明治5年9月、開拓次官黒田清隆が、正院宛に「開拓使籏章更正伺」を提出している。その理由について推察してみる。

1.北辰旗制定の経過
まず、開拓使の北辰旗制定の経過を要約すると、明治5年正月、開拓使御用係の蛯子末次郎が、開拓使に「北海道旗章立置伺」を提出し、その中で「此五陵形籏章ノ原因タルヤ北晨星ヲ象リ則青色地ニ赤色ヲ點付ス」(「本支庁文移録」、北海道文書館所蔵)と述べている。
なお付言すれば、蛯子末次郎の師は、五稜郭を設計した武田斐三郎である。
開拓使は翌2月、蛯子の案を受け入れ、「本使附属船籏章ヲ蒼色五稜形ニ定ム」(「開拓使事業報告」、同)とした。ここに、五稜星の北辰旗が誕生した。

2.黒田清隆の北辰旗の旗影変更伺
ところが、北辰旗制定から間もない同年9月、黒田は、突然、以下の「籏章更正伺」を正院に提出している。

「當使官邸並用船等ヘ建用候大小籏章、先般雛形を以申上置候處、
今般別紙籏影之通、致更正候間御布告相成候様仕度此段奉伺候也
    壬申九月十九日       黒田開拓次官
    正院 御中                」(「稟裁録」、同)

黒田は、「別紙」で、「五陵形」を「七陵形」に変更した「籏影」案を提出している。
 正院は、黒田の「伺」を「従前相定候品可相用事」として却下している。(同)

3.その理由
ところで、なぜ、黒田は、その北辰旗の旗影の変更を伺い出たのだろうか。
 私は、その理由に、黒田と榎本武揚の男の友情を見る。
明治2年5月、函館戦争の際、官軍参謀の黒田が、五稜郭に立てこもった旧幕軍の榎本の助命を嘆願したことはよく知られている。黒田に助けられた榎本は、明治5年3月8日、開拓使四等出仕に任じられている。
 開拓使官吏となった榎本は、自らの敗北の地である「五稜郭」を彷彿させる「開拓使旗章」に内心忸怩たるものがあったのではないか。
 黒田と榎本は、互いに肝胆相照らす仲であり、黒田は、榎本の気持を汲み、榎本赴任から半年後の9月、開拓使旗章を「五陵形」から「七陵形」へ変更する「伺」となったのではないか。
のち、明治21年、榎本は、黒田内閣の農商務大臣兼逓信大臣に任命され、更に、明治33年、黒田の死去の際して、葬儀委員長も務めている。

4.まとめ
 以上、黒田清隆が北辰旗の旗章変更伺を提出した理由について、私の突飛な暴論ともいえる推察である。
 なお、現在の北海道旗について、北海道は、「本道開拓使が使用した北辰旗と、当時着想されていた七陵星のイメージを現代的に表現したもの」と説明している。
正院には却下されたが、黒田が「籏章更正伺」を提出した幻の七陵星の北辰旗、つまり、私流にいえば、黒田清隆と榎本武揚の男の友情が現代に蘇り、北海道各地に翻っている。
北海道旗を見るたびに、私は、ひとり、歴史のロマンに浸っている次第である。