森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年02月

開拓使用船運行関係書類について

 以下は札幌市文化資料室古文書講座上級テキストのうち、私(森勇二)が選択したテキストに関する中間報告です。

◎報告の要旨
・解読をすすめて
・昇平丸について
・「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲

1. 解読をすすめて
◎「石川源太藩」について(付箋を調べて)
私の選択テキスト「開拓使用船運行関係書類」(以下単に「テキスト」)ノ冒頭文書の右上に以下の3枚の付箋が重ねられてある。(「開拓使公文録」道文05702)
1枚目「石川源太家来乗船ノ指令」
2枚目(朱書)「石川家来○乗船願欠」
           「○兼本願寺」(この部分は前行の○部分に挿入を意味する。)
3枚目「昇平丸函館銭函等ヘ航漕ノ件」(テキストP1)
更に、「石川源太」の次に「家来」と付箋があり、その下に文字が見えるので
原本に当って見ると「藩」とあり、興味がわき調べてみた。
 石川源太は、旧仙台藩伊達家11門の筆頭で、実録3万3千石を領した角田藩主・石川大和守邦光のことで、「源太」は通称。
 会津戦争では宗藩の仙台藩に従って旧幕軍につき参戦したため、領地をすべて没収された。旧家臣らは再起の方針を協議し、未知の蝦夷地に渡ること嘆願し、明治2年(1869)9月13日、太政官から室蘭郡の支配を仰せ付けられた。ここに旧角田藩の北海道への集団移住が決まり、同年10月13日、江源太は家臣を連れて陸路仙台を出発した。悪天候で青森、平館で滞留し、函館着は11月11日、任地の室蘭到着は11月20日のこと。(「室蘭市史」参照)
 テキストの付箋の下の文字「藩」は、源太が拝領した室蘭郡の支配地。明治2年(1869)から4年(1871)にかけて、政府は、藩、士族、寺院などによる北海道の分領支配をすすめたが、支配地を「藩」と呼称した文章に始めて接した。
昇平丸の品川出帆は9月21日、函館到着は10月24日であることは、昇平丸の御用取扱からの「嘉納次郎作ヨリ昇平丸函館着港ノ届」(テキストP8の付箋)から伺える。なお、嘉納次郎作は神戸市御影の白鶴酒造の7代目の当主でもあった。また、3男嘉納治五郎は講道館柔道の創始者でもある。((「白鶴美術館」ホームページより)
 さて、テキスト冒頭にある「石川源太家来」の家老佐藤小三郎、小姓頭井上三郎、用人町田十郎の3名は、藩主源太に先立って出向したことになり、彼らは函館で源太一行を待ち合わせた。(「室蘭市史」。家来の役名も)


2. 昇平丸について
 昇平丸は、安政元年(1854)、薩摩藩が建造した日本初の洋式軍艦。木造帆船で全長33M、排水量370トン、3本マストで帆が10枚、10門の大砲備えていた。翌安政2年(1855)幕府に献上され、幕府の海軍教習所・長崎伝習所に回航された。
昇平丸は、咸臨丸とともに、最初の開拓使附属船として明治2年(1869)
8月、兵部省管轄から開拓使に交付され、大蔵省から引き渡されたのは、9月
18日のこと。品川出帆は引渡しから3日後の9月21日。
 昇平丸は、明治3年1月26日、上ノ国木ノ子村猫沢の海岸で難破し乗組員
19名中5名が死亡、15年の短い生涯を終えた。(「上ノ国町史」参照)

3. 「略輯旧開拓使会計書類」を読み解く意欲
 テキストP12以下は、「略輯旧開拓使会計書類」の昇平丸関係文書である。まだ解読を終えていないが、まず、「略輯旧開拓使会計書類」について調べてみた。
 北海道立文書館の宮崎美恵子氏の「略輯旧開拓使会計書類について」(「北海道立文書館研究紀要第21号」(2006.3刊行)にその概要が述べられている。
 宮崎氏は、「略輯旧開拓使会計書類」について、「開拓使の中枢である東京出張所の会計課等の文書であるため、多方面にわたる情報を含んでいるにもかかわらず、残念ながらこれまであまり多く利用されてこなかった。」と述べ、その原因を「会計書類というタイトルのため、数字の並んだ予算・決算書類や帳簿類、概計表のような文書というイメージが強かったかもしれない」と推測している。
 そして、「略輯旧開拓使会計書類という名称が付けられているが、この文書群は・・数字の並ぶ文書ではなく、開拓使の様々な事業に関する情報満載の文書
の集まりである・・多くの利用につながれば幸いである」と結んでいる。
 私は、幸いにも本講座で当該文書を選択した。指定テキスト部分の解読を、意欲をもって進めていきたい。

