3.豪華客船になった「笠戸丸」
・1909(M42)大坂商船(日本郵船と並ぶ海運界の雄)が「笠戸丸」を台湾航路に使用するため借用。客船として大改造される。大ホール、柱、壁、調度品に立派な彫刻が施された。
・日清戦争後、日本は、台湾を領有、台湾航路開発を競う。笠戸丸は、1910(M43)4月、神戸~キールン間に就航。日本郵船も、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。翌1911(M45)大坂商船は、笠戸丸を海軍省から購入。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・2度目のブラジル行き・・第一次世界大戦(1914=T3)の勃発で、日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴びる。大坂商船は、笠戸丸を投入、1916年(T5)12月神戸出港。ドイツ潜水艦の目を避けるため迷彩を施す。商船として始めて笠戸丸がブエノスアイリスに入港。
・帰国後、再び台湾航路に就く。
○1927(S2)、病院船として揚子江へ
・同年5月、田中義一内閣、山東出兵を決める。7~9月、笠戸丸は、揚子江へ3度出動、上海~南京~漢口まで遡る。
・同年10月、インド・カルカッタ航路第1船となり、神戸を出港。
4.工船、そして軍徴用船になった笠戸丸
・造船技術の進歩のなかで、海運業者は、優秀船舶の建造をはじめ、明治期の客船は引退の時期を迎えた。
・いわし工船・・・1930(S5)、東洋興行に売却。同社は、いわしの工船漁業に乗り出し、笠戸丸を購入。笠戸丸は「商船」として終止符を打つ。
笠戸丸を母船とする、いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場とした。いわし工船漁業は、不漁のため、翌1931(S6)年に中止となる。
・1932(S7)、新興水産に移籍、笠戸丸は、ミール工船としてアラスカ沖で働く(太平洋漁業は、信濃丸をミール工船漁業に起用)
・翌1933(S8)も笠戸丸と信濃丸がミール工船としてアラスカ沖に出漁し競い合った。
・カニ工船・・工船カニ漁業を取り仕切った日本水産。笠戸丸は、1938(S13)、日本水産所有の最大の工船となり、西カムチャッカへ出漁。
*サケマス工船の信濃丸とカニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・1941(S16)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船として徴用される。
・1944(S19)7月3日、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、5日、小樽出港、目的地は北千島ホロムシロ島・柏原湾。笠戸丸は、その後、カムチャッカのサケマス漁場の工場へ漁夫、女工300人の輸送にあたる。途中、船団の護衛艦・「薄雲」、魚雷を受け轟沈。陸軍徴用船の「太平丸」も沈む。笠戸丸は、無事、西カムチャッカの漁場に着く。
・1945(S20)4月、中国・大連から塩を運搬中、日本海で潜水艦の攻撃を受け被弾。
○1944(S19)千島、北海道近海で撃沈された軍艦、輸送船
・輸送船「日蓮丸」、駆逐艦「白雲」・・3月16日、厚岸沖、死者3000余名
・輸送船「伏見丸」・・5月3日、ウルップ島沖、死者594名
・輸送船「まどらす丸」・・中部千島・マツワ島沖、死者139名
・輸送船「高島丸」・・6月13日、北千島アライド島沖、死者45名。高島丸稚泊航路(稚内~大泊)の豪華客船だったが、軍に徴用され、千島航路に就航、「花の輸送船」といわれた。
・輸送船「大平丸」・・7月9日、北千島アライド島沖、死者956名。
・日魯漁業でも「神武丸」「正気丸」が沈没した。
○1945年の出漁と日魯の対応
・平塚常次郎社長は出漁中止の意向だったが、政府は「今やソ連は外国との唯一のパイプである。そのつながりを維持するためにも是非出漁すべし」と閣議決定した。
・当初、信濃丸を本部線として、6隻で船団を組む計画。
・7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、山東丸が銃撃を受け出漁不能となる。
