森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

1月学習『秘書』注(2)

(45-3)「帰(き)し」・・「帰(き)す」の連用形。「帰(き)す」は、罪などをある物や人のせいにする。負わす。かこつける。なすりつける。

(45-3)「候共(ろうろうとも)」・・発音は「ソーロートモ」。意味は、「~でありましても」。

 *「候」について:笹目蔵之助著『古文書解読入門』(新人物往来社刊 1979)参照

 ◎「候(現代仮名遣いは「そうろう」。発音は、「ソーロー」。「~ます」「~です」「~であります」に当る。

  ・「候ハヽ」(そうらはば。ソーラワバ。~でありますならばの意)

  ・「候共」(そうろうとも。ソーロートモ。~でありましてもの意)

  ・「候ヘハ」(そうらえば。ソーラエバ。~でありますからの意)

  ・「候ヘ共」(そうらえども。ソーラエドモ。~でありますがの意)

(45-3)<欠字の体裁>「帰し候共 御国」・・「共」と「御国」の間のスペース(空白)は、尊敬の体裁の欠字。

(45-3)「所置(しょち)」・・処置。

(45-4)「混同河」及び(45-7)「混同江」・・混同江。松花江(しょうかこう)の古名。松花江は、中国東北部地区の大河。朝鮮国境の長白山頂天池に発源する二道白河が、二道江・第二松花江と名をかえ、松花湖を経て松花江となる。支流の輝発河・伊通河を加え、西北より来る嫩江を併せて東北に向かい、呼蘭河・牡丹江などをいれ、同江に至って黒竜江に合する。全長約一九三七キロ。古くは粟末水・混同江・黒水・松阿(宋瓦)里などとも称した。沿岸には吉林・哈爾浜(ハルビン)・依蘭など多くの都市を有し、十一月より四月までの結氷期を除いては小汽船を通じ、経済・交通・運輸の大動脈をなす。

 *「川・河・江」・・

  ①小さいのを「川」、大きいのを「河」と使い分ける習慣がある。今は混同して用いる。また、現在日本では、河川の名称は、「川」と書くようになってきている。

  ②中国の河川については、中国の呼称をそのまま用いるのが普通である。なお、長江を「江」、黄河を単に「河」と呼んでいた。中国の河川名は、長江より北はほとんどが「河」、長江より南は「江」と呼ばれている。

 *<漢字の話>「河」の解字・・音符の「可」は、かぎの形に曲がるの意味。曲がってながれる黄河の意味から、一般に河の意味を表す。

  **「河清(かせい)を俟(ま)つ」・・常に濁っている黄河の水の澄むのを百年もかかって待つの意。いつまで待っていても実現のあてのないことをいう。

    河之清、  <河の清(す)むを俟(ま)つも>

人壽幾何。   <人寿(じんじゅ)壽何(いくばく)ぞ> 『春秋左氏伝』

(45-4)「営柵(えいさく)」・・とりで。

(45-5)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。影印の「蚕」は、旧字体の「蠶」。

(45-5)「思念(しねん)」・・心に思うこと。考えること。また、常に心にかけていること。

(45-6)「アンモル川」・・アムール川。アムールはAmur 「黒い川」の意。ロシアと中国の国境付近を流れる大河。モンゴル北部のオノン川とシルカ川を源流とし、東流してタタール海峡に注ぐ。全長4350キロメートル。黒龍江。黒河。

(45-8)「屯(たむろ)いたし」・・「屯(たむろ)」は、兵士、また、一定の職にある者たち、ある仲間などが群れ集まること。「たむろ」の語源説に、「タムレ(手群)の転。一手の兵が群れ居る意」がある。

(45-8)「打沈(うちしずみ)」・・影印の「沉」は、「沈」の俗字。

(45-9)「伊豆守」・・松前藩12代藩主松前崇広(たかひろ)。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849)7月28日。

(45-10)「今井八九郎」・・今井八九郎は寛政2年(1790)、松前藩下級藩士の子として松前に生れた。通称を八九郎、正式には信名(のぶかた)という。蝦夷地は19世紀初頭の文化年間に江戸幕府の直轄地となり、それまで統治を任されていた松前藩は東北に移封された。このとき今井家は藩から財政難により放禄されたものの、松前奉行の同心として幕府に仕えることとなった。同じ奉行所には間宮林蔵が出仕しており、今井八九郎は林蔵から伊能流の測量技術を学んだ。
文政4年(1821)、再び蝦夷地を領地とされた松前藩は、八九郎を召命して蝦夷地全域の測量を行なわせた。奥尻・利尻・礼文・北蝦夷地(樺太)・国後・色丹・択捉・歯舞などの島嶼部をも含む測量活動はあしかけ10年に及んだ困難な作業であった。天保12年(1841)からは製図作業にかかり、蝦夷島やその周辺島嶼部の地図が完成した。八九郎の清書図は松前藩に提出されたが、明治維新の箱館戦争で失われた。
 東京国立博物館所蔵の「今井八九郎北方測量関係資料」の絵図・地図類は、清書図の控えとして今井家が所蔵していた資料を、大正3年(1914)に東京国立博物館が今井家から購入したものである。これらの絵図・地図には伊能忠敬や間宮林蔵が測量していなかった島嶼部について精度の高いものがあり、豊富なアイヌ語地名の記載もみられる。松前藩への献呈本が失われた現在では、江戸後期の蝦夷地をうかがい知ることのできる貴重な歴史資料・民俗資料といえよう。南下したロシアの動静を伝える「北蝦夷地ホロコタンより奥地見聞風説書」をはじめとする文書・記録類とともに重要文化財の指定を受けた。

(45-11割注左)「通辞(つうじ)」・・通訳。

 *「通詞」「通事」・・江戸時代の長崎では、中国語の通訳官を唐通事、オランダ語の通訳官を蘭通詞と区別する習慣があった。ともに当初は小人数であったが、しだいに人数も増大し、組織も複雑化していった。貿易・外交にまつわる通訳にとどまらず、来航する唐人・蘭人から聴取した海外諸事情を「風説書」として当局に報告する役割もあり、蘭通詞の中には、西洋の知識技術を身に付ける者も現われた。

(45-11割注左)「清水平三郎」彼は、栖原家の支配人と蝦夷通詞も兼ねており、また、松前藩の士席先手組にも取たてられていた。ロシアのクシュンコタン占拠の際、清水は、松前藩の通訳をつとめ、また、単独でもしばしばムラビヨフ哨所を訪れ、ロシア将校と対談している。彼は、のち、安政2(1856)2月、箱館奉行支配同心に抱え入れられ、同年5月には調役下役に任じられて、北蝦夷地詰となり、山丹交易の任に当った。彼は明治維新では、榎本軍に従事し、箱館戦争では、榎本軍の「陸軍奉行添役介・裁判役並」だった。

(45-11割注左)「異同(いどう)」・・異なっていること。違っている点。相違。

(45-11割注左)「粗(あらあら・ほぼ)」・・おおよそ。

(46-2)「一价(いっかい)」・・一介。多く「の」を伴って連体修飾語として用いられる。わずかなこと。少しばかりのこと。また、一人(ひとり)。価値のない、つまらないひとり

(46-2)<漢字の話>「書翰(しょかん)」の「翰」・・部首は「羽」。解字は、「羽」+「倝」。「倝」は、旗ざおの意味。旗ざおのように長い羽のやまどりの意味を表し、羽で作ったふで、転じてふみ(文)の意味をも表す。現代表記では、「簡」に書きかえることがある。

(46-2)「而己(のみ)」・・漢文の助辞。文末に置かれて限定・強意の語気を表す。~だけである。~にすぎない。

(46-3)「姦謀(かんぼう)」・・邪悪なはかりごと。

(46-5)「清主(しんしゅ)」・・この時期の清朝皇帝は、9代咸豊帝(かんぽうてい) 愛新覚羅奕詝。

(46-5)駛(はせ)」・・「駛る」は、はせるの意。音読みは「シ」。ジャパンナレッジ版『字通』には、<駛は六朝以後にみえる字で、梁の簡文帝の詩に「馬を駛(は)す」「春、駛せんと欲す」などの語がある。馬以外にも疾走する意に用いる。>とある。熟語は、「駛雨(しう)」(にわか雨)など。

(46-5)「聢(しか)と」・・はっきりと。ちゃんと。たしかに。

 *<漢字の話>「聢」・・国字。解字は、耳+定で、耳に定着するように「しかと」の意味を表す。

(46-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実。

(46-6)「見据(みすえ)」・・見てはっきりと判断する。見定める。見込む。

(46-7)「何(いず)れの道」・・いずれにしても。どの道。どうせ。

(46-7)<見せ消ち>「地内所」・・「内」の左に「ヒ」のような記号があるが、見せ消ち記号。「内」は、削除したという意味で、「内」は読まない。従ってここは、「地所」となる。

(46-8)「御手を下(くだ)され」・・「手を下す」は、事に対して自分ではっきりした判断をつける。また、それによって事を行なう。

(46-8)「枢要(すうよう)」・・「枢」は戸のくるる、「要」は扇のかなめの意。

物事のもっとも大切なところ。もっとも大切であること。また、そのさま。中枢。要点。かなめ。

*「枢(くるる・とぼそ=戸臍=・とまら=戸魔羅=)」・・戸の梁(はり)と敷居とにあけた小さな穴。これに、枢(とまら)をさし入れて戸を開閉させる軸とする。

(46-9割注左)「マーイヲ」・・「マーヌイ」の誤りか。

(46-9割注左)「陰鬱」・・陰気でうっとうしいさま。

 <漢字の話>「鬱」・・2010年改定の常用漢字に追加された。常用漢字で最大の画数・29画。

           「林缶」  リンカーン

           「冖」   ワ(は)

           「※」    アメリカン

           「凵ヒ」   コーヒーを

           「彡」    三杯飲んだ。

(46-9割注左)「切透し」・・切って間が透くようにする。

(46-9割注左)「品ニ寄(より)」事情によって。場合によって。

(46-10割注右)「岨沢泥濘(そたくでいねい)」・・けわしい沢で、泥が深いこと。

(46-11割注右)「捷径(しょうけい)」・・「捷」はすみやか、「径」は小道の意。早道。近道。

(47-1)「別紙建言(けんごん・けんげん)」・・『新撰北海道第五巻史料一』所収の『開拓諸書付』には、

 「別紙建言」の傍注に、(附属書類三)とある。その(附属書類三)を資料として添付する。

(47-1~2)「取捨(しゅしゃ)」・・取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。

(47-4)「月日」・・テキストは、単に「月日」とあるが、『開拓諸書付』には、「寅月日」とあり、「寅」が記されている。「寅」は、安政元年(1854)。なお、『開拓諸書付』のこの文書の冒頭に、朱書で「箱館表より差上候ニ付最初進達之月日不相分」とある。

なお、『開拓諸書付』のこの文書の冒頭に、朱書で「箱館表より差上候ニ付最初進達之月日不相分」とある。また、『大日本古文書』では、「北蝦夷地国境之件」(堀と村垣の老中への上申書)として、朱書で「寅十月廿八日、封之儘伊勢守江河内守進達」とある。


1月学習『秘書注』(1)                              

(43-1)「纔(わずか・わづか)」・・色のまじったきぬ。転じて、どうにかこうにか足りるくらい。かろうじて。やっと。特に、量がわずか。どうにか。

 <漢字の話>

 ①「纔」・・「糸」部の17画(総画23画)。解字は、「音符の毚(サン)は、まじるの意味。赤みと黒みのまじった絹の意味を表す。借りて、わずかに・かろうしての意味にも用いる」(『漢語林』)とするが、わかりにくい。

②ジャパンナレッジ版『字通』には、『設文解字』を引用し、<「纔は淺きなり。讀みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>とするが、これまたよくわからない。

 ③同訓異字・・ジャパンナレッジ版『字通』には、「わずか」と読む同訓異字として、「纔」の他に、

  【僅】(キン)ほんのすこし。すこしばかり。特に、数が少なくわずか。「僅差」「僅僅」「僅少」。

【才】(サイ)「纔」に同じ。

【些】(サ)ふぞろいに並べる。転じて、いささか。いくらか。すこし。「些細」「些事」「些少」「些末」

【涓】(ケン)しずく。小さい流れ。転じて、量がきわめてわずか。ほんの少し。「涓涓」「涓埃」《古みづたまり・あひだ・あはひ。

【財】(ザイ)価値あるもの。たから。転じて、「纔」に同じ。「財足」。

【毫】(ゴウ)細い毛。転じて、ごくわずか。ほんのすこし。ちょっぴり。「毫末」「毫毛」「一毫」「白毫(びゃくごう)」。

【錙】(シ)古代中国で重さの単位。転じて、目方がわずか。価値があまりない。また、物事がこまかくかすか。微細だ。「錙銖(シシュ)」。

  を挙げている。ほかにも、

【寸】(スン)指一本の幅。転じてわすか。すこし。「寸影」「寸暇」「寸分」

【秒】(ビョウ)穂先の部分をいう。きわめて細いものであるから、かすか、わずかの意に用いる。

【毛】(モウ)体毛をいう。また地表に生ずる草をもいう。わずか、すこし、かるい、こまかい。

【片】(ヘン)片方の意よりして、ものの一偏をいい、僅少・一部分の意となる。「片刻」「片土」

【尺】(シャク・セキ)手の指の拇指(おやゆび)と中指とを展(ひら)いた形。「尺寸(せきすん)」

【劣】(レツ)力は耒(すき)の象形であるから、耕作力において劣る意である。農事に限らず、すべて才分の少ないこと。おとる・わずか・すくない。

【裁】(さい)裁・才・財・纔は、みな「わずかによくする」意があり、また、ようやくなる・はじめての意がある。

【暫】(ざん)しばらく。わずか。にわか。「暫時」「暫定」。

【勺】(しゃく)量目の単位、一合の十分の一、地積では一坪の百分の一。わずか。「勺飲」

 <仮名遣いの話>

 「纔」→「わずか」か「わづか」か。

 ①ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「僅か」の項には、「わずか(わづか)」と、(わづか)を括弧書きしている。「わづか」は歴史的仮名遣い。

 ②昭和61年内閣告示「現代仮名遣い」の本文第二の5項の「なお書き」には、

<「なお次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。>として、「ず」「じ」を本則として、「づ」「ぢ」も許容する語として、次の23語があるが、「わづか」はない。

