森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年11月

「蝦夷紀行」の来歴~岡野義知にふれて

◎はじめに
「蝦夷紀行」は、北海道立文書館(以下、文書館)所蔵の「旧記」である。文書館編の「北海道の歴史と文書」によると、「旧記」とは、「主として近世後期から明治初期までに成立した北海道関係の地誌・紀行・日記・歴史関係の記録等」のことである。文書館所蔵の旧記は2341点あり、「蝦夷紀行」の請求番号は「旧記1782」である。
1. 原本と写本の来歴
① 原本・・著者・館野瑞元の文化4年(1807)9月29日付、長橋右膳宛の手紙。
② 「定所主人」の「抄写本」
・奥書に、翌文化5年(1808)9月18日付けで、「原文繁して、且ながければ刪潤してうつし置」とある。原文はもっと長かったことが窺える。「刪潤」とあるから、削ったばかりでなく、補った箇所もあることになる。「定所主人」は館野の原本を見たことになる。彼は、原本を写したのではなく、「刪潤」したのだから、写本でなく、いわゆる「抄写本」ということになる。
・また、「蝦夷紀行」と題したかどうかについては、「此書簡・・蝦夷地に行たる事を記したる也」とあるから、まだ、「蝦夷紀行」とは題されていないことになる。
・「定所主人」は、不明。彼が、「原文」を入手した経過もわからない。
③ 「岡野みなもとの義知」(以下「岡野氏」)の写本
・さらに、「定所主人」の奥書の後に、岡野氏の奥書があり、「ある書房にて・・かひもとめ・・つたなき、ふんてとりて、かく写しぬ」とある。だから、「抄写本の写本」ということになる。
・岡野氏は、「此蝦夷紀行」を買ったのだが、当初から「蝦夷紀行」と題されていたのか、彼が題をつけたのか、または、題はなく、単に「蝦夷地の紀行の本」だったのかは、分からない。
・現在、道立文書館所蔵の「蝦夷紀行」は、岡野氏が購入し所蔵したものであり、「蝦夷紀行」と表題がある。
 <その根拠>
 ・奥書の最後に、岡野氏の署名と朱印2つがある。ひとつは丸印で「義知」、もうひとつは、角印で「岡野」とある。
 ・さらに、表紙裏に「岡野氏文庫」という縦長の朱印がある。
◎岡野義知について
○著書
「鬼怒川小貝川用悪水路図」
・彩色 60.3×209.5cm、明治大学図書館蘆田文庫所蔵)
・奥書・・「嘉永元年葉月中の十五日 岡野義知しるす」
*「蝦夷紀行」の奥書・・ 「卯月末の九日」
○写本
「蝦夷島奇観」の手写し(坂本龍門文庫所蔵)
岡野義知は幕末の絵師   → 「蝦夷紀行」の付図も岡野の手になる
2. 道立文書館所蔵の来歴
① 旧記の収集・・前掲書によると、北海道では、開拓使以来、献納、購入、書写などして、精力的に旧記の収集に努めた。これらには、所蔵に帰した時代と担当係、その後の引き継ぎ経過によって、「開拓使印」「函館支庁印」「記録局編輯課」「札幌県図書印」「北海道庁之印」などの蔵書印が押され、その来歴を知ることができる。
② 札幌県時代・・「札幌縣圖書印」
・「蝦夷紀行」の表紙の蔵書印がふたつあり、そのひとつは「「札幌縣圖書印」。
・明治15年(1882)2月8日、開拓使が廃止され、「札幌県」など3県が置かれた。札幌県では、翌16年12月、「札幌県図書取扱手続」を達し、図書にはすべて「札幌県図書印」を押し、旧記は記録局編輯課が保管することになった。
・「蝦夷紀行」には、「開拓使印」はないので、札幌県時代に収集されたと思われる。
・なお、旧所蔵の「星野氏」に関する印は、墨で「×」され、さらに、その上に和紙
   されている。「蝦夷紀行」の所有が、星野氏から、札幌県に移ったことがわかる。
③ 北海道庁時代・・「北海道廳圖書之印」
・明治19年(1886)、3県を廃止し北海道庁が置かれた。図書の管理は第一部記録課の所管になり、20年、北海道庁訓令で図書管理が規定され、「北海道廳圖書之印」を押すことになった。
 ・明治42年(1909)1月12日、赤れんが庁舎火災のおり、図書類も損害を蒙ったが、「蝦夷紀行」は、難を免れた。
④ 道立文書館
・「蝦夷紀行」など旧記や諸文書の保管・利用は、その後、総務部文書課史料編集係を経て、昭和43年(1968)に、総務部行政資料室(のち課)が設置された。
・昭和60年4月1日、「北海道立文書館条例」が公布され、7月1日開館した。旧記をはじめ、諸文書が保存されている。
◎まとめ
・文書館にある館野瑞元の「蝦夷紀行」は、館野の手紙の「抄写本の写本」ということになる。
現在、「蝦夷紀行」は、北海道総務部法制文書課の中の組織である北海道立文書館が保存・利用にあたっている。・したがって、「蝦夷紀行」の筆跡は、「岡野みなもとの義知」なる人物である。
<参考文献>
・「北海道の歴史と文書」(北海道立文書館編、北海道出版企画センター刊、1987)

「西蝦夷地大辺」

1.北大文書
北大付属図書館に「西蝦夷地大辺写之」と題する文書がある。文化3~4年のロシア船の北辺襲撃事件が巻き起こした騒動を小倉百人一首のパロディで風刺した16首の落首が、横13センチ、縦33センチの和紙5丁に記載されている。
2.江戸も大変
 この文書の表紙に「辰六月二四日磯乃助様より借り写之」とある。いわゆる「文化丁卯事件」について、江戸に落首があらわれたのは、それ以前ということになる。
 ロシア船のエトロフ襲撃が、箱館に到来したのは、5月18日、赴任途中の戸川安論が金成宿(仙台国分町説も)知ったのは、同月23日のこと。幕府が、目付遠山金四郎景晋に蝦夷地出張を命じたのは6月6日。
 文化4年6月に入って、天下泰平の江戸は、「大変」になった。
3.「玉や振る・・・」
 さて、落首のいくつか私なりに書き下して紹介する。ご存知かと思うが、元歌を括弧書きした。
●浜辺赤人(山辺赤人)
 蝦夷の浦に 打出見れば (田子の浦に うちでて見れば)
 うろたえの 不時の   (白妙の 富士の)
 さわぎに 武きはふりつつ(雪は 降りつつ)
●大将なごん(清少納言)
 玉こめて 筒のそら音は (夜を込めて 鳥の空音は)
 はかるとも 世にも   (はかるとも 世に)
 おろしあの 舟はゆるさじ(逢坂の 関は許さじ)
●各々こまり(小野小町)
 浜人は 打たれにけりな (花の色は 移りにけりな)
 えとろふに 遠目鏡にて (いたづらに 我が身世にふる)
 ながめせしまに     (ながめせしまに)
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