森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

7月『蝦夷地見込書秘書』注

(19-2)「附届(つけとどけ)」・・「つけとどけ」は、現在では、「贈りもの」とか「賄賂」という意味で使われるが、ここでは、単に、「届け」「提出」くらいにの意味か。

 *<漢字の話>「附」・・①「附」は、「付」の旧字体ではなく、別の字。「付」と「附」の元来の意味では、「付」は「あたえる(付与・交付など)」、「附」は、「つく(附着・附録・附近など)」であったが、いまの国語ではいずれの場合も「付」でかかれることが多い。ただし、官庁・法律の用語で「附属」「附則」などには、「附」用いる。(この項『漢語林』参照)

 ②「付」も「附」も、別々に常用漢字になっている。

  .常用漢字とは・・「一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安を、次の表のように定める。」(平成221130日内閣告示第二号)とあり、「次の表」、つまり、「常用漢字表」の「前書き」には、「この表は、法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現在の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」

 ロ.「附則」は、法令で使われるから、「附」は常用漢字。

  ハ.また、大臣認証書、法律・政令・条約の公布文や批准書、大使の信任状、叙勲の表彰には、「大日本国璽」と「璽」が使われるから、「璽」(「御名御璽」の「璽」)も常用漢字。

.」も常用漢字・・「朕」は、昭和21年(1946)に「日本国憲法上諭」で使用されたのが最後で、その後は使われていない。「は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

御名 御璽

昭和二十一年十一月三日」

(19-3)「厚薄(こうはく)」・・あついこととうすいこと。多く、物事の度合が十分であるかないかにいう。

(19-3)「先前(せんぜん・せんせん)」・・さきざき。まえまえ。まえかた。前前(ぜんぜん)。

 *「先前様(せんぜんさま)」・・「さま」は接尾語。さっきのお方様。最前のお方。

(19-3)「仕来(しきたり)」・・動詞「しきたる(仕来)」の連用形の名詞化。昔からのやりかた。以前からのな

らわし。先例。慣例。

(19-6)「領主より役場へ」・・『蝦夷地廻浦録』は、「より」を「並」とし、「領主並役場へ」とある。

(19-9)「仕切金(しきりきん・しきりがね)」・・売主が買主から受けとるべき代金、立替金、諸経費の総額。仕

切銀。しきり。

(20-1)「給扶持(きゅうぶち)」・・支給される扶持。

(20-2)「惣体(そうたい)」・・あるものの全体。物事のすべて。

(20-9)「等閑(とうかん・なおざり)」・・物事をいいかげんな気持ですること。気にもとめないで放っておくこ

と。なおざりにすること。おろそか。ゆるがせ。

(21-2)「長崎俵物(ながさきたわらもの)」・・江戸時代、長崎貿易の輸出品となった俵詰めの干塩魚。

(21-2)「煎海鼠(いりこ・いりなまこ)」・・①ナマコのはらわたを取り去って煮て干したもの。薬用、また、中

華料理の材料などに用いる。ほしこ。きんこ。②小さいイワシなどの雑魚(ざこ)を煮て干したもの。煎り雑

魚。煎り干し。煮干し。

(21-3)「墾開闢」・・「墾闢」「墾開」「開闢」はあるが、テキストのような3字の「墾開闢」は、手元の辞書には

見当たらない。『蝦夷地廻浦録』『開拓諸書付』とも、「開」はなく、「墾闢」としている。

・「墾闢(こんぺき・こんびゃく)」は、荒地をきり開くこと。また、新しい分野をきり開くこと。開墾。「闢」はひらく意。

・「墾開(こんかい)」は、山林や原野を切り開いて、耕地にすること。開墾。

・「開闢(かいびゃく」は、荒れ地などが切り開かれること。

(21-4)「銕□」・・『開拓諸書付』は「鉄坑」としている。

(21-6)「治定(じじょう)」・・物事にきまりがつくこと。落着すること。また、そうすることに決めること。

(21-6)「見据(みすえ)」・・判断。

(21-7)「差向(さしむき)」・・①さしあたり。今のところ。当面。②いってみれば。さしずめ。

(21-7)<見せ消ち>・・「御差数」の「差」の左に「ヒ」にような記号が見えるが、これは見せ消ちの記号。「差」

の右に「手」が書かれてあるが、「差」を「手」に訂正した意味。ここは「御手数」とする。

(21-8)「不被為懸(かけさせられず)」・・漢文訓読調にすると、「不懸」と返り点が3つある。

 *<構成>下2動詞「懸(か)く」の連用形「懸(か)け」+使役の助動詞「為(さす)」の未然形「為(さ)せ」+使役の助動詞「被(ら)る」の未然形「被(ら)れ」+打消の助動詞「不(ず)」の連用形「不(ず)」

(21-9)「粗(あらあら)」・・おおよそ。ざっと。概略。通常「粗粗」と書くが、「粗」1字だけでも、「あらあら」

と読む。

(21-10)「堀織部正(ほりおりべのかみ)」・・箱館奉行堀利熙(としひろ)。堀は、嘉永6(1853)目付となり

翌安政元年(1854)122日、松前蝦夷地事務取扱を仰付らる。28日松前蝦夷地出張を命じられ、327

日江戸出発、54日松前着、510日宗谷に向い福山出発。612日カラフトのクシュンコタンに渡航。帰

途は西蝦夷地を経て、820日、箱館帰着。一方、幕府は、630日に箱館奉行を置く。堀は、721日、箱館奉行に補され、従5位に叙し官名が織部正となった。堀は、カラフトの帰途であった。

 *「織部(おりべ)」・・「織部司(おりべのつかさ)」の略。織部司は、令制で大蔵省に属する官司。錦、綾、羅、紬を織り、また、いろいろの染物のことをつかさどった。職員に正(かみ)、佑(すけ)、令史(さかん)各一人と挑文師(あやどりのし)四人、挑文生(あやどりびと)八人ほかがいる。

 *<漢字の話>「熙」・・①漢音・呉音とも「キ」。部首は「火」の「連火(れんが)」又は「列火(れっか)」で総画は15画。②解字は、形声文字で、「巸」+「火」。音符の「巸」(イ・キ)は、授乳を待つ胎児の会意文字で、よろこぶの意。火を付し、よろこびや光の意味をあらわす。(『新漢語林』)

③「」は日本人の名前に使われる場合、「おき・さと・てる・のり・ひろ・ひろし・ひろむ・よし」などがあるは、堀利熙の場合、「としひろ」が一般的。なお、「」は平成2年(1990)に人名漢字になっている。元首相の「細川護煕(もりひろ)」の「」。

続きを読む

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年7月14日(月)

13時~16時

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@fd6.so-net.ne.jp

 『ふなをさ日記』6月学習の注

(42-1)「我は廻り道なれども」・・異本は、「我は」と「廻り道なれども」の間に、「ヲホーツカへ行くは」があり、「我は、ヲホーツカへ行くは廻り道なれども」とある。           

(42-1)<くずし字の趣>「道」・・「首」+「しんにょう」。「しんにょう」が、ほとんど「点(ヽ)」になんている。

(42-2)<くずし字の趣>「順」・・「川」+「頁(おおがい)」。「川」の3画目の「l」が極端に長く、旁の「頁」は、小さい。なお、「順」の部首は、「川」でなく、「頁」。

(42-7)「ゑんせう(えんしょう)」・・煙硝。

 火薬。「せう」は歴史的仮名遣い。発音は、「エンショー」

(43-2)「午未(うまひつじ)」・・南南東。

(43-4)「加模西葛杜加」・・カムチャッカ。「カムシカツトカ」とルビがある。『宛字外来語辞典』(柏書房)には、

「カムチャッカ」の当て字として、「堪察加」が一般的だが、ほかに、「加模沙都加」「柬砂葛」「柬寨加」「柬察加」など。 *カムチャッカ・・アジア大陸の北東端部から南方へ、太平洋に突出する半島。東側はベーリング海、西側は千島、サハリンとともにオホーツク海を囲む。火山が多い。中心都市はペトロパブロフスク‐カムチャツキー。

 カムチャッカの略史 

カムチャツカ半島について、西洋人に詳細な情報がもたらされ始めたのは17世紀のことである。イワン・カムチャッキーやセミョン・デジニョフなどのロシアの探検家によって、この地域の情報が集められた。17世紀末には入植が開始されている。1697年、カムチャツカのはるか北部にあるアナディールから、ウラジミール・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、アイヌとの戦闘が起こった。カムチャダールの集落には伝兵衛という漂流民の和人が居住していたが、アトラゾフに捕らえられペテルブルクに連行された。連行された和人は、ペテルブルクで日本語学校の校長として生涯を終えている。1700年(元禄13年)、幕命により、松前藩は勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。1708年頃にはカムチャツカはロシアによって占領される。
1713年
頃には約500名のコサックが居住していた。1715年(生徳5年)、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告。その後、18世紀前半には、ブィトス。ベーリングにより2度の探検が行われている。、1729年、日本人ゴンザとソウザ17名(二人以外は後にロシア側に殺害されたという)の乗った「若潮丸」が半島南端のロパトカ岬付近に漂着。1731年から1739年までカムチャダールの大反乱が起こったが、ロシア人はなどの武器を使用し反乱を制圧。日本人大黒屋光太夫の一行がペテルブルクへ向かう途中、1787年から約1年カクチャッカに滞在しており、当時の様子が「北槎聞略」に記されている。1854年にはクリミヤ戦争のため、英仏艦隊がペトロハバロフスク・カクチャッキーに来寇している。(この項『ウィキペデア』より)

*なお、「カムサスカ」は、干鮭(からざけ)が転音したもので、昔は日本へ干鮭を運送・交易していたので、カムチャッカも日本の属島だとする荒唐無稽なこじつけがましい解釈が行われていた。(菊地勇夫著『エトロフ島 つくられた国境』=吉川弘文館=)

(43-4)「カムサスカの鼻」・・カムチャッカ半島南端のロパトカ岬か。ロパトカ岬の緯度は、北緯5087分。

 細川かたしは、演歌「北緯五十度」のなかで、「北緯五十度もう見おさめだ・・・ さらばさよならロパトカ岬」と歌う。

(43-5割注)「凡四□五十里」・・影印の「四」と「五」の間の文字は不明。異本は「凡四五千里」としている。

(43-5)「爰より蝦夷迄廿三島つゞきたり」・・「廿三島」は、千島列島のこと。カムチャツカ半島と日本列島との間に一列に並ぶ二十三の島より成る。最初、寛永20年(1643)オランダ探検船によって発見紹介され、カムチャツカ半島を征服したロシア人が正徳3年(1713)来島して経営に着手、元文34年(173839))ベーリングの探検によって全貌が明らかにされた。ロシアは東洋貿易の基地を求めて、ウルップ島を根拠地として安永7年(1778)に納沙布の松前藩根拠地に来航して通商を求めた。同藩はこれを拒絶したが、ロシアは寛政4年(1792)松前、文化元年(1804)長崎と相ついで使節を送った。この情勢に対応して宝暦4年(1754)交易所がクナシリ島に進められ、幕府は天明56年(178586)大規模な蝦夷地調査隊を派遣、寛政12年(1800)蝦夷地を直轄に移しエトロフ島を開発した。文化元年(1804)長崎に来航したロシア使節が、翌年幕府の通商拒絶にあうや、文化34(180607)、ロシア船が択捉および樺太の日本根拠地を襲って乱暴を働いた。ために日露両国の間は緊張したが、文化8(1811)たまたま国後島に寄港したロシア測量船長ゴロウニン以下を日本側が捕えて拘囚し、部下がその釈放に尽力した事件を契機として和解した。その後折々ロシア船が択捉島に漂流民を送還するにとどまり、真の解決は安政元年(1854)日露和親条約締結まで待たねばならなかった。この条約により、両国国境は択捉・得撫両島を隔てる択捉海峡に引かれた。明治2年(18698月、日本はエトロフ・クナシリ両島を合わせて千島国と称し、北海道の一部に編入した。明治8(1875)樺太・千島交換条約が締結され、日本は、慶応3年(1867)両国雑居の地と決められた樺太から撤退して全島がロシア領となり、その代償として得撫島以北の千島列島の領有権を得、列島すべてが日本領となった。

 *主要な島の数は25を超えるが、面積50平方キロメートル以上の島を北から順にあげると、以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。

 占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島。(以上北千島)

 温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。

 択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。

(43-56)「クリー」・・千島列島。クルミセ(久留味世とも書き、「人間」を意味するアイヌ語の「クル」に由来)などとよばれ、列島の名称になったとされる。英語名クリル諸島Kuril Islands、ロシア語名もクリル諸島Курильские Острова/Kuril'skie Ostrova

