森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2007年12月

津軽藩兵とコーヒー

宗谷岬の宗谷公園内にコーヒー豆をデザインした「津軽藩兵詰合記念碑」がある。
碑のデザインは、コーヒーが水腫病に効果があるとされ、予防薬として和蘭コーヒー豆が配られたという記録を基づくという。
碑は、平成4年(1992)9月、弘前市の有志によって建立された。毎年、9月第一日曜日に慰霊祭が行われている。
碑文は、次の通り。
「この碑は、文化4年(1807)幕名による蝦夷地越冬警備のさい、厳冬下で次々と浮腫病に倒れていった数多くの津軽藩兵を悼むとともに、その後、安政2年(1855)再び蝦夷地警備に赴いた藩兵達には、浮腫病の薬用として「和蘭コーヒー豆」が配給されていた事実を記念するためのものである。 珈琲を飲めずに逝った人々と、薬として大事に飲んだであろう先人達の辛酸を、歴史の一齣として忘却するには忍びがたいしその体験は日本の珈琲文化の嚆矢としても貴重である。
 茲にその偉業と苦難の歴史を後世に伝承すべく、ゆかりの地・宗谷に珈琲豆を象った記念の碑を建立することとした。
1992年9月16日

宗谷岬に津軽藩兵詰合の記念碑を建てる実行委員会

会長 成田専蔵


文化3~4年(1806~1807)のロシア人のカラフト、エトロフ襲撃事件を契機に、各地に東北諸藩の藩兵が警備に派遣されたが、北辺の地での生活は厳しく、多くの藩兵が倒れた。宗谷には、津軽、会津、秋田藩兵が、次々派遣された。
津軽藩兵の死亡では、斜里詰めの津軽藩兵の水腫病による多数の死者がでたことはよく知られているが、その他の道内各地での犠牲はあまり知られていない。
そもそも、津軽藩兵は、当初、宗谷に派遣され、文化4年7月になって、百名が急遽、斜里への転進が命じられた。
文政4年(1821)、蝦夷地の直轄が解かれるまで、多くの津軽藩兵が宗谷に駐屯した。
碑は、宗谷岬に近い宗谷公園内にあるが、津軽藩の詰所は、宗谷岬よりかなり西に寄った地、現在の稚内市大字宗谷字宗谷の宗谷川河口付近にあった。
ここには、宗谷会所、厳島神社、護国寺などもあり、一帯の中心地であった。

なお、この碑のそばには、会津藩、秋田藩の旧藩士の墓もある。
また、岬より、少し西のサンナイには、「間宮林蔵渡樺出港の地」碑もある。

宗谷岬は、「日本最北端の地碑」「宗谷岬音楽碑」が有名だが、「津軽藩兵詰合記念碑」など、歴史関係の碑は顧みられることは少ない。
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旧国名に「州」をつけた呼び方

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文化3~4年のロシア人の樺太・エトロフ襲撃と江戸

<当時北海の警報の江戸に伝えられて人心の恐々恟々としていた有様についての江戸の状況を記したもの>

○『泰平年表』・・「かゝりしかば江戸の町々鍛冶を業とせるは家毎に番具足をきたへ、古着鬻(ひさ)ぐ家は軒毎に陣羽織を懸けたり。是等を見るに世の中何となく物騒がしく、其事を預らぬ者も安からぬ心地するに」云々といい、流言蜚語(ひご)のつぎつぎと行はれたことなどを述べている。
○『視聴草』七集の三「文化丙寅(三年)北辺騒動都下風聞」
・最上徳内・・「最上徳内ひとたび蝦夷のかゝりは御免なりしが、此度(こたび)また被仰付(おほせつけられ)候て、霊岸島の役所へまゐり、即日より存寄(ぞんじより)を申したりと風聞」
・近藤重藏、秦憶丸(あわきまる)・・「近藤重藏十五日出立(しゆつたつ)の予定。十二日出立のところ支度間に合はず」また、「村上島之丞、中川飛騨守殿につきしたがひて発足のよしなり」と見えている。
 蝦夷のことといえば、先づこれらの人々が噂に上つている。ついで堀田正敦の江戸を発足する物々しい様子も叙せられている。
「六月廿一日朝五ツ時、摂津守様御出立。御紋付絽の羽織、小袴、馬上筋違(すじかひ)御門より鑓(やり)を伏せ被申(まふされ)候由、見物多し。鑓印は白ちりめん一幅の切(きれ)なり」
・「加茂眞淵が蝦夷の歌もあり。此節(このせつ)取りはやす人あり」とにかく世上は到るところ蝦夷地の風評だつた。
(森銑三著「最上徳内」より引用・・日本ペンクラブ電子文藝館所蔵)

