森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2006年11月

開拓使の機構の変遷

・日時:平成18年12月11日(月)13時
・会場:市民活動サポートセンター(札幌エルプラザ内2階 北7西3 電話728-5888)
・主催:サロン開拓の村塾
・私のレポートテーマ
開拓使の機構の変遷
~役所の名称とその所在地の変遷を中心に~

江戸物語~蝦夷三官寺とその本山~

◎日時:2006年12月19日(火曜)13時~
◎会場:札幌市西区区民センター
◎主催:札幌市社会教育協会
◎私のテーマ 江戸物語~蝦夷三官寺とその本山~
・三官寺とは
・なぜ三官寺が設置されたか
・三官寺の本山と幕府の関係

文化3年のロシア船樺太襲撃の背景・経過-ロシアの思惑を中心にー

◎「蝦夷紀聞」に「日本とおろしあ、近隣により信義を結び交易を希る為、長崎へ使者壱人差遣候」(北海道古文書サークルテキスト13ページ)とある。この「長崎へ使者壱人」はレザノフのこと。
彼の通商要求は、幕府に聞き入れられず、のちに、ロシア人によるカラフト、クナシリへの襲撃となるが、それに至る背景と経過をロシア側の思惑を中心に調べた。

◎襲撃までの経過
1. ラクスマンの来日
・寛政4年(1792)9月5日、ロシアの遣日使節ラクスマン、大黒屋幸太夫らを伴いネムロに入津、エテカリーナ二世の命により漂流民送還を名目にシベリア総督の修好要望の書簡を持参。
・寛政5年(1793)6月8日、ラクスマン一行、エテカリーナ号箱館に入港、6月20日陸路福山に到着。翌21日、目付石川忠房(ラクスマン来航一件処置のため松前表御用を命じられ、3月2日、福山に到着していた。)ラクスマンと会見。
6月27日、ラクスマン、石川忠房より長崎に至るべき信牌(しんぱい)(長崎来航の中国船にあらかじめ交付された貿易許可書。長崎通商照票。正徳5年=1715=のいわゆる「正徳新例」で確立。)の交付を受ける。
2.クルーゼンシュテインとレザノフの長崎来航
・文化元年(1804)9.6・・航海者クルーゼンシュテインは、ロシア最初の世界周航船「ナデジダ」号(「希望」の意)の艦長として、ロシアの遣日全権使節レザノフ(注1.アレクサンドル一世の名代として侍従長の肩書)に随行して長崎に来航(石巻の若宮丸の津漂流民津太夫ら四人を伴う)。先年ラクスマンが松前で受理した信牌をもとに通商を求める。
・文化2年(1805)3.7・・レザノフ、半年の囚人扱いをされた上、長崎奉行肥田豊後守頼常、目付遠山金四郎景晋(かげくに)(注1)の「諭書」をもって通商を拒絶され、退去を命じられた。
・同年3月18日・・ナデジダ号、レザノフを乗せて長崎を出帆。
・クルーゼンシュテイン、日本海経由でカムチャッカに向かう途中、サハリン島クシュンコタン(注3)に上陸して日本の漁場を視察、松前藩の役人と会見。その地の資源の豊富さに驚いている。著書「世界周航記」で、カラフト占領の有利さを提案。
3.サハリン襲撃
・1805(文化2)、7.18(ロシア暦)・・アリューシャン列島・ウナラスカ島で、サハリンと南千島襲撃許可をもとめる書簡をアレクサンドル一世に送り、サハリン占領を上申した。
・レザノフはカリフォルニアに赴きスペインと食料購入の交渉を行いオホーツクに帰任後、露米会社雇いの海軍士官フヴォストフとダヴイドフにサハリンと南千島の破壊を命じた。
・レザノフ、皇帝の許可が届かず、実行をためらい、あいまいな指令変更書をフヴォストフらに渡し、本国へ出発。途中シベリア・クライノヤルスクで事故死。
・フヴォストフら、指令変更の意味を計りかね、最初の襲撃指令を実行。
・文化3年(1806)9.11、フヴォストフら、フリゲート艦ユナイ号、クシュンコタンの東の集落オフイトマリ(日本名 雄吠泊)に到来、同地のアイヌ人ウラフシキクルの17歳の子を連行
・翌12日、30人ほどがクシュンコタンに上陸、運上屋を襲い、番人富五郎、酉蔵、源七、福松を捕らえ、連行。米、酒などを掠奪し、運上屋、倉庫、弁天社を焼き、アイヌの子どもだけを釈放して18日退去。
 退去に際し、ロシア軍艦旗、露米会社旗を掲揚し、サハリン占領の真鍮板を残す。またアイヌ長老にサハリンのロシア併合と住民のロシア編入を記した文書を渡している。