(43-6)「奥蝦夷」・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、「松前に近い地方を口蝦夷、遠い所を奥蝦夷と呼んだが、その境は、東は襟裳岬、西は神威岬であった」とある。

 また、『北海随筆』(板倉源次郎著)には、「東西海に乗り馴れたる船方の者どものいへるは、ソウヤ迄弐百七、八十里、キイタツプ迄三百里ばかりといふ。(中略)此東西両所迄は松前より商船行て交易して、是より奥へは船かよはず、地つづきて蝦夷人も住居せる村々有。此舟かよわざる所凡百五十里といふ。是を奥蝦夷ともいふとなり」とある。

(43-7)「二島(にとう)はヱゾへ近くて日本の島なり。」・・「二島」は、クナシリ・エトロフ両島。寛永10(1789)727日、近藤重蔵は、エトロフに渡り、「大日本恵登呂府」の標柱を建てた。寛政12(1800)5月、エトロフ島掛となった近藤重蔵、山田鯉兵衛はエトロフ島に渡海、オイトに会所を設け漁場13ヶ所を開いた。

(44-1)「晴(はる)れば」・・晴れれば。

*<文法の話>・・接続助詞「ば」は、已然形に接続する。下2動詞「晴(は)る」の已然形は「晴(は)るる」。活用は、「晴れ」(未然)・「晴れ」(連用)・「晴る」(終止)・「晴るる」(連体)・「晴れよ」(命令)。

従って、ここは「はるれば」。「はれれば」は現代文。

(44-3)「ふ(経)る」・・時がたつ。年月が過ぎる。「ふ(経)る」は、下2動詞「経(ふ)」の連体形。

*<文法の話>終止形は、下2動詞「経(ふ)」。活用は、「経(へ)」(未然)・「経」(へ)」(連用)・「経(ふ)」(終止)・「経(ふ)る」(連体)・「経(へ)よ」(命令)。

(45-45)「迎迎に来り」・・「迎」が重複している。

続きを読む

6月『蝦夷地見込書秘書』

(15-1)<漢字の話>「教諭」の「諭」と「輸」にかんして

 「運輸」などの「諭」を「ユ」と読むのは「慣用音」。「慣用音」は、呉音、漢音、唐音には属さないが、わが国でひろく一般的に使われている漢字の音のこと。主として漢字の偏旁などの字体に惹かれて誤ったものが多い。漢字を日本語(やまと言葉)に当てはめた「訓読み」とは区別して言う。

 「輸」の音読みは、「シュ」で、「ユ」の読みはない。では、なぜ、「ユ」と読むのか。「教諭」の「諭」の旁の「兪(ユ)」に惹かれて、音が転じ、それが日本で通用したもの。

 したがって、「輸血」は、本来は「シュケツ」。同様に「諭入」は「シュニュウ」、「運輸」は「ウンシュ」が本来の読み。漢和辞典には、「輸送」に「ユソウ・シュソウ」のふたつの読みが書かれている。「輸出」も「ユシュツ・シュシュツ」がある。

 *その他の慣用音の例・・①「消耗」の「耗」は、旁の「毛」に惹かれて「モウ」と読む。正しくは「コウ」。②「情緒」の「緒」は「ショ」が正しく、「チョ」は慣用音。

 ③その他、「堪能」の「堪(カン)」を「タン」、「立案」の「立(リュウ)」を「リツ」、「雑誌」の「雑(ゾウ)」を「ザツ」、「喫茶」の「喫(けき・キャク)」を「キツ」、「演劇」の「劇(ケキ・ギヤク」)を「ゲキ」と読むなどは慣用音。

 *百姓読み・・韻書(中国で韻文をつくるさいに脚韻をふむ参考書として、文字をその韻によって分類し、韻目の順に配列した書物。)に合わない音を「百姓読み」という。「百姓読み」それは必ずしも慣用音ばかりでなく、一時的な誤読をさした場合もある。「垂涎(すいぜん)」を「すいえん」、「洗滌(せんでき)」を「せんじょう」、「絢爛(けんらん)」を「じゅんらん」などというたぐい。

(15-1)「専務(せんむ)」・・もっぱら行なうべきつとめ。

 (15-3)「退去いたし候」・・ロシアは、嘉永6829日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイらは、樺太占領の命を受けてクシュンコタンに来航、いわゆるムラビヨフ哨所を築いた。一方、ヨーロッパでロシアがトルコに干渉、ロシアの南下を恐れる英仏もトルコ側に参戦、クリミヤ戦争が勃発し、アジアでも英仏艦隊がロシアに対し活動を強め、ロシアは、シベリア防衛のため、安政元年518日、クシュンコタンを撤退せざるを得なかった。

 (15-5)「下向(げこう)」・・都から地方へ行くこと。

(15-5)「仮令(たとい・たとえ)」・・仮に想像してみれば。

 *<文法の話>「たとい」は、「たとふ」の連用形の名詞化。また、「たとえ」は、「たとい」が「たとえ」の語形に同化したもの。

 「たとう」の語源説のひとつに、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<物を立てて比べる意で、タツ(立)から出た語〔国語の語根とその分類=大島正健〕。タトヒは、物と物とを対立させて比べる意でタチアヒ(立合)の約〔国語溯原=大矢透・大言海〕。>をあげている。

 なお、「仮令」は、もともとは漢文で、「けりょう」「かれい」と読み、日本語の「たとい」に当てはめた国訓。

*「假令(たとひ)臣を誅すとも、秦の爲に黔中(けんちゅう)の地を得ば、臣の上願なり。」(『史記』)

*「假令僕伏法受誅 若九牛亡一毛」(假令=たとい=僕の法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡=うし=なうが若し)〔司馬遷『報任少卿書』〕

(15-6)「飢餲」・・「餲」は、「渇」か。「飢渇(きかつ)」は、腹がヘリ、のどがかわくこと。「餲」の読みは「アイ」。

(15-7)「生来(しょうらい)」・・生まれつき。もともとの性質。持って生まれたたち。

(15-7)「愚直(ぐちょく)」・・正直すぎて気がきかないさま。ばか正直。

(15-8)「信実(しんじつ)」・・まじめで偽りのないこと。まごころのあること。また、そのさま。正直。律義(りちぎ)。

(15-10)「憐愍(れんびん)」・・あわれむこと。なさけをかけること。あわれみ。

(15-11)秤量(しょうりょう)」・・「称」「秤」はともにはかる意、「秤」は「称」の俗字。はかりにかけて目方をはかること

(15-11)「心を用ひ」・・「心を用いる」は、気をくばる。注意を払う。配慮する。

(16-2)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。時間的な時期、機会を意味するほか、一般に、その時の物事の情況、状態、条件などをさしていう。

(16-2)「銃陣(じゅうじん)」・・銃で武装した兵隊からなる陣。

(16-3)「外患(がいかん)」・・外国や外部から圧迫や攻撃を受けるおそれ。

(16-4)「一廉(ひとかど)」・・相当に。相応に。人並みに。いっぱしに。「廉(かど)」について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

<カドは「少しかどあらん人の、耳にも目にもとまること、自然多かるべし」〔源氏‐帚木〕に見られるように才能の意。このカドは、中世には衰退傾向にあったらしく、ヒトカドなどの複合語の構成要素に見られるのみになっている。>とある。

(16-4)「警衛(けいえい)」・・警戒し守ること。かためまもること。「衛」は、守る事。解字は「宮室などの周囲をめぐりあるくの意味からまもるの意味を表す」(『漢語林』)「護衛・後衛 ・前衛・自衛 ・防衛・守衛」など。「衛生」は、養生することで、「生きるために衛(まも)る」こと。

(16-5)「生質(せいしつ・しょうしつ)」・・生まれつきの性質。

(16-6)「本文(ほんもん)」・・主になっている文章。

(16-8)「不取締(ふとりしまり)」・・取り締まりの悪いこと。しまりがないこと。また、そのさま。不用心。

(16-1117-1)「被

仰付」・・半丁を超えての平出になっている。

(17-1)「憐恤(れんじゅつ)」・・あわれんで恵むこと。情をかけて物を施すこと。

(17-1)「狎(なれ)」・・「狎れる」の連用形。「狎れる」は、うちとけすぎる。「狎」の解字は、「犭(犬)」  

 +「甲」。「甲」はおさえるの意味。犬などを自分の意のままにおさえこむ、飼いならすの意味を表す。

(17-2)「後変」・・『開拓諸書付』は、「後弊」としている。

(17-3)「教化移俗(きょうかいぞく)」・・「教化」は、教え導くこと。「移俗」は、風俗を移すこと。ここでは、アイヌの人々を教え諭し、日本の風俗に移行させつこと。

(17-4)「取捨(しゅしゃ)」・・取ることと捨てること。よいものを取って用いることと悪いものを捨てて用いないこと。

(17-8)「倍(ますます)」・・『開拓諸書付』は、「傍(かたわ)ら」としている。「倍」は、いよいよ。漢文の「倍(バイ)」の国訓。

 *「独在異郷異客、 独(ひとり)異郷ニ在(あり)テ、異客(いかく)ト為リ、

佳節親」  佳節ニ逢ウ毎(ごと)ニ、倍(ますます)親(しん)ヲ思ウ

(ただ独り、異国にあり、めでたい節句の日に出逢うたびに、ますます肉親のことが懐かしく思われる)〔唐、王維、「九月九日憶山東兄弟詩」〕

(18-1)「遣払(つかいばらい)」・・金銭を払うこと。支払い。

(18-3)「魚猟(ぎょりょう・うおとり)」・・魚をとること。漁猟。漁(りょう)。漁獲。

(18-4)<見せ消ち>・・「弐千五百目」の「五百」の「五」と「百」の左に、それぞれ、「ヒ」のような記号があり、右に「石」とある。これを「見せ消ち」といい、「五百」を「石」と訂正し、「弐千五百目」を「弐千石目」としている。

(18-4)「石目(こくめ)」・・枡ではかった量。枡目(ますめ)。

(18-45の下)<角括弧内の3行>・・「付札」してかかれた文章。「付札」とは、下知(指令)、意見、返答などを記して本紙に貼付した紙のこと。つけがみ。張札。付箋。本テキストは写本であるので、付札であることを示すために、角括弧を付けてある。

(18-78)『開拓諸書付』は、8行目の「金千五百六拾両」の前の行に「此諸入用内訳」とある。この方が、文意に合っているか。

(18-10)「仕向(しむけ)」・・取扱。

古文書解読学習会

          札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:201469日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』5月学習の注 

(37-1)<変体仮名の話>「言ければ」の「け(介)」・・「介」を「け」とするのは、なぜか。「介」の呉音に「ケ」があり、万葉仮名でも「け」。しかし、一説に、①「介」の字母(漢字の音の基本となる文字)が「个(カ)」であるといい、「个」は、物や人を数える語で「箇」の同じとする。②「介」の部分からカタカナの「ケ」ができ、のち、変体仮名の「け」として使われるようになった。

(37-1)「明は」・・「明日の朝」で、「日の朝」欠か。異本には、「明日の朝は」とある。

(37-12)「とらの時」・・午前4時頃。

(37-4)「ねや(閨・寝屋)」・・寝室。

 *<漢字の話>「閨」・・ジャパンナレッジ版『字通』に、<アーチ形のくぐり戸のような門戸をいう。もと里中に設ける小門であった。〔爾雅、釈宮〕に「宮中の門、之れを闈(イ)と曰ふ。其の小なる、之れを閨(ケイ)と曰ふ」とあり、後宮に設けることが多い。のち閨房の意となる。のち閨房の意となる。>とある。
**「閨秀(けいしゅう)」・・才芸にすぐれた女性。

(37-6)<変体仮名の話>「違わず」の「わ(王)」・・「王」は漢音・呉音とも「オウ」であるが、変体仮名で「わ」とするのは、「王」の歴史的仮名遣いが「ワウ」であったことによる。

(37-6)「心を取て」・・人の気持を察して。

(37-7)<変体仮名の話>「計(ばかり)にて」の「に(丹)」・・①「丹」の解字は、「丹砂(たんさ)」(深紅色の鉱物)を採掘する井戸の象形。「ヽ」が丹砂をあらわす。「丹」は、国訓で「に」。万葉仮名でも「に」。「青丹(あおに)よし」など。

