里数取調書』には、「ヲツチシ 弐里半 此所夷小屋一軒有。但平地砂浜大沼大川有。川口六十間位、岩崎沖ニ高き岩有。当所よりロモーへ山越」とある。

(59-11割書右)「□里位」・・「里」の前の字が虫食い状態で読めないが、『廻浦録』は「六」とある。

(60-2)「木品(きしな・もくひん)」・・木の品質。木目。

(60-4)「山根」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」(『大日本古文書幕末外交関係文書第7巻』所収)には、「山脇」とある。

(60-10)「姿」・・『廻浦録』には、「恣」とある。

(60-10~11)「貸遣ひ」・・「松前伊豆守家来今井八九郎北蝦夷地奥地迄罷越見分仕候趣申上候書付」には、「貸」を「借」とし、「借遣ひ」とある。

(60-11)「自侭(じまま)」・・自分の思うままにすること。思い通りにすること。また、そのさま。わがまま。気まま。身勝手。

古文書学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗などを学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015年4月13日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。
問い合わせは、森勇二まで 電話090-8371-8473 
メール moriyuzi@fd6.so-net.ne

『ふなをさ日記』3月学習の注 

(88-1)「重吉、書付たる一さつ」・・重吉が帰国後、板行した『ヲロシヤノ言』をさすと思われる。

(88-12)「天地山川(せんちさんせん)」・・天と地、山と川。つまり自然全体をいう。

(88-2)「人倫(じんりん)」・・ひと。人々。人類。特定の個人や集団ではなく、人間一般をいう。

 なお、テキスト影印の「リン」は、「ニンベン」より、「リッシンベン」に近いが、「忄」+「侖」の字はない。ここは好意的に「倫」とする。

(88-2)「生(しょう)る〔い〕」・・影印は、「生る」だけで、「い」が脱か。

(88-2)<漢字の話>「衣喰」の「喰」・・テキスト影印の「衣喰」の読みは、「イショク」が妥当か。しかし、「喰」に「ショク」という字音はない。『新潮日本語漢字辞典』は「喰」を国字として「くう・くらう・たべる」などの日本語読みはあるが、漢語風の読みはない。なお、『康煕字典』には、同字があるが、字音は「サン」。テキストの場合、「喰」を「食(しょく)」の当て字として、使用していると思われる。異本は、「衣食」として「喰」は使っていない。

(88-2)「器財(きざい)」・・うつわ。道具。また、家財道具。器材。

(88-2)「わかちて」・・分類して。

(88-3)<文法の話>「うつしおかまじ」・・この用法は二重の意味で誤り。

①打消の助動詞「まじ」は、終止形(ラ変動詞には連体形)に接続するから、「うつしおかまじ」という用法は誤り。「うつしおくまじ」が正しい。しかし、それは、文意のそぐわない。

②異本は、「うつしおかまし」と、打消の「まじ」ではなく、推量の助動詞「まし」になっている。

「まし」は未然形に接続するから、「うつしおかまし」なら正しい。

③文意も「写し置こう」ということだから、②が正しい。

(88-4)「一体(いったい)」・・そもそも。おしなべて。一般に。

(88-4)「遣ひさま」・・遣い方。「さま」は接尾語。後世は「ざま」とも。動詞に付いて、そういう動作のしかたを表わす。方(かた)。様(よう)。ぶり。

(88-5)<くずし字>「書付がたきが多く」・・       下は『これでわかる仮名の成り立ち』

「がたきが」の変体仮名は「可・多・支・可」。     (茨木正子編 友月書房刊)より

 *<変体仮名「支(き)」・・右の表参照。

 *<漢字の話>「支(き)」・・①手元の漢和字典に「支」を「キ」とするものはない。

  ②万葉仮名(甲類)に「き」がある。

  ③古代中国字音が「キ」に近かったとされる。  (『新潮日本語漢字字典』)

  ④「支」の部首・・「支」は部首。部首名は、「じゅうまた」「しにょう」「えだにょう」とも。「しにょう(繞)」と「繞」の名を持つが、その例は、「翅」のみ。

(88-9)「末つかた」・・「つ」は「の」の意。ある期間の終わりのころ。月や季節などの終わりのころ。末のころ。「つ」は、奈良時代に使われた格助詞。平安時代以降は、「天つ風」「沖つ白波」のように、複合語として慣用的にだけ用いられた。現在では、「まつげ(目つ毛)」「やつこ(家つ子)」「わたつみ(海神)」に一語の中に化石的に残っているにすぎない。

(88-910)「六人の日本人」・・督乗丸の船頭・重吉と水主の音吉、半兵衛、薩摩の永寿丸の漂民で船頭の喜三左衛門、水主の角次、佐助の六人。

(88-10)「フツヱトル」・・セント・パーヴェル号。

(88-10)<くずし字>「用意」の「用」・・1画目が点か、省略されているようになる場合が多い。

(89-3)「スレス」・・ワシリー・スレドニー船長。

(89-3)「イキリスの船頭ベケツ」・・イギリス船フォレスタ号の船長ピケット。

(89-3)「筆者(ものかき)ベネツ」・・フォレスタ号の書記ベネツ。

(89-4)「扨(さて)」・・文脈上すでに存する事物・事態をうけ、これと並行して存する他の事物・事態に話を転じる。一方では。他方。ところで。

(89-4)<略字(異体字)>「薩摩」の「广」・・「广」は、「摩」の略字。

(89-4)「便船(びんせん)」・・便乗すべき船。都合よく自分を乗せて出る船。また

乗る人。

(89-7)「カワンより」・・異本は、「カワン」を「ガワン」とし、そのあとに「みなとの事也」と割注がある。また、「オロシヤノ言」には、「湊の事 ガアハン」とある。

(89-7)「午未(うまひつじ)」・・ほぼ南南西。

(89-8)「亀崎(かめざき)」・・知多半島東岸の漁村で港町。現愛知県半田市亀崎。

(89-9)「いかにせましと」・・どうしようかと。「せまし」の組成は、サ変動詞「す(為)」の未然形「せ」+推量の助動詞「まし」の連体形「まし」。

(89-10)「ゆへ」・・「由」の歴史的仮名遣いは、「ゆゑ」。

(89-11)「渡り」・・辺り。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <「わたり」は「伊勢物語‐五」に「東の五条わたりにいと忍びてゆきけり」、「土左‐承平五年一月二三日」に「このわたり海賊のおそりあり」とあるように接尾語的に、あるいは「の」「が」による連体修飾に続けて用いられるだけであるのに対し、「あたり」は単独で用いられる。>とある。

(90-3)「然(しか)るべし」・・[連語]ラ変動詞「しかり」の連体形+推量の助動詞「べし」。それが適当であろう。現代語では、連用形から出た「しかるべく」、連体形から出た「しかるべき」の形が用いられるにすぎない。

(90-6)<漢音・呉音>「経文(きょうもん)」・・「経」は、「キョウ」が呉音、「ケイ」が漢音。「文」は、「モン」が呉音、「ブン」が漢音。日本には、呉・越地方、中国中部揚子江流域地方の古い時代の音が、先ず入ってきた。仏教伝来とも係り、仏教用語は、呉音が多い。

(90-6)「そと」・・しずかに。ひそかに。こっそりと。そっと。

(90-7)「言(いう)もさらなり」・・言うまでもない。もちろんである。

(90-9)「不足(たらず)くちおしき」・・とても残念だ。「不足(たらず)」は、不満足で。

(90-9)「いみじく」・・ひどく…である。

(90-10)「沖中(おきなか)」・・海洋の中。

(91-1)<くずし字>「教」・・影印は、「教」の決まり字。

偏は「おいかんむり」+「子」だが、「おいかんむり」を「才」のような形で上に書き、「子」と旁の「攵(ぼくづり・ノ分)」を一緒に脚に書くことが多い。

(91-1)「見えわかず」・・みることができず。「わかず」の組成は、4段動詞「わ(別・分)く」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連用形。

