Ⅱ.北海道の鉄道の黎明

1.【茅沼炭鉱鉄道】
*神奈川条約(1854=嘉永7)日米和親条約で、下田、函館の開港、アメリカ船に石炭、食料を供給することが決まったことから、北海道での石炭採掘を促した。
*茅沼海岸~鉱山間(明治2年)。2.8キロ。牛に引かせた「牛車軌道」・・海岸へは傾斜を利用して自走、貯炭場へは牛の力。後、馬になった。石炭は船で函館へ輸送された。
・日本初の鉄道(横浜~新橋間・明治5年)より3年早い。
・昭和2年(1921)蒸気機関車による鉄道輸送になった。
《武井家》は、天保年間、青森から渡道以来、茅沼で漁場を経営、住宅・酒造部、呉服部など拠点施設は、鉄道の海岸側終点にあった。中島宏一氏は、論文の中で《武井家》関係者の談を引用し、「蒸気鉄道は、酒造部の軒先をかすめるように走っていた」と記している。実際、「北海道立志伝」の武井家の絵図には、敷地内に軌道が描かれている。
・安政3(1856)、初代武井忠兵衛の雇い人の船頭・忠蔵が山中で「燃える石」を発見、函館奉行に届けたことが茅沼炭鉱の発端。
・なお、武井家は、明治16年1月、茅沼炭鉱採掘中止(幌内鉄道開通により、幌内炭鉱と比較して輸送面の不備。相次ぐ炭鉱災害などで)後、明治17年、2代目武井忠兵衛が中心となり、「茅沼炭山採炭組合」を組織、鉱山営業参入。  
・大正末期からの鰊不漁で、泊村の経済は、漁業から茅沼炭鉱に大きく依存していった。
・武井家、明治28年頃、酒造業に乗り出す(開拓の村の武井酒造部の建物は明治19年頃建てられたもの。)
2.【幌内鉄道】
・幌内炭山の発見・・明治元年、小樽本願寺の建設用材の切り出しに幌内(三笠)付近の山へ入った石狩のそま夫・木村吉太郎が黒光りする塊を発見。その後、明治4年、島松の猟師紺野松五郎が、外国船で使用されている石炭であることを確信し、開拓使に届ける。
・石炭搬出路
①榎本案・・石狩川水運利用案。→オランダ人ゲントが継承。
②開拓使顧問ケプロン案・・幌内・室蘭間の鉄道敷設案→クロフォードが継承。

クロフォード(アメリカ)・・明治11年、鉄道建設兼土木顧問として札幌に着任。陸路担当、幌内~小樽間の鉄道建設をめざす。「余はここに一言を呈せんとす。即ち、江別太より小樽によって石炭を運送するときは、石炭のほかに運送費を負担すべきものなしといえども、鉄路を小樽に延長するときは、荷物・乗客より生ずべき利益は、ことごとく石炭の運送費を減少すべき補助となるべきことなり」と提言。

・開拓使は、石狩川案の洪水もあり、凍結する冬季間の利用もむずかしいと判断し、クロフォード案を採用、幌内~手宮の鉄道建設を決定。

・クロフォードを技師長に、明治13年1月8日、鉄道建設の第一歩である小樽若竹町第3トンネルの開削にとりかかる。
・銭函までは、トンネル工事が続く。海岸線は馬車道の転用。明治13年11月11日、銭函まで試運転。

・明治13年11月28日、手宮~札幌間35キロの運転式挙行。(「時刻表1」)
・日本で3番目の鉄道。
・車輪が真紅で縁取られた機関車弁慶号は、客車3両を引いて9時、手宮発、運転手は機械製造手長ハロウェイ。~12時札幌着。3時間かかった。着手してからわずか11ヶ月。

*一方、漁民の騒ぎもあった。翌明治17年、小樽沿岸一帯の鰊漁は不振に見舞われ、漁民は、「汽車の轟音で鰊が近づかなくなった」と騒ぎ出し、張碓トンネルを閉鎖しようとまで発展した事件がありました。この漁民の中に、祝津海岸で鰊建網漁が軌道に乗りはじめた49歳の《青山留吉》がいたかどうか。

