◎はじめに
文化4年(1807)3月22日、江戸城本丸「波の間」において、松前藩主・松前若狭守章広(あきひろ)に対し、老中列座のなか、老中・松平伊豆守信明(のぶあきら=三河・吉田藩主=)より、松前西蝦夷地一円の上知が達せられた。その江戸城本丸の「波の間」と松前家の関係について考察する。

1. 江戸城本丸の建設、炎上、再建
まず、江戸城本丸の建築、炎上、再建について触れる。
① 慶長11年(1606)3月・・本丸構築
② 寛永14年(1637)8月・・本丸改築の竣工
③ 寛永16年(1639)8月・・本丸焼失(1回目)
④ 寛永17年(1640)4月・・本丸再建(第1次再建)
⑤ 明暦3年(1657)1月・・いわゆる「振袖大火」で天守閣、本丸、二の丸、三の丸まで炎上(以後、天守閣は再建されていない)(2回目)
⑥ 万治2年(1659)8月・・本丸再建(第2次再建)
⑦ 天保15年(1844)5月・・本丸炎上(3回目)
⑧ 弘化2年(1845)2月・・本丸修築終わる(第3次再建)
⑨ 安政6年(1859)10月・・本丸炎上(4回目)
⑩ 万延元年(1860)・・本丸再建(第4次再建)
⑪ 文久3年(1863)6月・・江戸大火で本丸、西の丸類焼し、全焼(5回目)西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、本丸は、再建されなかった。
・以上のように、本丸は5回炎上し、4回再建されている。

2. 「波の間」の概要
・位置・・白書院の西側、黒書院へ渡る「竹の廊下」の手前にあった。
・広さ・・22畳半(2間半×4間半)
・座敷障壁画と筆者・・絵画は「波千鳥」。
作者・・各座敷の絵画は、当然ながら、再建の都度、筆者は異なるが、「史料徳川幕府の制度」付録の「御本丸御殿各御座敷絵画竝ニ筆者」(以下「座敷絵画」)には、奥絵師(注1)・木挽町狩野派(注2)の養朴(注3)、同じく鍛冶橋狩野派(注4)の狩野探原(注5)の2名の名前がある。
 「狩野探原」は、前期「座敷絵画」によると、「弘化二乙己年御普請出来之節筆者」とあるから、彼が、本丸第4次再建後の「波の間」に「波千鳥」を描いたことになる。
 養朴が木挽町狩野を継いだのは、慶安3年(1650)だから、養朴が「波千鳥」を描いたのは第2次再建=万治2年(1659)=以降だろう。

3. 松前家の格付け
 松前家の対幕府関係での格付けには変遷があるが、享保4年(1719)には、幕府より月次礼席(注6)は、「万石以上」の指示を受けた。松前家はここに至って初めて正式に1万石格の「大名」となった。
「文化武鑑」の文化3年(1806)の項には松前藩は大名の最末尾に掲げられ、石高・領地については「無高 蝦夷松前一円従先祖代々領之」とある。なお、松前家の将軍お目見えの月次礼席の格は、「大広間」(注7)、城中の詰め間は、「柳の間」(注8)だった。

4. 老中達しがあった「波の間」
 老中から松前家に「波の間」で達しがあったのは、これが初めてではない。「松前年々記」に記されている「波の間」での老中達しの例を挙げてみる。
①元文6年(1716)2月11日の項に「傅吉(注9)同道登城、波之間ニテ願之通松前三郎兵衛(注10)三男傳吉養子被仰付、御老中列座久世大和守(注11)被仰渡」とあり、老中からの達しが「波の間」で行われている。
 この背景を述べると、松前藩6代藩主・矩広(のりひろ)には3人の男子がいたが、長男竹三郎と、3男卓之助は早世し、この年、元文6年(1716)正月13日、次男の橘太郎(きつたろう)富広も江戸で病死する。世継ぎがいなくなった松前家では、急遽、傅吉を養子に迎え嗣子とすることを幕府へ届け、この日、老中達しとなった。
②享保6年(1721)7月11日の項に「於波之間御老中列座井上河内守被申渡、志摩守跡式被下之仕置トウ之義志摩守時之様可仕旨被仰渡候」とある。前年の享保5年(1720)の暮12月21日、松前藩6代藩主・矩広が松前で死去、跡目相続願のため、嗣子の傅吉は翌享保6年(1721)6月15日松前出船、7月8日江戸着、同11日に登城し、前記のように「波の間」で、「跡式」安堵が老中より申し渡された。10月には従五位下・志摩守に叙任された。

