森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2006年07月

「石狩挽歌」と笠戸丸-2-

3.豪華客船になった「笠戸丸」
・1909(M42)大坂商船(日本郵船と並ぶ海運界の雄)が「笠戸丸」を台湾航路に使用するため借用。客船として大改造される。大ホール、柱、壁、調度品に立派な彫刻が施された。
・日清戦争後、日本は、台湾を領有、台湾航路開発を競う。笠戸丸は、1910(M43)4月、神戸~キールン間に就航。日本郵船も、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。翌1911(M45)大坂商船は、笠戸丸を海軍省から購入。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・2度目のブラジル行き・・第一次世界大戦(1914=T3)の勃発で、日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴びる。大坂商船は、笠戸丸を投入、1916年(T5)12月神戸出港。ドイツ潜水艦の目を避けるため迷彩を施す。商船として始めて笠戸丸がブエノスアイリスに入港。
・帰国後、再び台湾航路に就く。
○1927(S2)、病院船として揚子江へ
・同年5月、田中義一内閣、山東出兵を決める。7~9月、笠戸丸は、揚子江へ3度出動、上海~南京~漢口まで遡る。
・同年10月、インド・カルカッタ航路第1船となり、神戸を出港。

4.工船、そして軍徴用船になった笠戸丸
・造船技術の進歩のなかで、海運業者は、優秀船舶の建造をはじめ、明治期の客船は引退の時期を迎えた。
・いわし工船・・・1930(S5)、東洋興行に売却。同社は、いわしの工船漁業に乗り出し、笠戸丸を購入。笠戸丸は「商船」として終止符を打つ。
笠戸丸を母船とする、いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場とした。いわし工船漁業は、不漁のため、翌1931(S6)年に中止となる。
・1932(S7)、新興水産に移籍、笠戸丸は、ミール工船としてアラスカ沖で働く(太平洋漁業は、信濃丸をミール工船漁業に起用)
・翌1933(S8)も笠戸丸と信濃丸がミール工船としてアラスカ沖に出漁し競い合った。
・カニ工船・・工船カニ漁業を取り仕切った日本水産。笠戸丸は、1938(S13)、日本水産所有の最大の工船となり、西カムチャッカへ出漁。
*サケマス工船の信濃丸とカニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・1941(S16)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船として徴用される。
・1944(S19)7月3日、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、5日、小樽出港、目的地は北千島ホロムシロ島・柏原湾。笠戸丸は、その後、カムチャッカのサケマス漁場の工場へ漁夫、女工300人の輸送にあたる。途中、船団の護衛艦・「薄雲」、魚雷を受け轟沈。陸軍徴用船の「太平丸」も沈む。笠戸丸は、無事、西カムチャッカの漁場に着く。
・1945(S20)4月、中国・大連から塩を運搬中、日本海で潜水艦の攻撃を受け被弾。

○1944(S19)千島、北海道近海で撃沈された軍艦、輸送船
・輸送船「日蓮丸」、駆逐艦「白雲」・・3月16日、厚岸沖、死者3000余名
・輸送船「伏見丸」・・5月3日、ウルップ島沖、死者594名
・輸送船「まどらす丸」・・中部千島・マツワ島沖、死者139名
・輸送船「高島丸」・・6月13日、北千島アライド島沖、死者45名。高島丸稚泊航路(稚内~大泊)の豪華客船だったが、軍に徴用され、千島航路に就航、「花の輸送船」といわれた。
・輸送船「大平丸」・・7月9日、北千島アライド島沖、死者956名。
・日魯漁業でも「神武丸」「正気丸」が沈没した。

○1945年の出漁と日魯の対応
・平塚常次郎社長は出漁中止の意向だったが、政府は「今やソ連は外国との唯一のパイプである。そのつながりを維持するためにも是非出漁すべし」と閣議決定した。

・当初、信濃丸を本部線として、6隻で船団を組む計画。
・7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、山東丸が銃撃を受け出漁不能となる。

○北海道空襲(北海道・東北空襲)
・7月14日~15日、ホルジ海軍大将率いるアメリカ海軍第3艦隊が八戸沖東方海上から北海道・東北を攻撃、小樽攻撃は15日、笠戸丸、船首に被弾するも無事。
・7月25日、第2龍寶丸(2230トン)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽出港
・8月1日、西カムチャッカ・ウトカ沖に到着。
・8日、積荷作業完了(新巻2100函、缶詰2300函、塩蔵マス550トンなど)
この日、ソ連、対日宣戦布告。
・9日、午前、乗船者に下船命令。午後1時55分、ソ連戦闘機攻撃開始、夕刻、沈没。

