森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2006年10月

斗南藩の北海道分領

◎兵部省は「会津降伏人」を北海道各地へ移住開拓させることとし、明治3~4年にかけ、入植した。

◎入植戸数・人数(「瀬棚町史」参照)
・瀬棚郡瀬棚村(現せたな町本町。明治4年5月、字名が「会津町」となった。)・・13戸43名
・山越郡山越内村(現八雲町字浜松町)・・7戸18名
・同郡長万部村(現長万部町)・・入植記録があるも詳細は不明
・歌棄郡作開村(現黒松内町字作開)・・28戸135名
・太櫓郡太櫓村(現せたな町北桧山町字太櫓)・・不明

◎瀬棚入植者の窮状
・転職、離農が相次ぎ、明治18年の「戸籍帳」に「農」と記されている者は2戸のみで、分解、没落の激しさを物語っている。

北海道の分領支配

◎明治2年7月22日~明治4年8月20日の北海道の分領支配について「新北海道史」より要約する。

1. 分領支配にいたる経過
・明治2年(1869)7月2日、開拓使設置。
・同年7月22日、太政官、蝦夷地開拓のため、諸藩・士族・庶民の志願により相応の地所割渡(わりわたし)すべき旨を布告。
その理由・・新政府にとって北地開拓は重要課題であり、そのために開拓使という直轄機関を設置したとしても、発足したばかりの新政府にとって、全面的に政府の手によって開拓を推進することは不可能
2. 支配の条件
・分領支配は、北海道開拓を統括する開拓使が存在しながら、他方で各藩・士族などに土地を分与し、支配を命じることは矛盾したあり方。いわば旧幕藩体制の縮小再生版という形態に見える。
新政府(開拓使)は、権力浸透のために腐心(①支配地の指定、変更などに、介入。②開発経費などは藩の負担。③司法権の政府掌握。など・・)
3.土地割渡しの実況と方針
・最初の出願は、明治2年(1869)8月7日、水戸藩知事徳川昭武。天塩国苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と、北見国利尻郡5郡の支配を命じられた。
以後、分領支配が展開する。
○同年8月、まず、開拓使と兵部省の直轄地を選定(主に北海道統括の拠点地域)
① 開拓使直轄地・・石狩国札幌郡・厚田郡・浜益郡の3郡、後志国寿都郡・歌棄郡・岩内郡・積丹郡・美国郡・古平郡・余市郡・忍路郡の8郡、渡島国亀田郡・茅部郡・上磯郡の3郡、日高国三石郡・幌泉郡の2郡、根室国根室郡・花咲郡・野付郡の3郡、北見国宗谷郡 以上20郡
② 兵部省管轄地・・石狩国石狩郡・後志国小樽郡・高島郡・瀬棚郡・太櫓郡の4郡、胆振国山越郡・釧路国白糠郡・阿寒郡・足寄郡の3郡 以上9郡
○開拓使直轄地の移管
① 明治3年1月:宗谷郡→金沢藩、②明治3年6月:根室3郡→東京府
○兵部省管轄地の移管(明治3年1月)
① 旧会津藩(=斗南藩)松平慶三郎容大(かたはる)へ・・歌棄郡・瀬棚郡・山越郡・太櫓郡の4郡
② 他は、開拓使へ移管
○分与に関係した藩など・・明治4年1省(兵部省)1府(東京府)24藩2華族8士族2寺院の計38領地の分類
① 分領を出願した藩(15藩)・・水戸・一関・佐賀・徳島・高知・大泉(庄内)・秋田(久保田)・弘前・斗南・米沢・鳥取・彦根・岡山・福山・仙台
② 分領を命じられた藩(9藩)・・金沢・鹿児島・静岡・名古屋・和歌山・熊本・広島・福岡・山口
③ 華族(2華族)・・田安、一橋
④ 士族(8士族)・・伊達邦成(藤五郎)、伊達邦直(英橘)、伊達広高(藤三郎)、石川邦光(源太)、片倉邦憲(小十郎)、亘理胤元(元太郎)、五島銑之丞、稲田邦植(くにたね)(九郎兵衛)
⑤ 寺院(2寺院)・・増上寺、仏光寺
*最後まで支配地維持は13藩2華族6士族2寺院に過ぎない。特に大藩の返上が多い。各地域で各種の矛盾が激化。
4.兵部省と開拓使の関係
・明治2年(1969)2月20日、太政官が会津降伏人の蝦夷地移転を軍務官(明治2年7月8日太政官制改正で兵部省となる)に命じる。そもそも、兵部省は会津降伏人処置のため北海道と関係をもつことになった。
・兵部省は、1万2000人を北海道に移住させる計画。それにより、兵部省は北海道を分割支配した。
・札幌本府建設の指揮官・島義勇(よしたけ)は、兵部省管轄の石狩・小樽・高島3郡の開拓使への移管を具申、一方、兵部省も職掌からして本務外として「支配被免」願いを提出。
・明治3年(1870)3月5日、兵部省支配地は、旧会津藩(=斗南藩)松平慶三郎容大(かたはる))へ歌棄郡・瀬棚郡・山越郡・太櫓郡の4郡、他は、開拓使へ移管された。

