森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2009年02月

「松本十郎大判官らの独断専行」資料3

『3・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部」(道文・簿書5781)
【第一文書】
東京行  一月廿三日 コスタリカ船便          三十一日  
一ノ十八号                            
   西村正六位 殿                 松本大判官  (「松本」)
   安田 定則 殿                田中正六位  (「田中」)
   時任 為基 殿

本庁土塁並病院(1)生徒寮(2)建設専断(3)之
儀ニ付、各位御見込御申立ノ儀も有之候得ども、其
侭差置候而は、自然各支庁、今後之取締
ニも相関(4)し候ニ付、公然処分可相伺旨、次
官殿、被申聞候云々承知致候。則、別紙之通
待罪書、正副とも差出候条、可然御執達(5)
有之度、此段得御意候也
   明治七年一月八日

(付札)
「御覧済、正院(6)へ之伺書
取調可申候」

【第一文書】注
(1)「病院」・・札幌での医療施設設立の経過について
  ・明治二年(一八六九)十一月、札幌村に一舎を築き仮病院とする。大学二等医の斎藤龍安が在勤。
  ・明治三年(一八七〇)十一月、東創成町(現北一条東一丁目)に移転。
  ・明治四年二月、医師斎藤龍安・長谷川鉄哉・米内鳳祐の三名が連名で本病院建設を嘆願。
  ・同年六月、東創成町に四十坪の病院病室を六六九円余で新築。はじめて入院患者を収容。
  ・明治五年(一八七二)七月、開拓使、五等出仕渋谷良次ら十数名の医員を招く、医員は二十一名に激増した。
  ・同年同月、病院仮規則を定めた。(商工を自費、農業移民、アイヌ、市在困窮者を官費とした。
  ・同年九月、雨竜通(現北三条東二丁目)に梅毒院新築。
  ・同年十月、札幌仮医学所(生徒寮)を建設。
  ・同年一月、東創成町の病院を雨竜通の梅毒院に移して本院とし、梅毒院の称を廃止。
  ・同年六月三日、本庁事務機構改正で、札幌病院とし、三課(事務・主治・教授)に分けた。
(2)「生徒寮建設」・・明治五年(一八七二)十月、七十六坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生二十五名、自費生二名、計二十七名の入学を許可。翌六年(一八七三)一月二十一日、仮医学所開校式を行う。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名(病院と兼務)
(3)「専断」・・ここでいう「生徒寮建設専断」について、「北海道史人名字彙」の「田中綱紀」の項に詳しいので要約する。
  ・札幌病院の渋谷良次が医学生要請に要する講堂・生徒寮の建設を要請。
  ・松本、黒田次官に上申するが、次官は受け入れず、札幌詰を命じられて赴任する田中に不許可の命を伝える。
  ・明治六年(一八七三)八月、父の死去で庄内鶴岡へ帰郷、松本不在中に、渋谷、「頻に生徒寮の建設を綱紀に迫る。綱紀、遂に独断を以て之を許し、・・病院に接続せしむ」。
(4)「相関(そうかん)」・・お互いに影響しあう関係にあること。
(5)「執達(しったつ)」・・上意を受けて下に通達すること。
(6)「正院(せいいん)」・・明治四年(一八七一)閏四月二十一日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治七年現在、太政大臣(三条実美)、左大臣、右大臣、参議よりなる。

【第二文書】
三月二日付 司法省(1)掛合有之             札第九拾五号   「花押」小牧」)   調所」)  (「千早(2)」)
                          調所幹事
  松本大判官殿                  安田幹事
  田中正六位殿(3)                小牧昌業

貴官進退伺処断、司法省ヨリ
相廻候間、差進候条、御落掌
之上、請書並贖金(4)とも早々御廻可有之、此段
申進候也。
   七年三月四日

【第二文書】注
(1)「司法省」・・明治四年(一八七一)七月九日、刑部(ぎょうぶ)省と弾正台が合併して設置された。
(2)「千早」・・少主典千早正路か。
(3)「田中正六位殿」・・棒線で末消している。田中は、二月二十二日、宮城県高城(たかぎ・現宮城県松島町のうち)で自殺しており、本文書の三月四日には、既に死亡している。
(4)「贖金(しょくきん)」・・実刑の代りに、罪をつぐなうための相当額の金員のこと。

【第三文書】
   土塁建築専断之儀ニ付進退
   奉伺候書付
札幌本庁其他病院、官邸周囲土塁之儀、即今
着手致候得ば、御入費、格別相減、御都合之事ニ付
病院並官邸周囲丈、不経伺仕越取計、本庁
土塁之儀ハ、黒田次官へ指令有之度旨、開申(1)致候処、
右ドルイハ見合、但、四方へ樹木植込候様、指令有之
候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁
無之候而は、御失体之儀ト存量候間、再応
可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其
機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境
無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行
可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候段、恐懼(2)
之至ニ候。依之、進退之儀、奉伺候也。
    明治六年十月十三日  開拓大判官 松本十郎  
         史官(3) 御中

