◎はじめに
・札幌の発展の基礎を築いた人々をまとめてみた。
・なお、昭和45年(1970)100万人突破。47年(1972)政令指定都市となる
現在(2008年2月1日)、868,415世帯1,895,581人

1. 江戸時代のサッポロ・・商場とサッポロ七場所
・寛文9年(1669)・・ハツシャブ、サツホロ(津一統志)
・元禄12年(1699)・・「沙津保呂(サツホロ)」が、松前藩家臣の谷梯(やつはし)倉右衛門、高橋五右衛門の支配地でアイヌとの商場となっていた。交易品は、サケ、タカの尾羽、熊胆、毛皮など
・宝暦5年(1755)・・飛騨屋久兵衛が松前藩に運上金を支払い、伐木を始めた。札幌川(伏古札幌川と豊平川が連絡)をさかのぼって、マコマナイを越え漁川上流で伐木、杣夫は二百人前後の和人。
・寛政年間(1789~1801)には商場の整理され、イシカリ13場所と称され、サッポロ7場所(ハッシャブ、下サッポロ、上サッポロ、下シノロ、上シノロ、下ツイシカリ、上ツイシカリ)といわれた。アイヌ戸口は58戸・262人。
・文化4年(1807)の状況・・アイヌとの交易・商場としての札幌。
ハツシャブ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ34人
下サツポロ・・請負人京極屋喜兵衛、アイヌ119人
上サツポロ・・請負人浜谷甚七、アイヌ187人
シノロ・・請負人筑前屋清右衛門、アイヌ125人
ナイホウ手場(直領)・・請負人梶浦屋吉平、アイヌ28人
上ツイシカリ・・請負人米屋孫兵衛、アイヌ106人
下ツイシカリ・・請負人直次郎、アイヌ不明
合計約600人のアイヌの人々の集落があった。運上金合計375両
・サッポロは、石狩川支流の商場でしかなかった。
・しかし、ロシアの北方進出で、石狩地方は、箱館と樺太の中間基地として重視されるようになった。
2. 札幌越新道の開削
・近藤重蔵のサッポロ本府論・・ロシアに対峙するには、「イシカリ川筋カバト山、浜通りタカシマ、ヲタルナイの奥、またはサッポロの西テンゴ山の辺りに拠点を置くのがいいと意見を述べている。
札幌に着眼した点からも重蔵は、札幌創建の基石おいた人物といえる。
・安政4年(1857)札幌越新道(銭函~星沖~発寒~豊平~島松~勇払)の開削。銭函道(銭函~豊平)、千歳道・千歳越(豊平~勇払)とも。
→札幌が陸上交通の要衝(ようしょう)となった。
・松浦武四郎の石狩建都構想・・近藤重蔵の石狩建都の構想を具体化しようとして、ツイシカリから3里ほどさかのぼった豊平あたりを絶好の場所と考え、アイヌの乙名にも相談のうえ、箱館奉行に進言した。「そこに本府がおかれれば、そのうち、石狩川河口は大阪のように繁盛し、10里さかのぼったツイシカリは伏見に匹敵する土地となり、さらに川舟3里のぼった札幌は京都と同じになろう」と考えていた。
3. 村落の形成
① ハッサム(発寒)村
・安政4年(1857)イシカリ在住武士の入地の中心地。リーダー秋山繁太郎らが入る。
・在住制・・手当を支給される武士が農民を募集し、開拓した土地は在住がいる限り永久に給与されることを骨子とした制度。
・明治3年(1870)発寒村となる。26戸
・明治5年(1872)手稲村を分村。
・明治9年(1876)屯田兵村がつくられ32戸入植。養蚕も盛んに行う。
・明治20年(1887)琴似から小樽内川まで新川を造成。
・明治39年(1906)琴似村に併合、琴似村の大字となる。
② 琴似村
・明治4年(1871)辛未一の村に入植した東本願寺住民が入植、50戸182名が八軒、十二軒、二十四軒分かれて集落を形成。
・明治8年(1875)青森、宮城、酒田各県の士族など198戸965人が移住、屯田兵村を形成。20,21年には、更に220戸が移住し新琴似兵村がつくられる。
・明治39年(1906)発寒村、篠路村の一部をもって2級町村琴似村が成立
・昭和17年(1942)手稲村大字下手稲村の一部を編入、琴似町となる。
・昭和30年(1955)札幌市の一部となる。
③ 篠路村
・安政6年(1859)石狩在住の荒井金助がシノロ地域で農民を募集して開墾、「荒井村」が成立。福島・白河藩の職人・早山清太郎が開墾に入る。(上荒井村、下荒井村に分けて把握されていた)
・在住・中嶋彦左衛門もコトニ川支流のケネシベツ川に入植。農民を募集し、「中嶋村」が成立。
・明治4年(1871)、上荒井村、下荒井村、中嶋村を合わせて篠路村と呼称するようになった。「十軒」集落・・南部盛岡藩士10戸が入植。
・明治15年(1888)、福岡県人の開墾社が入植。「福移」集落の形成。
・同年、興産社、徳島から入植。藍耕作を始める。「あいの里」
・明治22年(1889)、屯田兵村220戸。福岡、熊本、山口、徳島、和歌山、福井、石川56県から入植。
・明治39年(1906)2級町村篠路村が誕生。
・昭和30年(1955)札幌市に編入。福移の一部は、江別市に編入。
④ 手稲村
・明治5年(1872)、仙台・白石藩の伊達邦憲(くにのり)家臣600人のうち、藩士三木勉らが、54戸240人が発寒村に移る。手稲村を設置。7年(1874)星置方面が下手稲村に分村、本村側は上手稲村と改称。
⑤ 山口村
・明治15年(1882)山口県から17戸が移住をはじめとして明治27年ころまで、移住が続く。
・明治35年(1902)下手稲村、上手稲村、山口村がいっしょになり「手稲村」となる。
・昭和26年(1951)町制施行して「手稲町」になる。
・昭和42年(1967)、周辺町村では最も遅く札幌市に編入。
⑥ 札幌村
○札幌元村
慶応2年(1866)石狩在住の大友亀太郎はフシコサッポロ川上流の地に御手作場といわれる開墾場を設置、4年にかけて23戸95名、更に明治2年(1869)に、4戸11名が入植。
○庚午一の村(のちの苗穂村)・・庄内藩の坂野元右衛門組36戸120人が入植。
○庚午二の村(のちの丘珠村)・・酒田県人今野徳治組44人、一戸直吉組51人の30戸
○庚午四の村(のち札幌新村)・・明治3年(1879)開拓使が柏崎県から募集した農民22戸96人を入植させた地。原伝左衛門組22戸96人。
ほかに、岡田忠兵衛組59人。

