森勇二のブログ(古文書学習を中心に)

私は、近世史を学んでいます。古文書解読にも取り組んでいます。いろいろ学んだことをアップしたい思います。このブログは、主として、私が事務局を担当している札幌歴史懇話会の参加者の古文書学習の参考にすることが目的の一つです。

2009年03月

ムラヴィヨフ哨所とロタノスケ居小屋

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>ムラヴィヨフ哨所とロタノスケ居小屋
絵図は、北海道大学付属図書館所蔵「寅年北蝦夷地クシュンコタン魯人造家一条」

「ロタノスケ」は、クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の副官海軍中尉ルダノフスキー

【ロタノスケは、クシュンコタンのムラヴィヨフ哨所の副官海軍中尉ルダノフスキー】
嘉永6年(1853)8月29日、ロシア海軍大佐ネヴェリスコイは、ロシア政府から樺太占領の命を受けて、陸軍少佐ニコライ・ブッセ(後、アニワ港駐屯ロシア軍総兵官)その他の将校とともに、陸戦隊73人を率い、露米商会の汽船ニコライ号にて樺太クシュンコタンに来航、9月1日に上陸を開始し、哨所(20間四方)に兵舎、士官宿舎など5棟、風呂場、物見櫓(高さ6間、6角形、上の方で10畳)、穴蔵をつくり、柵をめぐらした陣営を築いた。いわゆる「ムラビヨフ哨所」。翌嘉永7年(1854)5月18日、ロシア船4隻は駐留のロシア兵を撤収してクシュンコタンを去った。いわゆる、ロシアのクシュンコタン占拠事件である。
そのムラヴィヨフ哨所の副官は、日本の文書では、「ロタノスケ」と表現されている海軍中尉ルダノフスキー。
彼は、のち、安政4年(1857)6月14日、ロシア船「アメリカ」号の船長で西海岸ナヨロに来航、7月8日、クシュンナイに回航した。
北海道大学付属図書館所蔵の絵図にムラヴィヨフ哨所とその砦の中の「ロタノスケ居小屋」が描かれているので紹介する。
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ムラヴィヨフ哨所とロタノスケ居小屋
絵図は、北海道大学付属図書館所蔵「寅年北蝦夷地クシュンコタン魯人造家一条」拡大図

「ケ」は、箇条書きの「箇」の竹冠の片割れ

「青森県外浜町」の「外浜」は、「そのがはま」と読む。
で、小さい「」は、文字の分類では、カタカナか漢字か。
平成18年の文化庁国語審議会漢字小委員会での阿辻哲次氏の発言を同委員会の議事録から引用する。

○阿辻委員
 これは歴史的に由緒のある使い方で,地名の「三日」なんて「」で書きますね。あれは確か戦国時代の地名であるはずで,そういう「三日」という言葉を今の静岡県の「三日」という地名だけではなくて,歴史的に由緒のある,つまり実績があったとしたら,現在の住民の方々は当然古代とのリンクを考えるでしょうから,私どもはこういう「三日」の古戦場があるということで,自分たちの町が平仮名の「か」で書かれていて,でも,歴史の教科書に出てくるときには「」であるというのは,ちょっとちぐはぐな感じを持つのではないかなと思うんです。この文字は非常に古くから,おっしゃるように箇条書きの「箇」の竹冠の片割れを中国で略字に使っていたものが,日本人がカタカナの「ヶ」と誤解したという由来なんですけれども,多分一千年ぐらいはその使用の歴史はあると思います。行政の力で現在の地名を変えることは可能でしょうけれども,かなり由緒正しい地名として使われているところが,「吉野里」もそうじゃないですか,かなりあるんじゃないかと思います。

◎「」は、漢字そのものではく、「漢字の略字」ということになる。

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(2)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(2)