○8月16日、ソ連軍カムチャッカのロパトカ岬(細川かたしが「北緯50度」で歌う)
から占守島を砲撃、18日、ソ連が占守島の北岸「武田浜」に奇襲上陸、日本守備隊との壮絶な戦闘が展開された。第91師団長・堤不夾貴(ふさき)中将は終戦後にも関わらず戦闘命令を発令。戦いは熾烈を極めた。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回り、一説によれば8月20日の停戦までに軍の戦死者八百余名、ソ連の戦死者三千余名とも言われている。23日になってやっと局地停戦協定が結ばれ戦闘が終わった。
ソ連、9月1日、全千島の占領完了。
・北洋での漁業者の犠牲・・カムチャッカで600人以上、北千島で1500人、樺太で150人以上がソ連軍に抑留された。明治6年の千島・樺太交換条約以来、70年に亘って日本漁民の地と汗で営々として築いた北洋漁業は、一旦終止符を打った。再開は、戦後・昭和27年まで待たねばならない。
<信濃丸>(6388トン)
・日本も、航海奨励法、造船奨励法(1896年)で、海運、造船の整備拡充を図った。
・1900年(M33)、イギリス・グラスゴーで進水。国策会社・日本郵船が発注。欧州航路の定期客船となる。
1093(M36)アメリカ航路に転じる。永井荷風が信濃丸でアメリカに渡る。「あめりか物語」を書く。
・日本海海戦で有名・・・信濃丸(日露戦争時は、徴用され巡洋艦となる)1905年5月27日午前3時、信濃丸はロシア艦隊の病院船「アリヨール」号(1899年、「カザン」と同様に、ニューキャスルで建造された)を発見、「敵艦見ゆ」を聯合艦隊旗艦・「三笠」に打電。パルチック艦隊発見の第1報。連合艦隊、大本営に「天気晴朗なれども波高し」を打電。
・午後2時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚を図ったエピソードが有名。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」が告げられた。
28日、日本側の完勝のうちに終わる。
・戦後の1906年、再び、北米シアトル航路に就く。
・1910(M43)、日本郵船は、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・1929(S4)、北進汽船に売却
・1930(S5)、日魯漁業へ売却、
・1932(S7)、太平洋漁業へ売却、アラスカ沖のミール工船となる。後、サケマス工船となる。
・1938(S13)サケマス工船となり、カニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。

・太平洋戦争中、南太平洋で輸送船となって働く。
・1945年7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、銃撃を受け出漁不能となる
・戦後、大陸からの引揚げ船として働き続ける。
・1950(S25)4月20日、ソ連からの集団引揚船の最終船として抑留されていた1244名を乗せてナホトカから舞鶴に入港。
・1951年(S26)、スクラップ。

Ⅱ.「石狩挽歌」に見るニシン漁
① ニシン漁の歴史・・その盛衰
② 歌詞に沿って・・「海猫」(ごめ)、「筒っぽ」、「ヤン衆」、「番屋」、「問い刺し網」、「にしん曇り」

【参考文献】
・「兄弟」(なかにし礼著、文藝春秋、1998)
・「船にみる日本人移民史」(山田廸生著、中公新書、1998)
・「航跡 ロシア船笠戸丸」(藤崎康夫著 時事通信社、1978)
・「日魯漁業経営史」(岡本信男編、水産社、1971)
・「戦時輸送船団史」(駒宮新七郎著、出版協同社 
1987)
・「鰊場物語」(内田五郎著、北海道新聞社、1978)

「石狩挽歌」と笠戸丸-1-

◎はじめに
・歌謡曲は歌って楽しむもので、歌詞を論じるなど、愚の骨頂ですがあえて、お話ししたいと思います。なかにし礼作詞の「石狩挽歌」の中に「沖を通るは笠戸丸」という歌詞がある。1900年(M33)に進水し、1945(S20)、北洋に沈むまでの45年間、まさに日本の近代化と歩みをともにしてきた笠戸丸の波乱に満ちた生涯を中心に話したい。

