森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

古文書解読学習会

          札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:201469日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』5月学習の注 

(37-1)<変体仮名の話>「言ければ」の「け(介)」・・「介」を「け」とするのは、なぜか。「介」の呉音に「ケ」があり、万葉仮名でも「け」。しかし、一説に、①「介」の字母(漢字の音の基本となる文字)が「个(カ)」であるといい、「个」は、物や人を数える語で「箇」の同じとする。②「介」の部分からカタカナの「ケ」ができ、のち、変体仮名の「け」として使われるようになった。

(37-1)「明は」・・「明日の朝」で、「日の朝」欠か。異本には、「明日の朝は」とある。

(37-12)「とらの時」・・午前4時頃。

(37-4)「ねや(閨・寝屋)」・・寝室。

 *<漢字の話>「閨」・・ジャパンナレッジ版『字通』に、<アーチ形のくぐり戸のような門戸をいう。もと里中に設ける小門であった。〔爾雅、釈宮〕に「宮中の門、之れを闈(イ)と曰ふ。其の小なる、之れを閨(ケイ)と曰ふ」とあり、後宮に設けることが多い。のち閨房の意となる。のち閨房の意となる。>とある。
**「閨秀(けいしゅう)」・・才芸にすぐれた女性。

(37-6)<変体仮名の話>「違わず」の「わ(王)」・・「王」は漢音・呉音とも「オウ」であるが、変体仮名で「わ」とするのは、「王」の歴史的仮名遣いが「ワウ」であったことによる。

(37-6)「心を取て」・・人の気持を察して。

(37-7)<変体仮名の話>「計(ばかり)にて」の「に(丹)」・・①「丹」の解字は、「丹砂(たんさ)」(深紅色の鉱物)を採掘する井戸の象形。「ヽ」が丹砂をあらわす。「丹」は、国訓で「に」。万葉仮名でも「に」。「青丹(あおに)よし」など。

 ②「丹」の部首は、「ヽ」部で、「チュ」と発音する。「てん」部」、「ちょぼ」部とも。

(37-8)「いらぬ事」・・むだなこと。

(37-10)「安かるべし」・・「安し」は、らくらくと物事を行なうことができる。容易である。

(37-11)「偽(いつわ)り」・・うそを言う。だます。

(38-3)「冨家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(38-5)「北より三人の目の女」・・異本のひとつには、「北より」を「此より」とある。

(38-6)「彼(かれ)」・・話し手、相手以外の人をさし示す。明治期まで男にも女にも用いた。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<明治以降、西欧語の三人称男性代名詞の訳語として、口頭語に用いられるようになった。明治以前は、人を指示する場合、男女を問わなかったが、明治以降に同じく訳語として定着していった「彼女」との間で、しだいに男女の使い分けをするようになったと考えられる。>とある。

 *「たそがれ」・・古くは「たそかれ」。「誰(た)そ(か)は」と、人のさまの見分け難い時の意。夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。

 *「かわたれ」・・「()は誰(たれ)」の意。「かわたれどき」は、あれはだれだとはっきり見分けられない頃。はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。

(38-10)「念頃(ねんごろ)」・・懇ろ。心がこもっているさま。親身であるさま。

(39-3)「迎(むかい)」・・「迎」は、「向」か。異本は、「向い」としている。

(39-6)「包(つつま)ず」・・隠さず。「包む」は、かくすの意。

(39-7)「打わらひ」・・「うち」は接頭語。「打わらう」は、あざけり、おかしさ、よろこびなどの気持で、口をあけて笑い声をたてる。ふと笑う。

 *「わかき人は、ものをかしく、みな、うちわらひぬ」(『源氏物語・常夏』)

(39-8)「ま事(こと)」・・真事(まこと)。真実の事柄。事実。

 *「正真事(しょうまっこと)」・・まことを強めていった語。正真正銘であること。うそいつわりのないこと。また、そのさま。

(39-8)<変体仮名の話>「此国に」の「に(耳)」・・「耳」の漢音は、「ジ」だが、呉音では「ニ」。また、万葉仮名の「に」。

(39-9)「帰ることなかるべし」・・異本は、「帰ることなるべからず」としている。

(39-11)「まどひ」・・「惑(まど)ふ」の連用形。「惑う」は、考えが定まらずに、思案する。

(40-1)「言取(いいとり)たる」・・「言い取る」は、ことばで表現、伝達する。話し合う。

(41-1)「乱妨(らんぼう)」・・暴力を用いて無法に掠めとること。他人のものを理不尽に強奪すること。掠奪すること。

(41-1~2)「わきて」・・分て。別て。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(41-6)「広東」・・中国南東部、広東省の省都現広州の旧称。

(41-6)「南京(ナンキン)」・・中国、江蘇(こうそ)省の省都。同省南西部の長江が北東から東へ流れを変える屈曲点に位置する。

(41-67)「かしこ」・・彼処。あそこ。本文では、広東、南京のこと。

(41-8)「廻り通(どお)し」・・「廻り遠し」か。「通」は、「遠」の当て字か。「廻り遠い」は、目的地の達するのに遠回りであること。

(41-9)「ヲホーツカ」・・オホーツク。現ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく)(砦(とりで))が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

(41-10)「仙台の善六」・・善六は、仙台藩石巻の若宮丸(800石積)の水主で、ロシア漂着後、イルクーツクで洗礼を受けロシアに帰化した。ロシア名ミハイル・ジェラロフとか。若宮丸は、寛政5年(1793)1127日、仙台藩御用米を積んで江戸に向ったが強風のため漂流、寛政6年(1794510日、アリューシャン列島の無人島に漂着。その後オホーツクに到着、イルクーツクを経て首都ペテルブルクに到着した。享和3(1803)、世界一周をめざしたナデジタ号に、遣日使節レザノフが乗船し、日本への帰国を許された若宮丸の乗組員津太夫ら4名と通詞役として帰化した善六も乗船した。享和3(1803)616日、ナデジダ号は、バルト海のクロンシュタット港を出港、南アメリカを迂回して太平洋に出、ハワイを経てカムチャッカ半島のペトロハバロフスクに入港。帰国漂流民と善六のいがみ合いのため、善六は、ペトロハバロフスクで下船した。

 ナデジダ号は、文化元年(1804)96日、長崎に到着。津太夫らは、日本に帰還した。彼らは最初に世界一周した日本人である。

 さて、善六は、その後、文化10年(1813)ゴローニンを引き取りに箱館に来たリコルドの通詞として、20年ぶりに日本の土を踏んでいる。その後、善六は、イルクーツクに帰り、日本語教師を勤めている。文化13(1813)頃、イルクーツクで死亡したという。

5月『蝦夷地見込書秘書』注

(11-1)「石炭鉄炮等相開」・・『北蝦夷地御取締見込之儀荒増左ニ申上候』(『蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類』所収=北海道庁刊『新撰北海道史第五巻史料一』所載。以下、『開拓諸書付』。)は、「鉄炮」を「鉄坑」としている。「鉄坑」は、鉱山のこと。

 (11-1)「輻湊(ふくそう)」・・「輻」は車の輻(や=車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。やぼね。)、「湊」「輳」はともにあつまる意。車の輻(や)が轂(こしき=車輪の中心の輻が集まる太く丸い部分。中を車軸が貫いている。)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

(11-1)「仕法(しほう)」・・物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(11-1)「条下(じょうか)」・・文章の該当する部分。その箇所。

(11-2)「定貢」・・『蝦夷地廻浦録(えぞちかいほろく)』(北海道大学附属図書館蔵。以下『廻浦録』)、『開拓諸書付』とも、「定員」としている。

(11-2)「為致(いたし)候ハゝ」・・①「致させ候ハゝ」②「いたし候ハゝ」。「為」は、「致す」を強調する語。「致す」は、サ変動詞「為(す)」の謙譲語・丁寧語。「為致」の2字で、「いたす(いたし)」と読む。『開拓諸書付』は、「致し候ハゞ」としている。

(11-3)「家眷(かけん)」・・同族の者。または一族の者とそれに付き従う者。一家眷族。

(11-5)「已(すで)に」<漢字の話>・・

「己」・・キ・こ・(の声)・おのれ・つちのと(下に付き

「已」・・イ・すでに・(半ばして)・已(や)む・而已(のみ)

「巳」・・シ・み・(は皆付く

*「己(おのれ)」・「已(すでに)」して・「巳(へび)」

(11-6)「見合」・・読み方と意味は?

(11-8)「気請(きうけ)」・・気受け。他人がその人やその人の行動に対してもつ感情。世間の評判。うけ。

(11-8)「衰微(すいび)」・・おとろえ弱ること。衰退。

(11-10)「相厭(あいいとい)」・・きらい。いやがり。「相(あい)」は語調を整え重みを加える接頭語。「厭(いいとい)」は、「厭(いと)う」の連用形。

 *<漢字の話>「魘(えん)」・・「厭」+「鬼」で、おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめくこと。「夢魘(むえん)」

(11-10)「品に寄(より)」・・事情によって、場合によって。「品(しな)」は、物事の事情や理由。

 *「ことと品による」・・事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。

(11-11)「奢侈(しゃし)」・・「奢」「侈」はともにおごる意。身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。また、そのさま。ぜいたく。

 *<漢字の話>・・「奢」は常用漢字ではないので、脚の部分は、「者」に「ヽ(点)」が付く。

①常用漢字になり、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がなくなり、1画減った漢字・・「暑」「緒」「諸」「署」「著」「都」など。旧字体は、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」があり、1画多かった。

②常用漢字ではないので、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある漢字・・「楮(こうぞ)」「躊躇」の「躇」「儲(もうけ)る。など。

③ところが、2010年の常用漢字の追加で、「賭(か)ける」「箸」が加わったが、『康煕辞典』のまま、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある。

(12-1)「不伏(ふくさざる)」・・『開拓諸書付』は、「不伏」と返読している。「伏(ふく)す」は、従う、降伏する、屈伏するの意。

(12-2)「領主」・・ここでは、松前藩主。

(12-2)「手限(てぎり)」・・その人の考えだけで処置すること。上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(12-3)「伋而(よって)」・・だから。であるから。したがって。普通は、「依而」とする場合が多い。『開拓諸書付』、『廻浦録』とも「依而」としている。

(12-3)「連々(れんれん)」・・引き続き。

(12-3)「御料所(ごりょうしょ)」・・江戸幕府の直轄地。御料。御領。天領。

(12-5)「見据(みすえ)」・・見てはっきりと判断する。見定める。見込む。

(12-5)「御直人(おじきびと)」・・「じきさん(直参)」の敬称。主君に直接仕えること。また、その人。

(12-7)「如何(いか)にも」・・①程度、状態のはなはだしいことを確かにそうであると確認している意を表わす。強く肯定して、強めていう。どうみても。まことに。まったく。おおいに。②(感動詞のように用いて)相手のことばをうけ、肯定、同意する応答のことば。たしかに。なるほど。まさしく。その通りだ。

(12-7)「差向(さしむき)」・・「差向く」の連用形。(「さし」は接頭語)直面する。当面する。

(12-7)「遁着(とんちゃく・とんじゃく)なく」・・気にかけない。無頓着である。「遁着」は、頓着。

(12-8)「権道(けんどう)」・・手段としては道に外れるが、結果からみて道に合っている行きかた。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。

(12-8)「用弁(ようべん)」・・用事を弁じること。用事をすますこと。用事のすむこと。用の足りること。用便。

(12-11)「請負町人(割注略)被差置」・・『開拓諸書付』は、「請負町人」と「被差置」の間に「之手附ニ」があり、請負町人(割注略)之手附ニ被差置」とある。『開拓諸書付』の方がわかりやすいか。

(13-2)「武備(ぶび)」・・戦いに対する備え。

(13-3)「年柄(としがら)」・・「柄」は、接尾語。名詞の下に付いて、その物事の本来持っている性質、品格、身分などの意、また、それらの性質、品格、身分などにふさわしいこと、また、その状態の意などを表わす。「人柄」「家柄」「身柄」「続柄」「国柄」「場所柄」「声柄」「時節柄」などと用いられる。

(13-4)「夫食(ふじき)」・・主として江戸時代に用いられたことばで、農民の食糧のことをいう。江戸時代の農業経営、とりわけ下層農の農業経営は不安定であり、風水旱損、虫付などによる凶作、疫病の流行などによって、農民はしばしば食糧の不足に悩まされた。そうした場合、農民は領主に対して夫食や種籾、農具などの貸与を願い出た。一方、領主側も年貢収奪基盤である農民の経営の再生産を保障する必要性から彼らに一定度の夫食貸与を認めた。 