【第三文書】注
(1)「開申(かいしん)」・・申し開くこと。自己の職権内でしたことを監督官庁に報告すること。
(2)「恐懼(きょうく)」・・おそれかしこむこと。
(3)「史官(しかん)」・・歴史を編集する官吏。明治政府では、太政官直属の職。

【第四文書】
再ビ長官(1)ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建築スルモ、時
日、遷延(2)、時機ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ事
応、奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ、申ゼザル者、懲役三
十日、公罪(3)例ニ照シ

    「司法卿(4)
(角印) 大木喬(5)       贖罪金(6) 六円
     任之印」

【第四文書】注
(1)「長官」・・黒田が開拓長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日で、この文書の時期は、次官。開拓長官は、不在だが、ここでは、「開拓使の最高責任者(トップ)」の意。
(2)「遷延(せんえん)」・・のびのびになること。
(3)「公罪(こうざい)」・・公務上の犯罪。
(4)「司法卿(しほうきょう)」・・司法省の長官。ちなみに、司法省の官位は、卿、(大・少)輔(ふ)、(大・少)丞(じょう)、(大・少)録(ろく)の順。
(5)「大木喬任(おおきたかとう)」・・旧佐賀藩士。司法卿在任は、明治六年(一八七三)十月二十五日~明治十三年(一八八〇)二月二十八日。
(6)「贖罪(しょくざい)金」・・体刑に服する代りに、罪過を許されるために差出す金員。ちなみに、当時大判官の月俸は三百五十円であった。また、明治七年の米一俵(六十キロ)の値段は一円八十七銭。

「松本十郎大判官らの独断専行」2-3

【第五文書】
  大判官       工業局 
              会計局  
(朱)元伺高 四千六円九厘

一金 千八百九拾四円九拾七銭一厘
    内
     金 九百弐拾六円八拾七銭七厘九毛  大岡助右衛門
          是ハ敷砂利運送代
     金 五百壱円四拾九銭三厘三毛    寺尾 秀次郎
          是ハ五角形内構地盤高下平均
     金 四百六拾六円六拾銭       森村 岩太郎
          是ハ本庁構内道式五ケ所御普請御入用

右ハ本庁御構内道式並建家廻り地盤高下
平均、且、砂利運送代とも入札申付候処、書面
之者ども安値ニ付、落札可申付哉。別紙相添此段
相伺候也。
     十月

【第六文書】
(付札)
「別紙」

      五角形入札比較表
   一金 五百七拾円三拾七銭      森邨岩太郎
   一金 五百四拾円五拾七銭二厘    前田市太郎 
   一金 千三百四拾五円弐拾銭     石田福太郎
落札 一金 五百壱円四拾九銭三厘三毛   寺尾秀次郎
   一金 千四百八拾九円八銭九厘五毛  大岡助右衛門
   一金 六百六拾七円七拾八銭四厘七毛 中山 藤吉
   一金 五百九拾四円五拾弐銭     中川源左衛門
   一金 五百九拾弐円拾六銭壱厘五毛  水原 虎蔵

【第七文書】
    道敷入札比較表
落札 一金 四百六拾六円六拾銭          森村岩次郎
   一金 九百五拾八円八拾壱銭2厘       前田市太郎
   一金 七百参三拾四円四拾銭         石田福太郎
   一金 八百四拾三円四拾三銭一厘弐毛     寺尾秀次郎
   一金 九百拾八円八拾九銭弐厘三毛      大岡助右衛門
   一金 五百六拾七円九拾壱銭壱厘       中山 藤吉
   一金 千弐百三拾四円七拾銭         中川源左衛門(1)
   一金 六百九拾壱円八拾九銭五厘三毛     水原 虎蔵

【第七文書】注
(1)原本には、テキストの「⑫~30」と、「⑫~31」の間に、もう一丁あり、この中川源左衛門の行と次の行の水原虎吉の行、及び次の「砂利運送入札比較表」の七行が抜けている。

【第八文書】
      砂利運送入札
      比較表
   一金 千弐百四拾四円七銭六厘      吉田 茂八
   一金 千六百三拾八円三拾銭       森邨岩次郎
   一金 千四百八円四銭七厘九毛      前田市太郎
   一金 千百五拾円四拾八銭四厘      石田福太郎
   一金 九百五拾壱円九拾弐銭       寺尾秀次郎
   一金 千七百四拾壱円五拾銭       佐藤 幸吉
落札 一金 九百弐拾六円八拾七銭七厘九毛   大岡助右衛門
   一金 千五百壱拾五円七拾五銭      中山 藤吉
   一金 千三百七拾五円六拾五銭六厘    水原 虎蔵
   一金 弐千四拾七円三銭二厘七毛     中川源左衛門

「松本十郎大判官らの独断専行」2-2

『2~2・開拓使公文録』「開拓使公文録明治六年建設之部」(道文・簿書5757~86)