札幌近郊の村々のなりたち

私の講師日程
◎テーマ・・「札幌近郊の村々のなりたち」
◎概要・・手稲村、篠路村、苗穂村、白石村など、札幌近郊の村々のなりたちと、その後の発展の歴史をたどります。
◎日時・・2008年2月25日(月)13:30~15:10
◎会場・・札幌市北区民センター(札幌市北区北25条西6丁目。地下鉄南北線北24条駅下車徒歩5分)
◎入場無料
◎主催・・札幌市社会教育協会

画数が増えた新字体

1.はじめに

昭和24(1949)年4月28日、内閣告示第1号で「当用漢字字体表」を告示した。
そのまえがきに「漢字の読み書きを平易にし正確にすることをめやすとして選定した」として、昭和21年1月16日のに制定した「当用漢字表」の1850字の漢字のうち、355字の字体を変えた。一般に、この355字を「新字体」、改定されなかった1495字を「旧字体」という。
昭和21年の「当用漢字表」では、いわゆる「康煕字典体」で示されていた文字を「一般社会で使用する漢字の範囲を示すもの」として、1850字の指定にとどまっていたが、昭和24年の告示では、「略体の採用、点画の整理」をはかった。
日本において、国家が「漢字」の字体を改定したのは、これが最初である。

2.画数が増えた新字体

ところで、「新字体」を採用した内閣告示には、「読み書きを平易にし」たとあるが、逆に画数が増えた漢字がある。
①「歩」の下の部分が1画増えて「少」になった例
  「歩」(7画から8画に)
 「賓」(14画から15画に)
 「頻」(16画から17画に)
 *「濱」は、当用漢字でないので、「貝」の上の部分は「少」ではない。
②「牙」の部分が4画から5画になった例
 「冴」(6画から7画に)
 「芽」(7画から8画に)
 「邪」(7画から8画に)
 「雅」(9画から10画に)
 *「穿」「鴉」「谺」などは、当用漢字でないので、「牙」は、4画に書く。
 *なんと、「牙」も当用漢字でない。したがって4画。
 *「芽」は、「きば」のように突き出た草木の新しい「め」の意味だから、「草かんむり」の下は、旧字体の「牙」の方が、成り立ちがわかっていいと思うのだが・・・。

「龜」の書き順

私が参加している「古文書解読」の講座や学習会では、「くずし字を(声を出して)読む」ことに重点がおかれ、「古文書を正しく書き下す」ことがあんまり重視されない傾向にあります。
私は、「まず、書かれた通りに書く」ことも、大事だと思っています。
漢字にせよ、仮名にせよ、日本の文化だと思うからです。
特に、旧字体には、漢字の成り立ちの意味がこめられていると思います。
ネットに「漢字の正しい書き順」というサイトがありましたので紹介します。
下です。
http://kakijun.main.jp/

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日本初のスケーター

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先般、歴史学同好会主催の歴史講座で、札幌大学の川上淳氏の「ラクスマン来航と大黒屋光太夫」の講演を聴き、面白いことを聞きましたので、書きます。

「ラクスマンは、日本初のスケーターだった」という話です。
ラクスマンが、光太夫を伴って「エカレリーナ」号で根室港に入港したのは、寛政4年(1792)9月4日のこと。
一行は、幕府役人を根室で待機するためもあって、根室で越冬するのですが、結氷した根室の海でスケートに乗るラクスマンが描かれた絵図が愛知県刈谷中央図書館に所蔵されています。
図ではスケートのことを
「エギライ ドロバス ト云 
 一名 コーニキー 」
とあります。
根室市では、「スケート発祥の地」と宣伝をしているが、川上氏は、「なかなか浸透していない」と、苦笑されておられた。

ひびが入った氷の間をすべる人物とスケートの軌跡が描かれていて興味深いです。


カムチャッカに「嘉兵衛」峰が誕生

<特大<太>>2006年は、ゴローニン副提督とリコルド提督の生誕230年、高田屋嘉兵衛生誕235年に当たり、ゴローニンの子孫ピュートルゴローニン氏が「事件を後世に伝え、友好の証を刻みたい」として、ロシア地理学会を通してカムチャッカ州政府に同地の無名峰に、ゴローニン、リコルド、嘉兵衛の3人の名を付けるよう提言し、それが受け入れられ、同州のナリチェボ公園内の無名峰に、「嘉兵衛峰」が誕生した。高さは1054メートル。
ナリチェボ公園は、1996年にユネスコ世界遺産にも登録された美しい公園。(サッポロ堂書店発行の広報誌より)
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