4.田中綱紀の専断と処分
 開拓幹事田中綱紀は、松本とともに、その配下にあって、札幌本庁で、明治6年の諸業務の担当した幹部官吏である。
 田中の「専断」内容は、「新札幌市史」に記載がないが、今回のテキスト出典の「簿書」に、松本とは違った事案で専断、そして、処分され、本人自殺後、親族へ処分が達せられたという特異なケースであるので述べる。
①田中の専断
 明治6年10月13日、田中から史官に提出された「進退伺」に専断の経過が述べられている。それによると、「札幌病院医学講堂並生徒寮引建直」を「再応病院ヨリ申出」があり、「黒田次官ヘ稟議」したが、黒田から、「本年営繕其他多分之入費ニ付、現今下手可見合旨、指令」があった。
 しかし、田中は、「現地在来之生徒寮懸隔、不都合之旨、病院ヨリ頻ニ申出」があり、「無余儀事情ニ付、講堂建設ハ見合、生徒寮之儀ハ・・大判官帰省中、仮ニ古屋引建直」したと述べている。(「簿書1172」・資料P20)。
 ここでいう、「生徒寮」とは、明治5年10月、76坪余の生徒寮を建設した札幌仮医学所のこと。官費生徒を募集し、官費生25名、自費生2名、計27名の入学を許可。翌6年1月21日、仮医学所開校式が行なわれた。校長には渋谷良次が就任。教官は渋谷を含め五名という。(「新札幌市史」)
 また、「再応病院ヨリ申出」、「病院ヨリ頻ニ申出」とあるのは、校長の渋谷良次が、生徒寮建設を綱紀に迫ったことをいう。(河野常吉編「北海道史人字彙」)
 さらに、「大判官帰省中」とは、6年8月、十郎の父・戸田文之助が死亡し、故郷の庄内鶴岡に帰省していたことをいう。(「同上」)
②田中への処分
 田中への処分書は次の通り。
「「再ビ長官ニ申請セズ、生徒寮ノ築造ヲ為スト雖ドモ、其就学不便ニ出ルヲ以テ、 事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル者 懲役30日、公罪例ニ照シ 贖罪金  4円50銭」(「簿書1172」)
 処分事案は、「生徒寮ノ築造」、処分理由は、「事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル」、処分内容は、「懲役30日、公罪例ニ照シ贖罪金4円50銭」。
 なお、5等出仕の月給は、200円だったから、この「贖罪金4円50銭」は、月給350円の4.4%に当たるから、対月給比では、田中の方が重い。
③田中の自殺
 田中は、7年2月3日、「御用有之出京」(「奏任官以上履歴録」簿書5871)した。「御用」の内容は、松本が、「新に開拓経営案を立て、綱紀をして上京稟議」させるためであった。(河野常吉編「北海道史人字彙」)
 田中は、陸前石浜(現宮城県牡鹿郡女川町石浜)港から汽船に搭乗する予定であったが、2月23日、高城(たがぎ・現宮城県宮城郡松島町高城)の旅館(内海直之丞宅)で、短刀でのどを突き自殺した。39歳。(「同上」)
 3月4日の調所ら開拓使東京出張所官吏から、松本と田中あての司法省の処断通知には、田中の死亡後であるためか、「田中正六位殿」を棒線で、「田中正六位殿」と消去している。(「簿書6781」・資料P16)
 3月14日、開拓使は、「同人ヘ可相渡書面、其侭返却」と、田中への処分書を司法大少丞へ返却している。
 それを受けた司法大少丞は、3月23日、開拓使へ「同人親族之者ヘ相達」とし、
「生徒寮築造ニ付、贖罪金4円50銭 開拓使5等出仕 田中綱紀」
と、改めて、親族へ処分を言い渡している。

◎まとめ
 以上が明治6年の札幌在勤の松本十郎大判官、田中綱紀幹事(後5等出仕)の「専断」と、彼らへの処分の経過である。
 私は、今回の講座を受けて、今後の課題として、この「専断」と処分がどんな意味を持っているのか、明治6年の不況状況、札幌本府の建設全体像など、さらに、調査研究してみたい。