○作詞者・なかにし礼
・昭和13年9月、黒竜江省牡丹江市生まれ。67歳。本名中西礼三。
・昭和20年8月11日、(3日前の8月8日、ソ連は対日宣戦布告)牡丹江市(東部満州の拠点として関東軍が基地をおき、日本国内のさまざまな会社が木材加工・化学工業・食品など工場を進出させたため一大工業都市として人口は急増。1945年8月のソ連参戦により沿海州からソ連軍の大軍が攻め寄せ、牡丹江省は最前線となった。関東軍部隊は各地で壊滅、多くの死者を出しながら朝鮮北部方面へ引き揚げ、大量の中国残留日本人孤児が発生した。)を脱出、ハルピンで終戦を迎える。昭和21年10月、父母の故郷、小樽に着く。手宮西小学校2年に編入。
・翌昭和21年春、東京、ついで青森へ転居。
・立教大学卒業。
・はじめシャンソンの訳詞を手がけていたが、石原裕次郎の知遇を得て作詞家となり、阿久悠らと並び戦後日本歌謡曲界の主要な作詞家の一人。膨大な作品を世に出す。「今日でお別れ」「北酒場」「時には娼婦のように」など、ヒット曲も多い。そのひとつに「石狩挽歌」がある。
・作曲者は浜圭介、歌手は北原ミレイ。
・「石狩挽歌」は、この春、8歳のなかにし礼は、兄の政之が増毛でニシン漁を行ったその盛衰を目撃したことは背景にある。著書「兄弟」にその詳細が記されている。
・最近は、小説、エッセー執筆も本格化し、2000年には「長崎ぶらぶら節」で直木賞受賞。

Ⅰ.笠戸丸の船歴
1. 進水
・ 1900(M33)6月、イギリス・イングランド北部のニューカースル・アポン・タイン(「太陽の没することのない」と豪語する大英帝国を支える造船業を中心とする一大工業都市)のスワンハンター・アンド・ウィンガム・リチャードソン造船所で建造。
・ 仕様・・長さ400フィート(120M)、幅50フィート(15M)、
 6023トン、速力14.5ノット、航続距離9000カイリ
2.ロシア船として
①「ポトシ」・・・進水時の船名。「ポトシ」はボリビア南部の都市。標高4100M。人の住む都市としては、世界最高地点。16世紀中頃には、世界で最大の町。スペイン人により発見された銀山セロ・リコで有名。しかし銀の掘削は、強制的に集められたインディオの奴隷により行われた。一説には、800万人が犠牲になったといわれ、「人を食う山」として恐れられた。1987年にセロ・リコ銀山を含め、他の構造物とともに世界遺産に登録される。奴隷制度の象徴として、負の世界遺産にも数えられている。
・所有者・・イギリスのPSNC社(パシフィック・スチーム・ナビゲーション社)。リバプール~バルパライソ間航路に就航する予定だったが輸送需要の急減で売却された。
②「カザン」・・・11万ポンドでロシア義勇艦隊協会(10世紀に創立。この頃は移民船が主事業で、有事の際武装し軍務につく補助船をそろえるねらい。政府が補助し、公団組織が保有)が購入。医療施設の整備など追加工事を行う。1000人収容の病院船に転用することが見込まれていた。つまり、後年、南米移民船となる条件が、最初から備わっていた。ロシアの造船地は、黒海のニコライエフ、バルト海のペテルスブルグだが、同年9月、義勇艦「カザン」として完成。「カザン」は、タタール共和国の首都(トルストイ、ゴーリキーも住んだ美しい古都。)
・オデッサが母港。オデッサ~長崎~ウラジオストック(1万カイリ)航路に投入。数航海後、日露戦争が勃発。
*オデッサ・・黒海に面したウクライナの港湾都市。1905年、日露戦争の最中、オデッサに停泊中の戦艦ポチョムキン号の兵士の反乱は、エイゼンシュタイン監督が無声映画「戦艦ポチョムキン」映画化され、モンタージュ手法を確立した映画として名高い。
③1903(M36)4月、ロシア海軍の作戦計画で商船「カザン」をロシア太平洋艦隊(通称ウラジオ艦隊)の補助船とし、ウラジオストック所属となった。実際は、大連・旅順を租借(日清戦争=1894-1895=M37-38)後の1895(M28)の「三国干渉」)したロシアは、天然の要塞港・旅順を主要基地とした。「カザン」も、旅順に配属された。
・日露開戦・・1904(M37)2月4日、御前会議、対露交渉打ち切り開戦決定。8日、日本陸軍部隊、仁川に上陸、・9日旅順港外のロシア艦船を攻撃。
東港に停泊の「カザン」に砲弾が当たり、船内火災を起こしたものの、堅牢な「カザン」は無事。10日、宣戦布告。13日、駆逐艦「朝霧」が旅順襲撃、港外に停泊中の「カザン」を攻撃、損害を受ける。
・旅順攻防の激化で、傷病兵が急増し、ロシア艦隊の病院船となり、傷病兵の手当てに当たる。
・11月、203高地をめぐり、激しい攻防戦。双方で2万人を超す死者。日本陸軍第7師団(旭川)はわずか5日間で1万5千人ほどの兵力が1千人にまで減ったことでその闘いのすさまじさが伺える。12月5日、日本軍が占拠、山頂から旅順港内のロシア艦船を砲撃し主力艦を次々撃破。
・「カザン」も浸水、浅瀬に乗り上げた。(日本軍に捕獲されるのを避けるための自沈説もある)。
・1905(M38)1月1日、旅順のロシア軍将校ステッセル、乃木希典(のぎ まれすけ)第三軍司令官(大将)に降伏。
・ロシア・バルチック艦隊が日本海をめざしている中で、日本軍、使用可能なロシア艦船を戦力に加えるため、収容を急いだ。病院船「カザン」も収容される。
・5月12日、サルベージが終わり浮上。6月3日、「笠戸丸」と改名。

