一. 寺社奉行の住職人選の達し
 等じゅ院文書「蝦夷地寺院御取建住職」(以下「住職記」)(注1)の書き出しは、享和三年(一八〇三)十一月八日付で、次の文章である。(書き下しは森)

「御掛リ脇坂淡路守殿より執当円覚院呼出ニ付、翌九日同家へ罷越候処、御達左之通
  蝦夷地へ寺院御取建仰出され候間、人撰いたし書出申さるべく候
右の趣、増上寺役僧因海へも仰渡され候事」

 寺社奉行脇坂安薫より、寛永寺執当と増上寺役僧が呼び出され、蝦夷地に建立される寺院の住職を人選し提出するよう達しがあったのである。人選期限も「当月末」、つまり、十一月中と申し渡された。
 いわゆる「蝦夷三官寺」の建立である。
まず、寛永寺について触れると、寛永寺は、江戸城の鬼門に当たる上野に、徳川家の祈祷寺として、寛永二年(一六二五)天海が開山した寺院で、寺号に年号使用を勅許された天台宗の関東総本山であり、徳川四代将軍家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十四代家茂と、六人の将軍が埋葬された菩提寺でもある。二代将軍秀忠など六人の将軍を埋葬する芝・増上寺と並び、幕府の庇護の下、江戸時代の宗教界に君臨した大寺である。さらに住職は、三世に一品法親王を招いて以来、日光山輪王寺山主、比叡山延暦寺座主の兼ねた「三山管領宮」といわれ、寛永寺は、門跡寺院であった。
上野の山全体が寛永寺の境内で、寺域三十六万坪、子院三十六、堂塔伽藍三十二を持つ豪華絢爛たる寺院で、「上野」といえば、寛永寺をさした。
 さて、元禄五年(一六九二)五月の「新寺建立禁止令」を幕府自身が破棄し、蝦夷地に新寺建立という政策転換に踏み切り、大寺に住職人選の達しが出された。

二. 寛永寺の困惑
 幕府の達しに対し、寛永寺の困惑の様子が「住職記」から伺える。
 寛永寺の僧侶養成機関である勧学校のトップである伴頭から執当円覚院へ
「住職相応の人躰、心当も御座候故、相勧見候得共、早速御請仕べく様にも無御座候」と、急いで人選することは容易ではないことを伝えている。
 寛永寺の執当円覚院は、人選期限の十一月晦日、次のような期限の延長願いを提出している。
「人撰の儀。未だ取調仕らず候に付き、今暫、御延引成下され候様、願い奉り候」
 後述するが、実際に、寛永寺から寺社奉行に住職候補者名簿が提出されたのは、四ケ月以上も後の文化元年三月十九日であった。

三. ふたりの住職候補
 翌年の享和四年二月になって、ふたりの僧の経歴書が寛永寺に提出されている。ふたりの経歴を概略する。

1. 秀暁・・上総国芝山村・観音寺住職。年齢四十一歳。戒臈(仏教修行の年数)三十一年、勧学校在勤二十二年、十老(勧学校の教授職)五年、観音寺住職十年。
2. 豪緝・・常陸国烟田村・西光院住職。年齢四十六歳。戒臈三十三年、在勤二十三年、十老五年、病身退役中四年、西光院住職五年。

寛永寺で、蝦夷地に派遣する住職がどのような過程で選考されたかは、「住職記」には書かれていないが、「住職記」から推測すると、勧学校の十老経験者が対象になったと思われる。選考に当たったのは、先の文書から勧学校の伴頭だろう。

四. 寺社奉行の決定
 寛永寺から寺社奉行へふたりの住職候補の略歴が提出されたのは、文化元年(一八〇四)三月十九日のことである。
 それには、豪緝の「病身退役中四年」の件は書かれていない。
 ふたりの経歴を比較すると、寛永寺での経歴はふたりともそんなに変わっておらず、遜色はない。むしろ、豪緝の方が戒臈年数も勤務年数も多い。
 寛永寺からのふたりの住職候補の名簿が提出されて半月後の四月六日、寺社奉行から呼び出しを受けた観音寺の秀暁へ蝦夷地住職が任命された。

「上総国武射郡芝山観音寺儀、此度、蝦夷地へ住職申付」

 ふたりのうち、秀暁が選ばれた選考経過は、「住職記」からは伺い知れない。
秀暁の方が五歳若いことがひとつの原因だったのだろうか。また、寺社奉行が、豪緝の「病身退役中四年」を漏れ聞いたか、あるいは、寛永寺側が伝えたのか、いずれにしても不明である。

五. おわりにーふたりのその後―
 秀暁・・その後、寺号決定、手当など待遇の決定、将軍お目見えなど、さまざまな動きがあり、秀暁が江戸を出立したのは、文化二年(一八〇五)四月二十一日。箱館到着が五月二十一日。蝦夷地寺院の管轄は箱館奉行だったから、いろいろ手続きがあり、秀暁は半月ほど箱館に滞在している。六月四日箱館出立、任地の様似到着は同月二十一日。等じゅ院が完成し、秀暁は、文化三年(一八〇六)十月七日から十三日まで本尊入殿勧請供養を執り行っている。
 秀暁は病を得て、文化四年(一八〇七)十月十一日、様似の地で寂した。時に四十四歳だった。
 一方、蝦夷地住職に選任されなかった豪緝は長生きしている。天保十年十月十日寂というから、八十一歳まで、永らえた。

(注1)「等じゅ院文書第二巻」(様似町教育委員会発行、等じゅ院文書編さん委員会編 1998)