○北海道空襲(北海道・東北空襲)
・7月14日~15日、ホルジ海軍大将率いるアメリカ海軍第3艦隊が八戸沖東方海上から北海道・東北を攻撃、小樽攻撃は15日、笠戸丸、船首に被弾するも無事。
・7月25日、第2龍寶丸(2230トン)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽出港
・8月1日、西カムチャッカ・ウトカ沖に到着。
・8日、積荷作業完了(新巻2100函、缶詰2300函、塩蔵マス550トンなど)
この日、ソ連、対日宣戦布告。
・9日、午前、乗船者に下船命令。午後1時55分、ソ連戦闘機攻撃開始、夕刻、沈没。
○8月16日、ソ連軍カムチャッカのロパトカ岬(細川かたしが「北緯50度」で歌う)
から占守島を砲撃、18日、ソ連が占守島の北岸「武田浜」に奇襲上陸、日本守備隊との壮絶な戦闘が展開された。第91師団長・堤不夾貴(ふさき)中将は終戦後にも関わらず戦闘命令を発令。戦いは熾烈を極めた。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回り、一説によれば8月20日の停戦までに軍の戦死者八百余名、ソ連の戦死者三千余名とも言われている。23日になってやっと局地停戦協定が結ばれ戦闘が終わった。
ソ連、9月1日、全千島の占領完了。
・北洋での漁業者の犠牲・・カムチャッカで600人以上、北千島で1500人、樺太で150人以上がソ連軍に抑留された。明治6年の千島・樺太交換条約以来、70年に亘って日本漁民の地と汗で営々として築いた北洋漁業は、一旦終止符を打った。再開は、戦後・昭和27年まで待たねばならない。
<信濃丸>(6388トン)
・日本も、航海奨励法、造船奨励法(1896年)で、海運、造船の整備拡充を図った。
・1900年(M33)、イギリス・グラスゴーで進水。国策会社・日本郵船が発注。欧州航路の定期客船となる。
1093(M36)アメリカ航路に転じる。永井荷風が信濃丸でアメリカに渡る。「あめりか物語」を書く。
・日本海海戦で有名・・・信濃丸(日露戦争時は、徴用され巡洋艦となる)1905年5月27日午前3時、信濃丸はロシア艦隊の病院船「アリヨール」号(1899年、「カザン」と同様に、ニューキャスルで建造された)を発見、「敵艦見ゆ」を聯合艦隊旗艦・「三笠」に打電。パルチック艦隊発見の第1報。連合艦隊、大本営に「天気晴朗なれども波高し」を打電。
・午後2時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚を図ったエピソードが有名。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」が告げられた。
28日、日本側の完勝のうちに終わる。
・戦後の1906年、再び、北米シアトル航路に就く。
・1910(M43)、日本郵船は、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・1929(S4)、北進汽船に売却
・1930(S5)、日魯漁業へ売却、
・1932(S7)、太平洋漁業へ売却、アラスカ沖のミール工船となる。後、サケマス工船となる。
・1938(S13)サケマス工船となり、カニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・太平洋戦争中、南太平洋で輸送船となって働く。
・1945年7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、銃撃を受け出漁不能となる
・戦後、大陸からの引揚げ船として働き続ける。
・1950(S25)4月20日、ソ連からの集団引揚船の最終船として抑留されていた1244名を乗せてナホトカから舞鶴に入港。
・1951年(S26)、スクラップ。
Ⅱ.「石狩挽歌」に見るニシン漁
① ニシン漁の歴史・・その盛衰
② 歌詞に沿って・・「海猫」(ごめ)、「筒っぽ」、「ヤン衆」、「番屋」、「問い刺し網」、「にしん曇り」
【参考文献】
・「兄弟」(なかにし礼著、文藝春秋、1998)
・「船にみる日本人移民史」(山田廸生著、中公新書、1998)
・「航跡 ロシア船笠戸丸」(藤崎康夫著 時事通信社、1978)