<参考資料>
・「新北海道史第3巻」(北海道編集発行、1971)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター発行、1989)

明治期の北海道の開拓(4)

○クラーク博士の教育、札幌農学校の役割、西洋文化・技術の導入
・開拓を西洋技術の導入に、外人技術者の招聘、留学生の派遣(注目されるのは、津田梅ら女子留学生の派遣)
・明治9年(1876)9月、官立札幌農学校が開校。その基礎づくりにアメリカ・マサチューセッツ農科大学長のクラーク博士を招く。生徒に近代社会のしくみについて目を開かせた。翌10年(1887)4月帰途、島松駅頭で残した「ボーイズ ビイ アンビシャス」は、札幌農学校の校風となったといわれる。札幌農学校の校舎は現在の北2条西2丁目あたりにあり、時計台は札幌農学校の演武場だった。
・初期の卒業生から、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など国際的人物が育った。

1. 開拓使の廃止と三県時代
・開拓使官有物払い下げ事件・・十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるために、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。
・その内容・・官舎・工場・牧場・船舶・倉庫その他の利権を38万円と評価した。会計検査院の小野梓(あずさ)は200万円と評価。1000万円とする意見もあった。それを無利息30年賦償還というもの。
これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商五代友厚だと考えて攻撃した。結局、開拓使官有物払い下げは取り消された。これが、明治時代最大級の疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。開拓使は翌明治15年 (1882年)に廃止され、北海道は函館県・札幌県・根室県に分けられた。
・三県一局時代の機構と政治
・黒田清隆が開拓長官を去って内閣顧問に転出後、明治15年(1882)1月、西郷従道(つぐみち)(西郷隆盛の弟)、開拓長官になる。開拓使の残務整理が主な任務。
・同年2月8日、開拓使は廃止となる。
・北海道は、函館県(県令・時任為基(ときとうためもと))、札幌県(同・調所広丈(ずしょひろたけ)、根室県(同・湯地定基(ゆ ち さだもと)・・妹は乃木希典(まれすけ)夫人静子で明治天皇大葬のとき殉死)に分割された。
・ほとんどの官営事業は、農商務省に設置された北海道事業管理局が管理した。北海道庁設置の明治19年(1886)1月まで3県1局時代と呼ばれている。
・士族の移住・・政府は困窮する士族救済のため、移住規則を制定した。
明治17年(1884)~19年(1886)にわたって、岩見沢(山口・鳥取の士族277戸1503人)、木古内(山形県士族105戸611人)釧路(鳥取県士族106戸520人)が移住。
・屯田兵募集の再開・・明治17年(1884)再開、2300戸あまりが、江別、滝川、輪西、厚岸、根室などに入植した。
・集治監の建設
・明治10年代、重罪人を隔離する集治監(しゅうちかん)建設された。(伊藤博文は、囚人に開墾をやらせる広い土地として北海道は最適であると意見)
・明治15年(1881)樺戸集治監開庁(初代典獄(てんごく)は月形潔。のちこの地は月形村になる。)・・農業開拓が重点、
・翌15年(1882)空知市来知(いちきしち)(現三笠市)・・幌内炭山の採炭が主。
・18年(1885)釧路集治監(標茶)に建設・・阿寒・硫黄山の使役が主。
・収容者・・稲妻小僧、五寸釘寅吉などの犯罪人ばかりでなく、明治10年代後半の加波山(かばさん)事件、群馬事件など自由民権運動の国事犯も収監された。
・団体の入植・・赤心社・・本社を神戸において発足したプロテスタント団体。明治14年(1881)春、浦河に入植。
・晩成社・・伊豆の豪族・依田一族が設立した会社。明治16年(1883)5月、13戸の移民団、帯広に入った。

