森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催
古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。 

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年12月9日(月)

13時~16時15分

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター

大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3





◎現在の学習内容

①「ふなをさ(船長)日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています               

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp


 

 『ふなをさ日記』11月学習の注  

(10-1)「亥子(い・ね)」・・北北東。

(10-2)「寅時(とらどき)」・・午前4時頃。

(10-2)「*(列+火)敷(はげしく)」・・影印は、「烈」の異体字。

 *<漢字の話>「烈」の部首・・「火」の部。脚になったとき、「灬」の形になり、「れっか」「れんが」と呼ぶ。「れっか」は、「列火」と書き、点のならんだ火の意。「れんが」は、「連火」と書き、点の連なった火の意。

(10-3)「終(つい)に」・・最後に、とうとう。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ついに」の語誌は、

 同訓異字として【終・遂・了・卒・竟】をあげ、

【終】(シュウ)おわり。おしまい。最後。「最終」「臨終」おわる。完了する。おえる。果てる。「終了」「終止」 おわりまで。いつまでも。「終日」「終生」 おしまいに。とうとう。結局。《古つひに・をはる・をへたり・をはり・きはまる・しぬ・はて・ともし》

【遂】(スイ)おして行く。とげる。なしとげる。おえる。きわめる。「遂行」「完遂」 かくして。その結果。はては。結局。《古つひに・をはる・とぐ・とぐる・とげぬ・つくす・いたる・とどむ・はたす・はたる・とほる・おふ・したがふ・ゆく・すすむ・なす・よる・やしなふ・あまねし・ひさし》

【了】(リョウ)さとる。あきらか。「了解」「了然」 おわる。おえる。おわり。「終了」「完了」 おしまいに。とうとう。結局。また、過去・完了を表わす助字。《古つひに・をはる・やむ・さとる・あきらか》

【卒】(ソツ)おわる。おえる。完了する。しとげる。「卒業」 死ぬ。「卒去」「卒年」 にわか。突然。あわただしい。「卒爾」「卒倒」おしまいに。とうとう。結局。《古つひに・をはる・やむ・しぬ・うす・ことごとく・すでに・にはか・にはかに・したがふ・つくる・とる》

【竟】(キョウ)おわる。おえる。つきる。きわめる。おわり。「竟宴」「終竟」とうとう。結局。最終的に。「畢竟」「究竟」《古つひに・をふ・をはる・きはむ・わたる》>と記している。

(10-4)「つくづく」・・思考や感情についていい、主観的に動かしがたくなった、という気持を表わす語。心から。

(10-5)「櫂(かい)の折(おれ)たる船人(ふなびと)」・・難破した人。つまり、重吉たちのこと。

(10-5)「乗(のせ)したる故(ゆえ)」・・「乗(のせ)したる」は、語調がよくない。異本は、「乗(のせ)たる」に作り、「乗し」の、「し」がない。

(10-8)「上(あが)り登(のぼり)たれば」・・語調がよくない。異本は、「上り」を「上へ」とし、「上へ登りたれば」に作る。

(11-2)「シヱガン」・・「sugar」。砂糖。                                  

(11-2)「ロンメ」・・不詳。

(11-3)「クロツバ」・・不詳。

(11-3)「ヲーツカ」・・ウオッカか。

(11-5)「歟(か)」・・句末に用いて、疑問・反語・推

量・感嘆の意を表す助字。漢文の疑問を表す助字の「歟(ヨ)」を、日本語の「か」にあてはめた。ジャパンナレッジ版『字通』には、『説文解字』の「安らかなる气(き)なり」を引いて、「ゆるい詠嘆や、かるい疑問の語気を示す」とある。

 *「来疲(くるかづかれ)」・・来るか来るかと待っている気疲れ。

*「来る(カ)疲労(ヅカレ)に、やうやうと客ねしづまる真夜中(おほびけ)すぎ」(坪内逍遙『当世書生気質』)

(11-10)「湊(みなと)」・・ジャパンナレッジ版『字通』は、『説文解字』を引いて、<声符は奏(そう)。奏は奏楽。諸楽を合奏するので、湊集の意がある。〔説文〕十一上に「水上の人の會(あつ)まるなり」とみえる。水陸より物資の集まることを、輻湊という」と説明している。

 *なお、「みなと」の語源について、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、<「な」は「の」の意で、「水の門」の意>などをあげている。

(12-1)「渡(わた)り」・・あたり。普通、「辺り」とする。「渡」は当て字か。ある場所の、そこを含めた付近。また、そこを漠然とさし示していう。その辺一帯。あたり。へん。へ。近所。

(12-14)「此渡りに・・さまたげもせによし」・・別添の富田虎男(当時立教大学アメリカ研究所所長・現立教大学名誉教授)著「日本人のインディアン像―その1.徳川時代のインディアン像―」(立教大学アメリカ研究所刊『アメリカ研究8号』所収 1986)で、「インディアンを直接見聞した記録として伝えられている最古の者は、督乗丸船頭重吉の口述書であろう」と紹介されている。

(12-1)「穴居(けっきょ)」・・自然または人造の洞穴に住むこと。また、その住居。

(12-4)「チマヨチマヨ」・・不詳。

(12-7)「容子(ようす)」・・様子。物事の状態。有様。形勢。状況。

(12-8)「作事(さくじ)」・・船の手入れ。

(13-12)「受たれば」・・異本は、「受」の前に「見」があり、「見受けたれば」に作る。

(13-2)「いかで」・・「いかにて」の撥音便化した「いかんて」が変化した語。あとに、意志、推量、願望などの表現を伴って用いる。切なる願望のため、あれこれと方法を考える気持を表わす。何とかして。せめて。どうにかして。どうか。

(13-4)「手に付(つき)て」・・その部下となって。その配下に属して。

(13-4)「ねもごろ」・・「ねんごろ」の古形。心がこもっているさま。親身であるさま。

(13-5)「ヲロシアに随へる国」・・アラスカを指すか。ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』には、<1741年、ロシアのピョートル帝に雇われたデンマーク人ベーリングが発見した。ロシア毛皮商人が徐々に入植していき、18世紀末にはロシア・アメリカ会社が毛皮貿易を独占し、シトカを建設して19世紀初めに繁栄を誇った。しかし19世紀なかばになると、ロシアはイギリスがアラスカを奪いはしないかと恐れて、アメリカへの売却交渉を始め、結局1867年にアメリカのシュアード国務長官が720万ドルで購入した。これは当時「シュアードの冷蔵庫」などと嘲笑されたが、シュアードは太平洋にまたがる海洋帝国建設の一環として位置づけていたといわれる。1896年クロンダイクで金鉱が発見されると、アラスカ一帯でゴールド・ラッシュが起こり、カナダと国境紛争が生じたが、これも調停でアメリカに有利に解決した(1903)。

 1912年に準州となり、1959年に49番目の州として連邦に編入され、アメリカの大陸防衛体制の前哨(ぜんしょう)地域として戦略上重要な役割を担っている。>とある。

 *ロシアのアメリカ大陸進出略史(小坂洋右=ようすけ=著『流亡』参照)

 ・1725年1月・ロシア皇帝ピョートル1世が、ベーリングを長とする探検隊派遣命令に署名。

 ・1728322日、探検隊、カムチャッカのニジネ・カムチャックに到着。34日間航海して引き返す。

 ・1732428日、女帝アンナ・ヨアンノヴア、第二次探検隊を発令。

 ・17333月出発、ヤクーツクで3年間準備し、オホーツクに着いたのは1737年秋。

 ・17409月、ベーリングら一行第二次探検隊、アメリカ航海に乗り出す。

1741年、ベーリング、アラスカ海岸に上陸。

1784年、ロシアがコディアック島に拠点を建設

1799年 ロシアが「ロシア領アメリカ」として領有宣言し、行政を露米会社に委ねる。

1853年 ロシアがアメリカにアラスカ売却を提案。

1861329日、ロシア政府が露米会社から行政権を回収。

18671018日、ロシアがアメリカにアラスカを売却

1959年1月3日、アラスカ、アメリカの州に昇格。

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『蝦夷日記』2013.11注(2) 

(183-9)「千代田村」・・現北斗市千代田。近世から明治33年(1900)まで存続した村。大野川の下流域左岸に位置し、北は大野村。近世は東在大野村の枝村。稲荷神社の勧請が寛政6年(1794)であることから、この頃に人々が定住し始めたと考えられる。明治33(1900)大野村の一部となる。

(183-9)「いなりさま」・・千代田稲荷神社。寛政6年(1794)勧請と伝えられている。

(183-9)「有川村」・・近世から明治12年(1879)まで存続した村。久根別川・大野川・戸切地(へきりち)川などの河口付近にある。近世は東在箱館付村々のうち。

(184-1)「七重濱村」・・久根別川河口左岸、常盤川河口右岸に位置する。

(184-3)「箱館町」・・近世から明治2年(1769)までの村(町)。亀田半島の基部から津軽海峡に突き出た函館半島の陸繋部を占め、同半島の南西端の函館山に抱かれる箱館湊を中核として発達した。一八世紀半ば頃には湊を取囲むように町場が形成され、町役所(のち町会所)が置かれて、町年寄・名主・町代が町役人として町政を取扱った。近世の箱館村は東在の村で、古くは宇須岸(ウスケシ)といった。

(184-3)「八幡宮」・・現函館八幡宮。『函館市史』によると、 

<文安21445)年、河野政通が宇須岸館の東南隅に鎮護の神としてまつり、アイヌ騒乱で一時赤川に移ったといわれているが、河野政通の渡来年代とは相違している。『蝦夷実地検考録』には慶安年間、巫子伊知女創祀、正徳51715)年神職菊池惣太夫の時再営したとあり、更に『福山秘府』には「造立相知れず」と記されている。いずれにしても江戸前期には河野館の跡にまつられており、宝永51708)年には造り替えられたと伝えられている。>とあり、さらに、

<箱館奉行所の設置にあたり、文化元(1804)年9月、会所町(現函館市元町)に遷宮された。ときに官では造営資金100両を贈るとともに、以後年々米20俵を支給することにした。また羽太、戸川の両奉行は弓矢、甲胃、額などを奉納した。更に文化8(1811)建物を補修し、境内も広くした。また、奉行所の祈願所なので、正月神楽と8月祭礼には、葵紋の高張提灯や幕が貸し与えられ、幣帛(へいはく)、神饌(しんせん)が献じられた。>とある。

また、近代の函館八幡宮についても、

<開拓使の崇敬社に任じられた函館八幡宮は、明治10(1878)に国幣小社に列せられたが、同11年と12年には2度も火災に遭い、そのため13年には会所町から現在地(現函館市谷地頭)に遷座しなければならなかった。>とある。

(184-3)「菊地大内蔵」・・箱館八幡宮7代目宮司。菊地大蔵(おおくら)。函館八幡宮の宮司は、明治10(1878)まで、代々菊地家が勤めた。「大内蔵」の読みは、「おおくら」。(別掲『神社大鏡』より箱館八幡宮縁起参照)

 *内蔵寮(くらりょう・くらのつかさ)・・

①令制で、中務省に属し、金銀・珠玉・宝器を管理し、供進の御服、祭祀の奉幣などをつかさどった役所。職員に、頭、助、允、大少属、大少主鎰、蔵部、価長、典履、百済手部などがあり、後に史生、寮掌、内蔵寮別当そのほかが加え置かれた。うちのくらのつかさ。くらづかさ。

 ②旧制度の宮内省の一寮。明治17年(1774)設置。皇室事務のうち財務、主計、用度に関する事務を分掌した。職員に頭、主事が置かれた。昭和23年(1948)廃止。

(184-3)「御本陳、八幡宮神主菊地大内蔵 御旅宿」・・『村垣淡路守公務日記』(東京大学史料編纂所編 東京大学出版会刊)には、「八時、箱館会所町八幡宮神主菊地大内蔵宅旅宿へ安着」とある。神主の自宅が本陳になったと思われる。また、「宿、立派也。十五畳、次十畳、手広し」ともある。

(184-4)「閏七月廿九日、此所迄御着に相成り」・・この日に箱館に着いているのは、村垣範正。したがって、本書の著者は、村垣の従者であることが伺われる。なお、嘉永7(1854)7月は、小の月で、29日まで。

(184-5)「其内に、蝦夷地行諸役人中様、御揃に相成」・・堀利熙の箱館着は、村垣より20日遅れて8月20日のこと。

(184-6)「照明寺」・・称名寺か。称名寺について、『函館市史』は、 

<正保元(1644)年、伊勢の僧円龍が来て亀田に建て阿弥陀庵といった。これを明暦元年(1655)に五念山阿弥陀堂と改称し、更に元禄31690)年に護念山摂取院称名寺と公称した。松前光善寺の末寺で、『福山秘府』(寺院本末部)には元禄3年箱館(いまの弥生小学校西側)に移したとあるが、寺伝によると宝永51708)年611日移転となっており、宝永元年の僧空念の納経記録には、その時まだ亀田にあったことを記録しているから、寺伝の方が正しいと思われる。>とある。

境内の墓地には、高田屋一族の墓や日本最初の気象観測所を開設した福士成豊などの墓がある。

(184-9)「箱館山」・・函館市街の南西部、津軽海峡に突き出た函館半島の南西端にある山。標高333.8メートル。臥牛(がぎゆう)山ともいう。亀田川や沿岸流が運んだ土砂が堆積してできた砂洲によって亀田半島と結ばれ、陸繋島となった。現在、主峰を御殿山とよび、その北東の峰を薬師山(252メートル)、北西の峰を観音山(265メートル)とよぶ(ほかに地蔵山・汐見山・入江山・八幡山などの諸峰がある)。近世にはこれら山塊を総称して箱館山、または薬師山とよんだ。

(185-12)「山の内、西国三十三所の観世音」・・文政―天保年中(18181844)に、箱館町民の蛯子長兵衛が山中に三三体の観音石像を安置し、称名寺を結願寺とする三十三所観音を開いた。

(185-5)「地蔵町(じぞうまち)」・・現函館市末広町・豊川町。江戸時代、弁天町・大(おお)町・内澗(うちま)町と続く箱館町の表通りに沿う町で、内澗町の東に位置する。古く北方は海に面していたが、地先の海岸は前期幕府領期から順次埋め立てられていった。内澗町寄りから16丁目に分れ、内澗町から南東に向かって当町に入った表通りは、当町23丁目あたりで緩やかに弧を描いて向きを北東方に変えて進み、6丁目の北東端部には亀田村との境界となる枡形が設けられていた。五丁目の山手側にあった地蔵堂(元文元年建立、寛政七年再建、弁天町高龍寺持、明治二九年現函館市住吉町に移転)が町名の由来という。

(185-5)「内脇町」・・内澗町(うちまちょう)。「脇」は「澗」の誤りか。内澗町は、現函館市末広町付近。箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町・大町・内澗町・地蔵町と続いて北西―南東に走る、箱館町の表通りにあたる通りに沿って町屋が形成される。近世に北東方が海に面し、地先海岸は箱館湊の良好な係船地の一つであったが、近世末期から明治初年にかけて海岸は埋め立てられ、東浜町などが成立した。弁天町・大町などとともに箱館で最も早くに開かれた町の一つ。

(185-5)「大町(おおまち)」・・現函館市大町。函館山の北東面に開けた箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町屋は弁天町・大町・内澗町と続く通りの両側に立並び、北西―南東に走るこの通りが箱館町の表通りにあたった。北東ははじめ箱館湊に面していたが、近世末から明治初年にかけて当町や弁天町・内澗町などの地先は埋立てられた。

 明治2年(1869)の箱館大町家並絵図(市立函館図書館蔵)では、内澗町境の御役所(おやくしよ)坂(現基坂)から北西へ14丁目があり、1丁目の中ほどの坂が白鳥(しらとり)坂、1丁目と2丁目の境の坂が浄玄寺坂(あるいは喜楽町坂)、2丁目と3丁目との間の坂が称名寺坂(あるいは七軒町坂)、3丁目と4丁目との間の坂が実行寺(じつぎようじ)坂(あるいは三丁目横丁)とよばれていた。御役所坂は両側が松並木で、同坂を下りたところが運上所、実行寺坂を下りたところが「沖ノ口役所」であった。町の入口(内澗町境)の湊側土手下には高札場があった。

(185-5)「弁天町(べんてんちょう)」・・北西―南東に走る箱館町の表通りに沿う町で、大町の北西に続く。大町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町北端の岬(弁天崎・弁天岬)には弁天社(現厳島神社)が祀られており、町名は同社に由来する。

(185-5)「中町(なかまち)」・・仲町とも。現函館市弁天町など。弁天町の通りの上手(山手)を並行して走る通りに沿った町で、上手は神明(しんめい)町、西は鰪間(たなごま)町。「箱館夜話草」によれば、「鰪間町と神明町との間にある」ことが町名の由来という。本町通の裏手にあたる当町と鰪間町・神明町を総称して三町(三丁)ともいった。

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◎日時 2013年11月11日(月)

13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター

大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3



◎現在の学習内容

①「ふなをさ(船長)日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています               

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

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『蝦夷日記』2013.11注(1)                      

(180-1)「御附(おつき)」・・「附(つき)」は、つき従うこと。また、その人。ここでは、従者。

 *<漢字の話>「付」と「附」

①「附」は「付」の正字ではなく、全く別の字。現在、両方とも、常用漢字になっている。

②部首に関しては、「付」は「人」部。(偏になったとき、「にんべん」)。「附」は、「阜」部(偏になったとき、「こざとへん」)

③元来の意味では、「付」は「あたえる」の意で、「付与」「交付」「付託」など。「附」は「つく」の意で、「附着」「附録」「附近」「附則」など。北大図書館が、「北海道大学附属図書館」と「附属」としているのは、正しい。

