森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2006年04月

歴代女性天皇の系譜(5)

(7)108代・明正(めいしょう)天皇=7歳で即位、21歳で上皇になった女帝
・明正の名は、女帝の43代・元明(げんめい)天皇とその娘の44代・元正(げんしょう)天皇から取ったとされています。
・徳川氏を外戚とする天皇は明正天皇が最初です。これは、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の対朝廷政策が確立した事を意味するとされています。
・108代・後水尾天皇の第2皇女で、母は、徳川2代将軍・秀忠の娘徳川和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。つまり、明正天皇は、秀忠の孫娘ということになります。
・<経過>
・1629年(寛永6年)の紫(し)衣(え)事件や幕府から春日局が無官のまま参内した事件などで、父の後水尾天皇から突然の譲位を受け、興子(おきこ)内親王として7歳で即位する。彼女の即位で、四八代・称徳天皇以来859年ぶりの女帝が誕生した。治世中は後水尾上皇の院政が敷かれた。
・<紫(し)衣(え)事件>
紫(し)衣(え)とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
1613年(慶長18年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
・このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府、3代将軍・徳川家光は、1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
・<春日局事件>
・2代将軍徳川秀忠正室お江与の従女民部卿局の仲介で、子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。
・初の大奥総取締として大奥の制度を統率し、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。江戸城大奥の礎を築いた人物で「大奥最高の女帝」とまで言われている。
・1629年、将軍の名代で、無位無官の身で朝廷へ参内。後水尾天皇に拝謁し、従三位の位と「春日局」の称号、天杯を賜る。後に従二位に叙られる。
・1643年(寛永20年)に、異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となる
(8)117代・後桜町天皇・・最後の女帝
・114代・桜町天皇の第2皇女。智子(としこ)内親王。
・宝暦12年(1762年)、桃園天皇の遺詔を受けて践祚。同帝の皇子英(ひで)仁(ひと)親王(後の118代・後桃園天皇)が五歳の幼さであった為、中継ぎとしての皇位継承である。
また彼女の即位で、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となる。
在位九年の後、明和7年(1770年),甥の後桃園天皇に譲位。
・<皇統の傍流への移行>
しかし、この御代は長く続かず、安永8年(1779年)皇子を残さぬまま後桃園天皇が崩御。
・9歳の兼(とも)仁(ひと)親王(のちの光格天皇)に決まった。
元々は、閑院(かんいんの)宮家(みやけ)から聖護院に入寺し、出家する予定であったが、1779年、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったので、急遽養子として迎えいれられて即位。
<閑院(かんいんの)宮家(みやけ)>
・、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。
・皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、新宮家誕生となった。
・閑院宮家6代の載仁(ことひと)親王・・1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。 1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。 1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。また、稀に見る美男子であった。
第7代 春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子。公爵 一条実輝の娘 直子と結婚。陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将として、戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏が失われるとして反対の論陣を張ったが、1947年(昭和22年)に皇籍離脱。 閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。 戦後の新生活は波乱とスキャンダルにみちたもので、直子とは離婚。 妹 華子女王は、皇族出身の侯爵 華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。1988年(昭和63年)6月、85歳で死去。子は無く、閑院(宮)家は断絶した。

(後桃園天皇からみると、曽祖父=ひいじいさん=の弟の孫)
*現今の「旧皇族の活用」論、つまり、「旧皇族から養子を迎える」という論の論拠になっています。実際は、現行皇室典範9条が「天皇及び皇族は養子を迎えることができない」と、禁止しています。
<まとめ>
・日本には、10代(8人)の女帝がいました。
・女帝、特に飛鳥・奈良時代の6世紀末から8世紀後半までの8代(6人)の女帝は、政権能力の優れた王族内の長(おさ)が即位したのであって、「中継ぎ」などではなかったという説にうなづけるものを感じます。

歴代女性天皇の系譜(4)

(6-1)46代孝謙天皇・・生涯独身で仏教の篤い信者だった女帝
・6人目の女帝は、46代孝謙天皇です。
・45代聖武天皇の皇女で阿部内親王といった。母は、藤原不比等の娘・光(こう)明(みょう)子(し)。聖武天皇は、基(もとい)皇子を皇太子としたが、わずか2歳で死亡、738年、阿部内親王が初めての女性皇太子となる。12年間、皇太子として天皇を助け、749年譲位され即位。
<父・45代聖武天皇の時代のこと>
・大仏建立・・「奈良の大仏」を作った。728年、聖武天皇が皇太子・基(もとい)皇子の供養のため建立したのが東大寺の始まり。華厳宗大本山。743年になり聖武天皇が大仏造顕の詔を公布した。
・国分寺建立の詔(741、続日本紀)(a) 国ごとに国分寺(金光明四天王護国寺)、国分尼寺(法華滅罪寺)を設置
・42代文武天皇と藤原宮子の間に生まれ、14歳で皇太子になり、藤原不比等の娘・光(こう)明(みょう)子(し)(のち光明皇后・母宮子とは異母姉妹だから、祖父が同じ不比等という叔母)と結婚。はじめて皇族出でない者が皇后となった。藤原氏の至上の面目である。ふたりの間に生まれた基(もとい)皇子を生後1ケ月で皇太子に立てたが、翌年病死。
・長屋王事件・・左大臣になった長屋王が謀反を企てたとして自害させられた。
・天然痘の大流行、地震など、相次ぐ天変地変で、聖武天皇は、一層、仏教に救いを求め、国分寺の建立、そして、10年の歳月をかけ東大寺の巨大な大仏・盧(る)舎(しゃ)那(な)仏(ぶつ)を建立。
・聖武天皇(在位724~749)相継ぐ遷都
※平城京→恭(く)仁(に)京(きょう)(740・山城)→難波宮(744・摂津)→紫(し)香(が)楽(らきの)宮(みや)(744・近江・現滋賀県甲賀市信楽町北部)→平城京(745)
<孝謙天皇誕生のいきさつ>
・基(もとい)皇子の死後、皇子が生まれない以上、阿部内親王を皇太子として、皇位継承者にする以外になかった。・・日本で初めて、また後世にも例を見ない女性の皇太子が誕生した。
<46代孝謙天皇として>
・女性皇太子としての即位。独身で通したので、皇位継承をめぐって大きな問題が起るが・・まず、孝謙天皇の時代を見る・・
・即位は、749年7月2日。この日をもって、年号を、天平感宝から天平勝宝と改元。この年、749年は、年号が3回変わった。つまり、1~4月が「天平21年」、元正太政天皇が死去し、年号が「天平感宝」に変わり、
4~7月が「天平感宝元年」、7月から「天平勝宝」となった史上でも珍しい年です。
・父・聖武天皇から引き継いだ大仏建立が完成し、父・聖武太政天皇、はは・光明皇太后と一緒に東大寺へ行幸し、盛大な開眼(かいげん)供養(くよう)が行われたのは752年=天平勝宝4年4月9日のこと。
・孝謙天皇の時代は、仏教興隆の時代でした。唐の僧、鑑真和上が来日、唐招提寺を建立したのも、この時代。
<橘奈良麻呂の乱>
・一方、皇位をめぐる不穏な動きが膨らむ。
・聖武太政天皇は、皇太子を道(ふな)祖(ど)王(おおきみ)(天武天皇の孫)にすると遺言し、756年、崩じた。
・しかし皇太子となった道(ふな)祖(どの)王(おうきみ)は、亡き聖武太上天皇の服喪期間中であるにかかわらず、淫らな行為に耽って喪に服することなく恭敬の念も見られず、また国家機密を民間に漏洩したり春宮を抜け出たりと問題行動が多く、孝謙天皇もしばしば戒めたものの聞き入れる様子がなかったようである。遂に天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)(757)年3月に皇太子を廃されてしまうことになる。
・新皇太子に選ばれたのは孝謙天皇の詔勅を受け、藤原仲麻呂と親しい大炊(おおい)王(おおきみ)(舎人(とねり)皇子の子)と決まる。
・一連の廃太子劇が、藤原仲麻呂による謀略なのか、いずれにせよ藤原仲麻呂の権勢はより一層大きいものとなったのである。
・やがて同年7月、『橘奈良麻呂の乱』に連座したとして逮捕され、道(ふな)祖(ど)王(おおきみ)は、拷問を受け亡くなることになる。
◎758年=天平(てんぴょう)宝(ほう)字(じ)2年=8月、孝謙天皇は、皇太子・大炊(おおい)王に譲位した。その理由は、年をとった母・光明皇太后に孝養を尽くしたいということといわれています。譲位後も、太上天皇として、政治にかかわる。太上天皇(だじょうてんのう)とは皇位を後継者に譲った天皇。またはその人の称号。上皇(じょうこう)と略することが多い。由来は中国の皇帝が位を退くと太上皇と尊称されたことにあるといわれる。なお出家した上皇を太上法皇、法皇(ほうおう)と称する。
・さらに、重祚(ちょうそ)ということで再び皇位につく。