 ②「丹」の部首は、「ヽ」部で、「チュ」と発音する。「てん」部」、「ちょぼ」部とも。

(37-8)「いらぬ事」・・むだなこと。

(37-10)「安かるべし」・・「安し」は、らくらくと物事を行なうことができる。容易である。

(37-11)「偽(いつわ)り」・・うそを言う。だます。

(38-3)「冨家(ふうか・ふか・ふけ)」・・富裕な家。財産家。かねもち。

(38-5)「北より三人の目の女」・・異本のひとつには、「北より」を「此より」とある。

(38-6)「彼(かれ)」・・話し手、相手以外の人をさし示す。明治期まで男にも女にも用いた。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<明治以降、西欧語の三人称男性代名詞の訳語として、口頭語に用いられるようになった。明治以前は、人を指示する場合、男女を問わなかったが、明治以降に同じく訳語として定着していった「彼女」との間で、しだいに男女の使い分けをするようになったと考えられる。>とある。

 *「たそがれ」・・古くは「たそかれ」。「誰(た)そ(か)は」と、人のさまの見分け難い時の意。夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。

 *「かわたれ」・・「()は誰(たれ)」の意。「かわたれどき」は、あれはだれだとはっきり見分けられない頃。はっきりものの見分けのつかない、薄暗い時刻。夕方を「たそがれどき」というのに対して、多くは明け方をいう。

(38-10)「念頃(ねんごろ)」・・懇ろ。心がこもっているさま。親身であるさま。

(39-3)「迎(むかい)」・・「迎」は、「向」か。異本は、「向い」としている。

(39-6)「包(つつま)ず」・・隠さず。「包む」は、かくすの意。

(39-7)「打わらひ」・・「うち」は接頭語。「打わらう」は、あざけり、おかしさ、よろこびなどの気持で、口をあけて笑い声をたてる。ふと笑う。

 *「わかき人は、ものをかしく、みな、うちわらひぬ」(『源氏物語・常夏』)

(39-8)「ま事(こと)」・・真事(まこと)。真実の事柄。事実。

 *「正真事(しょうまっこと)」・・まことを強めていった語。正真正銘であること。うそいつわりのないこと。また、そのさま。

(39-8)<変体仮名の話>「此国に」の「に(耳)」・・「耳」の漢音は、「ジ」だが、呉音では「ニ」。また、万葉仮名の「に」。

(39-9)「帰ることなかるべし」・・異本は、「帰ることなるべからず」としている。

(39-11)「まどひ」・・「惑(まど)ふ」の連用形。「惑う」は、考えが定まらずに、思案する。

(40-1)「言取(いいとり)たる」・・「言い取る」は、ことばで表現、伝達する。話し合う。

(41-1)「乱妨(らんぼう)」・・暴力を用いて無法に掠めとること。他人のものを理不尽に強奪すること。掠奪すること。

(41-1~2)「わきて」・・分て。別て。動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(41-6)「広東」・・中国南東部、広東省の省都現広州の旧称。

(41-6)「南京(ナンキン)」・・中国、江蘇(こうそ)省の省都。同省南西部の長江が北東から東へ流れを変える屈曲点に位置する。

(41-67)「かしこ」・・彼処。あそこ。本文では、広東、南京のこと。

(41-8)「廻り通(どお)し」・・「廻り遠し」か。「通」は、「遠」の当て字か。「廻り遠い」は、目的地の達するのに遠回りであること。

(41-9)「ヲホーツカ」・・オホーツク。現ロシア連邦東部、ハバロフスク地方の町。オホーツク海北西岸の漁港。、1647年に冬営地ができ、そこに1649年にコソイ小柵(しょうさく)(砦(とりで))が建設された。19世紀なかばまでロシアの太平洋岸の主要港で、カムチャツカ、千島、日本、アラスカなどへの探検隊の基地となった。

(41-10)「仙台の善六」・・善六は、仙台藩石巻の若宮丸(800石積)の水主で、ロシア漂着後、イルクーツクで洗礼を受けロシアに帰化した。ロシア名ミハイル・ジェラロフとか。若宮丸は、寛政5年(1793)1127日、仙台藩御用米を積んで江戸に向ったが強風のため漂流、寛政6年(1794510日、アリューシャン列島の無人島に漂着。その後オホーツクに到着、イルクーツクを経て首都ペテルブルクに到着した。享和3(1803)、世界一周をめざしたナデジタ号に、遣日使節レザノフが乗船し、日本への帰国を許された若宮丸の乗組員津太夫ら4名と通詞役として帰化した善六も乗船した。享和3(1803)616日、ナデジダ号は、バルト海のクロンシュタット港を出港、南アメリカを迂回して太平洋に出、ハワイを経てカムチャッカ半島のペトロハバロフスクに入港。帰国漂流民と善六のいがみ合いのため、善六は、ペトロハバロフスクで下船した。

 ナデジダ号は、文化元年(1804)96日、長崎に到着。津太夫らは、日本に帰還した。彼らは最初に世界一周した日本人である。

 さて、善六は、その後、文化10年(1813)ゴローニンを引き取りに箱館に来たリコルドの通詞として、20年ぶりに日本の土を踏んでいる。その後、善六は、イルクーツクに帰り、日本語教師を勤めている。文化13(1813)頃、イルクーツクで死亡したという。

5月『蝦夷地見込書秘書』注

(11-1)「石炭鉄炮等相開」・・『北蝦夷地御取締見込之儀荒増左ニ申上候』(『蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類』所収=北海道庁刊『新撰北海道史第五巻史料一』所載。以下、『開拓諸書付』。)は、「鉄炮」を「鉄坑」としている。「鉄坑」は、鉱山のこと。

 (11-1)「輻湊(ふくそう)」・・「輻」は車の輻(や=車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。やぼね。)、「湊」「輳」はともにあつまる意。車の輻(や)が轂(こしき=車輪の中心の輻が集まる太く丸い部分。中を車軸が貫いている。)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

(11-1)「仕法(しほう)」・・物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(11-1)「条下(じょうか)」・・文章の該当する部分。その箇所。

(11-2)「定貢」・・『蝦夷地廻浦録(えぞちかいほろく)』(北海道大学附属図書館蔵。以下『廻浦録』)、『開拓諸書付』とも、「定員」としている。

(11-2)「為致(いたし)候ハゝ」・・①「致させ候ハゝ」②「いたし候ハゝ」。「為」は、「致す」を強調する語。「致す」は、サ変動詞「為(す)」の謙譲語・丁寧語。「為致」の2字で、「いたす(いたし)」と読む。『開拓諸書付』は、「致し候ハゞ」としている。

(11-3)「家眷(かけん)」・・同族の者。または一族の者とそれに付き従う者。一家眷族。

(11-5)「已(すで)に」<漢字の話>・・

「己」・・キ・こ・(の声)・おのれ・つちのと(下に付き

「已」・・イ・すでに・(半ばして)・已(や)む・而已(のみ)

「巳」・・シ・み・(は皆付く

*「己(おのれ)」・「已(すでに)」して・「巳(へび)」

(11-6)「見合」・・読み方と意味は?

(11-8)「気請(きうけ)」・・気受け。他人がその人やその人の行動に対してもつ感情。世間の評判。うけ。

(11-8)「衰微(すいび)」・・おとろえ弱ること。衰退。

(11-10)「相厭(あいいとい)」・・きらい。いやがり。「相(あい)」は語調を整え重みを加える接頭語。「厭(いいとい)」は、「厭(いと)う」の連用形。

 *<漢字の話>「魘(えん)」・・「厭」+「鬼」で、おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめくこと。「夢魘(むえん)」

(11-10)「品に寄(より)」・・事情によって、場合によって。「品(しな)」は、物事の事情や理由。

 *「ことと品による」・・事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。

(11-11)「奢侈(しゃし)」・・「奢」「侈」はともにおごる意。身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。また、そのさま。ぜいたく。

 *<漢字の話>・・「奢」は常用漢字ではないので、脚の部分は、「者」に「ヽ(点)」が付く。

①常用漢字になり、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がなくなり、1画減った漢字・・「暑」「緒」「諸」「署」「著」「都」など。旧字体は、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」があり、1画多かった。

②常用漢字ではないので、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある漢字・・「楮(こうぞ)」「躊躇」の「躇」「儲(もうけ)る。など。

③ところが、2010年の常用漢字の追加で、「賭(か)ける」「箸」が加わったが、『康煕辞典』のまま、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある。

(12-1)「不伏(ふくさざる)」・・『開拓諸書付』は、「不伏」と返読している。「伏(ふく)す」は、従う、降伏する、屈伏するの意。

(12-2)「領主」・・ここでは、松前藩主。

(12-2)「手限(てぎり)」・・その人の考えだけで処置すること。上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(12-3)「伋而(よって)」・・だから。であるから。したがって。普通は、「依而」とする場合が多い。『開拓諸書付』、『廻浦録』とも「依而」としている。

(12-3)「連々(れんれん)」・・引き続き。

(12-3)「御料所(ごりょうしょ)」・・江戸幕府の直轄地。御料。御領。天領。

(12-5)「見据(みすえ)」・・見てはっきりと判断する。見定める。見込む。

(12-5)「御直人(おじきびと)」・・「じきさん(直参)」の敬称。主君に直接仕えること。また、その人。

(12-7)「如何(いか)にも」・・①程度、状態のはなはだしいことを確かにそうであると確認している意を表わす。強く肯定して、強めていう。どうみても。まことに。まったく。おおいに。②(感動詞のように用いて)相手のことばをうけ、肯定、同意する応答のことば。たしかに。なるほど。まさしく。その通りだ。

(12-7)「差向(さしむき)」・・「差向く」の連用形。(「さし」は接頭語)直面する。当面する。

(12-7)「遁着(とんちゃく・とんじゃく)なく」・・気にかけない。無頓着である。「遁着」は、頓着。

(12-8)「権道(けんどう)」・・手段としては道に外れるが、結果からみて道に合っている行きかた。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。

(12-8)「用弁(ようべん)」・・用事を弁じること。用事をすますこと。用事のすむこと。用の足りること。用便。

(12-11)「請負町人(割注略)被差置」・・『開拓諸書付』は、「請負町人」と「被差置」の間に「之手附ニ」があり、請負町人(割注略)之手附ニ被差置」とある。『開拓諸書付』の方がわかりやすいか。

(13-2)「武備(ぶび)」・・戦いに対する備え。

(13-3)「年柄(としがら)」・・「柄」は、接尾語。名詞の下に付いて、その物事の本来持っている性質、品格、身分などの意、また、それらの性質、品格、身分などにふさわしいこと、また、その状態の意などを表わす。「人柄」「家柄」「身柄」「続柄」「国柄」「場所柄」「声柄」「時節柄」などと用いられる。

(13-4)「夫食(ふじき)」・・主として江戸時代に用いられたことばで、農民の食糧のことをいう。江戸時代の農業経営、とりわけ下層農の農業経営は不安定であり、風水旱損、虫付などによる凶作、疫病の流行などによって、農民はしばしば食糧の不足に悩まされた。そうした場合、農民は領主に対して夫食や種籾、農具などの貸与を願い出た。一方、領主側も年貢収奪基盤である農民の経営の再生産を保障する必要性から彼らに一定度の夫食貸与を認めた。 

*「夫」・・労働に携わる人。「夫役(ぶやく・ぶえき)」「農夫」「漁夫」「樵夫(きこり)」など。

(13-7)「演砲(えんぽう)」・・砲術の訓練。

 *『演砲法律』・・江戸時代後期の医師で、久坂玄機(げんき)の書。オランダの砲術書『ベトロン』を訳した『演砲法律』がある。玄機は、文政3年生まれ。長門萩藩医学館の都講役を務めた。久坂玄瑞の兄。

(13-8)「遣料(つかいりょう)」・・物や場所の利用代として支払われる金。使用料。

(13-9)「仕付(しつけ)」・・作りつけること。

(13-9)「作取(つくりどり)」・・全収穫物を地主・耕作者のものとすること。江戸時代、新田開発などの際、開発直後からある一定期間は鍬下年季といって免税措置がとられていた。

続きを読む

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。
4古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時 2014年5月12日(月)13時~16時15分
◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研  
修室 
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。
②『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1854)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。
4古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。
◎日時 2014年4月7日(月)13時~16時15分
◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研  
修室 
(札幌駅北口 中央区北8西3
◎現在の学習内容
①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。
②『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

4月『ふなをさ日記』学習の注

(32-2)「合羽(かっぱ)」・・ポルトガル語capa。「合羽」はあて字。防寒コート。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「合羽」の語誌には、

 <(1)ポルトガル人の伝えた毛織物のcapa を戦国武将たちは外衣として珍重した。厚手で防水性があり、ヨーロッパのすぐれた技術で染色された鮮明な緋色、黄、黒色が特に愛好された。

(2)「合羽」と当て字され、その形態が日本化されて、「雨合羽」「道中合羽」など、材質も桐油紙や木綿が用いられ庶民層にまで広がった。日本で工夫されたものに、袖をつけた袖合羽、桐油紙製袖なしの坊主合羽、袖つき桐油紙製の豆蔵合羽、木綿製の引廻し、等々がある。>とある。

