以下は札幌市文化資料室古文書講座上級テキストのうち、私(森勇二)が選択したテキストに関する中間報告です。
◎報告の要旨
・解読をすすめて
・昇平丸について
・「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
1. 解読をすすめて
◎「石川源太藩」について(付箋を調べて)
私の選択テキスト「開拓使用船運行関係書類」(以下単に「テキスト」)ノ冒頭文書の右上に以下の3枚の付箋が重ねられてある。(「開拓使公文録」道文05702)
1枚目「石川源太家来乗船ノ指令」
2枚目(朱書)「石川家来○乗船願欠」
「○兼本願寺」(この部分は前行の○部分に挿入を意味する。)
3枚目「昇平丸函館銭函等ヘ航漕ノ件」(テキストP1)
更に、「石川源太」の次に「家来」と付箋があり、その下に文字が見えるので
原本に当って見ると「藩」とあり、興味がわき調べてみた。
石川源太は、旧仙台藩伊達家11門の筆頭で、実録3万3千石を領した角田藩主・石川大和守邦光のことで、「源太」は通称。
会津戦争では宗藩の仙台藩に従って旧幕軍につき参戦したため、領地をすべて没収された。旧家臣らは再起の方針を協議し、未知の蝦夷地に渡ること嘆願し、明治2年(1869)9月13日、太政官から室蘭郡の支配を仰せ付けられた。ここに旧角田藩の北海道への集団移住が決まり、同年10月13日、江源太は家臣を連れて陸路仙台を出発した。悪天候で青森、平館で滞留し、函館着は11月11日、任地の室蘭到着は11月20日のこと。(「室蘭市史」参照)
テキストの付箋の下の文字「藩」は、源太が拝領した室蘭郡の支配地。明治2年(1869)から4年(1871)にかけて、政府は、藩、士族、寺院などによる北海道の分領支配をすすめたが、支配地を「藩」と呼称した文章に始めて接した。
昇平丸の品川出帆は9月21日、函館到着は10月24日であることは、昇平丸の御用取扱からの「嘉納次郎作ヨリ昇平丸函館着港ノ届」(テキストP8の付箋)から伺える。なお、嘉納次郎作は神戸市御影の白鶴酒造の7代目の当主でもあった。また、3男嘉納治五郎は講道館柔道の創始者でもある。((「白鶴美術館」ホームページより)
さて、テキスト冒頭にある「石川源太家来」の家老佐藤小三郎、小姓頭井上三郎、用人町田十郎の3名は、藩主源太に先立って出向したことになり、彼らは函館で源太一行を待ち合わせた。(「室蘭市史」。家来の役名も)
2. 昇平丸について
昇平丸は、安政元年(1854)、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船で全長33M、排水量370トン、3本マストで帆が10枚、10門の大砲備えていた。翌安政2年(1855)幕府に献上され、幕府の海軍教習所・長崎伝習所に回航された。
昇平丸は、咸臨丸とともに、最初の開拓使附属船として明治2年(1869)
8月、兵部省管轄から開拓使に交付され、大蔵省から引き渡されたのは、9月
18日のこと。品川出帆は引渡しから3日後の9月21日。
昇平丸は、明治3年1月26日、上ノ国木ノ子村猫沢の海岸で難破し乗組員
19名中5名が死亡、15年の短い生涯を終えた。(「上ノ国町史」参照)
3. 「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
テキストP12以下は、「略輯旧開拓使会計書類」の昇平丸関係文書である。まだ解読を終えていないが、まず、「略輯旧開拓使会計書類」について調べてみた。
北海道立文書館の宮崎美恵子氏の「略輯旧開拓使会計書類について」(「北海道立文書館研究紀要第21号」(2006.3刊行)にその概要が述べられている。
宮崎氏は、「略輯旧開拓使会計書類」について、「開拓使の中枢である東京出張所の会計課等の文書であるため、多方面にわたる情報を含んでいるにもかかわらず、残念ながらこれまであまり多く利用されてこなかった。」と述べ、その原因を「会計書類というタイトルのため、数字の並んだ予算・決算書類や帳簿類、概計表のような文書というイメージが強かったかもしれない」と推測している。
そして、「略輯旧開拓使会計書類という名称が付けられているが、この文書群は・・数字の並ぶ文書ではなく、開拓使の様々な事業に関する情報満載の文書
の集まりである・・多くの利用につながれば幸いである」と結んでいる。