・「日魯漁業経営史」(岡本信男編、水産社、1971)
・「戦時輸送船団史」(駒宮新七郎著、出版協同社 1987)
・「鰊場物語」(内田五郎著、北海道新聞社、1978)
・1909(M42)大坂商船(日本郵船と並ぶ海運界の雄)が「笠戸丸」を台湾航路に使用するため借用。客船として大改造される。大ホール、柱、壁、調度品に立派な彫刻が施された。
・日清戦争後、日本は、台湾を領有、台湾航路開発を競う。笠戸丸は、1910(M43)4月、神戸~キールン間に就航。日本郵船も、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。翌1911(M45)大坂商船は、笠戸丸を海軍省から購入。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・2度目のブラジル行き・・第一次世界大戦(1914=T3)の勃発で、日本~ブラジル、アルゼンチンの南米東海岸航路が脚光を浴びる。大坂商船は、笠戸丸を投入、1916年(T5)12月神戸出港。ドイツ潜水艦の目を避けるため迷彩を施す。商船として始めて笠戸丸がブエノスアイリスに入港。
・帰国後、再び台湾航路に就く。
○1927(S2)、病院船として揚子江へ
・同年5月、田中義一内閣、山東出兵を決める。7~9月、笠戸丸は、揚子江へ3度出動、上海~南京~漢口まで遡る。
・同年10月、インド・カルカッタ航路第1船となり、神戸を出港。
4.工船、そして軍徴用船になった笠戸丸
・造船技術の進歩のなかで、海運業者は、優秀船舶の建造をはじめ、明治期の客船は引退の時期を迎えた。
・いわし工船・・・1930(S5)、東洋興行に売却。同社は、いわしの工船漁業に乗り出し、笠戸丸を購入。笠戸丸は「商船」として終止符を打つ。
笠戸丸を母船とする、いわし漁船団は、北朝鮮からウラジオストック沖までの日本海を漁場とした。いわし工船漁業は、不漁のため、翌1931(S6)年に中止となる。
・1932(S7)、新興水産に移籍、笠戸丸は、ミール工船としてアラスカ沖で働く(太平洋漁業は、信濃丸をミール工船漁業に起用)
・翌1933(S8)も笠戸丸と信濃丸がミール工船としてアラスカ沖に出漁し競い合った。
・カニ工船・・工船カニ漁業を取り仕切った日本水産。笠戸丸は、1938(S13)、日本水産所有の最大の工船となり、西カムチャッカへ出漁。
*サケマス工船の信濃丸とカニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・1941(S16)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船として徴用される。
・1944(S19)7月3日、小樽海軍武官府で、「キ504船団」が編成され、5日、小樽出港、目的地は北千島ホロムシロ島・柏原湾。笠戸丸は、その後、カムチャッカのサケマス漁場の工場へ漁夫、女工300人の輸送にあたる。途中、船団の護衛艦・「薄雲」、魚雷を受け轟沈。陸軍徴用船の「太平丸」も沈む。笠戸丸は、無事、西カムチャッカの漁場に着く。
・1945(S20)4月、中国・大連から塩を運搬中、日本海で潜水艦の攻撃を受け被弾。
○1944(S19)千島、北海道近海で撃沈された軍艦、輸送船
・輸送船「日蓮丸」、駆逐艦「白雲」・・3月16日、厚岸沖、死者3000余名
・輸送船「伏見丸」・・5月3日、ウルップ島沖、死者594名
・輸送船「まどらす丸」・・中部千島・マツワ島沖、死者139名
・輸送船「高島丸」・・6月13日、北千島アライド島沖、死者45名。高島丸稚泊航路(稚内~大泊)の豪華客船だったが、軍に徴用され、千島航路に就航、「花の輸送船」といわれた。
・輸送船「大平丸」・・7月9日、北千島アライド島沖、死者956名。
・日魯漁業でも「神武丸」「正気丸」が沈没した。
○1945年の出漁と日魯の対応
・平塚常次郎社長は出漁中止の意向だったが、政府は「今やソ連は外国との唯一のパイプである。そのつながりを維持するためにも是非出漁すべし」と閣議決定した。
・当初、信濃丸を本部線として、6隻で船団を組む計画。
・7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、山東丸が銃撃を受け出漁不能となる。
