(6-1)46代孝謙天皇・・生涯独身で仏教の篤い信者だった女帝
・6人目の女帝は、46代孝謙天皇です。
・45代聖武天皇の皇女で阿部内親王といった。母は、藤原不比等の娘・光(こう)明(みょう)子(し)。聖武天皇は、基(もとい)皇子を皇太子としたが、わずか2歳で死亡、738年、阿部内親王が初めての女性皇太子となる。12年間、皇太子として天皇を助け、749年譲位され即位。
<父・45代聖武天皇の時代のこと>
・大仏建立・・「奈良の大仏」を作った。728年、聖武天皇が皇太子・基(もとい)皇子の供養のため建立したのが東大寺の始まり。華厳宗大本山。743年になり聖武天皇が大仏造顕の詔を公布した。
・国分寺建立の詔(741、続日本紀)(a) 国ごとに国分寺(金光明四天王護国寺)、国分尼寺(法華滅罪寺)を設置
・42代文武天皇と藤原宮子の間に生まれ、14歳で皇太子になり、藤原不比等の娘・光(こう)明(みょう)子(し)(のち光明皇后・母宮子とは異母姉妹だから、祖父が同じ不比等という叔母)と結婚。はじめて皇族出でない者が皇后となった。藤原氏の至上の面目である。ふたりの間に生まれた基(もとい)皇子を生後1ケ月で皇太子に立てたが、翌年病死。
・長屋王事件・・左大臣になった長屋王が謀反を企てたとして自害させられた。
・天然痘の大流行、地震など、相次ぐ天変地変で、聖武天皇は、一層、仏教に救いを求め、国分寺の建立、そして、10年の歳月をかけ東大寺の巨大な大仏・盧(る)舎(しゃ)那(な)仏(ぶつ)を建立。
・聖武天皇(在位724~749)相継ぐ遷都
※平城京→恭(く)仁(に)京(きょう)(740・山城)→難波宮(744・摂津)→紫(し)香(が)楽(らきの)宮(みや)(744・近江・現滋賀県甲賀市信楽町北部)→平城京(745)
<孝謙天皇誕生のいきさつ>
・基(もとい)皇子の死後、皇子が生まれない以上、阿部内親王を皇太子として、皇位継承者にする以外になかった。・・日本で初めて、また後世にも例を見ない女性の皇太子が誕生した。
<46代孝謙天皇として>
・女性皇太子としての即位。独身で通したので、皇位継承をめぐって大きな問題が起るが・・まず、孝謙天皇の時代を見る・・
・即位は、749年7月2日。この日をもって、年号を、天平感宝から天平勝宝と改元。この年、749年は、年号が3回変わった。つまり、1~4月が「天平21年」、元正太政天皇が死去し、年号が「天平感宝」に変わり、
4~7月が「天平感宝元年」、7月から「天平勝宝」となった史上でも珍しい年です。
・父・聖武天皇から引き継いだ大仏建立が完成し、父・聖武太政天皇、はは・光明皇太后と一緒に東大寺へ行幸し、盛大な開眼(かいげん)供養(くよう)が行われたのは752年=天平勝宝4年4月9日のこと。
・孝謙天皇の時代は、仏教興隆の時代でした。唐の僧、鑑真和上が来日、唐招提寺を建立したのも、この時代。
<橘奈良麻呂の乱>
・一方、皇位をめぐる不穏な動きが膨らむ。
・聖武太政天皇は、皇太子を道(ふな)祖(ど)王(おおきみ)(天武天皇の孫)にすると遺言し、756年、崩じた。
・しかし皇太子となった道(ふな)祖(どの)王(おうきみ)は、亡き聖武太上天皇の服喪期間中であるにかかわらず、淫らな行為に耽って喪に服することなく恭敬の念も見られず、また国家機密を民間に漏洩したり春宮を抜け出たりと問題行動が多く、孝謙天皇もしばしば戒めたものの聞き入れる様子がなかったようである。遂に天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)(757)年3月に皇太子を廃されてしまうことになる。
・新皇太子に選ばれたのは孝謙天皇の詔勅を受け、藤原仲麻呂と親しい大炊(おおい)王(おおきみ)(舎人(とねり)皇子の子)と決まる。
・一連の廃太子劇が、藤原仲麻呂による謀略なのか、いずれにせよ藤原仲麻呂の権勢はより一層大きいものとなったのである。
・やがて同年7月、『橘奈良麻呂の乱』に連座したとして逮捕され、道(ふな)祖(ど)王(おおきみ)は、拷問を受け亡くなることになる。
◎758年=天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)2年=8月、孝謙天皇は、皇太子・大炊(おおい)王に譲位した。その理由は、年をとった母・光明皇太后に孝養を尽くしたいということといわれています。譲位後も、太上天皇として、政治にかかわる。太上天皇(だじょうてんのう)とは皇位を後継者に譲った天皇。またはその人の称号。上皇(じょうこう)と略することが多い。由来は中国の皇帝が位を退くと太上皇と尊称されたことにあるといわれる。なお出家した上皇を太上法皇、法皇(ほうおう)と称する。