◎その後のこと
・翌文化4年のエトロフ襲撃、再度のサハリン襲撃、利尻襲撃は別稿としたい。
・また、その後のロシアのサハリン植民地計画の推移についても別稿としたい。
・なお、フヴォストフとダヴイドフのその後に関しては、帰国後、オホーツク港で逮捕され。海軍省の軍事法廷で有罪を宣告されている。さらに、スウェーデンとの戦争に派遣され戦功を立て叙勲を申請したが、アレクサンドル一世は、彼らの独善的なサハリン襲撃に対する処罰を免除することで叙勲に代えたといわれている。

(注1) レザノフ・・北太平洋におけるロシアの覇権を確立するために設立された露米会社の最高責任者でもあった。
当時の露米会社のもっとも切実な問題は、北太平洋およびアメリカ北西岸の植民地に対する食料・日用品・資材の供給であったが、彼は、それらの必需品を日本から輸入し、一方で露米会社の主要産物である毛皮市場の拡大を狙っていた。
(注2) 遠山金四郎景晋(かげくに)・・寛政11年、書院番頭松平信濃守忠明の差添えを命じられホロイズミまで検分した。その後、西丸小姓組徒頭を経て目付となった
(注3) クシュンコタン・・サハリン南部・アニワ湾にある港湾都市。江戸期の日本側の呼び名。当時、ロシア人は「ト
(注4) マリ・アニワ」と呼んだ。日露戦争後、日本領「大泊」となり、現在のロシア名は「コルサコフ」。サハリン州の首都。
<参考文献>
・「新北海道史」
・「休明光記」
・「日露関係とサハリン島」(秋月俊幸著 筑摩書房 1994)

カラフトを調査・探検した人々

◎はじめに
「蝦夷紀聞」(文化4年刊)に「カラフト嶋と申所ハ嶋か續(注)か、古来より誰も其境を見極候事なく」(「北海道古文書サークル」テキスト20ページ)とある。
そこで、松前藩、江戸幕府の役人などのカラフト調査・探検の歩みを中心に、間宮海峡確認までの江戸期の日露関係を年表風にまとめてみた。