(91-1)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

(91-2)「日数(ひかず・にっすう)」・・経過した、またはこれから要するひにちの数。にっすう。また、何日かの日の数。

(91-23)「海上上」・・「上」がひとつ重複している。

(91-3)「ヱドモ」・・絵鞆か。絵鞆は、絵鞆半島突端北西部に位置し、北と西は内浦湾に面する。

(91-7)「実(げ)に」・・「現に」の変化した語かという。予告や評判どおりの事態に接したときの、思いあたった気持を表わす。なるほど。いかにも。本当に。

(91-6)「船ももろともに」・・「も」が重複で、ここは、「船もろともに」か。

(91-8)<異体字>「乞」・・冠部分が「ト」で脚部分が「乙」になる場合がある。

(91-10)<くずし字>「引かへし」・・「し」が「へ」に食い込んでいる。一見、「へし」が1字に見えるが、このテキスト影印では、よく見かける。

(91-11)「やゝ」・・副詞「や(彌)」を重ねてできた語。ある物事が少しずつ進むさまを表わす語。徐々に。次第に。順を追って。だんだん。

(92-6)「もどりてよかし」・・「よかし」は、意味不明。異本は、「くれよかし」に作る。                   

(92-7)「来年となれぬ」・・「来年と」は、文意が不明。異本は、「来年迄」に作る。

(92-9)「我々計(ばかり)」・・我々だけ。「ばかり」は、体言・活用語の連体形を受け、限定の意を表わす。

(92-10)「あながち」・・一途(いちず)なさま。ひたむきなさま。

(92-11)「言しろはん」・・言い合う。「しろふ」は互いに事をし合う意。

(93-11)「易なく」・・ためにならない。「易」は、「益」の当て字。

3月学習『秘書注』 

(52-1)「通弁(つうべん)」・・「つうやく(通訳)」の古い言い方。

(52-3)「相弁(あいべんじ)」・・「弁ずる」は、わきまえる。

(52-4及び7)<くずし字>「候哉」「可相成哉」の「哉」・・「口」の部分が、「ノ」のように書かれる場合がある。

(52-7)「見合(みあい・みあわせ)」・・対応。検討。

(52-7)「談判(だんぱん)」・・かけあい。

(53-1)「水野正左衛門」・・村垣に随行した評定所留役。水野に先発して安政元年(1854)229日江戸を出発。西蝦夷地、カラフトを巡見し、帰途同年閏717日、クスリで死亡している。

(53-3)「旬季(じゅんき)」・・順当な気候。順当な季節。

(53-5)「今井八九郎」・・松前藩士。

(53-6)「廻浦(かいほ)」・・内陸未開拓の時期の蝦夷地では、海岸沿いに諸役人などが巡回・視察する意味に使われた。

 *<漢字の話>「浦」・・①元来中国では、川のほとりの意味。②わが国で、陸地に入り込んだ所、入り江を意味する「うら」に「浦」を当てた。「うら」の語源説には、

・ウラ(裏)の義。外海の表に対し、内海の意〔箋注和名抄・名言通・大言海〕。

 ・ウはウミ(海)、ラはカタハラ(傍)から〔和句解・日本釈名〕。

 ・ウラ(海等)の義〔桑家漢語抄〕。

・ウはワタツの約。ウラはワタツラナリ(海連)の義〔和訓集説〕。

など、海と関連づけるものが多い。

③全国いたるところを意味する「津々浦々」は、海に囲まれた日本製の四字熟語。

(53-7)「風説書(ふうせつがき)」・・各地の風説を報告した文書。特に、限定して、江戸時代、幕府に提出された、長崎貿易を通じて得られた海外情報などの報告書をいう。オランダ商館長からのものを「オランダ風説書」、唐船からの情報は「唐船風説書」とよばれた。

(53-9)絵図(あらえず)」・・大まかな絵図。影印の「麁」は、「麤」の俗字。「麤」の解字は、「鹿」+「鹿」+「鹿」。しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる。あらいの意味をあらわす。

(53-9)「上川伝一郎」・・村垣配下の支配勘定。カラフト巡見の際は、堀・村垣の命を受け、西海岸をホロコタンの先まで見分し、さらに、伝一郎に付き添って行った松前藩士今井八九郎は、進んでナツコに至った。

(54-8)「時日(じじつ)」・・ひにちと時間。何日かの期間。日数。

(54-8)「相後(あいおく)レ」・・時間が遅くなる。「おくれる」は、広く「遅れる」と書く。

 *「汽車が四十分程後(おく)れたのだから、もう十時は過(まわ)っている」(漱石『三四郎』)

(54-8)「分間(ぶんかん・ぶんけん)」・・測量。

(54-11)「バンケ」・・今井八九郎の『北地里数取調書』(北海道立文書館蔵)には、「ハンケヱンルモ」とあり、「山丹人当所よりワシフンサキ迄渡海之所也」とある。

(56-2)「一昨亥年(いっさくいどし)」・・嘉永4(1851)

(56-2)「秋秋」・・「秋」がひとつ重複している。

(56-3)「住所」・・「住」は、「同」で「同所」が本来か。

(56-3)「昨子年(さくねどし)」・・嘉永5(1852)

(56-3)「砌(みぎり)」・・あることの行なわれる、または存在する時。そのころ。土源説に、「そのころの意を其の左右(ゆんでめて)というところからミギリ(右)の義か」がある。

(56-4)「時化(しけ)」・・動詞「しける(時化)」の連用形の名詞化。海で暴風雨が続くこと。海が荒れること。「時化」と訓じるのは、当て字。

 *<漢字の話>「時」・・「し」と読むのは呉音。「時化(しけ)」のほか、「時雨(しぐれ)」がある。

(56-8)「潮勢(ちょうせい)」・・潮の押し寄せる勢い。潮流の勢い。

(56-11)「菩提(ぼだい)」・・梵語bodhi の音訳。道・智・覚と訳す。仏語。

(1)世俗の迷いを離れ、煩悩を断って得られたさとりの智慧。

 (2)死後の冥福。

(56-11)「卒塔姿(そとば・そとうば)」・・梵語stu-paの音訳。頭の頂、髪の房などの義。高顕処・方墳・円塚・霊廟などと訳す。仏語。卒都婆、率都婆などを当てる。

(1)仏舎利の安置や、供養・報恩をしたりするために、土石や(せん)を積み、あるいは木材を組み合わせて造った築造物。塔。塔婆。卒都婆標。そとうば。

 (2)転じて、供養のため墓のうしろに立てる細長い板。上部は五輪卒都婆の形をしており、梵字、経文などが記されている。塔婆。

古文書解読学習会のご案内

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015年3月9日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。
問い合わせは、森勇二まで 電話0909-8371-8473
 moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』2月学習の注

(83-1)「扨は」・・事情や状況、また、相手の発言や行動などで、思いあたることのある時に発する語。そう言うところをみると。そんなことをするところから思えば。それでは。

 *<漢字の話>「扨」・・国字。『新漢語林』は、解字を、「刄(叉)」+「扌(手)」とし、「叉」は、サ、「手」はテ、合せてサテの音を表すとしている。なお、「扠」は、「さて」と訓じることもあるが、元来は漢字。

(83-1)「いへたるか」・・ヤ行下2動詞「癒(い)ゆ」の連用形は、「癒(い)え」。「いへ」とすれば、終止形は、「癒(い)ふ」だが、どういう表現はない。ここは、「いえたるか」が正しい。

(83-2)「ゆへ」・・故。文語体では、「ゆゑ」で、「ゆへ」とはいわない。しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「故」の語源説に、「ユはヨリ(因)の約。ヱはヘ(方)の転」とあるから、「ゆへ」とする用法もあったか。

(83-2)「からき」・・辛き。形容詞「辛(から)し」の連体形。「辛(から)し」は、残酷だ。むごい。ひどい。

(83-2)「せひばひ・・成敗。歴史的仮名遣いでも、「せひばひ」とは書かない。ここは、「せいばい」。

(83-2)「せひばひをし給ひては」・・罪人として仕置きをなされては。

(83-3)「なかなかに」・・かえって。むしろ。

(83-3)「いとほしく」・・形容詞「いとほし」の連用形。「いとほし」は、かわいそうだ。気の毒だ。

(83-3)「なかなかにいとほしくて」・・かえってかわいそうで。

(83-3)「いかで」・・「いかにて」の撥音便化した「いかんて」が変化した語。あとに、意志、推量、願望などの表現を伴って用いる。何とかして。せめて。どうにかして。どうか。