(6-2)称徳天皇・・女心に揺れつつ、出家した女帝
<即位のいきさつ>
・758年=天平宝字2年=孝謙天皇が譲位して皇太子・大炊(おおい)王が25歳の若さで即位。47代淳(じゅん)仁(にん)天皇。淳仁天皇は、即位したとき、改元をしなかった。以前のままの「天平宝字」を用いた。これは歴史上ないこと。
・太上天皇になった孝謙天皇が政治を指導、事実上政治を動かしたのは、引き続き藤原仲麻呂でした。
・淳仁天皇は、仲麻呂の長男・真(ま)依(より)の未亡人・粟(あわ)田(たの)諸(もろ)姉(ね)を妻として、仲麻呂邸に住んでいた。こうして藤原仲麻呂は、自他共に認める地位を確保していった。
・仲麻呂の専制に反発して起ったのが、橘奈良麻呂の乱。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して失敗した。
・仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃することに成功した。天平宝字2年(758年)、大炊王が即位し(淳仁天皇)、仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、そして、天平宝字4年(760年)には太政大臣にまで登りつめ栄耀栄華を極めた。だが、その没落も早く、孝謙天皇の寵愛は弓削道鏡に移り、天平宝字8年(764年)、仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅んだ。
・さて、孝謙太上天皇と淳仁天皇は、平城宮(ぐう)改修のため、近江の保(ほ)良(ら)離宮に滞在するが、病気になった孝謙太上天皇を看病した道鏡と孝謙太上天皇が親しくなるのを警告するが孝謙太上天皇は法華寺に入り落飾(らくしょく)(髪をそり落として仏門に入ること。落髪とも)し、法(ほう)基(き)尼(に)となった。
<藤原仲麻呂の乱>
・栄耀栄華を極めた仲麻呂だが、孝謙上皇が弓削道鏡を寵愛しはじめたことで暗転する。
・孝謙上皇の道鏡への寵愛は深まり、逆に仲麻呂を激しく憎むようになった。焦った仲麻呂は軍権をもって孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、仲麻呂は都に兵力を集めて反乱を起こそうと企んでいた。
・孝謙上皇は、官位の剥奪と藤原姓を名乗らせぬとの宣言をさせる。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出、
・淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、氷上塩焼(かつての塩焼王)を偽帝に擁立し、太政官符をもって諸国に号令した。ここに、二つの朝廷ができたことになる。
・官軍と仲麻呂軍が応戦する。ついに仲麻呂軍は敗れた。仲麻呂は湖上に舟を出して妻子とともに逃れようとするが、官兵に襲われ斬殺された。塩焼王も琵琶湖畔で処刑された。
・仲麻呂の一族は滅び、淳仁天皇は廃位され淡路に流され、「淡路の廃帝」として歴史に名を残すことになります。代わって孝謙上皇が重(ちょう)祚(そ)する(称徳天皇)。称徳天皇の道鏡への寵愛は深まり、道鏡は、太政大臣禅師、法王にまで昇り、皇位をうかがうまでの権勢を持つようになる。
<称徳天皇の誕生>
◎道鏡の出現
・称徳治世は道鏡なしには語れない。道鏡は、河内・弓削(ゆげ)氏の出で、弓削(ゆげの)道(どう)鏡(きょう)ともいわれます。呪(じゅ)験(けん)力(まじない)を身につけていました。
・保(ほ)良(ら)離宮で看病禅師として宮中に出入りし、称徳上皇を看病し、次第に政権の中核に上り詰めていった。
・弓削道鏡は孝謙(称徳)天皇に仕え、天皇から大僧正の信任を得、法王にまでのぼりつめ、天皇に代わって政事(まつりごと)を司り、西大寺などを建立した実力者であった。彼には「女帝を拐かし、自らが天皇になろうとした悪僧!」という悪名が常につきまとう。いづれにしても、称徳天皇の治世は、道鏡の主導の下に進められていきました。
・道鏡の主導のもと、「宇佐八幡事件」など、ざわつきがあったが、769年=神護景雲3年8月、称徳天皇は、53歳で崩御しました。
・称徳天皇の生涯はかなり波乱に富んでいます。天皇という特別な存在とは別に、一人の女性としての生き方を貫いた人間だったといえます。
・以後、平安、室町時代に女帝は、おらず、859年後の1629年=寛永6年、江戸時代まで、女帝は、いません。

歴代女性天皇の系譜(3)

◎41代持統天皇の誕生
・鸕(う)野(のの)皇女の人となりについて、日本書紀は、
「しめやかにして、おおきなる、のりまします」とある。つまり、落ち着いて重々しい。
・天武天皇の皇后になってからは、よき伴侶として天皇を補佐した。
・天武天皇の死後、実子で皇太子だったの草壁皇子は即位せず、皇后がそのまま政務に当たった。
○大津皇子事件
・天武天皇の死後(686年9月9日)1ケ月もたたない10月2日、大津皇子(天武天皇の第3皇子、母は、天智天皇の長女の太田皇女)は、謀反が発覚したとして捕えられ、直ちに処刑された。大津皇子は、古代王朝の悲劇として、歴史にその名をとどめ、同情者も多い。
・皇后にとって、はじめて新しい時代の到来、つまり、皇位=権力が夫天武系から父天智系に移ったことを意味する。
○持統天皇の即位
・天武天皇の殯(ひん)宮(きゅう)(棺を埋葬の時まで安置しておくこと、その宮殿)は2年余り続いた。誰もが皇太子・草壁皇子が即位することを疑いませんでした。
・ところが、687年4月、草壁皇子は28歳で、急死してしまいます。
・草壁皇子の妃は、阿(あ)閇(べ)皇女(天智天皇の娘・草壁皇子の叔母・のち43代元明天皇)で、ふたりの間に軽(かるの)王子があったが、まだ7歳でした。
・自己の血統を守るためにも、ここは、出るしかない。
・690年正月、高天原(たかまがはら)広野(ひろの)姫(ひめの)天皇(すめらみこと) すなわち、持統天皇として即位。
<治世>
○天皇を中心とした中央集権国家の確立。
・官制・・中央官庁の整備
・税制・・個人単位の税制になり、そのため戸籍があらためられた。いわゆる庚(こう)寅(いん)年(ねん)籍(じゃく)。
・地方制度・・国、郡、里の確立。中央から国司の派遣。
○新しい都必要・・→藤(ふじ)原(わらの)宮(みや)の造営。
○春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山
・百人一首でも有名なこの歌は、万葉集を代表する歌のひとつです。
・697年、孫にあたる軽王子(42代文(もん)武(む)天皇)に譲位し、大宝律令の完成に情熱を傾けたが、702年、波乱に富んだ生涯に幕を降ろした。飛鳥時代最後の女帝である。
・「日本書紀」は、神代から持統天皇の時代で終わっている。
(完成したのは、奈良時代に入ってからの720年=養老4年で、天武天皇の皇子・舎人(とねり)皇子が中心となって編纂された日本最初の勅撰の歴史書)

