◎はじめに

本論では、幕府が東蝦夷地に建立した官寺の設置数と設置場所の決定に至る経過について述べ、さらに、等じゅ院が、
寺号に「善光寺」を希望し、寺院建立地として、有珠の善光寺の場所を要望していたという、
興味深い文書が「等じゅ院文書」にあるので、紹介したい。

一、官寺の設置数の経緯
まず、蝦夷地での官寺の設置数の経緯をたどってみる。

①箱館奉行、「先ず当時一、二ケ寺」建立伺い
蝦夷地へ建立する官寺建立数について最初に言及した文書は、享和二年(1802)1月25日付で、箱館奉行の戸川安論と
羽太正養両名から寺社奉行に提出された伺書に見える。
「東蝦夷地内然るべき場所へ、都合五ケ寺建立の積りを以、
先ず当時一、二ケ寺も取建たく存じ奉り候」(注1)
箱館奉行は当初、一、二ケ寺の建立の伺いをしていた。
②寺社奉行、「先ず当時二、三ケ寺」と達する
箱館奉行の伺いに対し、翌享和3年(1803)正月19日、
寺社奉行・松平康定から次の達しがあった。
「先、当時二、三ケ所相建、追て二ケ所も相建てるべき場所等も、
是又承知致したく候」(注1)
 箱館奉行の「一、二ケ寺」の建立要望が、寺社奉行の段階で、
「二、三ケ所」と、微妙に変化している。
③箱館奉行、三ケ所建立の伺い
 寺社奉行の達しを受けて、箱館奉行は、享和3年(1803)正月、
寺社奉行の達しにある「二、三ケ所」のうち、多い方の「三ケ所」を取り、「当時相建てるべき場所」を進達、
さらに、「追て寺院相建てるべき場所」として二ケ所を寺社奉行へ進達している。
「函館よりヤムクシナ  追て寺院相建てるべき場所  十六里程
 同所よりウス迄    当時建てるべき場所     二拾里余
 同所よりシヤマニ迄  当時建てるべき場所     六十里程
 同所よりクスリ迄   追て寺院相建てるべき場所  五十三里程
 同所より子モロ迄   当時建てるべき場所     三十五里程」(注1)
④三寺に決定
三ケ寺建立が、箱館奉行に達せられたのは、享和3年(1803)11月19日のこと。箱館奉行の伺いが受け入れられたことになる。
「亥十一月十九日、寺社奉行脇坂淡路守面談、蝦夷地寺院五ケ寺の内、
先三ケ寺、此度出来の積り」(注1)

二.建立寺院の宗派について
①天台宗、浄土宗の二宗派
 次に、蝦夷地へ建立する宗派について見る。
享和3年(1803)11月9日の「善光寺文書」の記述に、寺社奉行・脇坂安董から、寛永寺、増上寺へ、住職人撰の達しがある。
「蝦夷地へ寺院御取建て仰出され候間、住職人撰いたし、書出申さるべく候。
 右は、天台宗にて壱ケ寺、浄土宗にて壱ケ寺、外に壱宗の趣に候得共、
未だ治定これ無く」(注2)
この段階で、天台宗、浄土宗の二宗派が決定し、もう一宗派は未定であった。いうまでもなく、天台宗の寛永寺、浄土宗の増上寺は、
幕府の菩提寺であり、幕府に庇護された大寺である。

②三つ目の宗派
享和3年(1803)11月19日には、9日の段階では未定だった三つ目の宗派も
決まったことがわかる。寺社奉行・脇坂安董と面談した
箱館奉行・羽太正養は、次のように聞かされている。
 「住職の儀は、上野、増上寺、金地院にて相撰候由、淡路守、
申聞きかされ候」(注1)

三、官寺の設置場所の変更
 ところで、寺院設置場所については、前述の通り、
享和3年(1803)正月段階では、箱館奉行は、ウス、シヤマニ、子ムロを
予定し、
寺社奉行へ報告したが、文化元年(1804)9月24日に、箱館奉行戸川安論から
寺社奉行・脇坂安董へ、根室から厚岸への変更を申し入れている。
「寺院三ケ寺の儀、先達てウス、シヤマニ、子ムロの積り御掛合申し候処、
右の内子ムロ場所は、住居不勝手にこれ有るべくに付き、
子モロより二十里程手前、アツケシと申す処、格別気候も宜しく候間、
アツケシの方場所に取極め、御掛合申し候」(注1)
 これに対し、翌文化2年(1805)正月15日、奉行・脇坂安董から、
「御書面三ケ寺場所の儀、承知せしめ候」(注1)
と、了解の回答があり、ここに三官寺の設置場所が確定した。

四、寺号の決定
 蝦夷地に建立する寺院数、宗派、設置場所が決まった。
次に、寺号のについて見る。
【書き下し】
「一 同廿七日暁六ツ時出院、観音寺(注3)同道にて、
大久保安芸守殿(注4)内寄合(注5)へ罷出候処、
五ツ時過、寺社御奉行衆御揃、評席に於いて
淡路守殿申渡され左の通り。
       蝦夷地寺院住職秀暁出席、上野執当衆
       円覚院、今度蝦夷地寺院寺号之儀、   
       御老中へ伺之上、伺之通申付候
                    帰 嚮 山
                    厚 沢 寺
                    等 じゅ院
  右仰渡され相済、退去。寺社御奉行衆五軒御礼の為
  等じゅ院廻勤之事。」(注3)