開拓使の役所は、どこにあったか

◎要旨
開拓使の役所がどこにあったのか、なかでも、在京の開拓使の庁舎がどこのあったか、歴史書でもあいまいな記述が多いので、名称も含め、論じて見たい。
とりあえず、東京、札幌(周辺を含む)、函館に限って書く。
【東京】
◎「開拓使」の最初の庁舎は、大名小路・旧稲葉家上屋敷内に置かれた。
・明治2.7.8・・太政官制改革で「開拓使」設置。最初の使庁は、民部省内におかれた。
 民部省は地方行政を管掌する主要行政機関であり、当初は現在の外務省(千代田区霞ヶ関1丁目1番地)の旧黒田長知(くろだ・ながとも=筑前福岡藩主)邸に置かれた。
◎2度目の開拓使の庁舎は、「東京城西丸」に移転した。
・同年8月、開拓使は、民部省内から太政官内に移転した。
<経過>
・慶応4.4.11・・討幕軍江戸城入城、慶喜水戸へ退去。
・同年閏4.21・・太政官制 制定。
・同年7.17・・江戸を「東京」と改称。
・同年9.8・・「明治」と改元
・明治元.10.13・・江戸城を皇居とし、「東京城」と改称。
・明治2.2.24・・太政官を京都から東京城・西丸に移す。
*<なぜ本丸でなく、西丸か?>文久3年(1863)6月、江戸大火で本丸、西の丸類焼し、西の丸は翌元治元年(1864)に再建されるが、以後、本丸は、再建されなかった。
ちなみに、江戸城天守閣は、明暦3年(1657)1月、いわゆる「振袖大火」で炎上、以後、天守閣は再建されていない。
・明治2年8月に、民部省内から太政官内に移転。つまり、2度目の開拓使の庁舎は、「東京城西丸」に移った。
・明治3.2.13・・「樺太開拓使」設置。「開拓使」は「北海道開拓使」となる。(明治4.8.8、樺太開拓使廃止までの名称)
・明治3.閏10.10・・在京の「開拓使」は、「北海道開拓使東京出張所」(樺太開拓使廃止後は「開拓使東京出張所」)と改称。

◎3度目・・「開拓使東京出張所」は、蛎殻(かきがら)町(現東京都中央区日本橋蛎殻町付近)の北海道物産所に移転。

◎4度目・・のち、稲荷(とうかん)堀(現東京都中央区日本橋小網町付近)に移転。

◎5度目・・明治4.8.27・・芝の増上寺本坊に移転(のち、同寺の方丈跡へ移転)
さらに、明治5.9.20・・芝の増上寺境内の威徳院に移転。以後開拓使廃止まで
の「開拓使東京出張所」の庁舎となった。

【札幌】
・明治2.10.12・・①銭函に「開拓使仮役所」設置(鰊漁家・白浜園松宅,現銭函郵便局付近)
・明治3.4.-・・②「開拓使仮役所」を小樽信香(のぶか)町の旧兵部省小樽役所跡に移転。
・明治4.4.-・・③開拓使仮庁舎竣工(東創成通=現北4東1、鉄道病院付近)
・明治4.5.-・・「札幌開拓使庁」設置(役所は仮庁舎を使用)
・明治5.9.14・・「開拓使札幌本庁」となる。(旧仮庁舎が最初の本庁舎)
・明治6.11.24・・④開拓使、札幌本庁舎の落成を布達。落成は10月29日。現在の北海道立文書館(「赤レンガ」)の北側。
・明治12.1.17.午後7時50頃、開拓使本庁舎出火。
・翌18日、⑤仮事務所を札幌農学校演武場(上川通=北2西3=)に設置。
・1.19・・⑥仮庁舎を旧札幌女学校跡(それ以前は、「脇本陣」)へ移す。以来、この仮庁舎は、明治21年12月14日、北海道庁庁舎(赤レンガ)の落成まで、10年近く、開拓使庁舎、札幌県庁舎、北海道庁庁舎として使用された。