【第一文書】
(付札)
「十一月十六日  
本庁周囲土塁道敷其他
着手ノ件
  松本大判官外一名ヨリ西村正六位
  外三名ヘ来」

十一月十五日、コレア号(1)便          十九日    
十ノ六十六号  
  
西村正六位殿
安田 定則殿       松本大判官 (「松本」)
内海 利貞殿       田中 幹事 (「田中」)
時任 為基殿 
先般於其表、定則殿御伺数件之中、本庁
土塁之儀、御見合、樹木植込之御指揮(2)
有之候得共、兼而ご案内之通、実地情態
速ニ樹木植込区域之経界相立候場合ニ
及兼、既ニ御落成(3)之上、是非共、外ト囲構
無之ハ、市街地近傍之曠野故、四方ヨリ馬、輻
湊(4)、実ニ不体栽且四方御門取建、道路
修理相成候共、土塁等之区域無之は、
折角盛大之御造営(5)所欠有之ニいたり、
遺憾之至候。仮令植込相成候共、其区域
限無之ハ野飼之数百馬(6)、植樹ヲ踏荒、盛
木難成、何程馬追共ニ厳命布告候共、
長キ月日之中ニ自然勝手、従横ニ乗込、
到底不都合之事而已多キハ顕然且ハ、
現今、職方手違之季節ニ付、別紙仕様
書之通、金高弐千三百七拾二円四拾
弐銭ヲ以入札申付候処、落札千八拾六円四拾
弐銭ニ相成、格外(7)之減金ニ而出来形(8)ニ相成
右は、一応伺之上、施行可致ハ勿論候得共、
最早季候相遅レ、御指揮相待候得ハ、
雪中ニ相成、第一、明春ニ至候ハバ、迚も右
金員ヲ以出来候理無之、不得止専断之
罪知リナガラ、実地情難黙止、専断いたし候
事情、篤ト御了察、次官殿ヘ宜御弁向
有之度、尤、定額金之内ヲ以御入費ニ
相充而、別段御出方不相願候事。
一 本庁御構内道路修繕許可ニ相成
  仕様積書(9)ヲ以至急ニ相伺候様、御指揮
  候得共、取調書ヲ以東京ニ相伺候上ニ取
  懸候事なれバ、前文之通、時節遅レ、
  当年之間ニ合不申、然ルニ、本庁落成、
諸局(10)共、総容(11)引移、是迄之侭差置
候得バ、凸凹甚敷、往来不便理、一同時節遅レ
殊更難渋不大方候間、又候専断ニ相渉リ
候得共、到底御建築ニ相成候事なれば、
当年御下手之方ハ、御出方も格別減縮
市中不景気も大ニ振起(12)之勢有之
旁以別紙仕様書之通、金高四千六円
九厘之調ニ入札為致候処、落札金千八百
九拾四円九拾七銭壱厘、格別御減金之
出来形、且以、当年中、格別なれバ、上下共
便利不少候間、前条之減金なれば、
御異存も有之間敷ト被存候間、不経
伺、只今ヨリ取懸候事。
一 市街修繕之義、今度許可ニ相成、
  最前仕様金弐千八百七拾壱円七拾六銭
  壱厘之処、入札為致候処落札金千六百
三拾壱円五拾弐銭弐厘出来形相成候間、
唯今取係候事。
   但、仕様書先般御検印済ニ付、今度不相伺候事。
一 病院並西洋造官邸廻り土塁最前
  積高金四千百五円三拾銭壱厘之処、
  入札出来形千五百五拾弐円七拾九銭ニ而
  取懸候事。
一 豊平川新橋(13)之義ハ、昨今其筋ニおいて
  取調中ニ候。到底当年中ハ御下手相成
  兼候ニ付、次便ヲ以可申進候。旧橋殊之外
  破損ニ付き修繕加ヘ置申候事。
一 新川修繕之義ハ、今度絵図面ヲ以御指
  揮有之候得共、定則殿実地之体裁
  御案内之通、両岸ニハ砂利多し而、絵図
  面通り致候得バ返而患害(14)ヲ引出ニ
  近ク、兎角難被行候間、尚、別ニ仕様
  取調可申進候事。
  右之件々可然様、次官殿ニ被御
  申立度、此段及御懸合候事。
     明治六年十月三十一日
【第一文書】注
(1)「コレア号」・・戊申戦争の際、官軍奥羽鎮撫隊を運んだロシア船に「コレア号」が見える。欄外に書かれたこの行は、影印では見えない。原本に当たって確認した。
(2)「指揮」・・さしずすること。
(3)「落成」・・開拓使札幌本庁の落成のこと。明治六年(一八七三)十月二十九日落成。落成布達は十一月二十四日、開拓使札幌本庁が仮庁舎から落成した庁舎に移転したのは、明治七年(一八七四)一月一日。
(4)「輻湊(ふくそう)」・・(輻=や=が、轂=こしき=にあつまる意から、方々から集まること。
「輻(や)」は、轂(こしき。車輪の中央にあって軸をその中に貫き、輻をその周囲にさしこんだ部分)から車輪の輪に向かって出ている放射状の細長い棒。「湊(みなと。ソウ)」は、あつまるの意。
(5)「盛大之御造営」・・開拓使札幌本庁舎の構内は、南北三百四十四間(約六百二十メートル)、東西二百四十六間(二百五十メートル)。
(6)「野飼之数百馬」・・明治三年(一八七九)虻田、有珠、浦河の牧場にいた多数の馬が、駅逓備馬あるいは農家へ払い下げとなったが、札幌には、三百二十一頭が送られ、元村に牧場を開いた。四年(一八七一)一月に札幌市民及び近村に百二十頭が貸し付けられ、翌五年(一八七一)にそれらを売り渡している。(「新札幌市史」)
(7)「格外」・・並はずれ。
(8)「出来形(できがた)」・・工事施工が完了した部分のこと。工事竣工をいう。
(9)「積書(つもりがき)」・・見積書。
(10)「諸局」・・明治六年(一八七一)六月三日、本庁事務機構を六局(庶務・会計・農業・工業・物産・刑法)二十四課、別に学校(三課)、病院(三課)と定めた。
(11)「総容(そうよう)」・・一同。
(12)「振起(しんき)」・・盛んになること。ここでは、不景気が拡大することの意。
(13)「豊平川新橋」・・豊平川に最初に橋が架けられたのは、明治四年(一八七一)。その後毎年新築橋が架けられている。毎年のように流された。なお、本文書の明治六年(一八七三)の春の融雪期に豊平川が増水し、鴨々川水門が破損して市街に被害が出そうになり、松本は、黒田の許可をとる前に四月から八月まで一八〇〇円をかけて鴨々川水門の水防工事を行った。(「新札幌市史」)
(14)「患害(かんがい)」・・わざわい。