 文化元年4月27日、寺社奉行から、寛永寺に対して、寺号の申し渡しがあった。善光寺文書、国泰寺文書にも、
この日、寺号の申し渡しがあったことが記されている。
五、寺号について等じゅ院のクレーム
【【書き下し】
「一 此度、浄家新寺之寺号、善光寺と相附申候。
  彼等之底意、彼地善光寺之場所へ建立
  仕度志願と推察仕候。若し、左様にも相成候ては、
  元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ候様、
  世上之取沙汰、末々迄遁れ難く存じ奉り候。猶又、
  弥慈覚大師之御開基に相違も之無く候はば、
  恐れ乍、祖師之内鑑にも相叶申すべく哉に存じ奉り候。
  右、愚意之存念荒増申上げ奉り候。以上

     五月朔日       蝦 夷 地
                等じゅ院」

 この文書は、文化元年(1807)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出されたものである
秀暁は、寺号について、「元来台家之善光寺を彼宗に奪取られ」たことを
「世上之取沙汰、末々迄遁れ難」いと、強い口調で述べている。
この文書を等じゅ院の本山である寛永寺側が、どう取り扱ったかは、等じゅ院文書には見当たらない。いずれにしても、4月27日の寺社奉行の申し渡しが
覆ることはなく、等じゅ院が「善光寺」となることはなかった。

六.建立場所について等じゅ院のクレーム
【書き下し】
「一 蝦夷地箱立より道法三、四拾里の場に善光寺と
   如来安置之堂宇御座候由、承及候。尤、安置之
   時代も不分明の由に候得共、多分、慈覚大師
   之御開基に御座有るべく趣、諸人推察仕居候
   事に御座候。左候得ば、差急候儀は御座無く候得共、
   此度御取建之寺院、彼場所へ建立仕候様
   願上奉り度存じ奉り候。」(注6)

 この文書も、文化元年(1804)5月朔日、等じゅ院初代住職の秀暁から、
本山の寛永寺役僧へ出された文書である。
「箱立より道法三、四拾里の場に」ある善光寺は、「多分、慈覚大師の御開基」であると、「諸人推察」しているので、「此度御取建の寺院」、
つまり、等じゅ院は、「彼場所」、善光寺のあるウスへ建立したいとの
願書である。
 いうまでもなく、「慈覚大師」は、平安期の天台宗山門派の祖・天台座主円仁の謚名。
であれば、天台宗の等じゅ院は、当然、そのウスの地に建立したいという願いである。

七.等じゅ院の願い、聞き入れられず
 等じゅ院をウスの地に建立したいという等じゅ院の願いについても、本山の寛永寺が、どう扱ったかは不明であるが、
願いは叶わず、結局、等じゅ院は、シヤマニの地に建立されることになった。
 場所割について、箱館奉行と寺社奉行の間のやりとりについて、
「休明光記」から、その経過を拾うと、
・文化元年(1804)9月24日、箱館奉行戸川安論から寺社奉行脇坂安菫に対し、「三ケ寺就職場所等之儀は、其方にて御申渡され候儀と相心得申候」と、
場所割は、寺社奉行の権限であると心得ている旨の達しを出している。
・これに対し、寺社奉行脇坂安菫は、翌文化二年(一八〇五)正月十五日、「住居之場所、名前御割付、申聞され候様致し度候。地理不弁之事故、
拙者方にても取極難く、傍々御懸合に及候。御答次第、
猶伺之上取計申すベく候」と、場所割を、箱館奉行が提案するよう、付札している。
・これを受けて、箱館奉行は、「蝦夷地住職場所割」を提出した。
次は、「等じゅ院第一巻・蝦夷地寺院一件記」の一節である。
【書き下し】
「              蝦夷地住職場所割
箱館より道法九拾六里余           天台宗 
     シヤマニ               等 じゅ 院
                            秀暁
同所より道法三拾六里余           浄土宗
     ウス                 善 光 寺
                            荘海
同所より道法百六拾七里余          五山派
     アツケシ               国 泰 寺
                            文翁
右之通に御座候 以上
     丑 正月                      」

◎まとめ
 以上のように、官寺の設置数、設置場所の決定に至る経過を見てきた。
なかでも、等じゅ院が、寺号、設置場所について、「善光寺」にこだわり、クレームをつけたことは、興味深い。
 終わりに、なぜ、「善光寺」にこだわったのか、いわゆる「信濃善光寺」について、文献をひも解いてみる。
 「善光寺」といえば、信州長野平にある定額山善光寺。善光寺の建立について、「日本仏教辞典」によると、「善光寺古縁起」を引いて、
建立は皇極天皇元年(六四二)という。江戸時代の善光寺の宗派については、「大勧進別当(天台宗)と大本願上人(浄土宗)両人が寺務を行ったが、
寛永二十年(一六四三)善光寺が東叡山寛永寺の直末となり(中略)
以後大本願上人の寺務職に変わりはなかったが、大勧進別当が寺務表役とな」ったとある。信濃善光寺は、天台、浄土両派が管理していたが、蝦夷三官寺建立の文化年間は、天台宗が表役であり、等じゅ院の本山である寛永寺の末寺になっていた。
 このことは、等じゅ院初代住職・秀暁の前述の願いの基礎になっていたと推測する。

(注1)「休明光記」(「新撰北海道史第五巻史料一」所収)
(注2)「蝦夷地御取建並住職交代一件記」(「蝦夷地善光寺日鑑・解読第一巻」所収)
(注3)「観音寺」・・秀暁のこと。秀暁は当時、寛永寺末の上総国芝山(現千葉県山武郡芝山町)の観音寺(正式には天応山福聚院観音教寺観音教寺)の住職であり、観音寺の住職のまま、等じゅ院住職も兼務することになる。
(注4)大久保安芸守・・寺社奉行大久保忠真(ただざね・小田原藩主。享和四年一月から寺社奉行)
(注5)内寄合・・寺社奉行の定例会議。毎月六日、十八日、二十七日に行われた。
(注6)「等じゅ院住職記」(「等じゅ院文書第三巻」所収)