森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

『ふなをさ日記』10月学習の注  

          
(63-2)「釜」・・飯をたいたり湯をわかしたりする金属製の用具。文意から、本文の「かま」は、「竈」が正しいか。
*「竈」・・上に鍋、釜などをかけ、下から火を燃して、物を煮炊きするようにしたもの。
*<漢字の話>「竈」・・部首は、「穴」部。で21画。解字は、「穴」+「土」+「黽(かえる)」。かまどの上部は穴ではなく、蓋に空気抜けの穴がある形。四つの足に力を入れてふんばるかえるの形をしている。
 かまどは、粘土で作られたから、のちに「土」を付した。
*「塩竃市」・・宮城県塩竃市の公文書は、「竈」を使用している。以下は、「塩竃市」の公式HPから転載。
 <市役所で、塩竈という表記に統一するようになったのは、昭和16年(1941年)からで、それ以前には、「鹽竈」、「塩竈」、「鹽釜」、「塩釜」など、混在して用いられていました。「鹽」という漢字についは、当用漢字の「塩」を用いてもさしつかえありませんが、「竈」と「釜」では、字義が違っており、本市の地名の由来が、「鹽竈神社」の社号に因むものであるところから、「釜」ではなく「竈」を用いることに統一されました。>
(63-4)「降込(ふりこま)ぬ」・・内へはいらないように。「降込む」は。振って内へ入れる。
(63-4)「ぐるり」・・ある物のまわり。周辺。めぐり。
*「雨のくれ傘のぐるりに鳴(なく)蚊かな〈二水〉」(『俳諧・曠野(あらの)』)
*「家のぐるりを蟇(がま)が鳴いて廻った」(『雪国』川端康成)
 *「島はぐるりからはいあがる海の湿気に濡れている」(『島へ』島尾敏雄)
(63-5)「火気(かき)」・・火から出る熱気や炎。火の勢い。現在では多く「火」と同義に用いる。
(63-6)<文法の話①>「あせばむ」の「ばむ」・・接尾語。四段型活用。物の性質や状態を表わすような名詞、またはこれに準ずる動詞連用形や形容詞語幹などに付き、これを動詞化する。そのような性質をすこしそなえてくる、また、そのような状態に近づいてくるの意を添える。「汗ばむ」のほか、「なさけばむ」「汗ばむ」「けしきばむ」「老いばむ」「おかしばむ」「よしばむ」「赤ばむ」「黄ばむ」など。
*<文法の話①>・・『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)には、「バムのバはハシ(端)のハと同根は、ほんの一部分、端だけ、その性格を帯びる意。」とある。
(63-10)「雪合羽(ゆきがっぱ)」・・カッパは ポルトガル語。capa 。雪の日に着用する合羽。
(63-10)<見せ消ち>「すそ」・・元の影印は、「すへ」。「へ」の左に「ニ」のような記号が、「見せ消ち」記号で、「ヘ」を消している。そして、「へ」の右に「そ」を書き、「すへ」ではなく、「すそ」と読む。
(63-11)「引(ひき)かつぎ」・・「引きかつぐ」は、「引き被(か)づく」。引いて頭からかぶる。
(64-1)「腹籠(はらごろも)」・・胎内にいるこども。
(64-2)<文法の話>「うへて」・・「うへて」は、文法的には、「う(植)ゑて」で、「へ」は、「ゑ」。終止形は、ワ行下二活用の「う(植)う」。活用は、ゑ・ゑ・う・うる・うれ・ゑよ。「う(植)う」の連用形は、「う(植)ゑ」
 *「ゐなか家だつ柴垣して、前栽に心とめてうゑたり」(『源氏物語 帚木』)
 *「くふ物、薬種などをうゑおくべし」(『枕草子』)
 *ワ行下2段活用の動詞・・「植(う)う」「飢(う)・う」「据(す)う」の3語のみ。
  **ア行下2段活用の動詞・・「得(う)」の1語。
  **ヤ行下2段活用の動詞・・「覚(おぼ)ゆ」「「消(き)ゆ」「聞(きこ)ゆ」「越(こ)ゆ」「絶(た)ゆ」
                「見(み)ゆ」など
(64-5~6)「サンカ」・・そりは、ロシア語で、「сани(サーニィ)」。
(64-9)「二(ふ)タがは」・・二側(ふたがわ)。ここでは、二列の意
(64-9~10)「しりべ」・・うしろ。最後尾。
(65-2)「本(もと)のかた」・・根元の方。
(65-2)「錫杖(しゃくじょう)」・・杖の一種。大乗の比丘(びく。修業者)の一八種物
の一つ。上部のわくに数個の輪が掛けてあり、振ると鳴るので、道を行くとき、乞食
(こつじき)のときなどに用い、また、読経などの調子を取るのにも用いられる。さくじょう。
(65-2)「銀(かね)」・・金属の総称。「金・銀・銅・鉄」などを当てる。
(65-4)「こぢて」・・ひねって。「こぢて」は、上2動詞「こ(抉)づ」の連用形「こぢ」+接続助詞「て」。
(65-5)「鉄輪(かなわ)」・・金輪。金属製の輪。
(65-6)<文法の話>「すゝみかぬる」・・進みかねる。「かぬる」は、「かぬ」の連体形。「かぬ」は、下2型の接尾語。動詞の連用形に付いて、「・・のがむずかしい」「・・ことができない」の意の動詞をつくる。活用は、「ね・ね・ぬ・ぬる・ぬれ・ねよ」。
(65-7)「ソバカ」・・ロシア語で、犬は、「собака(サバーカ)」。
(65-11)「傍(かなわら)なる」・・かたわらにある。「なる」は、「にある」の音韻脱落。「ni・a・ru」の「ni」の「i」が脱落して、「na・ru」となった。「小諸なる古城のほとり」。
(66-1)「むやう」・・異本は、「無性」とし、「むしやう」とある。
(66-32)<文法の話>「止(とめ)て呉(く)るなり」・・「呉(く)る」は、補助動詞として用いる。多く動詞の連用形に接続助詞「て」を添えた形に付く。助動詞「なり」は終止形に接続するから、ここは、「呉(く)るなり」。
(66-3)「押かひ」・・「おしか(押支)ふ」の連用形。「押支ふ」は、おさえこむ。おさえて動かないようにする。
(66-3)「あひしらはざれば」・・取扱わないと。「あひしらふ」は、取り扱う。程よく処理する。適当にもてなす。
 「あひしらふ」の語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、
 <(1)シラフは互いにものごとをする意。アイは会か〔大言海〕。アイは相、合、対で対面の義〔名語記〕。
  (2)アイ(挨)シアフで、挨拶しあうことか〔和句解〕。>とある。
(66-5)「セリジ」・・にしんのロシア語は、「сельдь(セーリチ)」。
(66-10)「ヲレン」・・異本は、「ヲレン」に、「鹿」と傍注がある。なお、鹿は、ロシア語で、「олень(アレーニ)」。
(66-10)「トロハ」・・ロシア語で、薪は、「дрова(ドラバー)」。
(67-3)「木を切たるは、何れも中程より」・・宗堅寺本「船長日記」(愛知県郷土資料刊行会刊『池田寛親自筆本 戦況日記』)には、「切たるは」と「何れも」の間に、「雪を待てものする也。重吉、八月比に行て見たるに、所々に、木のきりたるが有を、」がある。
宗堅寺本「船長日記」(愛知県郷土資料刊行会刊『池田寛親自筆本 戦況日記』)
左は、影印。右は解読文(傍線が、テキストにない部分)
(67-2)「自(みずか)ら」・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「身(み)つから」の変化したもので、「つ」は助詞、「から」はそれ自体の意>として、以下の語源説を挙げている。
(1)ミツカラ(身之自)の義〔東子・大言海〕。
(2)身タルカラの義〔名語記〕。
(3)ミヒトツナガラ(身一乍)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
(4)ミミヅカラ(身自)の義〔雅言考〕。
(5)ミイヅカカリ(身出係)の義〔名言通〕。
(6)ミヅカラ(身之徒)の義〔国語の語根とその分類=大島正健〕。
(7)ミテカラ(身手間)の義〔言元梯〕。
 また、同訓異字に、
 【自】(シ・ジ)おのれみずから。自分で。また、自分ひとりで。「自戒」「自害」「自慢」《古みづから・おのづから・われ》
【身】(シン)からだ。み。転じて、みずからすすんで。「身上」「身事」《古みづから・み・われ・むくろ》
【躬】(キュウ)からだ。み。転じて、みずからすすんで。じぶんの身をもって。「躬化」「躬行」「躬耕」《古みづから・み・おのれ》
【親】(シン)したしくみずから。自分で直接手を下して。特に、天子や貴人などがみずからすすんでことを行なう様子。「親告」「親書」「親政」《古みづから・したし・ちかし・むつまし》
 を挙げている。
(67-4)「不審(ふしん)」・・①細かい点まではよくわからないこと。はっきりしないこと。また、そのさま。②疑わしく思うこと。疑惑をさしはさむこと。いぶかしいこと。
 *<漢字の話>「審」・・つまびらか。「不審」は、「つまびらかでない=はっきりしない」意。「審議」は、「つまびらかに議論すること」。いいかげんに話し合うことは「審議」とはいわない。
(67-6)「木賊(とくさ・もくぞく)」・・シダ類トクサ科の常緑多年草。北海道、本州中部以北の渓流沿いの林下などに生え、また観賞用に庭園などで栽培される。
 *「木賊(もくぞく)」・・トクサの漢名。中国では古くから薬用にされ、11世紀の本草書『嘉祐(かゆう)本草』には眼疾、止血などに効くとある。
  **「木賊」を「とくさ」と読む経過
    ①日本には、漢字が入る以前から、「とくさ」という植物があり、人々は、「とくさ」と言っていた。
    ②日本に、漢字が入って来た時、その植物名に、漢名の「木賊(モクゾク)」があり、以前から日本人が知っていた「とくさ」と同じ植物だった。
    ③それで、日本人は、「木賊」の音読み(中国風の読み)がどうであれ、「木賊」を「とくさ」と読む(訓読み)するようになった。
(67-6)「ホリカ(又はホツカ・ホレカ)」・・異本の多くは、「ボソレツカ」とする。カムチャッカ半島西海岸の
ボリシェレツクか。
(67-7)「いさゝか」・・「か」は接尾語。①かりそめであるさま。ほんのちょっと。②下に打消のことばを伴って、少しも。ちっとも。語源説に「イトササヤカの意〔日本釈名・燕石雑志〕」がある。また、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、
 <中古では、①は漢文訓読系の資料に、②は和文や和歌に用いられるという傾向がみられる。中世以降は②が多用されるようになるが、下に打消を伴う用法は次第に減少する。現代ではやや改まった文語的な表現として用いられる。>とある。
 <古語の話>「いささ」・・体言の上に付いて、いささかの、すこしばかりの、の意を表わす。「いささおがわ(ちいさい小川)」「いささおざさ(ちいさい笹)」「いささみず(少しの水)」など。
  **「万葉‐一九・四二九一」の「わが宿の伊佐左(イササ)むら竹吹く風の音のかそけきこの夕へかも〈大伴家持〉」の「いささ」を「いささか」の意の接頭語とする説もある。
(67-8)「目なれぬ」・・見慣れない。「目馴(めな)る」の未然形「めなれ」+打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」。
(67-9)<雑学>「松かさ」・・英語の "pineapple" (パイナップル・パインアップル)の場合は、「pine」は、「松」、
「apple」は「果実」で、本来は「松の果実」という名前の通り松かさのこと。後に松かさに似た別の果物、
すなわち現在のパイナップルを指すようになった。この場合、「apple」は、リンゴではなく、果実。
(67-10)「朝鮮松」・・朝鮮五葉。マツ科の常緑高木。本州の福島県以南岐阜県までと、四国の愛媛県、朝鮮、ウスリー、中国東北部の深山に生え、庭木ともする。漢名、海松・新羅松。
(67-10~11)「リナ(又はフナ)」・・異本は、「フナ」とするものが多い。米は、ロシア語で「рис(リース)」
(67-11)「カーサ」・・ロシア語で朝飯は、「завтрак(ザーフトラク)、昼飯は、「обед(アビエート)」、
夕食は、「ужин」

10月『蝦夷地見込書秘書』注

(31-2)「仕法(しほう)」・・「し」はサ変動詞「する」の連用形。物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(31-2)「貂(てん)」・・樺太に住むテンは、クロテン。

 *クロテン・・イタチ科の動物。以前は北ヨーロッパにもいたが絶滅し、現在ではシベリア、中国北部、および日本では北海道に分布する。体長4055センチメートル、尾長1219センチメートル。毛色は黒褐色が普通であるが、黒色や黄色に近いものもいる。のどの部分は黄白色である。森林にすむが木にはほとんど登らず、日中は樹洞や木の根元の巣穴にいて、夜、小哺乳類、小鳥、魚、果実などを食べる。夏に交尾し、翌年の4月ごろに34子を産む。飼育下での寿命は15年である。本種の毛皮は古代ギリシア時代より知られ、とくに純黒に近いものは貴族の喪服用に珍重された。そのため北ヨーロッパでは絶滅を招いた。ロシアでは旧ソ連時代に捕獲を規制するとともに、1933年以降養殖に成功していて、現在では養殖個体の放獣もしている。また、中国でも養殖している。日本では法規上はテンと区別されず狩猟獣扱いであるが、北海道ではイタチとともに捕獲を禁止している。

テンは、毛皮を利用するためと夜行性のために、銃器によらず、とらばさみや箱わななどのわなで捕獲する。その尾は古く冠飾に用いた。(この項、『ジャパンナレッジ版日本大百科全書(ニッポニカ)』)

*「貂」の読み・・音読みは、「チョウ」。「てん」と読む語源説に、「朝鮮音トン」からがある。(『大言海』)。

*「貂」を含む熟語

  **「貂裘(ちょうきゅう)」・・貂のかわごろも。転じて身分の高い人の衣服。

  **「貂寺(ちょうじ)」・・宮刑(キュウケイ・去勢の刑)を受けて、後宮(きさき・コウキュウ)に使え

る人。「貂」は冠のかざり。「寺」は「侍(はべる)」。

  **「貂蟬(ちょうせん・ちょうぜん・ちょうたん)」・・貂(てん)の尾と蝉(せみ)の羽を用いた冠の飾り。また、その冠。貂の毛は華美でなく、蝉は露を飲んで清らかだというところから、ともに君子の徳にかたどったもの。また、その冠をつける人。高位高官。

