○千島樺太交換条約の締結と北方問題
・日露国境問題は、未解決のまま開拓使にもちこまれた。(これまで、安政元年=1854=の日露和親条約では、千島はエトロフ水道をもって境とし、樺太は従来通り雑居地となる)
現地ではロシア人の進出が進み、現地の日本人との間にトラブルが耐えなかった。樺太駐在の岡本監輔(かんすけ)は強硬論だったが、失望して樺太を去る。
・明治7年(1874)1月、榎本武揚は、ロシア駐在特命全権公使に任命され、ペテルグルクに赴き国土交換の交渉にあたる。榎本、交渉の際、240年も前(寛永12=1635=)の松前藩士・村上掃部(かもん)左衛門の千島巡行、いわゆる「島めぐり」を持ち出し、ウルップ島以北の全千島の領有を主張した。
明治8年(1875)5月、千島樺太交換条約調印、樺太全島をロシアに渡すかわりに、ウルップ島以北、占守島に至る千島諸島全18島を日本領にする。
・なお、日本帰属を希望する樺太アイヌは、宗谷定住を望んだが黒田長官(前年の明治7年、長官となった)アイヌの希望を許さず、樺太アイヌ841人を対雁(ついしかり)(現江別市)へ強制連行した。黒田の方針に反対した松本十郎大判官(アイヌの衣装アツシを着用していたので「は辞任した。
(対雁に移住した樺太アイヌのその後の興味ある話があるが省略する)一方、千島アイヌも色丹島に移住させられるなど、悲劇の運命を辿った。
○技術と産業の発展、炭山の開発、鉄道開通
・明治4年(1871)7月、ケプロン来日。年俸1万ドル、太政大臣より高級であった。ケプロンの権限で開拓使時代に雇い入れた外人は総計78人にのぼった。
・西洋技術の導入・・道路開削、官園の開設(りんごなど)、缶詰製法の導入、石炭の開発などの政策構想を打ち出した。
・開拓使は、味噌・醤油の官営醸造所、缶詰、ビール、ぶどう酒、製粉、製紙、養蚕、亜麻などの官営工場を作った。
・欧米農法・・明治4年(1871)、ケプロンの建議で札幌官園の設置。翌5年、新冠牧場の開設。開拓使は果樹栽培を奨励、特に、「平岸リンゴ」の名は、全国的に有名になったばかりでなく、明治中期から後期にかけてはウラジオストックに輸出された。明治20~30年代は、札幌周辺に23万本が植えられ、全国収穫量の80%を占めた。この頃の札幌の初夏は林檎の花咲く里であった。
・炭山・・幕末に開坑した茅沼炭鉱を官営。また、榎本、ライマンが調査した幌内(現三笠市)炭鉱の開発を進め、明治12年(1879)12月開坑。空知大炭田の端緒となった。
・鉄道・・幌内炭を運搬する方法・・①石狩川案(榎本)②室蘭鉄道案(ケプロン、ライマン)③手宮鉄道案(クロフォード)・・クロフォード案に決まる。
・クロフォードは張碓の難所を開削、明治13年(1880)11月、手宮~札幌間が開通、「義経号」「弁慶号」が走った。日本で3番目の鉄道(1番=明治5年=1872=新橋~横浜間、2番目=明治7年=1874=大坂~神戸間。なお、明治2年=1869=茅沼炭鉱から海岸まで3キロ、石炭運搬の軌道が運行した。泊村では『日本最初の鉄道』とPRしている。)
・明治15年(1882)には幌内まで手宮から90キロが全通した。この開通によって小樽は札幌の玄関として、さらには、本道内陸開発の基点として発展する基礎になった。
・本願寺道路・・東本願寺は、新政府への忠誠と北海道の強健の維持のため、北海道開拓事業への援助を決めた。明治3年(1870)9月、有珠~定山渓~札幌間26里(約100キロ)の道路開削に着手。これがいわゆる「本願寺道路」。翌4年7月、竣工(工費1万8000両)。まもなく札幌本道の開通でほとんど利用されずに廃道になった。
・札幌本道・・ケプロンの建議で築造。明治5年(1772)3月、亀田を基点に森まで、更に噴火湾を渡って室蘭に上陸、千歳を経て札幌豊平橋に至る45里(180キロ)を「札幌本道」と定めて着手。人夫5389人、官吏200人余配置。翌6年(1773)6月には全工程を終えた。
・明治7年(1774)には、札幌~小樽間の人馬の往来ができるようになった。
○移民団の開墾、屯田兵の創設、
・農民の移民・・明治10年代後半の不況で多くの農民が土地を失って没落、北海道への移民が増加した。
・農民の移民の推移
① 慶応4年(1868)、岡本監輔は箱館で200人の移民を募集し、クシュンコタンに引率
② 明治2年(1869)開拓使は、発足にあたって東京で募集した数百人を根室などに移住させた。多くは浮浪人のたぐいで、失敗に終わる。
③ 明治3年(1870)~4年(1871)・・東北からの移民を札幌周辺などに入植させた。
・士族の移民・・明治4年(1871)の廃藩置県や戊辰戦争で削封された東北諸藩の士族の失職。初期北海道移民の源泉となった。例えば
① 仙台亘理領主・伊達邦成(くにしげ)・・有珠
② 同・岩出山領主・伊達邦直は当別
③ 同・角田領主・石川邦光主従・・角田村(現栗山町)
④ 登別には、白石領主・片倉邦憲(くにのり)主従、その別派は、開拓使貫属となり札幌周辺の白石、発寒に入植。伊達邦直主従は当別へ入る。
⑤ 会津士族団・・余市へ。余市りんごの祖。
⑥ 淡路洲本の城主・稲田邦植(くにたね)は、静内に入植。
⑦ 大藩も困窮の旧藩士救済のため移住させた。八雲に尾張徳川家、岩内郡前田村(現共和町)に加賀前田家、余市郡大江村(現仁木町)に長州毛利家、当別高岡に肥前(ひぜん)鍋島家など
・会社を組織して入植
① 開進社(和歌山県士族)明治12年(1879)創立、函館・湯の川ほかに入植、成績があがらず、明治15年(1882)解散
② 赤心社
・屯田兵の創出
・明治6年(1873)黒田開拓次官は屯田兵創設を建白、「当使創置以来専ら力を開拓に用い、未だ兵衛の事に及ばす、人民の移住するもの増加す。これを鎮撫保護する者なかるべからず」。北海道に常備鎮台は置かれていなかったこともその理由にある。
・明治7年(1874)、6月、黒田は陸軍中将・北海道屯田憲兵事務総理を兼ね、参議にもなり開拓長官に昇進した。
・同年10月、屯田兵例則制定。徴兵令(明治6年=1873=)施行後も、北海道には長い間施行されなかった。北海道に徴兵令が施行されたのは、明治29年(1896)に渡島、後志、胆振、石狩に施行、明治31年(1898)に全道に施行。そのため、徴兵逃れに本籍を北海道に移したものもあった。(夏目漱石も兵役逃れのため、明治25年=1892=、岩内に本籍を移したといわれた。最近は、夏目家の財産相続問題での転籍説が有力)
・明治8年(1885)宮城、青森、酒田などの士族198戸、965人が琴似に入植。翌9年(1886)、琴似、発寒、山鼻に入植。
 練兵は主に農閑期に行われ、開墾と農業に従事した。農業は、養蚕と製麻が主だった。
 明治10年(1887)の西南戦争には、琴似、山鼻の屯田兵が動員された。死者54人を出した。