◎結論
松前藩に対する、江戸城での「老中達し」は、「波の間」で行われたと推測する。
なお、「松前年々記」には、「祝儀献上」は「桧の間」で行われている。
 「松前年々記」に見る江戸城における松前家の応対座敷は
・将軍お目見え・月次礼席は、「大広間」
・老中達しは「波の間」
・祝儀献上は「桧の間」
であった。
 このような座敷扱いは、松前家だけのものなのか、松前家と同じ「柳の間」詰めの「従4位以下の外様大名」がすべて同様の扱いだったかどうかは、今後の研究課題としたい。

(注1)「奥絵師」・・江戸幕府御用絵師を「表絵師」というが、「奥絵師」は、その中でももっとも格式が高い職位。狩野探幽に始まる「鍜治橋狩野」、狩野尚信の「木挽町狩野」、狩野安信の「中橋狩野」狩野尚信の「浜町狩野」の四家を「表絵師」と区別して「奥絵師四家」と呼んだ。
(注3)「木挽町狩野派」・・奥絵師四家のひとつ。狩野尚信を祖とし、安永6年(1777)狩野典信(みちのぶ)が田沼意次から木挽町に土地を得て移転してから、この名で呼ばれるようになった。
(注3)「養朴」・・画家・狩野常信(寛永13.3.13-正徳3.1.27=1636-1713)の号。奥絵師四家(注2)の一つ、木挽町狩野(注3)の始祖・狩野尚信の長男として京都に生まれる。慶安3年(1650)父の後を継ぎ、内裏(だいり)障壁画制作に参加。の画家。養朴の名は「殿上の間」「黒書院・松溜」「連歌の間」にも見える。
(注4)「鍛冶橋狩野派」・・狩野探幽が元和3年(1617)徳川幕府より鍛冶橋門外に屋敷を拝領したことに始まる。
(注5)「狩野探原」・・狩野探淵の子。
(注6)「月次礼席」・・毎月の朔日、15日の将軍お目見・儀式。「朔望の礼」ともいう。ただし、正月、1,4、7、12月は28日も登城した。格によって、お目見・儀式の際の座敷、順序が定められていた。
(注7)「大広間」・・玄関を入って左にある。上段、中段、下段の各間と、1から4の間まであり、溜、縁を含め490畳半あり、江戸城でもっとも広い座敷。
(注8)「柳の間」・・「大広間」の奥。庭を挟んで「松の廊下」の向い。「御次」と2間あり、いずれも48畳。従4位以下の外様大名の詰の間。松前章広は、「従5位下」。礼席は、主として外様大名の席。
(注9)「傅吉」・・松前藩7代藩主・松前邦広の幼名。
(注10)「松前三郎兵衛」・・幕臣・松前三郎兵衛本広。500石。小姓組から書院番。本広系江戸松前家の祖。祖父は松前初代藩主・慶広(よしひろ)の2男の忠広(幕臣となり、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で奮戦し1000石加増の2000石となった。忠広系江戸松前家の祖)。
(注11)「久世大和守」・・久世重之。大名。幕臣。重之一代のときに関宿藩から備中・庭瀬ついで丹波・亀山さらに三河・吉田へとめまぐるしく転封をつづけ、宝永2年(1705)再び関宿に復帰する。本論の元文6年(1716)2月11日当時は、三河・吉田藩主。正徳3年(1713)~享保5年(1720)まで老中。

<参考文献>
・「史料徳川幕府の制度」(小野清著、高柳金芳校訂、人物往来社、1968)
・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道、1936)
・「松前年々記」(「松前町史史料編第1巻」所収、松前町、1974)
・「松前町史通説編第1巻上」(松前町史編集室編、松前町、1984)
・「文化武鑑1」(石井良助監修、柏書房、1981)