森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

『蝦夷日記』2013.10注 

(174-2)「引取場所小川はし有」・・異本は、「場所」と「小川」の間に、「なり」があり、「引取場所なり小川橋有」に作る。

(174-3)「ベツベツ」・・漢字表記地名「別別(別々)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川名としても記録されている。当地一帯は近代に入り樽前村に包含された。ベツベツ川はシラヲイ場所とユウフツ場所の境界となっていた。現在も、苫小牧市と白老町の境界となっている。なお、別々川上流に「インクラの滝」がある。昭和初期まで「別々の滝」と呼ばれていたが、木材を運ぶ「インクライン」があったことから「インクラの滝」となった。

 *インクラ・・英語の「インクライン(incline)」=「傾斜面」の意=の「イン」を省略した造語。インクラインは、斜面にレールを敷き、動力で台車を走らせて船舶や荷物などを運ぶ装置。一種のケーブルカー。昭和11(1936)、苫小牧から白老にかけての樽前山麓林を管理していた帝室林野局札幌支局苫小牧出張所は、社台台地. のエゾマツ、トドマツ、ナラ、センなど豊富な木材資源 を搬出するため、別々の滝右岸にインクラインを建設した。昭和19(1944)、使用中止になった。

(174-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通

報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(174-5)「サタイ」・・漢字表記地名「社台」のもとになったアイヌ語に由来する地名。社台村は明治初年から大正8年(19193月までの村。白老郡の東側に位置し、西は白老村、東は別々川を境に勇払(ゆうふつ)郡樽前村(現苫小牧市)に接し、北に樽前山(1041メートル)・多峰古峰(たつぷこつぷ)山(661メートル)などがそびえ、南は太平洋に臨む。中央西部を社台川が流れる。明治42年(1909)国鉄室蘭線(現JR室蘭本線)社台駅が開業。

(174-7)「シラヲイ」・・漢字表記地名「白老」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シラヲイ場所は白老川流域を中心に設定された近世の場所(持場)名。シラヲイ場所は西は「フシコヘツ」(現在の登別市と白老町の境の伏古別川)を境としてホロベツ場所、東は「ヘツヘツ川」(現在の苫小牧市と白老町の境をなす別々川)をもってユウフツ場所に接し、南は海に臨み、場所内の海岸線は五里二七町余であったが、かつての西境は「フシコヘツ」のやや東の「カムエシンタ」岬、東境は「ヘツヘツ川」のやや西の「シヤタイ川」で(場所境調書)、場所の領域が東西にやや拡張している。

 白老町の市街地北西にシラヲイ仙台藩陣屋跡がある。国指定史跡で、隣地に仙台藩白老元陣屋資料館と塩釜神社がある。嘉永6年(1853)ロシア使節のプチャーチンが和親通商を求めて肥前長崎に来航、さらにペリー艦隊の来航もあって箱館が開港されることになり、蝦夷地の再直轄が論議され、五五年(安政二年)四月に幕府は仙台藩・秋田藩・盛岡藩・弘前藩・松前藩に出陣を命じ、蝦夷地の警備に当たらせた。仙台藩に対しては、東蝦夷地のシラヲイよりシレトコ(知床)岬に至る一帯およびクナシリ、エトロフ両島を持場とし、元陣屋をユウフツ、出張陣屋をアッケシ、ネモロ(根室)、クナシリ、エトロフに設置するように指示した。仙台藩は三好監物を蝦夷地御用掛に任じ、30人の調査隊を率いて警備地を視察したが、元陣屋は幕府の指示したユウフツを不適地とし、シラヲイが適地であると陣屋見込絵図を添えて藩主に報告した。元陣屋のシラヲイ変更は五六年の春に幕府から許可された。

(175-1)「シラヲイ川」・・白老川。白老町の東寄りを南東に向かって流れ、白老市街の西側で太平洋に注ぐ二級河川。流路延長24.2二キロ、流域面積178.3平方キロ。白老岳(968メートル)の南斜面に発し、上流は川底勾配が急で白老滝や岩を縫うように峡谷の中を急流となって流下し、トドマツ川・赤川・深沢(ふかさわ)川・ポンベツ川を合流、字森野付近から川幅も徐々に広がり、流れも緩やかになる。主要道道白老―大滝(おおたき)線の御料地(ごりようち)橋付近からは幅200メートルの河原になる。河口の西側からウヨロ川・ブウベツ川が海岸に沿って流れ、白老川と合流して海に出るが、河口一帯は各上流から運ばれてきた土砂で砂洲地帯を形成している。

(175-2)「天気、風」・・「天気」は、「天候、空模様」一般のことではなく、「空が晴れていること。天候のよいこと。」という。したがって、「天気、風」とは、「天候はよく晴れているが風がある」くらいの意味。

(175-2)「シキウ」・・漢字表記地名「敷生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現白老町敷生川河口流域の竹浦付近。

(175-4)「シキウ川」・・敷生川。白老町と伊達市大滝との境界にあるホロホロ山に源を発し、毛敷生川合流点から日本製紙社有の取水堰を経て竹浦地区の太平洋に注ぐ。流域には、日本製紙白老工場がある。

(175-5)「メツブ」・・メップ。アイヌ語に由来する地名。

(175-6)「アイロ」・・アヨロ。アイヌ語に由来する地名。現白老町西部・虎杖浜付近。

(175-9)「フシコベツ」・・漢字表記地名「伏古別」のもとになったアイヌ語に由来する河川名および地名。「伏古別川は、登別漁港に注ぐ。フシコベツを境に東はシラヲイ場所、西はホロベツ場所。西岸一帯は近代に入り登別村に包含された。現在も、河口付近は、白老町と登別市の境界となっている。

(175-10)「岡田屋半兵衛」・・恵比須屋半兵衛。恵比須屋は、近江商人岡田弥三右衛門の松前における支店の名称。支配人をもって営業し、文化年間以降は、恵比須屋源兵衛・恵比須屋弥兵衛・恵比須屋半兵衛の名で営業。この時期の恵比須屋半兵衛は、ホロベツ・ムロラン(エトモ)の場所請負人。

(176-1)「ヌフリベツ川」・・登別川。登別市を流れ太平洋に注ぐ二級河川。登別川水系の本流である。上流のカルルス温泉や、支流クスリサンベツ沿いの登別温泉があり、北海道屈指の温泉地となっている。かつては千歳川と呼ばれたことがある。

(176-3)「村雨(むらさめ)」・・にわかに群がって降る雨。激しくなったり弱くなったりして降る雨。にわか雨の類。群雨、叢雨、不等雨とも書かれる。地方によっては夕立の意味に用いられる。

 *<漢字の話>「村」・・「むら(群)」と同語源。「村雨」の「村」は、「群」の当て字ではない。「村」に「むらがる」の意がある。なお、「村」は、現在は、小学校1年生が習う教育漢字になっているが、元来は、「邨(むら)」の異体字。

 *青森県三戸地方で、「村雨」といえば、五月の節供に禁を破って働いたために村に雨が降らなくなることをいう。「村」が文字通り、「村落」の意味に使われている例。

 *「村雨」の語を含む熟語・・

①「村雨の宿」=村雨の降った時、雨やどりする宿。

②「幾村雨(いくむらさめ)」=幾度も降り過ぎる村雨。

③「一村雨(ひとむらさめ)」=ひとしきり降るむらさめ。にわか雨。

④「一村雨(ひとむらさめ)の雨宿(あまやど)り」=ひとしきり降ってくるむらさめを避けようとして、未知の他人といっしょに雨宿りをするのも、深い因縁に結ばれているからだの意。袖振りあうも他生の縁。

⑤「袖(そで)の村雨(むらさめ)」・・(「伊勢物語‐一〇七」の「数々に思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる」による)わが身の上の幸、不幸を思い知らせて降る雨。わが身のさまを知る雨。多く涙にかけていう。

*<雨を「さめ」と訓じること>・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』に<母音ではじまる「あめ」が熟合する際、母音の連続を避けて子音sが挿入された形と見る説が一般的であるが、ほかには「いね」が「うましね」になるくらいで、子音の挿入される例はほとんどなく、「さめ」は「あめ」の古形だという説もある。>とある。

(176-3)「ランボケ」・・漢字表記地名「蘭法華(らんほっけ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り蘭法華(らんほつけ)村に包含された。現登別市札内町・富浦町。明治9年(1876)頃から同一五年15(1882)までの村。幌別郡の東寄りに位置し、東は登別村、太平洋に蘭法華岬が突き出す。西は幌別村。明治3(1870)仙台藩白石領の片倉邦憲の家臣佐野源蔵ほか三戸が入植、同4(1871)の第二回移住でも4戸・11人が入植した。同15(1882)に登別村に合併。

(176-4)「此所山の出岬」・・蘭法華岬。

(176-4)「サルと申」・・不詳。

(176-5)「ヲカシベツ」・・漢字表記地名「岡志別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。登別市の岡志別川河口流域。現登別市幸町付近。

(176-6)「ホロベツ」・・漢字表記地名「幌別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り幌別村に包含された。胆振幌別川河口流域。ホロベツ場所は、現登別市の幌別川流域を中心として設定された近世の場所。西はワシベツ(現室蘭市と登別市の境をなす鷲別川)をもってモロラン場所(もとはヱトモ場所)、東はフシコベツ(現登別市と白老町の境をなす伏古別川)をもってシラヲイ場所に接する。安政元年(1854)再度幕府直轄地となり、ホロベツ場所を巡見した勘定吟味役村垣範正は、ホロベツ請負人の恵比須屋(岡田)半兵衛は松前城下住いで、運上金は三五両、会所一・漁小屋一・蔵三・小屋四があり、アイヌは五三棟・二六四人、当時は鮭三〇〇石目ほどで、「小場所至而困窮場所之由」と伝えている(「村垣淡路守公務日記」安政元年閏七月二四日条)。

(176-8)「ホロベツ川」・・登別市の中央部を南流する二級河川。行政管理上は胆振幌別川という。流路延長17.6キロ、流域面積104.7平方キロ。来馬(らいば)岳(1040.1メートル)の南西斜面を源とし、幌別市街西部で太平洋に注ぐ。

(176-10)「トンケシ」・・漢字表記地名「富岸」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現登別市富岸(とんけし)川流域。

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古文書解読学習会 札幌歴史懇話会主催

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日(10月は、第1)13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。 

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年10月7日(月)

13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター

大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3



◎現在の学習内容

①「ふなをさ(船長)日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています               

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp



 『ふなをさ日記』9月学習の注 (2)

『船長日記巻之三』

(1表紙)「ふなをさ」・・船頭。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

*なお、「ふなをさ日記 地」が張られている、紙を「題簽(だいせん)」という。「題簽」とは、和漢の書籍の表紙の左側又は中央に題名を書いて貼りつける短冊型の紙片あるいは布片。また、その題字のこと。

(1~表紙) 「ふなをさ日記」の下にある丸に星印・・中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印。

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、同年55日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42111日午後6時過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「船長(ふなをさ)日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳。

(1~表紙) 「地)」・・日本の古典籍(こてんせき)、和古書(わこしょ)、和本(わほん)の冊数の数え方の二冊目。本文書は、「天・地・人」の3冊からなっている。

(1~表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。

(1表紙) 「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

(2-3~4)「行て行て」・・「行て」がひとつ重複か。異本は、「行きて」と1回のみ。

(2-4)「猟師たる者」・・「たる」は、違和感がある。異本は、「たる」を「だつ」に作り、「猟師だつ者」とする。

(2-5)「鉄炮(てっぽう)」<漢字の話>「炮」・・①「石偏」の「砲」は、元来は、「礟(ほう)」の異体字。昔、石をはじき飛ばして敵にあてた武器。「火偏」の「炮」は、火(火薬)の力で弾丸を発射させる装置の武器。②旁について・・「鉄砲」の「砲」は、常用漢字なので、「包」で、中は「己」。一方、「鉄炮」の「炮」は、常用漢字でないので、旁の中は、「巳」

(2-5)「渡(わた)り」・・「渡り」は、「わたり」(辺り)で、「渡」を「わた」と読むのは、当て字。

(2-6~7)「おろし捨(すて)」・・下したまま置き去りにすること。

(2-89)「一丈」・・尺貫法による単位で、10尺(3.0303メートル)にあたる。

(3-1)「杓子(しゃくし)」・・飯や汁をすくう用具。汁杓子は円または長円形の頭を中くぼみに削り、柄をつけたもので、ブナなどを用いて木地師の一派が作製する。貝杓子も用いられ、「おかい」とも呼ばれるが、金属製品の普及で衰退している。飯杓子は長円扁平な頭に柄をつける。ほおのき製で、東北地方では「へら」とも呼ぶ。「しゃもじ」は、女房詞が普及したもの。杓子を主婦がもつために、主婦権の譲渡を「しゃくし渡し」とか「へら渡し」という。

 *「じゃもじ」・・「しゃくし(杓子)」の後半の「くし」を略し「文字」を添えた女房詞が一般化したもの。

 *「女房詞(にょうぼうことば)」・・中世に内裏や上皇の御所の女房の間で用いられた言葉。次第に広く公家社会で用いられるようになり、将軍家・大名その他の武家の女性の間でも用いられるようになった。食料品・道具・人事・衣料・神事・仏事・時刻などを表わす各分野の女房詞が多様に使われている。女房詞は近世には上品な言葉と意識され、一般の武家や町家の女性の間にまでも広まるようになった。女房詞は、「―もじ」と「お―(下略)」という造語法を特色とする。前者には「こもじ(鯉)」「すもじ(鮓)」「たもじ(蛸)」などがあり、後者には「おなす(なすび)」「おはま(はまぐり)」「おなま(なます)」などがある。これらの女房詞の中には、

「かもじ」・・「髪(かみ)」「髢(かずら)」「母(かか)」など「か」で始まる言葉の後半を略し、「文字」を添えたもの

②「ゆもじ」・・「ゆ」の音を語頭にもつ語の後半を略して「文字」を添えた女房詞。「ゆかたびら」の後半を略して「文字」を添えたものなど。

③「おひや」・・女房詞「おひやし(御冷)」の略)水。おもに冷たい飲み水。もともとは敬意の高い女性語であったが、江戸時代には単に丁寧な表現として、男女に関係なく一般に使われるようになった。

④「おでん」・・「田楽(でんがく)」の女房詞。

など、のちに女性語となり、男性も使う一般語となったものも多い。なお、御所の女房詞は、現在も宮中の女官用語や尼門跡の言葉としても受け継がれている。女房詞は女性語の歴史の中で特に注目されるものである。(この項はジャパンナレッジ版『国史大辞典』参照)

(3-2)「さましたたる」・・「た」がひとつ重複か。ここは、「さましたる」が正しいか。異本は、「さましたる」に作る。n

(3-3)「獣(け)もの」・・「獣」を文字通り「ジュウ」と読むと、「じゅうもの」となり、語感がよくない。ここは、「獣」のあとに「もの」があるから、「獣」を「け」と訓じ、「けもの」と読むのがいいか。

(3-3)「取(と)らするなり」・・助動詞「なり」は、終止形に接続するから、「取る」の連体形「取(と)らする」は、文法的には誤り。「ここは、文法的には「取らすなり」が正しい。

(3-5)「子丑(ねうし)」・・やや北北東。

(3-5)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

 *<仮名遣いの話>「じかた」か「ぢかた」か。「地」の音読みに漢音の「ち」と呉音の「じ」がある。「現代仮名遣い」(昭和61年内閣告示第1号)では、

(1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」 例 ちぢみ(縮) つづみ(鼓) つづく(続) つづる(綴)
(2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」例 はなぢ(鼻血) そこぢから(底力)

をあげるが、「注意」として、

<次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。例 じめん(地面) ぬのじ(布地) ずが(図画) りゃくず(略図)>

としている。

本書の「地方(じかた)」は、元来呉音にある「じ」なので、「ぢ」としない。「地元(じもと)」「地獄(じごく)」「地酒(じざけ)」「地主(じぬし)」「地雷(じらい)」「地面(じめん)」「地震(じしん)」「布地(ぬのじ)」

「下地(したじ)」なども同様。

(3-6)「碇(いかり)」・・船をとめておくため、綱や鎖をつけて水底に沈めるおもり。・錨とも書き、古代は単に石に綱をつけただけのもので、『万葉集』では「重石」と書いて「いかり」と読ませている。「錨」は、金属のおもり。

(3-7)「陸(りく・おか・くが・くにが・くぬが・くむが)」・・陸地。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「くが」の語誌には、

 <(1)水部に対する陸部を表わす語には、「やま・をか」などもあるが、それらは平地部分とも対になる。一方、「くが」は平地とは対にならず、水部に対する語であり、後には(2)のように海路・水路に対する陸路をさすようにもなる。

(2)語形としては「クムガ」(書陵部本名義抄・色葉字類抄)、「クヌガ」(日本書紀古訓)、「クニガ」(改正増補和英語林集成)などがあり一定しない。語源的には「国(クニ)処(カ)」ともいわれるが、そうだとすると、日本書紀古訓の「クヌガ」は「クヌチ(国内)」などとの類推から作られた語形である可能性もある。>

 とある。

 *<漢字の話>「陸」・・①『漢字源』の解字には、旁の「坴(りく)」は、「土」+「八(ひろがる)」+「土」で、土が高く積って広がるさま、陸は、「阜(おか)」+「坴」で、もりあがって連なる意味を含むとある。

 *なお、「リク」は、漢音。呉音は、「ロク」で、証文や契約書で、改竄(かいざん)や誤解をさけるために「六」の代りに用いることがある。

(4-1)「いゝけれど」・・古文では、「いひけれど」で、「いゝ」は、「いひ」が正しい。異本は、「いひけれど」に作る。

(4-2)「口を引(ひき)て」・・「口」は、「くちなわ(口縄)」の略。牛馬などの口につける縄。

 なお、異本は、「口を引(ひき)てたべ」とある。「たべ」は、「た(給)ぶ」の命令形で、「ください」の意。本書は「たべ」がない。

(4-2)「不通」・・「通ぜず」。ここは、漢文の返読になっている例。

(4-2)「止事(やむこと)を得(え)ず」・・とどまることができない。しかたがない。よんどころない。やむをえない。やむなし。

(4-3)<見せ消ち>「あしく」を「ありく」と訂正・・「し」の左の「ニ」は見せ消ち記号。「ありく」は「歩く」。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ありく」の語誌に

