森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2008年03月

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

【「牙」と「芽」Ⅱ~「芽」の脚は絶対に、するどい「牙」だ!~】

1.「芽」の新字体

新字体(注1)で「芽」の字の脚は、4画の「牙」から、5画に変わった。(私のパソコンに5画の「きば」の字がない。)
要するに、新字体では、「牙」の2画目(「ノ」と「一」を一気に1画で書く)が、2画目、3画目にばらされた。
新字体で、画数が増えた例である。
ところが、「牙」は、当用漢字(現在の常用漢字)でないから、4画のままである。
・「芽」のほかに、「牙」を含む字で当用漢字の「雅」「邪」の偏も新字体で、4画から、5画になった。
同様に「旡」(すでのつくり)部の「既」の旁が、4画の「旡」から、5画になった。
・一方、当用漢字でない「冴(さ)える」の「冴」、「穿(うが)つ」の「穿」、「谺(こだま)」「鴉」などの「牙」は、4画のままになっている。

2.なぜ、「芽」の脚を問題にするのか。
私は、以前にも、此の問題に触れた。
今日、我が家の庭に土と雪を割って出てきたチューリップの「芽」を見た。写真をご覧ください。
鋭い「牙(きば)」である。土と雪をはねのけるには、ものすごいエネルギーが必要だっただろう。
それには、「牙」が、なくてはならない。「芽」の脚は絶対に4画の「牙」でなければならない!
なぜ、国語審議会が、新字体で、わざわざ画数を増やしたのだろうか。
先の「内閣告示」には、「字体の不統一や字画の複雑さにももとづくところが少くないから、当用漢字表制定の趣旨を徹底させるためには、さらに漢字の字体を整理して、その標準を定めることが必要である」とある。
しかし、この「芽」などの画数増加は「字画の複雑さ」を促進させたに過ぎないと思う。
img20080323.jpg

力強く「芽」を出したチューリップを見るにつけ、改めて小論を書いた。


(1) 新字体・・正式には、昭和24年(1949)4月28日、内閣告示第1号で告示された「当用漢字字体表」という。

平成20年度の北海道教育大学札幌校の公開講座

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開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

開拓使の移民政策~「羽越移住民取扱方伺」を読んで~

◎報告の要旨
 本報告では、北海道開拓に入った羽越地方の移民の取扱いに関して、開拓使の担当部局の伺いの内容について考察し、開拓使の移民政策の一環を述べたい。

1.羽越からの庚午移住民の概況
明治2年12月、開拓使は酒田県(明治2年7月成立、酒田を中心とする庄内地方の旧幕領、旧藩没収地を管轄。後、山形県)に対し「今般当使本府石狩へ御取建ニ付、札縨辺追々開墾ノ積、就テハ羽越国ノ内ヨリ農民男女三百人程移住為致度、此段申入候也」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)と、移民募集を依頼した。
「新札幌市史」にその経過が記載されている。要約すると、開拓使は、羽越地方(今の山形、新潟県)へ小貫直和権大主典、平田弥十郎少主典を派遣し、移民募集に当たらせた。
応募した農民は、翌3年3月から4月にかけて新潟、酒田を出発し、石狩を経て札幌に向い5月には土地割渡しを受けている。
以下、移民の入居先と人数は、次の通りである。村名は、明治3年が庚午年であることに由来する。(  )は、明治4年5月21日に改称された村名。
<山形移民>
・庚午一の村(苗穂村)36戸120人
・庚午二の村(丘珠村)30戸90人
・庚午三の村(円山村)30戸90人
<新潟移民>
 ・庚午四の村(札幌村)22戸96人

2.羽越移住民への移住手当
 先の「部類抄録七」は、「移住御手当向」として、次の内容が記されている。
① 出立当日ヨリ御賄
② 支度御手当男女小児共一人ニ付金三両
③ 家一軒、鍋二枚、蒲団一人ニ付二枚ツゝ
④ 一日金一朱ツゝ
⑤ 玄米一人ニ付五合ツゝ
⑥ 農具
 一方、「開拓使事業報告第2編(勧農)」には、各村への移住に対する扶助についての記事があり、例えば円山村への移住者について明治3年の項に「六月家屋及扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とあり、苗穂村移住者についても同年4月の項で同様の記事がある。また、丘珠村の項でも「五月耕地ヲ下付シ扶助米金等ヲ給スル例規ノ如シ」とある。
「例規ノ如シ」とは、何を指すのだろうか。前記「開拓使事業報告」によると、開拓使は、前年の明治2年11月、「仮に移住扶助規則を定め」(いわゆる「移住扶助仮規則」)ているから、この「仮規則」を指していると思われるが、先の「部類抄録七」の「移住御手当向」を比較すると、相違が見られる。