【第二文書】
(付札)
「別紙」

写東京行
    会計局      松本大判官 (「松本」)
本庁土塁並ニ五ケ所御門御入用金
千八十六円四十弐銭、定額金之内ニ而
相弁じ候間、篠路味噌醤油製造
御見合ニ付、減金四千五百円ノ口ヨリ
御出方御取計有之度、此段申進候事。
    六年十月廿日


【第三文書】
十月廿三日 御検印済(1)
写東京行
        ○黒(印)
       大判官  (「松本」)     工業局 (「岩」)(「前田」) (「宮」)
        幹事  (「田中」)    会計局  (「村井」)(「山崎」)
一 金千八拾六円四拾弐銭、大岡助右衛門(2)
右ハ本庁御構内土塁、水吐並御門五ケ所
  柵矢来、橋共、御入費凡積之上、入札申付、開
  札仕候処、別紙之通、安値段有之候得共、小内
  訳取調高不相当ニ付、御出来形ニ相響キ
  可申哉。依之、凡積比較仕置当高六番
  札落値段ニ可申付哉。尤、落成間数
  検査之上、坪当を以、猶増減仕候。則、
  仕様内訳帳添、此段相伺候也。
     十月十二日

【第三文書】注
(1)この行は欄外に書かかれており、綴りの喉(のど)のため影印では見えないが原本で確認した。
(2)「大岡助右衛門」・・請負人。天保七年(一八三六)五月武蔵国久良岐(くらき)郡大岡村(現横浜市南区のうち)の農家に生まれる。安政五年(一八五八)箱館五稜郭建設には大工頭としてたずさわる。明治四年(一八七一)には、札幌本陣の建設に着手。その後、札幌農学校、豊平橋、豊平館の建設を請負う。

【第四文書】
   本庁御構土塁並水吐、御門五ケ所  
   御取建、其外御入費入札

金 千五百七拾六円八拾六銭      森村岩次郎
金 八百六拾八円三拾銭九厘五毛    大谷平次郎
金 千五百七拾六円弐拾弐銭      森川三太郎
金 千弐拾壱円八拾九銭二厘      前田市太郎
金 千百七円六拾八銭         吉田 茂八(1)
金 九百四拾九円六拾壱銭五厘五毛   寺尾秀次郎
金 八百九拾七円九拾八銭       中山 藤吉
金 千八拾六円四拾弐銭        大岡助右衛門
金 弐千九百七拾八円五拾銭      小宮 与吉
金 千四百八拾壱円八拾七銭四厘八毛  石田福太郎
金 八百八拾円九拾九銭三厘壱毛    佐藤 幸吉
金 千三百円三拾三銭三厘       水原 寅蔵(2)
金 千三百七拾三円弐拾壱銭      中川源左衛門(3)
   第十月十二日
【第四文書】注
(1)「吉田茂八」・・文政三年(一八二〇)十月福山に生まれる。創成川の開削者。請負業者として成功。
(2)「水原寅蔵(すいばらとらぞう)」・・文化十五年(一八一八)近江国甲賀郡三雲村(現滋賀県湖南市のうち)の農家に生まれる。後、越後国水原(すいばら)に住む。越後の松川弁之助の蝦夷地渡航に同行。明治四年(一八七一)札幌に移住。開拓使御用請負人となる。
(3)「中川源左衛門」・・請負人。天保九年(一八三八)阿波国三好郡白地村(現徳島県池田町白地)の生まれ。明治三年(一八七〇)、札幌開府の請負人統卒を命じられる。開拓使仮庁舎、官舎、札幌神社、偕楽園、市中道路建設などすべての土木建築工事に采配をふるった。