(32-2)「小安貝(こやすがい)」・・タカラガイ科の巻き貝の異名。特に、大形のハチジョウダカラをさすことが多い。形が卵形で色が美しく妊婦のお守りとされ、また、古代には貨幣としても用いた。

*『竹取物語』で、かぐや姫が求婚者の1人に、ツバメの腹にもつこの貝を所望するのはよく知られている。子安貝ともいうので、安産や育児に伴う呪物(じゅぶつ)とされ、また蔵骨器(ぞうこつき)に入っていた例も鹿児島県伊佐(いさ)市など数例あることから、生命力の再生を願う呪具としての観念もあったらしい。柳田国男は『海上の道』(1961)でこの貝の重要性を指摘しているが、アジア、アフリカ、アメリカの先住民族は先史時代からこの貝殻を貝貨として用い、ニューギニアのモニ人は最近まで貨幣として使用していたという。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書』)

(32-2)<漢字の話>「牙」・・2010年改定の新常用漢字に「牙」(4画)が追加された。

現在、常用漢字になっていない漢字(以下、表外漢字)としての「牙」は、4画である。つまり、2画目の「ノ」と「一」を一気に1画で書く。
<「牙」を含む常用漢字の「牙」は、5画>
ところが、「牙」を含む常用漢字の画数は、1画増えた。つまり、2画目を二つに分解した。「ノ」と「一」を1画で書かず、2画に書くようになった。「常用漢字字体表」で画数が増えた例である。
たとえば、「芽」の脚部分の「牙」は4画から5画になった。その他、「雅」「邪」の「牙」の部分が5画になった。同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。常用漢字でも「牙」は4画、「牙」が偏旁にある漢字は5画という矛盾が発生している。
また、現在、表外漢字の「冴(さ)える」、「穿(うが)つ」、「訝(いぶか)る」、「谺(こだま)」、「鴉(からす)」の「牙」は、4画であり、これらの表外漢字と「牙」の字が偏旁にある漢字の画数(5画)が異なっている。

(32-5)「歳」<漢字の話>・・影印の「才」は、日本で、俗に、年齢をあらわす「歳」の代わりに使用される。したがって、テキスト翻刻では「歳」とする。

 「歳」は、太陽暦で、地球が太陽を一周する時間。太陰暦で、月が地球を一二周する間。年。

 なお、「才」は、生まれつきもっているすぐれた能力、資質。頭のはたらき。才能。才知。知能。また、そうした能力、資質のそなわった人。

(32-5)「わらは」・・童(わらわ)。稚児(ちご)より年長で、まだ元服しない者。10歳前後の子ども。童子。

(32-8)「心(こころ)ならず」・・不安でじっとしていることができない。気が気でない。

(32-8)「いたみ居(い)る」・・苦痛に思う。弱る。困る。

(32-10)「夜半(やはん)」・・夜の半分。つまり、よなか。まよなか。よわ。夜中(やちゅう)。

(32-11)「夜喰(やしょく)」・・「喰」を「しょく」と読むのは、「食」の通用語。なお、「喰」は、日本で出来た国字。

なお、ジャパンナレッジ版『日本歴史地名大系』の「南黒丸村(現石川県珠洲市宝立町南黒丸)」の項に、『角谷家文書』から、「寛政六年(一七九四)の払物帳には重箱・夜喰膳・盆などの塗物、徳利・皿・鉢などの焼物、鎌・たらいなどの金工品、柱・桶・戸障子・掛物軸などの木製品のほか、夜着・蒲団・畳」などがみえ、「夜喰膳」がある。

(33-3)「あら麦」・・荒麦。まだ精製しない、からのついたままの麦。

 *コムギ、オオムギは人類が農耕を始めたときからのもっとも歴史の古い作物であり、日本へもイネと同じかあまり遅れないころに大陸から伝来して、栽培が始められた。

 *<漢字の話>「麦」・・①「麦」は常用漢字。影印は、旧字体の「麥」。

  ②「麺」は常用漢字なので、偏は「麦」。旧字体は、「麵」。

  ③ところが、常用漢字でない「麩(ふ)」「麴(こうじ)」の偏は、「麦」ではなく、「麥」

  ④「麥」は11画の部首。また、「麻」(11画)、「黍(きび・12画)」も画数が多いのに、部首になっている。しかも、手元の漢和辞典では、部首を含め、「麥」部は、9字、「麻」は3字(国字の「麿」を除く)、「黍」は、3字しかない。紀元100121年に成立した中国最古の中国最古の漢字字書。『説文解字』は、1万余の漢字を540の部首に類別しているが、漢字を生み出した文明社会黎明期の黄河中流域の人々にとって、「麥」「麻」「黍」は、生きて行く上で、なくてはならない大切な植物であった。

(33-4)「鉄炮」<漢字の話>「炮」・・①「火」部。解字は、『説文解字』に、「毛のままにてを炙(あぶ)るなり」とあり、まるやきをいう。常用漢字ではないので、旁は、中は「巳」。

   ②一方、「砲」は「石」部で、いしゆみ。常用漢字なので、旁の中は、「己」。ただし、旧字体は、「巳」

(33-5)「分銅(ぶんどう・ふんどう)」・・重さを測る際の基準として使用する金属性のおもり。江戸時代、分銅

には十匁目から一分に至る十七種あった。「25貫」は、どんな分銅か。

(33-7)「革提煙草入(かわのさげたばこいれ)」・・ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

 <刻みたばこを入れるための袋物。江戸時代初期のころは、刻んだたばこは白い奉書の紙に包むのが上品とされたが、屋外で働く人は手製の巾着(きんちゃく)に入れてきせるに結び、腰に提げた。また鉄砲の弾丸を入れた胴乱(どうらん)を改造して用いる人もあり、しだいに庶民の間に広がって上流階級にも及んだが、武士は印籠(いんろう)を提げるため懐中用を使っていた。たばこ入れの形には、

1)一つ提げ・・巾着または胴乱を根付(ねつけ)で提げるもの、

2)腰差・・巾着または胴乱にきせる筒をつけ、きせる筒で腰に差すもの、

3)提げ・・胴乱にきせる筒もあるが根付で別に提げるもの、

4)懐中用・・革製もあるが、おもに布製の二つ折りで、共裂(ともぎれ)のきせるを入れる袋がつき、婦人用が多い、

5)とんこつ 雨にぬれても中身のたばこが湿らないように木製と金属製があり、一つ提げと腰差形がある、

6)袂落(たもとおと)し 布または竹、籐(とう)で編んだ小さな袋2個を、鎖または紐(ひも)でつないで両方の袂へ肩から提げるが、一方の袋には懐中用の小形たばこ入れを、もう一方の袋には手拭(てぬぐい)などを入れる。たばこ入れはとかく置き忘れることが多いので、このようにさまざまな形があった。

 胴乱には金唐革(きんからかわ)、印伝革(いんでんがわ)が使われたが、これらは当時輸入品で高価なため、裕福な人たちのたばこ入れになった。庶民の多くは、一見革製にみえるが和紙に桐油(とうゆ)を塗ったり、渋(しぶ)を拭いて柿(かき)色に染め、革まがいにしわをつけたものを使っていた。江戸時代後期になると、国産の革製もできて、たばこ入れは身につける唯一のアクセサリーとなり、胴乱の蓋(ふた)に著名な彫金師のつくった留め金具を用いたり、きせる筒の材質にも凝るようになった。明治時代には胴乱、金具、緒締(おじめ)、筒の組合せに粋を凝らした工芸品もつくられたが、いまでは好事家の収集品になっているにすぎない。両切りたばこの出現とともに、金属製のシガレット・ケースにとってかわられている。>とある続きを読む

4月『蝦夷地見込書秘書』

 (9-1)「急度(きっと)御咎」・・「咎(とがめ)」は、罰。「急度」は、きびしく。厳重に。「急度咎」は、厳しい罰。なお、江戸時代の刑罰に「急度叱(きっとしかり)」がある。庶民に科せられた刑罰の一種。叱(しかり)の重いもので、厳重に叱責するだけで放免する軽刑。叱と同様、犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた。

(9-1)「御咎(おとがめ)被 仰付候(おおせつけられそうろう)」・・「被(られ)」と「仰付」の間に、空白がある。古文書独特の尊敬の体裁で、「欠(闕)字」という。

 *下は、等澍院文書に見る欠字・・4行目の「被」と「仰付」の間が5字も空けてある。

 【その他の尊敬の体裁】

 ◎「平出(へいしゅつ)」・・平頭抄出の略。文中に天皇または高貴の人の名や称号を書く時、敬意を表わすため、行を改めて頭に出し、他の行の頭と同じ高さに書くこと。

 ◎「台(擡)頭」・・貴人に関する語を敬意を表して改行し、普通より上に書くこと。ふつうは一字あげ、天

子に関する事柄は二字あげるのが通例。

(9-2)「枢要(すうよう)」・・かなめ。影印の「樞」は、「枢」の旧字体。

(9-4)「被差遣置」か、「被差遣」か。つまり、「置」は見せ消ちかどうか・・異本は、「被差遣」で、「置」はない。

(9-5)「調練(ちょうれん)」・・訓練を積むこと。

(9-6)「旋転(せんてん)」・・くるくると回ること。回転すること。

(9-8)「後来(こうらい)」・・こののち。ゆくすえ。将来。

(9-8)「急度(きっと)」・・きちんと。しっかりと。

(10-4)「必定(ひつじょう・ひちじょう)」・・確かなさま。決定的であるさま。

(10-4)「伏従(ふくじゅう)」・・服従。他人の意志または命令に従うこと。

(10-5)「一等」・・一等級か、または、副詞の「一段と。よりいっそう。」か。異本は、ルビに「本のママ」に作る。

(10-8)「越年為致△(候樣罷成候共、何レも妻子有之者共故、越年為致△)候儀も相成申間敷」・・下の△(1)は、挿入記号。(  )部分を読んで、上の△(2)に戻る。

 *異本は、(  )内の「越年」の前に、「連年」があり、「連年越年」に作る。この方が、文意が通じる。

(10-9)「与(と)」・・ここの「与(と)」は、変体仮名ではない。変体仮名の場合は、「よ」。「与」は漢文の二つの語を並列する中間の助字で、日本語の並列の助詞「と」に当るので、「与」を「と」と訓じた。

 *「富貴、是人之所欲也」(『論語』)   (とみ)(たっと)ハ、()レ人之欲スル所也」

(10-10)<漢字の話>「働」・・「働」は国字。ジャパンナレッジ版『字通』には、

 <働はわが国で作られた字で、労働の意に用いる。〔中華大字典〕に「日本の字なり。通じて之れを讀むこと動の(ごと)し」とみえる。>

 とある。

(10-11)「方今(ほうこん)」・・ただ今。また、近い過去から現在までを漠然とさしてもいう。現今。

(11-1)「石炭鉄炮等相開」・・異本は、「鉄炮」を「鉱坑」に作る。

(11-1)「輻湊(ふくそう)」・・「輻」は車の輻(や=車軸から放射状に出て車輪を支えている多数の棒。やぼね。)、「湊」「輳」はともにあつまる意。車の輻(や)が轂(こしき=車輪の中心の輻が集まる太く丸い部分。中を車軸が貫いている。)に集まるように、四方から寄り集まること。物が一所にこみあうこと。また、そのさま。

(11-1)「仕法(しほう)」・・物事のやりかた。仕方。手段。方法。

(11-1)「条下(じょうか)」・・文章の該当する部分。その箇所。

(11-2)「定貢」・・一本には、「貢」を「員」とし、「定員」に作る。

(11-3)「家眷(かけん)」・・同族の者。または一族の者とそれに付き従う者。一家眷族。

 *<漢字の話>「眷(けん)」・・①常用漢字でないので、1、2画は「ハ」。同様に、「倦怠」の「倦」も常用漢字でないので、1、2画は「ハ」

                    ②常用漢字になった「巻」「圏」「券」「拳」などは、旧字体の冠部分は、「ハ」だったが、「ソ」になった。

 (11-5)「已(すで)に」<漢字の話>・・

「己」・・キ・こ・(の声)・おのれ・つちのと(下に付き

「已」・・イ・すでに・(半ばして)・已(や)む・而已(のみ)

