(7)108代・明正(めいしょう)天皇=7歳で即位、21歳で上皇になった女帝
・明正の名は、女帝の43代・元明(げんめい)天皇とその娘の44代・元正(げんしょう)天皇から取ったとされています。
・徳川氏を外戚とする天皇は明正天皇が最初です。これは、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の対朝廷政策が確立した事を意味するとされています。
・108代・後水尾天皇の第2皇女で、母は、徳川2代将軍・秀忠の娘徳川和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。つまり、明正天皇は、秀忠の孫娘ということになります。
・<経過>
・1629年(寛永6年)の紫(し)衣(え)事件や幕府から春日局が無官のまま参内した事件などで、父の後水尾天皇から突然の譲位を受け、興子(おきこ)内親王として7歳で即位する。彼女の即位で、四八代・称徳天皇以来859年ぶりの女帝が誕生した。治世中は後水尾上皇の院政が敷かれた。
・<紫(し)衣(え)事件>
紫(し)衣(え)とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
1613年(慶長18年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
・このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府、3代将軍・徳川家光は、1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
・<春日局事件>
・2代将軍徳川秀忠正室お江与の従女民部卿局の仲介で、子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。
・初の大奥総取締として大奥の制度を統率し、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。江戸城大奥の礎を築いた人物で「大奥最高の女帝」とまで言われている。
・1629年、将軍の名代で、無位無官の身で朝廷へ参内。後水尾天皇に拝謁し、従三位の位と「春日局」の称号、天杯を賜る。後に従二位に叙られる。
・1643年(寛永20年)に、異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となる
(8)117代・後桜町天皇・・最後の女帝
・114代・桜町天皇の第2皇女。智子(としこ)内親王。
・宝暦12年(1762年)、桃園天皇の遺詔を受けて践祚。同帝の皇子英(ひで)仁(ひと)親王(後の118代・後桃園天皇)が五歳の幼さであった為、中継ぎとしての皇位継承である。
また彼女の即位で、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となる。
在位九年の後、明和7年(1770年),甥の後桃園天皇に譲位。
・<皇統の傍流への移行>
しかし、この御代は長く続かず、安永8年(1779年)皇子を残さぬまま後桃園天皇が崩御。
・9歳の兼(とも)仁(ひと)親王(のちの光格天皇)に決まった。
元々は、閑院(かんいんの)宮家(みやけ)から聖護院に入寺し、出家する予定であったが、1779年、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったので、急遽養子として迎えいれられて即位。
<閑院(かんいんの)宮家(みやけ)>
・、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。
・皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、新宮家誕生となった。
・閑院宮家6代の載仁(ことひと)親王・・1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。 1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。 1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。また、稀に見る美男子であった。
第7代 春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子。公爵 一条実輝の娘 直子と結婚。陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将として、戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏が失われるとして反対の論陣を張ったが、1947年(昭和22年)に皇籍離脱。 閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。 戦後の新生活は波乱とスキャンダルにみちたもので、直子とは離婚。 妹 華子女王は、皇族出身の侯爵 華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。1988年(昭和63年)6月、85歳で死去。子は無く、閑院(宮)家は断絶した。
(後桃園天皇からみると、曽祖父=ひいじいさん=の弟の孫)
*現今の「旧皇族の活用」論、つまり、「旧皇族から養子を迎える」という論の論拠になっています。実際は、現行皇室典範9条が「天皇及び皇族は養子を迎えることができない」と、禁止しています。
<まとめ>
・日本には、10代(8人)の女帝がいました。
・女帝、特に飛鳥・奈良時代の6世紀末から8世紀後半までの8代(6人)の女帝は、政権能力の優れた王族内の長(おさ)が即位したのであって、「中継ぎ」などではなかったという説にうなづけるものを感じます。
