森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年06月

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

箱館戦争を生き延びた旧幕臣たち

◎新政府軍と旧幕府郡との戦争・戊辰戦争の終末は、箱館戦争です。
明治元年から2年にかけて戦われた箱館戦争を生き延びた人々の「その後」を追ってみたい。
1. 戊辰戦争の概要
・慶喜、大政奉還・・慶応3年(1867)10月14日
・朝廷、王政復古を宣言・・同年12月9日
・鳥羽・伏見の戦い・・慶応4年(1868)1月3日~4日
・慶喜、大阪城を開陽で脱出、江戸に向う・・同年1月6日
・討幕軍、江戸城に入る。慶喜、水戸へ退去・・同年4月11日
・新政府の会津藩征伐に反発し、奥羽越列藩同盟成立・・同年5月3日
・討幕軍、上野に彰義隊を討つ・・同年5月15日
・会津藩、降伏・・同年9月22日
2. 旧幕府脱走軍、北へ
<旧幕府艦隊の動向>
・慶応4年8月19日、榎本釜次郎率いる旧幕府海軍の開陽など8艦が品川沖を出帆、会津藩援護、奥羽越列藩同盟援助へ向け動き出す。
・「開陽」・・最強の軍艦
・「咸臨」「三嘉保」・・調子沖で台風に会い、流される。「咸臨」は、清水港で新政府軍に拿捕された。
・8月22日前後に仙台松島に入港。奥羽越列藩同盟は結束力を失いつつあった。9月22日、会津藩降伏、23日庄内藩、24日南部藩が降伏し、奥羽越列藩同盟は瓦解
・10月9日、艦隊は仙台を出港、大鳥圭介(旧幕府陸軍伝習隊)、土方歳三(新撰組)などを加えた3000人が乗り組んだ艦隊は蝦夷地に向う。「蝦夷地の徳川家永久お預け、蝦夷地開拓、北辺警護」を嘆願。
3. 箱館戦争
<明治元年の旧幕府軍の進行>
・新政府、10月9日、備後福山藩500人(実際は700人)、越前大野藩200人、津軽藩に箱館派兵を命じる。脱走軍の鷲ノ木上陸の日に箱館到着。
・10月20日、噴火湾の鷲ノ木に上陸。大鳥隊は大沼から峠下に進む。峠下で最初の戦闘。官軍(箱館府・津軽藩兵)は敗走。土方隊は、尾札部から川汲峠の官軍守備隊を撃破、湯川に向う。
・25日、清水谷公考箱館府知事は、官軍敗走の報に接し、五稜郭を出て「カカノカミ」号で青森へ退去。
・翌26日、脱走軍、五稜郭入城。元若年寄永井玄蕃が「箱館奉行」に就任。
・11月5日、土方を長とした脱走軍、福山攻略。江差も攻める。
・11月15日、開陽、江差入港。この日、暴風で開陽座礁、榎本の目の前で沈没。脱走軍の海軍力は大きく低下、彼らの士気をも大きく落ち込ませることになった。「全島の海陸軍、これを聞き肝を破り肝を寒し、切歯扼腕(せっしやくわん)涙を墜すばかりなり」(大島圭介「南柯(なんか)紀行」)
・12月15日、蝦夷地領有宣言式、108発の祝砲轟く。港には満艦飾を施した榎本海軍の艦隊が浮かんだ。28日、入札(いれふだ)で榎本釜次郎総裁以下の諸役が決まる。
「徳川脱藩家臣団」政権の成立。
<明治2年、新政府軍の進攻>
・新政府軍、清水谷を青森口総督に任じ、海陸軍参謀に山田市之允(長門萩藩)、黒田清隆を陸軍参謀に、増田虎之助を海軍参謀に任命、局外中立撤廃で、アメリカから最新鋭ストンウォール・ジャクソン(日本名「甲鉄」)が引き渡され、海軍の核ができた。
・明治2年4月6日、官軍艦隊、兵士1500人を乗せ青森を出帆、9日、乙部上陸。江差も奪還、3隊に分けて箱館に向う。17日、福山攻略。箱館へ
・新政府軍、木古内、矢不来、有川を落とす。脱走軍、五稜郭へ退去。
・5月11日、土方歳三、一本木で戦死、
・箱館海戦・・脱走軍鑑蟠龍、政府軍鑑朝陽を撃沈するも、甲鉄ら政府軍鑑に追われて弁天台場脇に乗り上げ、回天も砲撃を受け退却、荒井郁之介以下、五稜郭に退いた。
<降伏交渉>
・12日、政府軍池田次郎兵衛(薩摩藩)らが箱館病院を訪れ院長高松凌雲、頭取小野権之丞に和平斡旋を依頼
・翌13日、五稜郭へ降伏勧告を届けるが榎本は拒否。榎本、「万国海律全書」を政府軍に送る。
