森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年09月

「旧浦河公会会堂」ついて~明治のキリスト教徒開拓者に触れて~

1. 初代会堂(正式名称は「学校兼会堂」)の銅版画
・初代会堂は、明治17年12月27日落成。義援金344円余が集められ、梁行3間、桁行7間。(「荻伏百年史」)この初代「会堂」は、赤心社が子女の教育と社員・地域住民の修養を目的に建立。
・、「新北海道史」編集機関誌「新しい道史43」(昭和46年2月発行)の表紙となった銅版画。初代の「会堂」の珍しいもの。
・元の絵は、当時の旅行案内といえる「内国旅行日本名所図会」(注1)嵩山堂発行(=大阪市心斎橋筋博労町、明治22年11月)巻之五の挿画。
・銅版画・明治16年11月、手宮~幌内間の鉄道が開通し、北海道開拓はいよいよ本格化しようとしていた時期。一方、印刷界では、北海道でも銅版技術が普及しはじめた時期。
・実は、当時の荻伏の入植地の風景写真をモデルに銅版画に模写したもの。
・写真・銅版画の風景・・プラウ、ハローなど畜力農具の導入。大きな納屋など集団農場の風景。

2. 2代目の「会堂」と開拓の村に移転された「旧浦河公会会堂」
・開拓の村に移設復元された旧浦河公会会堂は、「明治27年に新しく建築された教会堂」(「北海道開拓の村整備事業のあゆみ」以下「あゆみ」)という。つまり、2代目の「会堂」。
① 2代目の「会堂」
明治27年に485円の寄付金で建築。の看板には「浦河組合基督教会」とある。
この建物を建てた組織が、「浦河組合基督公会」。明治19年(1886)6月26日設立された(設立者13名、受洗者18名)。明治31年(1898)に「元浦河組合基督教会」と改称された。
したがって、開拓の村の建物が、明治27年建設の建物の移設復元とすれば、建物の名称は正しくは、「旧浦河組合基督公会会堂」か、あるいは単に、「旧浦河組合基督教会」。
② 「浦河組合基督教会」の増築
 昭和5年(1930)、「会堂」が2階建てに増築された。この建物が、昭和58年(1983)まで89年間、現地で使用されていた。
③ 開拓の村の収集・復元の経過
「あゆみ」によると、昭和53年(1978)3月21日の浦河沖地震で会堂は使用が危険な状態となり、「4月の総会で開拓の村移設を前提とした取壊しを決議し、寄贈の申し出を受けた」とある。解体収集工事は、昭和58年10月~11月。480万円。復元工事は昭和59年11月~60年3月。工事費2122万円。
④ 開拓の村移設の「旧浦河公会会堂」
2階建てであり、昭和5年の増築「会堂」の移設復元といえる。