私は、幸いにも本講座で当該文書を選択した。指定テキスト部分の解読を、意欲をもって進めていきたい。
◎報告の要旨
・解読をすすめて
・昇平丸について
・「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
1. 解読をすすめて
◎「石川源太藩」について(付箋を調べて)
私の選択テキスト「開拓使用船運行関係書類」(以下単に「テキスト」)ノ冒頭文書の右上に以下の3枚の付箋が重ねられてある。(「開拓使公文録」道文05702)
1枚目「石川源太家来乗船ノ指令」
2枚目(朱書)「石川家来○乗船願欠」
「○兼本願寺」(この部分は前行の○部分に挿入を意味する。)
3枚目「昇平丸函館銭函等ヘ航漕ノ件」(テキストP1)
更に、「石川源太」の次に「家来」と付箋があり、その下に文字が見えるので
原本に当って見ると「藩」とあり、興味がわき調べてみた。
石川源太は、旧仙台藩伊達家11門の筆頭で、実録3万3千石を領した角田藩主・石川大和守邦光のことで、「源太」は通称。
会津戦争では宗藩の仙台藩に従って旧幕軍につき参戦したため、領地をすべて没収された。旧家臣らは再起の方針を協議し、未知の蝦夷地に渡ること嘆願し、明治2年(1869)9月13日、太政官から室蘭郡の支配を仰せ付けられた。ここに旧角田藩の北海道への集団移住が決まり、同年10月13日、江源太は家臣を連れて陸路仙台を出発した。悪天候で青森、平館で滞留し、函館着は11月11日、任地の室蘭到着は11月20日のこと。(「室蘭市史」参照)
テキストの付箋の下の文字「藩」は、源太が拝領した室蘭郡の支配地。明治2年(1869)から4年(1871)にかけて、政府は、藩、士族、寺院などによる北海道の分領支配をすすめたが、支配地を「藩」と呼称した文章に始めて接した。
昇平丸の品川出帆は9月21日、函館到着は10月24日であることは、昇平丸の御用取扱からの「嘉納次郎作ヨリ昇平丸函館着港ノ届」(テキストP8の付箋)から伺える。なお、嘉納次郎作は神戸市御影の白鶴酒造の7代目の当主でもあった。また、3男嘉納治五郎は講道館柔道の創始者でもある。((「白鶴美術館」ホームページより)
さて、テキスト冒頭にある「石川源太家来」の家老佐藤小三郎、小姓頭井上三郎、用人町田十郎の3名は、藩主源太に先立って出向したことになり、彼らは函館で源太一行を待ち合わせた。(「室蘭市史」。家来の役名も)
2. 昇平丸について
昇平丸は、安政元年(1854)、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船で全長33M、排水量370トン、3本マストで帆が10枚、10門の大砲備えていた。翌安政2年(1855)幕府に献上され、幕府の海軍教習所・長崎伝習所に回航された。
昇平丸は、咸臨丸とともに、最初の開拓使附属船として明治2年(1869)
8月、兵部省管轄から開拓使に交付され、大蔵省から引き渡されたのは、9月
18日のこと。品川出帆は引渡しから3日後の9月21日。
昇平丸は、明治3年1月26日、上ノ国木ノ子村猫沢の海岸で難破し乗組員
19名中5名が死亡、15年の短い生涯を終えた。(「上ノ国町史」参照)
3. 「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
テキストP12以下は、「略輯旧開拓使会計書類」の昇平丸関係文書である。まだ解読を終えていないが、まず、「略輯旧開拓使会計書類」について調べてみた。
北海道立文書館の宮崎美恵子氏の「略輯旧開拓使会計書類について」(「北海道立文書館研究紀要第21号」(2006.3刊行)にその概要が述べられている。
宮崎氏は、「略輯旧開拓使会計書類」について、「開拓使の中枢である東京出張所の会計課等の文書であるため、多方面にわたる情報を含んでいるにもかかわらず、残念ながらこれまであまり多く利用されてこなかった。」と述べ、その原因を「会計書類というタイトルのため、数字の並んだ予算・決算書類や帳簿類、概計表のような文書というイメージが強かったかもしれない」と推測している。
そして、「略輯旧開拓使会計書類という名称が付けられているが、この文書群は・・数字の並ぶ文書ではなく、開拓使の様々な事業に関する情報満載の文書
の集まりである・・多くの利用につながれば幸いである」と結んでいる。
私は、幸いにも本講座で当該文書を選択した。指定テキスト部分の解読を、意欲をもって進めていきたい。