【箱館(函館)】
・文久4(1864).6.15・・五稜郭竣工。箱館奉行所を箱館山山麓の「御殿坂」(現基(もとい)坂の函館市元町の元町公園付近)より移転
・慶応4.4.12・・箱館裁判所設置(箱館奉行所を接収)
・慶応4.閏4.24・・箱館府と改称。・12月15日、榎本軍の政庁になる。翌明治2.5.18榎本降伏、庁舎は箱館府に復帰、同年7月24日、箱館府廃止。
・明治2.9.30・・①五稜郭内の旧箱館奉行所(のち、旧榎本軍政庁)に開拓使出張所開庁。
・明治4.-・・五稜郭の庁舎取り壊し。②基坂の旧箱館奉行所を改修して移転。以後、昭和25年まで、開拓使函館支庁、函館県県庁、北海道庁函館支庁、渡島支庁の庁舎となった。
<参考文献>
・「新札幌市史」
・「新北海道史年表」

開拓判官たちの活動と生涯(2)

2. 初期の開拓判官たち
・判官とは・・次官に次ぐ役職。長官はほとんど東京にいたから、判官は、実質上札幌本庁のトップであり、開拓使の在札責任者だった。
当初、「判官」「権判官」の職名が明治5年の官員改正で「大判官」「中判官」「小判官」となる。(なお、明治10年の改正で「大書記官」「権大書記官」などに替わり「判官」の職名は消滅した)
① 札幌本府づくりに着手した島義勇(よしたけ)・・在任明治2.7.22~3.4.2
・肥前佐賀藩士。安政4年(1857)、藩主鍋島直正の命で箱館奉行・堀利熙(としひろ)の近習となり、東西蝦夷地・樺太を巡視。
・明治2年7月13日、議定鍋島直正(前佐賀藩主)が開拓使長官に任命されると、同月22日、島も、開拓判官に任命された。
・鍋島の辞任後、東久世道禧(みちよし)が二代目開拓長官になると、島は東久世に従い、9月25日箱館着。10月12日、島は、本府建設のため銭函に到着、開拓使仮役所を設置した。
*札幌・石狩の地を北海道の中心地であるべきことは、近藤重蔵、松浦武四郎も指摘していた。
・島は、11月10日、札幌に入り、丸山のコタンベツの丘(現北海道神宮付近)に登り南北基線を大友堀(現創成川・石狩通)、東西基線を銭函通(現南1条通)とする構想を立てた。島は札幌の将来を詠った。
 河水遠流山峙隅(河水遠く流れ、山、隅=すみ=に峙=そばだ=つ)
 平原千里地膏腴(平原千里の地膏腴=こうゆ・肥えた土地=)
 四通五達宜開府(四通五達宜しく府を開くべし)
 他日五州第一都(他日五州第一の都)
・「札幌建設の地碑」(南1条西1丁目東ビル角)碑文
「この地は銭函から千歳に抜ける道と、藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交差点に当り、明治2年11月10日、開拓判官島義勇、石狩大府の建設をこの地から始め・・(中略)・・今日の札幌はこの付近を基点として発達したのである」
*なお、本府構想のモデルとして、京都など都を模したとする見解がほとんどだが、「新札幌市史」は、「近世の城下町を考慮にいれて構想したもの」とし、「民地を本府地に隣接した本府区域内の街区画内に配置する構造は、島判官の出身藩佐賀藩の城下町である佐賀の都市構造に類似している」としている。
・建設資金の不足問題で東久世長官は、島の更迭を要求した。実際は、島は責任を問われるどころか、官位が1等あがって大学少督に昇進した。
<その後の生涯>
・明治3年4月、大学少監(文部省の前身・大学校)行政官、侍従、秋田権令を経て、佐賀に帰る。
・明治7年2~3月、明治政府の征韓論反対や士族解体政策に反発した佐賀の士族が、江藤新平と島義勇を頭にして県庁(旧佐賀城)を占拠する「佐賀の乱」を起こす。政府軍に鎮圧され、島、江藤は死刑(さらし首)にされる。島、52歳。