「松本十郎大判官らの独断専行」資料2-1

『2~1・開拓使公文録』「開拓使公文録明治六年建設之部」(道文・簿書5757~85)
【第一文書】 

「安田定則外一名ヨリ松本大判官外一名へ回答」(1)

札ノ三百八十六号 

  松本大判官殿          安田定則
  田中 幹事殿          時任為基

本庁周囲之儀ニ付、定則ヨリ次官殿ヘ
再伺書差出置候内、周囲土塁之儀、
既ニ着手之趣ニ付、門並樹木之分、伺之通ト付
紙之上、御指揮相成候間、営繕減金之内より御払出有之度、別紙
写相添、此段申進候也。
   六年十一月七日

「不及写」(2)
別紙相伺候間、御取調御差出
被下度、御依頼ニ及候也。
    明治六年十月    安田定則 
    内海利貞殿
    時任為基殿

(付札)
「御伺之趣、依存無之、尤、御構内
水抜溝之義は、追而御詮議
有之。当時御差延相成り候而ハ
如何可有之哉。
       内海利貞 」

【第一文書】注
(1)冒頭欄外にある付札。
(2)本文中央にある付札。

【第二文書】
「別紙」(1)
「可写」(2)

次官殿              安田定則 
先般、本庁周囲之儀相伺候処、築塁見
合、樹木植付候様、御下命相成拝承(3)仕候。
就而ハ、周囲下水並ニ御門丈ケ之造営ハ
無之候而ハ、不体栽にも可在之候間、右下水
径三尺深壱尺五寸ト相定、堀土ハ、一平ニ敷並
シ、其場ニ植ルニ兼而御用地へ御仕立在之候
利子(ママ)(4)林檎、葡萄類之菓木を列植仕度、仍而
仕様書並ニ御入費積、御構内下水相除
候分共弐通、絵図面相添、重而相伺候間、
両様いずれか御指揮被成下度候也。
    明治六年第十月

(付札)
周囲土塁之儀ハ既ニ
着手之趣ニ付、樹木之分
伺之通。

【第二文書】注
(1)冒頭欄外にある付札。
(2)本文中央にある付札。
(3)「拝承(はいしょう)」・・聞くことの謙譲語。つつしんでうけたまわること。
(4)「利子」・・「梨」か。

【第三文書】
本庁構内外御門其外取建入費

今般調高
  凡金 五千七百三拾八円三銭五厘
      内
       金 千九百〇六円四拾八銭九厘
             是は惣構下水其外
             御入用之分
       金 三千五百弐拾九円八拾弐銭8厘
             是は御構内小河埋方並
             堀方、小橋掛渡、道敷共御入用之分 
       金 三百壱円七拾壱銭八厘
             是は御門五ケ所御入用之分  
【第四文書】

      御構内外御門其外取建入費

今般調高
  凡金 七千三百五拾七円三拾九銭五厘
     内
       金 千九百〇六円四拾八銭九厘
           是は惣構下水並ニ渡橋
           新規御入用(1)
       金 五千百四拾九円拾九銭壱厘
           是は御構内小河埋方並ニ
           堀方小橋、道敷廻り、水抜
下水前後篝其外入用
之分
       金 三百壱円七拾壱銭八厘
                   七厘五毛之処
           是は御門五ケ所御入用

(付札)
「内金 千六百拾九円三拾六銭三厘
     水抜下水前後篝等御入用」

【第四文書】注
(1)この二行の但し書きは、影印では簿所のどに隠れて見えない。原本にあたって判明した。

【第一図】

「本庁入口門 五ケ所之図」

(図に表示されている語句で調べたもの)
「框(かまち)」・・門、扉などの枠。
「見付(みつけ)」・・框などの正面の幅。
「見込(みこみ)」・・部材の奥ゆき。

【第二図】

「本庁御構内見取縮図」

「松本十郎大判官らの独断専行」資料1

『1・開拓使公文録』「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(道文・簿書5576~17)
【第一文書】
次官(1)                     東京
  五等出仕(2)                  会計課(4)
  七等出仕(3)
札幌本庁回り、柵矢来(5)及西洋形門、
其外道敷(6)、芥抜下水(7)、小橋並構外四方
川埋新堀共、ご入用合金弐万百五拾
五円九拾弐銭八厘ヲ目的高トシ、伺之通ヲ以
構営(8)ノ義、御達可然、尤、右ハ目的高ト
心得、道敷、芥抜以下、営構ハ、可成省減
作略(9)候様可致旨、御達可然哉。御回金
之義は、別段御出方、明年春ニ至リ可被差遣
候条操合(10)方、心懸候様致度、此段も
御達有之度、右等相伺候也。