・《手宮駅長官舎》・・開拓の村パンフレットは、明治17年建設としている。とすれば、北海道鉄道史上、最古の記念建造物。昭和35年、鉄道記念物に指定された旧手宮機関庫は、明治18年創建だから、それより古いことになる。
ついでながら、5日前の9月12日、電話線が完成。北海道最初の電話開通。

・駅、停車場、ステーション
・幌内鉄道における駅長第1号の手宮駅長・村上彰一の辞令によると、「手宮停車場長心得」とあり、「停車場長」。「駅長」ではなかった。
・「駅」・・「旅人の宿泊地、馬継ぎ場」「馬偏」に★(馬を次から次へとたぐりよせるようにして乗り継ぐために用意された所。宿場の意味)
・大宝律令(701)・・「駅」。駅制=馬、舟、人夫などを供給する場所。
・ステーション:明治5年5月3日、品川・横浜間仮営業発表文には、「品川ステーションより横浜間汽車運転、来る7日より仮に営業相成り候条此旨相達候事・・」と「ステーション」と呼称している。
・「駅」が最初に登場するのは、明治19年7月1日改正の時刻表から。それ以前は「停車場」。現在、鉄道廃止地域の道路路線名に「停車場線」が各地に残っているのはおもしろい。

・明治末期の啄木は、停車場と駅、両方を表現している。
「石狩の美国といへる停車場の 柵に乾してありし 赤き布片(きれ)かな」(H15、美唄駅前に建立)
「真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢(びん)の古き瘡あと」(倶知安駅前)
「さいはての 駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」(釧路 港文館前)
「ふるさとの  なまり懐かし停車場の  人ごみの中にそを聞きにゆく」

・鉄道唱歌(明治32年発表。大和田建樹(たけき)作詞)は、駅とステーション。
5番:鶴見神奈川あとにして ゆけば横浜ステーション
   湊を見れば百舟(ももふね)の 煙は空をこがすまで
16番:三島は近年ひらけたる 豆相(ずそう)線路のわかれみち
   駅には此地の名を得たる 官幣大社の宮居あり
46番:東寺の塔を左にて とまれば七条ステーション
   「京都々々」とよびたつる 駅夫のこゑも勇ましや

・《札幌停車場》・・「空知通=北6条通」。最初の停車場は、本屋11坪の仮停車場。開拓の村の札幌停車場は、明治41年12月に完成した3代目駅舎。(5分の4に縮小再現されている。)

*《開拓使札幌本庁舎》・・あたかも江戸城本丸のよう。周辺は、役宅。大通りの南は、民家。条は、今も、中通で分かれる。
*《南1条派出所》・・南1条通り(当時は渡島通)に、明治4年、大友堀が改修された際、木橋が架けられ、開拓使長官岩村道俊により創成橋と名づけられた。明治18年、その西側に木造の「創成橋交番」ができた。のちにレンガ積みの開拓の村へ移転された「南1条派出所」になった。
*南2条通は、「爾志通」=《旧開拓使爾志通洋造家=白官舎》が見える。
・ところで、現存する創成橋は、明治43年に架けられた札幌最古の橋。札幌軟石を使ったアーチ橋。日本初のトラス構造。札幌の区画割の基点となっている。欄干には3代目の擬宝珠がある。
(1~2代目の擬宝珠が旧交番跡地向かいの東ビル前に展示されている)。
・「大友堀」=1866年(慶応2)9月大友亀太郎が完成。豊平川の支流(鴨々川=今も、一部が残る)南4西2のすすきの・アオキビルの裏から引く。当時は「新川」と呼んでいた。死後、彼を評価して使われるようになった。
*CF:幌内線の橋は、全部で191すべて木橋。アーチ型の石造の橋梁が駅西側のシャクシ・コトニ川に架けられた。
*《開拓使工業局》が創成川をはさんで、大通の東に見える。
*《札幌拓殖倉庫》・・「米蔵」とある。