(83-3)「たべ」・・ください。動詞「給(た)ぶ」の命令形。「給(た)ぶ」は、「与ふ」「授(さず)く」の尊敬語で、お与えになる。くださる。

(83-5)「こらして」・・懲らして。過ちを責めて戒めて。

(83-7)「ゆへ」・・ここも、「ゆえ」が正しい用法。

(83-8)「いかで入てたべ」・・なんとかして入れてください。

(83-8)<脱字について>異本は、「たべ」と「きのふ」の間に、「かしと、あながちにいひける事のわりなさに、心ぐるしくは思ひながら座敷へ入れければ」がある。

(83-8)「きのふのよろこびにとて」・・昨日のお礼に来たのだといって。

(83-9)「まして」・・動詞「ます(増)」の連用形に助詞「て」が付いてできたもの。先行する状態よりも程度のはなはだしいさまを表わす語。それ以上に。他のものよりもひどく。今までよりも強く。いっそう。

(83-9)「まして、きのどくに思ひ」・・いよいよ気の毒に思い。

(83-9)「さることにてはなし」・・そんなに心配には及ばない。

(83-11)「いなみ」・・動詞「否(いな)む」の連用形。「否(いな)む」は、承知しないということを表わす。断る。いやがる。辞退する。

(84-1)「悦びて帰りける」<係り結びの法則>・・通常の文は、終止形で結ぶ。ところが、

①「ぞ」「なむ」「や(やは)」「か(かは)」を用いると、その文末は連体形で結ぶ。

 ②「こそ」を用いると已然形で結ぶ。

 テキストの場合、過去の助動詞「けり」の連体形「ける」で結んでいる。

(84-2)「童(わらべ)」・・語成は、「わらわべ」の変化した「わらんべ」の撥音「ん」の無表記から。語源説のひとつに、「その泣き声から、ワアアヘ(部)の義」があるのが、おもしろい。

(84-2)「子共(こども)」・・「ども」は接尾語。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌に

 <(1)元来は「子」の複数を表わす語であり、中古でも現代のような単数を意味する例は確認し得ない。ただ、複数を表わすところから若年層の人々全般を指す用法を生じ、それが単数を表わす意味変化の契機となった。

 (2)院政末期には「こども達」という語形が見出され、中世、近世には「こども衆」という語を生じるなど、「大人に対する小児」の用法がいちだんと一般化し、同時に単数を表わすと思われる例が増える。

 (3)漢字表記を当てる場合、基本的には上代から室町末期まで「子等」であるが、院政期頃より「子共」を用いることも多くなる。近世に入り、「子供」の表記を生じた。>とある。

(84-3)<変体仮名の話>「わらんべ」の「わ(王)」・・「王」は、現代仮名遣いでは「おう」だが、歴史的仮名遣いでは、「わう」。したがって、「王」を変体仮名の「わ」とするのは、歴史的仮名遣いによる。

(84-3)「何心(なにこころ)なく」・・形容詞「何心なし」の連用形。「何心なし」は、何の深い意図・配慮もない。なにげない。

(84-45)<文法の話>「子供が戯れ」の「が」・・「が」は連体格の格助詞で「~の」。「子供戯れ」

 *「君ため春の野に出でて若菜つむわ衣手に雪はふりつつ」(『古今和歌集』)

 *「おら春」(小林一茶の句集の題名)

(84-5)「ものともおもはで」・・異本は、「ものとも」を「物しとも」としている。「物し」は、「気にさわる。不快である。」だから、異本の方が妥当か。

(84-4)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは①か。

(84-8)「からきめをし給ふぞ」・・つらい目にあわせなさるのか。

(84-11)「わきて」・・副詞。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(84-11)「戯言(ざれごと・ざれこと・あきれごと・じゃれごと・たわぶれごと・たわむれごと)」・・

 たわむれに言うことば。ふざけて言うことば。冗談。また、たわむれてすること。ふざけてすること。

(85-2)<漢字の話>「鹿」・・

①「鹿」は部首。解字は角のある雄しかの象形。

②「牛」「犬」「羊」「虫」「貝」など、動物が部首になっている。10画以上でも、「馬」「魚」「鳥」「龜(亀)」「鼠」など。架空の動物では「鬼」「龍(竜)」がある。

 ③殷の紂王(ちゅうおう)が、庭園に酒を満し、枝に肉を懸けて宴を開き、酒池肉林の淫靡な享楽に

  ふけったが、その場所が「鹿台」。黄河流域にはたくさんの鹿が生息していた。(阿辻哲次著『部首の話2』中公新書 2006

 ④「鹿」部で、常用漢字はふたつだけ。「麗」は、「何頭かのシカが連れ立って移動する様」から、美しいことの意味を表した。もうひとつは、平成22(1010)に追加された「麓」。

(85-2)「悦(よろこび)」・・お礼。

(85-3)「なべて」・・動詞「なぶ(並)」の連用形に、助詞「て」の付いてできたもの。事柄が同じ程度・状態であるさまを表わす。すべて。総じて。一般に。概して。

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2月学習『秘書注』  

(48-1)「勘定吟味役下役(かんじょうぎんみやくしたやく)」・・勘定吟味役配下の役職。高500石、役料300俵。勘定吟味役の配下には、勘定吟味方改役(7名、役高150俵で役扶持10人扶持)、その下に、勘定吟味方改役並(5名、役高百俵、持扶持勤めで役扶持七人扶持)、さらに勘定吟味方下役(10名、持高、勤めで役扶持3人扶持)をそれぞれ設けた。

 *勘定吟味役

・設置と改廃止・・天和2年(1682)創置。元禄12年(1699)ひとたび廃止された.正徳2年(1712)新井白石の建議に基づき再置。ついで享保年中(1171636)増員され、以後おおむね四~六名が常置されて慶応3年(1867)に至り廃止された。

・職務・・職務は勘定所での金穀の出納、封地の分与、幕領年貢の徴収と郡代・代官の勤怠、金銀の改鋳、争界の訴訟など一切の監査である。さらに勘定奉行とその属吏に不正があれば直ちに老中に開陳する権限があった。

(48-1)「出役(しゅつやく)」・・江戸幕府の職制。他の役職を兼役する場合の職名。出役には役料が与えられ、兼務する役職の常勤になる場合があり、出役から昇進する例もある。

(48-1)「長谷川就作」・・『蝦夷紀行』には、勘定吟味役村垣範正の配下の勘定吟味方改役下役として「長谷川周作」の名がある。

(48-1)「御普請役」・・江戸幕府の職名。享保9年(1724)に勘定奉行支配御普請役として新設。関東諸河川・用水の御普請を担当した。宝暦3年(1753)からは勘定奉行支配となった。勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(48-2)「代(かわ)り」・・代り役。ある人の役目を、他の人がつとめること。また、その人。だいやく。

(48-2)「福岡金吾」・・『蝦夷日記』には、勘定吟味役村垣範正の配下の天文方に「福岡金吾」の名がある。

(48-2)「津田十一郎」・・『蝦夷日記』には、勘定吟味役村垣範正の配下の天文方に「福岡金吾」の名がある。津田も、この時期、御普請役代り役だったか。

(48-2)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・江戸幕府の職名の一つ。目付の支配に属し、幕府諸役所に出向し、諸役人の公務執行状況を監察し、変事発生の場合は現場に出張し、拷問、刑の執行などに立ち会ったもの。また、隠し目付として諸藩の内情を探ることもあった。定員50人。小人横目。