○北海道空襲(北海道・東北空襲)
・7月14日~15日、ホルジ海軍大将率いるアメリカ海軍第3艦隊が八戸沖東方海上から北海道・東北を攻撃、小樽攻撃は15日、笠戸丸、船首に被弾するも無事。
・7月25日、第2龍寶丸(2230トン)とともに、海防艦2隻に護衛され、小樽出港
・8月1日、西カムチャッカ・ウトカ沖に到着。
・8日、積荷作業完了(新巻2100函、缶詰2300函、塩蔵マス550トンなど)
この日、ソ連、対日宣戦布告。
・9日、午前、乗船者に下船命令。午後1時55分、ソ連戦闘機攻撃開始、夕刻、沈没。
○8月16日、ソ連軍カムチャッカのロパトカ岬(細川かたしが「北緯50度」で歌う)
から占守島を砲撃、18日、ソ連が占守島の北岸「武田浜」に奇襲上陸、日本守備隊との壮絶な戦闘が展開された。第91師団長・堤不夾貴(ふさき)中将は終戦後にも関わらず戦闘命令を発令。戦いは熾烈を極めた。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回り、一説によれば8月20日の停戦までに軍の戦死者八百余名、ソ連の戦死者三千余名とも言われている。23日になってやっと局地停戦協定が結ばれ戦闘が終わった。
ソ連、9月1日、全千島の占領完了。
・北洋での漁業者の犠牲・・カムチャッカで600人以上、北千島で1500人、樺太で150人以上がソ連軍に抑留された。明治6年の千島・樺太交換条約以来、70年に亘って日本漁民の地と汗で営々として築いた北洋漁業は、一旦終止符を打った。再開は、戦後・昭和27年まで待たねばならない。
<信濃丸>(6388トン)
・日本も、航海奨励法、造船奨励法(1896年)で、海運、造船の整備拡充を図った。
・1900年(M33)、イギリス・グラスゴーで進水。国策会社・日本郵船が発注。欧州航路の定期客船となる。
1093(M36)アメリカ航路に転じる。永井荷風が信濃丸でアメリカに渡る。「あめりか物語」を書く。
・日本海海戦で有名・・・信濃丸(日露戦争時は、徴用され巡洋艦となる)1905年5月27日午前3時、信濃丸はロシア艦隊の病院船「アリヨール」号(1899年、「カザン」と同様に、ニューキャスルで建造された)を発見、「敵艦見ゆ」を聯合艦隊旗艦・「三笠」に打電。パルチック艦隊発見の第1報。連合艦隊、大本営に「天気晴朗なれども波高し」を打電。
・午後2時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の座乗する旗艦三笠がZ旗を掲揚して全艦隊の士気の高揚を図ったエピソードが有名。「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」が告げられた。
28日、日本側の完勝のうちに終わる。
・戦後の1906年、再び、北米シアトル航路に就く。
・1910(M43)、日本郵船は、信濃丸を神戸~キールン航路に転ずる。
・二大海運会社の代表する豪華客船、笠戸丸と信濃丸は、台湾航路を競い合った。
・1929(S4)、北進汽船に売却
・1930(S5)、日魯漁業へ売却、
・1932(S7)、太平洋漁業へ売却、アラスカ沖のミール工船となる。後、サケマス工船となる。
・1938(S13)サケマス工船となり、カニ工船の笠戸丸はともに、大型母船として北洋で活躍する。
・太平洋戦争中、南太平洋で輸送船となって働く。
・1945年7月15日、北海道空襲、小樽港で信濃丸、銃撃を受け出漁不能となる
・戦後、大陸からの引揚げ船として働き続ける。
・1950(S25)4月20日、ソ連からの集団引揚船の最終船として抑留されていた1244名を乗せてナホトカから舞鶴に入港。
・1951年(S26)、スクラップ。
Ⅱ.「石狩挽歌」に見るニシン漁
① ニシン漁の歴史・・その盛衰
② 歌詞に沿って・・「海猫」(ごめ)、「筒っぽ」、「ヤン衆」、「番屋」、「問い刺し網」、「にしん曇り」
【参考文献】
・「兄弟」(なかにし礼著、文藝春秋、1998)
・「船にみる日本人移民史」(山田廸生著、中公新書、1998)
・「航跡 ロシア船笠戸丸」(藤崎康夫著 時事通信社、1978)
・「日魯漁業経営史」(岡本信男編、水産社、1971)
・「戦時輸送船団史」(駒宮新七郎著、出版協同社 1987)
・「鰊場物語」(内田五郎著、北海道新聞社、1978)