2. 北海道庁の発足と政治
・3県時代の北海道開拓は低調で、伊藤博文は書記官・金子堅太郎を北海道に派遣。金子は、3県の弊害を復命した。
・明治19年(1886)1月、3県を廃止し、北海道庁を置く。初代長官岩村通俊(みちとし)。
・庁舎は明治12年(1879)焼失以後、旧女学校跡(南1条西4丁目)を使用していたが、明治21年(1888)「赤レンガ」で知られる新庁舎が完成した。
・北海道庁は、1947年(昭和22年)まで内務省直轄の北海道地方を管轄する地方行政官庁として存在した。
・官営工場の民間払い下げ・・開拓使以来の官営工場の民間払い下げ。産業の発展とともに、人口も急増した。札幌の人口は、明治18年(1885)の10668人から、5年後の明治23年には24327人と2.3倍になった。
・北海道炭鉱鉄道と鉄路の発展
・明治22年(1889)幌内炭鉱と鉄道が民間に払い下げとなった。前北海道庁理事官・堀基の北海道炭鉱鉄道会社(北炭)に払い下げとなった。
・北炭は、鉄路を伸ばし、明治25年(1892)には、砂川から空知太まで、さらに、室蘭線、夕張線が完成させた。
・移民の増加・・明治25年(1892)以降急激な移民の増加が見られる。
20年代は主として空知地方へ、30年代になって十勝、北見へ進んだ。
・農業開拓と産業構造の変化
・従来、北海道の主産業はニシン漁に象徴される漁業であった。明治30年代になって農業に追い抜かれた。
・日露戦争後の明治末期には、大資本による大工業の成立。(日本製鋼輪西製鉄所、王子製紙の苫小牧進出、帝国製麻の営業など)
・交通の整備と囚人道路・土工労働(タコ)
・上川道路、北見道路の開削に樺戸、空知、釧路の集治監の囚徒が動員された。北海道開拓の基礎づくりは、囚人労働の犠牲のうえに始めて可能であったともいえる。
・さらに奴隷的労働・タコ部屋が道路工事・鉄道・港湾工事に常用された。
「タコ」の語源
①「他雇」(たこ)・・他人に雇用されるから
②「蛸」・・海中の蛸のように、前借金を追った土工はみずからの肉体と労働力を切り売りするから
③「たこ」・・蛸のようが岩に吸いついて離れないように、土工夫も必死で働くから
④「凧」・・土工夫は、糸の切れた凧のように逃走するため
などの諸説(弓削小平著「北辺の労働と出稼関係」=「司法研究」28号所収)

・官設鉄道の進展・・明治31年(1898)旭川まで。函館~小樽間も明治38年(1905)に全通。さらに明治40年(1907)には、釧路まで開通。
・日清、日露戦争、7師団
・明治23年(1890)の「屯田兵条例」の改正で応募資格が士族中心から平民に拡大された。
・日清戦争で、明治28年(1895)3月、屯田兵に動員令が下った。実際は、戦役には参加せず、東京で待機したまま復員・解散した。
・明治29年(1896)5月、第7師団が設置された。師団長は陸軍中将永山武四郎。同年12月には屯田兵司令部が第7師団司令部と改称され、屯田兵の事務は第7師団が扱うことになった。
・兵力のすべてを道内出身者でまかないきれず、兵士の内地依存が続いた。
・師団編成が一応完結したのは、日露戦争直前の明治35年(1902)12月であった。なお、当初第7師団は札幌に置かれていたが、明治35年(1902)10月師団司令部が旭川に移転し、以後旭川は軍都として発展する。札幌・月寒には歩兵第25連隊が駐屯した。
・明治37年(1904)、第7師団は日露戦争では、動員令が下り、旅順攻防戦に参加、特に11月30日の203高地攻略の中心部隊となった。この戦役で戦死者3142人、戦傷者8222人、合計1万1364人にのぼった。
5.明治時代の北海道の文化
・出版、新聞の発達・・「函館新聞」(函館)、「北海新聞」(札幌)、「北門新聞」(小樽)の創刊、明治34年(1891)「北海タイムス」(3社合同)創刊
・文学
① 有島武郎・・札幌農学校に学び、遠友夜学校教師の経験、新渡戸らとの交流)北海道の文芸に大きな影響を与えた。
② 石川啄木・・明治40~41年、函館、小樽、釧路で新聞記者。この期間北海道の風土と人をよんだ多くの短歌を残した。

