2.【オホーツクへ】

・鉄道省決定の8ケ月後の大正元年10月工事開始(7月30日、明治天皇死去)

○天北峠(190M)は、トンネル掘削・・手塩川の支流、オトイネップ川を上る。神威古譚帯の蛇紋岩の軟弱地質で難行。急勾配、狭い渓谷。15キロを2年懸かりで小頓別へ。
CF:名寄本線にも「天北峠」(300M)がある。こちらは、峠越え。高いが勾配はゆるやか。名寄川の広い河川敷。
・(天塩と北見の)国境の長いトンネルを抜けるとそこは頓別原野だった。長いといっても、367Mだが・・。頓別川をオホーツク海へ下る。2年かかりで・・

○小頓別(しょうとんべつ・宗谷線)・・大正3年11月7日開駅。
・「天北鉄道延長、鉄軌愈々頓別原野に入る」(「中頓別町史」P199~201)
・大正4年の乗降客は34000人、1日93人。道央、枝幸を結ぶ交通の要所、頓別原野への窓口として発展する。
・百戸以上の市街地に・・料理店11軒、旅館4軒も。菅井旅館(大正2年開業。昭和3年建設の3階建ての「丹波屋旅館」は、稚内にもないといわれたしゃれた和洋旅館。平成12年、国の「登録有形文化財」に指定された。
*のち、北海道殖民軌道(小頓別・歌登間)の分岐になり、小頓別は交通の要所となった。
*「頓別」・・35キロの間に「小頓別」「上頓別」「中頓別」「下頓別」「浜頓別」の5駅がある。なお、浜頓別から分岐した興浜北線の最初の駅は「頓別」。

*中頓別へ・・橋梁建設が中心。頓別川本流7、支流5に架橋。石材、レンガの資材の確保と輸送が問題だった。これまた2年かかり・・

○敏音知(ぴんねしり・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅
・「御待合」(早坂やい)、料亭「ぴんねしり大正亭」「富士見亭」など7軒

○松音知(まつねしり・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅。
・明治末から白金ブーム。400人~1000人とも。鉄道開通でさらににぎわう。
・大正元年、大根菊次郎、待合兼旅館を開く。
・旅館4軒、料理店10軒を数え、夜ごとにぎわいを見せた。

○中頓別(なかとんべつ・宗谷線)・・大正5年10月1日開駅。
・明治31年、頓別川の支流・ペーチャン川のゴールドラッシュ。東洋のクロンダイク(カナダ。19世紀末。ギールドラッシュで沸いた)とまでいわれ、1万6千人を越える砂金採取人で沸いた。
・待合所・・「大根菊次郎」・・松音知から移転。
・市街のにぎわい・・「中頓別料理屋組合」の広告
・沿線の繁栄・・

・大澤商店
(開拓の村に復元の旧渡辺商店の最初の所有者・大沢政次郎が経営)
・大沢政次郎・・「頓別村発達史」
・大正3年建設(「中頓別町史」。開拓の村パンフレットは「大正前期」、解説書は、「大正7年頃」)
・1300平方メートルの敷地に、木造漆喰仕上げ、瓦葺き、総2階建ての母屋。異荒壁、瓦葺き防火扉付土蔵(倉庫)。
・大正7年4月9日中頓別市街地大火(「中頓別町史」は「51棟焼ける」とし、「中頓別消防沿革史」は「69戸全焼」としている。)
・「大沢は倉の中の味噌樽をありったけ持ち出させて手当たり次第に壁に塗らせて飛び火を防いだ。・・この味噌樽のおかげで・・炎症を免れた。」(「中頓別町史」)
・床の間・・砂金入り壁。
・極めつけは、倉庫と店舗の間に軌道を敷いてトロッコを走らせたこと。
・大沢商店、倒産。
*大正12年、渡辺胤之(たねゆき)氏(山梨県北巨摩郡鳥原村出身:中頓別の兄・勝重=明治35年来道、小樽で働いた後、大正3年、中頓別で荒物・金物商を開く=の店で働いていた)が買い取り、「渡辺商店」を開業。(開拓の村の「旧渡辺商店」の店内に「賣薬請賣業 渡辺胤之」の看板がある。)
・胤之氏没後、長女・久子さんと結婚した宮崎豊氏・久子夫妻で経営を続ける。
・昭和52年には、「宮崎商店」(所有者名義は、胤之氏の長男・渡辺博氏)と店名も変わった。