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。>

 とある。

 また、「あるく」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>

 とある。

(4-5)「尻馬」・・他の人が乗っている馬の尻。「尻馬に乗る」は、人の乗っている馬の後部に乗ること。

(4-5)「麦穂(むぎほ・バクスイ)」または、「麦、穂」か。・・「麦穂」は「麦の穂」。

(4-6)「穂に出る」・・現代では、「穂が出る」というように、「穂に」ではなく、「穂が」という。古文では、「穂に出(い)ず」という表現をする。穂となってぬき出る。穂先に実を結ぶこと。「に」は、動作・作用の結果、変化の結果を示す格助詞。

 *「めづらしき君が家なるはなすすき穂出(ほにいづる)秋の過ぐらく惜しも〈高円広成〉」(『万葉集』)

*「ほにいでたる田を、人いとおほく見さわぐは、稲かるなりけり」(『枕草子』)

*「あつしあつしと門々の声〈芭蕉〉二番草取りも果さず穂に出て〈去来〉」(『俳諧・猿蓑』

*「今よりはうゑてだにみじ花すすきほにいづる秋はわびしかりけり〈平貞文〉」(『古今和歌集』)

(4-7)「白壁(しらかべ・しろかべ)」・・白い壁。

 *「白」を「しら」と訓じる例・・「白(しろ)」は、語頭では、「しら」に変化することがある。「白髪(しらが)」、「白和え(しらあえ)」。「白羽(しらは)」、「白樺(しらかば)」、「白魚(しらうお)」。「白玉(しらたま)」、「白洲(しらす)」、「白々(しらじら)しい」、など。

 **「白」を「しら」「しろ」と両方訓じる例・・「白砂(しろすな・しらすな)」、

(4-8)「大手先(おおてさき)」・・城の大手門の前。または、その広場。ここでは「紅毛屋敷」の正面前。

(4-9)「紫羅紗(むらさきらしゃ)」・・「羅紗」は、毛織物の一つ。一般には織目が見えないまでに縮絨(しゅくじゅう)・起毛・剪毛(せんもう)の加工仕上げを行なったものをいう。ポルトガル語のRaxaを語源としている。日本へは南蛮貿易によって、十六世紀後半に舶載され、武将たちに防寒や防水を兼ねた陣羽織・合羽などとして用いられた。特に緋羅紗は猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれて珍重された。江戸時代を通じてオランダおよび中国の貿易船によって、大羅紗・小羅紗・羅背板(らせいた)・ふらた(婦羅多)・すためん(寿多綿)のほか、両面羅紗・形附羅紗・類違い羅紗など多くの品種が輸入されている。武家では火事羽織・陣羽織、あるいは鉄砲・刀剣・槍など武器や挾箱などの調度の蔽布・袋物類、または馬装などに、町人の間では羽織・夜具、下駄の鼻緒などに利用されてきた。(この項『ジャパンナレッジ版国史大辞典』参照)

(4-910)「唐ざらさ」・・輸入品のサラサ。「さらさ(サラサ・更紗)」は、近世初頭から舶載された外国の模様染布の総称。金箔・金泥を施したものは特に金華布・金更紗と呼称する。主として木綿の布に手描き、あるいは型を用いて模様を染めたもので、インド・ジャワをはじめタイ・スマトラ・中国・イラン・ヨーロッパ製のものがある。日本で模倣製作されたものは「和更紗」と呼ぶ。その語源についてはジャワ語のsrasah、ポルトガル語のsarassa,saraçs、スペイン語のSaraza、インド西海岸の要港であったSulatの転訛)、インド南海岸地域の古語saraso,sarassesなどが考えられるが、いずれも確かな証拠はない。(『ジャパンナレッジ版国史大辞典』参照。)

(5-1)「切(きれ)」・・動詞「きれる(切)」の連用形の名詞化。布帛(ふはく)の切れ端。また、広く反物(たんもの)、織物をもいう。

(5-34)「重吉が右の手」・・「重吉が」の「が」は連体格の格助詞。「~の」。ここでは、「重吉の右の手」。

(5-7)「沙汰(さた)」・・報知。報告。通知。消息。たより。また、吹聴すること。「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意で、語源説に「沙(すな)を水で淘(ゆ)り、沙金をえりわける意が転じたもの」がある。

(5-8)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は「馳」の当て字。「馳走」は、(用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(5-11)「入(いる)れば」・・入れれば。下2動詞「入(い)る」の已然形「入(いる)れ」+接続助詞「ば」。

『ふなをさ日記』9月学習の注(1)

            
(90-1)「シツハン」・・ジャパン。マルコ=ポーロ著「東方見聞録」中で日本にあてられた地名「ジパング」から。中国の東1500海里の島で、黄金宝石に富むとされる。ジャパン(Japan )をはじめとして欧米で日本をさす語はこの語に由来する。 

(90-2)「シヤコ」・・異本は、「ミヤコ」に作る。

(90-23)「キウシウ」・・九州か。西海道のこと。筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅の九か国に分けたことによる。

(90-3)「ヱト」・・江戸か。

(90-3)「スルガ」・・駿河か。東海道一五か国の一つ。大化改新のときに成立。天武天皇9年(680)伊豆国を分離。古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設定された。南北朝時代以降は今川氏の領国となり、一時、武田氏に支配された。天正10年(1582)徳川家康が領有。明治4年(1871)の廃藩置県により静岡県に編入。駿州。

(90-3~4)「日本の人にて、何国(いづく)の人にやとたづぬるならんと思ひて」・・(イギリス船の乗組員が、重吉らに)「日本の中のどこの地方の人か」と尋ねるだろうと思って。

(90-5)「遠江(とおとうみ)」・・(都に近いうみ、近つ淡海=ちかつおうみ。琵琶湖=に対し、都に遠いうみ、遠つ淡海=とおつおうみ。浜名湖=のある国の意)東海道一五か国の一つ。大化改新(645年)後、素賀(すが)・久努(くぬ)などの諸国が統合して成立。鎌倉幕府は国守に御家人を任じ、南北朝時代に今川氏・斯波氏が守護となる。のち、今川氏が領有。桶狭間の戦いで今川氏が滅びた後は徳川家康が支配し、江戸時代には浜松・掛川・横須賀・相良の諸藩に分かれた。明治4年(1871)の廃藩置県により堀江県となり、浜松県を経て、同九年静岡県に合併された。遠州。

(90-6)<見せ消ち>「両」を「南」と訂正・・「両」の左にある「ニ」は、見せ消ち記号。

(90-6)「手品」・・手の様子。手のぐあい。手つき。手さばき。手ぶり。

(90-7)「気色(きしょく・きそく・けしき・けしょく)」・・顔面にあらわれた表情。顔色。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「気色」の語誌には、

 <(1)「気色」は、呉音「けしき」と、漢音「きしょく」及びその直音化の「きそく」の三とおりの読みがなされる。「きそく」は平安末期以降用いられ、さらにやや遅れて「きしょく」が中世以降盛んに使用されたが、「きしょく」の多用に伴い、「きそく」は徐々に用いられなくなっていった。

(2)中世以降、〔二〕の用法で「けしき」と「きしょく」(「きそく」は「きしょく」よりさらに意味が限定される)が併用されるが、「けしき」は中古の仮名文学に多用されたため、和語のように意識され、外面から観察される心の様子について用いられる傾向があるのに対し、「きしょく」は漢語的な性質をもち、人の内面の状態そのものを表わすことが多いというおおよその違いがある。>

 とある。

(90-8)「まします」・・異本は「おはします」に作る。ここは、「おまします」の「お」が脱か。「おまします」は、「おおまします」の変化したもの。あるいは、「おわします」の「わ(は)」が「ま」に変化したものか。「ある」「いる」の尊敬語。いらっしゃる。おわします。

(90-10)「仕たれば」・・したれば。「仕」は変体仮名にない。ひらがなの「し」に当てたか。

(90-11)「ランダン」・・ロンドンか。本書は、次に、「オランタ(オランダ)といふ事成べし」とあるが、後に、「ロンドン」としている。(『ふなをさ日記―地』のP8)

(91-2)「紅毛(こうもう・オランダ)」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番・紅毛夷の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

<漢字で「紅毛」と書いてオランダとよませる場合もあり、振り仮名のない場合はどちらとも決めかねることが少なくない。>

とある。

(91-4)「なめり」・・断定の助動詞「なり」の終止形(一説に連体形)が推定の助動詞「めり」を伴うとき音便化して「なんめり」となり、その撥音「ん」が表記されなかったもの。主として外観から判断、推定する意を表わす。…であると見える。…であるらしい。

(91-6)「心悦(よろこ)べ」・・「心悦」は、名詞で「心からよろこぶこと」。ここは、動詞扱いになっているから、「心悦べ」を、「こころよろこ(べ)」と読むと、違和感があり、単に、当て字として、「よろこ(べ)」と、訓じるほうが妥当か。なお、異本は、「喜べ」に作る。

 

『蝦夷日記』2013.9月注


(168-1)<図書館所蔵印>「北海道帝国大学圖書之印」

<北海道大学の略史>

・明治5(1872).4.15・・開拓使仮学校開校(芝・増上寺)

・明治8(1875).7.29・・開拓使、仮学校を札幌に移転、「札幌学校」と改称。97日開校式。

・明治9(1876).8.14・・「札幌農学校」の開校式。(札幌学校からの改称は9月)

・明治40(1907).6.22・・札幌農学校を東北帝国大学農科大学とする。

・大正7(1918).4.1・・北海道帝国大学となる。

・昭和22(197).10.1・・北海道大学と名称変更。

<北海道大学附属図書館の略史>

・明治9(1876).9・・札幌農学校講堂に「書籍室」設置(蔵書6,149冊)

・明治40(1907).6・・「東北帝国大学農科大学図書館」と改称。

・大正7(1918).3・・「北海道帝国大学図書館」と改称。

・大正7(1918).11・・「北海道帝国大学附属図書館」と改称。

・昭和6(1931).12.9・・『蝦夷日記』を巌松堂書店(東京神田・現巌松堂出版)から購入。

・昭和22(197).10・・「北海道大学附属図書館」と改称。

・平成24(2012)331日現在の蔵書・・3788009

(168-2)「アツベツ」・・東蝦夷地サル場所のうち。日高地方西部、厚別川下流右岸の地域。現沙流郡日高町厚賀町。「厚賀」は、明治42(1909)までは、沙流郡厚別村であったが、同年門別村の大字になった。「厚賀」の地名は、厚別と賀張(かばり)の頭文字を取り、明治4年(1871)当地に移住した旧彦根彦根藩士によって名づけられたという。(『門別町史』)

(168-3)「アツベツ川」・・日高管内の西部を流れる川。地元では「あっぺつ」ともいう。中流以降は日高町門別と新冠町との境界をなしながら南西流して太平洋に注ぐ。二級河川。流路延長は42.8キロ、流域面積290.7平方キロ。日高山脈のリビラ山(1291メートル)の西麓に源を発し、初めは日高山系の壮年谷を深く刻みながら西方に向かい、門別町の三和(みわ)地区で流れを南西方から南東方に変える。同町正和(しようわ)集落でピウ岳(1134メートル)西面を水源として門別・新冠の町境を流下してきた里平(りびら)川と合流して南流に転じ、両町の境界に沿って流れ、左岸に新冠町域を流れてきた比宇(ひう)川・元神部(もとかんべ)川などを合せ、元神部川合流地点付近から南西流に戻り、日高町厚賀市街と新冠町大狩部(おおかりべ)との間で海に入る。近代以降は上流奥地の木材伐出しが盛んであった。

 『蝦夷地場所大概書』によれば、当川は「佐留」と「新勝府」の場所境であり、「川守夷人は新勝府より出し、渡船は佐留より」出していた。しかし後には双方から隔年で渡守を出すようになり、『場所境調書』」はその経緯について「往古はアツヘツの西岸を以てなし、其川東にはニイカッフ土人等多く住居いたしたるに、ニイカッフ計にして此川を渡すことを怒り、渡し守はニイカッフより差出候間、船丈をサルにて作り呉候様相談相調ひ、左様に致し居候処、其内此川筋には鹿が多く居る事を知、モンヘツの上より土人等多く山越致しては来り、此上に住し、終に此処の住人となり、当時両所入合に相成候。川も今にては一ケ年交代に渡し守を相勤るよし也」と述べる。

(168-4)「山田や文右衛門」・・山田文右衛門。江戸時代から明治時代前期にかけて、北海道で活躍した事業家の代々の通称。古く松前に移り住んだ旧家と伝えられているが確かなことはわかっていない。明らかなのは文化4年(1807)当時栖原角兵衛が松前藩より請け負っていた留萌場所の支配人として増毛より滝川に通ずる山道を切り開いたのが十五代文右衛門で、能登国羽咋郡志賀町の出身。以前蝦夷通辞だったという。当時樺太・宗谷を舞台として活躍していた同郷阿部屋の下で働いていたらしい。文政4年(1821)太平洋岸勇払場所、翌年隣の沙流場所を、天保3年(1832)にはさらに厚岸場所を併せ請け負い、場所内のアイヌを手不足の場所に出稼させ、新しい漁法を入れて収獲を増加し、また勇払―千歳間に陸路を開き、牛車をもって石狩の鮭を勇払に送るなどの工夫をこらして産をなした。甥の十六代文右衛門は、安政2年(1855)幕府の蝦夷地再直轄に際し、支店を箱館に設けてこれに協力し、同4(1857)箱館奉行より樺太開拓の命を受け、東海岸栄浜近傍に漁場を拓き、元治元年(1864)無事引き上げるまで続けた。有名なのは、開国により昆布が輸出品として有望化したのに着眼、投石による昆布礁の造成によって増産し得ることを実験し、率先して沙流場所に集中的に投石して範を示し、奥地に昆布漁を拡げるための刺戟として役立った。開拓使はこれを高く評価し、明治14年(1881)明治天皇行幸の際には賞状を賜わり、養殖漁業の先駆としてその名を知られた。同16(1883)912日没。墓は石狩郡石狩町の能量寺にある。

(168-6)「フクモミ」・・漢字表記地名「福籾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高町厚賀市街の西を流れる玉水川流域の地名。

(168-7)「ケノマイ」・・漢字表記地名「慶能舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現沙流郡日高町清畑の慶能舞川河口付近。

(168-7)「チヤラセナヰ」・・現沙流郡日高町清畑と同豊郷の間。松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「小休所一棟、此辺砂路至てよろし。出稼小屋海岸に多し」とある。

(169-1)「ハヰ」・・漢字表記地名「波恵」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高町豊郷。波恵川河口付近。

(169-1)「此間小川はし有」・・「小川」は、波恵(はえ)川。現沙流郡日高町豊郷集落の西側。

(169-4)「サル」・・「サル」は、漢字表記地名「沙流」「沙留」「佐瑠」などのもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は「サル」(現沙流川)流域をさし、場所名としても用いられた。当初運上屋(のち会所)はサルベツ河口のサルフトに置かれていたが、一八世紀半ば頃東方のモンベツに移されたが、運上屋(会所)の名前は、そのまま、「サル」と呼ばれたため、地名は、「モンベツ」であるが、「サル」または「サルモンベツ」とよぶ場合もあった。

(169-4)「会所」・・サル場所の運上屋は当初沙流川の河口(サルフト)にあったが、のちにモンベツ(サルモンベツ、現門別町本町)に移った。会所(運上屋)のモンベツ移転時期については、1790年代には運上屋がすでにサルモンベツに移っていたことが確認できる。

(169-78)「此所山の出先也」・・現門別漁港付近をいうか。

(169-8)「馬切(まきり)」・・マキリ。アイヌ語から。小さい刀。

(169-89)「稲荷大明神」・・現門別稲荷神社。

(169-9)「義経大明神」・・寛政11(1799)幕吏近藤重蔵らがモンベツ(門別)とビラトリ(平取)とに寄進した源義経神像を安置するためにモンベツ会所が両所に社祠を造営したことをもって創建とされるが異説も少なくない。義経社はビラトリのほかシノタイ(現日高町門別)にも祀られていた。義経の神像はモンベツの会所近くに祀られる弁天社に合祀されており、神像がヒラトリからモンベツへ移されていたことが知られる。本文書の「義経大明神」は、モンベツ・シノタイにあった。

(169-910)「三社壱つの宮」・・『協和私役』には、「公の祠は会所の後の岡にあり。二祠あり。前は弁天、稲荷、公を配して是を祭る。公の木造一尺余なるを安置す」「後に一祠あり。義経社と云。扁額を掛く。公の像本は此祠に祭るなるべし。人の来り拝せんが為に移して前祠に在らしむ」とある。本文書の「三社」は、サルモンベツの弁天社、稲荷社、義経社をさすか。「壱つの宮」の文意は、義経社は、その1つの社の意か。

(169-10)「ビウトリ」・・平取。漢字表記地名「平取」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(170-2)「奉安鎮(安鎮奉る)」・・「安鎮(あんちん)」は、神仏などを安置して、鎮めること。

(170-3)「モンベツ川」・・日高門別川。沙流郡日高町の中西部に位置する標高337メートルに源を発し、多数の支流と合流しながら門別の中心部を貫流して門別本町市街地で太平洋に注ぐ。流域目mm席99.8平方キロ、流路延長31.1キロの2級河川。

(169-10)「ビウトリ」・・ビラトリ。漢字表記地名「平取」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(170-5)「サルブト」・・漢字表記地名「佐瑠太」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入って佐瑠太(さるふと)村に包含された。現日高町富川。

(170-8)「フイバブ」・・現日高町富川西の太平洋岸。むかわ町との境界付近。現在、フィハップ海浜公園となっている。平成元年(1989)から5(1993)まで、潮干狩り客のため、JR日高本線の「フィハップ臨時駅」が解説された。

(170-10)「ム川」・・漢字表記地名「鵡川」のもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、流域の総称・場所名として用いられ、また河口部のコタン名としても記録されている。

(170-10)「広サ七十間余の大川」・・「大川」は、鵡川。日高山脈北部、上川管内占冠(しむかつぷ)村と同南富良野町の境にそびえる狩振(かりふり)岳(1323.4メートル)の西麓に源を発し、上川管内の南端部から胆振管内東端部にかけて南西に向かって流れる一級河川。流路延長は135五キロで、流域面積は1270平方キロ。上流域に占冠村役場がある小盆地があり、パンケシュル川・双珠別(そうしゆべつ)川を合流後、蛇紋岩の岩脈をうがち、占冠村の赤岩青巌(あかいわせいがん)峡を下る。中流域では胆振かんないのむかわ町穂別市街で夕張山地から南流する穂別川と合流し、沖積低地を曲流して同支庁の鵡川町で太平洋に注ぐ。