例 せかいじゅう(世界中)、いなずま(稲妻)、かたず(固唾)、きずな(絆)、さかずき(杯)、ときわず、ほおずき、みみずく、うなずく、おとずれる(訪)、かしずく、つまずく、ぬかずく、ひざまずく、あせみずく、くんずほぐれつ、さしずめ、でずっぱり、なかんずく、うでずく、くろずくめ、ひとりずつ、ゆうずう(融通)

 ③したがって、「現代仮名遣い」では、「纔」は、「わずか」となる。しかし、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「纔か」の語源説に、

(1)ハツカ(端束)の義か。(2)ハツカ(初)の義。カはカタ(方)の義。初めは何事も幽かであるところから。(3)ハツカ(端所)の義。>を挙げており、いずれにせよ、「纔か」は、「ハツカ」が語源としている。

 ④島崎藤村「千曲川旅情の歌」は、「わづか」「はづか」「はつか」の3通りある、

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なす蘩蔞(はこべ)は萌えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わづか(はづか・はつか)に青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ



*「わづか」・・岩波文庫「藤村詩抄」(岩波文庫 1927

 「はつか」・・筑摩書房刊「藤村全集 第一巻」(筑摩書房 1966)、「日本近代文学大系15」(角川書店 1971) 

   「はづか」・・「落梅集」(春陽堂 1901

(43-3)澗繋(まがかり・まつなぎ)」・・船を船澗(ふなま)に碇泊させること。ふながかり。まつなぎ。

(43-4)大材」・・『開拓諸書付』は、「木材」としている。

(43-4)「伐出(きりだ)し」・・材木や石材などを切り取って運び出す。切りいだす。

(43-4)「津出(つだ)し」・・港から荷船を送り出すこと。

 *「隠津出(かくしつだし)」・・江戸時代、領外への積出禁制品を領外へ密輸出すること。


 

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『ふなをさ日記』1月学習の注 

 

(78-2)<変体仮名の話>「にぎはし」の「に(丹)」・・「丹」を「に」と読むのは国訓。国訓が変体仮名になっている例。音読みは「タン」。解字は、丹砂(たんさ)を採掘する井戸の象形。赤を表す。「ヽ」は、丹砂を表す。国訓の「に」は、赤い色。語源説については、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)熱い物は赤いところから、ネチ(熱)の反。

(2)アカニ(赤土)から。

(3)朝日がニイと出た時の色は赤いところから。>を挙げている。

 日本では、漢字が渡来する以前から、赤を「に」と言っていた。漢字の「丹(タン)」が赤を意味することから、「丹」を「に」と訓じた。

 *「青丹(あおに)よし」・・「奈良」に掛る枕言葉。当時、奈良の都の建物の青(あお)や丹(あか)の美しさが連想されていた。

(78-2)「見物(みもの)」・・見物すること。かたわらから見ること。

(78-4)「かなたこなた」・・彼方此方。あちらこちら。

(78-10)「をさをさ」・・あとに打消または否定的な意味の表現を伴って用いる。ほとんど。ろくに。また、少しも。

(79-1)「密夫(みっぷ・まおとこ・まおっと・みそかお・みそかおとこ)」・・夫を持つ女が、他の男とひそかに肉体関係を結ぶこと。また、その密通した相手の男。密通。密男(みそかお)

(79-1)「さのみ」・・副詞「さ(然)」に助詞「のみ」が付いてできたもの。否定的表現を伴って、程度が大したことはない気持を表わす。それほど(…ない)。さして(…でない)。格別(…でない)。

(79-1)「うし」・・憂し。嘆かわしい。やりきれない。

(79-1)「思わず」・・古文的には、「思ふ」の未然形は、「思わ」でなく、「思は」で、ここは、「思わず」ではなく、「思はず」が正しい。

(79-3)「あればは」・・「は」が重複で、「は」は不用か。「は」は、衍字(えんじ)。

 *「衍字(えんじ)」・・「衍」は「あまる」の意。誤って語句の中に入った不要な文字。⇔脱字。

(79-6)「思わねば」・・ここも、古文的には、「思ふ」の未然形は、「思わ」でなく、「思は」。「ねば」は、打消しの助動詞「ず」の已然形「ね」+接続助詞「ば」。打消しの助動詞「ず」は、未然形に接続する。「思ふ」の未然形は、「思は」だから、古文法では、「思わ」は誤り。

(79-11)「ヲロシヤ国王」・・当時のロシヤ帝国皇帝はアレクサンドル2世。1881313日、サンクトペテルブルク市内で、ナロードニキ派に暗殺された。

(79-1180-1)ヲロシヤ国王をはじめいか成貴人ニても冨家ニても妾と言ものはなし」・・アレクサンドル2世は、皇后マリアとの間に8人の子供がいるが、一方、他の貴族女性とも関係を繰り返し、3人の子供がいる。また、48歳のアレクサンドル2世は、20歳年下の女学生カーシャと恋愛関係になり、4人の子供がいる。

(80-1)「富家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(80-2)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(80-23)「心の外(ほか)」・・自分の望むとおりにならないこと。不本意なこと。期待に反すること。思いのほか。

(80-3)「百性」・・百姓(ひゃくしょう・ひゃくせい)。一般の人民。公民。影印は、「姓」を「性」としている。

(80-4)「惠まられる事」・・この表現は、古文の文法的には、誤りで、「恵まるる事」が正しい。

 (1)受身の助動詞「らる」は、未然形が「a」以外の音になる動詞の未然形に接続するから、「恵む」四段活用の動詞で、未然形は、「恵ま(meguma)」で、「a」の音だから、「らる」は接続しない。

 (2)未然形が「a」の音になる動詞の未然形に接続する受身の助動詞は、「る」。したがって、「恵む」が接続する受身の助動詞は「る」で、その連体形は、「るる」。

 (3)現代用語にしても、受身の助動詞「られる」は、五段活用の動詞「恵む」には接続しない。

 (4)「恵む」が接続する現代の受身の助動詞は、「れる」。したがって、現代用語とし ても、「恵まられる」という用法はなく、「恵まれる」となる。

(80-4)「はずる」・・歴史的仮名遣いは、「はづる」で、「ず」は、「づ」が正しい。

 古文では、「はづ」の連体形は、「はづる」。現代の用法でも、「はじる」で、「はずる」とはいわない。

(80-5)「いたまぬ」・・傷つかないように。悲しまないように。「いたむ」は、損害を受ける。悲しむ。

(80-5)「心掟(こころおきて)」・・具体的な問題について、心に思いきめていること。意向。配慮。計らい。

(80-6)「政道(せいどう)」・・政治の道。領土・人民を治めること。

(80-7)「療治(りょうじ)」・・病気やけがを治すこと。治療。

(80-8)「入用(にゅうよう・いりよう)」・・必要な経費。諸掛り。入費。費用。出金。

(80-10)「尊む」・・歴史的仮名遣いは、「たふとむ」。発音は、「トートム」。

(80-11)「賜物(たまわりもの)」・・目上の人、または高貴な人などからいただいた品物。拝領物。

 *「賜物(たまいもの)」・・逆に、物品を下賜すること。また、その物品。

 (81-2)「わらんべ」・・「わらわべ(童部)」の変化した語。「わらわべ」は、子どもたち。子ども。

(81-3)<変体仮名の話>「はなれたる」の「た(堂)」・・「堂(どう)」を「た」と読むのは、「堂」の歴史的仮名遣いが、「たう」であることから。

(81-11)「たばかりて」・・だまして。「たばかる」は、「た謀る」。「た」は接頭語。あれこれとじっくり考える。手段・方法などをいろいろと思いめぐらす。工夫して処理する。

(82-2)「ゆるしてたべ」・・許して下さい。「たべ」は、「給(た)ぶ」の命令形。

(82-2)「あした」・・(1) 夜が明けて明るくなった頃。あさ。古くは、夜の終わった時をいう意識が強い。

 (2) 多く、前日、または、前夜何か事のあったその次の朝をさしていう.あくる朝。翌朝。明朝。

 (3) 転じて、次の日。翌日。明日。あす。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <(1)古く、アシタとアサとは、同じ「朝」の時間帯を指したが、アサが「朝日・朝霧・朝夕」など複合語の前項として多く用いられ、平安時代以前には単独語の用例がまれだったのに対し、アシタは単独語としての使用が普通で、複合語としては「朝所」くらいであるという違いがあった。

(2)アサには「明るい時間帯の始まり」の意識が強い(「朝まだき」「朝け」)のに対し、アシタには「暗い時間帯の終わり」に重点があった。そのため、前夜の出来事を受けて、その「翌朝」の意味で用いられることが多く、やがて、ある日から見た「翌日」、後には今日から見た「明日」の意に固定されていく。この意味変化と呼応しつつ、アサが専ら「朝」を指す単独語となり、ユフベが「昨夜」を示すようになった。>とある。

 また、語源説に、「アは浅、シタは下。日がまだ浅く、天の下に低くある時の意から」などがある。

(82-4)「とくも」・・疾(と)くも。「とく」は、「疾(と)し」の連用形。

(82-7)「あかはだか」・・何も身につけていない状態。全くの裸。まる裸。まっぱだか。すっぱだか。また、比喩的に、幼時をいう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

 <上代では「あかはだ(赤肌)の「書紀」の例からわかるようにアカハダともいった。アカは肌が剥き出しの状態をいうところからアカハダは裸をいう。一方、平安時代以降ハダカという語も生じ、アカハダカもハダカも形容動詞のようにも用いられたが、語としてはアカハダカの方が優勢であった。しかし、「日葡辞書」では両語のほかマルハダカ、マッパダカもみられ、この頃からアカハダカに代わって用いられるようになっていく。近世にはこれらハダカ、マルハダカに加え、後期になってスッパダカも加わった。>とある。

(82-7)「つかねたる」・・「束(つか)ぬ」は、集めて一つにくくる。集めていっしょにしばる。たばねる。

 *「束髪(つかねがみ)」・・つかねただけの簡単な髪の結い方。また、明治中期から流行した束髪(そくはつ)。

 *「束緒(つかねお)」・・たばねるために用いるひも。結びひも。

(82-9)「あれは何事ニか□□□」・・□部分が判然としない。 宗堅寺本の当該部分は、「あれは何事にか侍ると」とある。

(82-11)「打(うち)なれ」・・組成は、4段動詞「打つの連用形「打(う)ち」+補助動詞「なる」の命令形「なれ」。

『ふなをさ日記』12月学習の注                      

(73-3)「村上貞助(むらかみていすけ)」・・備中の人。安永9(1780)生まれ。

・文化5(1808)85日、師とする村上島之丞(秦檍丸)が病死して、その養子となった。地理に詳しく、画技を善くした才人であった。

・文化6年(1809)、松前奉行の同心に召抱えられた。貞助の力量が発揮され、それが業績として衆目を集めるようになったのが、ゴローニン事件の通訳を勤めるようになってからである。

・文化8(1811)10月中旬、貞助は松前でゴローニンとともに幽囚された古参士官のムール少尉に接近してロシア語を会得し、通弁や翻訳にまで仕事の幅を広げた。秦貞廉の筆名で、友人の間宮林蔵が口述した「東韃地方紀行」を編纂している。

・文化10(1813)、松前奉行の江戸会所詰となっていた貞助は、松前奉行支配調役下役に登用され、新任の服部貞勝の手付となった。

・同年926日にゴローニンら8人が釈放されるまで、通詞として主要な役割を果たした。

 ・ロシアとの外交交渉は一段落してのちの貞助は、在住勤方の上原熊次郎と交互勤務している。本文の重吉らがエトロフに上陸した際、事情聴取のが貞助。その時の記録を「漂流人長右衛門外一人口書」「漂流人共相咄候儀別段書留置奉差上候書附」として残している。

 ・文政5(1822)に幕府の蝦夷地直轄が廃されると、江戸に戻り、勘定奉行支配の普請役となった。

 ・文政6(1823)3月、上司の勘定奉行遠山左衛門尉(景晋)の薦めでアイヌの民俗を集めた『蝦夷生計図説』の著述を完成した。

(73-3)「ゆえゆえしく」・・故々しく。「故々し」は、子細がありそうである。由緒ありそうである。風格があって重々しい。

(73-6)「ソロタ」・・「『ヲロシヤノ言』判読」(以下単に「判読」)P9下段12行に「金のコト ソロタ」とある。

(73-6)「ハラアライ」・・「判読」P3下段5行に「着物 ハラアテ」とある。

(73-6)「サブカ」・・「判読」P4下段8行に「かぶり笠 シヤブカ」とある。

(73-6)「シフカ」・・「判読」P1中段2行に「悪敷 ブトイ」とあり、また、P2上段6行に「大きニ悪敷 シフカフトイ」とある。から、「大ニ」は、「シフカ」か。

(73-67)「セルセース」・・「判読」P1上段9行に「はらたち セリゼヱス」とある。

(73-7)「まねびし」・・口まねして。「まねぶ」は、他の者の言ったことやその口調をそっくりまねて言う。口まねして言う。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に

 <(1)マナブと同源であるが、その前後は不明。マナブが平安初期には上二段、中期以後四段に活用したので、マネブも古くは上二段に活用したか。

(2)マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(73-8)「そこ爰(ここ)」・・其処此処。あちらこちら。あちこち。なお、「甲首乙首」を「そこここ」と当てる事もある。この語形の基になる。

 *「河流(ながれ)に沿ふて甲首乙首(ソコココと逍遙なして河下に」(『狐の裁判〈井上勤訳〉二』)

(73-10)「皇国(こうこく・すめらみくに)」・・天皇が統治する国。昭和20年頃まで、日本の異称として用いられた。すめらみくに。なお、「皇」を「すめら」と訓ずるが、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』によると、「ら」は接尾語で、「すめ」は、地方神的な神をさす用例が多いが、「すめら」の形では、大部分が天皇、特に現在の天皇をさしていう表現に用いられている。

 *<漢字の話>「皇」・・ジャパンナレッジ版『字通』によると、「皇」の解字について、

 <王の上部に玉飾を加えている形。王は鉞頭(えっとう。まさかり)の象。刃部を下にして玉座におき、王位の象徴とする。その柄を装着する銎首(きょうしゅ。)の部分に玉を象嵌して加え、その光が上に放射する形であるから、煌輝の意となる。>とある。

(73-10)「大晦日(おおみそか・おおつもごり)」・・一年の最終の日。毎月ある晦日(「みそか」とは三十日の意)に大の字をつけたの。大つごもりともいう。

 なお、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「つもごり」の語誌に、

 <(1)語源として単純なキの音節の脱落による(ツキゴモリ→ツゴモリ)という説は、他に類例がなく極めて疑問。意味上対をなすツイタチと音節数の平衡性を保つためにキが脱落したという見方もあるが、上代の複合語形成の原則からは、ツキタチ・ツキゴモリよりもツクタチ・ツクゴモリの方が自然であり、従ってツクゴモリ→ツウゴモリ→ツゴモリという変化過程も考えられる。