*「夫」・・労働に携わる人。「夫役(ぶやく・ぶえき)」「農夫」「漁夫」「樵夫(きこり)」など。

(13-7)「演砲(えんぽう)」・・砲術の訓練。

 *『演砲法律』・・江戸時代後期の医師で、久坂玄機(げんき)の書。オランダの砲術書『ベトロン』を訳した『演砲法律』がある。玄機は、文政3年生まれ。長門萩藩医学館の都講役を務めた。久坂玄瑞の兄。

(13-8)「遣料(つかいりょう)」・・物や場所の利用代として支払われる金。使用料。

(13-9)「仕付(しつけ)」・・作りつけること。

(13-9)「作取(つくりどり)」・・全収穫物を地主・耕作者のものとすること。江戸時代、新田開発などの際、開発直後からある一定期間は鍬下年季といって免税措置がとられていた。

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古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。
4古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時 2014年5月12日(月)13時~16時15分
◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研  
修室 
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。
②『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1854)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。
4古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時 2014年4月7日(月)13時~16時15分
◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研  
修室 
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。
②『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

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4月『ふなをさ日記』学習の注

(32-2)「合羽(かっぱ)」・・ポルトガル語capa。「合羽」はあて字。防寒コート。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「合羽」の語誌には、

 <(1)ポルトガル人の伝えた毛織物のcapa を戦国武将たちは外衣として珍重した。厚手で防水性があり、ヨーロッパのすぐれた技術で染色された鮮明な緋色、黄、黒色が特に愛好された。

(2)「合羽」と当て字され、その形態が日本化されて、「雨合羽」「道中合羽」など、材質も桐油紙や木綿が用いられ庶民層にまで広がった。日本で工夫されたものに、袖をつけた袖合羽、桐油紙製袖なしの坊主合羽、袖つき桐油紙製の豆蔵合羽、木綿製の引廻し、等々がある。>とある。

(32-2)「小安貝(こやすがい)」・・タカラガイ科の巻き貝の異名。特に、大形のハチジョウダカラをさすことが多い。形が卵形で色が美しく妊婦のお守りとされ、また、古代には貨幣としても用いた。

*『竹取物語』で、かぐや姫が求婚者の1人に、ツバメの腹にもつこの貝を所望するのはよく知られている。子安貝ともいうので、安産や育児に伴う呪物(じゅぶつ)とされ、また蔵骨器(ぞうこつき)に入っていた例も鹿児島県伊佐(いさ)市など数例あることから、生命力の再生を願う呪具としての観念もあったらしい。柳田国男は『海上の道』(1961)でこの貝の重要性を指摘しているが、アジア、アフリカ、アメリカの先住民族は先史時代からこの貝殻を貝貨として用い、ニューギニアのモニ人は最近まで貨幣として使用していたという。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書』)

(32-2)<漢字の話>「牙」・・2010年改定の新常用漢字に「牙」(4画)が追加された。

現在、常用漢字になっていない漢字(以下、表外漢字)としての「牙」は、4画である。つまり、2画目の「ノ」と「一」を一気に1画で書く。
<「牙」を含む常用漢字の「牙」は、5画>
ところが、「牙」を含む常用漢字の画数は、1画増えた。つまり、2画目を二つに分解した。「ノ」と「一」を1画で書かず、2画に書くようになった。「常用漢字字体表」で画数が増えた例である。
たとえば、「芽」の脚部分の「牙」は4画から5画になった。その他、「雅」「邪」の「牙」の部分が5画になった。同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。常用漢字でも「牙」は4画、「牙」が偏旁にある漢字は5画という矛盾が発生している。
また、現在、表外漢字の「冴(さ)える」、「穿(うが)つ」、「訝(いぶか)る」、「谺(こだま)」、「鴉(からす)」の「牙」は、4画であり、これらの表外漢字と「牙」の字が偏旁にある漢字の画数(5画)が異なっている。

(32-5)「歳」<漢字の話>・・影印の「才」は、日本で、俗に、年齢をあらわす「歳」の代わりに使用される。したがって、テキスト翻刻では「歳」とする。

 「歳」は、太陽暦で、地球が太陽を一周する時間。太陰暦で、月が地球を一二周する間。年。

 なお、「才」は、生まれつきもっているすぐれた能力、資質。頭のはたらき。才能。才知。知能。また、そうした能力、資質のそなわった人。

(32-5)「わらは」・・童(わらわ)。稚児(ちご)より年長で、まだ元服しない者。10歳前後の子ども。童子。

(32-8)「心(こころ)ならず」・・不安でじっとしていることができない。気が気でない。

(32-8)「いたみ居(い)る」・・苦痛に思う。弱る。困る。

(32-10)「夜半(やはん)」・・夜の半分。つまり、よなか。まよなか。よわ。夜中(やちゅう)。

(32-11)「夜喰(やしょく)」・・「喰」を「しょく」と読むのは、「食」の通用語。なお、「喰」は、日本で出来た国字。

なお、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』の「南黒丸村(現石川県珠洲市宝立町南黒丸)」の項に、『角谷家文書』から、「寛政六年(一七九四)の払物帳には重箱・夜喰膳・盆などの塗物、徳利・皿・鉢などの焼物、鎌・たらいなどの金工品、柱・桶・戸障子・掛物軸などの木製品のほか、夜着・蒲団・畳」などがみえ、「夜喰膳」がある。

(33-3)「あら麦」・・荒麦。まだ精製しない、からのついたままの麦。

 *コムギ、オオムギは人類が農耕を始めたときからのもっとも歴史の古い作物であり、日本へもイネと同じかあまり遅れないころに大陸から伝来して、栽培が始められた。

 *<漢字の話>「麦」・・①「麦」は常用漢字。影印は、旧字体の「麥」。

  ②「麺」は常用漢字なので、偏は「麦」。旧字体は、「麵」。

  ③ところが、常用漢字でない「麩(ふ)」「麴(こうじ)」の偏は、「麦」ではなく、「麥」

  ④「麥」は11画の部首。また、「麻」(11画)、「黍(きび・12画)」も画数が多いのに、部首になっている。しかも、手元の漢和辞典では、部首を含め、「麥」部は、9字、「麻」は3字(国字の「麿」を除く)、「黍」は、3字しかない。紀元100121年に成立した中国最古の中国最古の漢字字書。『説文解字』は、1万余の漢字を540の部首に類別しているが、漢字を生み出した文明社会黎明期の黄河中流域の人々にとって、「麥」「麻」「黍」は、生きて行く上で、なくてはならない大切な植物であった。

(33-4)「鉄炮」<漢字の話>「炮」・・①「火」部。解字は、『説文解字』に、「毛のままにてを炙(あぶ)るなり」とあり、まるやきをいう。常用漢字ではないので、旁は、中は「巳」。

   ②一方、「砲」は「石」部で、いしゆみ。常用漢字なので、旁の中は、「己」。ただし、旧字体は、「巳」

(33-5)「分銅(ぶんどう・ふんどう)」・・重さを測る際の基準として使用する金属性のおもり。江戸時代、分銅

には十匁目から一分に至る十七種あった。「25貫」は、どんな分銅か。

(33-7)「革提煙草入(かわのさげたばこいれ)」・・ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

 <刻みたばこを入れるための袋物。江戸時代初期のころは、刻んだたばこは白い奉書の紙に包むのが上品とされたが、屋外で働く人は手製の巾着(きんちゃく)に入れてきせるに結び、腰に提げた。また鉄砲の弾丸を入れた胴乱(どうらん)を改造して用いる人もあり、しだいに庶民の間に広がって上流階級にも及んだが、武士は印籠(いんろう)を提げるため懐中用を使っていた。たばこ入れの形には、

1)一つ提げ・・巾着または胴乱を根付(ねつけ)で提げるもの、

2)腰差・・巾着または胴乱にきせる筒をつけ、きせる筒で腰に差すもの、

3)提げ・・胴乱にきせる筒もあるが根付で別に提げるもの、

4)懐中用・・革製もあるが、おもに布製の二つ折りで、共裂(ともぎれ)のきせるを入れる袋がつき、婦人用が多い、

5)とんこつ 雨にぬれても中身のたばこが湿らないように木製と金属製があり、一つ提げと腰差形がある、

6)袂落(たもとおと)し 布または竹、籐(とう)で編んだ小さな袋2個を、鎖または紐(ひも)でつないで両方の袂へ肩から提げるが、一方の袋には懐中用の小形たばこ入れを、もう一方の袋には手拭(てぬぐい)などを入れる。たばこ入れはとかく置き忘れることが多いので、このようにさまざまな形があった。

 胴乱には金唐革(きんからかわ)、印伝革(いんでんがわ)が使われたが、これらは当時輸入品で高価なため、裕福な人たちのたばこ入れになった。庶民の多くは、一見革製にみえるが和紙に桐油(とうゆ)を塗ったり、渋(しぶ)を拭いて柿(かき)色に染め、革まがいにしわをつけたものを使っていた。江戸時代後期になると、国産の革製もできて、たばこ入れは身につける唯一のアクセサリーとなり、胴乱の蓋(ふた)に著名な彫金師のつくった留め金具を用いたり、きせる筒の材質にも凝るようになった。明治時代には胴乱、金具、緒締(おじめ)、筒の組合せに粋を凝らした工芸品もつくられたが、いまでは好事家の収集品になっているにすぎない。両切りたばこの出現とともに、金属製のシガレット・ケースにとってかわられている。>とある続きを読む

4月『蝦夷地見込書秘書』

 (9-1)「急度(きっと)御咎」・・「咎(とがめ)」は、罰。「急度」は、きびしく。厳重に。「急度咎」は、厳しい罰。なお、江戸時代の刑罰に「急度叱(きっとしかり)」がある。庶民に科せられた刑罰の一種。叱(しかり)の重いもので、厳重に叱責するだけで放免する軽刑。叱と同様、犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた。

(9-1)「御咎(おとがめ)被 仰付候(おおせつけられそうろう)」・・「被(られ)」と「仰付」の間に、空白がある。古文書独特の尊敬の体裁で、「欠(闕)字」という。

 *下は、等澍院文書に見る欠字・・4行目の「被」と「仰付」の間が5字も空けてある。

 【その他の尊敬の体裁】

 ◎「平出(へいしゅつ)」・・平頭抄出の略。文中に天皇または高貴の人の名や称号を書く時、敬意を表わすため、行を改めて頭に出し、他の行の頭と同じ高さに書くこと。

 ◎「台(擡)頭」・・貴人に関する語を敬意を表して改行し、普通より上に書くこと。ふつうは一字あげ、天

子に関する事柄は二字あげるのが通例。

(9-2)「枢要(すうよう)」・・かなめ。影印の「樞」は、「枢」の旧字体。

(9-4)「被差遣置」か、「被差遣」か。つまり、「置」は見せ消ちかどうか・・異本は、「被差遣」で、「置」はない。

(9-5)「調練(ちょうれん)」・・訓練を積むこと。

(9-6)「旋転(せんてん)」・・くるくると回ること。回転すること。

(9-8)「後来(こうらい)」・・こののち。ゆくすえ。将来。

(9-8)「急度(きっと)」・・きちんと。しっかりと。

(10-4)「必定(ひつじょう・ひちじょう)」・・確かなさま。決定的であるさま。

(10-4)「伏従(ふくじゅう)」・・服従。他人の意志または命令に従うこと。

(10-5)「一等」・・一等級か、または、副詞の「一段と。よりいっそう。」か。異本は、ルビに「本のママ」に作る。

(10-8)「越年為致△(候樣罷成候共、何レも妻子有之者共故、越年為致△)候儀も相成申間敷」・・下の△(1)は、挿入記号。(  )部分を読んで、上の△(2)に戻る。

 *異本は、(  )内の「越年」の前に、「連年」があり、「連年越年」に作る。この方が、文意が通じる。

(10-9)「与(と)」・・ここの「与(と)」は、変体仮名ではない。変体仮名の場合は、「よ」。「与」は漢文の二つの語を並列する中間の助字で、日本語の並列の助詞「と」に当るので、「与」を「と」と訓じた。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)   (とみ)(たっと)ハ、()レ人之欲スル所也」

(10-10)<漢字の話>「働」・・「働」は国字。ジャパンナレッジ版『字通』には、

 <働はわが国で作られた字で、労働の意に用いる。〔中華大字典〕に「日本の字なり。通じて之れを讀むこと動の(ごと)し」とみえる。>

 とある。

(10-11)「方今(ほうこん)」・・ただ今。また、近い過去から現在までを漠然とさしてもいう。現今。

(11-1)「石炭鉄炮等相開」・・異本は、「鉄炮」を「鉱坑」に作る。

(11-1)「輻湊(ふくそう)」・・「輻」は車の輻(や=車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。やぼね。)、「湊」「輳」はともにあつまる意。車の輻(や)が轂(こしき=車輪の中心の輻が集まる太く丸い部分。中を車軸が貫いている。)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

