◎はじめに
 明治3年(1870)閏10月10日、在京の「開拓使庁」を「開拓使東京出張所」と改称し、東京城西の丸内の太政官から、蛎殻(かきから)町の「北海道産物会所」に移転した。
 それに関して「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」という質問・疑問が寄せられたので、資料を参考に、小論を書く。

1. 江戸時代の江戸産物会所
<蝦夷地直轄の経過>
・寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とする。
・享和2年(1802)2月、蝦夷地奉行を新設。
 幕府機構で位置は、遠国奉行のひとつで、格式は、長崎奉行の次座、奈良奉行の上座であった。
・同年5月、箱館奉行と改称。箱館奉行2名、1年交代で箱館在勤、ひとりは、江戸在勤(役所は、霊岸島の箱館奉行の江戸会所)とした。
また、吟味役2名は、箱館3年在勤とした。さらに、調役6人、調役並5人、調役下役10名、あわせて21名を任命し、7人を江戸掛、14人を箱館在勤とした。箱館奉行の体制を整えた。
・文化4年(1807)3月、西蝦夷地も直轄とし、蝦夷地全域が幕領となる。
・同年10月、奉行所を箱館より福山に移し、「松前奉行」となった。
<直轄下の経営・流通~直捌制~>
蝦夷地直轄と同時に、場所請負制度を廃止し、東蝦夷地の場所請負人の独占を排除した。漁場を直捌(じきさばき)制とし、産物の交易・流通に至るまで全面的に幕吏の手によって統制運営された。
なお、場所請負制は、その後、各地で復活した。その経過は省くが、少人数の幕吏が一手に運営すること自体、無理があった。
<会所の設置>
 直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。
本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。
 従来の西回り(日本海経由)の北前船の寄港地に加えて、東回り(太平洋経由)の港にも設置されたのは、興味深い。
<江戸の箱館奉行所江戸会所>
 箱館奉行所の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島に建設された。
 江戸時代から、北海道の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。
2. 開拓使時代の流通機構
<北海道物産会所>
 明治政府は、明治2年(1869)8月、商業振興のため「通商司」を設置した。通商司は、旧幕時代から引き継いだ「物産会所」を「北海道産物改所」として管轄下においた。
 開拓使は2年9月、場所請負制を廃止し、漁業の直捌を復活させたが、産物の取り扱いは「産物会所御用達」商人に命じた。
 明治3年(1870)3月、「北海道産物改所」は、開拓使に移管された。(「新北海道史」は、「その理由は不明である」としている。)
 開拓使は、会所を全国の主要港に置き、開拓使官員を各地に在勤させた。
 明治3年8月における会所は、東京、大阪、撫養(現徳島県鳴門市のうち)、長崎、新潟、那珂(現茨城県那珂市)、函館の8ケ所、出張所を堺、敦賀に設置された。
 実際の産物の取り締まりと販売にあたったのは、「開拓使御用達」となった豪商たちであった。
<東京の北海道物産会所>
 東京の北海道物産会所は、明治3年6月、蛎殻(かきから)町・稲荷(とうかん)堀に設置された。
 設置場所は、磐城国・旧平藩・安藤家の江戸中屋敷であった。
総坪数3237坪だから、相当大きな屋敷である。
 開拓使東京出張所が、この北海道物産会所に移転したのは、明治3年閏10月10日のことである。

◎まとめ~質問に答えて~
1.「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?」
(答)政府(幕府)の北海道の物産を取り扱う場所は、東京(江戸)に、「明治3年」といわず、幕府の蝦夷地直轄の寛政年間以降から、あったことになる。

2.「それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」
(答)北海道の産物は主として、商人(場所請負人)を介して流通していたが、幕府の機関である箱館奉行や、明治政府の機関である開拓使自体が直営でも流通・販売を行っていた。もちろん、「御用達」という名義で、商人が深くかかわっていた。

<参考資料>
「函館市史」
「新北海道史」
「同年表」
「江戸切絵図」