(2-2).37代斉明天皇・・はじめて重祚(ちょうそ)。(祚(そ)=朝廷の君主の位。再祚、復祚とも)建設好きの女帝
○即位までの動向
・退位した京極天皇は次期天皇に鎌足の意見をいれて、軽皇子(かるのおうじ)を推したが、皇子は辞退し中大兄皇子の異母兄の古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)(蘇我馬子の孫)を推薦。古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)は蘇我氏の血筋をひいているので蘇我氏滅亡の今、皇位につくはずもないとして出家し吉野にこもってしまう。
・やむなく、軽皇子(かるのおうじ)が即位
=36代孝徳天皇。50歳での即位。
<元号>について
・645年、年号を「大化」とする。(「日本書紀」は、年号制のはじまりとする。
・江戸時代までは、大きな出来事が起きると改元した。
・明治天皇の前の孝明天皇在位中、元号は、弘化、嘉永、安政、文久、元治、慶応と7回代わった。室町時代の後花園天皇期には、なんと9回も変わった。
・「一世一代の詔(みことのり)」・・明治元年=一八六八年九月八日行政官布告「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス」
・元号法・・昭和54年=1979年法律第43号、たった2行。「1.元号は、政令で定める。2.元号は皇位の継承があった場合に限り改める」

・ちなみに、大正天皇が12月25日崩御。「昭和」・・中国の「書経」の「百(ひゃく)姓(せい)昭明なり、万邦を協和せしむ」からとった(国民のしあわせと平和を願う意味があるという)。ところが、「昭」の字は一般になじみがない。昭という字は『昭和』という年号が定まるまで殆ど使われなかった字。だから昭和以前に生まれた方で『昭』の字をうけた方はほとんどいない。当時の新聞に「どういう意味か」と揶揄した記事が載りました。
・「平成」・・・「史記」の「内平外成」(うち、平らかに、外なる)、「書経」の「地平天成」(地平らかにして天成る)・・内外、天地とも平和が達成される。
① 間人(はしひと)皇女(皇極天皇の娘、中大兄皇子の同母妹、孝徳天皇の姪)を皇后にした。
② 都を難波(なにわ)の長柄豊碕(ながらとよさき)に遷都。
③ 翌646年、「改新の詔勅」を出す。歴史に残る「大化の改新」
④ 白(はく)雉(ち)4年(653)、かねて不仲の皇太子である中大兄皇子は、皇極上皇、間人(はしひと)皇后を率いて大和に戻り飛鳥河辺(かわらの)行宮(かりみや)に移ってしまう。
⑤ 翌654年、失意の孝徳天皇は、難波(なにわ)長柄豊碕(ながらとよさき)宮で崩御。不遇の天皇といえる。
⑥ 皇太子の中大兄皇子(後の天(てん)智(じ)天皇)が継承者のはずだが、不和のなかでの天皇崩御での即位は難しいこと、孝徳天皇の皇子・有馬皇子もいたが、そちらに皇位を渡すわけにはいかず、表向きは内政改革に専念することを理由に、次期を期して、結局、母の先先の帝・皇極天皇が即位。
○37代斎明天皇が即位(655.1)。日本ではじめての重祚。天皇62歳。歴代第一の高齢即位。
・次々と宮殿をつくる。
①板(いた)蓋宮(ぶきのみや)が焼失。(655年冬)飛鳥川原宮(かわらのみや)に仮寓(かぐう)。(655年)
②岡本(夫の舒明天皇の宮跡)に新宮殿を建設 後(のちの)岡(おか)本宮(もとのみや)(656年)
③その東の丘に両(ふた)槻(つき)宮という高殿を建設。
④香久山の西から石上山まで、水道工事をさせ
た。又、二百そうの舟で、石上山の石を積んで運んできて宮の東の山に石垣を造らせた。水道工事に三万人、石垣工事に七万人。世に「狂(たぶれ)心(ごころ)の渠(みぞ)」という。
⑤同年、奈良・吉野に吉野宮を建立。
⑦ 657年、飛鳥寺の西に須(しゅ)弥(み)山(せん)(仏教の中心とされ、世界の中心に聳えるというインドの架空の山)、659年にも甘橿の丘の西にも須(しゅ)弥(み)山(せん)を作る。
⑧ 有馬皇子事件=658年、皇位継承権を持つ孝徳天皇の皇子・有馬皇子が謀反を図ったとして処刑された。18歳の若さで命を落とした。(治療に訪れた白浜温泉は、温泉を世に広めたとして皇子の顕彰碑がある)
⑨ 661年、朝(あさ)倉(くら)橘(たちばなの)広(ひろ)庭(にわの)宮(みや)(現福岡県朝倉郡朝倉町)を建てる。
*斉明朝の有名な事件
・有間皇子事件=謀反をはかったとされて18歳で処刑された悲劇の貴公子。白浜温泉を歴史上最初に世に広めた人としても知られる。
・<阿部(あべの)比羅夫(ひらふ)の渡(わたりの)島(しま)遠征>・・658年、659年の2度(蝦夷地=北海道遠征かどうか諸説あり)
・百済(唐・新羅軍に攻撃されていた)救援軍を送る。
◎661年7月、朝倉宮に没す。68歳。在位6年。

