最初の「開拓使」の「役所」はどこにあったか
1.「「開拓使」設置までの経過
○1868(慶応4)
・4.12・・新政府(朝廷)は、箱館裁判所設置(旧幕府の箱館奉行所を引き継いだ蝦夷地統治の機関)。仁和寺宮嘉彰(よしあきら)(議定兼軍防事務局督)を箱館裁判所総督、清水谷公考(きんなる)(侍従)・土井利恒(としつね)(大野藩主)を副総督とし蝦夷地開拓の兼知を命じる。仁和寺宮嘉彰は、辞退する。
*「裁判所」・・旧幕府の遠国奉行、軍代がおかれていた重要地域に、新政府(朝廷)が置いた行政機関
・閏4.5・・箱館裁判所副総督清水谷公考(きんなる)を同総督に任命。新たに、判事、権判事も任命。
・閏4.21・・新政府、「裁判所」を「府」、「県」に改編。「箱館裁判所」は「箱館府」と改称、清水谷公考(きんなる)が府知事に任命された。この日、清水谷公考(きんなる)は、江差に到着(閏4.14、京都出発)
・閏4.26・・清水谷公考、箱館着。翌27日、旧幕府箱館奉行杉浦勝誠(かつのぶ)より事務を引き継ぐ。
・5.1・・清水谷公考、「箱館裁判所」を五稜郭に開く。(中央での「裁判所」廃止後に現地で「裁判所」が新設されたことになる。
・7.17・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を管内に告示。
・8.1・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を蝦夷地に告布達。
○1868(明治元)
・9.8・・慶応4年を明治元年と改める。
・10.20・・榎本武揚率いる旧幕軍、鷲ノ木に上陸。
・10.25・・清水谷公考(きんなる)知事、箱館を退去、青森に向かう。
・12・15・・旧幕軍、全島平定を在箱各国領事に告げる。榎本武揚が総裁になる。
・
○1869(明治2)
・4.9・・政府軍、乙部に上陸。
・5.11・・政府軍、陸海より箱館に進撃
・5.18・・榎本武揚以下、政府軍に降伏
・6.4・・鍋島直正(中納言・議定・上局議長)に蝦夷開拓督務の兼務を命じる。
・6.24・・第19代松前藩主・松前兼広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事となる。
2.新政府の官制
・慶応3(1867).12.9・・「王政復古」の大号令
同時に「三職」設置(総裁、議定、参与)
・慶応4(1868).1.17・・三職七科制とする。
・同年2.3・・三職八局とする。
・同年閏4.21・・太政官制を定める。太政官は京都に置かれた。
・同年閏4.27・・政体書を出す「天下の権力総てこれを太政官に帰す」
・明治2(1869)7.8・・官制改革
① 神祇官の復活し、太政官よりも上位に置かれた
② 太政官の下に、民部省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省が設置され、2官6省制が採られ、弾正台、集議院などの機関と同時に「開拓使」も設置された。
2.開拓使の設置
・明治2年7月8日、新しい太政官制が導入され、開拓使設置される。
・最初の開拓使役人の詰所(役所=開拓使庁)は、太政官のもとの民部省内(旧江戸城内)に置かれた。
・同年8月、開拓使を、民部省中から、太政官中に移す。
*太政官の役所
・明治2.2.24・・天皇、東京滞在中、太政官を東京に移すことを達する(東京遷都)。太政官は旧江戸城(皇居)内に置かれた。
・したがって、最初の開拓使の役所は、皇居内に置かれた。
1.「「開拓使」設置までの経過
○1868(慶応4)
・4.12・・新政府(朝廷)は、箱館裁判所設置(旧幕府の箱館奉行所を引き継いだ蝦夷地統治の機関)。仁和寺宮嘉彰(よしあきら)(議定兼軍防事務局督)を箱館裁判所総督、清水谷公考(きんなる)(侍従)・土井利恒(としつね)(大野藩主)を副総督とし蝦夷地開拓の兼知を命じる。仁和寺宮嘉彰は、辞退する。
*「裁判所」・・旧幕府の遠国奉行、軍代がおかれていた重要地域に、新政府(朝廷)が置いた行政機関
・閏4.5・・箱館裁判所副総督清水谷公考(きんなる)を同総督に任命。新たに、判事、権判事も任命。
・閏4.21・・新政府、「裁判所」を「府」、「県」に改編。「箱館裁判所」は「箱館府」と改称、清水谷公考(きんなる)が府知事に任命された。この日、清水谷公考(きんなる)は、江差に到着(閏4.14、京都出発)
・閏4.26・・清水谷公考、箱館着。翌27日、旧幕府箱館奉行杉浦勝誠(かつのぶ)より事務を引き継ぐ。
・5.1・・清水谷公考、「箱館裁判所」を五稜郭に開く。(中央での「裁判所」廃止後に現地で「裁判所」が新設されたことになる。
・7.17・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を管内に告示。
・8.1・・箱館府、「裁判所」を「府」と改称した旨を蝦夷地に告布達。
○1868(明治元)
・9.8・・慶応4年を明治元年と改める。
・10.20・・榎本武揚率いる旧幕軍、鷲ノ木に上陸。
・10.25・・清水谷公考(きんなる)知事、箱館を退去、青森に向かう。
・12・15・・旧幕軍、全島平定を在箱各国領事に告げる。榎本武揚が総裁になる。
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○1869(明治2)
・4.9・・政府軍、乙部に上陸。
・5.11・・政府軍、陸海より箱館に進撃
・5.18・・榎本武揚以下、政府軍に降伏
・6.4・・鍋島直正(中納言・議定・上局議長)に蝦夷開拓督務の兼務を命じる。
・6.24・・第19代松前藩主・松前兼広は版籍奉還を願い出て許され、館藩知事となる。
2.新政府の官制
・慶応3(1867).12.9・・「王政復古」の大号令
同時に「三職」設置(総裁、議定、参与)
・慶応4(1868).1.17・・三職七科制とする。
・同年2.3・・三職八局とする。
・同年閏4.21・・太政官制を定める。太政官は京都に置かれた。
・同年閏4.27・・政体書を出す「天下の権力総てこれを太政官に帰す」
・明治2(1869)7.8・・官制改革
① 神祇官の復活し、太政官よりも上位に置かれた
② 太政官の下に、民部省、兵部省、刑部省、宮内省、外務省が設置され、2官6省制が採られ、弾正台、集議院などの機関と同時に「開拓使」も設置された。
2.開拓使の設置
・明治2年7月8日、新しい太政官制が導入され、開拓使設置される。
・最初の開拓使役人の詰所(役所=開拓使庁)は、太政官のもとの民部省内(旧江戸城内)に置かれた。
・同年8月、開拓使を、民部省中から、太政官中に移す。
*太政官の役所
・明治2.2.24・・天皇、東京滞在中、太政官を東京に移すことを達する(東京遷都)。太政官は旧江戸城(皇居)内に置かれた。
・したがって、最初の開拓使の役所は、皇居内に置かれた。