(48-2)「藤田幸蔵」・・『蝦夷日記』には、目付堀織部の配下に「藤田幸蔵」の名がある。

(48-5)「シヨウニ岬」・・シラヌシの北、カラフト南西部の野登呂半島にある地名。日本名「宋仁」を当てる。

(48-9)「イサラ」・・カラフト西海岸中部の地名。コタンウトロの北。日本名「伊皿」。「北蝦夷地西浦クシユンナイよりナツコまで足軽廻浦為致候行程荒増申上候書付」(東京大学史料編纂所刊『大日本古文書 幕末外国関係文書の十四』・以下『足軽書付』)には、「ウチヤラナイ」とあり、「此所川有、巾三間、石地、山は雑立木、小岬有、波立之節は通行成かたし」とある。

(48-10)「チトカンベ」・・カラフト西海岸中部の地名。『足軽書付』には、「チトカンヘシ」とあり、「此所出崎、嶮崖通行難相成、山道有、又滝抔有之、絶景奇岩有り」とある。

(49-5)<見せ消ち>・・「より」の左に、見せ消ちの記号「ヒ」が二つあり、右に「江」と訂正してある。ここは、「より」は誤りで読まない。「ライチシカ辺より」でなく、「ライチシカ江」と読む。

(49-6)「湖辺より北之方コタンウトロ」・・「湖」は、「ライチシカ湖」。「北之方」とあるが、『足軽書付』

を計算すると「コタンウトロ」より、6里半ほど北にある。

(49-9)「当時」・・現今。ただいま。当節。

(49-10)「故土(こど)」・・生まれ育った土地。故郷。郷土。

(50-5)「聳へ」・・文語体では、ヤ行下二段動詞「聳ゆ」の連用形は、「聳え」。「聳へ」なら、終止形は、

ハ行の「聳ふ」だが、そういう言葉はない。文語調では、ここは、「へ」は「え」で、「聳え」が本

来。

(50-6)「天度(てんど)」・・緯度。



(50-7)「ホコラ」・・『足軽書付』の「ホコラニ」の項に、「此処スメレンクル家三軒有、川有巾凡弐間、砂浜石地も少々有之、高山青木立」とある。なお、テキストP51には、「ホコラニ」とある。また、『足軽書付』の順路は、キトウシとホコラニが逆になっており、ホコラニの方が、南、つまり、ホロコタンよりである。

(51-2)「キトウシ」・・『足軽書付』の「キトウシ」の項に、「此処川有、巾三間、鱒漁多シ、スメルンクル家弐軒有、砂浜連山青木立、別而高キ大山有、ライチシカよりナツコ迄最一ノ高山ニ而、頂草生、其形リイシリ山之如シ」とある。

(51-4)「薙髪(ていはつ・ちはつ)」・・髪を剃る。剃髪。

(51-5)「乾隆の小銭」・・「乾隆」は、中国清朝6代皇帝乾隆帝在位(1711~1799)の時代。「小銭」とは、「制銭―つまり清朝が正規に発行した銅銭―以外の品質の悪い銅銭」(黨武彦著「乾隆末年における小銭問題について」=『九州大学東洋詩論集312003=)

(51-8)「するどき」・・形容詞「鋭(するど)し」の連体形。「鋭し」は、勇ましくてつよい。精鋭である。

(51-8)「剣下」・・『蝦夷地廻浦録』は、「釼」を「腰」とし、「腰下」としている。なお、影印の「釼」っは、「剣」の俗字で、日本では多く姓氏に「つるぎ」として用いられる。

(51-9)「大指(おおゆび・おおよび・おおおよび)」・・手足の指のうちで、もっとも太い指。おやゆび。

(51-9~10)「闘諍(とうそう)」・・いさかい。

(51-1011)「矢狭間(やざま)」・・城壁や櫓(やぐら)などの内側から外をうかがい矢を射るためにあけた小窓。矢間。

(51-11)「閉籠(へいろう・へいろ)」・・家などにとじこもって外に出ないこと。

 

古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2015年2月9日(月)13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。
問い合わせは、森勇二まで moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

1月学習『秘書』注(2)

(45-3)「帰(き)し」・・「帰(き)す」の連用形。「帰(き)す」は、罪などをある物や人のせいにする。負わす。かこつける。なすりつける。

(45-3)「候共(ろうろうとも)」・・発音は「ソーロートモ」。意味は、「~でありましても」。

 *「候」について:笹目蔵之助著『古文書解読入門』(新人物往来社刊 1979)参照

 ◎「候(現代仮名遣いは「そうろう」。発音は、「ソーロー」。「~ます」「~です」「~であります」に当る。

  ・「候ハヽ」(そうらはば。ソーラワバ。~でありますならばの意)

  ・「候共」(そうろうとも。ソーロートモ。~でありましてもの意)

  ・「候ヘハ」(そうらえば。ソーラエバ。~でありますからの意)

  ・「候ヘ共」(そうらえども。ソーラエドモ。~でありますがの意)

(45-3)<欠字の体裁>「帰し候共 御国」・・「共」と「御国」の間のスペース(空白)は、尊敬の体裁の欠字。

(45-3)「所置(しょち)」・・処置。

(45-4)「混同河」及び(45-7)「混同江」・・混同江。松花江(しょうかこう)の古名。松花江は、中国東北部地区の大河。朝鮮国境の長白山頂天池に発源する二道白河が、二道江・第二松花江と名をかえ、松花湖を経て松花江となる。支流の輝発河・伊通河を加え、西北より来る嫩江を併せて東北に向かい、呼蘭河・牡丹江などをいれ、同江に至って黒竜江に合する。全長約一九三七キロ。古くは粟末水・混同江・黒水・松阿(宋瓦)里などとも称した。沿岸には吉林・哈爾浜(ハルビン)・依蘭など多くの都市を有し、十一月より四月までの結氷期を除いては小汽船を通じ、経済・交通・運輸の大動脈をなす。

 *「川・河・江」・・

  ①小さいのを「川」、大きいのを「河」と使い分ける習慣がある。今は混同して用いる。また、現在日本では、河川の名称は、「川」と書くようになってきている。

  ②中国の河川については、中国の呼称をそのまま用いるのが普通である。なお、長江を「江」、黄河を単に「河」と呼んでいた。中国の河川名は、長江より北はほとんどが「河」、長江より南は「江」と呼ばれている。

 *<漢字の話>「河」の解字・・音符の「可」は、かぎの形に曲がるの意味。曲がってながれる黄河の意味から、一般に河の意味を表す。

  **「河清(かせい)を俟(ま)つ」・・常に濁っている黄河の水の澄むのを百年もかかって待つの意。いつまで待っていても実現のあてのないことをいう。

    河之清、  <河の清(す)むを俟(ま)つも>

人壽幾何。   <人寿(じんじゅ)壽何(いくばく)ぞ> 『春秋左氏伝』

(45-4)「営柵(えいさく)」・・とりで。

(45-5)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。影印の「蚕」は、旧字体の「蠶」。

(45-5)「思念(しねん)」・・心に思うこと。考えること。また、常に心にかけていること。

(45-6)「アンモル川」・・アムール川。アムールはAmur 「黒い川」の意。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長4350キロメートル。黒龍江。黒河。

(45-8)「屯(たむろ)いたし」・・「屯(たむろ)」は、兵士、また、一定の職にある者たち、ある仲間などが群れ集まること。「たむろ」の語源説に、「タムレ(手群)の転。一手の兵が群れ居る意」がある。

