森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2006年09月

蝦夷地上知に際しての松前藩への処置

◎文化4年(1807)3月22日、松前藩主・松前章広へ松前西蝦夷地一円の上知が命じられた。
その達しの中に「先達而東蝦夷地上地被仰出、従公儀御処置被仰付候」とあるが、その「処置」と、あわせて、以後の松前西蝦夷地上知、復領、再直轄の際の「処置」を概括する。

1.東蝦夷地上知
寛政11(1799).1.16・・幕府、東蝦夷地(ウラカワより知床及び東奥島々まで)を当分(7ケ年)、試みに仮上知する旨、松前藩に通達。
○同年6月・・松前藩、シリウチ川以東ウラカワまでの追上知と、仮上知の替地を内願。
○同年.8.12・・幕府、シリウチ川以東の追上知を認める。
○同年.9.28・・幕府、代地500石の地として武蔵埼玉郡のうち、12ケ村を下知する旨を松前藩に達す。以後、享和2(1802)7月まで約3か年間、飛地として領有。
<武蔵埼玉郡のうち12ケ村>
・中(なか)閏(うるい)戸(ど)村、根(ね)金(がね)村、根金村新田(現埼玉県蓮田市のうち)
・小久喜(こぐき)村、小久喜村新田、実(さね)ケ(が)谷(や)村(現埼玉県白岡町のうち)
・久喜(くき)村、所(ところ)久喜村、下清久(しもきよく)村、上早見(かみはやみ)村、下(しも)早見村、樋口(ひぐち)村(現埼玉県久喜市のうち)

○享和2(1802).2.23・・幕府、蝦夷地奉行を新設。
○同年.5.10・・幕府、蝦夷地奉行を箱館奉行と改称。
○同年.7.24・・幕府、東蝦夷地の仮上知を改め永上知とする旨、松前藩に申渡す。仮上知の代価として、年々3500両ずつ下付し、仮上知の代価として支給してきた武蔵埼玉郡のうち12ケ村の所務を廃止。

2.松前西蝦夷地一円の上地
文化4(1807).3.22・・幕府、松前・西蝦夷地一円を召上げる。これにより、松前・蝦夷地の全部が幕領になる。
・松前氏の移封・・文化4年7月27日、新領地が示された。
<新領地>
・陸奥伊達郡内[代官竹内平右衛門支配下]梁川村(現福島県伊達市梁川町)、泉沢村、金原田村(現福島県伊達市保原町金原田)の3ケ村5048石余
・陸奥伊達郡内[代官岡源右衛門支配下]大門村(現福島県伊達市梁川町字大関大門)、大久保村(現福島県伊達市飯野町字大久保)、西五十(いさ)沢(ざわ)村(現福島県伊達市梁川町字五十沢)3ケ村3954石余・・・合計9002石余
奥州伊達郡梁川(現福島県伊達郡梁川町)9000石に移封。
<飛び地>
・常陸国信太(しだ)郡・鹿島郡[代官岡田清助支配下]4373石余
・同国河内(こうち)郡[代官萩野弥五兵衛支配下]323石余
・上野国甘楽(かんら)郡[代官吉川栄左衛門支配下]3626石余
・同国群馬郡[代官吉川栄左衛門支配下]1300石余
<合計>
総領知高 18,626石余

3.松前藩復領
○文政4(1821).12.7・・幕府、蝦夷全島を松前氏に還与する。

4.幕府再直轄
○嘉永7(1854).6.26・・幕府、箱館および同所より6里四方を上知。
○同年.6.30・・幕府、箱館奉行を置く。
○安政2(1855).2.22・・幕府、松前藩に東部木古内村以東、西部乙部村以北の全蝦夷地を上知させ、箱館奉行の管轄とする。
・松前藩、奥州伊達郡梁川、出羽国村山郡東根(現山形県東根市)合わせて3万石を与えられた。また、出羽国村山郡尾花沢1万4000石を込高として預り地となった。

5.松前地の一部返還
○元治元年(1865)7月7日・・松前崇広(たかひろ)(松前藩12代藩主)、老中格陸海軍総奉行に就任、同年11月10日、老中となった。同年11月19日、乙部~熊石の8ケ村が返還された。

カラフト場所の請負人と運上屋・番屋等(年表)