「巳」・・シ・み・(は皆付く

*「己(おのれ)」・「已(すでに)」して・「巳(へび)」

(11-6)「見合」・・読み方と意味は、どうですか。教えてください。

(11-8)「気請(きうけ)」・・気受け。他人がその人やその人の行動に対してもつ感情。世間の評判。うけ。

(11-10)「相厭(あいいとい)」・・きらい。いやがり。「相(あい)」は語調を整え重みを加える接頭語。「厭(いいとい)」は、「厭(いと)う」の連用形。

 *<漢字の話>「魘(えん)」・・「厭」+「鬼」で、おそろしい夢を見て、眠りながらおびえうめくこと。「夢魘(むえん)」

(11-10)「品に寄(より)」・・事情によって、場合によって。「品(しな)」は、物事の事情や理由。

 *「ことと品による」・・事柄や性質によって一概に決められない。事情や場合による。

(11-11)「奢侈(しゃし)」・・「奢」「侈」はともにおごる意。身分不相応なくらしをすること。度をこえたおごり。また、そのさま。ぜいたく。

 *<漢字の話>・・「奢」は常用漢字ではないので、脚の部分は、「者」に「ヽ(点)」が付く。

①常用漢字になり、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がなくなり、1画減った漢字・・「暑」「緒」「諸」「署」「著」「都」など。旧字体は、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」があり、1画多かった。

②常用漢字ではないので、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある漢字・・「楮(こうぞ)」「躊躇」の「躇」「儲(もうけ)る。など。

③ところが、2010年の常用漢字の追加で、「賭(か)ける」「箸」が加わったが、『康煕辞典』のまま、「者」の「日」の上の「点(ヽ)」がある。

(12-1)「不伏(ふふく)」・・不服。

(12-2)「領主」・・ここでは、松前藩主。

(12-2)「手限(てぎり)」・・その人の考えだけで処置すること。上役などの意見・指図も得ないで自己の判断で処理すること。

(12-3)「連々(れんれん)」・・引き続き。

(12-3)「御料所(ごりょうしょ)」・・江戸幕府の直轄地。御料。御領。天領。

(12-5)「御直人(おじきびと)」・・「じきさん(直参)」の敬称。主君に直接仕えること。また、その人。

(12-7)「差向(さしむき)」・・さしあたり。目下。とりあえず。

(12-7)「遁着(とんちゃく・とんじゃく)なく」・・頓着。気にかけない。無頓着である。

(12-8)「権道(けんどう)」・・手段としては道に外れるが、結果からみて道に合っている行きかた。目的を達するためにとる、臨機応変の処置。方便。

(12-8)「用弁(ようべん)」・・用事を弁じること。用事をすますこと。用事のすむこと。用の足りること。用便。

(13-2)「武備(ぶび)」・・戦いに対する備え。軍備。兵備。

(13-3)「折合」・・読みと意味は?

(13-3)「年柄(としがら・としから)」・・年。「柄」は、名詞の下に付いて、その物事の本来持っている性質、品格、身分などの意、また、それらの性質、品格、身分などにふさわしいこと、また、その状態の意などを表わす。「人柄」「家柄」「身柄」「続柄」「国柄」「場所柄」「声柄」「時節柄」などと用いられる。

(13-4)「夫食(ふじき・ぶじき)」・・主として江戸時代に用いられたことばで、農民の食糧のことをいう。江戸時代の農業経営、とりわけ下層農の農業経営は不安定であり、風水旱損、虫付などによる凶作、疫病の流行などによって、農民はしばしば食糧の不足に悩まされた。そうした場合、農民は領主に対して夫食や種籾、農具などの貸与を願い出た。一方、領主側も年貢収奪基盤である農民の経営の再生産を保障する必要性から彼らに一定度の夫食貸与を認めた。

 *「夫」・・労働に携わる人。「夫役(ぶやく・ぶえき)」「農夫」「漁夫」「樵夫(きこり)」など。

(13-7)「演砲(えんぽう)」・・砲術の訓練。

 *『演砲法律』・・江戸時代後期の医師で、久坂玄機(げんき)の書。オランダの砲術書『ベトロン』を訳した『演砲法律』がある。玄機は、文政3年生まれ。長門萩藩医学館の都講役を務めた。久坂玄瑞の兄。

(13-8)「遣料(つかいりょう)」・・物や場所の利用代として支払われる金。使用料。

(13-9)「仕付(しつけ)」・・作りつけること。

(13-9)「作取(つくりどり)」・・全収穫物を地主・耕作者のものとすること。江戸時代、新田開発などの際、開発直後からある一定期間は鍬下年季といって免税措置がとられていた。

(13-11)「必定(ひつじょう)」・・必ずそのようになるにきまっていること。必ず予測したとおりの結果になること。また、確かなさま。決定的であるさま。

『ふなをさ日記』3月学習の注 

(28-2)「熊程の何とも知れぬ獣もの」・・どんな動物か。

(28-3)「入りて」か「入(いら)ば」か、「入(いれ)ば」か。・・どちらか。異本は、「入れば」に作る。

 ①「入(いら)ば」・・接続助詞「ば」は仮定条件(モシ・・ナラバ)の場合は、未然形に接続するので、「入(い)る」の未然形は、「入(いら)」だから、「入(いら)ば」になる。

 ②確定条件(・・スルト)の場合は、已然形に接続するので、「入(い)る」の已然形「入(いれ)ば」となる。

(28-4)「はしごの下」・・どこか?

(28-4)「びゐどろ」・・ビードロ。ポルトガル語のVidroから。ガラスの別名。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ビードロ」の語誌には、

 <(1)一八世紀後半以降、板ガラスの技術が入ってくると、板ガラスを「ガラス」、ガラス器具を「ビードロ」と呼ぶ区別が生じた。一方、細工したガラス器を指すようになっていた「ギヤマン」が一九世紀にはガラス一般の意でも使われるようになったが、明治時代になると、「ガラス」が材料名として定着し、「ビードロ」「ギヤマン」は方言に残るほかは次第に使われなくなった。

(2)「硝子」という表記は、最初はビードロにあてたもので、後にガラスと読むようになったものである。>

 とある。

(28-5)「鳴子(なるこ)」・・小さい板に竹筒や鈴などをつるし、綱を引くと鳴るしかけの、人を呼んだり合図を送ったりするもの。

 (28-7)「休らふ」・・休む。休息する。「ヤスロー」と発音する場合もある。

(28-9)「バラノフ」・・ロシア人アレキサンダー・バラノフ。17471819。シベリアのイルクーツクで毛皮業をはじめ、さまざまな事業を経営し、さらにガラス工場を持っていた。1799年、ロシア・アメリカ会社の初代総支配人として1750名の集団を結成し、アラスカのシトカに上陸した。バラノフは先住民のトリンギット族を追いだし、シトカを制圧、ここを拠点に毛皮交易を展開し、シトカの黄金時代を作った。バラノフが館を築いた丘は、現在、キャッスル・ヒルと称され、公園になっている。

(29-1)「なべて」・・並て。副詞。動詞「なぶ(並)」の連用形に、助詞「て」の付いてできたもの。事柄が同じ程度・状態であるさまを表わす。すべて。総じて。一般に。概して。

(29-3)「曲(きょく)ろく」・・主として僧が法会などで用いる。背のよりかかりを丸く曲げ、四本の脚は牀几(しょうぎ)のようにX型に作ってあるもの。全体を朱または黒の漆で塗り、金具の装飾を施す。

(29-6)「せうぎ(ショーギ)」・・床几(しょうぎ)。

(1)室内で臨時に着席する際に用いる一種の腰掛け。脚を打違いに組み尻の当たる部分に革を張り、携帯に便利なように作ったもの。陣中や狩り場などでも用いられた。また、神輿の台などにも使用された。畳床几(たたみしょうぎ)。

(2)横に長く、数人腰掛けられるようにつくった簡単な腰掛け台。

 ここでは、(2)が妥当か。

(29-7)「地走」・・馳走。接待。「地」は、「馳」を通用させた字。「馳走」は、用意のためにかけまわる意から、心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

 *違った漢字でも、漢字の部分(偏とか旁)または全部の読みが同じ場合、その字を使うことがある。「通用字」といい、「当て字」と区別する。

①「鑛(鉱)」と「礦」、②「州」と「洲」など。

「悦」と「説」・・両方とも旁の読みを通用させ、「よろこぶ」と訓じる。

 *学而時習之 不亦説乎 (『論語 学而編』) 

学ビテ時ニ之ヲ習ウ、亦(また)(よろこば)シカラズヤ

(学問をして、それを機会あるごとに復習して身につけるのは、なんと喜ばしいことではないか)

(29-8)「ありく」・・歩く。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の見出し語「ありく」の語誌に、

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる>とある。

 また、見出し語「歩く」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>とある。

 *<漢字の話>「歩」(8画)は、常用漢字になって画数が増えた・・旧字体は、点のない7画の「步」。

  同様に、常用漢字になって画数が増えた「歩」のある字に

①「交渉」「渉(わた)る」の「渉」・・旧字体の旁は「歩」でなく、点のない「步」。

   ②「頻繁」「頻(しき)り」の「頻」・・旧字体の旁は「歩」でなく、点のない「步」。

   ③「来賓」の「賓」・・旧字体の旁は「歩」でなく、点のない「步」。

  ところが、「瀕死」の「瀕」は、常用漢字でないので、真中は、点のない「瀕」

  *2010年改定の新常用漢字に追加された「進捗」の「捗」の旁は、旧字体のままで、「步」

(29-1030-3)「二人三人・・さまざまのふりをする也」・・異本は、この6行は、行頭をさげて、割注扱いをしている。本テキストは、29ページ9行目から3行のみ、行頭をさげている。30ページ1行~3行は、下げていないが、文の整合性を持たせるため、釈文は、行頭を下げることとする。

(29-9)「一所に」・・現在は多く「一緒」と書く。多く「に」を伴って副詞的に用い、一つになるさま。同じ行動をするさま。

(29-910)「行(ぎょう)きよく」・・行儀よく。異本は、「行」をかなで「ぎやう」とし、「ぎやうぎよく」に作る。

 (30-1)「上手(じょうず」・・物事にたくみなこと。その道にたくみで、すぐれていること。てぎわのよいこと。

 *江戸時代、囲碁・将棋の七段の別称。桃山時代に召し出された碁将棋衆を上手衆と言ったのがその始まり。江戸時代には免状は七段までで、上手に何子になったから何段を許すという形式を採り、上手になると外家(家元外)でも僧形になれば御城碁出仕を許された。

(30-1)「下手(へた)」・・拙劣であること。劣ること。手ぎわの悪いこと。語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、

(1)ウミヘタ(海辺)の義。沖の深いのに対して浅い意から〔嬉遊笑覧・和訓栞・言葉の根しらべ=鈴江潔子・大言海〕。

(2)下等の転か〔勇魚鳥〕。

(3)フエタ(不得手)の約〔菊池俗言考〕。

(4)ハタ(端)の義〔国語の語根とその分類=大島正健〕。

(5)碁の手からか〔諺草〕。>をあげている。

*「上手は下手の手本、下手は上手の手本」・・へたな者がじょうずな者を手本にしてくふうするのはもちろんだが、じょうずな者にとっても、へたな者のすることが参考になることをいう。

続きを読む

3月『蝦夷地見込書秘書』注  

                      
(8-1)「手当(てあて)」・・準備。

(8-2)「本文(ほんもん・ほんぶん)」・・古書などにあって、典拠となる文句。出典とした文。

(8-2)「在住足軽」・・「在住」は、箱館奉行所属で、「同心」の下の最下位の役人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-4)「警衛(けいえい)」・・かためまもること。

(8-45)「行届候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。漢文では、「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意。

*漢文における文末助辞「而已」が限定・決定・強調に用いられ、日本語の副助詞「のみ」の用法に近いため、訓読文において文末の「而已」を「のみ」と必ず訓じるようになり、意味も「限定」という論理性が薄れ、「強く言い切る」という情意性を表わすようになった。

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-6)「雪車(そり)」・・そり。

(8-6)「雪車橇」・・3字で「そり」と訓じるか。「橇」は「かんじき=雪国で、深雪中に足を踏込まないように、靴、わら靴などの下につける道具」の読みもあるので、「そり・かんじき」と読むか。

(8-6)「身体(からだ・しんたい)」・・「身」と「体」の間にある「を」の左に、見せ消ち記号の「二」があるので、「を」を読まず、「身体」と読む。

(8-7)「一ト通之者」・・「一ト通」は、一筋。

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・下の階層の事情。為政者などから見た庶民の実情。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-10)「給分(きゅうぶん)」・・江戸時代、下級の役人、中間、小者、また、一般の奉公人に与える給料。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

3月古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年3月10日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

 『ふなをさ日記』2月学習の注

                   
(24-1)「時々に衣服さえ」・・異本は、「に」を「の」とし、「時々の衣服さえ」に作る。文意は、「季節ごとの衣服」の意だから、「時々の」の方が妥当か。

(24-2)「命の親」・・命を助けてくれた恩人。

 *(美女を「命取り」というのに対して)醜い女のこと。→「いのちとり(命取)」とは美女、「命の親」とは悪女の異名。

 *「命取り」・・生命、地位、財産、名誉などを失う原因となるものや事柄。美女をいうのにも用いた。

・「あの御器量で金銀に事欠き給はぬ御暮しは、太夫様方の命取(イノチト)りといふもの」(『浮世草子・風流曲三味線』)