④「ふわ・らいどう」も「附和雷同」、「けんきょう・ふかい」も「牽強附会」と「附」。

⑤しかし、現在は、新聞をはじめ、いずれの場合も「付」で書かれることが多い。ただし、官庁・法律用語では「附属」「附則」などには、「附」を用いる。

(180-1)「供方(ともがた)」・・「供」の敬称。お供。

(180-1)「鷲の木村」・・現茅部郡森町鷲ノ木。「鷲の木」は、現在の行政字は、「鷲ノ木」で、「の」はカタカナの「ノ」。近世から明治35年(1902)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政12(1800)に「村並」となった(『休明光記附録』)。『天保郷帳』の「従松前東在」に「鷲ノ木」とみえ、持場として「尾白内・森・蛯谷古丹・本茅部・石倉」が記される。安政5年(1858)正式に村となった成立時は、西は茂無部(もなしべ)川を挟んで落部(おとしべ)村、東は鳥崎川を挟んで森村、北は海に面していた。明治元年(1868)1020日、榎本武揚率いる旧幕府脱走軍の艦隊が北上して上陸した地としても知られる。明治2(1869)8月茅部郡鷲ノ木村となり、同35(1902)二級町村森村の一部となった。

 *箱館六箇場所・・箱館の後背地を箱館の人びとが運上金を納めて請け負い、産物は小船で箱館に出荷されて本州方面に販売していた。その村々は、木古内、鹿部、砂原、掛潤、鷲ノ木、茅部の六ヶ村。

 *榎本武揚と鷲ノ木・・本書は、嘉永7(1854)に幕吏の堀・村垣の蝦夷地・樺太巡見の際の従者の日記であるが、当時18歳の榎本は、堀の従者だったといわれている。(異説もある)。とすれば、旧幕軍の指揮官・榎本にとって、鷲ノ木上陸は2度目といえる。彼が旧幕軍の旗艦・開陽丸で、蝦夷地を目指した時、上陸地は、かつて上陸した経験のある鷲ノ木としたといわれている。なお、本書冒頭の「蝦夷地御渡海諸役人御名前」に榎本の名前はない。堀の従者の記載の最後に、「御徒士三人、右名前なし」とある「三人」のうちのひとりか。                                      

(180-3)「御本陳(ごほんじん)」・・松浦武四郎は『蝦夷日誌』に「則此処を東陣と号而諸役人の取扱所也」と記している。ここでは、一行の宿泊所くらいの意か。

 *<漢字の話>「陣」と「陳」・・普通、「ジンヤ」と言う場合、「陣屋」と、「陣」を 使う。影印は、「陳」。「陣」は、漢音で「ジン」、呉音で「チン」。一方、「陳」は、漢 音で「チン」、呉音で「ジン」だから、ややこしい。さらに、「陳」の俗字を「陣」と するから一層ややこしい。(『字通』、『新潮日本語漢字辞典』など)

(180-3)「海上十三り」・・本書一行は、室蘭(現室蘭市崎守町)から噴火湾を船で航行し、鷲ノ木に上陸している。「十三り」とあるが、実際は、約47キロで、12里ほど。

 *森~室蘭間の航路略史

 ・幕府の蝦夷地直轄時代から幕吏や諸藩士たちが頻繁に往来していた通路。

 ・明治4(1871)、開拓使は、ケプロンの提言を受け、札幌本道開削計画をたてる。  当初の計画では、航路は、室蘭(現室蘭市崎守町)と砂原間であったが、ワ-フィールドの実測の結果、室蘭は、絵鞆岬の東・トッカリモイ(現室蘭市海岸町と緑町の境界付近:室蘭港付近)、砂原は風波が激しくて不適当とされ、森に移された。

 ・札幌本道の工事は、明治5(1871)318日、亀田村一本木を起点として開始された。

 ・明治5(1871)4月、トッカリモイに木造桟橋が完成、全長266メートルの森の桟橋も完成した。同年6月、開拓使は、喜得丸、晴得丸を森―室蘭間の運送にあて、7月、開拓使附属船稲川丸(15トン)をもって、室蘭~森間の定期航路を開始。以後、弘明丸、辛未丸、石明丸などが就航。

 ・明治14(1881)95日、明治天皇は、北海道巡幸の際、室蘭から召艦・迅鯨(じんげい)で森桟橋に上陸。

 ・明治18(1885)9月、この航路は、日本郵船会社に経営を引き継ぎ、室蘭丸(52t)が運行。

 ・明治26(1893)10月、函館~室蘭間の定期航路が開始され、森~室蘭間の定期航路は廃止。

・明治41(1908)6月、楢崎平太郎、小汽船喜生丸で、室蘭・森間の定期航路開始。

・昭和3(1923)、長輪線(おさわせん)の鉄道(長万部〜輪西間)が開通したため、船舶の定期航路廃止。 

(180-9)「森村」・・茅部場所に含まれていたが、寛政12年(1800)に「村並」となり(火『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に鷲ノ木持場「森」と記される。安政5年(1858)鷲ノ木村から独立して森村となり、同年村並から正式に村となった。成立時は、西は鷲ノ木村、東は尾白内(おしろない)村、北は海に面していた。村名はアイヌ語のオニウシ(樹木の茂った所の意)呼ばれていたが、和人が住居するようになってから、意訳して「森」になったという。「オニウシ」の名は、道の駅「YOU・遊・もり」に併設されている「オニウシ公園」に残る。

(180-8)「掛り間村」・・掛澗(かかりま)村。はじめ箱館六箇場所の一つ茅部場所のうち。のち砂原場所のうち。明治2(1869)茅部郡に所属。明治39(1906)砂原村の大字になる。

(180-8)「大平村」・・尾白内村。「ヲシラナイ」「ヲシラナヘ」ともい、漢字も「大白内」、「大平内」とも書かれた。「尾白内村」は、箱館六箇場所の一つ茅部場所に含まれていたが、寛政12年(1800)に「村並」となり(『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に「鷲ノ木持場尾白内」と記される。安政5年(1858)鷲ノ木村から独立して尾白内村となり、同年村並から正式に村となった。

(180-8)「砂原村(さわらむら)」・・近世から明治39年(1906)までの村。箱館六箇場所の一つ茅部場所の中心であったが、寛政12年(1800)に「村並」となり(『休明光記附録』)、『天保郷帳』の「従松前東在」に「砂原」とみえ、持場として掛澗(かかりま)が記される。安政5年(1858)正式に村となった。遡って、寛政11(1799)東蝦夷地は幕府直轄となり、砂原は盛岡藩兵が警衛することに決まる。文化4年(18074月ロシア船がエトロフを襲ったため、砂原には100人の兵が配置された。砂原村は明治2(1869)茅部郡に所属。平成17(2005)森町と合併し、森町の行政字になる。なお、合併前には、砂原中心地には、「会所町」という字があった。明治二年(1869)8月茅部郡森村となる。

(180-78)「山の出岬砂岬」・・「砂岬」は、「砂崎」か。現森町砂原市街地の東に突き出た「砂崎(すなざき)」を指すか。

(180-7)「駒ヶ嶽」・・北海道南西部、内浦湾南方のコニーデ式火山。標高1131メートル。寛永17年(1640)以降たびたび噴火、昭和4年(1929)にも大爆発があった。渡島富士。渡島駒ヶ岳。

(180-10)「せしの村」・・不詳。『蝦夷紀行』は、本書の「夫よりせしの村なり」の記述はない。

(181-3)「御用人(ごようにん)」・・江戸時代においては、幕府のみならず大名・旗本の家で、財務や内外の雑事をつかさどった役人をいう。したがって、家臣のなかで有能な者をこれに任じられた。

(181-3)「中小姓(ちゅうごしょう)」・・江戸時代の諸藩の職名の一つ。小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分で、主君に近侍して雑務をつとめる小姓組に対し、主君外出の際供奉し、また祝日に配膳・酌役などつとめたもの。

(181-4)「少々道□□」・・『蝦夷日記』は、「少々道」のあとに「帰り候而」があり、「少々道帰候而」に作る。

(181-5)「鳥崎村(とりざきむら)」・・現茅部郡森町鳥崎町。鳥崎川河口部西岸にあたる。明治2年(1869)八月渡島国茅部郡鷲ノ木村に属した。『角川日本地名大辞典』(角川書店)には、菅江真澄の『えぞのてぶり』を引用し、<「鳥井が崎とてアヰノの家ありて・・森の中に八船豊受姫(やふねとようけひめ)の祠あれば、鶏居(とりい)あまた立かさねて、是を崎の名におへり」あるように、「鳥居のある先」の意味と思われる>と記している。

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 『ふなをさ日記』10月学習注

(5-1)「切(きれ)」・・動詞「きれる(切)」の連用形の名詞化。布帛(ふはく)の切れ端。また、広く反物(たんもの)、織物をもいう。

(5-34)「重吉が右の手」・・「重吉が」の「が」は連体格の格助詞。「~の」。ここでは、「重吉の右の手」。

(5-5)「曲(きょく)ろく」・・僧家で用いる椅子。主として僧が法会などで用いる。背のよりかかりを丸く曲げ、四本の脚は牀几(しょうぎ)のようにX型に作ってあるもの。全体を朱または黒の漆で塗り、金具の装飾を施す。曲木(きょくもく)。

(5-7)「沙汰(さた)」・・報知。報告。通知。消息。たより。また、吹聴すること。「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意で、語源説に「沙(すな)を水で淘(ゆ)り、沙金をえりわける意が転じたもの」がある。

(5-8)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は「馳」の当て字。「馳走」は、(用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(5-11)「入(いる)れば」・・下2動詞「入(い)る」の已然形「入(いる)れ」+接続助詞「ば」。

(6-1)「えもいはぬ」・・なんとも言えずよい。言いようもなくすばらしい。積極的、肯定的な意を含めていう。

(6-1)「待遠(まちどお)に」・・待ち遠しく。形容動詞「待遠なり」の連用形「待遠に」。

(6-1)「めり」・・推定の助動詞。用言・助動詞の終止形に付く。ただし、ラ変型活用をする語には通例ラ行の語尾を脱した形に付く。目前の情況から判断・推量することを示す。…と見える。…と見うける。見たところ…と思われる。

(6-2)「沙汰(さた)」・・(「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意)元来は、水中でゆすって砂の中から砂金や米などをえり分けること。転じて、物、人物の精粗をえり分けること。物事の是非をえらび分けて正しく処理すること。始末すること。処置すること。多くは、政治上の処理。政務のとりさばきを意味する。

(6-3)「体(てい)」・・(接尾語的に用いて)そのようなもの。そのような様子。風(ふう)。風体。ふぜい。

 *<漢字の話>

①「体」を「てい」と訓じる場合・・「テイ」は漢音。「体裁(ていさい)」「風体(ふうてい)」「世間体(せけんてい)」「面体(めんてい)」「為体(ていたらく)」「這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)」「有(あ)り体(てい)」「然(さ)らぬ体(てい)」など。

②「体」、「躰」、「軆」・・①影印の「躰」は、「体(軆)」の俗字。②『新潮日本語漢字辞典』の「体」の項には、<もと「軆」と「体」は別字。当用漢字表で「軆」の新字体として「体」が選ばれたため、両者の字形に区別がなくなった。>とある。また、『漢語林』には、<「体」は、古くから「軆」の俗字として用いられた。>とある。

(6-3)「そこかしこ」・・あちらこちら。漢字では「其処彼処」をあてる。「ここかしこ」は、「此所彼処」。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の親見出し「かしこ」の語誌に

 <「かしこ」は平安時代になって発生した語で、上代には見えない。上代の中称・遠称代名詞「そこ」が平安時代になって中称にだけ使用されるようになり、遠称にはあらたに「かしこ」を用いるようになった。>

とある。

(6-4)「ありく」・・動き回る。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「あるく」の語誌に、

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。>とある。

 また、「あるく」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>とある。

(6-5)「陸(くが)」・・影印は、「陸」に「くが」とルビがある。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「陸(くが)」の語誌に

(1)水部に対する陸部を表わす語には、「やま・をか」などもあるが、それらは平地部分とも対になる。一方、「くが」は平地とは対にならず、水部に対する語であり、後には(2)のように海路・水路に対する陸路をさすようにもなる。

(2)語形としては「クムガ」(書陵部本名義抄・色葉字類抄)、「クヌガ」(日本書紀古訓)、「クニガ」(改正増補和英語林集成)などがあり一定しない。語源的には「国(クニ)処(カ)」ともいわれるが、そうだとすると、日本書紀古訓の「クヌガ」は「クヌチ(国内)」などとの類推から作られた語形である可能性もある>とある。

(6-8)「とりどり」・・漢字は、「取取」を当てる。思い思い。それぞれ。まちまち。いろいろ。語源説に「一人一人の略か」(ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』)とある。

(7-3)「畜生道(ちくしょうどう)」・・仏語。六道(すべての衆生が生前の業因によって生死を繰り返す六つの迷いの世界。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)の一つ。悪業の報いによって導かれた畜生の世界、またはその生存の状態。畜生。畜生界。畜趣。「畜生(ちくしょう)」は、(人に飼養されて生きているものの意から)禽獣・虫魚などの総称。

(7-3)「落歟」・・異本は、「落ちたるか」につくる。

 *<漢字の話>「歟」・・

①「か」。「や」とも読む。句末に用いて疑問・反語・推量・感嘆の意を表す助字。

②変体仮名にもある。(『くずし字用例辞典』P1250下段)「歟」を助詞の「か」の意味で、かなにしないで漢字のまま使用している例もある。「渠は目下誰かの縁談に就いて、配慮しつつあるのではない」(泉鏡花『婦系図』)

③「」の部首・・部首は「欠」で、「あくび」と呼ぶ。当て字の「欠伸」から。なお、旁(つくり)になったときは、「けんづくり」と呼ぶ。「欠」の漢音「ケン」から。

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『蝦夷日記』2013.10注 

(174-2)「引取場所小川はし有」・・異本は、「場所」と「小川」の間に、「なり」があり、「引取場所なり小川橋有」に作る。

(174-3)「ベツベツ」・・漢字表記地名「別別(別々)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。コタン名のほか河川名としても記録されている。当地一帯は近代に入り樽前村に包含された。ベツベツ川はシラヲイ場所とユウフツ場所の境界となっていた。現在も、苫小牧市と白老町の境界となっている。なお、別々川上流に「インクラの滝」がある。昭和初期まで「別々の滝」と呼ばれていたが、木材を運ぶ「インクライン」があったことから「インクラの滝」となった。

 *インクラ・・英語の「インクライン(incline)」=「傾斜面」の意=の「イン」を省略した造語。インクラインは、斜面にレールを敷き、動力で台車を走らせて船舶や荷物などを運ぶ装置。一種のケーブルカー。昭和11(1936)、苫小牧から白老にかけての樽前山麓林を管理していた帝室林野局札幌支局苫小牧出張所は、社台台地. のエゾマツ、トドマツ、ナラ、センなど豊富な木材資源 を搬出するため、別々の滝右岸にインクラインを建設した。昭和19(1944)、使用中止になった。

(174-3)「野口屋又蔵」・・場所請負人。初代又蔵は、天明元年(1781)陸奥国北郡大畑村に生まれる。寛政年間、家兄に従い福山に来る。栖原角兵衛の店員となり、のち独立。文政10年(1827)、白老場所請負人となる。代々又蔵の名を継ぎ、屋号を(まるまた)と称し、4代まで白老の請負を継続した。なお野口屋は天保12(1841)以降シラヲイ場所の請負人を勤め、漁場経営のほか下宿所・人馬継立・書状継立・異変通

報・備米管理・アイヌ介抱などの任にもあたり、明治2(1869)の場所請負制廃止や陸奥一関藩の分領支配を経たのちの同5(1873)以降も一時期白老郡漁場持となっている。

(174-5)「サタイ」・・漢字表記地名「社台」のもとになったアイヌ語に由来する地名。社台村は明治初年から大正8年(19193月までの村。白老郡の東側に位置し、西は白老村、東は別々川を境に勇払(ゆうふつ)郡樽前村(現苫小牧市)に接し、北に樽前山(1041メートル)・多峰古峰(たつぷこつぷ)山(661メートル)などがそびえ、南は太平洋に臨む。中央西部を社台川が流れる。明治42年(1909)国鉄室蘭線(現JR室蘭本線)社台駅が開業。

(174-7)「シラヲイ」・・漢字表記地名「白老」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シラヲイ場所は白老川流域を中心に設定された近世の場所(持場)名。シラヲイ場所は西は「フシコヘツ」(現在の登別市と白老町の境の伏古別川)を境としてホロベツ場所、東は「ヘツヘツ川」(現在の苫小牧市と白老町の境をなす別々川)をもってユウフツ場所に接し、南は海に臨み、場所内の海岸線は五里二七町余であったが、かつての西境は「フシコヘツ」のやや東の「カムエシンタ」岬、東境は「ヘツヘツ川」のやや西の「シヤタイ川」で(場所境調書)、場所の領域が東西にやや拡張している。

 白老町の市街地北西にシラヲイ仙台藩陣屋跡がある。国指定史跡で、隣地に仙台藩白老元陣屋資料館と塩釜神社がある。嘉永6年(1853)ロシア使節のプチャーチンが和親通商を求めて肥前長崎に来航、さらにペリー艦隊の来航もあって箱館が開港されることになり、蝦夷地の再直轄が論議され、五五年(安政二年)四月に幕府は仙台藩・秋田藩・盛岡藩・弘前藩・松前藩に出陣を命じ、蝦夷地の警備に当たらせた。仙台藩に対しては、東蝦夷地のシラヲイよりシレトコ(知床)岬に至る一帯およびクナシリ、エトロフ両島を持場とし、元陣屋をユウフツ、出張陣屋をアッケシ、ネモロ(根室)、クナシリ、エトロフに設置するように指示した。仙台藩は三好監物を蝦夷地御用掛に任じ、30人の調査隊を率いて警備地を視察したが、元陣屋は幕府の指示したユウフツを不適地とし、シラヲイが適地であると陣屋見込絵図を添えて藩主に報告した。元陣屋のシラヲイ変更は五六年の春に幕府から許可された。