 *ところで、「ムカワ」の地名の由来は、アイヌ語の「ムカ」(水が湧くの意)による説がある。また、「ムックアッ」から訛って「ムカワ」になったという。でれば、「鵡川」は、「ムカワ川」あるいは「鵡川川」であるべきと思う。

(171-1)「ムカワブチ」・・ムカワフト。鵡川河口付近。はじめ、鵡川上流部を上ムカワ、下流部を下ムカワと称し、流域全体をムカワと称するとともに、下ムカワの中心地・鵡川河口部をもムカワと呼称した。この狭義のムカワが幕末にムカワフトと称するようになった。明治初年から同6(1873)まで勇払郡のうち、「鵡川フト村」と称し、明治6(1873)「鵡川村」となった。

(171-3)「イルシカベツ」・・漢字表記地名「入鹿別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現勇払郡むかわ町田浦。

(171-5)「アヅマ」・・漢字表記地名「厚真」のもとになったアイヌ語に由来する地名。地一帯は近代に入り厚真村に包含された。現在の自治体名「厚真」は、「アツマ」と清音で読む。

(171-6)「アヅマ川」・・勇払原野の東側を流れる二級河川。厚真町の苫小牧港東港東外防波堤の東側で太平洋に注ぐ。流路延長は52.3キロ、流域面積は382.9キロ。厚真町と夕張市境の夕張山地南部に源を発し、新第三紀層の褶曲作用による台地を横切り、ショウシウシ川・メルクンナイ沢を合せて厚真ダムを造る。さらにショロマ川・鬼岸辺(おにきしべ)川・頗美宇(はびう)川を合流してしだいに流域を広げ、厚真市街付近で北から近悦府(ちかえつぷ)川、東からウクル川などが流入、各河川とも隆起扇状地からなる広い沖積地をつくり、胆振東部の穀倉地帯を形成する。下流部は勇払原野東部の泥炭低湿地で、牧場が点在する。河口右岸の苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所では四基の発電機が稼働し、平成一四年(二〇〇二)七月現在165万キロワットの道内最大の出力を誇る。

(171-8)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧市勇払。「ユウフツ場所」は、寛政11(1799)幕府が東蝦夷地を直轄地とした際、シコツ十六場所をまとめてユウフツ場所とした。

(172-3)「巾三十間余の川」・・勇払川。苫小牧市の北部から東部を流れる二級河川。安平川の支流で、流路延長三七・八キロ、流域面積二一九・四平方キロ。支笏火山群のモラップ山(五〇六・六メートル)東麓の字丸山の奥地に源を発し、市域の北部を横断し、字沼ノ端北部でウトナイ湖から流出して南部に向かう美々川を合流して勇払原野を南流、河口付近で安平川に合流して太平洋に注ぐ。

(172-34)「此所より西蝦夷地●イシカリ川へ山越道なり」・・西蝦夷地(イシカリ場所)と東蝦夷地(ユウフツ場所)の境界は、島松川。

(172-5)「マコマイ」・・漢字表記地名「真小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧西港付近。昭和10年代まで苫小牧川は海岸線に沿って東流し、苫小牧西港の港口付近から太平洋に注いでいた。

(172-8)「トマコマイ」・・漢字表記地名「苫小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り苫小牧村に包含された。松浦武四郎の『山川地理取調図』では「マコマイ」と「ホンコイトイ」「コイトイ」の間に記載されている。なお苫小牧村は、勇払郡に属し、はじめ「苫細村」とかき、明治8年(1875)太政官布告で「苫小牧村」に修正された。

(172-10)「コヱトイ」・・漢字表記地名「小糸魚」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧西部の小糸魚川河口付近。P173にも「コヱトイ」がある。ここは、松浦図の「ホンコヱトイ」をさすか。

(173-4)「タルマイ」・・支笏湖南岸にある風不死(ふつぷし)岳の東に接する活火山。苫小牧市・千歳市・白老郡白老町にまたがる。扁平な円錐型火山で、東方と南方に長い裾野をもつ。頂上部は直径約1.2キロのなだらかな外輪山の内側にあり、浅い火口原の中央に直径約400メートル、比高約130メートルの溶岩円頂丘がある。明治42年(1909)半固結の輝石安山岩質溶岩が古溶岩円頂丘を破壊して出現したもので、世界でもまれな三重式火山。溶岩円頂丘は昭和42年(1967)に道の天然記念物に指定。外輪山の最高点は東山で1023.1メートル、溶岩円頂丘の標高は1041メートルで、樽前山の最高点をなす。風不死岳および支笏湖北西岸に接する恵庭岳とともに、支笏湖を湛えた支笏火山カルデラの寄生火山で、完新世初頭に火山活動を開始した。以後、昭和5354年の小噴火まで、寛文7年(1667)以降のみでも数十回の噴火を繰返す。

(173-6)「ニシタル」・・ニシタップ。漢字表記地名「錦多峰(にしたっぷ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧市錦岡付近。

(173-8)「ヲボフ」・・漢字表記地名「覚生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。苫小牧市西部の覚生川河口付近。現苫小牧市錦岡付近。

(173-10)「南部」・・陸奥の豪族南部氏の旧領地で、現在の青森県東半分から岩手県中部にわたる地域の称。

 蝦夷地には、古くから、南部地方から、出稼ぎに来る人々がいた。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年9月9日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』8月学習の注

(84-1)<くずし字の話>「よく洗(あらい)て」の「よ」・・「よく」の「よ」の1画目の横棒がほとんどないか、「ヽ」になっている場合がある。(『くずし字用例辞典』P1288下段参照)

(84-1)<漢字の話>「釣」・・①常用漢字で、旁の3画目が「一」から「ヽ」になった。「勺」「的」「酌」まど。

              ②常用漢字になっていない字は、「一」のまま。


(84-2)「薬種」・・薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。

(84-3)「とにかくに」・・何かにつけて。得てして。どうかすると。ともすれば。とかくに。

(84-4)「のみ」・・今日では、①「ある事物を取り立てて限定する。強調表現を伴う。…だけ。…ばかり」の意だが、ここは、①の限定の意味合いが薄れ、強調表現のために用いられたもの。ある事物や連用修飾語の意味を強調する。「~が」

(84-4)「ことば通じせね」・・「通じせぬ」は、語調がよくない。異本は「通ぜぬ」と、「し」がない。

(84-5)<くすじ字の話>「見れ共」の「共」・・冠の部分が省略されて、脚の「ハ」だけになっていたり、「ん」のようになっている場合が多い。(『くずし字用例辞典』P84下段)

(85-5)「いとど」・・副詞「いと」の重なった「いといと」が変化したもの。程度が更にはなはだしいさま。ますます。いよいよ。ひとしお。一段と。

(84-6)「午(うま)の時(とき)」・・昼の12時ころ。

(84-67)「給物(たべもの)や出(いず)るらん」・・食べ物が出るだろうか。「や」は、係助詞。結びの推量の助動詞「らん」は「らん」の連体形。「係り結びの法則」といい、文末は連体形で結ぶ。

(84-7)「大きやかなる」・・形容動詞「大きやかなり」の連体形。「やか」は接尾語。大きく見えるさま。

(84-8)<くずし字の話>「真中」の「真」・・冠の部分が「者」のくずし字のようになって、脚の「ハ」が大きくなったり、「つ」のようになっている場合が多い。(『くずし字用例辞典』P735下段~P736上段)

(84-8)「居(す)へて」・・置いて。下2動詞「居(す)う」の連用形。本来ならおくりがなは、「居(す)ゑ」と「ゑ」でであるべきで、「居(す)へ」の「へ」は誤用。「据う」とも。

(84-9)「中に据、」・・影印は、「倨」と、ニンベンになっている。テヘンの「据」の誤りか。ちなみに「倨」は、「おごる・あなどる」の意で、「倨気(キョキ)」(ごうまんな気分)、「倨視(キョシ)」(たかぶって人をみさげる)などの熟語がある。

(84-9)「キヤマン」・・ギヤマン。オランダ語「diamant 」。彫刻をほどこしたガラス製品を「ギヤマン彫り」と呼んだところから。ガラス製品一般をさす。ビードロ。玻璃(はり)。

(84-9)<漢字の話>「庖」・・①「庖」は、常用漢字でないから、脚の3~5画目は、「己」でではなく「巳」。同様に「鞄」(かばん)、「炮」(鉄炮)、「鉋」(かんな)、「咆」(咆える)、「雹」(ひょう・あられ)なども、「巳」

              ②常用漢字になった字は、「巳」から、「己」になった。「包」(つつむ)、「抱」(だく)、「泡」(あわ)、「砲」(鉄砲)、「胞」(同胞)、「飽」(飽きる)


(84-10)「めぐり」・・動詞「めぐる(巡)」の連用形の名詞化。かこみ。周囲。

(84-10)「床几(しょうぎ)」・・室内で臨時に着席する際に用いる一種の腰掛け。脚を打違いに組み尻の当たる部分に革を張り、携帯に便利なように作ったもの。陣中や狩り場などでも用いられた。また、神輿の台などにも使用された。畳床几(たたみしょうぎ)。            

(85-1)「呑(のど)」・・普通は、「喉・咽・吭」などを使う。

(85-2)「かゝる」・・腰かける。

(85-23)「丼鉢(どんぶりばち)」・・厚手で深い陶製の、食物を盛る鉢。なお、「丼」は、「井」の本字。国字としては、井戸に物を投げたさまから、「どぶん」「どんぶり」の音を取って、「どんぶり」の意味を表す。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注に<「丼」には「集韻」に「投物井中声」とあるように、井戸に物を投げいれた音の意がある。名詞ドンブリに「丼」があてられたのは、井戸に物を投げいれたときの音をさす副詞ドンブリに対応する漢語が「丼」であったことによるか。>とある。

(85-3)「もろこし」・・もろこし(唐土)より渡来したところから。イネ科の一年草。アフリカ原産で、日本へは中国を経て渡来し、広く栽培されている。高さ一・五~三メートル。稈(かん)の節に短毛を生じる。葉は線状披針形、長さ約六〇センチメートル。夏、梢頭に長さ二〇~三〇センチメートルの円錐状の花穂をたてる。小穂は卵形で赤褐色。子実は白・赤褐色・黒色など。「もち」と「うるち」の別があり、子実を粉末にして餠や団子をつくる。漢名、蜀黍。たかきび。もろこしきび。とうきび。

(85-4)「ヘケツ」・・本書では、これまで船頭を「べケツ」としているので、「ベケツ」のことか。

(86-1)「円豆(えんどう)」・・空豆。「豌豆」「薗豆」とも書く。

(86-1)「青み」・・青味。吸い物、刺身、焼き魚などのあしらえとして添える青い野菜。

(86-6)「しらげ」・・動詞「しらげる(精)」の連用形の名詞化。米をつきしらげること。玄米をついて精白すること。また、その米。白米。

(86-8)「太白(たいはく)」・・精製した純白の砂糖。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「支那よりは三種白糖を持来る。上品を三盆と云、次を上白、下品を太白と云」という『随筆・守貞漫稿』の用例を引いている。

(87-3)「しひて」・・動詞「しいる(強)」の連用形に助詞「て」が付いてできた語。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(87-6)「残なく」・・残らず。

(87-8)「聞(きか)まほしく」・・聞きたく思って。「まほしく」は、助動詞「まほし」の未然形。「話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。」

(88-23)「気(け)しき」・・様子、有様。

(88-3)<文法の話>「見する」・・「見する」は、「見す」の連体形。ここは、「見す」と終止形が本来だが、連体止めの用法。なお、異本は、「見するを」と、接続助詞の「を」を下接している。「を」は連体形に接続するから、この場合は、「見する」でいい。

(88-4)「切(きり)こなして」・・切って細かくして。「切こなす」は、たくみに所要の形に切る。適宜に切る。

(88-45)<文法の話>「塩漬にしたるにてぞ有ける」・・「有ける」は、終止形では「有けり」。ここでは、係助詞「ぞ」を受けて連体形「ける」で終止する。「係結終止法」という。

(88-5)「浅ましき」・・「浅まし」は、②意外である。驚くべきさまである。②品性がいやしい。がつがつしている。さもしい。などの意があるが、ここでは②か。

 語誌についてジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<平安散文では、思わぬ結果になった後の落胆、失意といった不快な感じを込めている。時代が下がるにつれて、情けない、見苦しい、いたましいといった意が強くなり、近世では貧しい、品性がいやしい、さもしいの意となり、現代語に連なる。>とある。

(88-6)「十五日」・・陰暦正月一五日の朝には、一年中の邪気を払うとして、望粥(もちがゆ)の御膳を供する。古くは米・粟・黍・稗・子(みのごめ)・胡麻・小豆の七種をまぜてたいた粥と、小豆を入れた粥とが行なわれたが、のちには小豆粥だけになった。本文は2月15日だが、その習慣は適用されたのか。

(88-7)「わきて」・・動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(88-9)「今は、神々をおがむ事はできす」・・肉を食すれば、けがれたりとして、神前で拝む事はできない。

(88-11)「いやとよ」・・感動詞「いや(否)」+連語「とよ」から。他人のことばを強く打ち消す時のことば。いやそうではない。

(89-1)「何にまれ」・・「何にもあれ」の変化したもの。事物を非選択的に受け入れる気持を表わす。どんなものでも。どれと限らず。

(89-2)<文法の話>「言聞せける」・・「ける」は、「けり」の連体形。ここは、本来は「言聞せけり」だが、連体止めの形をとっている。

(89-3)「そがそか敷(しく)」・・「そがそがし」は、曾我兄弟が貧に苦しんだところから「曾我」にかけて、貧乏じみたさまや貧弱なさまを表わす語。

(89-5)「あくまで」・・飽きるほど。ここでは、食べ飽きるほど。「あく」は、4段活用「あく」の連体形。副助詞「まで」は連体形に接続する。

(89-6)「漸々(ようよう)に」・・だんだんに。すこしづつ。

(89-7)「ものしたり」・・そのようにした。「ものす」は、名詞「もの(物)」にサ変動詞「する」の付いてできたもの。種々の動詞の代わりとして、ある動作をそれと明示しないで婉曲(えんきょく)に表現するのに用いる。人間の肉体による基本的な動作をさす場合が多く、中古の仮名文学に多く用いられた

(89-10)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は、「馳」の当て字。用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(89-11)「のべて」・・延(の)べて。広げて。「のべて」は、下2動詞「のぶ」の連用形「のべ」+接続助詞「て」。

『蝦夷日記』8月学習注

(162-2)「● より鮭五百本」・・意味不明。異本は、「●尤大鮭五百本」に作る。「より」を「尤」とし、「鮭五百本」の前に、「大」がある。

(162-2)「びん」・・異本は、カタカナで「ピン」に作る。

(162-4)「モヤチコチ」・・松浦図は「チヤシコツ」とある。井寒台と絵笛の間の地名。「チヤシコツ」について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「此所より上に新道有。文化度御切開の由。・・上に城跡と云もの有。形ばかりの土塁にして聊(いささか)ばかり象(かたち)を残す。地名チヤシコツ城跡の事也。是よる字エフイの上を通りてシリヱトへ下る」とある。

(162-5)「ユフイ川」・・松浦図には、「イフイ」とある。「ユフイ」は、漢字表記地名「絵笛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町絵笛。

(162-56)「シリイド」・・漢字表記地名「後辺戸」のもとになったアイヌ語に由来する地名(岬名)。現浦河町浜東栄付近。

(162-6)「ヱウら川」・・異本は、「元ウラ川」に作る。「元」のくずしは、ひらがなの「え」によく似ているので、筆者は、「元ウら川」の「元」を「え」と読み、さらに、カタカナの「ヱ」として、「ヱウら川」としたのではないだろうか。「元浦川」は、浦河町の西部を流れる二級河川。日高山脈の神威岳(一六〇〇・五メートル)に水源を発するシュオマナイ川と、ソエマツ岳(一六二五メートル)に水源をもつソエマツ川が合流する辺りから一般に元浦川とよばれる(河川管理上はソエマツ川筋が本流)。合流点付近からはほぼ南流となり、野深(のぶか)付近から蛇行を繰返し、荻伏(おぎふし)市街を経て太平洋に注ぐ。流路延長四三・五キロ、流域面積二三九・七平方キロ。

(162-78)「ヱ(元)ウら川奥山、続(つらなり・つらなって)蝦夷小屋五十軒余有之」・・「奥山続」は、①「ヱ(元)ウら川奥、山続」。②「ヱ(元)ウら川、奥山続」。③「ヱ(元)ウら川奥山、続蝦夷小屋」などの読み方があるのだろうが、私は、「奥山、続(つづきて・つらなりて)蝦夷小屋五十軒・・」と読みたい。つまり、続いているのは、「奥山」や「山」ではなく、「蝦夷小屋」。元浦河上流には、最近まで、姉茶、野深などのアイヌ人の集落が続いていた。以下、前掲『竹四郎廻浦日記』(安政3年)の記述を表にしてまとめて見る。

 

位置についての記述

地名

蝦夷小屋軒数

川筋は渡し場より少し上(十七丁)

ヒラキウカ

24

此少し上

ヌンヘトウ

3(当時はなし)

又少し上り(凡四丁)

トフシンタリ

13

又少し上りて

フウレトウ

4(今はなし)

又少し上りて

ウエンコタン

3(今はなし)

並て少しまた上に(十丁)

ヤハトル

3(昔5軒有し由)

また少し上りて(十丁)

トウルケシ

2(むかし3軒有)

また少し上に(半里)

ケナシトマラ

むかし有て、今はなし

また少し上に

エヲルウシ

4(昔無かりし処)

又しばし上りて(十丁)

ケナシトマツフ

今はなし(先年3軒有し由)

又少し上りて(半里)

ア子シヤリ(姉茶)

2(昔時は4軒)

又少し上り(八九丁)

コイカヘツ

10(昔は8軒程有し由)

又少し(十二丁)上りて

ヌフカ(野深)

11(昔9軒)

 

合計78軒

 

(162-9)「モトウラカワ」・・かつて当川はウラカワとよばれていた。最下流部の右岸にはウラカワ場所(商場)の運上屋が置かれ、運上屋の一帯もウラカワの地名でよばれていた。しかし一八世紀の九〇年代までに運上屋(会所)は東方の昌平(しようへい)川河口部(ムクチ)に移転、当川やかつての運上屋所在地はともにモトウラカワとよばれるようになった。