  **続貂(ぞくちょう)」・・中国、晉の趙王倫の一党が兵卒にいたるまで爵位をうけたので、時の人が冠にかざる貂が足りなくなったであろうと「貂不足、狗尾続(貂足らず、狗尾続=つ=ぐ)」といったという「晉書‐趙王倫伝」の故事から)つまらない者が高官に列すること。劣者が優者に続くこと。また、他のし残した仕事を受継いで行なうことを卑下していう語。狗尾(くび・こうび)続貂。

    ***「狗尾続貂(くびぞくちょう)」・・「狗尾(くび)」は犬のしっぽ、「続貂」は貂に続くの意。直訳は、冠にかざる貂の尾が足りないので、犬のしっぽの冠がそれに続く。転じて「つまらない者が高官に列すること。劣った者がすぐれた者のあとに続くことのたとえ。また、他人のし残した仕事をついで行なうことを卑下していうたとえにも用いる。

(P312)「宛(づつ)」・・数量、程度を表わす体言、またはそれに副助詞のついたものをうけ、量的に同一の割合、程度が繰り返されることを示す。語源説に、<ツツ(箇々)の義か。「一つ、二つ」などの「つ」を重ねたもの。>がある。

 *「宛」を「つづ」と訓じるのは、「宛」に、「宛(あて)る」=「割り当てる」の意味があり、「づつ」という訓読みがある。

(31-3)「小使(こずかい)」・・乙名の下に置かれたアイヌの役人。

(31-3)「土産取(みやげとり)」・・儀式のとき土産を賜る者として任命された役つきのアイヌ。乙名、小使、土産取の三役についている者を「役土人」といった。

(31-3)「軒別(けんべつ)」・・一軒一軒。戸ごと。家ごと。戸別。

(31-4)「水豹(あざらし・トッカリ)」・・アイヌ語で「トッカリ」という。紋別市にアザラシだけを保護する「紋別市オホーツクとっかりセンター」がある。

(31-6)「撫懐(ぶかい)」・・安んじる。

(31-8)「検究(けんきゅう)」・・調べ尽くす。

(31-8)「北極出地(ほっきょくしゅっち)」・・「北極」星が、「地」平から、「出」ている高さ。北極星の地平線上の高さをいう。ほぼその地の緯度に相当するので、昔地球上で緯度を測るのに用いられた。象限儀を使った。

 *別紙参考資料・・保柳睦美著「釜石市唐丹の測地記念標について」(『季刊東北地理25号』=東北地理学会刊 1974=所収)

 象限儀(しょうげんぎ)・・九〇度の目盛りをもつ扇形の天体高度測定器。近世初期に来航したポルトガル船の航海具として舶載されたのを契機にわが国でも製作使用され、原名Quadrante をとってカダランテと呼ばれた。四分の一円周の金属盤と望遠鏡を組み合わせたもの。

**象限・・座標平面が直交座標軸によって分けられる四つの部分の一つ一つ。右上、左上、左下、右下の順に第一象限、第二象限、第三象限、第四象限という。

(31-89)「四十六度より凡五十五度に経り」・・カラフトの緯度は、南端のノトロ岬が北緯4554分、北端のエリザベッタ岬が 北緯5420分。

(31-910)「西岸ノドロより東岸シレトコ迄に大湾を南部となし」・・「大湾」は、アニワ湾。「ノドロ」は、ノトロ岬、「シレトコ」は、中知床岬。

(31-11)「シレトコ岬」・・北知床岬のこと。

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『蝦夷日記』刊行



札幌歴史懇話会 古文書解読選 第4集

田端宏監修

『蝦夷日記(上)』刊行

280ページ

1部 2,000円






 札幌歴史懇話会では、このたび、『蝦夷日記(上)』を刊行しました。

「蝦夷日記」は、安政元年(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記です。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

 体裁は、影印と釈文を見開きで掲載し、古文書学習にも役立つよう編集しました。また、関連する歴史事項には、詳細な注記を付しました。購入方、どうぞよろしくお願いします。


 



 

札幌歴史懇話会 古文書解読選 第4集

田端宏監修

『蝦夷日記(上)』刊行

280ページ

1部 2,000円



 


9月学習『ふなをさ日記』の注

(57-1)「一同に」・・一緒に。

(57-3)「去(さる)にても」・・然るにても。[連語]《動詞「さり」(ラ変)の連体形+連語「にて」+係助詞「も」》「然」を「去」とするのは、当て字。「さる」は、「然有(さり)」で、副詞「さ」にラ変動詞「あり」の連体形「ある」のついた語で、「さある」が変化した語。そうであっても。それにしても。それはそれとしても

(57-5)「心へたり」・・文法的には、「心へ」は、「心え」が正しい。「心得(う)」は、ア行下2動詞だから、その連用形は、「心え」。

(57-6)「受(うけ)がひ」・・承知して。「うけがふ」は、「肯ふ」で、よいと認める。肯定する。承諾する。承知する。

(57-6)「こよなう」・・この上なく。非常に。とても。形容詞「こよなし」の連用形。「こよなし」は、後世、連用形、連体形が文章語として「この上ない」の意に用いられる。語源に関しては「これ(是)より(従)無し」「こよ(越)無し」「このよ(此世)無し」などの説がある。

(57-10)「深切(しんせつ)」・・他人への心情で、思いやりのあること。特に相手のために配慮のゆきとどいていること。また、そのさま。この味が派生したのは中世ごろからと思われる。「日葡辞書」の訳語は現在の「親切」にあたるが、「フカイタイセツ」とあるので、表記は「深切」であったと考えられる。(『ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「深切」の補注』)

(58-2)「滞留(たいりゅう)」・・旅先にしばらくとどまっていること。滞在。逗留。

(58-2)「くさぐさ」・・種々。物事の種類や品数などの多いこと。また、そのさま。いろいろ。さまざま。

(58-3)「片はし」・・片端。ほんの一部分。一端。

(58-3)「聞(きか)まほし」・・聞きたい。「まほし」は、動詞および助動詞「す」「さす」「ぬ」の未然形に下接する。話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。

 *「まほし」の語誌・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 <(1)語源については、推量の助動詞「む」のク語法「まく」と形容詞「欲し」とが合した「まくほし」が変化したとする説、「ま」に直接「欲し」が付いたとする説などがある。

(2)奈良時代から平安初期までは「まくほし」が用いられ、その後の和歌やかなの日記・物語などでは、「まほし」が用いられている。訓点語には用例が見られない。鎌倉時代になると、擬古的な文章を除いて一般的には「たし」が多用されるようになり、中世以後は雅語としてとらえられた。

(3)話し手以外の人物の願望を表わすところから、接尾語として取り扱う説(時枝誠記)もある。

(4)(2)の、そうあってほしいというところから、理想的だという意味の「あらまほし」のような用法が成立した。>とある。

(58-4)「からき思ひ」・・つらい思い。「からき」は、「辛(から)し」の連用形。「辛し」は、苦しい。つらい。せつない。悲痛だ。

(58-6)「まなび」・・学び。見たり聞いたりしたことを、そっくり人に語り伝える。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「まねぶ」の語誌に、

 <マナブは漢文訓読文、マネブは和文にそれぞれ多く用いられており、性差・位相差も考えられるが、マネブの使用例の多くは口まねする、あるできごとをその通りに模倣するの意で、教えを受ける・学問するといった意味あいはマナブにくらべるとずっと少ない。そのため模倣を意味するマネルが広く用いられるようになると、マネブは口頭語から退いてマナブの雅語のように意識されるに至る。>とある。

(58-6)「物しつる」・・「物す」は、言う、書く、食う、与える、その他種々の物事を行なう意を表わす。本文書では、話す。

(58-7)「事にふれ」・・何かにつけて。折に触れて。機会があるたびごとに。

(58-7~8)「まねび」・・(58-6)の「まなび」に同じ。

(58-8)「何事にまれ」・・何事であろうと。「まれ」は、連語で、係助詞「も」に動詞「ある」の命令形「あれ」の付いた「もあれ」の変化したもの。…(で)あろうと。…でも。

(58-8)「風与(ふと)しても」・・偶然になされるさま。ちょっとしたきっかけや思いつきで行なうさま。ひょいと。はからずも。

 *「ふと」に当てる字・・「与風」「不図」「風度」「与と」「不と」「風と」などがある。

 *「風」を、「フ」と読む熟語に「風情(ふぜい)」「風呂(ふろ)」「風土記(ふどき)」などがある。

(58-9)「わざ」・・業。こと。ありさま。おもむき。「容易なわざではない」

(58-9~10)「のどやか」・・長閑か。気持をのんびりして、ゆっくりするさま。時間的にゆとりのあるさま。

(58-10~11)「兎(と)有(あり)し、角有(かか)し」・・ああであった、こうであった。

 *「よの人のとあるかかるけぢめもききつめ給ひて」(『源氏物語 朝顔』)

 *「一事も見洩らさじとまぼりて、とありかかりと物ごとに言ひて」(『徒然草』)

 *「事のやう聞きてのち、とありかかりとわきても答へめ、疾く語り給へといへば」(『御伽草子・伊香物語』)

 *「かかり」・・斯有り。「かくあり」の変化した語。このようである。こんなである。

  **「かからば」・・斯有らば。かくあらば。それならば。こういうことならば。

  **「かかるに」・・斯有るに。かくあるに。

  **「かかれど」・・斯有れど。かくあれど。

  **「かかれば」・・斯有れば。かくあれば。

  **「とありともかかりとも」・・事態の雑多をそのまま容認する気持を表わす。どのようであっても。いかようでも。

(59-1)「あなる」・・「あなる」は、「あなり」の連体形。「あなり」は、動詞「あり」に伝聞推定の助動詞「なり」

の付いた「ありなり」の音便「あんなり」の「ん」が表記されなかった形。あるようだ。あるそうだ。あると

いう。

 (59-1)「仮初(かりそめ)」・・ふとしたさま。ほんの一時のさま。まにあわせ。その場かぎり。「仮初」は、当て字。

(59-1)「たいめ」・・「たいめん(対面)」の撥音無表記。対面。

(59-2)「かたきわざ」・・難き業。むずかいしいこと。

(59-2~3)「あかぬ心地」・・「あか・ぬ・心地」で、「あく=四段動詞〔飽く(十分満足する、堪能する、心ゆく)〕の未然形」+「ぬ=打消の助動詞〔ず〕の連体形」+「「心地」。飽きたりない気持ち、不満足な気持ち
「あながち」・・強ち。強引なさま。むりやりなさま。

(59-3)

(59-3)「手あて」・・手だて。手段。

(59-6~7)「やういく」・・養育。養い育てること。はぐくむこと。「やういく」は歴史的仮名遣い。発音は、「ヨーイク」。

(59-9)「国風(こくふう・くにふう・くにぶり)」・・その国の風俗、習慣。その地方の気風。

(59-10)「物入(ものいり)」・・費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(59-11)「ついへ」・・ついえ。費。費用のかかること。金銭を費やすこと。出費。

(61-2)「重吉の等が」・・「の」は誤記か。ここは、「重吉等が」か。

(61-6)「爰彼所(ここかしこ)」・・このところあのところ。この場所あの場所。此処彼処。

(61ー8)「するど」・・物が鋭くとがっているさま。鋭利なさま。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ずるど」の語誌には、

 <(1)中古以来の訓点資料に見られる語で、中世においても、軍記物語や抄物に多く用いられた。本来は物の先端の尖っている様子を意味する語であったが、後には人間の行動の機敏な様子をも表わすようになった。

(2)中世後期には、形容詞「するどし」が派生、時代が下るとともに形容詞の方が多く用いられるようになり、形容動詞は文章語的な性格が強まっていく。このような語義変化や形容詞派生の背景には、「すすどし」からの影響が考えられる。なお、近世には「すんど」という形も用いられた。>とある。

(62-2)「あかがねのへ」・・「あかがね」は、銅。「のへ」は不明。異本は、「銅にて」「銅もて」としている。

(62-3)「煙出(けむだ・けぶりだ・けむりだ)し」・・内部の煙を排出するために開けた、煙の出口。多く、家屋の軒下や屋根に開けた窓や煙突をいうが、炭焼きなどの竈(かま)や、船、蒸気機関車などの煙突をもいう。また、かやぶきの屋根などで、屋根の上に作ったけむだしを、特に、「櫓煙出(やぐらけむだし)」という。

 *ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、「なまり」として、ケブダシ〔岩手・山形小国・栃木・信州上田〕、ケブダス〔千葉〕、ケブッダシ〔長崎・島原方言〕、ケモダシ〔仙台音韻・栃木〕、ケムタシ(常総)をげている。

(62-5)「がんぎ」・・雁木。階段。地方によっては、いろいろな場面に使われる。①海岸の石垣など設けられた階段。②桟橋の階段。③道路から川原などにおりる所につくられた段。④神社、寺院などの石段。⑤道路から前庭へ登る石段。語源は、雁が群れをなして空を飛ぶときのような形をしたものから、ぎざぎざの形、階段をいう。

(62-8)「三尺計もも」・・「も」が重複か。あるいは、二つ目の「も」は見せ消ちか。

(62-10)「観音びらき」・・扉の一種。観音をおさめる厨子の戸をまねて、左右の扉を中央で合わせるように作った戸。仏壇、倉、門などに多く用いられる。

9月『蝦夷地見込書秘書』注

(27-1)「私領中」・・蝦夷地が松前藩の支配時代の期間のこと。幕府は、文化4年(1807)3月、唐太を含む全蝦夷地を直轄地にした。

(27-2)「復領」・・蝦夷地が幕府直轄領になり、松前藩は、奥州梁川に移封になったが、文政4年(1821)12月7日、幕府は、松前蝦夷地を松前章広に還与した。

(27-2~3)「被  仰付(おおせつけられ)」・・「被」のあと改行されている。次の行に「仰付」があり、敬意を表す古文書独特の体裁。「平出(へいしゅつ)*」という。「平(たいら)に出(だ)す」意。