(175-1)「シラヲイ川」・・白老川。白老町の東寄りを南東に向かって流れ、白老市街の西側で太平洋に注ぐ二級河川。流路延長24.2二キロ、流域面積178.3平方キロ。白老岳(968メートル)の南斜面に発し、上流は川底勾配が急で白老滝や岩を縫うように峡谷の中を急流となって流下し、トドマツ川・赤川・深沢(ふかさわ)川・ポンベツ川を合流、字森野付近から川幅も徐々に広がり、流れも緩やかになる。主要道道白老―大滝(おおたき)線の御料地(ごりようち)橋付近からは幅200メートルの河原になる。河口の西側からウヨロ川・ブウベツ川が海岸に沿って流れ、白老川と合流して海に出るが、河口一帯は各上流から運ばれてきた土砂で砂洲地帯を形成している。

(175-2)「天気、風」・・「天気」は、「天候、空模様」一般のことではなく、「空が晴れていること。天候のよいこと。」という。したがって、「天気、風」とは、「天候はよく晴れているが風がある」くらいの意味。

(175-2)「シキウ」・・漢字表記地名「敷生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現白老町敷生川河口流域の竹浦付近。

(175-4)「シキウ川」・・敷生川。白老町と伊達市大滝との境界にあるホロホロ山に源を発し、毛敷生川合流点から日本製紙社有の取水堰を経て竹浦地区の太平洋に注ぐ。流域には、日本製紙白老工場がある。

(175-5)「メツブ」・・メップ。アイヌ語に由来する地名。

(175-6)「アイロ」・・アヨロ。アイヌ語に由来する地名。現白老町西部・虎杖浜付近。

(175-9)「フシコベツ」・・漢字表記地名「伏古別」のもとになったアイヌ語に由来する河川名および地名。「伏古別川は、登別漁港に注ぐ。フシコベツを境に東はシラヲイ場所、西はホロベツ場所。西岸一帯は近代に入り登別村に包含された。現在も、河口付近は、白老町と登別市の境界となっている。

(175-10)「岡田屋半兵衛」・・恵比須屋半兵衛。恵比須屋は、近江商人岡田弥三右衛門の松前における支店の名称。支配人をもって営業し、文化年間以降は、恵比須屋源兵衛・恵比須屋弥兵衛・恵比須屋半兵衛の名で営業。この時期の恵比須屋半兵衛は、ホロベツ・ムロラン(エトモ)の場所請負人。

(176-1)「ヌフリベツ川」・・登別川。登別市を流れ太平洋に注ぐ二級河川。登別川水系の本流である。上流のカルルス温泉や、支流クスリサンベツ沿いの登別温泉があり、北海道屈指の温泉地となっている。かつては千歳川と呼ばれたことがある。

(176-3)「村雨(むらさめ)」・・にわかに群がって降る雨。激しくなったり弱くなったりして降る雨。にわか雨の類。群雨、叢雨、不等雨とも書かれる。地方によっては夕立の意味に用いられる。

 *<漢字の話>「村」・・「むら(群)」と同語源。「村雨」の「村」は、「群」の当て字ではない。「村」に「むらがる」の意がある。なお、「村」は、現在は、小学校1年生が習う教育漢字になっているが、元来は、「邨(むら)」の異体字。

 *青森県三戸地方で、「村雨」といえば、五月の節供に禁を破って働いたために村に雨が降らなくなることをいう。「村」が文字通り、「村落」の意味に使われている例。

 *「村雨」の語を含む熟語・・

①「村雨の宿」=村雨の降った時、雨やどりする宿。

②「幾村雨(いくむらさめ)」=幾度も降り過ぎる村雨。

③「一村雨(ひとむらさめ)」=ひとしきり降るむらさめ。にわか雨。

④「一村雨(ひとむらさめ)の雨宿(あまやど)り」=ひとしきり降ってくるむらさめを避けようとして、未知の他人といっしょに雨宿りをするのも、深い因縁に結ばれているからだの意。袖振りあうも他生の縁。

⑤「袖(そで)の村雨(むらさめ)」・・(「伊勢物語‐一〇七」の「数々に思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる」による)わが身の上の幸、不幸を思い知らせて降る雨。わが身のさまを知る雨。多く涙にかけていう。

*<雨を「さめ」と訓じること>・・ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』に<母音ではじまる「あめ」が熟合する際、母音の連続を避けて子音sが挿入された形と見る説が一般的であるが、ほかには「いね」が「うましね」になるくらいで、子音の挿入される例はほとんどなく、「さめ」は「あめ」の古形だという説もある。>とある。

(176-3)「ランボケ」・・漢字表記地名「蘭法華(らんほっけ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り蘭法華(らんほつけ)村に包含された。現登別市札内町・富浦町。明治9年(1876)頃から同一五年15(1882)までの村。幌別郡の東寄りに位置し、東は登別村、太平洋に蘭法華岬が突き出す。西は幌別村。明治3(1870)仙台藩白石領の片倉邦憲の家臣佐野源蔵ほか三戸が入植、同4(1871)の第二回移住でも4戸・11人が入植した。同15(1882)に登別村に合併。

(176-4)「此所山の出岬」・・蘭法華岬。

(176-4)「サルと申」・・不詳。

(176-5)「ヲカシベツ」・・漢字表記地名「岡志別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。登別市の岡志別川河口流域。現登別市幸町付近。

(176-6)「ホロベツ」・・漢字表記地名「幌別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り幌別村に包含された。胆振幌別川河口流域。ホロベツ場所は、現登別市の幌別川流域を中心として設定された近世の場所。西はワシベツ(現室蘭市と登別市の境をなす鷲別川)をもってモロラン場所(もとはヱトモ場所)、東はフシコベツ(現登別市と白老町の境をなす伏古別川)をもってシラヲイ場所に接する。安政元年(1854)再度幕府直轄地となり、ホロベツ場所を巡見した勘定吟味役村垣範正は、ホロベツ請負人の恵比須屋(岡田)半兵衛は松前城下住いで、運上金は三五両、会所一・漁小屋一・蔵三・小屋四があり、アイヌは五三棟・二六四人、当時は鮭三〇〇石目ほどで、「小場所至而困窮場所之由」と伝えている(「村垣淡路守公務日記」安政元年閏七月二四日条)。

(176-8)「ホロベツ川」・・登別市の中央部を南流する二級河川。行政管理上は胆振幌別川という。流路延長17.6キロ、流域面積104.7平方キロ。来馬(らいば)岳(1040.1メートル)の南西斜面を源とし、幌別市街西部で太平洋に注ぐ。

(176-10)「トンケシ」・・漢字表記地名「富岸」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現登別市富岸(とんけし)川流域。

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古文書解読学習会 札幌歴史懇話会主催

古文書解読学習会

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日(10月は、第1)13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名など、古文書の基礎をはじめ、北海道の歴史・民俗、学習しています。 

初心者には、親切に対応します。

参加費月350円です。まずは、見学においでください。初回参加者・見学者は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年10月7日(月)

13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター

大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3



◎現在の学習内容

①「ふなをさ(船長)日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています               

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp



 『ふなをさ日記』9月学習の注 (2)

『船長日記巻之三』

(1表紙)「ふなをさ」・・船頭。

<変体仮名>・・「布」→「ふ」、「那」→「な」、「遠」→「を」、「佐」→「さ」

*なお、「ふなをさ日記 地」が張られている、紙を「題簽(だいせん)」という。「題簽」とは、和漢の書籍の表紙の左側又は中央に題名を書いて貼りつける短冊型の紙片あるいは布片。また、その題字のこと。

(1~表紙) 「ふなをさ日記」の下にある丸に星印・・中央に「文」とある。これは、北海道道庁の「北海文庫」所蔵図書の印。

「北海文庫」は、金田吉郎(かねたきちろう)氏の寄贈図書の名前である。金田氏は、明治23(1890)北海道庁属となり、財務部経理課長、檜山爾志久遠奥尻太櫓瀬棚郡長、小樽高島忍路余市古平美国積丹郡長を歴任、明治30年(1897)東京府属に転じた。明治37(1904)東京府南多摩郡長に就任してから、同郡八王子町に「北海文庫」を設立した。氏は、北海道庁に勤務後、北海道に関する図書を蒐集した。氏の「図書献納ヲ御庁ニ願スル理由」(以下「理由書」。『北海文庫図書ノ始末』所収)の中で、「北海道ニ関係アルモノハ新古細大ヲ問ハズ、断管零墨(断簡零墨=だんかんれいぼく。古人の筆跡などで、断片的に残っている不完全な文書。切れ切れになった書きもの=)ヲ撰マズ、極力之ヲ蒐集セリ」と記している。金田氏は、同年55日に北海道庁長官河島醇(かわしまじゅん)に「図書献納之儀ニ付願」を提出している。氏は、前掲「理由書」のなかで、「本年一月、御本庁舎火災ニ罹リ、御保管ノ図書モ多ク灰燼ニ帰シタルト聞ク・・不肖吉郎所蔵ノ図書ヲ御庁ニ献納シ拓殖ノ参考ニ供セントス」と献納の理由を述べている。「本庁舎火災」というのは、明治42111日午後6時過ぎ、北海道庁内印刷所石版部から火災が発生したことをいう。この火災で庁舎屋根裏の文庫にあったすべての文書が焼失した。金田氏が献納した図書は、合計1326点である。明治政府賞勲局は、金田氏の寄附行為に対して銀杯を送っている。

 「船長(ふなをさ)日記」は、金田氏の寄贈によるものである。金田氏が、この本をどうようにして蒐集したのかについては、不詳。

(1~表紙) 「地)」・・日本の古典籍(こてんせき)、和古書(わこしょ)、和本(わほん)の冊数の数え方の二冊目。本文書は、「天・地・人」の3冊からなっている。

(1~表紙)「図書票簽(としょひょうせん)」・・表紙の中央に「図書票簽」が貼付されている。「簽(せん)」は、ふだ。

(1表紙) 「舊記(きゅうき)」・・図書票簽の「類名」欄に「舊記」とある。「舊」は、常用漢字「旧」の旧字体。北海道立文書館の「旧記」は、近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録などが2341点所蔵されている。原本に類するものは少ないが、すぐれた写本が多く、その内容の豊富さにおいても、誇りうる集書といえる。本文書はそのひとつである。

(2-3~4)「行て行て」・・「行て」がひとつ重複か。異本は、「行きて」と1回のみ。

(2-4)「猟師たる者」・・「たる」は、違和感がある。異本は、「たる」を「だつ」に作り、「猟師だつ者」とする。

(2-5)「鉄炮(てっぽう)」<漢字の話>「炮」・・①「石偏」の「砲」は、元来は、「礟(ほう)」の異体字。昔、石をはじき飛ばして敵にあてた武器。「火偏」の「炮」は、火(火薬)の力で弾丸を発射させる装置の武器。②旁について・・「鉄砲」の「砲」は、常用漢字なので、「包」で、中は「己」。一方、「鉄炮」の「炮」は、常用漢字でないので、旁の中は、「巳」

(2-5)「渡(わた)り」・・「渡り」は、「わたり」(辺り)で、「渡」を「わた」と読むのは、当て字。

(2-6~7)「おろし捨(すて)」・・下したまま置き去りにすること。

(2-89)「一丈」・・尺貫法による単位で、10尺(3.0303メートル)にあたる。

(3-1)「杓子(しゃくし)」・・飯や汁をすくう用具。汁杓子は円または長円形の頭を中くぼみに削り、柄をつけたもので、ブナなどを用いて木地師の一派が作製する。貝杓子も用いられ、「おかい」とも呼ばれるが、金属製品の普及で衰退している。飯杓子は長円扁平な頭に柄をつける。ほおのき製で、東北地方では「へら」とも呼ぶ。「しゃもじ」は、女房詞が普及したもの。杓子を主婦がもつために、主婦権の譲渡を「しゃくし渡し」とか「へら渡し」という。

 *「じゃもじ」・・「しゃくし(杓子)」の後半の「くし」を略し「文字」を添えた女房詞が一般化したもの。

 *「女房詞(にょうぼうことば)」・・中世に内裏や上皇の御所の女房の間で用いられた言葉。次第に広く公家社会で用いられるようになり、将軍家・大名その他の武家の女性の間でも用いられるようになった。食料品・道具・人事・衣料・神事・仏事・時刻などを表わす各分野の女房詞が多様に使われている。女房詞は近世には上品な言葉と意識され、一般の武家や町家の女性の間にまでも広まるようになった。女房詞は、「―もじ」と「お―(下略)」という造語法を特色とする。前者には「こもじ(鯉)」「すもじ(鮓)」「たもじ(蛸)」などがあり、後者には「おなす(なすび)」「おはま(はまぐり)」「おなま(なます)」などがある。これらの女房詞の中には、

「かもじ」・・「髪(かみ)」「髢(かずら)」「母(かか)」など「か」で始まる言葉の後半を略し、「文字」を添えたもの

②「ゆもじ」・・「ゆ」の音を語頭にもつ語の後半を略して「文字」を添えた女房詞。「ゆかたびら」の後半を略して「文字」を添えたものなど。

③「おひや」・・女房詞「おひやし(御冷)」の略)水。おもに冷たい飲み水。もともとは敬意の高い女性語であったが、江戸時代には単に丁寧な表現として、男女に関係なく一般に使われるようになった。

④「おでん」・・「田楽(でんがく)」の女房詞。

など、のちに女性語となり、男性も使う一般語となったものも多い。なお、御所の女房詞は、現在も宮中の女官用語や尼門跡の言葉としても受け継がれている。女房詞は女性語の歴史の中で特に注目されるものである。(この項はジャパンナレッジ版『国史大辞典』参照)

(3-2)「さましたたる」・・「た」がひとつ重複か。ここは、「さましたる」が正しいか。異本は、「さましたる」に作る。n

(3-3)「獣(け)もの」・・「獣」を文字通り「ジュウ」と読むと、「じゅうもの」となり、語感がよくない。ここは、「獣」のあとに「もの」があるから、「獣」を「け」と訓じ、「けもの」と読むのがいいか。

(3-3)「取(と)らするなり」・・助動詞「なり」は、終止形に接続するから、「取る」の連体形「取(と)らする」は、文法的には誤り。「ここは、文法的には「取らすなり」が正しい。

(3-5)「子丑(ねうし)」・・やや北北東。

(3-5)「地方(じかた)」・・陸地の方。特に、海上から陸地をさしていう語。陸地。岸辺。

 *<仮名遣いの話>「じかた」か「ぢかた」か。「地」の音読みに漢音の「ち」と呉音の「じ」がある。「現代仮名遣い」(昭和61年内閣告示第1号)では、

(1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」 例 ちぢみ(縮) つづみ(鼓) つづく(続) つづる(綴)
(2)二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」例 はなぢ(鼻血) そこぢから(底力)

をあげるが、「注意」として、

<次のような語の中の「じ」「ず」は、漢字の音読みでもともと濁っているものであって、上記(1)、(2)のいずれにもあたらず、「じ」「ず」を用いて書く。例 じめん(地面) ぬのじ(布地) ずが(図画) りゃくず(略図)>

としている。

本書の「地方(じかた)」は、元来呉音にある「じ」なので、「ぢ」としない。「地元(じもと)」「地獄(じごく)」「地酒(じざけ)」「地主(じぬし)」「地雷(じらい)」「地面(じめん)」「地震(じしん)」「布地(ぬのじ)」

「下地(したじ)」なども同様。

(3-6)「碇(いかり)」・・船をとめておくため、綱や鎖をつけて水底に沈めるおもり。・錨とも書き、古代は単に石に綱をつけただけのもので、『万葉集』では「重石」と書いて「いかり」と読ませている。「錨」は、金属のおもり。

(3-7)「陸(りく・おか・くが・くにが・くぬが・くむが)」・・陸地。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「くが」の語誌には、

 <(1)水部に対する陸部を表わす語には、「やま・をか」などもあるが、それらは平地部分とも対になる。一方、「くが」は平地とは対にならず、水部に対する語であり、後には(2)のように海路・水路に対する陸路をさすようにもなる。

(2)語形としては「クムガ」(書陵部本名義抄・色葉字類抄)、「クヌガ」(日本書紀古訓)、「クニガ」(改正増補和英語林集成)などがあり一定しない。語源的には「国(クニ)処(カ)」ともいわれるが、そうだとすると、日本書紀古訓の「クヌガ」は「クヌチ(国内)」などとの類推から作られた語形である可能性もある。>

 とある。

 *<漢字の話>「陸」・・①『漢字源』の解字には、旁の「坴(りく)」は、「土」+「八(ひろがる)」+「土」で、土が高く積って広がるさま、陸は、「阜(おか)」+「坴」で、もりあがって連なる意味を含むとある。

 *なお、「リク」は、漢音。呉音は、「ロク」で、証文や契約書で、改竄(かいざん)や誤解をさけるために「六」の代りに用いることがある。

(4-1)「いゝけれど」・・古文では、「いひけれど」で、「いゝ」は、「いひ」が正しい。異本は、「いひけれど」に作る。

(4-2)「口を引(ひき)て」・・「口」は、「くちなわ(口縄)」の略。牛馬などの口につける縄。

 なお、異本は、「口を引(ひき)てたべ」とある。「たべ」は、「た(給)ぶ」の命令形で、「ください」の意。本書は「たべ」がない。

(4-2)「不通」・・「通ぜず」。ここは、漢文の返読になっている例。

(4-2)「止事(やむこと)を得(え)ず」・・とどまることができない。しかたがない。よんどころない。やむをえない。やむなし。

(4-3)<見せ消ち>「あしく」を「ありく」と訂正・・「し」の左の「ニ」は見せ消ち記号。「ありく」は「歩く」。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「ありく」の語誌に

