○著名な附属船

<咸臨丸>
・安政4(1857)年3月、幕府が発注した蒸気船、オランダ・キンデルダルクで完成(Japan=ヤパン=号)
・同年8月4日、ヤパン号長崎に到着、「咸臨丸」と改名、幕府長崎海軍伝習所練習船となる。
・安政7(1860)年1月13日、日米修好通商条約の批准書交換のため太平洋を横断、2月26日サンフランシスコ入港、万延元=(1860.3.18改元)=5月6日帰国。提督を務めたのは軍艦奉行・木村摂津守喜毅(よしたけ)、勝海舟は海軍伝習所の教授として同乗。
・慶応2(1866)年・・機関部の老朽化で蒸気機関を撤去、帆船となる。軍艦籍を抜かれ運搬船となる。
・慶応4(1868)年8月19日、海軍副総裁榎本武揚の指揮で品川沖を脱走、暴風雨で下田港に漂着
・明治元年=1868.9.8改元=9月18日、清水港修理中、新政府軍に襲撃され拿捕(だほ)される。その後、浦賀で修理。
・明治2(1869)年9月、政府は、兵部省所管だった咸臨丸を開拓使に交付、開拓使附属船となる。同年10月15日、開拓使へ引き渡される。3日後の10月18日、東京から函館へ廻漕、その際、八戸県への救助米運搬を初仕事としている。翌明治3年5月からは官物輸送のほかに、一般の荷物、乗客の輸送も行うようになった。
・明治4(1871)年5月、「元組回漕会社」(木村万平社長)の手に貸与される。
・同年9月12日、以前に、白石城を預かっていた旧伊達藩家臣・片倉小十郎邦憲の旧臣の北海道移住第3陣1班401名を乗せ、松島湾・寒風澤(かぶざわ)港を出港、函館を経て小樽に向かう途中、9月20日、泉沢村(現渡島管内木古内町)サラキ岬で座礁、沈没。(なお、移住団は無事上陸避難、小樽に到着し、望月寒(もつきさむ)川流域に入植、視察に来た岩村道俊判官は「白石村」と命名。
・1968年、サラキ岬付近で、咸臨丸のものと見られる錨が発見された。今年5月14日、岬に「咸臨丸終焉の地」碑が建立された。
・ちなみに、「咸臨」は、易経の「咸臨貞吉」(みなのぞむ。ていきち。互いに感じて臨む。貞正にして吉。心を一つにして協力して進む)から取った。

<昌平丸>
・安政元(1854)年、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船。桜島造船所で竣工。薩摩藩原船名:昇平丸
・安政2(1855)年、幕府に献上される。「昌平丸」と改称。
・明治2(1869)年9月、咸臨丸と同時に、兵部省所管だった昌平丸を交付、開拓使附属船となる。
・同年12月24日、米穀を積み入れ石狩に向け函館を出帆、逆風のため南部・
安渡(あんど・現青森県むつ市大湊)に漂着、翌安政3(1870)3月2日木の子村(現上ノ国字木の子)の海岸で座礁破砕。5名の犠牲者をだし、国産初の洋式軍艦は15年余りの短命に終わった。

○康午(こうご)丸
・安政4(1857)年、イギリスで製造
・明治3(1870)6月、プロシャ人ユンク・ニフラルより汽船「バルカン」号を購入、康午丸と命名(明治3年は、康午=かのえ・うま=年)
・開拓使は、御用達・木村万平に貸与。木村は「回漕会社」を設立し北海道の産物を回漕する。木村は、この年、札幌・銭函通り=南1条=に洋風の運漕店を建設した人物でもある。店舗は、札幌における洋風家屋の始まりとしている。
・同年10月、厚岸で難破(難破年について、「開拓使事業報告」の「本文」は、「明治3年」とし、同「附属船明細票」は、「7年難破」としている。)

○辛未(しんび)丸
・明治3(1870)年、イギリスで製造された蒸気船「レッサ」号
・明治4(1881)年5月購入、辛未丸と改称。(明治4年は、辛未=かのと・ひつじ=年)
・同年9月、取扱を木村万平の「回漕会社」に託す。(1ケ年借賃金3500円)