 *平出・・「平頭抄出(へいとうしょうしゅつ)」の意と釈し、敬意を表すべき特定の文字を文章中に用いる場合、改行してその文字を行頭におく書式をいう。また同様の主旨をもって、敬意を表すべき文字を行頭に数字高く掲げる擡頭、その文字の上を一、二字分空闕にする闕字、さらに貴人の諱の字画の末画を闕く闕画の制などがあるが、明治5年(1872)正月、令して天皇の諱の闕画の制を廃し、ついで同年八月、左院の議を納れ、擡頭・平出・闕字の書式を繁文縟礼とし、爾後記録に用いることを停止した。

(27-3)「松前奉行」・・幕府の松前蝦夷地における出先機関たる遠国奉行の名称の変遷を記す。

<第一次直轄時代>                            

・享和2年(1802)2月23日・・幕府、「蝦夷地奉行」設置。

・同年5月10日・・「箱館奉行」と改称。

・文化4年(1807)10月24日・・奉行所を福山に移し、「松前奉行」と称する。

・文政4年(1821)12月7日・・松前藩、蝦夷地復領。幕府の「松前奉行」は廃止。翌文政5(1822)最後の松前奉行夏目左近将監は西丸留守居に転任し、松前奉行は廃止。

<第二次直轄時代~幕府瓦解>

・安政元年(1854)630日・・幕府、「箱館奉行」を置く。

・明治元年(1868)412日・・新政府、「箱館裁判所」設置、同

年閏424日、「箱館府」と改称。同年閏427日、新政府、旧幕府箱館奉行より、事務を引き継ぐ。

(27-3)「国疆(こっきょう・くにざかい)」・・国境。

(27-5)「伊豆守」・・12代松前藩主(松前家16世)松前崇広(たかひろ)。伊豆守に任じられたのは、嘉永2(1849)728日。崇広は、文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として福山に生まれる。嘉永2年(184961日松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。享年38。墓は、松前町松代の法幢寺にある。

(27-5)「重役(じゅうやく・ちょうやく・おもやく)」・・ここで

は、松前藩の重職者をいう。嘉永2(1849)崇広襲封時の重職者は、家老4名、中老2名、用人11名である。

(27-5)「松前監物(まつまえけんもつ)・・当時松前藩の家老。

(27-8)「順廻(じゅんかい)」・・次々にまわすこと。また、順序に従ってまわしていくこと。

(27-89)「文政五年御戻地」・・幕府が、松前蝦夷地を松前藩に返したことをいう。その経過を記す。

 ・文政4(1821)127日・・松前章広、営中(江戸城)において、老中青山下野守より松前蝦夷地一円を章広に還与する旨申渡される。

 ・文政5(1822)413日・・松前藩家老蠣崎将監・同松前内蔵、松前奉行支配吟味役森覚蔵より福山城及び福山より樺太まで西地一円の引渡を受ける。

 ・同年724日・・松前奉行夏目左近将監、西丸留居に転任、松前奉行はこの年をもって廃止。

 復領の達しは、文政4127日にだされているが、松前蝦夷地にかかわる徴税権は文政5年から与え、文

 政4年分は、従来の領地(奥州梁川)からの収納とされた。したがって、実質的な復領は文政5年からということになる。

(27-9)「松前志摩守」・・9代松前藩主(松前家13世)松前章広。安永4(1775)730日生まれ。松前道広の長男。寛政4(1792)松前藩主9代となる。ロシア使節ラクスマンやイギリス船の来航などがあり、寛政11(1799)東蝦夷地が、文化4(1807)には全蝦夷地が幕府直轄地となり,章広は陸奥梁川9000石に移封された。文政4(1821)松前復帰がかない、翌5年藩校徽典(きてん)館を創立。天保4(1833)925日死去。59歳。

(27-910)「夏目左近将監」・・松前奉行夏目信平。第一次直轄最後の松前奉行。文政5(1822)724日、松前氏に松前蝦夷地の引継を行った。

*「左近将監(さこんのしょうげん・さこんのじょう)」・・「将監」は、官名で、近衛府の第三等官。「じょう」「まつりごとひと」ともいう。近衛府は、平安時代、六衛府の一つ。初め、天平神護元年(765)、授刀衛が近衛府と改称され、大同2年(807)、近衛府を左近衛府と改め、中衛府を右近衛府と改めたもの。兵仗(ひょうじょう)を帯びて宮中を警固し、朝儀に列して威容をととのえ、また、行幸に供奉(ぐぶ)、警備した武官の府。左右の府に、大将(カミ)、中将(スケ)、少将(スケ)、将監(しょうげん・ジョウ)、将曹(しょうそう・サカン)、府生(ふしょう)、番長(ばんちょう)などの官があった。

(28-1)「榜示杭(ほうじぐい・ぼうじぐい)」・・境界のしるしに立てられた標柱。また、地名・方角・里程などを書いて示した標柱。示。示木。さかいぐい。

(28-3)「相准(あいじゅん)じ」・・習って。手本として。

 *<漢字の話>「准」・・「准」は、「準」の俗字であるが、法律用語の「批准」「准尉」(旧陸軍の階級の一つ)「准教授」などの語には習慣として「准」が用いられる。

(28-7)「ホコラニ」・・不詳。カラフト北西岸ポゴビか。

(28-7)「スメレンクロ夷人」・・ギリヤーク人。樺太北部およびその対岸黒竜江の最下流域に分布している民族。ギリヤークは黒竜江の下流域を本居としていたが、満洲化したゴルジの圧迫で、漸次河口方面に追いつめられ、その一部が樺太の北部に移住したものと推測される。ギリヤークはロシア人の称呼で、アイヌはスメレングルと称した。ギリヤークの自称族名はニクブン(樺太)もしくはニバフ(大陸)である。

(28-8)「容貌」・・影印の「皃」は、「貌」の異体字。

(28-8)「習俗(しゅうぞく)」・・世の中の習慣や風俗。風習。ならわし。

(28-9)「無慾」・・「慾」は、現代表記では「欲」に書き換える。

(28-9)「生質(せいしつ)」・・生まれつきのたち。もって生まれた気質。ひととなり。

(28-9)「鄙猥(ひわい)」・・下品なこと。

(28-9)「吝嗇(りんしょく)」・・ものおしみすること。

(28-11)「争闘(とうそう)」・・あらそいたたかうこと。たたかい。闘争。

 *<漢字の話>「闘」・・「闘」の旧字体は、「門がまえ」でなく、「鬥(たたかい)がまえ」の「鬪」。

(28-11)「儘(まま)」・・「間間(まま)」の当て字。「間間(まま)」は、そういつもというわけではないが、どうかすると時々出現するさまを表わす語。おりおり。たまたま。往々。

 *<漢字の話>「儘」・・影印は、「侭」と右は、「尽」となっているが、「侭」は、「儘」の俗字。なお、現在常用漢字の「尽」の旧字体が「盡」だから、ややこしい。

(29-1)「ウシヨロ」・・樺太中部西海岸の地名。ライチシカ湖の北にある。日本名鵜城。江戸時代に大野藩がこのに元会所というのを置いた。

(29-3)「フヌフ」・・樺太東海岸の元泊(モトドマリ)と樫保(カシホ)の間の地名。

(29-4)「進退(しんたい)」・・ふるまい。行為。

(29-6)「ウヱンコタン」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「遠古丹」。

(29-6)「コタンウトロ」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「鵜取」

(29-6)「タライカ」・・樺太中部東海岸の地名。日本名「多来加」。タライカは、多来加湾の一番奥まった所にある、多来加湾は、南樺太北部東岸、北知床岬と野手戸岬との間を占め、南に大きく開ける湾。海岸は美しい弧状をなし、出入りに乏しい。北から幌内川が注ぐ。湾奥に砂嘴によって隔てられた潟湖である多来加湖(面積180平方キロメートル)を抱く。湾岸周辺は泥炭地および凍土帯となる。第二次世界大戦前には内路(ないろ)、散江(ちりえ)などの漁村があり、沿岸はサケ、マスの漁場となっていた。中心都市は敷香(しくか)であった。

(29-11)「水豹(すいひょう・あざらし)」・・「あざらし(海豹)」の異名。

(30-2)「介抱(かいほう)」・・江戸時代、幕府の蝦夷交易のこと。御救交易ともいう。蝦夷を介抱するという意味であるが、実際には与えるところが少なく、得るところが大であったという。

(30-4)「御普請役」・・樺太東浦を巡検した間宮鉄次郎のこと。「普請役」は、江戸幕府の職名の一つ。勘定奉行に属し、江戸・関八州、その他の幕府領、および幕府の管轄した河川の灌漑・用水、ならびに道や橋などの土木工事をつかさどったもので、勘定所詰、在方掛、四川用水方の三課に分かれ、元締・元締格・普請役などの役職があった。また、勘定所詰御普請役は諸国臨時御用などを勤めた。

(30-4)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・樺太東浦を巡検した松岡徳次郎のこと。「御小人目付」は、江戸幕府の職名の一つ。徒目付(かちめつけ)に従って、各種の調査や警備などに当たる。

(30-5)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。

(30-7)「押包(おしつつみ)」・・「おし」は接頭語。「つつむ(包)」を強めていう。しいて隠す。はばかる。

(30-8)「随従(ずいじゅう・じうじゅ)」・・つきしたがうこと。供をして行くこと。

(30-8)「気随(きずい)」・・自分の思いのままに振る舞うこと。

(30-8)「懶惰(らんだ)」・・なまけ怠ること。無精をすること。「らいだ」は、「らんだ(懶惰)」を誤読した語。「懶」の音符(形声による漢字の組み立てで、音(おん)を表す部分)の「賴」に引かれて誤ったもの。こういう読みを「慣用音」という。

 *慣用音・・「運輸」などの「諭」を「ユ」と読むのは「慣用音」。「慣 用音」は、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音のこと。主として漢字の偏旁などの字体に惹かれて誤ったものが多い。漢字を日本語(やまと言葉)に当てはめた「訓読み」とは区別して言う。

 「輸」の音読みは、「シュ」で、「ユ」の読みはない。では、なぜ、「ユ」と読むのか。「教諭」の「諭」の旁の「兪(ユ)」に惹かれて、音が転じ、それが日本で通用したもの。 したがって、「輸血」は、本来は「シュケツ」。同様に「諭入」は「シュニュウ」、「運輸」は「ウンシュ」が本来の読み。漢和辞典には、「輸送」に「ユソウ・シュソウ」のふたつの読みが書かれている。「輸出」も「ユシュツ・シュシュツ」がある。

 *その他の慣用音の例・・①「消耗」の「耗」は、旁の「毛」に引かれて「モウ」と読む。正しくは「コウ」。②「情緒」の「緒」は「ショ」が正しく、「チョ」は慣用音。③その他「堪能」の「堪(カン)」を「タン」、

「立案」の「立(リュウ)」を「リツ」、「雑誌」の「雑(ゾウ)」を「ザツ」、「喫茶」の「喫(けき・キャク)」を「キツ」、「演劇」の「劇(ケキ・ギヤク」)を「ゲキ」と読むなどは慣用音。

 *百姓読み・・韻書(中国で韻文をつくるさいに脚韻をふむ参考書として、文字をその韻によって分類し、韻目の順に配列した書物。)に合わない音を「百姓読み」という。「百姓読み」それは必ずしも慣用音ばかりでなく、一時的な誤読をさした場合もある。「垂涎(すいぜん)」を「すいえん」、「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」などというたぐい。

(30-8)「生立(おいたち)」・・生い立つこと。特に、人が成長すること。育っていくこと。育ち。

(30-9)「被召寄(めしよされ)」・・呼び出され。「召寄(めしよ)す」は、目上の人が下位の人を呼びよせること。

(30-10)「シツカ」・・南樺太北部のタライカ湾に面した町。日本名「敷香」。第二次世界大戦前は樺太庁敷香支庁の所在地。付近に内川炭田があり、樺太庁鉄道の終点であった。

(30-11)「雑処(ざっしょ)」・・入りまじっていること。雑居。

 

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年9月8日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

『ふなをさ日記』8月学習の注

(52-2)「又の日」・・①次の日。翌日。②別の日。後日。ここでは、①か。

(52-2)「そこに一年計居ける」・・「そこ」とは、北千島のオンネコタン島。実際には7ヶ月ほど。

(52-2)「明(あく)る年」・・文化11(1814)

(53-4)「そこたち」・・「たち」は接尾語。対等以下の複数の相手にやや丁寧な気持をこめて用いる。

(53-4)「賄(まかない)」・・費用を出すこと。

(53-5)「いぶかしく思ひ」・・「いぶかし」は、疑わしい。よくわからない。語源説に、<イブカシキ(息吹如)の義で、イブキは、口から吹かれる息の意とも、霧の意ともいう>などがある。

 *<漢字の話>「訝」・・「いぶかる」は、「訝る」と書くが、「訝」の解字は、「言」+「牙」で、音符の「牙」は、つきだすきばの意味。疑いの気持をつきだし、言葉で確かめる、いぶかるに意味をも表す。

(54-1)「賄賂(わいろ)」・・自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。

 *<漢字の話>1「賄」・・解字は、「貝」+「有」。「貝」は、財貨で、むかし貝殻を貨幣としたのでいう。音符の「有」は、食事を手にして人にすすめるの意味。財貨を人に贈るの意味を表す。

 *<漢字の話>2「賂」・・解字は、「貝」+「各」。音符の「各」は、いたるの意味。財宝をもたらす・おくるの意味を表す。

(54-2)「いやしむる」・・下2動詞「いやしむ」の連体形。「いやしむ」は、いやしいものとして見下げる。軽んずる。さげすむ。いやしぶ。賤しい。

 *<漢字の話>「賤」・・解字は、「貝」+「戔」。音符の「戔」は、小さい、すくないの意味。金品が少ないの意味から、身分が低いの意味を表す。

(54-3)「振廻(ふるまい)」・・振舞。「舞」に「廻」を当てることもある。

 *「昔は大身小身は申に及ばず、軽き壱人も召仕ふ程の者、町人迄も正月は椀飯振廻(ワウバンブルマヒ)とて、親類縁者子供まで、洩さずよび集め、夫々分限相応に結構して、目出度とことぶき、うたひののしり、酒もりして遊ぶ。〈略〉是故に疎なる親類の中も、椀飯振舞に亦したしく成事あり」(随筆・『八十翁疇昔話』1716年頃か)