  明治六年九月十二日

    本庁回り柵矢来取建ニ不及、四方樹木植付
付札  候様可致、且、道敷之義ハ、修繕可致義
    ニ付、右之概様、積書(11)いたし至急可差
    回候事。


【第一文書】注
(1)「次官」・・黒田清隆。黒田は明治三(一八七〇)五月九日~明治七年(一八七四)八月一日まで次官。長官になったのは、明治七年(一八七四)八月二日。
(2)「五等出仕」・・明治六年(一八七三)の官員録では、西村貞陽、大鳥圭介、山内堤雲の三人。少判官の下位、幹事の上位。
(3)「七等出仕」・・明治六年(一八七三)の官員録では、調所広丈ら八名。権幹事の下位、大主典の上位。
(4)「東京 会計課」・・開拓使は、明治二年(一八六九)七月八日設置されたが、明治三年(一八七〇)閏十月十日、在京の開拓使は、「開拓使東京出張所」と改称し、これまでの東京城西丸の民部省から日本橋蠣殻町に移転した。さらに、明治四年八月には、芝増上寺内に移転下。「東京」は、「「開拓使東京出張所」のこと。「会計課」は、その一つの部署。明治六年(一八七三)六月三日、会計課など七課と、官園、会所などの事務機構を定めた。
(5)「柵矢来(さくやらい)」・・木の柵で作った矢来(かこい)。ヤライは「遣ひ」で「追い払う」「入るを防ぐ」の意。
(6)「道敷(みちしき)」・・道路に使用する敷地。道路敷。
(7)「芥抜(あくたぬき・ごみぬき)下水」・・ごみ処理のための下水のこと。
(8)「構営(こうえい)」・・かまえいとなむこと。組織し経営すること。
(9)「作略(さりゃく)」・・よいようにはからうこと。配慮。
(10)「操合(くりあわせ)」・・本来は「操」は、糸偏の「繰」で「繰合」。やりくりする。都合をつける。
(11)「積書(つもりがき)」・・見積りの計算を記した書類。見積書。

【第二文書】

十一ノ八十一号
  西村正六位殿(1)            松本大判官(5)
安田 定則殿(2)
内海 利貞殿(3)            田中 幹事(6)
時任 為基殿(4)            金井 信之(7)
本庁周囲土塁並御門、下水、樹木植付
等之義ニ付、於其御地次官殿へ御伺済
相成候段、書類添御申越候趣、承知
いたし候。右は是迄致度々得御意候通、其侭
難捨置ニ付、小川埋立掘方等は相除キ
土塁、下水並御門五ケ所(8)、柵矢来、道敷
五ケ所、五角形内地形(9)平均砂利敷、下水
水吐、橋等一切御入費合金弐千九百八拾
壱円三拾九銭壱厘ニ而落札相成、此節
追々出来之義ニ付、此段承知可有之候。
尤、樹木之義も於御地可然御取扱有之
度候。右御回答旁如此候也。