<まとめ>
明治期の北海道は、本州の近代化の進展の延長上に加え、いわば、「内国植民地」として、特有の開発が進められた。恵まれた資源の宝庫、農林水産・地下資源など一次産業の輝かしい生産の歴史でもあった。しかし、その影に、タコ部屋、
囚人、小作争議に象徴される民衆の犠牲もあった。その歴史も語り継がれることも大事なことと思う。

<参考>明治期の北海道の行政機関の名称とその期間、総督・長官・知事
○箱館裁判所・・慶応4年(1868)4月12日~同閏4月24日)
①総督・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王・・慶応4年(1868)4月12日~同閏4月5日。なお、仁和寺宮は総督就任を辞退している。
②総督・清水谷公考(きんなる)・・慶応4年(1868)閏4月5日~同24日
○箱館府・・慶応4年(1868)閏4月24日~明治2年(1869)7月24日 
①・知事清水谷公考・・慶応4年(1868)閏4月24日~明治2年(1869)7月24日
○開拓使・・明治2年(1869)7月8日~明治15年2月8日。(樺太開拓使が置かれた明治3年=1870=2月13日から明治4年=1871=8月7日までは「北海道開拓使」と称した)
① 長官・鍋島直正・・明治2年(1869)7月13日~同年8月16日
② 長官・東久世通禧(みちよし)・・明治2年(1869)8月25日~明治4年(1871)10月15日
③ 次官・黒田清隆(長官職務代行)・・明治2年(1869)10月15日~明治7年(1874)8月2日
④ 長官・黒田清隆・・明治7年(1874)8月2日~明治15年(1882)1月11日
⑤ 長官・西郷従道(つぐみち)・・明治15年(1882)1月11日~同年2月8日
○3県時代・・明治15年(1882)2月8日~明治19年(1886)1月26日
① 函館県(県令・時任為基(ときとうためもと))
② 札幌県(同・調所広丈(ずしょひろたけ))
③ 根室県(同・湯地定基(ゆ ち さだもと))

【参考文献】
・「北海道の歴史」(榎本守恵著、北海道新聞社、1981)
・「県史1 北海道の歴史」(田畑宏・桑原真人・船津功・関口明著、山川出版社、2000)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター、1989)
・「新北海道史」(北海道編発行)
・「新札幌市史」(札幌市発行)

明治期の北海道の開拓(3)