(45-8)「打沈(うちしずみ)」・・影印の「沉」は、「沈」の俗字。

(45-9)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849)7月28日。

(45-10)「今井八九郎」・・今井八九郎は寛政2年(1790)、松前藩下級藩士の子として松前に生れた。通称を八九郎、正式には信名(のぶかた)という。蝦夷地は19世紀初頭の文化年間に江戸幕府の直轄地となり、それまで統治を任されていた松前藩は東北に移封された。このとき今井家は藩から財政難により放禄されたものの、松前奉行の同心として幕府に仕えることとなった。同じ奉行所には間宮林蔵が出仕しており、今井八九郎は林蔵から伊能流の測量技術を学んだ。
文政4年(1821)、再び蝦夷地を領地とされた松前藩は、八九郎を召命して蝦夷地全域の測量を行なわせた。奥尻・利尻・礼文・北蝦夷地(樺太)・国後・色丹・択捉・歯舞などの島嶼部をも含む測量活動はあしかけ10年に及んだ困難な作業であった。天保12年(1841)からは製図作業にかかり、蝦夷島やその周辺島嶼部の地図が完成した。八九郎の清書図は松前藩に提出されたが、明治維新の箱館戦争で失われた。
 東京国立博物館所蔵の「今井八九郎北方測量関係資料」の絵図・地図類は、清書図の控えとして今井家が所蔵していた資料を、大正3年(1914)に東京国立博物館が今井家から購入したものである。これらの絵図・地図には伊能忠敬や間宮林蔵が測量していなかった島嶼部について精度の高いものがあり、豊富なアイヌ語地名の記載もみられる。松前藩への献呈本が失われた現在では、江戸後期の蝦夷地をうかがい知ることのできる貴重な歴史資料・民俗資料といえよう。南下したロシアの動静を伝える「北蝦夷地ホロコタンより奥地見聞風説書」をはじめとする文書・記録類とともに重要文化財の指定を受けた。

(45-11割注左)「通辞(つうじ)」・・通訳。

 *「通詞」「通事」・・江戸時代の長崎では、中国語の通訳官を唐通事、オランダ語の通訳官を蘭通詞と区別する習慣があった。ともに当初は小人数であったが、しだいに人数も増大し、組織も複雑化していった。貿易・外交にまつわる通訳にとどまらず、来航する唐人・蘭人から聴取した海外諸事情を「風説書」として当局に報告する役割もあり、蘭通詞の中には、西洋の知識技術を身に付ける者も現われた。

(45-11割注左)「清水平三郎」彼は、栖原家の支配人と蝦夷通詞も兼ねており、また、松前藩の士席先手組にも取たてられていた。ロシアのクシュンコタン占拠の際、清水は、松前藩の通訳をつとめ、また、単独でもしばしばムラビヨフ哨所を訪れ、ロシア将校と対談している。彼は、のち、安政2(1856)2月、箱館奉行支配同心に抱え入れられ、同年5月には調役下役に任じられて、北蝦夷地詰となり、山丹交易の任に当った。彼は明治維新では、榎本軍に従事し、箱館戦争では、榎本軍の「陸軍奉行添役介・裁判役並」だった。

(45-11割注左)「異同(いどう)」・・異なっていること。違っている点。相違。

(45-11割注左)「粗(あらあら・ほぼ)」・・おおよそ。

(46-2)「一价(いっかい)」・・一介。多く「の」を伴って連体修飾語として用いられる。わずかなこと。少しばかりのこと。また、一人(ひとり)。価値のない、つまらないひとり

(46-2)<漢字の話>「書翰(しょかん)」の「翰」・・部首は「羽」。解字は、「羽」+「倝」。「倝」は、旗ざおの意味。旗ざおのように長い羽のやまどりの意味を表し、羽で作ったふで、転じてふみ(文)の意味をも表す。現代表記では、「簡」に書きかえることがある。

(46-2)「而己(のみ)」・・漢文の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。

(46-3)「姦謀(かんぼう)」・・邪悪なはかりごと。

(46-5)「清主(しんしゅ)」・・この時期の清朝皇帝は、9代咸豊帝(かんぽうてい) 愛新覚羅奕詝。

(46-5)駛(はせ)」・・「駛る」は、はせるの意。音読みは「シ」。ジャパンナレッジ版『字通』には、<駛は六朝以後にみえる字で、梁の簡文帝の詩に「馬を駛(は)す」「春、駛せんと欲す」などの語がある。馬以外にも疾走する意に用いる。>とある。熟語は、「駛雨(しう)」(にわか雨)など。

(46-5)「聢(しか)と」・・はっきりと。ちゃんと。たしかに。

 *<漢字の話>「聢」・・国字。解字は、耳+定で、耳に定着するように「しかと」の意味を表す。

(46-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実。

(46-6)「見据(みすえ)」・・見てはっきりと判断する。見定める。見込む。

(46-7)「何(いず)れの道」・・いずれにしても。どの道。どうせ。

(46-7)<見せ消ち>「地内所」・・「内」の左に「ヒ」のような記号があるが、見せ消ち記号。「内」は、削除したという意味で、「内」は読まない。従ってここは、「地所」となる。

(46-8)「御手を下(くだ)され」・・「手を下す」は、事に対して自分ではっきりした判断をつける。また、それによって事を行なう。

(46-8)「枢要(すうよう)」・・「枢」は戸のくるる、「要」は扇のかなめの意。

物事のもっとも大切なところ。もっとも大切であること。また、そのさま。中枢。要点。かなめ。

*「枢(くるる・とぼそ=戸臍=・とまら=戸魔羅=)」・・戸の梁(はり)と敷居とにあけた小さな穴。これに、枢(とまら)をさし入れて戸を開閉させる軸とする。

(46-9割注左)「マーイヲ」・・「マーヌイ」の誤りか。

(46-9割注左)「陰鬱」・・陰気でうっとうしいさま。

 <漢字の話>「鬱」・・2010年改定の常用漢字に追加された。常用漢字で最大の画数・29画。

           「林缶」  リンカーン

           「冖」   ワ(は)

           「※」    アメリカン

           「凵ヒ」   コーヒーを

           「彡」    三杯飲んだ。

(46-9割注左)「切透し」・・切って間が透くようにする。

(46-9割注左)「品ニ寄(より)」事情によって。場合によって。

(46-10割注右)「岨沢泥濘(そたくでいねい)」・・けわしい沢で、泥が深いこと。

(46-11割注右)「捷径(しょうけい)」・・「捷」はすみやか、「径」は小道の意。早道。近道。

(47-1)「別紙建言(けんごん・けんげん)」・・『新撰北海道第五巻史料一』所収の『開拓諸書付』には、

 「別紙建言」の傍注に、(附属書類三)とある。その(附属書類三)を資料として添付する。

(47-1~2)「取捨(しゅしゃ)」・・取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。

(47-4)「月日」・・テキストは、単に「月日」とあるが、『開拓諸書付』には、「寅月日」とあり、「寅」が記されている。「寅」は、安政元年(1854)。なお、『開拓諸書付』のこの文書の冒頭に、朱書で「箱館表より差上候ニ付最初進達之月日不相分」とある。

なお、『開拓諸書付』のこの文書の冒頭に、朱書で「箱館表より差上候ニ付最初進達之月日不相分」とある。また、『大日本古文書』では、「北蝦夷地国境之件」(堀と村垣の老中への上申書)として、朱書で「寅十月廿八日、封之儘伊勢守江河内守進達」とある。


1月学習『秘書注』(1)                              

(43-1)「纔(わずか・わづか)」・・色のまじったきぬ。転じて、どうにかこうにか足りるくらい。かろうじて。やっと。特に、量がわずか。どうにか。

 <漢字の話>

 ①「纔」・・「糸」部の17画(総画23画)。解字は、「音符の毚(サン)は、まじるの意味。赤みと黒みのまじった絹の意味を表す。借りて、わずかに・かろうしての意味にも用いる」(『漢語林』)とするが、わかりにくい。

②ジャパンナレッジ版『字通』には、『設文解字』を引用し、<「纔は淺きなり。讀みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>とするが、これまたよくわからない。