 (2)ツキコモリは興福寺本「日本霊異記」訓釈に見られ、天治本・享和本「新撰字鏡」にはツキコモリ・ツクコモリの両訓が見られるが、特にツクコモリの意味の限定は難しい。上代において、「ツク─」は「太陰」を表わし、「ツキ─」は暦日の「つき」を表わすという意義分化があった可能性もあり、意義の分裂に沿って語形の分裂が起こった可能性も否定できない。

 (3)なお、ツゴモリは中世においてツモゴリという形を派生させ、文献上にも姿をとどめるが、「かたこと‐三」に「つもごりといふはわろし」とあるように、正統な語形としてはとらえられていない。>とある。

(74-1)「けふ(今日。きょう。音韻はキョー)」・・「けふ」は、歴史的仮名遣い。

 *歴史的仮名遣いとは「発音は時代とともに変化して来たが書き方は最初のまま変化させずに来た」という原理のもの。今それを読むときには当然今の発音によって読む。

 *昭和6171日告示の「現代仮名遣い」の前書きには、

  <歴史的仮名遣いは,明治以降,「現代かなづかい」(昭和21年内閣告示第33号)の行われる以前には,社会一般の基準として行われていたものであり,今日においても,歴史的仮名遣いで書かれた文献などを読む機会は多い。歴史的仮名遣いが,我が国の歴史や文化に深いかかわりをもつものとして,尊重されるべきことは言うまでもない。また,この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり,この仮名遣いの理解を深める上で,歴史的仮名遣いを知ることは有用である。付表において,この仮名遣いと歴史的仮名遣いとの対照を示すのはそのためである。>

  とあり、「付表」に「現代仮名遣い 歴史的仮名遣い対照表」を挙げている。

 *現代仮名遣いの「きょう」を歴史的仮名遣いで「けふ」とした例として、「今日」のほかに、

  ・脅威(ケフヰ)・協会(ケフクヮイ)・海峡(カイケフ)を挙げている。

 *「喋喋(ちょうちょう)しい」・・(口数が多い。口まめである。口軽である。転じて、調子がいい。いいかげんに調子をあわせる。)歴史的仮名遣いでは、「てふてふし」と書いた。

  *「さう喋々(テフテフ)しくは饒舌り得なかった」(夏目漱石『彼岸過迄』)

  *「てふてふが一匹 韃靼海峡を渡つて行つた」(安西冬衛の1行詩は有名。タイトルは「春」 1929

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12月学習『蝦夷日記注』                       

  

(39-1)「四里程ニ付」・・『蝦夷地御開拓諸御書付書類』など異本には、「程」と「ニ」の間に「南」があり、「四里程南ニ付」としている。

(39-1)<漢字の話>「陳屋(じんや)」の「陳」・・①ジャパンナレッジ版『字通』には、<正字は陳・・陣は俗字。・・東は嚢(ふくろ)の形、車は車の形で、示すところが異なる。陣は聖所に軍車のある形で、本陣の意を示すものであろう。」としている。

 ②現在は、「陳」「陣」は、別々にそれぞれ常用漢字になっている。

③「陳」を「ジン」と読むのは呉音。「チン」は漢音。手元の漢和辞典には、「陳」を「ジン」と読む熟語はわずか姓に「陳野(じんの)」があるのみ。

(39-4)「東西(とうざい)」・・「東や西」の意から、あちらやこちら。あらゆる方向。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「東西」の語誌に、

(1)節用集類で「東西」に「アナタコナタ」と当てられている。

  (2)「左右(そう)」と似ているが、「左右」よりも動作性が強いといわれる。

  (3)『南総里見八犬伝』に「船にて飽まで東西(モノ)賜りぬ」と読ませた例が見られる。>とある。

(39-5)「余地(あまりち)」・・手余地(てあまりち)。江戸時代、手不足のため空閑地となっている田畑。農民の離村または放棄で耕作されない田畑。

(39-6)「文化度、ウルツフ島の御振合」・・文化11(1814)12日、幕府が下した国境問題についてのロシアへの対応をいう。幕府は、松前奉行に対し、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付したことをいう。なお、この諭書は、結局ロシア側には、渡らなかった。

その前後の経過を箇条書きする。

 ・文化8(1811)526日・・船将ゴローニン率いるディアナ号、クナシリ島トマリ沖に到来。

 ・同年64日・・薪水・食料の補給のためゴローニンら8名トマリに上陸し、クナシリ会所で調役奈佐瀬左衛門と会見、会見中逃亡を図ったため補縛される。副将リコルドは救出をあきらめ、67日カムチャッカに向けて去る。

 ・同年72日・・ゴローニンら、南部藩士に護送されて箱館に到着、入牢。箱館役所で吟味を受けたのち、822日箱館を出発、825日福山到着。

 ・この年冬、村上貞助、松前奉行の命により、ゴローニンらについてロシア語を学ぶ。

 ・文化9(1812)126日・・幕府、ゴローニンらの処置を決定。返還せずに留置き、かつ、この上ロシア船の渡来あれば漂流船たりとも用捨なく打払うべき旨松前奉行・南部津軽両家へ通達。

 ・同年84日・・リコルド、ゴローニンらの返還を交渉するため、文化4(1807)フヴォストフに捕えられた五郎次と漂民をともない、クナシリ島センベコタン沖に到来、ここに滞船して五郎次らを使い交渉したが、クナシリ在勤役人らによりリゴローニンはすでに誅されたとし拒否される。リコルドはこれに納得せず、真偽を正すべく814日クナシリ島ケラムイ沖にてエトロフ島より帰帆の高田屋嘉兵衛持船観世丸を襲い、嘉兵衛らを連行、同月17日クナシリ島よりカムチャッカにむけて去る。

 ・文化10(1813)526日・・リコルド、ディアナ号に高田屋嘉兵衛らを乗せてクナシリ島センベコタン沖に来る。高田屋嘉兵衛らを介してクナシリ詰調役並増田金五郎らと交渉、先年のフヴォストフの乱暴はロシア政府の関与せぬことである旨を陳べ、ゴローニンの放還をもとめる。

 ・同年619日・・松前詰吟味役高橋三平ら、リコルド到来の報に接した松前奉行の命により捕虜のロシア人らをともないクナシリ島に到着。諭書をリコルドに交付し、捕虜放還の条件として、ロシア国長官の陳謝書を提出し、先年掠奪の武器・器物等を返還することを要求、リコルドはこれを承認し、上官と相談のうえ請書を携えて8月下旬までに箱館に渡来する由を述べ、624日クナシリ島を出帆、いったんオホーツクに帰る。

 ・同年817日・・松前奉行、返還準備としてゴローニンらを福山から箱館に移す。

 ・同年916日・・ディアナ号箱館沖到着。17日入津。19日上陸を許可されて沖の口番所において高橋三平らと会見。リコルド、シベリア総督テレスキンの書を提出。

 ・ロシア政府の陳謝の趣意を了承し、松前奉行服部貞勝臨席のもとに、沖の口番所にてゴローニンをロコルドに引き渡す。

 ・ディアナ号、箱館より帰帆。

【日露の国境問題】

・なお、リコルドには、捕虜受取りだけでなく、両国の国境を画定する任務を負わされていた。リコルドは、ゴローニンに相談したが、ゴローニンの意思では、奉行はただ捕虜に関して交渉する権限が与えられているにすぎないから、今国境問題、修好条約問題を提議すれば、奉行は江戸に報じ、指令を仰がねばならないので、非常に日数を要し、また、修好条約などはとうてい望みがないといった。リコルドも同意し賛同した。

・ただ、出帆にあたって、ゴローニンとリコルドの連名で公文書を高橋三平、柑本兵五郎宛に送り、国境画定・接境応接の返答をうるため明年56月ころ、武器を乗せない小船をエトロフ島に派遣するから、返答を渡されたいとの希望を述べた。

 ・文化11(1814)12日・・奉行の伺いに対して、日本はエトロフ、ロシヤはシムシル島を限り、中間のウルップ島などには家屋を設けずに中立地帯とし、彼我の漂流民を送還するのはウルップ島においてせよと命じ、その旨を認めた諭書を下付した。

 ・同年3月・・高橋三平は諭書を携えて箱館を発し、エトロフ島に出発、68日ウルップ島に進んだが、ロシア船はついに姿を見せなかった。

 ・文政元年(1818)夏・・ウルップ島に派遣された飯田五郎作、箱に収め柱に打ちつけたロシア人の文書を発見持ち帰る。大意は「文化11(1814)エトロフ島北部の近海に来たが、答書を携えた日本人を見ず、ゆえにやむなくオホーツクに帰る」とあった。

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古文書解読講座のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年12月8日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

『ふなをさ日記』11月学習の注 

(68-1)「二ヶ月の間也。米、実のるを」・・語調がよくない。異本は、「也」を「に」とし、「二ヶ月の間、米、実のるを」としている。

(68-1)「実のる」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「実乗る」の意>とし、語源説のひとつに、<ミナル(実成)の転か>を挙げている。なお、同訓異字として、下記を挙げている。

 みのる【実・稔・酉・年・熟】

【実】(ジツ)家の中に財宝が満ちる。転じて、しっかりと中身がみのる。実をむすぶ。内容がいっぱいにみちる。「実線」「果実」「結実」《古みのる・なる・みつ・ふさく》

【稔】(ネン)穀物がみのる。穀類が熟する。「稔歳」転じて、経験などが積み重なる。物事に習熟する。熟達する。「稔熟」「稔聞」《古みのる・にきはふ・ゆたかなり・うむ》

【酉】(ユウ)酒壺。さけ。また、成熟した穀類で酒を醸す。転じて、よくみのる。成熟する。

【年】(ネン)稲がみのる。作物がみのる。「年穀」「年災」「年歳」「豊年」「祈年祭」《古みのる》

   *大有年 <大(おおい)ニ、年(ネン)有り>(中国の歴史書『左伝』)大豊作であった

【熟】(ジュク)果実がよくうれる。穀物が十分にみのる。「熟柿」「熟田」「完熟」「黄熟」転じて、物事が十分な状態になる。物事によくなれて通じる。習熟する。「塾達」「熟練」「円熟」《古うむ・あまし・むまし・なる・ねる》

(68-3)「しゐな」・・粃。からばかりで実のない籾(もみ)。十分にみのっていない籾。語源説のひとつに「シニヒイネ(死日稲)の義〔日本語原学=林甕臣〕。」がある。

 *島崎藤村は、『破戒』の中で、「空籾」に「シヒナ」とルビしている。

 「其女房が箕(み)を振る度に、空殻(シヒナ)の塵が舞揚って」

(68-4)「各別(かくべつ)」・・とりわけ。特別。現代では「格別」と、「各」は、「格」を使う。なお、「各別」と言う場合、多くは、「それぞれ別であること。また、めいめいが別々に行なうこと。」の意味に使われる。

(68-5)<変体仮名>「つねニは」の「ね」・・元になった漢字は、「祢」。

 *<漢字の話>「祢」・・①「祢」は「禰」の俗字。ともに、平成16年9月に人名漢字に追加された。

②「禰」の偏は5画の「示」で、  「祢」は、4画の「ネ」。部首はいずれも「示」部。

  ③「祢」の草体からひらがなの「ね」が、偏からカタカナの「ネ」ができた。

(68-5)「団子(だんご)」・・穀物の粉を水でこねて小さく丸め、蒸し、またはゆでたもの。醤油の付焼にしたり、あん、きな粉などをつけたりして食べる。「団子」の語誌について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

<(1)中国の北宋末の風俗を写した「東京夢華録」の、夜店や市街で売っている食べ物の記録に「団子」が見え、これが日本に伝えられた可能性がある。

(2)「伊京集」にはダンゴ・ダンスの両形が見られ、そのダンスは唐音の形と思われる。「日葡辞書」にはダンゴの形しかなく、近世ではもっぱらダンゴが優勢のようであるが、ダンス・ダンシの形も後々まで存在する。

(3)中世まではもっぱら貴族や僧侶の点心として食されたが、近世になると、都会を中心に庶民の軽食としてもてはやされるようになった。団子を売る店や行商人も多く、各地で名物団子が生まれている。

(4)農村では、古来団子は雑穀やくず米の食べ方のひとつであり、昭和の初期までは米飯の代わりに団子汁などが食べられていた。>とある。

また、語源説のひとつに、「米麦の粉をねり団(あつめ)たものであるところから。団は聚・集の義〔愚雑俎〕。」がある。

(68-6)「ヒンフハン」・・資料『ヲロシヤノ言』P5左下段10行目に「小麦だんご ヒンピヤン」とある。

(68-7)「又の年」・・次の年。翌年。

(68-8)<見せ消ち>「古郷に」・・影印には「へ」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「に」と訂正している。

(68-10)「何しに」・・何為。代名詞「なに」に動詞「する」の連用形「し」、格助詞「に」の付いてできたもの。

原因・動機を不明なものとして指示する。どうして(…なのか)。なぜ、なんのために(…するのか)。

(68-1011)「牛を喰はんや」・・喰うだろうか、いや、喰わない。「喰(く)ふ」の未然形「喰(く)は」+推量の助動詞「む(ん)」の連体形「む(ん)」+反語の係助詞「や」。

(68-11)「さでは」・・それでは。副詞「然(さ)」+接続詞「では」。前の事柄に基づいて、推量・意志・疑問などを導くのに用いる。それなら。そういうわけなら。その上は。

(69-2)<見せ消ち>「偽(いつわり)を」・・「偽」が見せ消ち。

(69-4)「カンハラ」・・資料『ヲロシヤノ言』P5左中段4行目に「かれい カンバラ」とある。

(69-4)「かう」・・甲(こう)。歴史的仮名遣いは、「かふ」だが、「こふ」「かう」も見える。

(69-7)「初メの程(ほど)」・・初めのころ。「程(ほど)」は、物事の種々の段階をある幅を持った範囲として示す語。時分。ころ。

(69-7)「不通(つうぜざる)」・・不通。サ変動詞「通(つう)ず」の未然形「通(つう)ぜ」+打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」。

(69-9)<見せ消ち>「是々は」・・「是々」の「々」が見せ消ち。

(69-9)「すめぬかほ付(つき)」・・済めぬ顔付。納得しない顔付。「すめぬ」は、下2動詞「済(す)む」の未然形「済(す)め」+打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」。

