森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年03月

孝明天皇の死因について

◎はじめに
先般、ある講演会で、講師が孝明天皇の死因について言及し、「孝明天皇毒殺説」を述べた。
 そこで、孝明天皇の死因について述べたい。
 いうまでもなく、孝明天皇は、明治天皇の父で、幕末動乱期の天皇である。
 公武合体派の天皇として知られ、妹和宮を14代将軍家茂に嫁がせている。
 慶応2年(1866)12月25日に35歳で死亡した。
 当時から岩倉具視ら倒幕派による暗殺説が流され、幕末明治初期のイギリス外交官アーネスト・サトウは「一外交官の見た明治維新」の中で、「孝明天皇毒殺」の噂を記しているほどだ。

1. 孝明天皇主治医の日記
孝明天皇の主治医、伊良子織部正光順(いらこ・おりべのかみみつおき)の当時の日記とメモが光順の曾孫にあたる医師、伊良子光孝氏によって発見され、その中身が昭和50年から52年にかけ、「滋賀県医師会報」に発表された。
『天脈拝診日記』と題された、日記とメモの解読報告である。
 光孝氏は、記録に残る孝明天皇の容態から、最初は疱瘡(痘瘡)、これから回復しかけたときの容態の急変は急性薬物中毒によるものと判断した。
さらに光孝氏は、痘瘡自体も人為的に感染させられたものと診て、こう記したという。「この時点で暗殺を図る何者かが、『痘毒失敗』を知って、あくまで痘瘡によるご病死とするために、痘瘡の全快前を狙ってさらに、今度は絶対心配のない猛毒を混入した、という推理がなりたつ」
 伊良子光順の文書を整理した日本医史学会員・成沢邦正氏、同・石井孝氏、さらに法医学者・西丸與一氏らは、その猛毒について、砒素(亜砒酸)だと断定している。
 当時の宮中では、医師が天皇に直接薬を服用させることはできなかった。
必ず、女官に渡して、女官から飲ませてもらうのだという。前述石井孝氏は、女官たちの中で容疑者と目される者の名を、つぎのように挙げている。

岩倉具視の実の妹、堀可紀子。
匂当内侍だった高野房子。
中御門経之の娘で典侍だった良子。

2. 最近の研究―毒殺否定説―
 明治維新史研究者の佐々木克氏は、著「戊辰戦争」(中公新書)の初版本(1977)で、前記の伊良子光順日記に触れ、孝明天皇毒殺説を述べている。
 ところが、1990年の改訂版の「あとがき」に「追記」として日本近代史研究者の原口清氏の孝「明天皇毒殺否定説」を紹介している。
 その概要は、
 
 最近原口清氏は、暗殺説を否定し、天皇の死因は「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性疱瘡の両者をふくめた出血性疱瘡で死亡した」と明確に主張された(「孝明天皇は毒殺されたか」『日本近代史の虚像と実像』1、1990、大月書店)
 原口氏の説は説得力があり、私も同意したい。本文の私のかっての記述は、誤りであったことをここでお断りし、・・・おわび申し上げたい