Ⅱ.奈良時代・・3人4代の女帝
(4)元明天皇・・人民への心配りが細やかで控えめな女帝
・青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」
と歌われた奈良の都に女性の天皇が君臨しました。その第1代の天皇が元明天皇です。
・天智天皇の第4皇女・阿(あ)閇(べ)皇女、母は姪(めいの)娘(いらつめ)ですから、持統天皇の異母妹になります。
・草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)と結婚して軽皇子をもうける。
・持統天皇から譲位された軽王子(42代文(もん)武(む)天皇)が15歳で即位したが、24歳で崩御。
・藤原不比等の娘・宮子との間に首(おびとの)皇子(元明天皇の孫・のち聖武天皇)があったが、まだ7歳でした。氷(ひ)高(だかの)皇女と吉備(きびの)皇女以外に兄弟はなかった。
・天武天皇派には、大勢の皇子がいて健在で、皇位を狙うかもしれないという心配。皇位を自分の血統で守っていくためには、母自身が即位するしかない。
・女帝44代元明天皇が誕生した。
<経過>
・文(もん)武(む)治世期・・大宝律令の公布(701年)。遣唐使、31年ぶりに派遣があったものの、とくに大事件は起らず、順調に時は流れた。
・707年、文(もん)武(む)天皇崩御。皇統を守る上からも、母・阿(あ)閇(べ)皇女が継ぐ以外になかった。
◎43代元明天皇の誕生
・母が、子のあとを継ぐという前例にない継承。
・歴史家は、「天智天皇は、近江令(りょう)に「嫡子相続制を決めていた。元明天皇は、次の天皇たる孫の首(おびとの)皇子の成長を待って皇位継承を行う前哨として、即位した。あくまで中継ぎのための即位」とする説が有力。
・715年、在位8年で、皇位を娘の氷(ひ)高(だかの)皇女に譲り、上皇となった。721年、61歳で生涯を終えました。
<大きな出来事>
・708年、日本で最初の流通貨幣、和銅開珎(ちん)の公布。現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね。純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。唐に倣い、貨幣制度を整えるため、また、ちょうど平城京遷都の直前だったため、遷都の経費を、銅地金と貨幣価値との差額で補う目的もあったといわれています。
○平城京
・藤原京から平城京への遷都は707年に始まり、708年には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3)に遷都された時には、内裏と大(だい)極(きょく)殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまで、段階的に造営されていったと思われる。山城国に遷都してのちは南都(なんと)とも呼ばれ、平城天皇は平城京に再び遷都することを図ったが、これは実現しなかった。740年、聖武天皇の恭(く)仁(に)京(きょう)=現京都府相楽(さがらか)郡加茂町=への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年には、再び首都となった。

(5)元正天皇・・はじめて独身で即位した女帝
<即位のいきさつ>
・氷(ひ)高(だかの)皇女は、元明天皇と早世した草壁皇子の皇女で、天武天皇・持統天皇の孫、天智天皇の孫にもなる。
・元明天皇は、孫の首(おびとの)皇子が成人するのを待たず、娘の皇女氷(ひ)高(だかの)内親王(「親王、内親王」のことばは、このころから使われた。)に譲位した。それが36歳でなぜか独身の元正天皇。日本史上にない2代続けての女帝となった。
・首(おびとの)皇子の父は文武天皇であるが、母は藤原不比等の娘・宮子。藤原氏にとっては、藤原家から天皇がでるという願ってもないチャンスでもあった。
・それへのためらいもあったか、元明天皇としては、ひとまず、娘の氷(ひ)高(だかの)皇女に譲位した。
○44代元正天皇の誕生
<その治世>
・「続(しょく)日(に)本(ほん)記(ぎ)」(『日本書紀』につづく勅撰史書。文武元年(697)から延暦10年(791)のほぼ100年間,律令の整備,平城遷都から長岡京,平安遷都にいたる“万葉人の時代”の躍動と苦悩を伝える記録)は、見識深く、落ち着き礼節にかなった言動と記している。優れた資質の持ち主であったといわれています。
・3度の改元・・「和銅」から「霊亀」。
・さらに2年後717年に「養老」へ改元・・この地を行幸した元正天皇は、「醴(れい)泉(せん)は美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して霊亀3年を改め養老元年となすべし」との詔を出して、「養老」と改元した。
有名な「養老の滝」の逸話は・・貧しいが親をうやまう樵(きこり)が住んでいました。年老いた父を養っていましたが、その日の暮らしに追われて老父の好む酒を十分に買うことができませんでした。
 ある日、苔むした岩から滑り落ちてしまいました。ふと気づくとどこからか酒の香りがただよってくるのです。岩間の泉から山吹色の水が湧き出ているのです。すくってなめてみると、かぐわしい酒の味がするのです。「有難(ありがた)や」と腰にさげているひょうたんに汲んで帰り老父に飲ませたところ、老父はこの不思議な水を飲んだので白い髪は黒くなり、顔の皺(しわ)もなくなり、すっかり若々しくなりました。この不思議な水の出来事が、やがて都に伝えられると・・ここで、元正天皇の行幸になるのです。美泉で元正女帝も美顔になった・・とか・・。女性らしさがうかがえる改元ではあります。
・その他の行政・・農業の充実、免税、出(すい)挙(こ)という貸付制度、仏教の隆興、「日本書紀」の完成、日本初の女医を置く。(産婦人科、外科など30名を養成した)
・724年、在位9年で、甥の皇太子・首(おびとの)皇子に皇位を譲った。45代・聖武天皇の誕生です。
・自らは上皇となる。748年崩御。69歳。

歴代女性天皇の系譜(2)

(2-2).37代斉明天皇・・はじめて重祚(ちょうそ)。(祚(そ)=朝廷の君主の位。再祚、復祚とも)建設好きの女帝
○即位までの動向
・退位した京極天皇は次期天皇に鎌足の意見をいれて、軽皇子(かるのおうじ)を推したが、皇子は辞退し中大兄皇子の異母兄の古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)(蘇我馬子の孫)を推薦。古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)は蘇我氏の血筋をひいているので蘇我氏滅亡の今、皇位につくはずもないとして出家し吉野にこもってしまう。
・やむなく、軽皇子(かるのおうじ)が即位
=36代孝徳天皇。50歳での即位。
<元号>について
・645年、年号を「大化」とする。(「日本書紀」は、年号制のはじまりとする。
・江戸時代までは、大きな出来事が起きると改元した。
・明治天皇の前の孝明天皇在位中、元号は、弘化、嘉永、安政、文久、元治、慶応と7回代わった。室町時代の後花園天皇期には、なんと9回も変わった。
・「一世一代の詔(みことのり)」・・明治元年=一八六八年九月八日行政官布告「今後年號ハ御一代一號ニ定メ慶應四年ヲ改テ明治元年ト爲ス」
・元号法・・昭和54年=1979年法律第43号、たった2行。「1.元号は、政令で定める。2.元号は皇位の継承があった場合に限り改める」

