◎41代持統天皇の誕生
・鸕(う)野(のの)皇女の人となりについて、日本書紀は、
「しめやかにして、おおきなる、のりまします」とある。つまり、落ち着いて重々しい。
・天武天皇の皇后になってからは、よき伴侶として天皇を補佐した。
・天武天皇の死後、実子で皇太子だったの草壁皇子は即位せず、皇后がそのまま政務に当たった。
○大津皇子事件
・天武天皇の死後(686年9月9日)1ケ月もたたない10月2日、大津皇子(天武天皇の第3皇子、母は、天智天皇の長女の太田皇女)は、謀反が発覚したとして捕えられ、直ちに処刑された。大津皇子は、古代王朝の悲劇として、歴史にその名をとどめ、同情者も多い。
・皇后にとって、はじめて新しい時代の到来、つまり、皇位=権力が夫天武系から父天智系に移ったことを意味する。
○持統天皇の即位
・天武天皇の殯(ひん)宮(きゅう)(棺を埋葬の時まで安置しておくこと、その宮殿)は2年余り続いた。誰もが皇太子・草壁皇子が即位することを疑いませんでした。
・ところが、687年4月、草壁皇子は28歳で、急死してしまいます。
・草壁皇子の妃は、阿(あ)閇(べ)皇女(天智天皇の娘・草壁皇子の叔母・のち43代元明天皇)で、ふたりの間に軽(かるの)王子があったが、まだ7歳でした。
・自己の血統を守るためにも、ここは、出るしかない。
・690年正月、高天原(たかまがはら)広野(ひろの)姫(ひめの)天皇(すめらみこと) すなわち、持統天皇として即位。
<治世>
○天皇を中心とした中央集権国家の確立。
・官制・・中央官庁の整備
・税制・・個人単位の税制になり、そのため戸籍があらためられた。いわゆる庚(こう)寅(いん)年(ねん)籍(じゃく)。
・地方制度・・国、郡、里の確立。中央から国司の派遣。
○新しい都必要・・→藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)の造営。
○春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山
・百人一首でも有名なこの歌は、万葉集を代表する歌のひとつです。
・697年、孫にあたる軽王子(42代文(もん)武(む)天皇)に譲位し、大宝律令の完成に情熱を傾けたが、702年、波乱に富んだ生涯に幕を降ろした。飛鳥時代最後の女帝である。
・「日本書紀」は、神代から持統天皇の時代で終わっている。
(完成したのは、奈良時代に入ってからの720年=養老4年で、天武天皇の皇子・舎人(とねり)皇子が中心となって編纂された日本最初の勅撰の歴史書)

Ⅱ.奈良時代・・3人4代の女帝
(4)元明天皇・・人民への心配りが細やかで控えめな女帝
・青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」
と歌われた奈良の都に女性の天皇が君臨しました。その第1代の天皇が元明天皇です。
・天智天皇の第4皇女・阿(あ)閇(べ)皇女、母は姪(めいの)娘(いらつめ)ですから、持統天皇の異母妹になります。
・草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)と結婚して軽皇子をもうける。
・持統天皇から譲位された軽王子(42代文(もん)武(む)天皇)が15歳で即位したが、24歳で崩御。
・藤原不比等の娘・宮子との間に首(おびとの)皇子(元明天皇の孫・のち聖武天皇)があったが、まだ7歳でした。氷(ひ)高(だかの)皇女と吉備(きびの)皇女以外に兄弟はなかった。
・天武天皇派には、大勢の皇子がいて健在で、皇位を狙うかもしれないという心配。皇位を自分の血統で守っていくためには、母自身が即位するしかない。
・女帝44代元明天皇が誕生した。
<経過>
・文(もん)武(む)治世期・・大宝律令の公布(701年)。遣唐使、31年ぶりに派遣があったものの、とくに大事件は起らず、順調に時は流れた。
・707年、文(もん)武(む)天皇崩御。皇統を守る上からも、母・阿(あ)閇(べ)皇女が継ぐ以外になかった。
◎43代元明天皇の誕生
・母が、子のあとを継ぐという前例にない継承。