◎江戸期の文書には、松前藩及び場所請負人の現地の建物・施設のことを、「運上屋」、「番屋」、更に、幕府直轄時代には「会所」、「勤番所」ともよばれた。別に「陣屋」が置かれた時期もあった。以下、その略年表を記す。
◎文化3年(1806)9月11日のロシア人樺太襲撃時は、樺太は松前藩が直営していた。
◎カラフト場所の勤務実態
「寛政の始にいたり、運上屋体の家居も補理ひ、軽き家来も少々渡し、漁業其外処置するといへども、只首夏(しゅか=夏の初め。初夏)より初秋までの事にて、家来は引取、番人体の町人三四人ヅツ爰かしこの運上屋に越年するまで也。然るに文化三寅年九月十一日・・此時は例のごとく松前氏の家来は引取たる跡也」(「休明光記」巻之七)

○寛政2年(1790)・・樺太調査を命じられた松前藩士の高橋荘四郎、鈴木熊蔵、松前平角ら番屋をシラヌシ、荷物小屋をトンナイ、クシュンコタンに設置。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。しかし、寛政8年(1796)3月、松前藩の叱りを蒙り差配場所(ソウヤ、シャリ、カラフト)を引上げられる(大阪商人小山屋権兵衛の手代が8代藩主・松前道広の妾の兄の板垣豊四郎と結んで道広に取り入り、伝兵衛差配の良場所を獲得するため謀計をめぐらし伝兵衛を陥れたという)
○寛政8年(1796)・・大坂商人小山屋権兵衛、松前藩士板垣豊四郎、カラフト場所を請負う。
○寛政9年(1797)・・板垣豊四郎、単独でカラフト場所を請負う(資本は栖原角兵衛)
○寛政12年(1800)・・松前藩、カラフトを直営(藩士・高橋荘四郎、目谷安次郎管理し、摂州兵庫津の商人柴谷長太夫差配す)
○文化4年(1807)・・柴谷長太夫、カラフト場所を請負う。
○文化6年(1809)
・幕府、シラヌシ、クシュンコタンに「勤番所」を置く。
・6月、幕府、カラフト島を「北蝦夷地」と唱えるべき旨、達する。
・伊達林右衛門、栖原三右衛門、カラフト場所請負人となる。両氏共同商会を「北帳場」と称する。以後、明治8年(1875)まで継続。
・津軽藩、この年以降文化11年(1814)まで、カラフト警備を命じられる。夏季にクシュンコタン、ルータカ、シラヌシに陣屋を置く。(本陣は増毛)
○文政4年(1821)・・幕府、蝦夷地を松前藩に返還、松前藩、夏季のみ、シラヌシ、クシュンコタンに勤番所を置く。
○安政3年(1856)・・越後の大庄屋・松川弁之助、カラフト奥地漁場開発を出願、幕府、北蝦夷地知床・ノタサン以北を直捌地とし、松川弁之助を差配人とし、漁場の開発、産物取開きなどを命じる。
○安政4年(1857)・・越後の鳥井権之助、カラフト奥地差配人を命じられる。
○安政5年(1858)
・箱館奉行、鳥井権之助に加え新たに越後・水原村の佐藤忠蔵、同・中村浜の佐藤広右衛門に北蝦夷地直捌差配人を命じる。
・越前大野藩、カラフト西岸ライチシカより北ホロコタンまでの間に土農を移すこと、ウショロに「元会所」設置を許可される。
・山田文右衛門(サル・ユウフツの場所請負人)、カラフト直捌場所出願、許可される。
・箱館奉行調役荒井金助指揮により、並城六郎、クシュンナイに漁場を開設。
・箱館奉行定役小田井蔵太、東岸シスカ川漁場開発許可される。
○文久2年(1862)・・この年のカラフト勤番所、クシュンコタン、シラヌシ、西トンナイ、ワーレ、クシュンナイの5ケ所
・安房・勝山藩、藩士渡辺隆之助をカラフトに派遣、シスカに漁場を開設。
○元治元年(1864)・幕府、カラフト直捌場所差配人に、伊達林右衛門、志原半六に命じる。
○慶応3年(1867)・・箱館奉行、カラフト場所請負人廃止。出稼ぎ希望者を許可する旨通達。
○慶応4年(1868)・・新政府の箱館裁判所・権判事岡本監輔、農工民200人余を率い久春古丹(クシュンコタン)に赴任、公議所を設立。

