◎はじめに
 激動の明治維新期に、北の辺境の地・北海道の開拓を指導した開拓使の指導者・開拓判官たちの活躍と、彼らの生涯を追ってみる。
・明治期の北海道の政治体制
① 開拓使時代・・明治2.7.8~15.2.8
② 3県1局時代(札幌・函館・根室の3県と農商務省北海道事業管理局)
・・明治15.2.8~19.1.26
③ 北海道庁時代・・明治19.1.26以降
1. 開拓長官・次官
○1代開拓長官 鍋島直正(なおまさ)在任明治2.7.13~同.8.16
・文化11年(1814)生まれ。17歳で肥前佐賀藩主。陶器(有田焼)を外国に輸出するなど、藩政改革を行い、藩を窮乏のどん底から救う。
・海外の新知識吸収に積極的で、反射炉を建設し嘉永5年(1852)には日本最初の新式の洋式銃砲の製造に成功した。更に強力なアームストロング銃を製造した。またわが国初の蒸気船「凌風丸」(りょうふうまる)を購入し、幕末諸藩中最強の海軍力を持つまでになった。
 また学問にも熱心で藩校・弘道館を充実させ、大隈重信、副島種臣、江藤新平ら明治政府の指導者を輩出させた。更に「医者の学問」と軽蔑されていた蘭学を学び「蘭癖大名」の異名をとった。
・幕末の動乱期には、倒幕側につくものの、薩長を主力とする武力倒幕には消極的で、「肥前の妖怪」と警戒されたが、もっぱら藩力の強化を図り経営手腕に秀でて「そろばん大名」と呼ばれた。王政復古派の中心・「薩長土肥」といわれるが、肥前藩は、戊辰戦争の発端になった鳥羽伏見の闘いには参加せず、倒幕の政治的対処はほとんどしていない。のち、上野の旧幕彰義隊、会津攻めでは鍋島藩のアームストロング砲が勝敗を決した。
*王政復古での「薩長土肥」・・「薩長土」は異存ないとして、他に功績のある藩が多いのに、なぜ「肥前」が入るか。上野黒門、会津若松城への肥前のアームストロング砲が決定的な役割を果たした。肥前は早くから近代兵器産業を育てた。
・明治2年1月、薩長土肥4藩主連名で版籍奉還を上表し、新政府への集権体制の確立を促進させた。
・直正は、文久元年(1861)には、家督を直大(なおひろ)に譲ったが、実権を握り続け、明治新政府では重きをなし、議定(ぎじょう)になり明治2年6月蝦夷開拓総督を命じられ、部下の島義勇らを開拓御用掛に任じ、次いで7月13日、開拓使設置と同時に開拓長官となる。
<その後の生涯>わずか1ケ月後の明治2年7月13日、大納言に転任。4年1月病死。58歳。
○開拓次官 清水谷公考(きんなる)・・在任明治2.7.23~同.9.13
・弘化2年(1845)生まれ。京都の公家の出。幼時比叡山の仏徒となる。のち還俗して家を継ぐ。慶応2年(1866)、岡本文平(監輔)が寄食、意気投合する。
・岡本の主張に同意し、ロシアの侵略を防ぐため蝦夷地の防備と開拓を明治新政府に建議。
・慶応4年(1867)4月12日、箱館裁判所が設置されると副総督を経て翌閏4月5日、わずか22歳で総督に任じられた。先の岡本監輔を裁判所在勤権判事に任命。次いで閏4月24日、箱館裁判所が廃止され、箱館府となると、知事に任じられた。
・清水谷、閏4月27日、五稜郭の箱館奉行所で、旧幕府箱館奉行・杉浦誠から事務を引き継ぐ。
・9月8日、慶応4年を明治元年と改め、1世1元制(1代1元号)を定める。明治元年10月、旧幕・榎本武揚軍、鷲ノ木に上陸、清水谷、青森へ退き、政府軍の青森口総督を兼ねる。翌2年5月18日、榎本武揚が降伏。清水谷は、旧に復す。
・7月8日、開拓使設置。24日、清水谷は開拓次官となる。わずか2ケ月後の9月辞任。