(162-10)「惣名(そうみょう)」・・全域。

(162-10)「を●ニウシ」・・異本は、「ヲニウシ」に作る。本テキスト影印は、「惣名を、ニフシ」と読むか、「惣名、をニフシ(オニフシ)」と読むか。

漢字表記地名「荻伏」のもとになったアイヌ語地名。当地一帯は近代に入り荻伏(おぎふし)村に包含された。現浦河町荻伏。明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。浦河郡の南西部に位置し、西はポンニウシ川(伏海川)をもって三石郡鳧舞(けりまい)村(現三石町)に、北は問民(とうみん)村に、東は元浦(もとうら)川をもって開深(ひらきぶか)村に接し、南は太平洋に面する(「浦河町管内図」浦河町史、輯製二十万分一図、「状況報文」など)。近世の史料(「東蝦夷地場所大概書」、「戊午日誌」宇羅加和誌など)にヲニウシ、エカヌウシ(エカニウシ)、モトウラカワとみえる地などからなる。古くはウラカワ場所の会所(運上屋)があり、またミツイシ場所との境界の地でもあった。

(163-3)「小林屋重吉」・・小林重吉。5代前の祖庄兵衛は、陸奥大畑の人で、寛政年間に松前に渡った。その子半次郎の時、箱館に転住。半次郎の子寅五郎が文政年間三石場所請負人となる。重吉は、文政8年(1825)年1月生まれ。幼名を庄五郎という。明治元年(1868)、箱館町年寄を命じられる。箱館戦争の際には、新政府軍に協力し、旧幕軍が海中に張った網索を切断した。彼は、その後も函館の水道工事を行なうなどの功績がある。明治3年(1870)には、西洋形帆船・万通丸を購入したが、北海道での民間人の西洋形船所有の鼻祖となった。また、明治10年(1877)日高の姨布(おばふ)(現三石町)に刻み昆布製造所をたて、輸出の道をひらく。更に、自宅で月謝をとらない夜学校を始めたが、のち、明治12年(1879)には函館商船学校を設立した。明治35年(1902)没。享年77。

(163-4)「ミツイシ会所」・・この「ミツイシ会所」の文字の位置は、不自然で、意味不明。異本は、3行目の「小林屋重吉」と「持」の間にあり、「小林屋重吉ミツイシ会所持」とある。

(163-5)「ケリマブ」・・漢字表記地名「鳧舞(けりまい)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り鳧舞(けりまい)村に包含された。現日高郡新ひだか町三石鳧舞。

(163-5)「巾二十間余川」・・2級河川鳧舞川。

(163-8)「是より山坂通」・・いわゆる鳧舞山道。鳧舞と東蓬莱間の約4キロの山道。

(163-9)「ヲラリ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱付近。

(163-10)「ビセバケ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱。松浦図には「ヘセハケ」とある。

(164-1)「ミツイシ川」・・日高地方の三石を流れる二級河川。流路延長31.6キロ、流域面積159.4平方キロ。セタウシ山(859メートル)から西方向に延びる稜線(静内川との分水嶺)に水源を発し、太平洋に注ぐ。

(164-3)「ミツイシ」・・漢字表記地名「三石」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ミツイシ場所の中心地。武四郎の『山川地理取調図』にはミツイシ川河口付近に「ミトシ」、その西方現姨布川河口までの間に「シヨツフ」「コイトイ」、同河口付近に川を挟んで東に「ミツイシ会所」、西に「ヲハケ」(「ヲハフ」の誤記であろう)、その西に「カシユシラリ」が記載されている。語源はともかくミツイシはミツイシ川河口の地名として発生、やがて河川名・場所名として用いられたことにより会所名ともなり、広域地名化したのであろう。

(164-6)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

 *「見せて下ださいな、免状を、そして下賜(クダサレ)の御時計もネ」(木下尚江著『良人の自白』)

(164-7)「ヲコツナヱ」・・現日高郡新ひだか町三石港町の三石漁港付近の地名。

(164-8)「フツシ」・・ブシとも。漢字表記地名「布辻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。布辻川は、旧静内町と旧三石町の境界であった。

(164-9)「ミツイシかかり」・・「かかり」は、「懸り」「掛り」で、担当の意か。ここは、ミツイシ会所管内という程の意か。

(165-2)「ラシユベツ」・・ウシュッペ。アイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港付近のウシュッペ川河口付近。

(165-2)「チヤツナヱ」・・松浦図には、チヤラセナイとある。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港と元静内の間の地名。

(165-5)「シツナヰ」・・漢字表記地名「静内」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町元静内付近。シツナイ場所は、静内川(シビチャリ川)の流域を中心とするシビチャリ場所と、同川の東方に続く海岸部を中心とするシツナイ場所が、寛政11年(1799)東蝦夷地が幕府直轄地となった際、統合されてシツナイ場所となった。統合後、会所(旧運上屋)は元静内川の河口部に置かれたが、安政6年(1859)頃に捫別(もんべつ)川の河口部(モンヘツのうち)に移転した。なお、現元静内の地は、明治4年(1871)5月、阿波徳島藩の淡路洲本城代家老稲田九郎兵衛邦稙主従一行の上陸地でもある。

(165-5)「萬屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・文化9年(1912)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。シツナイ場所は福山(松前)の阿部屋伝吉が運上金六七三両永五〇文で落札し、翌文化10年(1813)から実施された(新北海道史)。文政2年(1819)からの七年季は松前の万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所を合せて一千四八両二分永一〇〇文で請負い(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)、これにより万屋は日高三地区の基盤を固めた。文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度もそのまま引継がれた。文政9年(1826)の更新期にはシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所は万屋(佐野)専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで、この三場所は万屋専左衛門の独占場所であった(様似町史・静内町史・浦河町史)。

(165-5)「運上金三場所の内」・・「三場所」は、サマニ、ウラカワ、シツナイの事。この三場所の運上金が一緒であることを言う。

(165-8)「モンベツ」・・漢字表記地名「捫別(もんべつ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シツナイ会所は、安政6年(1859)頃に日高郡新ひだか町春立元静内から、モンベツ(捫別)川河口付近に移転した。

(165-9)「モンベツ川」・・捫別川。現日高郡新ひだか町で太平洋に注ぐ2級河川。

(166-1)「ウセナヰ」・・現日高郡新ひだか町春立と東静内の境界付近。谷元旦の『蝦夷紀行』に「ウセナイに休み居る内、番人の囃しに、当春二月廿八日、海上へ氷ながれ来る。厚さ三丈余にて、大さ六七間、或は三四間もあり。山々に登りて見るに、漸海上一面にて際限なきよし。夷人に尋ぬるに、今迄なき事也といふ。海岸の昆布は皆、氷のために根多く絶えたるよし。甚だ奇なる事也」(前掲条)と、当地への流氷の到来についての記述がみえる。

(166-4)「シヒシヤリ」・・シベチャリ。漢字表記地名「染退」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内川河口付近。なお、「シベチャリチャシ跡」が、静内川左岸、河口より五〇〇メートル余り上流の標高約八〇メートルの段丘上にあり、舌状に延びた段丘の先端に位置する丘先式のチャシである。シャクシャインの戦においてシャクシャイン側の拠点と考えられているチャシである。昭和26年(1951)には道指定史跡となり、平成9年(1997)には静内川流域の他の四ヵ所のチャシとともに国の史跡に指定された。松浦武四郎もこのチャシについて板本「東蝦夷日誌」のなかで「ルウトラシ小川チヤシコツ城跡、此処、錫者允(シャクシャイン)の居城なりしと」「金丁文四郎はメナブトに住し(中略)錫者允(シャクシャイン)首長此処に城畳(塁)取立」と記している。

 中央の不動坂チャシが主砦といわれ、ここにアイヌの酋長シャクシャインが拠った。寛文年間(1661~73)染退(しべちゃり)アイヌの酋長シャクシャインと、波恵(はえ、沙流郡日高町門別)アイヌのオッテナ・オニビシの二大勢力が争い、オニビシは松前藩の助力を得て、シャクシャインを討とうとした。シャクシャインは松前藩がアイヌを圧迫して絶滅を企てていると各地に伝えたので、同九年に東西蝦夷地のアイヌが蜂起して乱を起した。松前藩はこれを討ち、シャクシャインの拠るシベチャリのチャシを焼きはらった。

(166-4)「巾四十間余の大川」・・「大川」は、現静内川。静内川は、日高地方、静内町を流れる二級河川。流路延長68キロ、流域面積649.8平方キロ。上流は日高山脈中南部に水源をもつシュンベツ川とメナシベツ川ともよぶ本流の二股に分れ、静内町農屋(のや)付近で合流して南西に流れ、太平洋に注ぐ。河口に静内町市街がある。旧名は染退(しべちやり)川(大正一一年測量五万分一図)で、近世にはシビチャリ、シブチャリ、シフシャリ、シビチャレなどともよび、語意も諸説ある。 

 近代に入り明治4年(1871)阿波徳島藩淡路洲本城代の稲田家が流域に入植、また同5年(1872)には西の新冠川流域にまたがる新冠牧馬場が、当川の中流右岸、現御園の河岸段丘面に開かれ、これらの開発が現在の馬産・酪農、沖積地での稲作の基礎となった。上流が急流で氾濫が多く、明治44年(1911)の八〇町歩の耕地の流失、昭和30年(1955)に静内市街地の入船町全域が冠水した被害などが顕著(静内町史)。

(166-8)「シンヌツ」・・漢字表記地名「真沼津」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新ひだか町静内駒場付近。当地一帯は近代に入り下下方(しもげぼう)村に包含された。当地はニイカップ場所とシツナイ場所の境界となっており、武四郎の『廻浦日記』に「浜道到てよろし凡一里。此処ニイカツフ、シツナイの境目也」とあり、標柱に「三ツ石境フツシへ五里一丁、サル境アツヘツへ三里八丁」とあると記す。現在、新日高町(旧静内町)との境界は、もう少し西。

(166-9)「濱田屋佐次兵衛」・・箱館在住の商人・場所請負人。文化9年(1821)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。ニイカップ場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金一八五両で落札、翌文化10年(1813)明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。

(166-10)「ヲラリ」・・漢字表記地名「浦里」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新冠町西泊津(にしはくつ)付近。

(166-10)「ムイノスケ」・・現新冠町の市街地の地名。松浦図には「モエノシケ」とある。

(167-3)「ニイカツフ川」・・日高地方、新冠町を流れる二級河川。流路延長77.3キロ、流域面積402.1平方キロ。日高山脈中部の幌尻(ぽろしり)岳に水源を発し、南西に流れ太平洋に注ぐ。中・上流域は日高山造山褶曲帯にあって屈曲に富み、諸所に先行谷を造り、険しい急流。下流は新第三紀の丘陵域を直線状に流れて谷底を広げ、三―四段の河岸段丘と沖積地が発達。河口左岸に新冠町市街があり、海岸の丘陵末端に二―三段の海岸段丘が発達する。近世には河口部左岸にニイカップ場所の会所が置かれていた。

(167-5)「ニイカツフ」・・漢字表記地名「新冠」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ニイカップは古くはヒボクといった。ニイカップ場所の範囲については、「東蝦夷地場所大概書」によると、西はアツヘツ(現新冠町と日高町厚賀の境界をなす厚別川)をもってサル場所に、東はシンヌツ(ニイカップ会所元から東へ一里の地点)をもってシツナイ場所に接し、場所内海岸部の路程は三里八町。ただし「場所境調書」によると、シツナイ場所との境界は、もともと、シンヌツ西方のヲラリとシンヌツの間にあったという。文化9(1812)から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合された。当場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金185両で落札、翌10年(1813)から明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。一八二一年(文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。

 なお、ニイカップ会所の位置について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「峨々たる断崖の岬を廻りて砂浜の上に会所一棟・・」とある。

(167-10)「セツブ」・・漢字表記地名「節婦」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでい
ます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年8月12日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

 『ふなをさ日記』7月学習の注   

(78-1)「船の内(なか)」・・異本は、「内」を「中」に作る。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「うち」は閉鎖的な意をもつ「隠る」「籠る」「籠む」「埋もる」などの動詞と共存しやすく、逆に「明示的な中心部」の意をもつ「なか」はそれらと共存しにくい。しかし、こういう「うち」「なか」の区別がいつごろまで続いたかは、はっきりしていない。>とある。

(78-1)「あらためて」・・調べて。「あたたむ」は、①変更を加える。②改善する。③威儀をただす。④禁止する。⑤改易する。⑥新しく別の機会をつくる。⑦取り調べる。検査する。吟味する。などの意味があるが、ここでは⑦.

(78-1)「重吉が手道具」・・「重吉が」の「が」は、連体格の格助詞で、「・・の」。ここは、「重吉の手道具」の意味。

(78-1)「手道具」・・身の回りの小道具や調度。手具足。

(78-2)「やゝ巳の時頃に」・・「やっと巳の時頃に」。「やゝ」は、漢字では「稍・漸」。①次第に。②ちょっと。③しばらくの間。④ややもすると。⑤やっと。などの意味があるが、ここでは、⑤.

(78-2)「巳の時」・・午前10時ころ。なお、影印は、「巳」が「己」のように見える。古文書では、「巳」は、多くは、「己」の形が多い。

(78-3)「黒坊(くろんぼう)」・・黒色人種をいう蔑称。黒人。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「黒坊」の補注に<「信長公記‐一四」の天正九年(一五八一)二月二三日の条に「きりしたん国より黒坊主参り候〈略〉惣の身の黒き事、牛の如く」とあるのが黒人を描写した最も古い文献と思われる。>とある。また、同語源説に、<クロは、セイロン島の地名コロンボ(崑崙)からで、コロンボの人の膚色が黒いところから黒の意に転じた〔日本書紀通証・言元梯・大言海〕。>とある。

 *<文法の話>「黒坊」を「くろんぼう」と読むときの「くろん」の「ん」について・・「黒(色)の坊(主)」。「ん」=「の」。格助詞「の」の変化した語。話しことばで用いる。体言を受け、その体言が下の体言を限定することを示す。

(78-3)「持来(もちきた)り」・・「持」は、「物」の訂正。「物」の左に「ニ」の記号があるが、見せ消ち記号。

(78-4)「午時(うまどき)」・・正午ころ。

(78-4)「さ鉢」・・皿鉢。「浅鉢(あさはち)」の略。浅くて大きな鉢。磁器の浅い鉢。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、語源説に、<(1)アサハチ(浅鉢)の上略か〔大言海〕。(2)沙鉢の義。沙は浅い物をいう語〔和訓栞〕。>を挙げている。

(78-45)「小麦団子」・・小麦粉で作った団子。餡(あん)や甘辛いしょうゆ餡をつけて食べる。

 *<漢字の話>「麥」と「来」・・

①ムギは紀元前十世紀頃、中央アジアから周にもたらされた植物で、周の人々は、これを神のもたらした穀物として珍重し、「来(ライ)」と呼んだ。「来」は、もともと、穂が左右に出たムギを描いた象形文字。「麥」は、それに「夂(足)」をそえたもの。遠くから歩いてもたらされたムギを表す。がんらい、「来」が「ムギ」、「麥」が「くる・もたらす」の意味をあらわしたが、いつしか逆になった。

②「麥」「麦」の部首は、「麥(麦)」。この部首に含まれる漢字に「麩(ふ・ふすま)」、「麹(こうじ)」、「麺(めん)」などがある。なお、大切な食べ物(植物)の漢字は、部首になっている。「米」「豆」はもとろん、「麻」「黍」も部首である。

(78-5)「切もちばかりに」・・切もちほどに。「ばかり」は、程度・範囲を表す副助詞。①ほんの…だけ。②ほど。ぐらい。の意味があるが、ここでは、②。

 なお、影印は、「切もちばかりにに」と「に」がふたつあるように見える。重複か。

(78-6)「蒲鉾(かまぼこ)」・・かまぼこの起源は不明であるが、平安末期すでに「蒲鉾」の名があったことが『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』にみえる。また、「蒲鉾はナマズ本也(もとなり)、蒲(がま)の穂を似せるなり」と伊勢貞頼(いせさだより)の『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』(1528)にあり、植物のガマの穂に似ているところからこの名が出たようである。つまり、当初は後世の焼きちくわのようなもので、ナマズなどの身をすりつぶして竹串(たけぐし)に塗り付けて焼いた。天正(てんしょう)(157392)のころには、すり身を木の板に塗り付けて焼く、板付きかまぼこ(初めは、板かまぼことよんだ)が現れ、在来のガマの穂形のものは、その切り口の形からちくわ(竹輪)とよばれるようになった。江戸時代には、煮て熱を通すようになり、さらに味の抜けない蒸し煮法が一般的となった。原料は白身の魚で、初期にはナマズ、タイが多く用いられた。『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1695刊)には、タイ、アマダイ、ハモを上とし、ヒラメ、キス、ハゼ、イカなどがこれに次ぎ、フカやナマズは下品としている。名産地として仙台(宮城県)、小田原(神奈川県)、富山、大坂、宇和島(愛媛県)、仙崎(山口県)などがあげられ、それぞれ原料や製法に特色をもっている。全国的にサメが使われるほか、仙台ではキチジ、ヒラメ、小田原ではグチ(イシモチ)やオキギスを、大阪ではハモ、宇和島・仙崎ではエソ、グチ、キス、北日本ではタラ類を原料とする。しかし、最近ではスケトウダラからつくった冷凍すり身がよく用いられている。

 蒲鉾は元来既成保存食ではなく、手もちの魚や客人の数などを見あわせてその時々に作った即席料理の一種である。したがって早く火が中まで通る必要があるので、肉は薄い方が喜ばれ、水蒲鉾といわれる位軟かいのが本筋だった。漁業が発達してフカなど安価な魚で大量生産ができ、庶民の経済も向上した江戸時代中期からは既成保存食として重要な位置を占めることとなる。関東の蒸蒲鉾に対して上方に焼蒲鉾が発達したのは、漁港尼崎などで作ったのを京都へ運ぶ途中で痛まないようにしたためだと伝える。

 なお、「かまぼこ」の語源は諸説あるが、ガマ科の植物の花穂(かすい)が鉾(ほこ)の形に似ているところからいう。

(78-8)「臭き」・・

 *<漢字の話>「臭」・・常用漢字で、脚が「犬」から、「ヽ」を取り去り、1画少ない「大」になった。

 『漢語林』の解字を見ると、「犬」+「自」で、「自」は鼻の象形。「犬」は、鼻のはたらきのよい犬の意味。で、におい・においをかぐの意味を表す。「大」では、意味不明になる。