 <上代には、「あるく」の確例はあるが「ありく」の確例はない。それが中古になると、「あるく」の例は見出しがたく、和文にも訓読文にも「ありく」が用いられるようになる。しかし、中古末から再び「あるく」が現われ、しばらく併用される。中世では、「あるく」が口語として勢力を増し、それにつれて、「ありく」は次第に文語化し、意味・用法も狭くなって、近世後期にはほとんど使われなくなる。>

 とある。

 また、「あるく」の語誌には、

 <類義語「あゆむ」は一歩一歩の足取りに焦点をあてた語であるが、「あるく」「ありく」は足取りを超えて歩行移動全体に焦点が及ぶ。したがって、徒歩でなく、車に乗って移動するような場合にも用いられる。また、「あゆむ」が目標を定めた確実な進行であるのに対し、「あるく」「ありく」は散漫で拡散的な移動を表わすという違いも認められる。>

 とある。

(4-5)「尻馬」・・他の人が乗っている馬の尻。「尻馬に乗る」は、人の乗っている馬の後部に乗ること。

(4-5)「麦穂(むぎほ・バクスイ)」または、「麦、穂」か。・・「麦穂」は「麦の穂」。

(4-6)「穂に出る」・・現代では、「穂が出る」というように、「穂に」ではなく、「穂が」という。古文では、「穂に出(い)ず」という表現をする。穂となってぬき出る。穂先に実を結ぶこと。「に」は、動作・作用の結果、変化の結果を示す格助詞。

 *「めづらしき君が家なるはなすすき穂出(ほにいづる)秋の過ぐらく惜しも〈高円広成〉」(『万葉集』)

*「ほにいでたる田を、人いとおほく見さわぐは、稲かるなりけり」(『枕草子』)

*「あつしあつしと門々の声〈芭蕉〉二番草取りも果さず穂に出て〈去来〉」(『俳諧・猿蓑』

*「今よりはうゑてだにみじ花すすきほにいづる秋はわびしかりけり〈平貞文〉」(『古今和歌集』)

(4-7)「白壁(しらかべ・しろかべ)」・・白い壁。

 *「白」を「しら」と訓じる例・・「白(しろ)」は、語頭では、「しら」に変化することがある。「白髪(しらが)」、「白和え(しらあえ)」。「白羽(しらは)」、「白樺(しらかば)」、「白魚(しらうお)」。「白玉(しらたま)」、「白洲(しらす)」、「白々(しらじら)しい」、など。

 **「白」を「しら」「しろ」と両方訓じる例・・「白砂(しろすな・しらすな)」、

(4-8)「大手先(おおてさき)」・・城の大手門の前。または、その広場。ここでは「紅毛屋敷」の正面前。

(4-9)「紫羅紗(むらさきらしゃ)」・・「羅紗」は、毛織物の一つ。一般には織目が見えないまでに縮絨(しゅくじゅう)・起毛・剪毛(せんもう)の加工仕上げを行なったものをいう。ポルトガル語のRaxaを語源としている。日本へは南蛮貿易によって、十六世紀後半に舶載され、武将たちに防寒や防水を兼ねた陣羽織・合羽などとして用いられた。特に緋羅紗は猩々緋(しょうじょうひ)と呼ばれて珍重された。江戸時代を通じてオランダおよび中国の貿易船によって、大羅紗・小羅紗・羅背板(らせいた)・ふらた(婦羅多)・すためん(寿多綿)のほか、両面羅紗・形附羅紗・類違い羅紗など多くの品種が輸入されている。武家では火事羽織・陣羽織、あるいは鉄砲・刀剣・槍など武器や挾箱などの調度の蔽布・袋物類、または馬装などに、町人の間では羽織・夜具、下駄の鼻緒などに利用されてきた。(この項『ジャパンナレッジ版国史大辞典』参照)

(4-910)「唐ざらさ」・・輸入品のサラサ。「さらさ(サラサ・更紗)」は、近世初頭から舶載された外国の模様染布の総称。金箔・金泥を施したものは特に金華布・金更紗と呼称する。主として木綿の布に手描き、あるいは型を用いて模様を染めたもので、インド・ジャワをはじめタイ・スマトラ・中国・イラン・ヨーロッパ製のものがある。日本で模倣製作されたものは「和更紗」と呼ぶ。その語源についてはジャワ語のsrasah、ポルトガル語のsarassa,saraçs、スペイン語のSaraza、インド西海岸の要港であったSulatの転訛)、インド南海岸地域の古語saraso,sarassesなどが考えられるが、いずれも確かな証拠はない。(『ジャパンナレッジ版国史大辞典』参照。)

(5-1)「切(きれ)」・・動詞「きれる(切)」の連用形の名詞化。布帛(ふはく)の切れ端。また、広く反物(たんもの)、織物をもいう。

(5-34)「重吉が右の手」・・「重吉が」の「が」は連体格の格助詞。「~の」。ここでは、「重吉の右の手」。

(5-7)「沙汰(さた)」・・報知。報告。通知。消息。たより。また、吹聴すること。「沙」はすな、「汰」はえらび分けるの意で、語源説に「沙(すな)を水で淘(ゆ)り、沙金をえりわける意が転じたもの」がある。

(5-8)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は「馳」の当て字。「馳走」は、(用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(5-11)「入(いる)れば」・・入れれば。下2動詞「入(い)る」の已然形「入(いる)れ」+接続助詞「ば」。

『ふなをさ日記』9月学習の注(1)

            
(90-1)「シツハン」・・ジャパン。マルコ=ポーロ著「東方見聞録」中で日本にあてられた地名「ジパング」から。中国の東1500海里の島で、黄金宝石に富むとされる。ジャパン(Japan )をはじめとして欧米で日本をさす語はこの語に由来する。 

(90-2)「シヤコ」・・異本は、「ミヤコ」に作る。

(90-23)「キウシウ」・・九州か。西海道のこと。筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅の九か国に分けたことによる。

(90-3)「ヱト」・・江戸か。

(90-3)「スルガ」・・駿河か。東海道一五か国の一つ。大化改新のときに成立。天武天皇9年(680)伊豆国を分離。古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設定された。南北朝時代以降は今川氏の領国となり、一時、武田氏に支配された。天正10年(1582)徳川家康が領有。明治4年(1871)の廃藩置県により静岡県に編入。駿州。

(90-3~4)「日本の人にて、何国(いづく)の人にやとたづぬるならんと思ひて」・・(イギリス船の乗組員が、重吉らに)「日本の中のどこの地方の人か」と尋ねるだろうと思って。

(90-5)「遠江(とおとうみ)」・・(都に近いうみ、近つ淡海=ちかつおうみ。琵琶湖=に対し、都に遠いうみ、遠つ淡海=とおつおうみ。浜名湖=のある国の意)東海道一五か国の一つ。大化改新(645年)後、素賀(すが)・久努(くぬ)などの諸国が統合して成立。鎌倉幕府は国守に御家人を任じ、南北朝時代に今川氏・斯波氏が守護となる。のち、今川氏が領有。桶狭間の戦いで今川氏が滅びた後は徳川家康が支配し、江戸時代には浜松・掛川・横須賀・相良の諸藩に分かれた。明治4年(1871)の廃藩置県により堀江県となり、浜松県を経て、同九年静岡県に合併された。遠州。

(90-6)<見せ消ち>「両」を「南」と訂正・・「両」の左にある「ニ」は、見せ消ち記号。

(90-6)「手品」・・手の様子。手のぐあい。手つき。手さばき。手ぶり。

(90-7)「気色(きしょく・きそく・けしき・けしょく)」・・顔面にあらわれた表情。顔色。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「気色」の語誌には、

 <(1)「気色」は、呉音「けしき」と、漢音「きしょく」及びその直音化の「きそく」の三とおりの読みがなされる。「きそく」は平安末期以降用いられ、さらにやや遅れて「きしょく」が中世以降盛んに使用されたが、「きしょく」の多用に伴い、「きそく」は徐々に用いられなくなっていった。

(2)中世以降、〔二〕の用法で「けしき」と「きしょく」(「きそく」は「きしょく」よりさらに意味が限定される)が併用されるが、「けしき」は中古の仮名文学に多用されたため、和語のように意識され、外面から観察される心の様子について用いられる傾向があるのに対し、「きしょく」は漢語的な性質をもち、人の内面の状態そのものを表わすことが多いというおおよその違いがある。>

 とある。

(90-8)「まします」・・異本は「おはします」に作る。ここは、「おまします」の「お」が脱か。「おまします」は、「おおまします」の変化したもの。あるいは、「おわします」の「わ(は)」が「ま」に変化したものか。「ある」「いる」の尊敬語。いらっしゃる。おわします。

(90-10)「仕たれば」・・したれば。「仕」は変体仮名にない。ひらがなの「し」に当てたか。

(90-11)「ランダン」・・ロンドンか。本書は、次に、「オランタ(オランダ)といふ事成べし」とあるが、後に、「ロンドン」としている。(『ふなをさ日記―地』のP8)

(91-2)「紅毛(こうもう・オランダ)」・・明代中国人がオランダ人を指して呼んだ紅毛番・紅毛夷の略称。彼らの毛髪・鬚が赤いところから由来する。イギリス人を呼称する語にも用いられたことがある。日本でもこれが援用され、ポルトガル・イスパニヤを南蛮と呼称したのに対し、主として紅毛は阿蘭陀・和蘭・荷蘭などとともにオランダを指す語として併用した。イギリスをも呼んだがこれはきわめて少ない。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注には、

<漢字で「紅毛」と書いてオランダとよませる場合もあり、振り仮名のない場合はどちらとも決めかねることが少なくない。>

とある。

(91-4)「なめり」・・断定の助動詞「なり」の終止形(一説に連体形)が推定の助動詞「めり」を伴うとき音便化して「なんめり」となり、その撥音「ん」が表記されなかったもの。主として外観から判断、推定する意を表わす。…であると見える。…であるらしい。

(91-6)「心悦(よろこ)べ」・・「心悦」は、名詞で「心からよろこぶこと」。ここは、動詞扱いになっているから、「心悦べ」を、「こころよろこ(べ)」と読むと、違和感があり、単に、当て字として、「よろこ(べ)」と、訓じるほうが妥当か。なお、異本は、「喜べ」に作る。

 

『蝦夷日記』2013.9月注


(168-1)<図書館所蔵印>「北海道帝国大学圖書之印」

<北海道大学の略史>

・明治5(1872).4.15・・開拓使仮学校開校(芝・増上寺)

・明治8(1875).7.29・・開拓使、仮学校を札幌に移転、「札幌学校」と改称。97日開校式。

・明治9(1876).8.14・・「札幌農学校」の開校式。(札幌学校からの改称は9月)

・明治40(1907).6.22・・札幌農学校を東北帝国大学農科大学とする。

・大正7(1918).4.1・・北海道帝国大学となる。

・昭和22(197).10.1・・北海道大学と名称変更。

<北海道大学附属図書館の略史>

・明治9(1876).9・・札幌農学校講堂に「書籍室」設置(蔵書6,149冊)

・明治40(1907).6・・「東北帝国大学農科大学図書館」と改称。

・大正7(1918).3・・「北海道帝国大学図書館」と改称。

・大正7(1918).11・・「北海道帝国大学附属図書館」と改称。

・昭和6(1931).12.9・・『蝦夷日記』を巌松堂書店(東京神田・現巌松堂出版)から購入。

・昭和22(197).10・・「北海道大学附属図書館」と改称。

・平成24(2012)331日現在の蔵書・・3788009

(168-2)「アツベツ」・・東蝦夷地サル場所のうち。日高地方西部、厚別川下流右岸の地域。現沙流郡日高町厚賀町。「厚賀」は、明治42(1909)までは、沙流郡厚別村であったが、同年門別村の大字になった。「厚賀」の地名は、厚別と賀張(かばり)の頭文字を取り、明治4年(1871)当地に移住した旧彦根彦根藩士によって名づけられたという。(『門別町史』)

(168-3)「アツベツ川」・・日高管内の西部を流れる川。地元では「あっぺつ」ともいう。中流以降は日高町門別と新冠町との境界をなしながら南西流して太平洋に注ぐ。二級河川。流路延長は42.8キロ、流域面積290.7平方キロ。日高山脈のリビラ山(1291メートル)の西麓に源を発し、初めは日高山系の壮年谷を深く刻みながら西方に向かい、門別町の三和(みわ)地区で流れを南西方から南東方に変える。同町正和(しようわ)集落でピウ岳(1134メートル)西面を水源として門別・新冠の町境を流下してきた里平(りびら)川と合流して南流に転じ、両町の境界に沿って流れ、左岸に新冠町域を流れてきた比宇(ひう)川・元神部(もとかんべ)川などを合せ、元神部川合流地点付近から南西流に戻り、日高町厚賀市街と新冠町大狩部(おおかりべ)との間で海に入る。近代以降は上流奥地の木材伐出しが盛んであった。

 『蝦夷地場所大概書』によれば、当川は「佐留」と「新勝府」の場所境であり、「川守夷人は新勝府より出し、渡船は佐留より」出していた。しかし後には双方から隔年で渡守を出すようになり、『場所境調書』」はその経緯について「往古はアツヘツの西岸を以てなし、其川東にはニイカッフ土人等多く住居いたしたるに、ニイカッフ計にして此川を渡すことを怒り、渡し守はニイカッフより差出候間、船丈をサルにて作り呉候様相談相調ひ、左様に致し居候処、其内此川筋には鹿が多く居る事を知、モンヘツの上より土人等多く山越致しては来り、此上に住し、終に此処の住人となり、当時両所入合に相成候。川も今にては一ケ年交代に渡し守を相勤るよし也」と述べる。

(168-4)「山田や文右衛門」・・山田文右衛門。江戸時代から明治時代前期にかけて、北海道で活躍した事業家の代々の通称。古く松前に移り住んだ旧家と伝えられているが確かなことはわかっていない。明らかなのは文化4年(1807)当時栖原角兵衛が松前藩より請け負っていた留萌場所の支配人として増毛より滝川に通ずる山道を切り開いたのが十五代文右衛門で、能登国羽咋郡志賀町の出身。以前蝦夷通辞だったという。当時樺太・宗谷を舞台として活躍していた同郷阿部屋の下で働いていたらしい。文政4年(1821)太平洋岸勇払場所、翌年隣の沙流場所を、天保3年(1832)にはさらに厚岸場所を併せ請け負い、場所内のアイヌを手不足の場所に出稼させ、新しい漁法を入れて収獲を増加し、また勇払―千歳間に陸路を開き、牛車をもって石狩の鮭を勇払に送るなどの工夫をこらして産をなした。甥の十六代文右衛門は、安政2年(1855)幕府の蝦夷地再直轄に際し、支店を箱館に設けてこれに協力し、同4(1857)箱館奉行より樺太開拓の命を受け、東海岸栄浜近傍に漁場を拓き、元治元年(1864)無事引き上げるまで続けた。有名なのは、開国により昆布が輸出品として有望化したのに着眼、投石による昆布礁の造成によって増産し得ることを実験し、率先して沙流場所に集中的に投石して範を示し、奥地に昆布漁を拡げるための刺戟として役立った。開拓使はこれを高く評価し、明治14年(1881)明治天皇行幸の際には賞状を賜わり、養殖漁業の先駆としてその名を知られた。同16(1883)912日没。墓は石狩郡石狩町の能量寺にある。

(168-6)「フクモミ」・・漢字表記地名「福籾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高町厚賀市街の西を流れる玉水川流域の地名。

(168-7)「ケノマイ」・・漢字表記地名「慶能舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現沙流郡日高町清畑の慶能舞川河口付近。

(168-7)「チヤラセナヰ」・・現沙流郡日高町清畑と同豊郷の間。松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「小休所一棟、此辺砂路至てよろし。出稼小屋海岸に多し」とある。

(169-1)「ハヰ」・・漢字表記地名「波恵」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高町豊郷。波恵川河口付近。

(169-1)「此間小川はし有」・・「小川」は、波恵(はえ)川。現沙流郡日高町豊郷集落の西側。

(169-4)「サル」・・「サル」は、漢字表記地名「沙流」「沙留」「佐瑠」などのもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は「サル」(現沙流川)流域をさし、場所名としても用いられた。当初運上屋(のち会所)はサルベツ河口のサルフトに置かれていたが、一八世紀半ば頃東方のモンベツに移されたが、運上屋(会所)の名前は、そのまま、「サル」と呼ばれたため、地名は、「モンベツ」であるが、「サル」または「サルモンベツ」とよぶ場合もあった。

(169-4)「会所」・・サル場所の運上屋は当初沙流川の河口(サルフト)にあったが、のちにモンベツ(サルモンベツ、現門別町本町)に移った。会所(運上屋)のモンベツ移転時期については、1790年代には運上屋がすでにサルモンベツに移っていたことが確認できる。

(169-78)「此所山の出先也」・・現門別漁港付近をいうか。

(169-8)「馬切(まきり)」・・マキリ。アイヌ語から。小さい刀。

(169-89)「稲荷大明神」・・現門別稲荷神社。

(169-9)「義経大明神」・・寛政11(1799)幕吏近藤重蔵らがモンベツ(門別)とビラトリ(平取)とに寄進した源義経神像を安置するためにモンベツ会所が両所に社祠を造営したことをもって創建とされるが異説も少なくない。義経社はビラトリのほかシノタイ(現日高町門別)にも祀られていた。義経の神像はモンベツの会所近くに祀られる弁天社に合祀されており、神像がヒラトリからモンベツへ移されていたことが知られる。本文書の「義経大明神」は、モンベツ・シノタイにあった。

(169-910)「三社壱つの宮」・・『協和私役』には、「公の祠は会所の後の岡にあり。二祠あり。前は弁天、稲荷、公を配して是を祭る。公の木造一尺余なるを安置す」「後に一祠あり。義経社と云。扁額を掛く。公の像本は此祠に祭るなるべし。人の来り拝せんが為に移して前祠に在らしむ」とある。本文書の「三社」は、サルモンベツの弁天社、稲荷社、義経社をさすか。「壱つの宮」の文意は、義経社は、その1つの社の意か。

