○東蝦夷地ウラカワ以東の仮上知
<背景と経過>
・寛政元年(1789)クナシリ・メナシ地方のアイヌの蜂起、同4年ロシア使節ラックスマンの来航、寛政8・9年(1796~97)ブロートン指揮する英国船プロビデンス号内浦湾へ来航・・幕府は、蝦夷地対策の具体的行動を迫られた。
・寛政10年(1798)3月、目付渡辺久蔵らに蝦夷地巡見を命じる。11月帰府、幕府に詳細を報告。
・幕府、蝦夷地直轄の方針を固め、同年12月、書院番頭・松平忠明に「蝦夷地御用」を命じる。
・寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地を当分の間試みに上知する旨松前藩に通達。
・同年2.11・・上知の期間を7ケ年、範囲をウラカワよりより知床及びクナシリまで)試みに仮上知する旨、松前藩に通達。

○シリウチ川以東の追上知
・同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
<背景>
・幕吏の松前藩支配下の東蝦夷地通行の負担が増大し、東蝦夷地の領有がかえって負担になるという状態にみまわれた。
・いずれ箱館を含む和人地も上知の対象となることを予測し、少しでも有利な条件を手に入れるため、先手を打ったという見方もある(松前町史)
・同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
・同年.9.28・・幕府、代地5000石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)

○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。

○東蝦夷地の永上知
<背景と経過>
・箱館奉行、幕府に対し、松前藩が蝦夷地警備に何ら力を注がないとして、①「蝦夷東西一円永上知」②「東蝦夷地のみ永上知、西蝦夷地は松前家に任せ、成績があがらなければ、残らず上知」の二案を建議。
・享和2年(1802).7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。永上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。
松前藩の財政は、大きく圧迫された。

○蝦夷地一円の上知
<経過>
・文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余

総領知高 18,626石余

○同年.10.24・・幕府、奉行所を箱館より福山に移し、松前奉行とする。