・「おもき顔にもにっこりと、わらひをふくむあいきゃうは、俗に所謂いのち取、男ころしといふべけれ」(『人情本・仮名文章娘節用』)

(24-3)「いたこ」・・潮来節のこと。潮来節について、ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、

<江戸中期の流行唄。江戸時代の水郷潮来(茨城県)は、東北地方の米を江戸へ送る集積地であり、また鹿島、香取両神宮への参拝客でにぎわった。そのため、舟唄とも遊女の舟遊び唄ともいわれるこの歌は、明和期(176472)の末にはお座敷化して江戸へ伝わり、文化期(180418)にかけて大流行した。777526文字からなるこの詞型は、日本全域で愛唱された初めての民衆歌謡といえよう。やがて江戸では新内や祭文(さいもん)の旋律が加えられ、大坂では「よしこの」の母胎になるなど、歌い崩されて本来の旋律は失われてしまい、現代では端唄(はうた)『潮来出島』、民謡『潮来音頭』『潮来甚句』として残っているにすぎない。>

とある。

 <漢字の話>「潮」を「いた」と訓じること・・ジャパンナレッジ版『国史大辞典』には、

 <『鹿島志』に「板来と書たるを、西山公(徳川光圀)、鹿島に潮宮(イタノミヤ)あり、常陸の方言に潮をイタといふは興ある事とおほしてかく書改められたりと云ふ」とあるように、江戸時代に「潮来」と改称された。>

 とある。つまり、「潮」を「いた」発音するのは、常陸地方の方言だという。

(24-34)「新内節」・・ジャパンナレッジ版『新版 歌舞伎事典』には、

<三味線音楽の一流派。江戸浄瑠璃。宮古路豊後掾の門弟加賀太夫が富士松薩摩掾となり、また、そのワキ語り敦賀太夫が鶴賀若狭掾となって、一派を樹立した。その若狭掾の門弟二世鶴賀新内のフシ落しが喜ばれ、安永(17721781)末ごろ新内節の名称で統一された。若狭掾までは歌舞伎の舞台に出演していたが、〈流し〉という形態に変わり、上調子(高音(たかね)という)の発達とウレイをきかせたクドキの発達で流行するようになる。のち中興の祖富士松魯中が出て語り物をふやし、さらに七世加賀太夫が人気を博して今日も根強い人気を保っている。若狭掾作品の《蘭蝶》は歌舞伎化され、《明烏》は清元その他に移されている。ほかに義太夫節、一中節から移したものもあり、《膝栗毛》のような滑稽物もある。曲節の種類は少ないが、他流に与えた影響は大きく、〈流し〉の三味線は、歌舞伎で下町や大川端の夜更けを描く下座音楽に用いられている。>とある。

(24-6)「哥(うた)」・・「哥」は、「歌」の古字。

(24-8)「にても」・・格助詞「にて」に係助詞「も」の付いたもの。…でも。…においても。

(24-9)「嘲弄(ちょうろう)」・・ばかにすること。からかいなぶること。

(24-9)「身にし(染)みて」・・深く心に思いこんで。心からうちこんで。

(24-11)「しゐて」・・強いて。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(25-3)「返すがえすも」・・「かえす(返)」の終止形を重ねたもの。「も」を伴うことが多い。古くは「かえすかえす」)動作、作用が繰り返し行なわれるさまを表わす。ひとえに。ひじょうに。

(25-3)「しんに」・・真に。本当に。まことに。また、真剣に。本気で。

(25-3)「あしざま」・・悪樣。悪いよう。悪いふう。「あしざまに(言う)」の形で、悪意をこめて事実よりも悪く言うのに用いることが多い。

 CF「よざま(善樣)」・・よいさま。よいふう。

(25-4)「くどけば」・・くどくどと繰り返していえば。「くどく(口説)」は、嘆きのことばを繰り返す。しつこくいう。愚痴(ぐち)をいう。

(25-4)「その事その事」・・相手の言うことに共鳴する意を表わすのにいう。それがよい、それがよい。その通りだ、その通りだ。

*「『藤さんはきれい好であらっしゃるから』『その事その事』」(『人情本・春色恵の花』)

*「『奥山へ行って、一杯やらうぢゃあねえか』『其事々々、寒くって堪(こて)えられねえ』」(『歌舞伎・歳市廓討入』

*「『まアそんな事はどうでもいいや。仲直りに今の酒を奥でやると仕ようぢゃねえか』『其事其事、サア来ねえ』」(『歌舞伎・今文覚助命刺』)

(25-5)「さも」・・副詞「さ」に助詞「も」が付いてできたもの。副詞「さ(然)」を強めたいい方。そのようにも。その通りにも。

(25-8)「彼城(かのしろ)」・・シトカのロシア人の要塞をノボ・アルハンゲリスク。当時、重吉らは、ロシア領アメリカ(現アメリカ合衆国アラスカ州)のアレキサンダー諸島のパラノフ島西部の町・シトカに滞在していた。シトカは、ロシア国策会社であるロシア・アメリカ会社の初代支配人アレキサンドル・バラノフが組織した統治・交易の中心地であった。彼らはその要塞をノボ・アルハンゲリスク(バラノフが生まれたアルハンゲリスクに因む)と名づけた。

(25-89)「日本人を連来れと仰事あり」・・前掲の『船長日記 その信憑性と価値』(風媒社 2013)で著者の村松氏は、「重吉等はピゴットに伴われ、ここを訪れているようだ。バラノフは重吉に会った時、すでに七十歳ほどの老人であった」と記している。「仰事」を発したのは、バラノフということになる。文化127月のことであった。

(25-9)「今は」・・異本は、「今日は」に作る。

(25-9)「月代(さかやき・さかゆき・さかいき・つきしろ・つきびたい)」・・中古以来、成人の男子が、日常、冠または烏帽子をかぶったためにすれて抜けあがった前額部の部分の称。また、室町期、武士が兜を付けるときに剃った前額部の称。近世、露頭が日常の風となった成人男子が、額から頭上にかけて髪を剃(そ)ること。また、その部分の称。

 *「月代」を「さかやき」と読む語源説・・諸説あるが、「昔、冠を着けるときに、前額部の髪を月形に剃ったところから、サカは冠の意、ヤキ(明)は鮮明の意。」が、比較的わかりやすく、面白い。

(25-10)「惣髪(そうはつ)」・・男の結髪の一つ。額(ひたい)の上の月代(さかやき)を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへなでつけ垂れ下げただけで、束ねないものもいう。江戸時代、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った髪型。四方髪。なでつけ。そうがみ。そうごう。

(25-11)「こよのふ」・・こよなく。この上なく。

 *<文法の話>「のふ」・・諸説あるが、一説に、打消しの助動詞「ず」の未然形の古い形「な」に接尾語「ふ」の付いた「なふ」の「な」が、さらに「の」に変化し、「のふ」になったとも。

(26-2)「苧(お・からむし)」・・イラクサ科の多年草。茎の繊維から織物をつくる。

(26-45)「ざん切(ぎり)」・・散切。月代(さかやき)をそらないで、頭髪をうしろへなでつけて結ばず、切り下げたままにした髪形。なでつけ。散切髪。

続きを読む

2月学習『蝦夷地見込書秘書』注

(4-1)「纔(わずかに)」<漢字の話>・・ジャパンナレッジ版『字通』の「纔」の項に、

 <「帛、雀頭の色なり。一に曰く、微黒色、紺の如し」とし、「纔は淺きなり。讀みて讒(ざん)の若(ごと)くす」という。色の浅いことから、「わずか」の意があるとするものであろう。>とある。

(4-1)「人別(にんべつ・じんべつ・にんべち)」・・住民の数。人頭。人口。

(4-1)「盛業(せいぎょう)」・・事業、商売などがさかんであること。

(4-2)「手(て)」・・仕事をする力。労力。また、仕事をする人。人手。「手があく」「手を貸す」「手が足らぬ」「手がかかる」「手を分かつ」「手がつまる」「手がすく」「手がやける」

(4-5)「通船(かよいぶね・かよいせん・つうせん)」・・航路・河川・関所などを船が通航すること。また、その船。

(4-5)「目当(めあて)」・・目標とする物や場所。目じるし。

(4-6)「節々(せつせつ)」・・おりおり。ときどき。ときたま。

(4-7)「乗寄(のりより)」・・寄港すること。

(4-8)「子丑(ねうし)」・・ほぼ北北東。実際は、礼文島は、利尻島の北西にある。

(4-8)「レフンシリ」・・礼文島。漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名、島名。

(4-8)「蝦夷地」の「地」は、見せ消ち・・「蝦夷地」の「地」の左に小さく見せ消ち記号の「ヒ」がある。したがって、ここは、「蝦夷地家」ではなく、「地」を読まず、「蝦夷家」と読む。

(4-11)<漢字の話>「帋(かみ)」・・多くの辞書は、「帋」を「紙」の異体字とする。ジャパンナレッジ版『字通』は、『和名抄(わみょうしょう)』の(平安中期の日本の漢和辞典)「古文、帋に作る」を引いている。

(6-3)「当今」・・このごろ。現今。

(6-3)「折柄(おりから)」・・ちょうどその時。おりしも。

(6-4)「御入料(ごにゅうりょう)」・・支出。

(6-4)「本蝦夷地」・・北蝦夷地に対する東西蝦夷地本土。

(6-6)「証跡(しょうせき)」・・後に、そのことが事実、真実であることを証明する痕跡(こんせき)。証拠となるあとかた。

(6-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実

(6-7)「被為在(あらせられ)」・・組成:ラ変動詞「在(あり)」の未然形「在(あら)」+使役の助動詞「為(す)」の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」の連用形「られ」。

(6-7)「本末前後」・・『大学』(中国の経書)の「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。(物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し)」を引くか。

(6-7)「循序(じゅんじょ)」・・順序。順番にしたがうこと。順番どおりに行なうこと。

(6-8)「経尽」・・「尽」は、「営」の誤りか。『蝦夷地廻浦録』には「経営」とある。

 (6-8)「被為尽候(つくさ・せ・られ・そうろう)」・・組成:4段活用動詞「尽(つく)す」の未然形「尽(つく)さ」+使役の助動詞「為(す)」の未然形「せ」+受身の助動詞「らる」の連用形「られ」+動詞「候(そうろう)」。

(6-8)「永制(えいせい)」・・ながく変わらない制度。

(6-9)「大意(たいい)」・・あらまし。おおよそ。

(6-10)「砂利」・・シヤリ。シヤリは、漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(6-10)「藩籬(はんり」」・・領地。「藩」、「籬」ともに、まがきの意。

(7-1)「捨郭(すてぐるわ)」・・山城を築く時、くるわにするように地をきりならし、塀をかけないでそのままにしておく箇所。敵の攻撃を受けたとき、防御の拠点とする。

(7-1)「御見据(おみすえ)」・・取扱い。

(7-2)「堅固(けんご)」・・防備などがしっかりしていて攻撃されても容易に破られないこと。ものがかたくしっかりしていること。また、そのさま。

(7-2)「出丸(でまる)」・・本城から張り出して築いた小城。出城。

(7-3)「備立(そなえだて)」・・兵を配置すること。軍陣をつくること。また、その配置や陣。陣立。

(7-4)「肝要」・・大切なこと。また、そのさま。かなめ。

(7-5)<見せ消ち>「取捨置候姿を以故」の「を以」・・「を以」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があるので、「を以」は、読まず、「取捨置候姿故」と読む。

(7-6)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。

(7-7)「先轍(せんてつ)」・・前例。

(7-7)「松前伊豆守」・・松前藩主・松前崇広(たかひろ)。文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849729日のこと。

(7-9)「白主(しらぬし)」・・カラフト南部の能刀登呂半島(ロシア名クリリオンスキー半島)南端の集落。寛政2年(1790)に交易所を設けた。蝦夷地からの渡航地でもあった。

(7-910)「二百十日」・・立春から数えて二一〇日目に当たる日。九月一日頃で、稲の開花と台風の襲来とがぶつかる時期なので、農民は厄日として警戒する。

(7-10)「手当」・・あらかじめその用に備えること。また、そのために配置される人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-4)「警衛(けいえい)」・・かためまもること。

(8-45)「行届兼候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届兼候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-6)「雪車(そり)」・・そり。

(8-6)「橇(かんじき)」・・

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・下の階層の事情。為政者などから見た庶民の実情。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-10)「給分(きゅうぶん)」・・給料。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