3.羽越移住民取扱方伺書
明治2年12月の羽越移住民への「移住御手当向」の内容は、「移住扶助仮規則」と比べてきわめて大雑把であるが、実際には、もっと細かな内容であったことが、「羽越移住民取扱方伺書」(道立文書館所蔵「部類抄録七民事部移住」)から、推測できる。
この伺書は、明治3年7月2日、開拓使開墾掛・荒井龍蔵から提出されている。(道立文書館所蔵「明治三年同四年書類」。以下「荒井意見書」という)この伺いは、移住民の待遇改善の要請といえる。以下、その内容を述べる。
①諸品代金の返済について・・日当引去は、「活計相立申間敷・・当地へ移住一銭の操合モ仕兼候儀ニ付、実以テ困窮仕候」。したがって、「諸品代金ノ儀ハ、冬仕事ヲ以テ為仕可申」
②玄米の扶助について
イ.「玄米五合」は、「農夫一人前ノ者ニ男女共食料、迚モ足合不申・・十五歳以上ノ男女ハ別段二合五勺ツゝ拝借被仰付度、独身ノ者ハ5合ツゝ来未年8月迄別段被仰付候様仕度」と要望している。
ロ.7歳未満の者へは1日3合づつだが、「聊四十余人」であり、一人2合減らしても1年で3石2~3斗だけで、平均5合扶助すれば「一統ノ人気ノ宜敷、一入難有」としている。
③農具について
イ.1軒に鍬、鎌、鐇、1丁づつという農具の給与は、「男女共十四歳以上ハ、人別ニ被下候様」、また、婦人へは、「鐇(注1)ヲ鉈ニ御替御渡被下度」と細かなことまで要請している。
④木綿などの貸付願い
⑤鉄炮・玉薬の貸付願い・・「開墾場ノ義ハ・・猛擒類は勿論、鹿多、甚当惑・・壱ケ村に鉄炮弐挺ツゝ、玉薬共御貸し被下度」と要請している。
⑥病人対策として食料備え願い・・「最早九人程死亡・・六十人余モ打伏罷有・・一向食付不申候ニ付、饂飩、素麺、白玉、或ハ梅漬ノ類・・何卒病人為食料掛ヘ御備被下度」と、要請している。
⑦開懇掛の充実について・・「荒井意見書」は、開墾掛は、開墾地の「最寄ニ詰合」すべきで、そのため、塩噌など諸品を備え置く蔵を開き役邸を取建てるよう要望し、また、開墾掛専任の大主典を人撰してほしい旨上申している。
⑧開墾場の用水確保のため、フシコサツホロ川の切開と本府からの新堀の開削を要望している。

 この「荒井意見書」は、移住民の窮状を知り、待遇改善を上申する官吏の心情が伺える。

4.明治3年12月布達の「移民規則」
 開拓使は、明治3年12月、5項目からなる「移民規則」を新たに定めている(「開拓使事業報告第2編(移民)」)。そのひとつに「来未年ヨリ三ケ年間一人前一日玄米七合五勺、一ケ月金二分ツゝ被下候事」とある。前年11月の「仮規則」が、「15歳以上玄米5合」であったのに比べ、年齢別の扶助区分はなく、しかも、一人当たり、2合五勺増加させている。これをみる限り、玄米の扶助に関しては、「荒井意見書」が生かされ、改善されたことになる。彼の他の要請がどのように受け入れられたか、または受け入れられなかったかは、今後の課題としたい。

◎おわりに
 本来、与えられた資料全体や、更に移民関係の資料を読み、関連文書も読み解き、開拓使の移民計画の実態を考察すべきだが、私の力量不足で、「羽越移住民取扱方伺書」(「荒井意見書」)を要約するにとどまったが、北海道開拓の初期に、開拓使が募集した移民に対する待遇に関して、その改善を要望した官吏がいたことに、私は注目し、その内容を紹介した。
 「移民扶助仮規則」や「移民規則」と、入植者への個々の対応の実態について、今後、機会があれば、検討を加えていきたい。

(注1)鐇=たつき。たつぎとも。工人の用いる広い斧(広辞苑)