○稲川丸
・万延元(1860)年、清国・香港で製造。
・明治5(1872)年、開拓使、横浜の鈴木安兵衛から購入。
・同年5月、森・室蘭間の定期航路に充てる。

○安渡丸
・明治5(1872)年2月、斗南藩より購入。
・当初、石明丸とともに、石狩川運送に供された。
・明治5(1872)9月、森・室蘭~函館~南部・川内(かわうち、現青森県むつ市川内)
*斗南藩(となみはん)は、明治2年(1869年)容保の嫡男・容大(かたはる)に家名存続が許され、翌年の明治3年(1870年)成立した藩である。会津藩を没収された会津松平家は、改めて下北半島の北郡・三戸郡・二戸郡内に3万石を与えられ、現在の青森県むつ市田名部にある徳玄寺に陣屋を構えた。斗南藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県で斗南県となり、弘前県を経て青森県に編入された。
○弘明丸
・明治3年(1870)横須賀造船所で製造、開拓使は、明治5(1872)年4月購入。
・明治6(1873)2月、開拓使、函館~青森・安渡間に弘明丸をもって定期航路を開設。
・明治8(1875)5月、小樽~石狩~篠路太を回航。

○玄武丸
・明治4(1871)年9月、黒田次官から要請を受けたケプロンがアメリカに建造を依頼、ニューヨークで進水。
・明治6(1873)年5月に日本に回着、当初「黒田丸」と称し、8月に玄武丸と改称。
・明治8(1875)年1月、東京~函館~小樽の定期航路の航海に充てられた。
・黒田長官大砲事件の時の使用船、蛯子船長が処分を受ける。

○矯龍丸
・ケプロンの依頼で、玄武丸とともに、ニューヨークで完成。進水時の船名は「ケプロン」号。
・明治5(1872)年4月購入。

・明治6(1873)年5月に日本に回着、当初「樺太丸」と称し、同年10月に矯龍丸と改称。

・明治6(1873)年5月、開拓使附属船となる。

○蟠龍(はんりゅう、呉音読みで、「はんりょう」とも)丸=のち、雷電丸
・数奇な運命を辿る。
・安政3(1856)年、イギリスで製造。原名:「エンペラー」号。王室用武装帆船。
・安政5(1858)年7月、ヴィクトリア女王より幕府に贈られた。
・戊辰戦争では、榎本脱走艦隊に属して蝦夷地に向かう。
・明治2(1869)年5月11日、榎本政府最後の1隻として死闘、新政府軍艦朝陽丸を撃沈するも、最後は機関の故障で大森浜に乗り上げ、船員は蟠龍丸に火をつけ下船、蟠龍丸炎上で旧幕海軍は壊滅した。
・しかし、完全には焼失せず、バチェルダー(東京築地居住のアメリカ商人。箱館戦争では官軍の輸送にあたる)機関修理を申し出、上海で修理される。
・明治6(1873)年6月、開拓使、蟠龍丸を購入。のち、「雷電丸」と改称。
・明治10(1877)年2月、沖鷹丸(海軍省附属船)と交換、海軍砲艦「雷電」として、根室定繋(ていけい)となる。
・明治21(1888)年1月、海軍を除籍、廃艦。
・高知県に無償で払い下げられ、捕鯨船となる。
・さらに、大坂、名古屋の船会社に転籍。商船となる。
・明治30(1897)、大坂・前川造船所で解体。41年の生涯であった。
・ちなみに、「蟠龍(はんりょう)」は、「地上にわだかまって、まだ昇天しない龍」のこと。

○北海丸
・明治元(1869)年、フランスで進水。開拓使附属船では最大の1100トン。神奈川県が購入、「雑喜丸」と命名
・明治5(1872)年、開拓使が購入、「北海丸」と改称。
・明治7(1875)年、海軍省に移管。巡洋艦「浅間」と改名。
・明治8(1876)年8月、5月に調印された千島・樺太交換条約に基づく
千島受領に際し、儀礼艦として大泊港へ派遣
・明治10(1877)年、西南戦争に参加。その後、練習艦となる。
・明治29(1896)年、売却された。