 *<日本語の話>「椀飯振廻(おうばんぶるまい)」・・「椀飯」の「おう」は、「わん(椀)」の変化したもの。

  「椀飯(おうばん)」・・王朝時代、公卿たちが殿上に集まったときの供膳。鎌倉・室町時代には将軍家に大名が祝膳を奉る儀式となり、年頭の恒例として、また、慶賀の時などに行なった。応仁の乱以後はあまり行なわれなくなり、江戸時代には、民家で正月に親類などを招いて宴を催すことをいった。大供応。盛饗。

  なお、「大盤振舞(おおばんぶるまい)」と書くのは、「おうばんぶるまい(椀飯振舞)」から転じて「大盤」などの字をあてるようになったもの。

  また、「椀飯(おうばん)」と「大盤(おおばん)」は、ルビが違う。

(54-4)「髪剃(こうぞり・かみそり)」・・「こうぞり」は、「かみそり」の変化した語。髪をそる小型の刃物。こ

うずり。かみそり。中古から中世にかけては「かうぞり」とも言ったが、近世には「かみそり」が一般化した。

 かみそりは、現在ではひげを剃る理容器具の一種であるが、本来は僧侶が剃髪をするのに用いた物である。『和

名抄』には「加美曽利」という文字が僧坊具の一つに数えられている。つまり仏教の伝来とともに中国からも

たらされたもので、僧侶が厳しい戒律によって、剃髪具として用いたことに始まるといえる。(ジャパンナレ

ッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』)

 現在、「剃刀」に「かみそり」を当てるが、熟字訓という。

*熟字訓・・漢字二字、三字などの熟字を訓読すること。また、その訓。常用漢字表付表にない熟字訓に、土筆(つくし)、水母(くらげ)、私語(ささやき)、故郷(ふるさと)がある。

 平成22(2010)に改定された常用漢字表の付表には、これまでの110個から6個追加されて116個の熟字。

*<わたくしごと>「髪剃菜(こうぞりな)」・・コウゾリナ。キク科の多年草。顔剃菜(かおそりな)または剃刀菜(かみそりな)のなまったものといわれる。私が生活した日高の様似町のアポイ岳には、特別天然記念物の固有種エゾコウゾウリナがある。毎年、その花を見に、アポイに登った。

(54-9)「皆人(みなひと)」・・その場にいる人、全員。すべての人。

(54-11)「懇(ねんごろ)」・・「ねもころ」の変化した語。心をこめて、あるいは心底からするさま。熱心である

さま、親身であるさま。また、手あついさま。語源説のひとつに、「ネは根、ゴロは如の義。草木の根の行き

渡るがごとき心配りの意」がある。

(54-11)「つらつき」・・面付き。顔つき。おもだち。つらがまえ。

(55-4)「ヲンテイレハン」・・P54は、「ヲンテレイハン」。「イ」と「レ」が逆。

(55-5)「都よりのは仰には」・・「都よりのは」の「は」は誤記か。異本には、この「は」はなく、「都よりの仰

せには」としている。

(55-8)「そこ立(たち)は」・・「そこ達は」。「達」に「立」を当てている。あなた達は。

(56-4)「仙台の善六」・・「仙台(藩内、石巻)の善六」。寛政5(1793)1127日、16人が乗組み石巻を出

帆した若宮丸の乗組員。寛政8(1796)3月、乗組員中最初にイルクーツクで洗礼、洗礼名ピョートル・ステ

ファノビッチ・キセリョーフ。同年夏、イルクーツクで日本語学校教師補。文化12(1815)、同校正教師に

なる。レザノフの日本渡航時、通訳としてカムチャッカのペトロハバロフスクまで同行。文化10年(1813)

福山に囚われていたゴローニンらの受け取りにリコルドの通訳として箱館に来た。善六は、文化13(1816)

イルクーツクで死亡している。したがって、重吉がカムチャッカに着いた時には、善六は、イルクーツクに存

命であった。

*善六とロシアの日本語学校・・ロシアにおける最初の日本語学校は、1737年、ペテルブルクの科学アカデミー附属して設置された。その後、1753年イルクーツク移転が決定され、1754年イルクーツク航海学校が開設されたとき、その中に日本語学校が付設された。1816年に閉鎖されるまで、約80年間続いた。その間の日本人漂流民が教師として係ったことを略記する。

 ・17361739(ペテルブルク)・・ゴンザとソーザ(薩摩漂流民)

 ・17461785?(ペテルブルク・イルクーツク)・・竹内徳兵衛配下7名。(南部佐井の漂流金)「さのすけ」の息子は、露日辞典『レキシコン』を作る。

 ・17911796(イルクーツク)・・光太夫配下の庄蔵、新蔵(伊勢漂流民)

 ・17961810(イルクーツク)・・新蔵、善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)。新蔵、「和露辞典」著す。

 ・18101816(イルクーツク)・・善六(仙台石巻の若宮丸漂流民)、善六、レザノフの「露和辞典」に寄与。

 ◎漂流民の日本語学校の活動は、教師が学のない漂流民であり、ロシア東洋学史にさほど大きな足跡を残さなかった。他方、まさに学のなかったことが、貴重な日本方言資料を生み出し、日本語学校は、日本方言学にきわめて大きな寄与をなしている。(この項、村山七郎著「ロシアの日本語学校について」=早稲田大学図書館刊『早稲田大学図書館紀要』第5号 1963=参照)

*若宮丸・・石巻出帆後、塩屋崎沖で漂流し、寛政6(1794)510日、アリューシャン列島に漂着。その後、

シベリヤを横断してイルクーツクに到着、更に首都ペテルブルグに行き、アレクサンドル1世に謁見、帰国の

意思を確認された漂流民にうち、津太夫ら4名が帰国を希望した。帰化した6人はロシアに残ることになった

が、帰化組のひとり善六は、通訳として世界一周の旅に同行することになった。5名を乗せたナジェジダ号と

ネヴァ号は、1803723日サンクトペテルブルグのクロンシュタット港から出航した。世界一周艦隊は、

コペンハーゲン、ファルマス(イギリス)、カナリア諸島、サンタカタリーナ島(ブラジル)南太平洋のマル

ケサス諸島を経て太平洋を渡り、カムチャッカ半島のペトロハバロフスクを経て長崎に到着した。彼らは、期

せずして、最初に世界一周した日本人となった。

資料2.若宮丸漂流民の足跡(『世界一周した漂流民』所収)

(56-3)「ユクーツカ」・・イルクーツク。ロシア連邦中部の都市。イルクーツク州の州都。バイカル湖の南西約

70キロメートル、アンガラ川とイルクート川の合流点に位置する。シベリア東部の経済・交通の要地であり、

化学・機械などの工業が盛ん。人口、行政区58万(2008)。17世紀半ばにコサックが砦(とりで)を築いたこと

に起源し、毛皮の集散地として発展。帝政ロシア時代は政治犯の流刑地だったほか、第二次大戦後は日本人の

主な抑留地の一つだった。なお、イルクーツクの日本語学校のついては、別添の東出朋著「ロシアにおける日

本語教育のあけぼのーロシアの東方政策から考えるー(九州大学比較社会文化学府刊『比較社会文化研究』第

34号 2013)参照。

(56-45)「カピタン」・・ポルトガル語のcapitãoに由来し、もとは、船長または船隊司令官の意である。カピ

タン=モールは、ポルトガル人の海上での最高司令官であるとともに、アジア在任地での首席・長官をさした。

一五五〇年代に、ポルトガルは日本貿易にもこの制度を設けた。日本人はこれを略して甲比丹と呼んだが、の

ちに平戸のイギリス・オランダの商館長をもそう呼び、特に鎖国以後は、もっぱら長崎のオランダ商館長をさ

すことになった。本書では、イルクーツク長官の意味か。

(56-5)「日本詞」・・「日本通詞」。「通」欠か。異本の多くは「日本通詞」とする。

(56-7)「徃来には十八ヶ月」・・ちなみに、現在のシベリヤ鉄道のウラジオストック~モスクワ間は、9,259キロ

 あり、6泊7日かかる。

(56-11)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま
(56-11)「内々(ないない)」・・ひそかに。内密に。

(56-11)「非是」・・「是非」の誤記か。ルビは「せ(ぜ)ひ」としている。 

  8月『蝦夷地見込書秘書』注                            

(23-4)「人別(にんべつ)」・・戸籍。

(23-5)「新井田隆助(にいだ・りゅうすけ)」・・安永6(1777)4月、藩命を受けて上下6人と共に、飛騨屋の船2隻で樺太に渡海、同島南部を見分、アイヌ介抱を実施した。「初而同島江渡海」とあるが、『新北海道史』によると、新井田の渡海以前にも、松前藩士が樺太に渡海した記述がある。

 ・寛永初年(1624)、松前藩主・公広(きんひろ)派遣の家士が樺太のウッサムまで巡回。

 ・寛永12(1635)、松前藩、佐籐加茂左衛門・蠣崎蔵人らをして樺太を見分させる。晩秋にいたり福山に帰る。

 ・寛永13(1636)、家士甲道庄右衛門を樺太に派遣、ウッサムで越年して翌春タライカまで経歴して帰る。

 ・元禄2(1689)、松前藩、藩士蠣崎伝右衛門を地図作成のためカラフトに派遣。(一説にカラフトには至らずと。)のち、元禄御国絵図となる。

 ・宝暦元年(1751)2月、松前藩士加藤嘉兵衛、樺太渡海・軽物交易の許可方を出願、かつ海鼠引漁業の調査を実施し報告する旨申出る、この件許可につき同年5月上下4人樺太に渡海・家作。以後宝暦7年(1757)まで毎年貨物を積載して近樺太シラヌシに渡り、山靼切地・十徳・青玉・魚油・干鱈・海豹皮などを交易し、藩に御用軽物を上納。

(23-67)<尊敬の体裁・平出>・・6行目の「検査致し候由」で、改行している。これを「平出」といい、古文書の趣のひとつ。7行目冒頭の「公辺」への敬意を表す。

(23-7)<尊敬の体裁・欠字>・・「渡海被 仰付」の「被」と「仰」の間に1字分空いている。これを「欠字」という。「仰」に敬意を表している。

(23-7)「公辺」・・公儀と同じ。

 *「公儀」・・近世の国家権力の呼称。語源的には公(おおやけ)の事柄・儀式、朝廷などを指したが、戦国時代には領域一円をおおう超越的で公権性のある政治権力(者)を指すようになる。将軍足利義昭は公儀と呼ばれた。しかし公儀は天下という、より普遍性をもつ概念に対しては下位にあった。元亀三年(一五七二)に織田信長は義昭を批判した意見書のなかで「天下之御為」として「公儀」義昭を責め、翌天正元年(一五七三)「公儀」に「御逆心」ありとして追放する。そのころ有力な戦国大名が公儀と自称し、家臣から公儀と呼ばれたり異なる用語で公儀と同義の意味を表わしたりし始める。全国支配権を失った幕府将軍の公儀性を奪うように地方的小公儀が生まれ、それらが真正の公儀の位置をめざして競争する。その際に足利氏公儀との結合あるいは継承がその近道であるとする判断が上洛への熱意をかきたてた。それを実現した信長は、足利氏公儀を追い、みずからも家臣から公儀と呼ばれたが、唯一の公儀たるべく他の戦国的公儀を粉砕する天下布武の戦争をすすめた。豊臣秀吉は天下統一の事業を継承しみずからを公儀と称し、私戦を禁じ百姓に農耕専一を命じ、天下の無事を約束したが、秀吉までは公儀意思は絶対権力者の個人的な恩恵に左右される人格的な色彩が色濃い。これに比し徳川氏が築きあげた公儀は、将軍個人の人格とは区別される法的組織的公儀であった。将軍個人の恣意が働く場合もあったが、撫民・御救の政治という原則が生き続け、老中合議を中心とする機関的公儀が政治をすすめた。それから外れる場合は民衆が一揆などの手段で撫民を要求した。大名もはじめ公儀と称したが、やがて公儀名代の立場で独自の仕置(しおき)を行い、公儀を背景に領内への威信を示そうとするようになる。そして幕府が大公儀とも呼ばれるようになる。近世後半以降、幕府の撫民能力喪失によって民衆諸身分の公儀離れが強まり、さらに対外関係の不手際で近世公儀の権力構造は根本的に疑われるようになる。(『ジャパンナレッジ版日本国史大辞典』)

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『ふなをさ日記』7月学習の注 

(47-1)「ヲロシヤの船エゾへ来り」・・文化8(1811)6月に、千島測量のためゴロウニン率いるディアナ号はクナシリ沖に来航、ゴロウニンはクナシリ島トマリに上陸し、会所役人と会見したが、会見中逃走をはかったためを幕府役人は彼らを捕えて箱館に幽囚、翌年8月にゴロウニンの安否確認にクナシリ島にやってきた副将リコルド率いるディアナ号が来航した。

(47-2)「大ごうけつ」・・高田屋嘉兵衛のこと。観世丸に乗船し箱館への帰途にクナシリに寄港したところをリコルドに拿捕され、カムチャツカに連行された。

(47-3)<文法の話>「かゝる」・・ラ変動詞「かかり(斯有=かくあり=)」が、近世以降、しだいに連体形による連体修飾用法だけに限られるようになり、現代口語文に残存したもので、改まったかたい表現に用いる。

このような。かくのごとき。

(47-34)「ヲロシヤ人も折々言出して舌をまきて居たりし」・・嘉兵衛は、カムチャッカで、ロシア語を習得し、翌年五月に国後島に送還され、ゴロウニン釈放、紛争の平和的解決のため、日露両国の交渉・調停に尽力し、日露の両当事者からその能力を賞賛された。

(47-5)「ルタカウ」・・ロシヤ海軍大尉イリヤ・ルダーコフ。リコルド不在中、カムチャッカ長官代理。

(47-2)「おこす」・・遣(おこ)す。こちらに送ってくる。よこす。

(47-6)「許(もと)」・・<漢字の話>「許」の訓は、「もと」では、「其許(そこもと)」「此処許(ここもと)」「国許(くにもと)」などがあるが、他にもさまざまある。「何許(いずこ)」、「如許(かくのごとし)」、「為許(なにがために)」、「許嫁・許婚(いいなずけ)」、「許多(あまた)」、「幾許(いくばく)」など。