(11-1)「仕法(しほう)」・・物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(11-1)「条下(じょうか)」・・文章の該当する部分。その箇所。

(11-2)「定貢」・・一本には、「貢」を「員」とし、「定員」に作る。

(11-3)「家眷(かけん)」・・同族の者。または一族の者とそれに付き従う者。一家眷族。

 *<漢字の話>「眷(けん)」・・①常用漢字でないので、1、2画は「ハ」。同様に、「倦怠」の「倦」も常用漢字でないので、1、2画は「ハ」

                    ②常用漢字になった「巻」「圏」「券」「拳」などは、旧字体の冠部分は、「ハ」だったが、「ソ」になった。

 (11-5)「已(すで)に」<漢字の話>・・

「己」・・キ・こ・(の声)・おのれ・つちのと(下に付き

「已」・・イ・すでに・(半ばして)・已(や)む・而已(のみ)

「巳」・・シ・み・(は皆付く

*「己(おのれ)」・「已(すでに)」して・「巳(へび)」

(11-6)「見合」・・読み方と意味は、どうですか。教えてください。

(11-8)「気請(きうけ)」・・気受け。他人がその人やその人の行動に対してもつ感情。世間の評判。うけ。

(11-10)「相厭(あいいとい)」・・きらい。いやがり。「相(あい)」は語調を整え重みを加える接頭語。「厭(いいとい)」は、「厭(いと)う」の連用形。

 *<漢字の話>「魘(えん)」・・「厭」+「鬼」で、おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめくこと。「夢魘(むえん)」

(11-10)「品に寄(より)」・・事情によって、場合によって。「品(しな)」は、物事の事情や理由。

 *「ことと品による」・・事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。

(11-11)「奢侈(しゃし)」・・「奢」「侈」はともにおごる意。身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。また、そのさま。ぜいたく。

 *<漢字の話>・・「奢」は常用漢字ではないので、脚の部分は、「者」に「ヽ(点)」が付く。

①常用漢字になり、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がなくなり、1画減った漢字・・「暑」「緒」「諸」「署」「著」「都」など。旧字体は、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」があり、1画多かった。

②常用漢字ではないので、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある漢字・・「楮(こうぞ)」「躊躇」の「躇」「儲(もうけ)る。など。

③ところが、2010年の常用漢字の追加で、「賭(か)ける」「箸」が加わったが、『康煕辞典』のまま、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある。

(12-1)「不伏(ふふく)」・・不服。

(12-2)「領主」・・ここでは、松前藩主。

(12-2)「手限(てぎり)」・・その人の考えだけで処置すること。上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(12-3)「連々(れんれん)」・・引き続き。

(12-3)「御料所(ごりょうしょ)」・・江戸幕府の直轄地。御料。御領。天領。

(12-5)「御直人(おじきびと)」・・「じきさん(直参)」の敬称。主君に直接仕えること。また、その人。

(12-7)「差向(さしむき)」・・さしあたり。目下。とりあえず。

(12-7)「遁着(とんちゃく・とんじゃく)なく」・・頓着。気にかけない。無頓着である。

(12-8)「権道(けんどう)」・・手段としては道に外れるが、結果からみて道に合っている行きかた。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。

(12-8)「用弁(ようべん)」・・用事を弁じること。用事をすますこと。用事のすむこと。用の足りること。用便。

(13-2)「武備(ぶび)」・・戦いに対する備え。軍備。兵備。

(13-3)「折合」・・読みと意味は?

(13-3)「年柄(としがら・としから)」・・年。「柄」は、名詞の下に付いて、その物事の本来持っている性質、品格、身分などの意、また、それらの性質、品格、身分などにふさわしいこと、また、その状態の意などを表わす。「人柄」「家柄」「身柄」「続柄」「国柄」「場所柄」「声柄」「時節柄」などと用いられる。

(13-4)「夫食(ふじき・ぶじき)」・・主として江戸時代に用いられたことばで、農民の食糧のことをいう。江戸時代の農業経営、とりわけ下層農の農業経営は不安定であり、風水旱損、虫付などによる凶作、疫病の流行などによって、農民はしばしば食糧の不足に悩まされた。そうした場合、農民は領主に対して夫食や種籾、農具などの貸与を願い出た。一方、領主側も年貢収奪基盤である農民の経営の再生産を保障する必要性から彼らに一定度の夫食貸与を認めた。

 *「夫」・・労働に携わる人。「夫役(ぶやく・ぶえき)」「農夫」「漁夫」「樵夫(きこり)」など。

(13-7)「演砲(えんぽう)」・・砲術の訓練。

 *『演砲法律』・・江戸時代後期の医師で、久坂玄機(げんき)の書。オランダの砲術書『ベトロン』を訳した『演砲法律』がある。玄機は、文政3年生まれ。長門萩藩医学館の都講役を務めた。久坂玄瑞の兄。

(13-8)「遣料(つかいりょう)」・・物や場所の利用代として支払われる金。使用料。

(13-9)「仕付(しつけ)」・・作りつけること。

(13-9)「作取(つくりどり)」・・全収穫物を地主・耕作者のものとすること。江戸時代、新田開発などの際、開発直後からある一定期間は鍬下年季といって免税措置がとられていた。

(13-11)「必定(ひつじょう)」・・必ずそのようになるにきまっていること。必ず予測したとおりの結果になること。また、確かなさま。決定的であるさま。

『ふなをさ日記』3月学習の注 

(28-2)「熊程の何とも知れぬ獣もの」・・どんな動物か。

(28-3)「入りて」か「入(いら)ば」か、「入(いれ)ば」か。・・どちらか。異本は、「入れば」に作る。

 ①「入(いら)ば」・・接続助詞「ば」は仮定条件(モシ・・ナラバ)の場合は、未然形に接続するので、「入(い)る」の未然形は、「入(いら)」だから、「入(いら)ば」になる。

 ②確定条件(・・スルト)の場合は、已然形に接続するので、「入(い)る」の已然形「入(いれ)ば」となる。

(28-4)「はしごの下」・・どこか?

(28-4)「びゐどろ」・・ビードロ。ポルトガル語のVidroから。ガラスの別名。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ビードロ」の語誌には、

 <(1)一八世紀後半以降、板ガラスの技術が入ってくると、板ガラスを「ガラス」、ガラス器具を「ビードロ」と呼ぶ区別が生じた。一方、細工したガラス器を指すようになっていた「ギヤマン」が一九世紀にはガラス一般の意でも使われるようになったが、明治時代になると、「ガラス」が材料名として定着し、「ビードロ」「ギヤマン」は方言に残るほかは次第に使われなくなった。

(2)「硝子」という表記は、最初はビードロにあてたもので、後にガラスと読むようになったものである。>

 とある。

(28-5)「鳴子(なるこ)」・・小さい板に竹筒や鈴などをつるし、綱を引くと鳴るしかけの、人を呼んだり合図を送ったりするもの。

 (28-7)「休らふ」・・休む。休息する。「ヤスロー」と発音する場合もある。

(28-9)「バラノフ」・・ロシア人アレキサンダー・バラノフ。17471819。シベリアのイルクーツクで毛皮業をはじめ、さまざまな事業を経営し、さらにガラス工場を持っていた。1799年、ロシア・アメリカ会社の初代総支配人として1750名の集団を結成し、アラスカのシトカに上陸した。バラノフは先住民のトリンギット族を追いだし、シトカを制圧、ここを拠点に毛皮交易を展開し、シトカの黄金時代を作った。バラノフが館を築いた丘は、現在、キャッスル・ヒルと称され、公園になっている。

(29-1)「なべて」・・並て。副詞。動詞「なぶ(並)」の連用形に、助詞「て」の付いてできたもの。事柄が同じ程度・状態であるさまを表わす。すべて。総じて。一般に。概して。

(29-3)「曲(きょく)ろく」・・主として僧が法会などで用いる。背のよりかかりを丸く曲げ、四本の脚は牀几(しょうぎ)のようにX型に作ってあるもの。全体を朱または黒の漆で塗り、金具の装飾を施す。

(29-6)「せうぎ(ショーギ)」・・床几(しょうぎ)。

(1)室内で臨時に着席する際に用いる一種の腰掛け。脚を打違いに組み尻の当たる部分に革を張り、携帯に便利なように作ったもの。陣中や狩り場などでも用いられた。また、神輿の台などにも使用された。畳床几(たたみしょうぎ)。

(2)横に長く、数人腰掛けられるようにつくった簡単な腰掛け台。

 ここでは、(2)が妥当か。

(29-7)「地走」・・馳走。接待。「地」は、「馳」を通用させた字。「馳走」は、用意のためにかけまわる意から、心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

 *違った漢字でも、漢字の部分(偏とか旁)または全部の読みが同じ場合、その字を使うことがある。「通用字」といい、「当て字」と区別する。

①「鑛(鉱)」と「礦」、②「州」と「洲」など。

「悦」と「説」・・両方とも旁の読みを通用させ、「よろこぶ」と訓じる。

 *学而時習之 不亦説乎 (『論語 学而編』) 

学ビテ時ニ之ヲ習ウ、亦(また)(よろこば)シカラズヤ

(学問をして、それを機会あるごとに復習して身につけるのは、なんと喜ばしいことではないか)

(29-8)「ありく」・・歩く。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の見出し語「ありく」の語誌に、

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる>とある。

 また、見出し語「歩く」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>とある。

 *<漢字の話>「歩」(8画)は、常用漢字になって画数が増えた・・旧字体は、点のない7画の「步」。

  同様に、常用漢字になって画数が増えた「歩」のある字に

①「交渉」「渉(わた)る」の「渉」・・旧字体の旁は「歩」でなく、点のない「步」。

   ②「頻繁」「頻(しき)り」の「頻」・・旧字体の旁は「歩」でなく、点のない「步」。

   ③「来賓」の「賓」・・旧字体の旁は「歩」でなく、点のない「步」。

  ところが、「瀕死」の「瀕」は、常用漢字でないので、真中は、点のない「瀕」

  *2010年改定の新常用漢字に追加された「進捗」の「捗」の旁は、旧字体のままで、「步」

(29-1030-3)「二人三人・・さまざまのふりをする也」・・異本は、この6行は、行頭をさげて、割注扱いをしている。本テキストは、29ページ9行目から3行のみ、行頭をさげている。30ページ1行~3行は、下げていないが、文の整合性を持たせるため、釈文は、行頭を下げることとする。

(29-9)「一所に」・・現在は多く「一緒」と書く。多く「に」を伴って副詞的に用い、一つになるさま。同じ行動をするさま。

(29-910)「行(ぎょう)きよく」・・行儀よく。異本は、「行」をかなで「ぎやう」とし、「ぎやうぎよく」に作る。

 (30-1)「上手(じょうず」・・物事にたくみなこと。その道にたくみで、すぐれていること。てぎわのよいこと。

 *江戸時代、囲碁・将棋の七段の別称。桃山時代に召し出された碁将棋衆を上手衆と言ったのがその始まり。江戸時代には免状は七段までで、上手に何子になったから何段を許すという形式を採り、上手になると外家(家元外)でも僧形になれば御城碁出仕を許された。

(30-1)「下手(へた)」・・拙劣であること。劣ること。手ぎわの悪いこと。語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、

(1)ウミヘタ(海辺)の義。沖の深いのに対して浅い意から〔嬉遊笑覧・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・大言海〕。

(2)下等の転か〔勇魚鳥〕。

(3)フエタ(不得手)の約〔菊池俗言考〕。

(4)ハタ(端)の義〔国語の語根とその分類=大島正健〕。

(5)碁の手からか〔諺草〕。>をあげている。

*「上手は下手の手本、下手は上手の手本」・・へたな者がじょうずな者を手本にしてくふうするのはもちろんだが、じょうずな者にとっても、へたな者のすることが参考になることをいう。

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3月『蝦夷地見込書秘書』注  

                      
(8-1)「手当(てあて)」・・準備。

(8-2)「本文(ほんもん・ほんぶん)」・・古書などにあって、典拠となる文句。出典とした文。

(8-2)「在住足軽」・・「在住」は、箱館奉行所属で、「同心」の下の最下位の役人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-4)「警衛(けいえい)」・・かためまもること。

(8-45)「行届候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。漢文では、「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意。