(69-11)<漢字の話>「問聞(といきく)」・・「問」も「聞」も、「門」があっても部首が「門」部(門がまえ)でない漢字。

 ・「問(モン・とウ)」・・口部

 ・「聞(モン・ブン・きク)」・・耳部

 ・「悶(モン・もだえル)」・・心部

 ・「誾(ギン)」・・言部。

(70-3)「その名を言(いう)を、其書付おきたる下へ書て」・・重吉は、帰国後、

 オホーツクでロシヤ人から聞き、書き留めたロシヤ語の言葉を、「ヲロシヤノ言」という5枚刷りを刊行した。この「ヲロシヤノ言」について、平岡雅英撰『日露交渉史話』(筑摩書房刊 1944)に、「本邦における和露対訳集の上梓は、恐らくこれが嚆矢であろう」とし、「出版の年月は明らかでないけれども、重吉等は異国の鬼となった同僚供養のため建碑を志し、ロシヤから持帰った衣服器物類を展覧して奉加銭を集めたから、『ヲロシヤノ言』もそのをり刷って販売し、資金の一端としたに相違ない。それならば帰国後間もないころである」と記している。

 *別冊資料「ヲロシヤノ言」(玉井幸助校訂解説『大東亜海漂流譚 船長日記』育英書院刊=1931=所収)参照

(70-4)「覚へ」・・「覚へ」は、文法的には、本来は、「覚え」。下2動詞「覚ゆ」の連用形は、「覚え」。

(70-7)「初(はじめ)の程(ほど)」・・初めのころ。「程(ほど)」は、おおよその程度を表わす語。物事の種々の段階を、ある幅を持った範囲として示す語。本文では、時間的な程度を表わす。時分。ころ。

(70-910)「サテシ」・・資料『ヲロシヤノ言』P4右下段9行目に「腰懸る事 ザデヱシ」とある。

(70-10)「せうぎ」・・床几(しょうぎ)。腰掛。

(70-11)「いわず」・・文法的には、本来は、「いはず」。ハ行5段動詞「いふ」の未然形は、「いは」。ところが、現代語の「言う」は、ワ行で、未然形は、「言(い)あ」でなく、「言(い)わ」だから、文法的にも、揺れていたか。

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11月『蝦夷地見込書秘書』注  

(35-2)「平遠(へいえん)」・・平坦で遠くひらけていること。はるかに広がっていること。また、そのさま。

(35-3)「寄洲(よりす)」・・水流や風波のために、河口・海岸などに土砂が吹き寄せられて自然に生じた州

 *<漢字の話>「洲」と「州」・・元来は、「洲」は「州」の俗字。のち州県の字と区別して、川の洲や大陸の名に用いる。「中洲」「五大洲」など。なお、現代表記では、「州」に書きかえる。

(35-3割注右)「黒竜江(こくりゅうこう)」・・中国東北部とロシア国シベリア州との国境線を流れる大河。アムール河とも呼ばれる。全長4,350キロで世界8位。ケンテイ山に源を発して、外蒙古のオノン・ケルレン両河となり、漠河の西方で合流してからその下流を黒竜江といい、支流の松花江・ウスリ江などを入れて間宮海峡に注ぐ。結氷期の十月下旬から四月中旬までを除き、可航水路は本支流を合して5,700キロにも及び、重要な交通路となっている。漢語では早く黒水の名で呼ばれているが、それは満洲語の「サハリャン=ウラSahalien-ula」の意訳という。元・明以後に黒竜江の呼称となる。なお、オホーツク海の流氷は、アムール川からの流水により塩分濃度が薄くなったことによって凝固点が高くなった海水が氷結して形成される。

 *<漢字の話>「竜」と「龍」

①ジャパンナレッジ版『字通』は、<「竜」は「龍」の初文。「龍」はその繁文。>とある。とすると、「竜」が古いか。

  ②日本における「竜」「龍」の漢字表の変遷

   ・昭和265月・・「龍」が人名漢字に選ばれた。

   ・昭和293月・・「竜」が、当用漢字補正案に選ばれた。その際、人名漢字の「龍」は「滝」に合せて

「竜」に字体整理された。

   ・昭和5610月・・常用漢字制定時にも「竜」の字体が選ばれた。その際、康煕字典体の活字として括弧内に「龍」が掲げられ、現在に至っている。

   ・昭和5610月・・「龍」が人名漢字許容字体となった。

   ・平成169月・・「龍」が人名漢字に追加された。

  ③「竜」の部首は、ほとんどの漢和辞典は、16画の「龍」部に入っている。

(35-3割注右)「万古(ばんこ)」・・大昔から今に至るまで。久しい間。永久。永遠。

*<漢字の話>「万」・・

①「マン」は呉音。「万葉(まんよう)」「万引(まんび)き」など。

②「バン」は、漢音。「万全(ばんぜん)」「万事(ばんじ)」「万端(ばんたん)」など。

③「バン・マン」の両方の読みがある熟語には、「万人(まんにん・ばんにん)」「万歳(まんざい・ばんざい)」など。

(35-3割注右)「流注(りゅうちゅう・るちゅう・るじゅう)」・・流れそそぐこと。流れ込むこと。また、流し込むこと。

(35-3割注左)「砂土(しゃど・さど・すなつち・いさごづち)」・・砂の多い土地。なお、日本農学会法により粘土分の重量組成割合が12.5%以下の土を砂土とよんだ。

(35-3割注左)「嶼磧(しょせき)」・・「嶼」は、小山。「磧」はかわら。

(35-4割注右)「彫刻(ちょうこく)」・・ここでは、版木を彫ること。

(35-4割注右)「黒龍口と流注海口」・・『蝦夷地御開拓諸御書付書類』は、「黒龍江流注の海口」とある。

(35-4割注右)「海口(かいこう)」・・港のこと。

(35-4割注左)「島嶼(とうしょ)」・・「島」は大きなしま、「嶼」は小さなしま。いくつかのしまじま。しま。

(35-4割注左)「接聯(せつれん)」・・つらなり続くこと。「聯」は、現代表記では「連」の置きかえる。

(35-5割注右)「喬岳(きょうがく)」・・高い山。そびえ立つ大きな山。

 *<漢字の話>「喬」・・象形文字。解字は、高い楼閣の上に旗が建てられた形をかたどり、「高い」の意味を表す。「驕」「僑」「嬌」など、「喬」を音符に含む文字は、「高い」の意味を持つ。「橋」は、谷川に高く懸けられたはしの意味を表す。

(35-5割注右)「平莎(へいさ・へいしゃ)」・・平沙。平坦で広大な砂原。

 <漢字の話>「莎」・・影印の「莎」は、はまずげ。

(35-5)「険易(けんい)」・・むずかしいことと、やさしいこと。難易。本文では、(海岸の)険しさとなだらかさ。

(35-7) 「分界(ぶんかい)」・・境目をつけてわけること。また、その境目。

(35-8)「合考(ごうこう・あわせかんがえ)」・・他の事柄と合わせ考えること。

(35-10)「冱寒(ごかん)」・・寒さにとじこめられること。

 *『沙氏伝』より

其蔵冰也    其の冰(ひょう)を蔵するや

深山窮谷    深山窮谷(きゅうこく)の

固陰冱寒    固陰(こいん)冱寒(ごかん)す

于是乎取之   是(ここ)に於(おい)てか之(こ)れを取る

  <意訳>氷をしまいこむところは、深い山中の谷の奥、日もささず水気も無いひえびえと冷たいところ。その場所から、夏のはじめに取りだすのでございます。

 *<漢字の話>「冱」

  ①ジャパンナレッジ版『字通』には、

   <〔荘子、斉物論〕に、至人の徳を称して「河漢冱(こお)るも寒(こご)えしむること能はず」という。わが国では寒さのさえることをいい、「冴」の字を用いるが、字形を誤ったものであろう。互に連互する意があり、広く結氷してゆく状態をいう。>とある。

  ②「」の部首は「冫」(二水。にすい)。「氵」を三水(サンズイ)というのに対して、いう。

  ③「冫」(にすい)部には、「冷」「冴」「凍」など、「こおる」「さむい」の意を含む文字でできている。

  ④常用漢字の「冬」は、現在の漢和辞典では、「夂」(すいにょう・ふゆがしら・なつのあし)部としている

が、旧字体のは、「冫」(にすい)部。冬はさむいので、「冫」(にすい)部の方が、意味があっていい。

  ⑤同様に、常用漢字の「寒」は、現在の漢和辞典では「宀」(うかんむり)に属している。旧字体は、で、「冫」(にすい)部。どうして、「冫」のままにしなかったのか。「宀」では、意味不明。

(35-1011)「窮陰(きゅういん)」・・きわめて暗いこと。

(36-1)「如何御手広」・・『蝦夷地御開拓諸御書付書類』は、「如何」のあとに、「様」があり、「如何様」とある。

(36-2)「後来(こうらい)」・・こののち。ゆくすえ。将来。

(36-2)「禍患(かかん)」・・わざわい。不幸。苦難。

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古文書解読講座のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年11月10日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