(47-7)「にしきえ」・・錦絵。浮世絵の多色刷り木版画の総称。精巧な技術により多くの色を正確に刷り分けて、錦のような美しいいろどりを示す。江戸時代、明和2年(1765)絵暦の流行を契機として、絵師鈴木春信が、俳諧師・彫師・摺師の協力を得て創始、江戸を中心として発展した。絵師に、勝川春章・鳥居清長・喜多川歌麿・東洲斎写楽・歌川豊国・葛飾北斎・歌川(安藤)広重などがいる。

(47-78)「忠臣蔵の十段目」・・「仮名手本忠臣蔵」の十段目は、「天川屋義平内の場」。討入りの支度の一切を頼まれた天河屋義平(天野屋利兵衛)の元へ大勢の捕り手が踏み込んできて、武器を隠しているだろうと尋問する。白状しないとみると、幼い一子由松の喉に刀をつきつけて口を割らせようとするが、義平は長持ちの上に座り、「天川屋の義平は男でござる。子にほだされ存ぜぬ事を存じたとは申さぬ」と啖呵を切る。そこへ由良之助が現れ、これは義平の義侠心を試すために仕組んだことであると詫び、次のように語って舞台を去る。「花は桜木、人は武士と申せども、いっかな武士も及ばぬ御所存。一国の政道を任せたとしても惜しからぬ器量」云々・・。

(47-8)「つゞき絵」・・二枚以上が組になって一つの構図・場面を表わした絵。一枚ずつでもある程度の独立性があって鑑賞できる。特に浮世絵についていうことが多い。

(47-9)<文法の話>「見する」・・下2動詞「見す」の連体形。ここは、本来は、終止形の「見す」だが、連体形で終わっている。「見する」のあとに「由」「事」などを省略する手法を「連体止め」という。

(47-9)「都ベトロブ」・・ペテルブルグ。ロシア連邦北西部の大都市サンクト・ペテルブルグの略称。設立時から1914年まで用いられたのち、一時ロシア風にペトログラードとよばれだが、ロシア革命後の24年レニングラードと改称、91年のソ連崩壊後ふたたびサンクト・ペテルブルグに戻った。

(48-5)「薩摩(さつま)の人三人」・・薩摩籓の手船永寿丸の船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人。

 *<永寿丸の漂流と重吉らとの出会いと帰国>略年表

  ・文化9(1812)1019日、鹿児島藩主島津斉興(なりおき)手船永寿丸(23反帆600石積)は、江戸屋敷への廻米を積んで薩摩・脇本湊(現鹿児島県阿久根市脇本)を出帆。乗組員は、船頭の喜三左衛門ら25人。

  ・同年123日、紀州沖で、強風に遭い漂流。漂流中、13人が病死。

  ・文化10(1813)924日、北千島ハルムコタン島に漂着。強風で破船、6人は溺死。上陸した6人のう

ち、3人が死亡。残った船頭喜三左衛門と水主の佐助、角次の三人は島民に救助される。

  ・同年10月末、オンネコタンに渡り、翌文化11(1814)5月パラムシル島に渡る。7月、ロシア役人とともに、ロパトカ岬に上陸、ボリシエレックを経て、8月ペトロパヴロフスク着。長官代理ルダーコフと面会。

  ・文化12年(18155月ペトロパヴロフス出帆、海上40日でオホーツク着。710日頃、ロシヤ船パーウェル号で、オホーツク出帆、8月初めエトロフ沖に達するが強風のため上陸できず、9月中旬ペトロパヴロフスへ乗戻る。

  ・同年(1815)9月1日、ペトロパヴロフスクで永寿丸の3人と、督乗丸の重吉、音吉、半兵衛の3人が出会う。6人はペトロパヴロフス越冬する。

  ・文化13(1816)5月、永寿丸の喜三左衛門、督乗丸の重吉ら6人が、ロシヤ船パーウェル号で帰国の途に就く。611日、督乗丸の半兵衛病死。

  ・同年628日、重吉ら5人ウルップ島上陸。77日エトロフ島に渡り、松前へ護送され、92日、松前着。

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7月『蝦夷地見込書秘書』注

(19-2)「附届(つけとどけ)」・・「つけとどけ」は、現在では、「贈りもの」とか「賄賂」という意味で使われるが、ここでは、単に、「届け」「提出」くらいにの意味か。

 *<漢字の話>「附」・・①「附」は、「付」の旧字体ではなく、別の字。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付など)」、「附」は、「つく(附着・附録・附近など)」であったが、いまの国語ではいずれの場合も「付」でかかれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」用いる。(この項『漢語林』参照)

 ②「付」も「附」も、別々に常用漢字になっている。

  .常用漢字とは・・「一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安を、次の表のように定める。」(平成221130日内閣告示第二号)とあり、「次の表」、つまり、「常用漢字表」の「前書き」には、「この表は、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現在の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」

 ロ.「附則」は、法令で使われるから、「附」は常用漢字。

  ハ.また、大臣認証書、法律・政令・条約の公布文や批准書、大使の信任状、叙勲の表彰には、「大日本国璽」と「璽」が使われるから、「璽」(「御名御璽」の「璽」)も常用漢字。

.」も常用漢字・・「朕」は、昭和21年(1946)に「日本国憲法上諭」で使用されたのが最後で、その後は使われていない。「は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

御名 御璽

昭和二十一年十一月三日」

(19-3)「厚薄(こうはく)」・・あついこととうすいこと。多く、物事の度合が十分であるかないかにいう。

(19-3)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。まえかた。前前(ぜんぜん)。

 *「先前様(せんぜんさま)」・・「さま」は接尾語。さっきのお方様。最前のお方。

(19-3)「仕来(しきたり)」・・動詞「しきたる(仕来)」の連用形の名詞化。昔からのやりかた。以前からのな

らわし。先例。慣例。

(19-6)「領主より役場へ」・・『蝦夷地廻浦録』は、「より」を「並」とし、「領主並役場へ」とある。

(19-9)「仕切金(しきりきん・しきりがね)」・・売主が買主から受けとるべき代金、立替金、諸経費の総額。仕

切銀。しきり。

(20-1)「給扶持(きゅうぶち)」・・支給される扶持。

(20-2)「惣体(そうたい)」・・あるものの全体。物事のすべて。

(20-9)「等閑(とうかん・なおざり)」・・物事をいいかげんな気持ですること。気にもとめないで放っておくこ

と。なおざりにすること。おろそか。ゆるがせ。

(21-2)「長崎俵物(ながさきたわらもの)」・・江戸時代、長崎貿易の輸出品となった俵詰めの干塩魚。

(21-2)「煎海鼠(いりこ・いりなまこ)」・・①ナマコのはらわたを取り去って煮て干したもの。薬用、また、中

華料理の材料などに用いる。ほしこ。きんこ。②小さいイワシなどの雑魚(ざこ)を煮て干したもの。煎り雑

魚。煎り干し。煮干し。

(21-3)「墾開闢」・・「墾闢」「墾開」「開闢」はあるが、テキストのような3字の「墾開闢」は、手元の辞書には

見当たらない。『蝦夷地廻浦録』『開拓諸書付』とも、「開」はなく、「墾闢」としている。

・「墾闢(こんぺき・こんびゃく)」は、荒地をきり開くこと。また、新しい分野をきり開くこと。開墾。「闢」はひらく意。

・「墾開(こんかい)」は、山林や原野を切り開いて、耕地にすること。開墾。

・「開闢(かいびゃく」は、荒れ地などが切り開かれること。

(21-4)「銕□」・・『開拓諸書付』は「鉄坑」としている。

(21-6)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。

(21-6)「見据(みすえ)」・・判断。

(21-7)「差向(さしむき)」・・①さしあたり。今のところ。当面。②いってみれば。さしずめ。

(21-7)<見せ消ち>・・「御差数」の「差」の左に「ヒ」にような記号が見えるが、これは見せ消ちの記号。「差」

の右に「手」が書かれてあるが、「差」を「手」に訂正した意味。ここは「御手数」とする。

(21-8)「不被為懸(かけさせられず)」・・漢文訓読調にすると、「不懸」と返り点が3つある。

 *<構成>下2動詞「懸(か)く」の連用形「懸(か)け」+使役の助動詞「為(さす)」の未然形「為(さ)せ」+使役の助動詞「被(ら)る」の未然形「被(ら)れ」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」

(21-9)「粗(あらあら)」・・おおよそ。ざっと。概略。通常「粗粗」と書くが、「粗」1字だけでも、「あらあら」

と読む。

(21-10)「堀織部正(ほりおりべのかみ)」・・箱館奉行堀利熙(としひろ)。堀は、嘉永6(1853)目付となり

翌安政元年(1854)122日、松前蝦夷地事務取扱を仰付らる。28日松前蝦夷地出張を命じられ、327

日江戸出発、54日松前着、510日宗谷に向い福山出発。612日カラフトのクシュンコタンに渡航。帰

途は西蝦夷地を経て、820日、箱館帰着。一方、幕府は、630日に箱館奉行を置く。堀は、721日、箱館奉行に補され、従5位に叙し官名が織部正となった。堀は、カラフトの帰途であった。

 *「織部(おりべ)」・・「織部司(おりべのつかさ)」の略。織部司は、令制で大蔵省に属する官司。錦、綾、羅、紬を織り、また、いろいろの染物のことをつかさどった。職員に正(かみ)、佑(すけ)、令史(さかん)各一人と挑文師(あやどりのし)四人、挑文生(あやどりびと)八人ほかがいる。

 *<漢字の話>「熙」・・①漢音・呉音とも「キ」。部首は「火」の「連火(れんが)」又は「列火(れっか)」で総画は15画。②解字は、形声文字で、「巸」+「火」。音符の「巸」(イ・キ)は、授乳を待つ胎児の会意文字で、よろこぶの意。火を付し、よろこびや光の意味をあらわす。(『新漢語林』)

③「」は日本人の名前に使われる場合、「おき・さと・てる・のり・ひろ・ひろし・ひろむ・よし」などがあるは、堀利熙の場合、「としひろ」が一般的。なお、「」は平成2年(1990)に人名漢字になっている。元首相の「細川護煕(もりひろ)」の「」。

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古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年7月14日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 『ふなをさ日記』6月学習の注

(42-1)「我は廻り道なれども」・・異本は、「我は」と「廻り道なれども」の間に、「ヲホーツカへ行くは」があり、「我は、ヲホーツカへ行くは廻り道なれども」とある。           

(42-1)<くずし字の趣>「道」・・「首」+「しんにょう」。「しんにょう」が、ほとんど「点(ヽ)」になんている。

(42-2)<くずし字の趣>「順」・・「川」+「頁(おおがい)」。「川」の3画目の「l」が極端に長く、旁の「頁」は、小さい。なお、「順」の部首は、「川」でなく、「頁」。

(42-7)「ゑんせう(えんしょう)」・・煙硝。

 火薬。「せう」は歴史的仮名遣い。発音は、「エンショー」

(43-2)「午未(うまひつじ)」・・南南東。

(43-4)「加模西葛杜加」・・カムチャッカ。「カムシカツトカ」とルビがある。『宛字外来語辞典』(柏書房)には、

「カムチャッカ」の当て字として、「堪察加」が一般的だが、ほかに、「加模沙都加」「柬砂葛」「柬寨加」「柬察加」など。 *カムチャッカ・・アジア大陸の北東端部から南方へ、太平洋に突出する半島。東側はベーリング海、西側は千島、サハリンとともにオホーツク海を囲む。火山が多い。中心都市はペトロパブロフスク‐カムチャツキー。

 カムチャッカの略史 

カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことである。イワン・カムチャッキーやセミョン・デジニョフなどのロシアの探検家によって、この地域の情報が集められた。17世紀末には入植が開始されている。1697年、カムチャツカのはるか北部にあるアナディールから、ウラジミール・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、アイヌとの戦闘が起こった。カムチャダールの集落には伝兵衛という漂流民の和人が居住していたが、アトラゾフに捕らえられペテルブルクに連行された。連行された和人は、ペテルブルクで日本語学校の校長として生涯を終えている。1700年(元禄13年)、幕命により、松前藩は勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。1708年頃にはカムチャツカはロシアによって占領される。
1713年
頃には約500名のコサックが居住していた。1715年(生徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告。その後、18世紀前半には、ブィトス。ベーリングにより2度の探検が行われている。、1729年、日本人ゴンザとソウザ17名(二人以外は後にロシア側に殺害されたという)の乗った「若潮丸」が半島南端のロパトカ岬付近に漂着。1731年から1739年までカムチャダールの大反乱が起こったが、ロシア人はなどの武器を使用し反乱を制圧。日本人大黒屋光太夫の一行がペテルブルクへ向かう途中、1787年から約1年カクチャッカに滞在しており、当時の様子が「北槎聞略」に記されている。1854年にはクリミヤ戦争のため、英仏艦隊がペトロハバロフスク・カクチャッキーに来寇している。(この項『ウィキペデア』より)

*なお、「カムサスカ」は、干鮭(からざけ)が転音したもので、昔は日本へ干鮭を運送・交易していたので、カムチャッカも日本の属島だとする荒唐無稽なこじつけがましい解釈が行われていた。(菊地勇夫著『エトロフ島 つくられた国境』=吉川弘文館=)