(注)續(つづき)=ここでは、大陸と繋がっていること。陸続き。

◎文化4年(1807)以前
○寛永13(1635)・・2代松前藩主松前公広(きんひろ)、藩士村上掃部左衛門を「島めぐり」に派遣、村上、カラフト・ウッシャムに至る。
○寛永13(1636)・・松前公広、藩士甲道庄左衛門をカラフトに派遣、甲道、ウッシャムに越年、翌年、タライカ(多来加)至る。
○寛文9(1669)・・松前船、サハリン島に至り、エブリコ(薬用きのこ)を積む。
○正徳5(1715)・・医師寺島良安、「和漢三才図会」で、カラフトを大陸の一部として描く。
○寛延4(1751)・・2月、宗谷場所詰の松前藩士加藤嘉兵衛、松前商人浜屋与三右衛門の船・永福丸に乗り海鼠漁場調査と交易のためシラヌシ(白主)に出向く。宝暦7年(1757)まで続く。
○安永元年(1772)・・松前藩、城下の商人で宗谷場所請負人村山伝兵衛に命じて、交易と漁法の指導のため、二隻の船をサハリンに派遣。
○安永6(1777)・・4月、松前藩、藩士新井田隆助をカラフトに派遣、新井田、同島南部を検分、測量、アイヌの介抱を行う。
○天明5(1785)・・・7月、幕府の蝦夷地調査隊普請役庵原弥六、宗谷よりシラヌシに渡海、西はタラントマリ(多蘭泊)、東はシレトコに至る。
○同年・・9月、林子平、「三国通覧図説」で、大陸に接続の「カラフト島」を描き、さらに、「サカリン」を島に描く。
○天明6(1786)・・5月10日、幕府の蝦夷地調査隊の普請役下役大石逸平、カラフト見分のためノトロに着き同日シラヌシに至る。タラントマリで、アムール下流キジ湖畔から交易のため来島していた山丹人からサハリン奥地の様子を聴取。大石は、サハリン奥地について日本人として初めて情報を入手した。さらにナヨロに至り、現地人から地境・行程聞く。大石は、西はナツコ、東はタライカに至るまでの多数の地名と土地の特徴を記録した。さらにクシュンナイに至る。
○寛政2年(1790)・・5月、松前藩士松前平角、高橋清左衛門(實光、壮四郎)、鈴木熊蔵ら、シラヌシ到着、西地コタントル、東地シレトコまで調査、シラヌシ、ツンナイに番屋、トンナイ、クシュンコタンに荷物小屋を設置。以来、年々、勤番を派遣。
○同年・・6月、最上徳内、「蝦夷国風俗人情之沙汰」(のち、改定して「蝦夷草紙」)で、カラフトを「樺太」とし、1つの島に描く。
○寛政3年(1791)・・村山伝兵衛、カラフト場所請負人となる。
○同年・・松前藩士松前平角、青山園右衛門、高橋清左衛門(實光、壮四郎)、鈴木熊蔵らサハリンに派遣される。西はコタントル、東は中知床岬まで見分。ナヨロ、トンナイで山丹人、ロシア人から山丹のみならず、吉林、北京の状況も知った。
○寛政4年(1792)・・最上徳内、和田兵太夫、中村小市郎、小林源之助(西丸与力)ら、シラヌシに渡る。それより西はクシュンナイ、東はトウブツまで検分。山丹人、ロシア人から樺太北部、山丹、満州、ロシアの地理を尋問。
○寛政8年(1797)・・板垣豊四郎、カラフト場所の支配人となり、小山屋権兵衛をしてその経営に当たらせる、小山屋は豊四郎と紛争を生じて1年で手を引く。板垣のカラフト経営も数年で失敗。
○同年・・村上島之丞、「蝦夷見聞記」でカラフトを半島とし、ほかに「サカレン島」を描く。
○寛政12年(1800)・・松前藩、板垣豊四郎支配のカラフトを領主手捌とする。藩士高橋壯一郎・目谷安次郎を掛に任命、摂州兵庫津の商人柴屋長太夫が仕入れ方を担当。
○享和元年(1801)・・5月30日。幕府普請役中村小市郎・小目付役高橋次太夫、命を受け、小市郎は東海岸をナイブツまで、次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分、山丹交易事情などを復命。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは島と二通りを復命。
○同年・・近藤重蔵も「辺要分界図考」で、カラフトを半島、離島の二通りを記す。
○文化元年(1804)・・近藤重蔵、「今所考定分界之図」で、カラフトを離島にし、さらに「サカリン」を離島に描く。

◎文化3~4年・・ロシアのカラフト・クナシリ襲撃

◎文化4年(1807)以降
○文化4年(1807)・・4月16日、松前藩家老松前左膳・蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人余を率いて樺太出兵、5月12日樺太に渡る。
○同年・・南部藩兵、クシュンコタンを警備。
○文化5年(1808)・・4月1日、最上徳内、カラフト詰を命じられ、シヌヌシ到着。
○同年・・4月13日、松前奉行調役下役松田伝十郎、カラフト奥地、山丹見分の命を受け、間宮林蔵を召し連れシラヌシ到着。伝十郎はラッカ岬まで至って黒竜江を望見、樺太が島であることを知る。林蔵は東海岸をシレトコまで至るも奥地行は断念。
○同年・・7月13日、間宮林蔵は樺太東海岸調査不十分として宗谷滞在中の松前奉行河尻春之より再調査を命じられ、シラヌシ着。トンナイで越年。
○同年・・高橋景保、「北夷考証」で、松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。
○文化6年(1809)・・1月29日、林蔵、トンナイを出発、奥地へ向かう。5月12日に樺太北端に近いナニオーまで至り、そこより引き返す。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)
○同年・・6月26日、間宮林蔵、満州仮府のある黒竜江畔のデレンに向かうノテトの酋長の山丹船に同乗、7月11日、デレンに到着。
○同年・・6月、幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。

<参考文献>
「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊 1989)
「樺太年表」(社団法人全国樺太連盟編・刊 1995))
「日露関係とサハリン島」(秋月俊幸著、筑摩書房刊、1994)

ふたりの等じゅ院初代住職候補

一. 寺社奉行の住職人選の達し
 等じゅ院文書「蝦夷地寺院御取建住職」(以下「住職記」)(注1)の書き出しは、享和三年(一八〇三)十一月八日付で、次の文章である。(書き下しは森)