『ふなをさ日記』10月学習の注  

          
(63-2)「釜」・・飯をたいたり湯をわかしたりする金属製の用具。文意から、本文の「かま」は、「竈」が正しいか。
*「竈」・・上に鍋、釜などをかけ、下から火を燃して、物を煮炊きするようにしたもの。
*<漢字の話>「竈」・・部首は、「穴」部。で21画。解字は、「穴」+「土」+「黽(かえる)」。かまどの上部は穴ではなく、蓋に空気抜けの穴がある形。四つの足に力を入れてふんばるかえるの形をしている。
 かまどは、粘土で作られたから、のちに「土」を付した。
*「塩竃市」・・宮城県塩竃市の公文書は、「竈」を使用している。以下は、「塩竃市」の公式HPから転載。
 <市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むものであるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。>
(63-4)「降込(ふりこま)ぬ」・・内へはいらないように。「降込む」は。振って内へ入れる。
(63-4)「ぐるり」・・ある物のまわり。周辺。めぐり。
*「雨のくれ傘のぐるりに鳴(なく)蚊かな〈二水〉」(『俳諧・曠野(あらの)』)
*「家のぐるりを蟇(がま)が鳴いて廻った」(『雪国』川端康成)
 *「島はぐるりからはいあがる海の湿気に濡れている」(『島へ』島尾敏雄)
(63-5)「火気(かき)」・・火から出る熱気や炎。火の勢い。現在では多く「火」と同義に用いる。
(63-6)<文法の話①>「あせばむ」の「ばむ」・・接尾語。四段型活用。物の性質や状態を表わすような名詞、またはこれに準ずる動詞連用形や形容詞語幹などに付き、これを動詞化する。そのような性質をすこしそなえてくる、また、そのような状態に近づいてくるの意を添える。「汗ばむ」のほか、「なさけばむ」「汗ばむ」「けしきばむ」「老いばむ」「おかしばむ」「よしばむ」「赤ばむ」「黄ばむ」など。
*<文法の話①>・・『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)には、「バムのバはハシ(端)のハと同根は、ほんの一部分、端だけ、その性格を帯びる意。」とある。
(63-10)「雪合羽(ゆきがっぱ)」・・カッパは ポルトガル語。capa 。雪の日に着用する合羽。
(63-10)<見せ消ち>「すそ」・・元の影印は、「すへ」。「へ」の左に「ニ」のような記号が、「見せ消ち」記号で、「ヘ」を消している。そして、「へ」の右に「そ」を書き、「すへ」ではなく、「すそ」と読む。
(63-11)「引(ひき)かつぎ」・・「引きかつぐ」は、「引き被(か)づく」。引いて頭からかぶる。
(64-1)「腹籠(はらごろも)」・・胎内にいるこども。
(64-2)<文法の話>「うへて」・・「うへて」は、文法的には、「う(植)ゑて」で、「へ」は、「ゑ」。終止形は、ワ行下二活用の「う(植)う」。活用は、ゑ・ゑ・う・うる・うれ・ゑよ。「う(植)う」の連用形は、「う(植)ゑ」
 *「ゐなか家だつ柴垣して、前栽に心とめてうゑたり」(『源氏物語 帚木』)
 *「くふ物、薬種などをうゑおくべし」(『枕草子』)
 *ワ行下2段活用の動詞・・「植(う)う」「飢(う)・う」「据(す)う」の3語のみ。
  **ア行下2段活用の動詞・・「得(う)」の1語。
  **ヤ行下2段活用の動詞・・「覚(おぼ)ゆ」「「消(き)ゆ」「聞(きこ)ゆ」「越(こ)ゆ」「絶(た)ゆ」
                「見(み)ゆ」など
(64-5~6)「サンカ」・・そりは、ロシア語で、「сани(サーニィ)」。
(64-9)「二(ふ)タがは」・・二側(ふたがわ)。ここでは、二列の意
(64-9~10)「しりべ」・・うしろ。最後尾。
(65-2)「本(もと)のかた」・・根元の方。
(65-2)「錫杖(しゃくじょう)」・・杖の一種。大乗の比丘(びく。修業者)の一八種物
の一つ。上部のわくに数個の輪が掛けてあり、振ると鳴るので、道を行くとき、乞食
(こつじき)のときなどに用い、また、読経などの調子を取るのにも用いられる。さくじょう。
(65-2)「銀(かね)」・・金属の総称。「金・銀・銅・鉄」などを当てる。
(65-4)「こぢて」・・ひねって。「こぢて」は、上2動詞「こ(抉)づ」の連用形「こぢ」+接続助詞「て」。
(65-5)「鉄輪(かなわ)」・・金輪。金属製の輪。
(65-6)<文法の話>「すゝみかぬる」・・進みかねる。「かぬる」は、「かぬ」の連体形。「かぬ」は、下2型の接尾語。動詞の連用形に付いて、「・・のがむずかしい」「・・ことができない」の意の動詞をつくる。活用は、「ね・ね・ぬ・ぬる・ぬれ・ねよ」。
(65-7)「ソバカ」・・ロシア語で、犬は、「собака(サバーカ)」。
(65-11)「傍(かなわら)なる」・・かたわらにある。「なる」は、「にある」の音韻脱落。「ni・a・ru」の「ni」の「i」が脱落して、「na・ru」となった。「小諸なる古城のほとり」。
(66-1)「むやう」・・異本は、「無性」とし、「むしやう」とある。
(66-32)<文法の話>「止(とめ)て呉(く)るなり」・・「呉(く)る」は、補助動詞として用いる。多く動詞の連用形に接続助詞「て」を添えた形に付く。助動詞「なり」は終止形に接続するから、ここは、「呉(く)るなり」。
(66-3)「押かひ」・・「おしか(押支)ふ」の連用形。「押支ふ」は、おさえこむ。おさえて動かないようにする。
(66-3)「あひしらはざれば」・・取扱わないと。「あひしらふ」は、取り扱う。程よく処理する。適当にもてなす。
 「あひしらふ」の語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、
 <(1)シラフは互いにものごとをする意。アイは会か〔大言海〕。アイは相、合、対で対面の義〔名語記〕。
  (2)アイ(挨)シアフで、挨拶しあうことか〔和句解〕。>とある。
(66-5)「セリジ」・・にしんのロシア語は、「сельдь(セーリチ)」。
(66-10)「ヲレン」・・異本は、「ヲレン」に、「鹿」と傍注がある。なお、鹿は、ロシア語で、「олень(アレーニ)」。
(66-10)「トロハ」・・ロシア語で、薪は、「дрова(ドラバー)」。
(67-3)「木を切たるは、何れも中程より」・・宗堅寺本「船長日記」(愛知県郷土資料刊行会刊『池田寛親自筆本 戦況日記』)には、「切たるは」と「何れも」の間に、「雪を待てものする也。重吉、八月比に行て見たるに、所々に、木のきりたるが有を、」がある。
宗堅寺本「船長日記」(愛知県郷土資料刊行会刊『池田寛親自筆本 戦況日記』)
左は、影印。右は解読文(傍線が、テキストにない部分)
(67-2)「自(みずか)ら」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「身(み)つから」の変化したもので、「つ」は助詞、「から」はそれ自体の意>として、以下の語源説を挙げている。
(1)ミツカラ(身之自)の義〔東子・大言海〕。
(2)身タルカラの義〔名語記〕。
(3)ミヒトツナガラ(身一乍)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
(4)ミミヅカラ(身自)の義〔雅言考〕。
(5)ミイヅカカリ(身出係)の義〔名言通〕。
(6)ミヅカラ(身之徒)の義〔国語の語根とその分類=大島正健〕。
(7)ミテカラ(身手間)の義〔言元梯〕。
 また、同訓異字に、
 【自】(シ・ジ)おのれみずから。自分で。また、自分ひとりで。「自戒」「自害」「自慢」《古みづから・おのづから・われ》
【身】(シン)からだ。み。転じて、みずからすすんで。「身上」「身事」《古みづから・み・われ・むくろ》
【躬】(キュウ)からだ。み。転じて、みずからすすんで。じぶんの身をもって。「躬化」「躬行」「躬耕」《古みづから・み・おのれ》
【親】(シン)したしくみずから。自分で直接手を下して。特に、天子や貴人などがみずからすすんでことを行なう様子。「親告」「親書」「親政」《古みづから・したし・ちかし・むつまし》
 を挙げている。
(67-4)「不審(ふしん)」・・①細かい点まではよくわからないこと。はっきりしないこと。また、そのさま。②疑わしく思うこと。疑惑をさしはさむこと。いぶかしいこと。
 *<漢字の話>「審」・・つまびらか。「不審」は、「つまびらかでない=はっきりしない」意。「審議」は、「つまびらかに議論すること」。いいかげんに話し合うことは「審議」とはいわない。
(67-6)「木賊(とくさ・もくぞく)」・・シダ類トクサ科の常緑多年草。北海道、本州中部以北の渓流沿いの林下などに生え、また観賞用に庭園などで栽培される。
 *「木賊(もくぞく)」・・トクサの漢名。中国では古くから薬用にされ、11世紀の本草書『嘉祐(かゆう)本草』には眼疾、止血などに効くとある。
  **「木賊」を「とくさ」と読む経過
    ①日本には、漢字が入る以前から、「とくさ」という植物があり、人々は、「とくさ」と言っていた。
    ②日本に、漢字が入って来た時、その植物名に、漢名の「木賊(モクゾク)」があり、以前から日本人が知っていた「とくさ」と同じ植物だった。
    ③それで、日本人は、「木賊」の音読み(中国風の読み)がどうであれ、「木賊」を「とくさ」と読む(訓読み)するようになった。
(67-6)「ホリカ(又はホツカ・ホレカ)」・・異本の多くは、「ボソレツカ」とする。カムチャッカ半島西海岸の
ボリシェレツクか。
(67-7)「いさゝか」・・「か」は接尾語。①かりそめであるさま。ほんのちょっと。②下に打消のことばを伴って、少しも。ちっとも。語源説に「イトササヤカの意〔日本釈名・燕石雑志〕」がある。また、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、
 <中古では、①は漢文訓読系の資料に、②は和文や和歌に用いられるという傾向がみられる。中世以降は②が多用されるようになるが、下に打消を伴う用法は次第に減少する。現代ではやや改まった文語的な表現として用いられる。>とある。
 <古語の話>「いささ」・・体言の上に付いて、いささかの、すこしばかりの、の意を表わす。「いささおがわ(ちいさい小川)」「いささおざさ(ちいさい笹)」「いささみず(少しの水)」など。
  **「万葉‐一九・四二九一」の「わが宿の伊佐左(イササ)むら竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも〈大伴家持〉」の「いささ」を「いささか」の意の接頭語とする説もある。
(67-8)「目なれぬ」・・見慣れない。「目馴(めな)る」の未然形「めなれ」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」。
(67-9)<雑学>「松かさ」・・英語の "pineapple" (パイナップル・パインアップル)の場合は、「pine」は、「松」、
「apple」は「果実」で、本来は「松の果実」という名前の通り松かさのこと。後に松かさに似た別の果物、
すなわち現在のパイナップルを指すようになった。この場合、「apple」は、リンゴではなく、果実。
(67-10)「朝鮮松」・・朝鮮五葉。マツ科の常緑高木。本州の福島県以南岐阜県までと、四国の愛媛県、朝鮮、ウスリー、中国東北部の深山に生え、庭木ともする。漢名、海松・新羅松。
(67-10~11)「リナ(又はフナ)」・・異本は、「フナ」とするものが多い。米は、ロシア語で「рис(リース)」
(67-11)「カーサ」・・ロシア語で朝飯は、「завтрак(ザーフトラク)、昼飯は、「обед(アビエート)」、
夕食は、「ужин」

10月『蝦夷地見込書秘書』注

(31-2)「仕法(しほう)」・・「し」はサ変動詞「する」の連用形。物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(31-2)「貂(てん)」・・樺太に住むテンは、クロテン。

 *クロテン・・イタチ科の動物。以前は北ヨーロッパにもいたが絶滅し、現在ではシベリア、中国北部、および日本では北海道に分布する。体長4055センチメートル、尾長1219センチメートル。毛色は黒褐色が普通であるが、黒色や黄色に近いものもいる。のどの部分は黄白色である。森林にすむが木にはほとんど登らず、日中は樹洞や木の根元の巣穴にいて、夜、小哺乳類、小鳥、魚、果実などを食べる。夏に交尾し、翌年の4月ごろに34子を産む。飼育下での寿命は15年である。本種の毛皮は古代ギリシア時代より知られ、とくに純黒に近いものは貴族の喪服用に珍重された。そのため北ヨーロッパでは絶滅を招いた。ロシアでは旧ソ連時代に捕獲を規制するとともに、1933年以降養殖に成功していて、現在では養殖個体の放獣もしている。また、中国でも養殖している。日本では法規上はテンと区別されず狩猟獣扱いであるが、北海道ではイタチとともに捕獲を禁止している。

テンは、毛皮を利用するためと夜行性のために、銃器によらず、とらばさみや箱わななどのわなで捕獲する。その尾は古く冠飾に用いた。(この項、『ジャパンナレッジ版日本大百科全書(ニッポニカ)』)

*「貂」の読み・・音読みは、「チョウ」。「てん」と読む語源説に、「朝鮮音トン」からがある。(『大言海』)。

*「貂」を含む熟語

  **「貂裘(ちょうきゅう)」・・貂のかわごろも。転じて身分の高い人の衣服。

  **「貂寺(ちょうじ)」・・宮刑(キュウケイ・去勢の刑)を受けて、後宮(きさき・コウキュウ)に使え

る人。「貂」は冠のかざり。「寺」は「侍(はべる)」。

  **「貂蟬(ちょうせん・ちょうぜん・ちょうたん)」・・貂(てん)の尾と蝉(せみ)の羽を用いた冠の飾り。また、その冠。貂の毛は華美でなく、蝉は露を飲んで清らかだというところから、ともに君子の徳にかたどったもの。また、その冠をつける人。高位高官。

  **続貂(ぞくちょう)」・・中国、晉の趙王倫の一党が兵卒にいたるまで爵位をうけたので、時の人が冠にかざる貂が足りなくなったであろうと「貂不足、狗尾続(貂足らず、狗尾続=つ=ぐ)」といったという「晉書‐趙王倫伝」の故事から)つまらない者が高官に列すること。劣者が優者に続くこと。また、他のし残した仕事を受継いで行なうことを卑下していう語。狗尾(くび・こうび)続貂。

    ***「狗尾続貂(くびぞくちょう)」・・「狗尾(くび)」は犬のしっぽ、「続貂」は貂に続くの意。直訳は、冠にかざる貂の尾が足りないので、犬のしっぽの冠がそれに続く。転じて「つまらない者が高官に列すること。劣った者がすぐれた者のあとに続くことのたとえ。また、他人のし残した仕事をついで行なうことを卑下していうたとえにも用いる。

(P312)「宛(づつ)」・・数量、程度を表わす体言、またはそれに副助詞のついたものをうけ、量的に同一の割合、程度が繰り返されることを示す。語源説に、<ツツ(箇々)の義か。「一つ、二つ」などの「つ」を重ねたもの。>がある。

 *「宛」を「つづ」と訓じるのは、「宛」に、「宛(あて)る」=「割り当てる」の意味があり、「づつ」という訓読みがある。

(31-3)「小使(こずかい)」・・乙名の下に置かれたアイヌの役人。

(31-3)「土産取(みやげとり)」・・儀式のとき土産を賜る者として任命された役つきのアイヌ。乙名、小使、土産取の三役についている者を「役土人」といった。

(31-3)「軒別(けんべつ)」・・一軒一軒。戸ごと。家ごと。戸別。

(31-4)「水豹(あざらし・トッカリ)」・・アイヌ語で「トッカリ」という。紋別市にアザラシだけを保護する「紋別市オホーツクとっかりセンター」がある。

(31-6)「撫懐(ぶかい)」・・安んじる。

(31-8)「検究(けんきゅう)」・・調べ尽くす。

(31-8)「北極出地(ほっきょくしゅっち)」・・「北極」星が、「地」平から、「出」ている高さ。北極星の地平線上の高さをいう。ほぼその地の緯度に相当するので、昔地球上で緯度を測るのに用いられた。象限儀を使った。

 *別紙参考資料・・保柳睦美著「釜石市唐丹の測地記念標について」(『季刊東北地理25号』=東北地理学会刊 1974=所収)

 象限儀(しょうげんぎ)・・九〇度の目盛りをもつ扇形の天体高度測定器。近世初期に来航したポルトガル船の航海具として舶載されたのを契機にわが国でも製作使用され、原名Quadrante をとってカダランテと呼ばれた。四分の一円周の金属盤と望遠鏡を組み合わせたもの。

**象限・・座標平面が直交座標軸によって分けられる四つの部分の一つ一つ。右上、左上、左下、右下の順に第一象限、第二象限、第三象限、第四象限という。

(31-89)「四十六度より凡五十五度に経り」・・カラフトの緯度は、南端のノトロ岬が北緯4554分、北端のエリザベッタ岬が 北緯5420分。

(31-910)「西岸ノドロより東岸シレトコ迄に大湾を南部となし」・・「大湾」は、アニワ湾。「ノドロ」は、ノトロ岬、「シレトコ」は、中知床岬。

(31-11)「シレトコ岬」・・北知床岬のこと。

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『蝦夷日記』刊行



札幌歴史懇話会 古文書解読選 第4集

田端宏監修

『蝦夷日記(上)』刊行

280ページ

1部 2,000円






 札幌歴史懇話会では、このたび、『蝦夷日記(上)』を刊行しました。

「蝦夷日記」は、安政元年(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記です。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

 体裁は、影印と釈文を見開きで掲載し、古文書学習にも役立つよう編集しました。また、関連する歴史事項には、詳細な注記を付しました。購入方、どうぞよろしくお願いします。


 



 

札幌歴史懇話会 古文書解読選 第4集

田端宏監修

『蝦夷日記(上)』刊行

280ページ

1部 2,000円



 


9月学習『ふなをさ日記』の注

(57-1)「一同に」・・一緒に。

(57-3)「去(さる)にても」・・然るにても。[連語]《動詞「さり」(ラ変)の連体形+連語「にて」+係助詞「も」》「然」を「去」とするのは、当て字。「さる」は、「然有(さり)」で、副詞「さ」にラ変動詞「あり」の連体形「ある」のついた語で、「さある」が変化した語。そうであっても。それにしても。それはそれとしても

(57-5)「心へたり」・・文法的には、「心へ」は、「心え」が正しい。「心得(う)」は、ア行下2動詞だから、その連用形は、「心え」。

(57-6)「受(うけ)がひ」・・承知して。「うけがふ」は、「肯ふ」で、よいと認める。肯定する。承諾する。承知する。

(57-6)「こよなう」・・この上なく。非常に。とても。形容詞「こよなし」の連用形。「こよなし」は、後世、連用形、連体形が文章語として「この上ない」の意に用いられる。語源に関しては「これ(是)より(従)無し」「こよ(越)無し」「このよ(此世)無し」などの説がある。

(57-10)「深切(しんせつ)」・・他人への心情で、思いやりのあること。特に相手のために配慮のゆきとどいていること。また、そのさま。この味が派生したのは中世ごろからと思われる。「日葡辞書」の訳語は現在の「親切」にあたるが、「フカイタイセツ」とあるので、表記は「深切」であったと考えられる。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「深切」の補注』)

(58-2)「滞留(たいりゅう)」・・旅先にしばらくとどまっていること。滞在。逗留。

(58-2)「くさぐさ」・・種々。物事の種類や品数などの多いこと。また、そのさま。いろいろ。さまざま。

(58-3)「片はし」・・片端。ほんの一部分。一端。

(58-3)「聞(きか)まほし」・・聞きたい。「まほし」は、動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する。話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。

 *「まほし」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)語源については、推量の助動詞「む」のク語法「まく」と形容詞「欲し」とが合した「まくほし」が変化したとする説、「ま」に直接「欲し」が付いたとする説などがある。

(2)奈良時代から平安初期までは「まくほし」が用いられ、その後の和歌やかなの日記・物語などでは、「まほし」が用いられている。訓点語には用例が見られない。鎌倉時代になると、擬古的な文章を除いて一般的には「たし」が多用されるようになり、中世以後は雅語としてとらえられた。