○千島樺太交換条約の締結と北方問題
・日露国境問題は、未解決のまま開拓使にもちこまれた。(これまで、安政元年=1854=の日露和親条約では、千島はエトロフ水道をもって境とし、樺太は従来通り雑居地となる)
現地ではロシア人の進出が進み、現地の日本人との間にトラブルが耐えなかった。樺太駐在の岡本監輔(かんすけ)は強硬論だったが、失望して樺太を去る。
・明治7年(1874)1月、榎本武揚は、ロシア駐在特命全権公使に任命され、ペテルグルクに赴き国土交換の交渉にあたる。榎本、交渉の際、240年も前(寛永12=1635=)の松前藩士・村上掃部(かもん)左衛門の千島巡行、いわゆる「島めぐり」を持ち出し、ウルップ島以北の全千島の領有を主張した。
明治8年(1875)5月、千島樺太交換条約調印、樺太全島をロシアに渡すかわりに、ウルップ島以北、占守島に至る千島諸島全18島を日本領にする。
・なお、日本帰属を希望する樺太アイヌは、宗谷定住を望んだが黒田長官(前年の明治7年、長官となった)アイヌの希望を許さず、樺太アイヌ841人を対雁(ついしかり)(現江別市)へ強制連行した。黒田の方針に反対した松本十郎大判官(アイヌの衣装アツシを着用していたので「は辞任した。
(対雁に移住した樺太アイヌのその後の興味ある話があるが省略する)一方、千島アイヌも色丹島に移住させられるなど、悲劇の運命を辿った。
○技術と産業の発展、炭山の開発、鉄道開通
・明治4年(1871)7月、ケプロン来日。年俸1万ドル、太政大臣より高級であった。ケプロンの権限で開拓使時代に雇い入れた外人は総計78人にのぼった。
・西洋技術の導入・・道路開削、官園の開設(りんごなど)、缶詰製法の導入、石炭の開発などの政策構想を打ち出した。
・開拓使は、味噌・醤油の官営醸造所、缶詰、ビール、ぶどう酒、製粉、製紙、養蚕、亜麻などの官営工場を作った。
・欧米農法・・明治4年(1871)、ケプロンの建議で札幌官園の設置。翌5年、新冠牧場の開設。開拓使は果樹栽培を奨励、特に、「平岸リンゴ」の名は、全国的に有名になったばかりでなく、明治中期から後期にかけてはウラジオストックに輸出された。明治20~30年代は、札幌周辺に23万本が植えられ、全国収穫量の80%を占めた。この頃の札幌の初夏は林檎の花咲く里であった。
・炭山・・幕末に開坑した茅沼炭鉱を官営。また、榎本、ライマンが調査した幌内(現三笠市)炭鉱の開発を進め、明治12年(1879)12月開坑。空知大炭田の端緒となった。
・鉄道・・幌内炭を運搬する方法・・①石狩川案(榎本)②室蘭鉄道案(ケプロン、ライマン)③手宮鉄道案(クロフォード)・・クロフォード案に決まる。
・クロフォードは張碓の難所を開削、明治13年(1880)11月、手宮~札幌間が開通、「義経号」「弁慶号」が走った。日本で3番目の鉄道(1番=明治5年=1872=新橋~横浜間、2番目=明治7年=1874=大坂~神戸間。なお、明治2年=1869=茅沼炭鉱から海岸まで3キロ、石炭運搬の軌道が運行した。泊村では『日本最初の鉄道』とPRしている。)
・明治15年(1882)には幌内まで手宮から90キロが全通した。この開通によって小樽は札幌の玄関として、さらには、本道内陸開発の基点として発展する基礎になった。
・本願寺道路・・東本願寺は、新政府への忠誠と北海道の強健の維持のため、北海道開拓事業への援助を決めた。明治3年(1870)9月、有珠~定山渓~札幌間26里(約100キロ)の道路開削に着手。これがいわゆる「本願寺道路」。翌4年7月、竣工(工費1万8000両)。まもなく札幌本道の開通でほとんど利用されずに廃道になった。
・札幌本道・・ケプロンの建議で築造。明治5年(1772)3月、亀田を基点に森まで、更に噴火湾を渡って室蘭に上陸、千歳を経て札幌豊平橋に至る45里(180キロ)を「札幌本道」と定めて着手。人夫5389人、官吏200人余配置。翌6年(1773)6月には全工程を終えた。
・明治7年(1774)には、札幌~小樽間の人馬の往来ができるようになった。
○移民団の開墾、屯田兵の創設、
・農民の移民・・明治10年代後半の不況で多くの農民が土地を失って没落、北海道への移民が増加した。
・農民の移民の推移
① 慶応4年(1868)、岡本監輔は箱館で200人の移民を募集し、クシュンコタンに引率
② 明治2年(1869)開拓使は、発足にあたって東京で募集した数百人を根室などに移住させた。多くは浮浪人のたぐいで、失敗に終わる。
③ 明治3年(1870)~4年(1871)・・東北からの移民を札幌周辺などに入植させた。
・士族の移民・・明治4年(1871)の廃藩置県や戊辰戦争で削封された東北諸藩の士族の失職。初期北海道移民の源泉となった。例えば
① 仙台亘理領主・伊達邦成(くにしげ)・・有珠
② 同・岩出山領主・伊達邦直は当別
③ 同・角田領主・石川邦光主従・・角田村(現栗山町)
④ 登別には、白石領主・片倉邦憲(くにのり)主従、その別派は、開拓使貫属となり札幌周辺の白石、発寒に入植。伊達邦直主従は当別へ入る。
⑤ 会津士族団・・余市へ。余市りんごの祖。
⑥ 淡路洲本の城主・稲田邦植(くにたね)は、静内に入植。
⑦ 大藩も困窮の旧藩士救済のため移住させた。八雲に尾張徳川家、岩内郡前田村(現共和町)に加賀前田家、余市郡大江村(現仁木町)に長州毛利家、当別高岡に肥前(ひぜん)鍋島家など
・会社を組織して入植
① 開進社(和歌山県士族)明治12年(1879)創立、函館・湯の川ほかに入植、成績があがらず、明治15年(1882)解散
② 赤心社
・屯田兵の創出
・明治6年(1873)黒田開拓次官は屯田兵創設を建白、「当使創置以来専ら力を開拓に用い、未だ兵衛の事に及ばす、人民の移住するもの増加す。これを鎮撫保護する者なかるべからず」。北海道に常備鎮台は置かれていなかったこともその理由にある。
・明治7年(1874)、6月、黒田は陸軍中将・北海道屯田憲兵事務総理を兼ね、参議にもなり開拓長官に昇進した。
・同年10月、屯田兵例則制定。徴兵令(明治6年=1873=)施行後も、北海道には長い間施行されなかった。北海道に徴兵令が施行されたのは、明治29年(1896)に渡島、後志、胆振、石狩に施行、明治31年(1898)に全道に施行。そのため、徴兵逃れに本籍を北海道に移したものもあった。(夏目漱石も兵役逃れのため、明治25年=1892=、岩内に本籍を移したといわれた。最近は、夏目家の財産相続問題での転籍説が有力)
・明治8年(1885)宮城、青森、酒田などの士族198戸、965人が琴似に入植。翌9年(1886)、琴似、発寒、山鼻に入植。
 練兵は主に農閑期に行われ、開墾と農業に従事した。農業は、養蚕と製麻が主だった。
 明治10年(1887)の西南戦争には、琴似、山鼻の屯田兵が動員された。死者54人を出した。