[参考文献]
・「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・発行、1995)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター発行、1979)

・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道編発行、1936)

江戸城「波の間」~松前藩主への老中達しの座敷~

◎はじめに
文化4年(1807)3月22日、江戸城本丸「波の間」において、松前藩主・松前若狭守章広(あきひろ)に対し、老中列座のなか、老中・松平伊豆守信明(のぶあきら=三河・吉田藩主=)より、松前西蝦夷地一円の上知が達せられた。その江戸城本丸の「波の間」と松前家の関係について考察する。

1. 江戸城本丸の建設、炎上、再建
まず、江戸城本丸の建築、炎上、再建について触れる。
① 慶長11年(1606)3月・・本丸構築
② 寛永14年(1637)8月・・本丸改築の竣工
③ 寛永16年(1639)8月・・本丸焼失(1回目)
④ 寛永17年(1640)4月・・本丸再建(第1次再建)
⑤ 明暦3年(1657)1月・・いわゆる「振袖大火」で天守閣、本丸、二の丸、三の丸まで炎上(以後、天守閣は再建されていない)(2回目)
⑥ 万治2年(1659)8月・・本丸再建(第2次再建)
⑦ 天保15年(1844)5月・・本丸炎上(3回目)
⑧ 弘化2年(1845)2月・・本丸修築終わる(第3次再建)
⑨ 安政6年(1859)10月・・本丸炎上(4回目)
⑩ 万延元年(1860)・・本丸再建(第4次再建)
⑪ 文久3年(1863)6月・・江戸大火で本丸、西の丸類焼し、全焼(5回目)西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、本丸は、再建されなかった。
・以上のように、本丸は5回炎上し、4回再建されている。

2. 「波の間」の概要
・位置・・白書院の西側、黒書院へ渡る「竹の廊下」の手前にあった。
・広さ・・22畳半(2間半×4間半)
・座敷障壁画と筆者・・絵画は「波千鳥」。
作者・・各座敷の絵画は、当然ながら、再建の都度、筆者は異なるが、「史料徳川幕府の制度」付録の「御本丸御殿各御座敷絵画竝ニ筆者」(以下「座敷絵画」)には、奥絵師(注1)・木挽町狩野派(注2)の養朴(注3)、同じく鍛冶橋狩野派(注4)の狩野探原(注5)の2名の名前がある。
 「狩野探原」は、前期「座敷絵画」によると、「弘化二乙己年御普請出来之節筆者」とあるから、彼が、本丸第4次再建後の「波の間」に「波千鳥」を描いたことになる。
 養朴が木挽町狩野を継いだのは、慶安3年(1650)だから、養朴が「波千鳥」を描いたのは第2次再建=万治2年(1659)=以降だろう。

3. 松前家の格付け
 松前家の対幕府関係での格付けには変遷があるが、享保4年(1719)には、幕府より月次礼席(注6)は、「万石以上」の指示を受けた。松前家はここに至って初めて正式に1万石格の「大名」となった。
「文化武鑑」の文化3年(1806)の項には松前藩は大名の最末尾に掲げられ、石高・領地については「無高 蝦夷松前一円従先祖代々領之」とある。なお、松前家の将軍お目見えの月次礼席の格は、「大広間」(注7)、城中の詰め間は、「柳の間」(注8)だった。

4. 老中達しがあった「波の間」
 老中から松前家に「波の間」で達しがあったのは、これが初めてではない。「松前年々記」に記されている「波の間」での老中達しの例を挙げてみる。
①元文6年(1716)2月11日の項に「傅吉(注9)同道登城、波之間ニテ願之通松前三郎兵衛(注10)三男傳吉養子被仰付、御老中列座久世大和守(注11)被仰渡」とあり、老中からの達しが「波の間」で行われている。
 この背景を述べると、松前藩6代藩主・矩広(のりひろ)には3人の男子がいたが、長男竹三郎と、3男卓之助は早世し、この年、元文6年(1716)正月13日、次男の橘太郎(きつたろう)富広も江戸で病死する。世継ぎがいなくなった松前家では、急遽、傅吉を養子に迎え嗣子とすることを幕府へ届け、この日、老中達しとなった。
②享保6年(1721)7月11日の項に「於波之間御老中列座井上河内守被申渡、志摩守跡式被下之仕置トウ之義志摩守時之様可仕旨被仰渡候」とある。前年の享保5年(1720)の暮12月21日、松前藩6代藩主・矩広が松前で死去、跡目相続願のため、嗣子の傅吉は翌享保6年(1721)6月15日松前出船、7月8日江戸着、同11日に登城し、前記のように「波の間」で、「跡式」安堵が老中より申し渡された。10月には従五位下・志摩守に叙任された。