・死後45年後の大正8年(1919)7月、大韓帝国皇太子・李垠(イウン)と皇族・梨本宮方子(まさこ・鍋島直正の孫)との婚約の特赦で赦免される。
・島の業績を讃たえ、北海道神宮と札幌市役所内に銅像が建てられている。
② 札幌本府を建設した岩村通俊 在任明治2.7.25~6.1.17(5年9月から大判官)
・天保11年(1840)土佐国宿毛(すくも)村生まれ。土佐藩士。
・戊辰戦争では、官軍軍監として羽越を転戦。
・明治2年、新政府に登用され、箱館府権判事を経て7月開拓使判官となる。
4年正月、島義勇の転出のあとを受け、札幌本府建設を進めた。茅葺小屋を一掃した「御用火事」は有名。現在の札幌市街地形成の基礎を定めた功績は大きい。昭和8年、大通公園に全身銅像が建立されたが、昭和18年応召。現在、円山公園に建っている。
・黒田次官と対立し明治6年1月罷免された。
<その後の生涯>
・佐賀県令、山口地方裁判所長、鹿児島県令を歴任。維新後の三大内乱(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争)すべてに関係した。
・明治19年(1886)、北海道庁の初代長官となる。在任中、旭川建設にかかわった功績は大きい。(旭川常盤公園に岩村の銅像がある)
「何ぞ甚だ西京(今の京都)に類するや。これ実にわが邦他日の北都なり」と。けだし石狩嶽(今の旭岳)は比叡山に似、その川は鴨川の如く、而して規模の大、遠くこれに過ぐ。」(岩村通俊記 上川紀行)
・明治22年第1次山県内閣の農商務大臣。大正4年2月病死。76歳。
③ 著名な探検家・松浦武四郎  在任明治2.8.2~3年3月
・文政元年(1818)伊勢の郷士(武士ながら農村に住み農業を営む)の三男に生まれる。14歳で諸国を遍歴する。
・弘化元年(1845)、初めて蝦夷地に入り、知床まで至る。翌年には、樺太探検を果たす。嘉永2年(1849)には、クナシリ、エトロフを探検するなど、蝦夷通として有名になる。「東西蝦夷山川取調日誌」85巻、「東西蝦夷山川地図取調図」25巻など多数の著作がある。その中で、アイヌ民族救済の急務を切々と訴えたが、認められなかった。
・明治新政府が成立すると、明治2年8月、開拓判官に任じられた。8月15日、蝦夷地を「北海道」と改め、11国86郡を画定されるが、その区画と選定には、武四郎の考案による所が多い。
<その後の生涯>
・アイヌ民族対応などで政府の方針は、武四郎の意にそぐわない所が多く、明治3年3月、辞任。政府は、松浦の功績を賞し終身15人扶持を給した。その後は、清貧に安んじ、書画骨董を友とし、著述をもって余生を過ごした。明治21年、71歳で病死。
④ 北門の危機を説いた岡本監輔(けんすけ) 在任明治2.7.25~3年閏10月
・天保10年(1839)阿波の農家に生まれる。若くして儒学・漢学など学問にめざめる。高松でザガレン(樺太)の話を聞き、江戸で間宮林蔵の「北蝦夷図説」に感激、「北門の鎖鑰(さやく=とじまり)を厳にせん」との志を持ち、文久3年(1863)支援者の援助を得て樺太にわたる。
・元治元年(1864)には、幕府(箱館奉行)唐樺太在住を命じられ、翌慶応元年(1865)には、サハリン東海岸を北上し、最北端のガオト岬をまわり、日本人初の樺太一周をした。