「御掛リ脇坂淡路守殿より執当円覚院呼出ニ付、翌九日同家へ罷越候処、御達左之通
  蝦夷地へ寺院御取建仰出され候間、人撰いたし書出申さるべく候
右の趣、増上寺役僧因海へも仰渡され候事」

 寺社奉行脇坂安薫より、寛永寺執当と増上寺役僧が呼び出され、蝦夷地に建立される寺院の住職を人選し提出するよう達しがあったのである。人選期限も「当月末」、つまり、十一月中と申し渡された。
 いわゆる「蝦夷三官寺」の建立である。
まず、寛永寺について触れると、寛永寺は、江戸城の鬼門に当たる上野に、徳川家の祈祷寺として、寛永二年(一六二五)天海が開山した寺院で、寺号に年号使用を勅許された天台宗の関東総本山であり、徳川四代将軍家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十四代家茂と、六人の将軍が埋葬された菩提寺でもある。二代将軍秀忠など六人の将軍を埋葬する芝・増上寺と並び、幕府の庇護の下、江戸時代の宗教界に君臨した大寺である。さらに住職は、三世に一品法親王を招いて以来、日光山輪王寺山主、比叡山延暦寺座主の兼ねた「三山管領宮」といわれ、寛永寺は、門跡寺院であった。
上野の山全体が寛永寺の境内で、寺域三十六万坪、子院三十六、堂塔伽藍三十二を持つ豪華絢爛たる寺院で、「上野」といえば、寛永寺をさした。
 さて、元禄五年(一六九二)五月の「新寺建立禁止令」を幕府自身が破棄し、蝦夷地に新寺建立という政策転換に踏み切り、大寺に住職人選の達しが出された。

二. 寛永寺の困惑
 幕府の達しに対し、寛永寺の困惑の様子が「住職記」から伺える。
 寛永寺の僧侶養成機関である勧学校のトップである伴頭から執当円覚院へ
「住職相応の人躰、心当も御座候故、相勧見候得共、早速御請仕べく様にも無御座候」と、急いで人選することは容易ではないことを伝えている。
 寛永寺の執当円覚院は、人選期限の十一月晦日、次のような期限の延長願いを提出している。
「人撰の儀。未だ取調仕らず候に付き、今暫、御延引成下され候様、願い奉り候」
 後述するが、実際に、寛永寺から寺社奉行に住職候補者名簿が提出されたのは、四ケ月以上も後の文化元年三月十九日であった。

三. ふたりの住職候補
 翌年の享和四年二月になって、ふたりの僧の経歴書が寛永寺に提出されている。ふたりの経歴を概略する。

1. 秀暁・・上総国芝山村・観音寺住職。年齢四十一歳。戒臈(仏教修行の年数)三十一年、勧学校在勤二十二年、十老(勧学校の教授職)五年、観音寺住職十年。
2. 豪緝・・常陸国烟田村・西光院住職。年齢四十六歳。戒臈三十三年、在勤二十三年、十老五年、病身退役中四年、西光院住職五年。

寛永寺で、蝦夷地に派遣する住職がどのような過程で選考されたかは、「住職記」には書かれていないが、「住職記」から推測すると、勧学校の十老経験者が対象になったと思われる。選考に当たったのは、先の文書から勧学校の伴頭だろう。

四. 寺社奉行の決定
 寛永寺から寺社奉行へふたりの住職候補の略歴が提出されたのは、文化元年(一八〇四)三月十九日のことである。
 それには、豪緝の「病身退役中四年」の件は書かれていない。
 ふたりの経歴を比較すると、寛永寺での経歴はふたりともそんなに変わっておらず、遜色はない。むしろ、豪緝の方が戒臈年数も勤務年数も多い。
 寛永寺からのふたりの住職候補の名簿が提出されて半月後の四月六日、寺社奉行から呼び出しを受けた観音寺の秀暁へ蝦夷地住職が任命された。

「上総国武射郡芝山観音寺儀、此度、蝦夷地へ住職申付」

 ふたりのうち、秀暁が選ばれた選考経過は、「住職記」からは伺い知れない。
秀暁の方が五歳若いことがひとつの原因だったのだろうか。また、寺社奉行が、豪緝の「病身退役中四年」を漏れ聞いたか、あるいは、寛永寺側が伝えたのか、いずれにしても不明である。