・明正の名は、女帝の43代・元明(げんめい)天皇とその娘の44代・元正(げんしょう)天皇から取ったとされています。
・徳川氏を外戚とする天皇は明正天皇が最初です。これは、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の対朝廷政策が確立した事を意味するとされています。
・108代・後水尾天皇の第2皇女で、母は、徳川2代将軍・秀忠の娘徳川和子(かずこ、入内の際に濁音発音を嫌う宮廷風習にならい「まさこ」と読みを変える)。つまり、明正天皇は、秀忠の孫娘ということになります。
・<経過>
・1629年(寛永6年)の紫(し)衣(え)事件や幕府から春日局が無官のまま参内した事件などで、父の後水尾天皇から突然の譲位を受け、興子(おきこ)内親王として7歳で即位する。彼女の即位で、四八代・称徳天皇以来859年ぶりの女帝が誕生した。治世中は後水尾上皇の院政が敷かれた。
・<紫(し)衣(え)事件>
紫(し)衣(え)とは、紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
1613年(慶長18年)、幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらにその2年後には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
・このように、幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを知った幕府、3代将軍・徳川家光は、1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭(たくあんそうほう)や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。
1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
・<春日局事件>
・2代将軍徳川秀忠正室お江与の従女民部卿局の仲介で、子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。
・初の大奥総取締として大奥の制度を統率し、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。江戸城大奥の礎を築いた人物で「大奥最高の女帝」とまで言われている。
・1629年、将軍の名代で、無位無官の身で朝廷へ参内。後水尾天皇に拝謁し、従三位の位と「春日局」の称号、天杯を賜る。後に従二位に叙られる。
・1643年(寛永20年)に、異母弟の後光明天皇に譲位して太上天皇となる
(8)117代・後桜町天皇・・最後の女帝
・114代・桜町天皇の第2皇女。智子(としこ)内親王。
・宝暦12年(1762年)、桃園天皇の遺詔を受けて践祚。同帝の皇子英(ひで)仁(ひと)親王(後の118代・後桃園天皇)が五歳の幼さであった為、中継ぎとしての皇位継承である。
また彼女の即位で、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となる。
在位九年の後、明和7年(1770年),甥の後桃園天皇に譲位。
・<皇統の傍流への移行>
しかし、この御代は長く続かず、安永8年(1779年)皇子を残さぬまま後桃園天皇が崩御。
・9歳の兼(とも)仁(ひと)親王(のちの光格天皇)に決まった。
元々は、閑院(かんいんの)宮家(みやけ)から聖護院に入寺し、出家する予定であったが、1779年、後桃園天皇が崩御したときに皇子がいなかったので、急遽養子として迎えいれられて即位。
<閑院(かんいんの)宮家(みやけ)>
・、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に東山天皇の皇子、直仁親王が創設した宮家。
・皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、新宮家誕生となった。
・閑院宮家6代の載仁(ことひと)親王・・1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。 1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。 1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。また、稀に見る美男子であった。
第7代 春仁(はるひと)王は、載仁親王の第2王子。公爵 一条実輝の娘 直子と結婚。陸軍大学校兵学教官などを経て、終戦時は陸軍少将として、戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏が失われるとして反対の論陣を張ったが、1947年(昭和22年)に皇籍離脱。 閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。 戦後の新生活は波乱とスキャンダルにみちたもので、直子とは離婚。 妹 華子女王は、皇族出身の侯爵 華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。1988年(昭和63年)6月、85歳で死去。子は無く、閑院(宮)家は断絶した。
(後桃園天皇からみると、曽祖父=ひいじいさん=の弟の孫)
*現今の「旧皇族の活用」論、つまり、「旧皇族から養子を迎える」という論の論拠になっています。実際は、現行皇室典範9条が「天皇及び皇族は養子を迎えることができない」と、禁止しています。
<まとめ>
・日本には、10代(8人)の女帝がいました。
・女帝、特に飛鳥・奈良時代の6世紀末から8世紀後半までの8代(6人)の女帝は、政権能力の優れた王族内の長(おさ)が即位したのであって、「中継ぎ」などではなかったという説にうなづけるものを感じます。