・歴史家は、「天智天皇は、近江令(りょう)に「嫡子相続制を決めていた。元明天皇は、次の天皇たる孫の首(おびとの)皇子の成長を待って皇位継承を行う前哨として、即位した。あくまで中継ぎのための即位」とする説が有力。
・715年、在位8年で、皇位を娘の氷(ひ)高(だかの)皇女に譲り、上皇となった。721年、61歳で生涯を終えました。
<大きな出来事>
・708年、日本で最初の流通貨幣、和銅開珎(ちん)の公布。現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね。純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあったといわれています。
○平城京
・藤原京から平城京への遷都は707年に始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大(だい)極(きょく)殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。山城国に遷都してのちは南都(なんと)とも呼ばれ、平城天皇は平城京に再び遷都することを図ったが、これは実現しなかった。740年、聖武天皇の恭(く)仁(に)京(きょう)=現京都府相楽(さがらか)郡加茂町=への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び首都となった。

(5)元正天皇・・はじめて独身で即位した女帝
<即位のいきさつ>
・氷(ひ)高(だかの)皇女は、元明天皇と早世した草壁皇子の皇女で、天武天皇・持統天皇の孫、天智天皇の孫にもなる。
・元明天皇は、孫の首(おびとの)皇子が成人するのを待たず、娘の皇女氷(ひ)高(だかの)内親王(「親王、内親王」のことばは、このころから使われた。)に譲位した。それが36歳でなぜか独身の元正天皇。日本史上にない2代続けての女帝となった。
・首(おびとの)皇子の父は文武天皇であるが、母は藤原不比等の娘・宮子。藤原氏にとっては、藤原家から天皇がでるという願ってもないチャンスでもあった。
・それへのためらいもあったか、元明天皇としては、ひとまず、娘の氷(ひ)高(だかの)皇女に譲位した。
○44代元正天皇の誕生
<その治世>
・「続(しょく)日(に)本(ほん)記(ぎ)」(『日本書紀』につづく勅撰史書。文武元年(697)から延暦10年(791)のほぼ100年間,律令の整備,平城遷都から長岡京,平安遷都にいたる“万葉人の時代”の躍動と苦悩を伝える記録)は、見識深く、落ち着き礼節にかなった言動と記している。優れた資質の持ち主であったといわれています。
・3度の改元・・「和銅」から「霊亀」。
・さらに2年後717年に「養老」へ改元・・この地を行幸した元正天皇は、「醴(れい)泉(せん)は美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して霊亀3年を改め養老元年となすべし」との詔を出して、「養老」と改元した。
有名な「養老の滝」の逸話は・・貧しいが親をうやまう樵(きこり)が住んでいました。年老いた父を養っていましたが、その日の暮らしに追われて老父の好む酒を十分に買うことができませんでした。
 ある日、苔むした岩から滑り落ちてしまいました。ふと気づくとどこからか酒の香りがただよってくるのです。岩間の泉から山吹色の水が湧き出ているのです。すくってなめてみると、かぐわしい酒の味がするのです。「有難(ありがた)や」と腰にさげているひょうたんに汲んで帰り老父に飲ませたところ、老父はこの不思議な水を飲んだので白い髪は黒くなり、顔の皺(しわ)もなくなり、すっかり若々しくなりました。この不思議な水の出来事が、やがて都に伝えられると・・ここで、元正天皇の行幸になるのです。美泉で元正女帝も美顔になった・・とか・・。女性らしさがうかがえる改元ではあります。
・その他の行政・・農業の充実、免税、出(すい)挙(こ)という貸付制度、仏教の隆興、「日本書紀」の完成、日本初の女医を置く。(産婦人科、外科など30名を養成した)
・724年、在位9年で、甥の皇太子・首(おびとの)皇子に皇位を譲った。45代・聖武天皇の誕生です。
・自らは上皇となる。748年崩御。69歳。