◎感想
 私(森勇二)は、孝明天皇の死因論争に加わる資格も素養もない。
 ただ、佐々木克氏のこういう、謙虚な態度に接すると、こころが洗われる。

開拓使附属船・昇平丸の運行と沈没

1. 昇平丸の概要と開拓使附属船としての役割
① 建造から開拓使附属船となるまで
昇平丸は、嘉永6年(1853)5月、薩摩藩が桜島瀬戸村の造船所で起工した洋式木造帆船である。建造の経過を述べると、幕府は、寛永12年(1635)から、500石(約75トン)以上の大船建造を禁止していたが、薩摩藩主島津斉彬は、琉球との交易のみに使用する条件で琉球船風を装った大型帆船建造を申請し許可された。これが昇平丸となる。
昇平丸の着工の翌月の6月、ペリー艦隊が浦賀に来航、同年9月15日、幕府は、200年以上続けてきた大船禁止令を解いた。
斉彬は、昇平丸の設計変更を行い、翌安政元年(1854)12月、3本マストに帆が10枚、推定排水量370トン、全長約27メートル、大砲16門を備えた大型帆船が完成した。
薩摩藩は昇平丸を幕府に献上した。幕府が長崎海軍伝習所設置を決めると、昇平丸は勝麟太郎、中島三郎助ら第1期伝習生を乗せ、品川を出帆、同年10月20日、長崎に到着、以後、長崎海軍伝習所の実習船となる。実習船には、昇平丸と同時に開拓使附属船となった蒸気船咸臨丸もあった。
② 開拓使附属船
明治初めの北海道の海上交通事情は「本道ハ四面海ヲ環ラシ、貨物ノ出入皆船艦ノ力ニ由ラサルナシ」(「開拓使事業略記」)という状況で、明治2年(1868)7月8日、開拓使が設置されると、東久世通禧開拓長官は、明治政府に14ケ条の「開拓施策要項」を提出、そのひとつに「附属船ヲ備フル事」を挙げ、帆船・汽船の交付を要求した。
同年8月29日、兵部省の管轄にあった昇平丸は、汽船・咸臨丸とともに開拓使への交付が決まり、昇平丸は9月18日、大蔵省から引き渡された。(「函館市史」)この2隻は、開拓使が所有した附属船29隻のうち、最初に所有した船舶である。
③ 昇平丸の役割
 開拓使附属船の役目は、北海道への物資輸送と北海道産物の販売のための輸送であった。
 昇平丸が開拓使所管となった当時の北海道の状況について、「新札幌市史」は、「戊辰戦争後の北海道への回米不足などによる北海道での全般的な物資不足の状態、さらに兵部省の会津降伏人移住、そして本府建設のための諸職人の導入と正米による給料支給など、北海道での物資不足を促進させることばかりであった」と述べている。
 さらに、「新札幌市史」は、「全国的・全道的米不足の状態下では、昇平丸は重要な存在であった」と指摘している。

2. 品川出帆から沈没に至る経過
①出帆から函館到着まで
 昇平丸は、明治2年(1869)9月21日品川出帆し、開拓使附属船としての初航海が始まった。回漕御用取扱の嘉納次郎作(灘・御影の白鶴酒造の7代目当主でもある。3男治五郎は講道館柔道の創始者)から開拓使へ「御米竝便船人、荷物共積入、昨廿一日、品川沖出帆仕候」(「開公」)と届けられている。
 「開公」には、積荷について「米千三百弐俵端壱俵、荷物三拾九個、人員拾八人」とある。また「便船人」として、この年9月13日に室蘭郡を拝領した石川源太(旧仙台藩角田領主石川邦光)の家来3名、東本願寺家来の名前が見える。
 昇平丸の行き先については同年9月の日付で、開拓使から「品海より函館並銭函迄 津々浦々 庄屋 年寄」宛に「昇平丸御船・・函館竝銭函へ差向・・出帆候条、若於途中逢難風及難儀候ハバ、早速助船差出万端手当可致置候也」と達しがあるように、当初から函館経由銭函行であった。昇平丸の運行は、「新札幌市史」にあるように、本府建設のための物資輸送が大きな目的であったことが伺える。
 その後の昇平丸の運行について、嘉納次郎作から「十月十七日南部ミヤコ出帆、同廿四日函館表へ無事入津仕候段、船長喜代蔵より申越候」と届けがある。
 昇平丸の箱館到着は10月24日のこと。 
 ついでながら、任地の北海道へ向かう東久世開拓長官、島義勇判官、岩村通俊判官、松本十郎判官ら、開拓使官員100名ほど、ほかに根室方面に向かう開拓移住民200名が乗船したイギリス商船テールス号が品川を出帆した日は、奇しくも、昇平丸と同じ明治2年(1869)9月21日である。ちなみにテールス号の函館到着は9月25日で、昇平丸より1ケ月も早い。(「函館市史」)
②船長の交代
<喜代蔵の解任>
 昇平丸が函館港に到着した5日後、開拓使は船長を喜代蔵から浦田伊助へ交代させている。
 その経過について、「開公」に喜代蔵から嘉納次郎作への報告がある。
すなわち、
 昇平丸の函館到着の2日後の10月26日、「八木下様」(八木下信之権大主典)から、「石狩場所へ御米不残運送可致」と仰せ渡されたのに対し、喜代蔵は「雪中に相成、水主帆前働自由不相成候時節」だと断っている。旧暦10月26日は、新暦でいえば11月29日に当たる。もう師走も近い。「雪中」になっても不思議ではない。さらに、翌27日には、「広川様」(広川信義権大主典)からも「水先世話以不被参候哉」と問い合わせがあり、喜代蔵は「いかにも帆前故水主働方むつかしく候」と渋っている。さらに29日、広川権大主典から再度呼び出しがあり、「何連にも石狩迄参候」と、再度催促された。
 再三の催促に喜代蔵は「参候心得にて、前書水先等も夫々心縣ケ」と、石狩行きを覚悟し、準備を始めた。
 ところが、11月2日になり、喜代蔵は「今般、其船乗組之者共差免候に付、船具其外積荷金品共、夫々正路に勘定相立、浦田伊助へ引渡可申事」(略開)と突然、解任された。喜代蔵は「誠に当惑仕候」と驚きを隠せない。
 開拓使としては、石狩行きを渋る喜代蔵を見切ったことになる。開拓使にとって、石狩への米の輸送が緊急の課題であったことが伺える。
<新船長・浦田伊助>
 「略開」に、開拓使が10月29日に、次のような申し渡しがある。