明治期の北海道の開拓(2)

○札幌本府づくり
・札幌を北海道の行政府の中心にする意見は、天明期の幕府調査隊山口鉄五郎、寛政・文化期の近藤重蔵、幕末の松浦武四郎も意見を述べている。
「他日ここ札幌に府を置きたまわば、石狩は不日にして(まもなく)大坂の繁栄を得べく、十里を遡(さかのぼ)り津石狩は伏見に等しき地となり、川舟三里を上がり、札幌の地ぞ帝京の尊きにも及ばん。・・手宮・高島は兵庫・神戸の両港にも譬(たと)うべし」(松浦武四郎「西蝦夷日誌」安政4年=1857=)
・島義勇(よしたけ。彼の銅像が札幌市役所にある)・・円山に登って、「札幌本府」建設の雄大な構想で始められた。島は南北基線の大友堀(創成川)と東西基線の銭函道(南一条道り)が交叉する橋(創成橋)を本府の中心とした。肥前(現在の佐賀県)出身の開拓判官・島義勇が札幌本府建設のため200人の部下や人夫をひき連れて札幌入りしたのは、この年の暮れのこと。このときの札幌中心部の人口は「2戸7人」と記録されている。近郊の住民はアイヌの人びとも含めてせいぜい100人ばかり。鹿や熊や狼がうろつく、太古のままの原野だった。島判官は、札幌建設着手にあたり、札幌入りの直後、円山の小高い丘のうえから広大な石狩平野を見渡したといいます。
彼の漢詩の1節
「4通8達 宜しく府を開くべし」 
他日5州第一の都」
予算をオーバーし、東久世長官と衝突し、退任。
・後任の岩村道俊判官の手で、創生橋(南1条)のたもとを基点に、幅60間(108M)の大通りで南北を分け、大友掘りを境に東西を分け60間四方の碁盤の目の整然とした市街地の建設が始まった。
・大通りの北は官庁街・官僚・お雇い外人の住宅、南は民家が中心。
・碁盤の目の街つくり・・「奈良・京都を模した」といわれるが、城下町に近い。島が住んだ佐賀城下によく似ているといわれる。
・明治5年(1872)9月、札幌に開拓使札幌本庁を置き、函館。根室、宗谷、浦河、樺太の5支庁を置いた。開拓使札幌本庁の落成は翌明治6年(1873)11月24日のこと。
・札幌周辺(元村、苗穂、丘珠、円山、月寒、平岸、篠路、白石、手稲など)に農民を募集して入植させる。
・すすきの・・開拓最前線に送り込まれた、役人はもとより、請負人・大工・職人・人夫らが一時に大量に札幌へ流れ込みました。妻子を東京に残して来た「札チョン族」の岩村通俊判官は、開拓のために札幌にやってきた男子をこの地に引きとめておく方策として、明治4年、薄井(うすい)龍之開拓使監事に命じて現在の南4、5条西3、4丁目の二町四方を土塁で囲み、中央には門を設置し、創成橋近辺の貸座敷、旅人宿、飲食店をここに移した。このために薄野は官許遊廓と呼ばれるようになりました。
「薄野遊廓」は、岩村判官により名づけられましたが、これはこの地を選んだ工事監事「薄井龍之」の姓にちなんだもの、というのが通説になっていますが、一説には当時この一帯が「茅野(すすきのの別称)」だったことから名づけられたという自然地名説もあり、本当のところは藪の中ならぬ、すすきの中、といったところでしょうか。すすきのの南はずれにある豊川稲荷の玉垣には、芸者の名前が刻まれています。