 同様に、「犬」が「大」になった常用漢字を挙げると、

 「戻」・・旧字体は、「戸」+「犬」。元来は、戸口にいる犬の意味から、あらあらしい・もとるの意味。国訓で「もどる」は、意味不明。

 「突」・・旧字体は、「穴」+「犬」。穴から急に犬が飛び出すさまを示す。「穴」+「大」では、意味不明。

 「涙」・・本来は、とぎれずにはらはらとつながる意味。

(78-9)「くわし」・・菓子。発音は、「クヮシ」。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「菓子」の語誌に

 <(1)漢字「菓」の本字は「果」で、木の実の意味。「果子」「菓子」の熟語は中国より日本での使用例の方が古い。一方、古くはクダモノ(木の物の意)という語がほぼ同義で用いられており、「菓子」はクダモノの漢語的表現といえよう。

(2)挙例の「続日本紀‐天平八年一一月丙戌」のように、古くは橘などの果物を指していたが、大陸との交流が盛んになるにつれて、米や麦の粉に甘葛(あまずら)、飴、蜂蜜などを加えて作る団子のようなものが伝わり、「唐菓子(とうがし)」などと呼ばれた。平安時代になると、菓子の意味範囲が広がり、唐菓子や餠類も含めるようになる。

(3)室町時代には、さらに多様化し、茶請けの軽い食べ物の「点心」のほか、練り羊羹、中国から渡来の饅頭などがあり、後半期にはポルトガル・スペインから、カステラ、ボーロ、コンペイトーなどが伝わり「南蛮菓子」と呼ばれた。

(4)江戸時代には日本特有の菓子も発達し、京都の「京菓子」のほか、「煎餠」や「おこし」の類をいう「干菓子」という呼称も用いられるようになった。

(5)明治以降は西洋から、チョコレート、ビスケット、シュークリーム、ケーキなど多くの菓子が入ってくるようになり、「西洋菓子」と呼ばれたが、日本独自の製法も発達し、やがて、「洋菓子」というようになる。それに対して「和菓子」という言葉も生まれた。>とある。

(78-10)「かゆ」・・粥。

(78-11)「かし」・・「・・よ」。間投助詞。終止した文に付き、聞き手あるいは自らに対して念を押し、強調する。中古に現われた助詞で、会話に多く用いられる。

(78-11)「くだんの」・・件の。「くだり(件)」の変化した語。ふつう、「くだんの」の形で連体詞的に用いる。

前に述べた事柄を、読者や聞き手がすでに承知しているものとして、さし示す語。「の」を伴った形で、前に述べた、さっきの、例の、の意に用いる。

(79-1)「はち」・・鉢。

(79-2)「我だに」・・私でさえ。「だに」は、副助詞。さえ。…までも。

(79-3)「いか成(な)らん」・・(推測して)どうであろう。どんなだろう。なりたちは、形容動詞「いかなり」の未然形「いかなら」+推量の助動詞「む」。

(79-67)「ふくらして」・・膨(ふく)らまして。

(79-7)「洗(あらい)ながし」・・釜やおはちについていて、洗う時に流れ出る御飯つぶ。あらい。ここでいう「櫃の洗ながし」は、米櫃に残っているご飯粒。

(79-10)「あくまで」・・飽くまで。もう飽きたと思うほど十分に。これ以上ないというほどに。限りなく。たっぷりと。徹底的に。

(79-10)「な思ひそ」・・どうか思わないでほしい。「な」は、副詞。「な…そ」の形で、動詞の連用形(カ変・サ変は未然形)を間にはさんで、相手に懇願しつつ婉曲に禁止する意を表す。どうぞ…してくれるな。

(80-1)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま。

(80-1)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。不満足ではあるが、やむをえないと考えて、放任・許容するさまを表わす語。まあいい。ままよ。仕方がない。

(80-2)「勝手(かって)」・・建物の中や、場所などのありさま。また、物事のやり方。現代では、とくに、その建物、場所(物事)に慣れていて、そこでの行動のしかた(それに対する対処のしかた)が身についている場合にいう。

(80-5)「人気(ひとけ・ひとげ)」・・人のけはい。人がいそうな様子。

(80-6)「ぶた」・・豚。「ぶ」は、変体仮名「婦」に濁点で、「ぶ」。

(80-7)「ちん」・・狆(ちん)か。狆は、犬の一品種。体重二~三キログラムの小形種。額が広く、眼と鼻が

に一直線に並ぶ。体毛は黒と白または茶と白のぶちで、絹糸状の長毛でおおわれる。奈良時代中国から輸入さ

れ江戸時代に盛んに飼育。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「狆」の項の語誌に

 <江戸時代には仮名表記のほか「狆」という表記も現われた。この字は中国では明・清時代の西南のある少数民族を指す字であったが、それとは別に日本で作られたものか。

特徴的な顔つきからの「ちんくしゃ」や、人になつく性質からの「狆猫婆(ちんねこばばあ)」などの表現が生まれ、体躯が小さいところから「ちんころ」に広く子犬を指す用法も生じた。>とある。

(80-7) 「獣(け)もの」・・「獣」のあとに、「もの」があるから、「獣」は、「け」と読むのがいいか。

(80-7)「庭鳥(にわっとり・にわとり)」・・庭にいる鳥。庭で飼う鳥。鶏(にわとり)をさしていう。

(80-9)「はこ」・・箱。

(80-10)「よりふして」・・寄り臥して。

(81-2)「強(しい)て」・・動詞「しいる(強)」の連用形に助詞「て」が付いてできた語。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(81-6)「ぶた」・・豚。影印は、変体仮名「婦」で、「ふ」。ここは、濁点がない。

(81-8)「かくても」・・「かくて」に強調の意を加えたもの。こういう状態でも。

(81-9)「腹むなしくて」・・腹がすいて。

(81-11)「いたく」・・副詞。形容詞「いたい」の連用形から。程度のはなはだしいさま。ひどく。はなはだしく。ずいぶん。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「いたく」の語誌に、

 <(1)「いたし」は極度である意も表わすが、上代では肉体的・精神的苦痛を表わす例がめだつ。中古に入ると程度のはなはだしさを示す用法は連用形「いたく」にかたよるようになり、これが上代の「いた」の副詞的用法にも通じる副詞となった。

(2)音便化して「いたう」となるが、韻文では後まで「いたく」の形が好んで使われ、特に「いたくな…そ」の禁止表現は、一つの定まった表現のように用いられた。

(3)「いたく」は動作・作用の程度のはなはだしさを表わす語としてもっぱら動詞の修飾に用いられ、形容詞についてその状態のはなはだしさをいう場合は「いと」が使用された。>とある。

(82-2)「手水(ちょうず)」・・(「てみづ」の変化した語)手や顔などを洗い清めるための水。また、洗い清めること。特に、社寺などで参拝の前に手や口を清めること。

(82-3)「左」・・影印は、「右」の左横に見せ消ち記号の「ニ」があり、「左」と訂正している。

 *<漢字の話>「左」と「右」の部首・・

・「左」・・「工(たくみ)」部。脚の「工」は工具の象形。工具を持つひだり手、ひだりの意味を表す。また、左右の手が相互に助け合うことから、たすけるの意味をも表す。

・「右」・・「口(くち)」部。「口」+「又」(音符)。音符の「又」はみぎ手の象形。「口」は、祈りの言葉の意味。神の助けの意味を表す。

(82-3)「大ゆび」・・手足の指のうちで、もっとも太い指。おやゆび。おおよび。おおおよび。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「大指」の項の語誌に、

 <古くはオホオヨビ。後に、重複した母音が脱落してオホヨビに、またオヨビからユビへの変化にともなって、十二世紀頃にはオホユビが一般的となる。中世には、オホユビから音韻が脱落したオユビ、さらに転じたオヨビの形も見られるが、近世に至るまで、親指の名称としてはオホユビが最も一般的であった。>とある。

 さらに、「親指」の項の語誌には、

 <オヤユビは元祿時代頃から例が見えるが、オホユビの勢力も依然強く、節用集類でもオホユビの訓のものが多い。「書言字考節用集」では、「拇」に対し右に「オホユビ」、左に「オヤユビ」と訓を付している。おそらく、当時としてはオホユビを正しいとする意識があったのであろう。明治になって、オヤユビがオホユビを圧倒する。>とある。

(82-4)「人さしゆび」・・食指。

*「食指がうごく」・・食欲がきざす。また、広く物事を求める心がおこる。鄭の子公がひとさしゆびの動いたのを見て、ごちそうになる前ぶれだと言ったという「春秋左伝‐宣公四年」の「子公之食指動、以示子家曰、他日我如此必嘗異味」(子公の食指動く。以て子家に示して曰く、他日、我此くの如く、必ず異味を嘗めり)の故事から。なお、「異味」は、「珍味」で、ここでは、黿(げん=スッポン)のこと。

(82-5)「肩の下」・・異本は、その前に「左右の」とあり、「左右の肩の下」に作る。

(82-5)「ぬかずき」・・額衝、額突。「ぬかずき」は、「ぬかずく」の連体形の名詞化。額を地につけて礼拝する。丁寧に礼をする。「ぬか」は、「額(ひたい)」のこと。古くは「ぬか」だけで礼拝の意味があったらしい。

(82-6)「異国人(いこくびと・いこくじん)の神を拝む・・」・・「異国人の」の「の」は、主格の格助詞で、「~が」。ここは、「異国人」。

(82-8)「時宜(じぎ)」・・時にかなった挨拶をすること。礼儀にかなった挨拶の仕方・作法。辞儀。時義。

(83-1)「二千五百石」・・日本の船の積載量は、奈良時代から米の積載能力の石で表わしたが、室町時代になると「兵庫管領千石船」とか「櫟木善性八百石船」というように、積石数を表面に出してよんだ。ただし、船の石は積載容積ではなく、その容積に相当する米の重量であるから、量制の変化に対応して同じ石でもかなりの相違がある。江戸時代になって統一された公定枡の一石は六・四八二七立方尺で、これに対する米の重量四十貫が積載量の基準となり、明治初期まで使われた。したがって千石積は、載貨重量150トンに相当する。

 だから、「二千五百石」は、375トンになる。

(83-1)「ホーストン」・・イギリス船フォレスター号。

(83-2)「ベケツ」・・フォレスター号船長ビケット。

(83-3)「右筆(ゆうひつ)」・・祐筆とも。筆に長じたもの。文書にたずさわって仕えるもの。文官。武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。ここでは、フォレスター号の書記官くらいの意味か。

(83-5)「ベテツ」・・先には、「ベケツ」とある。異本は、「ベケツ」。

(83-5)「篤実(とくじつ)」・・人情にあつく実直なこと。誠実で親切なこと。

(83-7)「言にき」・・言ってしまった。「にき」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の付いたもの。自分の直接経験として、過去になった事柄、完了した事柄を表わす。…てしまった。すでに…た。

(83-89)「半切(はぎり・はんぎり・はんげり)」・・たらいの形をした底の浅い桶。はんぎり。半桶・盤切。

(83-11)「こそげて」・・刮(こそ)げて。削り落して。「こそぐ」は、物の表面を削る。表面に付着したものを削り落とす。

『蝦夷日記』7月学習の注

(156-1)「六月土用に入」・・陰暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前各一八日間の称。陰陽五行説で四季を五行にあてはめる場合、春・夏・秋・冬を木・火・金・水に配すると土があまるので、四季それぞれ九〇日あるうちの終わりの五分の一ずつを土にあてたもの。春は清明、夏は小暑、秋は寒露、冬は小寒の後、各一三日目に土用入りとなり、一八日で土用が明けて新しい季節が始まる。土用中に土を犯すことは忌むべきこととされ、葬送などはこの期間は延期された。

 たとえば、今年の場合、7月7日が小暑だから、13目の7月19日が土用の入り。

 なお、現在、日高管内のコンブ漁は、漁協の浜ごとのコンブ部会で解禁日が決められるが、7月10日頃から20日前後が解禁日。

(156-2)「目方四千貫目にて石高にいたし百石積り、凡五千石高」・・計算すると、20万貫になる。メートル法換算では、750トン。ちなみに平成24年度の日高管内のコンブ生産は、2941トン(乾燥状態)。

(156-3)「水いしと申名代の昆布」・・「水いし」は、「三石」か。北海道産の昆布としては、松前地方のものが主流であったが、昆布漁場も沿岸に広がり、日高沿岸一帯で生産されるようになった。松前産のものが減少したため、三石産がこれに代わり、日高沿岸の昆布は「ミツイシコンブ」と総称されることとなる。名付け親である宮部金吾博士により、明治35年(1902)に学名となっている。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「こんぶ」の語誌を

 <(1)「本草和名」には「和名比呂女、一名衣比須女」とあるが、ヒロメは幅が広いことから、エビスメは蝦夷(えびす)産が多いことから付けられた名と考えられる。

(2)「色葉字類抄」に「コンフ」、「伊呂波字類抄」に「コフ」とあり、中古末にはすでに「こぶ」「こんぶ」の両称が行なわれていた可能性があり、その併称は今日までつづいている。その語源をアイヌ語とする説もあるが、漢名の音読によるとする説もある。

(3)古く砂金などとともに重要物資として交易されていたが、中世には、海上輸送で若狭の小浜に運ばれて「若狭昆布」、さらに京都で加工が行なわれて「京昆布」と呼ばれた。近世以降は、大阪が昆布の中心地の観を呈するようになった。>と記している。

(156-4)「巾三、四寸、丈五、六間」・・メートル法換算では、巾9センチ~12センチ、丈は9メートル~11メートルになる。ミツイシコンブは、実際には、成長した状態で、幅7~15センチ、長さ2~7メートル。本文書の記述は、長さがちょっとオーバーに書かれているか。縁辺部はゆるやかにうねる程度でほとんど波打たない、中帯部は幅の6分の1と細く、表面の中央部に幅の狭い1本の溝が走るように見える。葉の基部は輪郭が広いくさび形またはほぼ円形である。葉の色は緑色を帯びた黒褐色。

(156-4)「干あげ長サ三尺程也切俵に致し」・・影印は、意味不明。ここは、異本を参考に読点を入れると、「干あげ、長サ三尺程(也)(に)切、俵に致し」がいいか。「也」は不用で、「に」を挿入にして、「干あげ、長サ三尺程に切、俵に致し」がいいか。なお「干」を「亍」としているが、単なる筆の流れか。

(156-5)「京、大坂、中国、九州、長崎迄も積出ス」・・昆布の採取は、江戸時代の徳川幕府による蝦夷地開拓以来盛んになり、昆布を食べる地域も広がっていった。昆布が北海道から各地へ運ばれた道は「こんぶロード」と呼ばれ、北海道で採取された昆布は、江戸時代、北前船を使い、日本海沿岸をとおり西回り航路にて大阪まで運ばれ、さらに、こんぶロードは薩摩藩により、琉球王国を中継地点として清(中国)までのびていった。

 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べてる。関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっている。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるという。(この項日本昆布協会のHP参照)

 *「大坂」・・大阪の地名は、15世紀末に石山別院を建立した蓮如上人の『御文(おふみ)』に「大坂」とあるのが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政名として「大阪」の字を用いるようになった。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』参照)

(156-7)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

(156-10)「俄(にわか)に」・・形容動詞「にわかなり」の連用形。突然に。語源説のうち、私は、「急な事は一、二と分かずの意か〔和句解〕。」が納得。

(156-10)「アベヤキ」・・アイヌ語に由来する地名。現えりも町下笛舞付近。普通河川アベヤキ川下流の地名。

(156-11)「フイマム」・・漢字表記地名「笛舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現えりも町笛舞。

 笛舞村は、明治初年から明治三九年(一九〇六)までの村。幌泉郡の西部に位置し、北西は近呼(ちかよつぷ)村に、南東はアベヤキ川をもって幌泉村に接する。明治四年二月、幌泉詰の開拓大主典関定吉が開拓使本庁に提出した地名の漢字改正案ではブヨマップに「笛舞」の字を当てた。同三九年(1906)、当村など九ヵ村が合併して二級町村幌泉村となった。

(156-11)「此間小川有橋」・・「小川有、橋」か、「小川、有橋」と読むのか。有(ある)のは、小川か橋か。異本は、「小川橋有」に作る。

(157-1)「ホンウエンコタン」・・江戸時代から見える地名。ホロイズミ場所のうち。現えりも町笛舞の笛舞漁港付近。

(157-3)「ニカンベツ」・・アイヌ語に由来する地名。現様似町字旭。普通河川ニカンベツ川河口付近。当地はもとホロイツミ支配所のうちであったが、一八〇一年(享和元年)シャマニ、ホロイツミ両所乙名立会のもとにシャマニ支配所の領域とされた(東蝦夷地場所大概書・場所境調書)。現在もニカンベツ川河口は、両岸とも様似町の区域で、左岸の集落も様似町に属する。

(157-5)「万屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・福山出身の場所請負人。佐野仙左衛門。「万屋」は家号。文政2年(一八一九)から万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシャマニ、ウラカワ、シツナイの三場所を請け負っている。(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)。これにより万屋は日高三場所での基盤を固めた。以後、万屋仙左衛門の名で営業。文政4年(1821)、幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。三場所は文政9年(1826)の更新期から万屋専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで続いた。

(157-5)「シヤマに」・・シャマニ。漢字表記地名「様似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。影印は、「シヤマ」がカタナカで、「に」がひらがな。様似は、近世はシャマニとよばれ、シャマニ場所の会所などが置かれ、同場所の中心地であった。また海防警備上の要所で、一八二一年(文政四年)に蝦夷地が松前藩領に復すると、同藩は幕府領時代を踏襲して当地に警備の勤番所を置き、五五年(安政二年)の再上知後は、シャマニ詰はニイカップからトカチまでを持場とした。シャマニ場所は、一七九九年(寛政一一年)に東蝦夷地が幕府領となって後、ウラカワ場所の東側に設定されていたアブラコマ場所を東西に分割、西半を当場所、東半はホロイツミ場所としたことで成立した。

(157-5)「ボロムイ」・・現えりも町下近浦付近。

(157-7)「ボロマンベツ」・・漢字表記地名「幌満」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字幌満。