「          信沢銀蔵
 昇平丸小樽行、乗組金穀積荷監督申付候
 巳 十月
            浦田伊助
 今般、昇平丸船司申付候間、外水主之向逐一吟味、乗子相揃、船受取乗代可致候事
 巳 十月
 (朱)廿九日 申渡」

 つまり、広川権大主典が喜代蔵を2度目に呼び出した当日、10月29日に、船長を浦田に交代させた。電光石火の解任と後任選定は、昇平丸の石狩行きが、かなり切迫していたことをうかがわせる。
 さて、「略開」に浦田伊助の経歴が記されている。それによると、
「生国能州地之浦 箱館天神町 長蔵子分」とあり、文末には「身本引請 弁天町 山田屋左兵衛」とある。
伊助の略歴を記すと、
・元治元年(1864)箱館奉行に召し出され、慎敬丸(函館市史は、「信敬丸」とする)水主を勤め、岩内石炭積取、その後、沖の口勤番、常灯明勤番を勤める。
・慶応3年(1867)「官より御頼有之」、アメリカ鯨漁船ジャウリーヤ号に「鯨漁稽古之ため」乗り組み、カムチャッカ、アリューシャンへ行く。
・慶応4年(1868)3月13日、箱館帰着。沖の口勤番を勤める。
・同年6月11日、箱館丸表役仰せ付けられる。8月1日出帆、アイロップで難船、樺太・シラヌシで越年。
・明治2年(1869)2月3日宗谷着。また樺太・クシュンコタンに戻り、6月27日、岡本監輔判官が同船し、岡本はイシカリへ上陸。7月11日、箱館着。
・同年10月29日、昇平丸船司に任命された。
・そして、明治3年1月26日、木の子村安在浜で昇平丸沈没、
開拓使は、昇平丸が箱館到着のわずか5日後に喜代蔵を解任し、伊助と交代させている。
伊助の経歴を見る限り、船乗りとしての経験も豊かで、「氷海」(「略開」)のアリューシャンでの鯨漁を経験しているし、樺太の海も知っている。北の海に慣れている点でも、ベテランという点でも、伊助は、喜代蔵に勝るとも劣らないのではないだろうか。
 私は、喜代蔵が解任されたのは、彼が、石狩行きを渋ったことが最大の理由だろうと思う。開拓使は、伊助の技術と経験を買って、喜代蔵を呼びつけたその日のうちに、後任にすえている。米を始め昇平丸の積荷の石狩行きがいかに緊要であったかが伺える。
③ 昇平丸破船
さて、「略開」に、昇平丸の破船について、明治3年(1870)1月27日付の昇平丸監督信沢銀蔵の書付がある。

