森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2006年12月

黒田清隆と北辰旗

◎日時:2007.1.23(火曜)13:30~14:30
◎会場:札幌市北区民センター(札幌市北区琴似2条7丁目)
◎入場無料:直接会場へおいでください。
◎テーマ
「黒田清隆と北辰旗」-北辰旗制定の経過と開拓使附属船ー
◎主催:札幌市社会教育協会
◎共催:札幌市教育委員会

黒田清隆は、何度北海道に来たか

◎はじめに
開拓使は、札幌に本庁を置かれて以来、本来、開拓業務を統括する権限があったが、実際には、東京に、「開拓使出張所」がおかれ、長官は在京して指揮していた。そのため、道内の支庁など下部機関は、本庁を経由しないで東京出張所と直接交渉することが多く、勢い、本庁は軽視されることになった。
 特に、黒田清隆は、明治3年から明治15年まで開拓使次官、ついで長官として開拓使の中枢にいたが、彼は、「不在長官」と揶揄されるほどだった。
 そこで、黒田が、在任中、何度、来道したか、述べる。
なお、初代長官鍋島直正は、在任期間が1ケ月だったこともあるが、一度も来道していない。
1.【1回目・・箱館戦争の来道】
*府軍の反撃は、明治2年の干支から「己巳(きし)」戦争ともいう。
・明治2年1月-・・黒田、軍務官(のち兵部省)に出仕、2月、清水谷公考の参謀となる。
・3月9日・・黒田、東京出帆、4月9日、政府軍参謀として、乙部上陸。
・5月11日・・正面軍8000の指揮を山田顕義に委ね、黒田は手兵300を率いて函館山の背後に登り、山上から「菊章ノ旗ヲ翻シ・鬨ノ声ヲ作り四方ニ散ジテ殺出」(「北州新話」)。山を越え、榎本軍を総攻撃。
・12日、黒田、配下の池田貞賢を箱館病院に遣わし、医師・高松凌雲を介して、榎本に降伏勧告の書を送る
・17日・・いわゆる「亀田和議」(亀田の民家で、黒田と榎本が会談)。
翌18日、榎本、降伏、五稜郭を出る。
・21日、黒田、官軍の大森浜で陣没者の慰霊法要終了後、箱館から帰還。
2. 開拓次官時代の来道
【2回目の来道】
*・明治3年5月9日、黒田、兵部大丞から開拓次官になり、樺太専務を命じる。
*明治3年8月13日、樺太出張を命じられ、品川を出発、10月20日、帰京。帰途、変装して少主典水野義郎の従者となり、北海道西海岸を巡歴。
【3回目の来道】
・明治5年3月~6月、在札。この間、ケプロンの北海道巡回に同行
【4回目の来道】
・明治5年10月8日、来札。11日~13日、本支庁長会議、いわゆる「札幌会議」開く。(岩村通俊による黒田弾劾文朗読ありとも。)
*翌6年1月9日付で、本籍を鹿児島から札幌に移す。
【5回目の来道】
・明治6年6月24日、桧山、爾志両郡の漁民騒動の際、福山に至り漁民らに懇諭し、事態を収拾。

3.開拓長官時代の来道
*明治7年8月2日・・開拓長官に任ずる。
【6回目の来道】
・明治8年5月11日、樺太出張のため東京出帆(5月7日、千島樺太交換条約調印)
【7回目の来道】
*明治8年8月31日、千島諸島出張のため東京出発。玄武丸で千島巡回、カムチャッカのペトロパウロスクを訪問、10月12日帰京。
【8回目の来道】
・明治9年7月25日、千島巡回のため、玄武丸で、東京出発。実際は、松本十郎大判官の辞意を翻すためとも。(樺太アイヌの対雁移転に反対の十郎、避けて帰郷)。なお、このとき、玄武丸には、招聘したクラークら教師や学生も乗船している。
【9回目の来道】
(*明治11年3月28日清(せい)夫人死去、黒田による謀殺説も。5月14日指導者・大久保利通暗殺。この年、失意の黒田、本務・開拓使の専念とも)
・明治11年8月8日、北海道巡回、北海道産物輸出販売のため、ウラジオストックへ向け東京出発。10月1日、札幌帰着。
・11月29日、サハリン・コルサコフ出張のため、札幌を出発。この年、初めて札幌で越冬。
*両度の航海で、黒田はロシア式馬車・馬橇、氷上蹄鉄など積雪寒冷地で物資の導入を決めた。以後、冬期交通はもちろん、本道開拓に貢献。
・翌12年1月17日、開拓使本庁舎炎上。「長官御立合の上、遂に焼申」(「札幌区史」)。雪解けを待たず、帰京。
【10回目の来道】
・明治14年8月9日、天皇の北海道巡幸の先発として来道。9月11日、帰京。
*天皇巡幸・・8月30日、軍艦「芙蓉」で小樽入港、豊平館(前年13年12月3日落成)に到着。9月4日まで滞在。
・8月31日、黒田、札幌本庁で、天皇に申奉。
◎まとめ
・黒田清隆の来道
①箱館戦争時1回
①開拓使次官として、4年8ケ月の間4回
②開拓使長官として、7年5ケ月の間5回
都合、10回来道している。
・開拓使在任中の、黒田の中央での役職を記す。新政府の中枢にあった。
①陸軍中将・北海道屯田兵憲兵事務総理(明治7年6~8月)
②参議(明治7年8月2日~明治15年1月11日)
・なお、その後の役職は、明治20年9月農商務大臣、21年4月内閣総理大臣、」25年逓信大臣、28年枢密院議長。
・明治33年8月25日死去。