(157-8)「是より山道」・・シャマニ場所から東方のホロイツミ場所へ向かう道のうち、ブユガシュマ(冬島)の東方、ヲソフケウシ(現オシクシ)から内陸部に入り、アポイ岳南裾の山中を上り下りし、その間コトニの休所を経てホロマンベツ(現幌満川)に至った山道。様似山道・様似新道ともいった。山道が開かれる以前は海沿いの道を行ったが、ブユガシュマ―ホロマンベツ間の海岸部は海食崖が発達し(現在は日高耶馬渓とよばれる)、この道はテレケウシ、チコシキル、ルランベツとよばれた大難所をはじめ、波が打寄せる岩場を伝う危険な道であった。ルランベツは、山道と海岸結ぶ坂道があり、念仏坂と呼ばれた。寛政10年(1798)に蝦夷地巡察のために派遣された幕府使番で蝦夷地取締御用掛大河内政寿が翌九九年にシャマニに駐留して指揮、配下の中村小市郎らに担当させて同年五月から普請にかかっている。このとき併せてサルル山道が開かれ、またこの年には近藤重蔵がルベシベツ山道を開削している。これらの山道(新道)の完成により、箱館からクスリ(釧路)までの馬による通行が可能になった。

(157-9)「ほろまんべつ川」・・幌満川。日高山脈の広尾岳付近に源を発し、中流には洪水予防と電源用の幌満ダムがある。ダムの下方は幌満渓谷の景勝地、また下流左岸には国指定の天然記念物ゴヨウマツの自生地があるなど、流域一帯は日高山脈襟裳(えりも)国定公園の一部となっている。

(157-10)「ヤワヲイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(157-10)「岩鼻(いわはな)」・・岩の突端。突き出た岩の先端

(158-1)「山坂難所也」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「川を渡りて巌壁の間に爪懸り有ばかりの道の有るを辛ふじて上る也。・・甚難所なりし也。念仏坂と其を言し」とある。

(158-2)「ヲホナイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(158-3)「コトニ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。様似山道の途中にコトニ小休所があった。

(158-4)「フユニ」・・漢字表記地名「冬島」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字冬島。

(158-7)「ふゆか島と申大岩」・・いわゆる冬島の石門。現在は冬島漁港の防波堤の一部になっている。

(158-8)「行きぬけ」・・先へ抜けて出ること。抜け通っていること。また、通り抜けられる所。通り抜け。いきぬき。

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古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年7月8日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp


『蝦夷日記』6月注

(150-1)「ヲイカマイ川」・・オイカマナイ川。「ヲイカマイ」は、漢字表記地名「生花苗」のもとになったアイヌ語に由来する地名としても記録されている。「オイカマナイ川」は、2級河川「生花苗川」。最下流に、生花苗沼が形成されている。なお生花苗沼の内陸部、キモントウ川上流にキモントウ沼、南方1.5キロの海岸沿いに周囲7.5五キロの汽水湖ホロカヤントウ沼がある。

(150-1)「船守(ふなもり)」・・渡し守。

(150-3)「ヲン子ナイ」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「ヲイカマイ」と「ホリカヤニ(ホロカヤントウ)の間に、「ヲン子ナイ」があり、「小休所一棟(八坪)有」とある。現在の晩成温泉付近か。

(150-4)「トウブヰ」・・漢字表記地名「当縁」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町美成。

(150-7)「アヰホシマ」・・『松浦図』には「アエホシマ」とある。現広尾郡大樹町浜大樹。

(150-8)「ヒロツナヱ」・・歴舟川河口付近の地名。現広尾郡大樹町旭浜。『松浦図』には、「ヘルフ子、ベロツナイともいう」とある。歴舟川は、近世の文献には、「ペロツフナイ」(東行漫筆)、「ベロツナイ」「ペロツナイ」(地名考并里程記・観国録)、「ヘルフネ」「ベルフネ」(「協和私役」「観国録」、「戊午日誌」辺留府禰誌)、「ベロチナイ」(辺留府禰誌)など。

「歴舟・レキフネ」という表記・訓は近代に入りまず歴舟(ヘルフネ)と漢字化され、さらに音を転じて歴舟(レキフネ)となったものであろう。

 「歴舟川」は、大樹町を流れる二級河川で、流路延長64.7キロ、流域面積558.5平方キロ。日方(ひかた)川ともいう。日高山脈南部のヤオロマップ岳に源を発して山脈東斜面を流れ、十勝平野最南部に出て太平洋に注ぐ。この間ポンヤオロマップ川・歴舟中(れきふねなか)の川・振別(ふりべつ)川・メム川などの支流を合せる。上・中流は険しいV字状の渓谷をなし、下流は扇状地を形成するとともに両岸に二―三段の河岸段丘を発達させている。昭和62年以降8回(昭和6263年・平成元年・35122122年)環境省の公共用水域水質調査で日本一きれいな河川に選ばれ、また平成8年には国土庁から「水の郷100選」に選定された全長64.7kmの日本一の清流。大樹町は、「清流日本一の町」をキャッチフレーズにしている。

(150-9)「弐ヶ瀬(ふたかせ・にかせ)」・・「瀬」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<①歩いて渡れる程度の浅い流れ。あさせ。②急流。はやせ。③広く、川の流れや潮流もいう。>とある。ここでは、①か。

 *「流の静なる所を淀といひ、深き所を渕といひ、浅き処をといふ」(『小学読本〔1874〕』)

 *転じて、物事に出あうとき。機会。「身をすててこそ浮かぶもあれ」「逢()」。また、置かれている立場。「立つがない」

(150-11)「モンベツ」・・漢字表記地名「紋別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町旭浜。紋別川は、大樹町と広尾町の境界を流れる。

(151-1)「トヨイ川」・・「トヨイ」は、漢字表記地名「豊似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現豊似川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。豊似川は、広尾町北部を流れる二級河川。流路延長37.6キロ、流域面積183平方キロ。日高山脈稜線上のトヨニ岳(1493メートル)東側に発した数条の流れが二股(ふたまた)橋付近で合流して豊似川となって北東へ流れる。上豊似付近でパンケアイアン沢川を合せたのち向きをやや南東に転じ、右岸にカムメロベツ川・カシュンナイ川などを合せながら流れ、海岸平野の農耕地帯を経て太平洋に落ちる。支流はいずれも清澄でヤマベの生息がみられ、またカムメロベツ遺跡・花春内(かしゆんない)遺跡など縄文時代早期から晩期の包蔵地がある。

(151-12)「二タ瀬小さし。都而五ツ瀬有」・・異本は、「二タ瀬、小さき三瀬、都合五ツ瀬」とある。異本の方がわかりやすいか。

(151-4)「ノツカ」・・野塚。野塚川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。「ノツカ川」は、「野塚川」で、日高山脈稜線上の野塚岳(1353メートル)の西面が源流。広尾町エツキサイで太平洋に注ぐ。

(151-6)「ラツコ」・・漢字表記地名「楽古」のもとになったアイヌ語に由来する地名。楽古川河口付近。現広尾郡広尾町会所前。

(151-7)「ラツコ川」・・日高山脈稜線上の楽古岳(1472メートル)の東面が水源。

(151-9)「ヒロウ」・・漢字表記地名「広尾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。トカチ場所の中心地。トカチ場所は、東蝦夷地に設定された場所の一つ。その境は西は「ヒタヽヌンケ」(現広尾町)の川中をもってホロイヅミ場所に、東は「チョクヘツ」(直別川)をもってクスリ場所(初めシラヌカ場所)に接し、南東は海に面する。往古クスリ場所との境は西方の「ヲコツヘ」(現浦幌町)に設定されていたが、役人の通行が増えたため直別(ちよくべつ)川に渡守を置く必要が生じ、クスリ・トカチ両場所のアイヌが隔年で渡守を勤めるようになり、やがて同川がクスリ・トカチ両場所の境目となったという。内陸部シャマニ場所・シツナイ場所・サル場所との境はカモイノホリ岳などのある日高山脈中に、イシカリ場所との境は十勝川最上流の石狩山地中に各々設定されていた。

 設定された時期は不明だが、クスリ場所と同様162040年代とも考えられる。六六年(寛文6(16666月、トカチ場所知行主である松前藩家老蠣崎蔵人広林からトカチ明神社(現広尾町十勝神社)に円空作の観音像(現同町禅林寺蔵)が納められていることから、同年以前にさかのぼるとみられる。

 寛政11年(1799)当場所を含む東蝦夷地は幕府領となり、一八〇二年(享和2(1802)以降は幕府の永御用地となった。これにより直捌制がとられ、箱館奉行はシャマニ(現様似町)に詰合を派遣し、トカチ場所を管轄下に置いた。

 文政4(1821)蝦夷地が松前藩領に復すると、文政8(1825)からは福島屋清兵衛が運上金二〇〇両で請負人となり、天保9(1838)以降はホロイズミ場所も請負ってトカチ・ホロイズミ両場所の請負人となった。天保11(1841)清兵衛から屋号など一切を継承した支配人杉浦嘉七が両場所の請負人となった。

(151-12152-1)「三丁余沖に廻り壱丁余高サ三丈計の大岩」・・現在の十勝港南端の防波堤の一部になっている立岩。

(152-2)「ヒロウ川」・・広尾川。日高山脈を源とする東広尾川(18.0㎞)と西広尾川(16.4㎞)が「青岩」の手前で合流し、太平洋へ流れ込む。

(152-23)「ンムベマモイ」・・『松浦図』には、「フンヘヲナイ」とある。現広尾郡広尾町フンベ。広尾市街から音調津(おしらべつ)に向かう国道336号、通称黄金道路に沿って約3キロ南の地点にある滝。高さ一〇メートル余、幅一五〇メートル。懸崖から数十条の滝が飛沫をあげている。水源は湧水で、道内の滝としては珍しい。「十勝国地誌提要」には「粉辺浜ニアリ 同所海岸ニ発源シ直ニ海ニ注ク 高二丈余巾三間余」とある。かつては豪壮な景観をみせていたが、昭和30年代から懸崖上の高台の林を海産干場造成のため伐採したことによって保水力がなくなり、水量が減少した。融雪時や大雨の時などは往時をしのばせる水量となり、厳冬期は一面の氷滝となる。近年は自然の造形美に加え、銘水として滝水を持ち帰る人もおり、滝の傍らに海難碑が建てられるなど観光地となった。

(152-4)「ヒボロ」・・漢字表記地名「美幌」のもとになったアイヌ語に由来する地名。美幌川河口付近。現広尾郡広尾町美幌。

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『ふなをさ日記』6月学習分注記

(72-1)「さしおきて」・・放っておいて。「さしおき」は、「さしお(差置)く」の連用形。 「さしお(差置)く」は、そのままにしておく。捨てておく。放っておく。「さし」は接頭語。

(72-12)「たび給へ」・・どうか放っておいてくださいませ。「たび給へ」は、「たび(賜)給ふ」の命令形。上位から下位に「与える」「くれてやる」の意の動詞「たぶ(賜)」に、補助動詞「たまう(給)」の付いてできたもの。多く、命令形が用いられる。ここでは、補助動詞として用いる。動詞または動詞に「て」の付いたものにつく。~して下さる。(命令形で)どうか~して下さい。

(72-2)「左(さ)にては」・・そういうことでは。「左(さ)」は、「然(さ)」の当て字。「然(さ)」は、文脈上または心理的にすでに存する事物、事態を、実際的に指示する語。そのように。そんなに。そう。

 室町時代後期になると「さう」の例が見えはじめ、「さ」で表現すべきところを次第に「さう」で表現するようになる。現代では「そう」を用い、「さ」は「さよう」「さほど」などの複合語として残るのみで、単独では用いられない。

(72-3)「汝(なんじ)」・・古くは「なむち」。「な(汝)むち(貴)」の意。対称。上代古くは、相手を尊敬して呼んだ語と推定されるが、奈良時代以降、対等またはそれ以下の相手に対して用いられ、中世以降は、目下の者に対する、もっとも一般的な代名詞として用いられる。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注に、<大国主神の別名が、「大汝」や「大己貴」などと書かれていたり、「卿」「仁」などの文字に対して、古辞書が、キミやイマシの訓とともにナンヂを挙げているところなどから、古くは敬意が含まれていたと考えられる。>とある。

 <漢字の話>「汝」・「女(なんじ)」・・「サンズイ」のない「女」も「なんじ」と読む。「女」は、「汝」の初文で、「女」は、動詞として妻とすること。転じて代名詞として二人称に用いる。代名詞には、のち「汝」を用いる。

(72-4)「きぬつむぎ」・・絹紬。絹織物の一種。柞蚕(さくさん)紡糸または絹紡糸を原料として織ったつむぎ。

(72-4)「御判物(ごはんもつ・ごはんもの)」・・直状(じきじょう)形式の文書の一種類。発給者の判(花押)のある文書で書状以外のものをいう。下達文書という意味で「書下(かきくだし)」と呼んだ。書状と書下との相違は、内容的に書状が純私務に関わるものであるのに対して、書下は差出者の家務の執行に関わる命令を内容とするところにある。また形式的には、書状の書止め(文書の末尾)が「…候、恐々謹言」などとなるのに対して、書下の書止めは「…也、仍状如件」「…之状如件」などとなる点で、書状と書下は区別される。

(72-6)「メ(し)め」・・<漢字の話>「〆」・・多くの漢和辞典は、「〆」を国字としている。『くずし字用例辞典』は、「合字」に挙げている(P1294下段)。「〆」を使う熟語(当て字を含め)に、「〆縄」「〆飾り」「〆鯖」「〆切り」「〆粕」などがある。なお、影印の「メ(し)め」は、2画に見えるが、『漢字源』は、1画の「〆」を「メ」の異体字としている。

 *「〆」を使った固有名詞・・①「〆張鶴(しめはりつる)」・・新潟県、宮尾酒造株式会社の製造する日本酒。平成23酒造年度の全国新酒鑑評会で金賞を受賞。②「〆木(しめぎ)遺跡」・・山梨県南アルプス市下市之瀬(しもいちのせ)にある、甲府盆地西端の市之瀬(いちのせ)川の扇状地上に位置する縄文時代と奈良・平安時代の複合遺跡。③「〆木(しめぎ)遺跡」・・群馬県高崎市多胡(たご)字〆木(しめぎ)にある古墳群の遺跡。

(73-1)「道計(みちばかり)」・・航海士。

(73-2)「両人」・・音吉と半兵衛。

(73-3)督乗(とくせう)丸」・・「督乗」に「とくせう」とルビがある。「せう」は、歴史的仮名遣いで現代仮名遣いでは「じょう」。発音は、「ジョー」

(73-5)「いんぎんに」・・慇懃に。「殷勤」も当てる。心をこめて念入りにするさま。何度も、または、ことこまかにすること。

(73-6)「あふぎて」・・「あふぎ」は、歴史的仮名遣い「あふ(仰)ぐ」の連用形。発音は、「アオギテ」または、「オーギテ」。現代仮名遣いでは、「あおぐ」の連用形「あおぎ」。

 *歴史的仮名遣い・・歴史的かなづかいでは、「あ」に「う」がつづくとき、オの長音に読む。たとえば、「あうむ、会うて」などは「オーム、オーテ」と読む。「ふ」を伴う場合も、「あふぐ(仰)、あふひ(葵)、あふれる(溢)」などを例外としてオの長音に読むことが多い。「あふぎ(扇)、あふみ(近江)」などは「オーギ、オーミ」と読む。なお動詞の「あふ」は、口語としては「アウ」であるが、文語では「オー」と読む習慣が残っている。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、親見出し「あおぐ(あふぐ)」の語誌に、

 <鎌倉時代頃から「あふぐ」と表記したり「あをぐ」と表記したりするというゆれが見える。前者はハ行転呼音によって生じた連母音au(>ao) が長母音化するという音韻変化に従った語形オーグ[u ]であり、後者はアオグ[aou ]であると想像される。前者は、頻度の高い連用音便形がオーイデ、オーイダ[ide, ida ]となり、音韻として確立したばかりの長母音がさらに母音単独音節[i ]に続くためにきらわれ、次第に使われなくなった。連母音ao を保持した後者の語形は、前者との並存を経て優位となり、現在に至っているが、「日葡辞書」には「auogui, u, uoida 」とあり、既に「アオグ」が定着していたことがうかがわれる。>

 とある。

(73-7)「筒袖(つつそで・つっぽ)」・・袂(たもと)がなくて、筒のような形をした袖。また、そういう袖のついた着物。子供の着物、大人のねまき・仕事着などに用いる。削袖(そぎそで)。つつっぽうそで。つっぽうそで。つつっぽう。つつっぽ。

 *北原ミレイは、「石狩挽歌」で、「赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆がさわぐ」と唄う。

(73-8)「聞(きこ)ゆまじ」・・意味が通じない。「聞(きこ)ゆ」」は、意味がわかる。理解できる。納得できる。

*「御歌もこれよりのはことわりきこえてしたたかにこそあれ」(『源氏物語 末摘花』)

*「聞えぬ事ども言ひつつ、よろめきたる」(『徒然草』

*「ハハアなるほどなるほど。きこへました」(滑稽本『東海道中膝栗毛』)

(73-9)「浦賀の切手」・・浦賀奉行の御判物。浦賀奉行は、江戸幕府遠国奉行の一つ。江戸入津船の管理には、元和2年(1616)ごろから下田に番所が設けられていたが、風波の難が多いところから、享保5年(1720)に下田番所を廃して翌6(1721)浦賀にうつした。武家の船では、武器・武具、あるいは婦女、囚人・怪我人をのせ五百俵以上の米・大豆を積んだものは浦賀奉行に申告し、廻船などの商船も、漁船と空船を除いては検査を受けて証印を得ることとなった。

(73-9)「見(み)すれば」・・見せると。構成は、下2段動詞「見(み)す」の已然形「見(み)すれ」+接続助詞「ば」

(73-10)「手品(てじな)」・・手の様子。手のぐあい。手つき。手さばき。手ぶり。

(73-10)「見する」・・見せると。「見す」の連体形。「見す」は、動詞の連用形に助詞「て」を添えた形につき、補助動詞のように用いる。ためしに…して人に示す。

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蝦夷日記5月注

                                         

(143-10144-1)「高サ弐丈五尺余・・立岩あり。都合弐ツあり。」・・現釧路町冬窓床(ブユマ)の沖のローソク岩。

(144-3)「アトイカ」・・漢字表記地名「跡永賀」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路郡釧路町跡永賀(あとえか・あとえが)村。

(144-6)「コンブムイ」・・漢字表記地名「昆布森」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路郡釧路町昆布森(こんぶもり)村。

(144-8)「チヤラシベツ」・・・漢字表記地名「地嵐別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路郡釧路町大字昆布森(こんぶもり)村字地嵐別(ちあらしべつ)。