・明治になり、岡本は旧知の清水谷に北門の危機を説き、清水谷は蝦夷地問題を朝廷に建議、箱館裁判所の設置をみた。清水谷が箱館裁判所総督になると、岡本は、慶応4年4月、権判事に補され樺太担任を命じられ、募集した移民200人を率いクシュンコタン(旧大泊、現コルサコフ)に赴任した。
・明治2年7月開拓使設置で判官に任じられた。同年9月、さらに300人の募集農民伴い樺太へ向かった。
<その後の生涯>
・樺太経営に消極的な黒田次官と合わず、明治3年閏10月、開拓判官を辞職。
・明治24年(1891)千島に外国密漁船の出没横行を聞き、千島・ウルップ島まで視察、帰京後「千島義会」を設立し北辺を守備しようと奔走するが成功せず、のち台湾日本語学校長になり、明治35年(1902)帰国、明治37年没。享年66歳。
⑤ わずか半年の判官・竹田信順(のぶより) 在任明治2年8月~3年正月
・生没年不詳。越後高田藩の家老。戊辰戦争で藩論を討幕に導き、高田は官軍の奥羽追討の基地となった。
・明治2年8月、政府は竹田を開拓判官とし、10月、開拓使宗谷出張所が開設されるとその主任官に命じ、11月、竹田は移民100人とともに任地の宗谷に入った。
・翌明治3年1月、出張所を廃し、金沢藩の支配地となり、竹田は職を免じられた。
<その後の生涯>
・帰国後の竹田の動静は旧高田藩の記録にも明らかでない。
⑥ 「アツシ判官」松本十郎 在任明治2.8.18~.9.5(明治6年1月17日から開拓大判官)
・天保10年(1839)鶴岡城下で庄内藩士の長子に生まれる。
・文久3年(1863)父に従って西蝦夷地苫前・浜益に在勤
・戊辰戦争で庄内藩は旧幕奥州羽越列勢力だったが、明治元年9月26日官軍に降伏。鶴岡城開城の際の受取人黒田清隆の知る所となる。
・明治2年8月、開拓判官に任じられ根室在勤となる。場所請負人を廃止し、漁場を希望者に割り渡すなど、漁業の振興に努めた。
・明治6年1月、岩村通俊大判官辞任のあと、開拓大判官に任じられた。
松本は、役人の削減、綱紀粛正を実行し、赤字の解消、稲作の奨励など農業の振興、また、アイヌ衣装・アツシを着て管内を巡視し、「アツシ判官」といわれるようにアイヌ民族の境遇に深く同情していた。
・明治8年、千島樺太交換条約が結ばれ、樺太はこれまでの日露雑居地からロシア領になり、松本は日本移住を望む樺太アイヌ841名を宗谷に移す。
黒田清隆長官は、対雁(ついしかり・現江別市対雁)に移住させた。
松本は「樺太アイヌは海浜の民なり。今これを内陸に移して駆使せんは、惨忍極まれリ」と反発、辞表を提出し、庄内に帰る。黒田は慰留に来道するも合わず。
<その後の生涯>
・庄内で自ら鋤・鍬を執って農耕に従事。145巻にわたる「空語集」を著す。大正5年(1916)78歳をもって没した。
⑦ 最後の箱館奉行・杉浦誠 在任明治5年2月~10年1月
・文政9年(1826)、幕臣の子として生まれる。
・慶応2年(1866)1月、箱館奉行に補される。幕府の機関である箱館奉行の最後の奉行となった。
・幕府が倒れたのちも箱館に留まるが、慶応4年(1868)閏4月、箱館奉行の新政府の箱館府知事・清水谷公考に引き渡し江戸へ帰任。
・明治2年8月、手腕を買われ開拓権判官に起用され、開拓使箱館出張所に着任。5年2月開拓判官となる。
・明治10年(1877)辞職。箱館奉行時代から通算11年間、専ら函館で行政官として尽力。
<その後の生涯>
・函館を去ってからは東京で吟詠を楽しみ、「晩翠吟社」を起こした。明治33年(1900)75歳で没するまでの23年間は、政治から全く離れ、吟詠に打ち込んだ。彼の名は、箱館奉行、開拓判官よりも、漢詩人・杉浦梅潭として知られている。

