江戸時代の蝦夷地の支配体制 略年表

【松前藩領】
○文禄2(1593).1.2・・蠣崎慶(よし)広(ひろ)(松前家5世・初代松前藩主)、肥前・名護屋の陣営で朝鮮侵攻のため滞在中の豊臣秀吉に拝謁、志摩守に任じられる。
○同年.1.6・・慶広、秀吉より朱印状の交付を受け、蝦夷島の支配者として公認される。
○慶長4(1599).11.7・・慶広、大坂城で家康に拝謁。氏を「蠣崎」から「松前」に改める。
○慶長9(1604).1.27・・慶広、家康より黒印状を賜る。

*松前藩の地域区分と呼び方
・松前地(和人地ともいう)・・福山城を中心に東西25キロ、東は亀田(のち山越内まで拡大される)、西は熊石にいたる間とする。
・東西蝦夷地・・亀田から東を「東蝦夷地」、熊石から「西蝦夷地」と。のち、東西蝦夷地の奥を知床半島で境とした。はじめは海岸線だけの区分を内陸部にも及ぼし、知床半島から蝦夷地を横断してイザリ(現恵庭市)を通り、熊石にいたる線で分けられることになった。
・口蝦夷地・奥蝦夷地という呼び方もある・・「口」は、松前に近い方、「奥」は遠い方をさし、東は襟裳岬、西は神威岬(または雄冬岬)を境とした。

【前期幕府直轄】
○寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地(ウラカワより知床及び東奥島々まで)を当分(7ケ年)、試みに仮上知する旨、松前藩に通達。
○同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
○同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
○同年.9.28・・幕府、代地500石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)
○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。
○同年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。仮上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
○文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前藩は、奥州伊達郡梁川(現福島県伊達郡梁川町)9000石に移封。
○同年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。

【松前藩復領】
○文政4(1821).12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

【幕府再直轄】
○嘉永7(1854).6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2(1855).2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。
○慶応元(1865).9月・・松前崇(たか)広(ひろ)(松前藩12代藩主)、陸海軍総奉行に就任の際、乙部~熊石の8ケ村が返還された。