<注>
(注1)「松本十郎大判官」・・明治2年8月18日開拓判官に任じ根室在勤。5年9月14日3等出仕、根室支庁主任となる。同年10月札幌本庁主任兼務を任じられる。6年1月6日、岩村道俊大判官の罷免に伴い開拓大判官となる。
(注2)「田中綱紀幹事」・・旧鹿児島藩の公用人。明治5年3月開拓権判官。明治6年1月開拓幹事となる。安田と交代して札幌詰を命じられる。6年12月3日5等出仕になる。明治7年2月22日、上京の途中、陸前・高城(たかぎ)で自殺。
(注3)「黒田清隆次官」・・開拓使は、札幌に本庁を置かれて以来、本来、開拓業務を統括する権限があったが、実際には、東京に、「開拓使出張所」がおかれ、長官(次官)は在京して指揮していた。黒田清隆は、明治3年から開拓使次官、ついで明治7年から開拓長官として開拓使のトップにいたが、彼は、「不在長官」と揶揄されるほどだった。そこで、黒田が、在任中、何度、来道したか、調べてみた。(資料6「黒田清隆は何度来道したか」)
(注4)「大岡助右衛門」・・請負人。天保7年(1836)5月武蔵国久良岐(くらき)郡大岡村(現横浜市南区のうち)の農家に生まれる。安政5年(1858)箱館五稜郭建設には大工頭としてたずさわる。明治4年には、札幌本陣の建設に着手。その後、札幌農学校、豊平橋、豊平館の建設を請負う。
  なお、この入札で、大岡は、6番札であったが、開拓使当局は、「安値段有候得共、小内訳取調高不相当ニ
御出来形ニ相響」として、大岡に落札したとしている。(「簿書5757」)
(注5)「5角形内地形」・・「簿書5757」綴じ込みの「本庁御構内見取縮図」を見ると、開拓使札幌本庁舎の建物本体周辺敷地の地形は、弓状に内側に凹んだ5角形になっていた。裏に当たる西側の1辺は72間、他の4辺は48間。ついでながら、北海道庁時代の庁舎(いわゆる「赤レンガ庁舎」)周辺の敷地は、4辺。
(注6)「定額金」・・明治4年8月19日、開拓使定額金として、「10ケ年間1000万両ヲ以総額トス」ることが決められ、「申年50万両、酉年80万両、戌年ヨリ100万両宛」とされた。松本が工事を実施した明治6年の定額金は、80万円。なお、明治4年5月10日に、新貨幣条例が定められ、新貨幣を円・銭・厘とし、金本位制が採用されている。
(注7)「篠路味噌醤油製造」・・明治4年7月、開拓使は篠路村に醤油醸造所を築いた。官営工場のひとつ。明治11年9月、宮城県士族沢口永将に払い下げられた。その後明治12年、樺戸集治監が買い受け、篠路分監として、囚人に味噌・醤油製造の作業に当たらせた。明治30年新潟出身の笠原文平が買い取り営業した。
(注8)「史官」・・太政官(慶応4年閏4月21日設置された最高官庁。何度か改正を重ねたが、本文書の明治7年現在、太政大臣=三条実美=、左大臣、右大臣、参議よりなる。)直属の職。
(注9)「各支庁」・・開拓使は、明治5年9月14日、設置した支庁の状況は次の通り。函館支庁、根室支庁、浦河支庁(7年5月14日廃止、札幌本庁管轄になる)、宗谷支庁(6年2月25日、留萌に移し留萌支庁と改称、8年3月12日廃止、札幌本庁管轄になる)、樺太支庁(7年11月20日廃止)
(注10)「司法卿大木喬任(たかとう)」・・「司法卿」は、司法省(明治4年7月29日、刑部省=ぎょうぶしょう=と、弾正台=だんじょうだい=が合併し設置された。初代司法卿は江藤新平。)の長官。大木喬任は、旧佐賀藩士。2代目の司法卿。在任は、明治6年10月25日~明治13年2月28日。ちなみに、司法省の官位は、卿(きょう)、大・少輔(ふ)、大・少丞(じょう)、大・少録(ろく)の順。
(注11)「2番邸」・・本庁東正門の南、札幌通(現北3条)と厚田通(現北2条)の間に建設された官邸。いわゆる「ケプロン邸」いわれている。

【主な参考文献】
・「新札幌市史第2巻通史2」、「新札幌市史第7巻史料編2」(札幌市教育委員会編)
・「新北海道史第3巻通説1」、「新北海道史第7巻史料1」、「新北海道史第7巻史料2」(北海道編)
・「新北海道年表」(北海道編、北海道出版企画センター刊)
・「新撰北海道史第3巻」(北海道編)
・「北海道史人字彙」(河野常吉編、北海道出版企画センター刊)
・「北海道歴史人物事典」(北海道新聞社編・刊)
・「明治6年開拓使公文録・職官之部」(「簿書5513」)
・「開拓使官員録」(北海道立文書館所蔵)
・「奏任官以上履歴録」(北海道文書館所蔵 簿書5871)
・「履歴短冊」(北海道文書館所蔵 簿書5099)
・「松本十郎翁談話」(「犀川会資料 全 北海道史資料集」所収 高倉新一郎編 北海道出版企画センター刊)
・「異形の人 厚司判官松本十郎伝」(井黒弥太郎著 道新選書)
・「士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史」(中濱康光著)
・「赤レンガ庁舎史話」(小原荘治郎著 楡書房刊)
・「さっぽろ文庫 札幌事始」(札幌市教育委員会編)
・「さっぽろ文庫 札幌人名事典」(札幌市教育委員会編)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(1)