(3)話し手以外の人物の願望を表わすところから、接尾語として取り扱う説(時枝誠記)もある。

(4)(2)の、そうあってほしいというところから、理想的だという意味の「あらまほし」のような用法が成立した。>とある。

(58-4)「からき思ひ」・・つらい思い。「からき」は、「辛(から)し」の連用形。「辛し」は、苦しい。つらい。せつない。悲痛だ。

(58-6)「まなび」・・学び。見たり聞いたりしたことを、そっくり人に語り伝える。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に、

 <マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(58-6)「物しつる」・・「物す」は、言う、書く、食う、与える、その他種々の物事を行なう意を表わす。本文書では、話す。

(58-7)「事にふれ」・・何かにつけて。折に触れて。機会があるたびごとに。

(58-7~8)「まねび」・・(58-6)の「まなび」に同じ。

(58-8)「何事にまれ」・・何事であろうと。「まれ」は、連語で、係助詞「も」に動詞「ある」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの。…(で)あろうと。…でも。

(58-8)「風与(ふと)しても」・・偶然になされるさま。ちょっとしたきっかけや思いつきで行なうさま。ひょいと。はからずも。

 *「ふと」に当てる字・・「与風」「不図」「風度」「与と」「不と」「風と」などがある。

 *「風」を、「フ」と読む熟語に「風情(ふぜい)」「風呂(ふろ)」「風土記(ふどき)」などがある。

(58-9)「わざ」・・業。こと。ありさま。おもむき。「容易なわざではない」

(58-9~10)「のどやか」・・長閑か。気持をのんびりして、ゆっくりするさま。時間的にゆとりのあるさま。

(58-10~11)「兎(と)有(あり)し、角有(かか)し」・・ああであった、こうであった。

 *「よの人のとあるかかるけぢめもききつめ給ひて」(『源氏物語 朝顔』)

 *「一事も見洩らさじとまぼりて、とありかかりと物ごとに言ひて」(『徒然草』)

 *「事のやう聞きてのち、とありかかりとわきても答へめ、疾く語り給へといへば」(『御伽草子・伊香物語』)

 *「かかり」・・斯有り。「かくあり」の変化した語。このようである。こんなである。

  **「かからば」・・斯有らば。かくあらば。それならば。こういうことならば。

  **「かかるに」・・斯有るに。かくあるに。

  **「かかれど」・・斯有れど。かくあれど。

  **「かかれば」・・斯有れば。かくあれば。

  **「とありともかかりとも」・・事態の雑多をそのまま容認する気持を表わす。どのようであっても。いかようでも。

(59-1)「あなる」・・「あなる」は、「あなり」の連体形。「あなり」は、動詞「あり」に伝聞推定の助動詞「なり」

の付いた「ありなり」の音便「あんなり」の「ん」が表記されなかった形。あるようだ。あるそうだ。あると

いう。

 (59-1)「仮初(かりそめ)」・・ふとしたさま。ほんの一時のさま。まにあわせ。その場かぎり。「仮初」は、当て字。

(59-1)「たいめ」・・「たいめん(対面)」の撥音無表記。対面。

(59-2)「かたきわざ」・・難き業。むずかいしいこと。

(59-2~3)「あかぬ心地」・・「あか・ぬ・心地」で、「あく=四段動詞〔飽く(十分満足する、堪能する、心ゆく)〕の未然形」+「ぬ=打消の助動詞〔ず〕の連体形」+「「心地」。飽きたりない気持ち、不満足な気持ち
「あながち」・・強ち。強引なさま。むりやりなさま。

(59-3)

(59-3)「手あて」・・手だて。手段。

(59-6~7)「やういく」・・養育。養い育てること。はぐくむこと。「やういく」は歴史的仮名遣い。発音は、「ヨーイク」。

(59-9)「国風(こくふう・くにふう・くにぶり)」・・その国の風俗、習慣。その地方の気風。

(59-10)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(59-11)「ついへ」・・ついえ。費。費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(61-2)「重吉の等が」・・「の」は誤記か。ここは、「重吉等が」か。

(61-6)「爰彼所(ここかしこ)」・・このところあのところ。この場所あの場所。此処彼処。

(61ー8)「するど」・・物が鋭くとがっているさま。鋭利なさま。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ずるど」の語誌には、

 <(1)中古以来の訓点資料に見られる語で、中世においても、軍記物語や抄物に多く用いられた。本来は物の先端の尖っている様子を意味する語であったが、後には人間の行動の機敏な様子をも表わすようになった。

(2)中世後期には、形容詞「するどし」が派生、時代が下るとともに形容詞の方が多く用いられるようになり、形容動詞は文章語的な性格が強まっていく。このような語義変化や形容詞派生の背景には、「すすどし」からの影響が考えられる。なお、近世には「すんど」という形も用いられた。>とある。

(62-2)「あかがねのへ」・・「あかがね」は、銅。「のへ」は不明。異本は、「銅にて」「銅もて」としている。

(62-3)「煙出(けむだ・けぶりだ・けむりだ)し」・・内部の煙を排出するために開けた、煙の出口。多く、家屋の軒下や屋根に開けた窓や煙突をいうが、炭焼きなどの竈(かま)や、船、蒸気機関車などの煙突をもいう。また、かやぶきの屋根などで、屋根の上に作ったけむだしを、特に、「櫓煙出(やぐらけむだし)」という。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「なまり」として、ケブダシ〔岩手・山形小国・栃木・信州上田〕、ケブダス〔千葉〕、ケブッダシ〔長崎・島原方言〕、ケモダシ〔仙台音韻・栃木〕、ケムタシ(常総)をげている。

(62-5)「がんぎ」・・雁木。階段。地方によっては、いろいろな場面に使われる。①海岸の石垣など設けられた階段。②桟橋の階段。③道路から川原などにおりる所につくられた段。④神社、寺院などの石段。⑤道路から前庭へ登る石段。語源は、雁が群れをなして空を飛ぶときのような形をしたものから、ぎざぎざの形、階段をいう。

(62-8)「三尺計もも」・・「も」が重複か。あるいは、二つ目の「も」は見せ消ちか。

(62-10)「観音びらき」・・扉の一種。観音をおさめる厨子の戸をまねて、左右の扉を中央で合わせるように作った戸。仏壇、倉、門などに多く用いられる。

9月『蝦夷地見込書秘書』注

(27-1)「私領中」・・蝦夷地が松前藩の支配時代の期間のこと。幕府は、文化4年(1807)3月、唐太を含む全蝦夷地を直轄地にした。

(27-2)「復領」・・蝦夷地が幕府直轄領になり、松前藩は、奥州梁川に移封になったが、文政4年(1821)12月7日、幕府は、松前蝦夷地を松前章広に還与した。

(27-2~3)「被  仰付(おおせつけられ)」・・「被」のあと改行されている。次の行に「仰付」があり、敬意を表す古文書独特の体裁。「平出(へいしゅつ)*」という。「平(たいら)に出(だ)す」意。

 *平出・・「平頭抄出(へいとうしょうしゅつ)」の意と釈し、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。また同様の主旨をもって、敬意を表すべき文字を行頭に数字高く掲げる擡頭、その文字の上を一、二字分空闕にする闕字、さらに貴人の諱の字画の末画を闕く闕画の制などがあるが、明治5年(1872)正月、令して天皇の諱の闕画の制を廃し、ついで同年八月、左院の議を納れ、擡頭・平出・闕字の書式を繁文縟礼とし、爾後記録に用いることを停止した。

(27-3)「松前奉行」・・幕府の松前蝦夷地における出先機関たる遠国奉行の名称の変遷を記す。

<第一次直轄時代>                            

・享和2年(1802)2月23日・・幕府、「蝦夷地奉行」設置。

・同年5月10日・・「箱館奉行」と改称。

・文化4年(1807)10月24日・・奉行所を福山に移し、「松前奉行」と称する。

・文政4年(1821)12月7日・・松前藩、蝦夷地復領。幕府の「松前奉行」は廃止。翌文政5(1822)最後の松前奉行夏目左近将監は西丸留守居に転任し、松前奉行は廃止。

<第二次直轄時代~幕府瓦解>

・安政元年(1854)630日・・幕府、「箱館奉行」を置く。

・明治元年(1868)412日・・新政府、「箱館裁判所」設置、同

年閏424日、「箱館府」と改称。同年閏427日、新政府、旧幕府箱館奉行より、事務を引き継ぐ。

(27-3)「国疆(こっきょう・くにざかい)」・・国境。

(27-5)「伊豆守」・・12代松前藩主(松前家16世)松前崇広(たかひろ)。伊豆守に任じられたのは、嘉永2(1849)728日。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として福山に生まれる。嘉永2年(184961日松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。享年38。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(27-5)「重役(じゅうやく・ちょうやく・おもやく)」・・ここで

は、松前藩の重職者をいう。嘉永2(1849)崇広襲封時の重職者は、家老4名、中老2名、用人11名である。

(27-5)「松前監物(まつまえけんもつ)・・当時松前藩の家老。

(27-8)「順廻(じゅんかい)」・・次々にまわすこと。また、順序に従ってまわしていくこと。

(27-89)「文政五年御戻地」・・幕府が、松前蝦夷地を松前藩に返したことをいう。その経過を記す。

 ・文政4(1821)127日・・松前章広、営中(江戸城)において、老中青山下野守より松前蝦夷地一円を章広に還与する旨申渡される。

 ・文政5(1822)413日・・松前藩家老蠣崎将監・同松前内蔵、松前奉行支配吟味役森覚蔵より福山城及び福山より樺太まで西地一円の引渡を受ける。

 ・同年724日・・松前奉行夏目左近将監、西丸留居に転任、松前奉行はこの年をもって廃止。

 復領の達しは、文政4127日にだされているが、松前蝦夷地にかかわる徴税権は文政5年から与え、文

 政4年分は、従来の領地(奥州梁川)からの収納とされた。したがって、実質的な復領は文政5年からということになる。

(27-9)「松前志摩守」・・9代松前藩主(松前家13世)松前章広。安永4(1775)730日生まれ。松前道広の長男。寛政4(1792)松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11(1799)東蝦夷地が、文化4(1807)には全蝦夷地が幕府直轄地となり,章広は陸奥梁川9000石に移封された。文政4(1821)松前復帰がかない、翌5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4(1833)925日死去。59歳。

(27-910)「夏目左近将監」・・松前奉行夏目信平。第一次直轄最後の松前奉行。文政5(1822)724日、松前氏に松前蝦夷地の引継を行った。

*「左近将監(さこんのしょうげん・さこんのじょう)」・・「将監」は、官名で、近衛府の第三等官。「じょう」「まつりごとひと」ともいう。近衛府は、平安時代、六衛府の一つ。初め、天平神護元年(765)、授刀衛が近衛府と改称され、大同2年(807)、近衛府を左近衛府と改め、中衛府を右近衛府と改めたもの。兵仗(ひょうじょう)を帯びて宮中を警固し、朝儀に列して威容をととのえ、また、行幸に供奉(ぐぶ)、警備した武官の府。左右の府に、大将(カミ)、中将(スケ)、少将(スケ)、将監(しょうげん・ジョウ)、将曹(しょうそう・サカン)、府生(ふしょう)、番長(ばんちょう)などの官があった。

(28-1)「榜示杭(ほうじぐい・ぼうじぐい)」・・境界のしるしに立てられた標柱。また、地名・方角・里程などを書いて示した標柱。示。示木。さかいぐい。

(28-3)「相准(あいじゅん)じ」・・習って。手本として。

 *<漢字の話>「准」・・「准」は、「準」の俗字であるが、法律用語の「批准」「准尉」(旧陸軍の階級の一つ)「准教授」などの語には習慣として「准」が用いられる。

(28-7)「ホコラニ」・・不詳。カラフト北西岸ポゴビか。

(28-7)「スメレンクロ夷人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。

(28-8)「容貌」・・影印の「皃」は、「貌」の異体字。

(28-8)「習俗(しゅうぞく)」・・世の中の習慣や風俗。風習。ならわし。

(28-9)「無慾」・・「慾」は、現代表記では「欲」に書き換える。

(28-9)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり。

(28-9)「鄙猥(ひわい)」・・下品なこと。

(28-9)「吝嗇(りんしょく)」・・ものおしみすること。

(28-11)「争闘(とうそう)」・・あらそいたたかうこと。たたかい。闘争。

 *<漢字の話>「闘」・・「闘」の旧字体は、「門がまえ」でなく、「鬥(たたかい)がまえ」の「鬪」。

(28-11)「儘(まま)」・・「間間(まま)」の当て字。「間間(まま)」は、そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

 *<漢字の話>「儘」・・影印は、「侭」と右は、「尽」となっているが、「侭」は、「儘」の俗字。なお、現在常用漢字の「尽」の旧字体が「盡」だから、ややこしい。

(29-1)「ウシヨロ」・・樺太中部西海岸の地名。ライチシカ湖の北にある。日本名鵜城。江戸時代に大野藩がこのに元会所というのを置いた。

(29-3)「フヌフ」・・樺太東海岸の元泊(モトドマリ)と樫保(カシホ)の間の地名。

(29-4)「進退(しんたい)」・・ふるまい。行為。

(29-6)「ウヱンコタン」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「遠古丹」。

(29-6)「コタンウトロ」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「鵜取」

(29-6)「タライカ」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「多来加」。タライカは、多来加湾の一番奥まった所にある、多来加湾は、南樺太北部東岸、北知床岬と野手戸岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(29-11)「水豹(すいひょう・あざらし)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(30-2)「介抱(かいほう)」・・江戸時代、幕府の蝦夷交易のこと。御救交易ともいう。蝦夷を介抱するという意味であるが、実際には与えるところが少なく、得るところが大であったという。

(30-4)「御普請役」・・樺太東浦を巡検した間宮鉄次郎のこと。「普請役」は、江戸幕府の職名の一つ。勘定奉行に属し、江戸・関八州、その他の幕府領、および幕府の管轄した河川の灌漑・用水、ならびに道や橋などの土木工事をつかさどったもので、勘定所詰、在方掛、四川用水方の三課に分かれ、元締・元締格・普請役などの役職があった。また、勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(30-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・樺太東浦を巡検した松岡徳次郎のこと。「御小人目付」は、江戸幕府の職名の一つ。徒目付(かちめつけ)に従って、各種の調査や警備などに当たる。