・ちなみに、大正天皇が12月25日崩御。「昭和」・・中国の「書経」の「百(ひゃく)姓(せい)昭明なり、万邦を協和せしむ」からとった(国民のしあわせと平和を願う意味があるという)。ところが、「昭」の字は一般になじみがない。昭という字は『昭和』という年号が定まるまで殆ど使われなかった字。だから昭和以前に生まれた方で『昭』の字をうけた方はほとんどいない。当時の新聞に「どういう意味か」と揶揄した記事が載りました。
・「平成」・・・「史記」の「内平外成」(うち、平らかに、外なる)、「書経」の「地平天成」(地平らかにして天成る)・・内外、天地とも平和が達成される。
① 間人(はしひと)皇女(皇極天皇の娘、中大兄皇子の同母妹、孝徳天皇の姪)を皇后にした。
② 都を難波(なにわ)の長柄豊碕(ながらとよさき)に遷都。
③ 翌646年、「改新の詔勅」を出す。歴史に残る「大化の改新」
④ 白(はく)雉(ち)4年(653)、かねて不仲の皇太子である中大兄皇子は、皇極上皇、間人(はしひと)皇后を率いて大和に戻り飛鳥河辺(かわらの)行宮(かりみや)に移ってしまう。
⑤ 翌654年、失意の孝徳天皇は、難波(なにわ)長柄豊碕(ながらとよさき)宮で崩御。不遇の天皇といえる。
⑥ 皇太子の中大兄皇子(後の天(てん)智(じ)天皇)が継承者のはずだが、不和のなかでの天皇崩御での即位は難しいこと、孝徳天皇の皇子・有馬皇子もいたが、そちらに皇位を渡すわけにはいかず、表向きは内政改革に専念することを理由に、次期を期して、結局、母の先先の帝・皇極天皇が即位。
○37代斎明天皇が即位(655.1)。日本ではじめての重祚。天皇62歳。歴代第一の高齢即位。
・次々と宮殿をつくる。
①板(いた)蓋宮(ぶきのみや)が焼失。(655年冬)飛鳥川原宮(かわらのみや)に仮寓(かぐう)。(655年)
②岡本(夫の舒明天皇の宮跡)に新宮殿を建設 後(のちの)岡(おか)本宮(もとのみや)(656年)
③その東の丘に両(ふた)槻(つき)宮という高殿を建設。
④香久山の西から石上山まで、水道工事をさせ
た。又、二百そうの舟で、石上山の石を積んで運んできて宮の東の山に石垣を造らせた。水道工事に三万人、石垣工事に七万人。世に「狂(たぶれ)心(ごころ)の渠(みぞ)」という。
⑤同年、奈良・吉野に吉野宮を建立。
⑦ 657年、飛鳥寺の西に須(しゅ)弥(み)山(せん)(仏教の中心とされ、世界の中心に聳えるというインドの架空の山)、659年にも甘橿の丘の西にも須(しゅ)弥(み)山(せん)を作る。
⑧ 有馬皇子事件=658年、皇位継承権を持つ孝徳天皇の皇子・有馬皇子が謀反を図ったとして処刑された。18歳の若さで命を落とした。(治療に訪れた白浜温泉は、温泉を世に広めたとして皇子の顕彰碑がある)
⑨ 661年、朝(あさ)倉(くら)橘(たちばなの)広(ひろ)庭(にわの)宮(みや)(現福岡県朝倉郡朝倉町)を建てる。
*斉明朝の有名な事件
・有間皇子事件=謀反をはかったとされて18歳で処刑された悲劇の貴公子。白浜温泉を歴史上最初に世に広めた人としても知られる。
・<阿部(あべの)比羅夫(ひらふ)の渡(わたりの)島(しま)遠征>・・658年、659年の2度(蝦夷地=北海道遠征かどうか諸説あり)
・百済(唐・新羅軍に攻撃されていた)救援軍を送る。
◎661年7月、朝倉宮に没す。68歳。在位6年。

(3).41代持統天皇・・万葉集や百人一首でもおなじみの実力派の女帝
・華やかさと存在感のある女帝。生まれながらにして天皇家の中心的存在だった。
・父は、豪族蘇我氏を倒し、大和朝廷の基礎固めをした中大兄皇子=38代天(てん)智(じ)天皇。その第2皇女&#40469;(う)野(のの)皇女)。
・その弟で律令国家体制の基礎を作り上げた天武天皇の皇后(叔父と13歳で結婚)
◎即位までの経過
○38代天(てん)智(じ)天皇・・661年年、斉明天皇死後、皇太子として天皇を支え、実権を握っていた中大兄皇子は、皇太子のまま政務を執る。
・667年都を近江国大津へ移す。(近江京)
・668年、中大兄皇子、大津宮で即位。
・壬申の乱・・遠く1330年の昔、関が原で古代日本を二分したもう一つの天下分け目の戦いがあった。
<経過>
・天(てん)智(じ)天皇は、実子の大友皇子を後継者にしようとした。
・672年、天(てん)智(じ)天皇が46歳で没すると、吉野に下っていた大海人皇子が挙兵、不破(関が原)を押さえた。この闘いに妃(きさき)の&#40469;(う)野(のの)皇女も同行。
・近江軍(大友皇子軍)と関が原の藤古川をはさんで合戦。その後、瀬田橋(瀬田の唐橋=東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事・交通の要衝でもあったため、「唐橋を制する者は天下を制す」とまでいわれ、この「壬申の乱」、13世紀の「承久の乱」、14世紀の「建武の戦い」など、幾多の戦乱の舞台になり、そのたびに破壊・再建を繰り返してきた橋)の戦いで大友軍は破れ、大友皇子は自害。ときに25歳、悲劇の主人公であった。
・翌673年、大海人皇子は、飛鳥浄(きよ)御(み)原(はら)宮(のみや)に即位。40代天武天皇の誕生。都は近江から再び飛鳥へ。
・なお、「日本書紀」は弘文天皇が即位したとは記録していない。大友皇子が「39代弘文天皇」と公式に謚(おくりな)され、即位が公式に認められたのは、明治3年のこと。皇位空白時代を埋めるためともいわれている。それまでは歴代天皇として数えられなかった。現在では非即位説が有力である。
<乱の原因>
① 天智天皇の朝鮮出兵の失敗、国政の急進的改革、近江宮へ移転などでの出費増で豪族、民衆の負担増への不満が背景とされる。
② 皇位継承紛争が契機。
③ 額田王(ぬかだのおおきみ)をめぐって、天智天皇と大海人皇子兄弟の不和が遠因という説。
    あかねさす紫草野(むらさきの)行き標野(しめの)行き
       野守は見ずや君が袖振る(万葉集の歌は有名)

○40代天武天皇・・妃(きさき)の&#40469;(う)野(のの)皇女のほか、太田皇女、大江皇女、新(にい)田(た)部(べの)皇女(いずれも兄天智天皇の娘、つまり姪)などとの間に軽(かるの)皇(おう)子(じ)(のち42代文(もん)武(む)天皇)、氷(ひ)高(だか)内親王(のち女帝・44代元(げん)正(しょう)天皇)など、じつに皇子10人、皇女7人をなした。
・吉野の盟約=679(天武8)年、吉野の宮に草壁、大津、高(たけ)市(ち)、忍(おし)壁(かべ)、川島、志(し)貴(き)の6皇子を集め、お互いに協力して逆らうことのない誓いを交わした。しかし、時代の波に翻弄され、それぞれの運命をたどることになる。
・薬師寺:&#40469;(う)野(のの)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈り、創建したのをはじめ、仏教への関心が高く、国家仏教をつくりあげてゆく布石となった。
・神道にも崇敬・・伊勢神宮を大切にした。現在も行われている20年ごとの式年(しきねん)遷宮(せんぐう)(社殿の建て替え)は、この時代に始まったとされる。
・686年6月、天武天皇没。65歳。

歴代女性天皇の系譜(1)

◎2006.4.24 札幌市高齢者市民講座で発表したものです。(札幌市厚別区民センターにて)

