森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年05月

生き延びた旧会津藩士

◎要旨・・戊辰戦争に破れた会津藩の人々の中で、下北の地に、そして、北海道に生き延びた旧会津藩士たちを追ってみたい。

1.会津藩・会津戦争
・成立・・保科正之(2代将軍秀忠の4男、3代家光とは異母兄弟)が寛永20年(1643)、会津23万石(実質60万石とも)に入封。会津藩松平氏の祖となる。以後、江戸期は容保(かたもり)まで9代続く。
・幕末の藩主・松平容保・・京都守護職となった。会津藩の悲劇は、ここに始まるといっていい。容保は孝明天皇に信頼され、「公武合体」路線を進め、「禁門の変」などで、討幕派の長州勢の排除に動いた。王政復古のあと、薩長を中心とする新政府と衝突し、「鳥羽伏見の闘い」が起こり、いわゆる戊辰戦争(慶応4年=明治元年の干支は「戊辰」)に発展する。鳥羽伏見で敗れ、「朝敵」となった容保は、慶喜とともに大阪城に逃れる。会津へ帰国。
・鶴ケ城(会津若松城)・・信長の家臣・蒲生氏郷(うじさと)が築城、空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ケ城」と親しまれ、五層の天守閣に改築されて難攻不落の名城だった。
・会津戦争・・容保は、家督を養子の善徳に譲り謹慎する。官軍の追撃で会津藩は抗戦、籠城。包囲した官軍は3万人ともいわれる。鶴ケ城は、1ケ月に及ぶ籠城に耐えた。9月8日、慶応が明治と改まる。その2週間後の9月22日、会津軍は、鶴ケ城北追手門に「降参」と大書した白旗3本を立てて降伏した。城中で落城を迎えた人員は5000人とも。以後、旧会津藩士は「降伏人」「賊徒」といわれることになる。
 死者数千人といわれるすさまじい戦争だった。家老西郷頼母邸での妻女一族21人の自刃、飯盛山での白虎隊19名の自刃という痛ましい事件は有名。また、「娘子(じょうし)隊」という婦女子の一隊もあり、激戦に巻き込まれ戦死した女性は238人という。
 余談になるが、容保は、降伏後、鳥取藩、和歌山、陸奥斗南に預けられ、蟄居する。その後許され、日光東照宮宮司になる。明治26年、57歳で死亡。
 なお、昭和3年、秩父宮(大正天皇の次男・昭和天皇の弟)と容保の孫・勢津子(節子)が結婚し、「朝敵の汚名をそそぐことができた」と会津では、提灯行列が行われた。

2.生き延びた会津藩士たち
<会津戦争の戦後処理>
・藩主容保は死一等を減じられ禁固。家老菅野権兵衛は切腹。会津藩は下北3万石に移封。
① 北海道への「流罪」・・斗南藩の成立以前、旧会津藩士の身分のまま「流罪」の形で北海道へ移された人々がいた。明治2年9月、東京謹慎中の旧会津藩士103戸333人が小樽到着。兵部省管轄下におかれ、最終的に、余市へ移住が決まる。黒川村、山田村などを開き開拓を行う。開拓使が奨励した果実・りんごの栽培を行う。品種「緋衣(ひごろも)」は、容保が孝明天皇から下賜された「緋の御衣」からといわれる。
*「黒川村」(黒田清隆の「黒」と入植会津藩士隊長黒川熊四郎の「川」をとったといわれる。
②下北の地へ・斗南藩成立・・旧藩首脳の願いは、お家再興。明治2年6月、容保に実子慶三郎(容大=かたはる)が誕生。11月わずか5ケ月の容大を藩主に、再興が許され、南部3万石、実質は7000石の厳寒の地・下北へ海路、陸路で、およそ2800戸15000人が移住(資料1参照)。現在の青森県下北郡、上北郡、三戸郡、岩手県二戸郡のうち金田一以北。中間に比較的豊かな八戸藩、七戸藩により分断された貧しい土地。飢えと寒さで老人、子どもが次々を倒れた。藩庁は、最初は五戸郡役所のち、田辺の円通寺。斗南藩がたよった人物に隣接の新渡戸伝(つとう。新渡戸稲造の祖父で、三木本開拓の成功者)がいる。
*山川大蔵(おおくら。浩)・・斗南藩のリーダー・大参事(実務責任者・家老職)。会津籠城戦では、軍事総督として指揮。官軍をひとりも城内に入れなかった。
弟妹に山川健二郎(東大総長になった白虎隊士)、山川捨松(薩摩藩士・大山巌の妻。)
*「斗南」は、漢詩の「北斗以南皆帝州」から。
③ 榎本軍に加わり箱館戦争に参加した旧藩士たち・・「会津遊撃隊」の名称で榎本軍に参加し、松前に至る海岸線に配備された旧会津藩士数十名がいる。
・雑賀(さいか)孫六郎(重村)・・4度、北海道へ渡った多芸多才の異端児。
1度目・・安政元年(1854)、19歳の時、幕府調査隊の一員として蝦夷地入り。ペリー艦隊の箱館来航に出会う。
2度目・・万延元年(1860)、会津領となった網走地方の斜里の代官
3度目・・榎本軍に参加。大坂城に眠る旧幕府軍資金18万両を運んだ人物とされる。(「幕末の密使」)。室蘭で沢太郎左衛門の配下として駐屯、敗戦後、四国徳島藩に幽閉(ゆうへい)された。謹慎が解かれた後、斗南藩雇いとなる。
4度目・・開拓使官吏として「札幌新道」開削にたずさわる。
*姪の子・上原六郎は、官選最後の札幌市長(4代目)