*漢文における文末助辞「而已」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而已」を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-6)「雪車(そり)」・・そり。

(8-6)「雪車橇」・・3字で「そり」と訓じるか。「橇」は「かんじき=雪国で、深雪中に足を踏込まないように、靴、わら靴などの下につける道具」の読みもあるので、「そり・かんじき」と読むか。

(8-6)「身体(からだ・しんたい)」・・「身」と「体」の間にある「を」の左に、見せ消ち記号の「二」があるので、「を」を読まず、「身体」と読む。

(8-7)「一ト通之者」・・「一ト通」は、一筋。

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・下の階層の事情。為政者などから見た庶民の実情。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-10)「給分(きゅうぶん)」・・江戸時代、下級の役人、中間、小者、また、一般の奉公人に与える給料。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

3月古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年3月10日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

 『ふなをさ日記』2月学習の注

                   
(24-1)「時々に衣服さえ」・・異本は、「に」を「の」とし、「時々の衣服さえ」に作る。文意は、「季節ごとの衣服」の意だから、「時々の」の方が妥当か。

(24-2)「命の親」・・命を助けてくれた恩人。

 *(美女を「命取り」というのに対して)醜い女のこと。→「いのちとり(命取)」とは美女、「命の親」とは悪女の異名。

 *「命取り」・・生命、地位、財産、名誉などを失う原因となるものや事柄。美女をいうのにも用いた。

・「あの御器量で金銀に事欠き給はぬ御暮しは、太夫様方の命取(イノチト)りといふもの」(『浮世草子・風流曲三味線』)

・「おもき顔にもにっこりと、わらひをふくむあいきゃうは、俗に所謂いのち取、男ころしといふべけれ」(『人情本・仮名文章娘節用』)

(24-3)「いたこ」・・潮来節のこと。潮来節について、ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

<江戸中期の流行唄。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島、香取両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和期(176472)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化期(180418)にかけて大流行した。777526文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)『潮来出島』、民謡『潮来音頭』『潮来甚句』として残っているにすぎない。>

とある。

 <漢字の話>「潮」を「いた」と訓じること・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、

 <『鹿島志』に「板来と書たるを、西山公(徳川光圀)、鹿島に潮宮(イタノミヤ)あり、常陸の方言に潮をイタといふは興ある事とおほしてかく書改められたりと云ふ」とあるように、江戸時代に「潮来」と改称された。>

 とある。つまり、「潮」を「いた」発音するのは、常陸地方の方言だという。

(24-34)「新内節」・・ジャパンナレッジ版『新版 歌舞伎事典』には、

<三味線音楽の一流派。江戸浄瑠璃。宮古路豊後掾の門弟加賀太夫が富士松薩摩掾となり、また、そのワキ語り敦賀太夫が鶴賀若狭掾となって、一派を樹立した。その若狭掾の門弟二世鶴賀新内のフシ落しが喜ばれ、安永(17721781)末ごろ新内節の名称で統一された。若狭掾までは歌舞伎の舞台に出演していたが、〈流し〉という形態に変わり、上調子(高音(たかね)という)の発達とウレイをきかせたクドキの発達で流行するようになる。のち中興の祖富士松魯中が出て語り物をふやし、さらに七世加賀太夫が人気を博して今日も根強い人気を保っている。若狭掾作品の《蘭蝶》は歌舞伎化され、《明烏》は清元その他に移されている。ほかに義太夫節、一中節から移したものもあり、《膝栗毛》のような滑稽物もある。曲節の種類は少ないが、他流に与えた影響は大きく、〈流し〉の三味線は、歌舞伎で下町や大川端の夜更けを描く下座音楽に用いられている。>とある。

(24-6)「哥(うた)」・・「哥」は、「歌」の古字。

(24-8)「にても」・・格助詞「にて」に係助詞「も」の付いたもの。…でも。…においても。

(24-9)「嘲弄(ちょうろう)」・・ばかにすること。からかいなぶること。

(24-9)「身にし(染)みて」・・深く心に思いこんで。心からうちこんで。

(24-11)「しゐて」・・強いて。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(25-3)「返すがえすも」・・「かえす(返)」の終止形を重ねたもの。「も」を伴うことが多い。古くは「かえすかえす」)動作、作用が繰り返し行なわれるさまを表わす。ひとえに。ひじょうに。

(25-3)「しんに」・・真に。本当に。まことに。また、真剣に。本気で。

(25-3)「あしざま」・・悪樣。悪いよう。悪いふう。「あしざまに(言う)」の形で、悪意をこめて事実よりも悪く言うのに用いることが多い。

 CF「よざま(善樣)」・・よいさま。よいふう。

(25-4)「くどけば」・・くどくどと繰り返していえば。「くどく(口説)」は、嘆きのことばを繰り返す。しつこくいう。愚痴(ぐち)をいう。

(25-4)「その事その事」・・相手の言うことに共鳴する意を表わすのにいう。それがよい、それがよい。その通りだ、その通りだ。

*「『藤さんはきれい好であらっしゃるから』『その事その事』」(『人情本・春色恵の花』)

*「『奥山へ行って、一杯やらうぢゃあねえか』『其事々々、寒くって堪(こて)えられねえ』」(『歌舞伎・歳市廓討入』

*「『まアそんな事はどうでもいいや。仲直りに今の酒を奥でやると仕ようぢゃねえか』『其事其事、サア来ねえ』」(『歌舞伎・今文覚助命刺』)

(25-5)「さも」・・副詞「さ」に助詞「も」が付いてできたもの。副詞「さ(然)」を強めたいい方。そのようにも。その通りにも。

(25-8)「彼城(かのしろ)」・・シトカのロシア人の要塞をノボ・アルハンゲリスク。当時、重吉らは、ロシア領アメリカ(現アメリカ合衆国アラスカ州)のアレキサンダー諸島のパラノフ島西部の町・シトカに滞在していた。シトカは、ロシア国策会社であるロシア・アメリカ会社の初代支配人アレキサンドル・バラノフが組織した統治・交易の中心地であった。彼らはその要塞をノボ・アルハンゲリスク(バラノフが生まれたアルハンゲリスクに因む)と名づけた。

(25-89)「日本人を連来れと仰事あり」・・前掲の『船長日記 その信憑性と価値』(風媒社 2013)で著者の村松氏は、「重吉等はピゴットに伴われ、ここを訪れているようだ。バラノフは重吉に会った時、すでに七十歳ほどの老人であった」と記している。「仰事」を発したのは、バラノフということになる。文化127月のことであった。

(25-9)「今は」・・異本は、「今日は」に作る。

(25-9)「月代(さかやき・さかゆき・さかいき・つきしろ・つきびたい)」・・中古以来、成人の男子が、日常、冠または烏帽子をかぶったためにすれて抜けあがった前額部の部分の称。また、室町期、武士が兜を付けるときに剃った前額部の称。近世、露頭が日常の風となった成人男子が、額から頭上にかけて髪を剃(そ)ること。また、その部分の称。

 *「月代」を「さかやき」と読む語源説・・諸説あるが、「昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから、サカは冠の意、ヤキ(明)は鮮明の意。」が、比較的わかりやすく、面白い。

(25-10)「惣髪(そうはつ)」・・男の結髪の一つ。額(ひたい)の上の月代(さかやき)を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけで、束ねないものもいう。江戸時代、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った髪型。四方髪。なでつけ。そうがみ。そうごう。

(25-11)「こよのふ」・・こよなく。この上なく。

 *<文法の話>「のふ」・・諸説あるが、一説に、打消しの助動詞「ず」の未然形の古い形「な」に接尾語「ふ」の付いた「なふ」の「な」が、さらに「の」に変化し、「のふ」になったとも。

(26-2)「苧(お・からむし)」・・イラクサ科の多年草。茎の繊維から織物をつくる。

(26-45)「ざん切(ぎり)」・・散切。月代(さかやき)をそらないで、頭髪をうしろへなでつけて結ばず、切り下げたままにした髪形。なでつけ。散切髪。

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2月学習『蝦夷地見込書秘書』注

(4-1)「纔(わずかに)」<漢字の話>・・ジャパンナレッジ版『字通』の「纔」の項に、

 <「帛、雀頭の色なり。一に曰く、微黒色、紺の如し」とし、「纔は淺きなり。讀みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>とある。

(4-1)「人別(にんべつ・じんべつ・にんべち)」・・住民の数。人頭。人口。

(4-1)「盛業(せいぎょう)」・・事業、商売などがさかんであること。

(4-2)「手(て)」・・仕事をする力。労力。また、仕事をする人。人手。「手があく」「手を貸す」「手が足らぬ」「手がかかる」「手を分かつ」「手がつまる」「手がすく」「手がやける」

(4-5)「通船(かよいぶね・かよいせん・つうせん)」・・航路・河川・関所などを船が通航すること。また、その船。

(4-5)「目当(めあて)」・・目標とする物や場所。目じるし。

(4-6)「節々(せつせつ)」・・おりおり。ときどき。ときたま。

(4-7)「乗寄(のりより)」・・寄港すること。

(4-8)「子丑(ねうし)」・・ほぼ北北東。実際は、礼文島は、利尻島の北西にある。

(4-8)「レフンシリ」・・礼文島。漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名、島名。

(4-8)「蝦夷地」の「地」は、見せ消ち・・「蝦夷地」の「地」の左に小さく見せ消ち記号の「ヒ」がある。したがって、ここは、「蝦夷地家」ではなく、「地」を読まず、「蝦夷家」と読む。

(4-11)<漢字の話>「帋(かみ)」・・多くの辞書は、「帋」を「紙」の異体字とする。ジャパンナレッジ版『字通』は、『和名抄(わみょうしょう)』の(平安中期の日本の漢和辞典)「古文、帋に作る」を引いている。

(6-3)「当今」・・このごろ。現今。

(6-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

(6-4)「御入料(ごにゅうりょう)」・・支出。

(6-4)「本蝦夷地」・・北蝦夷地に対する東西蝦夷地本土。

(6-6)「証跡(しょうせき)」・・後に、そのことが事実、真実であることを証明する痕跡(こんせき)。証拠となるあとかた。

(6-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実

(6-7)「被為在(あらせられ)」・・組成:ラ変動詞「在(あり)」の未然形「在(あら)」+使役の助動詞「為(す)」の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」の連用形「られ」。

(6-7)「本末前後」・・『大学』(中国の経書)の「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。(物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し)」を引くか。

(6-7)「循序(じゅんじょ)」・・順序。順番にしたがうこと。順番どおりに行なうこと。

(6-8)「経尽」・・「尽」は、「営」の誤りか。『蝦夷地廻浦録』には「経営」とある。

 (6-8)「被為尽候(つくさ・せ・られ・そうろう)」・・組成:4段活用動詞「尽(つく)す」の未然形「尽(つく)さ」+使役の助動詞「為(す)」の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」の連用形「られ」+動詞「候(そうろう)」。

(6-8)「永制(えいせい)」・・ながく変わらない制度。

(6-9)「大意(たいい)」・・あらまし。おおよそ。

(6-10)「砂利」・・シヤリ。シヤリは、漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(6-10)「藩籬(はんり」」・・領地。「藩」、「籬」ともに、まがきの意。

(7-1)「捨郭(すてぐるわ)」・・山城を築く時、くるわにするように地をきりならし、塀をかけないでそのままにしておく箇所。敵の攻撃を受けたとき、防御の拠点とする。

(7-1)「御見据(おみすえ)」・・取扱い。

(7-2)「堅固(けんご)」・・防備などがしっかりしていて攻撃されても容易に破られないこと。ものがかたくしっかりしていること。また、そのさま。

(7-2)「出丸(でまる)」・・本城から張り出して築いた小城。出城。

(7-3)「備立(そなえだて)」・・兵を配置すること。軍陣をつくること。また、その配置や陣。陣立。

(7-4)「肝要」・・大切なこと。また、そのさま。かなめ。

(7-5)<見せ消ち>「取捨置候姿を以故」の「を以」・・「を以」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があるので、「を以」は、読まず、「取捨置候姿故」と読む。

(7-6)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。

(7-7)「先轍(せんてつ)」・・前例。

(7-7)「松前伊豆守」・・松前藩主・松前崇広(たかひろ)。文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849729日のこと。

(7-9)「白主(しらぬし)」・・カラフト南部の能刀登呂半島(ロシア名クリリオンスキー半島)南端の集落。寛政2年(1790)に交易所を設けた。蝦夷地からの渡航地でもあった。

