明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(2)

4.田中綱紀の専断と処分
 開拓幹事田中綱紀は、松本とともに、その配下にあって、札幌本庁で、明治6年の諸業務の担当した幹部官吏である。
 田中の「専断」内容は、「新札幌市史」に記載がないが、今回のテキスト出典の「簿書」に、松本とは違った事案で専断、そして、処分され、本人自殺後、親族へ処分が達せられたという特異なケースであるので述べる。
①田中の専断
 明治6年10月13日、田中から史官に提出された「進退伺」に専断の経過が述べられている。それによると、「札幌病院医学講堂並生徒寮引建直」を「再応病院ヨリ申出」があり、「黒田次官ヘ稟議」したが、黒田から、「本年営繕其他多分之入費ニ付、現今下手可見合旨、指令」があった。
 しかし、田中は、「現地在来之生徒寮懸隔、不都合之旨、病院ヨリ頻ニ申出」があり、「無余儀事情ニ付、講堂建設ハ見合、生徒寮之儀ハ・・大判官帰省中、仮ニ古屋引建直」したと述べている。(「簿書1172」・資料P20)。
 ここでいう、「生徒寮」とは、明治5年10月、76坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生25名、自費生2名、計27名の入学を許可。翌6年1月21日、仮医学所開校式が行なわれた。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名という。(「新札幌市史」)
 また、「再応病院ヨリ申出」、「病院ヨリ頻ニ申出」とあるのは、校長の渋谷良次が、生徒寮建設を綱紀に迫ったことをいう。(河野常吉編「北海道史人字彙」)
 さらに、「大判官帰省中」とは、6年8月、十郎の父・戸田文之助が死亡し、故郷の庄内鶴岡に帰省していたことをいう。(「同上」)
②田中への処分
 田中への処分書は次の通り。
「「再ビ長官ニ申請セズ、生徒寮ノ築造ヲ為スト雖ドモ、其就学不便ニ出ルヲ以テ、 事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル者 懲役30日、公罪例ニ照シ 贖罪金  4円50銭」(「簿書1172」)
 処分事案は、「生徒寮ノ築造」、処分理由は、「事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル」、処分内容は、「懲役30日、公罪例ニ照シ贖罪金4円50銭」。
 なお、5等出仕の月給は、200円だったから、この「贖罪金4円50銭」は、月給350円の4.4%に当たるから、対月給比では、田中の方が重い。
③田中の自殺
 田中は、7年2月3日、「御用有之出京」(「奏任官以上履歴録」簿書5871)した。「御用」の内容は、松本が、「新に開拓経営案を立て、綱紀をして上京稟議」させるためであった。(河野常吉編「北海道史人字彙」)
 田中は、陸前石浜(現宮城県牡鹿郡女川町石浜)港から汽船に搭乗する予定であったが、2月23日、高城(たがぎ・現宮城県宮城郡松島町高城)の旅館(内海直之丞宅)で、短刀でのどを突き自殺した。39歳。(「同上」)
 3月4日の調所ら開拓使東京出張所官吏から、松本と田中あての司法省の処断通知には、田中の死亡後であるためか、「田中正六位殿」を棒線で、「田中正六位殿」と消去している。(「簿書6781」・資料P16)
 3月14日、開拓使は、「同人ヘ可相渡書面、其侭返却」と、田中への処分書を司法大少丞へ返却している。
 それを受けた司法大少丞は、3月23日、開拓使へ「同人親族之者ヘ相達」とし、
「生徒寮築造ニ付、贖罪金4円50銭 開拓使5等出仕 田中綱紀」
と、改めて、親族へ処分を言い渡している。

◎まとめ
 以上が明治6年の札幌在勤の松本十郎大判官、田中綱紀幹事(後5等出仕)の「専断」と、彼らへの処分の経過である。
 私は、今回の講座を受けて、今後の課題として、この「専断」と処分がどんな意味を持っているのか、明治6年の不況状況、札幌本府の建設全体像など、さらに、調査研究してみたい。