(144-9)「半道(はんみち)」・・一里の半分。半里。

(144-910)「ベツヲシヤモ」・・漢字表記地名「昆沙門」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路市桂恋のうち。『松浦図』には「ヘツシヤム」とある。現在、釧路市の地名に三津浦があるが、三津浦の地名の由来には、地内のコンブ漁村集落がアイヌ語地名ベッシャム(現昆沙門)、オコツ(現三ツ浦第一)、カンパウシ(現三ツ浦第二)の3つに分かれていたことにちなむという。

(145-1)「大穴あり、汐水打出し古今面白き岩なり」・・この海岸には、岩礁や岩場のところで、海中には奇岩がそそりたち、洞窟のような岩も多く、龍の口に似てることから、「龍神口」呼ばれている。

(145-2)「カツラコヰ」・・漢字表記地名「桂恋(かつらこい)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路市桂恋。「桂恋」を当てるので、アイヌ語ではなく、和語かと思われるが、古くは「カツロコイ」「カチロコイ」ともいい、アイヌ語で、「カツラコイチリ」という鳥が多く集まることに由来するという。(『蝦夷地名考並里程記』)

(145-3)「クスリ」・・漢字表記地名「釧路」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「クスリ場所」は、北海道東部、太平洋岸に設置された東蝦夷地の場所の一。釧路川流域を中心とする。場所境はたびたび変遷し、享和2(1802)以降、西は直別(ちよくべつ)川(現釧路市音別町・浦幌町境)を挟んでトカチ場所、東は厚岸湾に面するモセウシ(現釧路町別太川河口北側)でアッケシ場所に接する。初め西は大楽毛(おたのしけ)川を境にシラヌカ場所に接していたが、享和2(1802)シラヌカ場所がクスリ場所に併合されたことにより西へ拡大。東はアチョロベツ川(現釧路町大字昆布森村)でアッケシ場所に接していたが、さらに東のモセウシに変更された。北のシャリ場所との境は「シャリ領ワツカウイより山え上り、ルウチシと申峠を以て境に相定め候」と斜里岳から藻琴山に続く稜線に設定されていたが、その後ヲタウニが境とされた。アバシリ場所との境はヲンネナイであったが、文化4(1807)のアバシリ越新道開削後ニマンベツ(現大空町女満別)とされた。享保十二年所附には「くすり」とみえている。場所名は「久寿里」とも記された。寛政11(1799)まで松前藩主直営地。177080年代から飛騨屋久兵衛(益郷)が当場所の一括請負経営を行い、天明8年(1788)から再び漁業請負を行った。運上金は初め五〇両(蝦夷草紙別録)、その後一三〇両となり(東蝦夷地場所大概書)、一六〇両に増加した(松前随商録)。享和2(1802)以降は幕府領となる。

文化9(1812)に直捌が廃止されると請負経営が再開され、二二年(文政5(1822)に米屋(佐野孫右衛門)が場所請負人となった。米屋の下で働く漁業者は道南の箱館・松前、下北地方の出身者が多かった。多くは春の鰊漁業、夏の昆布採取、秋鮭漁業に季節的に出稼し、一部は外国船警備や漁業準備のため越年した。1850年代後半は鮭漁業では引網に加え建網(定置網)を導入する時期にあたる。このため河口で鮭が大量に捕獲された結果、クスリアイヌとネモロアイヌがそれぞれ入会漁場としていた西別川の鮭漁をめぐって紛争が起こっている(ニシベツ川一件)。なお松浦武四郎はクスリ場所以東の三場所について「生産は、是実に蝦夷第一等の出嵩といふべし。尚又是に河海魚猟の具を蜜(密)にし、山野開拓の力を施さば、不日にして北海無比の一良国とならん」とその優位性を説いている(板本「東蝦夷日誌」)。明治2年(1869)漁場請負制は廃されるが、佐野孫右衛門は引続き漁場持となり、同9(1876)まで続いた。

(145-10)「クスリ川」・・釧路川(くしろがわ)。釧路地方を流れる一級河川。流路延長154.1キロ、流域面積2510平方キロ。屈斜路湖を水源として、屈斜路カルデラや摩周カルデラが形成されるまでの火山活動に由来する、厚い火山噴出物が地表面を覆う丘陵地帯を南東に流下する。途中で弟子屈町を貫流し、西から鐺別(とうべつ)川が合流する。本流は標茶町内で流れを南西に変え、同町五十石(ごじつこく)付近で釧路湿原に入り、釧路町では湿原の東縁部を流れて、さらに釧路市の市街地を通って太平洋に注ぐ。湿原の北にある丘陵地帯から流下するオソベツ川・ヌマオロ川・久著呂(くちよろ)川・雪裡(せつつり)川などが湿原の中で本流に次々と合流している。釧路川では洪水による被害が度々発生した。その後洪水防止と釧路港への土砂の流入を防ぐことを目的にして、釧路町の岩保木(いわぼつき)から釧路市の新富士(しんふじ)地先に至る延長12キロの人造河川が開削された。現在は平成13年(2001)四月五日付の国土交通省告示によって人造河川のほうを「新釧路川」、市の中心部を流れる川を「釧路川」とよぶことになった。

(146-2)「ベトマイ」・・漢字表記地名「別途前」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「別途前川」は、現在、釧路市星が浦付近のJR根室線に沿って、線路の南側を流れる小川。

(146-3)「此間小川」・・川は、阿寒川か。阿寒川は、阿寒町と釧路市を流下する二級河川。流路延長98.4キロ、流域面積717.9キロ。阿寒国立公園内阿寒町の阿寒湖南東岸から流出、南に流れて飽別(あくべつ)川・徹別(てつべつ)川・舌辛(したから)川・大楽毛(おたのしけ)川などを合流して、釧路市の西部、大楽毛で太平洋に注ぐ。阿寒川は、もとは釧路川に注いでいた。1800年頃のクスリ・シヤリ・シベツ間里程絵図(近藤重蔵蝦夷地関係史料)にはアカン沼(阿寒湖)から流れ出て蛇行しながら流下し、「ヲタノシケ」北東でクスリ(釧路)川に合流する川筋が描かれている。また当川の流路は太平洋岸からオホーツク海岸に抜けるアバシリ山道の一部として活用され、松浦武四郎は安政5(1858)にヲタノシケから阿寒湖へ抜けている(「久摺日誌」など)。下流域には明治17年(1884)・同18(1885)の両年にわたり鳥取県旧士族105戸が移住したが、阿寒川の洪水に悩まされた。いっぽう釧路川河口に近代港湾を修築するにあたって阿寒川と釧路川の分離が計画され、大正7年(1918)に阿寒川の流路を変更し、当時の釧路町別途前(べつとまい)(現釧路市新富士町)で太平洋に注ぐ阿寒新川(新放水路)を開削する工事が完成した。しかし同9(1920)8月に発生した洪水で、阿寒川と大楽毛川の間に掘られていた分水路を本流とする河川に変わり、釧路川から完全に分離した。現在釧路市鳥取大通付近で新釧路川に合流している仁々志別(ににしべつ)川の下流部は、大正7年開削の阿寒川の新放水路にあたる。現在河谷に沿って国道240号(通称まりも国道)が通過、沿線に釧路空港もあり、阿寒国立公園への観光ルートとなっている。

(146-4)「ヲタノシケマフ」・・漢字表記地名「大楽毛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現釧路市大楽毛(おたのしけ。流域一帯は近代に入り、「大楽毛川」以西は庶路(しよろ)村(現白糠郡白糠町庶路)に、以東は釧路郡釧路村(現釧路市)に包含された。

(146-5)「コヱトヰ」・・漢字表記地名「恋問」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現白糠郡白糠町コイトイ。

(146-6)「ツロロ川」・・「ツロロ」は、ショロ。『松浦図』には、「シヨロヽ」とある。「ツロロ川」は、庶路川。白糠町の東部を流れる二級河川。流路延長66.8キロ、流域面積328.7平方キロ。阿寒富士の南西麓の白糠丘陵中に発したコイカタショロ川・コイボクショコツ川が合流して庶路川となり、クッチャロシベツ川・シケレベ川などの支流を集めながらやや南東へ流下し、庶路原野を貫流し、下流域で庶路市街を右曲後東進して太平洋へ注ぐ。河口部ではコイトイ川が合流している。

(146-7)「此所より●シヤリ山越」・・いわゆるアバシリ越新道。現白糠(しらぬか)町の庶路(しよろ)を起点に庶路川を遡行、阿寒(あかん)湖の南岸から西岸に回り、現釧北峠付近のルウチシ(ルチシ)で山を越えて網走川上流へ出、同川沿いに北行、美幌・女満別・網走を経て斜里に至る道。一八〇七年文化4(1807)に新しく整備されて休泊地が定められたため新道とよばれた。アバシリ山道ともいう。『地名考并里程記』は「文化四年卯年八月、西地人馬継立のため、小荷駄馬引越させ候砌、通路いたす」と述べ、経路地と休泊地(チブタナイ、シタカラブト、ヲフイチセナイ、ヌヲン子イ、アバシリヲン子ナイ、カムイショブイ、ヲン子ナイ、シマンベツ、トラブツ、シャリ)をあげ、「シラヌカよりシヤリ会所許迄、行程凡六十里程ある由」と記している。なおヲタノスケ(大楽毛)からの山道がシタカラ(舌辛)でこの道に合流していた。明治期には近呼新道とよばれ、現在は釧北峠付近から美幌までは国道240号、美幌から女満別までは国道39号にほぼ引継がれている。

(146-7)「サクジス」・・漢字表記地名「刺牛(さしうし)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。「サクシヽ」「シヤクシウシ」「サクジヽ」とも。『竹四郎廻浦日記』には、「シヨロベツ」と「シタヌカ」の間に「サシユヽ」がある。現白糠郡白糠町刺牛(さしうし)。

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ふなをさ日記5月注

(66-1)「しめし」・・示。教え。

(66-2)「異国」・・影印の「己」+「大」の字は、「異」の異体字。(『くずし字用例辞典』P703参照)

(66-3)「さる」・・連体詞。動詞「さ(然)り」の連体形から。(前の事柄を受けて)そのような。そういう。

(66-2)「異国」・・影印の「己」+「大」の字は、「異」の異体字。(『くずし字用例辞典』P703参照)

(66-7)「日々(ひび)」・・毎日。

(66-8)「凪(なぎ)」・・国字。ジャパンナレッジ版『字通』には、<「和(な)ぐ」の名詞形。〔万葉〕には「夕薙」のようにしるしており、凪という字は〔文明本節用集〕などに至ってみえる。凩(こがらし)・凧(たこ)なども、みな同じ造字法で、風の省文に従う。卜文では風はもと鵬の飛ぶ形に作り、音符として(凡)(はん)を加え、それがのち風の字となった。>とある。一方、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の親見出し「凪」の項の補注には、<上二段活用動詞「なぐ(和)」の連用形の名詞化したものであるならば、「なぎ」の「ぎ」は上代、乙類音でなければならないが、「朝なぎ」「夕なぎ」の万葉集例は、「ぎ」を甲類音を表わす字で記しているので、四段活用動詞の連用形の名詞化したものである。そこで、水面がなぎ倒されたように平らになることで、「なぐ(薙)」の連用形の名詞化とする説もある。また、「万葉‐六・一〇六二」に「夕薙(ゆふなぎ)」という表記がある。>とある。なお、「風」部の国字には、「六甲颪」の「颪(おろし)」がある。

(66-8)「戌(いぬ)の時」・・午後8時ころ。

(66-9)「ねぶり」・・動詞「ねぶる(眠)」の連用形の名詞化。ねぶること。ねむり。

(66-9)「ねぶく」・・ク活用形容詞「ねぶし」の連用形。

(66-10)「重吉がうしろに」・・「重吉が」の「が」は、連体格の格助詞。「~の」。ここは、「重吉のうしろに」。

(66-11)「装束(しょうぞく・そうぞく)」・・特別な日のために身支度すること。

*<漢字の話>「装」・・「装」の発音は、「ショウ」が漢音、「ソウ」が呉音。「装」を「ショウ」と漢音で読む例は、手元の漢和辞典では、上接語では皆無。下接語で「衣装(いしょう)」のみ。

(66-11)「ひたゝれ」・・「直垂」を当てる。方領(ほうりょう)・闕腋(けってき)の肩衣(かたぎぬ)に袖をつけた衣服。袴と合わせて着用する。元来は庶民の労働着であったものが、平安末期から武士の日常着となり、水干にならって鰭袖(はたそで)・袖括(そでぐくり)・菊綴(きくとじ)が加えられ、鎌倉時代には幕府出仕の公服となり、室町時代には公家も私服とした。また、江戸時代には風折烏帽子をかぶり、袴を長袴として礼服となり、式日の所用とされた。

(67-1)「烏帽子(えぼし)」・・「えぼうし」の変化した語。「烏」は、「からす」。烏塗(くろぬり)の帽子の意。元服した男子の用いたかぶりものの一種。令制の朝服付属の冠に対し、貴賤の別なく、成人の男子の日常不可欠のかぶりものとされた。

(67-1)「ゑぼし」・・「烏帽子」のふりかな(ルビ)に、「ゑぼし」とある。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「語誌」に、<語頭字について「え」か「ゑ」かという論争が江戸時代以降ある。明治時代でも、物集高見、落合直文などは「ゑぼし」とし、大槻文彦は「えぼし」とした(国語調査委員会「疑問仮名遣」)。>とある。

*「ルビ」について

 「ジャパンナレッジ」のコラム「日本語どうでしょう!~知れば楽しくなることばのお話~」に小学館国語辞典編集部編集長の神永暁(かみなが・ぎょう)氏のエッセイ<「ルビ」は英語だが、英語に「ルビ」はない>がある。以下に引用する。

<小学生向けの国語辞典は現在10社ほどの出版社から刊行されているのだが、そのほとんどが総ルビになっている。総ルビというのはすべての漢字に振り仮名が付いているということである。なぜ小学生向けの辞典がそのようになっているのかというと、小学生の間に広まっている「辞書引き学習」に、低学年からも取り組めるようにという配慮なのである。「辞書引き学習」の開発者である深谷圭助氏は、講演会やワークショップなどで必ず「総ルビの辞書を買ってください」と呼びかけている。
 ところがあるとき、会場にいた保護者から「ルビってなんですか?」という質問があった。
 確かに編集に関わっている人間にとっては「ルビ」はふつうに使われる語なのだが、一般の方にはあまり馴染みのない語だったのかもしれない。ましてや、なぜ振り仮名を「ルビ」と言うかなどということをご存じの方は、あまりいらっしゃらないであろう。
 「ルビ」は元来は印刷用語で、振り仮名用の活字の名称だったのである。振り仮名の起源は平安時代初期に漢文に付けた訓点(漢文を訓読するための手がかりとして、漢字の上や脇に書き入れる文字や符号)に始まると言われている。後に漢字の読みを示すために脇に付けた平仮名を「振り仮名」と呼ぶようになり、さらに活版印刷が主流になった明治時代になって「ルビ」とも呼ばれるようになったのである。
 この「ルビ」は英語の「ルビー(ruby)」、すなわち宝石のルビーに由来する。英語ではやはり印刷用語として、5.5ポイントの大きさの活字を「ruby」と呼んでいたのである。
 だが、もちろん英文に振り仮名が存在するわけではない。ではなぜ振り仮名=ルビになったのかと言うと、日本で五号活字(「号」は活字の大きさを表す単位。数が多くなるほど小さくなる。現在はほとんど使われない)の振り仮名として用いた七号活字が、欧文活字のルビーとほぼ同じ大きさだったところからこのように呼ばれるようになったというわけである。あくまでも日本での呼び名なのである。
 だが、手許の国語辞典で「ルビ」を引いてみると、「ルビ」の起源に言及せず、単に「ruby」という英語を示すだけのものがある。英語に「ruby」という語は存在しても、振り仮名の意味ではないのだから、日本独特の「ルビ」の起源について触れる必要があるのではないかと思う。>

(67-1)「の給ふ」・・普通は、「宣(のたま)ふ」。「曰(のたま)ふ」も使われる。動詞「のる(宣)」に四段活用動詞「たまう(賜)」の付いた「のりたまう」の変化したもの。上位から下位へいう、告げ知らせるの意を表わすのが原義。

(67-2)「かならず」・・「かならず」は、「間違いなく」の意味のほかに、特に、否定表現を伴って、確言、強制、確信が、絶対的ではないことを表わす。絶対に…(というわけではない)。きっと(…とは限らない)。ここは、「決して急いで乗るべきではない」。

(67-2)「せき込(こみ)て」・・あわてて。急いで。「せき込む」は、「急(せ)き込む」。心がせいていらだつ。せいて気をもむ。あせる。

(67-3)「給(たま・たも)う」・・①「タ・マ・ウ」と3音で発音しても、②「タ・モー」と2音で発音してもいいかと思うが、②の「タモー」は、ウ音便の例。古文調に発音する場合は、この②のウ音便が使われる。現在でも、関西では、ウ音便になる場合が多い。その例として、「笑(わら)う」が、「ワロー」、「習(なら)う」が、「ナロー」と発音する。なお、『くずし字用例辞典』は、「たもう」とウ音便を採用している。(P825

(67-4)「船玉(ふなだま)」・・船霊、船魂とも。船の守護神。古代から船乗りのあいだで信仰され、はじめ住吉の神を祭神としたが、のちには仏教の影響を受けて神仏混交の形をとり、大日・釈迦如来、聖観音などの諸説も現われ、また船の主要部一二か所にそれぞれ一体をあてて、十二船霊とも唱えるようになった。近世の船霊祭文によると、十二船霊は、舳が馬頭観音、帆が白衣観音、舵が如意輪観音というようにすべて観音とするものや、天照大神・春日大神・北野天神・貴船明神などの神を混ぜるものもあり、船匠の流儀による相違が目立つ。船中でまつるには、帆柱の受材である筒(つつ)の下部に小穴を二つあけ、納物として夫婦雛・髱(かもじ)・麻を左側に、賽(さい)二個・五穀・銭一二文を右側に封入する。これを筒納めまたは神入といい、筒立祝という造船儀礼中最高の行事とされる。

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胸を張って歩く

年をとると、知らず知らずに背を丸めて歩くようになります。妻から、いつも、「おとうさん、胸を張って!目線は水平線より上に!」と注意されました。大事なことだと思います。
シャンとして歩いているお年寄りを見ると、「そうだ。私も」と思い直し、胸を張って歩くようにしています。

古文書学習会のご案内


札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013513日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp


「ふなをさ日記」平成25年4月注

                  

