わが国郵便制度の創始者・前島密と蝦夷地・北海道とのつながりを記す。
◎安政5年から巻退蔵と自称しこの年の11月、箱館におもむき諸術調所に入門、武田斐三郎に航海学を学び、安政6年、奉行から預けられた箱館丸に乗り、北海を巡航し、更に転じて南海に出て、摂津・播磨・上総・下総から陸奥を経て南部の宮古に越冬し、翌万延元年箱館にもどる。翌文久元年には、亀田丸に乗ってロシア領ニコライエフスクにも航海した。
当時、航海術を実地に学べるところは箱館と長崎より他になく、特に武田斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に頁献する有為の人材を生むに至った。門下生には山尾庸三、井上勝、蛇子末次郎、今井兼輔などがおり、前島密もその一人であった。
◎明治元年3月、蝦夷地開拓につき陳情。明治初期開拓使設置当初のころ、開拓使はその地名に漢字をあて政府に報告していたが、密は北海道の地名はアイヌ語よりその源を発しているので、仮名で書くのが適当ではないかといい、以来北海道との深い関わりが生れた。(「はこだて人物史」より転載)
◎明治新政府の首都について、江戸遷都を説く。首都としての江戸の長所を6項目挙げ、その第一に、「蝦夷地開拓が進むと、江戸は日本の中央になる」と論じた。
◎安政5年から巻退蔵と自称しこの年の11月、箱館におもむき諸術調所に入門、武田斐三郎に航海学を学び、安政6年、奉行から預けられた箱館丸に乗り、北海を巡航し、更に転じて南海に出て、摂津・播磨・上総・下総から陸奥を経て南部の宮古に越冬し、翌万延元年箱館にもどる。翌文久元年には、亀田丸に乗ってロシア領ニコライエフスクにも航海した。
当時、航海術を実地に学べるところは箱館と長崎より他になく、特に武田斐三郎の実用主義教育は、後にわが国の産業、文化に頁献する有為の人材を生むに至った。門下生には山尾庸三、井上勝、蛇子末次郎、今井兼輔などがおり、前島密もその一人であった。
◎明治元年3月、蝦夷地開拓につき陳情。明治初期開拓使設置当初のころ、開拓使はその地名に漢字をあて政府に報告していたが、密は北海道の地名はアイヌ語よりその源を発しているので、仮名で書くのが適当ではないかといい、以来北海道との深い関わりが生れた。(「はこだて人物史」より転載)
◎明治新政府の首都について、江戸遷都を説く。首都としての江戸の長所を6項目挙げ、その第一に、「蝦夷地開拓が進むと、江戸は日本の中央になる」と論じた。
「前島密自叙伝」(日本図書センター刊 1997)を参考に、述べる。
・前島の「江戸遷都」論は、大久保利通の「大坂遷都」論に反論する形で書かれた。前島は大久保宛「建言書」を書き、大久保に送るとともに、前島の「追懐録」に記しておいた。日付は「明治元年3月某」とある。(「明治改元は9月8日だから、「三月」は「慶応4年」。前島の誤記か=森勇二注)のち、吉田東伍文学博士がこれを見て、自身の「夢平閑話」に収め、読売新聞に掲げた。
・それには、前島自身の「小序」、本文「大久保君に与えて東遷を論ずる書」と「副陳書」からなっている。
・「副陳書」には、江戸遷都の理由が6項目ある。その1項目に蝦夷地との関連が書かれている。その原文を記す・
「大坂府所在の帝都は「帝国中央の地ならんを要す・蓋し蝦夷地を開拓の後は江戸を以て帝国の中央とせん。而して蝦夷地の開拓は急ならざる可らず。且此開拓事業を管理するは江戸を以て便なりとす。浪華は甚だ便ならず」