>歴代女性天皇の譜系
~8人10代の女性天皇の素顔~


1.はじめに
◎「女帝」・・マスコミでの「女帝」は、男勝りで、外国の某大統領夫人とか、
大会社の社長夫人とか、「銀座の女帝」とか、日本に存在した「真の女帝」の著(いち)しく傷つけています。
・日本の「女帝」の称号は、「○○天皇」であり、漢字で書かれた名前だけでは、女帝かどうか、わかりません。外国の例では、女王はQueenであり、男性の王はKingと、称号で区別されています。
・「女王」・・新旧皇室典範の「王、女王」がある。
・皇室典範の「王」「女王」・・皇曾孫、皇玄孫、皇来孫など(逆に「曽祖父」「玄祖父」「来祖父」・・・犬の世界では、いう)

・近代の女性天皇論議 ①「嚶鳴(おうめい)社」の討論(1882=明治15)
           ②新憲法下の国会論議(1947=昭和22)
           ③「皇室典範に関する有識者会議」設立(2005=平成17)
・新旧の皇室典範の成立過程
*旧皇室典範(P61)
*新皇室典範(P227)
・「○○天皇」→死後の諡名(おくりな)。現天皇は、「今上(きんじょう)天皇」
2.神話時代の「女帝」
①神(じん)功(ぐう)皇后・・14代仲哀天皇の皇后。「愚管抄」(慈円=中世の僧。天台座主=が書いた日本最初の歴史論)は「15代天皇」としている。「水鏡(みずかがみ)」(鎌倉初期の歴史物語。神武天皇から54代仁(にん)明(みょう)天皇までの約1500年間の歴史を編年体で記したもの)には「女帝はこの時始まりしなり」と書いてあります。
②飯豊(いいとよ)天皇・・「記紀」(古事記と日本書紀)には「天皇」として扱われ「最初の女帝」と注がある。「扶桑(ふそう)略記」(平安時代末期に成立した歴史書。正史ではない。神武天皇元年(推定紀元前660)より寛治8年(1094)までの国史を 仏教に力点を置きながら略述した私撰の国史)は24代天皇としていています。

3.歴代女性天皇の譜系と素顔
*名前の「呼び方」は、いろいろあるので、わかりやすく、現在の漢字読みにします。また、幼名はじめ、即位前の名前をいくつも持っている人物は、一番有名な名前になるべく統一したいと思います。
「皇子」・・「みこ」→「おうじ」・・「親王」は、奈良期以降
「皇女」・・「ひめ」「ひめみこ」→「皇女」・・「内親王」は、奈良期以降

Ⅰ.【飛鳥時代】・・3人4代の女帝。
・「飛鳥時代」・・範囲については、諸説あり。政治史上は、推古朝(592年・推古天皇の即位)から平城遷都(710)まで。文化史上では、仏教渡来(538)から大化の改新(593)までが主力。
「飛鳥京」・・飛鳥地方におかれた、都の総称。豊浦宮(とゆらのみや)、岡本宮、板(いた)蓋宮(ぶきのみや)、河辺(かわらの)行宮(かりみや)、浄(きよ)御原宮(みはらのみや)
(1)33代推古天皇・・日本で最初の女帝。

○29代欽明天皇第2皇女(額(ぬか)田部(たべの)皇女(こうじょ)・炊屋(かしぎや)姫)。「姿色端麗(みかおきらきら)しく、進止軌制(みふるまいおさおさ)し」(日本書記)とあり、才色兼備の少女だった。
○即位のいきさつ
・30代敏(び)達(たつ)天皇(異母兄)の皇后となる。2男5女を設ける。(兎(う)道(じの)貝(かい)蛸(たこの)皇女(こうじょ)は、厩戸皇子=聖徳太子=の后)。炊屋(かしぎや)姫と聖徳太子は叔母・甥の関係。
・敏達天皇の死後、31代用明天皇(炊屋姫の兄)が即位。この時期、実力者の蘇我馬子(大臣(おおおみ)=大和朝廷の執政者)・物部守屋(大連(おおむらじ)=大和朝廷の執政者)の勢力争いが激しくなります。
・結局、蘇我・物部の対立抗争は、蘇我側の勝利に終わり、蘇我馬子の押す泊(はつ)瀬部(せべ)皇子(おうじ)が即位します。32代崇(す)峻(しゅん)天皇です。
・(32代崇(す)峻(しゅん)天皇)=蘇我馬子の甥で、炊屋(かしぎや)姫とは、異母姉弟。29代・欽明天皇の第12皇子です。馬子の専横を憤り打倒を企てるが逆に馬子に暗殺されます。
臣下により天皇が殺されたのは、日本史ではおそらくこれが唯一の例である(毒殺の疑いのある江戸時代最後の121代孝明天皇。また、20代安(あん)康(こう)天皇は同じ皇族によって暗殺されたとされますが、神話時代で、史実性が低い)。また、死去したその日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことも、他に例が無い。
*欣明天皇以来の天皇は、蘇我氏の権力のもとでのあやつりだった。
・崇(す)峻(しゅん)天皇死後、次期天皇をめぐって混乱。
・結局、群臣は、皇后炊屋(かしぎや)姫自身の帝位就任を再三要請。炊屋(かしぎや)姫は承諾する。
・33代推古天皇の誕生。豊浦宮(とゆらのみや)(現明日香村豊浦)で即位、時に39歳。失墜した王権の回復のために、蘇我氏と朝廷との政治的権力バランスととるために皇位についたという見解が主流。馬子の思惑も。推古天皇の母は、蘇我稲目の娘・堅(きた)塩(しの)媛(ひめ)。
○推古天皇は、甥の厩戸皇子(=聖徳太子)を皇太子に任命、政治の実務に当たらせた。遣隋使の派遣し対中国外交を進展、冠位12階の設定・17条憲法の制定し中央集権国家の基礎を作った。仏教隆興につとめ、法隆寺などを建立。
○蘇我馬子、聖徳太子、実子・竹田皇子に先立たれ、661年、在位36年は飛鳥・奈良時代を通して最長。齢(よわい)75歳の生涯を閉じる。歴代女帝では、最高年齢。

○橿原(かしはら)市で、2000年に巨大石室が出土。推古天皇と竹田皇子の合葬墓の可能性(推古天皇は、生前には自分を作らず、竹田皇子の墓に葬ってほしいと望んだという。愛する息子と同じ墓で眠りたいという老いた母親の心情)

(2-1) 35代皇極天皇・・はじめて生前譲位した女帝
○推古天皇崩御からわずか14年後。次の次の天皇。名を宝皇女という。父は茅(ち)淳(ぬ)王(おおきみ)(30代敏達天皇の孫)、母は吉備(きびの)姫(ひめの)王(おおきみ)(29代欽明天皇の曾孫)
○34代舒明天皇の皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子=38代天智(てんじ)天皇)、大海(おおあま)皇子(40代天武天皇)、間人(はしひと)皇女(36代孝徳天皇の皇后)をなしている。ふたりの天皇と一人の皇后の母親になった。歴史上、珍しい例。
○即位のいきさつ
① 推古天皇死後、次期天皇について、田村皇子派、山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)派が対立。
② 結局、629年、田村皇子が即位(=34代舒明天皇)
③ 翌630年、宝皇女、皇后となる。
④ 欣明期は、比較的平穏だったといえる。遣唐使の派遣、仏教に積極的。
⑤ 641年、舒明天皇崩御
⑥ 皇位継承候補者として、舒明天皇の長男古人(ふるひとの)大兄(おおえの)皇子(おうじ)(母は法提郎媛(ほてのいらつめ)=蘇我馬子の娘)、中大兄皇子(後の天智天皇)、山背大兄王(やましろのおおえのおおきみ)がいた。蘇我蝦夷(えみし)・入(い)鹿(るか)親子にとって、3人とも血族。
⑦ 後継者を容易に決定できない状況のもと、宝皇后が「中継ぎ」として即位。
○35代皇極天皇 49歳。
○蘇我入鹿の横暴→中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原鎌足)は蘇我打倒計画を練り蘇我蝦夷(えみし)・入(い)鹿(るか)親子を滅ぼす(乙巳(いっし)の変=645年)。「大化の改新」のはじまり。
*29代欽明天皇から34代舒明天皇まで6代は、蘇我本家の血を色濃くひいている。しかし、この事件は天皇家が他の大豪族から一歩ぬきんでた位置を占める端緒を開いたといえる。
○皇極天皇は大事件(乙巳(いっし)の変=飛鳥板(いた)蓋宮(ぶきのみや))を目の当たりに見た皇極天皇は、事件の2日後、皇位を弟の軽皇子(かるのおうじ)(36代孝徳天皇)に譲る。崩御しないで皇位を譲るという譲位は、はじめてのこと。在位3年余。