2.移民船「笠戸丸」として
①1905(M38)6月3日、「笠戸丸」と改名、日本海軍呉鎮守府所属の運兵船となる。呉のドックで修理、15日、陸軍船となり、三井物産との間に将兵の日本帰還輸送契約結ぶ。その後、満州軍復員の任務に就く。

*「笠戸」=瀬戸内海の西、山口県下松(くだまつ)市にある風光明媚な島の名前。地名の由来は、厳島明神が当地に笠を捨て置いたという伝説に由来。一説に、神(じん)功(ぐう)皇后が九州へ西下の途中、この島に一夜の宿を取り、翌朝、あまりの景色の美しさに、宿の戸口に笠をかけられたままご出発したことから、この島を「笠戸」と呼ぶようになったという説、厳島明神が当地に笠を捨て置いたという説も。
なお、同じ字で、昭和16年、戦時建造の甲型海防艦「笠戸」がある。こちらは「かさど」と濁る。昭和20年4月から7月にかけて、小樽港~占守島間を船団の護送にあたり、7月15日の空襲に会う。小樽港で、あるいは、北洋の海で、カニ工船「笠戸丸」と、海防艦「笠戸」は、遭遇していたかもしれない。

②翌1906年、軍徴用解除、海軍省に返還され、東洋汽船に維持使用を委託。8月26日、646人のハワイ移民を乗せて神戸を出航。これが移民船としての初航海。
③1907(M40)1月5日、第4回ペルー移民452人を乗せて神戸港からペルーのカイヤオ港に向け出航。
④6月4日、メキシコ移民276人を乗せてメキシコ・サリナクルズに向け横浜を出航。更に、10月23日294人を積んで、横浜を発つ。
⑤1908(M41)4.23・・第1回ブラジル移民船として移民781人を乗せ神戸出発、サントス(サンパウロの南80キロ。ブラジル最大の貿易港。)へ運ぶ。インド洋、ケープタウン経由で、6月18日、サントス入港。
・移民は、「保証金」と称して、所持金を船会社に預けさられ、返還されなかった。また、ボイラーマンが、責任者を刺し殺す事件など、船内で、ごたごたがあった。
日本でもブラジル日系人社会でも、この日が「移民の日」になっている。「笠戸丸」の名前を不朽のものにした。
・しかし、現地での労働は、過酷なものであった。
ブラジル日系人社会では、第1回移民とその子孫を「笠戸丸移民」と呼んでいる。サントアンドレ市(サンパウロとサントスの中間にある)には、「ルア・カサトマル」という通りもある。
・1回の航海だけで、笠戸丸は、1908(M41).12月、東洋汽船は、笠戸丸を海軍省に返還。

占守島での戦闘

<国会議事録から></大>

第134回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第2号 平成七年十二月六日(水曜日)