*「傷心惨目」碑・・箱館戦争の際に旧幕軍の野戦病院であった高龍寺に官軍が殺到、会津藩などの傷病兵を惨殺したとされる。ここ高龍寺にその「記念」碑が建つ。その名も「傷心惨目(ざんもく)」とは、「心を痛(いた)ましめ、目を惨(いた)ましむ」。いかにも怨念が篭る。(資料2)

④ 旧会津藩士の北海道移住・・明治政府は北海道の分割支配を進めた。苦しい生活を強いられた斗南藩も移住開拓に応募。
・瀬棚郡(現せたな町)・・13戸43人。旧「会津町」
・歌棄郡(現黒松内町作開)・・28戸135名
・太櫓郡(現せたな町若松)・・不明。「丹羽村」(明治25年、丹羽五郎=会津戦争で籠城=ら12戸49名が入植。今、せたな町に「丹羽」「東丹羽」「西丹羽」として名を残す。
・山越郡(現八雲町浜松)・・7戸18名
・屯田兵になった旧会津藩士・・三沢毅(琴似屯田兵。旧会津藩進撃隊幹部)ら。

⑤ 生き延びた白虎隊士・・「北海道各地に足跡を残す元白虎隊士は、かの赤穂義士とくしくも同数の47名を数える」(「北海道の不思議事典」)
・飯沼貞吉・・ただ一人の飯盛山の生き残り。白虎隊の悲劇を後世に伝えた。逓信省で電気技師として各地で勤務。明治38年には札幌に郵便局工務課長として赴任。明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力した。
・現在、飯沼貞吉の墓は飯盛山のかつての仲間たちの傍らに建てられている。ここに墓が建てられたのは貞吉が没してから、実に26年も経ってから。
生前の彼には心無い同郷人から「一人だけ生き残った恥さらし」という無言の罵声を浴びせられ続けたという。その生涯の最期にあたっても「懐かしい会津の地に眠りたい」という言葉を遺すことができませんでした。(資料3)
「会津藩白虎隊士飯沼貞吉ゆかりの地碑」(南7西1現「札幌第一ホテル」玄関前)
・笹原伝太郎・・佐藤ヒサエさんの曽祖父。

⑥ 旧会津藩の女性
・日向(ひなた)ユキ(内藤)
会津藩士日向左衛門(四百石)の二女。母は飯沼粂之進の娘ちか。母の兄は飯沼時衛といい、その二男は白虎隊蘇生者の飯沼貞吉であり、母の姉は西郷頼母夫人で一族とともに自刃した千重子である。
会津戦争のとき、ユキは十八歳であった。八月二十三日の朝五ツ刻(八時)早鐘が乱打され、城門に駈け付けたが既に堅く閉じられ、城に入ることはかなわなかった。
会津藩は斗南に移封となり、日向家の者たちも二十日かかり野辺地に着いた。廃藩後は北海道に渡り、ユキは明治五年に開拓使工業掛に勤めるエリート官吏。内藤兼備(かねとも。旧薩摩藩士)と結婚。「敵味方の怨讐を超え」た「ブライダル第1号」(「北海道の不思議事典」)
・山川捨松(大山)・・父・山川大蔵とともに、会津籠城。のち、開拓使留学生として渡米、薩摩藩士大山巌(陸軍大臣となる)と結婚。「鹿鳴館の華」といわれた。

⑦ 北海道に渡った旧会津藩の家老
・梶原平馬・・容保にしたがって上京。会津に戻って26歳で主席家老となる。奥羽越列藩同盟の締結に奔走。斗南を経て青森県庁に勤める。のち根室に勤務。
・西郷頼母・・会津藩の家老。降伏直前に会津城を離脱し、榎本艦隊開陽丸に乗船し、榎本軍に加わり、江差詰めとなる。

◎まとめ

<参考文献>
・「白虎隊と会津武士道」(星亮一著、平凡社新書、2002)
・「幕末の会津藩」(星亮一著、中公新書、2001)
・「会津落城」(星亮一著、中公新書、2003)
・「会津・斗南藩と函館開拓使」(近江幸雄著、2003)
・「幕末の密使」(好川之範著、道新選書、1992)
・「瀬棚町史」
・「北海道の不思議事典」(好川之範・赤間均編、新人物往来社、2006)