(9-1)「急度(きっと)」・・きびしく。厳重に。なお、江戸時代の刑罰に「急度叱(きっとしかり)」がある。

庶民に科せられた刑罰の一種。叱(しかり)の重いもので、厳重に叱責するだけで放免する軽刑。叱と同様、犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた。

(9-2)「枢要(すうよう)」・・かなめ。影印の「樞」は、「枢」の旧字体。

(9-5)「調練(ちょうれん)」・・訓練を積むこと。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。約100名の参加者が楽しく学習しています。毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大  研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見   学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時:2014年2月10日(月)

13時~16時15分

◎会場:エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容

①『ふなをさ(船長)日記』・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

『蝦夷地見込書秘書』・・安政元年(1864)、カラフトにおける国境見込地の調査と蝦夷地状況の視察に派遣された目付堀織部と勘定吟味役村垣与三郎(後、両名とも箱館奉行となる)の諸復命書。幕吏上川伝一郎、間宮鉄次郎、松岡徳次郎、松前藩士今井八九郎の報告も含む。

              

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』1月学習の注

              
(18-1)「北極七十度」・・シトカの緯度は、北緯57度。

(18-12)「所所也」・・「所」の字

がふたつあり、重複している。

(18-3)「日も」・・異本は、「日々」に作る。

(18-3)<変体仮名>「そ(所)ら晴わたり」の「そ(所)」・・変体仮名「所(そ)」は、めったに見ない。『くずし字用例辞典』P1262上段には、「そよ」「それは」の2例がある。「所」を「ソ」と読むには呉音。手元の漢和辞典には、「ソ」と読む熟語は見当たらない。なお、「所」は、万葉仮名「そ」の乙類だが、万葉集には、6例しかない。「所許(そこ)」「所己(そこ)」「己所(こそ)」など。

(18-3)「雰(きり)」・・「霧」とは別に常用漢字になっている。「雰囲気」「雰霧(ふんむ)」など。

 *【雰霧】ふんむ・・きり。「資財己の用を爲さず、名位得て守るべからず。晨霜秋露、雰霧の氣有り。朝に凝(こ)ると雖も、夕に消ゆ。」(晋・劉『石勒に遺る書』)

(18-4)「初の」・・異本は、「先の」に作る。

(19-1)「入津(いりつ・にゅうしん・にゅうつ)」・・船が港に入ること。入港。

(19-2)「祝義(しゅうぎ)」・・「しゅう」は「祝」の漢音。「祝言(しゅうげん)」など。祝いの儀式。祝典。

(19-3)「有合(ありあう)」・・ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。ありあわせる。

(19-8)「たけなは」・・「酣」、「闌」を当てる。ある行為・催事・季節などがもっともさかんに行なわれている時。また、それらしくなっている状態。やや盛りを過ぎて、衰えかけているさまにもいう。最中(さいちゅう)。もなか。まっさかり。語源説に、「ウタゲナカバの約」などがある。

(20-2)「け坊主」・・「けし(芥子)坊主」で、「し」が欠か。「芥子坊主」は、子供の頭髪で、頭頂だけ毛を残し、まわりを全部そったもの。

(20-3)「替りたり」・・違っている。普通は「変りたり」と、「替」でなはなく、「変」を使う。

(20-6)「何卒(なにとぞ)して」・・「何卒(なにとぞ)」に同じ。手段を尽くそうという意志を表わす。どうぞして。なんとかして。なにとぞして。

*<漢字の話>「何卒(なにとぞ)」の「卒」・・「卒」は、漢音で「ソツ」「シュツ」、呉音で「ソチ」「シュチ」。「卒」は、1字で「とぞ」と読むのではなく、「と・ぞ」の「ぞ」で、漢音の「ソツ」の国訓(当て読み)。代名詞「なに(何)」に助詞「と」と「ぞ」が付いてできたもの。したがって、「何卒」を「なにとぞ」と訓じるのは、「何(なに)と卒(ぞ)」という、いわば、熟字訓といえる。

(20-8)「南京知らぬとこたふる」・・異本は、「南京」の「京」と「知らぬ」の「知」の間に、「人は」があり、「南京人は知らぬと答ふる」に作る。ここは、<南京人は、「知らぬ」と答ふる>が読みやすいか。

(20-11)「定りて」・・動詞「さだまる(定)」の連用形に助詞「て」の付いてできたもの。

きっと。必ず。まちがいなく。

(21-4)「砂糖」・・日本への砂糖の渡来は奈良時代、754年(天平勝宝6)に唐僧鑑真が来日の際、黒糖を持ってきたのが最初といわれている。「東大寺献物帳」(756)にも「蔗糖」の記事がみえるが、これは薬用に用いられていた。室町時代に入って、中国との貿易が盛んとなり、砂糖の輸入も多くなった。しかしその量は微々たるもので、同じような状態が江戸時代まで続いた。

 日本に製糖法が伝わったのは、慶長年間(15961615)奄美(あまみ)大島の直川智(すなおかわち)が台風のため中国福建に漂着し、そこでサトウキビ栽培と製糖の技術を習得、ひそかにサトウキビの苗を持ち帰って植え付けたのに始まるという。

(21-6)「いかにせまし」・・副詞「いかに」に、サ変動詞「す」の未然形「せ」、推助動詞「まし」の付いたもの。

 もしするならどうしようか。「いかにせん」も、意味はだいたい同じであるが、「いかにせまし」のほうが、ためらいの気持が強い。

(21-9)<古文書の典型>「嬉しかりき」の「き(幾)」の右の「ヽ(てん)」・・右に打つ点はなるべく離して打つ。

*ひらがなの「お」「か」「む」に「ヽ(点)」があるわけ。

*「於」→「お」         「加」→「か」          「武」→「む」

(21-10)「興に入来る」・・おもしろくなる。おもしろがる。感興を覚えて夢中になる。

(22-4)「はや(早)げ」・・形容詞「はやい」の語幹に、接尾語「げ」の付いたもの。いかにも早そうなさま。

(22-56)「もだしがたければ」・・黙ってはいられず。「もだし」は、「もだ(黙)す」の連用形で、そのままにしておく。無視する。

(22-7)「すがすが(清清)」・・副詞。多く「と」を伴って用いる。物事の進行が、さわやかに滞ることのないさまを表わす語。すらすら。

(22-8)「おもい侘(わび)て」・・思い悩んで。「侘びる」は、あれこれと思いわずらうこと。

(22-10)「よまひ言」・・世迷言。ひとり言に、愚痴を言うこと。わけのわからない繰り言を言うこと。不平をかこつこと。また、そのことば。人の発言・意見などをののしって言うのにも用いる。当初、「いまひ事」と書かれていたが、「事」の左に見せ消ち記号の「ニ」があり、右に「言」と訂正してある。

(22-10)「唐人(からびと)」・・外国人。

(23-5)「ほむる」・・褒める。「褒(ほ)む」の連体形。

(23-7)「又、あすもメリケン船へ集るよしを、重吉、つらつら思ひ廻ス」・・異本は、「あすも」と「メリケン船へ」の間に、「外の」があり、「明日も外のメリケン船へ集るよし」に作る。

1月『蝦夷地見込書秘書』注(2)

(2-9)「御小人目付(おこびとめつけ)」・・徒目付(かちめつけ)に従って、各種の調査や警備などに当たった。

(2-10)「字(あざ・あざな)」・・土地の小区画としての名称として始まり、近世以後、行政区画単位としての性格を強めた。

(2-10)「トマリ」・・江戸期、リイシリの中心地。リイシリ運上屋があった。現利尻富士町本泊。

(2-10)「運上家(うんじょうや)」・・蝦夷交易のため場所(松前藩は蝦夷地を場所に分けて、その地の蝦夷交易権を知行として藩士に与えていた)に設けられた出張所。交易が場所請負人の手に移ってからは、その商人の出張所の形となり、蝦夷との交渉にあたる通詞、書記にあたる帖役などに助けられて支配人が番人・稼方などを指揮し、交易や漁業にあたった。寛政11年(1799)幕府直轄後、東蝦夷地では会所と呼ばれ、民政を司ることになったので、西蝦夷地でも蝦夷地各地の中心的施設となり、住民の福利厚生・通信・交通・宿泊などみなここで行われるようになった。

(3-1)「北請(きたうけ)」・・北向き。「請」は、ある方向に向いている部分。

(3-1)「入澗(いりま)」・・港。「澗」は、河口を利用した河港と区別して、入江や島かげを利用した港をいう。日本海岸から北海道地方にかけて使われることが多い。掛り澗。

(3-12)「弐艘ならでは澗懸(まがか)り不相成」・・2艘以外は、澗懸りできない。2艘しか、澗懸りでしない。「ならでは」は、通例、あとの打消の表現に呼応する。…でなくては(…しない)。…でなければ。…以外には。「澗懸り」は、船を船澗(ふなま)に碇泊させること。

(3-2)「ヲシトマリ」・・鴛泊。ウシトマリ。現利尻富士町鴛泊。利尻島の北部海岸に位置する集落。「松浦図」には「シヤコカイウシ」とある。資料3.「松浦図」参照。

(3-45)「ラエトマリ」・・松浦武四郎著『東西蝦夷山川地理取調図』(以下、単に「松浦図」)には、「エラエトマリ」とある。現利尻富士町沼浦と鬼脇の間付近。「オタドマリ沼」がある。資料3.「松浦図」参照。

(3-6)「船囲(ふなかこ)ひ」・・数か月以上使わない船を、水上に繋留し、または陸に引き揚げ、船体全体を苫・筵で覆って傷まないように処置すること。

(3-7)「ヲタトマリ」・・現利尻富士町沼浦付近。資料3.「松浦図」参照。

(3-9)「可成(かなり)」・・十分ではないが一応の程度までいっているさまにいう。形容動詞の「かなり」の語源は、よいとして許す意味の「可」に断定の助動詞「なり」の付いてできたもの。

(3-10)「トヽ」・・椴(とど)松。

(3-10)「ヲンコ」・・オンコ。イチイ科の常緑針葉高木。別名イチイ。アララギ、昔この材から笏(しゃく。礼服または朝服を着用するとき、右手に持つ細長い板)をつくったことから、位階の正一位(しょういちい)にちなんでつけられたといわれる。

(3-10)「トウヒ」・・マツ科の常緑針葉樹。エゾマツの一変種。

(3-11)「生木(なまき・いきき)」・・地に根をはって、生き生きとしている樹木。

(3-11)「立木(たちき・たつき・りゅうぼく)」・・地面に生えて立っている木。

(4-1)「盛業(せいぎょう)」・・事業、商売などがさかんであること。

(4-2)「手(て)」・・仕事をする力。労力。また、仕事をする人。人手。「手があく」「手を貸す」「手が足らぬ」「手がかかる」「手を分かつ」「手がつまる」「手がすく」「手がやける」

(4-5)「通船(かよいぶね・かよいせん・つうせん)」・・航路・河川・関所などを船が通航すること。また、その船。

(4-6)「節々(せつせつ)」・・おりおり。ときどき。ときたま。

(4-7)「乗寄(のりより)」・・寄港すること。

(4-8)「子丑(ねうし)」・・ほぼ北北東。実際は、礼文島は、利尻島の北西にある。

(4-8)「レフンシリ」・・礼文島。漢字表記地名「礼文」のもととなったアイヌ語に由来する地名、島名。

(4-8)「蝦夷地」の「地」は、見せ消ち・・「蝦夷地」の「地」の左に小さく見せ消ち記号の「ヒ」がある。したがって、ここは、「蝦夷地家」ではなく、「地」を読まず、「蝦夷家」と読む。

(6-4)「本蝦夷地」・・北蝦夷地に対する東西蝦夷地本土。

(6-6)「証跡(しょうせき)」・・後に、そのことが事実、真実であることを証明する痕跡(こんせき)。証拠となるあとかた。

(6-6)「辞柄(じへい)」・・話の材料。物いい。いいぐさ。口実

(6-7)「本末前後」・・『大学』(中国の経書)の「物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。(物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し)」を引くか。

(6-7)「循序(じゅんじょ)」・・順序。順番にしたがうこと。順番どおりに行なうこと。

(6-8)「経尽」・・「尽」は、「営」の誤りか。『蝦夷地廻浦録』には「経営」とある。

(6-8)「永制(えいせい)」・・ながく変わらない制度。

(6-10)「砂利」・・シヤリ。シヤリは、漢字表記地名「斜里」のもととなったアイヌ語に由来する地名。

(6-10)「藩籬(はんり」」・・領地。「藩」、「籬」ともに、まがきの意。

(7-1)「捨郭(すてぐるわ)」・・山城を築く時、くるわにするように地をきりならし、塀をかけないでそのままにしておく箇所。敵の攻撃を受けたとき、防御の拠点とする。