◎まとめ
明治初期、未開の北海道の開拓を指導した政治家であり、実務担当者である開拓判官を追ってみた。そのうち、だれひとりとして、北海道に骨を埋めていない。
彼らの生涯・末路は実にさまざまであった。

<参考文献>
・「江戸300藩最後の藩主」(八幡和郎著 光文社新書 2004)
・「新札幌市史第2巻」(札幌市、1991)
・「北海道史人名字彙」(河野常吉著、北海道出版企画センター、1979)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編、1993)

開拓判官たちの活躍とその生涯(1)

◎はじめに
 激動の明治維新期に、北の辺境の地・北海道の開拓を指導した開拓使の指導者・開拓判官たちの活躍と、彼らの生涯を追ってみる。
・明治期の北海道の政治体制
① 開拓使時代・・明治2.7.8~15.2.8
② 3県1局時代(札幌・函館・根室の3県と農商務省北海道事業管理局)
・・明治15.2.8~19.1.26
③ 北海道庁時代・・明治19.1.26以降
1. 開拓長官・次官
○1代開拓長官 鍋島直正(なおまさ)在任明治2.7.13~同.8.16
・文化11年(1814)生まれ。17歳で肥前佐賀藩主。陶器(有田焼)を外国に輸出するなど、藩政改革を行い、藩を窮乏のどん底から救う。
・海外の新知識吸収に積極的で、反射炉を建設し嘉永5年(1852)には日本最初の新式の洋式銃砲の製造に成功した。更に強力なアームストロング銃を製造した。またわが国初の蒸気船「凌風丸」(りょうふうまる)を購入し、幕末諸藩中最強の海軍力を持つまでになった。
 また学問にも熱心で藩校・弘道館を充実させ、大隈重信、副島種臣、江藤新平ら明治政府の指導者を輩出させた。更に「医者の学問」と軽蔑されていた蘭学を学び「蘭癖大名」の異名をとった。
・幕末の動乱期には、倒幕側につくものの、薩長を主力とする武力倒幕には消極的で、「肥前の妖怪」と警戒されたが、もっぱら藩力の強化を図り経営手腕に秀でて「そろばん大名」と呼ばれた。王政復古派の中心・「薩長土肥」といわれるが、肥前藩は、戊辰戦争の発端になった鳥羽伏見の闘いには参加せず、倒幕の政治的対処はほとんどしていない。のち、上野の旧幕彰義隊、会津攻めでは鍋島藩のアームストロング砲が勝敗を決した。
*王政復古での「薩長土肥」・・「薩長土」は異存ないとして、他に功績のある藩が多いのに、なぜ「肥前」が入るか。上野黒門、会津若松城への肥前のアームストロング砲が決定的な役割を果たした。肥前は早くから近代兵器産業を育てた。
・明治2年1月、薩長土肥4藩主連名で版籍奉還を上表し、新政府への集権体制の確立を促進させた。
・直正は、文久元年(1861)には、家督を直大(なおひろ)に譲ったが、実権を握り続け、明治新政府では重きをなし、議定(ぎじょう)になり明治2年6月蝦夷開拓総督を命じられ、部下の島義勇らを開拓御用掛に任じ、次いで7月13日、開拓使設置と同時に開拓長官となる。
<その後の生涯>わずか1ケ月後の明治2年7月13日、大納言に転任。4年1月病死。58歳。
○開拓次官 清水谷公考(きんなる)・・在任明治2.7.23~同.9.13
・弘化2年(1845)生まれ。京都の公家の出。幼時比叡山の仏徒となる。のち還俗して家を継ぐ。慶応2年(1866)、岡本文平(監輔)が寄食、意気投合する。
・岡本の主張に同意し、ロシアの侵略を防ぐため蝦夷地の防備と開拓を明治新政府に建議。
・慶応4年(1867)4月12日、箱館裁判所が設置されると副総督を経て翌閏4月5日、わずか22歳で総督に任じられた。先の岡本監輔を裁判所在勤権判事に任命。次いで閏4月24日、箱館裁判所が廃止され、箱館府となると、知事に任じられた。
・清水谷、閏4月27日、五稜郭の箱館奉行所で、旧幕府箱館奉行・杉浦誠から事務を引き継ぐ。
・9月8日、慶応4年を明治元年と改め、1世1元制(1代1元号)を定める。明治元年10月、旧幕・榎本武揚軍、鷲ノ木に上陸、清水谷、青森へ退き、政府軍の青森口総督を兼ねる。翌2年5月18日、榎本武揚が降伏。清水谷は、旧に復す。