 ③同訓異字・・ジャパンナレッジ版『字通』には、「わずか」と読む同訓異字として、「纔」の他に、

  【僅】(キン)ほんのすこし。すこしばかり。特に、数が少なくわずか。「僅差」「僅僅」「僅少」。

【才】(サイ)「纔」に同じ。

【些】(サ)ふぞろいに並べる。転じて、いささか。いくらか。すこし。「些細」「些事」「些少」「些末」

【涓】(ケン)しずく。小さい流れ。転じて、量がきわめてわずか。ほんの少し。「涓涓」「涓埃」《古みづたまり・あひだ・あはひ。

【財】(ザイ)価値あるもの。たから。転じて、「纔」に同じ。「財足」。

【毫】(ゴウ)細い毛。転じて、ごくわずか。ほんのすこし。ちょっぴり。「毫末」「毫毛」「一毫」「白毫(びゃくごう)」。

【錙】(シ)古代中国で重さの単位。転じて、目方がわずか。価値があまりない。また、物事がこまかくかすか。微細だ。「錙銖(シシュ)」。

  を挙げている。ほかにも、

【寸】(スン)指一本の幅。転じてわすか。すこし。「寸影」「寸暇」「寸分」

【秒】(ビョウ)穂先の部分をいう。きわめて細いものであるから、かすか、わずかの意に用いる。

【毛】(モウ)体毛をいう。また地表に生ずる草をもいう。わずか、すこし、かるい、こまかい。

【片】(ヘン)片方の意よりして、ものの一偏をいい、僅少・一部分の意となる。「片刻」「片土」

【尺】(シャク・セキ)手の指の拇指(おやゆび)と中指とを展(ひら)いた形。「尺寸(せきすん)」

【劣】(レツ)力は耒(すき)の象形であるから、耕作力において劣る意である。農事に限らず、すべて才分の少ないこと。おとる・わずか・すくない。

【裁】(さい)裁・才・財・纔は、みな「わずかによくする」意があり、また、ようやくなる・はじめての意がある。

【暫】(ざん)しばらく。わずか。にわか。「暫時」「暫定」。

【勺】(しゃく)量目の単位、一合の十分の一、地積では一坪の百分の一。わずか。「勺飲」

 <仮名遣いの話>

 「纔」→「わずか」か「わづか」か。

 ①ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「僅か」の項には、「わずか(わづか)」と、(わづか)を括弧書きしている。「わづか」は歴史的仮名遣い。

 ②昭和61年内閣告示「現代仮名遣い」の本文第二の5項の「なお書き」には、

<「なお次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。>として、「ず」「じ」を本則として、「づ」「ぢ」も許容する語として、次の23語があるが、「わづか」はない。

例 せかいじゅう(世界中)、いなずま(稲妻)、かたず(固唾)、きずな(絆)、さかずき(杯)、ときわず、ほおずき、みみずく、うなずく、おとずれる(訪)、かしずく、つまずく、ぬかずく、ひざまずく、あせみずく、くんずほぐれつ、さしずめ、でずっぱり、なかんずく、うでずく、くろずくめ、ひとりずつ、ゆうずう(融通)

 ③したがって、「現代仮名遣い」では、「纔」は、「わずか」となる。しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「纔か」の語源説に、

(1)ハツカ(端束)の義か。(2)ハツカ(初)の義。カはカタ(方)の義。初めは何事も幽かであるところから。(3)ハツカ(端所)の義。>を挙げており、いずれにせよ、「纔か」は、「ハツカ」が語源としている。

 ④島崎藤村「千曲川旅情の歌」は、「わづか」「はづか」「はつか」の3通りある、

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わづか(はづか・はつか)に青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ



*「わづか」・・岩波文庫「藤村詩抄」(岩波文庫 1927

 「はつか」・・筑摩書房刊「藤村全集 第一巻」(筑摩書房 1966)、「日本近代文学大系15」(角川書店 1971) 

   「はづか」・・「落梅集」(春陽堂 1901

(43-3)澗繋(まがかり・まつなぎ)」・・船を船澗(ふなま)に碇泊させること。ふながかり。まつなぎ。

(43-4)大材」・・『開拓諸書付』は、「木材」としている。

(43-4)「伐出(きりだ)し」・・材木や石材などを切り取って運び出す。切りいだす。

(43-4)「津出(つだ)し」・・港から荷船を送り出すこと。

 *「隠津出(かくしつだし)」・・江戸時代、領外への積出禁制品を領外へ密輸出すること。


 

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『ふなをさ日記』1月学習の注 

 

(78-2)<変体仮名の話>「にぎはし」の「に(丹)」・・「丹」を「に」と読むのは国訓。国訓が変体仮名になっている例。音読みは「タン」。解字は、丹砂(たんさ)を採掘する井戸の象形。赤を表す。「ヽ」は、丹砂を表す。国訓の「に」は、赤い色。語源説については、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)熱い物は赤いところから、ネチ(熱)の反。

(2)アカニ(赤土)から。

(3)朝日がニイと出た時の色は赤いところから。>を挙げている。

 日本では、漢字が渡来する以前から、赤を「に」と言っていた。漢字の「丹(タン)」が赤を意味することから、「丹」を「に」と訓じた。

 *「青丹(あおに)よし」・・「奈良」に掛る枕言葉。当時、奈良の都の建物の青(あお)や丹(あか)の美しさが連想されていた。

(78-2)「見物(みもの)」・・見物すること。かたわらから見ること。

(78-4)「かなたこなた」・・彼方此方。あちらこちら。

(78-10)「をさをさ」・・あとに打消または否定的な意味の表現を伴って用いる。ほとんど。ろくに。また、少しも。

(79-1)「密夫(みっぷ・まおとこ・まおっと・みそかお・みそかおとこ)」・・夫を持つ女が、他の男とひそかに肉体関係を結ぶこと。また、その密通した相手の男。密通。密男(みそかお)

(79-1)「さのみ」・・副詞「さ(然)」に助詞「のみ」が付いてできたもの。否定的表現を伴って、程度が大したことはない気持を表わす。それほど(…ない)。さして(…でない)。格別(…でない)。

(79-1)「うし」・・憂し。嘆かわしい。やりきれない。

(79-1)「思わず」・・古文的には、「思ふ」の未然形は、「思わ」でなく、「思は」で、ここは、「思わず」ではなく、「思はず」が正しい。

(79-3)「あればは」・・「は」が重複で、「は」は不用か。「は」は、衍字(えんじ)。

 *「衍字(えんじ)」・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。⇔脱字。

(79-6)「思わねば」・・ここも、古文的には、「思ふ」の未然形は、「思わ」でなく、「思は」。「ねば」は、打消しの助動詞「ず」の已然形「ね」+接続助詞「ば」。打消しの助動詞「ず」は、未然形に接続する。「思ふ」の未然形は、「思は」だから、古文法では、「思わ」は誤り。

(79-11)「ヲロシヤ国王」・・当時のロシヤ帝国皇帝はアレクサンドル2世。1881313日、サンクトペテルブルク市内で、ナロードニキ派に暗殺された。

(79-1180-1)ヲロシヤ国王をはじめいか成貴人ニても冨家ニても妾と言ものはなし」・・アレクサンドル2世は、皇后マリアとの間に8人の子供がいるが、一方、他の貴族女性とも関係を繰り返し、3人の子供がいる。また、48歳のアレクサンドル2世は、20歳年下の女学生カーシャと恋愛関係になり、4人の子供がいる。

(80-1)「富家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(80-2)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(80-23)「心の外(ほか)」・・自分の望むとおりにならないこと。不本意なこと。期待に反すること。思いのほか。

(80-3)「百性」・・百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)。一般の人民。公民。影印は、「姓」を「性」としている。

(80-4)「惠まられる事」・・この表現は、古文の文法的には、誤りで、「恵まるる事」が正しい。

 (1)受身の助動詞「らる」は、未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続するから、「恵む」四段活用の動詞で、未然形は、「恵ま(meguma)」で、「a」の音だから、「らる」は接続しない。