<参考文献>
「北海道史人名字彙」(河野常吉編著、北海道出版企画センター、1979)
「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター、1989)
「黒田清隆」(井黒弥太郎著 吉川弘文館、1977)

開拓使の機構の変遷~役所の名称とその所在地の変遷~レジュメ

開拓使の機構の変遷~役所の名称とその所在地の変遷~レジュメ
1. 松前藩の幕末・明治初期の歩みと最後
2. 箱館裁判所から箱館府へ
3. 中央での幕末・明治維新の動き
4. 開拓使の変遷(役所の名称とその所在地)
① 東京
・明治2.7.8・・太政官制改革。開拓使設置(江戸城西丸,民部省内→太政官内)
・明治3.2.13・・「北海道開拓使」(樺太開拓使の設置期間中の名称)
・明治4.閏10.10・・北海道開拓使東京出張所、蛎殻(かきがら)町(現東京都中央区日本橋蛎殻町付近)の北海道物産所に移転。のち、稲荷堀(とうかんぼり)(現東京都中央区日本橋小網町付近)に移転。
・明治4.8.8・・開拓使東京出張所(樺太開拓使を併合)となる。
・明治4.8.27・・芝の増上寺本坊に移転(のち、同寺の方丈跡へ移転)
・明治5.9.20・・芝の増上寺境内の威徳院に移転
② 札幌
・明治2.10.12銭函に開拓使仮役所設置(鰊漁家白浜園松宅,現銭函郵便局付近)
・明治3.4.-・・開拓使仮役所を小樽信香(のぶか)町の旧兵部省小樽役所跡に移転
・明治4.4.-・・開拓使仮庁舎竣工(東創成通=現北4東1、鉄道病院付近)
・明治4.5.-・・札幌開拓使庁設置(役所は仮役所を使用)
・明治5.9.14・・「開拓使札幌本庁」となる。(旧仮庁舎が最初の本庁舎)
・明治6.11.24・・開拓使、札幌本庁舎の落成を布達(落成は10月29日)
・明治12.1.17.午後7時50頃、開拓使本庁舎出火。
・   翌18日、仮事務所を札幌農学校演武場(上川通=北2西3=)に設置。
・   1.18・・仮庁舎を旧札幌女学校跡(それ以前は、「脇本陣」だった)へ移す。以来、この仮庁舎は、明治21年12月14日、北海道庁庁舎(赤レンガ)の落成まで、10年近く、開拓使庁舎、札幌県庁舎、北海道庁庁舎として使用された。
③ 箱館(函館)
・文久4(1864).6.15・・五稜郭竣工。箱館奉行所を箱館山山麓の「御殿坂」(現基(もとい)坂の函館市元町の元町公園付近)より移転
・慶応4.4.12・・箱館裁判所設置(箱館奉行所を接収)
・慶応4.閏4.24・・箱館府と改称。・12月15日、榎本軍の政庁になる。翌明治2.5.18榎本降伏、庁舎は箱館府に復帰、同年7月24日、箱館府廃止。
・明治2.9.30・・開拓使出張所開庁。
・明治4.-・・五稜郭の庁舎取り壊し。基坂のかっての箱館奉行所を改修して移転。以後、昭和25年まで、開拓使函館支庁、函館県県庁、北海道庁函館支庁、渡島支庁の庁舎となった。
5.開拓使札幌本庁、各出張所(支庁)と東京出張所の関係
・(付)黒田清隆は、何度来道したか。(別稿)
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