(169-10)「ビウトリ」・・平取。漢字表記地名「平取」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(170-2)「奉安鎮(安鎮奉る)」・・「安鎮(あんちん)」は、神仏などを安置して、鎮めること。

(170-3)「モンベツ川」・・日高門別川。沙流郡日高町の中西部に位置する標高337メートルに源を発し、多数の支流と合流しながら門別の中心部を貫流して門別本町市街地で太平洋に注ぐ。流域目mm席99.8平方キロ、流路延長31.1キロの2級河川。

(169-10)「ビウトリ」・・ビラトリ。漢字表記地名「平取」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

(170-5)「サルブト」・・漢字表記地名「佐瑠太」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入って佐瑠太(さるふと)村に包含された。現日高町富川。

(170-8)「フイバブ」・・現日高町富川西の太平洋岸。むかわ町との境界付近。現在、フィハップ海浜公園となっている。平成元年(1989)から5(1993)まで、潮干狩り客のため、JR日高本線の「フィハップ臨時駅」が解説された。

(170-10)「ム川」・・漢字表記地名「鵡川」のもとになったアイヌ語に由来する地名。本来は河川名であったが、流域の総称・場所名として用いられ、また河口部のコタン名としても記録されている。

(170-10)「広サ七十間余の大川」・・「大川」は、鵡川。日高山脈北部、上川管内占冠(しむかつぷ)村と同南富良野町の境にそびえる狩振(かりふり)岳(1323.4メートル)の西麓に源を発し、上川管内の南端部から胆振管内東端部にかけて南西に向かって流れる一級河川。流路延長は135五キロで、流域面積は1270平方キロ。上流域に占冠村役場がある小盆地があり、パンケシュル川・双珠別(そうしゆべつ)川を合流後、蛇紋岩の岩脈をうがち、占冠村の赤岩青巌(あかいわせいがん)峡を下る。中流域では胆振かんないのむかわ町穂別市街で夕張山地から南流する穂別川と合流し、沖積低地を曲流して同支庁の鵡川町で太平洋に注ぐ。

 *ところで、「ムカワ」の地名の由来は、アイヌ語の「ムカ」(水が湧くの意)による説がある。また、「ムックアッ」から訛って「ムカワ」になったという。でれば、「鵡川」は、「ムカワ川」あるいは「鵡川川」であるべきと思う。

(171-1)「ムカワブチ」・・ムカワフト。鵡川河口付近。はじめ、鵡川上流部を上ムカワ、下流部を下ムカワと称し、流域全体をムカワと称するとともに、下ムカワの中心地・鵡川河口部をもムカワと呼称した。この狭義のムカワが幕末にムカワフトと称するようになった。明治初年から同6(1873)まで勇払郡のうち、「鵡川フト村」と称し、明治6(1873)「鵡川村」となった。

(171-3)「イルシカベツ」・・漢字表記地名「入鹿別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現勇払郡むかわ町田浦。

(171-5)「アヅマ」・・漢字表記地名「厚真」のもとになったアイヌ語に由来する地名。地一帯は近代に入り厚真村に包含された。現在の自治体名「厚真」は、「アツマ」と清音で読む。

(171-6)「アヅマ川」・・勇払原野の東側を流れる二級河川。厚真町の苫小牧港東港東外防波堤の東側で太平洋に注ぐ。流路延長は52.3キロ、流域面積は382.9キロ。厚真町と夕張市境の夕張山地南部に源を発し、新第三紀層の褶曲作用による台地を横切り、ショウシウシ川・メルクンナイ沢を合せて厚真ダムを造る。さらにショロマ川・鬼岸辺(おにきしべ)川・頗美宇(はびう)川を合流してしだいに流域を広げ、厚真市街付近で北から近悦府(ちかえつぷ)川、東からウクル川などが流入、各河川とも隆起扇状地からなる広い沖積地をつくり、胆振東部の穀倉地帯を形成する。下流部は勇払原野東部の泥炭低湿地で、牧場が点在する。河口右岸の苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所では四基の発電機が稼働し、平成一四年(二〇〇二)七月現在165万キロワットの道内最大の出力を誇る。

(171-8)「ユウブツ」・・漢字表記地名「勇払」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧市勇払。「ユウフツ場所」は、寛政11(1799)幕府が東蝦夷地を直轄地とした際、シコツ十六場所をまとめてユウフツ場所とした。

(172-3)「巾三十間余の川」・・勇払川。苫小牧市の北部から東部を流れる二級河川。安平川の支流で、流路延長三七・八キロ、流域面積二一九・四平方キロ。支笏火山群のモラップ山(五〇六・六メートル)東麓の字丸山の奥地に源を発し、市域の北部を横断し、字沼ノ端北部でウトナイ湖から流出して南部に向かう美々川を合流して勇払原野を南流、河口付近で安平川に合流して太平洋に注ぐ。

(172-34)「此所より西蝦夷地●イシカリ川へ山越道なり」・・西蝦夷地(イシカリ場所)と東蝦夷地(ユウフツ場所)の境界は、島松川。

(172-5)「マコマイ」・・漢字表記地名「真小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧西港付近。昭和10年代まで苫小牧川は海岸線に沿って東流し、苫小牧西港の港口付近から太平洋に注いでいた。

(172-8)「トマコマイ」・・漢字表記地名「苫小牧」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り苫小牧村に包含された。松浦武四郎の『山川地理取調図』では「マコマイ」と「ホンコイトイ」「コイトイ」の間に記載されている。なお苫小牧村は、勇払郡に属し、はじめ「苫細村」とかき、明治8年(1875)太政官布告で「苫小牧村」に修正された。

(172-10)「コヱトイ」・・漢字表記地名「小糸魚」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧西部の小糸魚川河口付近。P173にも「コヱトイ」がある。ここは、松浦図の「ホンコヱトイ」をさすか。

(173-4)「タルマイ」・・支笏湖南岸にある風不死(ふつぷし)岳の東に接する活火山。苫小牧市・千歳市・白老郡白老町にまたがる。扁平な円錐型火山で、東方と南方に長い裾野をもつ。頂上部は直径約1.2キロのなだらかな外輪山の内側にあり、浅い火口原の中央に直径約400メートル、比高約130メートルの溶岩円頂丘がある。明治42年(1909)半固結の輝石安山岩質溶岩が古溶岩円頂丘を破壊して出現したもので、世界でもまれな三重式火山。溶岩円頂丘は昭和42年(1967)に道の天然記念物に指定。外輪山の最高点は東山で1023.1メートル、溶岩円頂丘の標高は1041メートルで、樽前山の最高点をなす。風不死岳および支笏湖北西岸に接する恵庭岳とともに、支笏湖を湛えた支笏火山カルデラの寄生火山で、完新世初頭に火山活動を開始した。以後、昭和5354年の小噴火まで、寛文7年(1667)以降のみでも数十回の噴火を繰返す。

(173-6)「ニシタル」・・ニシタップ。漢字表記地名「錦多峰(にしたっぷ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現苫小牧市錦岡付近。

(173-8)「ヲボフ」・・漢字表記地名「覚生」のもとになったアイヌ語に由来する地名。苫小牧市西部の覚生川河口付近。現苫小牧市錦岡付近。

(173-10)「南部」・・陸奥の豪族南部氏の旧領地で、現在の青森県東半分から岩手県中部にわたる地域の称。

 蝦夷地には、古くから、南部地方から、出稼ぎに来る人々がいた。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年9月9日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

『ふなをさ日記』8月学習の注

(84-1)<くずし字の話>「よく洗(あらい)て」の「よ」・・「よく」の「よ」の1画目の横棒がほとんどないか、「ヽ」になっている場合がある。(『くずし字用例辞典』P1288下段参照)

(84-1)<漢字の話>「釣」・・①常用漢字で、旁の3画目が「一」から「ヽ」になった。「勺」「的」「酌」まど。

              ②常用漢字になっていない字は、「一」のまま。


(84-2)「薬種」・・薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。

(84-3)「とにかくに」・・何かにつけて。得てして。どうかすると。ともすれば。とかくに。

(84-4)「のみ」・・今日では、①「ある事物を取り立てて限定する。強調表現を伴う。…だけ。…ばかり」の意だが、ここは、①の限定の意味合いが薄れ、強調表現のために用いられたもの。ある事物や連用修飾語の意味を強調する。「~が」

(84-4)「ことば通じせね」・・「通じせぬ」は、語調がよくない。異本は「通ぜぬ」と、「し」がない。

(84-5)<くすじ字の話>「見れ共」の「共」・・冠の部分が省略されて、脚の「ハ」だけになっていたり、「ん」のようになっている場合が多い。(『くずし字用例辞典』P84下段)

(85-5)「いとど」・・副詞「いと」の重なった「いといと」が変化したもの。程度が更にはなはだしいさま。ますます。いよいよ。ひとしお。一段と。

(84-6)「午(うま)の時(とき)」・・昼の12時ころ。

(84-67)「給物(たべもの)や出(いず)るらん」・・食べ物が出るだろうか。「や」は、係助詞。結びの推量の助動詞「らん」は「らん」の連体形。「係り結びの法則」といい、文末は連体形で結ぶ。

(84-7)「大きやかなる」・・形容動詞「大きやかなり」の連体形。「やか」は接尾語。大きく見えるさま。

(84-8)<くずし字の話>「真中」の「真」・・冠の部分が「者」のくずし字のようになって、脚の「ハ」が大きくなったり、「つ」のようになっている場合が多い。(『くずし字用例辞典』P735下段~P736上段)

(84-8)「居(す)へて」・・置いて。下2動詞「居(す)う」の連用形。本来ならおくりがなは、「居(す)ゑ」と「ゑ」でであるべきで、「居(す)へ」の「へ」は誤用。「据う」とも。

(84-9)「中に据、」・・影印は、「倨」と、ニンベンになっている。テヘンの「据」の誤りか。ちなみに「倨」は、「おごる・あなどる」の意で、「倨気(キョキ)」(ごうまんな気分)、「倨視(キョシ)」(たかぶって人をみさげる)などの熟語がある。

(84-9)「キヤマン」・・ギヤマン。オランダ語「diamant 」。彫刻をほどこしたガラス製品を「ギヤマン彫り」と呼んだところから。ガラス製品一般をさす。ビードロ。玻璃(はり)。

(84-9)<漢字の話>「庖」・・①「庖」は、常用漢字でないから、脚の3~5画目は、「己」でではなく「巳」。同様に「鞄」(かばん)、「炮」(鉄炮)、「鉋」(かんな)、「咆」(咆える)、「雹」(ひょう・あられ)なども、「巳」

              ②常用漢字になった字は、「巳」から、「己」になった。「包」(つつむ)、「抱」(だく)、「泡」(あわ)、「砲」(鉄砲)、「胞」(同胞)、「飽」(飽きる)


(84-10)「めぐり」・・動詞「めぐる(巡)」の連用形の名詞化。かこみ。周囲。

(84-10)「床几(しょうぎ)」・・室内で臨時に着席する際に用いる一種の腰掛け。脚を打違いに組み尻の当たる部分に革を張り、携帯に便利なように作ったもの。陣中や狩り場などでも用いられた。また、神輿の台などにも使用された。畳床几(たたみしょうぎ)。            

(85-1)「呑(のど)」・・普通は、「喉・咽・吭」などを使う。

(85-2)「かゝる」・・腰かける。

(85-23)「丼鉢(どんぶりばち)」・・厚手で深い陶製の、食物を盛る鉢。なお、「丼」は、「井」の本字。国字としては、井戸に物を投げたさまから、「どぶん」「どんぶり」の音を取って、「どんぶり」の意味を表す。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の補注に<「丼」には「集韻」に「投物井中声」とあるように、井戸に物を投げいれた音の意がある。名詞ドンブリに「丼」があてられたのは、井戸に物を投げいれたときの音をさす副詞ドンブリに対応する漢語が「丼」であったことによるか。>とある。

(85-3)「もろこし」・・もろこし(唐土)より渡来したところから。イネ科の一年草。アフリカ原産で、日本へは中国を経て渡来し、広く栽培されている。高さ一・五~三メートル。稈(かん)の節に短毛を生じる。葉は線状披針形、長さ約六〇センチメートル。夏、梢頭に長さ二〇~三〇センチメートルの円錐状の花穂をたてる。小穂は卵形で赤褐色。子実は白・赤褐色・黒色など。「もち」と「うるち」の別があり、子実を粉末にして餠や団子をつくる。漢名、蜀黍。たかきび。もろこしきび。とうきび。

(85-4)「ヘケツ」・・本書では、これまで船頭を「べケツ」としているので、「ベケツ」のことか。

(86-1)「円豆(えんどう)」・・空豆。「豌豆」「薗豆」とも書く。

(86-1)「青み」・・青味。吸い物、刺身、焼き魚などのあしらえとして添える青い野菜。

(86-6)「しらげ」・・動詞「しらげる(精)」の連用形の名詞化。米をつきしらげること。玄米をついて精白すること。また、その米。白米。

(86-8)「太白(たいはく)」・・精製した純白の砂糖。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「支那よりは三種白糖を持来る。上品を三盆と云、次を上白、下品を太白と云」という『随筆・守貞漫稿』の用例を引いている。

(87-3)「しひて」・・動詞「しいる(強)」の連用形に助詞「て」が付いてできた語。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(87-6)「残なく」・・残らず。

(87-8)「聞(きか)まほしく」・・聞きたく思って。「まほしく」は、助動詞「まほし」の未然形。「話し手、またはそれ以外の人物の願望を表わす。…したい。」

(88-23)「気(け)しき」・・様子、有様。

(88-3)<文法の話>「見する」・・「見する」は、「見す」の連体形。ここは、「見す」と終止形が本来だが、連体止めの用法。なお、異本は、「見するを」と、接続助詞の「を」を下接している。「を」は連体形に接続するから、この場合は、「見する」でいい。

(88-4)「切(きり)こなして」・・切って細かくして。「切こなす」は、たくみに所要の形に切る。適宜に切る。

(88-45)<文法の話>「塩漬にしたるにてぞ有ける」・・「有ける」は、終止形では「有けり」。ここでは、係助詞「ぞ」を受けて連体形「ける」で終止する。「係結終止法」という。

(88-5)「浅ましき」・・「浅まし」は、②意外である。驚くべきさまである。②品性がいやしい。がつがつしている。さもしい。などの意があるが、ここでは②か。

 語誌についてジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<平安散文では、思わぬ結果になった後の落胆、失意といった不快な感じを込めている。時代が下がるにつれて、情けない、見苦しい、いたましいといった意が強くなり、近世では貧しい、品性がいやしい、さもしいの意となり、現代語に連なる。>とある。

(88-6)「十五日」・・陰暦正月一五日の朝には、一年中の邪気を払うとして、望粥(もちがゆ)の御膳を供する。古くは米・粟・黍・稗・子(みのごめ)・胡麻・小豆の七種をまぜてたいた粥と、小豆を入れた粥とが行なわれたが、のちには小豆粥だけになった。本文は2月15日だが、その習慣は適用されたのか。

(88-7)「わきて」・・動詞「わく(分)」の連用形に、助詞「て」の付いてできた語。特に。格別に。とりわけ。わけて。わいて。

(88-9)「今は、神々をおがむ事はできす」・・肉を食すれば、けがれたりとして、神前で拝む事はできない。

(88-11)「いやとよ」・・感動詞「いや(否)」+連語「とよ」から。他人のことばを強く打ち消す時のことば。いやそうではない。

(89-1)「何にまれ」・・「何にもあれ」の変化したもの。事物を非選択的に受け入れる気持を表わす。どんなものでも。どれと限らず。

(89-2)<文法の話>「言聞せける」・・「ける」は、「けり」の連体形。ここは、本来は「言聞せけり」だが、連体止めの形をとっている。

(89-3)「そがそか敷(しく)」・・「そがそがし」は、曾我兄弟が貧に苦しんだところから「曾我」にかけて、貧乏じみたさまや貧弱なさまを表わす語。

(89-5)「あくまで」・・飽きるほど。ここでは、食べ飽きるほど。「あく」は、4段活用「あく」の連体形。副助詞「まで」は連体形に接続する。

(89-6)「漸々(ようよう)に」・・だんだんに。すこしづつ。

(89-7)「ものしたり」・・そのようにした。「ものす」は、名詞「もの(物)」にサ変動詞「する」の付いてできたもの。種々の動詞の代わりとして、ある動作をそれと明示しないで婉曲(えんきょく)に表現するのに用いる。人間の肉体による基本的な動作をさす場合が多く、中古の仮名文学に多く用いられた

(89-10)「地走(ちそう)」・・馳走。「地」は、「馳」の当て字。用意のためにかけまわる意から)心をこめたもてなし。特に、食事のもてなしをすること。饗応すること。あるじもうけ。接待。また、そのためのおいしい食物。りっぱな料理。ごちそう。

(89-11)「のべて」・・延(の)べて。広げて。「のべて」は、下2動詞「のぶ」の連用形「のべ」+接続助詞「て」。

『蝦夷日記』8月学習注

(162-2)「● より鮭五百本」・・意味不明。異本は、「●尤大鮭五百本」に作る。「より」を「尤」とし、「鮭五百本」の前に、「大」がある。

(162-2)「びん」・・異本は、カタカナで「ピン」に作る。

(162-4)「モヤチコチ」・・松浦図は「チヤシコツ」とある。井寒台と絵笛の間の地名。「チヤシコツ」について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「此所より上に新道有。文化度御切開の由。・・上に城跡と云もの有。形ばかりの土塁にして聊(いささか)ばかり象(かたち)を残す。地名チヤシコツ城跡の事也。是よる字エフイの上を通りてシリヱトへ下る」とある。

(162-5)「ユフイ川」・・松浦図には、「イフイ」とある。「ユフイ」は、漢字表記地名「絵笛」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現浦河町絵笛。