(7-910)「二百十日」・・立春から数えて二一〇日目に当たる日。九月一日頃で、稲の開花と台風の襲来とがぶつかる時期なので、農民は厄日として警戒する。

(7-10)「手当」・・あらかじめその用に備えること。また、そのために配置される人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-4)「警衛(けいえい)」・・かためまもること。

(8-45)「行届兼候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届兼候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-6)「雪車(そり)」・・そり。

(8-6)「橇(かんじき)」・・

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・下の階層の事情。為政者などから見た庶民の実情。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-10)「給分(きゅうぶん)」・・給料。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

(9-1)「急度(きっと)」・・きびしく。厳重に。なお、江戸時代の刑罰に「急度叱(きっとしかり)」がある。

庶民に科せられた刑罰の一種。叱(しかり)の重いもので、厳重に叱責するだけで放免する軽刑。叱と同様、犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた。

(9-2)「枢要(すうよう)」・・かなめ。影印の「樞」は、「枢」の旧字体。

(9-5)「調練(ちょうれん)」・・訓練を積むこと。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見   学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年2月10日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』1月学習の注

              
(18-1)「北極七十度」・・シトカの緯度は、北緯57度。

(18-12)「所所也」・・「所」の字

がふたつあり、重複している。

(18-3)「日も」・・異本は、「日々」に作る。

(18-3)<変体仮名>「そ(所)ら晴わたり」の「そ(所)」・・変体仮名「所(そ)」は、めったに見ない。『くずし字用例辞典』P1262上段には、「そよ」「それは」の2例がある。「所」を「ソ」と読むには呉音。手元の漢和辞典には、「ソ」と読む熟語は見当たらない。なお、「所」は、万葉仮名「そ」の乙類だが、万葉集には、6例しかない。「所許(そこ)」「所己(そこ)」「己所(こそ)」など。

(18-3)「雰(きり)」・・「霧」とは別に常用漢字になっている。「雰囲気」「雰霧(ふんむ)」など。

 *【雰霧】ふんむ・・きり。「資財己の用を爲さず、名位得て守るべからず。晨霜秋露、雰霧の氣有り。朝に凝(こ)ると雖も、夕に消ゆ。」(晋・劉『石勒に遺る書』)

(18-4)「初の」・・異本は、「先の」に作る。

(19-1)「入津(いりつ・にゅうしん・にゅうつ)」・・船が港に入ること。入港。

(19-2)「祝義(しゅうぎ)」・・「しゅう」は「祝」の漢音。「祝言(しゅうげん)」など。祝いの儀式。祝典。

(19-3)「有合(ありあう)」・・ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。ありあわせる。

(19-8)「たけなは」・・「酣」、「闌」を当てる。ある行為・催事・季節などがもっともさかんに行なわれている時。また、それらしくなっている状態。やや盛りを過ぎて、衰えかけているさまにもいう。最中(さいちゅう)。もなか。まっさかり。語源説に、「ウタゲナカバの約」などがある。

(20-2)「け坊主」・・「けし(芥子)坊主」で、「し」が欠か。「芥子坊主」は、子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。

(20-3)「替りたり」・・違っている。普通は「変りたり」と、「替」でなはなく、「変」を使う。

(20-6)「何卒(なにとぞ)して」・・「何卒(なにとぞ)」に同じ。手段を尽くそうという意志を表わす。どうぞして。なんとかして。なにとぞして。

*<漢字の話>「何卒(なにとぞ)」の「卒」・・「卒」は、漢音で「ソツ」「シュツ」、呉音で「ソチ」「シュチ」。「卒」は、1字で「とぞ」と読むのではなく、「と・ぞ」の「ぞ」で、漢音の「ソツ」の国訓(当て読み)。代名詞「なに(何)」に助詞「と」と「ぞ」が付いてできたもの。したがって、「何卒」を「なにとぞ」と訓じるのは、「何(なに)と卒(ぞ)」という、いわば、熟字訓といえる。

(20-8)「南京知らぬとこたふる」・・異本は、「南京」の「京」と「知らぬ」の「知」の間に、「人は」があり、「南京人は知らぬと答ふる」に作る。ここは、<南京人は、「知らぬ」と答ふる>が読みやすいか。

(20-11)「定りて」・・動詞「さだまる(定)」の連用形に助詞「て」の付いてできたもの。

きっと。必ず。まちがいなく。

(21-4)「砂糖」・・日本への砂糖の渡来は奈良時代、754年(天平勝宝6)に唐僧鑑真が来日の際、黒糖を持ってきたのが最初といわれている。「東大寺献物帳」(756)にも「蔗糖」の記事がみえるが、これは薬用に用いられていた。室町時代に入って、中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入も多くなった。しかしその量は微々たるもので、同じような状態が江戸時代まで続いた。

 日本に製糖法が伝わったのは、慶長年間(15961615)奄美(あまみ)大島の直川智(すなおかわち)が台風のため中国福建に漂着し、そこでサトウキビ栽培と製糖の技術を習得、ひそかにサトウキビの苗を持ち帰って植え付けたのに始まるという。

(21-6)「いかにせまし」・・副詞「いかに」に、サ変動詞「す」の未然形「せ」、推助動詞「まし」の付いたもの。

 もしするならどうしようか。「いかにせん」も、意味はだいたい同じであるが、「いかにせまし」のほうが、ためらいの気持が強い。

(21-9)<古文書の典型>「嬉しかりき」の「き(幾)」の右の「ヽ(てん)」・・右に打つ点はなるべく離して打つ。

*ひらがなの「お」「か」「む」に「ヽ(点)」があるわけ。

*「於」→「お」         「加」→「か」          「武」→「む」

(21-10)「興に入来る」・・おもしろくなる。おもしろがる。感興を覚えて夢中になる。

(22-4)「はや(早)げ」・・形容詞「はやい」の語幹に、接尾語「げ」の付いたもの。いかにも早そうなさま。

(22-56)「もだしがたければ」・・黙ってはいられず。「もだし」は、「もだ(黙)す」の連用形で、そのままにしておく。無視する。

(22-7)「すがすが(清清)」・・副詞。多く「と」を伴って用いる。物事の進行が、さわやかに滞ることのないさまを表わす語。すらすら。

(22-8)「おもい侘(わび)て」・・思い悩んで。「侘びる」は、あれこれと思いわずらうこと。

(22-10)「よまひ言」・・世迷言。ひとり言に、愚痴を言うこと。わけのわからない繰り言を言うこと。不平をかこつこと。また、そのことば。人の発言・意見などをののしって言うのにも用いる。当初、「いまひ事」と書かれていたが、「事」の左に見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「言」と訂正してある。

(22-10)「唐人(からびと)」・・外国人。

(23-5)「ほむる」・・褒める。「褒(ほ)む」の連体形。

(23-7)「又、あすもメリケン船へ集るよしを、重吉、つらつら思ひ廻ス」・・異本は、「あすも」と「メリケン船へ」の間に、「外の」があり、「明日も外のメリケン船へ集るよし」に作る。

1月『蝦夷地見込書秘書』注(2)

(2-9)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・徒目付(かちめつけ)に従って、各種の調査や警備などに当たった。

(2-10)「字(あざ・あざな)」・・土地の小区画としての名称として始まり、近世以後、行政区画単位としての性格を強めた。

(2-10)「トマリ」・・江戸期、リイシリの中心地。リイシリ運上屋があった。現利尻富士町本泊。

(2-10)「運上家(うんじょうや)」・・蝦夷交易のため場所(松前藩は蝦夷地を場所に分けて、その地の蝦夷交易権を知行として藩士に与えていた)に設けられた出張所。交易が場所請負人の手に移ってからは、その商人の出張所の形となり、蝦夷との交渉にあたる通詞、書記にあたる帖役などに助けられて支配人が番人・稼方などを指揮し、交易や漁業にあたった。寛政11年(1799)幕府直轄後、東蝦夷地では会所と呼ばれ、民政を司ることになったので、西蝦夷地でも蝦夷地各地の中心的施設となり、住民の福利厚生・通信・交通・宿泊などみなここで行われるようになった。

(3-1)「北請(きたうけ)」・・北向き。「請」は、ある方向に向いている部分。

(3-1)「入澗(いりま)」・・港。「澗」は、河口を利用した河港と区別して、入江や島かげを利用した港をいう。日本海岸から北海道地方にかけて使われることが多い。掛り澗。

(3-12)「弐艘ならでは澗懸(まがか)り不相成」・・2艘以外は、澗懸りできない。2艘しか、澗懸りでしない。「ならでは」は、通例、あとの打消の表現に呼応する。…でなくては(…しない)。…でなければ。…以外には。「澗懸り」は、船を船澗(ふなま)に碇泊させること。

(3-2)「ヲシトマリ」・・鴛泊。ウシトマリ。現利尻富士町鴛泊。利尻島の北部海岸に位置する集落。「松浦図」には「シヤコカイウシ」とある。資料3.「松浦図」参照。

(3-45)「ラエトマリ」・・松浦武四郎著『東西蝦夷山川地理取調図』(以下、単に「松浦図」)には、「エラエトマリ」とある。現利尻富士町沼浦と鬼脇の間付近。「オタドマリ沼」がある。資料3.「松浦図」参照。

(3-6)「船囲(ふなかこ)ひ」・・数か月以上使わない船を、水上に繋留し、または陸に引き揚げ、船体全体を苫・筵で覆って傷まないように処置すること。

(3-7)「ヲタトマリ」・・現利尻富士町沼浦付近。資料3.「松浦図」参照。

(3-9)「可成(かなり)」・・十分ではないが一応の程度までいっているさまにいう。形容動詞の「かなり」の語源は、よいとして許す意味の「可」に断定の助動詞「なり」の付いてできたもの。

(3-10)「トヽ」・・椴(とど)松。

(3-10)「ヲンコ」・・オンコ。イチイ科の常緑針葉高木。別名イチイ。アララギ、昔この材から笏(しゃく。礼服または朝服を着用するとき、右手に持つ細長い板)をつくったことから、位階の正一位(しょういちい)にちなんでつけられたといわれる。

(3-10)「トウヒ」・・マツ科の常緑針葉樹。エゾマツの一変種。

(3-11)「生木(なまき・いきき)」・・地に根をはって、生き生きとしている樹木。

(3-11)「立木(たちき・たつき・りゅうぼく)」・・地面に生えて立っている木。

(4-1)「盛業(せいぎょう)」・・事業、商売などがさかんであること。

(4-2)「手(て)」・・仕事をする力。労力。また、仕事をする人。人手。「手があく」「手を貸す」「手が足らぬ」「手がかかる」「手を分かつ」「手がつまる」「手がすく」「手がやける」

(4-5)「通船(かよいぶね・かよいせん・つうせん)」・・航路・河川・関所などを船が通航すること。また、その船。

(4-6)「節々(せつせつ)」・・おりおり。ときどき。ときたま。

(4-7)「乗寄(のりより)」・・寄港すること。

(4-8)「子丑(ねうし)」・・ほぼ北北東。実際は、礼文島は、利尻島の北西にある。

(4-8)「レフンシリ」・・礼文島。漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名、島名。

(4-8)「蝦夷地」の「地」は、見せ消ち・・「蝦夷地」の「地」の左に小さく見せ消ち記号の「ヒ」がある。したがって、ここは、「蝦夷地家」ではなく、「地」を読まず、「蝦夷家」と読む。

(6-4)「本蝦夷地」・・北蝦夷地に対する東西蝦夷地本土。

(6-6)「証跡(しょうせき)」・・後に、そのことが事実、真実であることを証明する痕跡(こんせき)。証拠となるあとかた。

(6-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実

(6-7)「本末前後」・・『大学』(中国の経書)の「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。(物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し)」を引くか。

(6-7)「循序(じゅんじょ)」・・順序。順番にしたがうこと。順番どおりに行なうこと。

(6-8)「経尽」・・「尽」は、「営」の誤りか。『蝦夷地廻浦録』には「経営」とある。

(6-8)「永制(えいせい)」・・ながく変わらない制度。

(6-10)「砂利」・・シヤリ。シヤリは、漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(6-10)「藩籬(はんり」」・・領地。「藩」、「籬」ともに、まがきの意。

(7-1)「捨郭(すてぐるわ)」・・山城を築く時、くるわにするように地をきりならし、塀をかけないでそのままにしておく箇所。敵の攻撃を受けたとき、防御の拠点とする。

(7-2)「堅固(けんご)」・・防備などがしっかりしていて攻撃されても容易に破られないこと。ものがかたくしっかりしていること。また、そのさま。

(7-2)「出丸(でまる)」・・本城から張り出して築いた小城。出城。

(7-3)「備立(そなえだて)」・・兵を配置すること。軍陣をつくること。また、その配置や陣。陣立。

(7-5)<見せ消ち>「取捨置候姿を以故」の「を以」・・「を以」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があるので、「を以」は、読まず、「取捨置候姿故」と読む。