私の講座予定

◎日時・・5月25日(金)・13:30~14:30
◎会場・・札幌市北区民センター(札幌市北区北25条西6丁目)
◎テーマ・・生き延びた旧会津藩士たち
◎主催・・札幌社会教育協会

福士成豊の業績とその生涯

1. 出生・・船大工・続豊治の5男に生まれる。(高倉氏は4男としている)
 父に従い箱館丸、亀田丸などの帆船建造に従事。
*続豊治・・安政4年(1857)、日本人による最初の洋式帆船・箱館丸を建造。
2. 英語を学ぶ・・文久2年、ポーター社に勤め、番頭となる。
 *自作の英和・和英辞書・・和英辞書は、函館弁の訳があり、日本の英語学史上、貴重なもの。(高倉論文)
3. 開拓使役人となる・・明治2年(1869)3月、箱館府2等訳官。9月27日開拓権少主典、10月17日開拓少主典、明治5年(1872)開拓権大主典
4. ブランストンに学ぶ
① 鳥類採取
② 日本最初の測候所の設置(自宅官舎=函館区船場町9番地)・・「明治5年7月23日・・はじめて午前9時、午後2時、午後9時の3回観測を施行す。」(函館一等測候所沿革史))
5.三角測量の責任者・・「勇払基線」「函館助基線」の測量。全国の測量と結びつく基礎を作った。
・「函館助基線」は、北海道と本州の測量を結ぶ基線となった。
・明治9年、千島調査・・「千島海線見取図」(ウルップ島以北を日本人として最初に測量)
・明治19年(1886)、北海道庁の「北海道地形測量主任」となり、北海道測量の責任者として、北海道の測量に大きく貢献した。
*測量長は、荒井郁之助。明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長となる。
◎旧福士家住宅展示の「三角測量標塔脚柱」・・一本木基標で使われた測標(やぐら)の基礎。
6.北海道中央部を明らかにする・・明治17年(1884)9~10月、石狩川の水源を極め、石狩岳に登る。
7.◎新島襄の亡命を援助
・新島襄・・元治元年(1864)4月21日、安中藩士。板倉の親戚にあたる備中松山藩の洋風帆船快風丸で、武田斐三郎門下生になるため箱館に来る。
・ロシア領事館付の宣教師ニコライ(後に神田駿田台にニコライ堂を建てる)に日本語を教えていた縁で、新島は英語を学びたいことを打ち明けた。(ニコライが海外脱出を進めたという説と、国禁を犯せば、日本での布教ができなくなるので断ったという説あり。)
ともかく、新島の箱館から海外脱出を手助けしたのが、福士成豊。
元治元年6月14日深夜、福士成豊は武士、新島はその従者に扮して海岸から小船に乗りアメリカ船「ベルリン号」に乗船、上海からさらに「ワイルド・ローバー号」に乗り、アメリカへ。アマスト大学入学(クラーク博士の母校、内村鑑三も学ぶ)
*新島襄・・同志社英学校の創始者。日本人初の学位取得者。明治5年、岩倉使節団の木戸孝允と知り合い、木戸付の通訳として、欧米を視察。
<明治の6大教育者>
新島襄、大木喬任・近藤真琴・中村正直・福沢諭吉・森有礼
*<襄の名前の由来>
・密航中に船長テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから。
・Joeは、Joseph(ヨセフ)のつづまった名前である。新島はこの時にその名前の意味を知る由もなかったが、後にこのヨセフという人物が、旧約聖書の創世記30章以下に記されている神の民イスラエルをエジプト(外国)にいて、自分の民族を救う人物の名前であることを知り、自覚的に自らの使命を自覚してその名を受け止め、「襄」という当て字を用いた。最初は「譲」という字を用いたことも、漢訳聖書の「ヨセフ」を当てて「約瑟」としていたこともあったが、後に「ジョウ」とした。

◎晩年・・明治24年退官。北5条東1丁目の自宅以北の1万数千坪を購入。
◎性格・・・(高倉論文)
◎墓・・大正11年8月26日死亡。85歳。墓所は函館・称名寺。
戒名「謙徳院信與義光成豊居士」。建立は「大正13年8月 福士政一建之」

*称名寺(浄土宗)・・幕末にペリー提督が訪れたこともある。その後函館は下田とともに開港場となり、寺は、英・仏の領事館にもなっている。新選組土方歳三らの供養碑がある。墓所には豪商、高田屋嘉兵衛の墓ある。

<参考文献・ウェブ>
・特別展「近代科学技術の先駆者~福士成豊」(中島宏一監修 財団法人北海道開拓の村 1997)
・「福士成豊の業績について」(高倉新一郎著=「福士成豊関係資料調査目録」所収=北海道開拓記念館 1976)
・「新札幌市史第2巻」(札幌市、1991)
・ウェブサイト「函館市史編さん室」
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