◎結論
松前藩に対する、江戸城での「老中達し」は、「波の間」で行われたと推測する。
なお、「松前年々記」には、「祝儀献上」は「桧の間」で行われている。
 「松前年々記」に見る江戸城における松前家の応対座敷は
・将軍お目見え・月次礼席は、「大広間」
・老中達しは「波の間」
・祝儀献上は「桧の間」
であった。
 このような座敷扱いは、松前家だけのものなのか、松前家と同じ「柳の間」詰めの「従4位以下の外様大名」がすべて同様の扱いだったかどうかは、今後の研究課題としたい。

(注1)「奥絵師」・・江戸幕府御用絵師を「表絵師」というが、「奥絵師」は、その中でももっとも格式が高い職位。狩野探幽に始まる「鍜治橋狩野」、狩野尚信の「木挽町狩野」、狩野安信の「中橋狩野」狩野尚信の「浜町狩野」の四家を「表絵師」と区別して「奥絵師四家」と呼んだ。
(注3)「木挽町狩野派」・・奥絵師四家のひとつ。狩野尚信を祖とし、安永6年(1777)狩野典信(みちのぶ)が田沼意次から木挽町に土地を得て移転してから、この名で呼ばれるようになった。
(注3)「養朴」・・画家・狩野常信(寛永13.3.13-正徳3.1.27=1636-1713)の号。奥絵師四家(注2)の一つ、木挽町狩野(注3)の始祖・狩野尚信の長男として京都に生まれる。慶安3年(1650)父の後を継ぎ、内裏(だいり)障壁画制作に参加。の画家。養朴の名は「殿上の間」「黒書院・松溜」「連歌の間」にも見える。
(注4)「鍛冶橋狩野派」・・狩野探幽が元和3年(1617)徳川幕府より鍛冶橋門外に屋敷を拝領したことに始まる。
(注5)「狩野探原」・・狩野探淵の子。
(注6)「月次礼席」・・毎月の朔日、15日の将軍お目見・儀式。「朔望の礼」ともいう。ただし、正月、1,4、7、12月は28日も登城した。格によって、お目見・儀式の際の座敷、順序が定められていた。
(注7)「大広間」・・玄関を入って左にある。上段、中段、下段の各間と、1から4の間まであり、溜、縁を含め490畳半あり、江戸城でもっとも広い座敷。
(注8)「柳の間」・・「大広間」の奥。庭を挟んで「松の廊下」の向い。「御次」と2間あり、いずれも48畳。従4位以下の外様大名の詰の間。松前章広は、「従5位下」。礼席は、主として外様大名の席。
(注9)「傅吉」・・松前藩7代藩主・松前邦広の幼名。
(注10)「松前三郎兵衛」・・幕臣・松前三郎兵衛本広。500石。小姓組から書院番。本広系江戸松前家の祖。祖父は松前初代藩主・慶広(よしひろ)の2男の忠広(幕臣となり、慶長20年(1615)、大坂夏の陣で奮戦し1000石加増の2000石となった。忠広系江戸松前家の祖)。
(注11)「久世大和守」・・久世重之。大名。幕臣。重之一代のときに関宿藩から備中・庭瀬ついで丹波・亀山さらに三河・吉田へとめまぐるしく転封をつづけ、宝永2年(1705)再び関宿に復帰する。本論の元文6年(1716)2月11日当時は、三河・吉田藩主。正徳3年(1713)~享保5年(1720)まで老中。

<参考文献>
・「史料徳川幕府の制度」(小野清著、高柳金芳校訂、人物往来社、1968)
・「休明光記」(「新撰北海道史第5巻史料1」所収、北海道、1936)
・「松前年々記」(「松前町史史料編第1巻」所収、松前町、1974)
・「松前町史通説編第1巻上」(松前町史編集室編、松前町、1984)
・「文化武鑑1」(石井良助監修、柏書房、1981)
記事検索
プロフィール

drecom_moriyuzi

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