○浜頓別(はまとんべつ・宗谷線)・・大正7年8月25日開駅。
・明治11年、頓別村が成立。42年、合併で枝幸村となり、大正5年、枝幸村から分村して、再び頓別村が成立。
・中頓別からの予定線は、まっすぐオホーツク(今の浜頓別)に出るのではなく、クッチャロ湖の裏(西側)を通って浅茅野に出る案。
・単なる森林地帯で地名もなかった現浜頓別市街地の土地の大半を所有していた大地主・菅野栄助の猛運動。浜頓別の市街地の形成に私費を投入。「新市街」と呼ばれた。頓別に倍する市街地が形成された。
・駅名は、単に「浜に近い頓別」から。やがて、駅名は、頓別村の字名になり、昭和26年町制施行から、ついに、町の名にまでなった。

*大正8年10月20日、「宗谷本線」(旭川・浜頓別間)と改称。

○浅茅野(あさちの・宗谷本線)・・大正8年11月1日開駅。

○猿仏(さるふつ・宗谷本線)・・大正9年11月1日開駅。
*「猿仏村」が、「宗谷村」から分村・独立したのは、大正13年1月のこと。
役場の所在地ではない。

○鬼志別(おにしべつ・宗谷本線)・・大正9年11月1日開駅。
*猿仏村の役場所在地。開通の日、駅前に丸太で舞台が組み上げられ、「金色夜叉」が上演されたと、「猿仏村史」伝えている。

*鬼志別は開駅(大正9年11月1日)されたが、名寄線は、まだ、全通していない時期。

*来正旅館の時刻表は、「網走」行があって、「稚内」行がない期間、
つまり、名寄線全通初日(大正10年10月5日)から、宗谷本線(頓別回り)稚内開通前日(大正11年10月31日)までの期間のもの。(1年と26日)
・上り・下りの時刻、下り行先は、正しく表示されている。惜しむらくは、上りの行先が、正確でない。

*大正10年10月5日、「宗谷本線」を「宗谷線」(旭川・鬼志別間)に戻す。

・小石(こいし)・曲淵(まがりふち)、大正11年11月1日開駅。この間の距離 17.7キロ。約50分かかり、駅距離間としては、日本の鉄道では最長だった。

○稚内(わっかない・国鉄宗谷線)・・大正11年11月1日開駅。頓別回りの音威子府・稚内間全通。旭川から明治31年5月着工だから、実に24年目の全線開通だった。
*大正11年11月4日、「宗谷線」を「宗谷本線」(頓別回り:旭川・稚内間)と再び格上げ。

*現「南稚内駅」名の変遷
・最初は、「稚内駅」(頓別回り・宗谷線)・・大正11年11月1日開駅。
・「南稚内駅」(宗谷本線)・・昭和14年2月1日。昭和3年12月26日、これまで稚泊航路の連絡待合所が線路延長してできた「稚内港」駅が、「稚内」と改められため、「南稚内」と改称。

*稚泊(ちはく)航路(稚内・大泊=現コルサコフ間)・・大正12年5月1日、大泊から稚内に向けて壱岐丸(1680トン)が出港したのが最初。当初1日6便。昭和20年8月24日の宗谷丸の運行が最後。
・1995(平成7)年、「サハリン航路」として復活。現在、東日本海フェりーが「アインス宗谷」を年間50便運行。

・ここに、「(頓別回り)宗谷本線は、函館本線とともに、北海道内の最重要路線となった。稚泊航路開設の大正12年5月からは、函館桟橋・頓別回り稚内間に、1・2等寝台車、洋食堂車を連結した急行(区間は函館桟橋・滝川間、大正13年6月から名寄へ延長)が運転されるという華やかな時代を迎えた。