(7-6)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。

(7-7)「先轍(せんてつ)」・・前例。

(7-7)「松前伊豆守」・・松前藩主・松前崇広(たかひろ)。文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849729日のこと。

(7-9)「白主(しらぬし)」・・カラフト南部の能刀登呂半島(ロシア名クリリオンスキー半島)南端の集落。寛政2年(1790)に交易所を設けた。蝦夷地からの渡航地でもあった。

(7-910)「二百十日」・・立春から数えて二一〇日目に当たる日。九月一日頃で、稲の開花と台風の襲来とがぶつかる時期なので、農民は厄日として警戒する。

(7-10)「手当」・・あらかじめその用に備えること。また、そのために配置される人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-45)「行届兼候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届兼候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・劣った心。自分の心や気持を卑下していう。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

1月『蝦夷地見込書秘書』注(1)

                      

*参考文献・・特に引用文献を記さない場合は、『日本国語大辞典』『国史大辞典』『日本歴史地名大系』『日本百科全書(ニッポニカ)』『字通』(いずれもジャパンナレッジ版)、『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)、『古語辞典』(旺文社)を参照した。

◎テキスト影印について・・本書の原本は、国立国会図書館所蔵である。影印は、その写本で、全く同一の北海道立図書館と北海道大学附属図書館のふたつの図書館所蔵の『蝦夷地見込書秘書』(以下単に『秘書』)を比べ、適宜、比較的かすれなどの少なく、見やすい影印を選んで使用した。

◎『秘書』の書誌・・テキスト影印の表紙と本文冒頭(P12)に、いつくかの印・付戔がある。これらに触れると、わが国の国立図書館史にもなると思うので、その略史を記す。(国立国会図書館支部上野図書館刊『上野図書館八十年略史』1953参照)

 ①明治5年(18726、文部省達により、博物局書籍館(しょじゃくかん)が東京湯島の旧幕府の聖堂を利用して設置。蔵書は旧昌平坂学問所・和学講談所・医学館・開成学校の引継資料が多かった。

②翌明治6(1873)319太政官達により、博物館・博物局・小石川薬園とともに正院博覧会事務局に合併。

③明治7(1874)729、湯島聖堂が地方官会議の議場に宛てられたために、東京浅草の旧米庫に移転し、翌八月十三日これを浅草文庫と称した。

④明治8(1875)29日、官制上これを文部省に復帰し、蔵書・備品のことごとくを博覧会事務局に移管。

⑤明治8(1875)48、文部省は「東京書籍館(しょじゃくかん)」を再び旧湯島の聖堂に設置、同省所蔵図書をもって閲覧の用に供した。したがって官制・内容ともに新設の図書館となった。明治10(1877)215日閉鎖。その理由は、西南戦争の戦費を得るため最も弱い文化機関を廃止するためであった。

⑥明治10(1877)215、東京書籍館の永井久一郎館長補の働きで、東京府に移管され、「東京府書籍館(しょじゃくかん)」となった。しかし振るわなかった。

⑦明治13(1870)71、再び文部省に復帰、「東京図書館」と称し、市民図書館として成功を得た。

⑧明治18(1885)、東京上野公園内の東京教育博物館内に移転。

⑨明治30(1897)422、同館長田中稲城らの努力によって「帝国図書館」の官制を施行し、同館が帝国図書館となった。

⑩明治39(1896)3月、東京都台東区上野公園の現在の地に新館の一部を建築して移転したが、日露戦争後の不況により建築は完成せず、昭和4年(19298月ようやく増築した。

⑪昭和22(1947)124日政令によって「国立図書館」と改称。

⑫昭和23(1948)29日、国立国会図書館法が公布。

⑬昭和23(1948)65日、国立国会図書館が赤坂離宮を仮庁舎として開館。昭和36(1961)永田町現庁舎に移転。

⑭昭和23(1948)81日静嘉堂・東洋文庫を、翌年41日東京上野の帝国図書館を吸収し、また、各省庁の図書館を支部図書館として全体の構成を整えた。

◎「名古屋県学校」・・「名古屋県」は、明治初期、主として尾張国(愛知県)、美濃国(岐阜県)にあった県。明治4年(1871714日の廃藩置県とともに成立。同5(1872)42日、愛知県と改称されるまで約10ヶ月存続した。(資料1参照)。当初は江戸時代の尾張名古屋藩領から成瀬隼人正家の封土を承継した犬山県域を除く、尾張国愛知・春日井・丹羽・葉栗・中島・海東・海西・知多郡および美濃国の一部などを管轄。4(1871)11月犬山県を併合、同年同月知多郡を額田(ぬかた)県に割く。県庁を名古屋の旧藩臣竹腰(たけのこし)竜若(正旧)邸に設置。4(1871)12月、宇和島県貫属士族井関盛艮が県権令に就任。

 *「名古屋県学校印」・・名古屋県は、明治4年(1871714日~明治5(1872)4月日の間存続した県。この印は、本テキストが「東京書籍館」所蔵以前に、「名古屋県学校」の所蔵であったことが覗える。なお、それ以前の所蔵については、印章からは確定できない。ただ、旧名古屋藩の藩校明倫堂が所蔵していた可能性が高い。明倫堂は、明治2(1869)11月、藩は、職制改革で、「明倫堂」の号を廃して、単に「学校」と称した。この「名古屋藩学校」は、明治4(1871)714日の廃藩置県を受けて、同月27日、廃止になった。(名古屋市役所刊『名古屋市史学芸編』 1915参照)

◎「明治九年文部省交付」・・「文部省」は、明治4年(18717月の廃藩置県直後の同月18日に創設された中央教育行政機関。文部省は、各官庁に貸出していた書籍や、旧藩の藩校旧蔵の書籍を回収して、東京書籍館に交付した。

◎印章から本書の原本の書誌を考察すると、

 ①「名古屋県学校」所蔵(のち愛知県)

 ②明治9(1876)、文部省は、『蝦夷地見込書秘書』を愛知県から回収、「東京書籍館」に交付する。

  ①「東京書籍館(しょじゃくかん)」所蔵。(P2中央の丸印)

②明治13(1870)、「東京図書館」所蔵。(表紙の付戔)

③明治30(1897)、「帝国書図書館」所蔵。(P2中央の角印)

④現在は、「国立国会図書館」所蔵。

(1-表題)「見込書秘書(みこみしょひしょ)」・・「見込書」は、「大体の予想、見通しについて書きしるした文書」。「秘書」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 ①秘して、人に見せない書物。秘蔵の本。また、秘伝を書いた書物。

 ②秘密で、重要な文書。機密文書。

 ③天子が秘蔵する書物。宮中の蔵書。

 とあるが、本テキストは、②に当るか。

(2-1)「奉(ほう)」・・献上すること。『蝦夷地廻浦録』(北海道大学附属図書館蔵)には、この「奉」の字はない。

(2-1)「猪俣英次郎」・・安政元年(1854)、村垣与三郎配下の勘定方として、蝦夷地巡検に加わる。

(2-2)「安間純之進(あんまじゅんのしん)」・・北海道立文書館のホームページの「星野家所蔵安間純之進文書」 の「私文書群の作成者に関する情報 」に詳しい経歴が掲載されているので、引用する。

 ・江戸時代後期の幕府の官吏。

 ・1804年(文化元)1019日甲斐国都留郡小沼村(山梨県西桂町)の渡邊家(さきたま屋)に生まれる。

 ・江戸の御家人・玉木家の養子となるが離縁、次いで安間家の養子に入る。

 ・1854年(安政元)、支配勘定のとき、目付堀利煕・勘定吟味役村垣範正に従い、蝦夷地及び樺太に出張。

 ・同年、箱館奉行支配調役、1857年(安政4)、同組頭勤方、次いで組頭を歴任。箱館台場建築の功により将軍から拝領物があった。

 ・1862年(文久2)西丸切手御門番之頭に任ぜられるとともに「永々御目見以上」を仰せ渡され、正式な旗本家となった。

 ・幕府瓦解後は星野家(山梨県大月市)の立て直しに尽力。

 ・1887年(明治201020日死去、享年84歳。

 ・なお、蝦夷地出張の途次、松前藩からの依頼に応じ、箱館に来航したペリーへの対応を、徒目付平山謙二郎、蘭学者武田斐三郎(あやさぶろう)らと共に手助けした。

(2-3)「西蝦夷地」・・松前藩は、自己の支配する範囲を松前(シャモ地・人間地とも通称された)と称し、蝦夷地と区別し、その範囲を、城下を中心として西は熊石付近、東は汐首岬付近までとした。そして蝦夷地には藩の許可なくして和人の往来を禁じて永住を許さず、西は熊石、東は亀田に番所を設けてこれを取り締った。蝦夷地は城下から西行して達する西蝦夷地もしくは上蝦夷地と、東行して達する東蝦夷地もしくは下蝦夷地に分かたれており、寛政十一年(一七九九)幕府が東蝦夷地を直轄した時、箱館付近から襟裳岬を経て知床岬までの間およびその付属の島々を限り、内陸では千歳川筋漁(恵庭市)と斜里山道カンチウシに境杭が立てられた。

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古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見   学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:20141月13日(月・祝)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp



 

『ふなをさ日記』12月学習の注

(16-2)「ベンガラ」・・ポルトガル語Bengalaから。 インドの「ベンガル」で産出したところからいう。黄味を帯びた赤色顔料。酸化第二鉄を主成分とする。安価で着色力・耐久性が強い。塗料・ゴム・油絵の具の顔料、ガラスや金属板の研磨材として用いられる。べにがら。鉄丹。代赭(たいしゃ)。

*「格子に紅殻(ベンガラ)を塗った家もまだ残ってゐる」(大仏次郎『帰郷』)

(16-2)「かほのベンガラのやう成ものにて」・・「かほの」は、語呂がよくない。異本は、「の」を「を」とし、「顔を」に作る。

(16-3)「口の中より物をかひはさみて」・・「口の中より物をかひはさみて」は、いささか、意味が不明。異本は、「口の中より」を「口の中に」に作る。

(16-34)「かひはさみて」・・「かい」は接頭語。掻い挟みて。「かひはさみ」は、「かひはさむ」の連用形。「はひはさむ」は、はさむ。かかえるようにはさむ。

*「長刀(なぎなた)脇にかいはさみ」(『平家物語』11・能登殿最期)

*「子をば死なせたれども、脇にかいはさみて、家にかへりたれば」(『宇治拾遺』)

(16-6)「近国(きんがこく・きんごく)」・・近くの国。隣国。

(16-7)「切(きり)こなして」・・切り熟(こな)して。「切りこなす」は、たくみに所要の形に切る。適宜に切る。

(16-9)「あるひは」・・動詞「あり(有)」の連体形に副助詞「い」および係助詞「は」の付いたもの。連語。

「あるいは…、あるいは…」の形で多く用いられる。同類の事柄の中から一方を選び、または、さまざまな場合を列挙して、主格となる。ある人は。ある事(時)は。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、

<「或」の漢文訓読語として発生した。漢文では文中に「或」が用いられる場合、「あるひと・あるもの・あるとき」と訓ずることが多いが、副助詞「い」、係助詞「は」を添えて「あるいは」とも訓じた。平安時代初期には「あるいは」は主格として用いられ、また、同類並列や選択を表わす接続詞としては「あるは」が用いられるという使い分けがあった。(中略)現代語で副詞として用いられる場合は、「もしかしたら」「ひょっとすると」などに比べて、かなり事柄の生起する可能性が高い場合に使われる。文末は多く、「かもしれない」「ではないだろうか」「ではないか」「では(=じゃ)」などとなり、「だろう」「らしい」「にちがいない」等は使用しない。また、「もし」や「もしも」が「もし…したら」のように条件節に用いられるのに対し、「あるいは」等にはこのような用法はない。>とある。

(16-10)「女房を交易すとぞ」・・異本は、「女房を」と「交易」の間に「一夜」があり、「女房を一夜交易すとぞ」に作る。

17-1)「アミシツカ」・・玉井幸助校訂『大東亜海漂流譚 船長日記』(育英書院刊 1940)の頭注に、「重吉の口書にはシツカとある。今のアラスカの要港シトカである。アラスカは当時ロシアの領地であった」とある。