14日、政府軍軍監田島圭蔵が弁天砲台に永井玄蕃を訪れ榎本の翻意を促すべく面会の取次ぎを依頼、田島と榎本は千代ケ岱の民家で会見するも、榎本は拒否。
・15日、弁天砲台は降伏を願い出る。永井玄蕃、蟠龍艦長松岡隆吉、主将相馬主計(かずえ)以下240人は降伏。戦線離脱して湯の川にいた340人も降伏を申し入れ武装解除となる。
<最後の戦闘>
・千代ケ岱陣屋へも降伏勧告が来るが中島三郎助は拒否。渋沢成一郎は、湯の川へ遁走。
・16日、両軍、白兵戦を展開、中島三郎助父子、千代ケ岡台場で戦死、この千代ケ岱攻防戦は、箱館戦争、否、戊辰戦争の最後の戦闘であった。
<五稜郭開城>
・千代ケ岱戦闘後、新政府軍は、酒5樽を五稜郭に送り、弁天台場の降伏、千代ケ岱陥落を伝え、総攻撃開始も通知。
・郭内は動揺、榎本は切腹を図るが部下に制止される。松平太郎、大島圭介、荒井郁之介ら、首脳が協議、遂に降伏と決した。
・17日、亀田八幡宮で、榎本、松平、大島、荒井と政府軍海軍参謀増田虎之助、陸軍参謀黒田清隆が会見、榎本らは、幹部の服罪と一般兵士への寛展を嘆願、その夜、郭内は「決飲終夜悲歌慷慨満城粛然タリ」(「北州新話」丸毛利恒=彰義隊兵士=が謹慎中で箱館戦争を記録)
・18日朝7時、榎本は「諸君は必ず青天白日を仰ぐ日があることを確信する」とあいさつ、松平、大島、荒井らと城を出、駕籠で護送された。午後には、1000人も収容された。
・このに、8ケ月前、徳川家による蝦夷地開拓を旗印に箱館に入った脱走軍は、その蠢動を終えた。
4.旧幕臣たち・敗者のその後 (  )は、榎本政権での役職。
<開拓使に出仕した人々>(明治5年「官員録」参照)
・榎本釜次郎(総裁)・・開拓使に出仕後、駐ロ公使として千島樺太交換条約締結にかかわる。黒田内閣では逓信大臣などを歴任。
・松平太郎(副総裁)・・開拓使に出仕するも、1年後に辞任、不遇の生涯を送り、伊豆で客死。
・榎本道章(会計奉行)・・札幌本道建設にかかわる。
・大鳥圭介(陸軍奉行)・・開拓使に出仕し、欧米を視察、のち学習院院長となる。
・荒井郁之介(海軍奉行)・・開拓使仮学校(札幌農学校の前身)の校長格となる。明治年開校の女学校の校長にも就任。北海道の測量に従事、初代気象庁長官に就任。
・永井玄蕃(箱館奉行)・・元老院権書記官となる。75歳で病死
・松岡四郎次郎(江差奉行)・・開拓使では、会計の仕事に従事。のち三井物産函館支店長となる。岩内茅沼炭鉱の経営にも参画。
・沢太郎左衛門(開拓奉行)・・榎本とともに欧米留学。「開陽」副長として慶喜の大坂脱出にかかわる。のち「開陽」艦長。開拓使を経て、海軍兵学校の副総理になる。
・雑賀孫六郎(開拓奉行組頭取)・・札幌本道建設を指導。
・星恂太郎(額兵隊隊長)・・岩内で製塩業に従事するが失敗。明治9年、失意のうちに仙台で病死
<その他の人々>
・人見勝太郎(松前奉行)・・戦後浪人生活。その後、茨城県令。利根川運河を経営。
・高松凌雲(箱館病院長)・・幕府使節として欧州を視察。見聞を広める。箱館戦争では、脱走軍の病院長となる。敵味方区別なく治療し、日本の赤十字活動の先鞭となる。
・小野権之丞(病院掛頭取)・・会津藩士。高松の元で活動、脱走軍の降伏を働きかける。
・渋沢成一郎(小彰義隊隊長)・・千代ケ岱の守備につくも、湯の川へ遁走。明治期の実業家として財をなした。
<箱館にやってきた幕閣>
・板倉勝静(かつきよ。老中。備中松山藩主)・・禁を解かれたのち、上野東照宮宮司となる。
・小笠原長行(ながみち。老中。肥前唐津藩主)・・戦後、東京に隠れ住む。
・松平定敬(さだあき。京都所司代。桑名藩士)・・会津藩主容保の弟。戦後、日光東照宮宮司となる。
<脱走軍に参加したフランス軍人>・・ブリュネら10名。
5.戦死した人々
・土方歳三(陸軍奉行並)・・新撰組副長。一本木で戦死。戦死した5月11日は、箱館戦争供養祭が行われている。
・中島三郎助(箱館奉行並)・・浦賀奉行与力としてペリーの黒船に最初に乗った日本人。幕命で、洋式軍艦建造に参与。千代ケ岱で戦死。その地は「中島町」として今に名を残す。
6.箱館戦争エピソード
・碧血碑
・柳川熊吉
・五稜郭に立てこもった侠客「観音の鉄」