(43-4)「カムサスカの鼻」・・カムチャッカ半島南端のロパトカ岬か。ロパトカ岬の緯度は、北緯5087分。

 細川かたしは、演歌「北緯五十度」のなかで、「北緯五十度もう見おさめだ・・・ さらばさよならロパトカ岬」と歌う。

(43-5割注)「凡四□五十里」・・影印の「四」と「五」の間の文字は不明。異本は「凡四五千里」としている。

(43-5)「爰より蝦夷迄廿三島つゞきたり」・・「廿三島」は、千島列島のこと。カムチャツカ半島と日本列島との間に一列に並ぶ二十三の島より成る。最初、寛永20年(1643)オランダ探検船によって発見紹介され、カムチャツカ半島を征服したロシア人が正徳3年(1713)来島して経営に着手、元文34年(173839))ベーリングの探検によって全貌が明らかにされた。ロシアは東洋貿易の基地を求めて、ウルップ島を根拠地として安永7年(1778)に納沙布の松前藩根拠地に来航して通商を求めた。同藩はこれを拒絶したが、ロシアは寛政4年(1792)松前、文化元年(1804)長崎と相ついで使節を送った。この情勢に対応して宝暦4年(1754)交易所がクナシリ島に進められ、幕府は天明56年(178586)大規模な蝦夷地調査隊を派遣、寛政12年(1800)蝦夷地を直轄に移しエトロフ島を開発した。文化元年(1804)長崎に来航したロシア使節が、翌年幕府の通商拒絶にあうや、文化34(180607)、ロシア船が択捉および樺太の日本根拠地を襲って乱暴を働いた。ために日露両国の間は緊張したが、文化8(1811)たまたま国後島に寄港したロシア測量船長ゴロウニン以下を日本側が捕えて拘囚し、部下がその釈放に尽力した事件を契機として和解した。その後折々ロシア船が択捉島に漂流民を送還するにとどまり、真の解決は安政元年(1854)日露和親条約締結まで待たねばならなかった。この条約により、両国国境は択捉・得撫両島を隔てる択捉海峡に引かれた。明治2年(18698月、日本はエトロフ・クナシリ両島を合わせて千島国と称し、北海道の一部に編入した。明治8(1875)樺太・千島交換条約が締結され、日本は、慶応3年(1867)両国雑居の地と決められた樺太から撤退して全島がロシア領となり、その代償として得撫島以北の千島列島の領有権を得、列島すべてが日本領となった。

 *主要な島の数は25を超えるが、面積50平方キロメートル以上の島を北から順にあげると、以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。

 占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島。(以上北千島)

 温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。

 択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。

(43-56)「クリー」・・千島列島。クルミセ(久留味世とも書き、「人間」を意味するアイヌ語の「クル」に由来)などとよばれ、列島の名称になったとされる。英語名クリル諸島Kuril Islands、ロシア語名もクリル諸島Курильские Острова/Kuril'skie Ostrova

(43-6)「奥蝦夷」・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、「松前に近い地方を口蝦夷、遠い所を奥蝦夷と呼んだが、その境は、東は襟裳岬、西は神威岬であった」とある。

 また、『北海随筆』(板倉源次郎著)には、「東西海に乗り馴れたる船方の者どものいへるは、ソウヤ迄弐百七、八十里、キイタツプ迄三百里ばかりといふ。(中略)此東西両所迄は松前より商船行て交易して、是より奥へは船かよはず、地つづきて蝦夷人も住居せる村々有。此舟かよわざる所凡百五十里といふ。是を奥蝦夷ともいふとなり」とある。

(43-7)「二島(にとう)はヱゾへ近くて日本の島なり。」・・「二島」は、クナシリ・エトロフ両島。寛永10(1789)727日、近藤重蔵は、エトロフに渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。寛政12(1800)5月、エトロフ島掛となった近藤重蔵、山田鯉兵衛はエトロフ島に渡海、オイトに会所を設け漁場13ヶ所を開いた。

(44-1)「晴(はる)れば」・・晴れれば。

*<文法の話>・・接続助詞「ば」は、已然形に接続する。下2動詞「晴(は)る」の已然形は「晴(は)るる」。活用は、「晴れ」(未然)・「晴れ」(連用)・「晴る」(終止)・「晴るる」(連体)・「晴れよ」(命令)。

従って、ここは「はるれば」。「はれれば」は現代文。

(44-3)「ふ(経)る」・・時がたつ。年月が過ぎる。「ふ(経)る」は、下2動詞「経(ふ)」の連体形。

*<文法の話>終止形は、下2動詞「経(ふ)」。活用は、「経(へ)」(未然)・「経」(へ)」(連用)・「経(ふ)」(終止)・「経(ふ)る」(連体)・「経(へ)よ」(命令)。

(45-45)「迎迎に来り」・・「迎」が重複している。

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6月『蝦夷地見込書秘書』

(15-1)<漢字の話>「教諭」の「諭」と「輸」にかんして

 「運輸」などの「諭」を「ユ」と読むのは「慣用音」。「慣用音」は、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音のこと。主として漢字の偏旁などの字体に惹かれて誤ったものが多い。漢字を日本語(やまと言葉)に当てはめた「訓読み」とは区別して言う。

 「輸」の音読みは、「シュ」で、「ユ」の読みはない。では、なぜ、「ユ」と読むのか。「教諭」の「諭」の旁の「兪(ユ)」に惹かれて、音が転じ、それが日本で通用したもの。

 したがって、「輸血」は、本来は「シュケツ」。同様に「諭入」は「シュニュウ」、「運輸」は「ウンシュ」が本来の読み。漢和辞典には、「輸送」に「ユソウ・シュソウ」のふたつの読みが書かれている。「輸出」も「ユシュツ・シュシュツ」がある。

 *その他の慣用音の例・・①「消耗」の「耗」は、旁の「毛」に惹かれて「モウ」と読む。正しくは「コウ」。②「情緒」の「緒」は「ショ」が正しく、「チョ」は慣用音。

 ③その他、「堪能」の「堪(カン)」を「タン」、「立案」の「立(リュウ)」を「リツ」、「雑誌」の「雑(ゾウ)」を「ザツ」、「喫茶」の「喫(けき・キャク)」を「キツ」、「演劇」の「劇(ケキ・ギヤク」)を「ゲキ」と読むなどは慣用音。

 *百姓読み・・韻書(中国で韻文をつくるさいに脚韻をふむ参考書として、文字をその韻によって分類し、韻目の順に配列した書物。)に合わない音を「百姓読み」という。「百姓読み」それは必ずしも慣用音ばかりでなく、一時的な誤読をさした場合もある。「垂涎(すいぜん)」を「すいえん」、「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」などというたぐい。

(15-1)「専務(せんむ)」・・もっぱら行なうべきつとめ。

 (15-3)「退去いたし候」・・ロシアは、嘉永6829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらは、樺太占領の命を受けてクシュンコタンに来航、いわゆるムラビヨフ哨所を築いた。一方、ヨーロッパでロシアがトルコに干渉、ロシアの南下を恐れる英仏もトルコ側に参戦、クリミヤ戦争が勃発し、アジアでも英仏艦隊がロシアに対し活動を強め、ロシアは、シベリア防衛のため、安政元年518日、クシュンコタンを撤退せざるを得なかった。

 (15-5)「下向(げこう)」・・都から地方へ行くこと。

(15-5)「仮令(たとい・たとえ)」・・仮に想像してみれば。

 *<文法の話>「たとい」は、「たとふ」の連用形の名詞化。また、「たとえ」は、「たとい」が「たとえ」の語形に同化したもの。

 「たとう」の語源説のひとつに、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<物を立てて比べる意で、タツ(立)から出た語〔国語の語根とその分類=大島正健〕。タトヒは、物と物とを対立させて比べる意でタチアヒ(立合)の約〔国語溯原=大矢透・大言海〕。>をあげている。

 なお、「仮令」は、もともとは漢文で、「けりょう」「かれい」と読み、日本語の「たとい」に当てはめた国訓。

*「假令(たとひ)臣を誅すとも、秦の爲に黔中(けんちゅう)の地を得ば、臣の上願なり。」(『史記』)

*「假令僕伏法受誅 若九牛亡一毛」(假令=たとい=僕の法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡=うし=なうが若し)〔司馬遷『報任少卿書』〕

(15-6)「飢餲」・・「餲」は、「渇」か。「飢渇(きかつ)」は、腹がヘリ、のどがかわくこと。「餲」の読みは「アイ」。

(15-7)「生来(しょうらい)」・・生まれつき。もともとの性質。持って生まれたたち。

(15-7)「愚直(ぐちょく)」・・正直すぎて気がきかないさま。ばか正直。

(15-8)「信実(しんじつ)」・・まじめで偽りのないこと。まごころのあること。また、そのさま。正直。律義(りちぎ)。

(15-10)「憐愍(れんびん)」・・あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。

(15-11)秤量(しょうりょう)」・・「称」「秤」はともにはかる意、「秤」は「称」の俗字。はかりにかけて目方をはかること

(15-11)「心を用ひ」・・「心を用いる」は、気をくばる。注意を払う。配慮する。

(16-2)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。時間的な時期、機会を意味するほか、一般に、その時の物事の情況、状態、条件などをさしていう。

(16-2)「銃陣(じゅうじん)」・・銃で武装した兵隊からなる陣。

(16-3)「外患(がいかん)」・・外国や外部から圧迫や攻撃を受けるおそれ。

(16-4)「一廉(ひとかど)」・・相当に。相応に。人並みに。いっぱしに。「廉(かど)」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

<カドは「少しかどあらん人の、耳にも目にもとまること、自然多かるべし」〔源氏‐帚木〕に見られるように才能の意。このカドは、中世には衰退傾向にあったらしく、ヒトカドなどの複合語の構成要素に見られるのみになっている。>とある。

(16-4)「警衛(けいえい)」・・警戒し守ること。かためまもること。「衛」は、守る事。解字は「宮室などの周囲をめぐりあるくの意味からまもるの意味を表す」(『漢語林』)「護衛・後衛 ・前衛・自衛 ・防衛・守衛」など。「衛生」は、養生することで、「生きるために衛(まも)る」こと。

(16-5)「生質(せいしつ・しょうしつ)」・・生まれつきの性質。

(16-6)「本文(ほんもん)」・・主になっている文章。

(16-8)「不取締(ふとりしまり)」・・取り締まりの悪いこと。しまりがないこと。また、そのさま。不用心。

(16-1117-1)「被

仰付」・・半丁を超えての平出になっている。

(17-1)「憐恤(れんじゅつ)」・・あわれんで恵むこと。情をかけて物を施すこと。

(17-1)「狎(なれ)」・・「狎れる」の連用形。「狎れる」は、うちとけすぎる。「狎」の解字は、「犭(犬)」  

 +「甲」。「甲」はおさえるの意味。犬などを自分の意のままにおさえこむ、飼いならすの意味を表す。

(17-2)「後変」・・『開拓諸書付』は、「後弊」としている。

(17-3)「教化移俗(きょうかいぞく)」・・「教化」は、教え導くこと。「移俗」は、風俗を移すこと。ここでは、アイヌの人々を教え諭し、日本の風俗に移行させつこと。

(17-4)「取捨(しゅしゃ)」・・取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。

(17-8)「倍(ますます)」・・『開拓諸書付』は、「傍(かたわ)ら」としている。「倍」は、いよいよ。漢文の「倍(バイ)」の国訓。

 *「独在異郷異客、 独(ひとり)異郷ニ在(あり)テ、異客(いかく)ト為リ、

佳節親」  佳節ニ逢ウ毎(ごと)ニ、倍(ますます)親(しん)ヲ思ウ

(ただ独り、異国にあり、めでたい節句の日に出逢うたびに、ますます肉親のことが懐かしく思われる)〔唐、王維、「九月九日憶山東兄弟詩」〕

(18-1)「遣払(つかいばらい)」・・金銭を払うこと。支払い。

(18-3)「魚猟(ぎょりょう・うおとり)」・・魚をとること。漁猟。漁(りょう)。漁獲。

(18-4)<見せ消ち>・・「弐千五百目」の「五百」の「五」と「百」の左に、それぞれ、「ヒ」のような記号があり、右に「石」とある。これを「見せ消ち」といい、「五百」を「石」と訂正し、「弐千五百目」を「弐千石目」としている。

(18-4)「石目(こくめ)」・・枡ではかった量。枡目(ますめ)。

(18-45の下)<角括弧内の3行>・・「付札」してかかれた文章。「付札」とは、下知(指令)、意見、返答などを記して本紙に貼付した紙のこと。つけがみ。張札。付箋。本テキストは写本であるので、付札であることを示すために、角括弧を付けてある。

(18-78)『開拓諸書付』は、8行目の「金千五百六拾両」の前の行に「此諸入用内訳」とある。この方が、文意に合っているか。

(18-10)「仕向(しむけ)」・・取扱。

古文書解読学習会

          札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:201469日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』5月学習の注 

(37-1)<変体仮名の話>「言ければ」の「け(介)」・・「介」を「け」とするのは、なぜか。「介」の呉音に「ケ」があり、万葉仮名でも「け」。しかし、一説に、①「介」の字母(漢字の音の基本となる文字)が「个(カ)」であるといい、「个」は、物や人を数える語で「箇」の同じとする。②「介」の部分からカタカナの「ケ」ができ、のち、変体仮名の「け」として使われるようになった。

(37-1)「明は」・・「明日の朝」で、「日の朝」欠か。異本には、「明日の朝は」とある。

(37-12)「とらの時」・・午前4時頃。

(37-4)「ねや(閨・寝屋)」・・寝室。

 *<漢字の話>「閨」・・ジャパンナレッジ版『字通』に、<アーチ形のくぐり戸のような門戸をいう。もと里中に設ける小門であった。〔爾雅、釈宮〕に「宮中の門、之れを闈(イ)と曰ふ。其の小なる、之れを閨(ケイ)と曰ふ」とあり、後宮に設けることが多い。のち閨房の意となる。のち閨房の意となる。>とある。
**「閨秀(けいしゅう)」・・才芸にすぐれた女性。

(37-6)<変体仮名の話>「違わず」の「わ(王)」・・「王」は漢音・呉音とも「オウ」であるが、変体仮名で「わ」とするのは、「王」の歴史的仮名遣いが「ワウ」であったことによる。

(37-6)「心を取て」・・人の気持を察して。

(37-7)<変体仮名の話>「計(ばかり)にて」の「に(丹)」・・①「丹」の解字は、「丹砂(たんさ)」(深紅色の鉱物)を採掘する井戸の象形。「ヽ」が丹砂をあらわす。「丹」は、国訓で「に」。万葉仮名でも「に」。「青丹(あおに)よし」など。

 ②「丹」の部首は、「ヽ」部で、「チュ」と発音する。「てん」部」、「ちょぼ」部とも。

(37-8)「いらぬ事」・・むだなこと。

(37-10)「安かるべし」・・「安し」は、らくらくと物事を行なうことができる。容易である。

(37-11)「偽(いつわ)り」・・うそを言う。だます。

(38-3)「冨家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(38-5)「北より三人の目の女」・・異本のひとつには、「北より」を「此より」とある。