 シトカは、アメリカ合衆国、アラスカ州南東部、アレクサンダー諸島中のバラノフ島西岸にある都市。人口88352000)。主産業は漁業で、サケを中心にカニ、ヒラメ、ハマグリがとれるほか、林業、缶詰加工業が盛んである。1799年にロシアのアレクサンダー・バラノフにより町が創設され、1867年までロシアン・アメリカの首都となった。その後、アメリカの統治下に入ってからも、1906年にジュノーに移るまで、アラスカ準州の州都として繁栄した。市内にもロシア統治下時代のおもかげをとどめる建物が目だち、トーテムポールのコレクションで知られるシトカ国立歴史公園は多くの見物客が訪れる。

(17-1)「こみ入(いれ)たる」・・異本は、「こめ」を「込(こ)め」とし、「込(こ)め入れたる」に作る。

(17-2)「取集めて、夫を籠に入」・・異本は、「取集めて」と、「夫を籠に入」の間に「丸めて」があり、「取集めて、丸めて、夫を籠に入」に作る。

(17-10)「天守(てんしゅ)」・・城の中核として縄張の中心部に高くそびえる象徴的な意味をもつ楼閣。日本の天守の場合、戦国時代を経て、十六世紀後半にはでき上がったと考えられる。天主とも書き、天守閣ともいう。天守の起源は明らかでないが、天守の名称は『細川両家記』上の摂津国伊丹城の記事のなかにみられるのが初見で、天文19年(1550)には天守の用語が存在していたことが確かめられる。この天守は、ここで城主が切腹したことから、伊丹城の中核を構成する建物であったと考えられる。この項、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』参照。

(18-1)「北極七十度」・・シトカの緯度は、北緯57度。

(18-12)「所所也」・・「所」がふたつあり、重複している。

(18-3)「日も」・・異本は、「日々」に作る。

(18-3)「雰(きり)」・・「霧」とは別に常用漢字になっている。「雰囲気」「雰霧(ふんむ)」など。

 *【雰霧】ふんむ・・きり。「資財己の用を爲さず、名位得て守るべからず。晨霜秋露、霧の氣有り。朝に凝(こ)ると雖も、夕に消ゆ。」(晋・劉『石勒に遺る書』)

(18-4)「初の」・・異本は、「先の」に作る。

(19-1)「入津(いりつ・にゅうしん・にゅうつ)」・・船が港に入ること。入港。

(19-2)「祝義(しゅうぎ)」・・「しゅう」は「祝」の漢音。「祝言(しゅうげん)」など。祝いの儀式。祝典。

(19-8)「たけなは」・・「酣」、「闌」を当てる。ある行為・催事・季節などがもっともさかんに行なわれている時。また、それらしくなっている状態。やや盛りを過ぎて、衰えかけているさまにもいう。最中(さいちゅう)。もなか。まっさかり。語源説に、「ウタゲナカバの約」などがある。

(20-2)「け坊主」・・「けし(芥子)坊主」か。「芥子坊主」は、子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。

(20-6)「何卒(なにとぞ)して」・・「何卒(なにとぞ)」に同じ。手段を尽くそうという意志を表わす。どうぞして。なんとかして。なにとぞして。

*<漢字の話>「何卒(なにとぞ)」の「卒」・・「卒」は、漢音で「ソツ」「シュツ」、呉音で「ソチ」「シュチ」。「卒」は、1字で「とぞ」と読むのではなく、「と・ぞ」の「ぞ」で、漢音の「ソツ」の国訓(当て読み)。代名詞「なに(何)」に助詞「と」と「ぞ」が付いてできたもの。したがって、「何卒」を「なにとぞ」と訓じるのは、「何(なに)と卒(ぞ)」という、いわば、熟字訓といえる。

(20-8)「南京知らぬとこたふる」・・異本は、「南京」の「京」と「知らぬ」の「知」の間に、「人は」があり、「南京人は知らぬと答ふる」に作る。ここは、<南京人は、「知らぬ」と答ふる>が読みやすいか。

 

『蝦夷日記』12月注(2)

(190-3)「当寅年五月中、異国船大船四艘来り」・・「異国船」は、いわゆるペリー艦隊。「五月中」とあるが、実際は、4月15日にマセドニアン、バンダリア、サザンプトンの3艘、同21日にペリー乗船の旗艦ポーハタン(意味:インディアン首長の名)がとミシシッピーを率いてが入港している。「四艘」ではなく、5艘。

(190-4)「箱館も殊之外大さわぎ致」・・松前藩は、領民に対し、以後アメリカ船退帆時まで御用以外で箱館に往来することを禁止し、知内村及び上ノ国村-木古内村間の峠番所他で領民の往来を厳しくチェックすること、また蝦夷地各場所行の廻船は対象外とするが、城下及び在々の地廻船にあっては、陸路往来の場合と同様アメリカ船退帆時まで箱館への入港を禁止する旨厳達した。その後藩庁は、家中・寺社・領民に対しアメリカ船渡来の際の対応方法に関する触を相次いで出していったが、47日には特に箱館市中を対象にした18か条からなる触が町役所から出された。『箱館市史』にあるその部分を記す。

1)アメリカ船が箱館沖へ現れたとの合図があり次第、「町々在々之人足共」は早々役所及び各自の持場にかけつけること。

2)アメリカ船渡来の際、「浜表」へ出、あるいは屋根に登り見物することを禁止する。

3)アメリカ船滞留中は、「人夫相勤候者」以外は商用であっても、小船で乗りだすことは勿論、海辺へ出て徘徊することを厳禁する。

4)「当澗居合之船々大小共」、以来残らず沖の口役所より内澗の方へ繰入れ、船を繋ぎおくこと。異国船退帆まで出帆を禁止し、かつ異国船へ近付くことを禁止する。

5)アメリカ船滞船中は、どのようなことがあっても、アメリカ人に対し決して「手荒」なことをせず、何事も「穏に申なため」、さからわないようにとの幕命を守り、「町々婦人小児之分」は、大野・市ノ渡辺の村々に親類・身寄のある者は早急に引越すべき筈ではあるが、そうなれば多くの百姓が混乱し、大変困ることになるので、引越しの件を猶予してくれれば、「婦人共」は老若にかかわらず必ず取締るとの町年寄たちの申立も余儀なきこと故、それを許すので、この点をよく心得、「不束之義」なきよう厳しく申付けるべきこと。

6)山背泊近辺、築嶋・桝形外、亀田浜、七重浜等は、場末で人家も少なく、夜分密に上陸の程もはかりがたいので、これらの地の婦女子は老若とも全員、男子も1213才以下の者は、もよりの山の手辺へ早急に引越すこと。難渋の者には手当を与える。

7)箱館に来ている領民及び他国者は、調査の上、早々用事を済させて帰郷させ、遊民体の者は退去させること。

8)異国船滞留中、「牛飼之者共」箱館市中及び海岸近くの村へ牛で諸荷物の運送をしないこと、浜辺近くの野山での放し飼いは禁止。

9)異人たちが上陸した場合、馬士及び在々の者は途中より早々引返すこと。

10)「酒之義者異人共殊之外好物之由」、少しでも呑ませれば手荒なことをするので、一切目にかからぬよう「悉く蔵入」し、店先には置かないこと。売買は「蔵内」で行うこと。

11)呉服店・小間物店は商品を片付けること。もっとも、餅・菓子、草履・草鞋等は店先へ置いても良いが、彼等が望む物を与えなければ、不本意に思い、自然角立つようなことがあってはまずいので、食物に限らず差支えのない品を無心した場合は、これを与えてもよい。もし返礼品を差出しても、一応は差戻し、強いて差出す様子なれば、その品を預り置、早々町役所へ差出すこと。遣しがたい大切な品は、必ず隠し置くこと。

12)アメリカ船が入港の際、もし発砲しても騒立てず、静かにしていること。

13)海に面した住居は、いずれも戸障子に必ず締をつけ、立合障子には目張りをし、決して覗見等をしないこと。

14)火の元には特に念を入れ用心すべきこと。

15)年回仏事等に相当しても、異船滞留中は延期し、新喪の時は、葬具等を手軽にし、男子のみで夜分に物静かに墓所へ葬送すること、追善もこれに准じ穏便に営むこと。

16)異船滞留中は、観音・薬師・愛宕・七面等の山にある神仏への参詣を厳禁する。

17)音曲・所作は、異船滞留中厳禁。

18)異船滞留中、取とめのない風説は厳禁。
 以上のように、松前藩が住民の動向にいかに神経をとがらしていたのかを知ることができよう。米艦入港のほぼ1週間前のことであった。

 (190-56)「其節、折能、御公儀様、御役人衆様、三馬屋迄御出被成、風待御逗留中」・・蝦夷地巡検を命じられた目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正らは、松前に渡るため、三厩滞在中であった。

(190-67)「其内、御両三人計り、早船にて御、渡海被成」・・三厩滞在中の堀、村垣は、松前藩の訴えにより、428日、支配勘定安間純之進、徒目付平山謙二郎、吟味役下役吉見、御小人目付吉岡元平、通詞武田斐三郎を箱館に派遣した。

(190-5)<欠字>「折能(おりよく) 御公儀」・・「能」と「御」の間に空白があるが、尊敬を表す体裁で、「欠字」という。なお、改行することを「平出(へいしゅつ)」という。

(190-78)「直様(すぐさま)、箱館表に於て御懸合有之」・・安間らは、430日福山着、54日箱館着。

56日から旗艦ポーハタン号上で、安間・平山たとペリーが会談。

 この会談で、ペリーが主張した主な点は、

1)遊歩区域を、官舎を中心に7里四方とし、そのことを今日決定すること。

2)市中で婦女子の姿を見ないことはアメリカ人を「敵仇」とすることであり、また、市中では各家が門を閉じ、市民は我々に親しまないで多く走り去り、しかも役人が我々のあとを尾行することなどは、条約の精神に合わないことであり、こうしたことは、下田でも見なかったことである

などの2点であった。

安間・平山は、

1)の遊歩区域については、後日下田で協議すべきものであることを伝えるとともに、これはすこぶる重大なこと故、誤解が生じないようその返答の内容を武田斐三郎に命じてオランダ語に翻訳させ、オランダ語翻訳文をペリーに渡した。(2)については、横浜に於て森山栄之助を介して説明した如く、日本は長く鎖国を祖法としてきたために、日本人は未だ外国人になれていず、そのためにおきた現象であって、このことはペリー自身すでに横浜において経験ずみのはずである。箱館は江戸より遠く離れた地であってみればなおのことであり、アメリカ人を敵視しているために生じたことでは決してない、などと答えた。

(190-8)「早速引払、出帆いたし候」・・『箱館市史』は、「翌57日も応接所で両者の会談が予定されていたが、ペリーはこれ以上会談を続けたところで新たな回答を得る保証は何一つなく、箱館来航の所期の目的は充分果たされたことや、下田での応接掛との会談の期日が迫っていたこともあって、7日の会談を放棄し、翌58日、ポーハタン号・ミシシッピー号を率いて箱館を去った。その結果、箱館の遊歩区域をめぐる問題は、結局下田での日米交渉にもちこされることとなったのである。なお箱館来航のペリー艦隊のうち、サザンプトン号は、既に428日噴火湾調査に向い、マセドニアン号・ヴァンダリア号の2艘は、55日各々下田(前者)と上海(後者)へ向けて出帆していた」と記している。

(191-1)「数百人」・・箱館に来航したペリー艦隊の乗組員は、『箱館市史』によると、1183人になる。

(191-8)「箱館御奉行」・・第二次箱館奉行支配の属吏は、組頭、組頭勤方、調役、調役並、調役下役元締、調役下役、同心組頭、同心、足軽の順序で、ほかに通訳、在住、雇、雇医師があった。第一次時代と違うのは、ただ吟味役を組頭に改めたのと、安政64月調役下役が定役と改められた2点だけである。組頭は同勤方を合わせて大抵同時に34人を置き、箱館奉行を補佐したが、前時代の吟味役と同じく練達の士であった。調役および調役並は大抵10数名いて、箱館、江戸および蝦夷地の要所に在勤し、定役は数十名、同心もまた数十名あっていずれも各地に在勤していた。在住はしだいに増加して100余名となり、箱館近在および蝦夷地に居住して開墾その他に従い、あるいは奉行所の公務を兼掌した。雇は開拓その他必要によって特に雇入れた者で、これにも有為の士が多く、雇医師は10数名あり、箱館および蝦夷地に在勤していた。

(191-8)「竹内(たけのうち・たけうち)下野守」・・江戸末期の幕臣。通称清太郎。下野守。安政元年(1854630日、勘定吟味役より、箱館奉行となり(「野州鎮台」といわれた。)樺太の日露国境を北緯五〇度と提議。万延2(1861)正月2日勘定奉行に転じた。ついで外国奉行を兼任し、英・蘭・露・葡・仏・プロシアを歴訪。露国で樺太国境について談合したが調印に至らなかった。文化4~慶応3年(180767