・<その後の生涯>大坂開成所に学び、ロシアに留学。最初で最後の箱館府知事清水谷は、歴史的に特筆される事績を残さないまま、明治15年12月、わずか37歳の生涯を終えている。
○2代開拓長官 東久世道禧(みちよし ミチトミとも)・・在任明治2.8.25~4.10.15
・天保4年(1833)生まれ。少壮の公家として幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍。文久3年、薩摩、会津に後押しされた公武合体派のクーデターにより三条実美ら7人の公家とともに京都を追われ長州に逃れた。いわゆる「7卿の都落ち」という。
・慶応3年(1867)帰京を許され、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)では、官軍の軍事参謀となる。幕府軍敗走後の15日、東久世通禧は神戸で王政復古を各国に通告した人物。議定(ぎじょう)、神奈川府知事を経て明治2年8月26日、開拓長官に任じ、9月箱館在勤、開拓使箱館出張所を開き、島義勇を札幌本府づくりに派遣するなど、北海道開拓を指揮。明治4年4月、札幌へ移動、5月札幌開拓使庁設置。
・<その後の生涯>・明治4年十月侍従長に転じ、同年10月の岩倉使節団に随行し欧米を視察。のち枢密院副議長となる。明治45年1月4日病死。78歳。
○開拓次官 黒田清隆(長官職務代行)・・在任明治3.5.9~7.8.2
○3代開拓長官 黒田清隆・・在任明治7.8.2~15.1.11
・薩摩藩士。天保11年(1840)10月生まれ。江戸に出て江川太郎左衛門に兵学、砲術を学ぶ。
・戊辰戦争では、官軍参謀となり北越を転戦、箱館戦争では五稜郭に立てこもった榎本武揚を降伏させる。
・明治3年5月開拓次官に任じ、主として樺太を担当。4年1月アメリカに赴きケプロンらを雇用し帰国。
・明治4年8月、「開拓10年計画」策定(これまで1年20万円の定額金が翌5年から10年間1000万円、年平均100万円と5倍に増額された)
・明治4年10月、東久世長官の侍従長転任後は開拓使のことは、黒田の担任に帰した。以後、道路、鉄道の開削、炭鉱、農業の経営、教育の振興に至るまで北海道開拓の総指揮者として活動した。
・明治10年(1877)西南戦争では、かつての師であり盟友だった西郷隆盛を討つため、政府軍の参軍として参加。
・明治14年、「開拓10年計画」が週末を迎え、黒田はその延長と開拓使の存続を望んだが許されず、黒田は官有物の一括払い下げを計画したが世論の大反対に合い挫折。(開拓使官有物払い下げ事件)
<その後の生涯>
・明治15年、黒田は、内閣顧問に転じる。20年、農商務大臣となり、21年(1888)第2代内閣総理大臣となる。その後、逓信大臣、枢密院議長なる。明治33年(1900)8月没。59歳。
○4代開拓長官 西郷従道(つぐみち、ジュウドウが正式の読みとされる)・在任明治15.1.11~同.2.8 
・天保14年(1843)生まれ。薩摩藩士。兄は西郷隆盛。
・兄が征韓論で下野した際、政府に留まり、兄の死後は薩摩閥の重鎮となる。のち、再三首相候補に推されたが兄隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた。
・明治15年1月、黒田の辞任後、開拓使廃止までのわずか半月だが、農商務卿兼務のまま4代開拓長官となり、開拓使廃止と3県(函館、札幌、根室)設置が任務。
<その後の生涯>・伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣を歴任。明治31年(1898)、海軍軍人として初めて元帥の称号を受けた。明治35年(1902)
58歳で死去。