「昨廿六日朝辰之前頃に、悪風にて江差在木野子村安在浜と申処に打為寄、無拠破船仕候。然る処、船頭浦田伊助始め表役壱人、水夫弐人、かしき壱人、都合五人海死仕候」

 真冬の日本海で、急遽、船長を命じられた浦田伊助船長始め5人が死んだ。
 破船場所について、「略開」は、「安藤浜」とも「安在浜」ともある。(「新札幌市史」は「横沢浜」としている)
 現在の上ノ国村木の子の日本海に流れ込む「大安在川」「小安在川」があるから、「安在浜」が正しいと思う。
 なお、信沢銀蔵監督始め14人は、怪我をするものの、「村人多勢引上呉」、助かっている。
 積荷は「御米壱俵も上陸不仕」、すべて海に沈んだ。

3. 沈没後の処理
 昇平丸監督信沢銀蔵は、先の書付で、事後の処置について、「私、取計ひ相成兼」、開拓使の「出役」を願い出ている。
 開拓使は、北川(敏行)権少主典が木の子へ出張させ、その報告をうけ、「略開」に、「昇平丸破船始末」についての回漕掛の書付がある。
 それによると、事後処理の基本方針は、
①「水主共は、其場にて手当致、不残暇差出」
②「溺死人は、其場へ葬候」
③「村方へ賄代御払」
であった。具体的には、
「一 金 拾五両
是は溺死人の者葬式入用 壱人三両の見込
 一 金 九拾両
     是は残十五人分賄代 壱人一日永三百文ヅツ
 一 金 四拾両
     是は水主拾四人暇差出候に付、御手当金一人前三両の見込」

玄米六合づつ差し出されており、回漕掛は、松前家へその分として合計玄米九石六斗の返済伺いを出している。

◎解読を終えて
 関連文献を参照ながら、昇平丸運行関係書類を読み進めて、当時、開拓使にとって、船舶による物資輸送の重要さと困難さを改めて感じた。
 明治初期、北海道開拓の黎明期の事件であるが、それが、その後の開拓使の事業にどのような影響をあたえたのか。「新札幌市史」は、昇平丸の遅延・沈没は、「北海道での全般的な物資不足の状態下でそれをさらに深刻化させ、島判官の事業を左右することになる」と述べている。
 今後、その影響の内容と開拓使の対処、さらに、後続の開拓使附属船の運行と役割、その末路に関しても関連文書を読んでみたいと思う。
<主な参考、引用文献・ウェブサイト>
・「新北海道史第3巻通説2」(北海道)
・「函館市史」(函館市)
・「新札幌市史第2巻通史2」(札幌市)
・「開拓使事業報告」(道立文書館)
・「開拓使事業略記」(『新北海道史第7巻史料1』)
・「開拓使職員録」(道立文書館)
・「新版日本史年表」(歴史学研究会編 岩波書店)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター)
・「幕臣たちと技術立国」(佐々木譲著、集英社新書)
・「壮大な物語」(株式会社島津興業ウェブサイト)
・「ペリー来航と石川島造船所」(石川島播磨重工ウェブサイト)
・「昇平丸物語」(上ノ国商工会ウェブサイト)
・「白鶴美術館」(白鶴酒造ウェブサイト)

箱館役所からの「触書」の順達の村々名   (山越内村帳場「触書留」より)

「函館市史」学習メモ

箱館役所からの「触書」の順達の村々名   (山越内村帳場「触書留」より)