生涯学習とボランティア(2)

生涯学習とボランティア(2)

3.生涯学習社会を築くために、取り組むべき課題の一つ:「ボランティア活動の支援・推進」
◎沿革と課題への取り組みの経過
・明治後半のセツルメント運動・・弱者救済、篤志家の奉仕活動と見られた。(米騒動、関東大震災・・東大セツルメントなど学生セツルメント運動)(資料9)
・昭和40年前後から「ボランティア」という言葉が普及し始め、ボランティアによる活動を支援するための組織作りが始められた。
・昭和46年、社会教育審議会答申のなかで、「民間人の意欲的なボランティア活動」が評価された。
・昭和60年代以降、ボランティア活動の分野は、社会福祉のほか、自然環境保護、教育、文化、スポーツ、学術研究、開発途上国や在日外国人への支援・国際交流・協力、人権擁護、保健・医療、まちづくり活動、災害救助活動
など、多岐にわたり広がっている。

4.生涯学習の成果を生かすボランティア活動
◎平成11年生涯学習審議会答申「学習の成果を幅広く生かす」(資料10)
・「個人が学習成果を活用して社会で自己実現を図る場として最も緊要な課題となっているキャリア(職業・職歴ばかりでなく社会的な活動歴をも含む)開発、ボランティア活動、地域社会での活動の振興方策を考察・提言」した。
学習成果を
1) 個人のキャリア開発に生かす。
・勤労者の自己啓発意欲の高まり。
・女性は自己実現を図ることに意義を認める人が増えています。
・高齢者が定年後の生きがいを求める傾向が、仕事ばかりでなく、ボランティア活動など社会活動への参加意欲も高い。
2)ボランティア活動に生かす
近年のボランティアを志向する社会の進展を、「他者のため、社会・公共のため積極的に自分を役立ちたいとする意欲が高まっている」と指摘し、「国民一人一人が自己責任と信頼を基調とする自覚・自立した意識に基づいてボランティアの活動に積極的に関わっていくことが求められる」と記しています。
また、実際に活動しようとすれば、活動にかかわる分野の知識や技術の習得のための学習が必要なものであり、また、ボランティア活動に参加することによって、必然的にさらなる学習に発展することになるなど、生涯学習ボランティア活動は密接な関係にある。ボランティア活動の促進と生涯学習の推進とは実質的に切り離すことができない関係にある」述べ、「ボランティア活動は、学習成果を生かし、体験的にその成果を深める実践の場そのものである」と、生涯学習とボランティア活動の相互関係を定式化しています。
そして、行政として、「人々のあらゆる場における学習活動を振興することが必要であり、学習によって得た知識や技術などの成果を積極的にボランティア活動に生かすことができるようなシステムの構築が求められている」としています。
◎この指摘は、指定管理者・開拓の村と開拓の村ボランティアの関係にも当てはめることができると思います。今年度、年度当初から通年「研修」の設定、各種研修グループの立ち上げ・活動は、その具現であると思います。
3) 地域社会の発展に生かす
・答申はまた、「単に学ぶばかりでなく、学んで得た知識や技術を地域社会の発展や地域の人々のために活用したいとする人たちが増えている」と述べ、「より深い喜びや充実感を得るため、しかるべき学習の後、多くの人々の前でその学習の成果を披露し、また、他の人のために指導やアドバイスをしたりする機会を持とうとする傾向が強くなっている。学習を通じて何らかの形で社会につながり、社会的な事業に参画したい、できれば社会のために貢献したいとする人々の意欲が高まってきている」として、生涯学習の行政も「学習機会の提供のみならず学習成果の活用の促進も、重視されなければならない」と指摘しています。開拓の村に関していえば、今年度から、ボランティアの会の「会員研究発表会」や、今年度導入の「会員研究レポート」の奨励が、それを具体化した先進例といえるでしょう。

5.「生涯学習ボランティア」の活動
・社会教育施設ボランティアの活動、つまり、実践と研修と連携とが、博物館で、図書館で、青少年教育施設で、日々、強められています。
・「ボランティアコーディネーター」の導入による資格制度、「全国V(ボラン)ネット」、「V(ボラン)ネットセミナー」の開催
・「Hands One」・・一度だけの人生を多くの人々のために・・を合言
葉に、誰からも強制されることのない、活動が広がっています。

6.広がり、高度化するボランティア活動の課題
◎平成14年2月、河合隼(はや)雄(お)文化庁長官は就任挨拶の中で「文化ボランティアの推進」を強調し、「文化ボランティア」と言う言葉を使いました。
「博物館ボランティア」は、この「文化ボランティア」の1ジャンルになると思います。 (資料11)
◎今後の課題
~「甘え」、「驕り」は許されない時代に~
・「ボランティアは、自ら積極的に人生を楽しみ、親しむとともに、一度だけの人生を多くの人々のために、他人のお手伝いもしたい」という機運が高まっているなかで、ボランティアは、「単に技術だけでなく、ボランタリーなこころもって」活動することがなによりも求められています。
① 受け入れ側・・職員全員の共通理解の学習が必要で、「何のためにボランティア制度を導入するか」を明確にすることが大事です。
② ボランティア側・・活動する場が与えられたことに感謝するという謙虚な気持ちが大切で、ボランティア活動は、一部の人の参加ではなく、多くの国民が、ボランティア活動に参加する状況(H15年には、前年比105%の779万人)のもとで、「私は、自己犠牲でボランティアをやっている」とか「善意の施しとしてやっている」という「甘え」、「驕り」、「選良」意識、は許されない時代に入りつつあります。
◎ボランティア活動のもつ社会的責任
・平成11年の「生涯学習審議会」答申では、「ボランティア活動は、本来、志さえあれば誰にでもできるものである。しかし、ボランティア活動が無償の、他人や社会に貢献しようとする行為であるとはいえ、それが社会的な活動であるかぎりは、ボランティア活動に対する責任・義務について自覚を持って参加するという意識を醸成していくことが大切になってきている。そのために重要なのは、志や熱意ばかりでなく、受け手(開拓の村でいえば来村者)の気持ちへの配慮、活動を支える知識・技術の獲得や仲間との協調性であり、そうした学習も大切になる」と指摘しています。

◎「ボランティアの評価」の段階に
充実したボランティア活動を行うためには、
① 第一義的に活動に自己評価が重要。ボランティア活動が、自分のためにも行うものでもある以上、何が身に着いたか、何が足りなかったかなど自分で評価することが基本です。
② 受け手側の評価も、次の活動の改善につなげるために重要です。
③ 社会的評価も、一層の自覚・意欲の向上にとって有効です。今年度、当ボランティアの会が「北海道博物館協会表彰」されるそうですが、これも「社会的評価」といえるのではないでしょうか。
◎おわりに
・現在、中教審では、「青少年のボランティアを育てる努力」「青少年にボランティア体験の機会を」が議論されています。青少年のボランティアについては、現在、災害、環境などへの参加が進められていますが、さらに、文化ボランティアへの発展が期待されています。その意味で、開拓の村で、「こどもボランティア」の導入の計画は、注目されるのではないかと思います。
・昨年6月の中教審第49回総会では、「生涯学習はゼロ歳児からはじまるという視点が必要」と指摘され、7月の中教審生涯学習分科会で、湯川れい子委員
が、「新生児を親の心臓の音からすぐ切り離して別室に連れて行ってしまうとか、泣いても抱っこしてもらえない、ミルクをもらう場合も声をかけてもらえない、・・人間を人間として育てるという上でものすごく欠落している部分で、ここの部分に視点を合わせない限り、大きくなって人間とコミュニケートする力を持たせるかと言っても大変に無理だ」と発言しています。そうこうことが論議されています。
実践も、理論も、日々、進んでいることを実感しました。