 明治六年十一月二十九日

下ケ札   樹木之義、於御地御取計之事。

【第二文書】注
(1)「西村貞陽(さだあき)」・・旧佐賀藩士族。明治二年(一八六九)八月開拓少主典、三年(一八七〇)閏十月、札幌市詰となり、五年(一八七二)九月、東京詰に転じる。「常に長官を補翼して枢機に参与」(北海道史人字彙」)。明治六年(一七七三)一月十七日、五等出仕に任命される。正六位叙任は、明治五年(一八七二)四月十五日。
(2)「安田定則(さだのり)」・・旧鹿児島藩士族。明治四年(一八七一)十月開拓大主典。五年(一八七二)五月、札幌詰めを命じられ七等出仕となり、土木を担当。十郎から事業対策で黒田との稟議のため上京を命じられる。滞京中、東京詰めを命じられる。一貫して黒田の腹心的な役回りを開拓使東京事務所において勤め、黒田が東京を離れる時には長官代理を命じられた。(「安田定則と安田定則関係文書について」宮地正人)。明治十六年(一八八三)一月農商務省北海道事業管理局長。
(3)「内海利貞(うちみ・としさだ)」・・旧幕臣。明治二年(一八六九)八月開拓大主典。明治六年(一八八三)当時七等出仕。東京に在勤し、会計事務を担当する。明治十一年(一八七八)六月開拓使会計局長兼工業局長。
(4)「時任為基(ときとう・ためもと」旧鹿児島藩の公用人下役。明治五年(一七七二)七月開拓使8等出仕、八月七等出仕。明治十五年(一八八二)二月函館県令。
(5)「松本大判官」・・松本十郎。明治二年(一八六九)八月開拓判官に任じ、根室在勤。明治五年(一八七二)十月、札幌本庁兼務となる。六年(一八七三)一月十七日、岩村道俊大判官が免じられ、その後任となる。明治九年(一八七六)九月五日、依頼免官。
「大判官」・・明治五年(一八七二)八月二十四日、開拓使官等(官位の等級)を改正し、判官を、「大、中、少」に分け、監事を廃止し、幹事を設けた。
(6)「田中幹事」・・田中綱紀(つなのり)。旧鹿児島藩の公用人。明治五年(一七七二)三月開拓権判官。明治六年(一八七三)一月開拓幹事となる。安田と交代して札幌詰を命じられる。明治七年(一八八四)二月二十二日、上京の途中、陸前・高城(たかぎ)で自殺。
(7)「金井信之(のぶゆき)」・・但馬国豊岡の人。明治四年(一八七一)開拓使八等出仕。五年(一八七二)七等出仕となる。六年(一八七三)札幌本庁在勤を命じられ会計を担当。「明治七年春開拓使創業以来の会計を清算す。此清算には金井信之但馬の人最も尽力したり」(「松本十郎翁談話」)
(8)「御門五ケ所」・・図面では、南北各二ケ所、東に正門一ケ所の計五ケ所。西は、本格的な西洋形門でなく、「木戸」となっている。北海道庁時代には、東西南北各一ケ所の四ケ所
(9)「五角形内地形」・・本庁舎の周囲の敷地は、五角形になっている。北海道庁時代には辺が内側に弓状に凹んだ四角形。

【第三文書】

札第五拾九号

十一月廿九日付御状披見、本庁周囲土塁
等出来之義御申越之処、右ハ、去明治六年
九月中、評議済、本庁廻柵矢来及西洋
形門、其外、道敷、芥抜下水、小橋並構外
四方川埋新堀共、安田定則帰省中ニ而
最前及御通知候次第不明に加え去
九月中、評議之節、至急書類扣不写
取返却いたし候間、左之廉々
一 札幌新川縁左右、板、篝(1)取建、橋懸置之義
一 同所二番邸(2)及病院其外官邸土塁等御入用之儀
一 同所豊平川並枝川新橋架渡之儀
右之義も扣無之ニ付、都合四廉写添委細
被御申越候存候。此段及御報候也。
               小牧 昌業(3)
明治七年二月十五日      調所 広丈(4)
               西村少判官
        松本大判官殿
        田中 綱紀殿
        金井 信之殿

【第三文書】注
(1)「篝(かがり)」・・薪を入れ篝火を焚くのに用いる鉄製の籠。篝籠。「簿書五七五七」に「前後篝」とあるから、下水溝の照明用に始点、終点に置いたのだろう。ちなみに、札幌での電灯の点灯は明治二十四年(一八九一)十月三十一日のこと。(「さっぽろ文庫 札幌事始」)
   のだろう。
(2)「二番邸」・・本庁東正門の南、札幌通(現北三条)と厚田通(現北二条)の間に建設された官邸。ケプロン邸といわれる。
(3)「小牧昌業(まさなり)」・・旧鹿児島県士族。明治七年(一八七四)一月開拓使七等出仕。開拓使東京出張所庶務課勤務。
(4)「調所広丈(ずしょ・ひろたけ)」・・旧鹿児島藩士族。明治五年(一八七二)正月十四日八等出仕。東京で学務を担当。七年(一八七四)二月八日開拓幹事。明治十一年(一八七八)十一月開拓大書記官兼札幌農学校長となる。明治十五(一八八二)一月、札幌県令となる。

【第四文書】

調所広丈殿
                  松本大判官
小牧昌業殿
二月十五日付ヲ以、昨六年九月中、本庁
柵矢来及西洋門其外道敷、芥抜下水、小橋並構外四方川埋新堀
共御入用二万百五十五円余金之廉ニテ
本庁周囲土塁新築相成候乎
否乎、御回答ニ可及承知候。右ハ、土
塁ニ猶積替相成、最前伺二万百五十
五円余金ノ内外ニ不抱本庁定額金ノ
内、篠路醤油製造(1)御見合候減金ヲ以
御入用御出方相成候。今般、出来高見合
ノ為、別紙綴伺書写ヘ下札ニ而差遣候間、
御承知有之度、不取岩瀬権大主典(2)不日
出京之節、仕上書類持参候。同人ヨリ
細事ハ御聞取有之度、此段及御回
答候也。
    三月五日

【第四文書】注
(1)「篠路醤油製造」・・明治四年(一八七一)七月、開拓使は篠路村に醤油醸造所を築いた。明治十一年(一八七八)九月、宮城県士族沢口永将に払い下げられた。その後明治十二年(一八七九)、樺戸集治監が買い受け、篠路分監として、囚人に味噌・醤油製造の作業に当たらせた。明治三十年(一八九七)新潟出身の笠原文平が買い取り営業した。
(2)「岩瀬権大主典」・・岩瀬隆弘。明治五年(一八七二)十月二十五日から権大主典。工業局営繕係として屯田兵屋の設計などにたずさわる。「履歴短冊」(道文・簿書5099)の明治七年三月十八日の項に「工業局清算突合せのため出京被申付」とある。