○黒田清隆の登場とケプロンなどお雇い外国人の登用
・明治3年(1870)5月、薩摩出身の黒田清隆、開拓次官となる。(樺太専務)
・同年10月、黒田は、樺太及び内政問題に関する建議を提出。北海道の開拓を西洋技術の導入によって進めることを示した。
・翌4年1月~5月まで欧米出張を命じられる。アメリカで、アメリカ農務長官ホーレス・ケプロンを開拓顧問に招くことに成功、その後の多数のお雇い外国人の招聘の道を開いた。
・同年8月、いわゆる「開拓使10年計画」が決まり、これまで1年20万円の「定額金」を10年で1000万円にすることが決まった。(年平均にすると100万円だから5倍に増額された)。屯田殖民費、幌内炭鉱起業費は別枠。
・政府がこの時期に北海道開拓に巨大な資金を投じた。開拓使時代の北海道経営費は、国家財政の4~5%、7%のときもあった。
・黒田清隆は、明治7年(1874)7月に、陸軍中将となり、屯田兵憲兵事務総理となり、屯田兵開拓長官となる。「黒田は陸軍、開拓使、政府の要職を一身に兼ねた。開拓使=黒田王国」ともいわれるもとが確立した」(榎本守恵著「北海道の歴史」)

明治期の北海道の開拓(1)

(これは、2006年10月14日の「高齢者市民講座」での講演の要旨です)

<報告要旨>
・北海道は、明治維新の内乱、戊辰戦争という近代日本の黎明期の激動に無縁ではなかった。箱館戦争の終結、開拓使の設置、移民と入植、屯田兵、炭鉱、鉄道の発展、ニシン漁の盛衰、農業開拓を重点とした拓殖政策など、明治期の北海道開拓の歴史を概括してみる。