私は、ボランティア活動の実のひとりですが、今回、「生涯学習論」「ボランティア論」を勉強する機会を得ました。自らの活動を整理するよい機会にもなりました。学んだことを、今後の活動に生かしたいと思っています。私は、北海道開拓の村ボランティアとして、一層の研鑽を深めたいと思います。

生涯学習とボランティア

◎2006年4月22日、北海道開拓の村会員研修会で発表したものです。

生涯学習時代とボランティア(1)


◎はじめに
私は、全国博物館ボランティア研究協議会に参加させていただきました。その報告かたがた、私なりに勉強したことを、「生涯学習時代とボランティア」と題したテーマでお話したいと思います。

・昨年12月5~6日、国立科学博物館を主会場として開催された「第6回全国博物館ボランティア研究協議会」(以下全国会議といいます)に中島学芸員とともに参加しました。
1日目は、午前中に基調講演、午後から「テーマ別分科会」があり、私は「地域や学校と博物館をつなぐボランティア活動」に参加しました。
2日目の「館種別分科会」は、神奈川県立歴史博物館を会場にした「歴史系博物館分科会」に参加しました。
この分科会で、特に指名され、開拓の村ボランティアの活動を発言しました。他の博物館ボランティアの会の報告や発言を聞きましても、「北海道開拓の村ボランティアの会」が全国の博物館ボランティアの中で、先進的な活動をしていることを実感しました。
・そのことは、手前味噌の感想ではなく、例えば、国立科学博物館教育ボランティア推進室長の石川昇氏は、ネット版の「生涯学習研究E辞典」の「博物館とボランティア」の項で、「博物館におけるボランティアの導入の現状」について次のように記述していることからも明らかだと思います。
石川氏によりますと、「一般公募によるボランティア導入は、1974年、北九州立美術館が最初で、各地の美術館へ波及。美術館以外の博物館では、1974年上野動物園でボランティア団体が発足、歴史博物館では(と、項目をたて)1987年=昭和62年、『北海道開拓の村』でボランティアが展示解説、警察の制服を着て解説を演示したのを皮切りに、美術館以外にも、また、展示解説以外の活動にもボランティア活動が導入され、その後、さまざまな活動が開発されるようになった」と述べています。私は、改めて、開拓の村ボランティアが、全国の先進ボランティア組織であることを実感しました。
現在、博物館におけるボランティアの導入は、1117登録博物館・同相当施設中で331館(約28%)、4243博物館類似施設中543館(約13%)が導入しています。
また、「ボランティアの導入の背景」として*(資料1を読む)

さて、全国会議で、私は、国立少年の家理事長の松下倶(とも)子(こ)氏の「生涯学習時代とボランティア」と題して基調講演がとても勉強になりました。松下氏は、長年、文部科学省の「生涯学習」政策に関わってこられた方で、現在文部科学大臣の諮問機関・中教審(中央教育審議会)の生涯学習分科会の副分科会長を務めておられます。(資料2)
それだけに、松下氏の講演は、「生涯学習」や「ボランティア活動」についての政策的変遷や方向を知ることができました。その基調講演をもとに、お話しを進めたいと思います。
 
1.「生涯学習時代」とは・・21世紀は「生涯学習を構築する時代」といわれています。
◎去る4月13日、自民・公明が「教育基本法」の改正案で合意し、「与党教育基本法改正に関する協議会」最終報告が発表されました。報道は「愛国心」に関することが中心でしたが、実は、この改正案に、「生涯学習」が追加されることが盛り込まれています。「生涯学習の理念」という項目を掲げ「国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図らなければならない」としています。この自公改正案が、教育基本法改正案に、あえて、生涯学習の項目を起すことに関して、「現行の教育基本法にも、『教育の目的は、あらゆる教育の機会に、あらゆる場所において実現されなければならない』とあり、現行法でも、今にも十分通用する豊かな中身を持っている」として疑問を投げかける声もでていますが、「生涯学習」が教育の根幹のひとつとして、無視できないものになっている時代だと思いました。(資料3)
◎また、国連も、21世紀の最初の年である2001年を「ボランティア国際年」としました。
◎昭和56年 中央教育審議会(中教審)答申「生涯教育について」・・「生涯教育」の本格的な取り組みが始まります。
◎臨時教育審議会(臨教審。昭和59~62年)最終答申(昭和62年8月)・・学習者の視点から課題を検討する立場を明確にするため、「生涯教育」の言葉に替わり「生涯学習」の言葉を用いて、学習者の立場を尊重する「生涯学習社会の実現」を提唱しました。(資料4)
答申は、今後のあるべき教育改革の視点として
1)個性重視
2)生涯学習体系への移行
3)社会の変化(情報化、国際化)への対応
を強調しました。
◎昭和63年、文部省の「社会教育局」が「生涯学習局」に改組再編された。

2.「生涯学習」と「ボランティア」の出会い
◎昭和64年、井上裕(ゆたか)文部大臣諮問意見のなかで、「ボランティア活動の支援・推進」が挙げられました。
◎平成2年1月中教審答申「生涯学習の基盤整備について」
「生涯学習は、学校や社会の中で意図的・組織的な学習活動として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション、ボランティア活動などの中でも行われるものである」として、生涯学習とボランティア活動を結びつけました。
◎平成2年6月施行の「生涯学習振興法」に基づき、「生涯学習審議会」設置。
◎平成4年 生涯学習審議会答申「今後の社会の動向に対応した生涯学習の振興方策について」(資料5)
・ボランティア活動の基本理念(キーワード)
自発(自由意志)性、無償(無給)性、公共(公益)性、先駆(開発・発展)性
・生涯学習とボランティア活動の関連の3つの視点
1) ボランティア活動そのものが自己開発、自己実現につながる生涯学習となるという視点
2) ボランティア活動を行うために必要な知識・技術を習得するための生涯学
習があり、学習の成果を生かし深める実践としてボランティア活動があるという視点
3)人々の生涯学習を支援するボランティア活動が、生涯学習を盛んにするという視点 があげられます。
◎答申に基づく取り組み
①「全国生涯学習フェスティバル」(「学びピア」)の開催
 平成元年、第1回千葉市:テーマ「愛したいのは 新しい自分」
 平成7年、第7回札幌市:「まなびでひらく北のふるさと」
 今年第17回鳥取市:
 (主なテーマ=キャッチフレーズ紹介)=(資料6)
②地方自治体の審議会、担当部局の設置
<北海道>(資料7)
・平成2年 「北海道生涯学習推進本部」設置。
・平成3年 「北海道生涯学習審議会」設置
・平成13年 「北海道立生涯学習推進センター」設置
          「道民カレッジ」開始
<札幌市>(資料8)
・平成10年、「生涯学習部」設置。
・平成12年、札幌市生涯学習総合センター(ちえりあ)オープン
      「さっぽろ市民カレッジ」開講
③地方自治体で「生涯学習都市宣言」(平成16年現在全国で170市町村。現在道内では札幌市を含め13自治体)
 北海道初は真狩村(昭和56年)、「生涯学習の村宣言」全国3番目
④昭和58年放送大学設置、昭和60より放送による授業開始。

生涯学習とボランティア

◎会場・・北海道開拓の村ビジターセンター研修室
◎日時・・2006.4.22PM13:00~14:00
◎テーマ・・生涯学習とボランティア
◎発表者・・森勇二
ボランティア研修講義です。
講義後にアップします。