松本十郎大判官らの独断専行

2008年度 古文書講座上級コース 中間報告
<はじめに>
 私のテーマ「松本十郎大判官らの独断専行」について、まず、テキストをできるだけ正確に解読することだと心がけ取りくんだ。その取り組みと、その中で読みとったこと、主に、松本への処罰の原因となった札幌での工事内容などを中間報告する。

1.道立文書館でのテキストの原本の確認作業と読み下し文の作成
①テキストの正式文書名
1)「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(簿書5578)
2)「開拓使公文録 明治六年 建築之部 営繕附人夫 灯台 電信附生徒 測量 道路 橋梁附河梁 港湾」(簿書5757)
3)「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部 一月之分」(簿書5781)
4)「明治七年 司法省往復 全」(簿書1172)
②原本に当たり、わかったこと。
・原本の「のど」の文字がテキストの影印では見えない部分があったので補った。(P7、8、11)
・テキストに1丁分の落丁があり、補った。(P13)
・付札の箇所を確認し、テキストに復元貼付した。(別紙提示)
③テキストの解読・読み下し文を作成した。(別紙資料)

2.関連資料の調査
・テキスト記載の事項、人名、難読用語などを調べた。
・その主なものを読み下し文に注記した。

3.松本大判官、田中幹事による「独断専行」での諸工事着工
①背景(「新札幌市史」より)
・明治5年(1872)10月の「札幌会議」の方針による事業縮小。
・明治6年(1873)の事業計画は、全般的建設型から予算優先型の建設方針に変更された。
・6年8月までに前年建設予定の本庁建築、官邸、病院などが竣工し、それ以降新たな工事は開始されなかった。
・そのため、不況を引き起こすことになった。
・人口の流出・・5年916人から、6年は3分の1の306人に減少し、商業活動も停止、農家も移住者が出て農地も荒れた。
②松本が実施した工事内容と金額
・本庁土塁・下水・門建設費 1086円42銭(大岡助右衛門請負)(資料P11)
・五角形内構地盤 501円49銭3厘3毛(寺尾秀次郎請負)(資料P13)
・道敷  466円60銭(森村岩次郎請負)(資料P13)
・砂利運送 926円87銭7厘9毛 (大岡助右衛門請負)(資料P13)
   合計 2981円39銭1厘2毛(資料P2.「2毛」は切捨てている。
③松本の工事着工専断の理由 簿書5757(資料P8~9)
 松本は、「実地情、黙止し難く」、「専断之罪知リナガラ」工事着工に踏み切った理由を
・「御落成(開拓使札幌本庁舎の落成のこと)之上・・外と囲構これ無きは、四方より馬、輻湊(ふくそう)し・・実に不体栽」である。
・「土塁・・の区域これ無きは、折角盛大の御造営・・遺憾の至り」だ。
・「区域限り無きは、野飼いの数百馬、植樹を踏み荒し、盛木成り難」い。
・「職方、手違いの季節」になった。
とし、更に、
・「御指揮相待ち候得ば、雪中に相成・・明春に至り候はば、とても右金員(現在の費用)を以て出来」ない。
・「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」である。
・「市中不景気も大いに振起(しんき)の勢い」となっている。
として、「伺いを経ず、只今より取懸り候」と工事を「専断」実施することに踏み切った。

4.その他
・松本と一緒に「専断」で罰せられた田中綱紀のこと(P3)
・本庁舎の絵図面について(別絵図)
・「篝(かがり)」について(P3)
・建築用語について(P7)
・篠路醤油について(P4)

【主な参考文献】
・「新札幌市史第二巻通史二」「新札幌市史第七巻史料編二」(札幌市教育委員会編)
・「新北海道史第三巻通説一」「「新北海道史第七巻史料一」北海道編)
・「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊)
・「新撰北海道史第三巻」(北海道編)
・「北海道史人字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター刊)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編・刊)
・「開拓使官員録」(北海道立文書館所蔵)
・「奏任官以上履歴録」(北海道文書館所蔵 簿書5871)
・「履歴短冊」(北海道文書館所蔵 簿書5099)
・「松本十郎翁談話」(「犀川会資料 全 北海道史資料集」所収 高倉新一郎編 北海道出版企画センター刊)
・「異形の人 厚司判官松本十郎伝」(井黒弥太郎著 道新選書)
・「赤レンガ庁舎史話」(小原荘治郎著 楡書房刊)
・「さっぽろ文庫 札幌事始」(札幌市教育委員会編)
・「さっぽろ文庫 札幌人名事典」(札幌市教育委員会編)
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