先般、於朝廷箱館裁判所総督ト被仰出所、当度御改革ニ付、箱館府知府事ト被仰出候間、以後知府事殿ト相唱候趣被仰付候事。判事ノ儀モ判府事権判府事ト被仰出候事
      七月十七日 
下湯川村、深堀村、上湯川村、鷲巣村、志苔村、亀ノ尾村、銭亀沢村、石崎村、小安村、戸井村、尻岸内村、尾札部村、臼尻村、鹿部村、砂原村、掛間村、尾白内村、鍛冶村、神山村、赤川村、石川郷、大川村、中島郷、七重村、飯田郷、城山郷、藤山郷、有川村、戸切地(へきりじ)村、吉田郷、三谷村、三好郷、富川村、茂辺地村、当別村、三ツ谷(石カ)村、釜谷村、泉沢村、札刈村、木古内村、亀田村、一本木村、千代田郷、中ノ郷、濁川村、文月村、大野村、鶴ノ郷、本郷村、市ノ渡村、峠下村、森村、鷲木村、落部村、山越内村、長万部村
合五拾六ヶ村
注・・慶応四年(1868)五月一日、五稜郭の旧箱館奉行所庁舎を箱館裁判所として開庁された。この文書は、同年七月十七日、箱館府が管内に布告した「触書」である。
この文書の「順達」は、七月十七日に発せられ、下湯川村から始まり、亀田半島を一周し、尾白内から南下し箱館周辺の村々を回り、木古内に向かう。木古内から引き返し、亀田に戻り、大野川を更に北上し、森を経て長万部に至る。
なお、山越内村着は八月十六日とあるから、「触書」が箱館管内を回り終わるのに一ケ月かかっていることになる。

江戸(東京)に置かれた産物会所

◎はじめに
 明治3年(1870)閏10月10日、在京の「開拓使庁」を「開拓使東京出張所」と改称し、東京城西の丸内の太政官から、蛎殻(かきから)町の「北海道産物会所」に移転した。
 それに関して「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」という質問・疑問が寄せられたので、資料を参考に、小論を書く。

1. 江戸時代の江戸産物会所
<蝦夷地直轄の経過>
・寛政11年(1799)、幕府は東蝦夷地を直轄とする。
・享和2年(1802)2月、蝦夷地奉行を新設。
 幕府機構で位置は、遠国奉行のひとつで、格式は、長崎奉行の次座、奈良奉行の上座であった。
・同年5月、箱館奉行と改称。箱館奉行2名、1年交代で箱館在勤、ひとりは、江戸在勤(役所は、霊岸島の箱館奉行の江戸会所)とした。
また、吟味役2名は、箱館3年在勤とした。さらに、調役6人、調役並5人、調役下役10名、あわせて21名を任命し、7人を江戸掛、14人を箱館在勤とした。箱館奉行の体制を整えた。
・文化4年(1807)3月、西蝦夷地も直轄とし、蝦夷地全域が幕領となる。
・同年10月、奉行所を箱館より福山に移し、「松前奉行」となった。
<直轄下の経営・流通~直捌制~>
蝦夷地直轄と同時に、場所請負制度を廃止し、東蝦夷地の場所請負人の独占を排除した。漁場を直捌(じきさばき)制とし、産物の交易・流通に至るまで全面的に幕吏の手によって統制運営された。
なお、場所請負制は、その後、各地で復活した。その経過は省くが、少人数の幕吏が一手に運営すること自体、無理があった。
<会所の設置>
 直捌を取り扱う事務所として、「会所」を各地においた。東蝦夷地では、従来の運上屋を「会所」と改め、幕吏を在勤させ、これまでの運上屋の機能に加え公務も行う役所の性格を持たせた。
本州で会所が置かれたのは、江戸、京都、大坂、兵庫、下関、酒田、青森、鍬ケ崎(現岩手県宮古市のうち)、平潟(現北茨城市のうち)、浦賀、下田などであった。
 従来の西回り(日本海経由)の北前船の寄港地に加えて、東回り(太平洋経由)の港にも設置されたのは、興味深い。
<江戸の箱館奉行所江戸会所>
 箱館奉行所の江戸会所は、当初、伊勢崎町に設置されたが、のち、霊岸島に建設された。
 江戸時代から、北海道の物産を取り扱う幕府(実際の担当役所は箱館奉行)の役所が江戸ばかりでなく、全国に展開されていた。
2. 開拓使時代の流通機構
<北海道物産会所>
 明治政府は、明治2年(1869)8月、商業振興のため「通商司」を設置した。通商司は、旧幕時代から引き継いだ「物産会所」を「北海道産物改所」として管轄下においた。
 開拓使は2年9月、場所請負制を廃止し、漁業の直捌を復活させたが、産物の取り扱いは「産物会所御用達」商人に命じた。
 明治3年(1870)3月、「北海道産物改所」は、開拓使に移管された。(「新北海道史」は、「その理由は不明である」としている。)
 開拓使は、会所を全国の主要港に置き、開拓使官員を各地に在勤させた。
 明治3年8月における会所は、東京、大阪、撫養(現徳島県鳴門市のうち)、長崎、新潟、那珂(現茨城県那珂市)、函館の8ケ所、出張所を堺、敦賀に設置された。
 実際の産物の取り締まりと販売にあたったのは、「開拓使御用達」となった豪商たちであった。
<東京の北海道物産会所>
 東京の北海道物産会所は、明治3年6月、蛎殻(かきから)町・稲荷(とうかん)堀に設置された。
 設置場所は、磐城国・旧平藩・安藤家の江戸中屋敷であった。
総坪数3237坪だから、相当大きな屋敷である。
 開拓使東京出張所が、この北海道物産会所に移転したのは、明治3年閏10月10日のことである。