*明治3年(1870)、庚午(かのえ・うま)の年にフシコサッポロ川の両岸に定着した募移民は88戸308人。(「まちの歴史講座」)

○雁来村・・明治4年(1871)宮城県人岡田三郎右衛門組24戸(3戸は生降、21戸が江別の対雁に入植)→6年、豊平川左岸(苗穂駅東の自衛隊駐屯地から北13条大橋にかけての地)に移転、開拓使は雁来村と命名。

*明治3年(1870)から7年にかけて、107戸360~370人の募移民と、御手作場の人たち、自移民、アイヌの人たちが一体となって、今の東区の村づくりが進められた。(「まちの歴史講座」)
*明治35年(1902)、これらの村々がいっしょになって2級町村・札幌村が誕生。
*昭和30年(1955)札幌市に編入。

⑦ 円山村
  ○庚午三の村
・山形県人日田豊三郎組、本間作治組が入植。(のち円山村)
  ・また、新潟県の石野平八郎組も入る。(発寒村に編入)
  ○円山村
・明治4年(1871)、庚午三の村が改称して成立。同年、札幌神社建立。
  ・明治39年(1906)、山鼻村といっしょに、藻岩村となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4つの字(あざ)を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑧ 山鼻村
・明治4年(1871、辛未=シンビ、かのと・ひつじ)東本願寺(明治3年建立)付近に、越後から募集した40人の農夫と、札幌で募集した50戸が入植し、「辛未一の村」が成立。しかし、同年中に円山村、琴似村に全戸が移転。
・明治7年(1874)、農民数戸が石切道(石山道路)を中心に入植し開村。
・明治9年((1876)、東屯田通(現西9丁目通)に120戸、西屯田通(現西13丁目通)に120戸の屯田兵が入植。
・明治39年(1906)、円山村とともに、「藻岩村」となる。
  ・昭和13年(1938)町制施行。円山、山鼻、八垂別、白川の4字を編成して円山町となる。
  ・昭和16年(1941)、札幌市に編入。周辺衛星町村では、最も早い。

⑨ 白石村
・明治3年(1870)、旧仙台藩白石城主片倉邦憲は旧家臣団を率いて幌別に入植。一派が石狩を経て望月寒に入植。「望月寒村」と称した。のち故郷白石にちなみ、「白石村」と改称。5年の戸数104戸380人。
・6年(1873)、26戸が豊平川沿岸に移住、上白石村を形成(はじめ「新白石村」ともいった)。
・これに伴い、白石村は「下白石村」とも称された。
・明治35年(1902)、上白石村と白石村が合併し2級町村白石村が誕生。
・明治43年(1910)大字上白石村の一部を札幌区へ編入。
・昭和25年(1950)札幌市の一部となる。

⑩ 豊平村
・安政2年(1855)、豊平川に渡船場が設けられ志村鉄一が橋守となる。
・安政4年(1857)、千歳越(札幌越新道とも)が開削されると宿泊所も設置された。
・明治5年(1872)から移住者が入り、明治7年(1874)、豊平村となる。
・明治35年(1902)豊平村、平岸村、月寒村が合併し2級町村豊平村が成立。
・明治41年(1908)、町制施行、札幌周辺町村では、一番早く町制施行。
・昭和36年(1961)札幌市の一部となる。
⑪ 平岸村
・明治4年(1871)、杉本平九郎(旧仙台藩士)が、岩手県(胆沢県=いさわ・県都は水沢、現奥州市)の士族・農民65戸が入植、開村。のち福岡県から21戸が入植。
・明治9年(1876)、開拓使、真駒内牧牛場設置。15年(1882)ころからリンゴ栽培も行われた。
・明治8年(1875)には、石山、穴の沢で軟石の採取が始まる。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。
⑫ 月寒村
・明治4年(1871)盛岡県から43戸185人が入植。当時千歳通といわれていた。
・明治17年(1884)以後、広島県人が入植、26年(1893)広島村として分村。
・明治29年(1896)第7師団独立歩兵大隊が置かれたのをはじめ、多くの軍事施設が設けられた。軍都の形成に伴い人夫の流入も増大して千歳街道沿いは市街地化した。
・明治35年(1902)豊平村の大字になる。

<参考文献>
・「角川日本地名大辞典」(角川書店)
・「新札幌市史」(札幌市教育委員会編)
・「ひがしく再発見 まちの歴史講座」(札幌市東区役所編)