五. おわりにーふたりのその後―
 秀暁・・その後、寺号決定、手当など待遇の決定、将軍お目見えなど、さまざまな動きがあり、秀暁が江戸を出立したのは、文化二年(一八〇五)四月二十一日。箱館到着が五月二十一日。蝦夷地寺院の管轄は箱館奉行だったから、いろいろ手続きがあり、秀暁は半月ほど箱館に滞在している。六月四日箱館出立、任地の様似到着は同月二十一日。等じゅ院が完成し、秀暁は、文化三年(一八〇六)十月七日から十三日まで本尊入殿勧請供養を執り行っている。
 秀暁は病を得て、文化四年(一八〇七)十月十一日、様似の地で寂した。時に四十四歳だった。
 一方、蝦夷地住職に選任されなかった豪緝は長生きしている。天保十年十月十日寂というから、八十一歳まで、永らえた。

(注1)「等じゅ院文書第二巻」(様似町教育委員会発行、等じゅ院文書編さん委員会編 1998)

明治期の北海道の指揮官たち

◎箱館裁判所総督
・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)・・(軍務官知事より)慶応4.4.12 任命後辞退(兵部卿へ)
・清水谷公考(きんなる)・・(箱館裁判所副総督より)慶応4.閏4.5~同年閏4.21
◎箱館府知事
・清水谷公考・・慶応4.閏4.21~明治2.7.23
<開拓使時代>
◎開拓使長官・次官
1代 鍋島直正(なおまさ) (蝦夷地開拓総督より)明治2.7.13~同.8.16(大納言へ)
 次官 清水谷公考 明治2.7.23~同.9.13(大坂開成所へ)
2代 東久世道禧(みちよし ミチトミとも) (神奈川府知事より)明治2.8.25~4.10.15(侍従長へ)
 次官 黒田清隆(長官職務代行) (兵部大丞 兼)明治3.5.9~7.8.2
3代 黒田清隆 明治7.8.2~15.1.11(内閣顧問へ)
4代 西郷従道(つぐみち) (農商務卿 兼)明治15.1.11~同.2.8(兼を解く)
◎開拓使判官(明治2.7.22~5.8.24の開拓使官員改正まで)
島義勇(よしたけ) (会計官判事兼蝦夷開拓御用掛より)明治2.7.22~3.4.2(大学少監へ)
岩村通俊 (箱館府権判事より)明治2.7.25~6.1.17(5年9月から大判官。免後、佐賀県権令へ)
松浦武四郎 (開拓使大主典より) 明治2.8.2~3年3月(辞任、東京に住す)
岡本監輔(かんすけ) (箱館府権判事より)明治2.7.25~3年閏10月(東京へ帰る。以後波乱の世を送る)
竹田信順(のぶより) (旧越後高田藩士)明治2年8月~3年正月
松本十郎 (旧庄内藩士)明治2.8.18~9.9.5(明治6.1.18より大判官。依頼免官。庄内で農耕に従事)
杉浦誠 (開拓使権判官より)明治5年2月~10年1月(辞任後、東京に住し吟詠を楽しむ)
<3県1局時代>
・函館県令 時任爲基(ときとう・ためもと) (開拓使大書記官より)明治15.2.8~19.1.26(北海道庁理事官へ)
・札幌県令 調所広丈(ずしょ・ひろたけ) (開拓使大書記官より)明治15.2.8~19.1.26(高知県知事へ)
・根室県令 湯地定基(ゆち・さだもと) (七重勧業試験場長より)明治15.2.8~19.1.26(北海道庁理事官へ)
・農商省北海道事業管理局長 (農商務省大書記官より)安田定則 明治16.1.31~19.1.26(元老院議官へ)
<北海道庁時代>
◎北海道庁長官(明治期に限る)
1代 岩村通俊 明治19.1.26~21.6.15
2代 永山武四郎 明治21.6.15~24.6.15
3代 渡辺千秋 明治24.6.15~25.7.19
4代 北垣国道 明治25.7.19~29.4.3
5代 原保太郎 明治29、4.7~30.9.4
6代 安場保和(やすば・やすかず) 明治30.9.4~31.7.16
7代 杉田定一 明治31.7.16~同.11.12
8代 園田安賢(やすたか) 明治31.1.12~39.12.20
9代 河島醇(じゅん) 明治39.12.20~44.4.28
10代 石原健三 明治44.5.16~大正元.12.28

「新北海道史」「同年表」「新札幌市史」を参考に作成。
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