◎まとめ~質問に答えて~
1.「明治3年頃にもう北海道の物産を取り扱う場所(政府の)があったのか?」
(答)政府(幕府)の北海道の物産を取り扱う場所は、東京(江戸)に、「明治3年」といわず、幕府の蝦夷地直轄の寛政年間以降から、あったことになる。

2.「それまで商人を介して流通していた物を政府が買い取る状況だったのか?」
(答)北海道の産物は主として、商人(場所請負人)を介して流通していたが、幕府の機関である箱館奉行や、明治政府の機関である開拓使自体が直営でも流通・販売を行っていた。もちろん、「御用達」という名義で、商人が深くかかわっていた。

<参考資料>
「函館市史」
「新北海道史」
「同年表」
「江戸切絵図」

「間(けん)」は「弥生尺」

◎はじめに
北海道文化財保護協会の会報「文化情報」299号に、新川寛氏の「縄文尺」と題した論文を読んだ。
 要旨は、「青森の三内丸山遺跡のような大型住居跡の配置は、縄文尺ともいうべき基準物差しがあったと考えられる」という高島成侑氏(八戸工業大学教授)の「縄文尺」提唱を紹介しながら、度量衡の歴史、なかでも、古代の尺度に触れている。
 そこで、新川論文の紹介と、古代の物差しについて調べてみたので、紹介する。

◎「弥生尺」
 私が興味を持ったのは、「弥生時代の日本人は、稲束を両手にぶらさげて、自由に家(作業場)の中に出入りする幅を一間(けん)とした」という記述だ。
 「間(けん)」の語源を初めて知った。であれば、「間(けん)」という単位は「弥生尺」ともいうべき物差しといえると思う。

◎身体の一部を基準とした単位
・「寸(すん)」・・親指の幅。
・「尺(しゃく)」・・「尺」は象形文字で、手の姿を描いたもの。それから、「人の手幅」をいう。指十本の幅が「一尺」。
・「束(つか)」・・「束」は、会意文字で、「木+○印(たばねるひも)」で、たき木を集めて、その真ん中にひもをまるく回してたばねることを示す。
 「一束」は、指四本をにぎった幅の長さ。
 「束(つか)の間」は、ほんのひとにぎりの間。ほんのしばらく。
・「あた」・・手のひらの下端から中指の先端までの長さ。一説に親指と中指を開いた長さ。
・「尋(ひろ)」・・「左+右+寸」の会意文字。左手と右手をのばした長さ。

◎世界に例のない複雑な単位の流通
 明治18年(1885)、日本は国際メートル法に参加、同24年(1891)公布された。さらに、明治42年(1909)にはヤードポンド法も交付され、尺貫法と合わせて3系統62単位が入り乱れ、日本は世界に例のない複雑な単位が流通した。 
 その後、多くの曲折を経て、メートルによる統一の必要が認められ、昭和34年(1959)1月1日をもって。メートル法が実施され、他の度量衡は廃止された。
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