(162-56)「シリイド」・・漢字表記地名「後辺戸」のもとになったアイヌ語に由来する地名(岬名)。現浦河町浜東栄付近。

(162-6)「ヱウら川」・・異本は、「元ウラ川」に作る。「元」のくずしは、ひらがなの「え」によく似ているので、筆者は、「元ウら川」の「元」を「え」と読み、さらに、カタカナの「ヱ」として、「ヱウら川」としたのではないだろうか。「元浦川」は、浦河町の西部を流れる二級河川。日高山脈の神威岳(一六〇〇・五メートル)に水源を発するシュオマナイ川と、ソエマツ岳(一六二五メートル)に水源をもつソエマツ川が合流する辺りから一般に元浦川とよばれる(河川管理上はソエマツ川筋が本流)。合流点付近からはほぼ南流となり、野深(のぶか)付近から蛇行を繰返し、荻伏(おぎふし)市街を経て太平洋に注ぐ。流路延長四三・五キロ、流域面積二三九・七平方キロ。

(162-78)「ヱ(元)ウら川奥山、続(つらなり・つらなって)蝦夷小屋五十軒余有之」・・「奥山続」は、①「ヱ(元)ウら川奥、山続」。②「ヱ(元)ウら川、奥山続」。③「ヱ(元)ウら川奥山、続蝦夷小屋」などの読み方があるのだろうが、私は、「奥山、続(つづきて・つらなりて)蝦夷小屋五十軒・・」と読みたい。つまり、続いているのは、「奥山」や「山」ではなく、「蝦夷小屋」。元浦河上流には、最近まで、姉茶、野深などのアイヌ人の集落が続いていた。以下、前掲『竹四郎廻浦日記』(安政3年)の記述を表にしてまとめて見る。

 

位置についての記述

地名

蝦夷小屋軒数

川筋は渡し場より少し上(十七丁)

ヒラキウカ

24

此少し上

ヌンヘトウ

3(当時はなし)

又少し上り(凡四丁)

トフシンタリ

13

又少し上りて

フウレトウ

4(今はなし)

又少し上りて

ウエンコタン

3(今はなし)

並て少しまた上に(十丁)

ヤハトル

3(昔5軒有し由)

また少し上りて(十丁)

トウルケシ

2(むかし3軒有)

また少し上に(半里)

ケナシトマラ

むかし有て、今はなし

また少し上に

エヲルウシ

4(昔無かりし処)

又しばし上りて(十丁)

ケナシトマツフ

今はなし(先年3軒有し由)

又少し上りて(半里)

ア子シヤリ(姉茶)

2(昔時は4軒)

又少し上り(八九丁)

コイカヘツ

10(昔は8軒程有し由)

又少し(十二丁)上りて

ヌフカ(野深)

11(昔9軒)

 

合計78軒

 

(162-9)「モトウラカワ」・・かつて当川はウラカワとよばれていた。最下流部の右岸にはウラカワ場所(商場)の運上屋が置かれ、運上屋の一帯もウラカワの地名でよばれていた。しかし一八世紀の九〇年代までに運上屋(会所)は東方の昌平(しようへい)川河口部(ムクチ)に移転、当川やかつての運上屋所在地はともにモトウラカワとよばれるようになった。

(162-10)「惣名(そうみょう)」・・全域。

(162-10)「を●ニウシ」・・異本は、「ヲニウシ」に作る。本テキスト影印は、「惣名を、ニフシ」と読むか、「惣名、をニフシ(オニフシ)」と読むか。

漢字表記地名「荻伏」のもとになったアイヌ語地名。当地一帯は近代に入り荻伏(おぎふし)村に包含された。現浦河町荻伏。明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治一五年(一八八二)までの村。浦河郡の南西部に位置し、西はポンニウシ川(伏海川)をもって三石郡鳧舞(けりまい)村(現三石町)に、北は問民(とうみん)村に、東は元浦(もとうら)川をもって開深(ひらきぶか)村に接し、南は太平洋に面する(「浦河町管内図」浦河町史、輯製二十万分一図、「状況報文」など)。近世の史料(「東蝦夷地場所大概書」、「戊午日誌」宇羅加和誌など)にヲニウシ、エカヌウシ(エカニウシ)、モトウラカワとみえる地などからなる。古くはウラカワ場所の会所(運上屋)があり、またミツイシ場所との境界の地でもあった。

(163-3)「小林屋重吉」・・小林重吉。5代前の祖庄兵衛は、陸奥大畑の人で、寛政年間に松前に渡った。その子半次郎の時、箱館に転住。半次郎の子寅五郎が文政年間三石場所請負人となる。重吉は、文政8年(1825)年1月生まれ。幼名を庄五郎という。明治元年(1868)、箱館町年寄を命じられる。箱館戦争の際には、新政府軍に協力し、旧幕軍が海中に張った網索を切断した。彼は、その後も函館の水道工事を行なうなどの功績がある。明治3年(1870)には、西洋形帆船・万通丸を購入したが、北海道での民間人の西洋形船所有の鼻祖となった。また、明治10年(1877)日高の姨布(おばふ)(現三石町)に刻み昆布製造所をたて、輸出の道をひらく。更に、自宅で月謝をとらない夜学校を始めたが、のち、明治12年(1879)には函館商船学校を設立した。明治35年(1902)没。享年77。

(163-4)「ミツイシ会所」・・この「ミツイシ会所」の文字の位置は、不自然で、意味不明。異本は、3行目の「小林屋重吉」と「持」の間にあり、「小林屋重吉ミツイシ会所持」とある。

(163-5)「ケリマブ」・・漢字表記地名「鳧舞(けりまい)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。当地一帯は近代に入り鳧舞(けりまい)村に包含された。現日高郡新ひだか町三石鳧舞。

(163-5)「巾二十間余川」・・2級河川鳧舞川。

(163-8)「是より山坂通」・・いわゆる鳧舞山道。鳧舞と東蓬莱間の約4キロの山道。

(163-9)「ヲラリ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱付近。

(163-10)「ビセバケ」・・東蝦夷地ミツイシ場所のうち。鳧舞川と三石川の間の太平洋沿岸。現日高郡新ひだか町三石東蓬莱。松浦図には「ヘセハケ」とある。

(164-1)「ミツイシ川」・・日高地方の三石を流れる二級河川。流路延長31.6キロ、流域面積159.4平方キロ。セタウシ山(859メートル)から西方向に延びる稜線(静内川との分水嶺)に水源を発し、太平洋に注ぐ。

(164-3)「ミツイシ」・・漢字表記地名「三石」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ミツイシ場所の中心地。武四郎の『山川地理取調図』にはミツイシ川河口付近に「ミトシ」、その西方現姨布川河口までの間に「シヨツフ」「コイトイ」、同河口付近に川を挟んで東に「ミツイシ会所」、西に「ヲハケ」(「ヲハフ」の誤記であろう)、その西に「カシユシラリ」が記載されている。語源はともかくミツイシはミツイシ川河口の地名として発生、やがて河川名・場所名として用いられたことにより会所名ともなり、広域地名化したのであろう。

(164-6)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

 *「見せて下ださいな、免状を、そして下賜(クダサレ)の御時計もネ」(木下尚江著『良人の自白』)

(164-7)「ヲコツナヱ」・・現日高郡新ひだか町三石港町の三石漁港付近の地名。

(164-8)「フツシ」・・ブシとも。漢字表記地名「布辻」のもとになったアイヌ語に由来する地名。布辻川は、旧静内町と旧三石町の境界であった。

(164-9)「ミツイシかかり」・・「かかり」は、「懸り」「掛り」で、担当の意か。ここは、ミツイシ会所管内という程の意か。

(165-2)「ラシユベツ」・・ウシュッペ。アイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港付近のウシュッペ川河口付近。

(165-2)「チヤツナヱ」・・松浦図には、チヤラセナイとある。現日高郡新ひだか町静内春立の春立漁港と元静内の間の地名。

(165-5)「シツナヰ」・・漢字表記地名「静内」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町元静内付近。シツナイ場所は、静内川(シビチャリ川)の流域を中心とするシビチャリ場所と、同川の東方に続く海岸部を中心とするシツナイ場所が、寛政11年(1799)東蝦夷地が幕府直轄地となった際、統合されてシツナイ場所となった。統合後、会所(旧運上屋)は元静内川の河口部に置かれたが、安政6年(1859)頃に捫別(もんべつ)川の河口部(モンヘツのうち)に移転した。なお、現元静内の地は、明治4年(1871)5月、阿波徳島藩の淡路洲本城代家老稲田九郎兵衛邦稙主従一行の上陸地でもある。

(165-5)「萬屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・文化9年(1912)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。シツナイ場所は福山(松前)の阿部屋伝吉が運上金六七三両永五〇文で落札し、翌文化10年(1813)から実施された(新北海道史)。文政2年(1819)からの七年季は松前の万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所を合せて一千四八両二分永一〇〇文で請負い(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)、これにより万屋は日高三地区の基盤を固めた。文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度もそのまま引継がれた。文政9年(1826)の更新期にはシツナイ、ウラカワ、シャマニの三場所は万屋(佐野)専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで、この三場所は万屋専左衛門の独占場所であった(様似町史・静内町史・浦河町史)。

(165-5)「運上金三場所の内」・・「三場所」は、サマニ、ウラカワ、シツナイの事。この三場所の運上金が一緒であることを言う。

(165-8)「モンベツ」・・漢字表記地名「捫別(もんべつ)」のもとになったアイヌ語に由来する地名。シツナイ会所は、安政6年(1859)頃に日高郡新ひだか町春立元静内から、モンベツ(捫別)川河口付近に移転した。

(165-9)「モンベツ川」・・捫別川。現日高郡新ひだか町で太平洋に注ぐ2級河川。

(166-1)「ウセナヰ」・・現日高郡新ひだか町春立と東静内の境界付近。谷元旦の『蝦夷紀行』に「ウセナイに休み居る内、番人の囃しに、当春二月廿八日、海上へ氷ながれ来る。厚さ三丈余にて、大さ六七間、或は三四間もあり。山々に登りて見るに、漸海上一面にて際限なきよし。夷人に尋ぬるに、今迄なき事也といふ。海岸の昆布は皆、氷のために根多く絶えたるよし。甚だ奇なる事也」(前掲条)と、当地への流氷の到来についての記述がみえる。

(166-4)「シヒシヤリ」・・シベチャリ。漢字表記地名「染退」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現日高郡新ひだか町静内川河口付近。なお、「シベチャリチャシ跡」が、静内川左岸、河口より五〇〇メートル余り上流の標高約八〇メートルの段丘上にあり、舌状に延びた段丘の先端に位置する丘先式のチャシである。シャクシャインの戦においてシャクシャイン側の拠点と考えられているチャシである。昭和26年(1951)には道指定史跡となり、平成9年(1997)には静内川流域の他の四ヵ所のチャシとともに国の史跡に指定された。松浦武四郎もこのチャシについて板本「東蝦夷日誌」のなかで「ルウトラシ小川チヤシコツ城跡、此処、錫者允(シャクシャイン)の居城なりしと」「金丁文四郎はメナブトに住し(中略)錫者允(シャクシャイン)首長此処に城畳(塁)取立」と記している。

 中央の不動坂チャシが主砦といわれ、ここにアイヌの酋長シャクシャインが拠った。寛文年間(1661~73)染退(しべちゃり)アイヌの酋長シャクシャインと、波恵(はえ、沙流郡日高町門別)アイヌのオッテナ・オニビシの二大勢力が争い、オニビシは松前藩の助力を得て、シャクシャインを討とうとした。シャクシャインは松前藩がアイヌを圧迫して絶滅を企てていると各地に伝えたので、同九年に東西蝦夷地のアイヌが蜂起して乱を起した。松前藩はこれを討ち、シャクシャインの拠るシベチャリのチャシを焼きはらった。

(166-4)「巾四十間余の大川」・・「大川」は、現静内川。静内川は、日高地方、静内町を流れる二級河川。流路延長68キロ、流域面積649.8平方キロ。上流は日高山脈中南部に水源をもつシュンベツ川とメナシベツ川ともよぶ本流の二股に分れ、静内町農屋(のや)付近で合流して南西に流れ、太平洋に注ぐ。河口に静内町市街がある。旧名は染退(しべちやり)川(大正一一年測量五万分一図)で、近世にはシビチャリ、シブチャリ、シフシャリ、シビチャレなどともよび、語意も諸説ある。 

 近代に入り明治4年(1871)阿波徳島藩淡路洲本城代の稲田家が流域に入植、また同5年(1872)には西の新冠川流域にまたがる新冠牧馬場が、当川の中流右岸、現御園の河岸段丘面に開かれ、これらの開発が現在の馬産・酪農、沖積地での稲作の基礎となった。上流が急流で氾濫が多く、明治44年(1911)の八〇町歩の耕地の流失、昭和30年(1955)に静内市街地の入船町全域が冠水した被害などが顕著(静内町史)。

(166-8)「シンヌツ」・・漢字表記地名「真沼津」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新ひだか町静内駒場付近。当地一帯は近代に入り下下方(しもげぼう)村に包含された。当地はニイカップ場所とシツナイ場所の境界となっており、武四郎の『廻浦日記』に「浜道到てよろし凡一里。此処ニイカツフ、シツナイの境目也」とあり、標柱に「三ツ石境フツシへ五里一丁、サル境アツヘツへ三里八丁」とあると記す。現在、新日高町(旧静内町)との境界は、もう少し西。

(166-9)「濱田屋佐次兵衛」・・箱館在住の商人・場所請負人。文化9年(1821)から場所請負制が復活し、東蝦夷地は一九場所に統合された。ニイカップ場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金一八五両で落札、翌文化10年(1813)明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。

(166-10)「ヲラリ」・・漢字表記地名「浦里」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現新冠町西泊津(にしはくつ)付近。

(166-10)「ムイノスケ」・・現新冠町の市街地の地名。松浦図には「モエノシケ」とある。

(167-3)「ニイカツフ川」・・日高地方、新冠町を流れる二級河川。流路延長77.3キロ、流域面積402.1平方キロ。日高山脈中部の幌尻(ぽろしり)岳に水源を発し、南西に流れ太平洋に注ぐ。中・上流域は日高山造山褶曲帯にあって屈曲に富み、諸所に先行谷を造り、険しい急流。下流は新第三紀の丘陵域を直線状に流れて谷底を広げ、三―四段の河岸段丘と沖積地が発達。河口左岸に新冠町市街があり、海岸の丘陵末端に二―三段の海岸段丘が発達する。近世には河口部左岸にニイカップ場所の会所が置かれていた。

(167-5)「ニイカツフ」・・漢字表記地名「新冠」のもとになったアイヌ語に由来する地名。ニイカップは古くはヒボクといった。ニイカップ場所の範囲については、「東蝦夷地場所大概書」によると、西はアツヘツ(現新冠町と日高町厚賀の境界をなす厚別川)をもってサル場所に、東はシンヌツ(ニイカップ会所元から東へ一里の地点)をもってシツナイ場所に接し、場所内海岸部の路程は三里八町。ただし「場所境調書」によると、シツナイ場所との境界は、もともと、シンヌツ西方のヲラリとシンヌツの間にあったという。文化9(1812)から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合された。当場所は入札により箱館の浜田屋亀吉が運上金185両で落札、翌10年(1813)から明治2年(1869)の請負制度の廃止まで、浜田屋が当場所の経営を独占した。一八二一年(文政4年(1821)幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。

 なお、ニイカップ会所の位置について、松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「峨々たる断崖の岬を廻りて砂浜の上に会所一棟・・」とある。

(167-10)「セツブ」・・漢字表記地名「節婦」のもとになったアイヌ語に由来する地名。

古文書解読学習会

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでい
ます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年8月12日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp

 『ふなをさ日記』7月学習の注   

(78-1)「船の内(なか)」・・異本は、「内」を「中」に作る。

ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の語誌には、<「うち」は閉鎖的な意をもつ「隠る」「籠る」「籠む」「埋もる」などの動詞と共存しやすく、逆に「明示的な中心部」の意をもつ「なか」はそれらと共存しにくい。しかし、こういう「うち」「なか」の区別がいつごろまで続いたかは、はっきりしていない。>とある。

(78-1)「あらためて」・・調べて。「あたたむ」は、①変更を加える。②改善する。③威儀をただす。④禁止する。⑤改易する。⑥新しく別の機会をつくる。⑦取り調べる。検査する。吟味する。などの意味があるが、ここでは⑦.

(78-1)「重吉が手道具」・・「重吉が」の「が」は、連体格の格助詞で、「・・の」。ここは、「重吉の手道具」の意味。

(78-1)「手道具」・・身の回りの小道具や調度。手具足。

(78-2)「やゝ巳の時頃に」・・「やっと巳の時頃に」。「やゝ」は、漢字では「稍・漸」。①次第に。②ちょっと。③しばらくの間。④ややもすると。⑤やっと。などの意味があるが、ここでは、⑤.