(61-2)「極(き)めし」・・きめた。決心した。組成は、下2動詞「極(き)む」の連用形「極(き)め」+過去の助動詞「き」の連体形「し」。「極(き)む」は、ひろく「決(き)む」と書く。

(61-2)「事ぞなき」<文法の話>・・「ぞなき」の組成は、係助詞「ぞ」+ク活用形容詞「なし」の連体形「なき」。「ぞなし」とせず、「ぞなき」となるのは、係り結びの法則で、「ぞ・なむ・や・か」または「こそ」(係り)に呼応して、その文を終止する述語である活用語が、それぞれ連体、已然の各活用形をとる(結び)現象をさす。「声聞く時秋は悲しき」「柿本人麿なむ歌の聖なりける」「春やときやおそき」「祝ふ今日こそ楽しけれ」など。

(61-23)「とやかく」・「とやかくや」の変化したもの。「と」を伴って用いることもある。雑多な事態を、特定しないまま列挙するのに用いる。非難したり迷惑に思う気持を込める場合が多い。何のかのと。ああだこうだと。あれやこれやと。

(61-3)「するほどに」・・変体仮名は、「春(す)」+「類(る)」+「本(ほ)」+「止(と・ど)」+「丹(に)」

(61-3)文化十二亥」・・文化12年(1815)。年月日の表記には、「年」を省略することは、よ

く見かける。この年の干支は「乙亥(おつがい・いつがい・きのとい)」

*<漢字の話>「乙」・・「オツ」は呉音、「イツ」は漢音。

            ①「乙鳥(いっちょう)」・・燕のこと。燕の元の字は乙(いつ)で、

             字の形と音とが似ているところから「乙」を通用する。

            ②「乙夜(いつや)」・・今の午後10時前後の2時間。または10

              以降の2時間。

            ②「乙夜之覧(イツヤのラン)」・・天子の書見。天子は昼間政務で

             忙しく、夜10時過ぎに読書するからいう。乙覧。

(61-3)「正月元日」・・「元日」は、一年の最初の日、つまり1月1日だから、「正月元日」とい

 う 言い方は、「列車に乗車する」と同じ言い方で、正しくない。ここは、「文化十二亥元日」

で、「正月」はいらない。なお、「正月」は、一年の初めの月。古代中国では帝王が新しく国を

たてると、暦を改めた。陰暦正月は夏の時代の暦の正月に基づく。夏暦は十二支の寅の月、殷は丑の月(十二月)、周は子の月(十一月)、秦は亥の月(十月)を正月と定めた。漢代以降清代まで夏暦が用いられ、この暦がわが国に伝来された。寅の月は孟春の季節にあたり、春を一年の最初とするわが国の習俗と合致し、正月は年頭であるとともに初春という意識を形成した。

また、「正月」の語源説に、<政治に専念した秦の始皇の降誕の月であるところからセイグヮツ(政月)といっていたものが、「正月」と書かれるようになり、音が改められたもの>(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)がある。

*<漢字の話>「元日」・「がんじつ」と読むと、「がん」は呉音、「じつ」は漢音。熟語を音読する場合、上下とも漢音、上下とも呉音に読むのが普通である。このように、漢音・呉音を混交して音読する例も往往ある。

たとえば、「言語」の「げんご」と読めば、上は漢音、下は呉音。

(61-4)「思安」・・思案。思いめぐらすこと。深く考えること。また、その考え。「安」は当て字。

(61-5)「終(つい)に」・・行為や状態が、最終的に実現するさまを示す。最後に。とうとう。結局。いよいよ。

 *<漢字の話1>「終」・・国訓には、普通は「おわ(る)」「おえ(る)」が多い。そのほか、

         ①「つい」・・「終(つい)の別れ」「終(つい)の住処」

               「卑怯な私は、終(つい)に自分で自分をKに説明するのが厭になったのです」

               (漱石『こゝろ』)

         ②「おおせる」・・「逃げ終(おお)せる」

                「其不思議のうちには、自分の周囲と能く闘ひ終(おお)せたものだといふ

                誇りも大分交ってゐた」(漱石『道草』)

         ③「しまう」・・「これでお終(しま)いだ」「終(しま)い湯」

                「新開地は店を早く終(しま)ふので此店も最早(もう)閉っていた」(国

                 木田独歩『竹の木戸』)

 *<漢字の話2>「終」・・解字は、甲骨文は象形で、糸の両端を結んだ形にかたどり、糸の結びめ、おわちの意味を表す。篆文は季節の終わりの「冬」に糸を付した。

(61-5)「命のさかひ」・・死ぬか生きるかの分かれ目。命の瀬戸。

(61-5)「とらず」・・「ず」は変体仮名の「須」。

(61-5)「弥(いよいよ)」・・「弥」は、国訓で、「いや」<「弥栄(いやさか)」「弥増(いやまし)」>、「いや」、「いよいよ」と読む。「いよいよ」は、「愈」「愈愈」「愈々」「弥弥」「弥々」とも書く。

(61-6)「付たる」・・変体仮名は、「た」は「多」、「る」は、「流」。

(61-7)「去(さる)にても」・・然るにても。組成は、ラ変動詞「さり(副詞「さ」にラ変動詞「あり」の付いた「さあり」が変化した語)」の連体形「さる」+連語「にて」+係助詞「も」。そうであっても。それにしても。それはそれとしても。

(61-7)「すぢ」・・筋。おもむき。ようす。さま。「助るすぢ」は、助かるようなこと。

(61-8)「ぞかし」・・文末にあって強調を表わす係助詞「ぞ」に、間投助詞(一説、終助詞)「かし」が付いたもの。自己の考えを強く聞き手に向かって主張し、みずからも確認する気持を表わす。…なのだよ。「人の命ぞかし」は、「人の命であることよ」。

 *「多くの人殺してける心ぞかし」(『竹取物語』)

*「この住吉の明神は、例の神ぞかし」(『土佐日記』

*「ここは常陸の宮ぞかし」(『源氏物語』)

*「その程を尋ねてし給ふぞかし」(『堤中納言物語 虫めづる姫君』)

*「夏の蝉の春秋を知らぬも有ぞかし」(『徒然草』)

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蝦夷日記25年4月注

(138-4)「コヨヲノ先」・・「コヨヲ」は、「珸瑶瑁(ごようまい)」。「珸瑶瑁(ごようまい)村」は、明治5年(1872)から大正4年(1915)までの根室国花咲郡の村。歯舞村の東、根室半島の東端部に位置し、東端に納沙布岬がある。北側は根室海峡、南側は太平洋に臨む。珸瑶瑁海峡を挟んで北東に浮ぶ歯舞諸島(水晶島・秋勇留島・勇留島・志発島・多楽島)は当村に所属した。大正4年(1915)友知(ともしり)村など五村と合併し二級町村歯舞村となる。現根室市珸瑶瑁(ごようまい)・豊里・温根元(おんねもと)・納沙布(のさつぷ)・水晶島。また、「珸瑶瑁村」は、歯舞諸島の秋勇留島(あきゆりとう)・勇留島(ゆりとう)・多楽島(たらくとう)・志発島(しぼつとう)も所属していた。なお、納沙布岬と水晶島の間の海峡を「珸瑶瑁(ごようまい)水道」という。

(138-7)「此アツウシベツより直に山道に相掛り」・・別海から厚岸へは、ほぼ現国道44号線沿い(風連川支流の姉別川沿い)が普通の行路であった。「山道」とあるが、険しい道ではない。ここは、「海岸道」でなく、「内陸部の道」程の意味か。寛政11年(1799)、幕府は、蝦夷地を直轄地にすると、交通路の整備を行った。『新厚岸町史』によると、風連湖畔のアツウシベツから厚岸までについていえば、風連川を利用する道で、アツウシベツからノコベリベツ間の山道を整備した。さらにベカンベウシ川から舟で厚岸に出た。旅宿所をアンネベツ(姉別)とノコベリベツに建てている。

 なお、近代の道路・鉄路にふれると、大正6年(1917)厚岸町真竜(しんりゆう)から同町糸魚沢(いといざわ)、茶内を通り野付郡別海までの道路が開削され、同8年(1919)11月には、官設鉄道根室線(現JR根室本線)の厚岸―厚床(現根室市厚床)間が開通して、交通の便が大きく改善された。

(138-8)「レン子クル」・・松浦武四郎『竹四郎廻浦日記』に、「カムイチセンヘツ」と「イソマヘツ」の間に、「リヱニクル」がある。現根室市明郷(あけさと)付近。

(138-9)「ライベツ」・・風連川支流のライベツ川流域。松浦武四郎『竹四郎廻浦日記』に「此処より山道四里半にて南海岸フウテシユマ江道有り」とある。アツケシとネムロを結ぶ風連川沿いの交通の要路。

(138-10)「コタンアンベツ」・・風連川中流域。現厚岸郡浜中町姉別原野付近。

(139-2)「山田屋文右衛門」・・アッケシ場所請負人の山田文右衛門。文右衛門について、ジャパンナレッジ版『国史大辞典』を引用する。

 「江戸時代から明治時代前期にかけて、北海道で活躍した事業家の代々の通称。古く松前に移り住んだ旧家と伝えられているが確かなことはわかっていない。明らかなのは文化4年(1807)当時栖原角兵衛が松前藩より請け負っていた留萌場所の支配人として増毛より滝川に通ずる山道を切り開いたのが十五代文右衛門で、能登国羽咋郡志賀町の出身。以前蝦夷通辞だったという。当時樺太・宗谷を舞台として活躍していた同郷阿部屋の下で働いていたらしい。文政4年(1821)太平洋岸勇払場所、翌年隣の沙流場所を、天保3年(1832)にはさらに厚岸場所を併せ請け負い、場所内のアイヌを手不足の場所に出稼させ、新しい漁法を入れて収獲を増加し、また勇払―千歳間に陸路を開き、牛車をもって石狩の鮭を勇払に送るなどの工夫をこらして産をなした。甥の十六代文右衛門は、安政2年(1855)幕府の蝦夷地再直轄に際し、支店を箱館に設けてこれに協力し、4年箱館奉行より樺太開拓の命を受け、東海岸栄浜近傍に漁場を拓き、元治元年(1864)無事引き上げるまで続けた。有名なのは、開国により昆布が輸出品として有望化したのに着眼、投石による昆布礁の造成によって増産し得ることを実験し、率先して沙流場所に集中的に投石して範を示し、奥地に昆布漁を拡げるための刺戟として役立った。開拓使はこれを高く評価し、明治14十四年(1881)明治天皇行幸の際には賞状を賜わり、養殖漁業の先駆としてその名を知られた。同16年9月12日没。墓は石狩郡石狩町の能量寺にある。」

 これによると、本文書当時のアッケシ場所請負人は、15代文右衛門である。

 なお、『新厚岸町史』には、「天保13年(1852)の9代文右衛門死去により10代文右衛門清富が請け負い、明治を迎えた」とある。

(139-3)「ヲヱナウシ」・・風連川中流域。現厚岸郡浜中町姉別原野付近。

(139-5)「イトヱチンベ」・・風連川上流域。現厚岸郡浜中町円朱別原野付近。『松浦図』には、「イトエチセンベ」とある。

(139-6)「ノコベリベツ」・・漢字表記地名「野古辺」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地はアッケシからネモロの「アツウシベツ」に至る山道の止宿所であり、内陸部へ向かう際の拠点でもあった。ノコベリベツ川は、風連川の上流部。(139-9)「木綿紺糸(こんいと・こういと)」・・紺色の木綿の糸。

(139-89)「被下物(くだされもの)」・・漢文訓読がそのまま、日本語に適用された例。目上の人からもらったもの。いただいたもの。頂戴物。拝領品。たまわりもの。くだされ。「被」を省略して「下物」と書いて「くだされもの」と読む場合もある。

(139-9)「針壱疋(はりいっぴき)」・・針50本。「疋」は、「匹」の当て字で、縫い針の単位。50本で「1匹」。

(140—1)「ホンノヰベツ」・・不明。

(140-2)「ヲラウンベツ」・・ノコベリベツ川の支流。

(140-3)「ベカンヘウシ」・・漢字表記地名「別寒辺牛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地はアッケシからネモロ場所内「アツウシベツ」へ向かう山道沿いに位置する。また、当村は往時厚岸湖から別寒辺牛川を遡上して根室へ出る交通路にあたっていたが、明治23年(1889)厚岸より湖岸を経て浜中に達する新道が開かれ、風澗(ふうかん)駅が設けられた。

(140-5)「此川巾十間計」・・「此川」は、別寒辺牛(べかんべうし)川。厚岸町のほぼ中央を流れる普通河川。延長43.8キロ、流域面積738.8平方キロ。厚岸町の北方、標高120メートル前後の根釧台地に源を発し、標茶・厚岸両町境に沿って台地上を蛇行しながら南東に流れ、下流部でトライベツ川、チャンベツ川、サッテベツ川、チライカリベツ川、大別(おおべつ)川などの支流を合せ、尾幌(おぼろ)川とともに厚岸湖の北西部に注ぐ。中流域から下流域にかけて泥炭湿原が発達し、下流部にはヨシ、スゲが茂る低層湿原、中流部には約100ヘクタールの高層湿原が形成され、湿原の発達過程を知ることができる。また数多くの野生生物が生息し、希少種のハナタネツケバナなどが生育する。厚岸湖とともに貴重な自然として高い評価を受け、平成5年(1993)国設鳥獣保護区に指定されたのを受けて、厚岸湖・別寒辺牛湿原としてラムサール条約の登録湿地になっている。

(140-6)「周廻り三り余大沼也」・・「大沼」は厚岸湖。厚岸町東部にある楕円形の汽水湖。周囲約26キロ、面積31.8平方キロ、最大水深は11メートルであるが、大部分は1メートル内外である。厚岸湖は約一万年前から九千年前に別寒辺牛(べかんべうし)川が運ぶ川水によってできた淡水湖が原形で、さらに海面の上昇によって海水が浸入して入江となった後、約三千年前に再び海面が低下して海水が後退し、淡水と入交じる汽水湖となり現在に至っている。北方から別寒辺牛川、東方からトキタイ川、南東方から東梅(とうばい)川などが流入し、西端の幅600メートルの水路で厚岸湾に通ずる。湖内には牡蠣が堆積してできた60余の牡蠣礁があり、牡蠣(かき)島と通称されている。前近代にはアッケシ沼とよばれた。明治初年から鑑札制度により牡蠣の採取が行われていたが、現在は牡蠣の種苗を春から結氷前まで筏式または垂下式で養殖し、さらに牡蠣礁に地播きして四―五年後に採取する方法がとられている。アサリ、ノリの養殖も営まれるほか、サンマ漁、サケ・マス漁も盛んである。冬季にはほぼ結氷するが、道東海岸線における最大のオオハクチョウの越冬地で、オジロワシ、オオワシも飛来する。別寒辺牛川が注ぐ湖北地区は平成6年(1994)、厚岸湖・別寒辺牛湿原としてラムサール条約の登録湿地になっている。湖全体は厚岸道立自然公園の特別地域となっている。

(140-7)「かき島」・・牡蠣島。厚岸湖内にある牡蠣礁。天然牡蠣が堆積した島礁で、一般に牡蠣島とよばれる。かつては大小65を数えた。アイヌ語では、ビバモシリなどと呼ばれた。『松浦図』には、「イチヤセモシリ 和蠣シマト云」とある。

(140-8)「シゝヨベ」・・『松浦図』には、「シユゝべ」とある。

(140-9)「ノテト」・・アイヌ語に由来する地名。現厚岸湾口に位置するコタン名のほか岬名としても記録されている。御供山北に突出した砂洲。松浦武四郎『廻浦日記』に「ノテド、此所タンタカへの渡り口也」とある。

(141-1)「舟路(ふなじ・しゅうろ)二り」・・「舟路」は、舟の道。この行程は、ベカンベウシから舟で厚岸湖に出て、牡蠣島を迂回し、厚岸湖南岸のアツケシまでの道のりをいう。

(141-1)「アツケシ」・・漢字表記地名「厚岸」のもとになったアイヌ語に由来する地名。場所名や会所およびその周辺をさす地名としてのほか湾・港などの名称としても記録されている。

 「アツケシ場所」は、厚岸湾を中心として設置された場所。開設は1620~40と伝えられ、寛永20年(1643)8月アッケシ商場へ松前藩の船が来航し、厚岸湾に停泊していたオランダ船カストリクム号を検分した。松前船は米・衣服・酒・煙草などを運んできて、毛皮・鯨油・油脂などと取引するという。場所名は「悪消」とも記され、運上屋はヌサウシコタン(現湾月町)に置かれた。アッケシ場所は「異国通路の土地にて、要害第一の所に御座候」とされ(蝦夷地一件)、松前藩主直属の商場であった。元禄14年(1701)アッケシ場所からキイタップ場所(のちのネモロ場所)が分割されたことにより縮小した。キイタップ場所がネモロ場所となると、キイタップ場所の運上屋が置かれていた「キイタツプ」周辺もアッケシ場所に帰属した。3年(1774)飛騨屋久兵衛がアッケシ場所を二〇年季で請負い、1780年代後半の運上金は120両であった。飛騨屋は89年のクナシリ・メナシの戦の責任を問われて場所請負を免ぜられ、代わって村山伝兵衛が差配を命じられた。99年東蝦夷地は幕府の直轄となり、場所は直捌となって請負人は免ぜられた。ヌサウシコタンの運上屋は会所と改められ、詰合所には幕府役人が常駐した。またネモロ場所を結ぶ陸路、クスリ場所とを結ぶ海岸路が整備され、ノコベリベツなどに旅宿所を設けた。文化2年(1805)には国泰寺が置かれた。請負制度は13年に復活し、米屋藤兵衛が1688両余で請負い、文政元年(1818)竹屋長七がその後を継いだ。1790年には松前藩によってアッケシに勤番所が設けられ、幕府直轄領時の1807年には盛岡藩士に、21年の松前藩復領後は同藩士に警備が命じられた。27年には栖原六郎兵衛、天保元年(1830)には山田文右衛門が請負人になった。アッケシ場所では1810〇年代後半頃から天然痘が大流行し、死亡・流離する者が絶えなかった。また43年3月には「前代未聞の大地震、津浪」が発生して番屋・家蔵・アイヌの住居など数十棟が流失し、多数の溺死者を出した。また閏9月には大風によって家蔵が破損し、甚大な被害をもたらした。この年の損害により山田家の運上金600両のうち200両が三ヵ年に限り免除された。

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