(38-6)「彼(かれ)」・・話し手、相手以外の人をさし示す。明治期まで男にも女にも用いた。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<明治以降、西欧語の三人称男性代名詞の訳語として、口頭語に用いられるようになった。明治以前は、人を指示する場合、男女を問わなかったが、明治以降に同じく訳語として定着していった「彼女」との間で、しだいに男女の使い分けをするようになったと考えられる。>とある。

 *「たそがれ」・・古くは「たそかれ」。「誰(た)そ(か)は」と、人のさまの見分け難い時の意。夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。

 *「かわたれ」・・「()は誰(たれ)」の意。「かわたれどき」は、あれはだれだとはっきり見分けられない頃。はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。

(38-10)「念頃(ねんごろ)」・・懇ろ。心がこもっているさま。親身であるさま。

(39-3)「迎(むかい)」・・「迎」は、「向」か。異本は、「向い」としている。

(39-6)「包(つつま)ず」・・隠さず。「包む」は、かくすの意。

(39-7)「打わらひ」・・「うち」は接頭語。「打わらう」は、あざけり、おかしさ、よろこびなどの気持で、口をあけて笑い声をたてる。ふと笑う。

 *「わかき人は、ものをかしく、みな、うちわらひぬ」(『源氏物語・常夏』)

(39-8)「ま事(こと)」・・真事(まこと)。真実の事柄。事実。

 *「正真事(しょうまっこと)」・・まことを強めていった語。正真正銘であること。うそいつわりのないこと。また、そのさま。

(39-8)<変体仮名の話>「此国に」の「に(耳)」・・「耳」の漢音は、「ジ」だが、呉音では「ニ」。また、万葉仮名の「に」。

(39-9)「帰ることなかるべし」・・異本は、「帰ることなるべからず」としている。

(39-11)「まどひ」・・「惑(まど)ふ」の連用形。「惑う」は、考えが定まらずに、思案する。

(40-1)「言取(いいとり)たる」・・「言い取る」は、ことばで表現、伝達する。話し合う。

(41-1)「乱妨(らんぼう)」・・暴力を用いて無法に掠めとること。他人のものを理不尽に強奪すること。掠奪すること。

(41-1~2)「わきて」・・分て。別て。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(41-6)「広東」・・中国南東部、広東省の省都現広州の旧称。

(41-6)「南京(ナンキン)」・・中国、江蘇(こうそ)省の省都。同省南西部の長江が北東から東へ流れを変える屈曲点に位置する。

(41-67)「かしこ」・・彼処。あそこ。本文では、広東、南京のこと。

(41-8)「廻り通(どお)し」・・「廻り遠し」か。「通」は、「遠」の当て字か。「廻り遠い」は、目的地の達するのに遠回りであること。

(41-9)「ヲホーツカ」・・オホーツク。現ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく)(砦(とりで))が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

(41-10)「仙台の善六」・・善六は、仙台藩石巻の若宮丸(800石積)の水主で、ロシア漂着後、イルクーツクで洗礼を受けロシアに帰化した。ロシア名ミハイル・ジェラロフとか。若宮丸は、寛政5年(1793)1127日、仙台藩御用米を積んで江戸に向ったが強風のため漂流、寛政6年(1794510日、アリューシャン列島の無人島に漂着。その後オホーツクに到着、イルクーツクを経て首都ペテルブルクに到着した。享和3(1803)、世界一周をめざしたナデジタ号に、遣日使節レザノフが乗船し、日本への帰国を許された若宮丸の乗組員津太夫ら4名と通詞役として帰化した善六も乗船した。享和3(1803)616日、ナデジダ号は、バルト海のクロンシュタット港を出港、南アメリカを迂回して太平洋に出、ハワイを経てカムチャッカ半島のペトロハバロフスクに入港。帰国漂流民と善六のいがみ合いのため、善六は、ペトロハバロフスクで下船した。

 ナデジダ号は、文化元年(1804)96日、長崎に到着。津太夫らは、日本に帰還した。彼らは最初に世界一周した日本人である。

 さて、善六は、その後、文化10年(1813)ゴローニンを引き取りに箱館に来たリコルドの通詞として、20年ぶりに日本の土を踏んでいる。その後、善六は、イルクーツクに帰り、日本語教師を勤めている。文化13(1813)頃、イルクーツクで死亡したという。

5月『蝦夷地見込書秘書』注

(11-1)「石炭鉄炮等相開」・・『北蝦夷地御取締見込之儀荒増左ニ申上候』(『蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類』所収=北海道庁刊『新撰北海道史第五巻史料一』所載。以下、『開拓諸書付』。)は、「鉄炮」を「鉄坑」としている。「鉄坑」は、鉱山のこと。

 (11-1)「輻湊(ふくそう)」・・「輻」は車の輻(や=車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。やぼね。)、「湊」「輳」はともにあつまる意。車の輻(や)が轂(こしき=車輪の中心の輻が集まる太く丸い部分。中を車軸が貫いている。)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

(11-1)「仕法(しほう)」・・物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(11-1)「条下(じょうか)」・・文章の該当する部分。その箇所。

(11-2)「定貢」・・『蝦夷地廻浦録(えぞちかいほろく)』(北海道大学附属図書館蔵。以下『廻浦録』)、『開拓諸書付』とも、「定員」としている。

(11-2)「為致(いたし)候ハゝ」・・①「致させ候ハゝ」②「いたし候ハゝ」。「為」は、「致す」を強調する語。「致す」は、サ変動詞「為(す)」の謙譲語・丁寧語。「為致」の2字で、「いたす(いたし)」と読む。『開拓諸書付』は、「致し候ハゞ」としている。

(11-3)「家眷(かけん)」・・同族の者。または一族の者とそれに付き従う者。一家眷族。

(11-5)「已(すで)に」<漢字の話>・・

「己」・・キ・こ・(の声)・おのれ・つちのと(下に付き

「已」・・イ・すでに・(半ばして)・已(や)む・而已(のみ)

「巳」・・シ・み・(は皆付く

*「己(おのれ)」・「已(すでに)」して・「巳(へび)」

(11-6)「見合」・・読み方と意味は?

(11-8)「気請(きうけ)」・・気受け。他人がその人やその人の行動に対してもつ感情。世間の評判。うけ。

(11-8)「衰微(すいび)」・・おとろえ弱ること。衰退。

(11-10)「相厭(あいいとい)」・・きらい。いやがり。「相(あい)」は語調を整え重みを加える接頭語。「厭(いいとい)」は、「厭(いと)う」の連用形。

 *<漢字の話>「魘(えん)」・・「厭」+「鬼」で、おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめくこと。「夢魘(むえん)」

(11-10)「品に寄(より)」・・事情によって、場合によって。「品(しな)」は、物事の事情や理由。

 *「ことと品による」・・事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。

(11-11)「奢侈(しゃし)」・・「奢」「侈」はともにおごる意。身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。また、そのさま。ぜいたく。

 *<漢字の話>・・「奢」は常用漢字ではないので、脚の部分は、「者」に「ヽ(点)」が付く。

①常用漢字になり、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がなくなり、1画減った漢字・・「暑」「緒」「諸」「署」「著」「都」など。旧字体は、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」があり、1画多かった。

②常用漢字ではないので、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある漢字・・「楮(こうぞ)」「躊躇」の「躇」「儲(もうけ)る。など。

③ところが、2010年の常用漢字の追加で、「賭(か)ける」「箸」が加わったが、『康煕辞典』のまま、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある。

(12-1)「不伏(ふくさざる)」・・『開拓諸書付』は、「不伏」と返読している。「伏(ふく)す」は、従う、降伏する、屈伏するの意。

(12-2)「領主」・・ここでは、松前藩主。

(12-2)「手限(てぎり)」・・その人の考えだけで処置すること。上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(12-3)「伋而(よって)」・・だから。であるから。したがって。普通は、「依而」とする場合が多い。『開拓諸書付』、『廻浦録』とも「依而」としている。

(12-3)「連々(れんれん)」・・引き続き。

(12-3)「御料所(ごりょうしょ)」・・江戸幕府の直轄地。御料。御領。天領。

(12-5)「見据(みすえ)」・・見てはっきりと判断する。見定める。見込む。

(12-5)「御直人(おじきびと)」・・「じきさん(直参)」の敬称。主君に直接仕えること。また、その人。

(12-7)「如何(いか)にも」・・①程度、状態のはなはだしいことを確かにそうであると確認している意を表わす。強く肯定して、強めていう。どうみても。まことに。まったく。おおいに。②(感動詞のように用いて)相手のことばをうけ、肯定、同意する応答のことば。たしかに。なるほど。まさしく。その通りだ。

(12-7)「差向(さしむき)」・・「差向く」の連用形。(「さし」は接頭語)直面する。当面する。

(12-7)「遁着(とんちゃく・とんじゃく)なく」・・気にかけない。無頓着である。「遁着」は、頓着。

(12-8)「権道(けんどう)」・・手段としては道に外れるが、結果からみて道に合っている行きかた。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。

(12-8)「用弁(ようべん)」・・用事を弁じること。用事をすますこと。用事のすむこと。用の足りること。用便。

(12-11)「請負町人(割注略)被差置」・・『開拓諸書付』は、「請負町人」と「被差置」の間に「之手附ニ」があり、請負町人(割注略)之手附ニ被差置」とある。『開拓諸書付』の方がわかりやすいか。

(13-2)「武備(ぶび)」・・戦いに対する備え。

(13-3)「年柄(としがら)」・・「柄」は、接尾語。名詞の下に付いて、その物事の本来持っている性質、品格、身分などの意、また、それらの性質、品格、身分などにふさわしいこと、また、その状態の意などを表わす。「人柄」「家柄」「身柄」「続柄」「国柄」「場所柄」「声柄」「時節柄」などと用いられる。

(13-4)「夫食(ふじき)」・・主として江戸時代に用いられたことばで、農民の食糧のことをいう。江戸時代の農業経営、とりわけ下層農の農業経営は不安定であり、風水旱損、虫付などによる凶作、疫病の流行などによって、農民はしばしば食糧の不足に悩まされた。そうした場合、農民は領主に対して夫食や種籾、農具などの貸与を願い出た。一方、領主側も年貢収奪基盤である農民の経営の再生産を保障する必要性から彼らに一定度の夫食貸与を認めた。 

*「夫」・・労働に携わる人。「夫役(ぶやく・ぶえき)」「農夫」「漁夫」「樵夫(きこり)」など。

(13-7)「演砲(えんぽう)」・・砲術の訓練。

 *『演砲法律』・・江戸時代後期の医師で、久坂玄機(げんき)の書。オランダの砲術書『ベトロン』を訳した『演砲法律』がある。玄機は、文政3年生まれ。長門萩藩医学館の都講役を務めた。久坂玄瑞の兄。

(13-8)「遣料(つかいりょう)」・・物や場所の利用代として支払われる金。使用料。

(13-9)「仕付(しつけ)」・・作りつけること。

(13-9)「作取(つくりどり)」・・全収穫物を地主・耕作者のものとすること。江戸時代、新田開発などの際、開発直後からある一定期間は鍬下年季といって免税措置がとられていた。

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古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。
4古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時 2014年5月12日(月)13時~16時15分
◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研  
修室 
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。
②『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1854)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。
4古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時 2014年4月7日(月)13時~16時15分
◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研  
修室 
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。
②『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

4月『ふなをさ日記』学習の注

(32-2)「合羽(かっぱ)」・・ポルトガル語capa。「合羽」はあて字。防寒コート。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「合羽」の語誌には、

 <(1)ポルトガル人の伝えた毛織物のcapa を戦国武将たちは外衣として珍重した。厚手で防水性があり、ヨーロッパのすぐれた技術で染色された鮮明な緋色、黄、黒色が特に愛好された。

(2)「合羽」と当て字され、その形態が日本化されて、「雨合羽」「道中合羽」など、材質も桐油紙や木綿が用いられ庶民層にまで広がった。日本で工夫されたものに、袖をつけた袖合羽、桐油紙製袖なしの坊主合羽、袖つき桐油紙製の豆蔵合羽、木綿製の引廻し、等々がある。>とある。

(32-2)「小安貝(こやすがい)」・・タカラガイ科の巻き貝の異名。特に、大形のハチジョウダカラをさすことが多い。形が卵形で色が美しく妊婦のお守りとされ、また、古代には貨幣としても用いた。

*『竹取物語』で、かぐや姫が求婚者の1人に、ツバメの腹にもつこの貝を所望するのはよく知られている。子安貝ともいうので、安産や育児に伴う呪物(じゅぶつ)とされ、また蔵骨器(ぞうこつき)に入っていた例も鹿児島県伊佐(いさ)市など数例あることから、生命力の再生を願う呪具としての観念もあったらしい。柳田国男は『海上の道』(1961)でこの貝の重要性を指摘しているが、アジア、アフリカ、アメリカの先住民族は先史時代からこの貝殻を貝貨として用い、ニューギニアのモニ人は最近まで貨幣として使用していたという。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書』)

(32-2)<漢字の話>「牙」・・2010年改定の新常用漢字に「牙」(4画)が追加された。

現在、常用漢字になっていない漢字(以下、表外漢字)としての「牙」は、4画である。つまり、2画目の「ノ」と「一」を一気に1画で書く。
<「牙」を含む常用漢字の「牙」は、5画>
ところが、「牙」を含む常用漢字の画数は、1画増えた。つまり、2画目を二つに分解した。「ノ」と「一」を1画で書かず、2画に書くようになった。「常用漢字字体表」で画数が増えた例である。
たとえば、「芽」の脚部分の「牙」は4画から5画になった。その他、「雅」「邪」の「牙」の部分が5画になった。同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。常用漢字でも「牙」は4画、「牙」が偏旁にある漢字は5画という矛盾が発生している。
また、現在、表外漢字の「冴(さ)える」、「穿(うが)つ」、「訝(いぶか)る」、「谺(こだま)」、「鴉(からす)」の「牙」は、4画であり、これらの表外漢字と「牙」の字が偏旁にある漢字の画数(5画)が異なっている。