・7月8日、開拓使設置。24日、清水谷は開拓次官となる。わずか2ケ月後の9月辞任。
・<その後の生涯>大坂開成所に学び、ロシアに留学。最初で最後の箱館府知事清水谷は、歴史的に特筆される事績を残さないまま、明治15年12月、わずか37歳の生涯を終えている。
○2代開拓長官 東久世道禧(みちよし ミチトミとも)・・在任明治2.8.25~4.10.15
・天保4年(1833)生まれ。少壮の公家として幕末の朝廷で尊皇攘夷を唱え活躍。文久3年、薩摩、会津に後押しされた公武合体派のクーデターにより三条実美ら7人の公家とともに京都を追われ長州に逃れた。いわゆる「7卿の都落ち」という。
・慶応3年(1867)帰京を許され、慶応4年(1868)正月3日、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)では、官軍の軍事参謀となる。幕府軍敗走後の15日、東久世通禧は神戸で王政復古を各国に通告した人物。議定(ぎじょう)、神奈川府知事を経て明治2年8月26日、開拓長官に任じ、9月箱館在勤、開拓使箱館出張所を開き、島義勇を札幌本府づくりに派遣するなど、北海道開拓を指揮。明治4年4月、札幌へ移動、5月札幌開拓使庁設置。
・<その後の生涯>・明治4年十月侍従長に転じ、同年10月の岩倉使節団に随行し欧米を視察。のち枢密院副議長となる。明治45年1月4日病死。78歳。
○開拓次官 黒田清隆(長官職務代行)・・在任明治3.5.9~7.8.2
○3代開拓長官 黒田清隆・・在任明治7.8.2~15.1.11
・薩摩藩士。天保11年(1840)10月生まれ。江戸に出て江川太郎左衛門に兵学、砲術を学ぶ。
・戊辰戦争では、官軍参謀となり北越を転戦、箱館戦争では五稜郭に立てこもった榎本武揚を降伏させる。
・明治3年5月開拓次官に任じ、主として樺太を担当。4年1月アメリカに赴きケプロンらを雇用し帰国。
・明治4年8月、「開拓10年計画」策定(これまで1年20万円の定額金が翌5年から10年間1000万円、年平均100万円と5倍に増額された)
・明治4年10月、東久世長官の侍従長転任後は開拓使のことは、黒田の担任に帰した。以後、道路、鉄道の開削、炭鉱、農業の経営、教育の振興に至るまで北海道開拓の総指揮者として活動した。
・明治10年(1877)西南戦争では、かつての師であり盟友だった西郷隆盛を討つため、政府軍の参軍として参加。
・明治14年、「開拓10年計画」が週末を迎え、黒田はその延長と開拓使の存続を望んだが許されず、黒田は官有物の一括払い下げを計画したが世論の大反対に合い挫折。(開拓使官有物払い下げ事件)
<その後の生涯>
・明治15年、黒田は、内閣顧問に転じる。20年、農商務大臣となり、21年(1888)第2代内閣総理大臣となる。その後、逓信大臣、枢密院議長なる。明治33年(1900)8月没。59歳。
○4代開拓長官 西郷従道(つぐみち、ジュウドウが正式の読みとされる)・在任明治15.1.11~同.2.8 
・天保14年(1843)生まれ。薩摩藩士。兄は西郷隆盛。
・兄が征韓論で下野した際、政府に留まり、兄の死後は薩摩閥の重鎮となる。のち、再三首相候補に推されたが兄隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた。
・明治15年1月、黒田の辞任後、開拓使廃止までのわずか半月だが、農商務卿兼務のまま4代開拓長官となり、開拓使廃止と3県(函館、札幌、根室)設置が任務。
<その後の生涯>・伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣を歴任。明治31年(1898)、海軍軍人として初めて元帥の称号を受けた。明治35年(1902)
58歳で死去。
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