(191-9)「新藤鉊蔵(しんどうしょうぞう)」・・嘉永7(1854)713日、鉄炮箪笥奉行より箱館奉行支配組頭になり、文久3(1863)1214日箱館奉行並になる。慶応3(1867)1023日製鉄奉行に転じる。

(191-10)「力石(ちからいし)勝之助」・・嘉永7(1854)719日、勘定吟味方改役並より、箱館奉行支配調役、安政2年(185512月箱館奉行支配組頭勤方、同39月に箱館奉行支配組頭。文久元年(1861)418日賄頭に転じる。

(192-1)「富田類右衛門」・・嘉永7(1854)7月箱館奉行支配調役並、安政2(1855)4月箱館奉行支配調役になる。文久2(1862)1214日小十人組に転じるが、同年同月、箱館奉行支配調役に帰役。元治元年(1864)522日蔵奉行格に転じる。

(192-4)「御奉書」・・諸形式があるが、時代が下ると、公文書一般をさすようになった。書札様文書は、その内容を伝達しようとする当該人が、みずからが差出人としてその名を署する直状(じきじょう)と、当該人の意向をうけて代理のものが代理人名を署して発給する文書と、二つに大別できる。後者の場合、真の差出当該人は貴人のことが多く、代理人はその配下の者がこれにあたるから、奉書と呼ばれている。このように、直状に対して、貴人の仰を配下が奉り、配下の名をもって伝える書札様文書を、広義の奉書という。

(192-5)「竹内下野守様御当着迄」・・堀利熙が箱館奉行に任命されたのは、嘉永7721日で、東蝦夷地巡検中、現中標津で奉書を受け取っている。堀の箱館帰着は820日のこと。なお、竹内が箱館に着任したのは、9月末。

(192-7)「河野三郎太郎」・・河津三郎太郎。「野」は「津」の誤り。字は祐邦(すけくに)。嘉永7(1854)728日徒目付より箱館奉行支配調役、安政元年(1854)1227日箱館奉行支配組頭。箱館在勤中、奉行を補佐し、七飯薬園開設、五稜郭築造の責任者など、蝦夷地経営に尽力、文久3(1863)411日新徴組支配に転じる。その後、外国奉行、勘定奉行、長崎奉行、外国事務総裁を経て、慶応4(1868)229日、若年寄に任じられる。明治7年(1874327日没。谷中玉林寺に眠る。

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『蝦夷日記』2013.12月注(1)

(187-1)「地蔵堂に亜墨利加人の石塔二つ立置有」・・現在、函館の観光名所になっている函館市船見町にある外 

 人墓地は、外国人墓地は、嘉永7(1854)ペリー一行が来航した際に死亡した水夫2人を埋葬したのが始まりとされている。ペリー艦隊は、同年415日に、マセドニアン号、バンダリア号、サザンプトン号、21日に旗艦ポーハタン号、ミシシッピー号の5隻が箱館に入港した。死亡した水夫は、いずれもバンダリア号の乗組員で、4月29(西暦525)にジェームズ・G・ウルフ(50歳)、51日(西暦527日)にGW・レミック(19歳)のふたり。山背泊火葬場付近(当時地蔵堂境内・現外人墓地=プロテスタント墓地)に埋葬された。(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記』)現在の外人墓地は、かつては、地蔵堂(現地蔵寺)の境内だった。

なお、バンダリヤ号の水兵たちが出発にあたって、この遠い異国の浜辺の丘に眠る2人の友を弔うため記念碑を設け、彼らの作った前述の碑文を刻むよう頼んでいった。しかしこれは当時直ちに実現されなかったが、昭和29717日、ペリー来港100年記念式当日ようやくこれが実現し、2基の墓のかたわらに建設された。

(187-1)「地蔵堂」・・船見町にある現地蔵寺。文化年間から存在したという。古くから山背泊の地蔵として親しまれてきた。天保10年銘の木像大地蔵がある。

(187-1)亜墨利加(アメリカ)」・・『宛字外来語辞典』(柏書房)には、「アメリカ」の宛字として、米利堅、米利幹、米利賢、米里幹、美利堅、弥理堅、亜米利加、亜墨利加、亜美利加、亜墨、美理哥、美理格、哶哩干、墨夷、亜国、などがある。

(187-1)「唐文字(からもじ)」・・漢字のこと。

(187-2)「彫付(ほりつけ・えりつけ)」・・「ほりつけ(えりつけ)」は、「ほりつく(えりつく)」の連体形の名詞化。彫刻する。刻む。彫りつける。影印は、「彫」の異体字で、「周」+「久」。(『くずし字用例辞典』P310下段参照)

(187-2)「昼飯(ひるめし・ひるはん・ひるいい・ひるま・ひるまま・ちゅうはん)」・・お昼ごはん。

(187-2)「昼後(ひるご)」・・ひるすぎ。午後。

(187-4)「愛宕山大権現」・・愛宕山は、函館山を構成する峰ひとつ。北東方中腹辺には愛宕社があり、愛宕山と呼ばれた。

(187-4)「休足(きゅうそく)」・・仕事や歩行などをやめて体を休めること。

(187-5)「薬師堂」・・『蝦夷島奇観』によれば、元和21616)年、河野政通の子孫で良道阿闍梨という出家が、箱館山に金銅の薬師仏をまつり、河野家の長久を祈ったとあるが、その跡はいまのところ不明である。また『蝦夷実地検考録』には、山に医王山明神があるとし、明暦元(1655)年草創、元文41739)年再建と記している。更に『寺院明細帳』では、もと尻沢辺に鎮座していたものを山に移したとあり、諸説いずれにあるか不明であるが、しかし古くから薬師仏の奉祀があり、そのため薬師山といわれるようになった。

(187-7)「入海(いりうみ)」・・陸地にはいり込んだ海、湖。湾。入り江。

(187-9)「遠目鏡(とおめがね)」・・望遠鏡。江戸時代、「十里見(じゅうりけん)」、「千里鏡(せんりきょう)」とも呼ばれた。

(187-11)「洲の岬」・・不詳。東京大学史料編纂所編『大日本古文書 幕末外国関係文書之附録二』所収の「村垣淡路守公務日記」には、「西ニ矢越サキ」とある。

(187-12)「左井(さい)」・・佐井。青森県北部、下北郡にある村。下北半島西部にあり、津軽海峡に臨む。村の大部分が恐山山地からなり、平地に乏しく、海岸に集落が点在する。佐井港は江戸時代以前から良港として知られ、下北産のヒバ材の積出し港として明治まで続いた。山地の97%が国有林で、産業はわずかな耕地での米作と肉用牛の飼育、沿岸漁業などが行われる。海岸一帯は下北半島国定公園の一部で、仏ヶ浦(国指定名勝・天然記念物)の景勝がある。

(188-2)「水元(みずもと)」・・函館山山中の水元谷。下は『南部藩蝦夷地経営図9』(函館中央図書館蔵)

水元谷は、安政2年、南部藩が本陣を設けた。(現元町配水地下辺一帯)

かつては、函館山登山のメインコースだった。また、戦前戦中には、軍用道路で元々は自動車が走れる幅があった。

 (188-4)「尻沢邊(しりさわべ)」・・現函館市住吉町・谷地頭町・青柳町。近世末まで存在した村。函館山の東麓、函館半島陸繋部の西部にある。東は津軽海峡、山は谷地頭へもたれかかるようにみえ、南には立待(たちまち)岬がある。地域の氏神は住吉町にある住三吉神社。

(188-4)「立待」・・函館山南部の東側にある立待岬。津軽海峡を挟んで、下北半島の大間崎と対峙する。前期幕府領期に異国船警固のための砲台が岬上の段丘部に築かれ、盛岡藩が固めていた。『蝦夷日誌(一編)』に「立マチ 是又岩岬なり」とみえ、「遠見番所壱軒有。足軽壱人相勤る也。五十匁壱挺、百匁壱挺、三百匁壱挺を相備ふ也。実に南東大洋ニ枕ミ当所第一の要害也。此岬南部尻矢岬と対峙し而其風景またよろし。尻沢辺村懸り也」と記される。近代に入ると函館要塞の一部となって一般市民の立入りは禁止されたが、第二次世界大戦後は解放された。現在は与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建ち、近くには石川啄木一族の墓所もあり、景勝地として多くの観光客が訪れている。

(188-6)「帰宿(きしゅく)」・・宿舎に帰ること。帰って宿泊すること。

(188-8)「谷地頭」・・現函館市谷地頭町・青柳町。明治6年(1873)の町名町域再整理の際に、尻沢辺町を細かく区画割してできた町の一つで、旧尻沢辺町の北西部(山手側)にあたる。『蝦夷日誌(一編)』は谷地頭の地名由来について「尻沢辺より弐丁計上の方也。此処ニ谷地有。其の上故ニ此名有る也。当所ニ而八ツの頭の大蛇が、むかし此沼に居しをもて号る等云伝ふ」などと記している。

(188-10)「山の上町、遊女屋十六、七軒有之」・・以下は、『函館市史』の、幕末の箱館の遊里について記述。

<安政初年、茶屋は21軒となり、ほかにも11軒が免許を得ていた。酌女は100人余りだったが、開港とともに外国人相手の商売が必要となり、安政5年に願書を出して幕府の公許を得たのが「売女渡世」である。もと茶屋は前記21軒が料理茶屋といって、酌取女をおいて客を取り、また芝居、軽業などの興行の際、仕出しもして業とし、11軒は客引手宿とか下宿とかいい、料理の酌取りだけで音曲はできなかった。その料理茶屋が公然と売女渡世に変り、山ノ上町茶屋町は江戸吉原に模して廓(くるわ)を造り、坂の突当りに大門を設けた(この坂を「見返り坂」と呼んだ)。廓は官から金を借り、外国人のために異人休息所とか異人揚屋と呼ばれる三層楼も建てられた。見番も設けられ、線香代を定め、芸者の養成につとめ、廓以外の芸者を禁じ、隠し芸者が見つかると廓に3年間無給奉公させられた。芸者には江戸言葉を習わせ、行儀を教えたが容易でなかったという。当時の芸者を評した狂歌に「つかみ鼻、立小便とオケツネと、イケスカナイはアメリカの客」とある。
 酌取女は「がの字」と呼ばれ、これは遊女の価200文で縄に通した銭の形が雁の字に似ているからだとか、香木の伽羅の伽が濁ったのだとかいわれる。このほかに密娼もおり、内澗町では「風呂敷」、大町では「薦冠(こもかぶり)」、弁天では「車櫂」、谷地頭では「狐」などと呼んだ、箱館奉行は安政35月から、密娼を見つけしだい蝦夷地の開発場にやることにしていたが、山ノ上町に遊廓ができるとここへ送り、10年間無給で奉公させることにした。
 座敷で興じられる唄は、以前は、甚句、おけさ、追分などであったが、このころは都々逸、端唄などが盛んになっていた。遊楽地は山ノ上町だけではなく、東築島には文政のころから山ノ上茶屋5軒の出張りがあり、これがのち「島の廓」となったし、五稜郭ができると鍛冶村にも御用茶屋ができた。また谷地頭も『蝦夷実地検考録』には「花木を植え、泉水を環らし、亭 を設けて客を延く」、「函府第一の勝境とて、貴賤、僧俗を論ぜず妓を携え、酒を載、茗を煮、棋を囲む。絃歌の声紛々たり」とある。

(188-10)「かのじ・がのじ」・・娼妓をいう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、『桜園叢書』の「箱館方言」に「がのじ」を挙げている。また、同「補注」に、<「津軽方言集」に「女郎の眉、蛾てふ虫の眉の見えよきに似たれば、いふと。或は云ふ、春、雁と共に海岸地方などに来たりたれば、以て異名とせりと如何にや」とある。>と記している。さらに、「雁の字」の引用を示し、<松前の江指(えさし・現在は江差町)で遊女のことをいう。>として、

<*東遊雑記〔1789〕一四「所の風にて、傾城とも女郎とも云はずして、遊女の惣名をいふに鴈の字と云なり。小童に至るまで鴈の字と称して、おやまとも、女郎とも、遊女ともいはぬなり」

*西蝦夷日誌〔1863~64〕二「是等を惣称して当島にて鴈(ガン)の字(ジ)と云。其起元は、此者等船々え入や多くの水夫共各各弐百の銭を投出に、其銭鴈行に成し男に其夜の情を契とかや」>を例示している続きを読む
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