明治6年の松本十郎大判官、田中綱紀幹事の工事「専断」について(1)

◎はじめに
①本論は、札幌市文化資料室が実施した2008年度古文書講座上級コースの最終報告に加筆しあものである。
②私が担当したテキスト出典目録は次の4点です。
1)「明治七年 開拓使公文録 会計往復出納之部」(簿書5578)
2)「開拓使公文録 明治六年 建築之部 営繕附人夫 灯台 電信附生徒 測量 道路 橋梁附河梁 港湾」(簿書5757)
3)「明治七年 開拓使公文録 本庁往復之部 一月之分」(簿書5781)
4)「明治七年 司法省往復 全」(簿書1172)
③テキスト出典と関連文書などを読み、明治6年の松本十郎大判官(注1)、田中綱紀幹事(注2)の「専断」の経過について、報告します。
*「簿書」とあるのは、北海道立文書館所蔵文書で、数字は請求番号。

1.松本の不況対策の上申と黒田の指令
①明治6年の札幌の不況
 「新札幌市史」は、明治6年の札幌の不況の背景について、
1)明治5年10月の「札幌会議」の方針による事業縮小。
2)同6年の事業計画は、全般的建設型から予算優先型の建設方針に変更された。
3)同年8月までに前年建設予定の本庁建築、官邸、病院などが竣工し、それ以降新たな工事は開始されなかった。
などをあげ、そのため、人口の流出が相次ぎ、5年916人から、6年は3分の1の306人に減少し、商業活動も停止、農家も移住者が出て農地も荒れたとしている。
②松本の工事起工の上申
 こうした状況を受けて、松本十郎大判官は、黒田清隆次官(注3)へ、小樽港内往還、本庁土塁、豊平川路筋橋梁、新川筋修復、市中道路ノ修復、獄屋建直しなどの不況対策を上申した。(「新札幌市史」)
③黒田の指令
 これに対し、明治6年10月16日、札幌に届いた黒田の指令は、多くが見合わせや計画の変更であった。松本の「専断」による贖罪金支払処分の原因となった本庁土塁建設工事についても、「本庁土塁ハ見合之事。但、四方ヘ樹木植込べき事」と、本庁土塁工事見合を指示し、代りに「樹木植込」を命じた。(「同上」)

2.松本の本庁土塁の工事「専断」
①黒田の指令到着以前に工事入札を挙行
黒田の工事中止指令が届く4日前の10月12日、松本は、本庁土塁などの工事入札を行った。
工事落札合計金額は、「2981円39銭1厘ニ而落札」(「簿書5578」)であり、工事ごとの金額と落札者は、次の通り。
・本庁土塁・下水・門建設費    1086円42銭    (大岡助右衛門請負)(注4)(「簿書5757」)
・5角形内地形(注5)平均砂利敷き 501円49銭3厘3毛(寺尾秀次郎請負)(「簿書5757」)
・道敷            466円60銭     (森村岩次郎請負)(「簿書5757」)
・砂利運送          926円87銭7厘9毛 (大岡助右衛門請負)(「簿書5757」)
   合計          2981円39銭1厘2毛(「簿書5578」は、「2毛」を切捨てている。)
 なお、この費用については、松本は会計局への文書で、「定額金(注6)之内ニ而相弁じ候間、篠路味噌醤油製造(注7)御見合ニ付、減金4500円ノ口ヨリ御出方御取計有之度」としている。(「簿書5757」)
②松本の「専断」の理由
 松本は、10月31日付で、開拓使東京出張所へ松本の工事着工専断の理由を書き送っている。(「簿書5757」)
 松本は、「実地情、黙止し難く」、「専断之罪知リナガラ」工事着工に踏み切った理由を
1)「御落成(開拓使札幌本庁舎の落成のこと。6年10月29日落成した。)之上・・外と囲構これ無きは、四方より馬、輻湊(ふくそう)し・・実に不体栽」である。
2)「土塁・・の区域これ無きは、折角盛大の御造営・・遺憾の至り」だ。
3)「区域限り無きは、野飼いの数百馬、植樹を踏み荒し、盛木成り難」い。
4)「職方、手違いの季節」になった。
5)「御指揮相待ち候得ば、雪中に相成・・明春に至り候はば、とても右金員(現在の費用)を以て出来」ない。
6)「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」である。
7)「市中不景気も大いに振起(しんき)の勢い」となっている。
として、「伺いを経ず、只今より取懸り候」と、工事の「専断」実施に踏み切った。
 なお、「簿書5757」には、「本庁御構内見取縮図」が綴られているが、彩色された原本を見ると、本庁舎構内には、幾本もの小川が流れており、松本の挙げた理由のひとつの「本庁落成、諸局・・総容引き移り、是までのまま差し置き候得ば、凸凹甚だしく、往来不便」は、当を得たものと思う。
③工事の完成
 松本は、11月29日付け東京出張所への文書で、黒田の「工事見合」指示は、「承知いたし候」としながらも、「其侭難捨置ニ付・・土塁、下水並御門5ケ所、柵矢来、5角形内地形平均砂利敷、下水水吐、橋等一切・・此節追々出来之義ニ付、此段承知可有之候」と通知しているから(「簿書5578」)、明治6年の年内には、それら諸工事は、完成したと思われる。