(78-2)「巳の時」・・午前10時ころ。なお、影印は、「巳」が「己」のように見える。古文書では、「巳」は、多くは、「己」の形が多い。

(78-3)「黒坊(くろんぼう)」・・黒色人種をいう蔑称。黒人。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「黒坊」の補注に<「信長公記‐一四」の天正九年(一五八一)二月二三日の条に「きりしたん国より黒坊主参り候〈略〉惣の身の黒き事、牛の如く」とあるのが黒人を描写した最も古い文献と思われる。>とある。また、同語源説に、<クロは、セイロン島の地名コロンボ(崑崙)からで、コロンボの人の膚色が黒いところから黒の意に転じた〔日本書紀通証・言元梯・大言海〕。>とある。

 *<文法の話>「黒坊」を「くろんぼう」と読むときの「くろん」の「ん」について・・「黒(色)の坊(主)」。「ん」=「の」。格助詞「の」の変化した語。話しことばで用いる。体言を受け、その体言が下の体言を限定することを示す。

(78-3)「持来(もちきた)り」・・「持」は、「物」の訂正。「物」の左に「ニ」の記号があるが、見せ消ち記号。

(78-4)「午時(うまどき)」・・正午ころ。

(78-4)「さ鉢」・・皿鉢。「浅鉢(あさはち)」の略。浅くて大きな鉢。磁器の浅い鉢。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、語源説に、<(1)アサハチ(浅鉢)の上略か〔大言海〕。(2)沙鉢の義。沙は浅い物をいう語〔和訓栞〕。>を挙げている。

(78-45)「小麦団子」・・小麦粉で作った団子。餡(あん)や甘辛いしょうゆ餡をつけて食べる。

 *<漢字の話>「麥」と「来」・・

①ムギは紀元前十世紀頃、中央アジアから周にもたらされた植物で、周の人々は、これを神のもたらした穀物として珍重し、「来(ライ)」と呼んだ。「来」は、もともと、穂が左右に出たムギを描いた象形文字。「麥」は、それに「夂(足)」をそえたもの。遠くから歩いてもたらされたムギを表す。がんらい、「来」が「ムギ」、「麥」が「くる・もたらす」の意味をあらわしたが、いつしか逆になった。

②「麥」「麦」の部首は、「麥(麦)」。この部首に含まれる漢字に「麩(ふ・ふすま)」、「麹(こうじ)」、「麺(めん)」などがある。なお、大切な食べ物(植物)の漢字は、部首になっている。「米」「豆」はもとろん、「麻」「黍」も部首である。

(78-5)「切もちばかりに」・・切もちほどに。「ばかり」は、程度・範囲を表す副助詞。①ほんの…だけ。②ほど。ぐらい。の意味があるが、ここでは、②。

 なお、影印は、「切もちばかりにに」と「に」がふたつあるように見える。重複か。

(78-6)「蒲鉾(かまぼこ)」・・かまぼこの起源は不明であるが、平安末期すでに「蒲鉾」の名があったことが『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』にみえる。また、「蒲鉾はナマズ本也(もとなり)、蒲(がま)の穂を似せるなり」と伊勢貞頼(いせさだより)の『宗五大草紙(そうごおおぞうし)』(1528)にあり、植物のガマの穂に似ているところからこの名が出たようである。つまり、当初は後世の焼きちくわのようなもので、ナマズなどの身をすりつぶして竹串(たけぐし)に塗り付けて焼いた。天正(てんしょう)(157392)のころには、すり身を木の板に塗り付けて焼く、板付きかまぼこ(初めは、板かまぼことよんだ)が現れ、在来のガマの穂形のものは、その切り口の形からちくわ(竹輪)とよばれるようになった。江戸時代には、煮て熱を通すようになり、さらに味の抜けない蒸し煮法が一般的となった。原料は白身の魚で、初期にはナマズ、タイが多く用いられた。『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1695刊)には、タイ、アマダイ、ハモを上とし、ヒラメ、キス、ハゼ、イカなどがこれに次ぎ、フカやナマズは下品としている。名産地として仙台(宮城県)、小田原(神奈川県)、富山、大坂、宇和島(愛媛県)、仙崎(山口県)などがあげられ、それぞれ原料や製法に特色をもっている。全国的にサメが使われるほか、仙台ではキチジ、ヒラメ、小田原ではグチ(イシモチ)やオキギスを、大阪ではハモ、宇和島・仙崎ではエソ、グチ、キス、北日本ではタラ類を原料とする。しかし、最近ではスケトウダラからつくった冷凍すり身がよく用いられている。

 蒲鉾は元来既成保存食ではなく、手もちの魚や客人の数などを見あわせてその時々に作った即席料理の一種である。したがって早く火が中まで通る必要があるので、肉は薄い方が喜ばれ、水蒲鉾といわれる位軟かいのが本筋だった。漁業が発達してフカなど安価な魚で大量生産ができ、庶民の経済も向上した江戸時代中期からは既成保存食として重要な位置を占めることとなる。関東の蒸蒲鉾に対して上方に焼蒲鉾が発達したのは、漁港尼崎などで作ったのを京都へ運ぶ途中で痛まないようにしたためだと伝える。

 なお、「かまぼこ」の語源は諸説あるが、ガマ科の植物の花穂(かすい)が鉾(ほこ)の形に似ているところからいう。

(78-8)「臭き」・・

 *<漢字の話>「臭」・・常用漢字で、脚が「犬」から、「ヽ」を取り去り、1画少ない「大」になった。

 『漢語林』の解字を見ると、「犬」+「自」で、「自」は鼻の象形。「犬」は、鼻のはたらきのよい犬の意味。で、におい・においをかぐの意味を表す。「大」では、意味不明になる。

 同様に、「犬」が「大」になった常用漢字を挙げると、

 「戻」・・旧字体は、「戸」+「犬」。元来は、戸口にいる犬の意味から、あらあらしい・もとるの意味。国訓で「もどる」は、意味不明。

 「突」・・旧字体は、「穴」+「犬」。穴から急に犬が飛び出すさまを示す。「穴」+「大」では、意味不明。

 「涙」・・本来は、とぎれずにはらはらとつながる意味。

(78-9)「くわし」・・菓子。発音は、「クヮシ」。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「菓子」の語誌に

 <(1)漢字「菓」の本字は「果」で、木の実の意味。「果子」「菓子」の熟語は中国より日本での使用例の方が古い。一方、古くはクダモノ(木の物の意)という語がほぼ同義で用いられており、「菓子」はクダモノの漢語的表現といえよう。

(2)挙例の「続日本紀‐天平八年一一月丙戌」のように、古くは橘などの果物を指していたが、大陸との交流が盛んになるにつれて、米や麦の粉に甘葛(あまずら)、飴、蜂蜜などを加えて作る団子のようなものが伝わり、「唐菓子(とうがし)」などと呼ばれた。平安時代になると、菓子の意味範囲が広がり、唐菓子や餠類も含めるようになる。

(3)室町時代には、さらに多様化し、茶請けの軽い食べ物の「点心」のほか、練り羊羹、中国から渡来の饅頭などがあり、後半期にはポルトガル・スペインから、カステラ、ボーロ、コンペイトーなどが伝わり「南蛮菓子」と呼ばれた。

(4)江戸時代には日本特有の菓子も発達し、京都の「京菓子」のほか、「煎餠」や「おこし」の類をいう「干菓子」という呼称も用いられるようになった。

(5)明治以降は西洋から、チョコレート、ビスケット、シュークリーム、ケーキなど多くの菓子が入ってくるようになり、「西洋菓子」と呼ばれたが、日本独自の製法も発達し、やがて、「洋菓子」というようになる。それに対して「和菓子」という言葉も生まれた。>とある。

(78-10)「かゆ」・・粥。

(78-11)「かし」・・「・・よ」。間投助詞。終止した文に付き、聞き手あるいは自らに対して念を押し、強調する。中古に現われた助詞で、会話に多く用いられる。

(78-11)「くだんの」・・件の。「くだり(件)」の変化した語。ふつう、「くだんの」の形で連体詞的に用いる。

前に述べた事柄を、読者や聞き手がすでに承知しているものとして、さし示す語。「の」を伴った形で、前に述べた、さっきの、例の、の意に用いる。

(79-1)「はち」・・鉢。

(79-2)「我だに」・・私でさえ。「だに」は、副助詞。さえ。…までも。

(79-3)「いか成(な)らん」・・(推測して)どうであろう。どんなだろう。なりたちは、形容動詞「いかなり」の未然形「いかなら」+推量の助動詞「む」。

(79-67)「ふくらして」・・膨(ふく)らまして。

(79-7)「洗(あらい)ながし」・・釜やおはちについていて、洗う時に流れ出る御飯つぶ。あらい。ここでいう「櫃の洗ながし」は、米櫃に残っているご飯粒。

(79-10)「あくまで」・・飽くまで。もう飽きたと思うほど十分に。これ以上ないというほどに。限りなく。たっぷりと。徹底的に。

(79-10)「な思ひそ」・・どうか思わないでほしい。「な」は、副詞。「な…そ」の形で、動詞の連用形(カ変・サ変は未然形)を間にはさんで、相手に懇願しつつ婉曲に禁止する意を表す。どうぞ…してくれるな。

(80-1)「不便(ふびん)」・・「不憫・不愍」とも書くが、あて字。かわいそうなこと。気の毒なこと。また、そのさま。

(80-1)「よしや」・・副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。副詞「よし」に助詞「や」の付いてできたもの。不満足ではあるが、やむをえないと考えて、放任・許容するさまを表わす語。まあいい。ままよ。仕方がない。

(80-2)「勝手(かって)」・・建物の中や、場所などのありさま。また、物事のやり方。現代では、とくに、その建物、場所(物事)に慣れていて、そこでの行動のしかた(それに対する対処のしかた)が身についている場合にいう。

(80-5)「人気(ひとけ・ひとげ)」・・人のけはい。人がいそうな様子。

(80-6)「ぶた」・・豚。「ぶ」は、変体仮名「婦」に濁点で、「ぶ」。

(80-7)「ちん」・・狆(ちん)か。狆は、犬の一品種。体重二~三キログラムの小形種。額が広く、眼と鼻が

に一直線に並ぶ。体毛は黒と白または茶と白のぶちで、絹糸状の長毛でおおわれる。奈良時代中国から輸入さ

れ江戸時代に盛んに飼育。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「狆」の項の語誌に

 <江戸時代には仮名表記のほか「狆」という表記も現われた。この字は中国では明・清時代の西南のある少数民族を指す字であったが、それとは別に日本で作られたものか。

特徴的な顔つきからの「ちんくしゃ」や、人になつく性質からの「狆猫婆(ちんねこばばあ)」などの表現が生まれ、体躯が小さいところから「ちんころ」に広く子犬を指す用法も生じた。>とある。

(80-7) 「獣(け)もの」・・「獣」のあとに、「もの」があるから、「獣」は、「け」と読むのがいいか。

(80-7)「庭鳥(にわっとり・にわとり)」・・庭にいる鳥。庭で飼う鳥。鶏(にわとり)をさしていう。

(80-9)「はこ」・・箱。

(80-10)「よりふして」・・寄り臥して。

(81-2)「強(しい)て」・・動詞「しいる(強)」の連用形に助詞「て」が付いてできた語。むりに。むりやりに。おして。あえて。

(81-6)「ぶた」・・豚。影印は、変体仮名「婦」で、「ふ」。ここは、濁点がない。

(81-8)「かくても」・・「かくて」に強調の意を加えたもの。こういう状態でも。

(81-9)「腹むなしくて」・・腹がすいて。

(81-11)「いたく」・・副詞。形容詞「いたい」の連用形から。程度のはなはだしいさま。ひどく。はなはだしく。ずいぶん。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「いたく」の語誌に、

 <(1)「いたし」は極度である意も表わすが、上代では肉体的・精神的苦痛を表わす例がめだつ。中古に入ると程度のはなはだしさを示す用法は連用形「いたく」にかたよるようになり、これが上代の「いた」の副詞的用法にも通じる副詞となった。

(2)音便化して「いたう」となるが、韻文では後まで「いたく」の形が好んで使われ、特に「いたくな…そ」の禁止表現は、一つの定まった表現のように用いられた。

(3)「いたく」は動作・作用の程度のはなはだしさを表わす語としてもっぱら動詞の修飾に用いられ、形容詞についてその状態のはなはだしさをいう場合は「いと」が使用された。>とある。

(82-2)「手水(ちょうず)」・・(「てみづ」の変化した語)手や顔などを洗い清めるための水。また、洗い清めること。特に、社寺などで参拝の前に手や口を清めること。

(82-3)「左」・・影印は、「右」の左横に見せ消ち記号の「ニ」があり、「左」と訂正している。

 *<漢字の話>「左」と「右」の部首・・

・「左」・・「工(たくみ)」部。脚の「工」は工具の象形。工具を持つひだり手、ひだりの意味を表す。また、左右の手が相互に助け合うことから、たすけるの意味をも表す。

・「右」・・「口(くち)」部。「口」+「又」(音符)。音符の「又」はみぎ手の象形。「口」は、祈りの言葉の意味。神の助けの意味を表す。

(82-3)「大ゆび」・・手足の指のうちで、もっとも太い指。おやゆび。おおよび。おおおよび。ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』の「大指」の項の語誌に、

 <古くはオホオヨビ。後に、重複した母音が脱落してオホヨビに、またオヨビからユビへの変化にともなって、十二世紀頃にはオホユビが一般的となる。中世には、オホユビから音韻が脱落したオユビ、さらに転じたオヨビの形も見られるが、近世に至るまで、親指の名称としてはオホユビが最も一般的であった。>とある。

 さらに、「親指」の項の語誌には、

 <オヤユビは元祿時代頃から例が見えるが、オホユビの勢力も依然強く、節用集類でもオホユビの訓のものが多い。「書言字考節用集」では、「拇」に対し右に「オホユビ」、左に「オヤユビ」と訓を付している。おそらく、当時としてはオホユビを正しいとする意識があったのであろう。明治になって、オヤユビがオホユビを圧倒する。>とある。

(82-4)「人さしゆび」・・食指。

*「食指がうごく」・・食欲がきざす。また、広く物事を求める心がおこる。鄭の子公がひとさしゆびの動いたのを見て、ごちそうになる前ぶれだと言ったという「春秋左伝‐宣公四年」の「子公之食指動、以示子家曰、他日我如此必嘗異味」(子公の食指動く。以て子家に示して曰く、他日、我此くの如く、必ず異味を嘗めり)の故事から。なお、「異味」は、「珍味」で、ここでは、黿(げん=スッポン)のこと。

(82-5)「肩の下」・・異本は、その前に「左右の」とあり、「左右の肩の下」に作る。

(82-5)「ぬかずき」・・額衝、額突。「ぬかずき」は、「ぬかずく」の連体形の名詞化。額を地につけて礼拝する。丁寧に礼をする。「ぬか」は、「額(ひたい)」のこと。古くは「ぬか」だけで礼拝の意味があったらしい。

(82-6)「異国人(いこくびと・いこくじん)の神を拝む・・」・・「異国人の」の「の」は、主格の格助詞で、「~が」。ここは、「異国人」。

(82-8)「時宜(じぎ)」・・時にかなった挨拶をすること。礼儀にかなった挨拶の仕方・作法。辞儀。時義。

(83-1)「二千五百石」・・日本の船の積載量は、奈良時代から米の積載能力の石で表わしたが、室町時代になると「兵庫管領千石船」とか「櫟木善性八百石船」というように、積石数を表面に出してよんだ。ただし、船の石は積載容積ではなく、その容積に相当する米の重量であるから、量制の変化に対応して同じ石でもかなりの相違がある。江戸時代になって統一された公定枡の一石は六・四八二七立方尺で、これに対する米の重量四十貫が積載量の基準となり、明治初期まで使われた。したがって千石積は、載貨重量150トンに相当する。

 だから、「二千五百石」は、375トンになる。

(83-1)「ホーストン」・・イギリス船フォレスター号。

(83-2)「ベケツ」・・フォレスター号船長ビケット。

(83-3)「右筆(ゆうひつ)」・・祐筆とも。筆に長じたもの。文書にたずさわって仕えるもの。文官。武家社会に多く見られる職務。文書・記録の執筆・作成にあたる常置の職。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)の右筆、江戸幕府の奥右筆・表右筆など。武将の家などにも見られる。ここでは、フォレスター号の書記官くらいの意味か。

(83-5)「ベテツ」・・先には、「ベケツ」とある。異本は、「ベケツ」。

(83-5)「篤実(とくじつ)」・・人情にあつく実直なこと。誠実で親切なこと。

(83-7)「言にき」・・言ってしまった。「にき」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形に過去の助動詞「き」の付いたもの。自分の直接経験として、過去になった事柄、完了した事柄を表わす。…てしまった。すでに…た。

(83-89)「半切(はぎり・はんぎり・はんげり)」・・たらいの形をした底の浅い桶。はんぎり。半桶・盤切。

(83-11)「こそげて」・・刮(こそ)げて。削り落して。「こそぐ」は、物の表面を削る。表面に付着したものを削り落とす。

『蝦夷日記』7月学習の注

(156-1)「六月土用に入」・・陰暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前各一八日間の称。陰陽五行説で四季を五行にあてはめる場合、春・夏・秋・冬を木・火・金・水に配すると土があまるので、四季それぞれ九〇日あるうちの終わりの五分の一ずつを土にあてたもの。春は清明、夏は小暑、秋は寒露、冬は小寒の後、各一三日目に土用入りとなり、一八日で土用が明けて新しい季節が始まる。土用中に土を犯すことは忌むべきこととされ、葬送などはこの期間は延期された。

 たとえば、今年の場合、7月7日が小暑だから、13目の7月19日が土用の入り。

 なお、現在、日高管内のコンブ漁は、漁協の浜ごとのコンブ部会で解禁日が決められるが、7月10日頃から20日前後が解禁日。

(156-2)「目方四千貫目にて石高にいたし百石積り、凡五千石高」・・計算すると、20万貫になる。メートル法換算では、750トン。ちなみに平成24年度の日高管内のコンブ生産は、2941トン(乾燥状態)。

(156-3)「水いしと申名代の昆布」・・「水いし」は、「三石」か。北海道産の昆布としては、松前地方のものが主流であったが、昆布漁場も沿岸に広がり、日高沿岸一帯で生産されるようになった。松前産のものが減少したため、三石産がこれに代わり、日高沿岸の昆布は「ミツイシコンブ」と総称されることとなる。名付け親である宮部金吾博士により、明治35年(1902)に学名となっている。

 ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』は、「こんぶ」の語誌を

 <(1)「本草和名」には「和名比呂女、一名衣比須女」とあるが、ヒロメは幅が広いことから、エビスメは蝦夷(えびす)産が多いことから付けられた名と考えられる。

(2)「色葉字類抄」に「コンフ」、「伊呂波字類抄」に「コフ」とあり、中古末にはすでに「こぶ」「こんぶ」の両称が行なわれていた可能性があり、その併称は今日までつづいている。その語源をアイヌ語とする説もあるが、漢名の音読によるとする説もある。