(32-5)「歳」<漢字の話>・・影印の「才」は、日本で、俗に、年齢をあらわす「歳」の代わりに使用される。したがって、テキスト翻刻では「歳」とする。

 「歳」は、太陽暦で、地球が太陽を一周する時間。太陰暦で、月が地球を一二周する間。年。

 なお、「才」は、生まれつきもっているすぐれた能力、資質。頭のはたらき。才能。才知。知能。また、そうした能力、資質のそなわった人。

(32-5)「わらは」・・童(わらわ)。稚児(ちご)より年長で、まだ元服しない者。10歳前後の子ども。童子。

(32-8)「心(こころ)ならず」・・不安でじっとしていることができない。気が気でない。

(32-8)「いたみ居(い)る」・・苦痛に思う。弱る。困る。

(32-10)「夜半(やはん)」・・夜の半分。つまり、よなか。まよなか。よわ。夜中(やちゅう)。

(32-11)「夜喰(やしょく)」・・「喰」を「しょく」と読むのは、「食」の通用語。なお、「喰」は、日本で出来た国字。

なお、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』の「南黒丸村(現石川県珠洲市宝立町南黒丸)」の項に、『角谷家文書』から、「寛政六年(一七九四)の払物帳には重箱・夜喰膳・盆などの塗物、徳利・皿・鉢などの焼物、鎌・たらいなどの金工品、柱・桶・戸障子・掛物軸などの木製品のほか、夜着・蒲団・畳」などがみえ、「夜喰膳」がある。

(33-3)「あら麦」・・荒麦。まだ精製しない、からのついたままの麦。

 *コムギ、オオムギは人類が農耕を始めたときからのもっとも歴史の古い作物であり、日本へもイネと同じかあまり遅れないころに大陸から伝来して、栽培が始められた。

 *<漢字の話>「麦」・・①「麦」は常用漢字。影印は、旧字体の「麥」。

  ②「麺」は常用漢字なので、偏は「麦」。旧字体は、「麵」。

  ③ところが、常用漢字でない「麩(ふ)」「麴(こうじ)」の偏は、「麦」ではなく、「麥」

  ④「麥」は11画の部首。また、「麻」(11画)、「黍(きび・12画)」も画数が多いのに、部首になっている。しかも、手元の漢和辞典では、部首を含め、「麥」部は、9字、「麻」は3字(国字の「麿」を除く)、「黍」は、3字しかない。紀元100121年に成立した中国最古の中国最古の漢字字書。『説文解字』は、1万余の漢字を540の部首に類別しているが、漢字を生み出した文明社会黎明期の黄河中流域の人々にとって、「麥」「麻」「黍」は、生きて行く上で、なくてはならない大切な植物であった。

(33-4)「鉄炮」<漢字の話>「炮」・・①「火」部。解字は、『説文解字』に、「毛のままにてを炙(あぶ)るなり」とあり、まるやきをいう。常用漢字ではないので、旁は、中は「巳」。

   ②一方、「砲」は「石」部で、いしゆみ。常用漢字なので、旁の中は、「己」。ただし、旧字体は、「巳」

(33-5)「分銅(ぶんどう・ふんどう)」・・重さを測る際の基準として使用する金属性のおもり。江戸時代、分銅

には十匁目から一分に至る十七種あった。「25貫」は、どんな分銅か。

(33-7)「革提煙草入(かわのさげたばこいれ)」・・ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

 <刻みたばこを入れるための袋物。江戸時代初期のころは、刻んだたばこは白い奉書の紙に包むのが上品とされたが、屋外で働く人は手製の巾着(きんちゃく)に入れてきせるに結び、腰に提げた。また鉄砲の弾丸を入れた胴乱(どうらん)を改造して用いる人もあり、しだいに庶民の間に広がって上流階級にも及んだが、武士は印籠(いんろう)を提げるため懐中用を使っていた。たばこ入れの形には、

1)一つ提げ・・巾着または胴乱を根付(ねつけ)で提げるもの、

2)腰差・・巾着または胴乱にきせる筒をつけ、きせる筒で腰に差すもの、

3)提げ・・胴乱にきせる筒もあるが根付で別に提げるもの、

4)懐中用・・革製もあるが、おもに布製の二つ折りで、共裂(ともぎれ)のきせるを入れる袋がつき、婦人用が多い、

5)とんこつ 雨にぬれても中身のたばこが湿らないように木製と金属製があり、一つ提げと腰差形がある、

6)袂落(たもとおと)し 布または竹、籐(とう)で編んだ小さな袋2個を、鎖または紐(ひも)でつないで両方の袂へ肩から提げるが、一方の袋には懐中用の小形たばこ入れを、もう一方の袋には手拭(てぬぐい)などを入れる。たばこ入れはとかく置き忘れることが多いので、このようにさまざまな形があった。

 胴乱には金唐革(きんからかわ)、印伝革(いんでんがわ)が使われたが、これらは当時輸入品で高価なため、裕福な人たちのたばこ入れになった。庶民の多くは、一見革製にみえるが和紙に桐油(とうゆ)を塗ったり、渋(しぶ)を拭いて柿(かき)色に染め、革まがいにしわをつけたものを使っていた。江戸時代後期になると、国産の革製もできて、たばこ入れは身につける唯一のアクセサリーとなり、胴乱の蓋(ふた)に著名な彫金師のつくった留め金具を用いたり、きせる筒の材質にも凝るようになった。明治時代には胴乱、金具、緒締(おじめ)、筒の組合せに粋を凝らした工芸品もつくられたが、いまでは好事家の収集品になっているにすぎない。両切りたばこの出現とともに、金属製のシガレット・ケースにとってかわられている。>とある続きを読む

4月『蝦夷地見込書秘書』

 (9-1)「急度(きっと)御咎」・・「咎(とがめ)」は、罰。「急度」は、きびしく。厳重に。「急度咎」は、厳しい罰。なお、江戸時代の刑罰に「急度叱(きっとしかり)」がある。庶民に科せられた刑罰の一種。叱(しかり)の重いもので、厳重に叱責するだけで放免する軽刑。叱と同様、犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた。

(9-1)「御咎(おとがめ)被 仰付候(おおせつけられそうろう)」・・「被(られ)」と「仰付」の間に、空白がある。古文書独特の尊敬の体裁で、「欠(闕)字」という。

 *下は、等澍院文書に見る欠字・・4行目の「被」と「仰付」の間が5字も空けてある。

 【その他の尊敬の体裁】

 ◎「平出(へいしゅつ)」・・平頭抄出の略。文中に天皇または高貴の人の名や称号を書く時、敬意を表わすため、行を改めて頭に出し、他の行の頭と同じ高さに書くこと。

 ◎「台(擡)頭」・・貴人に関する語を敬意を表して改行し、普通より上に書くこと。ふつうは一字あげ、天

子に関する事柄は二字あげるのが通例。

(9-2)「枢要(すうよう)」・・かなめ。影印の「樞」は、「枢」の旧字体。

(9-4)「被差遣置」か、「被差遣」か。つまり、「置」は見せ消ちかどうか・・異本は、「被差遣」で、「置」はない。

(9-5)「調練(ちょうれん)」・・訓練を積むこと。

(9-6)「旋転(せんてん)」・・くるくると回ること。回転すること。

(9-8)「後来(こうらい)」・・こののち。ゆくすえ。将来。

(9-8)「急度(きっと)」・・きちんと。しっかりと。

(10-4)「必定(ひつじょう・ひちじょう)」・・確かなさま。決定的であるさま。

(10-4)「伏従(ふくじゅう)」・・服従。他人の意志または命令に従うこと。

(10-5)「一等」・・一等級か、または、副詞の「一段と。よりいっそう。」か。異本は、ルビに「本のママ」に作る。

(10-8)「越年為致△(候樣罷成候共、何レも妻子有之者共故、越年為致△)候儀も相成申間敷」・・下の△(1)は、挿入記号。(  )部分を読んで、上の△(2)に戻る。

 *異本は、(  )内の「越年」の前に、「連年」があり、「連年越年」に作る。この方が、文意が通じる。

(10-9)「与(と)」・・ここの「与(と)」は、変体仮名ではない。変体仮名の場合は、「よ」。「与」は漢文の二つの語を並列する中間の助字で、日本語の並列の助詞「と」に当るので、「与」を「と」と訓じた。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)   (とみ)(たっと)ハ、()レ人之欲スル所也」

(10-10)<漢字の話>「働」・・「働」は国字。ジャパンナレッジ版『字通』には、

 <働はわが国で作られた字で、労働の意に用いる。〔中華大字典〕に「日本の字なり。通じて之れを讀むこと動の(ごと)し」とみえる。>

 とある。

(10-11)「方今(ほうこん)」・・ただ今。また、近い過去から現在までを漠然とさしてもいう。現今。

(11-1)「石炭鉄炮等相開」・・異本は、「鉄炮」を「鉱坑」に作る。

(11-1)「輻湊(ふくそう)」・・「輻」は車の輻(や=車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。やぼね。)、「湊」「輳」はともにあつまる意。車の輻(や)が轂(こしき=車輪の中心の輻が集まる太く丸い部分。中を車軸が貫いている。)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

(11-1)「仕法(しほう)」・・物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(11-1)「条下(じょうか)」・・文章の該当する部分。その箇所。

(11-2)「定貢」・・一本には、「貢」を「員」とし、「定員」に作る。

(11-3)「家眷(かけん)」・・同族の者。または一族の者とそれに付き従う者。一家眷族。

 *<漢字の話>「眷(けん)」・・①常用漢字でないので、1、2画は「ハ」。同様に、「倦怠」の「倦」も常用漢字でないので、1、2画は「ハ」

                    ②常用漢字になった「巻」「圏」「券」「拳」などは、旧字体の冠部分は、「ハ」だったが、「ソ」になった。

 (11-5)「已(すで)に」<漢字の話>・・

「己」・・キ・こ・(の声)・おのれ・つちのと(下に付き

「已」・・イ・すでに・(半ばして)・已(や)む・而已(のみ)

「巳」・・シ・み・(は皆付く

*「己(おのれ)」・「已(すでに)」して・「巳(へび)」

(11-6)「見合」・・読み方と意味は、どうですか。教えてください。

(11-8)「気請(きうけ)」・・気受け。他人がその人やその人の行動に対してもつ感情。世間の評判。うけ。

(11-10)「相厭(あいいとい)」・・きらい。いやがり。「相(あい)」は語調を整え重みを加える接頭語。「厭(いいとい)」は、「厭(いと)う」の連用形。

 *<漢字の話>「魘(えん)」・・「厭」+「鬼」で、おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめくこと。「夢魘(むえん)」

(11-10)「品に寄(より)」・・事情によって、場合によって。「品(しな)」は、物事の事情や理由。

 *「ことと品による」・・事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。

(11-11)「奢侈(しゃし)」・・「奢」「侈」はともにおごる意。身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。また、そのさま。ぜいたく。

 *<漢字の話>・・「奢」は常用漢字ではないので、脚の部分は、「者」に「ヽ(点)」が付く。

①常用漢字になり、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がなくなり、1画減った漢字・・「暑」「緒」「諸」「署」「著」「都」など。旧字体は、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」があり、1画多かった。

②常用漢字ではないので、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある漢字・・「楮(こうぞ)」「躊躇」の「躇」「儲(もうけ)る。など。

③ところが、2010年の常用漢字の追加で、「賭(か)ける」「箸」が加わったが、『康煕辞典』のまま、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある。

(12-1)「不伏(ふふく)」・・不服。

(12-2)「領主」・・ここでは、松前藩主。

(12-2)「手限(てぎり)」・・その人の考えだけで処置すること。上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(12-3)「連々(れんれん)」・・引き続き。

(12-3)「御料所(ごりょうしょ)」・・江戸幕府の直轄地。御料。御領。天領。

(12-5)「御直人(おじきびと)」・・「じきさん(直参)」の敬称。主君に直接仕えること。また、その人。

(12-7)「差向(さしむき)」・・さしあたり。目下。とりあえず。

(12-7)「遁着(とんちゃく・とんじゃく)なく」・・頓着。気にかけない。無頓着である。

(12-8)「権道(けんどう)」・・手段としては道に外れるが、結果からみて道に合っている行きかた。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。

(12-8)「用弁(ようべん)」・・用事を弁じること。用事をすますこと。用事のすむこと。用の足りること。用便。

(13-2)「武備(ぶび)」・・戦いに対する備え。軍備。兵備。

(13-3)「折合」・・読みと意味は?

(13-3)「年柄(としがら・としから)」・・年。「柄」は、名詞の下に付いて、その物事の本来持っている性質、品格、身分などの意、また、それらの性質、品格、身分などにふさわしいこと、また、その状態の意などを表わす。「人柄」「家柄」「身柄」「続柄」「国柄」「場所柄」「声柄」「時節柄」などと用いられる。

(13-4)「夫食(ふじき・ぶじき)」・・主として江戸時代に用いられたことばで、農民の食糧のことをいう。江戸時代の農業経営、とりわけ下層農の農業経営は不安定であり、風水旱損、虫付などによる凶作、疫病の流行などによって、農民はしばしば食糧の不足に悩まされた。そうした場合、農民は領主に対して夫食や種籾、農具などの貸与を願い出た。一方、領主側も年貢収奪基盤である農民の経営の再生産を保障する必要性から彼らに一定度の夫食貸与を認めた。

 *「夫」・・労働に携わる人。「夫役(ぶやく・ぶえき)」「農夫」「漁夫」「樵夫(きこり)」など。

(13-7)「演砲(えんぽう)」・・砲術の訓練。

 *『演砲法律』・・江戸時代後期の医師で、久坂玄機(げんき)の書。オランダの砲術書『ベトロン』を訳した『演砲法律』がある。玄機は、文政3年生まれ。長門萩藩医学館の都講役を務めた。久坂玄瑞の兄。

(13-8)「遣料(つかいりょう)」・・物や場所の利用代として支払われる金。使用料。

(13-9)「仕付(しつけ)」・・作りつけること。

(13-9)「作取(つくりどり)」・・全収穫物を地主・耕作者のものとすること。江戸時代、新田開発などの際、開発直後からある一定期間は鍬下年季といって免税措置がとられていた。

(13-11)「必定(ひつじょう)」・・必ずそのようになるにきまっていること。必ず予測したとおりの結果になること。また、確かなさま。決定的であるさま。

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