<注>
(注1)「松本十郎大判官」・・明治2年8月18日開拓判官に任じ根室在勤。5年9月14日3等出仕、根室支庁主任となる。同年10月札幌本庁主任兼務を任じられる。6年1月6日、岩村道俊大判官の罷免に伴い開拓大判官となる。
(注2)「田中綱紀幹事」・・旧鹿児島藩の公用人。明治5年3月開拓権判官。明治6年1月開拓幹事となる。安田と交代して札幌詰を命じられる。6年12月3日5等出仕になる。明治7年2月22日、上京の途中、陸前・高城(たかぎ)で自殺。
(注3)「黒田清隆次官」・・開拓使は、札幌に本庁を置かれて以来、本来、開拓業務を統括する権限があったが、実際には、東京に、「開拓使出張所」がおかれ、長官(次官)は在京して指揮していた。黒田清隆は、明治3年から開拓使次官、ついで明治7年から開拓長官として開拓使のトップにいたが、彼は、「不在長官」と揶揄されるほどだった。そこで、黒田が、在任中、何度、来道したか、調べてみた。(資料6「黒田清隆は何度来道したか」)
(注4)「大岡助右衛門」・・請負人。天保7年(1836)5月武蔵国久良岐(くらき)郡大岡村(現横浜市南区のうち)の農家に生まれる。安政5年(1858)箱館五稜郭建設には大工頭としてたずさわる。明治4年には、札幌本陣の建設に着手。その後、札幌農学校、豊平橋、豊平館の建設を請負う。
  なお、この入札で、大岡は、6番札であったが、開拓使当局は、「安値段有候得共、小内訳取調高不相当ニ
御出来形ニ相響」として、大岡に落札したとしている。(「簿書5757」)
(注5)「5角形内地形」・・「簿書5757」綴じ込みの「本庁御構内見取縮図」を見ると、開拓使札幌本庁舎の建物本体周辺敷地の地形は、弓状に内側に凹んだ5角形になっていた。裏に当たる西側の1辺は72間、他の4辺は48間。ついでながら、北海道庁時代の庁舎(いわゆる「赤レンガ庁舎」)周辺の敷地は、4辺。
(注6)「定額金」・・明治4年8月19日、開拓使定額金として、「10ケ年間1000万両ヲ以総額トス」ることが決められ、「申年50万両、酉年80万両、戌年ヨリ100万両宛」とされた。松本が工事を実施した明治6年の定額金は、80万円。なお、明治4年5月10日に、新貨幣条例が定められ、新貨幣を円・銭・厘とし、金本位制が採用されている。
(注7)「篠路味噌醤油製造」・・明治4年7月、開拓使は篠路村に醤油醸造所を築いた。官営工場のひとつ。明治11年9月、宮城県士族沢口永将に払い下げられた。その後明治12年、樺戸集治監が買い受け、篠路分監として、囚人に味噌・醤油製造の作業に当たらせた。明治30年新潟出身の笠原文平が買い取り営業した。
(注8)「史官」・・太政官(慶応4年閏4月21日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治7年現在、太政大臣=三条実美=、左大臣、右大臣、参議よりなる。)直属の職。
(注9)「各支庁」・・開拓使は、明治5年9月14日、設置した支庁の状況は次の通り。函館支庁、根室支庁、浦河支庁(7年5月14日廃止、札幌本庁管轄になる)、宗谷支庁(6年2月25日、留萌に移し留萌支庁と改称、8年3月12日廃止、札幌本庁管轄になる)、樺太支庁(7年11月20日廃止)
(注10)「司法卿大木喬任(たかとう)」・・「司法卿」は、司法省(明治4年7月29日、刑部省=ぎょうぶしょう=と、弾正台=だんじょうだい=が合併し設置された。初代司法卿は江藤新平。)の長官。大木喬任は、旧佐賀藩士。2代目の司法卿。在任は、明治6年10月25日~明治13年2月28日。ちなみに、司法省の官位は、卿(きょう)、大・少輔(ふ)、大・少丞(じょう)、大・少録(ろく)の順。
(注11)「2番邸」・・本庁東正門の南、札幌通(現北3条)と厚田通(現北2条)の間に建設された官邸。いわゆる「ケプロン邸」いわれている。

【主な参考文献】
・「新札幌市史第2巻通史2」、「新札幌市史第7巻史料編2」(札幌市教育委員会編)
・「新北海道史第3巻通説1」、「新北海道史第7巻史料1」、「新北海道史第7巻史料2」(北海道編)
・「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊)
・「新撰北海道史第3巻」(北海道編)
・「北海道史人字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター刊)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編・刊)
・「明治6年開拓使公文録・職官之部」(「簿書5513」)
・「開拓使官員録」(北海道立文書館所蔵)
・「奏任官以上履歴録」(北海道文書館所蔵 簿書5871)
・「履歴短冊」(北海道文書館所蔵 簿書5099)
・「松本十郎翁談話」(「犀川会資料 全 北海道史資料集」所収 高倉新一郎編 北海道出版企画センター刊)
・「異形の人 厚司判官松本十郎伝」(井黒弥太郎著 道新選書)
・「士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史」(中濱康光著)
・「赤レンガ庁舎史話」(小原荘治郎著 楡書房刊)
・「さっぽろ文庫 札幌事始」(札幌市教育委員会編)
・「さっぽろ文庫 札幌人名事典」(札幌市教育委員会編)