(3).41代持統天皇・・万葉集や百人一首でもおなじみの実力派の女帝
・華やかさと存在感のある女帝。生まれながらにして天皇家の中心的存在だった。
・父は、豪族蘇我氏を倒し、大和朝廷の基礎固めをした中大兄皇子=38代天(てん)智(じ)天皇。その第2皇女&#40469;(う)野(のの)皇女)。
・その弟で律令国家体制の基礎を作り上げた天武天皇の皇后(叔父と13歳で結婚)
◎即位までの経過
○38代天(てん)智(じ)天皇・・661年年、斉明天皇死後、皇太子として天皇を支え、実権を握っていた中大兄皇子は、皇太子のまま政務を執る。
・667年都を近江国大津へ移す。(近江京)
・668年、中大兄皇子、大津宮で即位。
・壬申の乱・・遠く1330年の昔、関が原で古代日本を二分したもう一つの天下分け目の戦いがあった。
<経過>
・天(てん)智(じ)天皇は、実子の大友皇子を後継者にしようとした。
・672年、天(てん)智(じ)天皇が46歳で没すると、吉野に下っていた大海人皇子が挙兵、不破(関が原)を押さえた。この闘いに妃(きさき)の&#40469;(う)野(のの)皇女も同行。
・近江軍(大友皇子軍)と関が原の藤古川をはさんで合戦。その後、瀬田橋(瀬田の唐橋=東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通の要衝でもあったため、「唐橋を制する者は天下を制す」とまでいわれ、この「壬申の乱」、13世紀の「承久の乱」、14世紀の「建武の戦い」など、幾多の戦乱の舞台になり、そのたびに破壊・再建を繰り返してきた橋)の戦いで大友軍は破れ、大友皇子は自害。ときに25歳、悲劇の主人公であった。
・翌673年、大海人皇子は、飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮(のみや)に即位。40代天武天皇の誕生。都は近江から再び飛鳥へ。
・なお、「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していない。大友皇子が「39代弘文天皇」と公式に謚(おくりな)され、即位が公式に認められたのは、明治3年のこと。皇位空白時代を埋めるためともいわれている。それまでは歴代天皇として数えられなかった。現在では非即位説が有力である。
<乱の原因>
① 天智天皇の朝鮮出兵の失敗、国政の急進的改革、近江宮へ移転などでの出費増で豪族、民衆の負担増への不満が背景とされる。
② 皇位継承紛争が契機。
③ 額田王(ぬかだのおおきみ)をめぐって、天智天皇と大海人皇子兄弟の不和が遠因という説。
    あかねさす紫草野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
       野守は見ずや君が袖振る(万葉集の歌は有名)

○40代天武天皇・・妃(きさき)の&#40469;(う)野(のの)皇女のほか、太田皇女、大江皇女、新(にい)田(た)部(べの)皇女(いずれも兄天智天皇の娘、つまり姪)などとの間に軽(かるの)皇(おう)子(じ)(のち42代文(もん)武(む)天皇)、氷(ひ)高(だか)内親王(のち女帝・44代元(げん)正(しょう)天皇)など、じつに皇子10人、皇女7人をなした。
・吉野の盟約=679(天武8)年、吉野の宮に草壁、大津、高(たけ)市(ち)、忍(おし)壁(かべ)、川島、志(し)貴(き)の6皇子を集め、お互いに協力して逆らうことのない誓いを交わした。しかし、時代の波に翻弄され、それぞれの運命をたどることになる。
・薬師寺:&#40469;(う)野(のの)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈り、創建したのをはじめ、仏教への関心が高く、国家仏教をつくりあげてゆく布石となった。
・神道にも崇敬・・伊勢神宮を大切にした。現在も行われている20年ごとの式年(しきねん)遷宮(せんぐう)(社殿の建て替え)は、この時代に始まったとされる。
・686年6月、天武天皇没。65歳。