○国務大臣(中山正暉君) 北方領土問題というのは、御承知のように、終戦の年、昭和二十年の二月四日から十一日までヤルタ会談というのがございまして、四月十二日にルーズベルトは脳溢血で亡くなっていかれるわけでございますが、お体を大変悪くしておられたルーズベルトとスターリンとの間の話がこれの私は発端だと思っております。
 つまり、中国における日本の作戦行動が大変成功しておりましたので、ルーズベルトは焦りを感じまして、ぜひ日本に対する戦争に参加してほしいということをスターリンに要請したわけでございます。それに対しましてスターリンが要求をした場所というのが、満州それから北朝鮮、樺太、千島列島というような地域であったわけでございます。
 ドイツとの戦争が進んで五月九日に終戦を迎えておりますが、その後、三カ月後に日本との戦争に参加するということをそのときルーズベルトに約束をしておりますが、御承知のように七月十六日に原爆の実験に成功いたしまして、十七日から始まりましたポツダム会議、これはソ連はこのポツダム宣言には現地のポツダムでは署名をしておりません。八月二日でこのポツダム会議は終了するわけでございますが、原爆の投下によって突然に日本が終戦に向かった。
 これはまことに残念なことでございますが、日本の天皇陛下の玉音放送が御承知のように八月十五日の正午にございました。杉野、佐藤両旅団長のもとに八月十八日の午後四時ということで三宅坂の陸軍参謀本部からもう停戦命令が出ておりましたものですから、占守島第九十一師団の堤不夾貴中将はまさかその後に攻撃があると思っていなかったのでございますが、慌てたソ連軍は、戦争が済んで三日目に極東軍司令官のワシレフスキーがカムチャツカ半島にいたグネチコという将軍に対して攻撃命令を天皇の玉音放送の三時間後に発しております。
 それで、八千六百名の兵士、三十隻の上陸用舟艇、それから二十四隻の護衛艦、八十機の飛行機、これで突然攻撃を開始して、その島は八月十八日から九月三日、日本の終戦記念日は八月十五日でございますが、アメリカの日本に対する戦勝記念日は九月二日、ソ連の日本に対する戦勝記念日は九月三日となっております。
 終戦記念日とアメリカとロシアの戦勝記念日の間に半月の差があるのは、私はこれが大変な北方領土問題の根底を示すものだと思っておりますが、実は八月十六日に発せられた日本の占領行政命令第一号の中に、ルーズベルトがスターリンに約束した四つの場所の中で一つだけが欠けておりました。それが北方領土であったわけでございます。
 ロシアは千島列島に対する要求を突きつけてまいりまして、半月の間に次の大統領になりましたトルーマンとスターリンの間に書簡のやりとりがあって、ついにアリューシャン列島の中に一つソ連軍の基地を確保する、千島列島の中に米軍の基地を確保するということを条件に折り合ったのが事実上の戦勝記念日になったということでございます。

樺太開拓使

<樺太開拓使> 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

樺太開拓使は、明治3年2月13日から明治4年8月7日まで、樺太開拓のために設けられた官庁である。開拓使から分離して設置されたが、一年余りで廃止して元に戻った。

樺太は江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約で日露雑居の地とされ、王政復古の後は箱館裁判所と箱館府の支配を経て、開拓使の管轄となった。裁判所時代から現地の行政は岡本監輔が執り、明治元年と2年から移住した日本人入植者約五百人を指導していた。岡本は、樺太移住者に無税の条件と当面の食糧供給などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
この間ロシア側の移住と開発の速度は日本側を上回り、さらに日本人との紛争が頻発した。これには、現地の岡本が日露和親条約の効力を否定し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発を原則拒否する態度をとっていたことにも原因があった。岡本の考えは、日露和親条約は条約締結権のない徳川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改めて国境を決定しなければならないというものだった。この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識に立つ日本政府と異なるものであった。
岡本は事態の緊急性を告げるべく上京した。政府は報告に危機感を抱き、明治3年2月13日に樺太の所管を開拓使から分離して樺太開拓使を設置した。独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所を樺太開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。ついで5月9日に、黒田清隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命し、樺太専務とした。黒田は樺太視察に赴き、8月に現地に到着した。黒田は日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。岡本はこの年閏10月に辞職した。
東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれば三年しかもたないという建議を出し、北方開拓を本格化する必要を説いた。これが、開拓使十年計画という予算計画を産むことになった。十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太の状況は基本的に変わらなかった。樺太にはこれ以後高官が派遣されることも任命されることもなく、樺太開拓使は明治4年8月7日に廃止された。

一方、開拓使は、北方開拓のために明治2年7月8日から明治15年2月8日まで置かれた官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年 (1870年) 2月13日から明治4年 (1871年) 8月7日までは、北海道開拓使と称した。
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