3.松本十郎への処分
①松本の進退伺と待罪書
松本は、史官(注8)あてに工事入札の翌日の10月13日、「土塁建築専断之儀ニ付、進退伺候書付」を提出している。その進退伺いの中でも、「再伺ヲ不経、土塁取建」てた理由を次のように綴っている。
「黒田次官ヘ指令有之度旨、開申致候処、右土塁ハ見合、但、四方ヘ樹木植込候様、指令有之候得共、既ニ官邸周囲土塁出来、本庁土塁無之候而ハ、御失体之儀ト存量候間、再応可申立之処、遠隔之儀、彼是日間相掛候而ハ、其機会ヲ失ヒ、自ラ御入費多寡ニ相管シ、加え寒境無程氷雪之時ニ臨ミ、土塁出来不致成行可申ト不得止、再伺ヲ不経、土塁取建候」(「簿書5781」)
 また、7年1月8日付の松本から開拓使東京出張所官吏あて文書では、黒田から、「専断之儀ニ付・・其侭差置候而ハ、自然各支庁(注9)、今後之取締ニも相関シ候ニ付、公然処分可相伺」と、待罪書提出の要請があったので、松本は、待罪書を提出し、「可然御執達有之度」と処分を待った。
 なお、「③明治6年の松本の専断」の述べるように、この年8月に、松本は、別件で「待罪書」を提出している。
②松本への処分
 松本への処分が、司法省から、開拓使へ通知があったのは、翌明治7年3月2日付けである。(「簿書1172」)。
 処分書は、「司法卿大木喬任(注10)之印」があり、次のような朱書に綴られている。(「簿書5781」)
「再ビ長官ニ申請セズ、司庁ノ土塁ヲ建設スルモ、時日還延ヲ失スルヨリ止ムヲ得ザルニ出ルヲ以テ、
 事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル者 懲役30日、公罪例ニ照シ
 贖罪金  6円」
 処分事案は、「司庁ノ土塁ヲ建設」、処分理由は、「事応奏不奏条、上司ニ申ス可クシテ申セザル」、処分内容は、「懲役30日、公罪例ニ照シ贖罪金6円」。
 なお、この「贖罪金6円」は、松本大判官の当時の月給350円の1.7%に当たる。
③明治6年の松本の専断
 松本は、明治5年札幌本庁主任となり、翌6年1月6日、開拓大判官に任じられており、札幌本府建設の責任者となっていた。
ついでながら、松本は、この年、本庁土塁建設以外にも、黒田の承認を得ないで、「専断」した事案が、他にもあるので、述べる。
1)「鴨々川水門の水防工事」・・6年春の融雪期に豊平川が増水し、6年4月から8月にかけて、黒田の許可を地取る前に1800円で工事を行った。(「新札幌市史」)
2)「病院並2番邸(注11)外西洋官邸廻り土塁工事」・・1552円79銭で実施。(「簿書5578」・資料P3、「簿書5757」)
3)「白石手稲両村家作」・・松本は、白石手稲両村の家屋の窮状を憂いて154戸に1万1505円(1戸当75円)を家作料として支出した。(中濱康光「士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史」)
 この、「白石手稲両村家作」の「専断」に関して、松本は、黒田へ、6年8月21日付で、「白石手稲両村家作ニ付、専断ノ罪ヲ奉伺候書付」を提出している。(「明治6年開拓使公文録・職官之部」・「簿書5513」)。この中で、2)の「官邸並病院新規ノ分外廻リ土塁建築モ・・専断ニ繰替ヘ仕候」と、(「同上」)「専断」事項を2つ挙げ、「御罰被下度」と、待罪書を提出している。(つづく)
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