『3・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部」(道文・簿書5781)
【第一文書】
東京行  一月廿三日 コスタリカ船便          三十一日  
一ノ十八号                            
   西村正六位 殿                 松本大判官  (「松本」)
   安田 定則 殿                田中正六位  (「田中」)
   時任 為基 殿

本庁土塁並病院(1)生徒寮(2)建設専断(3)之
儀ニ付、各位御見込御申立ノ儀も有之候得ども、其
侭差置候而は、自然各支庁、今後之取締
ニも相関(4)し候ニ付、公然処分可相伺旨、次
官殿、被申聞候云々承知致候。則、別紙之通
待罪書、正副とも差出候条、可然御執達(5)
有之度、此段得御意候也
   明治七年一月八日

(付札)
「御覧済、正院(6)へ之伺書
取調可申候」

【第一文書】注
(1)「病院」・・札幌での医療施設設立の経過について
  ・明治二年(一八六九)十一月、札幌村に一舎を築き仮病院とする。大学二等医の斎藤龍安が在勤。
  ・明治三年(一八七〇)十一月、東創成町(現北一条東一丁目)に移転。
  ・明治四年二月、医師斎藤龍安・長谷川鉄哉・米内鳳祐の三名が連名で本病院建設を嘆願。
  ・同年六月、東創成町に四十坪の病院病室を六六九円余で新築。はじめて入院患者を収容。
  ・明治五年(一八七二)七月、開拓使、五等出仕渋谷良次ら十数名の医員を招く、医員は二十一名に激増した。
  ・同年同月、病院仮規則を定めた。(商工を自費、農業移民、アイヌ、市在困窮者を官費とした。
  ・同年九月、雨竜通(現北三条東二丁目)に梅毒院新築。
  ・同年十月、札幌仮医学所(生徒寮)を建設。
  ・同年一月、東創成町の病院を雨竜通の梅毒院に移して本院とし、梅毒院の称を廃止。
  ・同年六月三日、本庁事務機構改正で、札幌病院とし、三課(事務・主治・教授)に分けた。
(2)「生徒寮建設」・・明治五年(一八七二)十月、七十六坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生二十五名、自費生二名、計二十七名の入学を許可。翌六年(一八七三)一月二十一日、仮医学所開校式を行う。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名(病院と兼務)
(3)「専断」・・ここでいう「生徒寮建設専断」について、「北海道史人名字彙」の「田中綱紀」の項に詳しいので要約する。
  ・札幌病院の渋谷良次が医学生要請に要する講堂・生徒寮の建設を要請。
  ・松本、黒田次官に上申するが、次官は受け入れず、札幌詰を命じられて赴任する田中に不許可の命を伝える。
  ・明治六年(一八七三)八月、父の死去で庄内鶴岡へ帰郷、松本不在中に、渋谷、「頻に生徒寮の建設を綱紀に迫る。綱紀、遂に独断を以て之を許し、・・病院に接続せしむ」。
(4)「相関(そうかん)」・・お互いに影響しあう関係にあること。
(5)「執達(しったつ)」・・上意を受けて下に通達すること。
(6)「正院(せいいん)」・・明治四年(一八七一)閏四月二十一日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治七年現在、太政大臣(三条実美)、左大臣、右大臣、参議よりなる。

【第二文書】
三月二日付 司法省(1)掛合有之             札第九拾五号   「花押」小牧」)   調所」)  (「千早(2)」)
                          調所幹事
  松本大判官殿                  安田幹事
  田中正六位殿(3)                小牧昌業

貴官進退伺処断、司法省ヨリ
相廻候間、差進候条、御落掌
之上、請書並贖金(4)とも早々御廻可有之、此段
申進候也。
   七年三月四日

【第二文書】注
(1)「司法省」・・明治四年(一八七一)七月九日、刑部(ぎょうぶ)省と弾正台が合併して設置された。
(2)「千早」・・少主典千早正路か。
(3)「田中正六位殿」・・棒線で末消している。田中は、二月二十二日、宮城県高城(たかぎ・現宮城県松島町のうち)で自殺しており、本文書の三月四日には、既に死亡している。
(4)「贖金(しょくきん)」・・実刑の代りに、罪をつぐなうための相当額の金員のこと。

【第三文書】
   土塁建築専断之儀ニ付進退
   奉伺候書付
札幌本庁其他病院、官邸周囲土塁之儀、即今
着手致候得ば、御入費、格別相減、御都合之事ニ付
病院並官邸周囲丈、不経伺仕越取計、本庁
土塁之儀ハ、黒田次官へ指令有之度旨、開申(1)致候処、
右ドルイハ見合、但、四方へ樹木植込候様、指令有之
候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁
無之候而は、御失体之儀ト存量候間、再応
可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其
機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境
無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行
可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候段、恐懼(2)
之至ニ候。依之、進退之儀、奉伺候也。
    明治六年十月十三日  開拓大判官 松本十郎  
         史官(3) 御中

【第三文書】注
(1)「開申(かいしん)」・・申し開くこと。自己の職権内でしたことを監督官庁に報告すること。
(2)「恐懼(きょうく)」・・おそれかしこむこと。
(3)「史官(しかん)」・・歴史を編集する官吏。明治政府では、太政官直属の職。

【第四文書】
再ビ長官(1)ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建築スルモ、時
日、遷延(2)、時機ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ事
応、奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ、申ゼザル者、懲役三
十日、公罪(3)例ニ照シ

    「司法卿(4)
(角印) 大木喬(5)       贖罪金(6) 六円
     任之印」

【第四文書】注
(1)「長官」・・黒田が開拓長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日で、この文書の時期は、次官。開拓長官は、不在だが、ここでは、「開拓使の最高責任者(トップ)」の意。
(2)「遷延(せんえん)」・・のびのびになること。
(3)「公罪(こうざい)」・・公務上の犯罪。
(4)「司法卿(しほうきょう)」・・司法省の長官。ちなみに、司法省の官位は、卿、(大・少)輔(ふ)、(大・少)丞(じょう)、(大・少)録(ろく)の順。
(5)「大木喬任(おおきたかとう)」・・旧佐賀藩士。司法卿在任は、明治六年(一八七三)十月二十五日~明治十三年(一八八〇)二月二十八日。
(6)「贖罪(しょくざい)金」・・体刑に服する代りに、罪過を許されるために差出す金員。ちなみに、当時大判官の月俸は三百五十円であった。また、明治七年の米一俵(六十キロ)の値段は一円八十七銭。