【北という字】

【北という字】

◎知人と漢字の話をしていて、「北って、暗いイメージですね。敗北っていいますしね」といわれた。

◎漢和辞典を引くと、「北」の甲骨文は、二人の人が背を向けている会意文字でそむくの意味を表し、転じてにげるの意味を表す。
用例として、「史記」「三戦三北」を挙げ、「三たび戦い、三たび北(に)げる」と読み下している。「北」に、「にげる」「そむく」の訓読みがあるという。
また、人は明るい南面を向いて坐立するのを好むが、そのとき背にする方、寒くていつも背を向ける方角、きたの意味を表すとある。

◎「敗北」は、東や西ににげても、敗れてにげること。
「降北(こうほく)」は戦争に敗れてにげること。「遁北(とんほく)」は、「遁」も「北」もにげることで、にげ走るの意味。

◎「北」を含む文字に「背」がある。
「月(にくづき)」に「北」で、肉体のせなかで、転じて「そむく」の意味を表す。「背信」「背任」「背反」などの熟語がある。

◎私が重宝している「部首のはなし」(阿辻哲次著 中公新書)に「北」に関して中国の笑話が載っているので紹介する。

・結婚した男性に、翌日、悪友が集まってきて「夕べはどうだった?」とからかうと、男は指で地面に「北」の字を書いた。
・2日目の朝、友人からの同じ質問に対しては、「比」という字を書き、
・3日目の朝、しつこく同じ質問を発する悪友たちに対し、にやにやしながら、「臼」という字を書いた。

さて、この解釈は、みなさんにお任せする。

◎寒くて暗く、逃げたくなるような、「北国」にも、もうやく春がきた。
小鳥たちが、さえずりあっている様子は、漢字1字で表せば、さしずめ、「臼」があてはまるかも。

雛考

雛考

今日は、桃の節句。新聞のコラムなどにいろいろと書かれていますが、私流の「雛考」を書きます。

1.桃の節句

・いうまでもなく、5節句のひとつ。
5節句は、「人日(じんじつ)」「上巳(じょうし)」「端午」「七夕」「重陽」の5つ。
・「上巳」とは、陰暦3月の最初の「巳」の日のこと。
新暦の3月3日になってから、「重三(ちょうさん)」ともいう。
なお、「人日」は、陰暦正月七日の「ななくさ」をいう。

2.「雛」の字

①多くの人は、「雛」の字をこの時期しか見ないし、まして、このケイタイ・パソコン時代、ほとんど書かないし、書けない。
試しに「雛って書ける?」って周りの人に聞いてみてください。
「雛」は、平成2年にやっと人名漢字になった。
ちなみに、人名漢字は正確には、「戸籍法施行規則別表第二」の「人名用漢字別表」の漢字をいう。現在、983字が指定されている。

②「雛」の部首は、「隹(ふるとり)」部。

「とり」意味の部首は「鳥」「隹」「酉」と3つあり、まぎらわしいので、部首の読み方が区別されている。
・「酉」は、「ひよみのとり」「さけのとり」という。
「ひよみ」は「日読み」、つまり、「暦」のことで、「酉」は十二支の10位、方角は西、時刻は午後5~7時の間、季節は仲秋8月にあてる。
「さけのとり」というのは、「酉」は、もともと、酒器の象形で、この部首の漢字は、空を飛ぶ動物の「とり」を表す字はなく、「酒」「酌」「酔(よ)う」「醒(さ)める」「酎」「醸(かも)す」など、「酒」に関する字が多い。

なお、「医」(部首は「はこがまえ」)の旧字の「醫」は、「酉」部で、治療に酒(薬)を使ったことを示す字で、「医」では、意味不明だ。
・さて、「隹」だが、1字で、「尾の短いとり」の意味がある。甲骨文を見ると、ずんぐりした小鳥に見える。「小さい鳥」といえば、「雀(すすめ)」。「小」と「隹」の組み合わせだ。
また、「雁(がん)」の部首は、「がんだれ」でなく、「隹」部だ。「がんだれに雁がいない!」ことになる。
・「隹」の部首を「ふるとり」という。
「旧」の旧字「舊」の真ん中の「隹」をとって、「ふるとり」という。
ところで、「舊」は、「隹」の部首でなく、「臼(うす)」部だからややこしい。
・さてさて、「雛」の字だが、右側の「芻」は、「走」に通じ、こばしりする意味で、「こばしりするとり」から「まだ飛べないとり」、つまり、「ひな」の意味を表す。
また、転じて「小さい」「かわいい」という意味にもなり、「雛菊」「雛形」などという熟語に使われる。
・「雛」を使った熟語に「雛鳳(すうほう)」がある。「おおとりのひな」、転じて「将来有望な少年」のたとえ。私は、かって、紅顔の美少年のころ、「雛鳳」といわれた・・わけがない。