(30-5)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。

(30-7)「押包(おしつつみ)」・・「おし」は接頭語。「つつむ(包)」を強めていう。しいて隠す。はばかる。

(30-8)「随従(ずいじゅう・じうじゅ)」・・つきしたがうこと。供をして行くこと。

(30-8)「気随(きずい)」・・自分の思いのままに振る舞うこと。

(30-8)「懶惰(らんだ)」・・なまけ怠ること。無精をすること。「らいだ」は、「らんだ(懶惰)」を誤読した語。「懶」の音符(形声による漢字の組み立てで、音(おん)を表す部分)の「賴」に引かれて誤ったもの。こういう読みを「慣用音」という。

 *慣用音・・「運輸」などの「諭」を「ユ」と読むのは「慣用音」。「慣 用音」は、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音のこと。主として漢字の偏旁などの字体に惹かれて誤ったものが多い。漢字を日本語(やまと言葉)に当てはめた「訓読み」とは区別して言う。

 「輸」の音読みは、「シュ」で、「ユ」の読みはない。では、なぜ、「ユ」と読むのか。「教諭」の「諭」の旁の「兪(ユ)」に惹かれて、音が転じ、それが日本で通用したもの。 したがって、「輸血」は、本来は「シュケツ」。同様に「諭入」は「シュニュウ」、「運輸」は「ウンシュ」が本来の読み。漢和辞典には、「輸送」に「ユソウ・シュソウ」のふたつの読みが書かれている。「輸出」も「ユシュツ・シュシュツ」がある。

 *その他の慣用音の例・・①「消耗」の「耗」は、旁の「毛」に引かれて「モウ」と読む。正しくは「コウ」。②「情緒」の「緒」は「ショ」が正しく、「チョ」は慣用音。③その他「堪能」の「堪(カン)」を「タン」、

「立案」の「立(リュウ)」を「リツ」、「雑誌」の「雑(ゾウ)」を「ザツ」、「喫茶」の「喫(けき・キャク)」を「キツ」、「演劇」の「劇(ケキ・ギヤク」)を「ゲキ」と読むなどは慣用音。

 *百姓読み・・韻書(中国で韻文をつくるさいに脚韻をふむ参考書として、文字をその韻によって分類し、韻目の順に配列した書物。)に合わない音を「百姓読み」という。「百姓読み」それは必ずしも慣用音ばかりでなく、一時的な誤読をさした場合もある。「垂涎(すいぜん)」を「すいえん」、「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」などというたぐい。

(30-8)「生立(おいたち)」・・生い立つこと。特に、人が成長すること。育っていくこと。育ち。

(30-9)「被召寄(めしよされ)」・・呼び出され。「召寄(めしよ)す」は、目上の人が下位の人を呼びよせること。

(30-10)「シツカ」・・南樺太北部のタライカ湾に面した町。日本名「敷香」。第二次世界大戦前は樺太庁敷香支庁の所在地。付近に内川炭田があり、樺太庁鉄道の終点であった。

(30-11)「雑処(ざっしょ)」・・入りまじっていること。雑居。

 

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年9月8日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』8月学習の注

(52-2)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは、①か。

(52-2)「そこに一年計居ける」・・「そこ」とは、北千島のオンネコタン島。実際には7ヶ月ほど。

(52-2)「明(あく)る年」・・文化11(1814)

(53-4)「そこたち」・・「たち」は接尾語。対等以下の複数の相手にやや丁寧な気持をこめて用いる。

(53-4)「賄(まかない)」・・費用を出すこと。

(53-5)「いぶかしく思ひ」・・「いぶかし」は、疑わしい。よくわからない。語源説に、<イブカシキ(息吹如)の義で、イブキは、口から吹かれる息の意とも、霧の意ともいう>などがある。

 *<漢字の話>「訝」・・「いぶかる」は、「訝る」と書くが、「訝」の解字は、「言」+「牙」で、音符の「牙」は、つきだすきばの意味。疑いの気持をつきだし、言葉で確かめる、いぶかるに意味をも表す。

(54-1)「賄賂(わいろ)」・・自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。

 *<漢字の話>1「賄」・・解字は、「貝」+「有」。「貝」は、財貨で、むかし貝殻を貨幣としたのでいう。音符の「有」は、食事を手にして人にすすめるの意味。財貨を人に贈るの意味を表す。

 *<漢字の話>2「賂」・・解字は、「貝」+「各」。音符の「各」は、いたるの意味。財宝をもたらす・おくるの意味を表す。

(54-2)「いやしむる」・・下2動詞「いやしむ」の連体形。「いやしむ」は、いやしいものとして見下げる。軽んずる。さげすむ。いやしぶ。賤しい。

 *<漢字の話>「賤」・・解字は、「貝」+「戔」。音符の「戔」は、小さい、すくないの意味。金品が少ないの意味から、身分が低いの意味を表す。

(54-3)「振廻(ふるまい)」・・振舞。「舞」に「廻」を当てることもある。

 *「昔は大身小身は申に及ばず、軽き壱人も召仕ふ程の者、町人迄も正月は椀飯振廻(ワウバンブルマヒ)とて、親類縁者子供まで、洩さずよび集め、夫々分限相応に結構して、目出度とことぶき、うたひののしり、酒もりして遊ぶ。〈略〉是故に疎なる親類の中も、椀飯振舞に亦したしく成事あり」(随筆・『八十翁疇昔話』1716年頃か)

 *<日本語の話>「椀飯振廻(おうばんぶるまい)」・・「椀飯」の「おう」は、「わん(椀)」の変化したもの。

  「椀飯(おうばん)」・・王朝時代、公卿たちが殿上に集まったときの供膳。鎌倉・室町時代には将軍家に大名が祝膳を奉る儀式となり、年頭の恒例として、また、慶賀の時などに行なった。応仁の乱以後はあまり行なわれなくなり、江戸時代には、民家で正月に親類などを招いて宴を催すことをいった。大供応。盛饗。

  なお、「大盤振舞(おおばんぶるまい)」と書くのは、「おうばんぶるまい(椀飯振舞)」から転じて「大盤」などの字をあてるようになったもの。

  また、「椀飯(おうばん)」と「大盤(おおばん)」は、ルビが違う。

(54-4)「髪剃(こうぞり・かみそり)」・・「こうぞり」は、「かみそり」の変化した語。髪をそる小型の刃物。こ

うずり。かみそり。中古から中世にかけては「かうぞり」とも言ったが、近世には「かみそり」が一般化した。

 かみそりは、現在ではひげを剃る理容器具の一種であるが、本来は僧侶が剃髪をするのに用いた物である。『和

名抄』には「加美曽利」という文字が僧坊具の一つに数えられている。つまり仏教の伝来とともに中国からも

たらされたもので、僧侶が厳しい戒律によって、剃髪具として用いたことに始まるといえる。(ジャパンナレ

ッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

 現在、「剃刀」に「かみそり」を当てるが、熟字訓という。

*熟字訓・・漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。常用漢字表付表にない熟字訓に、土筆(つくし)、水母(くらげ)、私語(ささやき)、故郷(ふるさと)がある。

 平成22(2010)に改定された常用漢字表の付表には、これまでの110個から6個追加されて116個の熟字。

*<わたくしごと>「髪剃菜(こうぞりな)」・・コウゾリナ。キク科の多年草。顔剃菜(かおそりな)または剃刀菜(かみそりな)のなまったものといわれる。私が生活した日高の様似町のアポイ岳には、特別天然記念物の固有種エゾコウゾウリナがある。毎年、その花を見に、アポイに登った。

(54-9)「皆人(みなひと)」・・その場にいる人、全員。すべての人。

(54-11)「懇(ねんごろ)」・・「ねもころ」の変化した語。心をこめて、あるいは心底からするさま。熱心である

さま、親身であるさま。また、手あついさま。語源説のひとつに、「ネは根、ゴロは如の義。草木の根の行き

渡るがごとき心配りの意」がある。

(54-11)「つらつき」・・面付き。顔つき。おもだち。つらがまえ。

(55-4)「ヲンテイレハン」・・P54は、「ヲンテレイハン」。「イ」と「レ」が逆。

(55-5)「都よりのは仰には」・・「都よりのは」の「は」は誤記か。異本には、この「は」はなく、「都よりの仰

せには」としている。

(55-8)「そこ立(たち)は」・・「そこ達は」。「達」に「立」を当てている。あなた達は。

(56-4)「仙台の善六」・・「仙台(藩内、石巻)の善六」。寛政5(1793)1127日、16人が乗組み石巻を出

帆した若宮丸の乗組員。寛政8(1796)3月、乗組員中最初にイルクーツクで洗礼、洗礼名ピョートル・ステ

ファノビッチ・キセリョーフ。同年夏、イルクーツクで日本語学校教師補。文化12(1815)、同校正教師に

なる。レザノフの日本渡航時、通訳としてカムチャッカのペトロハバロフスクまで同行。文化10年(1813)

福山に囚われていたゴローニンらの受け取りにリコルドの通訳として箱館に来た。善六は、文化13(1816)

イルクーツクで死亡している。したがって、重吉がカムチャッカに着いた時には、善六は、イルクーツクに存

命であった。

*善六とロシアの日本語学校・・ロシアにおける最初の日本語学校は、1737年、ペテルブルクの科学アカデミー附属して設置された。その後、1753年イルクーツク移転が決定され、1754年イルクーツク航海学校が開設されたとき、その中に日本語学校が付設された。1816年に閉鎖されるまで、約80年間続いた。その間の日本人漂流民が教師として係ったことを略記する。

 ・17361739(ペテルブルク)・・ゴンザとソーザ(薩摩漂流民)

 ・17461785?(ペテルブルク・イルクーツク)・・竹内徳兵衛配下7名。(南部佐井の漂流金)「さのすけ」の息子は、露日辞典『レキシコン』を作る。

 ・17911796(イルクーツク)・・光太夫配下の庄蔵、新蔵(伊勢漂流民)

 ・17961810(イルクーツク)・・新蔵、善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)。新蔵、「和露辞典」著す。

 ・18101816(イルクーツク)・・善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)、善六、レザノフの「露和辞典」に寄与。

 ◎漂流民の日本語学校の活動は、教師が学のない漂流民であり、ロシア東洋学史にさほど大きな足跡を残さなかった。他方、まさに学のなかったことが、貴重な日本方言資料を生み出し、日本語学校は、日本方言学にきわめて大きな寄与をなしている。(この項、村山七郎著「ロシアの日本語学校について」=早稲田大学図書館刊『早稲田大学図書館紀要』第5号 1963=参照)

*若宮丸・・石巻出帆後、塩屋崎沖で漂流し、寛政6(1794)510日、アリューシャン列島に漂着。その後、

シベリヤを横断してイルクーツクに到着、更に首都ペテルブルグに行き、アレクサンドル1世に謁見、帰国の

意思を確認された漂流民にうち、津太夫ら4名が帰国を希望した。帰化した6人はロシアに残ることになった

が、帰化組のひとり善六は、通訳として世界一周の旅に同行することになった。5名を乗せたナジェジダ号と

ネヴァ号は、1803723日サンクトペテルブルグのクロンシュタット港から出航した。世界一周艦隊は、

コペンハーゲン、ファルマス(イギリス)、カナリア諸島、サンタカタリーナ島(ブラジル)南太平洋のマル

ケサス諸島を経て太平洋を渡り、カムチャッカ半島のペトロハバロフスクを経て長崎に到着した。彼らは、期

せずして、最初に世界一周した日本人となった。

資料2.若宮丸漂流民の足跡(『世界一周した漂流民』所収)

(56-3)「ユクーツカ」・・イルクーツク。ロシア連邦中部の都市。イルクーツク州の州都。バイカル湖の南西約

70キロメートル、アンガラ川とイルクート川の合流点に位置する。シベリア東部の経済・交通の要地であり、

化学・機械などの工業が盛ん。人口、行政区58万(2008)。17世紀半ばにコサックが砦(とりで)を築いたこと

に起源し、毛皮の集散地として発展。帝政ロシア時代は政治犯の流刑地だったほか、第二次大戦後は日本人の

主な抑留地の一つだった。なお、イルクーツクの日本語学校のついては、別添の東出朋著「ロシアにおける日

本語教育のあけぼのーロシアの東方政策から考えるー(九州大学比較社会文化学府刊『比較社会文化研究』第

34号 2013)参照。

(56-45)「カピタン」・・ポルトガル語のcapitãoに由来し、もとは、船長または船隊司令官の意である。カピ

タン=モールは、ポルトガル人の海上での最高司令官であるとともに、アジア在任地での首席・長官をさした。

一五五〇年代に、ポルトガルは日本貿易にもこの制度を設けた。日本人はこれを略して甲比丹と呼んだが、の

ちに平戸のイギリス・オランダの商館長をもそう呼び、特に鎖国以後は、もっぱら長崎のオランダ商館長をさ

すことになった。本書では、イルクーツク長官の意味か。

(56-5)「日本詞」・・「日本通詞」。「通」欠か。異本の多くは「日本通詞」とする。

(56-7)「徃来には十八ヶ月」・・ちなみに、現在のシベリヤ鉄道のウラジオストック~モスクワ間は、9,259キロ

 あり、6泊7日かかる。

(56-11)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま
(56-11)「内々(ないない)」・・ひそかに。内密に。

(56-11)「非是」・・「是非」の誤記か。ルビは「せ(ぜ)ひ」としている。 

  8月『蝦夷地見込書秘書』注                            

(23-4)「人別(にんべつ)」・・戸籍。

(23-5)「新井田隆助(にいだ・りゅうすけ)」・・安永6(1777)4月、藩命を受けて上下6人と共に、飛騨屋の船2隻で樺太に渡海、同島南部を見分、アイヌ介抱を実施した。「初而同島江渡海」とあるが、『新北海道史』によると、新井田の渡海以前にも、松前藩士が樺太に渡海した記述がある。

 ・寛永初年(1624)、松前藩主・公広(きんひろ)派遣の家士が樺太のウッサムまで巡回。

 ・寛永12(1635)、松前藩、佐籐加茂左衛門・蠣崎蔵人らをして樺太を見分させる。晩秋にいたり福山に帰る。

 ・寛永13(1636)、家士甲道庄右衛門を樺太に派遣、ウッサムで越年して翌春タライカまで経歴して帰る。

 ・元禄2(1689)、松前藩、藩士蠣崎伝右衛門を地図作成のためカラフトに派遣。(一説にカラフトには至らずと。)のち、元禄御国絵図となる。

 ・宝暦元年(1751)2月、松前藩士加藤嘉兵衛、樺太渡海・軽物交易の許可方を出願、かつ海鼠引漁業の調査を実施し報告する旨申出る、この件許可につき同年5月上下4人樺太に渡海・家作。以後宝暦7年(1757)まで毎年貨物を積載して近樺太シラヌシに渡り、山靼切地・十徳・青玉・魚油・干鱈・海豹皮などを交易し、藩に御用軽物を上納。