(3)古く砂金などとともに重要物資として交易されていたが、中世には、海上輸送で若狭の小浜に運ばれて「若狭昆布」、さらに京都で加工が行なわれて「京昆布」と呼ばれた。近世以降は、大阪が昆布の中心地の観を呈するようになった。>と記している。

(156-4)「巾三、四寸、丈五、六間」・・メートル法換算では、巾9センチ~12センチ、丈は9メートル~11メートルになる。ミツイシコンブは、実際には、成長した状態で、幅7~15センチ、長さ2~7メートル。本文書の記述は、長さがちょっとオーバーに書かれているか。縁辺部はゆるやかにうねる程度でほとんど波打たない、中帯部は幅の6分の1と細く、表面の中央部に幅の狭い1本の溝が走るように見える。葉の基部は輪郭が広いくさび形またはほぼ円形である。葉の色は緑色を帯びた黒褐色。

(156-4)「干あげ長サ三尺程也切俵に致し」・・影印は、意味不明。ここは、異本を参考に読点を入れると、「干あげ、長サ三尺程(也)(に)切、俵に致し」がいいか。「也」は不用で、「に」を挿入にして、「干あげ、長サ三尺程に切、俵に致し」がいいか。なお「干」を「亍」としているが、単なる筆の流れか。

(156-5)「京、大坂、中国、九州、長崎迄も積出ス」・・昆布の採取は、江戸時代の徳川幕府による蝦夷地開拓以来盛んになり、昆布を食べる地域も広がっていった。昆布が北海道から各地へ運ばれた道は「こんぶロード」と呼ばれ、北海道で採取された昆布は、江戸時代、北前船を使い、日本海沿岸をとおり西回り航路にて大阪まで運ばれ、さらに、こんぶロードは薩摩藩により、琉球王国を中継地点として清(中国)までのびていった。

 たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べてる。関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっている。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるという。(この項日本昆布協会のHP参照)

 *「大坂」・・大阪の地名は、15世紀末に石山別院を建立した蓮如上人の『御文(おふみ)』に「大坂」とあるのが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政名として「大阪」の字を用いるようになった。(この項ジャパンナレッジ版『日本大百科全書(ニッポニカ)』参照)

(156-7)「被下(くだされ)」・・名詞。目上の人、または身分の高い人から物品などをいただくこと。また、いただいたもの。下賜。くだされもの。

(156-10)「俄(にわか)に」・・形容動詞「にわかなり」の連用形。突然に。語源説のうち、私は、「急な事は一、二と分かずの意か〔和句解〕。」が納得。

(156-10)「アベヤキ」・・アイヌ語に由来する地名。現えりも町下笛舞付近。普通河川アベヤキ川下流の地名。

(156-11)「フイマム」・・漢字表記地名「笛舞」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現えりも町笛舞。

 笛舞村は、明治初年から明治三九年(一九〇六)までの村。幌泉郡の西部に位置し、北西は近呼(ちかよつぷ)村に、南東はアベヤキ川をもって幌泉村に接する。明治四年二月、幌泉詰の開拓大主典関定吉が開拓使本庁に提出した地名の漢字改正案ではブヨマップに「笛舞」の字を当てた。同三九年(1906)、当村など九ヵ村が合併して二級町村幌泉村となった。

(156-11)「此間小川有橋」・・「小川有、橋」か、「小川、有橋」と読むのか。有(ある)のは、小川か橋か。異本は、「小川橋有」に作る。

(157-1)「ホンウエンコタン」・・江戸時代から見える地名。ホロイズミ場所のうち。現えりも町笛舞の笛舞漁港付近。

(157-3)「ニカンベツ」・・アイヌ語に由来する地名。現様似町字旭。普通河川ニカンベツ川河口付近。当地はもとホロイツミ支配所のうちであったが、一八〇一年(享和元年)シャマニ、ホロイツミ両所乙名立会のもとにシャマニ支配所の領域とされた(東蝦夷地場所大概書・場所境調書)。現在もニカンベツ川河口は、両岸とも様似町の区域で、左岸の集落も様似町に属する。

(157-5)「万屋仙左衛門(よろずやせんざえもん)」・・福山出身の場所請負人。佐野仙左衛門。「万屋」は家号。文政2年(一八一九)から万屋専左衛門・同弥次兵衛の二人がシャマニ、ウラカワ、シツナイの三場所を請け負っている。(「場所請負人及運上金」河野常吉資料)。これにより万屋は日高三場所での基盤を固めた。以後、万屋仙左衛門の名で営業。文政4年(1821)、幕府は蝦夷地を松前藩に返還したが、場所請負制度はそのまま引継がれた。三場所は文政9年(1826)の更新期から万屋専左衛門の一人請負人となり、以後場所請負制度の廃止まで続いた。

(157-5)「シヤマに」・・シャマニ。漢字表記地名「様似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。影印は、「シヤマ」がカタナカで、「に」がひらがな。様似は、近世はシャマニとよばれ、シャマニ場所の会所などが置かれ、同場所の中心地であった。また海防警備上の要所で、一八二一年(文政四年)に蝦夷地が松前藩領に復すると、同藩は幕府領時代を踏襲して当地に警備の勤番所を置き、五五年(安政二年)の再上知後は、シャマニ詰はニイカップからトカチまでを持場とした。シャマニ場所は、一七九九年(寛政一一年)に東蝦夷地が幕府領となって後、ウラカワ場所の東側に設定されていたアブラコマ場所を東西に分割、西半を当場所、東半はホロイツミ場所としたことで成立した。

(157-5)「ボロムイ」・・現えりも町下近浦付近。

(157-7)「ボロマンベツ」・・漢字表記地名「幌満」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字幌満。

(157-8)「是より山道」・・シャマニ場所から東方のホロイツミ場所へ向かう道のうち、ブユガシュマ(冬島)の東方、ヲソフケウシ(現オシクシ)から内陸部に入り、アポイ岳南裾の山中を上り下りし、その間コトニの休所を経てホロマンベツ(現幌満川)に至った山道。様似山道・様似新道ともいった。山道が開かれる以前は海沿いの道を行ったが、ブユガシュマ―ホロマンベツ間の海岸部は海食崖が発達し(現在は日高耶馬渓とよばれる)、この道はテレケウシ、チコシキル、ルランベツとよばれた大難所をはじめ、波が打寄せる岩場を伝う危険な道であった。ルランベツは、山道と海岸結ぶ坂道があり、念仏坂と呼ばれた。寛政10年(1798)に蝦夷地巡察のために派遣された幕府使番で蝦夷地取締御用掛大河内政寿が翌九九年にシャマニに駐留して指揮、配下の中村小市郎らに担当させて同年五月から普請にかかっている。このとき併せてサルル山道が開かれ、またこの年には近藤重蔵がルベシベツ山道を開削している。これらの山道(新道)の完成により、箱館からクスリ(釧路)までの馬による通行が可能になった。

(157-9)「ほろまんべつ川」・・幌満川。日高山脈の広尾岳付近に源を発し、中流には洪水予防と電源用の幌満ダムがある。ダムの下方は幌満渓谷の景勝地、また下流左岸には国指定の天然記念物ゴヨウマツの自生地があるなど、流域一帯は日高山脈襟裳(えりも)国定公園の一部となっている。

(157-10)「ヤワヲイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(157-10)「岩鼻(いわはな)」・・岩の突端。突き出た岩の先端

(158-1)「山坂難所也」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「川を渡りて巌壁の間に爪懸り有ばかりの道の有るを辛ふじて上る也。・・甚難所なりし也。念仏坂と其を言し」とある。

(158-2)「ヲホナイ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。

(158-3)「コトニ」・・シャマニ山道中の地名。現様似町山中付近。様似山道の途中にコトニ小休所があった。

(158-4)「フユニ」・・漢字表記地名「冬島」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現様似町字冬島。

(158-7)「ふゆか島と申大岩」・・いわゆる冬島の石門。現在は冬島漁港の防波堤の一部になっている。

(158-8)「行きぬけ」・・先へ抜けて出ること。抜け通っていること。また、通り抜けられる所。通り抜け。いきぬき。

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古文書解読学習会のご案内

札幌歴史懇話会主催

私たち、札幌歴史懇話会では、古文書の解読・学習と、関連する歴史的背景も学んでいます。

毎月第2月曜日13時~16時・エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室で例会を行っています。

古文書を学びたい方、歴史を学びたい方、気軽においでください。くずし字、変体仮名、候文、北海道の歴史、民俗、漢字、古文など、学習しています。初心者には、親切に対応します。

参加費は月350円です。まずは、見学においでください。
初回参加者・見学
者は、は資料代600円をお願します。おいでくださる方は、資料を準備する都合がありますので、事前に事務局(森)へ連絡ください。

◎日時 2013年7月8日(月)13時~16時

◎会場 エルプラザ4階男女共同参画センター大研修室(札幌駅北口 中央区北8西3

◎現在の学習内容
①「船長日記」・・文化10(1813)末から1年半近く太平洋を漂流し、英国船に救助されてカムチャッカに送られ同13(1816)に送還された尾張の督乗丸の船長重吉の漂流談です。

②「蝦夷日記」・・嘉永7(1854)、目付堀織部、勘定吟味村垣与三郎の蝦夷地巡見に随行した幕吏の日記。松前から西海岸を北上、宗谷から樺太に渡航、帰途は東蝦夷地を経由した記録です。各請負場所の状況についてとくに詳細に記されています。

             

事務局 森 勇二(090-8371-8473)

メールアドレス moriyuzi@poem.ocn.ne.jp


『蝦夷日記』6月注

(150-1)「ヲイカマイ川」・・オイカマナイ川。「ヲイカマイ」は、漢字表記地名「生花苗」のもとになったアイヌ語に由来する地名としても記録されている。「オイカマナイ川」は、2級河川「生花苗川」。最下流に、生花苗沼が形成されている。なお生花苗沼の内陸部、キモントウ川上流にキモントウ沼、南方1.5キロの海岸沿いに周囲7.5五キロの汽水湖ホロカヤントウ沼がある。

(150-1)「船守(ふなもり)」・・渡し守。

(150-3)「ヲン子ナイ」・・松浦武四郎の『竹四郎廻浦日記』には、「ヲイカマイ」と「ホリカヤニ(ホロカヤントウ)の間に、「ヲン子ナイ」があり、「小休所一棟(八坪)有」とある。現在の晩成温泉付近か。

(150-4)「トウブヰ」・・漢字表記地名「当縁」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町美成。

(150-7)「アヰホシマ」・・『松浦図』には「アエホシマ」とある。現広尾郡大樹町浜大樹。

(150-8)「ヒロツナヱ」・・歴舟川河口付近の地名。現広尾郡大樹町旭浜。『松浦図』には、「ヘルフ子、ベロツナイともいう」とある。歴舟川は、近世の文献には、「ペロツフナイ」(東行漫筆)、「ベロツナイ」「ペロツナイ」(地名考并里程記・観国録)、「ヘルフネ」「ベルフネ」(「協和私役」「観国録」、「戊午日誌」辺留府禰誌)、「ベロチナイ」(辺留府禰誌)など。

「歴舟・レキフネ」という表記・訓は近代に入りまず歴舟(ヘルフネ)と漢字化され、さらに音を転じて歴舟(レキフネ)となったものであろう。

 「歴舟川」は、大樹町を流れる二級河川で、流路延長64.7キロ、流域面積558.5平方キロ。日方(ひかた)川ともいう。日高山脈南部のヤオロマップ岳に源を発して山脈東斜面を流れ、十勝平野最南部に出て太平洋に注ぐ。この間ポンヤオロマップ川・歴舟中(れきふねなか)の川・振別(ふりべつ)川・メム川などの支流を合せる。上・中流は険しいV字状の渓谷をなし、下流は扇状地を形成するとともに両岸に二―三段の河岸段丘を発達させている。昭和62年以降8回(昭和6263年・平成元年・35122122年)環境省の公共用水域水質調査で日本一きれいな河川に選ばれ、また平成8年には国土庁から「水の郷100選」に選定された全長64.7kmの日本一の清流。大樹町は、「清流日本一の町」をキャッチフレーズにしている。

(150-9)「弐ヶ瀬(ふたかせ・にかせ)」・・「瀬」は、ジャパンナレッジ版『日本国語大辞典』には、<①歩いて渡れる程度の浅い流れ。あさせ。②急流。はやせ。③広く、川の流れや潮流もいう。>とある。ここでは、①か。

 *「流の静なる所を淀といひ、深き所を渕といひ、浅き処をといふ」(『小学読本〔1874〕』)

 *転じて、物事に出あうとき。機会。「身をすててこそ浮かぶもあれ」「逢()」。また、置かれている立場。「立つがない」

(150-11)「モンベツ」・・漢字表記地名「紋別」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現広尾郡大樹町旭浜。紋別川は、大樹町と広尾町の境界を流れる。

(151-1)「トヨイ川」・・「トヨイ」は、漢字表記地名「豊似」のもとになったアイヌ語に由来する地名。現豊似川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。豊似川は、広尾町北部を流れる二級河川。流路延長37.6キロ、流域面積183平方キロ。日高山脈稜線上のトヨニ岳(1493メートル)東側に発した数条の流れが二股(ふたまた)橋付近で合流して豊似川となって北東へ流れる。上豊似付近でパンケアイアン沢川を合せたのち向きをやや南東に転じ、右岸にカムメロベツ川・カシュンナイ川などを合せながら流れ、海岸平野の農耕地帯を経て太平洋に落ちる。支流はいずれも清澄でヤマベの生息がみられ、またカムメロベツ遺跡・花春内(かしゆんない)遺跡など縄文時代早期から晩期の包蔵地がある。

(151-12)「二タ瀬小さし。都而五ツ瀬有」・・異本は、「二タ瀬、小さき三瀬、都合五ツ瀬」とある。異本の方がわかりやすいか。

(151-4)「ノツカ」・・野塚。野塚川河口付近。現広尾郡広尾町エツキサイ。「ノツカ川」は、「野塚川」で、日高山脈稜線上の野塚岳(1353メートル)の西面が源流。広尾町エツキサイで太平洋に注ぐ。

(151-6)「ラツコ」・・漢字表記地名「楽古」のもとになったアイヌ語に由来する地名。楽古川河口付近。現広尾郡広尾町会所前。

(151-7)「ラツコ川」・・日高山脈稜線上の楽古岳(1472メートル)の東面が水源。

(151-9)「ヒロウ」・・漢字表記地名「広尾」のもとになったアイヌ語に由来する地名。トカチ場所の中心地。トカチ場所は、東蝦夷地に設定された場所の一つ。その境は西は「ヒタヽヌンケ」(現広尾町)の川中をもってホロイヅミ場所に、東は「チョクヘツ」(直別川)をもってクスリ場所(初めシラヌカ場所)に接し、南東は海に面する。往古クスリ場所との境は西方の「ヲコツヘ」(現浦幌町)に設定されていたが、役人の通行が増えたため直別(ちよくべつ)川に渡守を置く必要が生じ、クスリ・トカチ両場所のアイヌが隔年で渡守を勤めるようになり、やがて同川がクスリ・トカチ両場所の境目となったという。内陸部シャマニ場所・シツナイ場所・サル場所との境はカモイノホリ岳などのある日高山脈中に、イシカリ場所との境は十勝川最上流の石狩山地中に各々設定されていた。

 設定された時期は不明だが、クスリ場所と同様162040年代とも考えられる。六六年(寛文6(16666月、トカチ場所知行主である松前藩家老蠣崎蔵人広林からトカチ明神社(現広尾町十勝神社)に円空作の観音像(現同町禅林寺蔵)が納められていることから、同年以前にさかのぼるとみられる。

 寛政11年(1799)当場所を含む東蝦夷地は幕府領となり、一八〇二年(享和2(1802)以降は幕府の永御用地となった。これにより直捌制がとられ、箱館奉行はシャマニ(現様似町)に詰合を派遣し、トカチ場所を管轄下に置いた。

 文政4(1821)蝦夷地が松前藩領に復すると、文政8(1825)からは福島屋清兵衛が運上金二〇〇両で請負人となり、天保9(1838)以降はホロイズミ場所も請負ってトカチ・ホロイズミ両場所の請負人となった。天保11(1841)清兵衛から屋号など一切を継承した支配人杉浦嘉七が両場所の請負人となった。

(151-12152-1)「三丁余沖に廻り壱丁余高サ三丈計の大岩」・・現在の十勝港南端の防波堤の一部になっている立岩。

(152-2)「ヒロウ川」・・広尾川。日高山脈を源とする東広尾川(18.0㎞)と西広尾川(16.4㎞)が「青岩」の手前で合流し、太平洋へ流れ込む。

(152-23)「ンムベマモイ」・・『松浦図』には、「フンヘヲナイ」とある。現広尾郡広尾町フンベ。広尾市街から音調津(おしらべつ)に向かう国道336号、通称黄金道路に沿って約3キロ南の地点にある滝。高さ一〇メートル余、幅一五〇メートル。懸崖から数十条の滝が飛沫をあげている。水源は湧水で、道内の滝としては珍しい。「十勝国地誌提要」には「粉辺浜ニアリ 同所海岸ニ発源シ直ニ海ニ注ク 高二丈余巾三間余」とある。かつては豪壮な景観をみせていたが、昭和30年代から懸崖上の高台の林を海産干場造成のため伐採したことによって保水力がなくなり、水量が減少した。融雪時や大雨の時などは往時をしのばせる水量となり、厳冬期は一面の氷滝となる。近年は自然の造形美に加え、銘水として滝水を持ち帰る人もおり、滝の傍らに海難碑が建てられるなど観光地となった。

(152-4)「ヒボロ」・・漢字表記地名「美幌」のもとになったアイヌ語に由来する地名。美幌川河口付近。現広尾郡広尾町美幌。

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