◎武士社会の官位

◎武士社会の官位
・律令官位は、律令制が崩壊し、実質的な意味が無くなっても発給が続けられた。これらの名目上の官位は、武士階級において権威付けとして用いられた。徳川幕府は、官位を武士の統制の手段として利用した。「禁中並公家諸法度」により武家官位を員外官(いんがいのかん)とすることによって、公家官位と切り離し、武家の官位の任命者は事実上将軍とした。
その「官位」部分を「官途名(かんとめい)」という。
たとえば、「南部大膳大夫利敬(としのり)」の「大膳大夫」部分、「松前若狭守章広」の「若狭守」部分が、官途名である。
律令時代は、「大膳大夫(だいぜんのだいぶ)」といえば、実際に、「大膳職」という役所の「大夫(だいぶ、長官)」であったが、武士社会では、単に、みずからを権威づけのための官途名に過ぎない。
「若狭守」も、律令時代は、実際に「若狭」国の「守(かみ、長官)」であったが、松前藩主を権威づける「官途名」に過ぎない。
◎明治政府も利用した官位
・明治政府も律令時代の官位を利用した。
・律令時代、「民部省」「兵部省」などという役所である「省」の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に「卿(かみ)」「輔(すけ)」「丞(じょう)」「属(さかん)」といった。なお「輔」「丞」「属」には、それぞれ大少があり、「大輔」「少輔」と細分化されていた。
・明治政府は、これを使い、「省」の官名を「卿(きょう)」「輔(ふ)」「丞(じょう)」「属(ぞく)」と読んだ。たとえば、「内務省」の場合、大久保利通「内務卿」、大山巌「内務大輔」というたぐいである。
◎開拓使の職名について
ついでながら、明治政府の開拓使の官位を述べておく。
・律令時代、「勘解由使(かげゆし)」などの「使」の役所の4等官(カミ、スケ、ジョウ、サカン)は、順に、「長官(かみ)」「次官(すけ)」「判官(じょう)」「主典(さかん)」と読んだ。これも「判官」「主典」には、大少があった。
・開拓使の職名もこの官位を使った。読み方は、「長官(ちょうかん)」「次官(じかん)」「判官(はんがん)」「主典(しゅてん)」と音読みに変わった。黒田清隆「開拓長官」、松本十郎「開拓判官」というたぐいである。

官職名としての国司

官職名としての国司
◎はじめに
ある研究会で、「淡路守、出羽守などというが、淡路とか、出羽などの国によって位の上下あったのか」という質問が出された。
官職は、律令時代と江戸時代では、大きく異なるので、まとめてみた。結論からいうと、律令時代は、由緒ある正式な職で、名前によりランクが付けられていたが、江戸時代の大名や幕吏が国司などの官職を名乗る場合は、形骸化し、名前による上下はなくなっていた。

Ⅰ.律令時代(大化改新後~奈良時代・平安前期まで)
別紙添付の表は、「官職要解」(和田英松著、講談社学術文庫)である。これを見るとわかるが、もともと、律令制では、国は、大・上・中・下の4等に分けられていた
1. 4等級は、何を基準に分けられたか。
・和田英松氏は、前掲書のなかで、「詳細のところはわからない」としながら、諸文献を引用し、「住民の多少、開墾が行き届いておるかおらぬかによったので、つまり、国庫収納の多少をもとにして定められたものらしく思う」と述べている。
2. 律令時代の国司の官職
・国司(こくし)は、国々を収める役人で、「クニノツカサ」ともいわれた。京都の役人を「内官」といったから「外官(げかん)」ともいわれた。
・国司が政務をとるところを、「国府」とか「国庁」などと呼ばれた。
・国司長官は「守(かみ)」、次官は「介(すけ)」、以下「掾(じょう)」「目(さかん)」「史生(ししょう)」があった。
さらにいえば、「守」の下に「権守(ごんのかみ)」があり、「掾」「目」には、大少があったから、全部の官職を上から並べると、
守、権守、介、大掾、少掾、大目、少目、史生という順になる。
・なお、諸国のうち、上総(かずさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)は、親王の任国であったので、長官を太守(たいしゅ)といった。したがって、この3国では、もっぱら「介」が政務をとっていたから、この3国の「介」は、「守」ともいった。
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