1. 明治新政権と蝦夷地
○箱館戦争~旧幕脱走軍と五稜郭落城~
・慶応3年(1867)10月15日・・徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還、同年12月9日、朝廷は王政復古を宣言、270年に及ぶ江戸幕府は崩れ去った。
・つづいて、慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の闘いをきっかけに、内乱、戊辰(ボシン・つちのえたつ)戦争へ突入。
・蝦夷地・・慶応4(1868)4月12日、箱館裁判所設置(旧幕府遠国奉行・郡代が置かれた重要地域に新政府が置いた行政機関。のち、同閏4月24日箱館府となる)、新政府、清水谷公考(きんなる)を蝦夷地に派遣、閏4月27日、旧幕府箱館奉行・杉浦勝誠(かつのぶ)から事務を引き継ぐ。松前藩は若手の正議(せいぎ)隊が決起し新政府支持を表明、厚沢部に館(たて)城新築にとりかかる。
・一方、旧幕府軍は、江戸城開城後も上野に立てこもって抵抗(彰義隊)するが壊滅、更に、会津戦争で、旧幕府軍、敗北。白虎隊の悲劇。
・旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、旗艦・開陽丸(幕府が注文しオランダで建造。2800トン、400馬力、大砲26門を備えた当時日本最強の軍艦)など8隻で品川沖を出帆、旧幕敗走兵らを収容し、蝦夷地をめざして北上。
・明治改元は、9月8日。「慶応4年」を「明治元年」と改める。
・10月20日、榎本武揚率いる脱走軍艦隊・開陽丸以下7隻が内浦湾に現れた。土方歳三らは鷲ノ木に上陸。箱館に向い五稜郭を占領。清水谷箱館府知事以下、箱館を退去、青森に移る。
・11月1日、榎本は開陽丸で箱館港に至り、五稜郭に無血入城。11月5日、松前落城。城下7500戸のうち5000戸が焼失。
・11月15日、江差を攻撃した旗艦・開陽丸は江差沖で座礁・沈没。榎本軍の海軍力は一挙にくずれた。
・12月15日、全道平定を箱館在留各国領事に通告。公選で総裁榎本以下を決める。
・五稜郭落城
・明治2年春4月9日、政府軍8000人は、乙部に上陸、第2軍、第3軍あわせて1万2000人。迎え撃つ榎本軍は3000人で奮闘するも、政府軍、福山奪回、箱館へ進撃、箱館海戦にも勝利する。
・5月18日、榎本武揚以下、五稜郭を出て降伏。
・ここに、鳥羽・伏見の戦い以来、約1年半続いた戊辰戦争は、終結し、明治維新政府は名実ともに全国支配を確立した。蝦夷地(五稜郭)は、江戸幕藩体制の終焉の地となったといえる。
・エピソード・・①政府軍参謀・黒田清隆は、降伏入牢した榎本の助命のため、坊主頭になって奔走。のち、黒田は、出獄後の明治5年(1872)榎本武揚を開拓使4等出仕(しゅっし)として採用している。
②政府軍戦死者は、政府軍によって埋葬されたが、榎本軍の遺体は放置されてが、箱館の侠客・柳川熊吉(江戸の新門辰五郎の子分といわれる)は政府軍のおどしに屈せず、遺体を集めて葬った。明治8年(1875)、八幡宮の裏山に碧血(へきけつ)碑が建てられた。
③箱館病院長・高松凌雲は、敵味方を問わず傷病兵を治療し、捕虜を送還するなど、わが国最初の赤十字精神の発露とたたえられている。
・箱館戦争の終結が、近代日本の黎明期の激動に終止符を打った。後に、榎本武揚ほか、脱走軍幹部の多くは、開拓使官僚として登用された。

2. 開拓使の設置と北海道開拓
○北海道の誕生
・開拓使設置・・明治2年7月8日、太政官制の改革に伴い、中央官庁のひとつとして設置され、北海道と樺太、千島を管轄することになった。初代長官・鍋島直正(前佐賀藩主。わすか2ケ月で一度も北海道に来なかった)。次官に清水谷公考、開拓判官に、島義勇(よしたけ)、岩村通俊、松本十郎、岡本監輔(かんすけ)、松浦武四郎らが開拓判官に任じられた。
・「北海道」の命名・・同年8月15日、蝦夷地一円を「北海道」と命名。11ケ国86郡を置く。(開拓判官・松浦武四郎が提案)。千島全域を「千島郡」とする。
・松前藩は、版籍奉還後、「館藩」と称していたが「館県」、「弘前県(のち青森県)」の管轄を経て開拓使所管に入った。
・8月25日、2代目長官に東久世通禧(みちよし。ミチトミとも)が任命される。9月30日、旧箱館裁判所を「開拓使出張所」と改称。10月根室、宗谷に開拓使出張所を置く。
・広い北海道の開拓のため、諸藩に分割(分領)開拓・・水戸、佐賀、徳島など20藩以上が出願。出願しない鹿児島、金沢など大藩には強制割当。その他、伊達邦成(くにしげ)、片倉邦憲(くにのり)などの士族、東京府、増上寺など、行政庁、寺院にも分領させた。この分領開拓は、ほとんど成果がなく、明治4年7月の廃藩置県で終わる。開拓使が全道を管轄するのは、明治5年秋のこと。
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