開拓使 略年表

開拓使 略年表

○1868(慶応4)
・4.12・・新政府(朝廷)は、箱館裁判所設置(旧幕府の箱館奉行所を引き継いだ蝦夷地統治の機関)。仁和寺宮嘉(よし)彰(あきら)(議定兼軍防事務局督)を箱館裁判所総督、清水谷公考(きんなる)(侍従)・土井利(とし)恒(つね)(大野藩主)を副総督とし蝦夷地開拓の兼知を命じる。仁和寺宮嘉(よし)彰(あきら)は、辞退する。
*「裁判所」・・旧幕府の遠国奉行、軍代がおかれていた重要地域に、新政府(朝廷)が置いた行政機関
・閏4.5・・箱館裁判所副総督清水谷公考(きんなる)を同総督に任命。新たに、判事、権判事も任命。
・閏4.21・・新政府、「裁判所」を「府」、「県」に改編。「箱館裁判所」は「箱館府」と改称、清水谷公考(きんなる)が府知事に任命された。この日、清水谷公考(きんなる)は、江差に到着(閏4.14、京都出発)
・閏4.26・・清水谷公考(きんなる)、箱館着。翌27日、旧幕府箱館奉行杉浦勝(かつ)誠(のぶ)より事務を引き継ぐ。
・5.1・・清水谷公考(きんなる)、「箱館裁判所」を五稜郭に開く。(中央での「裁判所」廃止後に現地で「裁判所」が新設されたことになる。
・7.17・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を管内に告示。
・8.1・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を蝦夷地に告布達。

○1868(明治元)
・9.8・・慶応4年を明治元年と改める。
・10.20・・榎本武揚率いる旧幕軍、鷲ノ木に上陸。
・10.25・・清水谷公考(きんなる)知事、箱館を退去、青森に向かう。
・12・15・・旧幕軍、全島平定を在箱各国領事に告げる。榎本武揚が総裁になる。

○1869(明治2)
・4.9・・政府軍、乙部に上陸。
・5.11・・政府軍、陸海より箱館に進撃
・5.18・・榎本武揚以下、政府軍に降伏
・6.4・・鍋島直正(中納言・議定・上局議長)に蝦夷開拓督務の兼務を命じる。
・6.24・・第19代松前藩主・松前兼広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事となる。
・7.8・・開拓使を設置(樺太開拓使がおかれた1870年=明治3=2月13日から、1871年=明治4=8月7日までは、「北海道開拓使」と称した)。使員詰所(開拓使庁)を民部省中に置く。
・7.13・・蝦夷開拓督務鍋島直正を開拓使長官に任命(諸省卿と同等)
・7.17・・「箱館府」を廃止し、「箱館県」とする。(わずか7日間で廃止)
・7.22・・島義勇、開拓使判官に任命。
・7.24・・「箱館県」を廃止 清水谷公考(きんなる)、開拓次官になる。
・7.25・・岩村通敏、岡本監(けん)輔(すけ)、開拓使判官に任命。
・8.2・・松浦武四郎、開拓使判官に任命。
・8.15・・蝦夷地を「北海道」と改称し、11国86郡を画定。
・8・18・・松本十郎、開拓判官に任命。
・8.25・・東久世道禧(みちよし)(ミチトミとも)、開拓長官に任命。
・8.29・・杉浦誠(元箱館奉行・勝(かつ)誠(のぶ))開拓判官に任命。
・8.-・・「北蝦夷地」を「樺太」と改称。
・8.-・・民部省内におく開拓使庁を、太政官中に移す。
・8.-・・武田信(のぶ)順(より)、開拓判官に任命。
・9.13・・清水谷公考(きんなる)、開拓次官を辞任。
・9.30・・旧「箱館裁判所」を「開拓使出張所」と改称して開庁。
・9.30・・「箱館」を改めて「函館」とする。
・10.12・・島義勇、銭函に「開拓使仮役所」を設置。
・10.-・・判官松本十郎、根室に根室開拓使出張所を開設。1870(明治3)6月、東京府に移管、10月に開拓使の所管に復帰。
・10.-・・判官武田信順、宗谷に宗谷開拓使出張所を開設。1870(明治3)1月廃止。

○1870(明治3)
・2.13・・樺太開拓使をおく。
・4.-・・判官岩村道俊、銭函仮役所を小樽に移し、「小樽仮役所」と改称。
・5.9・・黒田清隆を開拓次官に任命、樺太専務を命じる。
・6.-・・樺太開拓使仮詰所を東京・北八丁堀におく。
・8.13・・黒田次官、樺太出張を命じられ、品川を出発。(同年10月20日帰京)
・閏10.9・・在京の開拓使庁を廃止。
・閏10.10・・「開拓使東京出張所」と改称、蛎(かき)殻(がら)町の北海道物産会所に移転。(その後、小網町稲荷(とうかん)堀(ぼり)に移転)
・閏10.-・・東京・北八丁堀にある「樺太開拓使仮詰所」を「樺太開拓使出張所」と改称。

○1871(明治4)
・4.-・・札幌に開拓使仮庁舎竣工
・4.24・・東久世長官、函館より札幌へ移転。
・5.-・・札幌に「開拓使庁」を置き、函館、根室の「開拓使出張所」を、それぞれ「函館出張開拓使庁」「根室出張開拓使庁」と改称。
・7.14・・廃藩置県につき、館藩を廃して館県となる(管轄地は、爾志郡、檜山郡、津軽郡、福島郡の4郡)
・7.-・・東京北八丁堀にある「樺太開拓使出張所」を「北海道開拓使東京出張所」に併する。
・8.8・・樺太開拓使を廃止。北海道開拓使に合併。
・8.27・・東京開拓使出張所、小網町稲荷(とうかん)堀(ぼり)より、芝増上寺本坊に移転。(後、同山内方丈跡へ)
・9.9・・館県、弘前県に併合される。(9.23に、青森県と改称、明治5年9月20日、開拓使に移す。
・10.15・・東久世長官、侍従長に移る。(1874=明治7=8.2、黒田清隆が長官に任命されるまで、開拓使長官は、空席)

○1872年(明治5)
・9.14・・札幌に「開拓使本庁」、函館・根室・宗谷・浦河・樺太に5支庁を置く。
・9.20・・東京開拓使出張所を同山内威徳院へ移転。
・11.9「明治五年十二月三日を以って、明治六年一月一日とする」という太政官布告。つまり、明治5年は、12月2日までしかない。

○1873年(明治6)
・11.24・・開拓使、札幌本庁舎落成。

○1874年(明治7)
・8.2・・陸軍中将兼開拓次官黒田清隆、兼任を解き、参議兼開拓長官に任ずる。

○1879年(明治12)
・1.17・・午後7時50分頃、出火。金庫、湯呑所、訴訟人控所を除きことごとく焼失。官金はすべて無事。公文、器具類も過半は搬出する。
・1・20・・旧女学校を仮本庁として事務取り扱いを開始。それからというもの庁舎が建てられないまま経過し、明治15年2月8日に開拓使の廃止を迎える。

○1882年(明治15)
・1.11・・黒田長官、開拓長官を免じ、内閣顧問に任じる。参議農商務卿西郷従(つぐ)道(みち)、開拓長官兼任とする。
・2.8・・開拓使を廃し、函館、札幌、根室の3県を置く。開拓大書記官時任為基を函館県令に、調所(ずしょ)広(ひろ)丈(たけ)、開拓少書記官湯地定基を根室県令に任ずる。

○1886年(明治19)
・1.26・・函館、札幌、根室3県を廃し、北海道庁をおく。北海道庁を札幌に、函館、根室に支庁をおく。司法大輔(だいふ)岩村道俊、北海道庁長官に任命される。
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