 (2)未然形が「a」の音になる動詞の未然形に接続する受身の助動詞は、「る」。したがって、「恵む」が接続する受身の助動詞は「る」で、その連体形は、「るる」。

 (3)現代用語にしても、受身の助動詞「られる」は、五段活用の動詞「恵む」には接続しない。

 (4)「恵む」が接続する現代の受身の助動詞は、「れる」。したがって、現代用語とし ても、「恵まられる」という用法はなく、「恵まれる」となる。

(80-4)「はずる」・・歴史的仮名遣いは、「はづる」で、「ず」は、「づ」が正しい。

 古文では、「はづ」の連体形は、「はづる」。現代の用法でも、「はじる」で、「はずる」とはいわない。

(80-5)「いたまぬ」・・傷つかないように。悲しまないように。「いたむ」は、損害を受ける。悲しむ。

(80-5)「心掟(こころおきて)」・・具体的な問題について、心に思いきめていること。意向。配慮。計らい。

(80-6)「政道(せいどう)」・・政治の道。領土・人民を治めること。

(80-7)「療治(りょうじ)」・・病気やけがを治すこと。治療。

(80-8)「入用(にゅうよう・いりよう)」・・必要な経費。諸掛り。入費。費用。出金。

(80-10)「尊む」・・歴史的仮名遣いは、「たふとむ」。発音は、「トートム」。

(80-11)「賜物(たまわりもの)」・・目上の人、または高貴な人などからいただいた品物。拝領物。

 *「賜物(たまいもの)」・・逆に、物品を下賜すること。また、その物品。

 (81-2)「わらんべ」・・「わらわべ(童部)」の変化した語。「わらわべ」は、子どもたち。子ども。

(81-3)<変体仮名の話>「はなれたる」の「た(堂)」・・「堂(どう)」を「た」と読むのは、「堂」の歴史的仮名遣いが、「たう」であることから。

(81-11)「たばかりて」・・だまして。「たばかる」は、「た謀る」。「た」は接頭語。あれこれとじっくり考える。手段・方法などをいろいろと思いめぐらす。工夫して処理する。

(82-2)「ゆるしてたべ」・・許して下さい。「たべ」は、「給(た)ぶ」の命令形。

(82-2)「あした」・・(1) 夜が明けて明るくなった頃。あさ。古くは、夜の終わった時をいう意識が強い。

 (2) 多く、前日、または、前夜何か事のあったその次の朝をさしていう.あくる朝。翌朝。明朝。

 (3) 転じて、次の日。翌日。明日。あす。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古く、アシタとアサとは、同じ「朝」の時間帯を指したが、アサが「朝日・朝霧・朝夕」など複合語の前項として多く用いられ、平安時代以前には単独語の用例がまれだったのに対し、アシタは単独語としての使用が普通で、複合語としては「朝所」くらいであるという違いがあった。

(2)アサには「明るい時間帯の始まり」の意識が強い(「朝まだき」「朝け」)のに対し、アシタには「暗い時間帯の終わり」に重点があった。そのため、前夜の出来事を受けて、その「翌朝」の意味で用いられることが多く、やがて、ある日から見た「翌日」、後には今日から見た「明日」の意に固定されていく。この意味変化と呼応しつつ、アサが専ら「朝」を指す単独語となり、ユフベが「昨夜」を示すようになった。>とある。

 また、語源説に、「アは浅、シタは下。日がまだ浅く、天の下に低くある時の意から」などがある。

(82-4)「とくも」・・疾(と)くも。「とく」は、「疾(と)し」の連用形。

(82-7)「あかはだか」・・何も身につけていない状態。全くの裸。まる裸。まっぱだか。すっぱだか。また、比喩的に、幼時をいう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <上代では「あかはだ(赤肌)の「書紀」の例からわかるようにアカハダともいった。アカは肌が剥き出しの状態をいうところからアカハダは裸をいう。一方、平安時代以降ハダカという語も生じ、アカハダカもハダカも形容動詞のようにも用いられたが、語としてはアカハダカの方が優勢であった。しかし、「日葡辞書」では両語のほかマルハダカ、マッパダカもみられ、この頃からアカハダカに代わって用いられるようになっていく。近世にはこれらハダカ、マルハダカに加え、後期になってスッパダカも加わった。>とある。

(82-7)「つかねたる」・・「束(つか)ぬ」は、集めて一つにくくる。集めていっしょにしばる。たばねる。

 *「束髪(つかねがみ)」・・つかねただけの簡単な髪の結い方。また、明治中期から流行した束髪(そくはつ)。

 *「束緒(つかねお)」・・たばねるために用いるひも。結びひも。

(82-9)「あれは何事ニか□□□」・・□部分が判然としない。 宗堅寺本の当該部分は、「あれは何事にか侍ると」とある。

(82-11)「打(うち)なれ」・・組成は、4段動詞「打つの連用形「打(う)ち」+補助動詞「なる」の命令形「なれ」。

『ふなをさ日記』12月学習の注                      

(73-3)「村上貞助(むらかみていすけ)」・・備中の人。安永9(1780)生まれ。

・文化5(1808)85日、師とする村上島之丞(秦檍丸)が病死して、その養子となった。地理に詳しく、画技を善くした才人であった。

・文化6年(1809)、松前奉行の同心に召抱えられた。貞助の力量が発揮され、それが業績として衆目を集めるようになったのが、ゴローニン事件の通訳を勤めるようになってからである。

・文化8(1811)10月中旬、貞助は松前でゴローニンとともに幽囚された古参士官のムール少尉に接近してロシア語を会得し、通弁や翻訳にまで仕事の幅を広げた。秦貞廉の筆名で、友人の間宮林蔵が口述した「東韃地方紀行」を編纂している。

・文化10(1813)、松前奉行の江戸会所詰となっていた貞助は、松前奉行支配調役下役に登用され、新任の服部貞勝の手付となった。

・同年926日にゴローニンら8人が釈放されるまで、通詞として主要な役割を果たした。

 ・ロシアとの外交交渉は一段落してのちの貞助は、在住勤方の上原熊次郎と交互勤務している。本文の重吉らがエトロフに上陸した際、事情聴取のが貞助。その時の記録を「漂流人長右衛門外一人口書」「漂流人共相咄候儀別段書留置奉差上候書附」として残している。

 ・文政5(1822)に幕府の蝦夷地直轄が廃されると、江戸に戻り、勘定奉行支配の普請役となった。

 ・文政6(1823)3月、上司の勘定奉行遠山左衛門尉(景晋)の薦めでアイヌの民俗を集めた『蝦夷生計図説』の著述を完成した。

(73-3)「ゆえゆえしく」・・故々しく。「故々し」は、子細がありそうである。由緒ありそうである。風格があって重々しい。

(73-6)「ソロタ」・・「『ヲロシヤノ言』判読」(以下単に「判読」)P9下段12行に「金のコト ソロタ」とある。

(73-6)「ハラアライ」・・「判読」P3下段5行に「着物 ハラアテ」とある。

(73-6)「サブカ」・・「判読」P4下段8行に「かぶり笠 シヤブカ」とある。

(73-6)「シフカ」・・「判読」P1中段2行に「悪敷 ブトイ」とあり、また、P2上段6行に「大きニ悪敷 シフカフトイ」とある。から、「大ニ」は、「シフカ」か。

(73-67)「セルセース」・・「判読」P1上段9行に「はらたち セリゼヱス」とある。

(73-7)「まねびし」・・口まねして。「まねぶ」は、他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に

 <(1)マナブと同源であるが、その前後は不明。マナブが平安初期には上二段、中期以後四段に活用したので、マネブも古くは上二段に活用したか。

(2)マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(73-8)「そこ爰(ここ)」・・其処此処。あちらこちら。あちこち。なお、「甲首乙首」を「そこここ」と当てる事もある。この語形の基になる。

 *「河流(ながれ)に沿ふて甲首乙首(ソコココと逍遙なして河下に」(『狐の裁判〈井上勤訳〉二』)

(73-10)「皇国(こうこく・すめらみくに)」・・天皇が統治する国。昭和20年頃まで、日本の異称として用いられた。すめらみくに。なお、「皇」を「すめら」と訓ずるが、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、「ら」は接尾語で、「すめ」は、地方神的な神をさす用例が多いが、「すめら」の形では、大部分が天皇、特に現在の天皇をさしていう表現に用いられている。

 *<漢字の話>「皇」・・ジャパンナレッジ版『字通』によると、「皇」の解字について、

 <王の上部に玉飾を加えている形。王は鉞頭(えっとう。まさかり)の象。刃部を下にして玉座におき、王位の象徴とする。その柄を装着する銎首(きょうしゅ。)の部分に玉を象嵌して加え、その光が上に放射する形であるから、煌輝の意となる。>とある。