(23-67)<尊敬の体裁・平出>・・6行目の「検査致し候由」で、改行している。これを「平出」といい、古文書の趣のひとつ。7行目冒頭の「公辺」への敬意を表す。

(23-7)<尊敬の体裁・欠字>・・「渡海被 仰付」の「被」と「仰」の間に1字分空いている。これを「欠字」という。「仰」に敬意を表している。

(23-7)「公辺」・・公儀と同じ。

 *「公儀」・・近世の国家権力の呼称。語源的には公(おおやけ)の事柄・儀式、朝廷などを指したが、戦国時代には領域一円をおおう超越的で公権性のある政治権力(者)を指すようになる。将軍足利義昭は公儀と呼ばれた。しかし公儀は天下という、より普遍性をもつ概念に対しては下位にあった。元亀三年(一五七二)に織田信長は義昭を批判した意見書のなかで「天下之御為」として「公儀」義昭を責め、翌天正元年(一五七三)「公儀」に「御逆心」ありとして追放する。そのころ有力な戦国大名が公儀と自称し、家臣から公儀と呼ばれたり異なる用語で公儀と同義の意味を表わしたりし始める。全国支配権を失った幕府将軍の公儀性を奪うように地方的小公儀が生まれ、それらが真正の公儀の位置をめざして競争する。その際に足利氏公儀との結合あるいは継承がその近道であるとする判断が上洛への熱意をかきたてた。それを実現した信長は、足利氏公儀を追い、みずからも家臣から公儀と呼ばれたが、唯一の公儀たるべく他の戦国的公儀を粉砕する天下布武の戦争をすすめた。豊臣秀吉は天下統一の事業を継承しみずからを公儀と称し、私戦を禁じ百姓に農耕専一を命じ、天下の無事を約束したが、秀吉までは公儀意思は絶対権力者の個人的な恩恵に左右される人格的な色彩が色濃い。これに比し徳川氏が築きあげた公儀は、将軍個人の人格とは区別される法的組織的公儀であった。将軍個人の恣意が働く場合もあったが、撫民・御救の政治という原則が生き続け、老中合議を中心とする機関的公儀が政治をすすめた。それから外れる場合は民衆が一揆などの手段で撫民を要求した。大名もはじめ公儀と称したが、やがて公儀名代の立場で独自の仕置(しおき)を行い、公儀を背景に領内への威信を示そうとするようになる。そして幕府が大公儀とも呼ばれるようになる。近世後半以降、幕府の撫民能力喪失によって民衆諸身分の公儀離れが強まり、さらに対外関係の不手際で近世公儀の権力構造は根本的に疑われるようになる。(『ジャパンナレッジ版日本国史大辞典』)

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『ふなをさ日記』7月学習の注 

(47-1)「ヲロシヤの船エゾへ来り」・・文化8(1811)6月に、千島測量のためゴロウニン率いるディアナ号はクナシリ沖に来航、ゴロウニンはクナシリ島トマリに上陸し、会所役人と会見したが、会見中逃走をはかったためを幕府役人は彼らを捕えて箱館に幽囚、翌年8月にゴロウニンの安否確認にクナシリ島にやってきた副将リコルド率いるディアナ号が来航した。

(47-2)「大ごうけつ」・・高田屋嘉兵衛のこと。観世丸に乗船し箱館への帰途にクナシリに寄港したところをリコルドに拿捕され、カムチャツカに連行された。

(47-3)<文法の話>「かゝる」・・ラ変動詞「かかり(斯有=かくあり=)」が、近世以降、しだいに連体形による連体修飾用法だけに限られるようになり、現代口語文に残存したもので、改まったかたい表現に用いる。

このような。かくのごとき。

(47-34)「ヲロシヤ人も折々言出して舌をまきて居たりし」・・嘉兵衛は、カムチャッカで、ロシア語を習得し、翌年五月に国後島に送還され、ゴロウニン釈放、紛争の平和的解決のため、日露両国の交渉・調停に尽力し、日露の両当事者からその能力を賞賛された。

(47-5)「ルタカウ」・・ロシヤ海軍大尉イリヤ・ルダーコフ。リコルド不在中、カムチャッカ長官代理。

(47-2)「おこす」・・遣(おこ)す。こちらに送ってくる。よこす。

(47-6)「許(もと)」・・<漢字の話>「許」の訓は、「もと」では、「其許(そこもと)」「此処許(ここもと)」「国許(くにもと)」などがあるが、他にもさまざまある。「何許(いずこ)」、「如許(かくのごとし)」、「為許(なにがために)」、「許嫁・許婚(いいなずけ)」、「許多(あまた)」、「幾許(いくばく)」など。

(47-7)「にしきえ」・・錦絵。浮世絵の多色刷り木版画の総称。精巧な技術により多くの色を正確に刷り分けて、錦のような美しいいろどりを示す。江戸時代、明和2年(1765)絵暦の流行を契機として、絵師鈴木春信が、俳諧師・彫師・摺師の協力を得て創始、江戸を中心として発展した。絵師に、勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・歌川(安藤)広重などがいる。

(47-78)「忠臣蔵の十段目」・・「仮名手本忠臣蔵」の十段目は、「天川屋義平内の場」。討入りの支度の一切を頼まれた天河屋義平(天野屋利兵衛)の元へ大勢の捕り手が踏み込んできて、武器を隠しているだろうと尋問する。白状しないとみると、幼い一子由松の喉に刀をつきつけて口を割らせようとするが、義平は長持ちの上に座り、「天川屋の義平は男でござる。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と啖呵を切る。そこへ由良之助が現れ、これは義平の義侠心を試すために仕組んだことであると詫び、次のように語って舞台を去る。「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量」云々・・。

(47-8)「つゞき絵」・・二枚以上が組になって一つの構図・場面を表わした絵。一枚ずつでもある程度の独立性があって鑑賞できる。特に浮世絵についていうことが多い。

(47-9)<文法の話>「見する」・・下2動詞「見す」の連体形。ここは、本来は、終止形の「見す」だが、連体形で終わっている。「見する」のあとに「由」「事」などを省略する手法を「連体止め」という。

(47-9)「都ベトロブ」・・ペテルブルグ。ロシア連邦北西部の大都市サンクト・ペテルブルグの略称。設立時から1914年まで用いられたのち、一時ロシア風にペトログラードとよばれだが、ロシア革命後の24年レニングラードと改称、91年のソ連崩壊後ふたたびサンクト・ペテルブルグに戻った。

(48-5)「薩摩(さつま)の人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

 *<永寿丸の漂流と重吉らとの出会いと帰国>略年表

  ・文化9(1812)1019日、鹿児島藩主島津斉興(なりおき)手船永寿丸(23反帆600石積)は、江戸屋敷への廻米を積んで薩摩・脇本湊(現鹿児島県阿久根市脇本)を出帆。乗組員は、船頭の喜三左衛門ら25人。

  ・同年123日、紀州沖で、強風に遭い漂流。漂流中、13人が病死。

  ・文化10(1813)924日、北千島ハルムコタン島に漂着。強風で破船、6人は溺死。上陸した6人のう

ち、3人が死亡。残った船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人は島民に救助される。

  ・同年10月末、オンネコタンに渡り、翌文化11(1814)5月パラムシル島に渡る。7月、ロシア役人とともに、ロパトカ岬に上陸、ボリシエレックを経て、8月ペトロパヴロフスク着。長官代理ルダーコフと面会。

  ・文化12年(18155月ペトロパヴロフス出帆、海上40日でオホーツク着。710日頃、ロシヤ船パーウェル号で、オホーツク出帆、8月初めエトロフ沖に達するが強風のため上陸できず、9月中旬ペトロパヴロフスへ乗戻る。

  ・同年(1815)9月1日、ペトロパヴロフスクで永寿丸の3人と、督乗丸の重吉、音吉、半兵衛の3人が出会う。6人はペトロパヴロフス越冬する。

  ・文化13(1816)5月、永寿丸の喜三左衛門、督乗丸の重吉ら6人が、ロシヤ船パーウェル号で帰国の途に就く。611日、督乗丸の半兵衛病死。

  ・同年628日、重吉ら5人ウルップ島上陸。77日エトロフ島に渡り、松前へ護送され、92日、松前着。

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7月『蝦夷地見込書秘書』注

(19-2)「附届(つけとどけ)」・・「つけとどけ」は、現在では、「贈りもの」とか「賄賂」という意味で使われるが、ここでは、単に、「届け」「提出」くらいにの意味か。

 *<漢字の話>「附」・・①「附」は、「付」の旧字体ではなく、別の字。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付など)」、「附」は、「つく(附着・附録・附近など)」であったが、いまの国語ではいずれの場合も「付」でかかれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」用いる。(この項『漢語林』参照)

 ②「付」も「附」も、別々に常用漢字になっている。

  .常用漢字とは・・「一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安を、次の表のように定める。」(平成221130日内閣告示第二号)とあり、「次の表」、つまり、「常用漢字表」の「前書き」には、「この表は、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現在の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」

 ロ.「附則」は、法令で使われるから、「附」は常用漢字。

  ハ.また、大臣認証書、法律・政令・条約の公布文や批准書、大使の信任状、叙勲の表彰には、「大日本国璽」と「璽」が使われるから、「璽」(「御名御璽」の「璽」)も常用漢字。

.」も常用漢字・・「朕」は、昭和21年(1946)に「日本国憲法上諭」で使用されたのが最後で、その後は使われていない。「は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

御名 御璽

昭和二十一年十一月三日」

(19-3)「厚薄(こうはく)」・・あついこととうすいこと。多く、物事の度合が十分であるかないかにいう。

(19-3)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。まえかた。前前(ぜんぜん)。

 *「先前様(せんぜんさま)」・・「さま」は接尾語。さっきのお方様。最前のお方。

(19-3)「仕来(しきたり)」・・動詞「しきたる(仕来)」の連用形の名詞化。昔からのやりかた。以前からのな

らわし。先例。慣例。

(19-6)「領主より役場へ」・・『蝦夷地廻浦録』は、「より」を「並」とし、「領主並役場へ」とある。

(19-9)「仕切金(しきりきん・しきりがね)」・・売主が買主から受けとるべき代金、立替金、諸経費の総額。仕

切銀。しきり。

(20-1)「給扶持(きゅうぶち)」・・支給される扶持。

(20-2)「惣体(そうたい)」・・あるものの全体。物事のすべて。

(20-9)「等閑(とうかん・なおざり)」・・物事をいいかげんな気持ですること。気にもとめないで放っておくこ

と。なおざりにすること。おろそか。ゆるがせ。

(21-2)「長崎俵物(ながさきたわらもの)」・・江戸時代、長崎貿易の輸出品となった俵詰めの干塩魚。

(21-2)「煎海鼠(いりこ・いりなまこ)」・・①ナマコのはらわたを取り去って煮て干したもの。薬用、また、中

華料理の材料などに用いる。ほしこ。きんこ。②小さいイワシなどの雑魚(ざこ)を煮て干したもの。煎り雑

魚。煎り干し。煮干し。

(21-3)「墾開闢」・・「墾闢」「墾開」「開闢」はあるが、テキストのような3字の「墾開闢」は、手元の辞書には

見当たらない。『蝦夷地廻浦録』『開拓諸書付』とも、「開」はなく、「墾闢」としている。

・「墾闢(こんぺき・こんびゃく)」は、荒地をきり開くこと。また、新しい分野をきり開くこと。開墾。「闢」はひらく意。

・「墾開(こんかい)」は、山林や原野を切り開いて、耕地にすること。開墾。

・「開闢(かいびゃく」は、荒れ地などが切り開かれること。

(21-4)「銕□」・・『開拓諸書付』は「鉄坑」としている。

(21-6)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。

(21-6)「見据(みすえ)」・・判断。

(21-7)「差向(さしむき)」・・①さしあたり。今のところ。当面。②いってみれば。さしずめ。

(21-7)<見せ消ち>・・「御差数」の「差」の左に「ヒ」にような記号が見えるが、これは見せ消ちの記号。「差」

の右に「手」が書かれてあるが、「差」を「手」に訂正した意味。ここは「御手数」とする。

(21-8)「不被為懸(かけさせられず)」・・漢文訓読調にすると、「不懸」と返り点が3つある。

 *<構成>下2動詞「懸(か)く」の連用形「懸(か)け」+使役の助動詞「為(さす)」の未然形「為(さ)せ」+使役の助動詞「被(ら)る」の未然形「被(ら)れ」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」

(21-9)「粗(あらあら)」・・おおよそ。ざっと。概略。通常「粗粗」と書くが、「粗」1字だけでも、「あらあら」

と読む。

(21-10)「堀織部正(ほりおりべのかみ)」・・箱館奉行堀利熙(としひろ)。堀は、嘉永6(1853)目付となり

翌安政元年(1854)122日、松前蝦夷地事務取扱を仰付らる。28日松前蝦夷地出張を命じられ、327

日江戸出発、54日松前着、510日宗谷に向い福山出発。612日カラフトのクシュンコタンに渡航。帰

途は西蝦夷地を経て、820日、箱館帰着。一方、幕府は、630日に箱館奉行を置く。堀は、721日、箱館奉行に補され、従5位に叙し官名が織部正となった。堀は、カラフトの帰途であった。

 *「織部(おりべ)」・・「織部司(おりべのつかさ)」の略。織部司は、令制で大蔵省に属する官司。錦、綾、羅、紬を織り、また、いろいろの染物のことをつかさどった。職員に正(かみ)、佑(すけ)、令史(さかん)各一人と挑文師(あやどりのし)四人、挑文生(あやどりびと)八人ほかがいる。

 *<漢字の話>「熙」・・①漢音・呉音とも「キ」。部首は「火」の「連火(れんが)」又は「列火(れっか)」で総画は15画。②解字は、形声文字で、「巸」+「火」。音符の「巸」(イ・キ)は、授乳を待つ胎児の会意文字で、よろこぶの意。火を付し、よろこびや光の意味をあらわす。(『新漢語林』)

③「」は日本人の名前に使われる場合、「おき・さと・てる・のり・ひろ・ひろし・ひろむ・よし」などがあるは、堀利熙の場合、「としひろ」が一般的。なお、「」は平成2年(1990)に人名漢字になっている。元首相の「細川護煕(もりひろ)」の「」。

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古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年7月14日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

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