(7-2)「堅固(けんご)」・・防備などがしっかりしていて攻撃されても容易に破られないこと。ものがかたくしっかりしていること。また、そのさま。

(7-2)「出丸(でまる)」・・本城から張り出して築いた小城。出城。

(7-3)「備立(そなえだて)」・・兵を配置すること。軍陣をつくること。また、その配置や陣。陣立。

(7-5)<見せ消ち>「取捨置候姿を以故」の「を以」・・「を以」の左に、見せ消ち記号の「ニ」があるので、「を以」は、読まず、「取捨置候姿故」と読む。

(7-6)「蚕食(さんしょく)」・・蚕が桑の葉を食べるように、他国または他人の領域や物などを片端からだんだんと侵してゆくこと。

(7-7)「先轍(せんてつ)」・・前例。

(7-7)「松前伊豆守」・・松前藩主・松前崇広(たかひろ)。文政12年(18291115日松前藩主章広の第六子として松前福山に生まれる。嘉永2年(1849)松前藩主を継ぐ。安政2年(18552月領地は幕府領となり、陸奥梁川に移封。洋式砲術を奨励する。文久3年(1863)以降、寺社奉行・老中格・海陸軍惣奉行・老中・陸海軍総裁を歴任。慶応元年(1865)英・米・仏・蘭公使が兵庫開港を要求、老中首席阿部正外および崇広は勅許を得ずに開港を決し、同年10月老中罷免、謹慎を命ぜられた。翌2(1866)425日没。三十八歳。墓は、松前町松代の法幢寺にある。伊豆守叙任は、嘉永2年(1849729日のこと。

(7-9)「白主(しらぬし)」・・カラフト南部の能刀登呂半島(ロシア名クリリオンスキー半島)南端の集落。寛政2年(1790)に交易所を設けた。蝦夷地からの渡航地でもあった。

(7-910)「二百十日」・・立春から数えて二一〇日目に当たる日。九月一日頃で、稲の開花と台風の襲来とがぶつかる時期なので、農民は厄日として警戒する。

(7-10)「手当」・・あらかじめその用に備えること。また、そのために配置される人。

(8-3)「実備(じつび)」・・実際に役にたつ備え。

(8-3)「当時」・・ただいま。現在。現今。

(8-45)「行届兼候筈無之、強而」・・『蝦夷地廻浦録』には、「行届兼候筈無之」と「強而」の間に「乍去、極寒窮陰之地、風土に馴れ不申候而は、冬分凌方無之」がある。

(8-5)「士分以上」・・『蝦夷地廻浦録』には、「以上」は、「以下」とある。

(8-5)「而已(のみ)」・・漢文の訓読体。「而已」という終助詞にあたる用法で「而(すなは)ち已(や)む」の意

(8-5)「火辺(ほべ・ほへ・かへん)」・・火のそば。暖炉のそば。

 *「火」を「ほ」と訓じる例・・「火影(ほかげ)」「火照(ほて)る」「火群(ほむら)」「火口(ほくち)」など。

 *常用漢字表の「音訓欄」に「ほ」があり、「火影」を例示している。

 *なお、万葉仮名で、「火」は、「ひ」「ほ」と読む。

   **「降雪火影(ほかげ)にきらめきて舞う。あゝ武蔵野沈黙す」(国木田独歩『武蔵野』)

   **「ゐろりの火(ほ)かげに寐所をまうけて臥す」(芭蕉『奥の細道』)

(8-6)「浮腫(ふしゅ)」・・皮下組織内に、組織間液が大量にたまった状態。押すとへこむ。むくみ。

(8-7)「徒(いたづら)に」・・何ら目的、理由、原因などがないのに、物事をしたり、また、状態が進行したりするさまが甚だしいさまを表わす語。むやみやたらに。わけもなく。ただひたすら。

(8-7)「逸居(いっきょ)」・・気楽に遊び暮らすこと。怠けて暮らすこと。

(8-8)「下情(かじょう)」・・劣った心。自分の心や気持を卑下していう。

(8-8)「実功(じっこう)」・・実際の仕事や職務。

(8-8)「時宜(じぎ)」・・時がちょうどよいこと。

(8-8)「勘考(かんこう)」・・よく考えること。思案。

(8-11)「歩卒(ほそつ)」・・徒歩の兵卒。徒武者(かちむしゃ)。足軽。歩士。

1月『蝦夷地見込書秘書』注(1)

                      

*参考文献・・特に引用文献を記さない場合は、『日本国語大辞典』『国史大辞典』『日本歴史地名大系』『日本百科全書(ニッポニカ)』『字通』(いずれもジャパンナレッジ版)、『新潮日本語漢字辞典』(新潮社)、『古語辞典』(旺文社)を参照した。

◎テキスト影印について・・本書の原本は、国立国会図書館所蔵である。影印は、その写本で、全く同一の北海道立図書館と北海道大学附属図書館のふたつの図書館所蔵の『蝦夷地見込書秘書』(以下単に『秘書』)を比べ、適宜、比較的かすれなどの少なく、見やすい影印を選んで使用した。

◎『秘書』の書誌・・テキスト影印の表紙と本文冒頭(P12)に、いつくかの印・付戔がある。これらに触れると、わが国の国立図書館史にもなると思うので、その略史を記す。(国立国会図書館支部上野図書館刊『上野図書館八十年略史』1953参照)

 ①明治5年(18726、文部省達により、博物局書籍館(しょじゃくかん)が東京湯島の旧幕府の聖堂を利用して設置。蔵書は旧昌平坂学問所・和学講談所・医学館・開成学校の引継資料が多かった。

②翌明治6(1873)319太政官達により、博物館・博物局・小石川薬園とともに正院博覧会事務局に合併。

③明治7(1874)729、湯島聖堂が地方官会議の議場に宛てられたために、東京浅草の旧米庫に移転し、翌八月十三日これを浅草文庫と称した。

④明治8(1875)29日、官制上これを文部省に復帰し、蔵書・備品のことごとくを博覧会事務局に移管。

⑤明治8(1875)48、文部省は「東京書籍館(しょじゃくかん)」を再び旧湯島の聖堂に設置、同省所蔵図書をもって閲覧の用に供した。したがって官制・内容ともに新設の図書館となった。明治10(1877)215日閉鎖。その理由は、西南戦争の戦費を得るため最も弱い文化機関を廃止するためであった。

⑥明治10(1877)215、東京書籍館の永井久一郎館長補の働きで、東京府に移管され、「東京府書籍館(しょじゃくかん)」となった。しかし振るわなかった。

⑦明治13(1870)71、再び文部省に復帰、「東京図書館」と称し、市民図書館として成功を得た。

⑧明治18(1885)、東京上野公園内の東京教育博物館内に移転。

⑨明治30(1897)422、同館長田中稲城らの努力によって「帝国図書館」の官制を施行し、同館が帝国図書館となった。

⑩明治39(1896)3月、東京都台東区上野公園の現在の地に新館の一部を建築して移転したが、日露戦争後の不況により建築は完成せず、昭和4年(19298月ようやく増築した。

⑪昭和22(1947)124日政令によって「国立図書館」と改称。

⑫昭和23(1948)29日、国立国会図書館法が公布。

⑬昭和23(1948)65日、国立国会図書館が赤坂離宮を仮庁舎として開館。昭和36(1961)永田町現庁舎に移転。

⑭昭和23(1948)81日静嘉堂・東洋文庫を、翌年41日東京上野の帝国図書館を吸収し、また、各省庁の図書館を支部図書館として全体の構成を整えた。

◎「名古屋県学校」・・「名古屋県」は、明治初期、主として尾張国(愛知県)、美濃国(岐阜県)にあった県。明治4年(1871714日の廃藩置県とともに成立。同5(1872)42日、愛知県と改称されるまで約10ヶ月存続した。(資料1参照)。当初は江戸時代の尾張名古屋藩領から成瀬隼人正家の封土を承継した犬山県域を除く、尾張国愛知・春日井・丹羽・葉栗・中島・海東・海西・知多郡および美濃国の一部などを管轄。4(1871)11月犬山県を併合、同年同月知多郡を額田(ぬかた)県に割く。県庁を名古屋の旧藩臣竹腰(たけのこし)竜若(正旧)邸に設置。4(1871)12月、宇和島県貫属士族井関盛艮が県権令に就任。

 *「名古屋県学校印」・・名古屋県は、明治4年(1871714日~明治5(1872)4月日の間存続した県。この印は、本テキストが「東京書籍館」所蔵以前に、「名古屋県学校」の所蔵であったことが覗える。なお、それ以前の所蔵については、印章からは確定できない。ただ、旧名古屋藩の藩校明倫堂が所蔵していた可能性が高い。明倫堂は、明治2(1869)11月、藩は、職制改革で、「明倫堂」の号を廃して、単に「学校」と称した。この「名古屋藩学校」は、明治4(1871)714日の廃藩置県を受けて、同月27日、廃止になった。(名古屋市役所刊『名古屋市史学芸編』 1915参照)

◎「明治九年文部省交付」・・「文部省」は、明治4年(18717月の廃藩置県直後の同月18日に創設された中央教育行政機関。文部省は、各官庁に貸出していた書籍や、旧藩の藩校旧蔵の書籍を回収して、東京書籍館に交付した。

◎印章から本書の原本の書誌を考察すると、

 ①「名古屋県学校」所蔵(のち愛知県)

 ②明治9(1876)、文部省は、『蝦夷地見込書秘書』を愛知県から回収、「東京書籍館」に交付する。

  ①「東京書籍館(しょじゃくかん)」所蔵。(P2中央の丸印)

②明治13(1870)、「東京図書館」所蔵。(表紙の付戔)

③明治30(1897)、「帝国書図書館」所蔵。(P2中央の角印)

④現在は、「国立国会図書館」所蔵。

(1-表題)「見込書秘書(みこみしょひしょ)」・・「見込書」は、「大体の予想、見通しについて書きしるした文書」。「秘書」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、

 ①秘して、人に見せない書物。秘蔵の本。また、秘伝を書いた書物。

 ②秘密で、重要な文書。機密文書。

 ③天子が秘蔵する書物。宮中の蔵書。

 とあるが、本テキストは、②に当るか。

(2-1)「奉(ほう)」・・献上すること。『蝦夷地廻浦録』(北海道大学附属図書館蔵)には、この「奉」の字はない。

(2-1)「猪俣英次郎」・・安政元年(1854)、村垣与三郎配下の勘定方として、蝦夷地巡検に加わる。

(2-2)「安間純之進(あんまじゅんのしん)」・・北海道立文書館のホームページの「星野家所蔵安間純之進文書」 の「私文書群の作成者に関する情報 」に詳しい経歴が掲載されているので、引用する。

 ・江戸時代後期の幕府の官吏。

 ・1804年(文化元)1019日甲斐国都留郡小沼村(山梨県西桂町)の渡邊家(さきたま屋)に生まれる。

 ・江戸の御家人・玉木家の養子となるが離縁、次いで安間家の養子に入る。

 ・1854年(安政元)、支配勘定のとき、目付堀利煕・勘定吟味役村垣範正に従い、蝦夷地及び樺太に出張。

 ・同年、箱館奉行支配調役、1857年(安政4)、同組頭勤方、次いで組頭を歴任。箱館台場建築の功により将軍から拝領物があった。

 ・1862年(文久2)西丸切手御門番之頭に任ぜられるとともに「永々御目見以上」を仰せ渡され、正式な旗本家となった。

 ・幕府瓦解後は星野家(山梨県大月市)の立て直しに尽力。

 ・1887年(明治201020日死去、享年84歳。

 ・なお、蝦夷地出張の途次、松前藩からの依頼に応じ、箱館に来航したペリーへの対応を、徒目付平山謙二郎、蘭学者武田斐三郎(あやさぶろう)らと共に手助けした。

(2-3)「西蝦夷地」・・松前藩は、自己の支配する範囲を松前(シャモ地・人間地とも通称された)と称し、蝦夷地と区別し、その範囲を、城下を中心として西は熊石付近、東は汐首岬付近までとした。そして蝦夷地には藩の許可なくして和人の往来を禁じて永住を許さず、西は熊石、東は亀田に番所を設けてこれを取り締った。蝦夷地は城下から西行して達する西蝦夷地もしくは上蝦夷地と、東行して達する東蝦夷地もしくは下蝦夷地に分かたれており、寛政十一年(一七九九)幕府が東蝦夷地を直轄した時、箱館付近から襟裳岬を経て知床岬までの間およびその付属の島々を限り、内陸では千歳川筋漁(恵庭市)と斜里山道カンチウシに境杭が立てられた。

続きを読む
記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

drecom_moriyuzi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