(73-10)「大晦日(おおみそか・おおつもごり)」・・一年の最終の日。毎月ある晦日(「みそか」とは三十日の意)に大の字をつけたの。大つごもりともいう。

 なお、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「つもごり」の語誌に、

 <(1)語源として単純なキの音節の脱落による(ツキゴモリ→ツゴモリ)という説は、他に類例がなく極めて疑問。意味上対をなすツイタチと音節数の平衡性を保つためにキが脱落したという見方もあるが、上代の複合語形成の原則からは、ツキタチ・ツキゴモリよりもツクタチ・ツクゴモリの方が自然であり、従ってツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリという変化過程も考えられる。

 (2)ツキコモリは興福寺本「日本霊異記」訓釈に見られ、天治本・享和本「新撰字鏡」にはツキコモリ・ツクコモリの両訓が見られるが、特にツクコモリの意味の限定は難しい。上代において、「ツク─」は「太陰」を表わし、「ツキ─」は暦日の「つき」を表わすという意義分化があった可能性もあり、意義の分裂に沿って語形の分裂が起こった可能性も否定できない。

 (3)なお、ツゴモリは中世においてツモゴリという形を派生させ、文献上にも姿をとどめるが、「かたこと‐三」に「つもごりといふはわろし」とあるように、正統な語形としてはとらえられていない。>とある。

(74-1)「けふ(今日。きょう。音韻はキョー)」・・「けふ」は、歴史的仮名遣い。

 *歴史的仮名遣いとは「発音は時代とともに変化して来たが書き方は最初のまま変化させずに来た」という原理のもの。今それを読むときには当然今の発音によって読む。

 *昭和6171日告示の「現代仮名遣い」の前書きには、

  <歴史的仮名遣いは,明治以降,「現代かなづかい」(昭和21年内閣告示第33号)の行われる以前には,社会一般の基準として行われていたものであり,今日においても,歴史的仮名遣いで書かれた文献などを読む機会は多い。歴史的仮名遣いが,我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして,尊重されるべきことは言うまでもない。また,この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり,この仮名遣いの理解を深める上で,歴史的仮名遣いを知ることは有用である。付表において,この仮名遣いと歴史的仮名遣いとの対照を示すのはそのためである。>

  とあり、「付表」に「現代仮名遣い 歴史的仮名遣い対照表」を挙げている。

 *現代仮名遣いの「きょう」を歴史的仮名遣いで「けふ」とした例として、「今日」のほかに、

  ・脅威(ケフヰ)・協会(ケフクヮイ)・海峡(カイケフ)を挙げている。

 *「喋喋(ちょうちょう)しい」・・(口数が多い。口まめである。口軽である。転じて、調子がいい。いいかげんに調子をあわせる。)歴史的仮名遣いでは、「てふてふし」と書いた。

  *「さう喋々(テフテフ)しくは饒舌り得なかった」(夏目漱石『彼岸過迄』)

  *「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛の1行詩は有名。タイトルは「春」 1929

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12月学習『蝦夷日記注』                       

  

(39-1)「四里程ニ付」・・『蝦夷地御開拓諸御書付書類』など異本には、「程」と「ニ」の間に「南」があり、「四里程南ニ付」としている。

(39-1)<漢字の話>「陳屋(じんや)」の「陳」・・①ジャパンナレッジ版『字通』には、<正字は陳・・陣は俗字。・・東は嚢(ふくろ)の形、車は車の形で、示すところが異なる。陣は聖所に軍車のある形で、本陣の意を示すものであろう。」としている。

 ②現在は、「陳」「陣」は、別々にそれぞれ常用漢字になっている。

③「陳」を「ジン」と読むのは呉音。「チン」は漢音。手元の漢和辞典には、「陳」を「ジン」と読む熟語はわずか姓に「陳野(じんの)」があるのみ。

(39-4)「東西(とうざい)」・・「東や西」の意から、あちらやこちら。あらゆる方向。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「東西」の語誌に、

(1)節用集類で「東西」に「アナタコナタ」と当てられている。

  (2)「左右(そう)」と似ているが、「左右」よりも動作性が強いといわれる。

  (3)『南総里見八犬伝』に「船にて飽まで東西(モノ)賜りぬ」と読ませた例が見られる。>とある。

(39-5)「余地(あまりち)」・・手余地(てあまりち)。江戸時代、手不足のため空閑地となっている田畑。農民の離村または放棄で耕作されない田畑。

(39-6)「文化度、ウルツフ島の御振合」・・文化11(1814)12日、幕府が下した国境問題についてのロシアへの対応をいう。幕府は、松前奉行に対し、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付したことをいう。なお、この諭書は、結局ロシア側には、渡らなかった。

その前後の経過を箇条書きする。

 ・文化8(1811)526日・・船将ゴローニン率いるディアナ号、クナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年64日・・薪水・食料の補給のためゴローニンら8名トマリに上陸し、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見、会見中逃亡を図ったため補縛される。副将リコルドは救出をあきらめ、67日カムチャッカに向けて去る。

 ・同年72日・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。箱館役所で吟味を受けたのち、822日箱館を出発、825日福山到着。

 ・この年冬、村上貞助、松前奉行の命により、ゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)126日・・幕府、ゴローニンらの処置を決定。返還せずに留置き、かつ、この上ロシア船の渡来あれば漂流船たりとも用捨なく打払うべき旨松前奉行・南部津軽両家へ通達。

 ・同年84日・・リコルド、ゴローニンらの返還を交渉するため、文化4(1807)フヴォストフに捕えられた五郎次と漂民をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、ここに滞船して五郎次らを使い交渉したが、クナシリ在勤役人らによりリゴローニンはすでに誅されたとし拒否される。リコルドはこれに納得せず、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖にてエトロフ島より帰帆の高田屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、同月17日クナシリ島よりカムチャッカにむけて去る。

 ・文化10(1813)526日・・リコルド、ディアナ号に高田屋嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。高田屋嘉兵衛らを介してクナシリ詰調役並増田金五郎らと交渉、先年のフヴォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨を陳べ、ゴローニンの放還をもとめる。

 ・同年619日・・松前詰吟味役高橋三平ら、リコルド到来の報に接した松前奉行の命により捕虜のロシア人らをともないクナシリ島に到着。諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件として、ロシア国長官の陳謝書を提出し、先年掠奪の武器・器物等を返還することを要求、リコルドはこれを承認し、上官と相談のうえ請書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、624日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年817日・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山から箱館に移す。

 ・同年916日・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。19日上陸を許可されて沖の口番所において高橋三平らと会見。リコルド、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、沖の口番所にてゴローニンをロコルドに引き渡す。

 ・ディアナ号、箱館より帰帆。

【日露の国境問題】

・なお、リコルドには、捕虜受取りだけでなく、両国の国境を画定する任務を負わされていた。リコルドは、ゴローニンに相談したが、ゴローニンの意思では、奉行はただ捕虜に関して交渉する権限が与えられているにすぎないから、今国境問題、修好条約問題を提議すれば、奉行は江戸に報じ、指令を仰がねばならないので、非常に日数を要し、また、修好条約などはとうてい望みがないといった。リコルドも同意し賛同した。

・ただ、出帆にあたって、ゴローニンとリコルドの連名で公文書を高橋三平、柑本兵五郎宛に送り、国境画定・接境応接の返答をうるため明年56月ころ、武器を乗せない小船をエトロフ島に派遣するから、返答を渡されたいとの希望を述べた。

 ・文化11(1814)12日・・奉行の伺いに対して、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付した。

 ・同年3月・・高橋三平は諭書を携えて箱館を発し、エトロフ島に出発、68日ウルップ島に進んだが、ロシア船はついに姿を見せなかった。

 ・文政元年(1818)夏・・ウルップ島に派遣された飯田五郎作、箱に収め柱に打ちつけたロシア人の文書を発見持ち帰る。大意は「文化11(1814)エトロフ島北部の近海に来たが、答書を携えた日本人を見ず、ゆえにやむなくオホーツクに帰る」とあった。

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