宗谷岬の宗谷公園内にコーヒー豆をデザインした「津軽藩兵詰合記念碑」がある。
碑のデザインは、コーヒーが水腫病に効果があるとされ、予防薬として和蘭コーヒー豆が配られたという記録を基づくという。
碑は、平成4年(1992)9月、弘前市の有志によって建立された。毎年、9月第一日曜日に慰霊祭が行われている。
碑文は、次の通り。
「この碑は、文化4年(1807)幕名による蝦夷地越冬警備のさい、厳冬下で次々と浮腫病に倒れていった数多くの津軽藩兵を悼むとともに、その後、安政2年(1855)再び蝦夷地警備に赴いた藩兵達には、浮腫病の薬用として「和蘭コーヒー豆」が配給されていた事実を記念するためのものである。 珈琲を飲めずに逝った人々と、薬として大事に飲んだであろう先人達の辛酸を、歴史の一齣として忘却するには忍びがたいしその体験は日本の珈琲文化の嚆矢としても貴重である。
 茲にその偉業と苦難の歴史を後世に伝承すべく、ゆかりの地・宗谷に珈琲豆を象った記念の碑を建立することとした。
1992年9月16日

宗谷岬に津軽藩兵詰合の記念碑を建てる実行委員会

会長 成田専蔵


文化3~4年(1806~1807)のロシア人のカラフト、エトロフ襲撃事件を契機に、各地に東北諸藩の藩兵が警備に派遣されたが、北辺の地での生活は厳しく、多くの藩兵が倒れた。宗谷には、津軽、会津、秋田藩兵が、次々派遣された。
津軽藩兵の死亡では、斜里詰めの津軽藩兵の水腫病による多数の死者がでたことはよく知られているが、その他の道内各地での犠牲はあまり知られていない。
そもそも、津軽藩兵は、当初、宗谷に派遣され、文化4年7月になって、百名が急遽、斜里への転進が命じられた。
文政4年(1821)、蝦夷地の直轄が解かれるまで、多くの津軽藩兵が宗谷に駐屯した。
碑は、宗谷岬に近い宗谷公園内にあるが、津軽藩の詰所は、宗谷岬よりかなり西に寄った地、現在の稚内市大字宗谷字宗谷の宗谷川河口付近にあった。
ここには、宗谷会所、厳島神社、護国寺などもあり、一帯の中心地であった。

なお、この碑のそばには、会津藩、秋田藩の旧藩士の墓もある。
また、岬より、少し西のサンナイには、「間宮林蔵渡樺出港の地」碑もある。

宗谷岬は、「日本最北端の地碑」「宗谷岬音楽碑」が有名だが、「津軽藩兵詰合記念碑」など、歴史関係の碑は顧みられることは少ない。
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