◎まとめ

<主な参考文献>
・「新北海道史」(北海道編)
・「新北海道史年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊、1989)
・「函館市史」(函館市編)
・「箱館戦争 北の大地に散ったサムライたち」(星亮一著、三修社、2006)
・「大君の刀」(合田一道著、道新新書、2007)
・「箱館戦争始末記」(栗賀大介著、新人物往来社、1973)
・「北海道の歴史」(関秀志ほか著、北海道新聞社、2006)
・「五稜郭物語」(北海道新聞社函館支社編、1966)

昇平丸船司・浦田伊助のこと

昇平丸船司・浦田伊助のこと
~古文書講座(上級)テキストを読んで~
森勇二
◎はじめに・・私は、札幌市文化資料室主催の平成十八年度古文書講座(上級)を受講した。私に指定されたテキストのうち、「開拓使公文録」(以下「開公」)と、「略輯旧開拓使会計書類」(以下「略開」)を読んで、開拓使附属船・昇平丸の船司交代のいきさつと新船司・浦田伊助について述べてみたい。
一. 浦田伊助の経歴
 「略開」に浦田伊助の略歴が書かれている。主な経歴は、
・生国は「能州地之浦」(現石川県志賀町)
・元治元年、箱館奉行に召出され「慎敬丸」水主として岩内石炭積取に従事、その後、沖の口、常灯明勤番。
・慶応三年、「官より御頼有之・・鯨漁稽古之ため」アメリカ捕鯨船ジャウリーヤ号に乗り組みカムチャッカ、アリューシャン方面で操業。
・慶応四年三月箱館帰着。六月箱館丸表役となり、八月出帆、アイロップで難船、樺太・シラヌシで越年。
・明治二年六月二十七日、岡本監輔判官を乗せクシュンコタンを出帆、七月十一日箱館着。
・同年十月二十九日、昇平丸船司に任命。
・明治三年一月二十六日、昇平丸、木の子村安在浜で破船、伊助海死。
二.昇平丸船司交代のいきさつ
 開拓使附属船・昇平丸の最初の船長は喜代蔵。昇平丸は、明治二年九月二十一日、品川を出帆、箱館到着は同月二十五日のこと。喜代蔵更迭の経過が「開公」に見える。昇平丸の箱館到着の二日後の十月二十九日、喜代蔵は八木下信之権大主典から「石狩場所へ御米不残運送可致」と仰せ渡されたのに対し、喜代蔵は「雪中ニ相成、水主帆前働自由不相成候時節」だとして断っている。翌二十七日、廣川信義権大主典から「水先共弥以不被参候哉」と尋ねられたのに対し「いかにも帆前故、水主働方むづかしく候」と渋っている。更に二十九日、再度廣川権大主典から「何連ニも石狩迄参候」と再度催促され、喜代蔵はやむなく「参候心得ニて前書水主等も夫々心懸ケ候」と石狩行きの準備を始めた。
 ところが、十一月二日、開拓使は、「今般、其船乗組之者共差免候ニ付、船具其外積荷金米共正路ニ勘定相立、浦田伊助へ引渡可申候事」(略開)と喜代蔵を解任している。喜代蔵は「誠に当惑仕候」と述べている。
 「開公」によると、開拓使が浦田伊助へ昇平丸船司を申し付けたのは、十月二十九日だから、開拓使は、廣川権大主典が喜代蔵を二度目に呼び出したその日に、昇平丸船司交代を決めたことになる。開拓使は、石狩行きを渋った喜代蔵を早々に罷免した。昇平丸は「全国的・全道的米不足の状況下では・・島判官が石狩で行おうとした事業にとって重要な存在であった」(「新札幌市史」)だけに、一刻も早く米などの積荷の石狩廻漕が求められていたことが察せられる。
 浦田伊助が昇平丸船司に選ばれたのは、先に述べた経歴の通り、その経験が買われたからだろう。
◎おわりに・・昇平丸は、「御米壱俵も上陸不仕」(「略開」)木の子村安在浜に沈んだ。浦田伊助始め五名が死亡している。石狩行を渋った喜代蔵に代わって急遽船司になった伊助は、開拓使の期待に答えられず、昇平丸と運命をともにした。「溺死者は其場へ葬」(「略開」)られたという。いつか伊助の眠る安在浜を訪ずれてみたい。
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