◎はじめに
先般、ある講演会で、講師が孝明天皇の死因について言及し、「孝明天皇毒殺説」を述べた。
そこで、孝明天皇の死因について述べたい。
いうまでもなく、孝明天皇は、明治天皇の父で、幕末動乱期の天皇である。
公武合体派の天皇として知られ、妹和宮を14代将軍家茂に嫁がせている。
慶応2年(1866)12月25日に35歳で死亡した。
当時から岩倉具視ら倒幕派による暗殺説が流され、幕末明治初期のイギリス外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、「孝明天皇毒殺」の噂を記しているほどだ。
1. 孝明天皇主治医の日記
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(いらこ・おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。
岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。
2. 最近の研究―毒殺否定説―
明治維新史研究者の佐々木克氏は、著「戊辰戦争」(中公新書)の初版本(1977)で、前記の伊良子光順日記に触れ、孝明天皇毒殺説を述べている。
ところが、1990年の改訂版の「あとがき」に「追記」として日本近代史研究者の原口清氏の孝「明天皇毒殺否定説」を紹介している。
その概要は、
最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性疱瘡の両者をふくめた出血性疱瘡で死亡した」と明確に主張された(「孝明天皇は毒殺されたか」『日本近代史の虚像と実像』1、1990、大月書店)
原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、・・・おわび申し上げたい
◎感想
私(森勇二)は、孝明天皇の死因論争に加わる資格も素養もない。
ただ、佐々木克氏のこういう、謙虚な態度に接すると、こころが洗われる。
先般、ある講演会で、講師が孝明天皇の死因について言及し、「孝明天皇毒殺説」を述べた。
そこで、孝明天皇の死因について述べたい。
いうまでもなく、孝明天皇は、明治天皇の父で、幕末動乱期の天皇である。
公武合体派の天皇として知られ、妹和宮を14代将軍家茂に嫁がせている。
慶応2年(1866)12月25日に35歳で死亡した。
当時から岩倉具視ら倒幕派による暗殺説が流され、幕末明治初期のイギリス外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、「孝明天皇毒殺」の噂を記しているほどだ。
1. 孝明天皇主治医の日記
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(いらこ・おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。
岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。
2. 最近の研究―毒殺否定説―
明治維新史研究者の佐々木克氏は、著「戊辰戦争」(中公新書)の初版本(1977)で、前記の伊良子光順日記に触れ、孝明天皇毒殺説を述べている。
ところが、1990年の改訂版の「あとがき」に「追記」として日本近代史研究者の原口清氏の孝「明天皇毒殺否定説」を紹介している。
その概要は、
最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性疱瘡の両者をふくめた出血性疱瘡で死亡した」と明確に主張された(「孝明天皇は毒殺されたか」『日本近代史の虚像と実像』1、1990、大月書店)
原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、・・・おわび申し上げたい
◎感想
私(森勇二)は、孝明天皇の死因論争に加わる資格も素養もない。
ただ、佐々木克氏のこういう、謙虚な態度に接すると、こころが洗われる。