3. キリスト教徒による北海道開拓
・「北海道キリスト教史」には、「開拓者によって生まれた教会」として、図
表を掲げている。そのうち、浦臼の「聖園農場」と、今金の「インマヌエル村」
に触れる。
① 聖園農場
・明治26年(1893)、高知の武市安哉(あんさい)(注3)が移民青年26名を率いて、当時の樺戸郡月形村ウラウスナイの札的川(サツテキナイ)周辺に入植。(明治32年に分村して浦臼村となる)189万坪の貸し下げが認められ、キリスト教義による理想農村とすべく「聖園農場」と名づけた。
本部は8間に5間の掘立小屋で、教会も兼ねていた。翌27年5月には、学校を兼ねた教会堂が建設された。
・坂本直寛の援助
明治31年9月の豪雨(注4)で教会堂は大破損、信者も家、畑を失い、離村者も出た。牧師も家を流され引き上げ、教会は危機に面した。
そのとき、教会を支援した人物が、坂本直寛。(注5) 「北海道キリスト教史」より明治35年、旭川講義所の伝道者となり、浦臼を離れた。
② インマヌエル村
・明治24年、京都同志社の学生・志方之善(組合教会派。妻は、日本初の女医荻野吟子)と丸山伝太郎は、瀬棚郡利別原野目名(当時は瀬棚村。のち明治30年、分村し利別村となる。昭和22年から今金町)に入植。この原野は犬養毅、尾崎行雄らが国民党の資金対策として農業経営を企図し、2035万坪の貸付を受けていた。志方は犬養と協議し、200町歩の代耕を許された。
・一方、聖公会派の天沼恒三郎(埼玉出身)も明治26年に入植し、この地をインマヌエル(「神、われとともに存す」という意味)と名づけた。昭和8年まで、利別村の字名だったが、「神丘」と改正。
・明治28年、聖公会派が草葺きの礼拝堂を建て、「利別教会」とする。
・明治31年、組合教会派が笹小屋の「インマヌエル教会」を建てた。
③ その他
・伊達に入植した伊達邦成も、開拓の難事業の精神的基盤をキリスト教に求め、邦成と家臣の田村顕允(あきまさ)は、函館の聖公会宣教師デニングについて入信受洗した。中でも田村は、も熱心なクリスチャンとなった。
<注>
1.内(1)国旅行日本名所図会・・副題に「Guide Book For Travellers Around Japan」とあるから、今日の旅行案内。
2.浦河組合基督教会・・「浦河組合基督公会」の「会堂」。「組合教会」は、会衆派教会(Congregational Church)系のキリスト教の一派。札幌農学校のクラークもこの派に属していた。
3.武市安哉(たけいちあんさい)・・弘化4年(1847)、高知藩士武市半平太の子に生まれる。板垣退助率いる自由党に入り、自由民権運動に参加。県議の時、禁固刑を受ける。明治25年衆議院議員。翌26年、「土佐百年の計を建てる時」と、代議士を辞職し、北海道拓地移民となる。明治27年、青函連絡船の船中で病死。46歳。
4.明治31年9月の豪雨・・9月6日~7日にかけて全道を襲った。特に石狩川流域は大きな被害が出た。死者248人、流失倒壊家屋3500戸余、田畑の浸水5万6000町歩。杉田定一北海道庁長官が上京し、国庫から災害復旧費・官営鉄道復旧工事費83万円を支出させた。
5.坂本直寛・・17歳で坂本龍馬の兄権平の養子となる。板垣の自由民権にも参加。明治28年、北見のキリスト教開拓団・北光社の社長となる。明治31年の大洪水では、青年時代に薫陶を受けた板垣内務大臣に救援金を要請。

<参考文献>
・「浦河赤心社開墾地会堂之図」(高倉新一郎著、「新しい道史43」所収、1971)
・「荻伏百年史」(荻伏百年史編さん委員会編、1983)
・「浦河百話」(「グルッペ21うらかわ」編、1991)
・「北海道キリスト教史」(福島恒雄著、日本基督教団出版局、1982)
・「北海道開拓の村 整備事業のあゆみ」(北海道開拓記念館刊、1992)
・「浦臼町史」(浦臼町史編さん委員会編、1967)
・「今金町史」(今金町役場編、1958)
・「今金町史上巻」(今金町史編集委員会編、1991)
・「新北海道史年表」(北海道編、1989)

【太政官の建物はどこにあったか】

太政官とは、「天下の権力総てこれを太政官に帰す」(政体書)と規定された、明治初期の日本の最高官庁。
 「太政官」の役所の所在地がどこだったかを述べる。

・慶応4(1868)閏4月21日、政体書を定め、太政官のしたに、7官2局を置く。太政官は京都御所に設置された。
・明治2(1869)年2月24日・・明治天皇東京滞在中、太政官は東京に移転することを達し、皇城内西の丸に置かれる。
・明治5(1872)年3月・・西の丸下に太政官庁舎を造営。
・明治6(1873)年5月5日・・皇城の火災により、多くの公文書類もろとも、太政官庁舎は焼失。即日、赤坂離宮が仮皇居と定めるが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に「太政官代」が設置。
・明治10(1877)年8月・・しかしながら、「万機を親裁」する天皇が居住する赤坂離宮と太政官庁舎との間に距離があるのは不都合であるとして太政官を赤坂仮皇居内に移転。
・明治11(1878)年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が赤坂仮皇居内に新築。以後、内閣制度発足の明治18(1885)年12月22日までは太政官庁舎となり、明治22(1889)年1月まで内閣庁舎として使用された。

(参考:国立公文書館ホームページ「デジタルギャラリー」)

カタカナの「ヲ」

カタカナの「ヲ」について

◎漢字の「」の最初の3画を転用してできた。
なお、「乎」の読み方は、漢音では「コ」、呉音では「オ」(ヲ)
◎書き順
したがって、書き順は
「一」→「ニ」→「ヲ」と3画に書くのが正しく、
「フ」→「ヲ」の2画で書くのは間違いといえる。

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