・さらに、重祚(ちょうそ)ということで再び皇位につく。

(6-2)称徳天皇・・女心に揺れつつ、出家した女帝
<即位のいきさつ>
・758年=天平宝字2年=孝謙天皇が譲位して皇太子・大炊(おおい)王が25歳の若さで即位。47代淳(じゅん)仁(にん)天皇。淳仁天皇は、即位したとき、改元をしなかった。以前のままの「天平宝字」を用いた。これは歴史上ないこと。
・太上天皇になった孝謙天皇が政治を指導、事実上政治を動かしたのは、引き続き藤原仲麻呂でした。
・淳仁天皇は、仲麻呂の長男・真(ま)依(より)の未亡人・粟(あわ)田(たの)諸(もろ)姉(ね)を妻として、仲麻呂邸に住んでいた。こうして藤原仲麻呂は、自他共に認める地位を確保していった。
・仲麻呂の専制に反発して起ったのが、橘奈良麻呂の乱。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して失敗した。
・仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。天平宝字2年(758年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、そして、天平宝字4年(760年)には太政大臣にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、天平宝字8年(764年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ。
・さて、孝謙太上天皇と淳仁天皇は、平城宮(ぐう)改修のため、近江の保(ほ)良(ら)離宮に滞在するが、病気になった孝謙太上天皇を看病した道鏡と孝謙太上天皇が親しくなるのを警告するが孝謙太上天皇は法華寺に入り落飾(らくしょく)(髪をそり落として仏門に入ること。落髪とも)し、法(ほう)基(き)尼(に)となった。
<藤原仲麻呂の乱>
・栄耀栄華を極めた仲麻呂だが、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛しはじめたことで暗転する。
・孝謙上皇の道鏡への寵愛は深まり、逆に仲麻呂を激しく憎むようになった。焦った仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、仲麻呂は都に兵力を集めて反乱を起こそうと企んでいた。
・孝謙上皇は、官位の剥奪と藤原姓を名乗らせぬとの宣言をさせる。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、
・淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、氷上塩焼(かつての塩焼王)を偽帝に擁立し、太政官符をもって諸国に号令した。ここに、二つの朝廷ができたことになる。
・官軍と仲麻呂軍が応戦する。ついに仲麻呂軍は敗れた。仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、官兵に襲われ斬殺された。塩焼王も琵琶湖畔で処刑された。
・仲麻呂の一族は滅び、淳仁天皇は廃位され淡路に流され、「淡路の廃帝」として歴史に名を残すことになります。代わって孝謙上皇が重(ちょう)祚(そ)する(称徳天皇)。称徳天皇の道鏡への寵愛は深まり、道鏡は、太政大臣禅師、法王にまで昇り、皇位をうかがうまでの権勢を持つようになる。
<称徳天皇の誕生>
◎道鏡の出現
・称徳治世は道鏡なしには語れない。道鏡は、河内・弓削(ゆげ)氏の出で、弓削(ゆげの)道(どう)鏡(きょう)ともいわれます。呪(じゅ)験(けん)力(まじない)を身につけていました。
・保(ほ)良(ら)離宮で看病禅師として宮中に出入りし、称徳上皇を看病し、次第に政権の中核に上り詰めていった。
・弓削道鏡は孝謙(称徳)天皇に仕え、天皇から大僧正の信任を得、法王にまでのぼりつめ、天皇に代わって政事(まつりごと)を司り、西大寺などを建立した実力者であった。彼には「女帝を拐かし、自らが天皇になろうとした悪僧!」という悪名が常につきまとう。いづれにしても、称徳天皇の治世は、道鏡の主導の下に進められていきました。
・道鏡の主導のもと、「宇佐八幡事件」など、ざわつきがあったが、769年=神護景雲3年8月、称徳天皇は、53歳で崩御しました。
・称徳天皇の生涯はかなり波乱に富んでいます。天皇という特別な存在とは別に、一人の女性としての生き方を貫いた人間だったといえます。
・以後、平安、室町時代に女帝は、おらず、859年後の1629年=寛永6年、江戸時代まで、女帝は、いません。